ラタトスク編5
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2年前、世界中を揺るがせたあの旅の主人公は、誰だったのだろう。
小鳥が庭木から飛び立つのを視線で追う。空をすいすいと羽ばたくでもなく、泳ぐでもなく、ひらりと舞う小鳥がやがて目では捉えられなくなって、シュアは視線を手元の紅茶へと戻した。
自室のテーブルに向かい、何をするでもなく紅茶を飲みながら、時折窓の外を眺める。
そうしながら、シュアはミトスのことを考えていた。
彼もまた、先ほどの小鳥のように綺麗な飛び方をしていたものだ。
あの頃の、あの物語の主人公は、ミトスだったのだろうか。
それとも、ロイドだったのだろうか。
―できれば、ロイドであってほしいと、シュアは思っていた。
たとえ自分や仲間たちには到底賛同できる方法ではなかったにしても、彼は、彼なりに救いの方法を探していたのだ。
誰も差別されることのない世界を描き、それを作り上げるために。
そして、そんな彼が救おうとしていた世界も、それでも世界や人々は彼を忘れ、廻っていく。
主人公のいなくなった物語は、続きを紡がれることも諦められ、人々に忘れられていくんだろう。
かつてヘイムダールでも同じように考えていたことを、シュアは思い出していた。
どちらにしろ、こんな同情するような考えを、ミトスは嫌うだろう。
それでも、そうでなければいい。せめて、主人公はロイドであってほしいと、シュアは今は遠く、小鳥の消えた澄んだ青空を眺めていた。
コト、と音がたって向けた視線の先で、ソーサーに乗ったティーカップが机の上に置かれる。
それにハッとして向けた視線の先で、今まで空色に染まっていた視界に紅がはっきりと映りこんだ。
ゼロスだ、と思うよりも先に穏やかに緩められた彼の口元に目を奪われた。
「ゼロス」
「ボーっとしちゃって。俺さまが声かけたのも気付かなかったでしょ」
「ご、ごめん…」
部屋に入ってきたことすら気づかなかったなんて。
自分がそこまで考え込んでいたことにも、ましてやゼロスに気付けなかったことにも、今更になってそのこと自体にシュアはハッとして口を閉ざした。
「で、旦那様の声が聞こえないほど、何考えてた?他の男のこと?」
言いながらきゅっと口元を引き上げたゼロスが向かいの椅子に腰を下ろす。
引かれた椅子が抵抗するようにカタ、と小さく音を立てた。
「…うん、ミトスのこと」
「うん、って…なんでまた」
素直に答えたシュアが意外だったのか、少しだけ気の抜けたような表情でゼロスはシュアに目を向けた。
「うん…。最初はエミルのこと考えてた。エミルは…いつかまた、きっと戻ってくる。そう思うのに、気付いたらそうじゃないミトスのこと、考えてた」
ゼロスと再会し、2人で改めてロイドを追う旅を始めた時から…どれぐらいが経っただろう。シュアにとって二度目のその旅は、魔界への扉、ギンヌンガ・ガップで終わりを迎えていた。
今ではセンチュリオンやそのコア、そしてラタトスクに関する一連の謎は解決で結んでいたけれど、エミルは…彼は、ギンヌンガ・ガップに残り、そして自分たちの前に姿を現すことはそれきりない。
「ミトスのやろうとしたことは、今でも理解のできることじゃない。でもミトスも、もちろんエミルも…世界を救おうとしたその存在を、ヒトも世界も忘れていくのかなって」
「…シュア」
「そうだとしたら、なんだか悲しいなって、そう思ってた。不思議だね、四千年も経つ間に、私ミトスのことそんな風に考えられるようになってたんだね」
自分の心境から目を背けるように小さく笑ったシュアを、その表情を捉えてゼロスもまた窓の外へと視線を外した。
椅子の背もたれに体重を預けて、机の上からカップを取り上げる。
「そういうものなんじゃねーの。良くも悪くも、時間がなんでも風化するっての?」
「うん。そうかもしれない。四千年前だったら、私ミトスのことなんて嫌いで憎くて仕方なかったのに、そんなのもいつの間にかどこかに無くなっちゃってたんだね」
「憎い、ね」
「うん。今でも分からないんだけど、ミトスはどうして初めから私にきつく当たったのかな。母さんが生きている時からそうだったのは、どうしてなのかな」
思い悩むようでもなく自分のカップに視線を落としているシュアをちらりと捉えて、ゼロスは首を戻して再びシュアの姿を見つめた。
そして少しだけ考え込むように、ミトスの姿を思い浮かべた。
シュアに対するミトスの目。言葉。それからシュアの記憶の中で見たミトスの姿。
どれをとっても、確かに好意的とは言えなかった。それなのに。
「シュア」
「ん?」
「…可愛さ余って憎さ百倍。愛情の裏返し」
「え…?」
「ミトスのシュアちゃんに対しての態度ってのはまあ、冷たいってのは頷けるけどな。そんでもたーだ憎んでたってわけでもない気が、俺さまにはするけど?」
「…そうかな」
「覚えてるか?あいつが、ミトスって呼ばれるのを嫌がってたこと」
そのあまり部下を殺しさえしてしまっていたことは、無意識に言葉にするのは避けていた。
「それが、シュアちゃんに対しては黙認されてたわけだ?」
「それは…だってそれが当たり前で…」
「あいつが指導者ユグドラシルになった後に、シュアだってそこで動き始めたんだろ?ユグドラシルって呼び改めさせることくらい、出来たはずだ。それをしなかったってことは…必要がなかったか、どうでもよくて忘れてたか、どっちかだ」
「……」
「どっちにしろ、認めてたんだろ。ホントのところ、シュアちゃんのこと」
黙り込むシュアの向かいで、そう言ってゼロスは取り上げたカップに口をつけた。
必要がなかった。どうでもよかった。
どちらにしろ、それが不快ではなかったんだと…そう思っても、いいんだろうか。
シュアは、考えと共に自分のどこか心臓に近い場所が震えるのが分かった。
いつだって冷えた目を向けてきていたミトスが、自分を、勇者の一行と呼ばれたあの四人の中に居たと、認めてくれていたのだと。
そう思っても、本当にいいんだろうか。
驚いたように向けてくるシュアの視線を受け止めながら、けれどその驚きも戸惑いも、自分に向けられているものではないことを、ゼロスは分かっていた。
分かっていながら、それでもゼロスはその視線をただ受け止めていた。
「…ゼロス」
「んー?」
やがて、長い沈黙の後に、ようやくシュアが口を開いた。
「ありがとう。なんだか、少し楽になった。そう思ってもいいなら、私は、私だけでもミトスのこと覚えててもいいんだね」
「…ま、初めっからきつかったってのも、接し方が分かんなかったとかじゃねーの。でなきゃシュアちゃんに嫉妬してたとか」
「なんか、ゼロスがそういう風に言うとミトスに同情しちゃう」
「でっひゃひゃ。おーしてやれしてやれ」
向かいで笑うゼロスに肩を竦めてから、シュアは手元に少しだけ残った冷えかかった紅茶を啜った。
もしも、本当にミトスが自分を認めてくれていたなら。ただ、憎んでいたのではないのなら。
世界がミトスを忘れても、自分は覚えていよう。それすら嫌がられるかもしれないけれど、それでも自分がミトスを覚えていよう。
忘れないからと、ミトスに言ったのは紛れもなく本心だったのだから。
「エミルは…」
ぽそりと、窓の外に目を向けながらシュアが言った。
「エミルは、もう私たちや、マルタの前に姿を現すことは無いのかな」
そう、2年前の旅がどちらだったとしても。
今回の旅の主人公は、きっとエミルなんだろうとシュアは思っていた。
向かいでゼロスがカップから上げた顔をシュアに向ける。
「どーだかな。ラタトスクに詳しい奴にでも聞けば”答え”は出るかもしんないけど、奇跡でも起きなきゃ…難しいかもな」
「マルタは今…どうしてるのかな。マルタもそんな風に…」
そこまで言いかけてハッとしたようにシュアは言葉を止めた。
頭を過った考えに、弾かれたようにゼロスを見つめる。
「ゼロスには、分かるの?今の、マルタの気持ち」
「…は?」
瞬間、何を言っているのか分からないというように首を捻るも、あぁとゼロスはすぐに納得して苦笑した。
「自分で言うかなーシュアちゃんは」
「だって…実際、私もそういう想い、させたよね」
「…ま、否定はしねーよ。けど、そうだな…」
少しだけ考えるように黙り込んだゼロスは、一度ゆっくりと瞬きをしてシュアに視線を向けた。
「3つ、あるんだよ」
「え?」
「頭と、思考、それから感情ってやつ?全部、バラバラなんだよ」
「…どういうこと?」
少しだけ机に乗り出すようにしたシュアに、ゼロスは向かいでこっそりと一つ息を吐いた。
「薄情だって思うかもしんないけど、頭では現実ってもんが分かって、もう戻らない、戻ってこられないってことは分かってんのよ。それとは別に思考ってやつもあって、それが理想とか奇跡ってのを思い浮かべる。で、最後に感情がその2つの間でそれはもー果てしない戦いを繰り広げるわけ」
言葉にしながら、ゼロスはそうしていたころの自分を思い出していた。
頭にある現実を否定したり、思考に浮かぶ理想を押し付けたり冷めてみたり。
それでも感情がふらふらと行き来する朝方や、シン、と覚める夜更け。
初めのひと月は、それがどうしようもなく、ひどかった。
「けどな、最初に落ち着いて離れてくのは、感情なんだよ。最後まで厄介なのが思考ってやつ。理想だ妄想だ、後悔だってのが落ち着くには…随分と長い時間、かかるだろうーな」
「ゼロス…」
小さく眉間に皺を寄せたシュアがぽそりと口を開いて、すぐにゼロスははっとした。
何を素直に、こんなことをよりによってシュアに向けて話しているのだろう。
その口から自分の心中を気遣うような言葉を誰よりもシュアからは聞きたくなくて、ゼロスはすぐさま言葉を繋いだ。
「だから、マルタちゃんの気持ちってのがその感情のこと言ってんなら、俺さまには分からないってこと。今はマルタちゃんにも分からないでしょーよ。戦いが終わるまではな」
「…うん。でも、やっぱりゼロスに聞いて正解だった」
「まー女の子の事なら、このゼロス様に聞いてもらえりゃなんでも…」
「マルタは今、戦ってるんだ。でも…やっぱり私も、エミルがまた私たちの、マルタの元に戻ってきてくれるってこと、信じたい」
あっさりと無視されたことに肩を落としてみせながら、シュアのその言葉にゼロスはこっそりと笑った。
マルタ本人からしてみれば、その信じるってことが一番に難しいことだろう。
けれどこういうシュアは、少ししたころにはきっと、マルタにとって心強い存在になる。
ゼロスはおもむろに立ち上がると、不思議そうに自分を見上げるシュアの後ろに回り、椅子ごとその身体に腕を回した。
一瞬呼吸を止めて驚いたシュアは、すぐに持っていたカップを置いてゼロスを振り返る。
「…ゼロス?」
「シュアちゃんはそれでいいんじゃないの」
「え?」
「信じてやれよ、エミルくん。俺さまは、シュアちゃんがここにいるからそーいうのはもうやめ」
半分だけこちらを振り返っているシュアの、その頭のてっぺんに顎を乗せて目を閉じて、ゼロスはそれから自分自身のことを思い返していた。
強い光が当たるところには、その分だけ濃い影が出来る。
そんなフレーズは、昔どこかで聞いたものだった。本だったか劇だったかは今じゃ分からないけれど、その言葉はすっと身体の奥まで染み込んで、妙に安心したのを覚えている。
実際、神子や爵位や、そんな自分には明るすぎる光を浴びながら、その一方で自分の足元にはその分だけのまっ黒く濃い影が出来ていることに、段々と気付かされていた。
だからこそ、その光から逃げたいと、あるいはいっそ自分自身も真っ黒に染まってしまいたいと、そんなことばかり考えていた。
そこにシュアが、ロイドが現れた。
ロイドは眩しくも自ら輝く柔らかい光で、それを初めは疎ましくも思いながら、それでもこっちの影なんて全く気にせずいてくれていたのが、ロイドだった。
そしてシュアは。真っ黒にも、明るく光る白にもなりきれない、グレーだった。
ゆっくりと後ろから近寄ってきて、気付けば自分の背後に伸びる真っ黒な影を覆い隠してくれていた。
シュアがそこに居れば、自分の影を直視しなくても済む。時にはそこに影があったことすら忘れさせてくれる。
だからただ初めは、それが無くなってしまうのが嫌で、ずっとそこにあればいいと思っていた。初めは本当にそれだけだった。
それが、気付けばグレーそのものが、大切になっていた。自分の宝物になっていた。
自分の影を覆わせていることで、グレー自身が黒に染まってしまわないか。あるいは真白く強い光からも彼女を守りたいとすら、この自分が、本気でそう思っていた。
それに気づいたのがいつだっただろう。戸惑いさえしても、それをシュアに分かってほしいと思う自分が、こんなにも強情で強引だったってことを、初めて知った。
そして今は。
今は、そんなグレーと…シュアと、向かい合っているだろう。向き合っている。そうしてお互い、いつだって相手を守れるつもりでいる。
今のシュアの色も、自分の色も…よく分からないけれど。それでも今はそこに再び自分の影が見えるようになってしまっていても、それから逃げようとは思わない。シュアを置いて逃げるくらいなら、いっそ黒に染まってしまっても構わない。まだまっすぐと光に立ち向かうだなんてことは、はっきりと言えそうもないけれど。
「本当に、変な奴だよ」
「…ん?」
そっと瞼を上げて、ゼロスは机の上に並ぶ2つのカップを眺めた。
そう、たとえこの先、ずっとずっと先、世間を外れた自分たちの世界がこの机ぐらいに狭くなってしまっても。
こうして2人がそこに並んでいるのなら、それもいいかもしれない。
そうしてめでたしめでたしと言える、ゆったりとした時間が過ごせればいいかもしれない。
あぁ、違った。
いずれずっと先がそうだったとしても、しばらくはもう一人、そこに居るんだった。
「だいぶ、でかくなったんでない?」
シュアの緩やかな曲線を描く腹部に手を当てて、ゼロスは言った。
「あとどんぐらいよ?」
「うん、あと3、4ヶ月くらいかな」
「どーりで。早く出てこいよ、女の子をあんまり苦しませるのは感心しないぜ?」
「ちょっと、ほんとに早く出てきちゃったらどうするの?それに男の子かもまだ分からないんだから」
呆れたように言ったシュアが、すぐにあっ、と零した。
「そういえば、ロイドがこの間別れる時、」
「ロイドくん?」
「うん。二人の子供の名前、ちゃんと考えといたからなって。男でも女でも大丈夫だからな!ってなんだか自慢げに話してて」
思わず笑っちゃった。そう言いながら、ロイドと向かい合っていたその時のように、シュアは笑っていた。
「まさか、飛び回りながらきっちりそこまで考えてくれてたなんてね」
「で、なんだって?」
「うん、秘密だって。まだ男か女かもわからないんだし、生まれてから教えるよって」
「…なんか、むしょーに不安になってきたぞ」
「…うん、まあ。とりあえず聞いてみて、さ」
変な名前だったら俺さまが付け直すからな、と真剣に話すゼロスにシュアは笑った。
そんなゼロスの腕の中で小さく身じろいでから、手を伸ばしたカップが空になっていることに気づく。
「あ、ゼロス、紅茶淹れ直してくる」
「はいはい、シュアちゃんはんなことしなくていーの。俺さまが淹れてくるから、シュアちゃんはここで待ってな」
反論する間もなく自分を解放して、ゼロスはすぐに机の上から2組のティーセットをひったくって歩き出す。
身体を気遣われているのは分かっていても、思わず呼びかけたシュアに、ゼロスは一度だけ振り返ると、笑った。
「ゼロス!」
「母親になる前に、少しはハニーらしく甘えときな」
小さく食器のぶつかる音と、扉を閉めたパタンという音が静かに響く。
一気に静かになった部屋に、なんとなく頬杖をついたシュアが窓の外を眺める。
ハニーらしく甘えときな。
確かに、数か月後にはこんな時間もしばらくは無くなるかもしれない。
ゼロスの言葉をそっと胸にしまいこむと、シュアはその頬を桜色に染めて、小さく微笑んだ。
時は過ぎ、ワイルダーの屋敷には甲高い泣き声が響き渡っていた。
助産婦が出て行った部屋の中、荒い息遣いが響く中を縫うように歩み寄ったゼロスが、シュアを抱きしめている。
衰弱したシュアを抱き寄せ、ゼロスはただ、何も言わずにシュアをしばらくの間抱きしめ続けた。
シュアもまたゼロスのそのぬくもりを、滲む視界でどこともない場所を眺めながら、感じていた。
そして思いもよらぬことに、2人の、そして駆け付けた仲間たちを驚かせたのは、産声を上げた命が二つ、誕生したことだった。
口々に祝福の言葉を、また仲間によってはシュアに、そしてゼロスに似ているとそれは嬉しそうに笑っていた。
その夜。
静寂の中、ようやく静かになった宵の屋敷に、ゼロスは佇んでいた。
すでに明かりも落とされ、月明かりだけが差し込む暗い部屋の中を、ただ静かに、並んで眠る息子と娘を見下ろす。
耳の奥に、昼間の騒がしい声が響く。
それをどこか遠くの方で捉えながら、ゼロスは静かに瞼を下ろした。
月の光を受け、銀色に光る髪のその奥で。
微動だにせず、声を零すこともなく。
ゼロスは、ずっと忘れていたその感覚が蘇ってくるのを感じていた。
けれど、それに抗うことが、今は出来そうにない。
その術も分からなければ、今は目の前に並んだ2つの顔が、そうさせてくれない。
喉の奥を何度も鳴らしながら、
ゼロスはもうずっと遠いところに居た、久しいそれをついには受け入れて、
何年も流すことのなかった涙を、流した。
ただ静かに、誰にも知られることなく、涙を流し続けていた。
その時の彼がそうしながら口端を緩めていたことを、
そしてその塩辛さに眉を歪めていたことも。
それを知っているのは、
祝福の元に生まれた、双子の赤ん坊だけだった。
彼らだけは父の涙の在処を知り、その小さな掌に握っていた。
小鳥が庭木から飛び立つのを視線で追う。空をすいすいと羽ばたくでもなく、泳ぐでもなく、ひらりと舞う小鳥がやがて目では捉えられなくなって、シュアは視線を手元の紅茶へと戻した。
自室のテーブルに向かい、何をするでもなく紅茶を飲みながら、時折窓の外を眺める。
そうしながら、シュアはミトスのことを考えていた。
彼もまた、先ほどの小鳥のように綺麗な飛び方をしていたものだ。
あの頃の、あの物語の主人公は、ミトスだったのだろうか。
それとも、ロイドだったのだろうか。
―できれば、ロイドであってほしいと、シュアは思っていた。
たとえ自分や仲間たちには到底賛同できる方法ではなかったにしても、彼は、彼なりに救いの方法を探していたのだ。
誰も差別されることのない世界を描き、それを作り上げるために。
そして、そんな彼が救おうとしていた世界も、それでも世界や人々は彼を忘れ、廻っていく。
主人公のいなくなった物語は、続きを紡がれることも諦められ、人々に忘れられていくんだろう。
かつてヘイムダールでも同じように考えていたことを、シュアは思い出していた。
どちらにしろ、こんな同情するような考えを、ミトスは嫌うだろう。
それでも、そうでなければいい。せめて、主人公はロイドであってほしいと、シュアは今は遠く、小鳥の消えた澄んだ青空を眺めていた。
コト、と音がたって向けた視線の先で、ソーサーに乗ったティーカップが机の上に置かれる。
それにハッとして向けた視線の先で、今まで空色に染まっていた視界に紅がはっきりと映りこんだ。
ゼロスだ、と思うよりも先に穏やかに緩められた彼の口元に目を奪われた。
「ゼロス」
「ボーっとしちゃって。俺さまが声かけたのも気付かなかったでしょ」
「ご、ごめん…」
部屋に入ってきたことすら気づかなかったなんて。
自分がそこまで考え込んでいたことにも、ましてやゼロスに気付けなかったことにも、今更になってそのこと自体にシュアはハッとして口を閉ざした。
「で、旦那様の声が聞こえないほど、何考えてた?他の男のこと?」
言いながらきゅっと口元を引き上げたゼロスが向かいの椅子に腰を下ろす。
引かれた椅子が抵抗するようにカタ、と小さく音を立てた。
「…うん、ミトスのこと」
「うん、って…なんでまた」
素直に答えたシュアが意外だったのか、少しだけ気の抜けたような表情でゼロスはシュアに目を向けた。
「うん…。最初はエミルのこと考えてた。エミルは…いつかまた、きっと戻ってくる。そう思うのに、気付いたらそうじゃないミトスのこと、考えてた」
ゼロスと再会し、2人で改めてロイドを追う旅を始めた時から…どれぐらいが経っただろう。シュアにとって二度目のその旅は、魔界への扉、ギンヌンガ・ガップで終わりを迎えていた。
今ではセンチュリオンやそのコア、そしてラタトスクに関する一連の謎は解決で結んでいたけれど、エミルは…彼は、ギンヌンガ・ガップに残り、そして自分たちの前に姿を現すことはそれきりない。
「ミトスのやろうとしたことは、今でも理解のできることじゃない。でもミトスも、もちろんエミルも…世界を救おうとしたその存在を、ヒトも世界も忘れていくのかなって」
「…シュア」
「そうだとしたら、なんだか悲しいなって、そう思ってた。不思議だね、四千年も経つ間に、私ミトスのことそんな風に考えられるようになってたんだね」
自分の心境から目を背けるように小さく笑ったシュアを、その表情を捉えてゼロスもまた窓の外へと視線を外した。
椅子の背もたれに体重を預けて、机の上からカップを取り上げる。
「そういうものなんじゃねーの。良くも悪くも、時間がなんでも風化するっての?」
「うん。そうかもしれない。四千年前だったら、私ミトスのことなんて嫌いで憎くて仕方なかったのに、そんなのもいつの間にかどこかに無くなっちゃってたんだね」
「憎い、ね」
「うん。今でも分からないんだけど、ミトスはどうして初めから私にきつく当たったのかな。母さんが生きている時からそうだったのは、どうしてなのかな」
思い悩むようでもなく自分のカップに視線を落としているシュアをちらりと捉えて、ゼロスは首を戻して再びシュアの姿を見つめた。
そして少しだけ考え込むように、ミトスの姿を思い浮かべた。
シュアに対するミトスの目。言葉。それからシュアの記憶の中で見たミトスの姿。
どれをとっても、確かに好意的とは言えなかった。それなのに。
「シュア」
「ん?」
「…可愛さ余って憎さ百倍。愛情の裏返し」
「え…?」
「ミトスのシュアちゃんに対しての態度ってのはまあ、冷たいってのは頷けるけどな。そんでもたーだ憎んでたってわけでもない気が、俺さまにはするけど?」
「…そうかな」
「覚えてるか?あいつが、ミトスって呼ばれるのを嫌がってたこと」
そのあまり部下を殺しさえしてしまっていたことは、無意識に言葉にするのは避けていた。
「それが、シュアちゃんに対しては黙認されてたわけだ?」
「それは…だってそれが当たり前で…」
「あいつが指導者ユグドラシルになった後に、シュアだってそこで動き始めたんだろ?ユグドラシルって呼び改めさせることくらい、出来たはずだ。それをしなかったってことは…必要がなかったか、どうでもよくて忘れてたか、どっちかだ」
「……」
「どっちにしろ、認めてたんだろ。ホントのところ、シュアちゃんのこと」
黙り込むシュアの向かいで、そう言ってゼロスは取り上げたカップに口をつけた。
必要がなかった。どうでもよかった。
どちらにしろ、それが不快ではなかったんだと…そう思っても、いいんだろうか。
シュアは、考えと共に自分のどこか心臓に近い場所が震えるのが分かった。
いつだって冷えた目を向けてきていたミトスが、自分を、勇者の一行と呼ばれたあの四人の中に居たと、認めてくれていたのだと。
そう思っても、本当にいいんだろうか。
驚いたように向けてくるシュアの視線を受け止めながら、けれどその驚きも戸惑いも、自分に向けられているものではないことを、ゼロスは分かっていた。
分かっていながら、それでもゼロスはその視線をただ受け止めていた。
「…ゼロス」
「んー?」
やがて、長い沈黙の後に、ようやくシュアが口を開いた。
「ありがとう。なんだか、少し楽になった。そう思ってもいいなら、私は、私だけでもミトスのこと覚えててもいいんだね」
「…ま、初めっからきつかったってのも、接し方が分かんなかったとかじゃねーの。でなきゃシュアちゃんに嫉妬してたとか」
「なんか、ゼロスがそういう風に言うとミトスに同情しちゃう」
「でっひゃひゃ。おーしてやれしてやれ」
向かいで笑うゼロスに肩を竦めてから、シュアは手元に少しだけ残った冷えかかった紅茶を啜った。
もしも、本当にミトスが自分を認めてくれていたなら。ただ、憎んでいたのではないのなら。
世界がミトスを忘れても、自分は覚えていよう。それすら嫌がられるかもしれないけれど、それでも自分がミトスを覚えていよう。
忘れないからと、ミトスに言ったのは紛れもなく本心だったのだから。
「エミルは…」
ぽそりと、窓の外に目を向けながらシュアが言った。
「エミルは、もう私たちや、マルタの前に姿を現すことは無いのかな」
そう、2年前の旅がどちらだったとしても。
今回の旅の主人公は、きっとエミルなんだろうとシュアは思っていた。
向かいでゼロスがカップから上げた顔をシュアに向ける。
「どーだかな。ラタトスクに詳しい奴にでも聞けば”答え”は出るかもしんないけど、奇跡でも起きなきゃ…難しいかもな」
「マルタは今…どうしてるのかな。マルタもそんな風に…」
そこまで言いかけてハッとしたようにシュアは言葉を止めた。
頭を過った考えに、弾かれたようにゼロスを見つめる。
「ゼロスには、分かるの?今の、マルタの気持ち」
「…は?」
瞬間、何を言っているのか分からないというように首を捻るも、あぁとゼロスはすぐに納得して苦笑した。
「自分で言うかなーシュアちゃんは」
「だって…実際、私もそういう想い、させたよね」
「…ま、否定はしねーよ。けど、そうだな…」
少しだけ考えるように黙り込んだゼロスは、一度ゆっくりと瞬きをしてシュアに視線を向けた。
「3つ、あるんだよ」
「え?」
「頭と、思考、それから感情ってやつ?全部、バラバラなんだよ」
「…どういうこと?」
少しだけ机に乗り出すようにしたシュアに、ゼロスは向かいでこっそりと一つ息を吐いた。
「薄情だって思うかもしんないけど、頭では現実ってもんが分かって、もう戻らない、戻ってこられないってことは分かってんのよ。それとは別に思考ってやつもあって、それが理想とか奇跡ってのを思い浮かべる。で、最後に感情がその2つの間でそれはもー果てしない戦いを繰り広げるわけ」
言葉にしながら、ゼロスはそうしていたころの自分を思い出していた。
頭にある現実を否定したり、思考に浮かぶ理想を押し付けたり冷めてみたり。
それでも感情がふらふらと行き来する朝方や、シン、と覚める夜更け。
初めのひと月は、それがどうしようもなく、ひどかった。
「けどな、最初に落ち着いて離れてくのは、感情なんだよ。最後まで厄介なのが思考ってやつ。理想だ妄想だ、後悔だってのが落ち着くには…随分と長い時間、かかるだろうーな」
「ゼロス…」
小さく眉間に皺を寄せたシュアがぽそりと口を開いて、すぐにゼロスははっとした。
何を素直に、こんなことをよりによってシュアに向けて話しているのだろう。
その口から自分の心中を気遣うような言葉を誰よりもシュアからは聞きたくなくて、ゼロスはすぐさま言葉を繋いだ。
「だから、マルタちゃんの気持ちってのがその感情のこと言ってんなら、俺さまには分からないってこと。今はマルタちゃんにも分からないでしょーよ。戦いが終わるまではな」
「…うん。でも、やっぱりゼロスに聞いて正解だった」
「まー女の子の事なら、このゼロス様に聞いてもらえりゃなんでも…」
「マルタは今、戦ってるんだ。でも…やっぱり私も、エミルがまた私たちの、マルタの元に戻ってきてくれるってこと、信じたい」
あっさりと無視されたことに肩を落としてみせながら、シュアのその言葉にゼロスはこっそりと笑った。
マルタ本人からしてみれば、その信じるってことが一番に難しいことだろう。
けれどこういうシュアは、少ししたころにはきっと、マルタにとって心強い存在になる。
ゼロスはおもむろに立ち上がると、不思議そうに自分を見上げるシュアの後ろに回り、椅子ごとその身体に腕を回した。
一瞬呼吸を止めて驚いたシュアは、すぐに持っていたカップを置いてゼロスを振り返る。
「…ゼロス?」
「シュアちゃんはそれでいいんじゃないの」
「え?」
「信じてやれよ、エミルくん。俺さまは、シュアちゃんがここにいるからそーいうのはもうやめ」
半分だけこちらを振り返っているシュアの、その頭のてっぺんに顎を乗せて目を閉じて、ゼロスはそれから自分自身のことを思い返していた。
強い光が当たるところには、その分だけ濃い影が出来る。
そんなフレーズは、昔どこかで聞いたものだった。本だったか劇だったかは今じゃ分からないけれど、その言葉はすっと身体の奥まで染み込んで、妙に安心したのを覚えている。
実際、神子や爵位や、そんな自分には明るすぎる光を浴びながら、その一方で自分の足元にはその分だけのまっ黒く濃い影が出来ていることに、段々と気付かされていた。
だからこそ、その光から逃げたいと、あるいはいっそ自分自身も真っ黒に染まってしまいたいと、そんなことばかり考えていた。
そこにシュアが、ロイドが現れた。
ロイドは眩しくも自ら輝く柔らかい光で、それを初めは疎ましくも思いながら、それでもこっちの影なんて全く気にせずいてくれていたのが、ロイドだった。
そしてシュアは。真っ黒にも、明るく光る白にもなりきれない、グレーだった。
ゆっくりと後ろから近寄ってきて、気付けば自分の背後に伸びる真っ黒な影を覆い隠してくれていた。
シュアがそこに居れば、自分の影を直視しなくても済む。時にはそこに影があったことすら忘れさせてくれる。
だからただ初めは、それが無くなってしまうのが嫌で、ずっとそこにあればいいと思っていた。初めは本当にそれだけだった。
それが、気付けばグレーそのものが、大切になっていた。自分の宝物になっていた。
自分の影を覆わせていることで、グレー自身が黒に染まってしまわないか。あるいは真白く強い光からも彼女を守りたいとすら、この自分が、本気でそう思っていた。
それに気づいたのがいつだっただろう。戸惑いさえしても、それをシュアに分かってほしいと思う自分が、こんなにも強情で強引だったってことを、初めて知った。
そして今は。
今は、そんなグレーと…シュアと、向かい合っているだろう。向き合っている。そうしてお互い、いつだって相手を守れるつもりでいる。
今のシュアの色も、自分の色も…よく分からないけれど。それでも今はそこに再び自分の影が見えるようになってしまっていても、それから逃げようとは思わない。シュアを置いて逃げるくらいなら、いっそ黒に染まってしまっても構わない。まだまっすぐと光に立ち向かうだなんてことは、はっきりと言えそうもないけれど。
「本当に、変な奴だよ」
「…ん?」
そっと瞼を上げて、ゼロスは机の上に並ぶ2つのカップを眺めた。
そう、たとえこの先、ずっとずっと先、世間を外れた自分たちの世界がこの机ぐらいに狭くなってしまっても。
こうして2人がそこに並んでいるのなら、それもいいかもしれない。
そうしてめでたしめでたしと言える、ゆったりとした時間が過ごせればいいかもしれない。
あぁ、違った。
いずれずっと先がそうだったとしても、しばらくはもう一人、そこに居るんだった。
「だいぶ、でかくなったんでない?」
シュアの緩やかな曲線を描く腹部に手を当てて、ゼロスは言った。
「あとどんぐらいよ?」
「うん、あと3、4ヶ月くらいかな」
「どーりで。早く出てこいよ、女の子をあんまり苦しませるのは感心しないぜ?」
「ちょっと、ほんとに早く出てきちゃったらどうするの?それに男の子かもまだ分からないんだから」
呆れたように言ったシュアが、すぐにあっ、と零した。
「そういえば、ロイドがこの間別れる時、」
「ロイドくん?」
「うん。二人の子供の名前、ちゃんと考えといたからなって。男でも女でも大丈夫だからな!ってなんだか自慢げに話してて」
思わず笑っちゃった。そう言いながら、ロイドと向かい合っていたその時のように、シュアは笑っていた。
「まさか、飛び回りながらきっちりそこまで考えてくれてたなんてね」
「で、なんだって?」
「うん、秘密だって。まだ男か女かもわからないんだし、生まれてから教えるよって」
「…なんか、むしょーに不安になってきたぞ」
「…うん、まあ。とりあえず聞いてみて、さ」
変な名前だったら俺さまが付け直すからな、と真剣に話すゼロスにシュアは笑った。
そんなゼロスの腕の中で小さく身じろいでから、手を伸ばしたカップが空になっていることに気づく。
「あ、ゼロス、紅茶淹れ直してくる」
「はいはい、シュアちゃんはんなことしなくていーの。俺さまが淹れてくるから、シュアちゃんはここで待ってな」
反論する間もなく自分を解放して、ゼロスはすぐに机の上から2組のティーセットをひったくって歩き出す。
身体を気遣われているのは分かっていても、思わず呼びかけたシュアに、ゼロスは一度だけ振り返ると、笑った。
「ゼロス!」
「母親になる前に、少しはハニーらしく甘えときな」
小さく食器のぶつかる音と、扉を閉めたパタンという音が静かに響く。
一気に静かになった部屋に、なんとなく頬杖をついたシュアが窓の外を眺める。
ハニーらしく甘えときな。
確かに、数か月後にはこんな時間もしばらくは無くなるかもしれない。
ゼロスの言葉をそっと胸にしまいこむと、シュアはその頬を桜色に染めて、小さく微笑んだ。
時は過ぎ、ワイルダーの屋敷には甲高い泣き声が響き渡っていた。
助産婦が出て行った部屋の中、荒い息遣いが響く中を縫うように歩み寄ったゼロスが、シュアを抱きしめている。
衰弱したシュアを抱き寄せ、ゼロスはただ、何も言わずにシュアをしばらくの間抱きしめ続けた。
シュアもまたゼロスのそのぬくもりを、滲む視界でどこともない場所を眺めながら、感じていた。
そして思いもよらぬことに、2人の、そして駆け付けた仲間たちを驚かせたのは、産声を上げた命が二つ、誕生したことだった。
口々に祝福の言葉を、また仲間によってはシュアに、そしてゼロスに似ているとそれは嬉しそうに笑っていた。
その夜。
静寂の中、ようやく静かになった宵の屋敷に、ゼロスは佇んでいた。
すでに明かりも落とされ、月明かりだけが差し込む暗い部屋の中を、ただ静かに、並んで眠る息子と娘を見下ろす。
耳の奥に、昼間の騒がしい声が響く。
それをどこか遠くの方で捉えながら、ゼロスは静かに瞼を下ろした。
月の光を受け、銀色に光る髪のその奥で。
微動だにせず、声を零すこともなく。
ゼロスは、ずっと忘れていたその感覚が蘇ってくるのを感じていた。
けれど、それに抗うことが、今は出来そうにない。
その術も分からなければ、今は目の前に並んだ2つの顔が、そうさせてくれない。
喉の奥を何度も鳴らしながら、
ゼロスはもうずっと遠いところに居た、久しいそれをついには受け入れて、
何年も流すことのなかった涙を、流した。
ただ静かに、誰にも知られることなく、涙を流し続けていた。
その時の彼がそうしながら口端を緩めていたことを、
そしてその塩辛さに眉を歪めていたことも。
それを知っているのは、
祝福の元に生まれた、双子の赤ん坊だけだった。
彼らだけは父の涙の在処を知り、その小さな掌に握っていた。
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