1章
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アランを抱きたい。
その欲求は、もうごまかしようがないところまで膨らんでいた。
薄くて小さな唇に、何度となく口付けたいという衝動が込み上げる。
けれどたぶん、それだけで終わるはずもなかった。
だからレギュラスは決めていた。
口付けるのは、その先の行為の了承が、完全に彼女の反応から受け取れた後にしようと。
立派にそんなことを決めていた。
なのに、アランはその反応を返さない。
びっくりするほど返さない。
レギュラス・ブラックの人生において、女に断られるなんてことは一度もなかった。
明確に言葉を交わさずとも、少し距離を詰めればわかるものだった。視線の揺れ方、息のつき方、肩の傾け方。そういうもので了承は十分に伝わってきたし、自分もそれを見極めることには慣れているつもりだった。
だからきっと。
アランも、自分が押せばそのまますぐに受け入れてくれるだろうとは、自惚れでなく思ってしまう。
そういう人生を歩んできたからだ。
だが、伝わらない。
もしかしてこれは緩やかな拒絶なのかとさえ思ってしまうほど、アランには伝わらない。
ある夜、試しにわざと彼女の頬に触れてみた。
眠る前、いつものように近くにいるアランが、穏やかな顔でこちらを見ていた。レギュラスはその頬へそっと指先をやる。やわらかい。思っていたよりもずっと繊細で、触れた瞬間に自分の方が息を止めそうになる。
「綺麗な目をしてますね」
そう言った。
本当にそう思う。
珍しい翡翠の宝石が、そのまま瞳に埋め込まれているみたいな色だった。ずっと見ていられるような綺麗さだ。
こうやって女の頬に触れて、綺麗だと、美しいと伝えるのは、もはや行為の前に当たり前に行う儀式のようなものだと、レギュラスは学んできた。
だがアランは、ほんの少し目を丸くしたあと、にこりと笑ってこう言った。
「母譲りなんです」
レギュラスは一瞬だけ黙る。
「母の母も同じ色で、親子三代ずっと同じ色なんですよ」
まさかの詳しい説明が返ってきた。
そして、母親の話をされる。
レギュラスは内心で静かに敗北した。
さあ誘おうとした瞬間に両親の話をされると、どうしてもその気配を持ちこたえられない。その日の夜は、それで終わった。
別の日。
今度は少しだけ長く、アランの顔を見つめていた。
これも、昔はよくやっていた。
言葉より先に視線で熱を伝える。唇に落ちる前の静かな間合い。その沈黙だけで、大抵の女は口付けをねだってきたものだった。
だからアランにも、それくらいは伝わると思った。
思ったのに。
「どうしました?」
アランが真顔で聞いてくる。
「どこか痛むんですか?」
なんだか変な方向に心配をさせてしまった。
レギュラスは一度目を閉じた。
痛むのは別の意味で自分の頭だと答えたくなる。もちろん言わない。
「……いえ」
「なんでもありません」
「本当ですか?」
「我慢はだめですよ」
そこまで心配されると、もう完全に違う。
これも駄目だった。
また別の日。
今度こそと思って、アランを引き寄せた。
抱きつくというより、ちゃんと抱き寄せた。
自分の方へ。
いつもの、沈み込まないようにしがみつく抱き方ではない。男女の抱擁であると伝わるはずの温度感で、たしかにそうしたつもりだった。
腕の中へ閉じ込める。
近くなる体温。
細い体がすっぽり収まる感覚に、レギュラスの胸はどくりと打った。
このあと瞳を見て、彼女の目に了承の証が宿っていれば口付ける。
そういう算段だった。
なのに。
これも伝わらなかった。
アランは腕の中で少し姿勢を整えると、むしろ安心したみたいに体を預けてきて、穏やかにこう言った。
「心音がいい感じです」
レギュラスは固まる。
「今みたいな時に目を瞑ると、ゆっくり眠りに落ちていきやすいですよ」
こちらは眠りに落ちたいのではない。
抱きたいのだ。
口付けたいのだ。
明確な了承のサインを、この女から引き出したいのだ。
なのに彼女は、抱擁を完全に“安眠補助”として処理している。
レギュラスは暗い天井を見上げたくなった。
全部うまくいかない。
自分がこれまで使ってきたものが、何ひとつ通用しない。
頬に触れても、褒めても、見つめても、抱き寄せても、全部アランの中で別の意味に着地する。
それも拒絶ではない。嫌がっているわけでも、避けているわけでもない。ただ本当に、そういう方向へ受け取っていないだけなのだ。
それがいっそ、ひどく難しかった。
拒絶ならまだわかる。
諦めることも、距離を置くこともできる。
だがアランは拒まない。
ただ、わからないのだ。
レギュラスは本気で、どうしたらいいのかわからなくなってきた。
「レギュラス?」
腕の中のアランが、少しだけ顔を上げる。
「眠れそうですか?」
違う。
そうじゃない。
だが、そうじゃないのだとどう言えばいいのかがわからない。
抱かせてほしいなどという品のない言葉は、やはり絶対に口にしたくなかった。そこまで落ちたくないという意地がまだある。いや、落ちるという表現も違うのかもしれないが、それでもアランに対してそんな言い方をするのは嫌だった。
せめて、彼女から。
せめて、何かひとつ。
その手の言葉でなくても、眼差しでも、息づかいでも、触れ方でも。
自分を望んでいるのだとわかる合図がほしかった。
なのに、何も来ない。
「……あまり」
レギュラスは苦し紛れにそう答えた。
アランは真剣に頷いて、彼の胸元へさらに身を寄せる。
「じゃあ、もう少しこうしていましょう」
「今日は落ち着くまで離れませんから」
やさしい。
ひたすらにやさしい。
そのやさしさが、今は少しだけ酷だった。
離れませんから、ではない。
そういう意味ではなく、もっと別の、熱を帯びた言葉がほしい。
このまま口付けてもいいのだと、そう思わせるものがひとつでもあればいいのに。
レギュラスは、腕の中のアランを見下ろした。
黒い髪。
翡翠の瞳。
薄い唇。
近い。
近すぎる。
少し顔を寄せれば触れてしまう距離にあるのに、それでも触れられない。
今ここで口付けてしまえば、彼女はきっと驚く。それが嫌だった。驚かせたいのではない。受け入れてほしいのだ。
その違いが、今のレギュラスにはやけに大きかった。
昔の自分なら、こんなところで立ち止まらなかったかもしれない。
流れを作り、そのまま押し切っただろう。
けれどアランには、それをしたくない。
だから余計に苦しい。
「アラン」
低く呼ぶと、彼女はすぐに見上げてきた。
「はい?」
この“はい?”がいけないのだとレギュラスは思う。
何も疑っていない。
何も警戒していない。
ただまっすぐ返事をするその顔に、こちらの欲の熱だけが浮いて見える。
「……いえ」
また、それしか言えない。
アランは少し不思議そうにしながらも、やがて彼の胸に頬を寄せた。
規則正しい呼吸が、少しずつ眠る方へ傾いていく。
こちらは眠る気などないのに。
むしろ逆なのに。
レギュラスは、静かに息を吐いた。
こうして色々試してみるたび、自分がどれだけこの女に弱いか思い知らされる。
口付けひとつ満足に迫れない。
欲していることをそれとなく伝えることすら、全部空振る。
それでも。
腕の中のぬくもりを手放す気にはなれなかった。
伝わらなくても、今夜もこうして抱き寄せているしかない。
明日はもう少し、うまくやれるだろうかと。
いや、たぶんまた駄目なのだろうと。
そんなことを考えながら、レギュラスは薄暗い天井を見つめていた。
薬草を束ねたり、幹を削ったり、葉をすりつぶしたりしているアランの横顔が、レギュラスは好きだった。
真剣だった。
翡翠の瞳は手元に落ち、細い指先は迷いなく動く。小瓶の並ぶ棚、乾いた葉の匂い、石皿を擦る小さな音。その中心にいるアランは、夜に自分を抱きとめてくれる時とはまた違う顔をしていた。静かで、集中していて、少しだけ遠い。
少しだけ触れたかった。
いつもそう思っていた。
けれど夜眠る前のあの触れ合いなら、沈み込まないために必要だという明確な理由があった。安定剤のようなものとして、彼女に触れることを許されている。
だが昼間、こうして陽の高い時間帯に、真剣に作業をしているアランに触れる理由は、正直どこにもない。
それが許されるのは、ちゃんと彼女と恋人としての関係を持った人間だけだ。
そう思うと、余計に触れたくなるのだから始末が悪い。
レギュラスは彼女のそばへ寄って、しゃがみ込んだ。
アランがちらりとこちらを見る。
ふわりと笑って、それからすぐまた手元に意識を戻す。
その短さが、妙に寂しかった。
レギュラスは思わず、アランの腕を少しだけ引いた。
作業を止めさせるくらいの、ほんのわずかな強さで。
「どうしました?」
アランが不思議そうに言う。
「休憩しません?」
「ずっとしてるでしょう?」
なんでもよかった。
別に休憩じゃなくても。
少し向かい合って話せるだけでもよかった。
その口実が欲しかっただけだ。
アランは小さく笑った。
「もう少しだけやってから休憩しますね」
やっぱり伝わらない。
子どもじみたため息が出そうになる。
レギュラスは少しだけ肩を落とした、その時だった。
肘が、小瓶のひとつに当たった。
からり、と危うい音がして、中の粉がこぼれる。
「待って、触っちゃだめです」
アランがすぐに身を乗り出してきた。
「手が痒くなります」
慌てた拍子だった。
彼女は身を乗り出しすぎて、体勢を崩した。
次の瞬間、アランの身体が覆いかぶさるような形で、レギュラスの上に落ちてきた。
二人とも、ぴたりと止まる。
床に散った薬草の匂い。
近すぎる距離。
翡翠の瞳が、まんまるになっていた。
アランはきっと、そういうつもりではなかったのだろう。
それはよくわかった。戸惑いが、その顔にそのまま出ていたからだ。
けれど。
その戸惑いの奥に、拒絶ではない揺らぎがあった。
離れようとしていない。
息を止めたまま、ただこちらを見ている。
その視線の中に、これから先を完全に否定しない柔らかさが、たしかにあった。
レギュラスはその一瞬を逃さなかった。
ずっと待っていた。
ずっと求めていた。
ようやく見つけた、その小さな了承の証を。
だから、口付けた。
最初は、試すみたいに静かに。
触れるだけの口付けだった。
アランの睫毛が震える。
けれど拒まれない。
レギュラスはゆっくりと角度を変えて、もう一度口付けた。
今度は少し深く、確かめるように。
アランの手が、迷うみたいに彼の肩に触れる。
押し返すのではなく、すがるようでもない。
ただ、受け止めようとする手だった。
それがたまらなく愛おしくて、レギュラスはさらに彼女を引き寄せた。
唇が重なるたび、アランの戸惑いは少しずつ熱に変わっていく。
羞恥と、ためらいと、それでも確かにこちらを受け入れようとする気配。
その全部が唇の震えに滲んでいた。
ほんの一瞬の瞳の揺らぎの中に、了承の証を見出せた自分を褒め称えたいくらいだった。
ホグワーツ時代の経験がなければ。
見逃していたかもしれない。
レギュラスはアランの頬に手を添え、もう一度、今度は少し長く口付けた。
散らばった薬草も、小瓶も、途中で止められた作業も、何もかもどうでもよくなっていた。
結局、あれほど待ち望んだものは、カーペットの上で訪れた。
人生で初めてだった。
床でだなんて。
女性に対してあまりにも失礼すぎる。
けれど、その時のレギュラスにはやめるという選択肢がなかった。
生にしがみつくことしかできなかった自分が。
今は、生きた上で、自分の意思で、彼女の中の“女”である部分を求めている。
それは、限りなく人間らしい、原始的な行為だった。
アランの細い腕が、やがてためらいながら彼の背に回る。
その小さな応えだけで、胸の奥が満たされていく。
求められているのではなく。
求めて、受け入れられている。
その事実が、レギュラスにはどうしようもなく深く沁みた。
どれほど壊れても。
どれほど無様でも。
それでもなお、自分はこうして誰かを欲し、誰かに受け入れられる。
そのことに、ひどく静かな感動があった。
やがて額を寄せたまま、レギュラスは小さく息を吐いた。
こんな場所で、こんなふうに始まってしまったことへの苦笑と。
それでも止められなかった満足と。
それ以上に、アラン・セシールという女をどうしようもなく愛おしく思う気持ちが、胸の奥で混ざり合っていた。
散らばった薬草の匂いの中で、アランはまだ少し赤い顔のまま、近すぎる距離でこちらを見上げていた。
その顔を見た瞬間、レギュラスはようやく思った。
助かったのだ。
湖からだけではなく。
もっとずっと深いところから、自分はこの女に引き上げられていたのだと。
恥ずかしくて、レギュラスの顔が見られなかった。
だからアランは、床に散らばった薬草粉を片付けることに集中した。
あのあと、ほとんど逃げるみたいにすぐ起き上がって、服を整えた。手が少し震えていた気がする。息もまだ変だった。胸の奥がどきどきしすぎていて、まともに立っているのもおかしいくらいだったのに、とにかく何かしていないと駄目だった。
別に目が悪いわけでもない。
けれどアランは、棚の上から大きな眼鏡を取ってかけた。
ホグワーツ時代によく使っていたものだ。元々は魔法薬調合のときの防塵眼鏡だったけれど、顔の大半が隠れるから、どうしようもなく恥ずかしくて人の顔を見られない時にも便利だった。
今こそ、まさにその時だった。
眼鏡をかけると少しだけ息がしやすくなる。
守られている気がする。
アランはしゃがみ込み、こぼれた粉を丁寧に集め始めた。散らばった葉も、倒れた小瓶も、いちいち整え直す。そうしていれば、自分が何をしたのかを考えなくて済む気がした。
「アラン」
背後から声がする。
低くて、いつも通りきれいな声。
それだけでまた心臓が跳ねそうになる。
「ひどくないですか」
レギュラスが言った。
「そんなに逃げるようにしなくても」
アランの指先が止まる。
「そんなんじゃないです」
慌てて言い返した。
けれど、自分でも声が変だとわかる。落ち着いているふりをしているのに、全然落ち着いていない。
「別に……あなたも。風邪をひきます」
“あなたも”。
名前すらまともに呼べなくて、そんな話し方になるのが自分でおかしくて、余計に恥ずかしかった。
レギュラスが少しだけ黙る気配がする。
それから、くすりと笑うような息が落ちた。
「こういう時の後って、ゆっくりまったりするものなんじゃないんです?」
アランは固まった。
「そそくさと腕の中から抜けてくれましたね」
その言い方に、何も言えなくなる。
本当に、そういう行為が久しぶりすぎて、いたたまらなくてそうしただけなのだ。
どうしていいかわからなかった。
近すぎたし、心臓はうるさいし、顔なんて見たらもう駄目になりそうだったから、逃げるみたいに服を着て、眼鏡まで持ち出しただけだ。
そういうのと、同じにしないでほしい。
アランは小さく息を吸った。
かつて自分も、学生時代、夢中になってしまった男がいた。
その男もそうだった。
終わればそそくさと部屋を出ていった。
次の瞬間には別の女の隣で笑っているような人だった。
すごく惨めだった。
悲しかった。
置いていかれるたび、自分だけが余計なものを抱え込んでいるみたいで、ひどくみじめだった。
それでも離れられなかった、あの頃の自分を思い出すと、今でも胸が少し痛む。
だからアランは決めていたのだ。
ああいうふうに、行為のあと女を置いて部屋を出ていくような男とは、二度と関係を持たないと。
なのに今。
レギュラスはまったくその場から動かない。
それどころか、こちらの反応を気にして、冗談めかして声をかけてくる。
逃げたのは自分の方なのに、彼はずっとそこにいる。
かつての少女が欲しがった行動が、目の前にあった。
そのことが、アランの中では恥ずかしさを超えて、感動的だった。
なんだか胸の奥がきゅうと詰まる。
泣きたいわけではないのに、少しだけ泣きそうになる。
「……違うんです」
アランは背を向けたまま、小さく言った。
「逃げたかったわけじゃなくて」
それだけ言うのも精一杯だった。
レギュラスの気配が少し近づく。
けれど、無理にこちらを向かせたりはしなかった。
「じゃあ、何です?」
その声は、責めるものではなく、ただ聞こうとしてくれている声だった。
アランは眼鏡の奥でぎゅっと目を閉じた。
「……恥ずかしかったんです」
ようやく、そう言った。
「すごく」
「どうしたらいいかわからなくて」
言ってしまうと、もう隠しようがなかった。
耳まで熱くなる。
床の上の薬草粉がやたら鮮明に見える。
しばらく沈黙があった。
笑われるかもしれないと、少しだけ身構える。
けれど返ってきたのは、予想していたものと違った。
「それは、僕も同じでしたよ」
アランは思わず振り向いた。
眼鏡越しに見たレギュラスは、少しだけ困ったように笑っていた。
あの整った顔でそんなふうに言われると、現実感がなくて余計に心臓に悪い。
「……嘘です」
「嘘じゃありません」
レギュラスはカーペットの上に片膝を立てたまま、まだ完全にはほどいていない服の襟元に手をやった。
「むしろ、今も少し恥ずかしいです」
「あなたがあんな眼鏡まで持ち出したので、結構傷ついてますし」
その言い方が少し拗ねたみたいで、アランは思わず笑いそうになった。
笑いそうになるのに、やっぱり恥ずかしい。
「だって……顔、見られないです」
「そんなにですか」
「そんなにです」
アランが真面目に答えると、レギュラスは小さく息を吐いた。
それから、少しだけ真顔になる。
「アラン」
名前を呼ばれる。
今度はちゃんと、逃げずにその声を受け止めた。
「僕はどこにも行きませんよ」
その一言に、胸の奥が大きく揺れた。
アランは何も言えなかった。
言えない代わりに、眼鏡の向こうでじっと彼を見つめる。
「だから、そんなに慌てなくていいです」
「片付けも、後で一緒にやればいい」
あまりにも静かに、当たり前みたいにそう言う。
それがたまらなかった。
かつて欲しかったものを、こんなふうに何気なく差し出されるなんて思わなかった。
置いていかれないこと。
ちゃんとその場にいてくれること。
終わったあとも、同じ温度でこちらを見てくれること。
そんな簡単なことが、昔はひどく難しかった。
アランはゆっくり立ち上がった。
まだ眼鏡はかけたままだったけれど、今度は逃げるためではなく、ただ少し心を落ち着けるために。
「……本当に、行かないんですか」
自分でも子どもみたいな確認だと思う。
けれど聞かずにはいられなかった。
レギュラスは少しだけ目を細めた。
「ええ」
「行きません」
その言葉が、思っていたより深く胸に沁みた。
アランは唇をきゅっと結んで、それからようやく、ほんの少しだけ近づいた。
「じゃあ……」
「お茶でも淹れます」
結局そういうことを言ってしまう自分が、いかにもアランらしいとわかっていて、また恥ずかしくなる。
でもレギュラスは笑わなかった。
ただ、やわらかく笑った。
「いいですね」
その笑みを見て、アランは眼鏡の奥でそっと息をついた。
恥ずかしさはまだ消えない。
むしろしばらく消えないだろう。
けれど今、その恥ずかしさの奥には確かに、救われるような気持ちがあった。
あの湖に分霊箱を取りに行くと決めた前夜のことを、レギュラスは今でも覚えている。
昔よく遊ばせてもらっていた、という言い方が正しいのかどうかはわからない。
互いに深入りはしない。
名前の重みも、血筋の事情も、そこでは少しだけ薄れる。
気兼ねなく互いを利用し合えると思っている女の屋敷があった。
その夜、レギュラスはそこを訪ねた。
自分でも最低だとは思う。
けれど、その時は本気で、これから多分死ぬのだろうと覚悟していたのだ。
なら最後くらい、一番美しいと思っていた女の屋敷で過ごした夜のことくらい、当然許されると、どこかで思っていた。
誰に言いふらすつもりもない。
誰かを傷つけようとしたわけでもない。
ただ最後なのだ。
仕方がないだろう、と。
そうやって自分を納得させていた。
あの時も、それなりには満たされた。
女は大層、美しかったし。
香も、灯りも、シーツの感触も、何もかも洗練されていた。
自分の好みをよく知った女の、よく整えられた夜だった。
これでもう悔いはない、なんて。
あの時の自分は、たしかにそう思ったものだった。
だからこそ、今のこの満たされ方が信じられなかった。
死の淵から生還して。
体を持ち直して。
何度も伝わらないこちらの誘いが無意識に袖にされながら。
ようやくアランを抱いた今。
満たされ方は、あの時より深かった。
深すぎて、少し怖いほどだった。
何が違うのか、考えなくてもわかる。
あの夜の女は、美しかった。
けれど最初から最後まで、“そういう夜”として完成されていた。
何を望まれているのかも、どう返せば喜ばれるのかも、よく知っていた。
こちらも、それに応じるだけでよかった。
そこには安心もあったし、気楽さもあった。互いに深入りしないからこそ、最後の夜を預けるには都合がよかった。
だが、アランは違う。
まず、こちらの望みがちっとも伝わらなかった。
見つめても駄目で、
触れても駄目で、
抱き寄せても“安眠に良い”で済まされる。
レギュラス・ブラックの人生で、そんな女は初めてだった。
それなのにようやく手に入ったその瞬間、
彼女の反応の初々しさが、
レギュラスには新鮮すぎて、可愛くてたまらなかった。
思えば、自分の周りに寄ってきていた派手な女たちは、当然ながら他の貴族にも同じように寄って行っている。
それが悪いわけではない。
そういう世界なのだ。
そういう駆け引きの中で、自分もまたひとつの美しい選択肢として扱われてきた。
だから初々しさなんてものとは、無縁だった。
戸惑って、
恥じらって、
けれど拒まず、
受け入れようとしてくれる。
そのひとつひとつが、レギュラスにはどうしようもなく愛おしかった。
そして何より。
抱いたあとに、こんなにも愛おしく思えるなんて。
生まれて初めてだった。
かつての自分なら、満たされればそれで終わりだった。
夜は夜として閉じる。
そこに残るのは、せいぜい余韻か、気だるさか、少しの優越くらいのものだった。
なのに今は違う。
散らばった薬草。
少しずれた眼鏡。
顔を見られずに逃げるように片づけへ向かう背中。
それなのに自分が何も言わずその場にいたことで、あの翡翠の瞳が静かに揺れたこと。
その全部が、胸の奥に残っている。
最もみっともないところを見せたのは、たしかに自分だった。
立ち上がれなくて。
食べられなくて。
吐き戻して。
眠れなくて。
夜のたび縋って。
そんな姿を何度も見せた。
普通なら、欲を向ける前に恥じて離れるべきだったのかもしれない。
少なくとも、レギュラスが知っている世界ではそうだった。
弱さは隠すものだし、欲は美しく装って差し出すものだ。
けれどアランとのあいだでは、その順序が全部壊れていた。
最初にあったのは、無様さだった。
次にあったのは、介抱だった。
その果てに、ようやく触れ合いが来た。
だからなのだろうか。
自分のいちばん見せたくないものを知ったうえで、それでも受け止めてもらえたことが。
レギュラスには、何より深く響いていた。
アランは、自分が整った顔をしている時だけを見ていたわけじゃない。
まともに立てない時も、
震えている時も、
吐いてしまった時も、
眠れずに夜中何度も名前を呼ぶ時も。
全部知っている。
それでも彼女は、そばにいた。
それでも最後に、受け入れてくれた。
その事実が、過去のどんな華やかな夜よりも、ずっとレギュラスを満たしていた。
あの湖へ向かう前夜のことを思い出すたび、今の自分は少しだけ苦くなる。
あれも嘘ではなかった。
あの時の自分には必要な夜だったのだろう。
最後に、綺麗なものの中で終わりたかった。
欲を吐き出して、悔いなく沈みたかった。
けれど、本当に欲しかったものは違ったのだと、今ならわかる。
綺麗なだけの夜では足りなかった。
ただ満たされるだけでも足りなかった。
欲しかったのは、たぶん。
こんなふうに、行為のあとで相手を抱きしめたくなる夜だった。
どこにも行かないでほしいと思う夜だった。
逃げるように眼鏡をかけてしまうほど恥ずかしがる女を、
可愛いと、
愛おしいと、
どうしようもなく思ってしまう瞬間だった。
レギュラスは眠る支度をするアランの背中を見つめながら、静かに息を吐いた。
あの前夜、自分は“これで悔いはない”と思った。
だが本当は、何も知らなかったのだ。
悔いのない夜というのは、
終わりを飾るためのものではなくて、
終わったあとに相手の名を呼びたくなる瞬間のことを言うのだと。
そう思い知った今、
レギュラスはもう、過去のどの女を思い出しても、アランほど深く胸を掴まれることはなかった。
一度越えてしまえば、そのあとはもう簡単だと思っていた。
最初の一回だけが、いちばん高い壁なのだと。
そこさえ越えれば、もう互いに求めることは自然になるし、あとはいくらでも流れていくものだと。
今までだってそうだった。
そして、普通そういうものだろうとも思っていた。
なのに、アランとは二回目も普通に時間がかかった。
夜。
いつものように寝支度をして、同じ寝台に入る。
もうそれ自体はすっかり当たり前になっていた。アランの体温が近くにあって、眠る前に少し言葉を交わして、静かな部屋の中で互いの呼吸を聞いている。以前なら、そのまま腕を回して眠るだけだった。
けれど今夜、レギュラスが腕を引いたのは、夜を越えたかったからではない。
その温もりが欲しかったからだ。
アランの細い腕を、そっと自分の方へ引く。
彼女の身体が少しだけ強張るのがわかった。
「……お昼、しました……」
小さな声で、アランがそう言った。
レギュラスは思わず口元を緩めた。
「ええ、そうですね」
そう。
昼間に、たしかにした。
けれど、あんな床ではなくて。
ちゃんと寝台でしたかった。
背中が痛くないかとか、冷たくないかとか、そういうことを考えなくていい場所で。
もっと落ち着いて、ちゃんと彼女を抱きたかった。
それなのにアランは、まだ少し警戒したような顔をしている。
頬はうっすら熱を持っていて、暗がりの中でも翡翠の瞳が落ち着かないみたいに揺れていた。
「一日に何回もは、だめです」
真面目な口調で言う。
レギュラスは少しだけ眉を上げた。
「なんですそれは」
「医学的観点からですか?」
「そ……そうです」
アランはわずかに詰まりながらも、言い返した。
「あなたはまだ、完全に回復したわけじゃないんですから」
「あなたって、なんです」
「急に」
そう言うと、アランはさらに困ったような顔をした。
昼間したばかりなのに、まだこんなふうにガードが硬い。それもまた可愛らしいのだが。
けれど、欲しかった。
数か月ぶりだったのだ。
しかも、毎日一緒に暮らしている相手なのだから。
求めたくなる気持ちは自然すぎるほど自然だと、レギュラスは本気で思っていた。
「アラン」
低く呼ぶ。
すると彼女は、少しだけ身構えたままこちらを見る。
「僕、体力つけたいんですけど」
アランは一瞬きょとんとして、それからすぐに真顔で返した。
「じゃあ、ゆっくり寝て筋肉を育ててください」
あまりにも真っ当で、レギュラスは少し笑ってしまう。
「運動を手伝ってくれません?」
「先生」
その言い方に、アランの瞳が揺れた。
灯りを落とした部屋の中でもわかる。
翡翠の瞳が、明らかに困っているのに、完全には拒まない揺れ方をする。
その反応がもう、可愛らしくてたまらない。
「……レギュラス」
困ったように名前を呼ぶ。
「先生に聞いてるんです」
「そういう運動は、今はだめです」
「どういう運動です?」
「わかってるでしょう」
「確認したいんです」
アランはとうとう視線を逸らした。
耳が少し赤い。こんな暗い中でもわかるほどなのだから、相当なのだろう。
レギュラスは彼女の顎へ指先を添えて、やわらかくこちらへ向けた。
昼間と違って、今度は最初からこの距離の意味を互いにわかっている。だから、前よりずっと静かで、前よりずっと緊張する。
「嫌ですか」
アランはすぐには答えなかった。
その沈黙に、レギュラスは少しだけ息を止める。
だが次の瞬間、彼女は小さく首を振った。
「……嫌じゃ、ないです」
その答え方が、あまりにもアランらしかった。
はっきりと大胆に欲しがるのではなく、でも逃げるわけでもなく、恥ずかしさを抱えたままちゃんとこちらへ返してくる。
レギュラスはその返事だけで、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「でも」
とアランが続ける。
「一日に何回もは、普通、少し……」
「普通じゃないんです、今は」
「それはもっと駄目です」
真面目に返されて、レギュラスは肩を揺らした。
「あなたは本当に、そういうところだけ頑固ですね」
「そういうところ“だけ”じゃありません」
「ええ、知ってます」
そう言いながら、彼は彼女を少しだけ引き寄せた。
今度は昼間みたいな偶然ではない。
最初から、互いに意味をわかって近づいている。
それがたまらなく嬉しかった。
アランの手が、迷いながらレギュラスの胸元に触れる。
押し返すでもなく、完全に抱きつくでもない、その途中みたいな触れ方がいかにも彼女らしい。
「ちゃんと、無理しないでくださいね」
まだそんなことを言う。
「今この瞬間にまでヒーラーなんですか、あなたは」
「だって患者ですし」
「今も?」
「今も、です」
そのやりとりが可笑しくて、でも可愛くて、レギュラスはとうとう彼女の額に口付けた。
そこから目元、頬へと少しずつ落としていく。
アランはびくりとしながらも、今度はもう逃げなかった。
昼間にたしかに一度越えたはずなのに。
二回目も、こうしてひとつずつ確かめるみたいに時間がかかる。
けれどその手間すら、今のレギュラスには満ち足りていた。
簡単にいくらでも求め合えるものだと思っていた。
だがアランとは違う。
違うからこそ、ひとつひとつが新しい。
やがて唇が重なると、アランは小さく息を呑んだ。
昼間より少しだけ慣れたようで、それでもまだぎこちない。そのぎこちなさが甘くて、レギュラスは深く口付けながら、心のどこかで静かに笑っていた。
二回目も簡単ではなかった。
けれど簡単ではないからこそ、欲しくなる。
そんなことを、彼はアランの揺れる瞳を見ながら思っていた。
終わったあと、アランはすぐに服を着た。
それはもう、ほとんど癖だった。
肌に残る熱とか、
唇に残る感触とか、
そういうものに浸るより先に、まず服を探してしまう。乱れた裾を引き寄せて、肌を隠して、きちんと元に戻す。そうしておかないと落ち着かない。そうしておけば、少なくとも置いていかれた時に惨めな思いをしなくて済む。
学生時代、惚れてしまった男にどんな扱いを受けても、なんでも言うことを聞いてしまっていた自分は、とんでもなく都合のいい女だった。
みっともなかった。
何度泣いたかわからない。
お前だけだ、という言葉を言ったあと、すぐに他の女子生徒とキスをしていた。
それでもその時は、何か理由があるのかもしれないと思っていた。馬鹿みたいに。
いつのまにか、“お前だけだ”というような言葉すらなくなって。
代わりに“お前が一番好きだ”に変わった。
それでもバカな少女は、一番という言葉に縋った。
一番なら。
他に誰がいても、一番なら。
彼の一番でありたくて。
彼の望むものを全部あげられる女でいれば、いつか本当に自分だけのものになってくれる気がした。
そんな情けない学生時代以降。
アランはまともに恋愛なんてできなかった。
だから今、レギュラスが怖いくらいに違っていて、驚いてしまう。
彼と違いすぎる。
正反対すぎる。
行為が終わっても、ずっとそばにいる。
急いで現実へ戻ろうとしない。
大切に、丁寧に触れられる。
昔はとっても乱暴だった。
でもその乱暴さえ、自分が一番ならいいとすら思っていたのが、今でもひどく恥ずかしい。
だからアランは、今もやっぱり、そそくさと服を着てしまう。
彼だけが先に部屋を出ていって。
眠たくて寝てしまって。
真夜中に一人、素っ裸で目覚める惨めさを、何度も経験したからだ。
あの空っぽの冷たさを思い出したくなくて。
まず先に服を着てしまう。
「早くないですか……」
後ろから、レギュラスが少し呆れたように言った。
アランは慌てて袖に腕を通しながら振り向かないまま答える。
「だって、風邪ひきます」
「ひっついて寝れば、あったかいじゃないですか」
その言葉に、アランの手がぴたりと止まった。
そんなことを望む人がいるなんて、びっくりだった。
男の人はそういう生き物なのだと思っていた。
終わったらすぐ現実に戻りたくて。
服を着て、部屋から出て行きたくて。
そういう生き物なのだと。
そう思うことで、自分だけ無碍にされていたわけじゃないのだと信じようとしていた。
どの女の子も似たような扱いなのだと。
そう思い込めば、少しは惨めさが減る気がしたから。
なのにレギュラスは違う。
違いすぎて、まだうまく受け止められない。
「……ひっついて寝るんですか」
思わず聞き返してしまうと、背後でレギュラスが少し笑った気配がした。
「そのために、まだこうしてるんですけど」
アランは振り返れないまま、ぎゅっと服の前を握る。
胸がまた変にうるさくなる。
レギュラスは寝台の上で、まだ完全には服も整えずにこちらを見ているのだろう。そう思うだけで顔が熱くなった。
「ねぇ、アラン」
低い声が呼ぶ。
「あなた、どんな恋愛をしてきたんです?」
ぎくっとした。
その言葉は、あまりにも急で、あまりにも的確だった。
人に自分の過去の恋愛を語って聞かせたりなんてしたくない。
恥ずかしいという自覚があるからだ。
全然綺麗じゃない。
みっともない。
ダサい。
何より、あの頃の自分をレギュラスに知られるのが嫌だった。
今こうして、彼にやさしくされて、ちゃんと大事にされているからこそ。
それとあまりにも対照的な過去を見せるのが、どうしようもなく恥ずかしい。
「……普通です」
アランは小さくそう言った。
我ながら、まったく普通ではない逃げ方だった。
案の定、背後から少し間を置いて、
「絶対に普通じゃないでしょう」
と返ってくる。
アランはますます振り向けなくなる。
「普通じゃなくても、話したくないことくらいあります」
「それはそうです」
レギュラスの声は、意外なほどあっさりしていた。
責めるでもなく、無理に引き出そうとするでもない。
その優しさに、かえって胸が痛くなる。
「でも」
と、彼は続けた。
「あなたが毎回、逃げるみたいに服を着る理由くらいは知りたいです」
その言い方が、ひどく静かだった。
責めているわけではない。
ただ知りたいのだと、わかる声だった。
アランはようやく、ゆっくり振り向いた。
レギュラスは寝台の上に半身を起こしていた。
銀の目がまっすぐこちらを見ている。いつものように綺麗で、落ち着いていて、それなのに今は少しだけ真剣だった。
アランは眼差しから逃げるように視線を落とした。
「……昔」
喉が少し詰まる。
言いたくない。
でも、言わないままでいるのも違う気がした。
「好きだった人が、いたんです」
それだけで、もう充分恥ずかしい。
「すごく、好きで」
「どうでもいい扱いをされても、離れられなくて」
レギュラスは何も言わない。
だからアランは、少しずつ言葉を続けるしかなくなる。
「終わったら、いつもすぐ出ていく人でした」
「私だけ置いて」
「……そのあと別の子と笑ってるのも、見たことあります」
言ってしまうと、やっぱり惨めだった。
こんな話をさせる自分が嫌になる。
「馬鹿だなって、今なら思います」
「でもその時は、その人の一番でいたくて」
「ちゃんとしてれば、いつか本当に私だけのものになってくれるかもしれないって……」
そこまで言って、アランは口をつぐんだ。
もう充分だ。
これ以上言ったら、本当に昔の自分が可哀想になってしまう。
部屋には、少し長い沈黙が落ちた。
アランは怒られるかもしれないと思った。
呆れられるかもしれないと思った。
みっともない女だと、心のどこかで思われるかもしれないと。
けれど、レギュラスは違った。
「それで」
静かな声だった。
「僕が終わったあと動かないと、逆に落ち着かないんですね」
責めるでも、笑うでもなく、ただ理解するようにそう言った。
アランは目を瞬いた。
そして、少しだけ頷く。
「……はい」
「服を先に着ておけば、置いていかれても平気だから?」
その問いに、アランはまた小さく頷いた。
「そう、かもしれません」
本当は“平気”にはならない。
けれど少なくとも、惨めさは少し減る。
そう思ってしまう。
レギュラスはしばらく黙っていた。
それから、寝台の端に腰を移して、ゆっくりと言った。
「アラン」
その呼び方がやさしくて、アランはまた胸が痛くなる。
「僕は、その男じゃありません」
当たり前の言葉だった。
当たり前なのに、ひどく沁みた。
「ええ……」
「本当にわかってます?」
少しだけ意地悪く言われて、アランは思わず顔を上げる。
レギュラスは、けれど怒ってはいなかった。
どこか困ったような、それでもやわらかな目をしている。
「あなたが服を着るのを止めるつもりはないです」
「でも、そのたびに置いていかれる前提で動かれるのは、少し傷つきます」
その言葉に、アランは息を止めた。
傷つく。
レギュラスが、そんなふうに。
「だって僕は、あなたにどこにも行ってほしくないと思ってるのに」
その言い方があまりにも自然で、アランは何も返せなくなる。
レギュラスは片手を伸ばした。
無理やりではなく、来るならおいで、とでもいうように。
「服を着たままでもいいです」
「だから、こっちへ来ません?」
アランはしばらく動けなかった。
こんなふうに言われるなんて思わなかった。
服を着てしまったことを笑われるでもなく、
過去を馬鹿にされるでもなく、
そのままでいいから来いと言われるなんて。
胸の奥が、じんと熱くなる。
アランはゆっくり近づいて、その手を取った。
レギュラスはそのまま彼女を引き寄せて、服越しにそっと抱きしめる。
たしかに、あたたかかった。
アランは目を閉じる。
昔みたいな、終わったあとの空っぽさは、どこにもない。
「……レギュラス」
「はい」
「私、たぶんまだ、変な癖が抜けないです」
「知ってます」
「知ってるんですね」
「ええ。今、目の前で見ましたから」
少し笑うように言うので、アランもようやくほんの少し笑った。
「でも抜けなくてもいいです」
「そのたびに、違うって覚えてもらえれば」
その言葉に、アランは服の上から彼の胸元をそっと握った。
こんなふうに、終わったあとまで抱きしめてもらえるなんて。
そんなことが自分にも起こるのだと、まだどこか信じきれない。
けれど今は、そのあたたかさの中にいてよかった。
その欲求は、もうごまかしようがないところまで膨らんでいた。
薄くて小さな唇に、何度となく口付けたいという衝動が込み上げる。
けれどたぶん、それだけで終わるはずもなかった。
だからレギュラスは決めていた。
口付けるのは、その先の行為の了承が、完全に彼女の反応から受け取れた後にしようと。
立派にそんなことを決めていた。
なのに、アランはその反応を返さない。
びっくりするほど返さない。
レギュラス・ブラックの人生において、女に断られるなんてことは一度もなかった。
明確に言葉を交わさずとも、少し距離を詰めればわかるものだった。視線の揺れ方、息のつき方、肩の傾け方。そういうもので了承は十分に伝わってきたし、自分もそれを見極めることには慣れているつもりだった。
だからきっと。
アランも、自分が押せばそのまますぐに受け入れてくれるだろうとは、自惚れでなく思ってしまう。
そういう人生を歩んできたからだ。
だが、伝わらない。
もしかしてこれは緩やかな拒絶なのかとさえ思ってしまうほど、アランには伝わらない。
ある夜、試しにわざと彼女の頬に触れてみた。
眠る前、いつものように近くにいるアランが、穏やかな顔でこちらを見ていた。レギュラスはその頬へそっと指先をやる。やわらかい。思っていたよりもずっと繊細で、触れた瞬間に自分の方が息を止めそうになる。
「綺麗な目をしてますね」
そう言った。
本当にそう思う。
珍しい翡翠の宝石が、そのまま瞳に埋め込まれているみたいな色だった。ずっと見ていられるような綺麗さだ。
こうやって女の頬に触れて、綺麗だと、美しいと伝えるのは、もはや行為の前に当たり前に行う儀式のようなものだと、レギュラスは学んできた。
だがアランは、ほんの少し目を丸くしたあと、にこりと笑ってこう言った。
「母譲りなんです」
レギュラスは一瞬だけ黙る。
「母の母も同じ色で、親子三代ずっと同じ色なんですよ」
まさかの詳しい説明が返ってきた。
そして、母親の話をされる。
レギュラスは内心で静かに敗北した。
さあ誘おうとした瞬間に両親の話をされると、どうしてもその気配を持ちこたえられない。その日の夜は、それで終わった。
別の日。
今度は少しだけ長く、アランの顔を見つめていた。
これも、昔はよくやっていた。
言葉より先に視線で熱を伝える。唇に落ちる前の静かな間合い。その沈黙だけで、大抵の女は口付けをねだってきたものだった。
だからアランにも、それくらいは伝わると思った。
思ったのに。
「どうしました?」
アランが真顔で聞いてくる。
「どこか痛むんですか?」
なんだか変な方向に心配をさせてしまった。
レギュラスは一度目を閉じた。
痛むのは別の意味で自分の頭だと答えたくなる。もちろん言わない。
「……いえ」
「なんでもありません」
「本当ですか?」
「我慢はだめですよ」
そこまで心配されると、もう完全に違う。
これも駄目だった。
また別の日。
今度こそと思って、アランを引き寄せた。
抱きつくというより、ちゃんと抱き寄せた。
自分の方へ。
いつもの、沈み込まないようにしがみつく抱き方ではない。男女の抱擁であると伝わるはずの温度感で、たしかにそうしたつもりだった。
腕の中へ閉じ込める。
近くなる体温。
細い体がすっぽり収まる感覚に、レギュラスの胸はどくりと打った。
このあと瞳を見て、彼女の目に了承の証が宿っていれば口付ける。
そういう算段だった。
なのに。
これも伝わらなかった。
アランは腕の中で少し姿勢を整えると、むしろ安心したみたいに体を預けてきて、穏やかにこう言った。
「心音がいい感じです」
レギュラスは固まる。
「今みたいな時に目を瞑ると、ゆっくり眠りに落ちていきやすいですよ」
こちらは眠りに落ちたいのではない。
抱きたいのだ。
口付けたいのだ。
明確な了承のサインを、この女から引き出したいのだ。
なのに彼女は、抱擁を完全に“安眠補助”として処理している。
レギュラスは暗い天井を見上げたくなった。
全部うまくいかない。
自分がこれまで使ってきたものが、何ひとつ通用しない。
頬に触れても、褒めても、見つめても、抱き寄せても、全部アランの中で別の意味に着地する。
それも拒絶ではない。嫌がっているわけでも、避けているわけでもない。ただ本当に、そういう方向へ受け取っていないだけなのだ。
それがいっそ、ひどく難しかった。
拒絶ならまだわかる。
諦めることも、距離を置くこともできる。
だがアランは拒まない。
ただ、わからないのだ。
レギュラスは本気で、どうしたらいいのかわからなくなってきた。
「レギュラス?」
腕の中のアランが、少しだけ顔を上げる。
「眠れそうですか?」
違う。
そうじゃない。
だが、そうじゃないのだとどう言えばいいのかがわからない。
抱かせてほしいなどという品のない言葉は、やはり絶対に口にしたくなかった。そこまで落ちたくないという意地がまだある。いや、落ちるという表現も違うのかもしれないが、それでもアランに対してそんな言い方をするのは嫌だった。
せめて、彼女から。
せめて、何かひとつ。
その手の言葉でなくても、眼差しでも、息づかいでも、触れ方でも。
自分を望んでいるのだとわかる合図がほしかった。
なのに、何も来ない。
「……あまり」
レギュラスは苦し紛れにそう答えた。
アランは真剣に頷いて、彼の胸元へさらに身を寄せる。
「じゃあ、もう少しこうしていましょう」
「今日は落ち着くまで離れませんから」
やさしい。
ひたすらにやさしい。
そのやさしさが、今は少しだけ酷だった。
離れませんから、ではない。
そういう意味ではなく、もっと別の、熱を帯びた言葉がほしい。
このまま口付けてもいいのだと、そう思わせるものがひとつでもあればいいのに。
レギュラスは、腕の中のアランを見下ろした。
黒い髪。
翡翠の瞳。
薄い唇。
近い。
近すぎる。
少し顔を寄せれば触れてしまう距離にあるのに、それでも触れられない。
今ここで口付けてしまえば、彼女はきっと驚く。それが嫌だった。驚かせたいのではない。受け入れてほしいのだ。
その違いが、今のレギュラスにはやけに大きかった。
昔の自分なら、こんなところで立ち止まらなかったかもしれない。
流れを作り、そのまま押し切っただろう。
けれどアランには、それをしたくない。
だから余計に苦しい。
「アラン」
低く呼ぶと、彼女はすぐに見上げてきた。
「はい?」
この“はい?”がいけないのだとレギュラスは思う。
何も疑っていない。
何も警戒していない。
ただまっすぐ返事をするその顔に、こちらの欲の熱だけが浮いて見える。
「……いえ」
また、それしか言えない。
アランは少し不思議そうにしながらも、やがて彼の胸に頬を寄せた。
規則正しい呼吸が、少しずつ眠る方へ傾いていく。
こちらは眠る気などないのに。
むしろ逆なのに。
レギュラスは、静かに息を吐いた。
こうして色々試してみるたび、自分がどれだけこの女に弱いか思い知らされる。
口付けひとつ満足に迫れない。
欲していることをそれとなく伝えることすら、全部空振る。
それでも。
腕の中のぬくもりを手放す気にはなれなかった。
伝わらなくても、今夜もこうして抱き寄せているしかない。
明日はもう少し、うまくやれるだろうかと。
いや、たぶんまた駄目なのだろうと。
そんなことを考えながら、レギュラスは薄暗い天井を見つめていた。
薬草を束ねたり、幹を削ったり、葉をすりつぶしたりしているアランの横顔が、レギュラスは好きだった。
真剣だった。
翡翠の瞳は手元に落ち、細い指先は迷いなく動く。小瓶の並ぶ棚、乾いた葉の匂い、石皿を擦る小さな音。その中心にいるアランは、夜に自分を抱きとめてくれる時とはまた違う顔をしていた。静かで、集中していて、少しだけ遠い。
少しだけ触れたかった。
いつもそう思っていた。
けれど夜眠る前のあの触れ合いなら、沈み込まないために必要だという明確な理由があった。安定剤のようなものとして、彼女に触れることを許されている。
だが昼間、こうして陽の高い時間帯に、真剣に作業をしているアランに触れる理由は、正直どこにもない。
それが許されるのは、ちゃんと彼女と恋人としての関係を持った人間だけだ。
そう思うと、余計に触れたくなるのだから始末が悪い。
レギュラスは彼女のそばへ寄って、しゃがみ込んだ。
アランがちらりとこちらを見る。
ふわりと笑って、それからすぐまた手元に意識を戻す。
その短さが、妙に寂しかった。
レギュラスは思わず、アランの腕を少しだけ引いた。
作業を止めさせるくらいの、ほんのわずかな強さで。
「どうしました?」
アランが不思議そうに言う。
「休憩しません?」
「ずっとしてるでしょう?」
なんでもよかった。
別に休憩じゃなくても。
少し向かい合って話せるだけでもよかった。
その口実が欲しかっただけだ。
アランは小さく笑った。
「もう少しだけやってから休憩しますね」
やっぱり伝わらない。
子どもじみたため息が出そうになる。
レギュラスは少しだけ肩を落とした、その時だった。
肘が、小瓶のひとつに当たった。
からり、と危うい音がして、中の粉がこぼれる。
「待って、触っちゃだめです」
アランがすぐに身を乗り出してきた。
「手が痒くなります」
慌てた拍子だった。
彼女は身を乗り出しすぎて、体勢を崩した。
次の瞬間、アランの身体が覆いかぶさるような形で、レギュラスの上に落ちてきた。
二人とも、ぴたりと止まる。
床に散った薬草の匂い。
近すぎる距離。
翡翠の瞳が、まんまるになっていた。
アランはきっと、そういうつもりではなかったのだろう。
それはよくわかった。戸惑いが、その顔にそのまま出ていたからだ。
けれど。
その戸惑いの奥に、拒絶ではない揺らぎがあった。
離れようとしていない。
息を止めたまま、ただこちらを見ている。
その視線の中に、これから先を完全に否定しない柔らかさが、たしかにあった。
レギュラスはその一瞬を逃さなかった。
ずっと待っていた。
ずっと求めていた。
ようやく見つけた、その小さな了承の証を。
だから、口付けた。
最初は、試すみたいに静かに。
触れるだけの口付けだった。
アランの睫毛が震える。
けれど拒まれない。
レギュラスはゆっくりと角度を変えて、もう一度口付けた。
今度は少し深く、確かめるように。
アランの手が、迷うみたいに彼の肩に触れる。
押し返すのではなく、すがるようでもない。
ただ、受け止めようとする手だった。
それがたまらなく愛おしくて、レギュラスはさらに彼女を引き寄せた。
唇が重なるたび、アランの戸惑いは少しずつ熱に変わっていく。
羞恥と、ためらいと、それでも確かにこちらを受け入れようとする気配。
その全部が唇の震えに滲んでいた。
ほんの一瞬の瞳の揺らぎの中に、了承の証を見出せた自分を褒め称えたいくらいだった。
ホグワーツ時代の経験がなければ。
見逃していたかもしれない。
レギュラスはアランの頬に手を添え、もう一度、今度は少し長く口付けた。
散らばった薬草も、小瓶も、途中で止められた作業も、何もかもどうでもよくなっていた。
結局、あれほど待ち望んだものは、カーペットの上で訪れた。
人生で初めてだった。
床でだなんて。
女性に対してあまりにも失礼すぎる。
けれど、その時のレギュラスにはやめるという選択肢がなかった。
生にしがみつくことしかできなかった自分が。
今は、生きた上で、自分の意思で、彼女の中の“女”である部分を求めている。
それは、限りなく人間らしい、原始的な行為だった。
アランの細い腕が、やがてためらいながら彼の背に回る。
その小さな応えだけで、胸の奥が満たされていく。
求められているのではなく。
求めて、受け入れられている。
その事実が、レギュラスにはどうしようもなく深く沁みた。
どれほど壊れても。
どれほど無様でも。
それでもなお、自分はこうして誰かを欲し、誰かに受け入れられる。
そのことに、ひどく静かな感動があった。
やがて額を寄せたまま、レギュラスは小さく息を吐いた。
こんな場所で、こんなふうに始まってしまったことへの苦笑と。
それでも止められなかった満足と。
それ以上に、アラン・セシールという女をどうしようもなく愛おしく思う気持ちが、胸の奥で混ざり合っていた。
散らばった薬草の匂いの中で、アランはまだ少し赤い顔のまま、近すぎる距離でこちらを見上げていた。
その顔を見た瞬間、レギュラスはようやく思った。
助かったのだ。
湖からだけではなく。
もっとずっと深いところから、自分はこの女に引き上げられていたのだと。
恥ずかしくて、レギュラスの顔が見られなかった。
だからアランは、床に散らばった薬草粉を片付けることに集中した。
あのあと、ほとんど逃げるみたいにすぐ起き上がって、服を整えた。手が少し震えていた気がする。息もまだ変だった。胸の奥がどきどきしすぎていて、まともに立っているのもおかしいくらいだったのに、とにかく何かしていないと駄目だった。
別に目が悪いわけでもない。
けれどアランは、棚の上から大きな眼鏡を取ってかけた。
ホグワーツ時代によく使っていたものだ。元々は魔法薬調合のときの防塵眼鏡だったけれど、顔の大半が隠れるから、どうしようもなく恥ずかしくて人の顔を見られない時にも便利だった。
今こそ、まさにその時だった。
眼鏡をかけると少しだけ息がしやすくなる。
守られている気がする。
アランはしゃがみ込み、こぼれた粉を丁寧に集め始めた。散らばった葉も、倒れた小瓶も、いちいち整え直す。そうしていれば、自分が何をしたのかを考えなくて済む気がした。
「アラン」
背後から声がする。
低くて、いつも通りきれいな声。
それだけでまた心臓が跳ねそうになる。
「ひどくないですか」
レギュラスが言った。
「そんなに逃げるようにしなくても」
アランの指先が止まる。
「そんなんじゃないです」
慌てて言い返した。
けれど、自分でも声が変だとわかる。落ち着いているふりをしているのに、全然落ち着いていない。
「別に……あなたも。風邪をひきます」
“あなたも”。
名前すらまともに呼べなくて、そんな話し方になるのが自分でおかしくて、余計に恥ずかしかった。
レギュラスが少しだけ黙る気配がする。
それから、くすりと笑うような息が落ちた。
「こういう時の後って、ゆっくりまったりするものなんじゃないんです?」
アランは固まった。
「そそくさと腕の中から抜けてくれましたね」
その言い方に、何も言えなくなる。
本当に、そういう行為が久しぶりすぎて、いたたまらなくてそうしただけなのだ。
どうしていいかわからなかった。
近すぎたし、心臓はうるさいし、顔なんて見たらもう駄目になりそうだったから、逃げるみたいに服を着て、眼鏡まで持ち出しただけだ。
そういうのと、同じにしないでほしい。
アランは小さく息を吸った。
かつて自分も、学生時代、夢中になってしまった男がいた。
その男もそうだった。
終わればそそくさと部屋を出ていった。
次の瞬間には別の女の隣で笑っているような人だった。
すごく惨めだった。
悲しかった。
置いていかれるたび、自分だけが余計なものを抱え込んでいるみたいで、ひどくみじめだった。
それでも離れられなかった、あの頃の自分を思い出すと、今でも胸が少し痛む。
だからアランは決めていたのだ。
ああいうふうに、行為のあと女を置いて部屋を出ていくような男とは、二度と関係を持たないと。
なのに今。
レギュラスはまったくその場から動かない。
それどころか、こちらの反応を気にして、冗談めかして声をかけてくる。
逃げたのは自分の方なのに、彼はずっとそこにいる。
かつての少女が欲しがった行動が、目の前にあった。
そのことが、アランの中では恥ずかしさを超えて、感動的だった。
なんだか胸の奥がきゅうと詰まる。
泣きたいわけではないのに、少しだけ泣きそうになる。
「……違うんです」
アランは背を向けたまま、小さく言った。
「逃げたかったわけじゃなくて」
それだけ言うのも精一杯だった。
レギュラスの気配が少し近づく。
けれど、無理にこちらを向かせたりはしなかった。
「じゃあ、何です?」
その声は、責めるものではなく、ただ聞こうとしてくれている声だった。
アランは眼鏡の奥でぎゅっと目を閉じた。
「……恥ずかしかったんです」
ようやく、そう言った。
「すごく」
「どうしたらいいかわからなくて」
言ってしまうと、もう隠しようがなかった。
耳まで熱くなる。
床の上の薬草粉がやたら鮮明に見える。
しばらく沈黙があった。
笑われるかもしれないと、少しだけ身構える。
けれど返ってきたのは、予想していたものと違った。
「それは、僕も同じでしたよ」
アランは思わず振り向いた。
眼鏡越しに見たレギュラスは、少しだけ困ったように笑っていた。
あの整った顔でそんなふうに言われると、現実感がなくて余計に心臓に悪い。
「……嘘です」
「嘘じゃありません」
レギュラスはカーペットの上に片膝を立てたまま、まだ完全にはほどいていない服の襟元に手をやった。
「むしろ、今も少し恥ずかしいです」
「あなたがあんな眼鏡まで持ち出したので、結構傷ついてますし」
その言い方が少し拗ねたみたいで、アランは思わず笑いそうになった。
笑いそうになるのに、やっぱり恥ずかしい。
「だって……顔、見られないです」
「そんなにですか」
「そんなにです」
アランが真面目に答えると、レギュラスは小さく息を吐いた。
それから、少しだけ真顔になる。
「アラン」
名前を呼ばれる。
今度はちゃんと、逃げずにその声を受け止めた。
「僕はどこにも行きませんよ」
その一言に、胸の奥が大きく揺れた。
アランは何も言えなかった。
言えない代わりに、眼鏡の向こうでじっと彼を見つめる。
「だから、そんなに慌てなくていいです」
「片付けも、後で一緒にやればいい」
あまりにも静かに、当たり前みたいにそう言う。
それがたまらなかった。
かつて欲しかったものを、こんなふうに何気なく差し出されるなんて思わなかった。
置いていかれないこと。
ちゃんとその場にいてくれること。
終わったあとも、同じ温度でこちらを見てくれること。
そんな簡単なことが、昔はひどく難しかった。
アランはゆっくり立ち上がった。
まだ眼鏡はかけたままだったけれど、今度は逃げるためではなく、ただ少し心を落ち着けるために。
「……本当に、行かないんですか」
自分でも子どもみたいな確認だと思う。
けれど聞かずにはいられなかった。
レギュラスは少しだけ目を細めた。
「ええ」
「行きません」
その言葉が、思っていたより深く胸に沁みた。
アランは唇をきゅっと結んで、それからようやく、ほんの少しだけ近づいた。
「じゃあ……」
「お茶でも淹れます」
結局そういうことを言ってしまう自分が、いかにもアランらしいとわかっていて、また恥ずかしくなる。
でもレギュラスは笑わなかった。
ただ、やわらかく笑った。
「いいですね」
その笑みを見て、アランは眼鏡の奥でそっと息をついた。
恥ずかしさはまだ消えない。
むしろしばらく消えないだろう。
けれど今、その恥ずかしさの奥には確かに、救われるような気持ちがあった。
あの湖に分霊箱を取りに行くと決めた前夜のことを、レギュラスは今でも覚えている。
昔よく遊ばせてもらっていた、という言い方が正しいのかどうかはわからない。
互いに深入りはしない。
名前の重みも、血筋の事情も、そこでは少しだけ薄れる。
気兼ねなく互いを利用し合えると思っている女の屋敷があった。
その夜、レギュラスはそこを訪ねた。
自分でも最低だとは思う。
けれど、その時は本気で、これから多分死ぬのだろうと覚悟していたのだ。
なら最後くらい、一番美しいと思っていた女の屋敷で過ごした夜のことくらい、当然許されると、どこかで思っていた。
誰に言いふらすつもりもない。
誰かを傷つけようとしたわけでもない。
ただ最後なのだ。
仕方がないだろう、と。
そうやって自分を納得させていた。
あの時も、それなりには満たされた。
女は大層、美しかったし。
香も、灯りも、シーツの感触も、何もかも洗練されていた。
自分の好みをよく知った女の、よく整えられた夜だった。
これでもう悔いはない、なんて。
あの時の自分は、たしかにそう思ったものだった。
だからこそ、今のこの満たされ方が信じられなかった。
死の淵から生還して。
体を持ち直して。
何度も伝わらないこちらの誘いが無意識に袖にされながら。
ようやくアランを抱いた今。
満たされ方は、あの時より深かった。
深すぎて、少し怖いほどだった。
何が違うのか、考えなくてもわかる。
あの夜の女は、美しかった。
けれど最初から最後まで、“そういう夜”として完成されていた。
何を望まれているのかも、どう返せば喜ばれるのかも、よく知っていた。
こちらも、それに応じるだけでよかった。
そこには安心もあったし、気楽さもあった。互いに深入りしないからこそ、最後の夜を預けるには都合がよかった。
だが、アランは違う。
まず、こちらの望みがちっとも伝わらなかった。
見つめても駄目で、
触れても駄目で、
抱き寄せても“安眠に良い”で済まされる。
レギュラス・ブラックの人生で、そんな女は初めてだった。
それなのにようやく手に入ったその瞬間、
彼女の反応の初々しさが、
レギュラスには新鮮すぎて、可愛くてたまらなかった。
思えば、自分の周りに寄ってきていた派手な女たちは、当然ながら他の貴族にも同じように寄って行っている。
それが悪いわけではない。
そういう世界なのだ。
そういう駆け引きの中で、自分もまたひとつの美しい選択肢として扱われてきた。
だから初々しさなんてものとは、無縁だった。
戸惑って、
恥じらって、
けれど拒まず、
受け入れようとしてくれる。
そのひとつひとつが、レギュラスにはどうしようもなく愛おしかった。
そして何より。
抱いたあとに、こんなにも愛おしく思えるなんて。
生まれて初めてだった。
かつての自分なら、満たされればそれで終わりだった。
夜は夜として閉じる。
そこに残るのは、せいぜい余韻か、気だるさか、少しの優越くらいのものだった。
なのに今は違う。
散らばった薬草。
少しずれた眼鏡。
顔を見られずに逃げるように片づけへ向かう背中。
それなのに自分が何も言わずその場にいたことで、あの翡翠の瞳が静かに揺れたこと。
その全部が、胸の奥に残っている。
最もみっともないところを見せたのは、たしかに自分だった。
立ち上がれなくて。
食べられなくて。
吐き戻して。
眠れなくて。
夜のたび縋って。
そんな姿を何度も見せた。
普通なら、欲を向ける前に恥じて離れるべきだったのかもしれない。
少なくとも、レギュラスが知っている世界ではそうだった。
弱さは隠すものだし、欲は美しく装って差し出すものだ。
けれどアランとのあいだでは、その順序が全部壊れていた。
最初にあったのは、無様さだった。
次にあったのは、介抱だった。
その果てに、ようやく触れ合いが来た。
だからなのだろうか。
自分のいちばん見せたくないものを知ったうえで、それでも受け止めてもらえたことが。
レギュラスには、何より深く響いていた。
アランは、自分が整った顔をしている時だけを見ていたわけじゃない。
まともに立てない時も、
震えている時も、
吐いてしまった時も、
眠れずに夜中何度も名前を呼ぶ時も。
全部知っている。
それでも彼女は、そばにいた。
それでも最後に、受け入れてくれた。
その事実が、過去のどんな華やかな夜よりも、ずっとレギュラスを満たしていた。
あの湖へ向かう前夜のことを思い出すたび、今の自分は少しだけ苦くなる。
あれも嘘ではなかった。
あの時の自分には必要な夜だったのだろう。
最後に、綺麗なものの中で終わりたかった。
欲を吐き出して、悔いなく沈みたかった。
けれど、本当に欲しかったものは違ったのだと、今ならわかる。
綺麗なだけの夜では足りなかった。
ただ満たされるだけでも足りなかった。
欲しかったのは、たぶん。
こんなふうに、行為のあとで相手を抱きしめたくなる夜だった。
どこにも行かないでほしいと思う夜だった。
逃げるように眼鏡をかけてしまうほど恥ずかしがる女を、
可愛いと、
愛おしいと、
どうしようもなく思ってしまう瞬間だった。
レギュラスは眠る支度をするアランの背中を見つめながら、静かに息を吐いた。
あの前夜、自分は“これで悔いはない”と思った。
だが本当は、何も知らなかったのだ。
悔いのない夜というのは、
終わりを飾るためのものではなくて、
終わったあとに相手の名を呼びたくなる瞬間のことを言うのだと。
そう思い知った今、
レギュラスはもう、過去のどの女を思い出しても、アランほど深く胸を掴まれることはなかった。
一度越えてしまえば、そのあとはもう簡単だと思っていた。
最初の一回だけが、いちばん高い壁なのだと。
そこさえ越えれば、もう互いに求めることは自然になるし、あとはいくらでも流れていくものだと。
今までだってそうだった。
そして、普通そういうものだろうとも思っていた。
なのに、アランとは二回目も普通に時間がかかった。
夜。
いつものように寝支度をして、同じ寝台に入る。
もうそれ自体はすっかり当たり前になっていた。アランの体温が近くにあって、眠る前に少し言葉を交わして、静かな部屋の中で互いの呼吸を聞いている。以前なら、そのまま腕を回して眠るだけだった。
けれど今夜、レギュラスが腕を引いたのは、夜を越えたかったからではない。
その温もりが欲しかったからだ。
アランの細い腕を、そっと自分の方へ引く。
彼女の身体が少しだけ強張るのがわかった。
「……お昼、しました……」
小さな声で、アランがそう言った。
レギュラスは思わず口元を緩めた。
「ええ、そうですね」
そう。
昼間に、たしかにした。
けれど、あんな床ではなくて。
ちゃんと寝台でしたかった。
背中が痛くないかとか、冷たくないかとか、そういうことを考えなくていい場所で。
もっと落ち着いて、ちゃんと彼女を抱きたかった。
それなのにアランは、まだ少し警戒したような顔をしている。
頬はうっすら熱を持っていて、暗がりの中でも翡翠の瞳が落ち着かないみたいに揺れていた。
「一日に何回もは、だめです」
真面目な口調で言う。
レギュラスは少しだけ眉を上げた。
「なんですそれは」
「医学的観点からですか?」
「そ……そうです」
アランはわずかに詰まりながらも、言い返した。
「あなたはまだ、完全に回復したわけじゃないんですから」
「あなたって、なんです」
「急に」
そう言うと、アランはさらに困ったような顔をした。
昼間したばかりなのに、まだこんなふうにガードが硬い。それもまた可愛らしいのだが。
けれど、欲しかった。
数か月ぶりだったのだ。
しかも、毎日一緒に暮らしている相手なのだから。
求めたくなる気持ちは自然すぎるほど自然だと、レギュラスは本気で思っていた。
「アラン」
低く呼ぶ。
すると彼女は、少しだけ身構えたままこちらを見る。
「僕、体力つけたいんですけど」
アランは一瞬きょとんとして、それからすぐに真顔で返した。
「じゃあ、ゆっくり寝て筋肉を育ててください」
あまりにも真っ当で、レギュラスは少し笑ってしまう。
「運動を手伝ってくれません?」
「先生」
その言い方に、アランの瞳が揺れた。
灯りを落とした部屋の中でもわかる。
翡翠の瞳が、明らかに困っているのに、完全には拒まない揺れ方をする。
その反応がもう、可愛らしくてたまらない。
「……レギュラス」
困ったように名前を呼ぶ。
「先生に聞いてるんです」
「そういう運動は、今はだめです」
「どういう運動です?」
「わかってるでしょう」
「確認したいんです」
アランはとうとう視線を逸らした。
耳が少し赤い。こんな暗い中でもわかるほどなのだから、相当なのだろう。
レギュラスは彼女の顎へ指先を添えて、やわらかくこちらへ向けた。
昼間と違って、今度は最初からこの距離の意味を互いにわかっている。だから、前よりずっと静かで、前よりずっと緊張する。
「嫌ですか」
アランはすぐには答えなかった。
その沈黙に、レギュラスは少しだけ息を止める。
だが次の瞬間、彼女は小さく首を振った。
「……嫌じゃ、ないです」
その答え方が、あまりにもアランらしかった。
はっきりと大胆に欲しがるのではなく、でも逃げるわけでもなく、恥ずかしさを抱えたままちゃんとこちらへ返してくる。
レギュラスはその返事だけで、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「でも」
とアランが続ける。
「一日に何回もは、普通、少し……」
「普通じゃないんです、今は」
「それはもっと駄目です」
真面目に返されて、レギュラスは肩を揺らした。
「あなたは本当に、そういうところだけ頑固ですね」
「そういうところ“だけ”じゃありません」
「ええ、知ってます」
そう言いながら、彼は彼女を少しだけ引き寄せた。
今度は昼間みたいな偶然ではない。
最初から、互いに意味をわかって近づいている。
それがたまらなく嬉しかった。
アランの手が、迷いながらレギュラスの胸元に触れる。
押し返すでもなく、完全に抱きつくでもない、その途中みたいな触れ方がいかにも彼女らしい。
「ちゃんと、無理しないでくださいね」
まだそんなことを言う。
「今この瞬間にまでヒーラーなんですか、あなたは」
「だって患者ですし」
「今も?」
「今も、です」
そのやりとりが可笑しくて、でも可愛くて、レギュラスはとうとう彼女の額に口付けた。
そこから目元、頬へと少しずつ落としていく。
アランはびくりとしながらも、今度はもう逃げなかった。
昼間にたしかに一度越えたはずなのに。
二回目も、こうしてひとつずつ確かめるみたいに時間がかかる。
けれどその手間すら、今のレギュラスには満ち足りていた。
簡単にいくらでも求め合えるものだと思っていた。
だがアランとは違う。
違うからこそ、ひとつひとつが新しい。
やがて唇が重なると、アランは小さく息を呑んだ。
昼間より少しだけ慣れたようで、それでもまだぎこちない。そのぎこちなさが甘くて、レギュラスは深く口付けながら、心のどこかで静かに笑っていた。
二回目も簡単ではなかった。
けれど簡単ではないからこそ、欲しくなる。
そんなことを、彼はアランの揺れる瞳を見ながら思っていた。
終わったあと、アランはすぐに服を着た。
それはもう、ほとんど癖だった。
肌に残る熱とか、
唇に残る感触とか、
そういうものに浸るより先に、まず服を探してしまう。乱れた裾を引き寄せて、肌を隠して、きちんと元に戻す。そうしておかないと落ち着かない。そうしておけば、少なくとも置いていかれた時に惨めな思いをしなくて済む。
学生時代、惚れてしまった男にどんな扱いを受けても、なんでも言うことを聞いてしまっていた自分は、とんでもなく都合のいい女だった。
みっともなかった。
何度泣いたかわからない。
お前だけだ、という言葉を言ったあと、すぐに他の女子生徒とキスをしていた。
それでもその時は、何か理由があるのかもしれないと思っていた。馬鹿みたいに。
いつのまにか、“お前だけだ”というような言葉すらなくなって。
代わりに“お前が一番好きだ”に変わった。
それでもバカな少女は、一番という言葉に縋った。
一番なら。
他に誰がいても、一番なら。
彼の一番でありたくて。
彼の望むものを全部あげられる女でいれば、いつか本当に自分だけのものになってくれる気がした。
そんな情けない学生時代以降。
アランはまともに恋愛なんてできなかった。
だから今、レギュラスが怖いくらいに違っていて、驚いてしまう。
彼と違いすぎる。
正反対すぎる。
行為が終わっても、ずっとそばにいる。
急いで現実へ戻ろうとしない。
大切に、丁寧に触れられる。
昔はとっても乱暴だった。
でもその乱暴さえ、自分が一番ならいいとすら思っていたのが、今でもひどく恥ずかしい。
だからアランは、今もやっぱり、そそくさと服を着てしまう。
彼だけが先に部屋を出ていって。
眠たくて寝てしまって。
真夜中に一人、素っ裸で目覚める惨めさを、何度も経験したからだ。
あの空っぽの冷たさを思い出したくなくて。
まず先に服を着てしまう。
「早くないですか……」
後ろから、レギュラスが少し呆れたように言った。
アランは慌てて袖に腕を通しながら振り向かないまま答える。
「だって、風邪ひきます」
「ひっついて寝れば、あったかいじゃないですか」
その言葉に、アランの手がぴたりと止まった。
そんなことを望む人がいるなんて、びっくりだった。
男の人はそういう生き物なのだと思っていた。
終わったらすぐ現実に戻りたくて。
服を着て、部屋から出て行きたくて。
そういう生き物なのだと。
そう思うことで、自分だけ無碍にされていたわけじゃないのだと信じようとしていた。
どの女の子も似たような扱いなのだと。
そう思い込めば、少しは惨めさが減る気がしたから。
なのにレギュラスは違う。
違いすぎて、まだうまく受け止められない。
「……ひっついて寝るんですか」
思わず聞き返してしまうと、背後でレギュラスが少し笑った気配がした。
「そのために、まだこうしてるんですけど」
アランは振り返れないまま、ぎゅっと服の前を握る。
胸がまた変にうるさくなる。
レギュラスは寝台の上で、まだ完全には服も整えずにこちらを見ているのだろう。そう思うだけで顔が熱くなった。
「ねぇ、アラン」
低い声が呼ぶ。
「あなた、どんな恋愛をしてきたんです?」
ぎくっとした。
その言葉は、あまりにも急で、あまりにも的確だった。
人に自分の過去の恋愛を語って聞かせたりなんてしたくない。
恥ずかしいという自覚があるからだ。
全然綺麗じゃない。
みっともない。
ダサい。
何より、あの頃の自分をレギュラスに知られるのが嫌だった。
今こうして、彼にやさしくされて、ちゃんと大事にされているからこそ。
それとあまりにも対照的な過去を見せるのが、どうしようもなく恥ずかしい。
「……普通です」
アランは小さくそう言った。
我ながら、まったく普通ではない逃げ方だった。
案の定、背後から少し間を置いて、
「絶対に普通じゃないでしょう」
と返ってくる。
アランはますます振り向けなくなる。
「普通じゃなくても、話したくないことくらいあります」
「それはそうです」
レギュラスの声は、意外なほどあっさりしていた。
責めるでもなく、無理に引き出そうとするでもない。
その優しさに、かえって胸が痛くなる。
「でも」
と、彼は続けた。
「あなたが毎回、逃げるみたいに服を着る理由くらいは知りたいです」
その言い方が、ひどく静かだった。
責めているわけではない。
ただ知りたいのだと、わかる声だった。
アランはようやく、ゆっくり振り向いた。
レギュラスは寝台の上に半身を起こしていた。
銀の目がまっすぐこちらを見ている。いつものように綺麗で、落ち着いていて、それなのに今は少しだけ真剣だった。
アランは眼差しから逃げるように視線を落とした。
「……昔」
喉が少し詰まる。
言いたくない。
でも、言わないままでいるのも違う気がした。
「好きだった人が、いたんです」
それだけで、もう充分恥ずかしい。
「すごく、好きで」
「どうでもいい扱いをされても、離れられなくて」
レギュラスは何も言わない。
だからアランは、少しずつ言葉を続けるしかなくなる。
「終わったら、いつもすぐ出ていく人でした」
「私だけ置いて」
「……そのあと別の子と笑ってるのも、見たことあります」
言ってしまうと、やっぱり惨めだった。
こんな話をさせる自分が嫌になる。
「馬鹿だなって、今なら思います」
「でもその時は、その人の一番でいたくて」
「ちゃんとしてれば、いつか本当に私だけのものになってくれるかもしれないって……」
そこまで言って、アランは口をつぐんだ。
もう充分だ。
これ以上言ったら、本当に昔の自分が可哀想になってしまう。
部屋には、少し長い沈黙が落ちた。
アランは怒られるかもしれないと思った。
呆れられるかもしれないと思った。
みっともない女だと、心のどこかで思われるかもしれないと。
けれど、レギュラスは違った。
「それで」
静かな声だった。
「僕が終わったあと動かないと、逆に落ち着かないんですね」
責めるでも、笑うでもなく、ただ理解するようにそう言った。
アランは目を瞬いた。
そして、少しだけ頷く。
「……はい」
「服を先に着ておけば、置いていかれても平気だから?」
その問いに、アランはまた小さく頷いた。
「そう、かもしれません」
本当は“平気”にはならない。
けれど少なくとも、惨めさは少し減る。
そう思ってしまう。
レギュラスはしばらく黙っていた。
それから、寝台の端に腰を移して、ゆっくりと言った。
「アラン」
その呼び方がやさしくて、アランはまた胸が痛くなる。
「僕は、その男じゃありません」
当たり前の言葉だった。
当たり前なのに、ひどく沁みた。
「ええ……」
「本当にわかってます?」
少しだけ意地悪く言われて、アランは思わず顔を上げる。
レギュラスは、けれど怒ってはいなかった。
どこか困ったような、それでもやわらかな目をしている。
「あなたが服を着るのを止めるつもりはないです」
「でも、そのたびに置いていかれる前提で動かれるのは、少し傷つきます」
その言葉に、アランは息を止めた。
傷つく。
レギュラスが、そんなふうに。
「だって僕は、あなたにどこにも行ってほしくないと思ってるのに」
その言い方があまりにも自然で、アランは何も返せなくなる。
レギュラスは片手を伸ばした。
無理やりではなく、来るならおいで、とでもいうように。
「服を着たままでもいいです」
「だから、こっちへ来ません?」
アランはしばらく動けなかった。
こんなふうに言われるなんて思わなかった。
服を着てしまったことを笑われるでもなく、
過去を馬鹿にされるでもなく、
そのままでいいから来いと言われるなんて。
胸の奥が、じんと熱くなる。
アランはゆっくり近づいて、その手を取った。
レギュラスはそのまま彼女を引き寄せて、服越しにそっと抱きしめる。
たしかに、あたたかかった。
アランは目を閉じる。
昔みたいな、終わったあとの空っぽさは、どこにもない。
「……レギュラス」
「はい」
「私、たぶんまだ、変な癖が抜けないです」
「知ってます」
「知ってるんですね」
「ええ。今、目の前で見ましたから」
少し笑うように言うので、アランもようやくほんの少し笑った。
「でも抜けなくてもいいです」
「そのたびに、違うって覚えてもらえれば」
その言葉に、アランは服の上から彼の胸元をそっと握った。
こんなふうに、終わったあとまで抱きしめてもらえるなんて。
そんなことが自分にも起こるのだと、まだどこか信じきれない。
けれど今は、そのあたたかさの中にいてよかった。
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