【腐】はじまりの話
「…何やってるの?」
「お前に話がある」
「話?」
「ともかく座れ」
審神者が示した先には座布団があった。
どうやら此処に座れと言う事らしい。
髭切が座布団の上に腰を下ろすと審神者がごほんと咳払いをする。
妙に構えた様子がおかしかったのか審神者の背後に居た近侍が口を押えくつと笑っていた。
そんな近侍を一睨みし、審神者は話を切り出した。
「あー、その、何だ。お前と膝丸は恋仲なのか?」
まるで年頃の娘に話し掛ける様な父の様なわざとらしさで審神者は訊いて来る。
髭切はううんと首を横に振った。
「違うよ」
「なら、何でそんな事になってんだ?」
とんとん、審神者は先程と同じ様に首を叩く。
ああ、これの事かと髭切は思う。
「これは酔っ払いに噛まれただけ」
「…酔っ払いね…」
「襲われた事は否定しないよ。だけど、あの子はまともに歩けなかったし、前後不覚だったからね」
「そ、そうなのか?」
「案外、僕と誰かと間違えてしたのかもしれないしね」
酔っ払いに責任を取れと言っても仕方ないでしょう?
平然と語る髭切に審神者は顔を顰めた。
「…あのなあ、兄者命のあいつがお前を他の奴と間違える訳が無いだろう」
そんなの俺でも解ると審神者は髭切の推測を否定する。
演練場でふらりと居なくなった髭切を迷わず、探し当てて連れて来る膝丸だ。
酷く酔っていたとはいえ髭切を他の誰かと間違える筈もない。
寧ろ、酒に背中を押されたと言うのが正解だろう。
「それよりお前はどうなんだ?」
「…僕?」
「何故、抵抗しなかった?お前の方が練度は上だし、抵抗しようと思えば幾らでも出来た筈だろう」
その問いに髭切は目を見開く。
言われてみればその通りで。
昨夜、膝丸に対し、髭切がしたのは説得だけで体を張り止める事はしなかった。
それは何故か―。
「止められた筈なのに止めなかったのはお前の方にも思うところがあったからじゃないのか?」
じっと審神者が見据えて来る。
真っ直ぐな目だ。
少々、粗忽者のきらいはあるがさすが、審神者は惣領であった。
刀剣は審神者に逆らえない。
問われてしまえば、誤魔化せる筈もなく、髭切は軽く唇を噛んだ。
「…そうだね。君の言う通り、多分、止められた。だけど、僕はそうしなかった。弟が大事だから」
髭切は胸の奥底にしまっていた本心をぽつぽつと口にする。
ああ、そうだ、本当はずっと前から気付いていたのだ。
己を見つめた時に琥珀の眼に宿る熱を。
触れて来る時の微かな震えを。
その数々を髭切は見て見ぬふりをしていた。
自分も同じ思いだったから。
双剣で二具一振。
そして、兄弟という間柄であれば、ずっと、傍に居られるからそれでいいと髭切は思っていた。
だが、昨夜の膝丸の強行によりその均衡は崩れてしまった。
「弟が好きだから、こんな事で失いたくなかった」
失いたくなかったから、昨夜の事を無かった事にしようとした。
弟の為でなく、自分の為に―。
俯いた髭切に審神者は再び、深い息を吐いた。
「髭切。二人で話し合え。多分、その方がいい」
そう言うと、審神者は髭切の頭を撫でた。
その行動は乱暴ながら、髭切の乱れた心を徐々に落ち着かせた。
つい先程まではどうやって元の兄弟に戻るかそればかりを考えていた
けれども、今は違う。
自分の思いを包み隠さず弟に告げてみようと素直にそう思った。
「弟が帰って来たら、話してみるよ」
「おお、そうしろそうしろ!」
にかっと笑う審神者に髭切もふふとつられて笑う。
「心配かけてごめんよ、主」
「いや。まあ、何だ。ちょっと、驚かされたけどな」
「あ、そうだ。男同士のまぐわいって考えてたよりずっと痛いから主も気をつけてね」
「へっ?」
髭切の言葉に審神者はぴたっと制止した。
「君を狙う刀に襲われる事もあるだろうからね」
ほわんとした顔から齎されたとんでも情報に審神者は硬直する。
「何言って…えっ、俺、尻を狙われてんのか!?」
「うん。確か、あのなんとかぎりの彼とか…」
「いい、言うな!そいつの事まともに見れなくなるから、誰か教えてくれなくていい!」
狂乱再び、審神者はわーわーと喚き出す。
「大将、落ち着け!」
半狂乱の審神者の頭を丸めた新聞紙ですこーんと叩き、黙らせたのは優秀な近侍であった。
「安心しな、大将。あんたの尻は俺が守ってやるさ」
くっと上がった口端が可憐な姿に似合わず、男前であった。
「…さすが、短刀詐欺を欲しいままにした男だな。惚れそうだぜ」
「俺は構わないぜ。いつでも来な」
「兄貴ぃっ、抱いて!」
自分より二回りは小さいだろう近侍に審神者はがしっと抱きつき叫ぶ。
そんな茶番じみたやり取りを後目に髭切はすくりと立ち上がる。
「主、近侍君、ありがとう。部屋に戻るよ」
「あ、ああ、何かあったらすぐに相談するんだぞ!」
「うん。又、来るね」
じゃあねと手のひらをひらつかせて髭切は審神者の部屋を後にした。
体が軽い気がするのは心持ちが違うからなのだろう。
髭切は途中、足を止めて、宙を見上げる。
まだ、陽の位置は高い。
膝丸が帰って来るにはまだ時が掛かりそうだった。
「早く、帰っておいで。僕のところに」
今は遠い戦場に居るであろう弟に語りかける様に髭切は一人呟いた。
夜―。
草木も眠る時刻である。
ひたひたと一人廊下を歩く膝丸の足取りは重かった。
歩みを重くする原因は他でもない、己の犯した過ちであった。
愛する兄に酷い事をした。
どう償えばよいのか、朝からずっと考えていた。
夜を経て出た結論は兄に本体を差し出し、折って貰うというものだった。
だが、それさえも拒まれるかもしれないと膝丸は考える。
もう、お前は弟でも何でもないと言われてしまうかもしれない。
それだけの事を膝丸はしてしまったのだ。
絶望していた膝丸を更に追い詰めたのは審神者だった。
帰還した部隊を出迎えた審神者は膝丸の顔を見るなりこう言ったのだ。
髭切が待ってるぞ、と―。
言われた時、膝丸は動揺から抱えていた資源を落としてしまった。
言葉もなく青ざめた膝丸に更に追い討ちを掛ける様に審神者は言った。
早く行ってやれと。
詳しい経緯は分からないが審神者は昨夜起きた事を察している様だ。
もしかしたら、兄に相談されたのかもしれない。
あんな弟、もう、いらないから何とかして、と。
考えれば考えれる程、足が竦み、自室に辿り着く事が出来なかった。
普段より長い時間を掛け、膝丸は自室へと着く。
とうとう、この時が来てしまった。
こうなれば、後は潔く散るだけだと膝丸は覚悟を決めた。
「…兄者、今、戻った」
一言断りを入れ、膝丸は障子を開ける。
灯火が消えた部屋は真っ暗だった。
静かに障子を閉め中に入ると徐々に暗闇に目が慣れて来た。
二つ並んだ布団の内の一つに兄の姿を見つけて、膝丸はどくりと胸を弾ませた。
瞼が閉じられている、寝ている様だ。
最後勧告が先延ばしとなり、膝丸は無意識にほっと息を吐いた。
畳の上に腰を落として、膝丸はじっと視線を向ける。
「…兄者…」
起こさぬ様、ごく小さな声で呼ぶと胸が詰まった。
もしかしたらこれが最後になるかもしれないと膝丸はぼんやり思う。
ふと、布団の上に投げ出された手に目が留まった。
白い手首に刻まれた赤く脹れ上がった痕。
それは間違いなく膝丸が刻んだものだった。
ああ、俺は何と言う事をと膝丸は胸を押さえて、呻く。
秘めた恋だった。
一体、いつからか、それとも元々根付いていた思いなのか膝丸は髭切を兄としてではなく、一己として密かに恋慕っていた。
だが、それは決して口にしてはいけない思いであった。
優しい兄を裏切ってはいけないと、募る思いをひた隠しにして、これまで過ごして来た。
それなのに―。
つれなくも自分を置いて行こうとする髭切に感情が抑えきれず、気がついた時には褥に兄を組み敷いていた。
訳も分からず戸惑う兄に対してただただ受け入れてくれと乞い願って、己の気の済む儘、貪った。
弟として寄せられていた信頼を全て、自分で壊してしまったのだ。
膝丸は投げ出された手を掴み上げると己の口許へと寄せた。
薄い皮膚の上に走る腫れに唇で触れる。
治る訳もないがそうせずにはいられなかった。
大事な兄を傷つけてしまった事が苦しくて苦しくて仕方なかった。
「兄者、すまない…すまないっ」
いっそ、殺してくれと消え入りそうな声でそう謝罪した時の事。
「膝丸」
名を呼ばれて、膝丸は硬直した。
「…兄者…」
すうっと全身の血が引いて行くのを膝丸は感じた。
青ざめ固まる弟刀を見上げながら、髭切は目を細める。
「おかえり」
待っていたよと髭切はいつもの様にふわりと笑う。
いつもと変わらぬ兄に膝丸は動揺した。
どうして昨夜の事を何も言わないのかと思った。
「…兄者、昨夜は…」
すまない、そう続く筈の言葉は髭切の手により阻まれた。
「あ、あにじゃ…?」
「あのね、昨夜の事だけど」
「…ああ…」
とうとう来たと膝丸はぎゅっと拳を握る。
「お前、忘れて欲しいかい?」
その言葉に膝丸は目を見開き、髭切を見た。
「お前が無かった事にしたいなら、忘れるよ」
どうしたい?
髭切は優しい声で訊いて来た。
昨夜の出来事は膝丸にとって過ちでそれを忘れようかと髭切は言った。
髭切の事だ、忘れてくれと願えば、きっと、本当に忘れてくれるだろう。
そして今までと変わらず兄弟刀として何事も無かった様に接してくれる…。
「嫌だ」
膝丸の口から出たのは否であった。
「兄者にとっては忌まわしき一夜かもしれない。だが、俺は昨夜の事を忘れて欲しくない。どうか、忘れないでくれ」
切なげな声でそう言い募ると、ぎゅっと掴んだままの手を握り締める。
「出来るならば弟してあなたの傍にずっと、在りたかった。
だが、いつしか俺は弟してではなく男としてあなたの傍に居たい、あなたが欲しいと、そう願う様になっていた」
今までずっとひた隠しにしていた想いを口にするのは恐ろしくて堪らない。
けれども、もうこれ以上、自分の気持ちを偽り続ける事は出来なかった。
「あなたが好きだ」
そう告げると、感情の昂りから涙が零れた。
ああ、こんなところで泣くとは情けない。
だけれども、涙は止まらなかった。
そんな膝丸の様子を見つめていた髭切はゆっくりと口を開いた。
「…うん。僕もお前が好きだよ」
「………えっ?」
己が告げた言葉と同じものが返り、膝丸は目を見開く。
「僕は忘れたくなかったから、お前が忘れないでと言ってくれて良かったよ」
そう言って髭切は嬉しそうに笑った。
「兄者が俺を…?」
「うん。僕たち、両思いみたいだね」
両想い、甘美な響きに本当にと膝丸は思わず聞き返してしまう。
「嫌だなあ、嘘なんて言わないよ」
本当だよと言いながら髭切はよしよしと膝丸の頭を撫でる。
その優しい感触に膝丸は己の瞳が潤むのを感じた。
思いが通じる日が来るとは夢にも思わず、まだ、夢を見ている様だった。
膝丸は泣きながら、兄の体を抱き締める。
今度は傷つけない様にそっと。
とくとくと伝わるのは鼓動。
夢ではない、温もりがそこに確かにあった。
ずっと、焦がれて已まなかったものを漸く手にし、止んでいた涙が再び、溢れた。
「兄者…っ」
本格的に泣き出した弟に髭切は微笑む。
ぽんぽんと宥める様に背中を叩いてやれば、泣き顔が接近する。
おやと思った時には互いの唇が重なっていた。
口づけを交わすのはこれが初めてだった。
少し長めの舌に舌が絡め取られ、表面を撫でて、強く吸われるとじんと体が痺れて行く。
「…口づけって気持ちがいいものなんだね」
髭切は唇から零れたどちらのものとも知れぬ唾液を舐めながら、初めての口づけの感想を呟いた。
俄かに熱を帯びたその目が何とも言えぬ艶を含み出すのを見て膝丸はごくりと息を呑む。
もっと、その顔が見たいと、浅ましくもそう思ってしまった。
「…兄者、その、良いだろうか?」
昨夜の失態を繰り返したくなかった膝丸はおずおずと兄に許可を求めた。
その問いに髭切は眉を下げ、首を傾けた。
「…うーん、無理かな」
無理。
此処に来ての拒否に膝丸はじわっと涙を滲ませる。
「やはり、お嫌か…」
「嫌じゃないよ。でも、まだ、腰が痛くてね。この状態でしたら、明日、主に腰とお尻を手入れして貰わなきゃ行けなくなっちゃうよ」
こてりと顔を傾けながら髭切は言う。
腰と尻の手入れ…。
その様子を想像した膝丸は駄目だと思わず叫ぶ。
審神者を惣領として認めているがそれは駄目だ、と言うか絶対に嫌だ。
元はと言えば、髭切が負傷した原因は己にあるのだ。
今宵ぐらいは諦めて、後日改めて、伺おう。
そう膝丸は決めた。
「…今宵は我慢する」
「ごめんね。代わりに一緒に寝よう?」
髭切はそう言うと、ごろりと布団に寝転がる。
そして、おいでと優しい声で膝丸を誘った。
膝丸はゆらり、誘われるまま、髭切の横へと寝転がる。
すると、待ち兼ねていた様に髭切が体を寄せて来た。
飛び込んで来た温もりに膝丸はどくんと胸を鳴らした。
同じ高さにある瞳がいかにも愉しげに細まった。
「二人だと狭いねえ」
「そう、だな…」
たどたどしく口調で膝丸は同意する。
確かに狭いには違いないが膝丸は嘗て無い程の喜びを感じていた。
己の腕の中に恋い焦がれた兄が居る、その事実が膝丸を高揚させた。
昨夜はこんな幸福の時が訪れるとは夢にも思わなかった。
俺は果報者だと心からそう思った。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ、兄者」
二人揃って目を閉じる。
長い時を経て漸く思いが通じた二人は深い眠りへと落ちて行ったのだった。
「お前に話がある」
「話?」
「ともかく座れ」
審神者が示した先には座布団があった。
どうやら此処に座れと言う事らしい。
髭切が座布団の上に腰を下ろすと審神者がごほんと咳払いをする。
妙に構えた様子がおかしかったのか審神者の背後に居た近侍が口を押えくつと笑っていた。
そんな近侍を一睨みし、審神者は話を切り出した。
「あー、その、何だ。お前と膝丸は恋仲なのか?」
まるで年頃の娘に話し掛ける様な父の様なわざとらしさで審神者は訊いて来る。
髭切はううんと首を横に振った。
「違うよ」
「なら、何でそんな事になってんだ?」
とんとん、審神者は先程と同じ様に首を叩く。
ああ、これの事かと髭切は思う。
「これは酔っ払いに噛まれただけ」
「…酔っ払いね…」
「襲われた事は否定しないよ。だけど、あの子はまともに歩けなかったし、前後不覚だったからね」
「そ、そうなのか?」
「案外、僕と誰かと間違えてしたのかもしれないしね」
酔っ払いに責任を取れと言っても仕方ないでしょう?
平然と語る髭切に審神者は顔を顰めた。
「…あのなあ、兄者命のあいつがお前を他の奴と間違える訳が無いだろう」
そんなの俺でも解ると審神者は髭切の推測を否定する。
演練場でふらりと居なくなった髭切を迷わず、探し当てて連れて来る膝丸だ。
酷く酔っていたとはいえ髭切を他の誰かと間違える筈もない。
寧ろ、酒に背中を押されたと言うのが正解だろう。
「それよりお前はどうなんだ?」
「…僕?」
「何故、抵抗しなかった?お前の方が練度は上だし、抵抗しようと思えば幾らでも出来た筈だろう」
その問いに髭切は目を見開く。
言われてみればその通りで。
昨夜、膝丸に対し、髭切がしたのは説得だけで体を張り止める事はしなかった。
それは何故か―。
「止められた筈なのに止めなかったのはお前の方にも思うところがあったからじゃないのか?」
じっと審神者が見据えて来る。
真っ直ぐな目だ。
少々、粗忽者のきらいはあるがさすが、審神者は惣領であった。
刀剣は審神者に逆らえない。
問われてしまえば、誤魔化せる筈もなく、髭切は軽く唇を噛んだ。
「…そうだね。君の言う通り、多分、止められた。だけど、僕はそうしなかった。弟が大事だから」
髭切は胸の奥底にしまっていた本心をぽつぽつと口にする。
ああ、そうだ、本当はずっと前から気付いていたのだ。
己を見つめた時に琥珀の眼に宿る熱を。
触れて来る時の微かな震えを。
その数々を髭切は見て見ぬふりをしていた。
自分も同じ思いだったから。
双剣で二具一振。
そして、兄弟という間柄であれば、ずっと、傍に居られるからそれでいいと髭切は思っていた。
だが、昨夜の膝丸の強行によりその均衡は崩れてしまった。
「弟が好きだから、こんな事で失いたくなかった」
失いたくなかったから、昨夜の事を無かった事にしようとした。
弟の為でなく、自分の為に―。
俯いた髭切に審神者は再び、深い息を吐いた。
「髭切。二人で話し合え。多分、その方がいい」
そう言うと、審神者は髭切の頭を撫でた。
その行動は乱暴ながら、髭切の乱れた心を徐々に落ち着かせた。
つい先程まではどうやって元の兄弟に戻るかそればかりを考えていた
けれども、今は違う。
自分の思いを包み隠さず弟に告げてみようと素直にそう思った。
「弟が帰って来たら、話してみるよ」
「おお、そうしろそうしろ!」
にかっと笑う審神者に髭切もふふとつられて笑う。
「心配かけてごめんよ、主」
「いや。まあ、何だ。ちょっと、驚かされたけどな」
「あ、そうだ。男同士のまぐわいって考えてたよりずっと痛いから主も気をつけてね」
「へっ?」
髭切の言葉に審神者はぴたっと制止した。
「君を狙う刀に襲われる事もあるだろうからね」
ほわんとした顔から齎されたとんでも情報に審神者は硬直する。
「何言って…えっ、俺、尻を狙われてんのか!?」
「うん。確か、あのなんとかぎりの彼とか…」
「いい、言うな!そいつの事まともに見れなくなるから、誰か教えてくれなくていい!」
狂乱再び、審神者はわーわーと喚き出す。
「大将、落ち着け!」
半狂乱の審神者の頭を丸めた新聞紙ですこーんと叩き、黙らせたのは優秀な近侍であった。
「安心しな、大将。あんたの尻は俺が守ってやるさ」
くっと上がった口端が可憐な姿に似合わず、男前であった。
「…さすが、短刀詐欺を欲しいままにした男だな。惚れそうだぜ」
「俺は構わないぜ。いつでも来な」
「兄貴ぃっ、抱いて!」
自分より二回りは小さいだろう近侍に審神者はがしっと抱きつき叫ぶ。
そんな茶番じみたやり取りを後目に髭切はすくりと立ち上がる。
「主、近侍君、ありがとう。部屋に戻るよ」
「あ、ああ、何かあったらすぐに相談するんだぞ!」
「うん。又、来るね」
じゃあねと手のひらをひらつかせて髭切は審神者の部屋を後にした。
体が軽い気がするのは心持ちが違うからなのだろう。
髭切は途中、足を止めて、宙を見上げる。
まだ、陽の位置は高い。
膝丸が帰って来るにはまだ時が掛かりそうだった。
「早く、帰っておいで。僕のところに」
今は遠い戦場に居るであろう弟に語りかける様に髭切は一人呟いた。
夜―。
草木も眠る時刻である。
ひたひたと一人廊下を歩く膝丸の足取りは重かった。
歩みを重くする原因は他でもない、己の犯した過ちであった。
愛する兄に酷い事をした。
どう償えばよいのか、朝からずっと考えていた。
夜を経て出た結論は兄に本体を差し出し、折って貰うというものだった。
だが、それさえも拒まれるかもしれないと膝丸は考える。
もう、お前は弟でも何でもないと言われてしまうかもしれない。
それだけの事を膝丸はしてしまったのだ。
絶望していた膝丸を更に追い詰めたのは審神者だった。
帰還した部隊を出迎えた審神者は膝丸の顔を見るなりこう言ったのだ。
髭切が待ってるぞ、と―。
言われた時、膝丸は動揺から抱えていた資源を落としてしまった。
言葉もなく青ざめた膝丸に更に追い討ちを掛ける様に審神者は言った。
早く行ってやれと。
詳しい経緯は分からないが審神者は昨夜起きた事を察している様だ。
もしかしたら、兄に相談されたのかもしれない。
あんな弟、もう、いらないから何とかして、と。
考えれば考えれる程、足が竦み、自室に辿り着く事が出来なかった。
普段より長い時間を掛け、膝丸は自室へと着く。
とうとう、この時が来てしまった。
こうなれば、後は潔く散るだけだと膝丸は覚悟を決めた。
「…兄者、今、戻った」
一言断りを入れ、膝丸は障子を開ける。
灯火が消えた部屋は真っ暗だった。
静かに障子を閉め中に入ると徐々に暗闇に目が慣れて来た。
二つ並んだ布団の内の一つに兄の姿を見つけて、膝丸はどくりと胸を弾ませた。
瞼が閉じられている、寝ている様だ。
最後勧告が先延ばしとなり、膝丸は無意識にほっと息を吐いた。
畳の上に腰を落として、膝丸はじっと視線を向ける。
「…兄者…」
起こさぬ様、ごく小さな声で呼ぶと胸が詰まった。
もしかしたらこれが最後になるかもしれないと膝丸はぼんやり思う。
ふと、布団の上に投げ出された手に目が留まった。
白い手首に刻まれた赤く脹れ上がった痕。
それは間違いなく膝丸が刻んだものだった。
ああ、俺は何と言う事をと膝丸は胸を押さえて、呻く。
秘めた恋だった。
一体、いつからか、それとも元々根付いていた思いなのか膝丸は髭切を兄としてではなく、一己として密かに恋慕っていた。
だが、それは決して口にしてはいけない思いであった。
優しい兄を裏切ってはいけないと、募る思いをひた隠しにして、これまで過ごして来た。
それなのに―。
つれなくも自分を置いて行こうとする髭切に感情が抑えきれず、気がついた時には褥に兄を組み敷いていた。
訳も分からず戸惑う兄に対してただただ受け入れてくれと乞い願って、己の気の済む儘、貪った。
弟として寄せられていた信頼を全て、自分で壊してしまったのだ。
膝丸は投げ出された手を掴み上げると己の口許へと寄せた。
薄い皮膚の上に走る腫れに唇で触れる。
治る訳もないがそうせずにはいられなかった。
大事な兄を傷つけてしまった事が苦しくて苦しくて仕方なかった。
「兄者、すまない…すまないっ」
いっそ、殺してくれと消え入りそうな声でそう謝罪した時の事。
「膝丸」
名を呼ばれて、膝丸は硬直した。
「…兄者…」
すうっと全身の血が引いて行くのを膝丸は感じた。
青ざめ固まる弟刀を見上げながら、髭切は目を細める。
「おかえり」
待っていたよと髭切はいつもの様にふわりと笑う。
いつもと変わらぬ兄に膝丸は動揺した。
どうして昨夜の事を何も言わないのかと思った。
「…兄者、昨夜は…」
すまない、そう続く筈の言葉は髭切の手により阻まれた。
「あ、あにじゃ…?」
「あのね、昨夜の事だけど」
「…ああ…」
とうとう来たと膝丸はぎゅっと拳を握る。
「お前、忘れて欲しいかい?」
その言葉に膝丸は目を見開き、髭切を見た。
「お前が無かった事にしたいなら、忘れるよ」
どうしたい?
髭切は優しい声で訊いて来た。
昨夜の出来事は膝丸にとって過ちでそれを忘れようかと髭切は言った。
髭切の事だ、忘れてくれと願えば、きっと、本当に忘れてくれるだろう。
そして今までと変わらず兄弟刀として何事も無かった様に接してくれる…。
「嫌だ」
膝丸の口から出たのは否であった。
「兄者にとっては忌まわしき一夜かもしれない。だが、俺は昨夜の事を忘れて欲しくない。どうか、忘れないでくれ」
切なげな声でそう言い募ると、ぎゅっと掴んだままの手を握り締める。
「出来るならば弟してあなたの傍にずっと、在りたかった。
だが、いつしか俺は弟してではなく男としてあなたの傍に居たい、あなたが欲しいと、そう願う様になっていた」
今までずっとひた隠しにしていた想いを口にするのは恐ろしくて堪らない。
けれども、もうこれ以上、自分の気持ちを偽り続ける事は出来なかった。
「あなたが好きだ」
そう告げると、感情の昂りから涙が零れた。
ああ、こんなところで泣くとは情けない。
だけれども、涙は止まらなかった。
そんな膝丸の様子を見つめていた髭切はゆっくりと口を開いた。
「…うん。僕もお前が好きだよ」
「………えっ?」
己が告げた言葉と同じものが返り、膝丸は目を見開く。
「僕は忘れたくなかったから、お前が忘れないでと言ってくれて良かったよ」
そう言って髭切は嬉しそうに笑った。
「兄者が俺を…?」
「うん。僕たち、両思いみたいだね」
両想い、甘美な響きに本当にと膝丸は思わず聞き返してしまう。
「嫌だなあ、嘘なんて言わないよ」
本当だよと言いながら髭切はよしよしと膝丸の頭を撫でる。
その優しい感触に膝丸は己の瞳が潤むのを感じた。
思いが通じる日が来るとは夢にも思わず、まだ、夢を見ている様だった。
膝丸は泣きながら、兄の体を抱き締める。
今度は傷つけない様にそっと。
とくとくと伝わるのは鼓動。
夢ではない、温もりがそこに確かにあった。
ずっと、焦がれて已まなかったものを漸く手にし、止んでいた涙が再び、溢れた。
「兄者…っ」
本格的に泣き出した弟に髭切は微笑む。
ぽんぽんと宥める様に背中を叩いてやれば、泣き顔が接近する。
おやと思った時には互いの唇が重なっていた。
口づけを交わすのはこれが初めてだった。
少し長めの舌に舌が絡め取られ、表面を撫でて、強く吸われるとじんと体が痺れて行く。
「…口づけって気持ちがいいものなんだね」
髭切は唇から零れたどちらのものとも知れぬ唾液を舐めながら、初めての口づけの感想を呟いた。
俄かに熱を帯びたその目が何とも言えぬ艶を含み出すのを見て膝丸はごくりと息を呑む。
もっと、その顔が見たいと、浅ましくもそう思ってしまった。
「…兄者、その、良いだろうか?」
昨夜の失態を繰り返したくなかった膝丸はおずおずと兄に許可を求めた。
その問いに髭切は眉を下げ、首を傾けた。
「…うーん、無理かな」
無理。
此処に来ての拒否に膝丸はじわっと涙を滲ませる。
「やはり、お嫌か…」
「嫌じゃないよ。でも、まだ、腰が痛くてね。この状態でしたら、明日、主に腰とお尻を手入れして貰わなきゃ行けなくなっちゃうよ」
こてりと顔を傾けながら髭切は言う。
腰と尻の手入れ…。
その様子を想像した膝丸は駄目だと思わず叫ぶ。
審神者を惣領として認めているがそれは駄目だ、と言うか絶対に嫌だ。
元はと言えば、髭切が負傷した原因は己にあるのだ。
今宵ぐらいは諦めて、後日改めて、伺おう。
そう膝丸は決めた。
「…今宵は我慢する」
「ごめんね。代わりに一緒に寝よう?」
髭切はそう言うと、ごろりと布団に寝転がる。
そして、おいでと優しい声で膝丸を誘った。
膝丸はゆらり、誘われるまま、髭切の横へと寝転がる。
すると、待ち兼ねていた様に髭切が体を寄せて来た。
飛び込んで来た温もりに膝丸はどくんと胸を鳴らした。
同じ高さにある瞳がいかにも愉しげに細まった。
「二人だと狭いねえ」
「そう、だな…」
たどたどしく口調で膝丸は同意する。
確かに狭いには違いないが膝丸は嘗て無い程の喜びを感じていた。
己の腕の中に恋い焦がれた兄が居る、その事実が膝丸を高揚させた。
昨夜はこんな幸福の時が訪れるとは夢にも思わなかった。
俺は果報者だと心からそう思った。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ、兄者」
二人揃って目を閉じる。
長い時を経て漸く思いが通じた二人は深い眠りへと落ちて行ったのだった。
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