1章
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ホグワーツの結界は、レギュラスを弾き返さなかった。
その事実だけで充分だった。
アランは無事にダンブルドアに話をつけたのだ。
そして、何らかの形で信用を得てくれたのだと理解した。
さすがはアランだ、とレギュラスは思う。
見越しただけはある。
湖で沈んでいく自分を引き上げ、見ず知らずの男を数か月看病した時点で、もう知ってはいた。
随分と肝の据わった女だと。
それでも、こうしてホグワーツの石の廊下を自分の足で歩き、校長室へ通されている今、改めてその胆力に感服せざるを得なかった。
扉が開く。
校長室は、昔と何も変わらないように見えた。
静かな魔力の気配。
並ぶ肖像画。
古い知性の匂い。
「久しいの、レギュラス」
ダンブルドアがそう言った。
レギュラスは一礼する。
「ご無沙汰しています」
声は落ち着いていた。
少なくとも表面上は。
だが校長室の中にアランの姿がないことに気づいた瞬間、胸の奥にほんのわずかな空白が生まれた。
すぐに彼女の顔を見られると思っていたからだ。
拍子抜けしたような、少しだけ落ち着かないような気分になる。
ダンブルドアはその揺れに気づいたのか気づかないのか、特に何も言わず、机の上に置かれたロケットへ視線を落とした。
「このロケットじゃが」
老人は静かに言う。
「おそらく魔法呪具でしか破壊はできんのじゃろう」
レギュラスは頷いた。
「僕にはできませんでした」
「手を貸していただきたい」
そこからは、一つずつ説明した。
分霊箱の存在に気づいた経緯。
複数個ある可能性。
何か、闇の帝王の思い入れの深いものの中に宿されている可能性が高いこと。
言葉を選びながら、できるだけ順序立てて話す。
感情ではなく情報として。
疑われる前提で、疑う側が欲しいであろう論拠を先回りして差し出すように。
さらに、デスイーターとの衝突の際、こちらは各デスイーターの戦闘の癖や弱点を知っていること。
誰が威力偏重で、誰が防御に寄り、誰が怒ると粗くなるか。
魔力の流れや、呪文の選び方や、現場での連携の癖まで。
だからこそ騎士団側へ優位な情報を提供できるメリットがあるのだと示した。
そこまで話した時だった。
「そこまで言わんでもよい」
ダンブルドアがふいに言った。
レギュラスは言葉を切る。
「今や、ワシらは君を信じるしかない」
一瞬、意味がわからなかった。
「……どういうことです?」
レギュラスはわずかに眉を寄せた。
「疑って当然です」
「そのつもりで来ています」
「質問も、知っている範囲で包み隠さず話します」
ダンブルドアはその反応を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
どこか痛ましげですらある眼差しだった。
「そうじゃろうな」
「君はそういうつもりで来たのじゃろう」
老人は椅子に深く腰掛けたまま、指を組む。
「じゃが、アラン・セシールが、君のために何を差し出したかを知れば」
「もはやこちらに残されるのは、信じるか、彼女の命を無駄にするか、その二つだけじゃ」
レギュラスの表情が、そこで初めて崩れた。
「……何を」
声が低くなる。
喉が嫌な音を立てそうになるのを押さえ込む。
「アランが、何をしたんです?」
ダンブルドアはすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって答えの重さを際立たせる。
やがて老人は、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。
そこに残る魔力の質感だけで、レギュラスには嫌な予感がした。
「破れぬ魔法契約じゃ」
静かに告げられる。
レギュラスの目が、紙へ釘付けになる。
「君を受け入れ、分霊箱破壊に協力する条件として」
「もしレギュラス・ブラックが再び闇の帝王側へ戻り、ホグワーツ、騎士団、あるいは分霊箱破壊の計画に害をなした場合」
「アラン・セシールは、その命をもって償う」
レギュラスは、言葉を失った。
一瞬、本当に何も聞こえなかった。
校長室の空気も、肖像画の気配も、全部が遠のく。
アランが。
自分のために。
命を対価にした。
あまりのことに、怒りより先に、理解が追いつかなかった。
「……何故」
ようやく出た声は、驚くほど小さかった。
「何故、そんなものを」
ダンブルドアはレギュラスを見つめる。
その青い瞳は、責めてもいなければ、庇ってもいなかった。
ただ事実を見ろと告げるような目だった。
「何故、じゃと?」
老人はゆっくり言う。
「君を信じていたからじゃろう」
その一言が、ひどく重い。
レギュラスは羊皮紙を見たまま動けなかった。
アランならやる。
そう言われれば、たしかにやる女だとわかる。
無茶だと止めても、必要だと思えば、自分を差し出すことを厭わない。
見ず知らずの男を湖から引き上げた時点で、あの女はそういう種類の人間だった。
だが、だからといって。
自分のために、命まで。
「……勝手なことを」
思わずそう零すと、ダンブルドアはかすかに息をついた。
「そう思うなら、あとで本人に言うとよい」
「じゃが今は、その勝手さに応えるだけの価値を君自身が示す方が先じゃ」
レギュラスは顔を上げた。
銀の瞳の底に、ようやく別の熱が戻る。
衝撃でも、狼狽でもない。
もっと冷たく、もっと深いものだ。
「……撤回は」
「できん」
「契約はもう結ばれておる」
即答だった。
レギュラスは目を閉じた。
怒りたい。
叱りつけたい。
何を考えているのかと、アランの肩を掴んで問いただしたい。
そんな重さを、どうして一人で受け入れたのかと。
けれど同時に、わかってしまう。
アランは、自分がこうすると予測した上でなお契約したのだ。
レギュラスが知れば必ず嫌がるとわかっていて、それでも。
それしか、こちらに自分を信じさせる道がないと思ったから。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
「だから、分霊箱の破壊を必ず成し遂げる力が欲しい」
レギュラスはゆっくり目を開ける。
もう声はぶれていなかった。
「そして他の分霊箱も見つけ出し、破壊して」
「あの闇の男を永遠に葬り去らないといけない」
ダンブルドアは静かに頷いた。
「ようやく、同じ場所を見たの」
レギュラスはそれに答えず、机の上のロケットを見た。
自分が二年、破壊できなかったもの。
それが今や、アランの命まで繋いでしまっている。
許せなかった。
自分にも。
分霊箱にも。
そして何より、そこまでさせた状況そのものに。
「君はまだ、こちらが何故そこまで簡単に受け入れたのか納得しておらんようじゃな」
ダンブルドアが言う。
「当然です」
レギュラスは即座に返した。
「僕が騎士団の立場なら、もっと慎重に疑う」
「アランの命が懸かっているからといって、それだけで全てを預けたりはしない」
「よい」
ダンブルドアは頷く。
「その感覚は失うな」
「じゃがな、レギュラス。ワシは君を無条件に信じたわけではない」
レギュラスは老人を見る。
「君はもう、逃げるだけでは済まんところまで来ておる」
「分霊箱に辿り着き、そのロケットをここへ運ばせた時点で、君は自分の帰る道を半ば焼き払っておる」
「アランの契約はその証左に過ぎん」
「本質は、君がすでに後戻りできぬ位置まで来ていることじゃ」
それはたしかにそうだった。
もし今さら闇へ戻れば。
待っているのは栄光ではなく、分霊箱の情報と二年間の潜伏理由を詰められる地獄だ。
レギュラス自身がそれを一番よく知っている。
ダンブルドアは続ける。
「だからワシは、君を信じるというより」
「君がここで闇の帝王を終わらせる側に立つしかない状況を、利用することにしたのじゃよ」
ひどく正直な言い方だった。
だがその方が、レギュラスにはありがたかった。
綺麗事よりましだ。
アランの契約だけを美談のように扱われるより、ずっと。
「結構です」
レギュラスは低く言った。
「利用してください」
「その代わり、分霊箱を必ず壊したい」
ダンブルドアの目がわずかに光る。
「壊すだけでは足りん」
「残りを探し、道筋を作る」
「君には、その頭脳と記憶を全部使ってもらう」
「望むところです」
即答だった。
もうここまで来たのだ。
今さら半端に引き返す気はない。
アランが命まで差し出した以上、自分に残された道など、最初からひとつしかない。
「アランは、どこにいますか」
ふいに、レギュラスはそう尋ねた。
今度こそ、すぐに会いたかった。
怒りたいわけではない。
いや、たぶん怒る。
けれど、それ以上に顔を見たかった。
ダンブルドアはその問いに、ほんの少しだけやわらかな顔をした。
「別室で休ませておる」
「君が来るまで、一歩も動く気がないようじゃったがの」
その返答に、レギュラスは長く息を吐いた。
まったく、と思う。
勝手で、無茶で、こちらの予想をいつも少しだけ超えてくる女だ。
湖から引き上げられた時から、ずっとそうだった。
「先に会わせていただけますか」
「よかろう」
ダンブルドアは頷いた。
「じゃがその前に、ひとつだけ」
レギュラスは視線で先を促す。
「アランが差し出した命を、重荷としてだけ受け取るな」
老人は静かに言った。
「それは君への信頼じゃ」
「君が背負い潰されるためのものではなく、生きて進むために渡されたものだと忘れるでない」
レギュラスは少しだけ黙った。
忘れるなと言われても、簡単ではない。
重い。
重すぎる。
だが、それでも。
「……努力します」
そう返すと、ダンブルドアはかすかに笑った。
「アランにも同じことを言っておったみたいじゃな」
レギュラスは何も答えなかった。
代わりに、早くその女のところへ行きたいと、今はそれだけを強く思っていた。
騎士団の空気が、目に見えて変わった。
レギュラス・ブラック。
その名がダンブルドアの口から落ちた瞬間、部屋の中にいた全員の顔がわずかに強張る。
久しぶりに聞いた弟の名前だった。
忌々しい、とシリウスは思った。
純血主義を貫く、馬鹿な弟。
あの家に従順で、ブラックの名を誇り、闇へ落ちていった男だと、一蹴してきた。
その名を今さらこんな場で聞かされるなど、不快以外の何ものでもないはずだった。
闇の帝王に恐れをなして逃げ出したという噂は、すでに耳にしていた。
だがあくまで噂だ。
裏切ったのか、
使い潰されたのか、
それとも別の命令で潜っているだけなのか。
何ひとつ確かなものはなかった。
なのに今、ダンブルドアははっきり言った。
分霊箱とやらの秘密を突き詰め、その一つを持ち帰ってきたこと。
それをこちらに託したこと。
そして、デスイーターでありながら、騎士団側に全面協力していく姿勢であると宣言したこと。
「んなわけあるか」
シリウスは思わず吐き捨てた。
「あの弟が?
純血主義の結晶みたいなやつだぞ」
ジェームズがすぐ横で腕を組みながら言う。
「でも、分霊箱を持ち帰ってこっちに渡したんだぞ」
「ヴォルデモートへの裏切りだ」
確かに、そうだ。
それは理解できる。
もし本当にそんなことをしたのなら、レギュラスは死ぬまで追いかけられ続けるだろう。
あの陣営から抜けるというのは、そういうことだ。
それを覚悟の上でしているのだとしたら。
その意思は本物だと信じていいのか。
だが、どうしても腑に落ちない。
あの純血主義を。
あの家の論理を。
あれほど従順に信じて生きてきた男が。
そう簡単に思想を曲げてくるだろうか。
レギュラス・ブラックは、もっと頑固で、もっと不気味なほど綺麗にあの家の価値観を体現していたはずだった。
「先生」
リーマスが、やけに落ち着いた声で口を開く。
「レギュラス・ブラックを信じるからには、何か魔法契約で担保を賭けているのですか」
冷静で、鋭い。
こういう時、本当に嫌になるほどよく頭が回る。
ダンブルドアは静かに頷いた。
「そうじゃ」
「連れの女がいた」
「その女の命を賭けた」
女。
シリウスの中に、真っ先に浮かんだのは。
ベラトリックスのような女だった。
レギュラスの隣にいるのなら、どうせ同じ純血主義を唱える、選民思想に酔った女だろう。
グルでこちらを嵌めてくる可能性だってある。
命を賭けた?
そんなもの、どうせ芝居だ。
そう思いかけた、その時だった。
ダンブルドアが、何でもないことみたいに次の名を告げた。
「アラン・セシールじゃよ」
シリウスの思考が、一瞬止まった。
「……は?」
ジェームズの方が先に声を上げる。
「アラン? アラン・セシール?
あの、アラン・セシールですか?」
「ああ、そうじゃ」
ダンブルドアは頷く。
「君たちと同学年だったはずじゃ」
最悪の記憶で、全部が繋がった。
アラン・セシール。
忘れもしない。
ずっと好きだと。
あまりにも鬱陶しいくらいに純粋な好きを差し出す女だった。
当時の自分は、あまりにも子供だった。
愛を受け取るには未熟すぎた。
自分に寄ってくる女はいくらでもいた。
派手な女も、
体がいい感じにセクシーな女も、
こちらの気分を盛り上げるのが上手い女も、山ほどいた。
その中で、アラン・セシールはあまりにも地味だった。
目立たなくて、普通すぎた。
単体で見れば、たぶん、普通に可愛らしい子だったのだろう。
翡翠の瞳がとても印象的な、
長い黒髪を伸ばした少女だった。
けれど当時のシリウスには、その普通が軽かった。
だから軽く扱った。
結論から言えば。
申し訳ないほど彼女を、いいように使って、使って、使い果たした自覚がある。
君があんな地味な子と遊ぶなんて珍しいね、とジェームズに言われたことがあった。
その時、自分は笑って、
ああいう地味な女こそなんでも言うこと聞くし、最高にエロいんだよ、だなんて軽口を叩いた。
最低だ。
今思い返しても、本当にそう思う。
だが当時は、それを最低だとすら思っていなかった。
実際、本当に、こちらの要望の全てを飲んでくれる子だった。
激しくしても、
羞恥を煽る要求をぶつけても、
どんな時間に呼び出しても、
終わった後に放置しても。
なんでも許してくれる子だった。
あなたが好きだからという言葉を、いつもまっすぐくれる子だった。
そうか、好きならこれをして。
あれをして。
そこまで言うなら、これもできるだろう。
そんなふうに、どんどん彼女を使うだけになっていった。
ジェームズに、ほどほどにしておきなよ、と忠告されたこともあった。
その時すら、笑って流した。
大したことじゃないと思っていた。
彼女が嫌だと言わないのだから、問題ないのだと思っていた。
でも今になって思う。
本当に申し訳なかった、と。
大人になって、
また何人かとちゃんとした交際もして。
関係のあとに残る沈黙や、
雑に扱われた時の目の濁りや、
求めることと傷つけることの違いを、
少しは知ってしまった今だからこそ。
あの頃の彼女にした行いが、いかに最低だったか、思い知らされる。
謝るだなんてことで許されるわけがない。
そんな程度のことで帳消しになるはずがない。
シリウスにとって、アラン・セシールは。
あまりにも罪の名だった。
そんな女が。
まさかの。
レギュラス・ブラックのために、命を賭けたというのだ。
信じられなかった。
「……嘘だろ」
シリウスはようやく、それだけ言った。
掠れたような声だった。
ジェームズが横目でこちらを見る。
何か言いたそうにしているが、今は黙っていた。
ダンブルドアは静かに答える。
「嘘ではない」
「アランは自分の意思で契約を結んだ」
シリウスは拳を握りしめた。
どうして。
どうしてあの女が。
よりにもよってレギュラスのために。
いや、違う。
どうしてではない。
あの女なら、やる。
好きだと思った相手のためなら、
自分を差し出すことをためらわない。
愚かなほど真っ直ぐで、
馬鹿なほど一途で、
だからこそ壊れやすかった。
その性質を、自分はよく知っている。
知っていて、利用した。
だから余計に、吐き気がした。
「先生」
リーマスがまた口を開く。
「その契約、レギュラス本人は知っているんですか」
「今は知っておる」
ダンブルドアが答える。
「彼は大層驚いておったよ」
驚くだろう。
当然だ。
シリウスは目を閉じた。
レギュラス・ブラックがアラン・セシールと。
その組み合わせ自体がまず現実味を持たないのに。
しかも、アランが命を賭けるほどレギュラスを信じている。
それがどうしようもなく、胸の奥をざらつかせた。
嫉妬ではない。
今さらそんな資格はない。
ただ、自分がかつて踏みにじった女が。
自分の弟のためにそこまでしているという事実が。
あまりにも痛かった。
「シリウス」
ジェームズが低く呼ぶ。
顔を上げると、親友は少しだけ眉を寄せていた。
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃない」
シリウスは正直に言った。
「アラン・セシールが絡むなら、全然大丈夫じゃない」
そう言うと、ジェームズは一瞬だけ目を細めた。
彼は知っている。
当時の自分がどれほど雑にアランを扱っていたか、全部ではなくとも、かなりの部分を。
だから何も綺麗事を言わない。
リーマスだけが、少し静かな目でシリウスを見ていた。
責めるでもなく、庇うでもなく。
ただ、今さら逃げるなと言いたげな目だった。
ダンブルドアはそんな空気を見回したあと、ゆっくり口を開く。
「レギュラス・ブラックを受け入れることは、君たちにとっても簡単ではないじゃろう」
「じゃが、分霊箱という問題は、それを超えて重大じゃ」
「ワシらは、彼の情報と力を使わねばならぬ」
シリウスは歯を食いしばる。
わかっている。
頭では。
弟が本気でヴォルデモートを裏切ったのなら、それは大きい。
分霊箱を持ち帰ったという事実も、アランが命を賭けたという事実も、そこにある以上、もう単なる噂では済まない。
けれど感情が追いつかない。
純血主義の結晶みたいな弟。
ずっと軽蔑してきた弟。
その弟が、自分が壊した女に、命を賭けられている。
何ひとつ、平然とは受け取れなかった。
「……会うんですか」
シリウスは低く尋ねた。
「レギュラスに」
「会うべきじゃろうな」
ダンブルドアは頷く。
「君個人の感情はさておき、騎士団としては」
「そして兄としても」
兄として。
その言葉がひどく重い。
シリウスは苦く息を吐いた。
兄として、自分はあいつに何をしてきただろう。
憎み、見下し、距離を置いてきただけではないか。
理解しようとしたこともない。
家に染まりきった弟だと決めつけて、それで終わりだった。
それなのに今、あちらはヴォルデモートの秘密を抱えて、こちら側へ来ようとしている。
しかもアランを巻き込んで。
「……最悪だ」
ぽつりと零すと、ジェームズが肩をすくめた。
「その感想には同意する」
リーマスが静かに付け足す。
「でも、最悪だからといって放っておける状況じゃない」
「わかってるよ」
シリウスは苛立ち混じりに返した。
苛立っている相手が誰なのか、自分でもよくわからなかった。
レギュラスか。
アランか。
昔の自分か。
全部か。
ただひとつだけ、はっきりしていることがある。
もしアランが本当にレギュラスのために命を賭けたのなら。
今度こそ、自分は知らないふりをして逃げてはいけない。
あの頃の自分が彼女にしたことの償いにはならない。
なるはずもない。
それでも。
今ここでまた、彼女が命を賭けたものを「知らない」で済ませるのは。
さすがにあまりにも卑怯だった。
シリウスはゆっくり顔を上げた。
「先生」
「なんじゃ」
「レギュラス・ブラックには会います」
「ただし、簡単には信じない」
ダンブルドアは静かに頷く。
「当然じゃ」
「それから」
シリウスは少しだけ言葉を切る。
「アラン・セシールにも会わせてください」
その場の空気が、わずかに変わった。
ジェームズがこちらを見る。
リーマスも。
ダンブルドアだけが、最初からそう来ると思っていたような目をしていた。
「それも、必要じゃろうな」
必要。
そうだろう。
必要なのだ。
謝るためではない。
たぶん謝っても、何にもならない。
でもせめて。
今ここで、自分が昔踏みにじった相手が何を見て、何を信じて、レギュラス・ブラックのために命を賭けたのか。
それくらいは、自分の目で見なければならないと思った。
宿の寝台は、二人で暮らしていた家のものとは違った。
少しだけ広い。
けれど落ち着かない。
あの家ではない、というだけで、どこか借りものじみている。
デスイーターが来た以上、しばらくは戻れない。頭ではわかっていても、胸の奥ではまだ、あの狭い部屋の匂いや、窓辺の薬草や、使い慣れた食器の並ぶ棚を探してしまう。
だからこそ。
こうして生きて、アランの前へ戻ってこられたことが、レギュラスには現実味のないほど大きかった。
アランは、ぼろぼろ泣いていた。
大粒の涙をこぼして、
しゃくりあげるようにして、
何度も何度も、よかった、と繰り返す。
「よかった……」
「ほんとに……よかった……」
その声が震えていて、息もうまく続かなくて、それでも必死に抱きついてくる。
レギュラスは彼女を腕の中へ抱き込んだまま、小さく息をついた。
「心配かけましたね」
そう言うしかなかった。
本当は、それでは足りないのだろう。
勝手に命を賭けるような契約をしたことも、ちゃんと怒らなければいけないのだと思っていた。ホグワーツへ着いた時から、会ったらまずそれを言うつもりだった。
なのに今となっては、もう何一つ怒れない。
自分を案じて。
こんなにも泣きながら、
それでも背に腕を回して、ちゃんとこちらを受け入れてくれている女に。
言いようのない愛しさしか湧かなかった。
「泣かないで、アラン」
レギュラスは彼女の頬に触れて、そっと言った。
「僕を見てください」
アランはぐしゃぐしゃになった顔のまま、どうにか顔を上げた。
涙に揺れる翡翠の瞳が、宝石みたいにきらきらしている。
可愛らしかった。
あまりにも。
心の底から愛おしいと思うのに、こんな瞬間に相応しくない感情まで湧き起こるのだから、自分でもどうかしていると思う。
泣きながらこちらを見上げる顔が。
安心と、怖さと、戻ってきてくれた喜びと、全部を隠しきれずに揺れているその顔が。
ひどく胸を打つ。
「……ねぇ、アラン」
レギュラスは少しだけ困ったように笑った。
「その顔、反則です」
アランは涙の合間に瞬きをした。
意味がわかっているのかいないのか、まだ半分泣いている顔でこちらを見る。
「……何がですか」
「そんな顔で抱きつかれたら」
レギュラスは額を寄せるようにして、低く続けた。
「もう二度と離したくなくなる」
アランの睫毛がまた揺れた。
涙がひとつ、頬を伝って落ちる。
レギュラスはそれを親指で拭った。
それから、泣きすぎて熱を持った瞼にも、頬にも、こめかみにも、ゆっくり口づける。
宿の部屋は静かだった。
外の音は遠い。
ここにはもう、ルシウスも、闇の印も、黒いローブの群れもいない。
生きて戻った。
ただそれだけのことが、今は信じられないくらい重たかった。
「ほんとに……戻ってきた」
アランが、まだ少ししゃくり上げながら言う。
「ええ」
「嘘じゃない……」
「嘘じゃありません」
そのやりとりをしながら、レギュラスは彼女を寝台へゆっくり沈めた。
乱暴にはしない。
宥めるように。
安心させるように。
アランの指先が、彼の服を離さない。
離したらまた消えてしまうとでも思っているみたいで、胸が痛いほどだった。
「そんなに怖かったですか」
レギュラスが問うと、アランは少し怒ったように涙目で見返した。
「当たり前です……」
「死ぬかもって、思ったんですから」
その返しが、あまりにもまっすぐで。
レギュラスは目を細めた。
「すみません」
「ほんとにです」
「ええ」
「本当に」
言いながら、また頬へ触れる。
何度も確かめるように。
自分の方こそ、彼女がちゃんとここにいることを確かめたかった。
アランは泣きながら、それでもこちらを拒まなかった。
むしろ少しずつ、体の力を預けてくる。
不安と緊張がやっと解けて、こちらへ沈んでくるような、その頼り方だった。
レギュラスは、その重みがたまらなく好きだと思った。
生きていてよかったと。
戻ってきてよかったと。
この女が、こんなふうに泣いてくれる場所へ戻れるなら、何度でも地獄から這い上がる価値があると。
そう思う。
そして同時に、こんな瞬間に相応しくない感情がまた胸を熱くする。
泣き顔のまま見上げてくるアランは、どこか無防備で、どこか甘くて、見ているだけで指先が震えるほどだった。
愛しさと、欲と、安堵が一緒くたになって押し寄せてくる。
「レギュラス……」
アランが小さく名前を呼ぶ。
「はい」
「もう、どこにも行かないでください……」
その言葉に、レギュラスは少しだけ黙った。
行かない、とはまだ言えない。
分霊箱も、闇の帝王も、終わっていない。
けれど今この瞬間だけは、未来の話を持ち込みたくなかった。
「今は、ここにいます」
静かにそう言うと、アランはまた少しだけ泣きそうな顔をした。
それでも、今度はさっきより落ち着いた目だった。
レギュラスはその目を見ながら、ゆっくりと彼女を抱きしめた。
泣き声が少しずつ細くなる。
呼吸が整ってくる。
その変化を感じながら、彼は何度も彼女の髪を撫で、顔に触れ、口づけを落とした。
宿の寝台は、まだよそよそしい。
けれどアランがこうして腕の中にいると、それだけで少しずつ戻る場所になっていく気がする。
レギュラスは目を閉じて、額を寄せた。
「アラン」
「……はい」
「契約のことは、あとで怒ります」
そう言うと、アランは泣いた後の掠れた声で、少しだけ笑った。
「今じゃないんですか」
「今は無理ですね」
「どうしてです?」
「あなたが、そんな顔をしているので」
アランは意味を測りかねるみたいに見つめ返す。
その無垢さがまた困る。
レギュラスは小さく息を吐いて、彼女の頬にもう一度触れた。
「泣いてる顔のまま、僕にしがみついて」
「そんなふうに戻ってきてよかったって全身で言われたら」
そこで言葉を切る。
これ以上をそのまま言葉にするのは、少し惜しかった。
代わりに、静かに口づける。
今度は慰めだけではなく、ちゃんと欲の混じったものとして。
アランは少し驚いたように目を揺らしたが、拒まない。
涙の名残がまだ睫毛に残っていて、その濡れた頬に触れるたび、レギュラスの胸の奥はどうしようもなく満たされていく。
生きて戻った男を迎えて、ぼろぼろ泣いて、抱きついて、喜んでくれる。
そんな女を前にして、愛しさだけで済ませられるほど、自分はできた人間ではなかった。
レギュラスは彼女の肩を抱き寄せながら、低く囁く。
「今夜は、ちゃんとここにいます」
「だから」
少しだけ笑う。
「もう少し、僕を悦ばせてください」
アランはその言い方にまた頬を赤くした。
泣いたせいで熱を持ったその顔が、なおさら可愛らしく見えて、レギュラスはたまらず彼女を抱きしめ直した。
騎士団本部で対面した時。
弟より先に、目に入ったのはアラン・セシールだった。
肩の下くらいで揺れていた黒髪は、今はもっと長くなっている。
翡翠の瞳だけは変わらない。忘れようがないほど印象的な色だ。
当然ながら、自分が年齢を重ねたように、彼女も大人になっていた。
その当たり前の事実が、妙に胸に刺さった。
どうしようもなく気まずい。
多分、アランは自分とのことをレギュラスには打ち明けていないのだろう。
いや、打ち明けていたとしてもおかしくはないが、少なくとも今この場で、その気配はない。
それでも、よくその弟と付き合えたものだと思ってしまう。
そんなに自分のことを好きだったのかと。
また、あの頃の悪い癖みたいに、自惚れた考え方をしてしまう自分がいた。
最低だ、とすぐに思う。
けれど思考は一度滑ると止まらない。
「久しぶりですね、兄さん」
レギュラスが言った。
その声を聞いた瞬間、シリウスの中の何かがざり、と逆立つ。
「お前に兄さんって呼ばれる筋合いはねぇよ」
ほとんど反射でそう返していた。
「シリウス!」
ジェームズがすぐに声を上げる。
わかっている。
最初から喧嘩腰になるべきじゃない。
こういう場ではなおさらだ。
でも、駄目だった。
この弟の顔を見ると、どうしてもそうなる。
ブラック家の空気ごと連れてきたみたいなその整った顔を見ると、昔の自分に一気に引き戻される。
レギュラスは表情を変えなかった。
当然だと言うみたいに、その言葉を受け止めている。
それがまた、腹立たしい。
ダンブルドアからあらかじめ聞かされていた内容と一致することを、レギュラスはレギュラスの言葉で話し始めた。
分霊箱の存在に気づいたこと。
スリザリンのロケットがそれであると知り、それをブラック家のロケットとすり替えて持ち出したこと。
だが破壊できなかったこと。
そしてここに来る前に、デスイーターから襲撃を受けていたこと。
それはルシウス・マルフォイ率いる一団だったこと。
知っていることは共有して、戦う意思があると。
辻褄は合っていた。
理屈も通っていた。
通りすぎるほどに、逆に腹が立つ。
途中まで聞いたところで、シリウスはとうとう口を挟んだ。
「てめぇ、じゃあ最初に情報掴んだ二年間、どこにいやがったんだよ」
声が荒くなる。
「ひょろひょろ逃げてんじゃねーぞ、この卑怯野郎が」
「シリウス、君は本当、話をする姿勢がないね」
リーマスが冷たく言う。
うるさい。
みんな思っているだろう。
なぜ最初に気づいた段階で、その分霊箱の話をこちらへ渡さなかったのかと。
数年経って、自分じゃ無理だったから頼む、だなんて都合が良すぎると。
シリウスが睨みつけると、レギュラスはわずかに目を伏せた。
「遅くなりました」
「すみません」
素直に謝ってくるところが、この男らしい。
非を非であると認めて、首を差し出すような真似をしてくる。
だが実際には差し出していなくて、ちゃんと刃を隠している。
弟はそういう男なのだ。
かつての家族として、それはよく知っている。
謝罪の顔をしながら、その奥では何を切り捨てて、何を守るかを冷静に計算している。
表面の従順さに騙されるほど、シリウスはレギュラスを知らないわけじゃない。
「ところで」
ふいに、ジェームズが空気をまるで読まない調子で口を開いた。
「君たちは付き合ってるのかい?」
飛んだ質問だった。
シリウスのこめかみがぴくりと動く。
気になっていたところではある。ものすごく。
だが自分の口からは絶対に聞きたくなかった。
レギュラスは一瞬だけアランを見た。
それから、特にためらいもなく答える。
「ええ」
あまりにも自然な肯定だった。
「湖に行ってロケットをすり替えてから、一度湖の底に引きずり沈められて死にかけたんですが」
「彼女に助けられました」
「僕の空白の二年が、彼女との生活です」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ揺れた。
シリウスは何も言えなかった。
空白の二年。
アランとの生活。
その二つが、こんなに静かに同列に語られるとは思わなかった。
「そうかそうか、そうなんだってよシリウス」
ジェームズが露骨にこちらを見る。
「うるせぇんだよ、お前はよ」
シリウスは即座に返した。
だが声の勢いほど、自分の中身は単純ではなかった。
二年、という年月の意味は理解できた。
分霊箱を持ち帰ったあと、レギュラスは死にかけて、アランに助けられた。
それで姿を消していたのか。
そして何より。
レギュラスが全く否定せずに、アランとの関係を肯定したこと。
それがシリウスの中に、得体の知れない感情を育てていた。
嫌悪か。
安堵か。
嫉妬か。
罪悪感か。
そのどれもが少しずつ混ざっていて、輪郭がわからない。
アランはそのあいだ、ほとんど口を挟まなかった。
ただ静かに立っていた。
けれどシリウスは、昔の彼女とは違うことに気づいていた。
昔なら、もっとわかりやすくこちらを見ていただろう。
傷ついた顔をしても、まだ期待を残しているみたいな目で。
けれど今のアランは違う。
視線の重心が、自分ではなくレギュラスにある。
それが、どうしようもなく現実だった。
「……お前」
シリウスは思わず口を開いた。
レギュラスへ向けたつもりだったのに、出た言葉は途中で形を失う。
何を言いたかったのか、自分でもわからなかった。
アランを利用したくせに、よく平然とその女の恋人面ができるな、とでも。
あるいは、その女を泣かせたら今度こそ許さない、とでも。
どれを言っても、お前が言うな、で終わる気がした。
レギュラスはそんなシリウスを静かに見ている。
挑発も、軽蔑もない。
ただ、兄が今どういう顔をしているかを見極めようとする、冷静な目だけがある。
「何ですか」
低く問われる。
シリウスは舌打ちしたくなるのを堪えた。
その澄ました顔が昔から気に入らない。だが今は、それ以上に別のことで苛立っていた。
アランが、レギュラスの隣にいること。
しかもそこに無理がないこと。
ただ助けた相手としてではなく、本当に一緒に生きてきた空気があること。
それが、ひどく胸に障る。
「……いや」
結局、そうとしか言えない。
ジェームズが呆れたように息をつく。
リーマスはもう何も言わなかった。たぶん今のシリウスが何を言っても、半分は感情論になるとわかっているのだろう。
ダンブルドアだけが、そんな空気を静かに見ていた。
「シリウス」
老人が穏やかに呼ぶ。
「レギュラスに問うべきことがあるなら、問うとよい」
「ただし、今ここで必要なのは、家族の諍いではなく戦うための情報じゃ」
わかっている。
本当に腹が立つくらい、わかっている。
だからシリウスは腕を組み直し、意識的に声を低くした。
「……わかったよ」
それからレギュラスを見る。
「じゃあ聞くが、他にも分霊箱があるってのは確かなんだな」
レギュラスはすぐに頷いた。
「おそらく複数あります」
「一つだけで、あの男がそこまで執着するとは思えない」
「候補は?」
「まだ断定はできません」
「ただ、あの男が自分の歴史や象徴として意味を見いだすものに宿している可能性が高い」
「遺物、血筋、創設者、そういう種類です」
その答え方は、昔と変わらず腹立たしいほど明晰だった。
整理されていて、無駄がない。
シリウスは奥歯を噛みしめる。
こういうところだけを見ると、本当に「あの家の優等生」そのものだ。
だが今、この頭脳がこちら側にあるのも事実だった。
「デスイーターの動きは?」
「追跡は強くなります」
「闇の印が地方まで出た時点で、裏切り者の捜索は本格化していると見ていい」
「ルシウスが直接来たのも、その証拠です」
「ルシウスをどうやって抜けた」
シリウスが問うと、レギュラスはごく淡々と答える。
「他の連中を先に倒して、一騎打ちです」
「殺してはいません」
「時間を稼いだだけです」
それを聞いて、ジェームズが軽く目を見開く。
リーマスも少しだけ表情を変えた。
シリウスは、逆に何とも言えない気分になった。
レギュラスらしい。
あまりにも。
勝つ算段を立てて、必要なところだけ崩して抜けるやり方が。
そうだ。
こいつは元々、そういう男だった。
まともにぶつかって感情で殴るタイプじゃない。
最短で、最小の傷で、最も効果のある形に持っていく。
その頭脳を、今さら認めるのは癪だ。
けれど、認めないほど馬鹿でもいられない。
「……先生」
シリウスはダンブルドアを見た。
「とりあえず、こいつの話は使える」
「腹は立つが」
ジェームズが横で吹き出しそうになる。
シリウスは睨む。
「笑うな」
「いや、笑うだろ」
「腹は立つがってつける必要あったかい?」
「ある」
即答すると、今度はアランが少しだけ視線を伏せて笑った気がした。
その笑い方が昔と少し違う。
怯えるような笑いではなくて、ただ少し困って、でも今の場の空気を和らげようとする笑いだ。
それを見た瞬間、シリウスの胸の奥にまた鈍い痛みが走った。
自分は昔、あの顔を何度曇らせたのだろう。
どれだけ泣かせたのだろう。
しかも今、彼女はそれを表に出していない。
自分の前で過去を振りかざすこともしない。
ただレギュラスの隣に立っている。
そのことが、余計に罪深かった。
「…… アラン」
気づけば、名前を呼んでいた。
アランがこちらを見る。
翡翠の瞳は少しだけ驚いていたが、逃げなかった。
「その……」
言葉に詰まる。
ここで何を言う。
久しぶり、か。
元気そうだな、か。
それとも、昔は悪かった、か。
どれも違う気がした。
レギュラスが、ほんのわずかに前へ出る気配を見せる。
守るためか。
あるいはただ、こちらの意図を見ているだけか。
それがまた、シリウスを複雑な気分にさせた。
「……無事でよかった」
結局、そんなありきたりな言葉しか出なかった。
アランは一瞬だけ目を見開く。
それから、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その返事は、丁寧で、距離があって、でも完全に冷たくはなかった。
それが一番堪えた。
許されたわけではない。
許されるべきでもない。
けれど、憎しみをぶつけてくるわけでもない。
その大人になった対応の方が、よほど胸に刺さる。
シリウスはそれ以上、何も言えなかった。
代わりにレギュラスを見る。
弟は変わらず、静かな顔をしている。
だがその静けさの中に、アランを自分の隣へ置いたまま動かないという、はっきりした意思があった。
その意思が気に入らないような、
正しいような、
悔しいような。
わけのわからない感情が、また育っていく。
レギュラスがアランとの関係を肯定したこと。
しかも一切の迷いもなく。
それがシリウスの中に残したざらつきは、簡単には消えそうになかった。
その事実だけで充分だった。
アランは無事にダンブルドアに話をつけたのだ。
そして、何らかの形で信用を得てくれたのだと理解した。
さすがはアランだ、とレギュラスは思う。
見越しただけはある。
湖で沈んでいく自分を引き上げ、見ず知らずの男を数か月看病した時点で、もう知ってはいた。
随分と肝の据わった女だと。
それでも、こうしてホグワーツの石の廊下を自分の足で歩き、校長室へ通されている今、改めてその胆力に感服せざるを得なかった。
扉が開く。
校長室は、昔と何も変わらないように見えた。
静かな魔力の気配。
並ぶ肖像画。
古い知性の匂い。
「久しいの、レギュラス」
ダンブルドアがそう言った。
レギュラスは一礼する。
「ご無沙汰しています」
声は落ち着いていた。
少なくとも表面上は。
だが校長室の中にアランの姿がないことに気づいた瞬間、胸の奥にほんのわずかな空白が生まれた。
すぐに彼女の顔を見られると思っていたからだ。
拍子抜けしたような、少しだけ落ち着かないような気分になる。
ダンブルドアはその揺れに気づいたのか気づかないのか、特に何も言わず、机の上に置かれたロケットへ視線を落とした。
「このロケットじゃが」
老人は静かに言う。
「おそらく魔法呪具でしか破壊はできんのじゃろう」
レギュラスは頷いた。
「僕にはできませんでした」
「手を貸していただきたい」
そこからは、一つずつ説明した。
分霊箱の存在に気づいた経緯。
複数個ある可能性。
何か、闇の帝王の思い入れの深いものの中に宿されている可能性が高いこと。
言葉を選びながら、できるだけ順序立てて話す。
感情ではなく情報として。
疑われる前提で、疑う側が欲しいであろう論拠を先回りして差し出すように。
さらに、デスイーターとの衝突の際、こちらは各デスイーターの戦闘の癖や弱点を知っていること。
誰が威力偏重で、誰が防御に寄り、誰が怒ると粗くなるか。
魔力の流れや、呪文の選び方や、現場での連携の癖まで。
だからこそ騎士団側へ優位な情報を提供できるメリットがあるのだと示した。
そこまで話した時だった。
「そこまで言わんでもよい」
ダンブルドアがふいに言った。
レギュラスは言葉を切る。
「今や、ワシらは君を信じるしかない」
一瞬、意味がわからなかった。
「……どういうことです?」
レギュラスはわずかに眉を寄せた。
「疑って当然です」
「そのつもりで来ています」
「質問も、知っている範囲で包み隠さず話します」
ダンブルドアはその反応を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
どこか痛ましげですらある眼差しだった。
「そうじゃろうな」
「君はそういうつもりで来たのじゃろう」
老人は椅子に深く腰掛けたまま、指を組む。
「じゃが、アラン・セシールが、君のために何を差し出したかを知れば」
「もはやこちらに残されるのは、信じるか、彼女の命を無駄にするか、その二つだけじゃ」
レギュラスの表情が、そこで初めて崩れた。
「……何を」
声が低くなる。
喉が嫌な音を立てそうになるのを押さえ込む。
「アランが、何をしたんです?」
ダンブルドアはすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって答えの重さを際立たせる。
やがて老人は、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。
そこに残る魔力の質感だけで、レギュラスには嫌な予感がした。
「破れぬ魔法契約じゃ」
静かに告げられる。
レギュラスの目が、紙へ釘付けになる。
「君を受け入れ、分霊箱破壊に協力する条件として」
「もしレギュラス・ブラックが再び闇の帝王側へ戻り、ホグワーツ、騎士団、あるいは分霊箱破壊の計画に害をなした場合」
「アラン・セシールは、その命をもって償う」
レギュラスは、言葉を失った。
一瞬、本当に何も聞こえなかった。
校長室の空気も、肖像画の気配も、全部が遠のく。
アランが。
自分のために。
命を対価にした。
あまりのことに、怒りより先に、理解が追いつかなかった。
「……何故」
ようやく出た声は、驚くほど小さかった。
「何故、そんなものを」
ダンブルドアはレギュラスを見つめる。
その青い瞳は、責めてもいなければ、庇ってもいなかった。
ただ事実を見ろと告げるような目だった。
「何故、じゃと?」
老人はゆっくり言う。
「君を信じていたからじゃろう」
その一言が、ひどく重い。
レギュラスは羊皮紙を見たまま動けなかった。
アランならやる。
そう言われれば、たしかにやる女だとわかる。
無茶だと止めても、必要だと思えば、自分を差し出すことを厭わない。
見ず知らずの男を湖から引き上げた時点で、あの女はそういう種類の人間だった。
だが、だからといって。
自分のために、命まで。
「……勝手なことを」
思わずそう零すと、ダンブルドアはかすかに息をついた。
「そう思うなら、あとで本人に言うとよい」
「じゃが今は、その勝手さに応えるだけの価値を君自身が示す方が先じゃ」
レギュラスは顔を上げた。
銀の瞳の底に、ようやく別の熱が戻る。
衝撃でも、狼狽でもない。
もっと冷たく、もっと深いものだ。
「……撤回は」
「できん」
「契約はもう結ばれておる」
即答だった。
レギュラスは目を閉じた。
怒りたい。
叱りつけたい。
何を考えているのかと、アランの肩を掴んで問いただしたい。
そんな重さを、どうして一人で受け入れたのかと。
けれど同時に、わかってしまう。
アランは、自分がこうすると予測した上でなお契約したのだ。
レギュラスが知れば必ず嫌がるとわかっていて、それでも。
それしか、こちらに自分を信じさせる道がないと思ったから。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
「だから、分霊箱の破壊を必ず成し遂げる力が欲しい」
レギュラスはゆっくり目を開ける。
もう声はぶれていなかった。
「そして他の分霊箱も見つけ出し、破壊して」
「あの闇の男を永遠に葬り去らないといけない」
ダンブルドアは静かに頷いた。
「ようやく、同じ場所を見たの」
レギュラスはそれに答えず、机の上のロケットを見た。
自分が二年、破壊できなかったもの。
それが今や、アランの命まで繋いでしまっている。
許せなかった。
自分にも。
分霊箱にも。
そして何より、そこまでさせた状況そのものに。
「君はまだ、こちらが何故そこまで簡単に受け入れたのか納得しておらんようじゃな」
ダンブルドアが言う。
「当然です」
レギュラスは即座に返した。
「僕が騎士団の立場なら、もっと慎重に疑う」
「アランの命が懸かっているからといって、それだけで全てを預けたりはしない」
「よい」
ダンブルドアは頷く。
「その感覚は失うな」
「じゃがな、レギュラス。ワシは君を無条件に信じたわけではない」
レギュラスは老人を見る。
「君はもう、逃げるだけでは済まんところまで来ておる」
「分霊箱に辿り着き、そのロケットをここへ運ばせた時点で、君は自分の帰る道を半ば焼き払っておる」
「アランの契約はその証左に過ぎん」
「本質は、君がすでに後戻りできぬ位置まで来ていることじゃ」
それはたしかにそうだった。
もし今さら闇へ戻れば。
待っているのは栄光ではなく、分霊箱の情報と二年間の潜伏理由を詰められる地獄だ。
レギュラス自身がそれを一番よく知っている。
ダンブルドアは続ける。
「だからワシは、君を信じるというより」
「君がここで闇の帝王を終わらせる側に立つしかない状況を、利用することにしたのじゃよ」
ひどく正直な言い方だった。
だがその方が、レギュラスにはありがたかった。
綺麗事よりましだ。
アランの契約だけを美談のように扱われるより、ずっと。
「結構です」
レギュラスは低く言った。
「利用してください」
「その代わり、分霊箱を必ず壊したい」
ダンブルドアの目がわずかに光る。
「壊すだけでは足りん」
「残りを探し、道筋を作る」
「君には、その頭脳と記憶を全部使ってもらう」
「望むところです」
即答だった。
もうここまで来たのだ。
今さら半端に引き返す気はない。
アランが命まで差し出した以上、自分に残された道など、最初からひとつしかない。
「アランは、どこにいますか」
ふいに、レギュラスはそう尋ねた。
今度こそ、すぐに会いたかった。
怒りたいわけではない。
いや、たぶん怒る。
けれど、それ以上に顔を見たかった。
ダンブルドアはその問いに、ほんの少しだけやわらかな顔をした。
「別室で休ませておる」
「君が来るまで、一歩も動く気がないようじゃったがの」
その返答に、レギュラスは長く息を吐いた。
まったく、と思う。
勝手で、無茶で、こちらの予想をいつも少しだけ超えてくる女だ。
湖から引き上げられた時から、ずっとそうだった。
「先に会わせていただけますか」
「よかろう」
ダンブルドアは頷いた。
「じゃがその前に、ひとつだけ」
レギュラスは視線で先を促す。
「アランが差し出した命を、重荷としてだけ受け取るな」
老人は静かに言った。
「それは君への信頼じゃ」
「君が背負い潰されるためのものではなく、生きて進むために渡されたものだと忘れるでない」
レギュラスは少しだけ黙った。
忘れるなと言われても、簡単ではない。
重い。
重すぎる。
だが、それでも。
「……努力します」
そう返すと、ダンブルドアはかすかに笑った。
「アランにも同じことを言っておったみたいじゃな」
レギュラスは何も答えなかった。
代わりに、早くその女のところへ行きたいと、今はそれだけを強く思っていた。
騎士団の空気が、目に見えて変わった。
レギュラス・ブラック。
その名がダンブルドアの口から落ちた瞬間、部屋の中にいた全員の顔がわずかに強張る。
久しぶりに聞いた弟の名前だった。
忌々しい、とシリウスは思った。
純血主義を貫く、馬鹿な弟。
あの家に従順で、ブラックの名を誇り、闇へ落ちていった男だと、一蹴してきた。
その名を今さらこんな場で聞かされるなど、不快以外の何ものでもないはずだった。
闇の帝王に恐れをなして逃げ出したという噂は、すでに耳にしていた。
だがあくまで噂だ。
裏切ったのか、
使い潰されたのか、
それとも別の命令で潜っているだけなのか。
何ひとつ確かなものはなかった。
なのに今、ダンブルドアははっきり言った。
分霊箱とやらの秘密を突き詰め、その一つを持ち帰ってきたこと。
それをこちらに託したこと。
そして、デスイーターでありながら、騎士団側に全面協力していく姿勢であると宣言したこと。
「んなわけあるか」
シリウスは思わず吐き捨てた。
「あの弟が?
純血主義の結晶みたいなやつだぞ」
ジェームズがすぐ横で腕を組みながら言う。
「でも、分霊箱を持ち帰ってこっちに渡したんだぞ」
「ヴォルデモートへの裏切りだ」
確かに、そうだ。
それは理解できる。
もし本当にそんなことをしたのなら、レギュラスは死ぬまで追いかけられ続けるだろう。
あの陣営から抜けるというのは、そういうことだ。
それを覚悟の上でしているのだとしたら。
その意思は本物だと信じていいのか。
だが、どうしても腑に落ちない。
あの純血主義を。
あの家の論理を。
あれほど従順に信じて生きてきた男が。
そう簡単に思想を曲げてくるだろうか。
レギュラス・ブラックは、もっと頑固で、もっと不気味なほど綺麗にあの家の価値観を体現していたはずだった。
「先生」
リーマスが、やけに落ち着いた声で口を開く。
「レギュラス・ブラックを信じるからには、何か魔法契約で担保を賭けているのですか」
冷静で、鋭い。
こういう時、本当に嫌になるほどよく頭が回る。
ダンブルドアは静かに頷いた。
「そうじゃ」
「連れの女がいた」
「その女の命を賭けた」
女。
シリウスの中に、真っ先に浮かんだのは。
ベラトリックスのような女だった。
レギュラスの隣にいるのなら、どうせ同じ純血主義を唱える、選民思想に酔った女だろう。
グルでこちらを嵌めてくる可能性だってある。
命を賭けた?
そんなもの、どうせ芝居だ。
そう思いかけた、その時だった。
ダンブルドアが、何でもないことみたいに次の名を告げた。
「アラン・セシールじゃよ」
シリウスの思考が、一瞬止まった。
「……は?」
ジェームズの方が先に声を上げる。
「アラン? アラン・セシール?
あの、アラン・セシールですか?」
「ああ、そうじゃ」
ダンブルドアは頷く。
「君たちと同学年だったはずじゃ」
最悪の記憶で、全部が繋がった。
アラン・セシール。
忘れもしない。
ずっと好きだと。
あまりにも鬱陶しいくらいに純粋な好きを差し出す女だった。
当時の自分は、あまりにも子供だった。
愛を受け取るには未熟すぎた。
自分に寄ってくる女はいくらでもいた。
派手な女も、
体がいい感じにセクシーな女も、
こちらの気分を盛り上げるのが上手い女も、山ほどいた。
その中で、アラン・セシールはあまりにも地味だった。
目立たなくて、普通すぎた。
単体で見れば、たぶん、普通に可愛らしい子だったのだろう。
翡翠の瞳がとても印象的な、
長い黒髪を伸ばした少女だった。
けれど当時のシリウスには、その普通が軽かった。
だから軽く扱った。
結論から言えば。
申し訳ないほど彼女を、いいように使って、使って、使い果たした自覚がある。
君があんな地味な子と遊ぶなんて珍しいね、とジェームズに言われたことがあった。
その時、自分は笑って、
ああいう地味な女こそなんでも言うこと聞くし、最高にエロいんだよ、だなんて軽口を叩いた。
最低だ。
今思い返しても、本当にそう思う。
だが当時は、それを最低だとすら思っていなかった。
実際、本当に、こちらの要望の全てを飲んでくれる子だった。
激しくしても、
羞恥を煽る要求をぶつけても、
どんな時間に呼び出しても、
終わった後に放置しても。
なんでも許してくれる子だった。
あなたが好きだからという言葉を、いつもまっすぐくれる子だった。
そうか、好きならこれをして。
あれをして。
そこまで言うなら、これもできるだろう。
そんなふうに、どんどん彼女を使うだけになっていった。
ジェームズに、ほどほどにしておきなよ、と忠告されたこともあった。
その時すら、笑って流した。
大したことじゃないと思っていた。
彼女が嫌だと言わないのだから、問題ないのだと思っていた。
でも今になって思う。
本当に申し訳なかった、と。
大人になって、
また何人かとちゃんとした交際もして。
関係のあとに残る沈黙や、
雑に扱われた時の目の濁りや、
求めることと傷つけることの違いを、
少しは知ってしまった今だからこそ。
あの頃の彼女にした行いが、いかに最低だったか、思い知らされる。
謝るだなんてことで許されるわけがない。
そんな程度のことで帳消しになるはずがない。
シリウスにとって、アラン・セシールは。
あまりにも罪の名だった。
そんな女が。
まさかの。
レギュラス・ブラックのために、命を賭けたというのだ。
信じられなかった。
「……嘘だろ」
シリウスはようやく、それだけ言った。
掠れたような声だった。
ジェームズが横目でこちらを見る。
何か言いたそうにしているが、今は黙っていた。
ダンブルドアは静かに答える。
「嘘ではない」
「アランは自分の意思で契約を結んだ」
シリウスは拳を握りしめた。
どうして。
どうしてあの女が。
よりにもよってレギュラスのために。
いや、違う。
どうしてではない。
あの女なら、やる。
好きだと思った相手のためなら、
自分を差し出すことをためらわない。
愚かなほど真っ直ぐで、
馬鹿なほど一途で、
だからこそ壊れやすかった。
その性質を、自分はよく知っている。
知っていて、利用した。
だから余計に、吐き気がした。
「先生」
リーマスがまた口を開く。
「その契約、レギュラス本人は知っているんですか」
「今は知っておる」
ダンブルドアが答える。
「彼は大層驚いておったよ」
驚くだろう。
当然だ。
シリウスは目を閉じた。
レギュラス・ブラックがアラン・セシールと。
その組み合わせ自体がまず現実味を持たないのに。
しかも、アランが命を賭けるほどレギュラスを信じている。
それがどうしようもなく、胸の奥をざらつかせた。
嫉妬ではない。
今さらそんな資格はない。
ただ、自分がかつて踏みにじった女が。
自分の弟のためにそこまでしているという事実が。
あまりにも痛かった。
「シリウス」
ジェームズが低く呼ぶ。
顔を上げると、親友は少しだけ眉を寄せていた。
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃない」
シリウスは正直に言った。
「アラン・セシールが絡むなら、全然大丈夫じゃない」
そう言うと、ジェームズは一瞬だけ目を細めた。
彼は知っている。
当時の自分がどれほど雑にアランを扱っていたか、全部ではなくとも、かなりの部分を。
だから何も綺麗事を言わない。
リーマスだけが、少し静かな目でシリウスを見ていた。
責めるでもなく、庇うでもなく。
ただ、今さら逃げるなと言いたげな目だった。
ダンブルドアはそんな空気を見回したあと、ゆっくり口を開く。
「レギュラス・ブラックを受け入れることは、君たちにとっても簡単ではないじゃろう」
「じゃが、分霊箱という問題は、それを超えて重大じゃ」
「ワシらは、彼の情報と力を使わねばならぬ」
シリウスは歯を食いしばる。
わかっている。
頭では。
弟が本気でヴォルデモートを裏切ったのなら、それは大きい。
分霊箱を持ち帰ったという事実も、アランが命を賭けたという事実も、そこにある以上、もう単なる噂では済まない。
けれど感情が追いつかない。
純血主義の結晶みたいな弟。
ずっと軽蔑してきた弟。
その弟が、自分が壊した女に、命を賭けられている。
何ひとつ、平然とは受け取れなかった。
「……会うんですか」
シリウスは低く尋ねた。
「レギュラスに」
「会うべきじゃろうな」
ダンブルドアは頷く。
「君個人の感情はさておき、騎士団としては」
「そして兄としても」
兄として。
その言葉がひどく重い。
シリウスは苦く息を吐いた。
兄として、自分はあいつに何をしてきただろう。
憎み、見下し、距離を置いてきただけではないか。
理解しようとしたこともない。
家に染まりきった弟だと決めつけて、それで終わりだった。
それなのに今、あちらはヴォルデモートの秘密を抱えて、こちら側へ来ようとしている。
しかもアランを巻き込んで。
「……最悪だ」
ぽつりと零すと、ジェームズが肩をすくめた。
「その感想には同意する」
リーマスが静かに付け足す。
「でも、最悪だからといって放っておける状況じゃない」
「わかってるよ」
シリウスは苛立ち混じりに返した。
苛立っている相手が誰なのか、自分でもよくわからなかった。
レギュラスか。
アランか。
昔の自分か。
全部か。
ただひとつだけ、はっきりしていることがある。
もしアランが本当にレギュラスのために命を賭けたのなら。
今度こそ、自分は知らないふりをして逃げてはいけない。
あの頃の自分が彼女にしたことの償いにはならない。
なるはずもない。
それでも。
今ここでまた、彼女が命を賭けたものを「知らない」で済ませるのは。
さすがにあまりにも卑怯だった。
シリウスはゆっくり顔を上げた。
「先生」
「なんじゃ」
「レギュラス・ブラックには会います」
「ただし、簡単には信じない」
ダンブルドアは静かに頷く。
「当然じゃ」
「それから」
シリウスは少しだけ言葉を切る。
「アラン・セシールにも会わせてください」
その場の空気が、わずかに変わった。
ジェームズがこちらを見る。
リーマスも。
ダンブルドアだけが、最初からそう来ると思っていたような目をしていた。
「それも、必要じゃろうな」
必要。
そうだろう。
必要なのだ。
謝るためではない。
たぶん謝っても、何にもならない。
でもせめて。
今ここで、自分が昔踏みにじった相手が何を見て、何を信じて、レギュラス・ブラックのために命を賭けたのか。
それくらいは、自分の目で見なければならないと思った。
宿の寝台は、二人で暮らしていた家のものとは違った。
少しだけ広い。
けれど落ち着かない。
あの家ではない、というだけで、どこか借りものじみている。
デスイーターが来た以上、しばらくは戻れない。頭ではわかっていても、胸の奥ではまだ、あの狭い部屋の匂いや、窓辺の薬草や、使い慣れた食器の並ぶ棚を探してしまう。
だからこそ。
こうして生きて、アランの前へ戻ってこられたことが、レギュラスには現実味のないほど大きかった。
アランは、ぼろぼろ泣いていた。
大粒の涙をこぼして、
しゃくりあげるようにして、
何度も何度も、よかった、と繰り返す。
「よかった……」
「ほんとに……よかった……」
その声が震えていて、息もうまく続かなくて、それでも必死に抱きついてくる。
レギュラスは彼女を腕の中へ抱き込んだまま、小さく息をついた。
「心配かけましたね」
そう言うしかなかった。
本当は、それでは足りないのだろう。
勝手に命を賭けるような契約をしたことも、ちゃんと怒らなければいけないのだと思っていた。ホグワーツへ着いた時から、会ったらまずそれを言うつもりだった。
なのに今となっては、もう何一つ怒れない。
自分を案じて。
こんなにも泣きながら、
それでも背に腕を回して、ちゃんとこちらを受け入れてくれている女に。
言いようのない愛しさしか湧かなかった。
「泣かないで、アラン」
レギュラスは彼女の頬に触れて、そっと言った。
「僕を見てください」
アランはぐしゃぐしゃになった顔のまま、どうにか顔を上げた。
涙に揺れる翡翠の瞳が、宝石みたいにきらきらしている。
可愛らしかった。
あまりにも。
心の底から愛おしいと思うのに、こんな瞬間に相応しくない感情まで湧き起こるのだから、自分でもどうかしていると思う。
泣きながらこちらを見上げる顔が。
安心と、怖さと、戻ってきてくれた喜びと、全部を隠しきれずに揺れているその顔が。
ひどく胸を打つ。
「……ねぇ、アラン」
レギュラスは少しだけ困ったように笑った。
「その顔、反則です」
アランは涙の合間に瞬きをした。
意味がわかっているのかいないのか、まだ半分泣いている顔でこちらを見る。
「……何がですか」
「そんな顔で抱きつかれたら」
レギュラスは額を寄せるようにして、低く続けた。
「もう二度と離したくなくなる」
アランの睫毛がまた揺れた。
涙がひとつ、頬を伝って落ちる。
レギュラスはそれを親指で拭った。
それから、泣きすぎて熱を持った瞼にも、頬にも、こめかみにも、ゆっくり口づける。
宿の部屋は静かだった。
外の音は遠い。
ここにはもう、ルシウスも、闇の印も、黒いローブの群れもいない。
生きて戻った。
ただそれだけのことが、今は信じられないくらい重たかった。
「ほんとに……戻ってきた」
アランが、まだ少ししゃくり上げながら言う。
「ええ」
「嘘じゃない……」
「嘘じゃありません」
そのやりとりをしながら、レギュラスは彼女を寝台へゆっくり沈めた。
乱暴にはしない。
宥めるように。
安心させるように。
アランの指先が、彼の服を離さない。
離したらまた消えてしまうとでも思っているみたいで、胸が痛いほどだった。
「そんなに怖かったですか」
レギュラスが問うと、アランは少し怒ったように涙目で見返した。
「当たり前です……」
「死ぬかもって、思ったんですから」
その返しが、あまりにもまっすぐで。
レギュラスは目を細めた。
「すみません」
「ほんとにです」
「ええ」
「本当に」
言いながら、また頬へ触れる。
何度も確かめるように。
自分の方こそ、彼女がちゃんとここにいることを確かめたかった。
アランは泣きながら、それでもこちらを拒まなかった。
むしろ少しずつ、体の力を預けてくる。
不安と緊張がやっと解けて、こちらへ沈んでくるような、その頼り方だった。
レギュラスは、その重みがたまらなく好きだと思った。
生きていてよかったと。
戻ってきてよかったと。
この女が、こんなふうに泣いてくれる場所へ戻れるなら、何度でも地獄から這い上がる価値があると。
そう思う。
そして同時に、こんな瞬間に相応しくない感情がまた胸を熱くする。
泣き顔のまま見上げてくるアランは、どこか無防備で、どこか甘くて、見ているだけで指先が震えるほどだった。
愛しさと、欲と、安堵が一緒くたになって押し寄せてくる。
「レギュラス……」
アランが小さく名前を呼ぶ。
「はい」
「もう、どこにも行かないでください……」
その言葉に、レギュラスは少しだけ黙った。
行かない、とはまだ言えない。
分霊箱も、闇の帝王も、終わっていない。
けれど今この瞬間だけは、未来の話を持ち込みたくなかった。
「今は、ここにいます」
静かにそう言うと、アランはまた少しだけ泣きそうな顔をした。
それでも、今度はさっきより落ち着いた目だった。
レギュラスはその目を見ながら、ゆっくりと彼女を抱きしめた。
泣き声が少しずつ細くなる。
呼吸が整ってくる。
その変化を感じながら、彼は何度も彼女の髪を撫で、顔に触れ、口づけを落とした。
宿の寝台は、まだよそよそしい。
けれどアランがこうして腕の中にいると、それだけで少しずつ戻る場所になっていく気がする。
レギュラスは目を閉じて、額を寄せた。
「アラン」
「……はい」
「契約のことは、あとで怒ります」
そう言うと、アランは泣いた後の掠れた声で、少しだけ笑った。
「今じゃないんですか」
「今は無理ですね」
「どうしてです?」
「あなたが、そんな顔をしているので」
アランは意味を測りかねるみたいに見つめ返す。
その無垢さがまた困る。
レギュラスは小さく息を吐いて、彼女の頬にもう一度触れた。
「泣いてる顔のまま、僕にしがみついて」
「そんなふうに戻ってきてよかったって全身で言われたら」
そこで言葉を切る。
これ以上をそのまま言葉にするのは、少し惜しかった。
代わりに、静かに口づける。
今度は慰めだけではなく、ちゃんと欲の混じったものとして。
アランは少し驚いたように目を揺らしたが、拒まない。
涙の名残がまだ睫毛に残っていて、その濡れた頬に触れるたび、レギュラスの胸の奥はどうしようもなく満たされていく。
生きて戻った男を迎えて、ぼろぼろ泣いて、抱きついて、喜んでくれる。
そんな女を前にして、愛しさだけで済ませられるほど、自分はできた人間ではなかった。
レギュラスは彼女の肩を抱き寄せながら、低く囁く。
「今夜は、ちゃんとここにいます」
「だから」
少しだけ笑う。
「もう少し、僕を悦ばせてください」
アランはその言い方にまた頬を赤くした。
泣いたせいで熱を持ったその顔が、なおさら可愛らしく見えて、レギュラスはたまらず彼女を抱きしめ直した。
騎士団本部で対面した時。
弟より先に、目に入ったのはアラン・セシールだった。
肩の下くらいで揺れていた黒髪は、今はもっと長くなっている。
翡翠の瞳だけは変わらない。忘れようがないほど印象的な色だ。
当然ながら、自分が年齢を重ねたように、彼女も大人になっていた。
その当たり前の事実が、妙に胸に刺さった。
どうしようもなく気まずい。
多分、アランは自分とのことをレギュラスには打ち明けていないのだろう。
いや、打ち明けていたとしてもおかしくはないが、少なくとも今この場で、その気配はない。
それでも、よくその弟と付き合えたものだと思ってしまう。
そんなに自分のことを好きだったのかと。
また、あの頃の悪い癖みたいに、自惚れた考え方をしてしまう自分がいた。
最低だ、とすぐに思う。
けれど思考は一度滑ると止まらない。
「久しぶりですね、兄さん」
レギュラスが言った。
その声を聞いた瞬間、シリウスの中の何かがざり、と逆立つ。
「お前に兄さんって呼ばれる筋合いはねぇよ」
ほとんど反射でそう返していた。
「シリウス!」
ジェームズがすぐに声を上げる。
わかっている。
最初から喧嘩腰になるべきじゃない。
こういう場ではなおさらだ。
でも、駄目だった。
この弟の顔を見ると、どうしてもそうなる。
ブラック家の空気ごと連れてきたみたいなその整った顔を見ると、昔の自分に一気に引き戻される。
レギュラスは表情を変えなかった。
当然だと言うみたいに、その言葉を受け止めている。
それがまた、腹立たしい。
ダンブルドアからあらかじめ聞かされていた内容と一致することを、レギュラスはレギュラスの言葉で話し始めた。
分霊箱の存在に気づいたこと。
スリザリンのロケットがそれであると知り、それをブラック家のロケットとすり替えて持ち出したこと。
だが破壊できなかったこと。
そしてここに来る前に、デスイーターから襲撃を受けていたこと。
それはルシウス・マルフォイ率いる一団だったこと。
知っていることは共有して、戦う意思があると。
辻褄は合っていた。
理屈も通っていた。
通りすぎるほどに、逆に腹が立つ。
途中まで聞いたところで、シリウスはとうとう口を挟んだ。
「てめぇ、じゃあ最初に情報掴んだ二年間、どこにいやがったんだよ」
声が荒くなる。
「ひょろひょろ逃げてんじゃねーぞ、この卑怯野郎が」
「シリウス、君は本当、話をする姿勢がないね」
リーマスが冷たく言う。
うるさい。
みんな思っているだろう。
なぜ最初に気づいた段階で、その分霊箱の話をこちらへ渡さなかったのかと。
数年経って、自分じゃ無理だったから頼む、だなんて都合が良すぎると。
シリウスが睨みつけると、レギュラスはわずかに目を伏せた。
「遅くなりました」
「すみません」
素直に謝ってくるところが、この男らしい。
非を非であると認めて、首を差し出すような真似をしてくる。
だが実際には差し出していなくて、ちゃんと刃を隠している。
弟はそういう男なのだ。
かつての家族として、それはよく知っている。
謝罪の顔をしながら、その奥では何を切り捨てて、何を守るかを冷静に計算している。
表面の従順さに騙されるほど、シリウスはレギュラスを知らないわけじゃない。
「ところで」
ふいに、ジェームズが空気をまるで読まない調子で口を開いた。
「君たちは付き合ってるのかい?」
飛んだ質問だった。
シリウスのこめかみがぴくりと動く。
気になっていたところではある。ものすごく。
だが自分の口からは絶対に聞きたくなかった。
レギュラスは一瞬だけアランを見た。
それから、特にためらいもなく答える。
「ええ」
あまりにも自然な肯定だった。
「湖に行ってロケットをすり替えてから、一度湖の底に引きずり沈められて死にかけたんですが」
「彼女に助けられました」
「僕の空白の二年が、彼女との生活です」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ揺れた。
シリウスは何も言えなかった。
空白の二年。
アランとの生活。
その二つが、こんなに静かに同列に語られるとは思わなかった。
「そうかそうか、そうなんだってよシリウス」
ジェームズが露骨にこちらを見る。
「うるせぇんだよ、お前はよ」
シリウスは即座に返した。
だが声の勢いほど、自分の中身は単純ではなかった。
二年、という年月の意味は理解できた。
分霊箱を持ち帰ったあと、レギュラスは死にかけて、アランに助けられた。
それで姿を消していたのか。
そして何より。
レギュラスが全く否定せずに、アランとの関係を肯定したこと。
それがシリウスの中に、得体の知れない感情を育てていた。
嫌悪か。
安堵か。
嫉妬か。
罪悪感か。
そのどれもが少しずつ混ざっていて、輪郭がわからない。
アランはそのあいだ、ほとんど口を挟まなかった。
ただ静かに立っていた。
けれどシリウスは、昔の彼女とは違うことに気づいていた。
昔なら、もっとわかりやすくこちらを見ていただろう。
傷ついた顔をしても、まだ期待を残しているみたいな目で。
けれど今のアランは違う。
視線の重心が、自分ではなくレギュラスにある。
それが、どうしようもなく現実だった。
「……お前」
シリウスは思わず口を開いた。
レギュラスへ向けたつもりだったのに、出た言葉は途中で形を失う。
何を言いたかったのか、自分でもわからなかった。
アランを利用したくせに、よく平然とその女の恋人面ができるな、とでも。
あるいは、その女を泣かせたら今度こそ許さない、とでも。
どれを言っても、お前が言うな、で終わる気がした。
レギュラスはそんなシリウスを静かに見ている。
挑発も、軽蔑もない。
ただ、兄が今どういう顔をしているかを見極めようとする、冷静な目だけがある。
「何ですか」
低く問われる。
シリウスは舌打ちしたくなるのを堪えた。
その澄ました顔が昔から気に入らない。だが今は、それ以上に別のことで苛立っていた。
アランが、レギュラスの隣にいること。
しかもそこに無理がないこと。
ただ助けた相手としてではなく、本当に一緒に生きてきた空気があること。
それが、ひどく胸に障る。
「……いや」
結局、そうとしか言えない。
ジェームズが呆れたように息をつく。
リーマスはもう何も言わなかった。たぶん今のシリウスが何を言っても、半分は感情論になるとわかっているのだろう。
ダンブルドアだけが、そんな空気を静かに見ていた。
「シリウス」
老人が穏やかに呼ぶ。
「レギュラスに問うべきことがあるなら、問うとよい」
「ただし、今ここで必要なのは、家族の諍いではなく戦うための情報じゃ」
わかっている。
本当に腹が立つくらい、わかっている。
だからシリウスは腕を組み直し、意識的に声を低くした。
「……わかったよ」
それからレギュラスを見る。
「じゃあ聞くが、他にも分霊箱があるってのは確かなんだな」
レギュラスはすぐに頷いた。
「おそらく複数あります」
「一つだけで、あの男がそこまで執着するとは思えない」
「候補は?」
「まだ断定はできません」
「ただ、あの男が自分の歴史や象徴として意味を見いだすものに宿している可能性が高い」
「遺物、血筋、創設者、そういう種類です」
その答え方は、昔と変わらず腹立たしいほど明晰だった。
整理されていて、無駄がない。
シリウスは奥歯を噛みしめる。
こういうところだけを見ると、本当に「あの家の優等生」そのものだ。
だが今、この頭脳がこちら側にあるのも事実だった。
「デスイーターの動きは?」
「追跡は強くなります」
「闇の印が地方まで出た時点で、裏切り者の捜索は本格化していると見ていい」
「ルシウスが直接来たのも、その証拠です」
「ルシウスをどうやって抜けた」
シリウスが問うと、レギュラスはごく淡々と答える。
「他の連中を先に倒して、一騎打ちです」
「殺してはいません」
「時間を稼いだだけです」
それを聞いて、ジェームズが軽く目を見開く。
リーマスも少しだけ表情を変えた。
シリウスは、逆に何とも言えない気分になった。
レギュラスらしい。
あまりにも。
勝つ算段を立てて、必要なところだけ崩して抜けるやり方が。
そうだ。
こいつは元々、そういう男だった。
まともにぶつかって感情で殴るタイプじゃない。
最短で、最小の傷で、最も効果のある形に持っていく。
その頭脳を、今さら認めるのは癪だ。
けれど、認めないほど馬鹿でもいられない。
「……先生」
シリウスはダンブルドアを見た。
「とりあえず、こいつの話は使える」
「腹は立つが」
ジェームズが横で吹き出しそうになる。
シリウスは睨む。
「笑うな」
「いや、笑うだろ」
「腹は立つがってつける必要あったかい?」
「ある」
即答すると、今度はアランが少しだけ視線を伏せて笑った気がした。
その笑い方が昔と少し違う。
怯えるような笑いではなくて、ただ少し困って、でも今の場の空気を和らげようとする笑いだ。
それを見た瞬間、シリウスの胸の奥にまた鈍い痛みが走った。
自分は昔、あの顔を何度曇らせたのだろう。
どれだけ泣かせたのだろう。
しかも今、彼女はそれを表に出していない。
自分の前で過去を振りかざすこともしない。
ただレギュラスの隣に立っている。
そのことが、余計に罪深かった。
「…… アラン」
気づけば、名前を呼んでいた。
アランがこちらを見る。
翡翠の瞳は少しだけ驚いていたが、逃げなかった。
「その……」
言葉に詰まる。
ここで何を言う。
久しぶり、か。
元気そうだな、か。
それとも、昔は悪かった、か。
どれも違う気がした。
レギュラスが、ほんのわずかに前へ出る気配を見せる。
守るためか。
あるいはただ、こちらの意図を見ているだけか。
それがまた、シリウスを複雑な気分にさせた。
「……無事でよかった」
結局、そんなありきたりな言葉しか出なかった。
アランは一瞬だけ目を見開く。
それから、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その返事は、丁寧で、距離があって、でも完全に冷たくはなかった。
それが一番堪えた。
許されたわけではない。
許されるべきでもない。
けれど、憎しみをぶつけてくるわけでもない。
その大人になった対応の方が、よほど胸に刺さる。
シリウスはそれ以上、何も言えなかった。
代わりにレギュラスを見る。
弟は変わらず、静かな顔をしている。
だがその静けさの中に、アランを自分の隣へ置いたまま動かないという、はっきりした意思があった。
その意思が気に入らないような、
正しいような、
悔しいような。
わけのわからない感情が、また育っていく。
レギュラスがアランとの関係を肯定したこと。
しかも一切の迷いもなく。
それがシリウスの中に残したざらつきは、簡単には消えそうになかった。
