Secret lover
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南とのキスは何度目になるだろう。
しかし今までのそれとは明らかに違った。
手首から離れた手を追いかけて指を絡める。彼の指もそれに応えた。たったそれだけの事で満たされた気分になる。
角度を変えて何度も重ねられる唇に酔いながらお互いの手をしっかりと繋ぎ合わせた。それは刹那の倒錯なのだろうか。こんなにも胸が高鳴るのに。
唇を離して鼻がぶつかりそうな距離で見つめ合ったのは一瞬で、直ぐに視線を落とした。とても目を合わせていられない。気まぐれなんかでこんな気持ちにはならない。
頬に手が添えられて顔をあげる。そこに南がいる。
再び唇を重ねようとした時だった。南の背後にある壁の貼紙が目に飛び込んで来たのは。
教採試験の暗記用にと貼ったまま剥がしそこなっていたそれを見た途端、罪悪感が一気に溢れ出した。
咄嗟に顔を背けて南を避ける。
今年も試験に落ちたのは、こんな気持ちが自分のどこかにあったからだ、それを神様が見抜いていたからだと、そんな事まで頭を過ぎった。
「やっぱ無理」
「あ?」
南の目を避けるように俯く。
「無理て何やねん」
明らかに気分を害した低い声が聞こえた。
「…ごめん、あたしにはこの壁を破られへん。」
グイと乱暴に肩を掴んだ南から逃れるように両腕を体の前に割り込ませる。
「ほんまごめん」
「…同情か」
思いもしない言葉に驚いて顔を上げると、南の冷たい目に囚われた。
「今のは同情のつもりか」
「そ、そんなつもりや…」
「ほな何やねん」
触れたかった、キスしたかった、それをどうして心の中に仕舞っておけなかったのだろう。
「安い女やな」
その言葉が胸に突き刺さる。立ち上がった南を追うことは愚か、顔を上げることも出来ない。
「人を馬鹿にするのもたいがいにせぇよ。」
同情なんかでこんなことするはずないと、今これを否定すれば二人はどうなるのだろう。そして自分はどうしたいのだろう…否、それは間違っている。
「何も言わんのか」
最低や、と吐き捨てるように言った南。
悪者でいい。
悪いのは全て自分なのだからと、目頭が熱くなるのを堪えて唇を噛んだ。
「IH終わったら言うてたな。確かに。よく分かったわ。」
背中を向けたままそう言った彼がドアノブに手をかける。
思わず立ち上がった。
あの時、あの人が出ていく背中をただ見送った時と同じように、追いかけなかった事を後悔する時が来ると。
けれど動かない。
それは理性と言う名の精一杯の強がり。
ドアを擦り抜けて消えて行く背中に視界が滲む。
にぎりしめた拳を顔に押し付けてその場にしゃがみ込んだ。
この気持ちに気付かなければ傷つくことも傷つけることもなかったに違いない。
涙は己の浅はかさに対しての後悔だった。
別に生徒が夏休みだからと言っても教師までもが休みであるはずがなく、最悪なのは夏期講習があるという事だ。
この大会で結果を出せなかった金平監督の人事は後任を探している状態。熱心な彼はそれでも体育館に足を運んでいるが、手が空けば自分も建前上部活も覗きに行かなくてはならない。
あれから学校で南と話をすることはもちろん目が合うこともなかった。
講習中も、体育館でも、もちろん廊下ですれ違っても。
辛くないはずがない。芽生え始めた恋心を自身で摘み取ったその事より、彼を必要以上に傷つけてしまった事が。
彼が、一度慕った相手に対してはとても一途な子なのだと、解任された前監督の話を聞いて知ったばかりだったはずなのに…。
痛い。
酷く胸が痛む。
自身の傷はやがて時間が解決してくれるだろう。しかし彼を傷つけた事実は一生消えない。
その日も午前中で課外授業を終え、昼休みを挟んで午後からは自身の研究。そして時計が3時になる頃にようやく腰をあげた。
嫌だなぁと思いながら体育館へ続く渡り廊下を歩いていると、体育館前の水道で大量のボトルを作っているバスケ部員に会った。
「あ、センセ、調度良かったわ。手伝ってやー。」
マネージャーのいないバスケ部は、本来マネージャーのするべき仕事を一年が交代でしている。
「しゃーないなぁ」とそれを手伝う手つきは先日の合宿のお陰で少しはマシなものになっていたが、それでも休憩の合図でドリンクを取りに来た部員達に、テキパキとそれを手渡すまでには至らず、手慣れた一年生とは違ってまごついてしまう。
「えーと、これは誰の?」と両手に掴んだドリンクの名前を確認しようと右側のそれを視線の高さまで持ち上げた時、不意に左手に掴んでいたそれがひったくられた。反射的にそちらに顔を向けると、ドリンクを片手に背を向ける南の姿が飛び込んでくる。
意識的に意識されない辛さが胸を突く。けれど彼が悪いわけではない。このリアルな痛みを、これから半年以上も耐えなければならないのだろうか。
「お」
こちらに気付いた岸本が人懐っこい笑みを浮かべながら(見る人が見れば腹の立つ笑みらしい)近づいて来た。
「パピ子ちゃんも毎日ご苦労やなー。もー思い切ってウチのマネージャーになったらどうや?」
なぁ南、と斜め後ろを振り返った岸本にドキリとさせられたが、南の耳にそれは届かなかったようだ。否違う。彼が届かなかったようなフリをしているのだと言う事は自分が一番よく知っていた。
「耳の遠い奴ゃなぁ」と口を尖らせた岸本が、気を取り直して視線を戻す。
「ま、アイツに聞かんでも俺が入部認めたるからエエわ。」
「あぁ残念。生徒やったら入部したんやけどなー。ホンマ残念やわぁ。」
「…欠片も思てへんのやろ。」
自分は上手く笑えているだろうか。
こんな時にでも陽気に振る舞わなければならないのは思いの外苦しいものだった。
ふらりと何気ないそぶりで体育館を出る。勤務時間中だ、帰りたくても帰れない。
「あーあっつ」
こんな日はクーラーの効いた部屋でゴロゴロしたいな、なんて無理に気を紛らわす事を考えながら体育館から数メートル離れて止まり、やっぱり戻ろうかと顔をあげた時だった。
向こうに見える人影がヒラヒラとこちらに手を振っているのに気付く。
何気なく振り返しながら誰だろうと目を凝らせば…。
「体育館覗く前に見つけられて良かったわ。」
大きなスポーツバックを抱えた土屋が嬉しそうに目を細めた。
「え?どしたん?」
「今さっきな、広島から帰って来てん。こないだはごっつー落ち込んではったから、気になって寄ってみた。」
驚きつつも、先日彼の前で泣いてしまった失態を思い出して苦笑いする。
「あ、その節はみっともないところを見せてもーて…。もう全然元気やでー。わざわざありがとう。」
「………。」
すると土屋は涼やかな目でジッと見つめてくる。
「え、なに?」
「今日は何時に終わんの?」
質問の意図がわからないまま馬鹿正直に「7時過ぎるかな」と答えた。
それに対しては彼は「そ。ほなそれ位に、も一回来るわ。」と笑顔で踵を返す。
「え?ちょ、あ?つ、土屋くん!?」
振り返った土屋が自分の口許に人差し指を立てから体育館を指差す。
「岸本に見つかったら面倒やねん。」
慌てて口を押さえて体育館を振り返る。誰も外に出ていない事を確認して再び視線を戻すと、既に土屋の姿は追い掛けるのが面倒なくらい遠ざかっていた。