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【腐】はじまりの話

ちゅんちゅん。

遠くに聴こえるのは鳥の囀り。
平時であればその可愛らしい鳴き声を長閑だと感じる事が出来ただろう。
けれども寝不足の身には物音一つが耳障りである。
現に寝不足が祟り、未だ布団の上の住人であった髭切は煩いなあとぎゅっと眉根を寄せた。
昨夜はあまりよく眠れなかったからもう少しだけ眠らせて欲しい。
物音を遮る為、横で丸まっていた布団を手に取り、頭からかぶる。
少しぐらいなら大丈夫な筈だ。
起きなければいけない時間になったらきっと、生真面目な弟が起こしてくれるだろう。
そこまで考えたところで髭切は布団の中で目を開けた。
布団を除けて起き上がると、腰ががくがくと悲鳴を上げた。
軋む腰を掌で擦りながら、髭切は視線を横にやる。
いつも横に敷かれている布団は既に無い。
既に押入れの中に片付けられている様だ。
さて、その布団の持ち主だが、やはり、見当たらない。
戦装束が無いところを見るに膝丸は既に起きており、着替えを済ませて、部屋を出て行った後の様だ。
ふわあと欠伸をしながら腕を伸ばすとまた腰がずきりと痛む。
「うーっ、痛い…」
尋常ならざる痛みに呻きながら髭切はふと、己の状況を顧みる。
手首はみみず腫れ、体の至るところに鬱血や赤い痕が散らばっているという酷い有様だった。
まあ、尋常じゃない痛みだったからなあ。
髭切は腰を擦りながらしみじみ思う。
昨夜、髭切が体感した痛みは戦場で負う傷の痛みと全く別種の痛みであった。
その痛みに晒された時はこのまま、折れてしまうのではないかと思った程だ。
まさか、あの様な痛みを味わう日が来ようとは夢にも思わなかった。
しかも驚くべき事にその感覚は弟により齎されたものだった。

そう、昨夜、髭切は弟である膝丸に犯されたのである。

体の惨状の割に、行為の残滓は見当たらない。
恐らく、髭切が気をやってしまった後に膝丸が清めたのだろう。
幾ら清められたとはいえ、色々汚れたであろう体を一度、すっきりと洗い流したい気分だった。
けれども今の時刻だと男士専用の浴室は清掃中で恐らく、使えないだろう。
そこで髭切が思いついたのが審神者の私室にある浴室の存在である。
審神者専用の浴室ならば、今の時刻でも気兼ねなく使えるだろう。
よし、そうしよう。
そう思い立ち、髭切は執務室へと向かった。
部屋を出た髭切はゆっくりと本丸内を素足で歩く。
本当はスリッパという履物を支給されているのだが、どうも窮屈で好きではないから、滅多に履かない。
よく髭切が素足で闊歩していると、後ろから膝丸に注意されたものだ。

何かを踏んで怪我でもしたらどうするのだ、兄者と。

膝丸は顕現された当初から甲斐甲斐しく髭切の世話を焼いた。
髭切にとって、膝丸は真面目で可愛い弟だった。
少なくとも昨日までは―。
はあと髭切は嘆息する。
渡り廊下を抜けると審神者の部屋が見えた。

障子戸に映る影は二つ。

恐らく、審神者と本日の近侍のものだろう。
「主、ちょっといいかな」
障子越しに声を掛けると、影の一つが動き出して、戸が開いた。
「おお、髭切。どうした?」
顔を見せたのは審神者である。
審神者は三十を少し過ぎた青年だ。
彼も起きたばかりらしく、服装こそきちんとしているものの、顎には無精髭、後頭部には寝癖を拵えている。
「ちょっと、君の部屋にあるお風呂を借りたいんだけど…」
「そりゃ構わんが、お前、それどうした?」
「それ?」
「此処だ、此処」
とんとん、審神者は自分の首を叩く。
「首?」
髭切は首を傾げながら、審神者が示した辺りを手で一撫でする。
指の腹で撫でるとつきんと沁みる様な痛みが走った。
どうやら傷が二つある様だ。
「ありゃ、こんなところに傷があるなんて思わなかった」
「お前なあ、そんな派手な傷に気づかないってどんだけボケてんだよ。前に餌をやってた狸か狐にでも噛まれたのか?」
確かに餌付けをしているが、噛まれたのは狸でも狐でもない。
「噛まれたのは蛇、かな」
髭切の言葉に審神者はぎょっとする。
「おいおい、その蛇、まさか、毒蛇じゃないだろうな?」
毒って手入れで治るのかと慌てふためく審神者を横目にしながら、ああと近侍が何か察した様な声を上げる。
「あんたを噛んだその蛇は薄緑の鱗の奴じゃねえのか?」
さすが、それで有名な信長の刀と言うべきか。
いや、首の噛み痕に蛇とくれば、勘のいい者はすぐに解ってしまうかもしれない。
「うん。ついでにその蛇を探しているんだけど、君、知らない?」
「薄緑の蛇ならこの世の終わりみたいな面してあんたの代わりに出陣したぜ。戻って来るのは多分、夜だな」
「…夜」
そう言えば、すっかり忘れてしまっていたが本来であれば今日は江戸に出陣する予定だったのだ。
まさか、出陣を忘れるなんて、思っていたよりも自分は動揺していたのかもしれないと髭切は思う。
一方、髭切と近侍の会話を聞いていた審神者は顔を顰めた。
「えっ、ちょっと、待て!その傷ってまさか…」
近侍が口にした【薄緑】と言えば、膝丸の事である。
そうなると、髭切の首の傷は膝丸が噛んで出来た傷と言う事だ。
そして、その傷はどう考えても喧嘩で出来る類の傷ではない。
と言う事は…。
「別に大将の時代でも衆道は珍しくねえだろうに」
何を驚く事があると近侍は呆れた様にずばりと言い放つ。
「止めろ!美少女みたいな顔でそんな事言うの止めてくれ!!」
聞こえない聞こえない!と叫ぶ審神者にやれやれと近侍は肩で息を吐く。
「髭切の旦那。とりあえず、一風呂、浴びて来たらどうだ?」
「そうだね。そうさせて貰うよ」
未だにわーわーと発狂叫している審神者の横を通り過ぎて、髭切は奥の浴室へと入る。
浴室はいつも使う浴室よりも狭かったが、誰の目も気にせずに入れるのは正直、ありがたかった。
さすがの髭切も全身の惨状を訊かれたら、どう答えて良いものなのか解らかった。
脱衣場で半纏と着流しをぽいと脱ぎ捨てて、浴室に足を踏み入れる。
床板とは違うタイルの冷たさを感じつつ、髭切はシャワーの湯を頭からかぶった。
気持ちいい。
生温い湯を浴びている内に忘れていた記憶がぽんぽんと音を立てて甦って来る。
思い出したのは昨夜の顛末である。


昨夜は週に一度の酒宴だった。
初めに三条の太刀と真っ白な鳥刀に声を掛けられた髭切は膝丸とは別の輪で呑んでいた。
特に他意があった訳ではない。
ただ、天下五剣が審神者に強請る酒は美酒が多い為、ご相伴に与ろうとそれぐらいの気持ちであった。
盃に注がれた酒はやはり美味だった。
美味しい酒だねえ、僕も主に強請ろうかな。
おおそうしろ、そうしろ。
そんな他愛もない会話を仲間と交わしていた時の事。
ついと羽織の袖が引かれる。
振り返ると、そこには虎を抱えた短刀が居た。
「あ、あの、すみません。膝丸さんが…」
「弟?」
ここで髭切は薄情にも弟の存在を思い出した。
そう言えば、何処にいるのだろう。
粟田口の短刀の視線を追えば、飛び込んだのは壁に背を預けた弟の姿である。
どうやら、酔い潰れている様だ。
おかしいな。
髭切が記憶するに膝丸はそこそこ酒に強かった筈だが…
その理由は弟の近く居る仲間達にあった。
日本号に次郎太刀に石切丸と五虎退。
いずれも大虎、うわばみの刀である。
この面子と飲んでいれば酔い潰れて当然だ。
髭切はやれやれと立ち上がり、五虎退と共に弟の元へと向かった。

「弟に酒を呑ませたのは誰?」

全く迫力の無い怒り顔を作りながら髭切は火鉢を囲む酒飲み共に訊ねた。
「待ちな。俺達のせいじゃないぜ」
日本号が炙ったイカに齧り付きながら言う。
そうそうと同調する様に次郎太刀も頷く。
「どうもあんたが他の刀に取られちまったのが口惜しかったみたいでねえ。潰れるまで呑んじまっただけさ」
「何だ、そうなの。それなら、こっちに来れば良かったのに」
「入れなかったんだろうねえ」
石切丸は苦笑する。
実際、膝丸は愉し気に仲間と談笑する兄を恨めし気に見るだけで自ら寄って行く事はしなかった。
もしかしたら兄においでと言われるのを待っていたかもしれない。
気の毒だねと石切丸は酒を口にしながら胸中で思う。
「ほら、膝丸。あんたの兄者が迎えに来たよ!」
次郎太刀は項垂れている膝丸の肩をばしばしと叩く。
大太刀の容赦ない打撃が効いたのか、膝丸は急にばっと顔を上げた。
「兄者ぁぁっ!」
そう叫ぶと膝丸は髭切に突撃する様に抱きついて来た。
いきなり抱きつかれた髭切はおっとと体をぐらつかせてしまう。
危うく倒れそうになったが壁が背にあったお蔭で何とか堪える事が出来た。
「兄者、兄者…」
ぎゅっと抱きついたまま愚図りだした弟刀に髭切は息を吐く。
これは部屋に回収しないと駄目な様だ。
「ごめん、ちょっと抜けるよ」
一緒に飲んでいた仲間達に一言、声を掛けて、髭切は膝丸を連れ酒宴を後にする。
それにしても酔った体と言うのはどうしてこうも重いのだろう。
肩を貸したはいいが酔い潰れた膝丸は中々思う様に動いてくれず、大変、苦労した。
こんな事になるなら担ぎ上げて運べば良かったと後悔した程だ。
何とか部屋に着くと、髭切はほっと安堵の息を吐く。
幸いな事に布団は用意してある。
酒宴が始まる前にすぐに眠れる様にと膝丸が予め、用意していたのだ。
「ほら、布団に行きなよ」
「ん…しょうち、した…」
髭切に促されてふらふらと布団に向かう。
これでよし。
とんでもなく疲れたからこのまま自分も布団で休みたい気がしたが、まだ、呑み足りない気もする。
それぐらい美味しい酒だったのだ。
盃に残ってた分だけ飲んで戻って来よう。
髭切はそう決めると、部屋を後にしようとした。
障子戸に向かう途中で背中に視線を感じた。
この部屋の中で視線を投げ掛ける者と言えば唯一人、膝丸である。
振り返った髭切は布団の上で胡座を掻いたまま自分をじっと見つめる膝丸に向かい、声を掛けた。
「酔いどれ丸、寝ないの?」
「おれはひざまるだ、あにじゃ」
まるで今剣の様な口調だった。
「…あにじゃは、ねないのか」
「僕は宴に戻るよ」
だから、お前は先におやすみと告げられると膝丸はくしゃり、顔を歪めた。
尤も髭切は宴に置いて来た美酒に意識を向けていたからその表情の変化に気付かなかった。
障子に手を伸ばした刹那、髭切の体は背後から伸びた腕により、引き寄せられる。
何の備えもない体はいとも簡単に体勢を崩し、布団の上へと投げ出されてしまう。
髭切が状況を理解するよりも先に膝丸は髭切に跨り、覆い被さって来た。
「いかないでくれ、あにじゃ」
切なげな声でそう乞われて髭切は目を瞬かせる。
「あのね、すぐ戻って来るよ」
「だめだ、ここにいてくれ」
膝丸は子どもの様にぶんぶんと首を振る。
酔っているせいなのか、何だか言動が幼くまるで子どもと話している様な錯覚を髭切は覚えた。
まさか、弟刀がこんな酔い方をするとは今日まで知らなかった。
そもそも、いつもきちんとしているから酔い潰れる姿を見たのはこれが初めてだった。
が、そんな発見はすぐに彼方へと飛んで行ってしまう。
何故なら、膝丸が急に着流しの帯紐に手を掛けたからだ。
しゅるっ、衣が擦れる音と共に帯紐が引き抜かれ、押さえを無くした着流しがずり落ちる。
ひんやりとした空気が肌に触れて茫然とする髭切を後目に膝丸は手にした帯紐で両手を頭の上で縛り、拘束する。
はっとしたがもう遅い。
余程固く結んだのか、どんなに手を動かしても手首の拘束は解けなかった。
大抵の事では動じない髭切もさすがにこの状況には慌てた。
「ちょっと待って、弟丸。何をする気?」
「おれは、あなたをだく」
「えっ?」
抱く?
弟刀の口から飛び出した言葉に髭切は目を見開いた。
戸惑う髭切に膝丸は顔を歪めた。
泣き出しそうな顔だった。

「どうか、おれをゆるしてくれ」

切なげな声で紡がれた言葉と素肌に触れて来た掌に髭切は二の句を失ってしまったのだ。

この後の髭切の記憶は朧げである。

覚えている事と言えば、何度も奥を穿たれる痛みと、肌に零れた雫の冷たさだけだ。
雫の正体は膝丸の瞳から零れた涙だった。
そう、思うが儘、人の体を嬲っておきながら膝丸は泣いていたのだ。
くるしい、くるしくてしかたないと。
どうかゆるしてほしいと、まるでうわ言の様に何度も何度も呟いていた。
…はあ。
全て思い出したところで髭切は嘆息する。
酔いが醒め、我を取り戻した弟が何を考えたか髭切には手に取るように分かる。
審神者に刀解を申し出るか、本体を折りかねない。
真面目過ぎるのも考えものだ。
第一、散々、人を嬲っておいてそれは無いだろうと文句の一つでも言ってやりたい気分だった。
兄としてどうしてやるのが正解なのだろう。
髭切はちょっとだけ考え込む。

忘れた方があの子の為かもしれない。

出た答えはそれだった。
自分さえ忘れてしまえば、膝丸は罪の意識を感じる必要は無い。
だから、お前も忘れなさいと一言いってやればいい。
うん、そうしよう。
シャワーのコックを閉めながら、髭切はそう決めた。
脱衣場に出ると用意されていたバスタオルで体を拭く。
洗い立ての柔らかなタオルの感触が心地よかった。
着流しに腕を通したところで髭切はある事に気付く。
着流しが自分の物ではなく、膝丸の物だったのだ。
恐らく元々着ていた着流しは袖を通せる様な状態で無かったのだろう。
考えた末に膝丸が自分が着ていた着流しを着せたのだろう。
その事に気付くと、着流しから弟の匂いが薫る様な気がした。
暴かれた時にも香った咽る様な薫り。
…参ったな。
ぽつり、髭切は呟く。
部屋に戻ったら着替えよう。
適当に髪を拭き、浴室から出ると何やら審神者が神妙な面持ちで待ち受けていた。

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