Chocolate Lily
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
五条が事務室に見せなくなると、同じ高専内に居ても驚くほど接点がなくなって、五条はそんじょそこらの高専関係者がおいそれと関われる人ではないのだと嫌でも思い知らされることになった。
あれから五条から連絡はないし、もちろんナビス子から連絡することもない。
例えばこれが縛りではなかったら、普通の恋人同士だったのなら、こうやって些細な事が積み重なって関係は解消されてしまうのかもしれない。
しかし解消できない関係だから厄介なのだ。
____それならば
結婚したら存分に好き勝手をさせてもらおう。幸い五条は実入がいいようだから、自分は海外で生活するというのはどうだろう。きっと最低限の義務を果たせば許されるはずだ。
そんな事を考えながらナビス子が窓の外を見遣ったその時、事務室の扉を叩く音がしてそちらに顔を向けた。
「はい」
開いた扉の向こうには、細身の身体に補助監督のスーツを纏った男が立っていて、申し訳なさそうに「五条さんに、お願いしたい事があるのですが」と言った。
「はい、何でしょう」
ナビス子が勤めて笑顔を作ったのは、それが五条にこき使われている気の毒な人だと知っていたからだ。彼…伊地知は、彼女の中で顔と名前が早々に一致した高専関係者だった。
「実は補助監督の仕事を代行していただけないかと」
人間とは、突拍子もない事を言われると思考が止まってしまうようだ。ナビス子は何を言われたのか俄かには理解できなかった。
「え…と、それは私に、ですか?」
「はい」と伊地知が眼鏡のブリッジを人差し指で軽く押し上げる。
「当初私が同行する予定だったんですが、急遽あちらの五条さんに同行しなければならなくなりまして。もともと人手が足りていない状況なので代わりの補助監督の確保ができず困っていたところ、あちらの五条さんがこちらの五条さんに…」
「ナビス子でいいです。ややこしいんで」
「ナビス子さんにやってもらえ、と」
そこまで言って視線を落とした伊地知が、補助監督マニュアルと書かれた冊子をそっと差し出す。
ジワジワと広がってゆく怒りを落ち着かせようと、ナビス子は頭の中で一呼吸置いてからゆっくりと口を開いた。
「それって、ただ術師に同行すればいいってわけじゃないですよね?」
「もちろん術師の方への任務説明や事後処理等は私がやっておきます。今回は信頼できる一級呪術師の方なので、緊急連絡が必要になる事はないかと。五条…ナビス子さんにやってもらうことといえば、車の運転と簡易的な結界を張ることくらいでしょうか」
「車とか結界とか無理ですし」
すると伊地知は驚いたような顔でナビス子を見た。
「しかし五条さんは、アナタは車の免許を持ってるし一通りの呪術も使えると…」
「ふっっざけんな!ハゲェー!!」
叫びながら机を力任せに叩いて勢いよく立ち上がった。
部屋に響き渡った大きな音ですぐ我にかえると、肩を窄めて細い体を更に細くしている伊地知と目があう。
「あ、いや、…」
きっと彼も五条に散々振り回されているに違いないのだから、彼に文句を言うのは違う気がする。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
そう言って机に置いてあったスマホを乱暴に掴んで履歴から探し出した五条の文字をタップする。こちらから電話をするのは癪だったが背に腹はかえられない。
しかしそれは、数コールした後に留守電に繋がった。
「………」
画面を睨みつけながら通話を切ったナビス子が怒りに肩を震わせていると、スマホがピロンと音を立ててメッセージの到着を知らせる。
〈伊地知を困らせないように〉
「………」
途端に得も言われぬ脱力感を覚えた。背後にある自分の椅子を引き寄せて腰を下ろすと、ゴツンと事務机に額を押し付ける。
「あ、あの…」
「…本当に今回これっきり、だと五条さんに念押しして下さい…」
ナビス子から少しくぐもった低いトーンの声が聞こえて、あの怒りようから一蹴されるとばかり思っていた伊地知は驚き目を見開く。
そして彼は、あの子は伊地知のお願いを断らないと思うよ、と言った五条の言葉を思い出した。
ナビス子が事前にマニュアルに目を通したところ、伊地知が言うように、もっとも面倒な事は彼がやってくれるので、彼女の最大の課題は車の運転だった。
ガッチガチに力の入った腕で前のめりにハンドルを握り、ナビを手掛かりに呪術師の待つ場所へ向かう。
彼女は地元に帰った時だけしか車の運転をしない、ほぼペーパードライバーだった。
渡された資料には、伊地知が気を利かせたのだろう、今回担当する呪術師の写真が添付されていて、それを見て初めて今回担当する七海という呪術師が、あの時の自販機の紳士だと知った。
ただでさえ緊張する車の運転なのに、よりによって乗せるのが彼だとは。彼に対してやましい気持ちがあるわけではないし、彼に何ら非があるわけではないが、なんとなく気まずい。
そんな事を考えながら待ち合わせ場所の道路脇に車を停車させ、少しまごつきながらハザードランプをつけた。
貸与された補助監督用のスーツは、同行する術師への所謂目印で、覚えのある車とスーツを見つけた男…七海は、迷わず車に近づいてきて後部座席の扉を開けた。
ちょうど四苦八苦しながら使い慣れないナビで次の目的地を設定していたナビス子は、バックミラーで背後に乗り込んで来た男を確認すると、すかさず其方に顔を向けた。
「今日はよろしくお願いします」
七海は視線をあげて、何かに気づいたように「あぁ」と声を洩らす。
「アナタでしたか」
どうやら覚えられていたらしい、と呑気な事を考える余裕があったのはその時だけで、「では出発します」と言って車をゆっくり発進させた後は、それを流れに割り込ませるのに必死だった。
車に人を乗せて運転する補助監督をさせられるくらいなら、車の運転をする必要がない呪術師の仕事の方がマシかもしれないと、一瞬頭に過ったそれを慌てて振り払う。
これでは何もかも五条の思う壺だという気がしたのだ。
ナビス子は10時10分の位置で握ったハンドルをゆっくりと切った。
「さすが…一級呪術師」
まるで地面から夜が明けるように帳が上がる。
伊地知の言う通り特に問題もなく任務は完了しそうだと、ナビス子は安堵の息を漏らした。
帳の中から姿を現した七海はカッターシャツの袖を膝の辺りまで捲り上げていて、その剥き出しになった前腕の筋肉がナビス子の目にはやたらと魅力的に映った。
これが男の色気か、と、思わず見惚れてしまいそうになった自身を嗜め「お疲れ様でした」と労いの言葉をかける。
「この分は私からの報告を伊地知さんが上にあげてくれる事になってるんですが、不手際があったら伊地知さんから七海さんに直接連絡が行くと思うので、すみません、その時は宜しくお願いします」
そう言ってナビス子は、自分の前で足を止めた七海に向かって頭を下げた。
「分かりました」
落ち着いた声色に促されて顔をあげると、此方を見下ろす彼と目が合ってドキリとする。
五条のそれとは違うが、彼の瞳もまた日本人離れした美しい色をしていた。
「補助監督だったんですね、てっきり…」
七海はニコリともせずそう言った。
あまり愛想のいいタイプではなさそうだが、それでも無愛想とは違う、とナビス子は思う。
「いえ、今日はどうしても人が足りないからって頼み込まれただけで、補助監督ではなく事務員です」
「…そうでしたか。五条さんの遠縁だとか」
目立ちたくなかったのに随分と有名人になってしまったようだ、と、ナビス子は思う。五条悟の遠縁という設定が間違いだったのではないだろうか。否、高専に来た事そのものが間違いだったに違いない。
「はぁ、色々こき使われています」
「業務外の仕事をさせてしまったのは申し訳ない」
「いえ、それは…」
「私が車を出しても構わないと伝えたはずなんですが」
思わず七海の顔を凝視する。
普通に考えて彼のそれが冗談などであるはずもなくて、忘れかけていた苛立ちが再び沸々と湧き上がってくるのを感じた。
「何か?」
そんなナビス子に気づいた七海が訝しげな表情を浮かべる。
「…いえ、」
「…そうですか」
彼はナビス子から視線を外して自分の腕時計を確認した。
「今から帰れば、定時には上がれそうですね」