歩いて帰ろう
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
終始神くんの後ろをついてまわっているだけのあたしだったが、神くんが体育館の倉庫に鍵をかけたのを見届けて催促するように手をのばした。
「ありがと。鍵はあたしが返しておくから」
すると鍵を握り直した神くんがあたしに向き直る。
「いいよ、届けるだけだし俺がやっとく」
「だけど…」
「早く帰ってテスト勉強しなくて大丈夫?」
ウグッと言葉に詰まった。
大見栄きったところで部活三昧のあたしが数ヶ月前の成績から飛躍する要素なんてひとつもないし、残念ながら目の前の人はその見栄が通用する相手でもない。
「じ、神くんこそ、テスト勉強…こんな事してる時間、無駄で勿体ないじゃない、だから」
無駄、ね、と呟いた神くんの声はあたしの耳まではっきりと届く事はなく「え?」と聞き直したあたしに彼は鍵を差し出す。
「じゃあお願いするよ」
「…うん」
差し出した掌に鍵が落とされた。
その無機質な塊が温かいような気がするのは、神くんの体温を感じたいと思うあたしの妄想かもしれない。
あたしがそれを掌に納めると、神くんがスポーツバックを肩にかけ直すのが視界の隅に映り、あたしは何とはなしに彼を見上げた
誰もいない体育館に二人きりだという現実が確かにあるのに、もどかしい気持ちを抱えているのはあたしだけなのだろうか。
「お先に」
あたしの視線に気付いた神くんはそう言った。
神くんのそれは当然の台詞で、神くんの口から違う何かが聞きたいと思っていたあたしが間違っているのだけれど、じゃあどうして親切にしてくれるの?なんて思ってしまうのは彼の行動を自分に都合のいいように捉えたいから。
「あ、うん」
あたしの前を通り過ぎた神くんを視線で追う。
誰にでも優しいわけじゃないって、言ってたじゃない。
「神くん」
足を止めた彼があたしを振り返り「なに?」と聞いた。
その何気ない一言が、その表情が、膨らんでいたあたしの気持ちを急速に圧迫して胸の奥へと押し込んでしまう。
聞きたいことなら沢山ある。
だけど、目の前の神くんにはそれを言わせない何かがあった。
「バイバイ」
離れたのはあたし。
それなのに、彼があたしから離れてしまったと感じさせられるのがこんなに辛いなんて。
込み上げてくるものを抑えつけて殊更明るい表情を作って、そして足を止めている神くんに手を振りながら小走りにその隣を通り抜けた。
鍵を職員室に返して、あたしは走りながら校舎を後にした。
走っていると余計な事を考えなくていいと、もうすっかり暗い学校の敷地を走り抜ける。
自分の足音と息遣いを感じながらずり下がってきた鞄を肩にかけ直し、校門に向かって道なりに曲がろうとした時。
テスト前のこんな時間に残っている人なんてもう殆ど居なかったから、大して注意を払わなかったのがイケナイ。
勢いも緩めずかなり内側に沿って曲がったあたしの耳に自転車のブレーキと滑るような靴の音が響いた。
ヤバイと驚いて急激に足を止めると、爪先に必要以上の重力を感じて顔をしかめる。
恐る恐る相手の様子を伺えば、少し眉間にシワを寄せた神くんが「…危ないなぁ」と呟いた。
あたしは二度びっくりして、飛び出さんばかりに見開いた目で神くんを凝視してしまった。
「…何?」
神くんは怪訝そうにあたしを見て短い前髪を整えるような仕種をする。
「…いや」
びっくりした、と付け加えると「俺はもっとびっくりしたよ」と彼は視線を逸らした。
「そんな事してるとまた怪我するよ。」
再び自転車を押して歩き始めた神くんをやっぱり目で追うことしか出来なくて、でもさ、こんなに偶然が重なるのは神様があたしの背中を後押ししてくれてるのかもしれない、なんてこんな時だけカミサマの存在を信じてみたくなる。
神くんの後を追い、思いきって隣に並んだ。
チラリとあたしに視線を寄越した神くんを見ずに「校門まで」と言うと彼は承諾するでも拒否するでもなく、ただ少し歩く速度を緩めたような気がした。
校門までの距離なんてたいしたものじゃない。神くんと肩を並べて昔の感覚を取り戻す間もなくたどり着いてしまう。
あぁ残念。
だけどこれ以上一緒に居る理由なんてないから「じゃあねと」と小さく手を振った。
ここで別れるはずだったのに、神くんはあたしと同じように駅に続く道へと足を進める。
驚いて足を止めると神くんも足を止めてあたしを振り返った。
「駅前の本屋に用事があるんだ」
あたしの疑問を察したかのように神くんが言った。
むず痒くなった胸を隠して急いで隣に並ぶ。
「そうなんだ?」
だけどこの際理由なんて何だっていい。
自転車に乗らずにあたしに歩調を合わせてくれている、それだけであたしは錯覚してしまいそうになる。
都合のいいように期待してしまう。
上機嫌になったあたしは、時折隣の神くんの表情を盗み見てはドキドキが加速する心臓と気の利いた話題を見つけられないもどかしさに息が詰まりそうになった。
「全国大会に行けるらしいね」
不意に神くんが振ってきた話題への相槌が遅れたのは他意があったわけではない。恥ずかしながらこの空気に緊張し過ぎていたからだ。
「あ、あぁウン、なんとかギリギリでなんだけどね」
「よかったね。頑張ってたもんな」
穏やかな声でそう言った神くんを横目で見たけれど、彼の表情からは何も読み取れない。
“バレーの事で頭がいっぱいで、もう余裕がない”
それを理由にしたあたしが神くんの前で手放しで喜ぶのは憚られて、小さく相槌をうつに止める。
水が砂に染み込むようにその話題はそれ以上の広がりを見せる事なく、再び沈黙が訪れるかに思われた。
「――信長のこと、フッたんだって?」
身体中の血が逆流すると思った。
「アイツ、ずいぶんヘコんでたみたいだけど」と、神くんはそこでようやくあたしに顔を向ける。
辺りが暗くて良かった。
あたし今、すごい顔してると思う。
「よ、く知ってるね」
視線を逸らしてそう言った声は少し上擦っていたかもしれない。
神くんとキヨタは学年を越えて仲が良いから、神くんがそれを知っていたって不自然ではない。けれど出来れば知られたくなかった。
キヨタの話を神くんはどんな気持ちで聞いたのだろう。
何とも思わなかったっていうのなら、それはそれでショックだ。
「どうして?」
神くんはそう聞いて、言葉に詰まったあたしから視線を外した。
「…仲良かったのにな、と思ったからさ」
そんな風にあたしに聞けるほど、神くんの仲で二人の事は思い出になってしまったのだろうか。
まだ神くんが好きだからなんだよ、と咽の奥にひっかかった言葉を、あたしは飲み込んでしまわなければならないのだろうか。
「やっぱり引退するまでは無理ってこと?」
小さく零したそれは、あたしの部活の事を言っているのだとすぐに察しがついた。
「違うよ」と言いたかったけれど、キヨタのためにそんな事を聞くのであれば答えたくない。この気持ちを逃したくて、神くんに聞こえないように深く息を吐く。
「…まだ半年はあるよなぁ」
耳には靴の音、カラカラと廻る自転車の車輪、そして時折布の擦れる音が、それは淡々と聞こえている。
再びやってきた沈黙を破る方法をあたしは知らない。
「待っている意味はあるのかな」
やがて神くんは溜息混じりの独り言ともつかぬ声を漏らした。
ゆっくりそちらを見遣れば彼もあたしを見て、そして眉尻をさげる。
「俺を理由にしてくれないんだ?」
自転車の短いブレーキの音と共に不意に神くんが足を止めた。少し遅れたあたしは神くんの一歩半先で足を止める。
「…え?」
振り返ったあたしの背後ある駅の、人工的な光に僅かに照らし出された神くんの顔はあたしの目にはっきりと映ると、あたしの視線と神くんのそれが重なった。
「待ってるんだけどね、俺は」
ドクン、と胸の奥が揺れた。
その言葉の意味を巡る間ただ立ち尽くしていたあたしに「じゃあね」と自転車のハンドルをきった神くんの笑顔は少しぎこちなく見えた。あたしは息ができないくらい胸が、喉の奥が、よく分からないもので押しつぶされそうになる。
自転車にまたがった彼がペダルを押し進めようとする、その前に引き止めなくちゃ。
「――神くん!」
振り返った神くんに、あたしは何と言えば?
「また…」
言いかけた言葉を飲み込んで、そして祈る気持ちでもう一度。
「明日も一緒に帰ろうよ」
一瞬目を見開いた神くんがまじまじとあたしを見詰めた。あたしの心臓はもう半ば麻痺していて、代わりに頬骨の辺りの痺れるような感触に下唇を噛む。
目を逸らさずに答えを待つあたしに、やがて彼はあたしの大好きな笑顔をくれたのだ。
ピリオドを打ったはずの想いはお互いに隠れて、しかし確かに息づいていた。
あぁあたしは、また神くんと恋ができるかもしれない。
歩いて帰ろう 完
080409.
.
.
52/52ページ