1章
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レギュラスは、どこへ行くにも一緒に行こうとしてくれるようになっていた。
市場も、
薬の卸し先も、
近くの薬草採取も。
最初は付き添いだったのだろう。外へ出る練習の意味もあったのだと思う。けれど今では、それが半ば当たり前みたいになっていた。
だからこそ、アランは言えなかった。
また、あの洞窟の奥へ行こうとしていることを。
あの湖のそばへ、ルメール草を取りに行こうとしていることを。
「今日はどこへ?」
支度をしていると、案の定レギュラスがそう聞いてきた。
アランは手元の小瓶を袋へしまいながら、なるべく何でもない声で答える。
「魔法薬草を取りに行きます」
「でも、レギュラスはここにいてください。すぐ戻りますから」
言いながら、自分でも少し不自然だと思った。
いつもなら行きましょうとでも言うところを、今日は最初から置いていく前提で話している。
レギュラスはすぐにそれを感じ取ったらしい。
表情は変えなかったが、銀の目が少しだけ細くなった。
「一緒に行きます」
静かに言う。
「行き先はどこです?」
アランは一瞬、答えに詰まった。
適当に別の薬草の名前でも言おうかと思う。近場の採取地をぼかして告げれば、たぶん今日くらいは誤魔化せるかもしれない。
けれどレギュラスは、こういう時だけ妙に鋭い。
「アラン」
柔らかい声なのに、逃がさない響きがある。
「どこです?」
誤魔化しても、折れない。
そう悟って、アランは小さく息を吐いた。
それから彼の手を取る。
ちゃんと向き合って言わなければ、余計に拗れる気がしたからだ。
「レギュラス、あのですね」
言葉を選ぶ。
けれど遠回しにしても伝わらないと思ったから、結局そのまま言った。
「あの洞窟の奥に生えている、ルメール草というのがあるんです」
「強い鎮静作用のあるもので、とても高価で取引されるものなんです」
「それからじゃないと作れない薬もあるから、どうしても行きたいんです」
言い終えた瞬間、レギュラスの顔色が変わった。
さっと血の気が引く。
手の中にある指先が、目に見えて強張る。
アランは慌てて続けた。
「でも、本当に大丈夫なんです」
「湖の水面に触れなければ、基本的には危なくありませんし」
「何かあった時のために、水面を鎮められる魔法薬も持っています」
「それに、何度か行ったことがあるので――」
「行かないでください」
レギュラスが遮った。
アランは息を呑む。
「行かせません」
声音は低かった。
怒鳴ったわけではない。
なのに、その一言にはっきりとした拒絶がこもっていた。
「レギュラス、本当に平気なんです」
「平気なわけないでしょう」
今度は、レギュラスの方がはっきりと言った。
「お願いです」
「もう二度と、行こうとしないでください」
お願いです。
その言葉に、アランは一瞬だけ言葉を失う。
レギュラスは、普段こういう頼み方をしない。
もっと静かに誘導するか、理屈を積むか、そのどちらかだ。なのに今は違った。ほとんどむき出しの恐怖で、彼はアランを止めようとしている。
握っていた手を、レギュラスはいったん離した。
そして次の瞬間、今度はもっと強く握り直す。
「何に金が必要なんですか」
息の浅い声で言う。
「いくらでも出します」
アランは眉を寄せた。
「必要なのは、お金じゃなくて」
「薬です……」
その返しに、レギュラスの表情がさらに硬くなる。
「なら、それを作る別の方法を探してください」
「ルメール草でしか作れないものがあるんです」
「他を探せばいい」
「あなたが行く必要はない」
その言い方は、普段の彼よりずっと感情的だった。
理屈ではなく、ただ行かせたくないだけが前に出ている。
アランはその手の強さを感じながら、何も言えなくなった。
言えなかった。
本当のことを。
強い鎮静作用に加えて、ルメール草にはもうひとつ作用がある。
術者の思い描いた幻覚を、見る者の脳に深く焼きつける力。
アランがほしかったのは、まさにそれだった。
レギュラスがまた湖に沈む悪夢を見る時。
こちらがちゃんと陸地にいるのだという映像を。
冷たい底ではなく、地上にいるのだと。
木の床があって、あたたかい毛布があって、自分が隣にいるのだと。
それを、彼の脳にちゃんと焼きつかせられる薬がほしかった。
それができるのはルメール草だけだ。
だからどうしても欲しかった。
だから危険でも、行くつもりだった。
でも、そのことは言えなかった。
言ってしまえば、レギュラスはもっと止める。
自分のためにそこまでしようとしていたのかと知れば、きっと罪悪感まで背負ってしまう。
だからアランは黙るしかなかった。
レギュラスはそんな彼女をじっと見つめている。
何かを隠していることには、たぶん気づいている。
けれどそれを問いただすより先に、今は恐怖の方が勝っているのだろう。
「アラン」
名前を呼ぶ声が、かすかに掠れていた。
「あなたがあそこへ行くのを、僕は見送れません」
その言葉は、拒絶というより懇願に近かった。
「もし何かあったらと思うだけで」
「……駄目なんです」
アランは胸の奥がきゅうと縮むのを感じた。
ここまで怯えさせたいわけじゃなかった。
ただ必要な薬草を取りに行くだけのつもりだった。
でも、レギュラスにとってあそこはただの採取地ではないのだ。
死にかけた場所だ。
沈んだ場所だ。
戻れないと思った場所だ。
その奥へ、今度はアランが行こうとしている。
そう思えば、平気でいられるはずがない。
「……ごめんなさい」
アランはようやく小さく言った。
「黙って行こうとしたのは、悪かったです」
「悪いのはそこじゃありません」
レギュラスはすぐに返した。
「行こうとすること自体です」
きっぱりしていて、少しだけ可笑しい。
けれど今は笑えなかった。
アランは握られた手を見下ろす。
こんなに強く掴まれているのに、痛いとは感じなかった。むしろその必死さが、そのまま胸へ伝わってくる。
「でも、必要なんです」
「なら僕が行きます」
反射みたいにレギュラスが言った。
アランは顔を上げる。
「レギュラス」
「僕が行く」
「あなたは行かなくていい」
「無理です」
今度はアランが即答した。
「あなたは、あの湖にはもう行けない」
その言葉に、レギュラスの目が揺れる。
傷つけたいわけではなかった。
でも、そこを曖昧にするわけにもいかなかった。
「二度と近寄れないかもしれない」
「今後、水面を恐れずに立ち向かえる日が来るのかどうかも、まだわからないでしょう」
静かに言うと、レギュラスは唇を結んだ。
否定できないのだ。
自分でもわかっているから。
少しの沈黙のあと、彼は低く言った。
「……それでも、あなたを一人で行かせるくらいなら」
「レギュラス」
アランは今度は自分から彼の手を握り返した。
「私は、あなたを助けたいんです」
そこまで口にして、はっとする。
言いすぎたかもしれないと思う。
けれどレギュラスは目を逸らさなかった。
「助かってます」
ぽつりと言う。
「もう十分すぎるくらい」
その返しが、アランの想像よりずっと静かで、ずっと苦しかった。
助かっている。
それは本当だろう。
けれど、夜の発作はまだ終わっていない。
眠りの底で彼がまた沈んでいくのを、アランは何度も見ている。
だから足りないのだ。
アランの中では、まだ全然足りていない。
「……少し考えさせてください」
結局、そう言うしかなかった。
今この場で無理に行くと言い張れば、きっと彼はもっと強く止める。
だから一度引く。
けれど諦めるつもりは、なかった。
レギュラスはしばらく彼女の顔を見ていたが、やがてゆっくり頷いた。
「考えるなら、僕も一緒に考えます」
「あなた一人では決めさせません」
そこまで言うか、と思う。
でもその言い方の裏にあるのは支配ではなく、恐怖だ。
失いたくないという、むき出しの恐れだ。
それがわかってしまうから、アランは強く反発できない。
ルメール草だけが必要なのに。
あれだけがあれば、彼の脳にちゃんと陸地にいるという映像を焼きつける薬が作れるのに。
そう思いながらも、アランは今はそれを飲み込んだ。
レギュラスの握る手は、まだ少し冷たかった。
冗談じゃない、と思った。
この世で最も恐ろしい場所だと、自分の脳が認識している。
何が「水面に触れなければ平気」なのか。
平気なわけがない。
何が発端で亡者たちが這い上がってくるのかなんて、わからない。
あの湖は理屈で測れるような場所ではない。
冷たく、深く、こちらが少しでも油断した瞬間に人を呑み込む。
女なんて、ひとたまりもなく引き摺り込まれる。
水面を鎮める魔法薬だなんて、そんなものは何の安心材料にもならない。
アランが、またあそこへ行く。
その想像が頭に入った瞬間から、胸の奥で何かがずっと暴れていた。
息が浅い。
腹の底が冷える。
怒っているのか、怯えているのか、自分でもよくわからない。ただ、とにかく嫌だった。嫌で、気が狂いそうだった。
レギュラスはアランを抱き上げた。
そのまま、寝台へ戻る。
朝だった。
起きて、朝食を済ませて、今から活動を始めるはずの時間だ。
けれどそんなことはどうでもよかった。
あの湖に、アランが沈められてしまう恐怖を、一瞬でも想像させられてしまった。
そのせいで気分は最悪だった。
だから、考えるより先に身体が動いた。
寝台へ彼女を下ろし、自分の方が先に服を脱ぐ。
こちらが何を求めているのかを、ちゃんと伝えるために。
ただ抱きしめたいだけじゃない。
ただ宥められたいだけでもない。
「レギュラス、朝です」
アランが慌てて戸惑った声で言う。
その言葉に、レギュラスは彼女を見下ろしたまま低く返した。
「朝から、僕はどれほどの地獄に突き落とされたと思ってます?」
冗談ではなかった。
本気だった。
あの湖の話をしただけで、身体の内側がまた冷たくなった。
夜の悪夢とは違う、昼のまま差し込んでくる恐怖だった。
それを消すには、アランがちゃんとここにいて、自分の手の届くところにいて、離れていかないと確かめるしかなかった。
アランが何か言い返そうとする前に、レギュラスは口付けた。
激しくはしない。
優しく。
丁寧に。
ちゃんと時間をかけて触れていく。
唇に触れて、少し離れ、また重ねる。
慌てて奪うのではなく、確かめるように。
ここにいる。
ちゃんといる。
そう自分に言い聞かせるみたいに、何度も口付ける。
アランの肩から、少しずつ強張りが抜けていくのがわかった。
最初は驚いていた呼吸も、やがて彼に合わせて落ち着いていく。
「……そんな顔しないでください」
口付けの合間に、レギュラスは低く言った。
「どんな顔ですか」
「どこかへ行こうとする顔です」
アランが少しだけ困ったように眉を寄せる。
その表情すら、今は妙に腹立たしかった。
自分をこんなにも追い詰めておいて、彼女はまだちゃんと説明すればわかってもらえるかもしれないみたいな顔をしている。
わかるわけがない。
あの場所に行くことだけは、絶対に。
レギュラスは彼女の頬に手を添えた。
逃がさないように、でも痛くはない強さで。
「アラン」
「あなたは、あそこへ行きません」
言い切る。
断言に近い声だった。
アランはすぐには返事をしない。
ただ翡翠の瞳で彼を見返している。その静かさが、レギュラスを余計に不安にさせた。まだ諦めていないのだとわかるから。
だからまた口付ける。
今度は少し長く。
彼女の唇をやわらかく食んで、ゆっくり離す。触れ方は優しいままなのに、執着だけが隠せなかった。
この不安は。
アランがちゃんと自分の手の届くところにいて、
いくらでもこうして触れていられて、
彼女の奥の部分に、自分が到達できる場所があるという確証を感じることでしか拭えなかった。
そうでもしなければ、また持っていかれる気がする。
今度は自分ではなく、アランの方が。
それが耐えられない。
レギュラスは彼女の首筋へ唇を落とした。
髪を耳の後ろへ払い、そこへ静かに触れる。
乱暴にはしない。
怖がらせたくはない。
けれど離したくもない。
その矛盾のまま、ひたすら丁寧に彼女を求める。
アランは途中で小さく息をついた。
「……こんなの、ずるいです」
「何がです?」
「真剣な話をしてたのに」
「真剣だからですよ」
レギュラスはすぐに答えた。
「冗談でこんなことしません」
その返しに、アランは少しだけ目を見開く。
レギュラスはその顔を見ながら、さらに低く続けた。
「あなたがあそこへ行くかもしれないと思ったら、頭がおかしくなりそうなんです」
「だから、今はこうするしかない」
アランの睫毛が揺れた。
たぶん彼女は、こういう欲のぶつけ方をまだ完全には理解していない。
けれど今のレギュラスに、もっと上手く飾る余裕はなかった。
怖い。
行かせたくない。
手の届くところにいてほしい。
その全部を、行為に混ぜて伝えるしかない。
アランはしばらく何も言わなかった。
やがて観念したみたいに、レギュラスの肩に手を置く。
「……それで、安心するんですか」
小さく問われて、レギュラスは一瞬だけ黙った。
安心、という言葉では足りない気がした。
もっと生々しい。
もっと原始的だ。
けれど、そう問われたなら答えはひとつしかない。
「少しは」
正直にそう言うと、アランは困ったように息を吐いた。
「少し、ですか」
「ええ」
「本当は、行かないと約束してもらえた方がずっと安心します」
アランはまた黙る。
その沈黙が、やはりまだ完全には折れていない証拠で、レギュラスの胸の奥に黒い不安がまたじわりと広がる。
だから彼は彼女を抱きしめた。
強すぎず、でもきっちりと腕の中に閉じ込めるように。
「…… アラン」
「もう少し、僕のことを怖がってもいいんですよ」
「怖がってません」
「そういうところです」
低く言うと、アランは少しだけ肩を震わせた。
笑ったのか、困ったのか、そのどちらともつかない揺れだった。
レギュラスは彼女の額に口付ける。
次に目元へ。
頬へ。
唇へ。
全部、優しく。
けれど執拗に。
触れて、重ねて、確かめて。
ここにいるのだと。
まだ奪われていないのだと。
その事実を身体の方へ叩き込むみたいに。
アランの手が、いつの間にか彼の背に回っていた。
拒絶ではない。
完全な同意というには、まだ少し困っている気配が残っている。
けれどその曖昧さすら、今は愛おしかった。
レギュラスは目を閉じた。
今この瞬間だけは、湖も、亡者も、冷たい水もない。
あるのはアランの体温だけだ。
その奥まで触れられるという事実だけが、自分を地上につなぎとめる。
だから求める。
ひたすらに。
アランが自分の手の中にいると、身体に覚えさせるために。
朝の光が薄く差し込む部屋の中で、レギュラスはほとんど祈るみたいな気持ちで、アランに触れ続けていた。
別に、何を着ていようがいいのだ。
アランはアランであって、
どんな服でも可愛らしく自分の目には映る。
だから不満があるわけではなかった。
けれど市場の帰り道、ドレスショップや下着店の前を通りすぎるたび、ショーウィンドウに飾られているものが妙に目についた。
懐かしいと思った。
昔なら、そういうものは女を飾るためのものとして、ただ視界の中にあっただけだ。興味を持つことも、まして誰か特定の女に着せたいと思うこともなかった。
なのに今は違う。
あの鮮やかな色が、アランに似合う気がした。
細い肩や、白い肌や、黒い髪に、ああいうものを重ねたらどう見えるのだろうと、自然に考えてしまう。
無理にとは言うつもりはない。
けれど、もし着てくれるなら嬉しい。
そんな欲求が、ごく自然に湧いていた。
その日も、手を繋いで歩いていた途中で、レギュラスはふいに立ち止まった。
「アラン」
「はい?」
「僕が買えば、着てくれます?」
アランがきょとんとする。
レギュラスはそのままショーウィンドウを指差した。
煌びやかなドレスだった。
深い色味の布地に、光を受けて揺れる細かな刺繍が入っている。やりすぎなほど派手ではないが、家の中で着るには明らかに華やかすぎる。
その隣には、なぜかドレスと同じ色の下着まで並べられていた。
アランはそれを見た瞬間、目を丸くした。
「こんなの……」
声が小さくなる。
「着たことないです」
「似合いませんから」
「絶対似合います」
レギュラスは即答した。
「着てくれます?」
アランは完全に固まっていた。
頬が少しずつ赤くなっていくのがわかる。断ろうとしているのに言葉が追いついていない顔だった。
だからレギュラスはそのまま手を引いた。
「ちょ、ちょっと」
「行きましょう」
「レギュラス」
「こういうのは勢いが大事です」
「何の勢いですか!」
抗議を聞き流して、そのまま店に入る。
やっぱり嫌だと言い出す前に先に動く方がいい。迷わせれば、アランは間違いなくこんなの必要ありませんの方へ戻ってしまう。
店の中は外から見たより静かで、布と香の匂いがした。
店員がすぐに近づいてきて、レギュラスは迷いなくショーウィンドウのものを指した。
「これを」
アランは横で息を呑んだ。
「絶対に着れません」
「戻ったら着てくださいね」
レギュラスは平然と言った。
アランが言葉を失う。
その反応を見ていると、自分が少し悪い男みたいだと思う。だが、嫌な気はしなかった。
今まで別に、女の着るものに興味を持ったことはない。
どんなドレスが流行りで、どの色が肌を綺麗に見せるのかなんて、知ろうと思ったこともなかった。
なのに、こういうものを着てみてほしいという感情を持つ日が来るとは思わなかった。
しかも相手はアランだ。
きっと本人は必要ないと思っているし、できれば避けたいとも思っている。
それでも見たい。
着せたい。
その感情が、思っていた以上に強い。
家に戻ると、いつもならまず野菜や薬草の仕分けをする。
だが今日は違った。
レギュラスは荷物を置くなり、当然のように包みを開いた。
「先にこっちです」
「野菜が先です」
「逃げ道を作らないでください」
「逃げ道じゃありません、生活です」
「生活はあとでできます」
「でもこれは今やらないと、あなたが気持ちを立て直してしまうでしょう」
アランは返す言葉が見つからない顔をした。
図星らしい。
レギュラスは少しだけ口元を和らげる。
「ほら、こっちへ」
アランはしばらく包みとレギュラスを見比べていたが、やがて観念したように小さく息をついた。
「……一回だけですよ」
「十分です」
「十分なんですか」
「今のところは」
その今のところに、アランはますます怪しそうな顔をしたが、もう何も言わなかった。
着替えを待っている間、レギュラスは妙に落ち着かなかった。
自分でも笑ってしまいそうになる。
胸が少し浮き立っているのがわかる。子どもじみていて、癪なほどだった。こんなことで胸が踊るなんて、少年みたいに幼いではないかと思う。
なのに、やめられない。
やがて布の擦れる小さな音がして、アランが奥から出てきた。
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
似合っていた。
本当に。
思っていた以上に。
色は彼女の黒髪を引き立て、白い肌をやわらかく見せていた。肩の線も、腰の細さも、普段は薬草や鍋や市場の籠に埋もれて見えない部分まで綺麗に浮き上がる。
それだけではない。
着慣れていないせいでひどく恥ずかしそうにしている顔まで、全部が合っていた。
アランは裾を気にするみたいに指先でつまみながら、視線を上げられずにいた。
「……変じゃないですか」
小さく聞く。
レギュラスはようやく息をついた。
それから、ゆっくり近づく。
「似合うじゃないですか」
心からそう言った。
アランの耳がまた赤くなる。
「恥ずかしいです」
「ええ」
「知ってます」
「知ってるなら、そんなに見ないでください」
「無理ですね」
レギュラスは正直に答えた。
「着せたいと言ったのは僕ですから」
「見ない方が失礼でしょう」
「そういう理屈ですか?」
「そういう理屈です」
アランは困ったように唇を結んだ。
けれどその顔がまた可愛くて、レギュラスは思わず笑ってしまう。
彼女の肩へ手をやる。
布越しに触れるだけで、今日のために選んだ色がますます自分のものみたいに感じられて、妙に満足した。
「下着も、ちゃんと合わせたんですか」
低く問うと、アランがはっと顔を上げた。
「な、なんでそこまで聞くんですか」
「同じ色のものを買ったんですよ」
「確認したくなるでしょう」
「確認しなくていいです」
「着てるんですね」
「……!」
言質を取ったみたいになって、アランは明らかに失敗した顔になる。
レギュラスは肩を揺らした。
「かわいいですね」
「全然かわいくないです」
「いいえ」
「今の反応も含めて、かなり」
アランはついに顔を背けた。
その逃げ方まで、今日の彼女には全部よく似合っていた。
レギュラスは少しだけ真面目な声になって言った。
「買ってよかった」
その一言に、アランがそっと目を戻す。
「……そんなにですか」
「そんなにです」
即答した。
「あなた、普段は何でも似合いますけど」
「これは、特に見たかった」
アランはしばらく何も言わなかった。
それから、小さく小さく息を吐く。
「……そんなふうに言われたら」
「もう、着ないって言いにくいじゃないですか」
その言葉に、レギュラスは少しだけ目を細めた。
「言わなくていいですよ」
「そうやってすぐ押し切るんですね」
「押し切れるなら、そうします」
アランは呆れたように笑った。
けれど完全には嫌がっていない。その柔らかい諦めが、レギュラスには嬉しかった。
家の片隅には、まだ市場で買ってきた野菜たちが袋の中にある。
薬草も、仕分け前のままだ。
なのに今は、それら全部より、目の前のアランの方が大事に思えた。
レギュラスは彼女の髪を耳の後ろへ払って、軽く口付ける。
「本当に似合ってます、アラン」
「……そんなに何回も言わなくていいです」
「何回でも言いますよ」
「困ります」
「じゃあ、慣れてください」
またそうやって無茶を言う。
アランは困ったような顔のまま、けれど少しだけうれしそうに笑った。
その笑みまで含めて、今日のレギュラスには全部が当たりだった。
時々、レギュラスを見ていると。
学生時代、愚かな恋に身を焦がしていた相手を思い出すことがあった。
最初は気のせいだと思っていた。
けれどよく見ると、似ているところが結構ある気がする。
鼻筋だとか。
全体的な骨格だとか。
横顔の線の落ち方だとか。
あと、瞳の色も。
あの人と同じだった。
同じだけれど。
レギュラスの方が、ずっと優しい。
自分を気にかけてくれる。
こちらが痛いかどうか、苦しいかどうか、きちんと見ていてくれる。
そんな根本のところが、決定的に違う。
それなのに。
似ている部分が目に入るたび、心の奥のどこかがふと昔へ引き戻される。
そして同時に、考えてしまうことがあった。
かつてのあの人から。
一度でもこんな優しさを向けてもらえていたら。
自分は、あんなに苦しまずに済んだだろうか。
あそこまで惨めにならずに済んだだろうか。
自分を安く差し出すことでしか、好かれている実感を持てないような女にならずに済んだだろうか。
そんなことを考える時がある。
それは未練とは違う。
戻りたいわけでもない。
今更どうこうなりたいと思っているわけでもない。
ただ、初めて好きになった人だから。
やっぱり特別のまま、心の奥に棲みついて離れてくれないのだ。
その日は、夕方の光の中でレギュラスが椅子に腰掛けていた。
窓から入る薄い陽が、横顔の輪郭を綺麗に縁取っている。
顎の線も、睫毛の影も、静かに伏せた目元も、どこか昔を思い出させた。
アランは台所の手元を止めたまま、少し長く彼を見てしまった。
すると、レギュラスが本から顔を上げずに言った。
「何ですか」
「そんなに見て」
アランははっとして視線を戻す。
けれど今さら逸らすのも不自然で、結局そのまま小さく笑った。
「いいえ」
「綺麗な顔をしていらっしゃると思って、見ていただけです」
本当にそう思った。
特に、横から見た顔が。
どこかあの人を思い出させる。
レギュラスは本を閉じて、少しだけこちらを見た。
銀の瞳が細くなる。
「それだけじゃないでしょう」
「どうしてです?」
「顔でわかりますよ」
そう言いながら立ち上がる。
アランが逃げるほどの距離ではない。けれど近づき方が静かで、あっという間に手の届くところまで来る。
「何か、良くないことを思い出しているんでしょう」
その言い方があまりにも当たっていて、アランは一瞬だけ息を止めた。
「そんなんじゃないです」
すぐにそう返したけれど、自分でも弱い否定だと思った。
レギュラスはじっとアランの顔を見る。
まるで隠しても意味がないと知っているみたいに。
アランは目を逸らした。
言わない。
何を思っていたのかは、言わない。
それは失礼だと思うからだ。
今、目の前にいるレギュラスに向かって、あなたは昔好きだった男に少し似ています、だから時々思い出します、なんて。
そんなことは言えない。
あまりにも不誠実だ。
優しくしてくれるこの人に向かって、過去の影を重ねているみたいで、自分でも嫌だった。
レギュラスはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりとアランの頬に触れた。
指先はやさしい。
問い詰めるつもりではない触れ方だった。
「アラン」
低く呼ばれる。
「僕に関係あることですか」
その問いに、アランは返事に困った。
関係があるような、ないような。
似ていると思うこと自体は、彼に関係がある。
でも思い出している中身は、彼とは何の関係もない、みっともない過去だ。
「……少しだけ」
結局、そう答える。
レギュラスの目が、ほんのわずかに揺れた。
嫉妬なのか、不安なのか、それともただ続きを待っているだけなのか、アランには読み切れない。
「少しだけ、ですか」
「はい」
「その少しは、厄介ですね」
少し苦い声だった。
アランは思わず顔を上げる。
レギュラスは怒ってはいない。
けれど、落ち着かないのだろうとはわかった。
アランの中に自分ではない男の影が差したことを、面白く思うはずがない。
それでもアランは、何も言えなかった。
やっぱり言えない。
レギュラスはその沈黙を見て、少しだけ目を伏せた。
それから、静かに息を吐く。
「言わないなら、無理には聞きません」
アランは小さく瞬く。
「でも」
とレギュラスは続ける。
「僕を見て、誰か別の男を思い出しているなら」
「それは少し、面白くないですよ」
まっすぐだった。
飾らない不機嫌さが、そのまま言葉になっている。
それが妙にレギュラスらしくて、アランは少しだけ困ってしまう。
「……ごめんなさい」
「謝らせたいわけじゃありません」
即座に返される。
「ただ、あなたが今見ているのは僕でしょう」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
今見ているのは、たしかにレギュラスだ。
目の前にいるのは、この人だ。
昔の誰かではない。
自分にやさしく触れて、言葉を待って、逃げても追い詰めないでくれる男。
アランは目を伏せた。
「……わかってます」
「本当に?」
「本当にです」
「じゃあ、もう少しこっちを見てください」
子どもみたいな言い方だった。
でもその声には、冗談では済まない熱がある。
アランはゆっくり顔を上げた。
銀の瞳が近い。
同じ色だ。
昔の人と。
でも違う。
見つめ返してくる目のやわらかさが違う。
そこにある感情が違う。
自分をただ欲望の延長で見ていた目ではなくて、ちゃんと今の自分を映している目だ。
レギュラスはアランの頬からそのまま耳のあたりへ指を滑らせた。
「綺麗な顔をしている、は嬉しいですけど」
少しだけ意地悪く言う。
「その顔で別のことを考えられていたなら、素直に喜べませんね」
アランは思わず苦笑した。
「面倒くさいですね」
「ええ」
「知ってます」
その返しに、アランはようやく少し肩の力を抜く。
レギュラスは今度は親指で、彼女の目元をやさしくなぞった。
「その男に、今も会いたいんですか」
アランはすぐに首を振った。
「まさか」
その否定だけは、迷いがなかった。
「二度と会いたくないです」
レギュラスはその答えを聞いて、ようやく少しだけ表情をゆるめた。
「なら、いいです」
「いいんですか」
「よくはないですけど」
「少なくとも、今のあなたが僕の前でその男に戻っていくわけじゃないなら」
その言葉に、アランは胸の奥がじんとした。
戻っていくわけじゃない。
たしかにそうだ。
思い出すことはある。
影が差すこともある。
けれど戻りたいわけではない。
今ここにいたいと思っているのは、ちゃんとレギュラスのそばだ。
「……時々、似てると思うことがあるだけです」
とうとうそこだけ、口にした。
レギュラスの眉がわずかに動く。
「似てる?」
「少しだけです」
「鼻筋とか、骨格とか……横顔とか」
「あと、瞳の色も」
言ってしまうと、やっぱりひどく失礼な気がした。
アランはすぐに続ける。
「でも、本当に少しだけです」
「全然違います」
「全然、違うんです」
レギュラスはじっと聞いていた。
その沈黙が怖くて、アランはさらに言葉を足しそうになる。
だがその前に、レギュラスがぽつりと言った。
「それは、少し救われますね」
アランはきょとんとする。
「何がです?」
「似てるだけで、同じじゃないなら」
そう言って、レギュラスは少しだけ笑った。
でもその笑みの奥には、まだ複雑なものが残っている。
「……あまり嬉しくはないですけど」
「少なくとも、僕がその男の代わりだと思われてるわけじゃないなら」
「そんなこと、思ってません」
アランはすぐに言った。
今度こそ、本心だった。
レギュラスの方がずっと優しい。
ずっとまっすぐで、ずっと自分を見てくれる。
だからこそ、似ている部分があるたび不思議になるだけだ。
「じゃあ、もうあまりそんな顔をしないでください」
「そんな顔って」
「昔のことに、まだ少し刺されてる顔です」
図星で、アランはまた言葉を失う。
レギュラスは本当に、そういうところだけよく見ている。
彼は少しだけ身を屈めて、アランの額に軽く口付けた。
「昔の男が一度もしなかったことを、これから僕がたくさんします」
低く、静かな声だった。
「だからそのたび、違うと覚えてください」
アランは胸の奥がいっぱいになるのを感じた。
そんなふうに言われると、昔の傷が急に癒えるわけではない。
けれど少なくとも、これから先に重ねていくものがあるのだと思える。
それはとても救いだった。
アランはそっと、レギュラスの服の袖を掴んだ。
「……はい」
小さく頷くと、レギュラスはその手を見て、ようやく本当に機嫌を直したような顔をした。
時々思い出してしまう。
それはなくならないかもしれない。
でも今、自分の前にいるのはレギュラスだ。
優しくて、少し面倒で、でもちゃんとこちらを見てくれる男だ。
アランはもう一度彼の顔を見た。
似ているところは、やっぱり少しある。
けれど今のアランには、その違いの方がずっと大きかった。
市場も、
薬の卸し先も、
近くの薬草採取も。
最初は付き添いだったのだろう。外へ出る練習の意味もあったのだと思う。けれど今では、それが半ば当たり前みたいになっていた。
だからこそ、アランは言えなかった。
また、あの洞窟の奥へ行こうとしていることを。
あの湖のそばへ、ルメール草を取りに行こうとしていることを。
「今日はどこへ?」
支度をしていると、案の定レギュラスがそう聞いてきた。
アランは手元の小瓶を袋へしまいながら、なるべく何でもない声で答える。
「魔法薬草を取りに行きます」
「でも、レギュラスはここにいてください。すぐ戻りますから」
言いながら、自分でも少し不自然だと思った。
いつもなら行きましょうとでも言うところを、今日は最初から置いていく前提で話している。
レギュラスはすぐにそれを感じ取ったらしい。
表情は変えなかったが、銀の目が少しだけ細くなった。
「一緒に行きます」
静かに言う。
「行き先はどこです?」
アランは一瞬、答えに詰まった。
適当に別の薬草の名前でも言おうかと思う。近場の採取地をぼかして告げれば、たぶん今日くらいは誤魔化せるかもしれない。
けれどレギュラスは、こういう時だけ妙に鋭い。
「アラン」
柔らかい声なのに、逃がさない響きがある。
「どこです?」
誤魔化しても、折れない。
そう悟って、アランは小さく息を吐いた。
それから彼の手を取る。
ちゃんと向き合って言わなければ、余計に拗れる気がしたからだ。
「レギュラス、あのですね」
言葉を選ぶ。
けれど遠回しにしても伝わらないと思ったから、結局そのまま言った。
「あの洞窟の奥に生えている、ルメール草というのがあるんです」
「強い鎮静作用のあるもので、とても高価で取引されるものなんです」
「それからじゃないと作れない薬もあるから、どうしても行きたいんです」
言い終えた瞬間、レギュラスの顔色が変わった。
さっと血の気が引く。
手の中にある指先が、目に見えて強張る。
アランは慌てて続けた。
「でも、本当に大丈夫なんです」
「湖の水面に触れなければ、基本的には危なくありませんし」
「何かあった時のために、水面を鎮められる魔法薬も持っています」
「それに、何度か行ったことがあるので――」
「行かないでください」
レギュラスが遮った。
アランは息を呑む。
「行かせません」
声音は低かった。
怒鳴ったわけではない。
なのに、その一言にはっきりとした拒絶がこもっていた。
「レギュラス、本当に平気なんです」
「平気なわけないでしょう」
今度は、レギュラスの方がはっきりと言った。
「お願いです」
「もう二度と、行こうとしないでください」
お願いです。
その言葉に、アランは一瞬だけ言葉を失う。
レギュラスは、普段こういう頼み方をしない。
もっと静かに誘導するか、理屈を積むか、そのどちらかだ。なのに今は違った。ほとんどむき出しの恐怖で、彼はアランを止めようとしている。
握っていた手を、レギュラスはいったん離した。
そして次の瞬間、今度はもっと強く握り直す。
「何に金が必要なんですか」
息の浅い声で言う。
「いくらでも出します」
アランは眉を寄せた。
「必要なのは、お金じゃなくて」
「薬です……」
その返しに、レギュラスの表情がさらに硬くなる。
「なら、それを作る別の方法を探してください」
「ルメール草でしか作れないものがあるんです」
「他を探せばいい」
「あなたが行く必要はない」
その言い方は、普段の彼よりずっと感情的だった。
理屈ではなく、ただ行かせたくないだけが前に出ている。
アランはその手の強さを感じながら、何も言えなくなった。
言えなかった。
本当のことを。
強い鎮静作用に加えて、ルメール草にはもうひとつ作用がある。
術者の思い描いた幻覚を、見る者の脳に深く焼きつける力。
アランがほしかったのは、まさにそれだった。
レギュラスがまた湖に沈む悪夢を見る時。
こちらがちゃんと陸地にいるのだという映像を。
冷たい底ではなく、地上にいるのだと。
木の床があって、あたたかい毛布があって、自分が隣にいるのだと。
それを、彼の脳にちゃんと焼きつかせられる薬がほしかった。
それができるのはルメール草だけだ。
だからどうしても欲しかった。
だから危険でも、行くつもりだった。
でも、そのことは言えなかった。
言ってしまえば、レギュラスはもっと止める。
自分のためにそこまでしようとしていたのかと知れば、きっと罪悪感まで背負ってしまう。
だからアランは黙るしかなかった。
レギュラスはそんな彼女をじっと見つめている。
何かを隠していることには、たぶん気づいている。
けれどそれを問いただすより先に、今は恐怖の方が勝っているのだろう。
「アラン」
名前を呼ぶ声が、かすかに掠れていた。
「あなたがあそこへ行くのを、僕は見送れません」
その言葉は、拒絶というより懇願に近かった。
「もし何かあったらと思うだけで」
「……駄目なんです」
アランは胸の奥がきゅうと縮むのを感じた。
ここまで怯えさせたいわけじゃなかった。
ただ必要な薬草を取りに行くだけのつもりだった。
でも、レギュラスにとってあそこはただの採取地ではないのだ。
死にかけた場所だ。
沈んだ場所だ。
戻れないと思った場所だ。
その奥へ、今度はアランが行こうとしている。
そう思えば、平気でいられるはずがない。
「……ごめんなさい」
アランはようやく小さく言った。
「黙って行こうとしたのは、悪かったです」
「悪いのはそこじゃありません」
レギュラスはすぐに返した。
「行こうとすること自体です」
きっぱりしていて、少しだけ可笑しい。
けれど今は笑えなかった。
アランは握られた手を見下ろす。
こんなに強く掴まれているのに、痛いとは感じなかった。むしろその必死さが、そのまま胸へ伝わってくる。
「でも、必要なんです」
「なら僕が行きます」
反射みたいにレギュラスが言った。
アランは顔を上げる。
「レギュラス」
「僕が行く」
「あなたは行かなくていい」
「無理です」
今度はアランが即答した。
「あなたは、あの湖にはもう行けない」
その言葉に、レギュラスの目が揺れる。
傷つけたいわけではなかった。
でも、そこを曖昧にするわけにもいかなかった。
「二度と近寄れないかもしれない」
「今後、水面を恐れずに立ち向かえる日が来るのかどうかも、まだわからないでしょう」
静かに言うと、レギュラスは唇を結んだ。
否定できないのだ。
自分でもわかっているから。
少しの沈黙のあと、彼は低く言った。
「……それでも、あなたを一人で行かせるくらいなら」
「レギュラス」
アランは今度は自分から彼の手を握り返した。
「私は、あなたを助けたいんです」
そこまで口にして、はっとする。
言いすぎたかもしれないと思う。
けれどレギュラスは目を逸らさなかった。
「助かってます」
ぽつりと言う。
「もう十分すぎるくらい」
その返しが、アランの想像よりずっと静かで、ずっと苦しかった。
助かっている。
それは本当だろう。
けれど、夜の発作はまだ終わっていない。
眠りの底で彼がまた沈んでいくのを、アランは何度も見ている。
だから足りないのだ。
アランの中では、まだ全然足りていない。
「……少し考えさせてください」
結局、そう言うしかなかった。
今この場で無理に行くと言い張れば、きっと彼はもっと強く止める。
だから一度引く。
けれど諦めるつもりは、なかった。
レギュラスはしばらく彼女の顔を見ていたが、やがてゆっくり頷いた。
「考えるなら、僕も一緒に考えます」
「あなた一人では決めさせません」
そこまで言うか、と思う。
でもその言い方の裏にあるのは支配ではなく、恐怖だ。
失いたくないという、むき出しの恐れだ。
それがわかってしまうから、アランは強く反発できない。
ルメール草だけが必要なのに。
あれだけがあれば、彼の脳にちゃんと陸地にいるという映像を焼きつける薬が作れるのに。
そう思いながらも、アランは今はそれを飲み込んだ。
レギュラスの握る手は、まだ少し冷たかった。
冗談じゃない、と思った。
この世で最も恐ろしい場所だと、自分の脳が認識している。
何が「水面に触れなければ平気」なのか。
平気なわけがない。
何が発端で亡者たちが這い上がってくるのかなんて、わからない。
あの湖は理屈で測れるような場所ではない。
冷たく、深く、こちらが少しでも油断した瞬間に人を呑み込む。
女なんて、ひとたまりもなく引き摺り込まれる。
水面を鎮める魔法薬だなんて、そんなものは何の安心材料にもならない。
アランが、またあそこへ行く。
その想像が頭に入った瞬間から、胸の奥で何かがずっと暴れていた。
息が浅い。
腹の底が冷える。
怒っているのか、怯えているのか、自分でもよくわからない。ただ、とにかく嫌だった。嫌で、気が狂いそうだった。
レギュラスはアランを抱き上げた。
そのまま、寝台へ戻る。
朝だった。
起きて、朝食を済ませて、今から活動を始めるはずの時間だ。
けれどそんなことはどうでもよかった。
あの湖に、アランが沈められてしまう恐怖を、一瞬でも想像させられてしまった。
そのせいで気分は最悪だった。
だから、考えるより先に身体が動いた。
寝台へ彼女を下ろし、自分の方が先に服を脱ぐ。
こちらが何を求めているのかを、ちゃんと伝えるために。
ただ抱きしめたいだけじゃない。
ただ宥められたいだけでもない。
「レギュラス、朝です」
アランが慌てて戸惑った声で言う。
その言葉に、レギュラスは彼女を見下ろしたまま低く返した。
「朝から、僕はどれほどの地獄に突き落とされたと思ってます?」
冗談ではなかった。
本気だった。
あの湖の話をしただけで、身体の内側がまた冷たくなった。
夜の悪夢とは違う、昼のまま差し込んでくる恐怖だった。
それを消すには、アランがちゃんとここにいて、自分の手の届くところにいて、離れていかないと確かめるしかなかった。
アランが何か言い返そうとする前に、レギュラスは口付けた。
激しくはしない。
優しく。
丁寧に。
ちゃんと時間をかけて触れていく。
唇に触れて、少し離れ、また重ねる。
慌てて奪うのではなく、確かめるように。
ここにいる。
ちゃんといる。
そう自分に言い聞かせるみたいに、何度も口付ける。
アランの肩から、少しずつ強張りが抜けていくのがわかった。
最初は驚いていた呼吸も、やがて彼に合わせて落ち着いていく。
「……そんな顔しないでください」
口付けの合間に、レギュラスは低く言った。
「どんな顔ですか」
「どこかへ行こうとする顔です」
アランが少しだけ困ったように眉を寄せる。
その表情すら、今は妙に腹立たしかった。
自分をこんなにも追い詰めておいて、彼女はまだちゃんと説明すればわかってもらえるかもしれないみたいな顔をしている。
わかるわけがない。
あの場所に行くことだけは、絶対に。
レギュラスは彼女の頬に手を添えた。
逃がさないように、でも痛くはない強さで。
「アラン」
「あなたは、あそこへ行きません」
言い切る。
断言に近い声だった。
アランはすぐには返事をしない。
ただ翡翠の瞳で彼を見返している。その静かさが、レギュラスを余計に不安にさせた。まだ諦めていないのだとわかるから。
だからまた口付ける。
今度は少し長く。
彼女の唇をやわらかく食んで、ゆっくり離す。触れ方は優しいままなのに、執着だけが隠せなかった。
この不安は。
アランがちゃんと自分の手の届くところにいて、
いくらでもこうして触れていられて、
彼女の奥の部分に、自分が到達できる場所があるという確証を感じることでしか拭えなかった。
そうでもしなければ、また持っていかれる気がする。
今度は自分ではなく、アランの方が。
それが耐えられない。
レギュラスは彼女の首筋へ唇を落とした。
髪を耳の後ろへ払い、そこへ静かに触れる。
乱暴にはしない。
怖がらせたくはない。
けれど離したくもない。
その矛盾のまま、ひたすら丁寧に彼女を求める。
アランは途中で小さく息をついた。
「……こんなの、ずるいです」
「何がです?」
「真剣な話をしてたのに」
「真剣だからですよ」
レギュラスはすぐに答えた。
「冗談でこんなことしません」
その返しに、アランは少しだけ目を見開く。
レギュラスはその顔を見ながら、さらに低く続けた。
「あなたがあそこへ行くかもしれないと思ったら、頭がおかしくなりそうなんです」
「だから、今はこうするしかない」
アランの睫毛が揺れた。
たぶん彼女は、こういう欲のぶつけ方をまだ完全には理解していない。
けれど今のレギュラスに、もっと上手く飾る余裕はなかった。
怖い。
行かせたくない。
手の届くところにいてほしい。
その全部を、行為に混ぜて伝えるしかない。
アランはしばらく何も言わなかった。
やがて観念したみたいに、レギュラスの肩に手を置く。
「……それで、安心するんですか」
小さく問われて、レギュラスは一瞬だけ黙った。
安心、という言葉では足りない気がした。
もっと生々しい。
もっと原始的だ。
けれど、そう問われたなら答えはひとつしかない。
「少しは」
正直にそう言うと、アランは困ったように息を吐いた。
「少し、ですか」
「ええ」
「本当は、行かないと約束してもらえた方がずっと安心します」
アランはまた黙る。
その沈黙が、やはりまだ完全には折れていない証拠で、レギュラスの胸の奥に黒い不安がまたじわりと広がる。
だから彼は彼女を抱きしめた。
強すぎず、でもきっちりと腕の中に閉じ込めるように。
「…… アラン」
「もう少し、僕のことを怖がってもいいんですよ」
「怖がってません」
「そういうところです」
低く言うと、アランは少しだけ肩を震わせた。
笑ったのか、困ったのか、そのどちらともつかない揺れだった。
レギュラスは彼女の額に口付ける。
次に目元へ。
頬へ。
唇へ。
全部、優しく。
けれど執拗に。
触れて、重ねて、確かめて。
ここにいるのだと。
まだ奪われていないのだと。
その事実を身体の方へ叩き込むみたいに。
アランの手が、いつの間にか彼の背に回っていた。
拒絶ではない。
完全な同意というには、まだ少し困っている気配が残っている。
けれどその曖昧さすら、今は愛おしかった。
レギュラスは目を閉じた。
今この瞬間だけは、湖も、亡者も、冷たい水もない。
あるのはアランの体温だけだ。
その奥まで触れられるという事実だけが、自分を地上につなぎとめる。
だから求める。
ひたすらに。
アランが自分の手の中にいると、身体に覚えさせるために。
朝の光が薄く差し込む部屋の中で、レギュラスはほとんど祈るみたいな気持ちで、アランに触れ続けていた。
別に、何を着ていようがいいのだ。
アランはアランであって、
どんな服でも可愛らしく自分の目には映る。
だから不満があるわけではなかった。
けれど市場の帰り道、ドレスショップや下着店の前を通りすぎるたび、ショーウィンドウに飾られているものが妙に目についた。
懐かしいと思った。
昔なら、そういうものは女を飾るためのものとして、ただ視界の中にあっただけだ。興味を持つことも、まして誰か特定の女に着せたいと思うこともなかった。
なのに今は違う。
あの鮮やかな色が、アランに似合う気がした。
細い肩や、白い肌や、黒い髪に、ああいうものを重ねたらどう見えるのだろうと、自然に考えてしまう。
無理にとは言うつもりはない。
けれど、もし着てくれるなら嬉しい。
そんな欲求が、ごく自然に湧いていた。
その日も、手を繋いで歩いていた途中で、レギュラスはふいに立ち止まった。
「アラン」
「はい?」
「僕が買えば、着てくれます?」
アランがきょとんとする。
レギュラスはそのままショーウィンドウを指差した。
煌びやかなドレスだった。
深い色味の布地に、光を受けて揺れる細かな刺繍が入っている。やりすぎなほど派手ではないが、家の中で着るには明らかに華やかすぎる。
その隣には、なぜかドレスと同じ色の下着まで並べられていた。
アランはそれを見た瞬間、目を丸くした。
「こんなの……」
声が小さくなる。
「着たことないです」
「似合いませんから」
「絶対似合います」
レギュラスは即答した。
「着てくれます?」
アランは完全に固まっていた。
頬が少しずつ赤くなっていくのがわかる。断ろうとしているのに言葉が追いついていない顔だった。
だからレギュラスはそのまま手を引いた。
「ちょ、ちょっと」
「行きましょう」
「レギュラス」
「こういうのは勢いが大事です」
「何の勢いですか!」
抗議を聞き流して、そのまま店に入る。
やっぱり嫌だと言い出す前に先に動く方がいい。迷わせれば、アランは間違いなくこんなの必要ありませんの方へ戻ってしまう。
店の中は外から見たより静かで、布と香の匂いがした。
店員がすぐに近づいてきて、レギュラスは迷いなくショーウィンドウのものを指した。
「これを」
アランは横で息を呑んだ。
「絶対に着れません」
「戻ったら着てくださいね」
レギュラスは平然と言った。
アランが言葉を失う。
その反応を見ていると、自分が少し悪い男みたいだと思う。だが、嫌な気はしなかった。
今まで別に、女の着るものに興味を持ったことはない。
どんなドレスが流行りで、どの色が肌を綺麗に見せるのかなんて、知ろうと思ったこともなかった。
なのに、こういうものを着てみてほしいという感情を持つ日が来るとは思わなかった。
しかも相手はアランだ。
きっと本人は必要ないと思っているし、できれば避けたいとも思っている。
それでも見たい。
着せたい。
その感情が、思っていた以上に強い。
家に戻ると、いつもならまず野菜や薬草の仕分けをする。
だが今日は違った。
レギュラスは荷物を置くなり、当然のように包みを開いた。
「先にこっちです」
「野菜が先です」
「逃げ道を作らないでください」
「逃げ道じゃありません、生活です」
「生活はあとでできます」
「でもこれは今やらないと、あなたが気持ちを立て直してしまうでしょう」
アランは返す言葉が見つからない顔をした。
図星らしい。
レギュラスは少しだけ口元を和らげる。
「ほら、こっちへ」
アランはしばらく包みとレギュラスを見比べていたが、やがて観念したように小さく息をついた。
「……一回だけですよ」
「十分です」
「十分なんですか」
「今のところは」
その今のところに、アランはますます怪しそうな顔をしたが、もう何も言わなかった。
着替えを待っている間、レギュラスは妙に落ち着かなかった。
自分でも笑ってしまいそうになる。
胸が少し浮き立っているのがわかる。子どもじみていて、癪なほどだった。こんなことで胸が踊るなんて、少年みたいに幼いではないかと思う。
なのに、やめられない。
やがて布の擦れる小さな音がして、アランが奥から出てきた。
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
似合っていた。
本当に。
思っていた以上に。
色は彼女の黒髪を引き立て、白い肌をやわらかく見せていた。肩の線も、腰の細さも、普段は薬草や鍋や市場の籠に埋もれて見えない部分まで綺麗に浮き上がる。
それだけではない。
着慣れていないせいでひどく恥ずかしそうにしている顔まで、全部が合っていた。
アランは裾を気にするみたいに指先でつまみながら、視線を上げられずにいた。
「……変じゃないですか」
小さく聞く。
レギュラスはようやく息をついた。
それから、ゆっくり近づく。
「似合うじゃないですか」
心からそう言った。
アランの耳がまた赤くなる。
「恥ずかしいです」
「ええ」
「知ってます」
「知ってるなら、そんなに見ないでください」
「無理ですね」
レギュラスは正直に答えた。
「着せたいと言ったのは僕ですから」
「見ない方が失礼でしょう」
「そういう理屈ですか?」
「そういう理屈です」
アランは困ったように唇を結んだ。
けれどその顔がまた可愛くて、レギュラスは思わず笑ってしまう。
彼女の肩へ手をやる。
布越しに触れるだけで、今日のために選んだ色がますます自分のものみたいに感じられて、妙に満足した。
「下着も、ちゃんと合わせたんですか」
低く問うと、アランがはっと顔を上げた。
「な、なんでそこまで聞くんですか」
「同じ色のものを買ったんですよ」
「確認したくなるでしょう」
「確認しなくていいです」
「着てるんですね」
「……!」
言質を取ったみたいになって、アランは明らかに失敗した顔になる。
レギュラスは肩を揺らした。
「かわいいですね」
「全然かわいくないです」
「いいえ」
「今の反応も含めて、かなり」
アランはついに顔を背けた。
その逃げ方まで、今日の彼女には全部よく似合っていた。
レギュラスは少しだけ真面目な声になって言った。
「買ってよかった」
その一言に、アランがそっと目を戻す。
「……そんなにですか」
「そんなにです」
即答した。
「あなた、普段は何でも似合いますけど」
「これは、特に見たかった」
アランはしばらく何も言わなかった。
それから、小さく小さく息を吐く。
「……そんなふうに言われたら」
「もう、着ないって言いにくいじゃないですか」
その言葉に、レギュラスは少しだけ目を細めた。
「言わなくていいですよ」
「そうやってすぐ押し切るんですね」
「押し切れるなら、そうします」
アランは呆れたように笑った。
けれど完全には嫌がっていない。その柔らかい諦めが、レギュラスには嬉しかった。
家の片隅には、まだ市場で買ってきた野菜たちが袋の中にある。
薬草も、仕分け前のままだ。
なのに今は、それら全部より、目の前のアランの方が大事に思えた。
レギュラスは彼女の髪を耳の後ろへ払って、軽く口付ける。
「本当に似合ってます、アラン」
「……そんなに何回も言わなくていいです」
「何回でも言いますよ」
「困ります」
「じゃあ、慣れてください」
またそうやって無茶を言う。
アランは困ったような顔のまま、けれど少しだけうれしそうに笑った。
その笑みまで含めて、今日のレギュラスには全部が当たりだった。
時々、レギュラスを見ていると。
学生時代、愚かな恋に身を焦がしていた相手を思い出すことがあった。
最初は気のせいだと思っていた。
けれどよく見ると、似ているところが結構ある気がする。
鼻筋だとか。
全体的な骨格だとか。
横顔の線の落ち方だとか。
あと、瞳の色も。
あの人と同じだった。
同じだけれど。
レギュラスの方が、ずっと優しい。
自分を気にかけてくれる。
こちらが痛いかどうか、苦しいかどうか、きちんと見ていてくれる。
そんな根本のところが、決定的に違う。
それなのに。
似ている部分が目に入るたび、心の奥のどこかがふと昔へ引き戻される。
そして同時に、考えてしまうことがあった。
かつてのあの人から。
一度でもこんな優しさを向けてもらえていたら。
自分は、あんなに苦しまずに済んだだろうか。
あそこまで惨めにならずに済んだだろうか。
自分を安く差し出すことでしか、好かれている実感を持てないような女にならずに済んだだろうか。
そんなことを考える時がある。
それは未練とは違う。
戻りたいわけでもない。
今更どうこうなりたいと思っているわけでもない。
ただ、初めて好きになった人だから。
やっぱり特別のまま、心の奥に棲みついて離れてくれないのだ。
その日は、夕方の光の中でレギュラスが椅子に腰掛けていた。
窓から入る薄い陽が、横顔の輪郭を綺麗に縁取っている。
顎の線も、睫毛の影も、静かに伏せた目元も、どこか昔を思い出させた。
アランは台所の手元を止めたまま、少し長く彼を見てしまった。
すると、レギュラスが本から顔を上げずに言った。
「何ですか」
「そんなに見て」
アランははっとして視線を戻す。
けれど今さら逸らすのも不自然で、結局そのまま小さく笑った。
「いいえ」
「綺麗な顔をしていらっしゃると思って、見ていただけです」
本当にそう思った。
特に、横から見た顔が。
どこかあの人を思い出させる。
レギュラスは本を閉じて、少しだけこちらを見た。
銀の瞳が細くなる。
「それだけじゃないでしょう」
「どうしてです?」
「顔でわかりますよ」
そう言いながら立ち上がる。
アランが逃げるほどの距離ではない。けれど近づき方が静かで、あっという間に手の届くところまで来る。
「何か、良くないことを思い出しているんでしょう」
その言い方があまりにも当たっていて、アランは一瞬だけ息を止めた。
「そんなんじゃないです」
すぐにそう返したけれど、自分でも弱い否定だと思った。
レギュラスはじっとアランの顔を見る。
まるで隠しても意味がないと知っているみたいに。
アランは目を逸らした。
言わない。
何を思っていたのかは、言わない。
それは失礼だと思うからだ。
今、目の前にいるレギュラスに向かって、あなたは昔好きだった男に少し似ています、だから時々思い出します、なんて。
そんなことは言えない。
あまりにも不誠実だ。
優しくしてくれるこの人に向かって、過去の影を重ねているみたいで、自分でも嫌だった。
レギュラスはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりとアランの頬に触れた。
指先はやさしい。
問い詰めるつもりではない触れ方だった。
「アラン」
低く呼ばれる。
「僕に関係あることですか」
その問いに、アランは返事に困った。
関係があるような、ないような。
似ていると思うこと自体は、彼に関係がある。
でも思い出している中身は、彼とは何の関係もない、みっともない過去だ。
「……少しだけ」
結局、そう答える。
レギュラスの目が、ほんのわずかに揺れた。
嫉妬なのか、不安なのか、それともただ続きを待っているだけなのか、アランには読み切れない。
「少しだけ、ですか」
「はい」
「その少しは、厄介ですね」
少し苦い声だった。
アランは思わず顔を上げる。
レギュラスは怒ってはいない。
けれど、落ち着かないのだろうとはわかった。
アランの中に自分ではない男の影が差したことを、面白く思うはずがない。
それでもアランは、何も言えなかった。
やっぱり言えない。
レギュラスはその沈黙を見て、少しだけ目を伏せた。
それから、静かに息を吐く。
「言わないなら、無理には聞きません」
アランは小さく瞬く。
「でも」
とレギュラスは続ける。
「僕を見て、誰か別の男を思い出しているなら」
「それは少し、面白くないですよ」
まっすぐだった。
飾らない不機嫌さが、そのまま言葉になっている。
それが妙にレギュラスらしくて、アランは少しだけ困ってしまう。
「……ごめんなさい」
「謝らせたいわけじゃありません」
即座に返される。
「ただ、あなたが今見ているのは僕でしょう」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
今見ているのは、たしかにレギュラスだ。
目の前にいるのは、この人だ。
昔の誰かではない。
自分にやさしく触れて、言葉を待って、逃げても追い詰めないでくれる男。
アランは目を伏せた。
「……わかってます」
「本当に?」
「本当にです」
「じゃあ、もう少しこっちを見てください」
子どもみたいな言い方だった。
でもその声には、冗談では済まない熱がある。
アランはゆっくり顔を上げた。
銀の瞳が近い。
同じ色だ。
昔の人と。
でも違う。
見つめ返してくる目のやわらかさが違う。
そこにある感情が違う。
自分をただ欲望の延長で見ていた目ではなくて、ちゃんと今の自分を映している目だ。
レギュラスはアランの頬からそのまま耳のあたりへ指を滑らせた。
「綺麗な顔をしている、は嬉しいですけど」
少しだけ意地悪く言う。
「その顔で別のことを考えられていたなら、素直に喜べませんね」
アランは思わず苦笑した。
「面倒くさいですね」
「ええ」
「知ってます」
その返しに、アランはようやく少し肩の力を抜く。
レギュラスは今度は親指で、彼女の目元をやさしくなぞった。
「その男に、今も会いたいんですか」
アランはすぐに首を振った。
「まさか」
その否定だけは、迷いがなかった。
「二度と会いたくないです」
レギュラスはその答えを聞いて、ようやく少しだけ表情をゆるめた。
「なら、いいです」
「いいんですか」
「よくはないですけど」
「少なくとも、今のあなたが僕の前でその男に戻っていくわけじゃないなら」
その言葉に、アランは胸の奥がじんとした。
戻っていくわけじゃない。
たしかにそうだ。
思い出すことはある。
影が差すこともある。
けれど戻りたいわけではない。
今ここにいたいと思っているのは、ちゃんとレギュラスのそばだ。
「……時々、似てると思うことがあるだけです」
とうとうそこだけ、口にした。
レギュラスの眉がわずかに動く。
「似てる?」
「少しだけです」
「鼻筋とか、骨格とか……横顔とか」
「あと、瞳の色も」
言ってしまうと、やっぱりひどく失礼な気がした。
アランはすぐに続ける。
「でも、本当に少しだけです」
「全然違います」
「全然、違うんです」
レギュラスはじっと聞いていた。
その沈黙が怖くて、アランはさらに言葉を足しそうになる。
だがその前に、レギュラスがぽつりと言った。
「それは、少し救われますね」
アランはきょとんとする。
「何がです?」
「似てるだけで、同じじゃないなら」
そう言って、レギュラスは少しだけ笑った。
でもその笑みの奥には、まだ複雑なものが残っている。
「……あまり嬉しくはないですけど」
「少なくとも、僕がその男の代わりだと思われてるわけじゃないなら」
「そんなこと、思ってません」
アランはすぐに言った。
今度こそ、本心だった。
レギュラスの方がずっと優しい。
ずっとまっすぐで、ずっと自分を見てくれる。
だからこそ、似ている部分があるたび不思議になるだけだ。
「じゃあ、もうあまりそんな顔をしないでください」
「そんな顔って」
「昔のことに、まだ少し刺されてる顔です」
図星で、アランはまた言葉を失う。
レギュラスは本当に、そういうところだけよく見ている。
彼は少しだけ身を屈めて、アランの額に軽く口付けた。
「昔の男が一度もしなかったことを、これから僕がたくさんします」
低く、静かな声だった。
「だからそのたび、違うと覚えてください」
アランは胸の奥がいっぱいになるのを感じた。
そんなふうに言われると、昔の傷が急に癒えるわけではない。
けれど少なくとも、これから先に重ねていくものがあるのだと思える。
それはとても救いだった。
アランはそっと、レギュラスの服の袖を掴んだ。
「……はい」
小さく頷くと、レギュラスはその手を見て、ようやく本当に機嫌を直したような顔をした。
時々思い出してしまう。
それはなくならないかもしれない。
でも今、自分の前にいるのはレギュラスだ。
優しくて、少し面倒で、でもちゃんとこちらを見てくれる男だ。
アランはもう一度彼の顔を見た。
似ているところは、やっぱり少しある。
けれど今のアランには、その違いの方がずっと大きかった。
