1章
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レギュラス・ブラックの杖から放たれる魔力には、きっと痕跡を後消しする呪文も同時に織り込まれているのだろうと、ルシウスは前々から考えていた。
あの男なら、それくらいはやる。
そして痕跡が残るほど強い呪文は使わずに生活していたのだろう。
だから二年ものあいだ、見つけられなかった。
だがようやく、見つけた。
こんな寂れた街に。
あのレギュラス・ブラックが、息を潜めて暮らしているなどと、誰が想像できただろうか。
必ず生きて、あの男を闇の帝王の前に連れて行かねばならない。
それが自分に課せられた使命だった。
レギュラスを処分する権利は、ルシウスにはない。
あの方のものだ。
だからこそ、余計な傷はつけたくないし、無駄な争いもしたくない。だが相手はレギュラス・ブラックだ。聡明で、冷静で、追い詰められた時ほど厄介な男だと知っている。
そういう覚悟で来た。
来た、のだが。
目の前の家を見た時、ルシウスはさすがに言葉を失いかけた。
犬小屋みたいな家だった。
いや、さすがに犬小屋とまでは言い過ぎかもしれない。
だがブラック家の人間が住むにはあまりにも狭く、粗末で、みずぼらしい。屋敷という言葉とは最も遠い場所にあるような家だ。外壁は擦れ、窓は小さく、庭とも呼べない場所に乾きかけた薬草が吊るされている。
そこで、女と二人で暮らしているという。
その落ちぶれように、ルシウスは心底驚愕した。
あのレギュラス・ブラックが。
生まれた時から選ばれた空気しか吸ってこなかったような男が。
こんな場所で。
しかも女と二人で。
ルシウスは黒い手袋の指先を軽く折り、後ろのデスイーターたちへ合図した。
数人が散る。
逃げ道を塞ぎ、玄関へ寄る。
音を立てる前に、扉は開いた。
女が出てくる。
若い。
黒髪で、化粧っ気もなく、こんな場面に似つかわしくないほど普通の女だった。田舎の垢抜けない女、という印象しか最初はなかった。
だが、その翡翠の瞳だけは妙に目についた。
何かを言おうと口を開く。
けれどその前に、デスイーターが背後から素早く口を塞いだ。
女の肩がびくりと跳ねる。
短い悲鳴は掌の中に吸い込まれ、音にならない。もう一人がその腕を押さえ、あっという間に身動きを封じる。
ルシウスは遅れて家の中へ入った。
狭い。
本当に狭い。
寝台も、食卓も、棚も、暖炉も、全部ひとつの部屋に収まっている。薬瓶や乾燥草の匂いが濃い。生活の気配がありありと残っていて、そこが余計に癪に障った。
そして、その部屋の中央で。
レギュラス・ブラックはすでに杖を構えていた。
ルシウスは思わず、少しだけ口元を緩めた。
さすがだ。
一瞬で察したのだろう。
鋭さは相変わらずだった。目の冷え方も、間合いの取り方も、まるで昔のままだ。
だが、その鋭さがあるのならば。
女を先に出させたのは、あまりにも愚かすぎる。
「随分と、みずぼらしくなってしまったじゃないか」
ルシウスは室内を見回しながら言った。
「レギュラス。一体どうしたのだ」
レギュラスは答えなかった。
銀色の瞳が、ルシウスではなく、背後で押さえられている女へ向いている。
「ルシウス」
低い声だった。
「お願いです。彼女を離してくれませんか」
ルシウスは笑いそうになった。
あのレギュラス・ブラックが。
いくらでも女を選べるような男が。
その気になれば貴族の娘でも、有力者の未亡人でも、いくらでも美しいものを手にできた男が。
たった一人。
こんな田舎の、垢抜けないような女のために。
必死に請うている。
その事実があまりにも可笑しくて、ルシウスは少しだけ首を傾げた。
背後では、デスイーターが女を床へ押し倒していた。
黒いローブが乱暴に広がる。杖先が女の喉元へ当てられる。レギュラスの動き次第で、いくらでも殺せるという意図を、これでもかとわかりやすく示していた。
女が何か言おうともがく。
するとデスイーターはその口元をさらに強く押さえつけ、声を殺した。翡翠の瞳が苦しげに見開かれる。
「やめてください、ルシウス」
レギュラスの声が、今度ははっきりと揺れた。
「行きましょう。闇の帝王のところへ」
「だから離してください」
あまりに話が早すぎて、拍子抜けするほどだった。
ルシウスは目を細める。
抵抗するだろうと思っていた。
少なくとも一度は呪文の応酬になると覚悟していた。
それがどうだ。
この男は、女一人を盾に取られただけで、もう自分から差し出そうとしている。
いや、違うかとルシウスは思い直す。
女一人、ではないのだろう。
レギュラスにとっては。
「さすがは優等生だ」
ルシウスは静かに微笑んだ。
「話が早くて助かるよ。私も君と争いたくて来たわけじゃない」
本音だった。
レギュラス・ブラックを生きたまま、あの方の元へ連れて行く。
それが求められていることなのだから、それ以上のことはしたくない。
女を傷つける趣味もない。
こんな街で無駄な騒ぎを大きくしたいわけでもない。
ただ、ルシウスは知っている。
ここで情けを見せれば、レギュラスはつけ込む。
昔からそういう男だ。柔らかい言葉を使いながら、隙を見つければ一瞬で喉笛に噛みつく。
「杖を捨てろ」
短く言う。
レギュラスの目が、ようやくルシウスへ戻る。
昔と同じ銀の光だ。だがその奥にあるものは、二年前に見た最後のそれとは違う。鋭いだけではない。何か、守るものを持った人間の目になっていた。
それがまた、ルシウスには気に入らなかった。
「ルシウス」
レギュラスは杖を構えたまま言う。
「彼女は本当に何も知らない」
「関係ないんです」
「そうだろうとも」
ルシウスは肩を竦める。
「だから殺したくはない。君が余計な真似をしなければな」
床に押さえつけられた女が、必死に顔を上げようとしている。
押さえられた口元から漏れる息は細い。けれど目だけはレギュラスを見ていた。恐怖より先に、彼の方を見ている。
なるほど、とルシウスは思う。
ただ囲っていたわけではないらしい。
情が通っている。
それも相当深く。
だからレギュラスは折れた。
だからここまで素直に“行く”と言う。
愚かだ。
愚かだが、少し羨ましくもある。そこまで男を変える女というのは、存外、派手でも高貴でもないのかもしれない。
そんなことを考えた自分に、ルシウスは内心で苦笑した。
余計な感傷だ。
「杖を」
もう一度言うと、レギュラスは長く息を吐いた。
銀の目が、最後に女へ向く。
何かを言いたいのだろうが、こんな状況で言葉など意味を持たない。
やがて彼は、ゆっくりと杖を床へ置いた。
その瞬間、デスイーターたちの緊張がわずかに解ける。
だがルシウスは手を上げて制した。
「油断するな」
低く言う。
「相手はレギュラス・ブラックだ」
かつて優等生と呼ばれ、将来を嘱望され、そしてあの方を裏切った男。
ここで簡単に終わるような相手ではない。
ルシウスは一歩近づいた。
「賢明な判断だよ、レギュラス」
「その調子で、最後まで聞き分けよくしてくれると助かる」
レギュラスは何も言わない。
ただ、その視線だけが刺すように冷たい。
だが今は、その冷たさよりも、背後の女を振り返りそうになる衝動の方が目についた。
そこまで堕ちたか、と思う。
あるいは、そこまで人間らしくなったというべきか。
どちらにせよ。
闇の帝王の前へ連れて行かれた時、この男がどういう顔をするのか。
そしてその時、この女の存在がどう働くのか。
ルシウスはそれを、少しだけ興味深く思っていた。
女をいつまでも床に押さえつけておく必要は、もうなかった。
レギュラス・ブラックは素直に応じたのだ。
ならば、これ以上ああいう格好の悪い真似を続ける意味はない。
ああした光景は品がなくて、ルシウスの好みではなかった。
「離してやれ」
そう言うと、デスイーターが女から手を離した。
解放された女は、すぐには起き上がれなかった。
喉元に杖をぐりぐりと押しつけられ、口元も強く塞がれていたせいだろう。空気を取り戻すように、何度か激しく咳き込む。肩が細かく震え、そのたび黒髪が乱れた。
レギュラスがすぐに駆け寄る。
膝をつき、女の体を起こしてやる。
背を支え、倒れないように腕を回す。
美しい光景なのかもしれない。
そう思えなくもなかった。
けれどルシウスには、あまりにもみずぼらしく見えた。
何もかもが、だ。
女の安っぽさも。
そんな女に膝をついて体を支えている男も。
まるでその辺にいる男女ではないか。
マグルの街にでも紛れ込めそうなほど、平々凡々としていて、おかしくて仕方がない。
あのレギュラス・ブラックが。
生まれながらに選ばれたような顔をして、何もかも持っていたはずの男が。
こんな狭い家で、こんな女のために膝をついている。
ルシウスは内心で笑った。
「レギュラス……」
女が咳の合間に言う。
まだ喉が痛むのか、声は掠れていた。
「私も行きます」
「一人で行かないでください」
レギュラスは答えなかった。
ただ、そのまま女を支えたまま、考え込んでいる。
その沈黙だけで、ルシウスには十分だった。
どちらを選んでも地獄が待っている。
この女は、レギュラス・ブラックと共にいたというだけで、十分に価値がある。
情報を引き出すための鍵だ。
闇の帝王の前に連れていけば、それだけで使い道はいくらでもある。
ルシウスの使命は、あくまでレギュラス・ブラックを連れてくること。
それだけだ。
それ以上はしない。
だが、他のデスイーターたちは違う。
闇の帝王の前に、二年間レギュラス・ブラックを匿った女を連れて行けるとなれば。
喜んでこの女を捕らえるだろう。
そして、どこへ逃げてもこんな女はすぐに捕まる。
見たところ、大した魔力も呪文の腕もなさそうだ。
一瞬でやられるだろう。
しかも、まあ、悪くない顔をしている。
垢抜けなさは拭えないが、さすがはレギュラス・ブラックが惚れ込んだ女なだけはある、というところか。
下っ端の、品のないデスイーターたちなら。
こういう女は格好の餌食にするだろう。
想像にたやすい。
だからこそ、今、レギュラスが悩んでいるのが可笑しかった。
連れて行くか。
ここに置いていくか。
どちらを選んでも、結局この女に平穏はない。
「ルシウス……」
レギュラスがようやく口を開いた。
その声には、先ほどまでの鋭さとは違うものが混じっていた。
ためらいと、嫌悪と、焦りと。
それらが一つに混ざったような、あまりにも人間臭い声音だった。
「闇の帝王の前に、彼女を連れて行けば」
「どうなると思います?」
ルシウスは思わず目を細めた。
この男から発せられた質問にしては、あまりにもレベルが低すぎる。
驚いた。
本当に。
女というものが、男をここまでみっともなく、弱々しく変えていくのかと、思わずにはいられなかった。
「さあな」
ルシウスは肩を竦めた。
「私は知ったことではない」
「だが、お前を匿った女だ。すでに嗅ぎついているデスイーターたちはいるだろうな」
わざと淡々と言う。
脅したいわけではない。
事実をそのまま告げているだけだ。
レギュラスの指先が、女の腕を支える位置でわずかに強張る。
女の方は、黙ってレギュラスを見上げていた。
恐怖で震えていないわけではない。
それでも、自分のことより先に、この男がどうするのかを見ている目だ。
厄介だと、ルシウスは思う。
ただの隠れ家の女ではない。
情が通っている。
しかも互いに、それを相手の弱みと知ったうえでなお切り捨てられない程度には深く。
レギュラス・ブラックのため息が、またひとつ落ちた。
その吐息に、ルシウスは少しだけ愉快さを覚える。
昔のレギュラスなら、もっと冷たく計算しただろう。
女一人を切るか生かすか、そんなもの一瞬で判断したはずだ。
少なくとも、他人の前でここまで迷いを晒したりはしなかった。
だが今のこの男は違う。
自分の手の中で苦しそうに咳き込む女を見ながら、本気で悩んでいる。
連れて行けば地獄。
置いていっても地獄。
どちらがまだましなのか、それを必死に量ろうとしている。
滑稽だった。
そして少しだけ、羨ましくもあった。
ここまで誰かを抱え込めるというのは、男としてひどく厄介だが、同時に本物でもある。
「どうする、レギュラス」
ルシウスはゆっくり問いかけた。
「連れて行くか?」
「それとも、ここへ置いていくか?」
女の肩が小さく震える。
レギュラスは答えない。
ただ、その銀の瞳だけが鋭く沈んでいく。
計算しているのだろう。
時間を稼げるか。
誰かに託せるか。
この場をどうにか崩せるか。
だが、ルシウスは知っている。
そうやって考え込んでいる時点で、もうレギュラスは女に負けているのだ。
昔の自分なら選ばなかった不自由を、この男はすでに選んでしまっている。
女はようやく咳を鎮めると、レギュラスのローブを掴んだ。
「……私は、置いていかれても平気です」
掠れた声で、そう言う。
嘘だとすぐにわかった。
平気な女の顔ではない。
だが、それでもそう言うのは、この女なりにレギュラスを楽にしてやろうとしているのだろう。
それがまた、余計に面白かった。
レギュラスはゆっくりと女を見下ろした。
その目に宿るものは、ルシウスにも読めた。
怒りだ。
悲しみだ。
そして、どうしようもなく深い執着だ。
「そんな顔をするな」
低く、レギュラスが言う。
女ではなく、自分に言い聞かせるようにも聞こえた。
それからようやく、ルシウスへ視線を向ける。
「彼女は連れて行きません」
きっぱりと言った。
ルシウスは眉を上げる。
「置いていくのか」
「ええ」
その返答の早さに、逆に少しだけ意外さを覚えた。
もっと迷うと思っていたからだ。
だが次の瞬間、レギュラスは女の耳元へ顔を寄せ、何か低く囁いた。
声は聞き取れない。
けれどその内容が命令か、願いか、あるいはその両方なのだろうということだけはわかった。
女は一瞬だけ目を見開き、それからひどく苦しそうな顔で首を振りかけた。
だが、レギュラスの指が頬に触れると、言葉を呑み込んだ。
なるほど、とルシウスは思う。
そうやって従わせるのか。
優しく。
だが逆らわせない形で。
昔より厄介になったかもしれない。
「賢明だな」
ルシウスは静かに言った。
「その女を連れてくれば、お前は最後まで冷静でいられないだろう」
「置いていけば、少なくとも今ここでは守ったつもりになれる」
レギュラスは返事をしない。
ただ、女をゆっくり床から立たせる。
その動きひとつひとつが、あまりにも丁寧で。
それがまたルシウスには奇妙だった。
あのレギュラス・ブラックが、こんなふうに女を扱うとは。
女の方は、まだ何か言いたそうだった。
だが口にはしない。
代わりにレギュラスの手首を一瞬だけきつく握り、それからゆっくり離した。
その短いやり取りだけで、二人のあいだに何があるかは十分に見えた。
ルシウスはもう一度、少しだけ笑った。
みずぼらしい。
けれど、それでも切実だ。
そしてその切実さこそが、闇の帝王の前では何よりよく燃えるだろうと、冷静にそう思っていた。
耳元で囁かれた言葉が、すぐには意味にならなかった。
戸棚の瓶の中に、ロケットがあります。
あれが分霊箱です。
それを持ってダンブルドアのところに行ってください。
僕の名前を出して。
レギュラス・ブラックと。
アランは目を見開いた。
ブラック。
その名前を知らないわけがない。
この魔法界において、最たる貴族の名だ。
古く、重く、圧倒的な純血主義を誇る一族。
そして、代々、闇の魔法使いを多く出してきた家。
ブラック。
その響きだけで、背筋が冷える者もいる。
社交界であれ、学校であれ、その名には常に特別な重みがあった。
そして、もうひとつ。
彼は。
シリウス・ブラックの弟だ。
頭がぐらりとなりそうだった。
押さえつけられた息苦しさとも、喉の痛みとも違う。
もっと奥の、昔の傷をいきなり素手で掴まれたみたいな揺れだった。
学生時代。
好きで好きでたまらなかったけれど、結局一番にはしてもらえないまま、何度も縋って、何度も切り捨てられた。
シリウス・ブラックに。
あの人の弟。
自分が数年をかけて看病して、抱きしめて、名前を呼んで、眠れない夜を一緒に越えてきた男が。
あのシリウスの弟。
頭の中で、色々な記憶が勝手に繋がりかける。
似ていたのだ。
鼻筋も、骨格も、横顔も。
瞳の色まで。
ずっと、少しだけ似ていると思っていた。
その正体が、まさか本当に同じ血筋だったなんて。
衝撃が大きすぎて、理解が追いつかない。
今は、シリウス・ブラックのことを考えている場合ではないのに。
目の前ではデスイーターたちが息を殺している。
ルシウス・マルフォイが、こちらを冷静に見ている。
レギュラスはこれから連れて行かれるのだ。
自分に託された任務は、あまりにも重い。
なのに、脳のどこかが勝手に昔へ引きずられそうになる。
シリウス・ブラック。
笑った顔。
ぞんざいな手つき。
気まぐれな熱。
何度期待して、何度傷ついたかもわからない。
その弟が。
今、自分の目の前で、命を賭けるみたいに真実を渡してきた。
アランは息を呑んだ。
レギュラスはそんな彼女の揺れを、当然見ていたはずだった。
けれど何も言わない。
今この瞬間に、彼女の中で何が起きたのか、たぶん察しただろうに。
それでもただ、静かな目で見ている。
そこにあるのは嫉妬でも、探る色でもない。
託すしかない人間の、切実な静けさだった。
「……レギュラス」
名前を呼ぶ声が、自分でも頼りなかった。
ブラック、の方は言えなかった。
まだ喉が受けつけない。
レギュラスはごくわずかに首を振った。
今は何も言うな、とでもいうみたいに。
「行ってください」
囁きに近い、低い声だった。
「今は、それだけを」
アランは唇を噛んだ。
今は、それだけ。
そうだ。
今はシリウス・ブラックの弟であることに衝撃を受けている場合ではない。
今は昔の自分の愚かな恋を思い出して立ち尽くしている場合でもない。
戸棚の瓶の中のロケット。
分霊箱。
ダンブルドア。
レギュラス・ブラック。
その四つだけを抱えて、ここを出なければならない。
けれど足がすぐには動かなかった。
目の前の男が、急に遠くなった気がしたからだ。
小さな家で一緒に眠って、
市場で野菜を選んで、
自分の下着の洗い方まで覚えて、
不器用に嫉妬して、
何度も名前を呼んでくれたレギュラスが。
急に、手の届かない側の人間に見えた。
レギュラス・ブラック。
その名を持つ人間だったのだと、今さら思い知らされる。
自分が毎日見ていた男の中に、ずっと貴族の気配が滲んでいたのは、そういうことだったのだ。
けれど同時に、アランはわかってしまう。
その名を今まで隠していたのは、彼なりの恐れだったのだろうと。
ブラックという名前が自分を怖がらせるかもしれないと、ずっと知っていたのだろうと。
そしてその恐れは、たぶん正しかった。
実際、アランの心は今、ぐらぐらと揺れている。
シリウスの顔が浮かぶ。
ブラック家の噂が浮かぶ。
純血主義の冷たい空気が蘇る。
なのに。
それでも、目の前にいるレギュラスが、夜中に自分へ縋りついていた男と同じ人間であることも、ちゃんと知っている。
アランはようやく息を吸った。
震える指先で、レギュラスの袖をほんの少しだけ掴む。
離したくない。
けれど離れなければならない。
「……戻ってきてください」
それしか言えなかった。
レギュラスの目が、ほんのわずかにやわらいだ。
「努力します」
そんな、今までと同じ言い方をする。
こんな時まで。
それがひどくレギュラスらしくて、アランは泣きそうになった。
「約束してください」
今度は少し強く言うと、レギュラスは一瞬だけ黙った。
それから、静かに頷く。
「戻ります」
その短い言葉が、アランの胸に深く沈んだ。
ルシウスがそれを見て、わずかに退屈そうな息をつく。
この短いやり取りに付き合ってやっているだけでも温情だとでも言いたげだった。
アランはようやく手を離した。
ここで自分が縋れば、レギュラスの足を止めてしまう。
今やるべきことは、泣きつくことではない。
戸棚へ向かうことだ。
ロケットを取ることだ。
ダンブルドアの元へ行くことだ。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、身体はまだ少し震えていた。
レギュラス・ブラック。
その名が頭の中で何度も反響する。
シリウスの弟。
ブラック家の息子。
デスイーター。
そして今、自分に未来を託している男。
あまりにも多すぎて、ひとつの輪郭に収まらない。
それでもアランは、最後にもう一度だけ彼を見た。
レギュラスも、まっすぐこちらを見ていた。
昔好きだった男に似ていると思っていた。
けれど今は、似ているというだけでは足りない。
この人は本当に、あの人の血を引いている。
なのにあの人とは決定的に違う。
そのことが、こんな場面でさえ、アランの胸を強く打っていた。
理解は追いつかない。
衝撃はまだ大きい。
でも、それでも。
アランは小さく頷いた。
今はもう、昔の恋に呑まれている時間ではない。
レギュラスが渡した真実を持って、生きて走るしかなかった。
ホグワーツへ着くまで、アランはずっとロケットを胸に抱えていた。
戸棚の瓶の奥に隠されていたそれは、見た目こそただの古い装飾品に見えるのに、持っているだけで嫌な気配がじわじわと皮膚の下に滲むようだった。これが分霊箱なのだと、レギュラスは言った。これを持って、ダンブルドアのところへ行けと。
レギュラス・ブラック。
その名は今も頭の中で重く響いている。
シリウス・ブラックの弟。
ブラック家の息子。
デスイーター。
そして、自分に未来を託した男。
衝撃はまだ少しも消えていなかった。
けれど今は、そこに呑まれている暇はない。
ホグワーツの石造りの廊下を通されながら、アランは何度も自分に言い聞かせた。
話さなければならない。
信じてもらわなければならない。
少なくとも、最後まで聞いてもらえるところまでは、言葉を届かせなければならない。
けれど、いざダンブルドアを前にすると。
何から話せば、この偉大な人に聞いてもらえるのか。
どうすれば信じてもらえるのか。
その順番すら曖昧になりそうだった。
それでも、アランは振り切った。
ブラックという圧倒的な名前を口にすることの重さも。
デスイーターという言葉が持つ嫌悪も。
全部、わかった上で。
「……レギュラス・ブラックです」
まず、そう言った。
白い髭の向こうで、ダンブルドアの眼差しが静かに変わる。
驚きは表に出さない。
けれど、その名が無視できるものではないことはすぐに伝わった。
アランは続けた。
分霊箱のことも。
それが壊されないまま、今もここにあることも。
レギュラスが闇の帝王に従っていたことも。
だが真実に辿り着き、そのために命を狙われていることも。
デスイーターに見つかり、連れて行かれたことも。
けれど、当然。
すぐに受け入れられるわけがなかった。
当たり前の話だと、アランにもわかる。
「君は優秀な魔女だった」
ダンブルドアは穏やかに言った。
「そしてレギュラス・ブラックも、きっとそうなのじゃろう」
そこで一度言葉を切る。
「じゃがな、アラン。デスイーターとなった者を、ワシらは簡単には受け入れられん」
最もすぎる言葉だった。
アランは何も言えない。
言い返せない。
レギュラスが今はそうじゃないと。
もう闇の帝王の側にはいないのだと。
それをどう証明できるのか、わからなかった。
彼が湖に沈みかけたこと。
夜のたび悪夢にうなされたこと。
狭い家で、自分の下着の洗い方まで覚えるような暮らしをしていたこと。
そんなものは、証明にはならない。
それは全部、自分だけが知っている彼の断片でしかない。
ダンブルドアはアランの沈黙を見て、静かに続けた。
「レギュラス・ブラックをワシらに信じろと言うのなら、アラン」
「君は代わりに、何を差し出せるのじゃ」
取引だった。
ああ、なるほど。
とアランは思った。
ダンブルドアは、このホグワーツを、そして魔法界を守る人だ。
たった一人の女の「信じてほしい」だけを受け取って、
闇の帝王の配下であったデスイーターを信じてやれるほど甘くはなれない。
だから、相応の犠牲をこちらが先に出さなければならない。
十分すぎるほど理解できた。
「何なりと、先生」
アランはまっすぐ言った。
こんなちっぽけな女の差し出すものひとつで、
レギュラス・ブラックの人生をかけた生き様を信じてもらえるというのなら。
なんだって差し出せると思った。
ダンブルドアの青い瞳が、少しだけ深くアランを見る。
その目は、試しているだけではなかった。
本当にそれを理解した上で言っているのかを、見極めていた。
「アラン」
老人の声は静かだった。
「対価は、軽いものでは済まんぞ」
「構いません」
「命を差し出せと言われても、かね」
普通なら、そこで怯むのかもしれない。
けれどアランは、自分でも驚くほど迷わなかった。
「はい」
即答だった。
レギュラスが死ぬよりましだった。
レギュラスがあのまま闇へ連れ戻されて、分霊箱も壊せず、もう一度本当に沈んでしまうより。
自分の方が先に命を差し出す方が、よほど受け入れやすかった。
ダンブルドアはしばらく黙っていた。
その沈黙は長かったが、重たくはなかった。
むしろ、アランの覚悟の底を、最後まで確かめているような時間だった。
「よかろう」
やがて、そう言った。
アランは息を呑む。
「ただし、条件は明確にする」
「魔法契約は曖昧さを許さん」
その場に、古い羊皮紙が出された。
ダンブルドアの杖先から淡い光が走り、文字が一行ずつ浮かび上がる。
破れぬ魔法契約だった。
対価に命そのものを要求する、古く重い契約。
軽々しく扱っていいものではないと、アランにもわかった。
けれど、それでも手は震えなかった。
条件はひとつだった。
レギュラス・ブラックが、ホグワーツおよび騎士団の保護と信頼を受けたのち、再び闇の帝王側に与し、その情報・力・立場を用いてホグワーツ、騎士団、あるいは分霊箱破壊の作戦に害をなした場合。
アラン・セシールは、その命をもって償う。
あまりにも重い。
だが、明確だった。
レギュラスが裏切れば、自分が死ぬ。
それだけだ。
「理解しておるか」
ダンブルドアが最後に問う。
「はい」
「彼が戻らずとも、この契約は君を守らぬ」
「むしろ、君を縛る」
「わかっています」
「それでもか」
アランは、ロケットの冷たい重みを胸に感じながら頷いた。
「それでもです」
ためらいは、なかった。
レギュラスが二年かけて隠し続けた真実を。
命を賭けて守ろうとしていた分霊箱を。
それを今ここへ届けるよう託した、その重みを思えば。
自分だけが安全な場所に立っていようとは思えなかった。
アランは契約書へ手を伸ばした。
自分の血で署名するよう求められ、ためらいなく指先を切る。
赤い雫が、羊皮紙に落ちる。
その瞬間、文字が強く光った。
魔法が定着する。
逃れられない鎖のように、静かに、確かに。
アランはその光を見つめながら、心の中でひとつだけ願った。
これで。
これでレギュラスを信じてもらえるのなら。
どうか、あの人を生きて戻してくださいと。
契約が終わると、ダンブルドアはロケットへ目を向けた。
その眼差しがわずかに鋭くなる。
「……なるほど」
老人は低く言った。
「たしかに、これはただの装飾品ではない」
アランはようやく、自分の呼吸が浅くなっていたことに気づく。
胸が痛い。
怖かったのだと、今さらわかる。
けれど後悔はなかった。
ダンブルドアは契約書を収め、改めてアランを見た。
「君は思った以上に頑なじゃ」
「そして思った以上に、レギュラス・ブラックを信じておる」
アランは少しだけ目を伏せた。
「信じています」
「……あの人は、もう闇の側にはいません」
言葉にすると、少しだけ現実味が増した。
ダンブルドアは静かに頷いた。
「ならば、こちらも準備をしよう」
「ただし」
青い瞳がまっすぐアランを射る。
「君が差し出したものの重さを、レギュラス本人にも必ず理解させる」
「それはよいな」
「はい」
レギュラスがそれを知ったら、どう思うだろう。
怒るだろうか。
それとも顔を歪めるだろうか。
けれど、それでもいいと思った。
あとでどれだけ怒られてもいい。
今はただ、生きてここへ来てほしかった。
アランは胸の前で両手を握りしめた。
ブラックという名の衝撃も。
シリウス・ブラックの弟だという事実も。
まだ少しも整理はできていない。
けれど今、自分が見ているのは過去ではなかった。
レギュラス・ブラックという、一人の男のこれからだった。
そのために差し出した命なら、惜しくはないとアランは本気で思っていた。
家の外に出た瞬間だった。
レギュラスは袖の中から、ためらいなく杖を抜いた。
アランの杖だった。
細く、軽く、彼女の手に馴染むよう作られたそれを、今だけは自分の手の中で無理やり戦わせる。
抜いたその動きの延長で、最初の呪文を放つ。
短く。
鋭く。
最小の魔力で、最大の隙を突く。
左後方のデスイーターが一拍遅れて倒れる。
次の瞬間には、もう二人目の視界を潰していた。叫ぶ暇もなく杖が弾かれ、膝が砕けるように地面へ落ちる。
「なっ――」
誰かが声を上げた。
だが遅い。
レギュラスはもうその場にいなかった。
横へずれ、路地の角度を使って射線をずらし、三人目の足元へ縛りを打ち込む。転倒したところへ、今度は眠りではなく、筋肉の伝達だけを一時的に断つ冷たい呪文を重ねる。起き上がれない。
読み通りだった。
他のデスイーターたちは、すぐに倒せた。
驚きと油断と、レギュラスが完全に折れたと思い込んでいた隙。
その全部が、こちらの数秒を作ってくれた。
残るは、ルシウスだけだ。
倒れた配下たちを一瞥してから、ルシウスはゆっくりと杖先を持ち上げた。
銀のように冷たい目が、レギュラスだけを捉える。
「やはり、随分と大人しいと思っていたよ」
その声音には怒りよりも、納得が混じっていた。
レギュラスは杖を構え直す。
呼吸はまだ乱れていない。アランの杖は手の中で熱を持ち、細く震えていた。耐えてくれている。まだ大丈夫だ。
「すみません、ルシウス」
そう言うと、ルシウスの口元がほんの少しだけ歪む。
「私は君と戦いたいわけじゃない」
「それは僕も同じです」
レギュラスは答えた。
だが、この男に「頼みます」だなんて言葉が通用するわけがないことくらい、最初からわかっている。
ルシウスが杖を振る。
先手はあちらだった。
美しい軌道。
無駄がなく、冷たい呪文。
空気そのものが薄く裂けるみたいに、一直線に殺意が来る。
レギュラスは応戦した。
鋭く打ち返す。
だが、重い。
強い。
やはり、格が違う。
ルシウス・マルフォイは伊達ではない。
綺麗に整えられた戦い方の中に、何十年も積み上げた魔力の厚みがある。一撃ごとに圧がある。軽く捌いたつもりの呪文さえ、腕の骨まで響く。
アランの杖の上で応戦していくのは、苦しいものがあった。
自分の杖なら、もっと違う。
もっと深く魔力を通し、もっと鋭く削れる。
けれど今手にあるのは、彼女の魔力のために作られた杖だ。
持ち主の柔らかな呪文ばかりを紡ぐ、あの魔力とは違って。
自分のものは鋭く、重たい。
そんな魔力を流されて、激しく振り回されるのだから、杖としてもたまったものではないのだろう。
杖身が震える。
きしむみたいな違和感が、掌に返ってくる。
レギュラスは一瞬だけ、意識の中でそれに念じた。
耐えろ。
耐えてくれ。
今はまだ、折れないでくれ。
再びこの杖を、持ち主に返すためにも。
ルシウスの次撃が来る。
今度は二重に重ねた呪文だった。正面から砕き、足を止め、その間に奪うつもりなのだろう。
レギュラスは半歩だけ踏み込んだ。
下がるのではなく、前へ。
あえて間合いを詰め、杖先の死角へ滑り込む。ルシウスの目がわずかに細くなった。そこへ、ほとんど無詠唱に近い速さで横から撃つ。
防がれた。
だが予想通りだ。
本命は次だ。
弾かれた反動をそのまま利用して、レギュラスは手首を返した。アランの杖に無理を強いる角度だとわかっていても、止めない。今だけは許せと思う。
路地の石畳を、細く裂く光が走る。
それはルシウスの足元ではなく、そのローブの裾を強く打った。布が揺れ、わずかに体勢が崩れる。
その一瞬。
レギュラスはそこへ全力で叩き込む。
「――ッ!」
ルシウスの防御が間に合う。
だが完全ではない。肩口に浅く入った。ルシウスが初めてはっきりと顔を歪める。
「……なるほど」
低い声が落ちる。
「その杖で、そこまでやるか」
レギュラスは答えない。
答える余裕も惜しい。
足元には倒れたデスイーターたち。
時間をかければ、状況は悪くなるだけだ。
ルシウスもそれを理解したのだろう。
今度の構えは、先ほどまでよりずっと冷たかった。捕縛より、制圧が前に出ている。生きたまま連れて行く使命はあっても、手足を砕くくらいは厭わない顔だ。
レギュラスは深く息を吸った。
ここで仕留め切る。
そうでなければ抜けられない。
アランの杖は、まだ耐えている。
ならいける。
ルシウスが大きく杖を振り下ろした。
重い。真正面から受ければ、杖ごと持っていかれる。
レギュラスは今度は受けなかった。
ぎりぎりで身を翻し、頬を掠めさせる。
熱い線が走る。血が滲んだかもしれない。気にしない。
そのまま回り込む。
ルシウスはさすがに速い。
こちらの狙いを読んで、すぐに振り向く。
だが、振り向く“前”に一つだけ癖がある。肩がわずかに先に動くのだ。昔からそうだった。整って見える動きの中にある、唯一の小さな予兆。
そこを、レギュラスは待っていた。
肩が動く。
その瞬間、撃つ。
短く。
深く。
相手の魔力の流れを乱す一点だけを狙った呪文。
ルシウスの杖先がぶれる。
次の呪文が一瞬遅れる。
それだけで十分だった。
レギュラスは躊躇なく距離を詰め、杖を持つ手首を打ち抜いた。
硬い音。
ルシウスの杖が、石畳に跳ねる。
ルシウス自身も膝をついたが、さすがにそこからなお反撃に移ろうとする。
執念は本物だ。
レギュラスはその喉元へ、ぴたりと杖先を向けた。
静寂が落ちる。
倒れたデスイーターたちの呻きと、荒い互いの呼吸だけが残った。
ルシウスが顔を上げる。
銀白の髪が乱れ、肩口にはさっきの傷がある。だがその目は、まだ折れていなかった。
「殺さないのか」
問う声は低い。
レギュラスは一瞬だけ、表情を消した。
「あなたを殺せば」
静かに言う。
「次はもっと多くが来る」
ルシウスの目が細くなる。
「それに、僕は今、あなたを殺している場合じゃない」
アランのところへ戻らなければならない。
そしてホグワーツへ向かわなければならない。
分霊箱も、ダンブルドアも、全部、今からだ。
ルシウスは数秒、黙っていた。
それから、少しだけ苦く笑った。
「昔より、優先順位がはっきりしたようだな」
レギュラスは答えず、ただ杖先をわずかに押し込むように近づけた。
「ここで眠っていてください、ルシウス」
「起きた時には、もう僕はいません」
最後の拘束を撃つ。
今度こそ、確実に。
ルシウスの身体から力が抜けるのを見届けてから、レギュラスはようやく杖を下ろした。
アランの杖は、まだ折れていなかった。
レギュラスはそれを見て、胸の奥でほんの少しだけ安堵した。
杖身には熱が残り、無理をさせた痕みたいな鈍い痺れが掌にある。
「……ありがとう」
小さく、杖に向かってそう言う。
それから、すぐに家へ向き直った。
まだ終わっていない。
むしろここからだ。
アランの魔力の残り香を辿る。
ホグワーツへ。
今度は、死ぬためではなく。
生きて、戻るために。
あの男なら、それくらいはやる。
そして痕跡が残るほど強い呪文は使わずに生活していたのだろう。
だから二年ものあいだ、見つけられなかった。
だがようやく、見つけた。
こんな寂れた街に。
あのレギュラス・ブラックが、息を潜めて暮らしているなどと、誰が想像できただろうか。
必ず生きて、あの男を闇の帝王の前に連れて行かねばならない。
それが自分に課せられた使命だった。
レギュラスを処分する権利は、ルシウスにはない。
あの方のものだ。
だからこそ、余計な傷はつけたくないし、無駄な争いもしたくない。だが相手はレギュラス・ブラックだ。聡明で、冷静で、追い詰められた時ほど厄介な男だと知っている。
そういう覚悟で来た。
来た、のだが。
目の前の家を見た時、ルシウスはさすがに言葉を失いかけた。
犬小屋みたいな家だった。
いや、さすがに犬小屋とまでは言い過ぎかもしれない。
だがブラック家の人間が住むにはあまりにも狭く、粗末で、みずぼらしい。屋敷という言葉とは最も遠い場所にあるような家だ。外壁は擦れ、窓は小さく、庭とも呼べない場所に乾きかけた薬草が吊るされている。
そこで、女と二人で暮らしているという。
その落ちぶれように、ルシウスは心底驚愕した。
あのレギュラス・ブラックが。
生まれた時から選ばれた空気しか吸ってこなかったような男が。
こんな場所で。
しかも女と二人で。
ルシウスは黒い手袋の指先を軽く折り、後ろのデスイーターたちへ合図した。
数人が散る。
逃げ道を塞ぎ、玄関へ寄る。
音を立てる前に、扉は開いた。
女が出てくる。
若い。
黒髪で、化粧っ気もなく、こんな場面に似つかわしくないほど普通の女だった。田舎の垢抜けない女、という印象しか最初はなかった。
だが、その翡翠の瞳だけは妙に目についた。
何かを言おうと口を開く。
けれどその前に、デスイーターが背後から素早く口を塞いだ。
女の肩がびくりと跳ねる。
短い悲鳴は掌の中に吸い込まれ、音にならない。もう一人がその腕を押さえ、あっという間に身動きを封じる。
ルシウスは遅れて家の中へ入った。
狭い。
本当に狭い。
寝台も、食卓も、棚も、暖炉も、全部ひとつの部屋に収まっている。薬瓶や乾燥草の匂いが濃い。生活の気配がありありと残っていて、そこが余計に癪に障った。
そして、その部屋の中央で。
レギュラス・ブラックはすでに杖を構えていた。
ルシウスは思わず、少しだけ口元を緩めた。
さすがだ。
一瞬で察したのだろう。
鋭さは相変わらずだった。目の冷え方も、間合いの取り方も、まるで昔のままだ。
だが、その鋭さがあるのならば。
女を先に出させたのは、あまりにも愚かすぎる。
「随分と、みずぼらしくなってしまったじゃないか」
ルシウスは室内を見回しながら言った。
「レギュラス。一体どうしたのだ」
レギュラスは答えなかった。
銀色の瞳が、ルシウスではなく、背後で押さえられている女へ向いている。
「ルシウス」
低い声だった。
「お願いです。彼女を離してくれませんか」
ルシウスは笑いそうになった。
あのレギュラス・ブラックが。
いくらでも女を選べるような男が。
その気になれば貴族の娘でも、有力者の未亡人でも、いくらでも美しいものを手にできた男が。
たった一人。
こんな田舎の、垢抜けないような女のために。
必死に請うている。
その事実があまりにも可笑しくて、ルシウスは少しだけ首を傾げた。
背後では、デスイーターが女を床へ押し倒していた。
黒いローブが乱暴に広がる。杖先が女の喉元へ当てられる。レギュラスの動き次第で、いくらでも殺せるという意図を、これでもかとわかりやすく示していた。
女が何か言おうともがく。
するとデスイーターはその口元をさらに強く押さえつけ、声を殺した。翡翠の瞳が苦しげに見開かれる。
「やめてください、ルシウス」
レギュラスの声が、今度ははっきりと揺れた。
「行きましょう。闇の帝王のところへ」
「だから離してください」
あまりに話が早すぎて、拍子抜けするほどだった。
ルシウスは目を細める。
抵抗するだろうと思っていた。
少なくとも一度は呪文の応酬になると覚悟していた。
それがどうだ。
この男は、女一人を盾に取られただけで、もう自分から差し出そうとしている。
いや、違うかとルシウスは思い直す。
女一人、ではないのだろう。
レギュラスにとっては。
「さすがは優等生だ」
ルシウスは静かに微笑んだ。
「話が早くて助かるよ。私も君と争いたくて来たわけじゃない」
本音だった。
レギュラス・ブラックを生きたまま、あの方の元へ連れて行く。
それが求められていることなのだから、それ以上のことはしたくない。
女を傷つける趣味もない。
こんな街で無駄な騒ぎを大きくしたいわけでもない。
ただ、ルシウスは知っている。
ここで情けを見せれば、レギュラスはつけ込む。
昔からそういう男だ。柔らかい言葉を使いながら、隙を見つければ一瞬で喉笛に噛みつく。
「杖を捨てろ」
短く言う。
レギュラスの目が、ようやくルシウスへ戻る。
昔と同じ銀の光だ。だがその奥にあるものは、二年前に見た最後のそれとは違う。鋭いだけではない。何か、守るものを持った人間の目になっていた。
それがまた、ルシウスには気に入らなかった。
「ルシウス」
レギュラスは杖を構えたまま言う。
「彼女は本当に何も知らない」
「関係ないんです」
「そうだろうとも」
ルシウスは肩を竦める。
「だから殺したくはない。君が余計な真似をしなければな」
床に押さえつけられた女が、必死に顔を上げようとしている。
押さえられた口元から漏れる息は細い。けれど目だけはレギュラスを見ていた。恐怖より先に、彼の方を見ている。
なるほど、とルシウスは思う。
ただ囲っていたわけではないらしい。
情が通っている。
それも相当深く。
だからレギュラスは折れた。
だからここまで素直に“行く”と言う。
愚かだ。
愚かだが、少し羨ましくもある。そこまで男を変える女というのは、存外、派手でも高貴でもないのかもしれない。
そんなことを考えた自分に、ルシウスは内心で苦笑した。
余計な感傷だ。
「杖を」
もう一度言うと、レギュラスは長く息を吐いた。
銀の目が、最後に女へ向く。
何かを言いたいのだろうが、こんな状況で言葉など意味を持たない。
やがて彼は、ゆっくりと杖を床へ置いた。
その瞬間、デスイーターたちの緊張がわずかに解ける。
だがルシウスは手を上げて制した。
「油断するな」
低く言う。
「相手はレギュラス・ブラックだ」
かつて優等生と呼ばれ、将来を嘱望され、そしてあの方を裏切った男。
ここで簡単に終わるような相手ではない。
ルシウスは一歩近づいた。
「賢明な判断だよ、レギュラス」
「その調子で、最後まで聞き分けよくしてくれると助かる」
レギュラスは何も言わない。
ただ、その視線だけが刺すように冷たい。
だが今は、その冷たさよりも、背後の女を振り返りそうになる衝動の方が目についた。
そこまで堕ちたか、と思う。
あるいは、そこまで人間らしくなったというべきか。
どちらにせよ。
闇の帝王の前へ連れて行かれた時、この男がどういう顔をするのか。
そしてその時、この女の存在がどう働くのか。
ルシウスはそれを、少しだけ興味深く思っていた。
女をいつまでも床に押さえつけておく必要は、もうなかった。
レギュラス・ブラックは素直に応じたのだ。
ならば、これ以上ああいう格好の悪い真似を続ける意味はない。
ああした光景は品がなくて、ルシウスの好みではなかった。
「離してやれ」
そう言うと、デスイーターが女から手を離した。
解放された女は、すぐには起き上がれなかった。
喉元に杖をぐりぐりと押しつけられ、口元も強く塞がれていたせいだろう。空気を取り戻すように、何度か激しく咳き込む。肩が細かく震え、そのたび黒髪が乱れた。
レギュラスがすぐに駆け寄る。
膝をつき、女の体を起こしてやる。
背を支え、倒れないように腕を回す。
美しい光景なのかもしれない。
そう思えなくもなかった。
けれどルシウスには、あまりにもみずぼらしく見えた。
何もかもが、だ。
女の安っぽさも。
そんな女に膝をついて体を支えている男も。
まるでその辺にいる男女ではないか。
マグルの街にでも紛れ込めそうなほど、平々凡々としていて、おかしくて仕方がない。
あのレギュラス・ブラックが。
生まれながらに選ばれたような顔をして、何もかも持っていたはずの男が。
こんな狭い家で、こんな女のために膝をついている。
ルシウスは内心で笑った。
「レギュラス……」
女が咳の合間に言う。
まだ喉が痛むのか、声は掠れていた。
「私も行きます」
「一人で行かないでください」
レギュラスは答えなかった。
ただ、そのまま女を支えたまま、考え込んでいる。
その沈黙だけで、ルシウスには十分だった。
どちらを選んでも地獄が待っている。
この女は、レギュラス・ブラックと共にいたというだけで、十分に価値がある。
情報を引き出すための鍵だ。
闇の帝王の前に連れていけば、それだけで使い道はいくらでもある。
ルシウスの使命は、あくまでレギュラス・ブラックを連れてくること。
それだけだ。
それ以上はしない。
だが、他のデスイーターたちは違う。
闇の帝王の前に、二年間レギュラス・ブラックを匿った女を連れて行けるとなれば。
喜んでこの女を捕らえるだろう。
そして、どこへ逃げてもこんな女はすぐに捕まる。
見たところ、大した魔力も呪文の腕もなさそうだ。
一瞬でやられるだろう。
しかも、まあ、悪くない顔をしている。
垢抜けなさは拭えないが、さすがはレギュラス・ブラックが惚れ込んだ女なだけはある、というところか。
下っ端の、品のないデスイーターたちなら。
こういう女は格好の餌食にするだろう。
想像にたやすい。
だからこそ、今、レギュラスが悩んでいるのが可笑しかった。
連れて行くか。
ここに置いていくか。
どちらを選んでも、結局この女に平穏はない。
「ルシウス……」
レギュラスがようやく口を開いた。
その声には、先ほどまでの鋭さとは違うものが混じっていた。
ためらいと、嫌悪と、焦りと。
それらが一つに混ざったような、あまりにも人間臭い声音だった。
「闇の帝王の前に、彼女を連れて行けば」
「どうなると思います?」
ルシウスは思わず目を細めた。
この男から発せられた質問にしては、あまりにもレベルが低すぎる。
驚いた。
本当に。
女というものが、男をここまでみっともなく、弱々しく変えていくのかと、思わずにはいられなかった。
「さあな」
ルシウスは肩を竦めた。
「私は知ったことではない」
「だが、お前を匿った女だ。すでに嗅ぎついているデスイーターたちはいるだろうな」
わざと淡々と言う。
脅したいわけではない。
事実をそのまま告げているだけだ。
レギュラスの指先が、女の腕を支える位置でわずかに強張る。
女の方は、黙ってレギュラスを見上げていた。
恐怖で震えていないわけではない。
それでも、自分のことより先に、この男がどうするのかを見ている目だ。
厄介だと、ルシウスは思う。
ただの隠れ家の女ではない。
情が通っている。
しかも互いに、それを相手の弱みと知ったうえでなお切り捨てられない程度には深く。
レギュラス・ブラックのため息が、またひとつ落ちた。
その吐息に、ルシウスは少しだけ愉快さを覚える。
昔のレギュラスなら、もっと冷たく計算しただろう。
女一人を切るか生かすか、そんなもの一瞬で判断したはずだ。
少なくとも、他人の前でここまで迷いを晒したりはしなかった。
だが今のこの男は違う。
自分の手の中で苦しそうに咳き込む女を見ながら、本気で悩んでいる。
連れて行けば地獄。
置いていっても地獄。
どちらがまだましなのか、それを必死に量ろうとしている。
滑稽だった。
そして少しだけ、羨ましくもあった。
ここまで誰かを抱え込めるというのは、男としてひどく厄介だが、同時に本物でもある。
「どうする、レギュラス」
ルシウスはゆっくり問いかけた。
「連れて行くか?」
「それとも、ここへ置いていくか?」
女の肩が小さく震える。
レギュラスは答えない。
ただ、その銀の瞳だけが鋭く沈んでいく。
計算しているのだろう。
時間を稼げるか。
誰かに託せるか。
この場をどうにか崩せるか。
だが、ルシウスは知っている。
そうやって考え込んでいる時点で、もうレギュラスは女に負けているのだ。
昔の自分なら選ばなかった不自由を、この男はすでに選んでしまっている。
女はようやく咳を鎮めると、レギュラスのローブを掴んだ。
「……私は、置いていかれても平気です」
掠れた声で、そう言う。
嘘だとすぐにわかった。
平気な女の顔ではない。
だが、それでもそう言うのは、この女なりにレギュラスを楽にしてやろうとしているのだろう。
それがまた、余計に面白かった。
レギュラスはゆっくりと女を見下ろした。
その目に宿るものは、ルシウスにも読めた。
怒りだ。
悲しみだ。
そして、どうしようもなく深い執着だ。
「そんな顔をするな」
低く、レギュラスが言う。
女ではなく、自分に言い聞かせるようにも聞こえた。
それからようやく、ルシウスへ視線を向ける。
「彼女は連れて行きません」
きっぱりと言った。
ルシウスは眉を上げる。
「置いていくのか」
「ええ」
その返答の早さに、逆に少しだけ意外さを覚えた。
もっと迷うと思っていたからだ。
だが次の瞬間、レギュラスは女の耳元へ顔を寄せ、何か低く囁いた。
声は聞き取れない。
けれどその内容が命令か、願いか、あるいはその両方なのだろうということだけはわかった。
女は一瞬だけ目を見開き、それからひどく苦しそうな顔で首を振りかけた。
だが、レギュラスの指が頬に触れると、言葉を呑み込んだ。
なるほど、とルシウスは思う。
そうやって従わせるのか。
優しく。
だが逆らわせない形で。
昔より厄介になったかもしれない。
「賢明だな」
ルシウスは静かに言った。
「その女を連れてくれば、お前は最後まで冷静でいられないだろう」
「置いていけば、少なくとも今ここでは守ったつもりになれる」
レギュラスは返事をしない。
ただ、女をゆっくり床から立たせる。
その動きひとつひとつが、あまりにも丁寧で。
それがまたルシウスには奇妙だった。
あのレギュラス・ブラックが、こんなふうに女を扱うとは。
女の方は、まだ何か言いたそうだった。
だが口にはしない。
代わりにレギュラスの手首を一瞬だけきつく握り、それからゆっくり離した。
その短いやり取りだけで、二人のあいだに何があるかは十分に見えた。
ルシウスはもう一度、少しだけ笑った。
みずぼらしい。
けれど、それでも切実だ。
そしてその切実さこそが、闇の帝王の前では何よりよく燃えるだろうと、冷静にそう思っていた。
耳元で囁かれた言葉が、すぐには意味にならなかった。
戸棚の瓶の中に、ロケットがあります。
あれが分霊箱です。
それを持ってダンブルドアのところに行ってください。
僕の名前を出して。
レギュラス・ブラックと。
アランは目を見開いた。
ブラック。
その名前を知らないわけがない。
この魔法界において、最たる貴族の名だ。
古く、重く、圧倒的な純血主義を誇る一族。
そして、代々、闇の魔法使いを多く出してきた家。
ブラック。
その響きだけで、背筋が冷える者もいる。
社交界であれ、学校であれ、その名には常に特別な重みがあった。
そして、もうひとつ。
彼は。
シリウス・ブラックの弟だ。
頭がぐらりとなりそうだった。
押さえつけられた息苦しさとも、喉の痛みとも違う。
もっと奥の、昔の傷をいきなり素手で掴まれたみたいな揺れだった。
学生時代。
好きで好きでたまらなかったけれど、結局一番にはしてもらえないまま、何度も縋って、何度も切り捨てられた。
シリウス・ブラックに。
あの人の弟。
自分が数年をかけて看病して、抱きしめて、名前を呼んで、眠れない夜を一緒に越えてきた男が。
あのシリウスの弟。
頭の中で、色々な記憶が勝手に繋がりかける。
似ていたのだ。
鼻筋も、骨格も、横顔も。
瞳の色まで。
ずっと、少しだけ似ていると思っていた。
その正体が、まさか本当に同じ血筋だったなんて。
衝撃が大きすぎて、理解が追いつかない。
今は、シリウス・ブラックのことを考えている場合ではないのに。
目の前ではデスイーターたちが息を殺している。
ルシウス・マルフォイが、こちらを冷静に見ている。
レギュラスはこれから連れて行かれるのだ。
自分に託された任務は、あまりにも重い。
なのに、脳のどこかが勝手に昔へ引きずられそうになる。
シリウス・ブラック。
笑った顔。
ぞんざいな手つき。
気まぐれな熱。
何度期待して、何度傷ついたかもわからない。
その弟が。
今、自分の目の前で、命を賭けるみたいに真実を渡してきた。
アランは息を呑んだ。
レギュラスはそんな彼女の揺れを、当然見ていたはずだった。
けれど何も言わない。
今この瞬間に、彼女の中で何が起きたのか、たぶん察しただろうに。
それでもただ、静かな目で見ている。
そこにあるのは嫉妬でも、探る色でもない。
託すしかない人間の、切実な静けさだった。
「……レギュラス」
名前を呼ぶ声が、自分でも頼りなかった。
ブラック、の方は言えなかった。
まだ喉が受けつけない。
レギュラスはごくわずかに首を振った。
今は何も言うな、とでもいうみたいに。
「行ってください」
囁きに近い、低い声だった。
「今は、それだけを」
アランは唇を噛んだ。
今は、それだけ。
そうだ。
今はシリウス・ブラックの弟であることに衝撃を受けている場合ではない。
今は昔の自分の愚かな恋を思い出して立ち尽くしている場合でもない。
戸棚の瓶の中のロケット。
分霊箱。
ダンブルドア。
レギュラス・ブラック。
その四つだけを抱えて、ここを出なければならない。
けれど足がすぐには動かなかった。
目の前の男が、急に遠くなった気がしたからだ。
小さな家で一緒に眠って、
市場で野菜を選んで、
自分の下着の洗い方まで覚えて、
不器用に嫉妬して、
何度も名前を呼んでくれたレギュラスが。
急に、手の届かない側の人間に見えた。
レギュラス・ブラック。
その名を持つ人間だったのだと、今さら思い知らされる。
自分が毎日見ていた男の中に、ずっと貴族の気配が滲んでいたのは、そういうことだったのだ。
けれど同時に、アランはわかってしまう。
その名を今まで隠していたのは、彼なりの恐れだったのだろうと。
ブラックという名前が自分を怖がらせるかもしれないと、ずっと知っていたのだろうと。
そしてその恐れは、たぶん正しかった。
実際、アランの心は今、ぐらぐらと揺れている。
シリウスの顔が浮かぶ。
ブラック家の噂が浮かぶ。
純血主義の冷たい空気が蘇る。
なのに。
それでも、目の前にいるレギュラスが、夜中に自分へ縋りついていた男と同じ人間であることも、ちゃんと知っている。
アランはようやく息を吸った。
震える指先で、レギュラスの袖をほんの少しだけ掴む。
離したくない。
けれど離れなければならない。
「……戻ってきてください」
それしか言えなかった。
レギュラスの目が、ほんのわずかにやわらいだ。
「努力します」
そんな、今までと同じ言い方をする。
こんな時まで。
それがひどくレギュラスらしくて、アランは泣きそうになった。
「約束してください」
今度は少し強く言うと、レギュラスは一瞬だけ黙った。
それから、静かに頷く。
「戻ります」
その短い言葉が、アランの胸に深く沈んだ。
ルシウスがそれを見て、わずかに退屈そうな息をつく。
この短いやり取りに付き合ってやっているだけでも温情だとでも言いたげだった。
アランはようやく手を離した。
ここで自分が縋れば、レギュラスの足を止めてしまう。
今やるべきことは、泣きつくことではない。
戸棚へ向かうことだ。
ロケットを取ることだ。
ダンブルドアの元へ行くことだ。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、身体はまだ少し震えていた。
レギュラス・ブラック。
その名が頭の中で何度も反響する。
シリウスの弟。
ブラック家の息子。
デスイーター。
そして今、自分に未来を託している男。
あまりにも多すぎて、ひとつの輪郭に収まらない。
それでもアランは、最後にもう一度だけ彼を見た。
レギュラスも、まっすぐこちらを見ていた。
昔好きだった男に似ていると思っていた。
けれど今は、似ているというだけでは足りない。
この人は本当に、あの人の血を引いている。
なのにあの人とは決定的に違う。
そのことが、こんな場面でさえ、アランの胸を強く打っていた。
理解は追いつかない。
衝撃はまだ大きい。
でも、それでも。
アランは小さく頷いた。
今はもう、昔の恋に呑まれている時間ではない。
レギュラスが渡した真実を持って、生きて走るしかなかった。
ホグワーツへ着くまで、アランはずっとロケットを胸に抱えていた。
戸棚の瓶の奥に隠されていたそれは、見た目こそただの古い装飾品に見えるのに、持っているだけで嫌な気配がじわじわと皮膚の下に滲むようだった。これが分霊箱なのだと、レギュラスは言った。これを持って、ダンブルドアのところへ行けと。
レギュラス・ブラック。
その名は今も頭の中で重く響いている。
シリウス・ブラックの弟。
ブラック家の息子。
デスイーター。
そして、自分に未来を託した男。
衝撃はまだ少しも消えていなかった。
けれど今は、そこに呑まれている暇はない。
ホグワーツの石造りの廊下を通されながら、アランは何度も自分に言い聞かせた。
話さなければならない。
信じてもらわなければならない。
少なくとも、最後まで聞いてもらえるところまでは、言葉を届かせなければならない。
けれど、いざダンブルドアを前にすると。
何から話せば、この偉大な人に聞いてもらえるのか。
どうすれば信じてもらえるのか。
その順番すら曖昧になりそうだった。
それでも、アランは振り切った。
ブラックという圧倒的な名前を口にすることの重さも。
デスイーターという言葉が持つ嫌悪も。
全部、わかった上で。
「……レギュラス・ブラックです」
まず、そう言った。
白い髭の向こうで、ダンブルドアの眼差しが静かに変わる。
驚きは表に出さない。
けれど、その名が無視できるものではないことはすぐに伝わった。
アランは続けた。
分霊箱のことも。
それが壊されないまま、今もここにあることも。
レギュラスが闇の帝王に従っていたことも。
だが真実に辿り着き、そのために命を狙われていることも。
デスイーターに見つかり、連れて行かれたことも。
けれど、当然。
すぐに受け入れられるわけがなかった。
当たり前の話だと、アランにもわかる。
「君は優秀な魔女だった」
ダンブルドアは穏やかに言った。
「そしてレギュラス・ブラックも、きっとそうなのじゃろう」
そこで一度言葉を切る。
「じゃがな、アラン。デスイーターとなった者を、ワシらは簡単には受け入れられん」
最もすぎる言葉だった。
アランは何も言えない。
言い返せない。
レギュラスが今はそうじゃないと。
もう闇の帝王の側にはいないのだと。
それをどう証明できるのか、わからなかった。
彼が湖に沈みかけたこと。
夜のたび悪夢にうなされたこと。
狭い家で、自分の下着の洗い方まで覚えるような暮らしをしていたこと。
そんなものは、証明にはならない。
それは全部、自分だけが知っている彼の断片でしかない。
ダンブルドアはアランの沈黙を見て、静かに続けた。
「レギュラス・ブラックをワシらに信じろと言うのなら、アラン」
「君は代わりに、何を差し出せるのじゃ」
取引だった。
ああ、なるほど。
とアランは思った。
ダンブルドアは、このホグワーツを、そして魔法界を守る人だ。
たった一人の女の「信じてほしい」だけを受け取って、
闇の帝王の配下であったデスイーターを信じてやれるほど甘くはなれない。
だから、相応の犠牲をこちらが先に出さなければならない。
十分すぎるほど理解できた。
「何なりと、先生」
アランはまっすぐ言った。
こんなちっぽけな女の差し出すものひとつで、
レギュラス・ブラックの人生をかけた生き様を信じてもらえるというのなら。
なんだって差し出せると思った。
ダンブルドアの青い瞳が、少しだけ深くアランを見る。
その目は、試しているだけではなかった。
本当にそれを理解した上で言っているのかを、見極めていた。
「アラン」
老人の声は静かだった。
「対価は、軽いものでは済まんぞ」
「構いません」
「命を差し出せと言われても、かね」
普通なら、そこで怯むのかもしれない。
けれどアランは、自分でも驚くほど迷わなかった。
「はい」
即答だった。
レギュラスが死ぬよりましだった。
レギュラスがあのまま闇へ連れ戻されて、分霊箱も壊せず、もう一度本当に沈んでしまうより。
自分の方が先に命を差し出す方が、よほど受け入れやすかった。
ダンブルドアはしばらく黙っていた。
その沈黙は長かったが、重たくはなかった。
むしろ、アランの覚悟の底を、最後まで確かめているような時間だった。
「よかろう」
やがて、そう言った。
アランは息を呑む。
「ただし、条件は明確にする」
「魔法契約は曖昧さを許さん」
その場に、古い羊皮紙が出された。
ダンブルドアの杖先から淡い光が走り、文字が一行ずつ浮かび上がる。
破れぬ魔法契約だった。
対価に命そのものを要求する、古く重い契約。
軽々しく扱っていいものではないと、アランにもわかった。
けれど、それでも手は震えなかった。
条件はひとつだった。
レギュラス・ブラックが、ホグワーツおよび騎士団の保護と信頼を受けたのち、再び闇の帝王側に与し、その情報・力・立場を用いてホグワーツ、騎士団、あるいは分霊箱破壊の作戦に害をなした場合。
アラン・セシールは、その命をもって償う。
あまりにも重い。
だが、明確だった。
レギュラスが裏切れば、自分が死ぬ。
それだけだ。
「理解しておるか」
ダンブルドアが最後に問う。
「はい」
「彼が戻らずとも、この契約は君を守らぬ」
「むしろ、君を縛る」
「わかっています」
「それでもか」
アランは、ロケットの冷たい重みを胸に感じながら頷いた。
「それでもです」
ためらいは、なかった。
レギュラスが二年かけて隠し続けた真実を。
命を賭けて守ろうとしていた分霊箱を。
それを今ここへ届けるよう託した、その重みを思えば。
自分だけが安全な場所に立っていようとは思えなかった。
アランは契約書へ手を伸ばした。
自分の血で署名するよう求められ、ためらいなく指先を切る。
赤い雫が、羊皮紙に落ちる。
その瞬間、文字が強く光った。
魔法が定着する。
逃れられない鎖のように、静かに、確かに。
アランはその光を見つめながら、心の中でひとつだけ願った。
これで。
これでレギュラスを信じてもらえるのなら。
どうか、あの人を生きて戻してくださいと。
契約が終わると、ダンブルドアはロケットへ目を向けた。
その眼差しがわずかに鋭くなる。
「……なるほど」
老人は低く言った。
「たしかに、これはただの装飾品ではない」
アランはようやく、自分の呼吸が浅くなっていたことに気づく。
胸が痛い。
怖かったのだと、今さらわかる。
けれど後悔はなかった。
ダンブルドアは契約書を収め、改めてアランを見た。
「君は思った以上に頑なじゃ」
「そして思った以上に、レギュラス・ブラックを信じておる」
アランは少しだけ目を伏せた。
「信じています」
「……あの人は、もう闇の側にはいません」
言葉にすると、少しだけ現実味が増した。
ダンブルドアは静かに頷いた。
「ならば、こちらも準備をしよう」
「ただし」
青い瞳がまっすぐアランを射る。
「君が差し出したものの重さを、レギュラス本人にも必ず理解させる」
「それはよいな」
「はい」
レギュラスがそれを知ったら、どう思うだろう。
怒るだろうか。
それとも顔を歪めるだろうか。
けれど、それでもいいと思った。
あとでどれだけ怒られてもいい。
今はただ、生きてここへ来てほしかった。
アランは胸の前で両手を握りしめた。
ブラックという名の衝撃も。
シリウス・ブラックの弟だという事実も。
まだ少しも整理はできていない。
けれど今、自分が見ているのは過去ではなかった。
レギュラス・ブラックという、一人の男のこれからだった。
そのために差し出した命なら、惜しくはないとアランは本気で思っていた。
家の外に出た瞬間だった。
レギュラスは袖の中から、ためらいなく杖を抜いた。
アランの杖だった。
細く、軽く、彼女の手に馴染むよう作られたそれを、今だけは自分の手の中で無理やり戦わせる。
抜いたその動きの延長で、最初の呪文を放つ。
短く。
鋭く。
最小の魔力で、最大の隙を突く。
左後方のデスイーターが一拍遅れて倒れる。
次の瞬間には、もう二人目の視界を潰していた。叫ぶ暇もなく杖が弾かれ、膝が砕けるように地面へ落ちる。
「なっ――」
誰かが声を上げた。
だが遅い。
レギュラスはもうその場にいなかった。
横へずれ、路地の角度を使って射線をずらし、三人目の足元へ縛りを打ち込む。転倒したところへ、今度は眠りではなく、筋肉の伝達だけを一時的に断つ冷たい呪文を重ねる。起き上がれない。
読み通りだった。
他のデスイーターたちは、すぐに倒せた。
驚きと油断と、レギュラスが完全に折れたと思い込んでいた隙。
その全部が、こちらの数秒を作ってくれた。
残るは、ルシウスだけだ。
倒れた配下たちを一瞥してから、ルシウスはゆっくりと杖先を持ち上げた。
銀のように冷たい目が、レギュラスだけを捉える。
「やはり、随分と大人しいと思っていたよ」
その声音には怒りよりも、納得が混じっていた。
レギュラスは杖を構え直す。
呼吸はまだ乱れていない。アランの杖は手の中で熱を持ち、細く震えていた。耐えてくれている。まだ大丈夫だ。
「すみません、ルシウス」
そう言うと、ルシウスの口元がほんの少しだけ歪む。
「私は君と戦いたいわけじゃない」
「それは僕も同じです」
レギュラスは答えた。
だが、この男に「頼みます」だなんて言葉が通用するわけがないことくらい、最初からわかっている。
ルシウスが杖を振る。
先手はあちらだった。
美しい軌道。
無駄がなく、冷たい呪文。
空気そのものが薄く裂けるみたいに、一直線に殺意が来る。
レギュラスは応戦した。
鋭く打ち返す。
だが、重い。
強い。
やはり、格が違う。
ルシウス・マルフォイは伊達ではない。
綺麗に整えられた戦い方の中に、何十年も積み上げた魔力の厚みがある。一撃ごとに圧がある。軽く捌いたつもりの呪文さえ、腕の骨まで響く。
アランの杖の上で応戦していくのは、苦しいものがあった。
自分の杖なら、もっと違う。
もっと深く魔力を通し、もっと鋭く削れる。
けれど今手にあるのは、彼女の魔力のために作られた杖だ。
持ち主の柔らかな呪文ばかりを紡ぐ、あの魔力とは違って。
自分のものは鋭く、重たい。
そんな魔力を流されて、激しく振り回されるのだから、杖としてもたまったものではないのだろう。
杖身が震える。
きしむみたいな違和感が、掌に返ってくる。
レギュラスは一瞬だけ、意識の中でそれに念じた。
耐えろ。
耐えてくれ。
今はまだ、折れないでくれ。
再びこの杖を、持ち主に返すためにも。
ルシウスの次撃が来る。
今度は二重に重ねた呪文だった。正面から砕き、足を止め、その間に奪うつもりなのだろう。
レギュラスは半歩だけ踏み込んだ。
下がるのではなく、前へ。
あえて間合いを詰め、杖先の死角へ滑り込む。ルシウスの目がわずかに細くなった。そこへ、ほとんど無詠唱に近い速さで横から撃つ。
防がれた。
だが予想通りだ。
本命は次だ。
弾かれた反動をそのまま利用して、レギュラスは手首を返した。アランの杖に無理を強いる角度だとわかっていても、止めない。今だけは許せと思う。
路地の石畳を、細く裂く光が走る。
それはルシウスの足元ではなく、そのローブの裾を強く打った。布が揺れ、わずかに体勢が崩れる。
その一瞬。
レギュラスはそこへ全力で叩き込む。
「――ッ!」
ルシウスの防御が間に合う。
だが完全ではない。肩口に浅く入った。ルシウスが初めてはっきりと顔を歪める。
「……なるほど」
低い声が落ちる。
「その杖で、そこまでやるか」
レギュラスは答えない。
答える余裕も惜しい。
足元には倒れたデスイーターたち。
時間をかければ、状況は悪くなるだけだ。
ルシウスもそれを理解したのだろう。
今度の構えは、先ほどまでよりずっと冷たかった。捕縛より、制圧が前に出ている。生きたまま連れて行く使命はあっても、手足を砕くくらいは厭わない顔だ。
レギュラスは深く息を吸った。
ここで仕留め切る。
そうでなければ抜けられない。
アランの杖は、まだ耐えている。
ならいける。
ルシウスが大きく杖を振り下ろした。
重い。真正面から受ければ、杖ごと持っていかれる。
レギュラスは今度は受けなかった。
ぎりぎりで身を翻し、頬を掠めさせる。
熱い線が走る。血が滲んだかもしれない。気にしない。
そのまま回り込む。
ルシウスはさすがに速い。
こちらの狙いを読んで、すぐに振り向く。
だが、振り向く“前”に一つだけ癖がある。肩がわずかに先に動くのだ。昔からそうだった。整って見える動きの中にある、唯一の小さな予兆。
そこを、レギュラスは待っていた。
肩が動く。
その瞬間、撃つ。
短く。
深く。
相手の魔力の流れを乱す一点だけを狙った呪文。
ルシウスの杖先がぶれる。
次の呪文が一瞬遅れる。
それだけで十分だった。
レギュラスは躊躇なく距離を詰め、杖を持つ手首を打ち抜いた。
硬い音。
ルシウスの杖が、石畳に跳ねる。
ルシウス自身も膝をついたが、さすがにそこからなお反撃に移ろうとする。
執念は本物だ。
レギュラスはその喉元へ、ぴたりと杖先を向けた。
静寂が落ちる。
倒れたデスイーターたちの呻きと、荒い互いの呼吸だけが残った。
ルシウスが顔を上げる。
銀白の髪が乱れ、肩口にはさっきの傷がある。だがその目は、まだ折れていなかった。
「殺さないのか」
問う声は低い。
レギュラスは一瞬だけ、表情を消した。
「あなたを殺せば」
静かに言う。
「次はもっと多くが来る」
ルシウスの目が細くなる。
「それに、僕は今、あなたを殺している場合じゃない」
アランのところへ戻らなければならない。
そしてホグワーツへ向かわなければならない。
分霊箱も、ダンブルドアも、全部、今からだ。
ルシウスは数秒、黙っていた。
それから、少しだけ苦く笑った。
「昔より、優先順位がはっきりしたようだな」
レギュラスは答えず、ただ杖先をわずかに押し込むように近づけた。
「ここで眠っていてください、ルシウス」
「起きた時には、もう僕はいません」
最後の拘束を撃つ。
今度こそ、確実に。
ルシウスの身体から力が抜けるのを見届けてから、レギュラスはようやく杖を下ろした。
アランの杖は、まだ折れていなかった。
レギュラスはそれを見て、胸の奥でほんの少しだけ安堵した。
杖身には熱が残り、無理をさせた痕みたいな鈍い痺れが掌にある。
「……ありがとう」
小さく、杖に向かってそう言う。
それから、すぐに家へ向き直った。
まだ終わっていない。
むしろここからだ。
アランの魔力の残り香を辿る。
ホグワーツへ。
今度は、死ぬためではなく。
生きて、戻るために。
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