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人手不足の一時的な補充要員として京都校に派遣されていた名無子が、東京に戻ってきてから五条に会うのはこれが初めてだった。「今日は宜しくお願いします」と、手入れの行き届いた送迎車の前で90度にお辞儀をした彼女に、五条は「おひさ〜」と片手をあげた。
「無事戻って来れて良かったね。やっぱり名無子が居ないと寂しくってさ。
「早速ですが今日の任務について確認です」
一瞬真顔に戻った五条は「相変わらずだねぇ」と苦笑いした。
どこか一線を引いたような彼女の態度は車内でも変わらなかった。後部座席に深く腰掛け、持て余すように長い足を組んだ組んだ五条の雑談に応じる気は更々ないようで、すぐに途切れてしまう会話に五条はため息を吐いた。
「名無子はさぁ、昔っから僕に素っ気ないよね。ご飯誘っても断られてばっかりだしさぁ」
「そのような立場にありませんので」
「…もしかして伊地知から僕の悪口吹き込まれてる?」
「いいえ」
「同期だったもんね」
このままでは伊地知にあらぬ疑いがかかってしまうと思ったのだろう。そこで彼女は少し付け加えた。
「五条さん絡みの愚痴は男女問わず、噂話は主に女性から聞いています」
「………」
五条は顎に手を当てて少し思案するような素振りを見せた。
「女絡みの噂ってこと?どんな噂か知らないけど、まさかそれを全部信じてるわけじゃないよね?」
愚痴の方はスルーか、と名無子は一瞬バッグミラー越しに五条を見てから、再び視線を戻した。
「勿論です」
「ちなみにどんな噂話?」
「お答えできかねます」
「本人に言えるのをチョイスしてよ、気になって呪力調整する手元が狂うかも」
そんなバカな、と内心で思いながら、いつも通りにべもない返事をすることもできたはずだった。調子が狂ってしまったのは、おそらく五条の雑談に少なからず応じてしまったせいなのだろうと分かってはいたが、そこからじわじわと湧き出てきた知りたいという欲求を抑えてしまうのは惜しいような気がして、名無子は口を開いた。
「五条さんには許嫁がいるという噂です」
「あー、なるほど…」
名無子は再びバッグミラーに視線をやって、五条の様子を窺い見た。反論がないという事は、おそらく本当なのだろう。チクリと胸に刺さるような痛みはやがて過去の思い出になってゆくはずだ。
「名無子はどう思う?」
不意に背後から聞こえた声に反射的に返事をする。
「僕に許嫁がいると思う?」
「…さぁ」
「…じゃ、僕に許嫁がいるとして、名無子はそれを聞いた時どう思った?」
「特には」
平静を装って運転に集中する名無子の後ろで、「そっかー」と頭を掻いた五条は、今日何度目かのため息を吐いて閉口した。
ノックと共に「失礼します」と声をかけてから名無子が部屋の扉を開けると、五条が机に突っ伏していた。
「五条さん、先日頼まれた件なんですが…」
胸に抱えた資料の中から茶封筒を取り出してもう一度五条に視線をやったが、彼が身体を起こす気配はない。
「五条、さん?」
恐る恐る近づくと、いつもの目隠しが机の上に無造作に置かれていた。クッション代わりの腕の隙間から僅かに覗く瞳はしっかりと閉じられていて、名無子は困惑した表情を浮かべた。
「あの…」
遠慮がちに指先で肩を突いてみるが、彼が起きる様子はなく、五条の多忙さを見れば仕方がないと名無子は内心でため息を吐いた。寝入ってそんなに経っていないのではないかと考えると、すぐに起こしてしまうのは気の毒な気がする。持ってきた資料を机に置いて帰るわけにもいかず、それを自分の抱えた資料の上に重ね直して、もう一度五条を見た。
目を閉じた五条の睫毛は殊更長く見えて、憎らしいほど美しい。神は何の気まぐれでこんなに完璧な人間を作ってしまったのだろう。彼の嫌なところを指折り数えてみても、この恋を諦める理由にはならなかった。それでも始まった時から、この想いは秘めたままでいようと思っていた。もとより叶うはずがないし、彼の人間離れした美しさも強さも、手を伸ばそうとすることすらおこがましい。だから近づかないし、近づかせない。
五条の髪にそっと手を伸ばし、途中で止める。人知れず消えてゆくこの恋を守るために、触れてはいけない。けれどもう少し、その顔を見つめる事は許して欲しいと思った。その美しい瞳が熱を持って誰かを写し、形の良い唇が愛を囁くのだろう。許嫁の存在が名無子の頭を過ぎる。けれど今、この空間には確かに彼と自分との二人だけで、だから、今だけ、と欲張ってしまった事を名無子は酷く後悔した。
「…好きです」
届くはずのない言葉を小さく呟く。僅かに覗く女性のように白くきめの整った肌に近づけた指先から五条の体温を感じられるような気がして思わず笑みが溢れたその時、突然五条と目が合った。
「は…ッ」
咄嗟に手を引っ込めて距離を取ったが、それが既に遅かった事は明白だった。うっとりと表情を緩め五条を眺めているところを見られてしまったと知った。
酷く同様した様子の名無子の顔が一瞬にして色づく。しかしすぐにいつも通りを装って、抱えた資料の一番上に乗せられていた茶封筒を手に取った。
「依頼のあった資料です。ご確認下さい」
差し出した封筒が傍目にも分かるほど小刻みに震えていて、それに気付きながら止める事が出来ない。ゆっくりと身体を起こした五条の青い目が、探るような視線を名無子に向けた。
「…今、」
「魔が差しました。すみません。二度とこのような事はしません」
「いや、そこじゃなくて…」
「とても綺麗だったから、他意はなくて、だから、でも、本当に申し訳ありません」
いつもより早口で捲し立てる名無子の勢いに五条は面食らったようだった。その隙に資料を机の上に置いて踵を返そうとした名無子の腕を五条が掴む。振り向きざま凄い勢いでそれを振り払った名無子は今にも泣き出しそうな顔をしていて、五条はもしかして自分がとんでもなく悪い事をしているのではないかとさえ思った。
「ちょっと落ち着いて」
そんな五条の言葉は名無子に届かず、彼女はけたたましいヒールの音を立てながら部屋を飛び出していった。勢いよく閉められた反動で半開きになっている引き戸を見ながら五条は不満そうに眉間に皺を寄せた。
音も立てずに終わるはずだった恋が弾けた。一度弾けたそれを元に戻す事など出来るはずがなくて、それが分かっているからこそ胸の中でどす黒く渦巻く後悔から逃げるように名無子は意図的に五条を避けた。そもそも五条を主にサポートしているのは伊地知だったし、五条自身日頃から忙しくしていたので、それは大して難しい事ではなかった。だから、油断した。
待ち構えていた五条から理由をつけて逃げようとしたが「僕の寝顔を盗み見た罰」と言われて仕舞えば逆らえるはずがない。名無子は業務が終わったその日、五条が同僚と時々利用するという居酒屋に連れてこられていた。傍には「飲み物からお伺いします」と言ってドリンクの注文を待つ店員が立っている。
「仕事じゃないんだからさー、もっとリラックスしなよ。何飲む?」
仕事じゃないなら罰ゲームだろうと名無子は内心で呟く。
「烏龍茶、お願いします」
「え?飲めるんだよね?僕の事は気にしなくていいから飲めばいいのに」
「緊張が解れるかもしれないよ?」と、メニューのアルコール欄を指先で突きながら彼は言った。確かに、と、名無子は思う。気まずさ全開の中で五条が自分を食事に誘った理由は分からないが、とにかく居心地が悪くて落ち着かないのは確かだった。それが相手にも伝わるほどなのだから、少しでも緊張を緩める手段があるのなら、それに頼るのも一法だと考え「やっぱり生で」と言い直した。
「お待たせしました」
先程注文を取りにきた店員が飲み物を運んで来た。五条は幾つか料理を頼んで名無子にも好きなものを頼むよう促す。
「いいです、また後で」
「そ、じゃあとりあえずそれで」
店員が去ってしまうと、五条が「お疲れ様」と言ってソフトドリンクが入った自分のグラスを持ち上げたので、名無子も慌てて自分のジョッキを持ち上げそれに倣った。五条のグラスがジョッキにコツンと触れると、彼は少し首を傾けて微笑んだ。仕事では見られない彼の一挙手一投足にドキドキして、緊張は増すばかりだ。名無子は急いでジョッキに口をつけると、息が続く限り一気にビールを流し込んだ。
「良い飲みっぷりだねぇ」
名無子がテーブルに置いたジョッキの中身は既に三分の一程しか残っていなくて、それを眺める五条の感嘆とは裏腹に、名無子自身はアルコールが自身の体を一気に駆け巡る感触に少しの不安を覚えた。空きっ腹に一気飲みは良くなかったかもしれないと反省しながら、それでも緊張のせいなのか酔いが回る気配は全くない。
もう少し、と更に二、三口ビールを口に含んでから、名無子は漸く口を開いた。
「あの、今日のこれの趣旨は何でしょうか?」
五条は不思議そうに首を傾げる。
「僕が名無子とご飯食べたかったからだよ?プライベートって言わなかったっけ?」
どうやら五条に先日のアレを掘り下げる気はないようだ。掘り下げられても嫌だが全く触れられないのもどうかと思う。彼にとっては気に留めるほどの事でもないという事なのだろうか。消えてしまいたいほど後悔し、思い悩んでいる自分とは違って、五条にとっては取るに足らない出来事だったのだとするのなら、それはそれで複雑な気持ちになってしまう。所詮独りよがりの恋だった事を再確認させられただけだ。
「五条さんが上司である事に変わりないので仕事の延長かと」
「じゃあ今日は高専の先輩ってことで」
「何ら変わりません」
「こっちのほうが距離近い感じするじゃん。ちゃんと食べてる?」
「食べてます。近いだなんて畏れ多いです」
「寂しいこと言うねー。二つ年上なだけじゃん」
「そういうんじゃなくて」
「そういうんじゃなくて?」
「凄く特別な…方なので…」
「どう特別なの?」
「だってほら、すごい術師だし」
「それだけ?」
「他になにが?」
五条がクク、と押し殺した笑い声を漏らす。何かおかしなことを言っただろうかと名無子は訝しげに五条を見た。
「いや。いつもより会話が続いてるよね」
名無子は慌てて五条から目を逸らした。
「これ、美味しいです」
「でしょ?」
正直味はあまり分からなかった。今日は何故酔わないのだろうとそれが不思議だったが、もしかしたらアルコールに耐性がついたのかもしれないと都合よく解釈して飲み進めた結果、限界は突然やってきた。
名無子がトイレから戻って来ると、それを待ち構えていた五条は「大丈夫?」と言って顔を覗き込んだ。平静を装って席を立ったつもりだったが、勘のいい五条には隠せなかったようで、あの日を境にポロポロと化けの皮が剥がれていく自分が酷く情けなくて消えてしまいたかった。
「大丈夫です」
「これ飲んで」
名無子は五条に手渡されたお冷を素直に口に含んだ。吐いたら少し気分が良くなった気はするが、またすぐに吐き気が襲ってくるかもしれない状況だった。しかし五条相手に馬鹿正直にそれを言う訳にもいかないし、五条に迷惑をかけたくない。だから「とりあえず出ようか」と言う彼の申し出は名無子にはとてもありがたかった。ここでお開きになれば、心置きなくトイレに篭れる。
それなのに、気づけば五条が一緒にタクシーに乗り込んで来て、名無子の知らない住所を運転手に告げていた。全くついていかない頭では口を挟む事もできず、状況が把握できないままタクシーに揺られて再び吐き気がぶり返しそうな予感を覚えたら、五条に言われるまま部屋に駆け込むしかなかった。
ピッカピカの便器に顔を突っ込んでいた名無子は、吐き気が治まっても便器にしがみついたまま呆然としていた。何が起きているのか、自分がどこで何をしているのか、理解したくない。少なくともここで嘔吐したのは自分が初めてだろうと思う。
床に座り込んで少し顔を上げればシックな色で纏められたトイレはモデルルームのようで、連れてこられた時は見る余裕がなかったが、多分トイレ以外もそうなのだろうと思った。トイレットペーパーで顔を拭き取って吐瀉物と一緒にトイレに流し、再び巻き取ったトイレットペーパーで、今度は全く汚れのない周囲を拭き始めた。よく分からない涙が出てきて、新たに千切ったトイレットペーパーでそれを拭って纏めてトイレに流してしまうと、未だフワフワしている頭を便座に預けた。やってしまった、という言葉しか出てこない。
考える事を放棄してしばらく呆然としていると、ノックと共に「大丈夫?開けていい?」と言う五条の声が聞こえた。
「大丈夫です、すぐに出ます」
元気な様子を装って返事をした後に立ちあがろうとして、名無子は自身の足に力が入らない事に気づいた。「ハァ」と、自分にため息をつき、便座を使って掴まり立ちをしようとしたところで、漸く手洗い器の存在に気づいた。其方に手を伸ばして重心を預けようとすると「開けるよ」という声と共にトイレの扉が開いた。間髪入れずに伸びてきた手が名無子の腕を掴んで体を支える。
「すみません…ちょっと足が…でも大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ。立てないなら早く呼んでよ」
「歩けます」
「強情だな」と、五条は少し呆れた様子で名無子の肩を掴んで自分に引き寄せた。滑らかな服から伝わる温もり。憧れた五条の身体が自分のそれに触れている。それだけで心にも頭にも再びアルコールが駆け巡ったような心地になった。
「あの…」
「歩けるんでしょ。ソファまでね」
五条は肩から手を離す気はないようで、名無子はそれを拒むでもなく大人しく連れられてソファに座った。五条の身体が離れた事を少し残念に思っていると、互いの腕が触れてしまいそうなほど近くに五条が腰を下ろした。
テーブルの上には名無子の為に用意されていたと思われるミネラルウォーターが置いてあって、それに手を伸ばした五条はキャップを外して名無子に渡した。随分と過保護なんだなと思いながらそれに口をつける。冷えたペットボトルが心地よくて、口を濯ぎたいと思ったが、あまりにも行儀が悪いだろうと思い直して少し多めに含み、一度噛むようにしてからゆっくりと飲み込んだ。
その様子を隣で見ていた五条は、目隠しを押し上げてマジマジと顔を見つめた。
「…少し、顔色よくなったかな」
顔に触れた手に促されて顔を上げる。学生の頃に比べてめっきり見る機会がなくなった綺麗な青い瞳はあの頃のままで、叶うはずのない恋だと言い聞かせ飲み込んでしまうまでの葛藤を思い起こさせた。
「眠たいの?子どもみたいだね」
そう言われて、ぼんやりと五条に見惚れていたことに気づいた。確かに身体は怠いし瞼も重くなってきた。多分眠たいのだとは思う。横になりたい。
そんな名無子の手からペットボトルを受け取った五条は、それをテーブルに戻しながら「そんな顔、他の男に見せたらダメだからね」と言った。
「…意味が、分かりません…」
少し前から、考えることすら億劫になってきていた。
「酔ったら素直になるとかいうオプションないの?」
不思議そうに五条を見上げると、彼は悪戯っぽく笑った。その笑みの意味は分からないけれど、それだけで人を魅了してしまうのだから罪造りな人だと思う。
「僕のこと好きなんだよね?気がつかなかったよ。いつから?」
ボンヤリとした名無子の顔が何かを思い出して徐々に強張り、明らかに狼狽えた様子で視線を泳がせた。
「仰る意味が…」
「聞こえちゃったんだよね、あの時」
「…あの時…」
酔っているのか酔っているふりをしているのか自分でも分からないと思いながら、それでも五条が言ったそれが何を指すのかハッキリと理解していた。
「これって僕の勘違い?」
「……多分…はい」
「僕が完全に寝てると思ってたでしょ」
耐えきれなくなった名無子は両手で顔を覆って上半身を折ると、それを自分の膝に押し付けた。消えいるような小さな声が「忘れてください」と懇願する。酔いが醒めなければいい。このまま全て無かった事になればいい。身の程知らずの恋を言葉に乗せてしまった事を後悔するばかりだ。
「嫌だって言ったら?」
「………。ちょっと、眠たいんで。…明日言い訳を考えさせてください」
これは嘘ではない。この状態で話をすれば、良からぬことを口走ってしまいそうだった。「分かんないかな」と呟く五条の指が名無子の髪を梳いた。
「隙のないオマエがせっかく見せた隙を見逃してやるほど優しくないんだよね」
「…五条さんが何を言ってるのか…さっぱり分からない…んで」
「あぁ、そ。じゃあこっちの方が早いかな」
五条は名無子の両肩を掴んで身体を起こさせると、その身体を抱きしめた。これは何だろう。夢ではないだろうか。広くて温かくて心地よい空間に吸い込まれるように名無子は目を閉じる。
「嫌われてるのかと思ってたけど、そうじゃないなら僕にチャンスをくれてもいいんじゃない?自分で言うのもなんだけど、スペシャル優良物件だよ?」
「…………」
「…もしかして、寝ようとしてる?」
やけに大人しく腕の中に収まっている名無子に、五条は嫌な予感を覚えた。そっと肩を掴んで身体を離してみると、慌てて開いた名無子の目はすぐにトロンとし始めて、睡魔と戦っているのは一目瞭然だった。
「まだ話終わってないよ」
「……ん…」
反応の薄い名無子の鼻を五条が摘むと、彼女はフゴっと変な声を出して目を開けた。
「……?」
名無子は鬱陶しそうに五条の手を払って再びその胸に頭を預けた。酷く安心できる場所だった。微かに聞こえる心音と五条の低い声が心地よくて夢を見ているようだと思うくらい、頭は働いていない。五条は少し困ったように笑った。
「マジか。今夜中に勝負かけたかったんだけど…」
彼女が正気に戻ってしまえば取り付く島がなくなるのは想像に難くないと逸る気持ちの一方で、合意が取れそうにない以上、既成事実を作る事も難しい。もう少しでその流れに持ち込める自信はあったのにと、五条は思案顔で暫く名無子の髪を撫で付けていたが、やがて彼女の顔かかる髪を耳にひっかけてやると耳元で名前を呼んだ。
ハッと名無子が目覚めると知らない場所だった。注意深く周囲を見渡して記憶を辿る。
「うそ」
シーツを捲り、自分が昨日と同じ服を着ている事と隣に人が寝た形跡もない事を確認し、安堵と少し残念な気持ちが入り混じった複雑な感情を抱いた。
しかし現実に立ち返って時計を確認すれば直ぐに頭の中を切り替えざるを得ない。仕事に穴を開けるわけにはいかないので急いでベッドから降りると、気配に気づいたのか名無子の手が扉に触れるより先にそれが開いた。
「起きた?」
「ご、五条さん、私、何からお詫びすれば良いのか…」
五条の顔を見る事ができずその場で深々と頭を下げると、二日酔いはなさそうだと思ったのに頭の奥がズキンと痛んだ。
「謝ることなんてないよ。アルコール強くないの知っててワザと飲ませたのは僕だし」
「こんな失態……?」
五条の言葉に変な引っ掛かりを覚えて首を傾げる。
「女の子は少し隙があるほうがカワイイじゃん。他の男の前でベロベロになるのはやめて欲しいけど」
「………はぁ」
「で、昨日の事はどこまで覚えてるの?全部覚えててくれると助かるんだけど」
「あ…えと、粗相をして、気づいたら朝でした」
「何を話したか覚えてる?」
「いや…眠たくて殆ど…覚えて、ない、…というか…」
「そ。結構重要な話をしたんだけどな」
「…仕事関係の話ですか?」
「…………」
五条は無表情で名無子をしばし見つめた後に突然頬を緩め「まさか!」と言った。
「熱烈な愛の告白を受けたよ」
今度は名無子が「まさか!」と言う番だった。
「有り得ません、そんな事!」
「覚えてないのにどうして言い切れるの?」
「え、だって…」
そんな事は絶対に言わないと言い切れたのは少し前までの話だと名無子は思い出した。シラフで口走ったから昨日の失態があるのだと気づいたら、自分自身が信用できなくなる。
「どうしてもあり得ないって言うなら、言質取ってあるけど聞く?」
「なんでそんなものを…」
「名無子の本音なんて激レアだからね」
五条がポケットから取り出したスマホを顔の横まで持ち上げてニコリと唇の端を吊り上げると、狼狽した様子の名無子が「あの、ちょっと…」と言葉を濁し、やがて「あっ」と声をあげた。
「仕事遅れちゃう!すみません五条さん、お詫びは後日改めて」
「何してくれるのかな、期待しちゃう」
「反省文書いてきます!」
「………」
失礼します、と五条の横をすり抜けたところで部屋の作りが分からず足を止めると「玄関はあっち」と五条が指さした。
「もうすぐ伊地知が迎えにくるから一緒に乗ってけば?」
「絶対ないです!」
パンプスに足を突っ込んで、五条の顔を見ようともせず扉に手をかけようとした名無子の肩を五条の長い手が引き寄せた。次の瞬間柔らかな唇が頬に触れて、名無子が驚愕に目を見開き五条を見上げると「あ、やっと顔を見たね」と彼は笑った。名無子は熱を帯びた頬を手で押さえる。
「せ、セクハラです」
「恋人にキスしてセクハラになるの?」
名無子の身体が大袈裟に揺れた。
「どどどう言う話になったのか分かりませんが、一旦、白紙に戻して下さい」
「戻さないよ。知ってる?酔ってる時って普段隠している本音が出やすいんだって」
「録音したの聞く?」と五条が首を傾けると名無子は数秒間をおいてから力なく首を振った。そして「仕事、間に合わない…んで」と身体を預けるように扉を押し開けた。
朝、車に乗り込んできた時から五条がやけに上機嫌である事に伊地知は気づいていた。彼を上機嫌にさせている理由にもよるが、不機嫌でいられるよりも良いことは確かだと自身に言い聞かせていると、「いやー、ハッタリってかましてみるもんだね」と、明らかに浮かれた声色が後部座席から聞こえた。今度は何をやらかしたのだろうと伊地知は背筋を震わせる。
「伊地知の情報にはいつも助けられてるよ」
「は、え?はい…?」
最近リサーチを頼まれた記憶のない伊地知は、よからぬ事に巻き込まないでくれと祈りながらハンドルを握る手に力を込めた。
20260223
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