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「…お邪魔します」
アパートに足を踏み入れた無名子の感想は、これだけ?だった。
お世辞にも広いとは言えない部屋だった。狭い玄関からすぐに見える小さな冷蔵庫、安物の棚に置かれた温め機能しかないレンジ、視線を少し奥にやればハンガーにかかった服がカーテンレールに引っかかっているのが見える。
「座れよ」
台所で何か漁っていた伏黒が、興味深げに部屋を見渡している無名子に声をかけながら、脚が折りたためるようになっているローテーブルの上に缶を2本置いてその前に座った。
座布団は出てきそうにないと察して、無名子もローテーブルの前に腰を下ろす。テーブルに置かれた見たことのない缶をジュースかと思って手に持ってみると、“これはお酒です“という注意書きが目に留まった。
「…確かに」と呟いた後に無名子は嬉々とした表情で視線を上げた。
「悪いことだわ!未成年はお酒を飲んじゃいけないもの!」
その眼差しに尊敬に似た色が混じっているのを見てとった伏黒は、馬鹿らしくなって苦笑する。
「伏黒さん、これ飲んでるんですか?」
「いや、俺じゃねぇ」
「………」
無名子は伏黒の趣味とは到底思えない薄オレンジ色をした水玉模様のカーテンに目をやった。色々勘繰ってしまう。
「え…と、私、此処にお邪魔して大丈夫…?」
「今更?」と、テーブルに片肘をついた伏黒がニコリともせず首を傾ける。
長い前髪の下から覗くゾクリとするような視線。ぞんざいな格好に似つかわしくない整った顔立ちが、それを際立たせている。知らない人について行って犯罪に巻き込まれた学生の話が無名子の頭を過ぎった。それでも、悪いことに足を突っ込むと言うことは、自分を蔑ろにする事なのだと分かっているつもりだ。
視線を捉えたまま大きな手が伸びてきて思わず身体を強張らせると、親指が無名子の下唇をなぞるように触れた。
「………」
無名子は、速くなる胸の鼓動と連動するように、自分の耳が熱を持ち始めている事に気づいた。どういった訳か、彼に近づかれる事も触れられる事も、全く嫌ではないのだから困ってしまう。
「こんなになるまで噛まねぇだろ、フツー」
無骨な指が顎を掴む。ゆっくりと耳に触れそうな距離まで近づいてきた唇が「なぁ、このままヤっていい?」と囁いた。
一瞬の間。意味を解した無名子が「は」とも「わ」ともつかぬ声をあげて身を引こうとすると、グイと腰に手が回る。
仰向けに倒れた身体に覆い被さるように、唇の端を吊り上げながら自分を見下ろす伏黒と視線が重なった。信じられないくらい心臓がドキドキしている。
「男の部屋についてくるってことは、そういう
息が出来なくなるような感覚に言葉を紡ぐことも目を逸らすこともできない。無名子はただ伏黒を見つめた。予想外の展開は、それでも、嫌ではないと思ってしまう。
伏黒は鼻を鳴らすと「冗談だ」と身体を起こして無名子の手を引いた。
「……え?」
「自分を貶められないヤツに悪い事はできねぇよ。勉強になっただろ」
無名子は何が起こったのか整理できていない様子でポカンと伏黒を見ている。
らしくないことをしているのは分かっていた。いくら世間知らずでも、ここまで言えばもうこんなバカな事はしないだろう。悪い事をすると意気込んで思いついた先が公営ギャンブル場の女にそんな度胸があるとは到底思えない。
無名子は次の週末、家を出るための口実に五条悟の名前を出した。その名を出しておけば家人は安心するからだ。
強烈な体験だった。寝ても覚めても忘れられないほどの。
あの時、どうしたらその先を見ることが出来たのだろうと考えるたびに、気づけば傷の目立たなくなった唇を指でなぞっている事に気づく。耳元で囁やかれた低い声色が、息ができなくなるような胸の鼓動が、忘れられない。
記憶を頼りにアパートまで辿り着いた無名子は、祈るような心地で呼び鈴を押した。しかししばらく待ってみても反応はなく、扉が開く気配もない。
帰ってくるまで待っていてもいいのだろうか、と考えたところで、フと彼は独り身なのだろうかという疑念が頭を過った。刹那、突然扉が開いたことに驚いて無名子は小さく声を上げた。顔を上げれば驚いた顔の伏黒と目が合う。彼が出てきた事に少し安堵した。
「何?」
素っ気なくそう問われて思わずたじろいだ。それでも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。一週間考えて出した答えなら、それは衝動ではないと思うのだ。
「会いたかったから、会いに来たんです」
「アンタ、イカれてんだろ」
その言葉がやけにしっくりきた。そうかもしれない。不名の家のことも五条の家の事も、どうでもいい。積み重なった鬱憤を解放してくれる何かを探していた。無名子は、季節外れに汗ばむ手のひらを握りしめる。
「…悪いこと、教えてください」
少しの沈黙の後、伏黒は乱暴に自分の頭を掻きながら「あ〜」と声を漏らした。その戸惑いは拒絶だろうかと不安になる。
「……アナタならイイと思ったから、来たの」
目尻の少し赤くなった瞳で睨むように伏黒を見上げた無名子の背後をアパートの住人が通り過ぎてゆく。せっかく治ったそこがまた傷になりそうなほどキツく唇を噛み締める様子を見た伏黒は舌打ちをして乱暴にその腕を引いた。華奢な身体を玄関に引き込んで抱きしめると、支える者のいなくなった扉の閉まる音がする。突然の事に驚いて強張らせた身体からやがて力が抜けると、無名子の遠慮がちな手が伏黒の服を掴んだ。
「ガキは趣味じゃねぇ。これで勘弁しろよ」
「………」
小さく首を振って伏黒から離れた身体が背伸びをしたかと思うと、柔らかな唇が口元に押しつけられた。久しい衝動。据え膳食わぬは…とはよく言ったものだと思う。
「…面倒くせぇ女」
そう言って、無名子の後ろ頭に手を回してその唇を塞いだ。今更何を取り繕う事があるというのか。どうせもうすぐ引き払う住処。自分も他人も尊ぶ事はしないと決めたはずだ。
無名子にとって初めての熱は痛みを伴っていた。
身を焦がすような、とはこの事を言うのかもしれない。シーツを頭から被って服を身につけながら、身体中に残る触れられた感触が消えなければいいのにと無名子は思った。
「帰るんだろ」
かけられた言葉は帰れの意味だと言う事は無名子にも分かった。後悔はない。それでも。
無名子は頭から被っていたシーツを肩まで落として伏黒に視線をやった。格闘技でもしているのだろうかと思わせる鍛えられた身体から情事の余韻が香ってくるようだ。
「…連絡先、教えて欲しいです」
「必要ねぇよ」
素っ気ない言葉が胸の奥に重く突き刺さる。すると彼は何かを無名子に投げて寄越した。放物線を描きながら飛んできたそれを両手で挟むように掴んだ無名子は、手のひらの中にある鍵を見た途端に不安も何もかも忘れて舞い上がった。
無名子は無我な女だった。我が強いと言われる自分にはちょうどいい相手なのかもしれないとは思う。右と言われれば右を向き、白と言われれば白になる。会えないと言えば連絡さえよこさない。それは一カ月近く前に許嫁の浮気現場を見ても変わらぬようだ。
そう言えば、と、そこで五条は無名子から連絡してきた事などなかった事に気づいた。
「はぁ…」
たまたま予定が入らなかったのか敢えて入れなかったのか自分でもよく分からない週末だった。五条が校庭に設置されているベンチに腰をおろしてぼんやりと空を眺めていると、突然見慣れた女の顔が映り込んだ。
「寝てんの?」
呪術高専の数少ない同期である家入硝子は、無名子とは違ってはっきりと物を言う。何なら悪態も吐く。
「目ぇ開いてんだろ」
「はは、間抜けヅラで何考えてたの?」
「……別に」
久しぶりに、存在感の薄い許嫁を思い出していたとは言えなかった。自分が他の女と会っているのを見ても追いかけてくることも連絡を寄越すこともしないのは、余程無関心なのだろうと思う。そんな女と生涯を共にするのかと思うと全く気分が盛り上がってこない。
「あ、そ。」
私服姿の同期は、出がけにたまたま目に入ったという理由で五条に声をかけてきたようで、五条が何かを悩んでいようがいまいがあまり関心のない様子だった。女とはそういうものなのだろうか、と五条は考える。自分がちょっとのつもりで遊んでみた女はどれも煩くて辟易したが、どちらが特殊なのだろう。
「オマエさ、彼氏が他の女と2人で会ってるの見たらどうする?見なかった事にする?」
「まっさか〜」と彼女は笑った。
「する訳ないじゃん、一応弁明の機会を与えて一発殴って着拒」
「………」
じゃね、と軽く手を上げて去ってゆく家入の後ろ姿を眺めてから、五条はポケットのスマホを取り出した。
ベッドに横たわる背後から膝裏へと差し込まれた腕に大きく足を広げられ、浅くゆっくりとした動きでじわじわと追い詰められる。チュ、とわざとらしいリップ音をたてながら首すじにキスをされただけで鳥肌の立つ心地がした。
「ふ… ん…ッ」
このアパートは壁が薄いと伏黒に聞いてから、無名子は出来るだけ声を出すまいと努めた。それでも、受け入れる事に必死で何も考えられなくなってしまえばそれも叶わない。
声を掻き消す為のテレビの音に無名子のスマホの着信音が重なった。伏黒の与える快楽に没頭していた頭が現実に引き戻されたが、抽送を繰り返す緩やかな腰の動きが止まる事はない。
「あ…、電話…」
「後でいい」
指先で潰すように胸の先端を擦られて思わず声が漏れた。
「や…だ、」
「何が?」
一度切れたスマホが再び鳴り始める。
焦らすような動きで確実にポイントを突きながら、そちらに気を取られる事は許さないと言わんばかりに尖りを摘まれて無名子は身体を震わせた。
「待って…んっ」
濡れそぼった割れ目の蕾に指先を押しつけられたら耐えられない。全身を痺れさせるような快感がゆっくり引く頃には、スマホはすっかり静かになっていた。
「スマホが気になるようだから早く終わらせねぇとな」
伏黒はそう言って無名子をうつ伏せにさせると、彼女の腰を掴んで持ち上げた。
自分が彼女に電話をすることは滅多になかったが、その電話を彼女が取らなかった事は一度もなかった。五条は一向に繋がらない電話に嫌な予感を覚えて、久しぶりに不名の家に足を運んだ。
「ご無沙汰しています」
「あ、ら… 無名子は、一緒ではないの?」
五条の姿を見て家人が驚いたのは、事前の連絡なく来訪したのが理由ではなかったようだ。
「………」
ややあってから、五条はニコリと唇を吊り上げた。
「驚かせようと思って迎えに来たんだけど行き違ったのかな」
それを聞いて無名子の家人は安堵の笑みを浮かべた。
「最近はしょっちゅうアナタと会っているみたいね。毎週末はご迷惑よと伝えているんだけれど、困った子だわ。悟さんは学業も忙しいでしょうから、あの子の為に無理なさらないでね」
作り笑顔でそれに応えながら、自分はとんだ思い違いをしていたのかもしれない、と五条は思った。
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