番外編

確かに前日から、いつにない疲労感を感じていたのだけれど、こんなに張り切って熱を出すとは思ってもみなかった。

体温計を眺めて仙道は深いため息を吐いた。
おかげで一日ベットに潜る羽目になりそうだと布団を被る。体調のせいかすぐに意識が沈んだ。


ふと目を覚まして枕元を見ると、時計の針が21時前を指しだところだった。
いつの間に寝ていたのだろうと考えながら、少し熱が引いたような気がして額に手の甲を当ててみた。残念ながらまだ熱っぽい。

全身をねっとりと濡らす汗が気持ち悪くて、ゆっくりと体を起こす。

「シャワー浴びてぇ」

ノロリと立ち上がり、ハンガーに引っ掛けてあったタオルを取った。
腹にも何か少し入れておきたいけれど、それを用意するのが酷く億劫に感じた。

こういう時一人暮らしは不便だと思う。
彼女という存在に依存するのも悪くないのかもしれない。

「…あほらし」

どうも体力的に弱っているとくだらない事を考えてしまうと自嘲するように首を振ると、グラリと頭の中が揺れて視界がぼやけた。

「………っ」

壁に手をついてそれに耐えると不意にチャイムが鳴る。

顔を上て玄関を見遣った。

変に律儀なところのある越野が様子を見に来たのかもしれない。
実は監督に言われているだけなのかもしれないが。

緩慢な動きで玄関に近づき鍵を開ける。扉を押し開けて絶句した。

「………。」

そこにはカケラも予想しなかった女の姿が。
こんな時に限ってどうして、という感が否めない。


「あ、あの、急にごめんね。これ、母さんがどうしても彰クンに持っていけっていうから…」

目を合わせないように終始俯いて斜め後ろを気にするようにしながら早口でしゃべりたてる。
頭の中がボウッとするのは熱のせいなのか彼女の姿を見たからなのか。

ズイと差し出された箱を「あぁどーも」と受け取れば、少し鼻にかかったような仙道の声に異変を感じたのだろう。そこでようやくなま恵は顔を上げた。

「わ」

いつもにも増してトロンと潤んだ仙道の瞳になま恵もただ事ではないと気づく。


「え?なんか…熱があるとか?顔すごい赤いけど大丈夫なの?」

こんな風に自分の顔を正面から見て喋る彼女を仙道は久しぶりに見た。

「薬飲んだ?ご飯は?」

しかも自分の心配をしてくれているのだ。
思わず緩む口元を隠して「いや」と答える。

「嘘!どうして!駄目だよそんなの!」

そう言って彼女は目を剥いた。

「寝てて、あたし買ってくるから。」

「いーよ、そんなの」

「全然よくないから!」と走り出した後ろ姿に声を掛ける気力はもうない。

「…だから、さ」

複雑な面持ちで扉を閉めながら溜息を零した。

「…俺に構うなって。」

扉に背中を預けてひとり呟く。

友達には戻れないと、そう言ったのに。
それからお互いの交流は途絶えてしまったが、それでよかったと仙道は思っていた。

自分の気持ちを知っているくせに。それに応える気などないくせに。だったら放っておいて欲しい。お大事にと一言残して帰ればいい事じゃないか。

けれどそれが出来ない彼女だから、だから好きなのかもしれない。
目の前のことで頭が一杯になると周りが見えなくなる、そんなところが。


「…彼氏は大変だろうな」

ふと神の顔が浮かんだ。

背中に伝う扉の冷たさが身体に心地よい。

まだ彼とは続いているのだろうか。
あれから神の姿を見ることはなかったが。

隙だらけなくせして最後まで踏み込ませない。けれどその気にさせるのだから彼氏からしたら危なっかしくて仕方ないだろう。

自分だったらその首に縄を付けておきたいと思う。

もっとも、神はそんなタイプではなさそうだったけれど。
それは試合会場で見る彼や、以前偶然鉢合わせた時の彼の勝手な印象ではあるが。誰かのことを真剣に追いかけそうなタイプではない。少なくとも仙道はそう感じた。


「さて、と…」

ようやく本来の目的を果たそうと扉から離れた瞬間に再びチャイムが鳴る。

「よう」

開けた扉の向こうには、今度こそ越野が立っていた。





越野を部屋に招き入た仙道はそのままシャワールームに向かった。

汗を流すだけ流してシャワーを止めると、部屋から話し声が聞こえるような気がする。

越野がテレビでもつけたのだろう。気にせず手にしたドライヤーの音によってそれは掻き消えた。

「ワリィ」

ひょいと部屋に足を踏み入れて仙道は動きを止める。

そこには越野と、その向かいにチョンと正座をして縮こまるなま恵の姿が。

仙道に気付いたなま恵が慌てて立ち上がる。

「や、あの、あがりこむつもりはなかったんだけど、荷物だけ届けて帰るつもりだったんだけど、」

この人が…と心底困ったような面持ちで越野を指差す。

「だってお前。出かけてるわけじゃなし、わざわざ買い出しに行ってくれてたのに、そのまま帰すわけにいかないだろ。」

確かに越野が言う事ももっともだ。もしかしたら何か勘違いをしているのかもしれないが。

「じゃ、あたし帰ります。」

逃げるように玄関に向かおうとしたなま恵を呼び止めた。

「いくらだった?」

それ、とポカリやらレトルトのお粥などが覗くビニール袋を顎で指す。
「いい。要らない。あたしが勝手に買って来たんだから。」

そんな事より早く寝なよ、と言うなま恵に「んなワケにいかねーだろ。」と仙道は財布を取り出した。

「借りを作りたくねーんだ。」

渋々といった様子で、それでもなま恵は素直に差し出された紙幣を受け取った。仙道と目を合わせないように視線伏せたまま「お大事に」と小さく呟く。

なんともよそよそしい雰囲気を感じて、越野が仙道となま恵の顔を交互に見遣った。

「あ、俺もう帰るからゆっくりしてけば?」

そそくさと立ち上がる越野に仙道は眉尻を下げる。

「いーんだよ。」

「けどお前…せっかく…」

「他人の彼女をそんなに長く引き止めとくわけにいかねーだろ。」

「え?」

越野は再び交互に二人を見遣る。その視線はなま恵を捉えて止まった。

「なんだ、俺てっきり…」

「そーゆーコト。」

「へー」と今度は興味津々で自分を眺める越野の視線に、なま恵はバツが悪そうに視線を泳がした。

「彼氏いるんだ?」

なま恵は視線を伏せたまま目を数回瞬かせて小さく頷く。

例えば嘘を吐いたりだとか後ろめたいことがある時、彼女は瞬きの回数が増える。本人は気づいていないのだろうけれど。
仙道がそれを見逃すはずがなかった。

「お前…」

仙道の声に反応して顔を上げたなま恵と目が合う。

神と上手くいってるのか?

そう言いかけて飲み込んだ。
聞いたところでどうなるわけでもない。今更どうするつもりもない。
期待したら、いつまでも女々しい自分に嫌気が差すだけだ。

「風邪には気をつけろよ。」

何を言われるのだろうと身構えていた顔から緊張感が消え、代わりに彼女は嬉しそうな笑顔を見せた。

「彰クンも風邪早く治してね。」

そう言い残して部屋を出て行く。
その笑顔は反則だろ?
越野がいなければそう口に出していたに違いない。

「誰、あの子。うちの学校にあんな子いたか?」

そこのレトルト温めてよ、と言って再びベットに潜り込んだ仙道に越野が聞いた。

「んー…。」

掛け布団に顔をうずめるようにして仙道が唸る。

「…神のカノジョ」

は!?と目を見開いて越野が振り返った。

「神って…」

「海南の。あの子も海南。」

すると今度は越野の眉間に皺が寄る。

「何で神の彼女と知り合いなんだよ。お前そんなにアイツと親しかったか?」

全然、と発した声はくぐもって聞こえた。神とはお互い連絡先すら知らない。
試合会場で会えば多少なりとも意識するだろうが、それは神奈川でバスケをする高校生なら皆同じだろう。お互い神奈川では注目されているプレイヤーなのだから。

「話すと長くなるんだよ。」

「…お前の交友関係ってわかんないな。」

感心したような越野が乱暴に電子レンジの扉を閉めた。

「へー。神って彼女いんのかー。」

唸りながら廻る庫内を見て呟く。

「もしかしてお前さ、神と好みが似てるんじゃね?」

「………。」

熱のせいで更に厚ぼったくなった二重の下から、仙道の瞳が何かいいたげに越野を見る。
「マジな話。結構タイプなんだろ。」

悪意の欠片も覗かせずに越野がベットを振り返った。

大して勘が良いわけでもないくせに、と仙道は思う。変なところで鼻が利くヤツだ、と。

「バレたか。」

仙道はヘラっと笑顔を作った。越野の言ったことが当たっているにせよそうでないにせよ、いつものように軽く受け流せば終わることだから。


「マジで?」

電子音に促されて再び越野が背を向ける。

「まぁ、外れてはないかな。」

そう言った仙道に越野がチラリと視線だけを寄越して、またすぐに電子レンジと向き合った。

「やっぱりな。あの子の前では俺にだって見せたことないような顔してたから、もしかしたらって思ったんだよな。」

どんな顔してたっていうんだよ、と思わず言いかけたのをグッと堪えた。やぶ蛇だ。

「…あのなぁ」

仙道は呆れたように息を吐き、ゆっくり瞬きする。

「俺だっていつも病人面してるわけじゃねーだろ。」

「…別に、好きになるのは勝手だしさ。神とそんなに面識があるわけでもないんだから後ろめたさを感じる必要もないと思うけど。」


.待て、人の話を聞け。
越野が自分の肩を持つようなことを言うのは極めて珍しいけれど。病人だから気を使ってるだけかも知れないけれど。
しかしこの話題については有難迷惑極まりない事に変わりない。

「心配しなくてもそんなんじゃねーよ。」

それは自分自身への確認。

「…なんかさ、」

越野がアチイと言いながら庫内から粥を取り出している。

「俺の中で凄く器用なイメージがあんだけど。仙道って。」

「なに?」

頭がよく回らない。

「不器用っぽいとこ、初めて見たかも」

「…………。」

唖然とした表情で越野を見遣れば彼はニヤリと笑ってその視線に応える。

心なしか頭も痛くなってきたような気がする。熱が上がってきたのかもしれない。そういえば顔も熱い。

「なんかいーな、そういうの。お前らしくなくて。」


いったい越野は何を言っているのだろう。もしかしたら弱っている自分をここぞとばかりにからかっているだけなのかもしれないが、どの道果てしなく迷惑な話だ。
お陰で自分の奥に仕舞っていた何かが胸の鼓動を早くしたように感じた。熱のせいというだけかもしれないけれど。

だけどまだ…

「吹っ切れねーか…」

確かに残っている。
彼女への気持ちが何処か片隅に。

こんな感情をいつまで引きずっているつもりなのだろう。自分にだってわからないけれど。ただ、時が解決してくれると、それを信じているだけ。


「え?なんか言ったか?」

「いーや。お前のせいで熱があがったかもしんねぇって言ったんだよ。」

それはお前がシャワーなんか浴びるからだろ!と越野は憤慨するが、シャワーなんかでこんな気持ちになるものかと思う。

「薬を飲め!ほら。あの子がきちんと買ってきてくれてるぞ。」

ガサガサとビニールを漁る越野の後姿にため息を零す。

まったく迷惑な奴らだよ。
お前も、あの子も。



風邪が蔓延する寒い季節だから、熱が引くにはまだ時間がかかりそうだ。

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title by gleam
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