【腐】ゆいいつのもの
夜―。
月が妙に目映い夜だった。
入浴を済ませた膝丸は自室へと向かっていた。
戸の前に立ったところでがらり、扉が開く。
部屋から出て来たのは髭切である。
「おかえり、おふろ丸」
「…俺は膝丸だ。それよりまた、髪を乾かさずに出て来たな」
膝丸はじとりとした目を兄に向ける。
どうも、髭切はドライヤーの風が好きではないらしい。
髪を乾かしてから部屋に戻る様にと口を酸っぱくして言い聞かせても、乾かして出て来た試しが無い。
それどころか自然に乾くんだからいいじゃないと言い出す始末である。
やれやれ…。
膝丸は肩で息を吐くと手にしていたバスタオルを髭切にかぶせる。
こんな事もあろうかとバスルームから持って来ていたのだ。
ありゃと聞こえた声を無視して、膝丸は濡れた髪を拭き始めた。
せめて水気を何とかせねばと夢中になって拭いているとまた、タオルの中から声が聞こえて来た。
「あっ…」
それはいつかの夜に聴いた声に似ていて、膝丸はぎくりとして手を止めた。
「…兄者?」
「ごめん、ごめん。耳がちょっとくすぐったくて」
耳と聞き膝丸はタオルの中の兄を覗き込む。
見れば髪の隙間から覗く耳がいつもより若干、赤く思えた。
よくよく考えてみると、普段、髭切の耳は髪に隠れている為、刺激を受ける事があまり無いのだろう。
だからこそ、タオルの生地が耳に擦れたぐらいであんな声を上げてしまった様だ。
それにしても、心臓に悪い声だった。
これ以上、いらぬ事を考えてしまう前に膝丸はバスタオルを外した。
「これぐらい拭けば大丈夫だろう」
「ありがとう」
微笑む顔にぐらりとする。
この顔を目にすると、髪を乾かす事など些細な事だと思ってしまうのだから困りものだ。
此処で膝丸は兄が何処かに行こうとしていた事に気付く。
「兄者、何処かに行くのか?」
「うん。ちょっと国永のところに用事があってね。多分、遅くなるだろうから、先に寝てていいよ」
国永―。
兄の口から出て来た名に膝丸はぴくりと眉を顰める。
「………こんな夜更けに奴に何の用事があるのだ?」
訊ねる声が無意識に低くなる。
膝丸がその名前に敏感に反応してしまうには理由があった。
髭切は刀種を問わず誰とでもすぐに打ち解け、親しくなれる。
中でも何振りか特別に親しい刀が本丸に居る。
その中の一振りが鶴丸だった。
不思議な事に弟や他の刀剣の名は忘れる癖に髭切は鶴丸国永の名だけは忘れない。
いつだったか、髭切に鶴丸とどう言う関係なのかと訊ねた事がある。
返って来た答えは【古い顔馴染み】だった。
鶴丸はともかく多くの人の手に渡って来た刀である。
故に本丸の仲間達の中にも顔馴染みであった者が多く存在する。
だが、その多く居る顔馴染みの中で互いが互いの存在を忘れていなかったと言う事は多少なりとも情があるのではないか。
彼の名だけを忘れないのは特別だからなのではないかと膝丸は懸念していた。
そんな疑惑の相手をこの様な夜に訪ねるなどと言われて、みすみす見送れる筈もない。
「どうしても行かれるのか?」
険しい顔で訊ねられて、髭切は目を円くした。
そして、うんと小さな声を漏らすと、髭切は弟に向かいにこりと微笑む。
「じゃあ、お前もおいで。さびしんぼ丸」
「俺は膝丸だ、兄者!」
お決まりの台詞を言った後で膝丸は眉を寄せた。
「しかし、俺が付いて行っても大丈夫なのか?」
そろりと膝丸は密かに兄の様子を窺う。
考えたくもないが、深夜の逢引きならば膝丸は邪魔な筈だ。
だが、髭切の表情は普段と何ら変わらなかった。
それどころか何処か愉し気でもある。
「大丈夫だよ。ほら、行こう」
そう言うと髭切はさっさと歩き出す。
「ま、待ってくれ、兄者!」
どんどん先に行ってしまう兄の後を膝丸は慌てて追いかけたのだった。
鶴丸の部屋は一番、端にある。
髭切に聞き、膝丸は初めて鶴丸の部屋が何処なのかを知った。
指で場所を示して、あのこらしい部屋だよと髭切は笑う。
どうやら髭切は鶴丸の部屋を訪れた事があるらしい。
その事に膝丸はまた、もやっとした。
「きたよー」
髭切が訪れを告げるとすぐに戸が開く。
「よお、遅かったな…ひげ…」
言葉の途中で鶴丸の視線が髭切の背後に留まる。
膝丸である。
睨み殺さんばかりの目で己を見つめている膝丸に鶴丸はああと納得した様に頷いた。
「だよな、そう来ると思っていたぜ!」
まるで初めから膝丸が来る事を分かっていたと言わんばかりの言い方に膝丸の顔は益々、険しくなる。
気に喰わない。
しかし、幾ら兄の許可が出たとはいえ、膝丸は招かれざる客だった。
「兄者が心配だったのだ。呼ばれてもいないの勝手に付いて来てすまない」
生真面目にも頭を下げた膝丸に鶴丸はくっと口端を上げ笑う。
「なあに、途中参戦大歓迎だ。頭数が多い方が盛り上がるからな!」
「頭数?」
一体、どう言う事かと訝しんでいると鶴丸の背後からひょっこりと顔を出すものがあった。
「おっ、珍しい奴が来たな!」
獅子王である。
「ほえー、くそ真面目な奴だと思ってたけど、お前もこう言うのに興味あんだなあ」
畳の上で寛ぎながら、意外そうに呟いたのは御手杵である。
二振りの登場により逢瀬の類いでない事は解ったが、だとしたら、一体、何の集まりなのか。
全く解らないまま、膝丸は髭切と共に空いている場所に腰を下ろす。
「さて、諸君。準備はいいかい?始めるぜ」
妙に芝居がかった口調で鶴丸は開始を切り出す。
「今日の一本はこれだ!」
ばんと鶴丸が勢いよく突き出したのはあられもない姿の女子が写るパッケージであった。
「なっ…!?」
突然、卑猥なものを見せられた膝丸は驚愕する。
尤もそんな初々しい反応をしたのは膝丸だけであった。
獅子王は身を乗り出し、目を細めてパッケージをまじまじと眺めた。
「巨乳って事はそれって、主の私物か?」
「おうよ!先日、主が大量発注しているのを見かけてな。一枚、拝借して来たって訳だ」
さすが!と獅子王と御手杵は鶴丸を褒め称える。
「巨乳ものって久々だよな」
「俺は別に巨乳じゃなくてもいいけどなー」
ぼりぼりと頭を掻きながら呟いたのは御手杵である。
「えーっ、俺は巨乳のがいいな。柔らけえし、触るとすげえ気持ちいいんだぜ!」
「お前ら、乳の大小に拘るなんてまだ、若いな」
ふっと鶴丸は鼻で笑う。
「大事なのは大小じゃない。味だ、味!」
鶴丸が格好つけながら言い放った主張に獅子王と御手杵は顔を合わせて無いわーと大合唱する。
「大体、味って、そんなに違いとかあるのか?」
「鶴のじっちゃんって本当、特殊だよな」
「まあ、俺は小さかろうが大きかろうがどっちでもいいけどな」
御手杵は槍を振るう手でこれぐらいあればと宙を揉む。
一方―。
そんなお世辞にも上品とは言えない仲間の遣り取りを見守っていた膝丸の顔は渋い。
何が楽しくて同胞の女の趣味など聞かねばならないのか。
あまりの下らなさに髭切の耳を塞いでしまったぐらいだ。
出来る限り、兄にはこの仲間達の会話を聞かせたくなかったのである。
「おーい。皆が何を言ってるか全然、聞こえないんだけど」
「聞くまでもない話だ」
寧ろ、聞かないでいいと膝丸はきっぱりと言い放つ。
それにしてもまさか、こんな会合だとは全くの予想外である。
此処で膝丸ははっとする。
「兄者はあのいかがわしい絵を見る為に此処を訪ねたのか?」
まさかと思いつつ、膝丸は深刻な顔で訊ねたが戻って来たのは曖昧な笑みであった。
「それより、あの絵ね、動くらしいよ」
「まことか?」
「うん。あれ、あだるとびでおって言う絵巻なんだって」
凄いねえと笑う髭切に膝丸は何とも微妙な顔をする。
だから何故、そんなものの名前は覚えているのだ。
俺の名は忘れてしまう癖に。
終いには悲しくなって来て、膝丸はぐすりと鼻を啜る。
ところで三振りのおっぱい談義はまだ続いていたらしい。
「よし、此処は一つ、新参者に話を聞こうじゃないか。膝丸、君はどうだ?」
突然、指名を受けた膝丸は何なのだと眉根に皺を寄せた。
「なあ、君はどういうのが好みなんだ?」
「好み?」
「そうだ。でかいのが好きとか小さいのが好きとか何かあるだろう」
いきなり何なのだと呆れつつも膝丸は律儀にこう答えた。
「どういうも何も、興味がない」
膝丸がきっぱりと言い放つと、鶴丸はにっと口角を上げた。
不敵な笑みにまさかと膝丸ははっとする。
「だそうだが、どう思う。髭切?」
そう、よりにもよって鶴丸は標的を膝丸から髭切へと変えたのである。
「貴様、兄者に何を!」
しゃあっと牙を剥く膝丸に鶴丸はにやりと笑う。
「おっと、この手の話は本人より身内の方が案外、詳しいもんさ。まして、君らは仲のいい兄弟なんだろ?なあ、髭切」
鶴丸はぱちりと片目を閉じ、髭切へと視線を飛ばす。
慌てふためく弟刀を余所に髭切は腕を組み、うーんと考え込む。
「弟は乳より、お尻の方が好きだと思うよ。ね、おしり丸?」
兄の口から飛び出したまさかの暴言に膝丸はぶるぶると全身を震わせた。
よりにもよって、おしり丸である。
今まで何度も名を間違えられたが、おしり丸などと言う不名誉な名だけは絶対に嫌だ。
「俺はひ・ざ・ま・る・だっ、あにじゃあぁぁっっ!!」
悲痛な叫び声を上げた膝丸に「そうだっけ」と髭切は小首を傾げる。
そんな源氏兄弟を放置し、三振りはいそいそと上映会を始めたのだった。
…今日は厄日か。
膝に顔を埋めながら、膝丸は心中でぼやく。
疲労困憊である。
色々、酷い目に遭ったが何と言っても一番堪えたのはやはり、兄の暴言だった。
どうして自分は髭切に尻好きに認定されているのか。
兄に尻が好きだと公言した事などない筈だし、それを思わせる素振りなど見せた覚えもない。
なのに何故と膝丸は密かに鼻を啜る。
更に追い打ちと言わんばかりなのが、件の【あだるとびでお】である。
鶴丸曰く、今、画面でやっているのは姉と弟の近親相姦ものだそうだ。
ゆるふわお姉さんがあの手この手を使って初な弟を誘惑すると言う話らしい。
若干、自分達の状況に近い設定の様な気がするのが複雑だった。
何でこれにしたんだと襟首掴んで鶴丸を問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。
早く、部屋に戻って眠りにつきたい。
けれどもこんな場所に髭切を置いて行ける筈もなく、不本意ながら一緒に観賞する破目に陥ったのだった。
もう、こうなると一刻も早く終るのを待つだけである。
…それにしても。
膝丸は険しい顔つきで大画面に目をやる。
男は声のみの登場らしく、画面には女の姿のみ映し出されていた。
媚肉の艶かしい動きと甘ったるい声。
恋愛対象が女であれば観ていて楽しいものなのかもしれないが膝丸は全く興味を抱けない。
膝丸は大画面に映る女よりもずっと艶かしいものを知っていた。
あの夜に垣間見た髭切の姿だ。
月下に晒された白い肌。
柔らかさはないがしなやかで均整の取れた肢体。
隙間なく重なった時、撓る体と己を呼ぶ掠れた声。
どれ一つ取ってみてもあれに勝るものはないと断言出来る。
そこまで考えたところで膝丸は隣に座る兄に目をやった。
髭切は退屈そうに画面を見つめている。
あの様子ならば部屋に戻ろうと声を掛ければ、頷いてくれるかもしれない。
声を掛けようと膝丸が腰を浮かした時の事。
膝丸より先に髭切に近づいた者があった。
鶴丸だ。
鶴丸は振り向いた髭切の耳許で何事かを囁き掛ける。
くすり、髭切が笑う。
画面から聴こえる女の喘ぎ声のせいで二振りが何を話したのかは解らなかった。
ただ、その遣り取りは親密さを証明している様で、膝丸は二振りの様子に釘付けになる。
注がれている視線に気付いているのかいないのか、今度は髭切が鶴丸の耳許に唇を寄せる。
大好きな筈の笑顔が今は酷く、憎らしく思えた。
どうして―。
どうして、俺ではない者にそんな風に笑い掛けるのだ。
急に胸が苦しくなり、膝丸はぐっと手で押さえる。
苦しい、苦しくて堪らなかった。
「…おとうと?」
己を呼ぶ声に膝丸ははっと目を見開く。
鶴丸と話している最中、髭切は膝丸の様子がおかしい事に気付いたらしい。
鶴丸から離れ、髭切は項垂れたままの膝丸に近づく。
ふわり、髭切の手のひらが膝丸の頭に触れた。
「どうしたの、何処か痛い?」
「…あに、じゃ…」
息も絶え絶えに呼ぶと膝丸は立膝をつき、髭切の腕を掴み、引き寄せる。
急に腕を引かれた髭切は体勢を崩し、膝丸の胸へと傾れ込む。
飛び込んで来た体を一度だけ抱き締めると、膝丸は髭切を俵抱きにし、立ち上がる。
「わっ!」
急に高くなった視線に髭切は珍しく驚きの声を上げた。
一方、膝丸は茫然とする面々に対し「失礼する」とだけ言ってそのまま部屋を出て行ってしまった。
「…どうしたんだ、あいつら」
夜のおやつである煎餅に齧り付きながら御手杵はぼんやりと呟く。
画面から目を離していないが、一応、気にはなるらしい。
基本的に面倒見のよい質である獅子王もあの兄弟は放置らしい。
画面から目を離さずに煎餅が入っている小鉢に手を伸ばす。
「大丈夫だよな、鶴のじっちゃん」
ばりん、煎餅に齧り付きながら獅子王は一応、年長者である鶴丸に訊ねた。
「多分な。ま、奴等は放っておいて、俺達は俺達で楽しもうじゃないか」
そう言いながら鶴丸も小鉢から煎餅を取る。
仕込みは上々―。
煎餅の向こう側で鶴丸は密かにそう微笑んだが、若い二振りは全くその事に気付かなかった。
月が妙に目映い夜だった。
入浴を済ませた膝丸は自室へと向かっていた。
戸の前に立ったところでがらり、扉が開く。
部屋から出て来たのは髭切である。
「おかえり、おふろ丸」
「…俺は膝丸だ。それよりまた、髪を乾かさずに出て来たな」
膝丸はじとりとした目を兄に向ける。
どうも、髭切はドライヤーの風が好きではないらしい。
髪を乾かしてから部屋に戻る様にと口を酸っぱくして言い聞かせても、乾かして出て来た試しが無い。
それどころか自然に乾くんだからいいじゃないと言い出す始末である。
やれやれ…。
膝丸は肩で息を吐くと手にしていたバスタオルを髭切にかぶせる。
こんな事もあろうかとバスルームから持って来ていたのだ。
ありゃと聞こえた声を無視して、膝丸は濡れた髪を拭き始めた。
せめて水気を何とかせねばと夢中になって拭いているとまた、タオルの中から声が聞こえて来た。
「あっ…」
それはいつかの夜に聴いた声に似ていて、膝丸はぎくりとして手を止めた。
「…兄者?」
「ごめん、ごめん。耳がちょっとくすぐったくて」
耳と聞き膝丸はタオルの中の兄を覗き込む。
見れば髪の隙間から覗く耳がいつもより若干、赤く思えた。
よくよく考えてみると、普段、髭切の耳は髪に隠れている為、刺激を受ける事があまり無いのだろう。
だからこそ、タオルの生地が耳に擦れたぐらいであんな声を上げてしまった様だ。
それにしても、心臓に悪い声だった。
これ以上、いらぬ事を考えてしまう前に膝丸はバスタオルを外した。
「これぐらい拭けば大丈夫だろう」
「ありがとう」
微笑む顔にぐらりとする。
この顔を目にすると、髪を乾かす事など些細な事だと思ってしまうのだから困りものだ。
此処で膝丸は兄が何処かに行こうとしていた事に気付く。
「兄者、何処かに行くのか?」
「うん。ちょっと国永のところに用事があってね。多分、遅くなるだろうから、先に寝てていいよ」
国永―。
兄の口から出て来た名に膝丸はぴくりと眉を顰める。
「………こんな夜更けに奴に何の用事があるのだ?」
訊ねる声が無意識に低くなる。
膝丸がその名前に敏感に反応してしまうには理由があった。
髭切は刀種を問わず誰とでもすぐに打ち解け、親しくなれる。
中でも何振りか特別に親しい刀が本丸に居る。
その中の一振りが鶴丸だった。
不思議な事に弟や他の刀剣の名は忘れる癖に髭切は鶴丸国永の名だけは忘れない。
いつだったか、髭切に鶴丸とどう言う関係なのかと訊ねた事がある。
返って来た答えは【古い顔馴染み】だった。
鶴丸はともかく多くの人の手に渡って来た刀である。
故に本丸の仲間達の中にも顔馴染みであった者が多く存在する。
だが、その多く居る顔馴染みの中で互いが互いの存在を忘れていなかったと言う事は多少なりとも情があるのではないか。
彼の名だけを忘れないのは特別だからなのではないかと膝丸は懸念していた。
そんな疑惑の相手をこの様な夜に訪ねるなどと言われて、みすみす見送れる筈もない。
「どうしても行かれるのか?」
険しい顔で訊ねられて、髭切は目を円くした。
そして、うんと小さな声を漏らすと、髭切は弟に向かいにこりと微笑む。
「じゃあ、お前もおいで。さびしんぼ丸」
「俺は膝丸だ、兄者!」
お決まりの台詞を言った後で膝丸は眉を寄せた。
「しかし、俺が付いて行っても大丈夫なのか?」
そろりと膝丸は密かに兄の様子を窺う。
考えたくもないが、深夜の逢引きならば膝丸は邪魔な筈だ。
だが、髭切の表情は普段と何ら変わらなかった。
それどころか何処か愉し気でもある。
「大丈夫だよ。ほら、行こう」
そう言うと髭切はさっさと歩き出す。
「ま、待ってくれ、兄者!」
どんどん先に行ってしまう兄の後を膝丸は慌てて追いかけたのだった。
鶴丸の部屋は一番、端にある。
髭切に聞き、膝丸は初めて鶴丸の部屋が何処なのかを知った。
指で場所を示して、あのこらしい部屋だよと髭切は笑う。
どうやら髭切は鶴丸の部屋を訪れた事があるらしい。
その事に膝丸はまた、もやっとした。
「きたよー」
髭切が訪れを告げるとすぐに戸が開く。
「よお、遅かったな…ひげ…」
言葉の途中で鶴丸の視線が髭切の背後に留まる。
膝丸である。
睨み殺さんばかりの目で己を見つめている膝丸に鶴丸はああと納得した様に頷いた。
「だよな、そう来ると思っていたぜ!」
まるで初めから膝丸が来る事を分かっていたと言わんばかりの言い方に膝丸の顔は益々、険しくなる。
気に喰わない。
しかし、幾ら兄の許可が出たとはいえ、膝丸は招かれざる客だった。
「兄者が心配だったのだ。呼ばれてもいないの勝手に付いて来てすまない」
生真面目にも頭を下げた膝丸に鶴丸はくっと口端を上げ笑う。
「なあに、途中参戦大歓迎だ。頭数が多い方が盛り上がるからな!」
「頭数?」
一体、どう言う事かと訝しんでいると鶴丸の背後からひょっこりと顔を出すものがあった。
「おっ、珍しい奴が来たな!」
獅子王である。
「ほえー、くそ真面目な奴だと思ってたけど、お前もこう言うのに興味あんだなあ」
畳の上で寛ぎながら、意外そうに呟いたのは御手杵である。
二振りの登場により逢瀬の類いでない事は解ったが、だとしたら、一体、何の集まりなのか。
全く解らないまま、膝丸は髭切と共に空いている場所に腰を下ろす。
「さて、諸君。準備はいいかい?始めるぜ」
妙に芝居がかった口調で鶴丸は開始を切り出す。
「今日の一本はこれだ!」
ばんと鶴丸が勢いよく突き出したのはあられもない姿の女子が写るパッケージであった。
「なっ…!?」
突然、卑猥なものを見せられた膝丸は驚愕する。
尤もそんな初々しい反応をしたのは膝丸だけであった。
獅子王は身を乗り出し、目を細めてパッケージをまじまじと眺めた。
「巨乳って事はそれって、主の私物か?」
「おうよ!先日、主が大量発注しているのを見かけてな。一枚、拝借して来たって訳だ」
さすが!と獅子王と御手杵は鶴丸を褒め称える。
「巨乳ものって久々だよな」
「俺は別に巨乳じゃなくてもいいけどなー」
ぼりぼりと頭を掻きながら呟いたのは御手杵である。
「えーっ、俺は巨乳のがいいな。柔らけえし、触るとすげえ気持ちいいんだぜ!」
「お前ら、乳の大小に拘るなんてまだ、若いな」
ふっと鶴丸は鼻で笑う。
「大事なのは大小じゃない。味だ、味!」
鶴丸が格好つけながら言い放った主張に獅子王と御手杵は顔を合わせて無いわーと大合唱する。
「大体、味って、そんなに違いとかあるのか?」
「鶴のじっちゃんって本当、特殊だよな」
「まあ、俺は小さかろうが大きかろうがどっちでもいいけどな」
御手杵は槍を振るう手でこれぐらいあればと宙を揉む。
一方―。
そんなお世辞にも上品とは言えない仲間の遣り取りを見守っていた膝丸の顔は渋い。
何が楽しくて同胞の女の趣味など聞かねばならないのか。
あまりの下らなさに髭切の耳を塞いでしまったぐらいだ。
出来る限り、兄にはこの仲間達の会話を聞かせたくなかったのである。
「おーい。皆が何を言ってるか全然、聞こえないんだけど」
「聞くまでもない話だ」
寧ろ、聞かないでいいと膝丸はきっぱりと言い放つ。
それにしてもまさか、こんな会合だとは全くの予想外である。
此処で膝丸ははっとする。
「兄者はあのいかがわしい絵を見る為に此処を訪ねたのか?」
まさかと思いつつ、膝丸は深刻な顔で訊ねたが戻って来たのは曖昧な笑みであった。
「それより、あの絵ね、動くらしいよ」
「まことか?」
「うん。あれ、あだるとびでおって言う絵巻なんだって」
凄いねえと笑う髭切に膝丸は何とも微妙な顔をする。
だから何故、そんなものの名前は覚えているのだ。
俺の名は忘れてしまう癖に。
終いには悲しくなって来て、膝丸はぐすりと鼻を啜る。
ところで三振りのおっぱい談義はまだ続いていたらしい。
「よし、此処は一つ、新参者に話を聞こうじゃないか。膝丸、君はどうだ?」
突然、指名を受けた膝丸は何なのだと眉根に皺を寄せた。
「なあ、君はどういうのが好みなんだ?」
「好み?」
「そうだ。でかいのが好きとか小さいのが好きとか何かあるだろう」
いきなり何なのだと呆れつつも膝丸は律儀にこう答えた。
「どういうも何も、興味がない」
膝丸がきっぱりと言い放つと、鶴丸はにっと口角を上げた。
不敵な笑みにまさかと膝丸ははっとする。
「だそうだが、どう思う。髭切?」
そう、よりにもよって鶴丸は標的を膝丸から髭切へと変えたのである。
「貴様、兄者に何を!」
しゃあっと牙を剥く膝丸に鶴丸はにやりと笑う。
「おっと、この手の話は本人より身内の方が案外、詳しいもんさ。まして、君らは仲のいい兄弟なんだろ?なあ、髭切」
鶴丸はぱちりと片目を閉じ、髭切へと視線を飛ばす。
慌てふためく弟刀を余所に髭切は腕を組み、うーんと考え込む。
「弟は乳より、お尻の方が好きだと思うよ。ね、おしり丸?」
兄の口から飛び出したまさかの暴言に膝丸はぶるぶると全身を震わせた。
よりにもよって、おしり丸である。
今まで何度も名を間違えられたが、おしり丸などと言う不名誉な名だけは絶対に嫌だ。
「俺はひ・ざ・ま・る・だっ、あにじゃあぁぁっっ!!」
悲痛な叫び声を上げた膝丸に「そうだっけ」と髭切は小首を傾げる。
そんな源氏兄弟を放置し、三振りはいそいそと上映会を始めたのだった。
…今日は厄日か。
膝に顔を埋めながら、膝丸は心中でぼやく。
疲労困憊である。
色々、酷い目に遭ったが何と言っても一番堪えたのはやはり、兄の暴言だった。
どうして自分は髭切に尻好きに認定されているのか。
兄に尻が好きだと公言した事などない筈だし、それを思わせる素振りなど見せた覚えもない。
なのに何故と膝丸は密かに鼻を啜る。
更に追い打ちと言わんばかりなのが、件の【あだるとびでお】である。
鶴丸曰く、今、画面でやっているのは姉と弟の近親相姦ものだそうだ。
ゆるふわお姉さんがあの手この手を使って初な弟を誘惑すると言う話らしい。
若干、自分達の状況に近い設定の様な気がするのが複雑だった。
何でこれにしたんだと襟首掴んで鶴丸を問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。
早く、部屋に戻って眠りにつきたい。
けれどもこんな場所に髭切を置いて行ける筈もなく、不本意ながら一緒に観賞する破目に陥ったのだった。
もう、こうなると一刻も早く終るのを待つだけである。
…それにしても。
膝丸は険しい顔つきで大画面に目をやる。
男は声のみの登場らしく、画面には女の姿のみ映し出されていた。
媚肉の艶かしい動きと甘ったるい声。
恋愛対象が女であれば観ていて楽しいものなのかもしれないが膝丸は全く興味を抱けない。
膝丸は大画面に映る女よりもずっと艶かしいものを知っていた。
あの夜に垣間見た髭切の姿だ。
月下に晒された白い肌。
柔らかさはないがしなやかで均整の取れた肢体。
隙間なく重なった時、撓る体と己を呼ぶ掠れた声。
どれ一つ取ってみてもあれに勝るものはないと断言出来る。
そこまで考えたところで膝丸は隣に座る兄に目をやった。
髭切は退屈そうに画面を見つめている。
あの様子ならば部屋に戻ろうと声を掛ければ、頷いてくれるかもしれない。
声を掛けようと膝丸が腰を浮かした時の事。
膝丸より先に髭切に近づいた者があった。
鶴丸だ。
鶴丸は振り向いた髭切の耳許で何事かを囁き掛ける。
くすり、髭切が笑う。
画面から聴こえる女の喘ぎ声のせいで二振りが何を話したのかは解らなかった。
ただ、その遣り取りは親密さを証明している様で、膝丸は二振りの様子に釘付けになる。
注がれている視線に気付いているのかいないのか、今度は髭切が鶴丸の耳許に唇を寄せる。
大好きな筈の笑顔が今は酷く、憎らしく思えた。
どうして―。
どうして、俺ではない者にそんな風に笑い掛けるのだ。
急に胸が苦しくなり、膝丸はぐっと手で押さえる。
苦しい、苦しくて堪らなかった。
「…おとうと?」
己を呼ぶ声に膝丸ははっと目を見開く。
鶴丸と話している最中、髭切は膝丸の様子がおかしい事に気付いたらしい。
鶴丸から離れ、髭切は項垂れたままの膝丸に近づく。
ふわり、髭切の手のひらが膝丸の頭に触れた。
「どうしたの、何処か痛い?」
「…あに、じゃ…」
息も絶え絶えに呼ぶと膝丸は立膝をつき、髭切の腕を掴み、引き寄せる。
急に腕を引かれた髭切は体勢を崩し、膝丸の胸へと傾れ込む。
飛び込んで来た体を一度だけ抱き締めると、膝丸は髭切を俵抱きにし、立ち上がる。
「わっ!」
急に高くなった視線に髭切は珍しく驚きの声を上げた。
一方、膝丸は茫然とする面々に対し「失礼する」とだけ言ってそのまま部屋を出て行ってしまった。
「…どうしたんだ、あいつら」
夜のおやつである煎餅に齧り付きながら御手杵はぼんやりと呟く。
画面から目を離していないが、一応、気にはなるらしい。
基本的に面倒見のよい質である獅子王もあの兄弟は放置らしい。
画面から目を離さずに煎餅が入っている小鉢に手を伸ばす。
「大丈夫だよな、鶴のじっちゃん」
ばりん、煎餅に齧り付きながら獅子王は一応、年長者である鶴丸に訊ねた。
「多分な。ま、奴等は放っておいて、俺達は俺達で楽しもうじゃないか」
そう言いながら鶴丸も小鉢から煎餅を取る。
仕込みは上々―。
煎餅の向こう側で鶴丸は密かにそう微笑んだが、若い二振りは全くその事に気付かなかった。
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