ルビナス編2
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壁の向こうからは相変わらず、微かな雨音が染み込んできている。
シュアのいない寝室を抜け出して階下へと降りながら、ただ考えるでもなくそれを捉えたゼロスの耳に、けれど雨音以外の音と声が不意に割り込んだ。
「ただいまー」
目線を上げた先で、静かに音を立てて閉じられた両開きの扉が綺麗に合わさる。
そしてその前で見事に雨に降られてしまったのか…水滴を落とすように肩を払うシュアを、見つけた。
そのまま階段を下りていくと、その気配に気づいたシュアもまた顔を上げてゼロスを、見つけた。
「あ、ゼロス。起きた?」
「起きた?って…」
「ん?」
「いーや、なんでも。おかえり」
「ん、ただいま」
今では当たり前のやりとり。
きっと、それをしている誰もが、特別意識することもない言葉。
ただいま
おかえり
けれど、それは自分自身にも少し前まで新鮮であった言葉だ。笑顔と共に、確実に自分という存在に向けられる言葉。そしてかつては…
存在していなかったところに、ふいに芽生えた
家族の、言葉だった。
視線の先には、いつもの小屋が映る。
自分から飛び出して、作り上げた世界。自ら拵えた…一人ぼっちで立っている、小さな小屋。
けれどそれがいつもとは少し違っていることに、気付くでもなく感じた。
村へ食料なんかを仕入れに行けば、帰ってくるころにはとっくに夜が明けてしまう。そんな朝を迎えたばかりのこの小屋に、頼もしく干された二人分の洗濯物。
このささやかな小屋を守る門番のようなシャツは、竿に通されて今は小さく揺れていた。
思えば村を出て、この土地に暮らすようになってから何年が経っただろう。
戦争で亡くした両親の気配の残る家。周囲から掛けられる慰みの言葉。
村に点在するそれらから逃げ出したくて、自分で選んだ一人の生活。
けれど今目の前に広がっている光景も、これから何メートルと進んだところに広がっている光景も、確かに、変わった。
一足す一は、二。ただ、それだけの事なのに。
「ただいまーっと。シュア、ちゃんと洗濯まで…」
軋んだ音を立てる扉を開いて、小屋の中に足を踏み入れた。
途端、森を歩いていた時とはまた違った木の匂いに包まれる。これが生活の匂いってやつなのか、ついさっきまで何かが火に掛けられていたような…食べ物と人の、匂い。
声を掛けた相手は見回した視界の中、テーブルの傍に立っていたかと思うと返事もなくこちらへと歩み寄ってくる。
ちゃんと洗濯まで、やってくれたんだな。
続けようと思った言葉を、思わず止めた。
「…シュア?」
「…お、おかえ、り…」
目の前で俯くシュアから投げられた、その言葉の意味はなんだっただろうか。
いや、知っている。確か、そう少し前に俺が自分でシュアに教えた言葉だ。
外に出かける時は、いってきます。いってらっしゃい。
帰ってきた時には…
ただいま。
おかえり。
「…ただいま!言えるじゃないか、シュア!」
ただ、その言葉を誰かの口からきくのがどれくらいぶりなのかとか。
その言葉がどんな意味を持っているのかとか。
そういったことが、頭の中に次々と湧いてきては忙しなくて、そしてなんだかやたらに興奮して。
後から考えれば、それは“感動”に近かったのかもしれない。
その言葉で合っているのか不安に思っているんだろう俯いたままのシュアの頭を、気付くと俺はぐしゃぐしゃと手のひらでかき回していた。
きっと、俺が帰ってくるまでに何度も何度も練習したんだろう。
そうして早く“おかえり”を使ってみたいと、そわそわしていたシュアの姿が目に浮かぶ。
撫でてやった頭の下で、シュアの表情はこんなにも満足気で嬉しそうだ。
「うん。ルビ、おかえり」
「あぁ。ただいま、シュア」
落ち着かない。目線下の頭の上に手を乗せたまま、それでも妙にそわそわして。
それがなんなのかなんて考えようとも思わなかった。ただそこには何かがあって、それは今、確かに、
目の前でシュアという形を持ってそこに居て。
「…?ルビ?」
「よくできました、のご褒美だ。…洗濯もな」
だから、それだけ分かっていた俺はその形を、シュアを思いっきり抱き締めることにした。
そうしてみればなんてことのない、落ち着かなかったのは頭を撫でるだけじゃ足りない衝動があって、そこにある何かはシュアの形をしているんじゃない、シュアの中にあるんだってことも分かって。
そんな腕の中のシュアの身体は華奢で、それでいてどこか活力に満ちていて。
確かなぬくもりが、自分の腕に、胸にじわじわと伝わってくる。
食料と、人と、木の匂い。
そして洗髪石鹸の香りのするシュアの頭の後ろ側に、固まって乾いた洗濯用の洗剤がひと塊、ついているのを見つけた。
「ルビ」
「んー?」
「ルビはどうして、ルビなの?」
「…今日はまたずいぶんと壮大なテーマな」
一日一問。それぐらいの割合で投げかけられる疑問と輝く瞳。
シュアの好奇心はいつのころからか旺盛だったが、答える身としてはこれがなかなかに容易じゃない。
ただ、だからこそ答えを考えることも、今や俺自身のプライドを懸けた大きな問題になりつつある。
「ルビ、はルビナスの略だろ。カレーライスをカレーって略すのと同じな」
「そっか。じゃあルビはどうしてルビナスなの?」
「そうだな…考えるとキリはねぇけど、なんでもだいたい名前がついてるんだよ。最初に名前を付けた奴がいて、その名前を周りも呼ぶようになる。カレーライスって最初に名前を付けた奴は知らねぇけど、俺の名前を付けたのは俺の母親。お前の名前を付けたのは?」
「母さん」
「だろ。なんでその名前を付けたかは、名前を付けた奴に訊かねぇと分かんねぇけど、俺の名前は花好きの母親が好きな花にちなんで付けたんだと。ルピナスの花って、知ってるか?」
頭を横に振ったシュアが、視線で次の言葉を促す。
「今度見せてやるよ。花の名前から、なんて女っぽいけど、あの花はそうでもねぇんだよな。…そういや、シュアのファミリーネームはなんだ?」
「…ふぁみりー?」
「例えば、俺の場合はルビナス・アルメリア。アルメリアってのが、ファミリーネームだ。家族で持ってる名前だよ」
「…分からない。私は、シュア、だけ」
「…ないってことがあるのか?まぁいいや……なら、」
昼食後、一息ついた後の全く洒落てもいない茶会。
何をするでもないこの時間は、たいていシュアの学習時間になることが多い。
家族の名前。そう言ったはいいものの、今では俺しか使うことのなくなった名前だ。
何を考えたわけでもない。ただ、シュアがファミリーネームを持つとしたなら。
そう思うなり机の端、昼食の間も出しっぱなしになっていたシュアの学習用の紙束を引き寄せると、一緒になっていたペンをとって文字を書きつけた。
今のシュアは、もう基本の文字は読み書きできるようになっていたはずだ。
「シュア、読めるか?」
「…シュア。…ある、めりあ」
「正解。シュア・アルメリア。たった今からお前の名前」
「…私の、名前?」
「そ。ファミリーネームは、家族の名前だ。俺にももう…家族はいないしな。お前と、俺で、アルメリア。家族の名前だ。どうだ?」
「アルメリア…家族…」
数年前のあの日に失ったものの名前。
そしてここでの生活を選んだ俺に…今、再び与えられたものの名前。
「ルビと、一緒?アルメリア」
「そうだな。家族に…なるか、シュア」
「家族………うん」
まだその頭の中では何もはっきりとしていないんだろうに、嬉しそうに笑って、満足気に頷くその家族を眺める。
まるで赤ん坊と変わらないようだったシュアを、育ててきたような気でいて。
それでいてこうして笑うシュアは、俺と変わらない年頃の女で。
どちらも見てきた。
だから、なんとなく感じるこの感情はただの愛情でも、恋心でもない。
友情でもなければ、もう何を当てはめればいいのかもわからない。
それでも、確かに守らなければならないとだけははっきりと思うシュアを、こうしてただ眺めながら。
俺は、次に食料を仕入れに行くのはいつもの村ではなく、遠くの街にしようと心のどこかで、この時はっきりと決めていた。
少しずつ弱くなっている雨音が、シュアの向こう、扉の隙間からはっきりと聞こえる。
利き手でばかりしきりに雨を払っているシュアがそうしている理由をその反対の腕の中に見つけて、ゼロスはそこに抱えられた正体をしばらく見つめた。
「それ…どうしたのよ」
「ん?あ、そうそうこれを買いに行ってたの」
「これ、って…花なら屋敷の中にも外にも咲いて…」
「うん。でもこれを探してたの。これ…今日、命日だから」
その腕に抱えた花束に視線を落として、シュアが小さくほほ笑む。
命日。それが誰のものかなんて、今更確かめるでもない。
ああ言ったものの、花を見ればそれが特別であることも分かっていた。
ルピナスの花。
そうか、だから朝からあんな夢を…あの時間を、見ていたのか。
死後の人間の力だとか、死後の世界だとか、そんなもん特別信じているわけでもないけれど。
「…その花」
「うん、これはね…ルピナスの花。ルビの名前はこの花から来てるんだって」
だから、これを手向けようと思って。
静かにほほ笑んだシュアが、花だけではないその存在を腕に抱えたまま、ゆっくりと俺を通り越して歩き出す。
「ゼロス、朝食まだでしょ?食べたら行こうと思うんだけど…ゼロスも行く?」
そう言って少しだけ振り返ったシュアになんとなく頷いたのも、その誘いに惹かれたのも…きっと全てあの夢のせいに違いない。
でなきゃ自分の前世であろうとなんであろうと、男の墓参りになんて、行く気だって全くなかったんだ。
今回の外出は、どうしてもいつもより長くなってしまった。
村よりずっと離れた大きな街。
戦争の後遺症を残しながらも、少しずつ活気を取り戻しつつある街は今では生活用品を外れたものや、ちょっとした娯楽なんかも楽しめるようになっていた。
数日空けてしまったこの小屋で、シュアは大丈夫だっただろうか。そんな心配をしてはみたものの、目の前にしてみれば何の問題も無かったようだ。
日も落ち、暗闇に包まれた森の中、小屋の中からはいつもの明かりが漏れている。
小屋の外では沸かしたばかりであろう風呂の下で、薪が煌々と燃えつづける。
頼もしくなったもんだ。
口元が緩んでいることを意識しながら、俺は数日ぶりの小屋の扉を開いた。
「やーっと帰ったぜ。ただいま」
「…ルビ!おかえり!なさい!」
小屋の扉を押し開くなり、台所に立っていた数日ぶりのシュアが驚いた表情をすぐに綻ばせる。
鍋の下で燃える火を消すこともなく目の前まで駆け寄ってくると、すっかり覚えてしまった抱擁をせがんで、俺に向かって両腕を広げた。
「ほい、ただいま。なんだ、ちょうど夕飯作ってたのか?」
「うん。うまくできてるか…分からないけど、今日はルビ、帰ってくると思って」
そうか。
抱き締めた身体を離して、今度はその頭の天辺を撫でてやった。
「丸三日とちょっと、空けちまったな。その間ちゃーんとやれたか?」
「うん。掃除もね、洗濯と、あと料理と、お風呂と薪割りと…」
「そうかそうか。なら、そんなシュアにご褒美のプレゼントでもやらなきゃな」
「ぷれ、ぜんと?」
「そ。俺からお前に、贈り物。いーもんやるよ、ってこと」
なお疑問そうに首を傾げるシュアに、無くさないよう奥深くまでしっかりとしまっていたそれをポケットの底から拾い上げる。
自分の体温で温まってしまっている小さなそれを、手のひらの窪みに乗せてシュアの目の前に差し出した。
「シュア。これ、なんだか分かるか?…って言っても普段見るもんじゃねぇから、」
「知ってる。これ、母さんに似てるの、見せてもらったことある」
「…しってる、のか?これがなんなのか」
「なんなのか……。指につけるの。母さんと、父さんがおそろいで、約束のあかし、なんだって」
「…そうだな」
俺の手のひらの上で、明かりを反射して光っているもの。
その内側に、持ち主たちの名前が刻まれた指輪。
約束の、証。
「ルビ、あかし、って?」
「…しるし、だな。約束のしるし」
「約束?約束するの?」
「あぁ」
これを装飾店で買い求めた時、内側に名前を刻んでもらう時。確かに俺は約束を、腹を決めた。
思いがけず与えられたこの家族を、今度こそ失くすことなく守っていくこと。
この先ずっと共にいる存在を、その存在との時間を、はっきりと約束しようということ。
「シュア。俺と、ずっとここに居るか?母親の、父親の元でもなく…ここに居たいか?」
少しだけ考えるようにしたシュアは、その中で両親を、思っているのだろうか。
「……うん。私は、ルビと、いたい」
「そうか…なら、ずっと一緒に居てやる。家族であることを、約束だ」
すでに自分の分を嵌めたその手で、シュアの手を拾い上げる。
真新しい指輪を、シュアのその薬指に嵌めていく。
まだまだ幼いシュアでもあって、そうではない、女としてのシュアに。
今向かい合っている俺は、ただ単純に恋なんかしてる俺だってことが、はっきりと見える。
それに戸惑いながらも、向かいで当のシュアが僅かに難しそうな顔をしてちゃ、なんだか気も抜けてきて。
眉間に寄せられている皺を指で解してやってから、俺はそのままシュアの唇を塞いだ。
何の肩書きもない。自分でもよく分からない。
それでも俺は、この小さな小屋の中で芽生えた家族に、
シュアに、確かに初めてのキスをした。
Next.
シュアのいない寝室を抜け出して階下へと降りながら、ただ考えるでもなくそれを捉えたゼロスの耳に、けれど雨音以外の音と声が不意に割り込んだ。
「ただいまー」
目線を上げた先で、静かに音を立てて閉じられた両開きの扉が綺麗に合わさる。
そしてその前で見事に雨に降られてしまったのか…水滴を落とすように肩を払うシュアを、見つけた。
そのまま階段を下りていくと、その気配に気づいたシュアもまた顔を上げてゼロスを、見つけた。
「あ、ゼロス。起きた?」
「起きた?って…」
「ん?」
「いーや、なんでも。おかえり」
「ん、ただいま」
今では当たり前のやりとり。
きっと、それをしている誰もが、特別意識することもない言葉。
ただいま
おかえり
けれど、それは自分自身にも少し前まで新鮮であった言葉だ。笑顔と共に、確実に自分という存在に向けられる言葉。そしてかつては…
存在していなかったところに、ふいに芽生えた
家族の、言葉だった。
視線の先には、いつもの小屋が映る。
自分から飛び出して、作り上げた世界。自ら拵えた…一人ぼっちで立っている、小さな小屋。
けれどそれがいつもとは少し違っていることに、気付くでもなく感じた。
村へ食料なんかを仕入れに行けば、帰ってくるころにはとっくに夜が明けてしまう。そんな朝を迎えたばかりのこの小屋に、頼もしく干された二人分の洗濯物。
このささやかな小屋を守る門番のようなシャツは、竿に通されて今は小さく揺れていた。
思えば村を出て、この土地に暮らすようになってから何年が経っただろう。
戦争で亡くした両親の気配の残る家。周囲から掛けられる慰みの言葉。
村に点在するそれらから逃げ出したくて、自分で選んだ一人の生活。
けれど今目の前に広がっている光景も、これから何メートルと進んだところに広がっている光景も、確かに、変わった。
一足す一は、二。ただ、それだけの事なのに。
「ただいまーっと。シュア、ちゃんと洗濯まで…」
軋んだ音を立てる扉を開いて、小屋の中に足を踏み入れた。
途端、森を歩いていた時とはまた違った木の匂いに包まれる。これが生活の匂いってやつなのか、ついさっきまで何かが火に掛けられていたような…食べ物と人の、匂い。
声を掛けた相手は見回した視界の中、テーブルの傍に立っていたかと思うと返事もなくこちらへと歩み寄ってくる。
ちゃんと洗濯まで、やってくれたんだな。
続けようと思った言葉を、思わず止めた。
「…シュア?」
「…お、おかえ、り…」
目の前で俯くシュアから投げられた、その言葉の意味はなんだっただろうか。
いや、知っている。確か、そう少し前に俺が自分でシュアに教えた言葉だ。
外に出かける時は、いってきます。いってらっしゃい。
帰ってきた時には…
ただいま。
おかえり。
「…ただいま!言えるじゃないか、シュア!」
ただ、その言葉を誰かの口からきくのがどれくらいぶりなのかとか。
その言葉がどんな意味を持っているのかとか。
そういったことが、頭の中に次々と湧いてきては忙しなくて、そしてなんだかやたらに興奮して。
後から考えれば、それは“感動”に近かったのかもしれない。
その言葉で合っているのか不安に思っているんだろう俯いたままのシュアの頭を、気付くと俺はぐしゃぐしゃと手のひらでかき回していた。
きっと、俺が帰ってくるまでに何度も何度も練習したんだろう。
そうして早く“おかえり”を使ってみたいと、そわそわしていたシュアの姿が目に浮かぶ。
撫でてやった頭の下で、シュアの表情はこんなにも満足気で嬉しそうだ。
「うん。ルビ、おかえり」
「あぁ。ただいま、シュア」
落ち着かない。目線下の頭の上に手を乗せたまま、それでも妙にそわそわして。
それがなんなのかなんて考えようとも思わなかった。ただそこには何かがあって、それは今、確かに、
目の前でシュアという形を持ってそこに居て。
「…?ルビ?」
「よくできました、のご褒美だ。…洗濯もな」
だから、それだけ分かっていた俺はその形を、シュアを思いっきり抱き締めることにした。
そうしてみればなんてことのない、落ち着かなかったのは頭を撫でるだけじゃ足りない衝動があって、そこにある何かはシュアの形をしているんじゃない、シュアの中にあるんだってことも分かって。
そんな腕の中のシュアの身体は華奢で、それでいてどこか活力に満ちていて。
確かなぬくもりが、自分の腕に、胸にじわじわと伝わってくる。
食料と、人と、木の匂い。
そして洗髪石鹸の香りのするシュアの頭の後ろ側に、固まって乾いた洗濯用の洗剤がひと塊、ついているのを見つけた。
「ルビ」
「んー?」
「ルビはどうして、ルビなの?」
「…今日はまたずいぶんと壮大なテーマな」
一日一問。それぐらいの割合で投げかけられる疑問と輝く瞳。
シュアの好奇心はいつのころからか旺盛だったが、答える身としてはこれがなかなかに容易じゃない。
ただ、だからこそ答えを考えることも、今や俺自身のプライドを懸けた大きな問題になりつつある。
「ルビ、はルビナスの略だろ。カレーライスをカレーって略すのと同じな」
「そっか。じゃあルビはどうしてルビナスなの?」
「そうだな…考えるとキリはねぇけど、なんでもだいたい名前がついてるんだよ。最初に名前を付けた奴がいて、その名前を周りも呼ぶようになる。カレーライスって最初に名前を付けた奴は知らねぇけど、俺の名前を付けたのは俺の母親。お前の名前を付けたのは?」
「母さん」
「だろ。なんでその名前を付けたかは、名前を付けた奴に訊かねぇと分かんねぇけど、俺の名前は花好きの母親が好きな花にちなんで付けたんだと。ルピナスの花って、知ってるか?」
頭を横に振ったシュアが、視線で次の言葉を促す。
「今度見せてやるよ。花の名前から、なんて女っぽいけど、あの花はそうでもねぇんだよな。…そういや、シュアのファミリーネームはなんだ?」
「…ふぁみりー?」
「例えば、俺の場合はルビナス・アルメリア。アルメリアってのが、ファミリーネームだ。家族で持ってる名前だよ」
「…分からない。私は、シュア、だけ」
「…ないってことがあるのか?まぁいいや……なら、」
昼食後、一息ついた後の全く洒落てもいない茶会。
何をするでもないこの時間は、たいていシュアの学習時間になることが多い。
家族の名前。そう言ったはいいものの、今では俺しか使うことのなくなった名前だ。
何を考えたわけでもない。ただ、シュアがファミリーネームを持つとしたなら。
そう思うなり机の端、昼食の間も出しっぱなしになっていたシュアの学習用の紙束を引き寄せると、一緒になっていたペンをとって文字を書きつけた。
今のシュアは、もう基本の文字は読み書きできるようになっていたはずだ。
「シュア、読めるか?」
「…シュア。…ある、めりあ」
「正解。シュア・アルメリア。たった今からお前の名前」
「…私の、名前?」
「そ。ファミリーネームは、家族の名前だ。俺にももう…家族はいないしな。お前と、俺で、アルメリア。家族の名前だ。どうだ?」
「アルメリア…家族…」
数年前のあの日に失ったものの名前。
そしてここでの生活を選んだ俺に…今、再び与えられたものの名前。
「ルビと、一緒?アルメリア」
「そうだな。家族に…なるか、シュア」
「家族………うん」
まだその頭の中では何もはっきりとしていないんだろうに、嬉しそうに笑って、満足気に頷くその家族を眺める。
まるで赤ん坊と変わらないようだったシュアを、育ててきたような気でいて。
それでいてこうして笑うシュアは、俺と変わらない年頃の女で。
どちらも見てきた。
だから、なんとなく感じるこの感情はただの愛情でも、恋心でもない。
友情でもなければ、もう何を当てはめればいいのかもわからない。
それでも、確かに守らなければならないとだけははっきりと思うシュアを、こうしてただ眺めながら。
俺は、次に食料を仕入れに行くのはいつもの村ではなく、遠くの街にしようと心のどこかで、この時はっきりと決めていた。
少しずつ弱くなっている雨音が、シュアの向こう、扉の隙間からはっきりと聞こえる。
利き手でばかりしきりに雨を払っているシュアがそうしている理由をその反対の腕の中に見つけて、ゼロスはそこに抱えられた正体をしばらく見つめた。
「それ…どうしたのよ」
「ん?あ、そうそうこれを買いに行ってたの」
「これ、って…花なら屋敷の中にも外にも咲いて…」
「うん。でもこれを探してたの。これ…今日、命日だから」
その腕に抱えた花束に視線を落として、シュアが小さくほほ笑む。
命日。それが誰のものかなんて、今更確かめるでもない。
ああ言ったものの、花を見ればそれが特別であることも分かっていた。
ルピナスの花。
そうか、だから朝からあんな夢を…あの時間を、見ていたのか。
死後の人間の力だとか、死後の世界だとか、そんなもん特別信じているわけでもないけれど。
「…その花」
「うん、これはね…ルピナスの花。ルビの名前はこの花から来てるんだって」
だから、これを手向けようと思って。
静かにほほ笑んだシュアが、花だけではないその存在を腕に抱えたまま、ゆっくりと俺を通り越して歩き出す。
「ゼロス、朝食まだでしょ?食べたら行こうと思うんだけど…ゼロスも行く?」
そう言って少しだけ振り返ったシュアになんとなく頷いたのも、その誘いに惹かれたのも…きっと全てあの夢のせいに違いない。
でなきゃ自分の前世であろうとなんであろうと、男の墓参りになんて、行く気だって全くなかったんだ。
今回の外出は、どうしてもいつもより長くなってしまった。
村よりずっと離れた大きな街。
戦争の後遺症を残しながらも、少しずつ活気を取り戻しつつある街は今では生活用品を外れたものや、ちょっとした娯楽なんかも楽しめるようになっていた。
数日空けてしまったこの小屋で、シュアは大丈夫だっただろうか。そんな心配をしてはみたものの、目の前にしてみれば何の問題も無かったようだ。
日も落ち、暗闇に包まれた森の中、小屋の中からはいつもの明かりが漏れている。
小屋の外では沸かしたばかりであろう風呂の下で、薪が煌々と燃えつづける。
頼もしくなったもんだ。
口元が緩んでいることを意識しながら、俺は数日ぶりの小屋の扉を開いた。
「やーっと帰ったぜ。ただいま」
「…ルビ!おかえり!なさい!」
小屋の扉を押し開くなり、台所に立っていた数日ぶりのシュアが驚いた表情をすぐに綻ばせる。
鍋の下で燃える火を消すこともなく目の前まで駆け寄ってくると、すっかり覚えてしまった抱擁をせがんで、俺に向かって両腕を広げた。
「ほい、ただいま。なんだ、ちょうど夕飯作ってたのか?」
「うん。うまくできてるか…分からないけど、今日はルビ、帰ってくると思って」
そうか。
抱き締めた身体を離して、今度はその頭の天辺を撫でてやった。
「丸三日とちょっと、空けちまったな。その間ちゃーんとやれたか?」
「うん。掃除もね、洗濯と、あと料理と、お風呂と薪割りと…」
「そうかそうか。なら、そんなシュアにご褒美のプレゼントでもやらなきゃな」
「ぷれ、ぜんと?」
「そ。俺からお前に、贈り物。いーもんやるよ、ってこと」
なお疑問そうに首を傾げるシュアに、無くさないよう奥深くまでしっかりとしまっていたそれをポケットの底から拾い上げる。
自分の体温で温まってしまっている小さなそれを、手のひらの窪みに乗せてシュアの目の前に差し出した。
「シュア。これ、なんだか分かるか?…って言っても普段見るもんじゃねぇから、」
「知ってる。これ、母さんに似てるの、見せてもらったことある」
「…しってる、のか?これがなんなのか」
「なんなのか……。指につけるの。母さんと、父さんがおそろいで、約束のあかし、なんだって」
「…そうだな」
俺の手のひらの上で、明かりを反射して光っているもの。
その内側に、持ち主たちの名前が刻まれた指輪。
約束の、証。
「ルビ、あかし、って?」
「…しるし、だな。約束のしるし」
「約束?約束するの?」
「あぁ」
これを装飾店で買い求めた時、内側に名前を刻んでもらう時。確かに俺は約束を、腹を決めた。
思いがけず与えられたこの家族を、今度こそ失くすことなく守っていくこと。
この先ずっと共にいる存在を、その存在との時間を、はっきりと約束しようということ。
「シュア。俺と、ずっとここに居るか?母親の、父親の元でもなく…ここに居たいか?」
少しだけ考えるようにしたシュアは、その中で両親を、思っているのだろうか。
「……うん。私は、ルビと、いたい」
「そうか…なら、ずっと一緒に居てやる。家族であることを、約束だ」
すでに自分の分を嵌めたその手で、シュアの手を拾い上げる。
真新しい指輪を、シュアのその薬指に嵌めていく。
まだまだ幼いシュアでもあって、そうではない、女としてのシュアに。
今向かい合っている俺は、ただ単純に恋なんかしてる俺だってことが、はっきりと見える。
それに戸惑いながらも、向かいで当のシュアが僅かに難しそうな顔をしてちゃ、なんだか気も抜けてきて。
眉間に寄せられている皺を指で解してやってから、俺はそのままシュアの唇を塞いだ。
何の肩書きもない。自分でもよく分からない。
それでも俺は、この小さな小屋の中で芽生えた家族に、
シュアに、確かに初めてのキスをした。
Next.