ルビナス編1
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『笑えよ、シュア――』
ルビナスという、人間だった。
さっきまではっきりとあった夢の意識の中で、俺は確かにルビナスという人間だった。
ゼロスは天井をしばらくの間見つめてから、首を自分の隣、左へと向けた。
へこんだ枕に、少し皺の寄ったシーツ。
シュアは、確かに隣で眠っていたはずのシュアはどこへ行ったのだろう。
どこか落ち着かない自分を持て余しながら、焦るでもなくゼロスは頭の下で手を組んだ。
今もはっきりと、鮮明に浮かび上がらせることが出来るぐらい、それはとてもリアルだった。
ルビナスとして、感情までがはっきりと湧いてきた。
初めてあいつに会ったのは、鬱蒼と木や草の茂る森の中だった…。
「…!っ……!」
低い男の声と、声になっていない女の悲鳴。
訝しく思いながら足を向けた先で、腕を掴まれた少女と、男が2人。
見覚えのない男共は旅人だろうか。少なくとも村の人間ではなさそうだ。
「この状況で逃げられると思ってんのかよ。そうやって抵抗してるとほんとに痛い思いするぜ」
「そうそう。こんな森の中1人で歩いてたことを呪いな」
ちょっと俺たちの相手をすりゃいいんだよ、と零した男にようやく状況を飲み込んで、気付かないうちに眉間に皺を寄せた。
こういう時に見て見ぬふりをしながら何もなかったように立ち去れる性格だったらどんなに楽だろう、と足を踏み出しながら思った。
「…そうそう。こんな森の中でくっだらない真似をしてた自分らを呪いな」
すぐに、誰だ、テメェ!と顔に焦燥を浮かべた男たちが、汗の噴出した顔をこちらに向けてくる。
男の振り向きざま、掴んだ腕ごと振り回された少女が痛みに顔を顰めた。
「…いいこと教えといてやる。こっから30メートルも歩けば村があってな。しかもその村の人間にとっちゃ森は大事な恵みで、母で、そりゃあ森が汚されるのが大嫌いだ。見つかったらお前らどうなるかなー。森の神様への生贄にでもされるかもな」
生贄、の言葉に何かを想像したのか、わずかに顔を強張らせた片方がおい、と相棒の袖を引く。
俺たちの知ったことかよ、と叫ぶ相棒がぐいと少女の腕を引き寄せたのが視界に映って、思わず目を細めた。
「…ちなみに、だ。俺もその村の住人だもんで」
元な、と心の中で付け足す。
「今すぐ村に行って儀式の準備でもさせなきゃならねぇな、と思うわけだ。で、モノは相談なんだが」
何があるわけでもない懐に手を差し込んだ。
「俺も今から村に引き返すのは面倒なもんで、大人しくその子を離して、この森を立ち去っちゃくれないか?ただでさえ戦争に森を焼かれて村の人間は荒立ってるんだ。…ん?」
懐の手はそのままに、一歩ずつ歩み寄っていくと磁石の反発するように男共が後ずさっていく。
視線は俺の顔と何が出てくるやしれない懐とを忙しく往復していた。
「ちっ……い、行くぞ!」
威勢の強い方が声を張り上げて、どこともなく駆け抜けていったのを最後まで情けない表情をしていた男が追いかけていく。
その拍子に強く突き飛ばされた少女は、地面に投げ出された痛みにより一層顔を顰めた。
「…大丈夫か?」
少女の元まで歩み寄るたびに、靴の底で砂利が音を立てる。
そんな音が耳につくくらい、静かな森に彼女もまた、一声も上げることなく沈黙し続けている。
「おい、大丈夫かって…」
ゆっくりと立ち上がった少女が、眉間に皺を寄せたまま俺を見上げた。
その顔が敵意にも、疑心にも、苦痛にも、そして悲しみにも見える表情であることに。それから落とした視線の先の服もまた、土に汚れ、擦り切れ、痛々しい表情を浮かべていることに。俺はそのまま言葉を失って、彼女の顔を見つめ返した。
「……」
最初の悲鳴以来、この少女は一言も言葉を発しようとしない。
顔立ちは、なんとなく不思議な近寄りがたさを感じさせるが、眉間に皺さえ寄せてなければもっと柔らかい顔つきだろう。
それによく見ると、少女というほど幼くはないのかもしれない。俺より1、2歳下か、あるいは同じくらいか。捕まっていた時から今でも感じさせる心許なさが、彼女を幼く見せるのかもしれなかった。
「…ボロボロだな。膝も擦り切れてる。腕も真っ赤だ。とりあえず、ここに居続けたらさっきみたいな奴らがいつ来るとも知れねぇ。ついて来いよ」
そう言ったところでついて来るかどうかは半信半疑だったが、10メートルも歩いたころには後ろから小さく、砂利の鳴く音が聞こえてきた。
「お前、あんなとこでなにやってたんだよ?」
素直に入ってくるとも思えない彼女に、小屋の扉は開け放っておいた。
そうして湯を火に掛けながらカップを準備すると、やがて小さく木の鳴く音が聞こえて振り返りざまに声を掛ける。
ゆっくりと扉をくぐった彼女はそれ以上こちらに歩み寄ることもなく、ただドアの傍に立ち尽くして不思議そうに、またしても眉を顰めながら小さく口を開きかけては閉じている。
「… …?」
「?…なんだ?俺なんか変なこと言ったか?」
「…。…め、なさ…」
今度眉を顰めるのは俺の番だった。
初めて喋る彼女の声は小さくもとてもよく通っていたけれど。…ごめんなさい?ここで初めて喋る言葉が、ごめんなさいとは、…いったいどういうことだ。
俺が怒っているとでも感じているように、思わず歩み寄るとその先で彼女は肩を縮めてきつく目を瞑っている。
どんなふうに育ってきたんだ一体。
彼女の口数の少なさに妙に納得しながら、彼女の目の前で足を止めた俺は出来るだけ慎重に腕を伸ばして、その俯く頭に右手を乗せた。
その時は、口数の少なさは育ち方の問題なのだと、俺の中ではそう勝手に決めつけていた。
「…、…?」
「俺はルビナス。ルビ、でいい。お前の名前は?」
ルビ、と小さく口の中で反芻してから、すぐにパッと顔を上げた彼女がはにかむように声を上げる。
シュア。
まるで子供が大好きなものに反応しているようで、急に生き生きと輝きだしたその目に不意を突かれる。
それでも彼女の口にしたその名前を、俺もまた自然と小さく繰り返していた。
「シュア…」
ああ、いい名前だ。
思うでもなくそう感じた。そして妙に嬉しそうなまま反応を待つ彼女に、そのはにかむ笑顔に、それはとても似合う気がした。
直後にはどこかが急に軽くなって、彼女に返せる最高の反応を、いい名前だと伝えるように笑い返している自分が居た。
「じゃ、シュア。とりあえず、だ。治療から始めるか」
口数の少なさは、いうなれば当然のことだったように思う。
シュアは喋らないんじゃない。喋れない。言葉というものをほとんどわかっていない赤ん坊のように。
「戦争が終わってまだそんなに経ってねーんだ。さっきみたいに、あんまり人気のないとこ一人で歩き回るもんじゃねーぞ?」
治療を終え、俺の服を着せてやり、今は元着ていた服は洗って表に干してある。
淹れてやったお茶の入ったカップを包むその手元、袖口から除く白い腕には、さっき巻いてやったばかりの包帯が覗いて痛々しかった。
テーブルの角を挟んで向かい合うシュアは、そんな俺の言葉に小さく眉根を寄せて首を傾げている。
その頬にも小さく擦り傷が残って、赤く血が滲んでいた。
「ん?どうした?」
「…せん、そう」
「戦争?…戦争が、どうした?」
「せんそう…なに?」
思わず息を詰めて、瞬きを繰り返した。
戦争が分からない?言葉が分からない?いや、戦争ということそのものが分からないのか。
「…ルビ、むずかしい」
ぽそりとシュアが呟いて、どこかで何かが少しだけ、繋がった。
服を着替えさせる時も、治療の間も、何を話しかけても反応が返ってこないのは、“むずかしい”からだったのか。
それにしたって俺と対して歳も変わらなそうな彼女に、俺の言葉がむずかしい、なんてあり得ることなのか?
考えても答えは見つからず、問いかけようと組み立てる言葉はどれをとっても“むずかしく”なっているようで。
まるで小さな子供のようだと、そう思った考えだけが唯一自分の中で一番しっくりとはまった気がした。
「あー…じゃあ、シュア。お前の、家は?どこから来たんだ?」
ふいに、シュアが激しく首を左右し始める。
ぎゅっと目を閉じて、まるでいやいやするように俺の問いかけを全力で拒否している。
“むずかしい”わけでも、分からないわけでもないことは、その反応が素直に伝えてきているようで。
「、…どうした?」
「…っ…」
声を掛ける先で、よりきつく目を瞑るシュアは俺の言葉に壊れそうなほど首を振っている。理解はしているのに、答えたくない、のだろうか。
とりあえずこの拒否をやめさせなきゃ話もできない。そう思った俺に出来ることは、努めて明るい声で、彼女の気に入っているであろうその名前を呼ぶことだけだった。
「わかった、わーかったって。…よし、シュア!」
「…?」
「そろそろ腹の減る頃だろ?飯でも食うか!俺がうまいもん作ってやるよ」
今度は理解しているようで首こそ傾げなかったシュアは、それでもどこか戸惑ったように小さく頷いた。
肌触りの良い、厚みのある布団を押しのける。
ベッドを降りて、辺りをゆっくりと見回した。
シュアの気配は、やはりない。
ふっと消えたように、脱ぎ置いたカーディガンすら見当たらない。
一体どこへ行ったのだろう。またいなくなってしまったのかという不安は、今ではそう湧くこともないけれど。
ルビナスという人間は、確かに俺と同じ髪色を持っていた。
今の自分よりは遥かに短く、いかにも青年らしい髪型で、それでも顔つきにはいわゆる優男をイメージさせるような抜け感がない。
生まれ変わりという点では、似ているところは髪色しか見つからないように感じていた。
窓辺まで歩き、どっかの職人が拵えたんだとかいう重たいカーテンを滑らせる。
するとレールの音が耳にも残るくらい、静かな空間にその音がようやく俺の耳へとさざめき始めた。
目の前のガラスには、無数の水滴が張り付いている。新たな水滴が張り付いては流れ落ち、フォーカスをずらすと町がしとしとと雨に濡れている様子が映る。
雨――。
確かに初めての光景なのに、どこか懐かしいあの時間。
雨が降り始めれば、それが朝であれ夜中であれ、寝ている時ですら忙しく飛び起きて動き回っていた。
そう、シュアは、そんな時間を確かに過ごしていたのだ。
「ルビ、これ…いっぱい」
「ん?あぁそうか、じゃあこっち先に捨ててくるからそしたらそっちと取り換えて、そんでそれも捨てるぞ」
うん…と小さく返事をしながら、シュアは床にしゃがんで水面の揺れる桶を眺めている。
一定の間隔で弾ける音を立てる桶に落ちてくるのは、天井から染み出した雨水だ。
気のせいか、回を重ねるごとにその滴る間隔は短くなっている気がする。
そもそも雨漏りが始まったのはいつからだったか…今じゃあ天井のシミは消えることは無いし、こうして桶を監視して水を捨てて、そうして走り回るのも当然になっていた。
テーブルの上に置かれた、シュアが見つめる桶とは別の桶に手を伸ばす。
金物の桶は置いた時よりはるかに重くなって、確実に腕の筋肉が鍛えられるのが分かった。
小屋の扉を開けて、片足を踏み出す。
切妻の先端から零れる雨が、目の前を垂直に落ちていく。
雫の落ちてこない個所を探して腕を伸ばした。ゆっくりと傾けた桶から雨水が地面に叩き付けられ、泥を撥ね散らかしながら水たまりを作る。
その一滴が俺のズボンの裾を汚して思わず顔を顰めた。
桶をひっくり返し、最後の一滴まで流してから小屋の中に戻った。
扉は開きっぱなしのせいで騒々しい雨音が小屋の中に入り込んで自由にのた打ち回る。
俺が桶を取り上げたせいでテーブルには少しずつ水たまりができ始めていた。
「シュア、せーので入れ替えるぞ」
「うん」
言葉と共に頷いたシュアが桶に手を掛ける。
「せーのっ」
たいして重くもなくなった桶をよいしょ、と声に出しながら床に置く。
カンッ… カンッ…
同時にシュアによって退かされた桶の代わりに、新たに置かれた桶に雨水が当たる。最初の数滴の音は妙に耳について、次第に耳を離れなくなる類の厄介な音だ。
それでもシュアはこの音が好きらしい。しばらくすぐ隣に桶を置いたまま目を閉じて耳を澄ませていた。
「シュア、鑑賞中悪いんだが…そろそろテーブルの方もビショビショになってきてるぞ」
「ん、分かった」
腕に力を込めて桶を持ち上げ、開けっ放しの扉から半身を乗り出したシュアが水を捨てる音が俺の元まで届いてくる。
やがてようやく扉を閉めたシュアを迎えるように、俺は台所から雑巾をひったくって言葉通りビショビショに濡れたテーブルを拭った。
それを待って、シュアが空になった桶をテーブルにそっと置く。
「ごくろーさん」
「ん。ごくろーさん」
その意味を分かるのか、真似たシュアに思わず声を出して笑った俺の顔を、しばらく見つめてその表情に笑みを浮かべる。
そんなシュアを見るのは、段々と珍しいことではなくなってきている…そう思う。
以前のシュアが笑いもしなかったのは、おそらく笑う理由がなかったからだ。
楽しいことも、面白いものも、何も知らなかったからだ。
考えてみればそれらを一つも知らないのであれば、ヒトが笑う必要はどこにもない。
けれどそれを知ったシュアが笑う顔は、なんというか…悪くない、と思う。
俺とは何の関係もない人間のはずなのに、その笑顔に自然とつられる自分にときどき気付く。
そう、なんとなく…帰りたがらずにいるのを置いてやっているだけだ。
それなのに、意識するでもなく今やシュアもこの家の住人であることが普通に思える時がある。今までずっとそうしてきたかのように、朝も、夜も、一日の流れの中にシュアが居る。
今日の夕飯は何がいいか。そんなことすら投げかけている自分が自然と毎日そこに居る。
そしてそんな俺にとってどんな存在でもないはずのシュアが笑うと、俺は間違いなく…楽しんでいる。
「ルビ」
「んー?」
「ごはん、つくるの…また、おしえてほしい」
「ん?料理か?」
「りょうり…うん」
「そーだな。この雨じゃ表の仕事はできねぇし、今からゆっくり作りゃ、飯にちょうどいいか」
今ではスムーズにコミュニケーションが取れるようになってきたせいか、シュアの好奇心は次から次へと現れ始めている。
そしてやはり俺は、それに自然と付き合っている。面倒だとは思わないが、そもそもそれは俺のやることなのか。今ではもう不思議にすら思わない。
ただ、何に対してかも分からないまま。
シュアがこうして俺に言葉を投げることも返すことも、俺はただ良かったと、そう緩む口元と共に感じていた。
Next.
ルビナスという、人間だった。
さっきまではっきりとあった夢の意識の中で、俺は確かにルビナスという人間だった。
ゼロスは天井をしばらくの間見つめてから、首を自分の隣、左へと向けた。
へこんだ枕に、少し皺の寄ったシーツ。
シュアは、確かに隣で眠っていたはずのシュアはどこへ行ったのだろう。
どこか落ち着かない自分を持て余しながら、焦るでもなくゼロスは頭の下で手を組んだ。
今もはっきりと、鮮明に浮かび上がらせることが出来るぐらい、それはとてもリアルだった。
ルビナスとして、感情までがはっきりと湧いてきた。
初めてあいつに会ったのは、鬱蒼と木や草の茂る森の中だった…。
「…!っ……!」
低い男の声と、声になっていない女の悲鳴。
訝しく思いながら足を向けた先で、腕を掴まれた少女と、男が2人。
見覚えのない男共は旅人だろうか。少なくとも村の人間ではなさそうだ。
「この状況で逃げられると思ってんのかよ。そうやって抵抗してるとほんとに痛い思いするぜ」
「そうそう。こんな森の中1人で歩いてたことを呪いな」
ちょっと俺たちの相手をすりゃいいんだよ、と零した男にようやく状況を飲み込んで、気付かないうちに眉間に皺を寄せた。
こういう時に見て見ぬふりをしながら何もなかったように立ち去れる性格だったらどんなに楽だろう、と足を踏み出しながら思った。
「…そうそう。こんな森の中でくっだらない真似をしてた自分らを呪いな」
すぐに、誰だ、テメェ!と顔に焦燥を浮かべた男たちが、汗の噴出した顔をこちらに向けてくる。
男の振り向きざま、掴んだ腕ごと振り回された少女が痛みに顔を顰めた。
「…いいこと教えといてやる。こっから30メートルも歩けば村があってな。しかもその村の人間にとっちゃ森は大事な恵みで、母で、そりゃあ森が汚されるのが大嫌いだ。見つかったらお前らどうなるかなー。森の神様への生贄にでもされるかもな」
生贄、の言葉に何かを想像したのか、わずかに顔を強張らせた片方がおい、と相棒の袖を引く。
俺たちの知ったことかよ、と叫ぶ相棒がぐいと少女の腕を引き寄せたのが視界に映って、思わず目を細めた。
「…ちなみに、だ。俺もその村の住人だもんで」
元な、と心の中で付け足す。
「今すぐ村に行って儀式の準備でもさせなきゃならねぇな、と思うわけだ。で、モノは相談なんだが」
何があるわけでもない懐に手を差し込んだ。
「俺も今から村に引き返すのは面倒なもんで、大人しくその子を離して、この森を立ち去っちゃくれないか?ただでさえ戦争に森を焼かれて村の人間は荒立ってるんだ。…ん?」
懐の手はそのままに、一歩ずつ歩み寄っていくと磁石の反発するように男共が後ずさっていく。
視線は俺の顔と何が出てくるやしれない懐とを忙しく往復していた。
「ちっ……い、行くぞ!」
威勢の強い方が声を張り上げて、どこともなく駆け抜けていったのを最後まで情けない表情をしていた男が追いかけていく。
その拍子に強く突き飛ばされた少女は、地面に投げ出された痛みにより一層顔を顰めた。
「…大丈夫か?」
少女の元まで歩み寄るたびに、靴の底で砂利が音を立てる。
そんな音が耳につくくらい、静かな森に彼女もまた、一声も上げることなく沈黙し続けている。
「おい、大丈夫かって…」
ゆっくりと立ち上がった少女が、眉間に皺を寄せたまま俺を見上げた。
その顔が敵意にも、疑心にも、苦痛にも、そして悲しみにも見える表情であることに。それから落とした視線の先の服もまた、土に汚れ、擦り切れ、痛々しい表情を浮かべていることに。俺はそのまま言葉を失って、彼女の顔を見つめ返した。
「……」
最初の悲鳴以来、この少女は一言も言葉を発しようとしない。
顔立ちは、なんとなく不思議な近寄りがたさを感じさせるが、眉間に皺さえ寄せてなければもっと柔らかい顔つきだろう。
それによく見ると、少女というほど幼くはないのかもしれない。俺より1、2歳下か、あるいは同じくらいか。捕まっていた時から今でも感じさせる心許なさが、彼女を幼く見せるのかもしれなかった。
「…ボロボロだな。膝も擦り切れてる。腕も真っ赤だ。とりあえず、ここに居続けたらさっきみたいな奴らがいつ来るとも知れねぇ。ついて来いよ」
そう言ったところでついて来るかどうかは半信半疑だったが、10メートルも歩いたころには後ろから小さく、砂利の鳴く音が聞こえてきた。
「お前、あんなとこでなにやってたんだよ?」
素直に入ってくるとも思えない彼女に、小屋の扉は開け放っておいた。
そうして湯を火に掛けながらカップを準備すると、やがて小さく木の鳴く音が聞こえて振り返りざまに声を掛ける。
ゆっくりと扉をくぐった彼女はそれ以上こちらに歩み寄ることもなく、ただドアの傍に立ち尽くして不思議そうに、またしても眉を顰めながら小さく口を開きかけては閉じている。
「… …?」
「?…なんだ?俺なんか変なこと言ったか?」
「…。…め、なさ…」
今度眉を顰めるのは俺の番だった。
初めて喋る彼女の声は小さくもとてもよく通っていたけれど。…ごめんなさい?ここで初めて喋る言葉が、ごめんなさいとは、…いったいどういうことだ。
俺が怒っているとでも感じているように、思わず歩み寄るとその先で彼女は肩を縮めてきつく目を瞑っている。
どんなふうに育ってきたんだ一体。
彼女の口数の少なさに妙に納得しながら、彼女の目の前で足を止めた俺は出来るだけ慎重に腕を伸ばして、その俯く頭に右手を乗せた。
その時は、口数の少なさは育ち方の問題なのだと、俺の中ではそう勝手に決めつけていた。
「…、…?」
「俺はルビナス。ルビ、でいい。お前の名前は?」
ルビ、と小さく口の中で反芻してから、すぐにパッと顔を上げた彼女がはにかむように声を上げる。
シュア。
まるで子供が大好きなものに反応しているようで、急に生き生きと輝きだしたその目に不意を突かれる。
それでも彼女の口にしたその名前を、俺もまた自然と小さく繰り返していた。
「シュア…」
ああ、いい名前だ。
思うでもなくそう感じた。そして妙に嬉しそうなまま反応を待つ彼女に、そのはにかむ笑顔に、それはとても似合う気がした。
直後にはどこかが急に軽くなって、彼女に返せる最高の反応を、いい名前だと伝えるように笑い返している自分が居た。
「じゃ、シュア。とりあえず、だ。治療から始めるか」
口数の少なさは、いうなれば当然のことだったように思う。
シュアは喋らないんじゃない。喋れない。言葉というものをほとんどわかっていない赤ん坊のように。
「戦争が終わってまだそんなに経ってねーんだ。さっきみたいに、あんまり人気のないとこ一人で歩き回るもんじゃねーぞ?」
治療を終え、俺の服を着せてやり、今は元着ていた服は洗って表に干してある。
淹れてやったお茶の入ったカップを包むその手元、袖口から除く白い腕には、さっき巻いてやったばかりの包帯が覗いて痛々しかった。
テーブルの角を挟んで向かい合うシュアは、そんな俺の言葉に小さく眉根を寄せて首を傾げている。
その頬にも小さく擦り傷が残って、赤く血が滲んでいた。
「ん?どうした?」
「…せん、そう」
「戦争?…戦争が、どうした?」
「せんそう…なに?」
思わず息を詰めて、瞬きを繰り返した。
戦争が分からない?言葉が分からない?いや、戦争ということそのものが分からないのか。
「…ルビ、むずかしい」
ぽそりとシュアが呟いて、どこかで何かが少しだけ、繋がった。
服を着替えさせる時も、治療の間も、何を話しかけても反応が返ってこないのは、“むずかしい”からだったのか。
それにしたって俺と対して歳も変わらなそうな彼女に、俺の言葉がむずかしい、なんてあり得ることなのか?
考えても答えは見つからず、問いかけようと組み立てる言葉はどれをとっても“むずかしく”なっているようで。
まるで小さな子供のようだと、そう思った考えだけが唯一自分の中で一番しっくりとはまった気がした。
「あー…じゃあ、シュア。お前の、家は?どこから来たんだ?」
ふいに、シュアが激しく首を左右し始める。
ぎゅっと目を閉じて、まるでいやいやするように俺の問いかけを全力で拒否している。
“むずかしい”わけでも、分からないわけでもないことは、その反応が素直に伝えてきているようで。
「、…どうした?」
「…っ…」
声を掛ける先で、よりきつく目を瞑るシュアは俺の言葉に壊れそうなほど首を振っている。理解はしているのに、答えたくない、のだろうか。
とりあえずこの拒否をやめさせなきゃ話もできない。そう思った俺に出来ることは、努めて明るい声で、彼女の気に入っているであろうその名前を呼ぶことだけだった。
「わかった、わーかったって。…よし、シュア!」
「…?」
「そろそろ腹の減る頃だろ?飯でも食うか!俺がうまいもん作ってやるよ」
今度は理解しているようで首こそ傾げなかったシュアは、それでもどこか戸惑ったように小さく頷いた。
肌触りの良い、厚みのある布団を押しのける。
ベッドを降りて、辺りをゆっくりと見回した。
シュアの気配は、やはりない。
ふっと消えたように、脱ぎ置いたカーディガンすら見当たらない。
一体どこへ行ったのだろう。またいなくなってしまったのかという不安は、今ではそう湧くこともないけれど。
ルビナスという人間は、確かに俺と同じ髪色を持っていた。
今の自分よりは遥かに短く、いかにも青年らしい髪型で、それでも顔つきにはいわゆる優男をイメージさせるような抜け感がない。
生まれ変わりという点では、似ているところは髪色しか見つからないように感じていた。
窓辺まで歩き、どっかの職人が拵えたんだとかいう重たいカーテンを滑らせる。
するとレールの音が耳にも残るくらい、静かな空間にその音がようやく俺の耳へとさざめき始めた。
目の前のガラスには、無数の水滴が張り付いている。新たな水滴が張り付いては流れ落ち、フォーカスをずらすと町がしとしとと雨に濡れている様子が映る。
雨――。
確かに初めての光景なのに、どこか懐かしいあの時間。
雨が降り始めれば、それが朝であれ夜中であれ、寝ている時ですら忙しく飛び起きて動き回っていた。
そう、シュアは、そんな時間を確かに過ごしていたのだ。
「ルビ、これ…いっぱい」
「ん?あぁそうか、じゃあこっち先に捨ててくるからそしたらそっちと取り換えて、そんでそれも捨てるぞ」
うん…と小さく返事をしながら、シュアは床にしゃがんで水面の揺れる桶を眺めている。
一定の間隔で弾ける音を立てる桶に落ちてくるのは、天井から染み出した雨水だ。
気のせいか、回を重ねるごとにその滴る間隔は短くなっている気がする。
そもそも雨漏りが始まったのはいつからだったか…今じゃあ天井のシミは消えることは無いし、こうして桶を監視して水を捨てて、そうして走り回るのも当然になっていた。
テーブルの上に置かれた、シュアが見つめる桶とは別の桶に手を伸ばす。
金物の桶は置いた時よりはるかに重くなって、確実に腕の筋肉が鍛えられるのが分かった。
小屋の扉を開けて、片足を踏み出す。
切妻の先端から零れる雨が、目の前を垂直に落ちていく。
雫の落ちてこない個所を探して腕を伸ばした。ゆっくりと傾けた桶から雨水が地面に叩き付けられ、泥を撥ね散らかしながら水たまりを作る。
その一滴が俺のズボンの裾を汚して思わず顔を顰めた。
桶をひっくり返し、最後の一滴まで流してから小屋の中に戻った。
扉は開きっぱなしのせいで騒々しい雨音が小屋の中に入り込んで自由にのた打ち回る。
俺が桶を取り上げたせいでテーブルには少しずつ水たまりができ始めていた。
「シュア、せーので入れ替えるぞ」
「うん」
言葉と共に頷いたシュアが桶に手を掛ける。
「せーのっ」
たいして重くもなくなった桶をよいしょ、と声に出しながら床に置く。
カンッ… カンッ…
同時にシュアによって退かされた桶の代わりに、新たに置かれた桶に雨水が当たる。最初の数滴の音は妙に耳について、次第に耳を離れなくなる類の厄介な音だ。
それでもシュアはこの音が好きらしい。しばらくすぐ隣に桶を置いたまま目を閉じて耳を澄ませていた。
「シュア、鑑賞中悪いんだが…そろそろテーブルの方もビショビショになってきてるぞ」
「ん、分かった」
腕に力を込めて桶を持ち上げ、開けっ放しの扉から半身を乗り出したシュアが水を捨てる音が俺の元まで届いてくる。
やがてようやく扉を閉めたシュアを迎えるように、俺は台所から雑巾をひったくって言葉通りビショビショに濡れたテーブルを拭った。
それを待って、シュアが空になった桶をテーブルにそっと置く。
「ごくろーさん」
「ん。ごくろーさん」
その意味を分かるのか、真似たシュアに思わず声を出して笑った俺の顔を、しばらく見つめてその表情に笑みを浮かべる。
そんなシュアを見るのは、段々と珍しいことではなくなってきている…そう思う。
以前のシュアが笑いもしなかったのは、おそらく笑う理由がなかったからだ。
楽しいことも、面白いものも、何も知らなかったからだ。
考えてみればそれらを一つも知らないのであれば、ヒトが笑う必要はどこにもない。
けれどそれを知ったシュアが笑う顔は、なんというか…悪くない、と思う。
俺とは何の関係もない人間のはずなのに、その笑顔に自然とつられる自分にときどき気付く。
そう、なんとなく…帰りたがらずにいるのを置いてやっているだけだ。
それなのに、意識するでもなく今やシュアもこの家の住人であることが普通に思える時がある。今までずっとそうしてきたかのように、朝も、夜も、一日の流れの中にシュアが居る。
今日の夕飯は何がいいか。そんなことすら投げかけている自分が自然と毎日そこに居る。
そしてそんな俺にとってどんな存在でもないはずのシュアが笑うと、俺は間違いなく…楽しんでいる。
「ルビ」
「んー?」
「ごはん、つくるの…また、おしえてほしい」
「ん?料理か?」
「りょうり…うん」
「そーだな。この雨じゃ表の仕事はできねぇし、今からゆっくり作りゃ、飯にちょうどいいか」
今ではスムーズにコミュニケーションが取れるようになってきたせいか、シュアの好奇心は次から次へと現れ始めている。
そしてやはり俺は、それに自然と付き合っている。面倒だとは思わないが、そもそもそれは俺のやることなのか。今ではもう不思議にすら思わない。
ただ、何に対してかも分からないまま。
シュアがこうして俺に言葉を投げることも返すことも、俺はただ良かったと、そう緩む口元と共に感じていた。
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