1章
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何となく、わかってしまうことがあった。
アランが昔好きだったという男は、今なおアランの中で大きな存在として残っているのだろう、と。
本人は多くを語らない。
というより、語りたくないのだとわかる。恥ずかしさもあるのだろうし、わざわざ今の自分に聞かせる価値のある話だとも思っていないのだろう。
けれど、言葉の節々に残る。
時々ふっと考え込む癖や、何かを思い出しているであろう一瞬の顔に、それは滲む。
当然、いい気はしなかった。
だが一方で、理解できる部分もある。
十代という時期を、その男を好きでい続けたのであれば。
思い出はどうしても美化されてしまう。
まだ幼いなりに、必死に背伸びをして、愛しているということの真似事をしていた、十代特有の忘れられなさは、きっと誰の心にもある。
こちらだって、わざわざもう生きて帰れないだろうと悟った前夜に、会いにいく女がいたくらいなのだから。
それにきっと、アランはその男に執着したのだろう。
その男のために捨てたものも、
差し出したものも、
我慢したことも、
きっと多かったのだ。
多くを渡せば渡すほど。
自分を削れば削るほど。
人はどうしても、相手に勝手に執着してしまう。
それは愛というより、半ば自分の失ったものへの執念に近い。
ここまでしたのだから、と。
ここまで与えたのだから、と。
そう思わなければ、自分の愚かさに耐えられない。
だから、そういうこともあるのだろうと。
今は自分がそばにいるのだから、それでいいと思えるおおらかさがほしい。
理屈では、そう考える。
けれど。
気に入らないものは、やっぱり気に入らない。
とくに、似ているだなんて言われると、どうにも対抗心が芽生える。
元々、誰かと比べられるのは好きではない。
いや、好きではないどころか、心底不快だ。
常に誰とも比べられないほど、圧倒的に優れたものを残してきた。
そうでなければ意味がないと思って生きてきた。
家柄でも、成績でも、魔法でも、言葉でも。
比較の土俵に乗った時点で、負けてはならない人間だった。
だから、その昔の男がどこの誰かは知らないが。
レギュラス・ブラックの名において、正々堂々と勝負を挑みに来るような人間すらいなかったのに。
実体も掴めないような男に、負けたくないという思いだけが募る。
馬鹿げていると、自分でも思う。
相手は過去の男だ。
ここにはいない。
今さら呼び出せるわけでもないし、殴り合いもできなければ、魔法で優劣をつけることもできない。
ましてアランの記憶の中にしかいない相手と、どうやって競えというのか。
それでも、腹が立つ。
ある夕方、アランは窓辺で薬草を切り分けていた。
細い指先が葉を揃え、一定の幅で茎を落としていく。集中しているようで、時々ふっと手が止まる。そういう時、たいてい彼女は何かを思い出している。
レギュラスは本を開いたまま、その横顔を見ていた。
まただ、と思う。
何を考えているのかは聞かなくてもわかる時がある。
今この瞬間、アランはここにいない。
少しだけ昔へ引き戻されている。
それが、面白くない。
「アラン」
呼ぶと、彼女がはっとしたように顔を上げた。
「はい?」
「また、あの男のことを考えていたんですか」
いっそそのまま聞いてしまうと、アランの目が少しだけ揺れた。
図星の時の揺れ方だ。
「……また、って」
「時々あるでしょう」
「今もそういう顔でしたよ」
アランは薬草を置いて、小さく息をつく。
「そんな顔って、どんな顔ですか」
「僕の前にいるのに、僕を見てない顔です」
少しきつくなった物言いに、自分でも内心で眉を寄せる。
嫌味だ。
だが、引っ込める気にもなれなかった。
アランはしばらく黙っていた。
それから静かに言う。
「……考えていたわけじゃないです」
「思い出しただけです」
「その違いに、僕が納得するとでも?」
アランが今度は本当に困ったような顔をする。
その顔を見ると、追い詰めたいわけではないのだと自分に言い聞かせたくなる。なのに、言葉の方は止まらない。
「思い出すほどの相手なんでしょう」
「初めて好きになった人ですから」
その返答が、思っていた以上に胸に刺さった。
初めて。
それは強い。
どうしたって強い言葉だ。
何もかも未熟なまま、ひとりの相手に世界を全部傾けてしまえる年頃の感情は、理屈では消えない。
レギュラスは本を閉じた。
静かな音が、部屋に少し強く響く。
「そんなに特別なんですか」
聞いてしまってから、情けない問いだと思う。
だが、もう遅かった。
アランはレギュラスを見た。
その目には、驚きと、少しの痛ましさが混じっている。
「特別、というより」
言葉を探しながら、アランはゆっくり続けた。
「……あの頃の自分ごと、そこにいる感じなんです」
「上手く言えないですけど」
レギュラスは黙る。
それはつまり、その男個人というより、その男を好きだった頃の自分まで含めて切り離せないということだろう。
なおさら厄介だと思った。
男そのものが憎いなら、こちらも戦いようがある。
だが、アラン自身の過去と結びついているなら、乱暴に引き剥がすことはできない。
理屈ではわかる。
わかるのに、感情は納得しない。
「……似ていると言われた時から、気に入らなかったんです」
レギュラスがそう言うと、アランは少し目を見開いた。
「まだ気にしてたんですか」
「当然でしょう」
「そんなに」
「そんなに、です」
即答だった。
アランは一瞬だけ呆れたように息をついたが、それから少しだけ表情をやわらげた。
「でも、似ているのはほんの少しだけです」
「そのほんの少しが嫌なんですよ」
レギュラスは立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
薬草の匂いがする。夕方の光の中で、アランの黒い髪が少し赤みを帯びて見えた。
「どこの誰かも知らない男に」
「僕が、いちいち対抗心を燃やしてるのも馬鹿らしいのはわかってます」
正直に言うと、アランの睫毛がわずかに揺れる。
「でも、負けたくないんです」
「レギュラス」
「何に勝つのかも、よくわかってませんよ」
「顔かもしれないし、記憶かもしれないし、あなたの中で占めてる場所かもしれない」
「ただ、あまりに曖昧な相手だから余計に腹が立つ」
そこまで言って、レギュラスは苦く笑った。
「正体も掴めない男に負けたくないなんて、滑稽でしょう」
アランはすぐには返事をしなかった。
代わりに、薬草を置いて立ち上がる。
それから、レギュラスの前まで来た。
「滑稽じゃないです」
小さく、でもはっきり言う。
「……よくはないですけど」
その付け足しがアランらしくて、少しだけ肩の力が抜ける。
けれどレギュラスはまだ黙ったままだった。
「レギュラス」
今度は、やわらかく名前を呼ばれる。
「その人は、たしかに私の十代の中にいます」
「でも、今ここにいるのはあなたです」
レギュラスは目を細めた。
「慰めなら要りません」
「慰めじゃないです」
アランは首を振る。
「思い出すことと、戻りたいことは違います」
「好きだったことと、今も欲しいことも違います」
その言い方が静かすぎて、レギュラスは少しだけ息を止めた。
アランは続ける。
「私は、あの頃の自分を時々思い出します」
「でも、今こうして話したいのはあなたです」
「今、こうして機嫌を悪くされて困るのも、あなたにだけです」
最後の一言が、妙に胸に沁みた。
困るのも、自分にだけ。
レギュラスは視線を落として、アランの顔を見つめた。
翡翠の瞳は、昔の誰かを映している色ではなかった。ちゃんと今のこちらを見ている。
それでも、完全には消えない棘がある。
「……僕は、誰かの代わりにはなりませんよ」
「知ってます」
「似ていると言われても、寄せるつもりもないし」
「それも知ってます」
「ならいいです」
そう言ったところで、全然いい顔ではなかったのだろう。
アランが少しだけ笑った。
「全然よくなさそうです」
「ええ」
「よくないです」
認めると、アランはとうとう本当に笑ってしまう。
その笑い方が、自分を宥める時のものだとわかって、少し癪だった。
「じゃあ、どうしたらいいですか」
問い返されて、レギュラスは一瞬だけ考えた。
何をすれば勝てるのか。
どこに勝ち負けの線を引けばいいのか。
そんなもの、決められるはずもない。
過去の男は記憶の中にいて、こちらは現実にいる。
土俵がそもそも違う。
だからレギュラスは、半ば意地の悪い気持ちで答えた。
「これから先、僕の方が強く残ればいいんでしょう」
アランは少しだけ目を丸くした。
だが否定はしない。
「……そうかもしれません」
「なら簡単です」
レギュラスはアランの顎に指をかけ、少しだけ上を向かせた。
「昔の男が一度もしなかったことを、全部します」
「思い出しても、結局僕の方がよかったと思うくらいに」
アランの頬が、じわりと赤くなる。
「そういう言い方、ずるいです」
「勝負ですから」
「勝負って」
「僕の中ではもうそうなんです」
言い切ると、アランは困ったように眉を下げた。
けれど、その困り方の奥に少しうれしそうなものが混じっているのを、レギュラスは見逃さなかった。
それだけで少し気分が良くなる自分も、単純だと思う。
「……あの人は、たぶん」
アランがぽつりと言った。
「こんなふうに、自分が比べられて嫌だって、言わなかったです」
「言わないでしょうね」
「どうしてです?」
「言わなくても、女が寄ってきたんでしょう」
「そういう男ほど、自分が選ばれる前提で生きてる」
アランはその言葉に少し驚いたような顔をした。
当たっているのだろう。
レギュラスは内心で、やはり気に入らないと思った。
そういう種類の男だろうとは薄々思っていた。
何人も選べて、だからこそ一人を雑に扱える。
アランが必死になった分だけ、余計に腹が立つ。
「僕は違います」
低く言う。
「あなたが誰かを思い出してるだけで、こんなに機嫌が悪くなる」
「その時点で、あまり余裕がない」
アランはしばらく黙っていたが、やがてそっとレギュラスの服の袖を掴んだ。
「……そういうところ、好きです」
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
「それは、今言うことですか」
「今言わないと、また面倒くさくなりそうなので」
その返しに、ようやくレギュラスは少し笑った。
完全には棘が抜けないまま。
それでも、胸の奥の黒いものは少しだけ形を変えていた。
あの男が今なおアランの中にいるのだとしても。
それを消すことはできないのだとしても。
これから先、自分の方が強く、深く、今の彼女に残っていけばいい。
そう思えば、少しだけ前を向ける気がした。
レギュラスはアランの額に軽く口付けた。
「じゃあ、もっと好きにさせます」
「十分ですけど」
「もっとです」
アランは呆れたように笑った。
その笑みを見ながら、レギュラスは内心で静かに決めていた。
正体も掴めない昔の男になど、
絶対に負けるものか、と。
アランに触れていると、時々ふいに不機嫌になる自分がいた。
目の前にいる彼女は、今ちゃんと自分の腕の中にいる。
こちらを見て、名前を呼んで、触れられるたびに小さく息を揺らす。
それなのに、別の男の影が頭をよぎる。
痛みなんて与えたくない。
苦しかったらすぐに体勢を変える。
無理してほしくないから、顔色も、息の乱れ方も、食事量までちゃんと見ている。
今の彼女の身体に何が負担になるか、何が心地よくて何が怖いのか、ちゃんと知っていたいと思っている。
大切に扱っているという自負があった。
だからこそ、思ってしまう。
一体、アランが初めて好きになったというあの男は。
抱いた後にさっさと去っていくような男だったという、あの男は。
どれほどこの大切な身体を、勝手に乱暴に扱ったのだろうと。
考えなくていいことだ。
今ここにいない男のことなど、思い浮かべるだけ損だ。
そうわかっているのに、止まらない。
多分、いい捌け口にしたのだろうと思う。
見ず知らずの自分を危険も顧みずに掬い上げて。
数か月もの間、看病して。
夜中に何度起こされても、嫌な顔をしなかった女だ。
望めば、きっと何だってさせてくれたのだろう。
相手の機嫌を損ねたくない一心で。
好きでいたい、捨てられたくない、その思いだけで。
相手の尊厳を根こそぎ奪うようなことだって、きっと。
そんなことを要求されたりしたのだろうか。
かつての少女は、それでも笑って差し出して、ひとりで傷ついて、ぼろぼろになったのだろうか。
そう思うと、たまらなく苦しい。
アランの頬に触れる手に、無意識に力がこもりそうになって、レギュラスははっとした。
いけないと思って、すぐに指先をゆるめる。
壊れものに触れるみたいに、また撫で直す。
「……レギュラス?」
アランが少しだけ不思議そうにこちらを見る。
その声で、今に引き戻される。
目の前にいるのは、昔の少女ではなく、今のアランだ。
それなのに、自分は勝手に彼女の過去を想像して、勝手に腹を立てている。
最低だ、とレギュラスは思う。
今ここで向き合うべきなのは彼女なのに、脳裏では見えもしない昔の男に噛みついている。
「どうしました?」
アランがもう一度聞く。
レギュラスはすぐには答えられなかった。
喉の奥に、黒いものがつかえているみたいだった。
「……何でもありません」
そう言った声は、自分でもわかるくらい硬かった。
アランの目が少し揺れる。
隠せていないのだろう。
機嫌が落ちたことも、どこか違うことを考えていることも、彼女には案外すぐ伝わる。
「何でもない顔じゃないです」
静かに言われて、レギュラスは目を伏せた。
言うべきではないと思う。
こんな時に。
触れ合っている最中に。
昔の男のことなど口にするのは、あまりにも無粋だ。
けれど、黙っていても胸の奥のざらつきは消えない。
「……あなたの昔の話を思い出しました」
ぽつりと、そう言う。
アランは少し息を止めた。
それだけで、もうわかる。彼女にとっても軽くはない話なのだ。
「今、ですか」
「ええ」
「今です」
レギュラスは苦く笑いそうになる。
「最悪でしょう」
「自分でもそう思います」
アランはしばらく黙っていた。
それから、責めるでもなく、小さく問い返す。
「何を思い出したんですか」
レギュラスは答えに迷う。
だが、ここまで言ってしまった以上、中途半端に濁す方が余計に嫌だった。
「あなたが」
「どれだけ雑に扱われたのか、考えてしまいました」
アランの睫毛が震える。
「今、こんなふうに」
レギュラスは言葉を探しながら続けた。
「大切にしたいと思っている相手を、昔の誰かが好き勝手に傷つけていたのかと思うと、腹が立つんです」
とうとう言ってしまってから、レギュラスは自分の額を押さえたくなった。
なんて幼稚で、なんて醜い感情だろうと思う。
過去は変えられない。
アランだって好きで傷ついたわけではない。
それなのに、自分はその古傷にまで嫉妬めいた苛立ちを向けている。
「……考えるのをやめたらいいのに」
低く吐き捨てるように言う。
「止まらないんです」
アランはすぐには何も言わなかった。
その沈黙が長く感じられて、レギュラスはさらに気分が悪くなる。
呆れただろうか。
面倒だと思っただろうか。
今この瞬間に、そんな昔のことを持ち出されて。
だが、やがてアランはそっと手を伸ばして、レギュラスの頬に触れた。
その手がやわらかくて、レギュラスは少しだけ目を見開く。
「雑だったかもしれません」
アランは静かに言う。
「でも、今のあなたがそれを怒ってくれるのは……」
少しだけ言葉を探して、
「不思議なくらい、救われます」
レギュラスは何も言えなかった。
「その時は、そういうものだと思い込もうとしてました」
「私が足りないからだとか、もっと頑張ればいいんだとか」
「そうやって、自分を納得させるしかなかったので」
アランの声は穏やかだった。
泣いてもいないし、震えてもいない。
だから余計に、その頃どれだけ一人で飲み込んできたのかがわかって、レギュラスの胸はまた痛んだ。
「でも今は」
アランはレギュラスを見る。
「違うって、知ってます」
その翡翠の瞳は、まっすぐだった。
「あなたが、ちゃんと見てくれるから」
「苦しくないかって、聞いてくれるから」
「無理しないでって言ってくれるから」
ひとつひとつ、ゆっくりと言う。
「だから、昔がひどかったんだって、やっと思えるんです」
レギュラスは息を止めた。
怒りだけではなかった。
悔しさだけでもない。
もっと別の、鈍くて深い感情が胸の奥へ沈んでいく。
自分がしていることは、特別なことではないと思っていた。
いや、特別にしたくないと思っていた。
当たり前に大事にしたいだけなのだと。
なのにそれが、彼女にとっては“違うと知るための材料”になっている。
それがたまらなくいとおしくて、苦しかった。
「…… アラン」
名前を呼ぶと、彼女はすぐに「はい」と答えた。
昔の誰かの名前ではなく、自分の名にこうして返してくれることが、今はやけに大きく感じられる。
「僕は」
レギュラスは少しだけ視線を落とす。
「あなたの過去を消せません」
アランは黙って聞いている。
「でも、これから先に上書きすることはできる」
「そう思っていいですか」
アランの目が、やわらかく揺れた。
「……はい」
その小さな肯定だけで、胸のざらつきが少し静まる。
レギュラスは彼女の額に唇を寄せた。
今度は苛立ちではなく、確かめるみたいに。
過去の男ではなく、今ここにいる自分として、彼女に触れる。
「もう昔の男に腹を立てるのはやめたいんですけどね」
低く言うと、アランが少しだけ笑った。
「無理そうですね」
「ええ」
「多分、しばらくは」
「面倒ですね」
「かなり」
そのやりとりで、ようやく少しだけ空気がゆるむ。
レギュラスはアランの髪を指に通した。
やわらかな黒髪は、今の彼女の時間そのものみたいに、静かに指先へ絡む。
考えるのをやめたらいいのに。
止まらない。
それでも。
こうして目の前のアランが、自分の腕の中でちゃんと呼吸をして、こちらを見て、触れ返してくれる限り。
少しずつでも、過去の影より自分の方を強く残していける気がした。
自分の日々の変化を、レギュラスは時々ひどく静かに感じるようになっていた。
もう、豪勢な屋敷はいらないと思う。
あの規格外に広い空間も、
見上げるほど高い天井も、
数え切れない部屋も、
今の自分にはもう必要なものではなかった。
広いベッドもいらない。
品数ばかり多い高級な食事もいらない。
仕立てのいい服だって、別になくて困らない。
いつの間にか、この小さな家が安心の中心になっていた。
狭いベッドは、お互いを離さずにいられて落ち着く。
夜中に少し体を動かせば、すぐアランの体温に触れられる。それだけでまだ湖の底へ引き戻されずに済む夜がある。
アランの作る食事は、何より一番美味しいと思えるようになっていた。味の複雑さでも、素材の珍しさでもない。ただ温かくて、ちゃんと今の自分の体に合っている。それがひどく満たされる。
市場で適当に買う、着やすさを重視しただけの服でも全然間に合う。むしろ今は、変に重たいローブや装飾の多い上着の方が煩わしい。
レギュラス・ブラックとして生きてきた人生の方が、当然長い。
なのに、アランの隣で知った新しい世界の方が、ずっと息がしやすかった。
社交に出て回ることもない。
煌びやかな女たちを相手にすることもない。
誰が誰に目配せをしただの、誰が誰を袖にしただの、そんな駆け引きの空気からも、すっかり遠ざかった。
けれどその代わりに、化粧っ気もなくて、それでも可愛らしいアラン一人がずっとそばにいる。
それで十分だと、今は本気で思う。
死の淵から戻ってきて。
生き直すように始まった生活は。
いつの間にか、レギュラスの生き方そのものに馴染んでいった。
市場での食品の買い方も、もうわかってきた。
最初は野菜の違いすら怪しかったのに、今ではアランが値踏みをする横で、自分なりに状態を見るようになった。魚だって、目が濁っていない方がいいとか、塩漬け肉の匂いの違いとか、少しずつ覚えている。
声をかけてくる薔薇売りの交わし方も、もう慣れた。
最初の頃みたいに本気で花だと思って立ち止まったりはしない。目も合わせず、軽く手を振って通り過ぎるくらいはできるようになった。アランがそれを見るたび、まだ少し面白そうにするのは気に入らないが。
家事魔法なんて、一回も使ったことがなかった。
そんなものは、使う必要がなかったからだ。
屋敷では必要なことは全部、誰かが整えていた。
けれど今は違う。
皿を洗い、床を拭き、鍋を片づけ、洗濯をする。
そういう一つ一つを、アランの隣でいつの間にか覚えた。
「レギュラスは、なんでも器用にこなしますね」
その日も、干した布を取り込みながらアランがそう言った。
レギュラスは少しだけ肩を竦める。
「ええ」
それから、わざと少しだけ得意げに続けた。
「あなたの下着まで、ちゃんと洗って干せるようになりましたからね」
アランの動きがぴたりと止まる。
「それは、そんなに誇らしげに言うことじゃないです」
「いや、かなりの技術ですよ」
レギュラスは真顔で言った。
女性の下着は、本当に厄介だった。
洗い方の呪文を間違えれば一瞬で形を崩すし、妙な飾りはほつれるし、変なワイヤーは飛び出してくる。あれがもし、あの柔らかな胸に刺さろうものならと思うと本当に恐ろしい。最初に一本飛び出しかけた時など、レギュラスは本気で顔をしかめた。
だから、威力も呪文の種類もちゃんと使い分けて洗うようになった。
「薄いものは水流を弱く」
「装飾の多いものは浮かせて洗う」
「ワイヤー入りは捻らない」
「乾燥は日差しが強すぎると駄目――」
「もういいです」
アランが慌てて遮る。
耳が少し赤い。
「どうしてそんなに真面目に研究してるんですか」
「必要だからです」
「必要すぎます」
「必要ですよ」
「あなたが困るでしょう」
当然のように言うと、アランは何とも言えない顔でこちらを見る。
「……普通、そんなところまでしません」
「普通、の男がどの程度を指すのか知りませんけど」
「少なくとも僕は、ちゃんとしたいので」
レギュラスはそう言って、畳んだ布を棚へ置いた。
こういう言葉も、昔の自分ならきっと口にしなかっただろうと思う。
女の下着を傷めないよう洗うことを、ここまで真剣に覚える未来など想像したこともなかった。
それなのに今は、それが妙に自然だった。
アランのものを雑に扱いたくない。
それだけで十分な理由になる。
アランはしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。
「本当に変わりましたね」
その言葉に、レギュラスは少しだけ目を細める。
「悪い意味で?」
「いいえ」
「なんだか、最初の頃はもっと……」
アランは言葉を探すように首を傾げる。
「きらきらしてて、遠い感じでした」
「きらきら」
「品が良すぎて、家の中にいるのに家のものじゃない感じです」
レギュラスは思わず笑った。
「今は?」
「今はちゃんと、うちの人って感じです」
その言い方が妙に嬉しくて、レギュラスは一瞬だけ返事を忘れた。
うちの人。
なんて生活感のある、あたたかな言葉だろうと思う。
ブラック家の誰かとして呼ばれることには慣れていた。家名や立場や血筋に紐づいた呼ばれ方ばかりだった。
けれどうちの人という響きには、そういうものが何もない。ただ同じ場所で暮らしている人間として、生活の輪の中に入れられている。
それが今のレギュラスには、思っていた以上に沁みた。
「それは光栄ですね」
静かに言うと、アランは少し照れたように視線を逸らす。
「変なところで喜びますね」
「変じゃありません」
「むしろ、かなり嬉しいです」
アランは何か言い返そうとして、それをやめた。
代わりに、取り込んだ布の山の中へ顔を少し埋めるような仕草をする。恥ずかしいのだろう。
レギュラスはその様子を見ながら、胸の内で静かに思う。
本当に変わったのだ。
昔の自分なら、こんな日々は退屈だと思ったかもしれない。
何の華もない、平凡で、つまらない生活だと。
けれど今は、こういう細かなことの一つ一つが、自分を生かしている気がする。
朝の光で目が覚めて、
アランが台所に立っていて、
一緒に市場へ行って、
帰ってきて布を洗って、
干し方を間違えるなと注意されて、
夕方には小さな食卓で向かい合って食べる。
その繰り返しに、昔のような息苦しさがない。
むしろ、戻りたくないとすら思う。
「レギュラス」
「はい」
「その顔、また何か考えてますね」
アランが少し怪しむように言う。
最近、こういうふうに見抜かれることが増えた。
「ええ」
レギュラスは素直に頷いた。
「思っていたより、今の生活が自分に向いているなと」
アランはぱちりと瞬いた。
「今さらですか?」
「今さらです」
「でも、改めて思うと不思議ですよ」
「何がです?」
レギュラスは少しだけ部屋を見回した。
狭い。
本当に狭い。
けれど、ここがもう仮の住処ではない感覚がある。
「こういう暮らしを、自分が嫌いじゃないどころか」
「かなり気に入るとは思っていなかったので」
アランは少し黙って、それから静かに笑った。
「じゃあ、もっと慣れてください」
「まだ洗濯と買い物くらいですから」
「まだ増えるんですか」
「当然です」
「次はもう少し料理も覚えてもらいます」
その宣言に、レギュラスはわずかに眉を上げた。
「僕がですか」
「はい、うちの人なので」
また言う。
今度はわざとらしく。
レギュラスはとうとう肩を揺らした。
「それは、断りにくい言い方ですね」
「狙いました」
アランが少し得意げに言う。
その顔が可愛らしくて、レギュラスは一歩近づいて彼女の頬に軽く触れた。
「じゃあ、教えてください」
「先生」
アランはまた耳を赤くした。
「そういう呼び方、ずるいです」
「ええ」
「知ってます」
何でもない日常のやりとりなのに。
それが妙に満たされる。
死の淵から戻ってきて、生き直すように始まった生活は、もう仮の延長ではなくなっていた。
レギュラスの中で、ちゃんと現在になっている。
この小さな家で、
アランの隣で、
これから覚えることはまだまだあるのだろう。
それが少しも苦ではないどころか、むしろ楽しみだと思っている自分が、今は不思議でもあり、どこか誇らしくもあった。
デスイーターは、抜けられない。
そのことを、レギュラスは嫌というほど知っていた。
抜ければ終わりではない。
永遠に追われる身になる。
どこまで逃げても、あの印と、あの方の執着からは簡単に逃げ切れない。
だから本来なら、最初からその覚悟で動かなければならなかったのだ。
けれど二年近く。
レギュラスは、アランの隣で生き延びることに必死で、その現実を少しだけ遠ざけていた。
忘れていたわけではない。
ロケットはずっと手元にあったし、破壊も何度も試みた。
だが、あの小さな家の中でアランと過ごす日々は、あまりにも静かで、あまりにも人間らしかった。
そのせいで一瞬、自分もただの一人の男として生きていけるのではないかと、そんな甘い錯覚すら抱きそうになっていた。
それが、打ち砕かれた。
闇の印が上がったという知らせで、市場も診療所も、どこもかもがざわついていた。
朝から人の声が変だった。
いつもの値段交渉や世間話ではない。もっと低く、もっと怯えたざわめきだ。誰かが見たと言う。夜空に印が浮かんだと。黒い影が街の上で燃えるみたいに広がっていたと。
数人のデスイーターが街で暴れていったらしい。
こんな小さな街に。
ロンドンから遠く離れた、この場所に。
わざわざやって来たくらいなのだから。
裏切り者を、徹底的に探しているのだろう。
レギュラスは市場の一角でその話を耳にしながら、背中の内側に古い氷を差し込まれたみたいな感覚を覚えた。
やはり、来た。
自分はもはや追われる身なのだ。
分霊箱に辿り着いてしまった以上。
そしてその分霊箱が今、手元にあり、何度も破壊を試みている以上。
そのことは、もうとっくにあの方には見破られているのだろう。
夜空に闇の印が上がるたび。
街に黒いローブの影が差すたび。
それが自分への追跡の延長に思えてならなかった。
家へ戻る道すがら、レギュラスはずっと無言だった。
アランも、何かを感じ取ったのだろう。普段より少しだけ足音が静かだった。
扉を閉めた途端、レギュラスは振り向いた。
「アラン」
声が、自分でも驚くほど硬い。
「しばらくは、外出を控えてください」
アランが目を上げる。
翡翠の瞳がまっすぐこちらを見る。
「レギュラス」
「お願いです」
「市場も、診療所も、しばらくは最低限にしてください」
「一人で出ないでください」
言いながら、胸の奥の嫌な予感がさらに濃くなる。
アランが狙われれば。
多分、一瞬で仕留められる。
それしか想像できない。
彼女は強い。
賢いし、咄嗟の判断もできる。
だがデスイーター相手では、それだけでは足りない。あの手の連中は、躊躇なく人を壊す。しかも相手が女なら、なおさら悪趣味な方向へ転ぶこともある。
自分のいない間に、彼女の身に何か起こってしまう可能性が。
それが今、何より恐ろしかった。
そろそろもう、この手元にある分霊箱と本気で向き合わなければならない時期なのだろう。
嫌でもそう思い知らされる。
死を覚悟してあの湖で沈んだ日から、もう二年ほどが経っていた。
いろいろ試した。
炎も、呪詛も、魔力干渉も、封印崩しも。
けれど分霊箱は結局、壊せないままだった。
自分一人の実力では、限界なのだろう。
認めたくないが、認めるしかない。
騎士団に。
ダンブルドアに。
力を貸してくれと言うべきなのだ。
元デスイーターとして。
知っていることすべてを差し出し、可能な限りの協力をすることを引き換えに。
分霊箱を破壊して、あの恐ろしい男を終わりにしなければならない。
レギュラスはその夜、ようやくアランに真実を話した。
ブラックという名前だけは出さなかった。
だが、それ以外はほとんど隠せなかった。
自分がデスイーターとして闇の帝王に従っていたこと。
闇の印が上がれば、招集がかかれば、腕に何もないように見えても、その瞬間に紋様が浮かび上がること。
それがデスイーターである証であり、同時に抜けられないということを示す呪いでもあること。
レギュラスは言葉を選びながら話した。
けれど選んだところで内容は変わらない。
自分が恐ろしいものの側にいた人間だという事実は、そのまま残る。
「……純血の魔法使いたちの誇りを守りたいと思っていました」
低く、途切れがちな声で言う。
「そういう理想があると、信じていた」
「けれど実際は違った」
アランは何も言わず、ただ聞いていた。
遮らない。
責めない。
だからこそ、レギュラスは余計に言葉を続けるしかなかった。
「あの男は、純血の魔法使いなんかじゃない」
「自分の私利私欲のために」
「不老不死のために」
「ただ生に執着していただけでした」
その言葉を口にすると、昔の自分の愚かさがいっそう骨身に沁みる。
「自分が信じた純血主義は」
レギュラスは目を伏せる。
「たった一人の男の、生への執着でした」
部屋の中に沈黙が落ちた。
こんな話を聞かされたら。
普通は怯えるのかもしれない。
嫌悪するのかもしれない。
少なくとも、今まで通りの目では見られなくなるのかもしれない。
レギュラスはそれを覚悟していた。
けれどアランは、何も言わなかった。
ただ。
次の瞬間、彼女はレギュラスに抱きついた。
あまりに自然で、あまりにためらいのない動きだったから、レギュラスは一瞬反応が遅れた。
腕の中へ飛び込んできた体温が、あたたかい。
「アラン……」
「レギュラス」
彼女は彼の服を強く掴んだまま、顔を上げない。
「せっかくあなたは、生きて戻ってこれたのです」
「もう二度と、死に向かうようなことをしないでください」
その言葉に、レギュラスはしばらく息ができなかった。
恐怖でもない。
非難でもない。
デスイーターであるという事実への嫌悪でもない。
ただ、死なないで、という言葉だった。
そのことが、胸を深く打った。
こんな告白をしたあとで、最初に向けられる感情がそれなのかと。
自分の罪や愚かさを裁く前に、生きていてほしいと願われるのかと。
レギュラスはようやく、ゆっくりとアランを抱きしめ返した。
「……簡単には約束できません」
正直にそう言う。
「分霊箱を壊さなければ、終わらない」
「そしてそれを壊すには、たぶんもう、誰かの力を借りるしかない」
アランは彼の胸元に顔を埋めたまま、黙っている。
「騎士団に接触します」
「ダンブルドアにも」
「今さら何をと言われるでしょうし、信用されるとも思えない」
「それでも、やるしかない」
抱きしめる腕に、アランの指が少しだけ食い込む。
「……なら、なおさらです」
小さな声だった。
「一人で行かないでください」
レギュラスは目を閉じた。
一人で行かないで。
それはつまり、自分を死地へ送り出す前提での言葉だ。
行くことそのものは止められないと、彼女ももうわかっている。
それが余計につらかった。
「あなたを巻き込みたくありません」
「もう巻き込まれています」
アランはきっぱり言った。
「あなたが生きて戻ってきた時から」
「あなたが夜中に湖に沈む夢を見て、私の名前を呼んだ時から」
「もう私は、あなたのその世界の外にはいません」
その言葉が、あまりにも真っ直ぐで。
レギュラスは胸の奥のどこかが崩れる音を聞いた気がした。
こんなふうに言われる資格が、自分にあるのだろうかと思う。
闇の側にいた自分に。
散々汚れたものを見てきた自分に。
それでもアランは、外にはいないと言う。
「……怖くないんですか」
思わず聞くと、アランは少しだけ顔を上げた。
翡翠の瞳が、近い。
「怖いです」
あっさり、そう言う。
「でも、あなたを一人で行かせる方が怖いです」
レギュラスは言葉を失った。
抱きしめているはずなのに、むしろ自分の方が支えられている気がした。
彼女はきっと、何もできないわけではない。
薬も、知識も、勇気もある。
けれどそれ以上に、自分を生かすことだけを考えてここまで来たのだ。
そのアランに、また死へ向かうなと言われる重さを。
レギュラスは今さらながら全身で感じていた。
「……できるだけ、死にに行かない道を選びます」
ようやくそう言うと、アランは少しだけ目を潤ませて笑った。
「それ、約束です」
「努力目標です」
「レギュラス」
「……約束します」
その言い直しに、アランはやっと息をついた。
彼女の腕はまだ離れない。
レギュラスも、しばらくそのまま抱いていた。
闇の印が上がった。
デスイーターが近くに現れた。
もう逃げているだけでは済まない。
それでも今、腕の中にある温かさだけは確かだった。
恐ろしい過去を告げてもなお、彼女は離れなかった。
それどころか、死ぬなと、戻ってきたのだからもう二度と死に向かうなと、そう言った。
その言葉を胸の奥に抱えたまま、レギュラスは静かに思う。
今度こそ。
今度こそ、本当に終わらせなければならないのだと。
アランが昔好きだったという男は、今なおアランの中で大きな存在として残っているのだろう、と。
本人は多くを語らない。
というより、語りたくないのだとわかる。恥ずかしさもあるのだろうし、わざわざ今の自分に聞かせる価値のある話だとも思っていないのだろう。
けれど、言葉の節々に残る。
時々ふっと考え込む癖や、何かを思い出しているであろう一瞬の顔に、それは滲む。
当然、いい気はしなかった。
だが一方で、理解できる部分もある。
十代という時期を、その男を好きでい続けたのであれば。
思い出はどうしても美化されてしまう。
まだ幼いなりに、必死に背伸びをして、愛しているということの真似事をしていた、十代特有の忘れられなさは、きっと誰の心にもある。
こちらだって、わざわざもう生きて帰れないだろうと悟った前夜に、会いにいく女がいたくらいなのだから。
それにきっと、アランはその男に執着したのだろう。
その男のために捨てたものも、
差し出したものも、
我慢したことも、
きっと多かったのだ。
多くを渡せば渡すほど。
自分を削れば削るほど。
人はどうしても、相手に勝手に執着してしまう。
それは愛というより、半ば自分の失ったものへの執念に近い。
ここまでしたのだから、と。
ここまで与えたのだから、と。
そう思わなければ、自分の愚かさに耐えられない。
だから、そういうこともあるのだろうと。
今は自分がそばにいるのだから、それでいいと思えるおおらかさがほしい。
理屈では、そう考える。
けれど。
気に入らないものは、やっぱり気に入らない。
とくに、似ているだなんて言われると、どうにも対抗心が芽生える。
元々、誰かと比べられるのは好きではない。
いや、好きではないどころか、心底不快だ。
常に誰とも比べられないほど、圧倒的に優れたものを残してきた。
そうでなければ意味がないと思って生きてきた。
家柄でも、成績でも、魔法でも、言葉でも。
比較の土俵に乗った時点で、負けてはならない人間だった。
だから、その昔の男がどこの誰かは知らないが。
レギュラス・ブラックの名において、正々堂々と勝負を挑みに来るような人間すらいなかったのに。
実体も掴めないような男に、負けたくないという思いだけが募る。
馬鹿げていると、自分でも思う。
相手は過去の男だ。
ここにはいない。
今さら呼び出せるわけでもないし、殴り合いもできなければ、魔法で優劣をつけることもできない。
ましてアランの記憶の中にしかいない相手と、どうやって競えというのか。
それでも、腹が立つ。
ある夕方、アランは窓辺で薬草を切り分けていた。
細い指先が葉を揃え、一定の幅で茎を落としていく。集中しているようで、時々ふっと手が止まる。そういう時、たいてい彼女は何かを思い出している。
レギュラスは本を開いたまま、その横顔を見ていた。
まただ、と思う。
何を考えているのかは聞かなくてもわかる時がある。
今この瞬間、アランはここにいない。
少しだけ昔へ引き戻されている。
それが、面白くない。
「アラン」
呼ぶと、彼女がはっとしたように顔を上げた。
「はい?」
「また、あの男のことを考えていたんですか」
いっそそのまま聞いてしまうと、アランの目が少しだけ揺れた。
図星の時の揺れ方だ。
「……また、って」
「時々あるでしょう」
「今もそういう顔でしたよ」
アランは薬草を置いて、小さく息をつく。
「そんな顔って、どんな顔ですか」
「僕の前にいるのに、僕を見てない顔です」
少しきつくなった物言いに、自分でも内心で眉を寄せる。
嫌味だ。
だが、引っ込める気にもなれなかった。
アランはしばらく黙っていた。
それから静かに言う。
「……考えていたわけじゃないです」
「思い出しただけです」
「その違いに、僕が納得するとでも?」
アランが今度は本当に困ったような顔をする。
その顔を見ると、追い詰めたいわけではないのだと自分に言い聞かせたくなる。なのに、言葉の方は止まらない。
「思い出すほどの相手なんでしょう」
「初めて好きになった人ですから」
その返答が、思っていた以上に胸に刺さった。
初めて。
それは強い。
どうしたって強い言葉だ。
何もかも未熟なまま、ひとりの相手に世界を全部傾けてしまえる年頃の感情は、理屈では消えない。
レギュラスは本を閉じた。
静かな音が、部屋に少し強く響く。
「そんなに特別なんですか」
聞いてしまってから、情けない問いだと思う。
だが、もう遅かった。
アランはレギュラスを見た。
その目には、驚きと、少しの痛ましさが混じっている。
「特別、というより」
言葉を探しながら、アランはゆっくり続けた。
「……あの頃の自分ごと、そこにいる感じなんです」
「上手く言えないですけど」
レギュラスは黙る。
それはつまり、その男個人というより、その男を好きだった頃の自分まで含めて切り離せないということだろう。
なおさら厄介だと思った。
男そのものが憎いなら、こちらも戦いようがある。
だが、アラン自身の過去と結びついているなら、乱暴に引き剥がすことはできない。
理屈ではわかる。
わかるのに、感情は納得しない。
「……似ていると言われた時から、気に入らなかったんです」
レギュラスがそう言うと、アランは少し目を見開いた。
「まだ気にしてたんですか」
「当然でしょう」
「そんなに」
「そんなに、です」
即答だった。
アランは一瞬だけ呆れたように息をついたが、それから少しだけ表情をやわらげた。
「でも、似ているのはほんの少しだけです」
「そのほんの少しが嫌なんですよ」
レギュラスは立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
薬草の匂いがする。夕方の光の中で、アランの黒い髪が少し赤みを帯びて見えた。
「どこの誰かも知らない男に」
「僕が、いちいち対抗心を燃やしてるのも馬鹿らしいのはわかってます」
正直に言うと、アランの睫毛がわずかに揺れる。
「でも、負けたくないんです」
「レギュラス」
「何に勝つのかも、よくわかってませんよ」
「顔かもしれないし、記憶かもしれないし、あなたの中で占めてる場所かもしれない」
「ただ、あまりに曖昧な相手だから余計に腹が立つ」
そこまで言って、レギュラスは苦く笑った。
「正体も掴めない男に負けたくないなんて、滑稽でしょう」
アランはすぐには返事をしなかった。
代わりに、薬草を置いて立ち上がる。
それから、レギュラスの前まで来た。
「滑稽じゃないです」
小さく、でもはっきり言う。
「……よくはないですけど」
その付け足しがアランらしくて、少しだけ肩の力が抜ける。
けれどレギュラスはまだ黙ったままだった。
「レギュラス」
今度は、やわらかく名前を呼ばれる。
「その人は、たしかに私の十代の中にいます」
「でも、今ここにいるのはあなたです」
レギュラスは目を細めた。
「慰めなら要りません」
「慰めじゃないです」
アランは首を振る。
「思い出すことと、戻りたいことは違います」
「好きだったことと、今も欲しいことも違います」
その言い方が静かすぎて、レギュラスは少しだけ息を止めた。
アランは続ける。
「私は、あの頃の自分を時々思い出します」
「でも、今こうして話したいのはあなたです」
「今、こうして機嫌を悪くされて困るのも、あなたにだけです」
最後の一言が、妙に胸に沁みた。
困るのも、自分にだけ。
レギュラスは視線を落として、アランの顔を見つめた。
翡翠の瞳は、昔の誰かを映している色ではなかった。ちゃんと今のこちらを見ている。
それでも、完全には消えない棘がある。
「……僕は、誰かの代わりにはなりませんよ」
「知ってます」
「似ていると言われても、寄せるつもりもないし」
「それも知ってます」
「ならいいです」
そう言ったところで、全然いい顔ではなかったのだろう。
アランが少しだけ笑った。
「全然よくなさそうです」
「ええ」
「よくないです」
認めると、アランはとうとう本当に笑ってしまう。
その笑い方が、自分を宥める時のものだとわかって、少し癪だった。
「じゃあ、どうしたらいいですか」
問い返されて、レギュラスは一瞬だけ考えた。
何をすれば勝てるのか。
どこに勝ち負けの線を引けばいいのか。
そんなもの、決められるはずもない。
過去の男は記憶の中にいて、こちらは現実にいる。
土俵がそもそも違う。
だからレギュラスは、半ば意地の悪い気持ちで答えた。
「これから先、僕の方が強く残ればいいんでしょう」
アランは少しだけ目を丸くした。
だが否定はしない。
「……そうかもしれません」
「なら簡単です」
レギュラスはアランの顎に指をかけ、少しだけ上を向かせた。
「昔の男が一度もしなかったことを、全部します」
「思い出しても、結局僕の方がよかったと思うくらいに」
アランの頬が、じわりと赤くなる。
「そういう言い方、ずるいです」
「勝負ですから」
「勝負って」
「僕の中ではもうそうなんです」
言い切ると、アランは困ったように眉を下げた。
けれど、その困り方の奥に少しうれしそうなものが混じっているのを、レギュラスは見逃さなかった。
それだけで少し気分が良くなる自分も、単純だと思う。
「……あの人は、たぶん」
アランがぽつりと言った。
「こんなふうに、自分が比べられて嫌だって、言わなかったです」
「言わないでしょうね」
「どうしてです?」
「言わなくても、女が寄ってきたんでしょう」
「そういう男ほど、自分が選ばれる前提で生きてる」
アランはその言葉に少し驚いたような顔をした。
当たっているのだろう。
レギュラスは内心で、やはり気に入らないと思った。
そういう種類の男だろうとは薄々思っていた。
何人も選べて、だからこそ一人を雑に扱える。
アランが必死になった分だけ、余計に腹が立つ。
「僕は違います」
低く言う。
「あなたが誰かを思い出してるだけで、こんなに機嫌が悪くなる」
「その時点で、あまり余裕がない」
アランはしばらく黙っていたが、やがてそっとレギュラスの服の袖を掴んだ。
「……そういうところ、好きです」
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
「それは、今言うことですか」
「今言わないと、また面倒くさくなりそうなので」
その返しに、ようやくレギュラスは少し笑った。
完全には棘が抜けないまま。
それでも、胸の奥の黒いものは少しだけ形を変えていた。
あの男が今なおアランの中にいるのだとしても。
それを消すことはできないのだとしても。
これから先、自分の方が強く、深く、今の彼女に残っていけばいい。
そう思えば、少しだけ前を向ける気がした。
レギュラスはアランの額に軽く口付けた。
「じゃあ、もっと好きにさせます」
「十分ですけど」
「もっとです」
アランは呆れたように笑った。
その笑みを見ながら、レギュラスは内心で静かに決めていた。
正体も掴めない昔の男になど、
絶対に負けるものか、と。
アランに触れていると、時々ふいに不機嫌になる自分がいた。
目の前にいる彼女は、今ちゃんと自分の腕の中にいる。
こちらを見て、名前を呼んで、触れられるたびに小さく息を揺らす。
それなのに、別の男の影が頭をよぎる。
痛みなんて与えたくない。
苦しかったらすぐに体勢を変える。
無理してほしくないから、顔色も、息の乱れ方も、食事量までちゃんと見ている。
今の彼女の身体に何が負担になるか、何が心地よくて何が怖いのか、ちゃんと知っていたいと思っている。
大切に扱っているという自負があった。
だからこそ、思ってしまう。
一体、アランが初めて好きになったというあの男は。
抱いた後にさっさと去っていくような男だったという、あの男は。
どれほどこの大切な身体を、勝手に乱暴に扱ったのだろうと。
考えなくていいことだ。
今ここにいない男のことなど、思い浮かべるだけ損だ。
そうわかっているのに、止まらない。
多分、いい捌け口にしたのだろうと思う。
見ず知らずの自分を危険も顧みずに掬い上げて。
数か月もの間、看病して。
夜中に何度起こされても、嫌な顔をしなかった女だ。
望めば、きっと何だってさせてくれたのだろう。
相手の機嫌を損ねたくない一心で。
好きでいたい、捨てられたくない、その思いだけで。
相手の尊厳を根こそぎ奪うようなことだって、きっと。
そんなことを要求されたりしたのだろうか。
かつての少女は、それでも笑って差し出して、ひとりで傷ついて、ぼろぼろになったのだろうか。
そう思うと、たまらなく苦しい。
アランの頬に触れる手に、無意識に力がこもりそうになって、レギュラスははっとした。
いけないと思って、すぐに指先をゆるめる。
壊れものに触れるみたいに、また撫で直す。
「……レギュラス?」
アランが少しだけ不思議そうにこちらを見る。
その声で、今に引き戻される。
目の前にいるのは、昔の少女ではなく、今のアランだ。
それなのに、自分は勝手に彼女の過去を想像して、勝手に腹を立てている。
最低だ、とレギュラスは思う。
今ここで向き合うべきなのは彼女なのに、脳裏では見えもしない昔の男に噛みついている。
「どうしました?」
アランがもう一度聞く。
レギュラスはすぐには答えられなかった。
喉の奥に、黒いものがつかえているみたいだった。
「……何でもありません」
そう言った声は、自分でもわかるくらい硬かった。
アランの目が少し揺れる。
隠せていないのだろう。
機嫌が落ちたことも、どこか違うことを考えていることも、彼女には案外すぐ伝わる。
「何でもない顔じゃないです」
静かに言われて、レギュラスは目を伏せた。
言うべきではないと思う。
こんな時に。
触れ合っている最中に。
昔の男のことなど口にするのは、あまりにも無粋だ。
けれど、黙っていても胸の奥のざらつきは消えない。
「……あなたの昔の話を思い出しました」
ぽつりと、そう言う。
アランは少し息を止めた。
それだけで、もうわかる。彼女にとっても軽くはない話なのだ。
「今、ですか」
「ええ」
「今です」
レギュラスは苦く笑いそうになる。
「最悪でしょう」
「自分でもそう思います」
アランはしばらく黙っていた。
それから、責めるでもなく、小さく問い返す。
「何を思い出したんですか」
レギュラスは答えに迷う。
だが、ここまで言ってしまった以上、中途半端に濁す方が余計に嫌だった。
「あなたが」
「どれだけ雑に扱われたのか、考えてしまいました」
アランの睫毛が震える。
「今、こんなふうに」
レギュラスは言葉を探しながら続けた。
「大切にしたいと思っている相手を、昔の誰かが好き勝手に傷つけていたのかと思うと、腹が立つんです」
とうとう言ってしまってから、レギュラスは自分の額を押さえたくなった。
なんて幼稚で、なんて醜い感情だろうと思う。
過去は変えられない。
アランだって好きで傷ついたわけではない。
それなのに、自分はその古傷にまで嫉妬めいた苛立ちを向けている。
「……考えるのをやめたらいいのに」
低く吐き捨てるように言う。
「止まらないんです」
アランはすぐには何も言わなかった。
その沈黙が長く感じられて、レギュラスはさらに気分が悪くなる。
呆れただろうか。
面倒だと思っただろうか。
今この瞬間に、そんな昔のことを持ち出されて。
だが、やがてアランはそっと手を伸ばして、レギュラスの頬に触れた。
その手がやわらかくて、レギュラスは少しだけ目を見開く。
「雑だったかもしれません」
アランは静かに言う。
「でも、今のあなたがそれを怒ってくれるのは……」
少しだけ言葉を探して、
「不思議なくらい、救われます」
レギュラスは何も言えなかった。
「その時は、そういうものだと思い込もうとしてました」
「私が足りないからだとか、もっと頑張ればいいんだとか」
「そうやって、自分を納得させるしかなかったので」
アランの声は穏やかだった。
泣いてもいないし、震えてもいない。
だから余計に、その頃どれだけ一人で飲み込んできたのかがわかって、レギュラスの胸はまた痛んだ。
「でも今は」
アランはレギュラスを見る。
「違うって、知ってます」
その翡翠の瞳は、まっすぐだった。
「あなたが、ちゃんと見てくれるから」
「苦しくないかって、聞いてくれるから」
「無理しないでって言ってくれるから」
ひとつひとつ、ゆっくりと言う。
「だから、昔がひどかったんだって、やっと思えるんです」
レギュラスは息を止めた。
怒りだけではなかった。
悔しさだけでもない。
もっと別の、鈍くて深い感情が胸の奥へ沈んでいく。
自分がしていることは、特別なことではないと思っていた。
いや、特別にしたくないと思っていた。
当たり前に大事にしたいだけなのだと。
なのにそれが、彼女にとっては“違うと知るための材料”になっている。
それがたまらなくいとおしくて、苦しかった。
「…… アラン」
名前を呼ぶと、彼女はすぐに「はい」と答えた。
昔の誰かの名前ではなく、自分の名にこうして返してくれることが、今はやけに大きく感じられる。
「僕は」
レギュラスは少しだけ視線を落とす。
「あなたの過去を消せません」
アランは黙って聞いている。
「でも、これから先に上書きすることはできる」
「そう思っていいですか」
アランの目が、やわらかく揺れた。
「……はい」
その小さな肯定だけで、胸のざらつきが少し静まる。
レギュラスは彼女の額に唇を寄せた。
今度は苛立ちではなく、確かめるみたいに。
過去の男ではなく、今ここにいる自分として、彼女に触れる。
「もう昔の男に腹を立てるのはやめたいんですけどね」
低く言うと、アランが少しだけ笑った。
「無理そうですね」
「ええ」
「多分、しばらくは」
「面倒ですね」
「かなり」
そのやりとりで、ようやく少しだけ空気がゆるむ。
レギュラスはアランの髪を指に通した。
やわらかな黒髪は、今の彼女の時間そのものみたいに、静かに指先へ絡む。
考えるのをやめたらいいのに。
止まらない。
それでも。
こうして目の前のアランが、自分の腕の中でちゃんと呼吸をして、こちらを見て、触れ返してくれる限り。
少しずつでも、過去の影より自分の方を強く残していける気がした。
自分の日々の変化を、レギュラスは時々ひどく静かに感じるようになっていた。
もう、豪勢な屋敷はいらないと思う。
あの規格外に広い空間も、
見上げるほど高い天井も、
数え切れない部屋も、
今の自分にはもう必要なものではなかった。
広いベッドもいらない。
品数ばかり多い高級な食事もいらない。
仕立てのいい服だって、別になくて困らない。
いつの間にか、この小さな家が安心の中心になっていた。
狭いベッドは、お互いを離さずにいられて落ち着く。
夜中に少し体を動かせば、すぐアランの体温に触れられる。それだけでまだ湖の底へ引き戻されずに済む夜がある。
アランの作る食事は、何より一番美味しいと思えるようになっていた。味の複雑さでも、素材の珍しさでもない。ただ温かくて、ちゃんと今の自分の体に合っている。それがひどく満たされる。
市場で適当に買う、着やすさを重視しただけの服でも全然間に合う。むしろ今は、変に重たいローブや装飾の多い上着の方が煩わしい。
レギュラス・ブラックとして生きてきた人生の方が、当然長い。
なのに、アランの隣で知った新しい世界の方が、ずっと息がしやすかった。
社交に出て回ることもない。
煌びやかな女たちを相手にすることもない。
誰が誰に目配せをしただの、誰が誰を袖にしただの、そんな駆け引きの空気からも、すっかり遠ざかった。
けれどその代わりに、化粧っ気もなくて、それでも可愛らしいアラン一人がずっとそばにいる。
それで十分だと、今は本気で思う。
死の淵から戻ってきて。
生き直すように始まった生活は。
いつの間にか、レギュラスの生き方そのものに馴染んでいった。
市場での食品の買い方も、もうわかってきた。
最初は野菜の違いすら怪しかったのに、今ではアランが値踏みをする横で、自分なりに状態を見るようになった。魚だって、目が濁っていない方がいいとか、塩漬け肉の匂いの違いとか、少しずつ覚えている。
声をかけてくる薔薇売りの交わし方も、もう慣れた。
最初の頃みたいに本気で花だと思って立ち止まったりはしない。目も合わせず、軽く手を振って通り過ぎるくらいはできるようになった。アランがそれを見るたび、まだ少し面白そうにするのは気に入らないが。
家事魔法なんて、一回も使ったことがなかった。
そんなものは、使う必要がなかったからだ。
屋敷では必要なことは全部、誰かが整えていた。
けれど今は違う。
皿を洗い、床を拭き、鍋を片づけ、洗濯をする。
そういう一つ一つを、アランの隣でいつの間にか覚えた。
「レギュラスは、なんでも器用にこなしますね」
その日も、干した布を取り込みながらアランがそう言った。
レギュラスは少しだけ肩を竦める。
「ええ」
それから、わざと少しだけ得意げに続けた。
「あなたの下着まで、ちゃんと洗って干せるようになりましたからね」
アランの動きがぴたりと止まる。
「それは、そんなに誇らしげに言うことじゃないです」
「いや、かなりの技術ですよ」
レギュラスは真顔で言った。
女性の下着は、本当に厄介だった。
洗い方の呪文を間違えれば一瞬で形を崩すし、妙な飾りはほつれるし、変なワイヤーは飛び出してくる。あれがもし、あの柔らかな胸に刺さろうものならと思うと本当に恐ろしい。最初に一本飛び出しかけた時など、レギュラスは本気で顔をしかめた。
だから、威力も呪文の種類もちゃんと使い分けて洗うようになった。
「薄いものは水流を弱く」
「装飾の多いものは浮かせて洗う」
「ワイヤー入りは捻らない」
「乾燥は日差しが強すぎると駄目――」
「もういいです」
アランが慌てて遮る。
耳が少し赤い。
「どうしてそんなに真面目に研究してるんですか」
「必要だからです」
「必要すぎます」
「必要ですよ」
「あなたが困るでしょう」
当然のように言うと、アランは何とも言えない顔でこちらを見る。
「……普通、そんなところまでしません」
「普通、の男がどの程度を指すのか知りませんけど」
「少なくとも僕は、ちゃんとしたいので」
レギュラスはそう言って、畳んだ布を棚へ置いた。
こういう言葉も、昔の自分ならきっと口にしなかっただろうと思う。
女の下着を傷めないよう洗うことを、ここまで真剣に覚える未来など想像したこともなかった。
それなのに今は、それが妙に自然だった。
アランのものを雑に扱いたくない。
それだけで十分な理由になる。
アランはしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。
「本当に変わりましたね」
その言葉に、レギュラスは少しだけ目を細める。
「悪い意味で?」
「いいえ」
「なんだか、最初の頃はもっと……」
アランは言葉を探すように首を傾げる。
「きらきらしてて、遠い感じでした」
「きらきら」
「品が良すぎて、家の中にいるのに家のものじゃない感じです」
レギュラスは思わず笑った。
「今は?」
「今はちゃんと、うちの人って感じです」
その言い方が妙に嬉しくて、レギュラスは一瞬だけ返事を忘れた。
うちの人。
なんて生活感のある、あたたかな言葉だろうと思う。
ブラック家の誰かとして呼ばれることには慣れていた。家名や立場や血筋に紐づいた呼ばれ方ばかりだった。
けれどうちの人という響きには、そういうものが何もない。ただ同じ場所で暮らしている人間として、生活の輪の中に入れられている。
それが今のレギュラスには、思っていた以上に沁みた。
「それは光栄ですね」
静かに言うと、アランは少し照れたように視線を逸らす。
「変なところで喜びますね」
「変じゃありません」
「むしろ、かなり嬉しいです」
アランは何か言い返そうとして、それをやめた。
代わりに、取り込んだ布の山の中へ顔を少し埋めるような仕草をする。恥ずかしいのだろう。
レギュラスはその様子を見ながら、胸の内で静かに思う。
本当に変わったのだ。
昔の自分なら、こんな日々は退屈だと思ったかもしれない。
何の華もない、平凡で、つまらない生活だと。
けれど今は、こういう細かなことの一つ一つが、自分を生かしている気がする。
朝の光で目が覚めて、
アランが台所に立っていて、
一緒に市場へ行って、
帰ってきて布を洗って、
干し方を間違えるなと注意されて、
夕方には小さな食卓で向かい合って食べる。
その繰り返しに、昔のような息苦しさがない。
むしろ、戻りたくないとすら思う。
「レギュラス」
「はい」
「その顔、また何か考えてますね」
アランが少し怪しむように言う。
最近、こういうふうに見抜かれることが増えた。
「ええ」
レギュラスは素直に頷いた。
「思っていたより、今の生活が自分に向いているなと」
アランはぱちりと瞬いた。
「今さらですか?」
「今さらです」
「でも、改めて思うと不思議ですよ」
「何がです?」
レギュラスは少しだけ部屋を見回した。
狭い。
本当に狭い。
けれど、ここがもう仮の住処ではない感覚がある。
「こういう暮らしを、自分が嫌いじゃないどころか」
「かなり気に入るとは思っていなかったので」
アランは少し黙って、それから静かに笑った。
「じゃあ、もっと慣れてください」
「まだ洗濯と買い物くらいですから」
「まだ増えるんですか」
「当然です」
「次はもう少し料理も覚えてもらいます」
その宣言に、レギュラスはわずかに眉を上げた。
「僕がですか」
「はい、うちの人なので」
また言う。
今度はわざとらしく。
レギュラスはとうとう肩を揺らした。
「それは、断りにくい言い方ですね」
「狙いました」
アランが少し得意げに言う。
その顔が可愛らしくて、レギュラスは一歩近づいて彼女の頬に軽く触れた。
「じゃあ、教えてください」
「先生」
アランはまた耳を赤くした。
「そういう呼び方、ずるいです」
「ええ」
「知ってます」
何でもない日常のやりとりなのに。
それが妙に満たされる。
死の淵から戻ってきて、生き直すように始まった生活は、もう仮の延長ではなくなっていた。
レギュラスの中で、ちゃんと現在になっている。
この小さな家で、
アランの隣で、
これから覚えることはまだまだあるのだろう。
それが少しも苦ではないどころか、むしろ楽しみだと思っている自分が、今は不思議でもあり、どこか誇らしくもあった。
デスイーターは、抜けられない。
そのことを、レギュラスは嫌というほど知っていた。
抜ければ終わりではない。
永遠に追われる身になる。
どこまで逃げても、あの印と、あの方の執着からは簡単に逃げ切れない。
だから本来なら、最初からその覚悟で動かなければならなかったのだ。
けれど二年近く。
レギュラスは、アランの隣で生き延びることに必死で、その現実を少しだけ遠ざけていた。
忘れていたわけではない。
ロケットはずっと手元にあったし、破壊も何度も試みた。
だが、あの小さな家の中でアランと過ごす日々は、あまりにも静かで、あまりにも人間らしかった。
そのせいで一瞬、自分もただの一人の男として生きていけるのではないかと、そんな甘い錯覚すら抱きそうになっていた。
それが、打ち砕かれた。
闇の印が上がったという知らせで、市場も診療所も、どこもかもがざわついていた。
朝から人の声が変だった。
いつもの値段交渉や世間話ではない。もっと低く、もっと怯えたざわめきだ。誰かが見たと言う。夜空に印が浮かんだと。黒い影が街の上で燃えるみたいに広がっていたと。
数人のデスイーターが街で暴れていったらしい。
こんな小さな街に。
ロンドンから遠く離れた、この場所に。
わざわざやって来たくらいなのだから。
裏切り者を、徹底的に探しているのだろう。
レギュラスは市場の一角でその話を耳にしながら、背中の内側に古い氷を差し込まれたみたいな感覚を覚えた。
やはり、来た。
自分はもはや追われる身なのだ。
分霊箱に辿り着いてしまった以上。
そしてその分霊箱が今、手元にあり、何度も破壊を試みている以上。
そのことは、もうとっくにあの方には見破られているのだろう。
夜空に闇の印が上がるたび。
街に黒いローブの影が差すたび。
それが自分への追跡の延長に思えてならなかった。
家へ戻る道すがら、レギュラスはずっと無言だった。
アランも、何かを感じ取ったのだろう。普段より少しだけ足音が静かだった。
扉を閉めた途端、レギュラスは振り向いた。
「アラン」
声が、自分でも驚くほど硬い。
「しばらくは、外出を控えてください」
アランが目を上げる。
翡翠の瞳がまっすぐこちらを見る。
「レギュラス」
「お願いです」
「市場も、診療所も、しばらくは最低限にしてください」
「一人で出ないでください」
言いながら、胸の奥の嫌な予感がさらに濃くなる。
アランが狙われれば。
多分、一瞬で仕留められる。
それしか想像できない。
彼女は強い。
賢いし、咄嗟の判断もできる。
だがデスイーター相手では、それだけでは足りない。あの手の連中は、躊躇なく人を壊す。しかも相手が女なら、なおさら悪趣味な方向へ転ぶこともある。
自分のいない間に、彼女の身に何か起こってしまう可能性が。
それが今、何より恐ろしかった。
そろそろもう、この手元にある分霊箱と本気で向き合わなければならない時期なのだろう。
嫌でもそう思い知らされる。
死を覚悟してあの湖で沈んだ日から、もう二年ほどが経っていた。
いろいろ試した。
炎も、呪詛も、魔力干渉も、封印崩しも。
けれど分霊箱は結局、壊せないままだった。
自分一人の実力では、限界なのだろう。
認めたくないが、認めるしかない。
騎士団に。
ダンブルドアに。
力を貸してくれと言うべきなのだ。
元デスイーターとして。
知っていることすべてを差し出し、可能な限りの協力をすることを引き換えに。
分霊箱を破壊して、あの恐ろしい男を終わりにしなければならない。
レギュラスはその夜、ようやくアランに真実を話した。
ブラックという名前だけは出さなかった。
だが、それ以外はほとんど隠せなかった。
自分がデスイーターとして闇の帝王に従っていたこと。
闇の印が上がれば、招集がかかれば、腕に何もないように見えても、その瞬間に紋様が浮かび上がること。
それがデスイーターである証であり、同時に抜けられないということを示す呪いでもあること。
レギュラスは言葉を選びながら話した。
けれど選んだところで内容は変わらない。
自分が恐ろしいものの側にいた人間だという事実は、そのまま残る。
「……純血の魔法使いたちの誇りを守りたいと思っていました」
低く、途切れがちな声で言う。
「そういう理想があると、信じていた」
「けれど実際は違った」
アランは何も言わず、ただ聞いていた。
遮らない。
責めない。
だからこそ、レギュラスは余計に言葉を続けるしかなかった。
「あの男は、純血の魔法使いなんかじゃない」
「自分の私利私欲のために」
「不老不死のために」
「ただ生に執着していただけでした」
その言葉を口にすると、昔の自分の愚かさがいっそう骨身に沁みる。
「自分が信じた純血主義は」
レギュラスは目を伏せる。
「たった一人の男の、生への執着でした」
部屋の中に沈黙が落ちた。
こんな話を聞かされたら。
普通は怯えるのかもしれない。
嫌悪するのかもしれない。
少なくとも、今まで通りの目では見られなくなるのかもしれない。
レギュラスはそれを覚悟していた。
けれどアランは、何も言わなかった。
ただ。
次の瞬間、彼女はレギュラスに抱きついた。
あまりに自然で、あまりにためらいのない動きだったから、レギュラスは一瞬反応が遅れた。
腕の中へ飛び込んできた体温が、あたたかい。
「アラン……」
「レギュラス」
彼女は彼の服を強く掴んだまま、顔を上げない。
「せっかくあなたは、生きて戻ってこれたのです」
「もう二度と、死に向かうようなことをしないでください」
その言葉に、レギュラスはしばらく息ができなかった。
恐怖でもない。
非難でもない。
デスイーターであるという事実への嫌悪でもない。
ただ、死なないで、という言葉だった。
そのことが、胸を深く打った。
こんな告白をしたあとで、最初に向けられる感情がそれなのかと。
自分の罪や愚かさを裁く前に、生きていてほしいと願われるのかと。
レギュラスはようやく、ゆっくりとアランを抱きしめ返した。
「……簡単には約束できません」
正直にそう言う。
「分霊箱を壊さなければ、終わらない」
「そしてそれを壊すには、たぶんもう、誰かの力を借りるしかない」
アランは彼の胸元に顔を埋めたまま、黙っている。
「騎士団に接触します」
「ダンブルドアにも」
「今さら何をと言われるでしょうし、信用されるとも思えない」
「それでも、やるしかない」
抱きしめる腕に、アランの指が少しだけ食い込む。
「……なら、なおさらです」
小さな声だった。
「一人で行かないでください」
レギュラスは目を閉じた。
一人で行かないで。
それはつまり、自分を死地へ送り出す前提での言葉だ。
行くことそのものは止められないと、彼女ももうわかっている。
それが余計につらかった。
「あなたを巻き込みたくありません」
「もう巻き込まれています」
アランはきっぱり言った。
「あなたが生きて戻ってきた時から」
「あなたが夜中に湖に沈む夢を見て、私の名前を呼んだ時から」
「もう私は、あなたのその世界の外にはいません」
その言葉が、あまりにも真っ直ぐで。
レギュラスは胸の奥のどこかが崩れる音を聞いた気がした。
こんなふうに言われる資格が、自分にあるのだろうかと思う。
闇の側にいた自分に。
散々汚れたものを見てきた自分に。
それでもアランは、外にはいないと言う。
「……怖くないんですか」
思わず聞くと、アランは少しだけ顔を上げた。
翡翠の瞳が、近い。
「怖いです」
あっさり、そう言う。
「でも、あなたを一人で行かせる方が怖いです」
レギュラスは言葉を失った。
抱きしめているはずなのに、むしろ自分の方が支えられている気がした。
彼女はきっと、何もできないわけではない。
薬も、知識も、勇気もある。
けれどそれ以上に、自分を生かすことだけを考えてここまで来たのだ。
そのアランに、また死へ向かうなと言われる重さを。
レギュラスは今さらながら全身で感じていた。
「……できるだけ、死にに行かない道を選びます」
ようやくそう言うと、アランは少しだけ目を潤ませて笑った。
「それ、約束です」
「努力目標です」
「レギュラス」
「……約束します」
その言い直しに、アランはやっと息をついた。
彼女の腕はまだ離れない。
レギュラスも、しばらくそのまま抱いていた。
闇の印が上がった。
デスイーターが近くに現れた。
もう逃げているだけでは済まない。
それでも今、腕の中にある温かさだけは確かだった。
恐ろしい過去を告げてもなお、彼女は離れなかった。
それどころか、死ぬなと、戻ってきたのだからもう二度と死に向かうなと、そう言った。
その言葉を胸の奥に抱えたまま、レギュラスは静かに思う。
今度こそ。
今度こそ、本当に終わらせなければならないのだと。
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