1章
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アランの過去の話を聞いたあと、レギュラスはしばらく何も言えなかった。
話の内容自体は、ありきたりだった。
貴族の男や、名家の顔のいい男に行こうとする女なら、どの女もそれなりに体験していそうなことだった。特別珍しいわけじゃない。むしろ、社交界の端にいればいくらでも転がっている種類の話だ。
だからこそ、余計に言葉が出なかった。
たぶんアランが選んだ男は、とんでもなく女を選び放題だった男なのだろう。
誰だかは知らないし、知るつもりもない。
今さら名前を知ったところで意味もないし、知れば不快になるだけだ。
ただ。
レギュラス自身も、これまで寄ってきた女すべてに丁寧に向き合ってきたかと言われると、正直わからない部分がある。
自分の態度で悲しませた女くらい、いたかもしれない。
いたら本当に申し訳ないとは思う。
だが、あの頃の自分からしたら、それが最善だったのだとも思う。
中途半端に情を持たせるより、
深入りしない方がいいと判断したこともあった。
期待を抱かせないために、あえて冷たくしたこともあった。
わかってほしいくらいある。
男として。
少しだけ、理解できてしまう自分がいるのも事実だった。
アランから聞かされた男の行いは、確かに酷いのかもしれない。
だが一方で、圧倒的に選択肢が多い男が、ひとりに誠実であり続けることの難しさも、レギュラスには少しわかってしまう。
それが正しいとは思わない。
だが、まるで異世界の話みたいに断罪することもできなかった。
だから黙った。
軽々しく「最低ですね」とも言えなかったし、
「そんな男は忘れてしまえばいい」とも言えなかった。
そんな簡単な話ではないことくらい、アランの言い方でわかったからだ。
それに。
少し安心した自分がいることも、レギュラスは認めざるを得なかった。
過去の男が忘れられないと言われるより、ずっとましだった。
あれは未練ではない。
傷だ。
癖だ。
痛みの残り方が、今もまだ身体に染みついているだけだ。
散々な目にあったのなら。
その分、これから先は自分が大切にしてやれる。
そう思うと、不思議と胸の奥が静かに定まった。
レギュラスはアランを抱き寄せたまま、彼女の髪に頬を寄せた。
服はもう着ている。
それでも腕の中にはちゃんといる。
「アラン」
低く呼ぶ。
「はい……」
返事は小さい。
まだ少し緊張しているのがわかる。
レギュラスは一度だけ息を整えてから、静かに言った。
「これからは、僕が大切にします」
アランの体が、腕の中でかすかに強張る。
その反応に、レギュラスは続けた。
「だから……終わったあと、すぐに離れていかないでください」
言いながら、自分でも少し可笑しかった。
もっと気の利いた言い方もあっただろうに、結局いちばん言いたいことはそこだった。
行為の最中よりも、そのあとに距離を取られる方がつらい。
服をかき集めて、眼鏡までかけて、逃げるみたいに背を向けられると、置いていくつもりなどないこちらの方が取り残された気分になる。
アランはしばらく黙っていた。
レギュラスは急かさず待った。
彼女はこういう時、すぐには言葉が出てこない。胸の奥でちゃんと噛みしめてからでないと返せない人なのだと、もう知っている。
やがて、服越しに彼の胸元をそっと掴んでいた手が、少しだけ強くなる。
「……大切に、してくれるんですか」
確認みたいな声だった。
レギュラスは目を伏せたまま頷く。
「ええ」
「ずっと、ですか」
その問いに、レギュラスは少しだけ笑った。
「ずっと、の保証は軽々しくしたくありません」
「でも、少なくとも僕は、そのつもりで言っています」
誓いのように安い言葉にはしたくなかった。
ただ、今この瞬間の本気だけは、曖昧にしたくなかった。
「あなたを雑に扱うつもりはありません」
「それだけは、はっきり言えます」
アランはまた黙る。
けれど今度の沈黙は、さっきまでの怯えたものとは少し違った。
ゆっくりと染み込ませている沈黙だった。
レギュラスは彼女の頭に手をやり、やわらかく撫でた。
こんなふうに触れることが、今は自然になっているのが不思議だった。
過去の至らなさを、アランにわざわざ話すつもりはない。
男として、
少しだけ理解できる部分があることも。
自分だってきっと、知らないところで誰かを悲しませたことがあるのだろうということも。
今ここで口にすることではないと思った。
それを懺悔みたいに差し出して、アランを不安にさせたいわけではない。
ただ。
これから先、彼女だけを大切にすることで、
そういう過去の至らなさを静かに償っていきたいような思いはあった。
あの頃の自分は、あれで最善だった。
そう思う気持ちは今もある。
けれど、今の自分が同じように振る舞いたいかと言われれば、答えは違う。
アランには、そうしたくない。
彼女が服を急いで着なくてもいいと思えるように。
行為のあと、置いていかれることを前提に身構えなくて済むように。
終わったあとこそ、安心してこちらへ寄ってこられるように。
そういうふうに変えていきたかった。
「アラン」
もう一度、呼ぶ。
「はい」
「次からは、急いで服を着る前に、少しだけ僕の方を見てください」
アランが少しだけ顔を上げる。
翡翠の瞳が、戸惑いながらもこちらを向く。
「ちゃんとそこにいると、毎回教えるので」
その言葉に、彼女の目が静かに揺れた。
泣きそうなわけではない。
でも、ひどく深く何かを受け取った時の揺れ方だった。
「……毎回ですか」
「ええ」
「面倒なくらい、毎回です」
そう言うと、アランは少しだけ笑った。
その笑い方には、まだ照れもあるし、信じきれていない慎重さもある。
だが、それでもちゃんと笑っていた。
「じゃあ……」
「そのうち、慣れますかね」
「慣れなくても構いません」
「慣れるまで、僕が言いますから」
アランはついに、彼の胸へ額を預けた。
その重みが、レギュラスにはひどく愛おしかった。
大切にする、というのは。
派手な言葉や劇的な誓いではなくて、きっとこういうことなのだろうと思った。
終わったあとも離れないこと。
逃げるみたいに服を着る背中を、笑わずに待つこと。
繰り返し、大丈夫だと教えてやること。
そんな地味で、けれど確かなことの積み重ねだ。
レギュラスはアランを抱いた腕に、少しだけ力を込めた。
「だから安心してください、とはまだ言いません」
アランが不思議そうに顔を上げる。
「言葉でそう言うより、覚えてもらう方が早いでしょうから」
そう告げると、彼女はまた小さく笑った。
その笑みを見て、レギュラスは思う。
これから先。
この女だけは、ちゃんと大切にしていこうと。
レギュラスとの行為は、驚くほど優しかった。
アランは何度も、それに驚いていた。
こんなふうに途中で何度も、
苦しくないか、
痛くないか、
無理はないか、
そんなことを確認してもらったことなんて、一度もない。
昔は違った。
あの頃、時々かなり痛かった記憶がある。
でもそこで痛いと言えば、やめられる気がしていた。
やめられたら、もう会ってもらえない気がした。
彼の一番じゃなくなる気がして、怖かった。
だから痛いなんて言えなかった。
苦しい体勢も、彼が望むならしたかった。
どれだけ羞恥を煽られる要求でも、彼のためならできた。
できると思っていた。
いや、できる自分でいなければならないと、あの頃のアランは本気で思っていた。
今思い出すと、それがもう苦しい。
どうしてあんなに無謀だったのだろう。
どうしてあんなに、自分を粗末に差し出せたのだろう。
好きだったから、の一言では片づかないほどに、あの頃の自分は危うかった。
なのに。
レギュラスは、そんなことを何も求めてこない。
それが、怖いくらいだった。
「我慢しないでくださいね、アラン」
低い声で、そう言う。
彼が求めることは、せいぜいそのくらいだった。
痛い時は正直に言ってほしいと。
苦しい時は止めるからと。
ちゃんと自分のことを教えてほしいと。
急かすようなことをしない。
焦らせるような触れ方をしない。
何度も口付けてくれる。
何度も髪を撫でてくれる。
そのひとつひとつが、アランには新しすぎた。
髪なんて、昔は後ろから引っ張られていたのに。
そういえば長い髪が鬱陶しいからと、胸の下まであった髪を肩の下あたりまで切ったことを思い出す。あの時、自分では気分転換のつもりで言い聞かせていたけれど、本当は違った。触れられるたびに嫌な記憶が戻るのが耐えられなかっただけだ。
その髪を。
レギュラスは引っ張ることなく、丁寧に撫でて、口付けてくれる。
まるで壊れものに触れるみたいに。
でも壊れものとして恐れるのではなく、大事なものとして扱うみたいに。
アランはそのたび、胸の奥が変に熱くなるのを感じた。
「……どうしました?」
レギュラスが顔を覗き込むようにして聞く。
アランははっとして首を振った。
何でもないと言いたかった。
けれど、何でもなくはなかった。
「優しすぎて……」
ぽつりと出た言葉に、自分で驚く。
こんなことを言うつもりじゃなかったのに。
レギュラスは少しだけ目を細めた。
「それは、悪い意味ですか」
「違います」
アランは慌てて言う。
「違うんです、そうじゃなくて」
「こんなふうに……何度も確認されたことがなくて」
そこまで言うと、レギュラスの表情が静かに変わった。
責めるわけではない。
ただ、察したような、少しだけ苦い色を含む目になる。
「確認しないものなんですか」
その問いに、アランは少し黙った。
答えたくないわけではない。
でも答えるのが少し恥ずかしかった。
恥ずかしいのに、今さら隠しても仕方ないとも思う。
「……しない人も、いると思います」
曖昧にそう言うと、レギュラスはそれ以上は追及しなかった。
ただ、アランの頬に手を添えて、ゆっくりと親指で撫でた。
「僕はしますよ」
その一言が、妙に胸へ落ちる。
「あなたが苦しいのに、気づかないまま続けるのは嫌です」
「そういうのは、したくない」
アランはまじまじと彼を見てしまった。
そんなことを、こんなにも当然みたいに言うなんて。
配慮とか、優しさとか、そういう言葉で片づけていいのかわからないくらい、レギュラスのそれは自然だった。
自然だからこそ、余計に衝撃だった。
レギュラスはアランの髪を指に絡める。
でも絡めるだけで、決して引っ張らない。
黒い髪の流れを楽しむみたいに、指先で整えるように梳いていく。
その手つきがやさしすぎて、アランは少しだけ目を伏せた。
昔は、自分が彼の望みを叶えられるかどうかばかり考えていた。
今は違う。
レギュラスは、アランがどう感じているかを聞こうとする。
それがこんなにも安心することだなんて、知らなかった。
「アラン」
名前を呼ばれる。
「もし痛かったら、ちゃんと言ってください」
また言う。
何度も、何度も。
「大丈夫です」
「本当に」
アランがそう答えると、レギュラスは少しだけ安心したように息をついた。
その顔まできれいで、アランはまた困ってしまう。
何度も口付けられる。
唇だけじゃなくて、こめかみや、頬や、髪にも。
こんなふうに触れられると、自分が大切にされているようで、どうしていいかわからなくなる。
大切にされることに、慣れていない。
むしろ昔は、少し乱暴なくらいの方が求められている気がしていた。
痛みも、羞恥も、彼の望みの証拠だと勝手に思っていた。
今ならわかる。
それは違った。
少なくとも、愛し方ではなかった。
でもあの頃の自分は、それすら愛と呼びたかった。
そうしないと、自分があまりにも哀れだったから。
レギュラスの手が、また髪を撫でる。
「髪、きれいですね」
そう言って、毛先に軽く口付ける。
アランは思わず肩を揺らした。
そんなところに口付けられたことなんてなかった。
昔なら、髪は邪魔がられるものだったのに。
「……そんなこと、初めて言われました」
小さく答えると、レギュラスは少し意外そうにした。
「そうなんですか」
「はい」
「変ですね」
「こんなにきれいなのに」
またそう言う。
まっすぐに。
なんの計算もなく。
アランはその言葉を受け止めきれなくて、目を閉じた。
胸の奥がじわじわ熱い。
泣きたいわけではないのに、少し泣きそうになる。
レギュラスはそんなアランを見て、何も急がなかった。
ただ、額を寄せるように近づいて、静かに待ってくれる。
待ってくれる、ということにさえ、アランはまだ驚いてしまう。
昔は待ってもらえなかった。
追いつけなくても、苦しくても、恥ずかしくても、置いていかれた。
だから必死だった。
でも今は違う。
自分の呼吸が整うまで待ってくれる。
言葉が出るまで待ってくれる。
痛くないかと聞いてくれる。
怖くないように、髪を撫でてくれる。
それが怖いくらいだった。
優しすぎて、信じるのに時間がかかるくらいに。
「レギュラス」
アランはそっと呼んだ。
「はい」
「……びっくりします」
「何にです?」
「全部です」
そう答えると、レギュラスは少しだけ笑った。
「そのうち慣れますよ」
「慣れますかね」
「慣れてもらわないと困ります」
「これからも、こうするつもりなので」
その言い方があまりにも当然で、アランはまた胸を撃ち抜かれたみたいになる。
これからも。
そういうふうに触れるつもりでいてくれるのだと。
レギュラスはもう一度、アランの髪をそっと撫でた。
引っ張るためではなく、確かめるように。
いたわるように。
その優しさに包まれながら、アランはようやく少しだけ思った。
もしかしたら自分は。
昔あんなに欲しかったものを、今、遅れて受け取っているのかもしれないと。
彼女を不安にさせないように抱くつもりだった。
ちゃんと顔を見る。
ちゃんと反応を見る。
痛くないか、苦しくないか、確かめる。
急がない。
怖がらせない。
そういうふうに、しているつもりだった。
けれど発作が来ると、だめだった。
夜の底で、意識がまたあの湖へ引きずられかける。
冷たく、深く、下へ下へと沈んでいく。
呼吸が浅くなって、身体の奥が凍るみたいに強張る。
その中で、アランのあたたかくて柔らかい体だけが、唯一の救いのように感じる。
そこから取れるものを、急いで全部取らなければ。
そうしないと、このまままた冷たい底に沈む気がして。
無我夢中で貪るのをやめられない。
発作の最中の自分は、ひどく獣じみているとレギュラスは思う。
綺麗だとか。
美しいだとか。
そういう言葉を言ってやる余裕なんてない。
痛くないかの確認だって、していない。
多分、痛いだろうと思う。
こちらにだって摩擦を感じるくらいなのだから。あんなふうに必死に縋りついて、乱れて、余裕をなくしていれば、彼女の方が平気なはずがない。
それでも、その瞬間は止まれない。
止まったら沈む。
離したら落ちる。
そんな錯覚に支配されて、レギュラスはアランにしがみつき、ほとんど貪るように求めてしまう。
終わったあと、最初に来るのは安堵ではなかった。
罪悪感だった。
呼吸はまだ乱れている。
心臓も落ち着いていない。
なのに頭だけが少しずつ冷えてきて、自分がどんなふうに彼女を抱いたのかを理解し始める。
最低だ、と思う。
普段あれほど気をつけようとしていることを、発作の夜には簡単に壊してしまう。彼女を安心させる側ではなく、自分の不安を鎮めるために彼女を使ってしまっている。
「……すみません」
掠れた声で、レギュラスはそう言った。
「アラン」
抱きしめて、口づける。
こんなんじゃ何の詫びにもならないのに。
それでも何かせずにはいられなくて、額やこめかみに唇を寄せる。腕の中へ抱き込み直す。ひどく遅すぎる埋め合わせだと、自分でもわかっていた。
アランは少し息を整えながら、けれど逃げなかった。
彼の肩に手を置き、そのままゆっくり背中を撫でる。
まるで逆だ、とレギュラスは思う。
宥められるべきなのは彼女の方のはずなのに。
「大丈夫です、レギュラス」
アランは静かにそう言った。
「ここは湖じゃありませんからね」
その一言が、胸の奥へ深く落ちる。
湖じゃない。
冷たい底でもない。
亡者の手もない。
沈んでいく場所ではない。
彼女は、そうやってまた自分を地上へ引き戻そうとする。
きっと痛みもあるだろうに。
戸惑いだってあるはずなのに。
それでも責めるより先に、宥める方へ回ろうとするアランが、どうしようもなく愛おしかった。
レギュラスは目を閉じた。
情けなさと、救われるような気持ちがいっぺんに押し寄せてきて、胸の奥が詰まる。
「……あなたは、いつもそうですね」
ようやく絞り出すように言うと、アランは少しだけ首を傾げた。
「そう、って?」
「僕を責めない」
アランはしばらく黙っていた。
それから、背中を撫でる手を止めずに、小さく答える。
「責めたいわけじゃないからです」
あまりにもまっすぐで、レギュラスは返す言葉を失った。
責めたいわけじゃない。
ただそれだけで、自分の乱れた夜を受け止めてしまう。
普通なら、もっと怒っていい。
呆れてもいい。
せめて少し距離を取ってもいい。
けれどアランはそうしない。
それがありがたくて、申し訳なくて、苦しい。
「痛かったでしょう」
レギュラスは低く言った。
確認というより、ほとんど懺悔だった。
アランは少しだけ眉を寄せたが、否定もしなかった。
その沈黙の方が、余計に胸に刺さる。
「……少し」
やがて正直にそう言う。
レギュラスは思わず顔を歪めた。
やはりそうなのだ。
わかっていた。
わかっていたのに、あの時の自分は止まれなかった。
「でも」
と、アランが続ける。
「あなたが必死だったのも、わかりました」
その言い方に、レギュラスは目を開けた。
翡翠の瞳が、すぐ近くにある。
責める色はない。
ただ少し心配そうに、少し切なそうに、彼を見ているだけだ。
「沈みそうだったんでしょう?」
その問いは、的確すぎて痛かった。
沈みそうだった。
まさに、その通りだった。
レギュラスは声を失ったまま、わずかに頷いた。
その頷きだけで、アランはもう充分だったらしい。
「じゃあ、次は先に言ってください」
「……何をです?」
「今、怖い、とか」
「沈みそう、とか」
レギュラスは苦く笑いそうになった。
「そんなこと、言える余裕があれば苦労しません」
「じゃあ、合図でもいいです」
アランは真面目に言う。
「手を握るとか、名前を呼ぶとか」
「そうしたら、少し落ち着いてからにしましょう」
少し落ち着いてから。
そんな提案をされると思っていなかった。
拒むでもなく、ただ次はどうすれば傷つけずに済むかを考えている。
どこまで行っても、彼女はそうなのだ。
レギュラスはこめかみを押さえるみたいに、アランの肩口へ額を預けた。
「……あなたは、本当に」
その先が続かない。
優しい、では足りない気がする。
強い、でも違う。
もっと別の、どうしようもなく自分を甘やかし、救ってしまう存在だ。
アランはそんな彼の髪にそっと触れた。
今度は背中ではなく、後頭部から首筋へ指を流す。子どもを宥めるみたいで、レギュラスは少しだけ自嘲したくなる。
だが、嫌ではない。
むしろその手つきが、まだ残る冷たさを溶かしていく。
「今日はもう、眠れそうですか」
アランが小さく聞く。
レギュラスは少し考えてから、正直に答えた。
「……あなたがいれば」
アランはまた、やわらかく息をついた。
「いますよ」
当然みたいにそう言う。
「だから、今度はゆっくり寝ましょう」
レギュラスは彼女を抱く腕の力を少しだけ緩めた。
さっきまでの必死さとは違う、静かな抱き方に戻していく。
こんな夜のたび、彼女に甘えてばかりでいいのだろうかと、何度も思う。
けれどアランは、そのたびこちらを突き放さない。
痛みも戸惑いもあるだろうに。
それでもまた、側にいてくれる。
そのことが、どうしようもなく胸に沁みた。
「アラン」
「はい」
「次は……ちゃんとします」
何をちゃんとなのか、自分でも曖昧だった。
もっと優しくかもしれないし、
もっと先に言葉をかけることかもしれないし、
発作に呑まれる前に止まることかもしれない。
それでも、そう言いたかった。
アランは少しだけ微笑んだ。
「次があるなら、その時にまた考えましょう」
その返しが彼女らしくて、レギュラスはようやく少しだけ息を抜いた。
今夜の自分は、きっと褒められたものじゃない。
それでも彼女は、終わったあともこうして腕の中にいる。
それだけで、十分すぎるほど救われていた。
姿くらましができるところまで、身体はようやく完全に回復していた。
あの湖から生還して。
アランの家で何か月もかけて立ち直って。
ようやく、魔法で移動するだけの精度と魔力が戻った。
ならば、行かなければならない。
分霊箱を破壊しろと命じたロケットは、あれからどうなったのか。
確認していない。
一年が経とうとしている。
遅すぎると、自分でも思う。
けれど、生き延びたからには。
生かされてしまったからには。
まだやらなければならないことがある。
アランとのこれから先の生活を守るにしても、まず一度、グリンゴッツには寄らなければならなかった。金がいる。名を捨てて生きていくにしても、現実は金なしではどうにもならない。そして何より、クリーチャーにも自分の無事を伝えたかった。
あの命令が、どうなったのか。
あの夜、自分が本当に死んだと思ったまま、あの家の中で一年を過ごしたのだとしたら。
そう思うと、足が自然と屋敷へ向いていた。
両親については、正直わからない。
あの方を裏切って姿を消したという噂は、当然回っていることだろう。
母は怒鳴り散らかすだろうか。
父は静かに失望しているだろうか。
もしかしたら、どちらももう自分のことなど息子とは思っていないかもしれない。
だが、それでも止まらなかった。
黒い外套の裾を整え、姿くらましを解いた先で、レギュラスは久々にブラック家の屋敷を見上げた。
大きい、と思った。
わかっていたはずなのに、久しぶりに見ると規格そのものが違っていた。アランと一年近くを過ごした小さな家と比べるまでもなく、これは人が暮らすための建物ではなく、家そのものが血筋と権力を見せつけるために立っているみたいだった。
正面扉の前に立つだけで、少し萎縮しそうになる。
昔は当たり前だったものが、今は少し遠い。
静かに扉を開ける。
屋敷の空気は、変わっていなかった。磨かれた床、重いカーテン、古い魔法の匂い。どれもが記憶の通りで、そのせいで逆に一年の不在が夢みたいに感じられる。
足音を忍ばせながら、自分の部屋へ向かった。
一年ぶりの、自分の部屋。
扉を閉めた瞬間、レギュラスは思わず部屋の中央で立ち尽くした。
寝台が広すぎた。
笑ってしまいそうなほどだった。
いまは毎日、アランと二人で小さなベッドで何不自由なく寝ている。夜中に腕が触れて、足がぶつかって、寝返りのたびに互いの気配があることが当たり前になっている。
それに比べてこの寝台は、馬鹿みたいに大きかった。
一人で眠るための広さではない。
広いくせに、どこか空っぽだった。
レギュラスは小さく息を吐いて、クローゼットを開けた。
上質なコートを一着。
ローブを一着。
どちらも目立たず、それでいて品だけは落ちないものを選ぶ。
それから奥にしまってあった予備の杖を取り出した。
手の中に収まる感触は少しだけ懐かしい。完全に馴染むわけではないが、使えないほどでもない。杖がなければ、グリンゴッツから金は下ろせない。
必要なものだけを手早く確保する。
長居はするつもりがなかった。
「……クリーチャー」
小さく呼ぶ。
その声に応じる気配は、すぐに現れた。
ぱちん、と音がして、クリーチャーが姿を見せる。
その姿を見た瞬間、レギュラスは胸の奥でひどく安堵した。
元気だ。
やせ衰えてもいない。
老いたようには見えても、それは元からだ。少なくとも、自分が消えたせいで壊れてしまったような気配はなかった。
「坊っちゃま……!」
クリーチャーの声が震える。
大きな目が、信じられないものを見るように見開かれていた。
「生きて……いらっしゃったのですね……!」
レギュラスは短く頷いた。
「ええ。遅くなりました」
それだけ言うのがやっとだった。
本当はもっと、詫びるべきなのかもしれない。だが今は時間が惜しいし、下手に感情を広げると自分の方が立ち止まってしまいそうだった。
クリーチャーはしばらく震えていたが、やがて何かを思い出したように、慌てて胸元をごそごそと探る。
そして、布に包んだものを両手で差し出した。
「坊っちゃまのご命令の品です」
「クリーチャーは、何度も、何度も試しましたが……破壊できませんでした」
レギュラスはそれを受け取る。
重みが、掌に沈む。
ロケットだった。
見間違えようがない。
あの忌まわしい金属の感触を、一年ぶりに指先で確かめる。冷たく、どこか嫌な気配をまとったまま、まだ存在していた。
破壊できなかったのだ。
当然かもしれない。
家しもべ妖精に壊せる類のものではなかったのだろう。
それでも、ここまで守り通していたのかと思うと、レギュラスは無意識にロケットを握りしめていた。
「そう」
声は意外なほど静かだった。
「じゃあ、これは僕が持って行きます」
「必ず破壊します」
クリーチャーは頭を深く垂れる。
その背中に、レギュラスは一年分の時間を見た気がした。
「あなたはここで、役目をまっとうしてください」
クリーチャーが顔を上げる。
大きな目に、涙が浮かんでいた。
「坊っちゃま……」
「クリーチャーは、お役に立てましたでしょうか」
その問いに、レギュラスは一瞬だけ言葉を失った。
そして、今度ははっきりと頷く。
「ええ」
「十分すぎるほどに」
クリーチャーはその言葉だけで、また深く頭を下げた。
屋敷にいたのは、ほんの数分だった。
父にも母にも会わなかった。
会おうと思えば、探せばどこかにはいたのかもしれない。けれど探さなかった。足も向かなかった。
よかったのかもしれない、とレギュラスは思う。
今はまだ、会わない方がいい気がした。
母の怒声を聞けば、揺らぐかもしれない。
父の静かな眼差しを見れば、足が止まるかもしれない。
今の自分には、まだそのどちらにも耐えられない。
だから会わなかった。
必要なものだけを持って、必要な人にだけ会って、屋敷を出る。
廊下を戻る途中で、一度だけ振り返る。
黒く重たい屋敷は、相変わらずそこにあった。自分が一年いなくても、何ひとつ揺るがず、当然のように存在している。
その確かさが、少しだけ寂しかった。
だが今の自分には、帰る場所がもうひとつある。
小さくて。
狭くて。
薬草の匂いがして。
夜になるとアランが隣にいる、あの家。
あそこへ戻るためにも、このロケットは壊さなければならない。
レギュラスは外套の内側へロケットをしまい込み、予備の杖の感触を確かめた。
そして、誰にも見つからないうちに、再び姿くらましの魔法を編み上げた。
これまで、かなりの金を使わせた自覚がある。
ひとつひとつの薬が、具体的にどれほど高価なのかまではわからない。
けれど、それでも。
若い一人暮らしをしている魔女が。
魔法薬を売って生計を立てている魔女が。
成人の男を何か月も養うほどの余裕を、最初からずっと持っていたとは思えなかった。
思いたくなかった、という方が正しいのかもしれない。
だからこそ、レギュラスは埋め合わせたかった。
これまでのことも含めて。
かかったであろう薬代も、食費も、寝床も、時間も、手間も。
金で埋められるものなら、まずそれを埋めておきたかった。
金で埋められないものがあることもわかっている。
けれど、埋められる部分を放置したままで、他のことだけ大層に語るのは性に合わなかった。
杖は持ってきた。
グリンゴッツにも寄った。
これからはいくらでも下ろせる。
そう思えば、遠慮する理由がなかった。
市場へ向かう道すがら、レギュラスは何気ない顔で言った。
「アラン、必要なものがあれば何でも言ってください」
するとアランは、籠を抱えたまま不思議そうに振り向いた。
「そんなにありませんよ」
その返しに、レギュラスは軽く眉を寄せる。
そんなふうに言われても、こちら側が落ち着かない。
必要かどうかを決めるのは、たぶん今のアランでは甘すぎる。自分一人で暮らしていた感覚のまま、最低限のことしか望まない。少し良い布巾も、保存の利く食材も、棚の補修に使えそうな金具も、全部なくても困らないの分類に入れてしまいそうだった。
だからレギュラスは、アランが選ぶものをとりあえず全部買い揃えることにした。
根菜を手に取れば、それも。
少し迷って戻そうとした香草も、それも。
瓶入りの蜂蜜、乾燥果実、保存肉、目を止めただけの紅茶葉まで、まとめて買う。
アランは途中から完全に困惑していた。
「何をそんなに買っているんですか」
「必要でしょう?」
「必要の基準がおかしいです」
言いながらも、アランは止めきれない顔をしている。
レギュラスはそれに構わず、今度は市場の端で売られていた少し厚手の毛布に目を向けた。
「これも要りますね」
「要りません」
「毛布はあります」
「薄いでしょう」
「冬はもう終わります」
「次の冬に使えます」
アランはとうとう立ち止まって、籠を抱え直しながらレギュラスを見上げた。
「どうしてそんなにお金があるんです」
問いはまっすぐだった。
だが詰問ではない。ただ純粋な疑問として聞いている。
レギュラスは少しだけ肩を竦める。
「グリンゴッツに寄ってきたんですよ」
アランは一瞬、真顔になった。
それから唐突に、
「強盗でもしましたか?」
と言った。
レギュラスは思わず目を瞬いたあと、吹き出しそうになった。
「まさか」
「グリンゴッツですよ?」
「だって、そんなに簡単にぽんぽん使うから……」
「だからこそ、強盗ではないです」
「そんな面倒なことをするくらいなら、最初から自分の金を下ろします」
アランはまだ少し疑わしそうにしていたが、やがて諦めたように小さく息をついた。
「……それ以上、深くは聞きませんけど」
その言い方に、レギュラスは一瞬だけ視線を落とした。
踏み込まないままだった。
今もまだ、アランには自分の姓を告げていない。
レギュラス、という名だけで、彼女はここまで一緒に暮らしている。
出自も、家も、何を捨ててここへ流れてきたのかも、詳しくは聞かないまま。
ありがたいのと、申し訳ないのとで、胸の内が少し混ざる。
アランのそういうところに、何度救われてきただろう。
けれど同時に、その信頼に甘えている自覚もある。
「……その顔、また変なこと考えてますね」
ふいに言われて、レギュラスは顔を上げた。
アランがじっと見ている。
翡翠の瞳は、こういう時だけ妙に鋭い。
「変なこととは?」
「言わないくせに、一人で申し訳なくなってる顔です」
図星で、レギュラスは少しだけ笑った。
「よく見てますね」
「見てます」
あっさり言い切られる。
その返しがうれしくて、同時に逃げ場がなくて、レギュラスは軽く息を吐いた。
「……借りを作ったままなのが落ち着かないだけです」
「借り、ですか」
「ええ」
「あなたは平気そうですけど、僕は平気じゃないので」
アランは少し考えるように視線を揺らした。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「じゃあ、全部返そうとしなくていいです」
「少しずつで」
「それは無理ですね」
「即答ですか」
「無理です」
「少しずつなんて、生ぬるいことをしていたら気が済まない」
アランはとうとう肩を揺らして笑った。
「レギュラスって、変なところで不器用ですよね」
「変なところ?」
「こういうところです」
「たぶん、すごく器用そうなのに」
その言葉に、レギュラスは返事をしなかった。
代わりに、彼女がさっき迷っていた紅茶葉の包みをもうひとつ手に取る。
「これは二つ買っておきましょう」
「話を逸らさないでください」
「逸らしていません」
「必要なものを買っているだけです」
「紅茶葉が二つ必要ですか?」
「ええ」
「僕も飲みますから」
そう言うと、アランは少しだけ黙った。
その沈黙の意味がわかって、レギュラスはわざと何でもない顔をした。
僕も飲みます。
それはつまり、ここでこれからも飲むつもりだということだ。
アランは気づいたのだろう。
けれどそのことをいちいち大仰にしないで、ただ小さく頷いた。
「……じゃあ、二つでいいです」
レギュラスはそれだけで満足して、包みを店主に渡した。
市場を歩くあいだじゅう、荷物はどんどん増えていった。
布袋の重みが腕にかかる。
それでも嫌ではない。むしろ少し心地いいくらいだった。自分のためではなく、この先の生活のために金を使っている実感がある。
小さな家に戻れば、きっとアランは困りながら棚へしまうのだろう。
「買いすぎです」と何度も言いながら、それでも使うものを分けて、保存するものを選って、最後には全部きちんと収めてしまうはずだ。
そんなところまで想像して、レギュラスは少しだけ口元を和らげた。
「何を笑ってるんですか」
「いえ」
「絶対何か考えてる顔です」
「あなたが困る顔が目に浮かんだだけです」
「やっぱり困らせるつもりで買ってるじゃないですか」
「違います」
「結果として困るだけです」
アランは呆れたように見上げて、それからまた笑った。
その笑顔を見て、レギュラスはふと思う。
こうして金を使うのは簡単だ。
埋め合わせとしては、手っ取り早い。
けれど本当に返したいものは、たぶんもっと別のところにある。
眠れない夜に側にいてくれたこと。
吐いても、震えても、嫌な顔をしなかったこと。
そして今も、踏み込みすぎずに隣を歩いてくれていること。
それら全部に比べれば、今日の買い物など、ほんの入口にすぎない。
それでも入口は入口として、大事にしておきたかった。
「アラン」
「はい?」
「今日はまだ終わりませんからね」
「何がですか」
「買い物です」
アランは目を見開いた。
「まだ買うんですか?」
「もちろん」
「もう十分です!」
「十分かどうかは、まだ僕が判断します」
「そんな横暴あります?」
「あります」
「今日からです」
抗議する声を聞きながらも、レギュラスは次の店へ足を向けた。
ありがたいのと、申し訳ないのと。
埋め合わせたいのと、ただ彼女に与えたいのと。
その全部がごちゃごちゃに混ざったまま、
レギュラスは市場の喧騒の中で、アランのための荷物を増やし続けた。
話の内容自体は、ありきたりだった。
貴族の男や、名家の顔のいい男に行こうとする女なら、どの女もそれなりに体験していそうなことだった。特別珍しいわけじゃない。むしろ、社交界の端にいればいくらでも転がっている種類の話だ。
だからこそ、余計に言葉が出なかった。
たぶんアランが選んだ男は、とんでもなく女を選び放題だった男なのだろう。
誰だかは知らないし、知るつもりもない。
今さら名前を知ったところで意味もないし、知れば不快になるだけだ。
ただ。
レギュラス自身も、これまで寄ってきた女すべてに丁寧に向き合ってきたかと言われると、正直わからない部分がある。
自分の態度で悲しませた女くらい、いたかもしれない。
いたら本当に申し訳ないとは思う。
だが、あの頃の自分からしたら、それが最善だったのだとも思う。
中途半端に情を持たせるより、
深入りしない方がいいと判断したこともあった。
期待を抱かせないために、あえて冷たくしたこともあった。
わかってほしいくらいある。
男として。
少しだけ、理解できてしまう自分がいるのも事実だった。
アランから聞かされた男の行いは、確かに酷いのかもしれない。
だが一方で、圧倒的に選択肢が多い男が、ひとりに誠実であり続けることの難しさも、レギュラスには少しわかってしまう。
それが正しいとは思わない。
だが、まるで異世界の話みたいに断罪することもできなかった。
だから黙った。
軽々しく「最低ですね」とも言えなかったし、
「そんな男は忘れてしまえばいい」とも言えなかった。
そんな簡単な話ではないことくらい、アランの言い方でわかったからだ。
それに。
少し安心した自分がいることも、レギュラスは認めざるを得なかった。
過去の男が忘れられないと言われるより、ずっとましだった。
あれは未練ではない。
傷だ。
癖だ。
痛みの残り方が、今もまだ身体に染みついているだけだ。
散々な目にあったのなら。
その分、これから先は自分が大切にしてやれる。
そう思うと、不思議と胸の奥が静かに定まった。
レギュラスはアランを抱き寄せたまま、彼女の髪に頬を寄せた。
服はもう着ている。
それでも腕の中にはちゃんといる。
「アラン」
低く呼ぶ。
「はい……」
返事は小さい。
まだ少し緊張しているのがわかる。
レギュラスは一度だけ息を整えてから、静かに言った。
「これからは、僕が大切にします」
アランの体が、腕の中でかすかに強張る。
その反応に、レギュラスは続けた。
「だから……終わったあと、すぐに離れていかないでください」
言いながら、自分でも少し可笑しかった。
もっと気の利いた言い方もあっただろうに、結局いちばん言いたいことはそこだった。
行為の最中よりも、そのあとに距離を取られる方がつらい。
服をかき集めて、眼鏡までかけて、逃げるみたいに背を向けられると、置いていくつもりなどないこちらの方が取り残された気分になる。
アランはしばらく黙っていた。
レギュラスは急かさず待った。
彼女はこういう時、すぐには言葉が出てこない。胸の奥でちゃんと噛みしめてからでないと返せない人なのだと、もう知っている。
やがて、服越しに彼の胸元をそっと掴んでいた手が、少しだけ強くなる。
「……大切に、してくれるんですか」
確認みたいな声だった。
レギュラスは目を伏せたまま頷く。
「ええ」
「ずっと、ですか」
その問いに、レギュラスは少しだけ笑った。
「ずっと、の保証は軽々しくしたくありません」
「でも、少なくとも僕は、そのつもりで言っています」
誓いのように安い言葉にはしたくなかった。
ただ、今この瞬間の本気だけは、曖昧にしたくなかった。
「あなたを雑に扱うつもりはありません」
「それだけは、はっきり言えます」
アランはまた黙る。
けれど今度の沈黙は、さっきまでの怯えたものとは少し違った。
ゆっくりと染み込ませている沈黙だった。
レギュラスは彼女の頭に手をやり、やわらかく撫でた。
こんなふうに触れることが、今は自然になっているのが不思議だった。
過去の至らなさを、アランにわざわざ話すつもりはない。
男として、
少しだけ理解できる部分があることも。
自分だってきっと、知らないところで誰かを悲しませたことがあるのだろうということも。
今ここで口にすることではないと思った。
それを懺悔みたいに差し出して、アランを不安にさせたいわけではない。
ただ。
これから先、彼女だけを大切にすることで、
そういう過去の至らなさを静かに償っていきたいような思いはあった。
あの頃の自分は、あれで最善だった。
そう思う気持ちは今もある。
けれど、今の自分が同じように振る舞いたいかと言われれば、答えは違う。
アランには、そうしたくない。
彼女が服を急いで着なくてもいいと思えるように。
行為のあと、置いていかれることを前提に身構えなくて済むように。
終わったあとこそ、安心してこちらへ寄ってこられるように。
そういうふうに変えていきたかった。
「アラン」
もう一度、呼ぶ。
「はい」
「次からは、急いで服を着る前に、少しだけ僕の方を見てください」
アランが少しだけ顔を上げる。
翡翠の瞳が、戸惑いながらもこちらを向く。
「ちゃんとそこにいると、毎回教えるので」
その言葉に、彼女の目が静かに揺れた。
泣きそうなわけではない。
でも、ひどく深く何かを受け取った時の揺れ方だった。
「……毎回ですか」
「ええ」
「面倒なくらい、毎回です」
そう言うと、アランは少しだけ笑った。
その笑い方には、まだ照れもあるし、信じきれていない慎重さもある。
だが、それでもちゃんと笑っていた。
「じゃあ……」
「そのうち、慣れますかね」
「慣れなくても構いません」
「慣れるまで、僕が言いますから」
アランはついに、彼の胸へ額を預けた。
その重みが、レギュラスにはひどく愛おしかった。
大切にする、というのは。
派手な言葉や劇的な誓いではなくて、きっとこういうことなのだろうと思った。
終わったあとも離れないこと。
逃げるみたいに服を着る背中を、笑わずに待つこと。
繰り返し、大丈夫だと教えてやること。
そんな地味で、けれど確かなことの積み重ねだ。
レギュラスはアランを抱いた腕に、少しだけ力を込めた。
「だから安心してください、とはまだ言いません」
アランが不思議そうに顔を上げる。
「言葉でそう言うより、覚えてもらう方が早いでしょうから」
そう告げると、彼女はまた小さく笑った。
その笑みを見て、レギュラスは思う。
これから先。
この女だけは、ちゃんと大切にしていこうと。
レギュラスとの行為は、驚くほど優しかった。
アランは何度も、それに驚いていた。
こんなふうに途中で何度も、
苦しくないか、
痛くないか、
無理はないか、
そんなことを確認してもらったことなんて、一度もない。
昔は違った。
あの頃、時々かなり痛かった記憶がある。
でもそこで痛いと言えば、やめられる気がしていた。
やめられたら、もう会ってもらえない気がした。
彼の一番じゃなくなる気がして、怖かった。
だから痛いなんて言えなかった。
苦しい体勢も、彼が望むならしたかった。
どれだけ羞恥を煽られる要求でも、彼のためならできた。
できると思っていた。
いや、できる自分でいなければならないと、あの頃のアランは本気で思っていた。
今思い出すと、それがもう苦しい。
どうしてあんなに無謀だったのだろう。
どうしてあんなに、自分を粗末に差し出せたのだろう。
好きだったから、の一言では片づかないほどに、あの頃の自分は危うかった。
なのに。
レギュラスは、そんなことを何も求めてこない。
それが、怖いくらいだった。
「我慢しないでくださいね、アラン」
低い声で、そう言う。
彼が求めることは、せいぜいそのくらいだった。
痛い時は正直に言ってほしいと。
苦しい時は止めるからと。
ちゃんと自分のことを教えてほしいと。
急かすようなことをしない。
焦らせるような触れ方をしない。
何度も口付けてくれる。
何度も髪を撫でてくれる。
そのひとつひとつが、アランには新しすぎた。
髪なんて、昔は後ろから引っ張られていたのに。
そういえば長い髪が鬱陶しいからと、胸の下まであった髪を肩の下あたりまで切ったことを思い出す。あの時、自分では気分転換のつもりで言い聞かせていたけれど、本当は違った。触れられるたびに嫌な記憶が戻るのが耐えられなかっただけだ。
その髪を。
レギュラスは引っ張ることなく、丁寧に撫でて、口付けてくれる。
まるで壊れものに触れるみたいに。
でも壊れものとして恐れるのではなく、大事なものとして扱うみたいに。
アランはそのたび、胸の奥が変に熱くなるのを感じた。
「……どうしました?」
レギュラスが顔を覗き込むようにして聞く。
アランははっとして首を振った。
何でもないと言いたかった。
けれど、何でもなくはなかった。
「優しすぎて……」
ぽつりと出た言葉に、自分で驚く。
こんなことを言うつもりじゃなかったのに。
レギュラスは少しだけ目を細めた。
「それは、悪い意味ですか」
「違います」
アランは慌てて言う。
「違うんです、そうじゃなくて」
「こんなふうに……何度も確認されたことがなくて」
そこまで言うと、レギュラスの表情が静かに変わった。
責めるわけではない。
ただ、察したような、少しだけ苦い色を含む目になる。
「確認しないものなんですか」
その問いに、アランは少し黙った。
答えたくないわけではない。
でも答えるのが少し恥ずかしかった。
恥ずかしいのに、今さら隠しても仕方ないとも思う。
「……しない人も、いると思います」
曖昧にそう言うと、レギュラスはそれ以上は追及しなかった。
ただ、アランの頬に手を添えて、ゆっくりと親指で撫でた。
「僕はしますよ」
その一言が、妙に胸へ落ちる。
「あなたが苦しいのに、気づかないまま続けるのは嫌です」
「そういうのは、したくない」
アランはまじまじと彼を見てしまった。
そんなことを、こんなにも当然みたいに言うなんて。
配慮とか、優しさとか、そういう言葉で片づけていいのかわからないくらい、レギュラスのそれは自然だった。
自然だからこそ、余計に衝撃だった。
レギュラスはアランの髪を指に絡める。
でも絡めるだけで、決して引っ張らない。
黒い髪の流れを楽しむみたいに、指先で整えるように梳いていく。
その手つきがやさしすぎて、アランは少しだけ目を伏せた。
昔は、自分が彼の望みを叶えられるかどうかばかり考えていた。
今は違う。
レギュラスは、アランがどう感じているかを聞こうとする。
それがこんなにも安心することだなんて、知らなかった。
「アラン」
名前を呼ばれる。
「もし痛かったら、ちゃんと言ってください」
また言う。
何度も、何度も。
「大丈夫です」
「本当に」
アランがそう答えると、レギュラスは少しだけ安心したように息をついた。
その顔まできれいで、アランはまた困ってしまう。
何度も口付けられる。
唇だけじゃなくて、こめかみや、頬や、髪にも。
こんなふうに触れられると、自分が大切にされているようで、どうしていいかわからなくなる。
大切にされることに、慣れていない。
むしろ昔は、少し乱暴なくらいの方が求められている気がしていた。
痛みも、羞恥も、彼の望みの証拠だと勝手に思っていた。
今ならわかる。
それは違った。
少なくとも、愛し方ではなかった。
でもあの頃の自分は、それすら愛と呼びたかった。
そうしないと、自分があまりにも哀れだったから。
レギュラスの手が、また髪を撫でる。
「髪、きれいですね」
そう言って、毛先に軽く口付ける。
アランは思わず肩を揺らした。
そんなところに口付けられたことなんてなかった。
昔なら、髪は邪魔がられるものだったのに。
「……そんなこと、初めて言われました」
小さく答えると、レギュラスは少し意外そうにした。
「そうなんですか」
「はい」
「変ですね」
「こんなにきれいなのに」
またそう言う。
まっすぐに。
なんの計算もなく。
アランはその言葉を受け止めきれなくて、目を閉じた。
胸の奥がじわじわ熱い。
泣きたいわけではないのに、少し泣きそうになる。
レギュラスはそんなアランを見て、何も急がなかった。
ただ、額を寄せるように近づいて、静かに待ってくれる。
待ってくれる、ということにさえ、アランはまだ驚いてしまう。
昔は待ってもらえなかった。
追いつけなくても、苦しくても、恥ずかしくても、置いていかれた。
だから必死だった。
でも今は違う。
自分の呼吸が整うまで待ってくれる。
言葉が出るまで待ってくれる。
痛くないかと聞いてくれる。
怖くないように、髪を撫でてくれる。
それが怖いくらいだった。
優しすぎて、信じるのに時間がかかるくらいに。
「レギュラス」
アランはそっと呼んだ。
「はい」
「……びっくりします」
「何にです?」
「全部です」
そう答えると、レギュラスは少しだけ笑った。
「そのうち慣れますよ」
「慣れますかね」
「慣れてもらわないと困ります」
「これからも、こうするつもりなので」
その言い方があまりにも当然で、アランはまた胸を撃ち抜かれたみたいになる。
これからも。
そういうふうに触れるつもりでいてくれるのだと。
レギュラスはもう一度、アランの髪をそっと撫でた。
引っ張るためではなく、確かめるように。
いたわるように。
その優しさに包まれながら、アランはようやく少しだけ思った。
もしかしたら自分は。
昔あんなに欲しかったものを、今、遅れて受け取っているのかもしれないと。
彼女を不安にさせないように抱くつもりだった。
ちゃんと顔を見る。
ちゃんと反応を見る。
痛くないか、苦しくないか、確かめる。
急がない。
怖がらせない。
そういうふうに、しているつもりだった。
けれど発作が来ると、だめだった。
夜の底で、意識がまたあの湖へ引きずられかける。
冷たく、深く、下へ下へと沈んでいく。
呼吸が浅くなって、身体の奥が凍るみたいに強張る。
その中で、アランのあたたかくて柔らかい体だけが、唯一の救いのように感じる。
そこから取れるものを、急いで全部取らなければ。
そうしないと、このまままた冷たい底に沈む気がして。
無我夢中で貪るのをやめられない。
発作の最中の自分は、ひどく獣じみているとレギュラスは思う。
綺麗だとか。
美しいだとか。
そういう言葉を言ってやる余裕なんてない。
痛くないかの確認だって、していない。
多分、痛いだろうと思う。
こちらにだって摩擦を感じるくらいなのだから。あんなふうに必死に縋りついて、乱れて、余裕をなくしていれば、彼女の方が平気なはずがない。
それでも、その瞬間は止まれない。
止まったら沈む。
離したら落ちる。
そんな錯覚に支配されて、レギュラスはアランにしがみつき、ほとんど貪るように求めてしまう。
終わったあと、最初に来るのは安堵ではなかった。
罪悪感だった。
呼吸はまだ乱れている。
心臓も落ち着いていない。
なのに頭だけが少しずつ冷えてきて、自分がどんなふうに彼女を抱いたのかを理解し始める。
最低だ、と思う。
普段あれほど気をつけようとしていることを、発作の夜には簡単に壊してしまう。彼女を安心させる側ではなく、自分の不安を鎮めるために彼女を使ってしまっている。
「……すみません」
掠れた声で、レギュラスはそう言った。
「アラン」
抱きしめて、口づける。
こんなんじゃ何の詫びにもならないのに。
それでも何かせずにはいられなくて、額やこめかみに唇を寄せる。腕の中へ抱き込み直す。ひどく遅すぎる埋め合わせだと、自分でもわかっていた。
アランは少し息を整えながら、けれど逃げなかった。
彼の肩に手を置き、そのままゆっくり背中を撫でる。
まるで逆だ、とレギュラスは思う。
宥められるべきなのは彼女の方のはずなのに。
「大丈夫です、レギュラス」
アランは静かにそう言った。
「ここは湖じゃありませんからね」
その一言が、胸の奥へ深く落ちる。
湖じゃない。
冷たい底でもない。
亡者の手もない。
沈んでいく場所ではない。
彼女は、そうやってまた自分を地上へ引き戻そうとする。
きっと痛みもあるだろうに。
戸惑いだってあるはずなのに。
それでも責めるより先に、宥める方へ回ろうとするアランが、どうしようもなく愛おしかった。
レギュラスは目を閉じた。
情けなさと、救われるような気持ちがいっぺんに押し寄せてきて、胸の奥が詰まる。
「……あなたは、いつもそうですね」
ようやく絞り出すように言うと、アランは少しだけ首を傾げた。
「そう、って?」
「僕を責めない」
アランはしばらく黙っていた。
それから、背中を撫でる手を止めずに、小さく答える。
「責めたいわけじゃないからです」
あまりにもまっすぐで、レギュラスは返す言葉を失った。
責めたいわけじゃない。
ただそれだけで、自分の乱れた夜を受け止めてしまう。
普通なら、もっと怒っていい。
呆れてもいい。
せめて少し距離を取ってもいい。
けれどアランはそうしない。
それがありがたくて、申し訳なくて、苦しい。
「痛かったでしょう」
レギュラスは低く言った。
確認というより、ほとんど懺悔だった。
アランは少しだけ眉を寄せたが、否定もしなかった。
その沈黙の方が、余計に胸に刺さる。
「……少し」
やがて正直にそう言う。
レギュラスは思わず顔を歪めた。
やはりそうなのだ。
わかっていた。
わかっていたのに、あの時の自分は止まれなかった。
「でも」
と、アランが続ける。
「あなたが必死だったのも、わかりました」
その言い方に、レギュラスは目を開けた。
翡翠の瞳が、すぐ近くにある。
責める色はない。
ただ少し心配そうに、少し切なそうに、彼を見ているだけだ。
「沈みそうだったんでしょう?」
その問いは、的確すぎて痛かった。
沈みそうだった。
まさに、その通りだった。
レギュラスは声を失ったまま、わずかに頷いた。
その頷きだけで、アランはもう充分だったらしい。
「じゃあ、次は先に言ってください」
「……何をです?」
「今、怖い、とか」
「沈みそう、とか」
レギュラスは苦く笑いそうになった。
「そんなこと、言える余裕があれば苦労しません」
「じゃあ、合図でもいいです」
アランは真面目に言う。
「手を握るとか、名前を呼ぶとか」
「そうしたら、少し落ち着いてからにしましょう」
少し落ち着いてから。
そんな提案をされると思っていなかった。
拒むでもなく、ただ次はどうすれば傷つけずに済むかを考えている。
どこまで行っても、彼女はそうなのだ。
レギュラスはこめかみを押さえるみたいに、アランの肩口へ額を預けた。
「……あなたは、本当に」
その先が続かない。
優しい、では足りない気がする。
強い、でも違う。
もっと別の、どうしようもなく自分を甘やかし、救ってしまう存在だ。
アランはそんな彼の髪にそっと触れた。
今度は背中ではなく、後頭部から首筋へ指を流す。子どもを宥めるみたいで、レギュラスは少しだけ自嘲したくなる。
だが、嫌ではない。
むしろその手つきが、まだ残る冷たさを溶かしていく。
「今日はもう、眠れそうですか」
アランが小さく聞く。
レギュラスは少し考えてから、正直に答えた。
「……あなたがいれば」
アランはまた、やわらかく息をついた。
「いますよ」
当然みたいにそう言う。
「だから、今度はゆっくり寝ましょう」
レギュラスは彼女を抱く腕の力を少しだけ緩めた。
さっきまでの必死さとは違う、静かな抱き方に戻していく。
こんな夜のたび、彼女に甘えてばかりでいいのだろうかと、何度も思う。
けれどアランは、そのたびこちらを突き放さない。
痛みも戸惑いもあるだろうに。
それでもまた、側にいてくれる。
そのことが、どうしようもなく胸に沁みた。
「アラン」
「はい」
「次は……ちゃんとします」
何をちゃんとなのか、自分でも曖昧だった。
もっと優しくかもしれないし、
もっと先に言葉をかけることかもしれないし、
発作に呑まれる前に止まることかもしれない。
それでも、そう言いたかった。
アランは少しだけ微笑んだ。
「次があるなら、その時にまた考えましょう」
その返しが彼女らしくて、レギュラスはようやく少しだけ息を抜いた。
今夜の自分は、きっと褒められたものじゃない。
それでも彼女は、終わったあともこうして腕の中にいる。
それだけで、十分すぎるほど救われていた。
姿くらましができるところまで、身体はようやく完全に回復していた。
あの湖から生還して。
アランの家で何か月もかけて立ち直って。
ようやく、魔法で移動するだけの精度と魔力が戻った。
ならば、行かなければならない。
分霊箱を破壊しろと命じたロケットは、あれからどうなったのか。
確認していない。
一年が経とうとしている。
遅すぎると、自分でも思う。
けれど、生き延びたからには。
生かされてしまったからには。
まだやらなければならないことがある。
アランとのこれから先の生活を守るにしても、まず一度、グリンゴッツには寄らなければならなかった。金がいる。名を捨てて生きていくにしても、現実は金なしではどうにもならない。そして何より、クリーチャーにも自分の無事を伝えたかった。
あの命令が、どうなったのか。
あの夜、自分が本当に死んだと思ったまま、あの家の中で一年を過ごしたのだとしたら。
そう思うと、足が自然と屋敷へ向いていた。
両親については、正直わからない。
あの方を裏切って姿を消したという噂は、当然回っていることだろう。
母は怒鳴り散らかすだろうか。
父は静かに失望しているだろうか。
もしかしたら、どちらももう自分のことなど息子とは思っていないかもしれない。
だが、それでも止まらなかった。
黒い外套の裾を整え、姿くらましを解いた先で、レギュラスは久々にブラック家の屋敷を見上げた。
大きい、と思った。
わかっていたはずなのに、久しぶりに見ると規格そのものが違っていた。アランと一年近くを過ごした小さな家と比べるまでもなく、これは人が暮らすための建物ではなく、家そのものが血筋と権力を見せつけるために立っているみたいだった。
正面扉の前に立つだけで、少し萎縮しそうになる。
昔は当たり前だったものが、今は少し遠い。
静かに扉を開ける。
屋敷の空気は、変わっていなかった。磨かれた床、重いカーテン、古い魔法の匂い。どれもが記憶の通りで、そのせいで逆に一年の不在が夢みたいに感じられる。
足音を忍ばせながら、自分の部屋へ向かった。
一年ぶりの、自分の部屋。
扉を閉めた瞬間、レギュラスは思わず部屋の中央で立ち尽くした。
寝台が広すぎた。
笑ってしまいそうなほどだった。
いまは毎日、アランと二人で小さなベッドで何不自由なく寝ている。夜中に腕が触れて、足がぶつかって、寝返りのたびに互いの気配があることが当たり前になっている。
それに比べてこの寝台は、馬鹿みたいに大きかった。
一人で眠るための広さではない。
広いくせに、どこか空っぽだった。
レギュラスは小さく息を吐いて、クローゼットを開けた。
上質なコートを一着。
ローブを一着。
どちらも目立たず、それでいて品だけは落ちないものを選ぶ。
それから奥にしまってあった予備の杖を取り出した。
手の中に収まる感触は少しだけ懐かしい。完全に馴染むわけではないが、使えないほどでもない。杖がなければ、グリンゴッツから金は下ろせない。
必要なものだけを手早く確保する。
長居はするつもりがなかった。
「……クリーチャー」
小さく呼ぶ。
その声に応じる気配は、すぐに現れた。
ぱちん、と音がして、クリーチャーが姿を見せる。
その姿を見た瞬間、レギュラスは胸の奥でひどく安堵した。
元気だ。
やせ衰えてもいない。
老いたようには見えても、それは元からだ。少なくとも、自分が消えたせいで壊れてしまったような気配はなかった。
「坊っちゃま……!」
クリーチャーの声が震える。
大きな目が、信じられないものを見るように見開かれていた。
「生きて……いらっしゃったのですね……!」
レギュラスは短く頷いた。
「ええ。遅くなりました」
それだけ言うのがやっとだった。
本当はもっと、詫びるべきなのかもしれない。だが今は時間が惜しいし、下手に感情を広げると自分の方が立ち止まってしまいそうだった。
クリーチャーはしばらく震えていたが、やがて何かを思い出したように、慌てて胸元をごそごそと探る。
そして、布に包んだものを両手で差し出した。
「坊っちゃまのご命令の品です」
「クリーチャーは、何度も、何度も試しましたが……破壊できませんでした」
レギュラスはそれを受け取る。
重みが、掌に沈む。
ロケットだった。
見間違えようがない。
あの忌まわしい金属の感触を、一年ぶりに指先で確かめる。冷たく、どこか嫌な気配をまとったまま、まだ存在していた。
破壊できなかったのだ。
当然かもしれない。
家しもべ妖精に壊せる類のものではなかったのだろう。
それでも、ここまで守り通していたのかと思うと、レギュラスは無意識にロケットを握りしめていた。
「そう」
声は意外なほど静かだった。
「じゃあ、これは僕が持って行きます」
「必ず破壊します」
クリーチャーは頭を深く垂れる。
その背中に、レギュラスは一年分の時間を見た気がした。
「あなたはここで、役目をまっとうしてください」
クリーチャーが顔を上げる。
大きな目に、涙が浮かんでいた。
「坊っちゃま……」
「クリーチャーは、お役に立てましたでしょうか」
その問いに、レギュラスは一瞬だけ言葉を失った。
そして、今度ははっきりと頷く。
「ええ」
「十分すぎるほどに」
クリーチャーはその言葉だけで、また深く頭を下げた。
屋敷にいたのは、ほんの数分だった。
父にも母にも会わなかった。
会おうと思えば、探せばどこかにはいたのかもしれない。けれど探さなかった。足も向かなかった。
よかったのかもしれない、とレギュラスは思う。
今はまだ、会わない方がいい気がした。
母の怒声を聞けば、揺らぐかもしれない。
父の静かな眼差しを見れば、足が止まるかもしれない。
今の自分には、まだそのどちらにも耐えられない。
だから会わなかった。
必要なものだけを持って、必要な人にだけ会って、屋敷を出る。
廊下を戻る途中で、一度だけ振り返る。
黒く重たい屋敷は、相変わらずそこにあった。自分が一年いなくても、何ひとつ揺るがず、当然のように存在している。
その確かさが、少しだけ寂しかった。
だが今の自分には、帰る場所がもうひとつある。
小さくて。
狭くて。
薬草の匂いがして。
夜になるとアランが隣にいる、あの家。
あそこへ戻るためにも、このロケットは壊さなければならない。
レギュラスは外套の内側へロケットをしまい込み、予備の杖の感触を確かめた。
そして、誰にも見つからないうちに、再び姿くらましの魔法を編み上げた。
これまで、かなりの金を使わせた自覚がある。
ひとつひとつの薬が、具体的にどれほど高価なのかまではわからない。
けれど、それでも。
若い一人暮らしをしている魔女が。
魔法薬を売って生計を立てている魔女が。
成人の男を何か月も養うほどの余裕を、最初からずっと持っていたとは思えなかった。
思いたくなかった、という方が正しいのかもしれない。
だからこそ、レギュラスは埋め合わせたかった。
これまでのことも含めて。
かかったであろう薬代も、食費も、寝床も、時間も、手間も。
金で埋められるものなら、まずそれを埋めておきたかった。
金で埋められないものがあることもわかっている。
けれど、埋められる部分を放置したままで、他のことだけ大層に語るのは性に合わなかった。
杖は持ってきた。
グリンゴッツにも寄った。
これからはいくらでも下ろせる。
そう思えば、遠慮する理由がなかった。
市場へ向かう道すがら、レギュラスは何気ない顔で言った。
「アラン、必要なものがあれば何でも言ってください」
するとアランは、籠を抱えたまま不思議そうに振り向いた。
「そんなにありませんよ」
その返しに、レギュラスは軽く眉を寄せる。
そんなふうに言われても、こちら側が落ち着かない。
必要かどうかを決めるのは、たぶん今のアランでは甘すぎる。自分一人で暮らしていた感覚のまま、最低限のことしか望まない。少し良い布巾も、保存の利く食材も、棚の補修に使えそうな金具も、全部なくても困らないの分類に入れてしまいそうだった。
だからレギュラスは、アランが選ぶものをとりあえず全部買い揃えることにした。
根菜を手に取れば、それも。
少し迷って戻そうとした香草も、それも。
瓶入りの蜂蜜、乾燥果実、保存肉、目を止めただけの紅茶葉まで、まとめて買う。
アランは途中から完全に困惑していた。
「何をそんなに買っているんですか」
「必要でしょう?」
「必要の基準がおかしいです」
言いながらも、アランは止めきれない顔をしている。
レギュラスはそれに構わず、今度は市場の端で売られていた少し厚手の毛布に目を向けた。
「これも要りますね」
「要りません」
「毛布はあります」
「薄いでしょう」
「冬はもう終わります」
「次の冬に使えます」
アランはとうとう立ち止まって、籠を抱え直しながらレギュラスを見上げた。
「どうしてそんなにお金があるんです」
問いはまっすぐだった。
だが詰問ではない。ただ純粋な疑問として聞いている。
レギュラスは少しだけ肩を竦める。
「グリンゴッツに寄ってきたんですよ」
アランは一瞬、真顔になった。
それから唐突に、
「強盗でもしましたか?」
と言った。
レギュラスは思わず目を瞬いたあと、吹き出しそうになった。
「まさか」
「グリンゴッツですよ?」
「だって、そんなに簡単にぽんぽん使うから……」
「だからこそ、強盗ではないです」
「そんな面倒なことをするくらいなら、最初から自分の金を下ろします」
アランはまだ少し疑わしそうにしていたが、やがて諦めたように小さく息をついた。
「……それ以上、深くは聞きませんけど」
その言い方に、レギュラスは一瞬だけ視線を落とした。
踏み込まないままだった。
今もまだ、アランには自分の姓を告げていない。
レギュラス、という名だけで、彼女はここまで一緒に暮らしている。
出自も、家も、何を捨ててここへ流れてきたのかも、詳しくは聞かないまま。
ありがたいのと、申し訳ないのとで、胸の内が少し混ざる。
アランのそういうところに、何度救われてきただろう。
けれど同時に、その信頼に甘えている自覚もある。
「……その顔、また変なこと考えてますね」
ふいに言われて、レギュラスは顔を上げた。
アランがじっと見ている。
翡翠の瞳は、こういう時だけ妙に鋭い。
「変なこととは?」
「言わないくせに、一人で申し訳なくなってる顔です」
図星で、レギュラスは少しだけ笑った。
「よく見てますね」
「見てます」
あっさり言い切られる。
その返しがうれしくて、同時に逃げ場がなくて、レギュラスは軽く息を吐いた。
「……借りを作ったままなのが落ち着かないだけです」
「借り、ですか」
「ええ」
「あなたは平気そうですけど、僕は平気じゃないので」
アランは少し考えるように視線を揺らした。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「じゃあ、全部返そうとしなくていいです」
「少しずつで」
「それは無理ですね」
「即答ですか」
「無理です」
「少しずつなんて、生ぬるいことをしていたら気が済まない」
アランはとうとう肩を揺らして笑った。
「レギュラスって、変なところで不器用ですよね」
「変なところ?」
「こういうところです」
「たぶん、すごく器用そうなのに」
その言葉に、レギュラスは返事をしなかった。
代わりに、彼女がさっき迷っていた紅茶葉の包みをもうひとつ手に取る。
「これは二つ買っておきましょう」
「話を逸らさないでください」
「逸らしていません」
「必要なものを買っているだけです」
「紅茶葉が二つ必要ですか?」
「ええ」
「僕も飲みますから」
そう言うと、アランは少しだけ黙った。
その沈黙の意味がわかって、レギュラスはわざと何でもない顔をした。
僕も飲みます。
それはつまり、ここでこれからも飲むつもりだということだ。
アランは気づいたのだろう。
けれどそのことをいちいち大仰にしないで、ただ小さく頷いた。
「……じゃあ、二つでいいです」
レギュラスはそれだけで満足して、包みを店主に渡した。
市場を歩くあいだじゅう、荷物はどんどん増えていった。
布袋の重みが腕にかかる。
それでも嫌ではない。むしろ少し心地いいくらいだった。自分のためではなく、この先の生活のために金を使っている実感がある。
小さな家に戻れば、きっとアランは困りながら棚へしまうのだろう。
「買いすぎです」と何度も言いながら、それでも使うものを分けて、保存するものを選って、最後には全部きちんと収めてしまうはずだ。
そんなところまで想像して、レギュラスは少しだけ口元を和らげた。
「何を笑ってるんですか」
「いえ」
「絶対何か考えてる顔です」
「あなたが困る顔が目に浮かんだだけです」
「やっぱり困らせるつもりで買ってるじゃないですか」
「違います」
「結果として困るだけです」
アランは呆れたように見上げて、それからまた笑った。
その笑顔を見て、レギュラスはふと思う。
こうして金を使うのは簡単だ。
埋め合わせとしては、手っ取り早い。
けれど本当に返したいものは、たぶんもっと別のところにある。
眠れない夜に側にいてくれたこと。
吐いても、震えても、嫌な顔をしなかったこと。
そして今も、踏み込みすぎずに隣を歩いてくれていること。
それら全部に比べれば、今日の買い物など、ほんの入口にすぎない。
それでも入口は入口として、大事にしておきたかった。
「アラン」
「はい?」
「今日はまだ終わりませんからね」
「何がですか」
「買い物です」
アランは目を見開いた。
「まだ買うんですか?」
「もちろん」
「もう十分です!」
「十分かどうかは、まだ僕が判断します」
「そんな横暴あります?」
「あります」
「今日からです」
抗議する声を聞きながらも、レギュラスは次の店へ足を向けた。
ありがたいのと、申し訳ないのと。
埋め合わせたいのと、ただ彼女に与えたいのと。
その全部がごちゃごちゃに混ざったまま、
レギュラスは市場の喧騒の中で、アランのための荷物を増やし続けた。
