1章
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レギュラスが少しずつ回復していくのが、アランには嬉しかった。
最初は、ただ生きていてくれるだけでよかった。
あの湖から引き上げた時は、本当にもう駄目かもしれないと思った。喉も肺も、内臓も、何もかも傷んでいて、呼吸を繋ぎ止めるだけで精一杯だった。目を覚ますかどうかすらわからなかったのに。
今は違う。
向かい合って話すことが増えた。
顔を見て話すことが増えた。
お互いの名前を呼ぶことが増えた。
それが、たまらなく嬉しい。
朝に目が覚めて、今日はどのくらい顔色がいいかを見る。
食事のとき、昨日よりもしっかり座れているかを見る。
薬を飲んだあと、呼吸がどれだけ落ち着いているかを見る。
そんなことばかり気にしている自分に、アランは少し笑ってしまいそうになる。
湖で彼を引きずり上げたときは、顔なんてとてもしっかり見られなかった。
重かったし、必死だったし、死なせてはいけないということだけで頭がいっぱいだった。濡れた黒髪と、ひどく冷たい肌と、動かない身体の印象しか残っていない。
けれどこうして向かい合うことが増えた今、アランはようやく落ち着いて彼の顔を見る機会を得ていた。
レギュラスは、とても整っていた。
驚くくらいに。
目鼻立ちは鋭すぎず、けれど緩すぎもしない。横顔の線も、睫毛の長さも、笑ったときにほんの少しだけ和らぐ目元も、全部が不思議なくらいきれいだった。こんな人が本当に目の前にいるのだと、時々信じられなくなる。
それに、ぼろぼろなのにも関わらず、上質な品の良さが至るところから滲んでいた。
話し方も。
言葉選びも。
食器の持ち方も。
椅子に腰かける所作ひとつまで、自然なのに崩れない。
きっとどこかの貴族の人間なのだろう、とアランは思っていた。
そうでなければ、あんなふうに染みついた品の良さは出ない。意識して作れる類のものではなくて、ずっとそういう場所で生きてきた人の空気だ。
なのに不思議と、彼はそれを押しつけがましく見せたりしない。
高貴さを武器にする人間もいるのに、レギュラスは違った。ただ静かにそこにあるだけだ。それが余計に彼を美しく見せていた。
けれどアランがもっと驚いているのは、魔力の回復速度だった。
異常に早い。
身体はまだ完全には戻っていない。疲れやすいし、長く立っていれば顔色も落ちる。けれど魔力だけは、まるで別の生き物みたいに回復していった。
元々持っている量が、常人離れしているのだ。
ある日、試しにとアランは自分の杖を彼に持たせてみた。
まだ早いかもしれないとも思った。
でも、そろそろ魔力の通り方を確かめておきたかった。
レギュラスは少しだけ躊躇ったあと、杖を受け取った。
アランの杖は彼のものより少し短いから、手の中ではやや不格好に見える。
「無理なら、すぐやめてくださいね」
そう言ったのに、次の瞬間には杖の先がかすかに震えた。
魔力が乗っている。
しかも、あまりにも自然に。
アランは思わず目を見開いた。
ぼろぼろなのに。まだ本調子からは程遠いはずなのに。ほんの少し触れただけで、杖がちゃんと彼の魔力に応えている。
「すごいですね、レギュラス」
思わず、そう口にしていた。
「もしかして、超一流の魔法使いだったりするんですか?」
レギュラスはその言い方が可笑しかったのか、少しだけ笑った。
「そんなんじゃありませんよ」
その笑い方まで、きれいだった。
口角の上がり方が、とても美しい。
大げさではなく、本当にそう思う。冷たく見せるための笑みではなくて、自然にこぼれた時の彼の笑みは、思っていたよりずっとやわらかい。整った顔立ちがそこだけふっとほどけて、ひどく目を引く。
アランは危うく見とれそうになって、慌てて目を逸らした。
何をしているのだろうと思う。
患者相手に。
いや、もう患者というだけではないのかもしれないけれど、それでもこんなふうにいちいち心を揺らしていてはよくない。
「でも、本当にすごいです」
「こんなに魔力の戻りが早い人、あまり見たことありません」
目を逸らしたまま言うと、レギュラスは杖を見つめながら少しだけ沈黙した。
それから、穏やかな声で返す。
「元々、魔力だけは多い方でした」
「だけ、なんですか?」
「ええ。扱いが上手いかどうかは別です」
「そんなことないでしょう」
アランが思わず言い返すと、レギュラスはまた少し笑う。
そのたびに胸の奥が落ち着かなくなる。
アランは咳払いをして、ようやく彼の方を見た。
レギュラスは杖を持つ手をゆっくり下ろしながら、少しだけ疲れたように息を吐いていた。やはりまだ完全ではない。できるからといって無理をさせてはいけない。
「今日はここまでにしましょう」
「でも、本当に順調です。前よりずっと」
アランがそう言うと、彼は素直に頷いた。
「あなたのおかげです、アラン」
また名前をつけて言う。
それだけで、アランの胸があたたかくなる。
自分に向けて言われていると、はっきりわかる。
「違いますよ」
「レギュラスがちゃんと頑張ってるからです」
「頑張らされている、の間違いでは?」
「それもありますね」
アランが笑うと、レギュラスもつられて笑った。
その向かい合った笑い合いが、ひどく自然になってきている。
少し前までは、生きているかどうかだけを気にしていたのに。今はこんなふうに、軽口を交わせる。
回復しているのだ。
ちゃんと、確実に。
アランはそれがたまらなく嬉しかった。
嬉しくて、胸の奥がきゅうとする。
このままもっと元気になってほしい。
もっと食べて、もっと話して、もっと笑ってほしい。
そう思う自分に気づくたび、アランは少しだけ怖くなる。
この人は、きっとどこか別の場所の人だ。
自分の知らない世界で生きてきた人で、自分の小さな家にずっと留まるような人ではない。
回復すれば、いつかここを出ていく。
それなのに今は、そんな先のことを考えたくなかった。
「レギュラス」
アランはそっと呼んだ。
「はい?」
「元気になってきて、よかったです」
あまりにもそのままの言葉だった。
気の利いたことは何も言えない。ただ本当に、そう思ったから。
レギュラスは一瞬だけ目を丸くして、それからとても静かに微笑んだ。
「ええ」
「僕も、そう思います」
その言葉に、アランはまた胸がいっぱいになる。
彼が元気になっていくことが嬉しい。
話せることが嬉しい。
名前を呼べることが嬉しい。
向かい合って、目を見て笑えることが嬉しい。
そんな当たり前みたいなことが、今のアランにはひどく大切だった。
身体は、たしかに回復していた。
歩ける距離は伸びた。
食べられる量も増えた。
声も戻った。
杖に魔力だって乗る。
なのに。
それと反比例するみたいに、夜だけがどんどん越えがたくなっていった。
眠りに落ちる瞬間が、恐ろしい。
意識が薄くなる。
身体の力が抜ける。
手足の輪郭が曖昧になって、世界が遠ざかる。
その感覚が、あの湖に引きずり込まれる感覚とあまりにも似ていた。
沈んでいく時もそうだった。
身体が重くなって、自分の意思とは関係なく下へ持っていかれる。抵抗しても、指先に力を込めても、どうにもならずに意識が遠のいていく。眠りは本来穏やかなもののはずなのに、レギュラスにとっては違った。毎晩、眠ることそのものが死に直結しているようで、恐ろしくてたまらなかった。
目を閉じる。
少しずつ沈む。
だめだ、と思う。
その瞬間、胸が跳ね上がる。
息ができない。
喉はもう治っているはずなのに、空気が入らない気がする。心臓だけがひどい勢いで打ち、肺が浅く速く動く。指先が冷える。シーツの感触が、いつの間にかあの湖の水草みたいに感じられて、脚を絡め取られている錯覚がする。
目を開ける。
天井がある。
木の天井だ。
ここは地上だ。
わかっているのに、身体が納得しない。
「レギュラス、レギュラス」
アランの声がする。
「大丈夫ですよ。あなたは地上にいます」
その声が、必死にこちらを引き戻してくれる。
夜中、どれだけ彼女を起こしただろう。
何度目かわからない発作のたびに、アランは飛び起きて寝台へ来る。眠たそうにすることも、苛立つこともない。ただ真っ直ぐに彼の名を呼ぶ。
「レギュラス、こっちを見てください」
「息をして。ゆっくりです」
「大丈夫。沈んでいません」
その声に縋らないと、帰ってこられない。
今の自分は、ひどくそれをわかっていた。
アランの声がなければ、きっとまたあの湖へ落ちていく。実際には落ちていないのに、意識だけが何度でも沈みかける。そのたびに彼女が岸辺になってくれる。
ある夜、震えがあまりにひどくて、アランはためらいがちに彼の肩へ腕を回した。
その瞬間、レギュラスははっとした。
あたたかい。
アランの体温を感じると、あの冷たい湖が引いていく。
濡れて冷え切った死の水ではない。
生きた人間の、やわらかな熱だ。
彼女の手が腕に触れていると、沈んでいくのを止めてもらえる。
ここでいいのだと、地上に留まっていていいのだと、身体の方が少しずつ思い出す。
レギュラスは呼吸を整えようとしながら、無意識にその手へ縋った。
細い手首を掴む。
離したらまた落ちる気がした。
アランは何も言わない。
ただもう片方の手で背中をゆっくりさする。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫」
「私がいますから」
夜中に何度も、同じことを繰り返した。
寝入りばなに発作を起こす日もあれば、眠ってから悪夢に落ちて飛び起きる日もある。ようやく落ち着いたと思った一時間後に、また同じように胸が暴れ出すこともあった。
そうなると朝がひどくきつい。
身体は重い。
頭も鈍い。
起き上がれば立てないほどではないのに、眠気と疲労が奥にへばりついている。瞼が熱く、呼吸にさえ倦怠が混じる。
それでも起きようとするのは、意地だった。
前より動けるようになった。
歩けるようにもなった。
起きて、食卓につけるようになった。
そこまで回復したのに、またベッドに沈んでいたくない。
アランはもう起きて動いている。火を起こし、朝の支度をし、薬草を選り分けている。自分だけが寝台で寝てばかりいるのは、ひどく敗北感があった。
だから朝、眠気で頭が重くても起き上がろうとする。
けれど、そういう日に限って足元がふらついた。
椅子まで歩こうとしたところで視界が揺れ、レギュラスは思わず壁に手をつく。心臓がまだ夜の延長みたいに落ち着かず、胸の奥がじわじわ苦しい。
アランがすぐ気づいて近づいてきた。
「眠たいなら、寝ていてもいいんですよ」
やわらかくそう言う。
「……そうは、いきません」
レギュラスは少し眉を寄せた。
掠れてはいない。ちゃんと声は出る。なのにその言葉には妙な頑なさが混じった。
「あなたはもう起きている」
「動いているのに、僕だけ寝ているわけには」
言いかけて、少し息が乱れる。
それだけでも今の自分の余裕のなさがわかって、余計に苛立った。
アランはそんな彼を静かに見上げた。
「寝られる時に寝ましょう」
ただ、それだけを言う。
責めない。
叱らない。
頑張れとも言わない。
寝られる時に寝ればいいのだと、まるでそれが当然だと言うみたいに。
そんなふうに甘やかされると、もう駄目になる。
どんどん駄目になる。
レギュラスはそう思った。
自分は本来、こんなふうに扱われてはいけない人間だ。
弱音を許される側でも、休みたい時に休めばいいと言われる側でもない。立てるなら立て。動けるなら動け。そうして生きてきた。
なのにアランは、眠たいなら寝ていていいと言う。
怖い夜を越えられなかった翌朝に、無理をしなくていいと言う。
それでいいのだと、平気な顔で言ってしまう。
そんなことを許されたら、本当に立てなくなってしまう気がした。
どんどん彼女に依存してしまう。
夜に縋り、朝にも甘え、もう一人ではまともに戻れなくなる。
「レギュラス」
名前を呼ばれる。
見ると、アランはすぐそばに立っていた。
翡翠の瞳がまっすぐこちらを見ている。彼女は彼の考えていることを全部正確に読み取っているわけではないだろう。それでも、何か張りつめたものがあるときだけは、妙に勘がいい。
「だめになることと、休むことは、同じじゃないです」
静かな声だった。
「夜を越えるのに体力を使ったなら、朝に少し休むのは普通のことです」
「それは怠けてるんじゃなくて、回復の途中ってだけです」
あまりにもまっとうな言葉だった。
だからこそ、レギュラスは返す言葉が見つからない。
正しいのだろう。
彼女の言うことは。
頭ではわかる。
けれど正しさとは別のところで、自分の中の何かが怯えている。
誰かにこうして許されることに。
立てない自分を、そのままでいいと言われることに。
アランは少しだけ手を伸ばし、彼の袖を軽くつまんだ。
「今日は朝ごはん、あとでもいいです」
「少し横になりますか?」
その触れ方がひどくやさしくて、レギュラスは目を伏せた。
ほんの少し前の自分なら、そんな誘導は拒んでいただろう。
意地でも椅子に座り、食卓についたはずだ。
けれど今は、もう限界に近い眠気があった。
夜のたび削られていく心のせいで、朝が空っぽになっている。
「……少しだけ」
そう言うと、アランはほっとしたみたいに微笑んだ。
「はい」
「少しだけでいいです」
その“少しだけ”にすら、救われる。
全部を諦めるのではなく、今朝だけ。
今だけ。
そう言ってもらえると、負けた感じが少し和らぐ。
アランは彼を寝台へ導き、毛布を整えた。
横になると、身体の方が先に安堵した。自分が思っていた以上に疲れていたのだとわかる。瞼がすぐ重くなる。
けれど眠りに落ちるのはやはり怖くて、レギュラスは無意識にアランの袖口を掴んだ。
自分でも子どもじみていると思う。
離してやるべきだとも思う。
なのに指は離れなかった。
アランはその手を見て、何も言わず椅子を寝台のそばへ引き寄せた。
「ここにいます」
それだけ言う。
「だから、少しだけ休みましょう」
レギュラスは目を閉じた。
怖い。
眠るのはまだ怖い。
沈む感覚は消えない。
それでも、アランの体温がすぐそばにあると、湖は少し遠くなる。
彼女の気配が岸辺になって、ここは地上だと教え続けてくれる。
そんなふうに甘やかされると、もう本当に駄目になる。
どんどん駄目になる。
そう思いながらも、レギュラスは掴んだ袖を離せないまま、ゆっくりと眠気の中へ落ちていった。
朝、目が覚めても、身体がひどくだるい日があった。
夜を越えるだけで力を使い果たしたみたいに、手足が重い。目は覚めているのに、起き上がる気力がどこにもない。身体を少し動かしただけで、また寝台の奥へ沈んでいきたくなる。
そういう朝、レギュラスはただベッドに沈んでいた。
起きなければと思う。
もうテーブルで食事を取れるようになったのだし、ここまで回復しておいて、またこんなふうに寝台にしがみつくのはどうかしているとも思う。
思うのに、身体がついてこない。
毛布の中で浅く息をつき、半分だけ開いた目で木の天井を見ていると、やがてアランがこちらへ来る気配がした。
「起きてますか?」
小さな声と一緒に、食器の触れ合う音がする。
レギュラスがそちらへ目を向けると、アランは小さな盆を抱えて立っていた。湯気の立つスープと、切り分けられた柔らかいパン、それから少しだけ火を通した果物まで載っている。
「今日はこっちで食べましょう」
当然みたいに言って、彼女は寝台の脇へ盆を置いた。
レギュラスは一瞬、言葉を失う。
もうテーブルで取れるようになったというのに。
こんなふうにまた、朝食をベッドまで運ばれるなんて。
甘やかされている、としか言いようがなかった。
それなのに。
それが、心地よかった。
こんな朝くらい起きなくていいのだと、アランが先に決めてしまう。自分で葛藤する余地すらなく、はいどうぞと与えられてしまう。そのあまりの自然さに、抗う理由が少しずつ削がれていく。
「……すみません」
レギュラスは掠れのない声でそう言った。
喉はもう戻っている。だからこそ、こういう言葉も以前よりずっとはっきり発せられる。
「朝から、みっともないですね」
アランは盆を整えていた手を止め、少しだけ首を傾げた。
「昨晩、きつかったでしょうからね」
「仕方ないですよ」
あっさりと、そう言う。
まるで本当に何でもないことみたいに。
夜中に何度も起こされて、自分だって眠れていないはずなのに、そのことを恨みに変える気配がひとつもない。
レギュラスは目を伏せた。
みっともないのは事実だ。
情けないのも事実だ。
それでも彼女は、その事実を責める材料にしない。ただ昨晩きつかったのだから仕方ないと、それだけで済ませてしまう。
そういうところが、ずるいと思う。
アランは寝台の背を少し起こしてくれて、食べやすい位置に器を置き直した。レギュラスが受け取りやすいように、匙の向きまで整えてくれる。
「今日は無理に起きなくていいです」
「食べたら、また寝てください」
「そんなに甘やかすと、本当に立てなくなりますよ」
レギュラスが半分本気で言うと、アランは少し笑った。
「立てる日はちゃんと立ってますから、大丈夫です」
「今日は休む日です」
休む日。
そんな分類を勝手につけられてしまうと、もう反論しにくい。
レギュラスは観念したように匙を取り、スープを口に運んだ。温かい。味もやさしい。胃に落ちる感じが穏やかで、夜明け前から張り詰めていた身体が少しずつほどけていく。
「美味しいです、アラン」
そう言うと、彼女は満足そうに頷いた。
「よかったです、レギュラス」
朝食を食べ終える頃には、眠気がまた強くなっていた。
身体が“もう十分です”とでも言うみたいに、内側から重くなる。
アランは器を下げながら、
「じゃあ、お昼くらいまで寝ていてくださいね」
と言う。
言われるままに、レギュラスはまた横になった。
少しだけ、と自分では思っていても、そういう日は本当に昼過ぎまで眠ってしまう。
目が覚めたとき、部屋は静かだった。
アランはいない。
一瞬だけ胸がざわめく。
けれど以前とは違って、今度はすぐに視線がテーブルの方へ向いた。そこに何かがある気がしたからだ。
案の定、置き手紙があった。
小さな紙切れに、整った字で短く書かれている。
少し市場へ行ってきます。
起きたら、テーブルのパンを食べてください。
無理に歩き回らないこと。
すぐ戻ります。
その横には、本当にパンが置かれていた。
布がふわりとかけられていて、乾かないようになっている。隣には小さな瓶に入った果実の煮詰めたものまで添えられていた。
腹が減った時のために、だろう。
どこまでも至れり尽くせりだった。
レギュラスは寝台の上で、その紙をしばらく見つめた。
申し訳ない。
いたたまれない。
ここまで面倒を見させて、自分は何をしているのだろうと思う。昼過ぎまで眠り、起きれば食べ物が用意されていて、留守にするなら書き置きまである。患者としては理想的な扱いなのかもしれないが、一人の男としては情けなさが募るばかりだ。
それなのに。
甘えが許されるこの感じが、ひどく心地いい。
何も心配しなくていいように整えられていること。
空腹になる前に食べ物があり、自分が不安にならないよう行き先が書かれていること。
戻ってくると、当然のように約束されていること。
それら全部が、レギュラスの中の張りつめた部分を少しずつ溶かしていく。
彼はようやく起き上がり、ゆっくりテーブルの方へ歩いた。
以前より足取りはしっかりしている。それでもまだ完全ではない。だからこそ、こういう気遣いがありがたいのだと認めざるを得なかった。
布をめくると、焼き直したらしいパンからほんのり香ばしい匂いがした。
レギュラスはそれを手に取り、置き手紙をもう一度見た。
無理に歩き回らないこと。
まるで子どもに言い聞かせるみたいな一文に、少し笑ってしまう。
だがその笑いの奥にあるのは、嫌悪ではなく、どうしようもない安堵だった。
こんなふうに面倒を見られることに、慣れてはいけない。
心地よいと思いすぎてもいけない。
いつかここを出ていくのだとわかっているのだから、なおさら。
それでも今だけは。
この小さな家で、
置き手紙とパンを残して出かけていく女の気遣いに、
心を預けていたかった。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、静かな部屋の中でパンをちぎった。
申し訳ない。
いたたまれない。
それなのに心地いい。
その矛盾ごと、ゆっくり噛みしめるしかなかった。
その夜も、レギュラスは眠りに落ちる手前で発作を起こした。
胸がひどく上下している。
息を吸っているのに足りていないみたいで、喉の奥がひゅうひゅうと鳴る。目は開いているのに、もう半分は悪夢の向こう側にいるような顔だった。
「レギュラス、ここです」
「大丈夫、地上ですよ」
アランはいつものように寝台へ腰かけ、彼の背中をゆっくりさすった。
もう慣れた動きになっていた。
肩甲骨の間を、落ち着かせるように。
呼吸に合わせて、急がず、何度も。
そうしていると、彼の身体は少しずつこちら側へ戻ってくる。
今夜はいつもよりひどかった。
何度落ち着いても、またすぐ胸が跳ねて、指先がシーツを掴む。離れようとする意識を、必死に繋ぎ止めているみたいだった。アランは寝台の端に座ったまま、ずっと背中をさすっていた。時々、熱を確かめるみたいに肩へ手を置く。髪に触れそうなほど近づいて、呼吸の乱れを見守る。
「大丈夫です」
「沈んでいません」
「私がいますから」
何度目かわからないその言葉を、夜の静かな部屋に落とし続けた。
レギュラスは途中から、半分眠っているのか起きているのかも曖昧になっていた。
それでもアランの袖を掴んでいる。
指先にすがる力だけは、最後まで抜けなかった。
だからアランは、もう寝台の端から動かなかった。
背中をさすったまま、少しずつ自分の身体も傾いていく。眠気が重たく瞼に降りてくる。今日は市場へも行ったし、昼に薬草の仕分けもした。夕方にはスープを煮て、明日の分の調合も終わらせた。疲れていないわけがない。
それでも、彼が眠るまでは起きていようと思っていた。
思っていたのに。
いつの間にか、アランは同じベッドの上で目を閉じて眠ってしまっていた。
背中をさする手だけが、途中で止まったまま。
朝、目が覚めた瞬間、アランは自分がどこにいるのかわからなかった。
木の天井。
すぐ近くに規則正しい呼吸の音。
頬にかかるあたたかな吐息。
そして目の前には、レギュラスの顔があった。
「……っ」
心臓に悪かった。
あまりにも近い。
びっくりするほど近い。
まだ眠っているらしい彼の顔が、目の前にある。長い睫毛も、静かに閉じた銀の目も、寝起きの少し無防備な口元も、全部が近すぎる。整いすぎた顔立ちが至近距離にあると、暴力みたいだとアランは思った。朝一番で見るには刺激が強すぎる。
しかもしっかりと、しがみつくようにして眠っていた。
彼の腕が、アランの肩口にゆるく絡んでいる。
自分の方も、寝落ちする前に支えていた姿勢のまま、かなり彼に寄りかかっていた。
アランは一気に顔が熱くなるのを感じた。
なんでこんな。
いや、夜中の流れを思い出せば理由はわかる。発作がひどくて、寝台の端から離れられなくて、そのまま自分も寝落ちしてしまったのだ。でも、わかっていても心臓は全然落ち着かなかった。
朝食の支度をしなければ。
そう思って、そっと身体を動かそうとする。
するとそのわずかな動きで、レギュラスの睫毛が震えた。
まずい、と思った時にはもう遅かった。
彼もゆっくりと目を開ける。
至近距離で視線が合った。
アランは息を呑み、レギュラスは一瞬だけはっきりと驚いた顔をした。だが彼はすぐに視線を落ち着けて、少しだけ腕の力を抜いた。
「……すみません」
起き抜けの低い声でそう言う。
「一晩中、迷惑をかけてしまってますね」
その言い方があまりにもいつも通りで、アランは逆に少し落ち着いた。
自分だけが動揺していたのが、少し恥ずかしくなる。
「いいんです」
アランは慌てて首を振る。
「眠れましたか」
「少し」
レギュラスはそう答えて、いつものように控えめに笑った。
その笑みがあまりにも近くで見えて、アランはまた危うく固まりそうになる。
「少しでも眠れたならよかったです」
どうにかそう返して、アランは今度こそ寝台から抜け出した。
足を床につける時、まだ胸がどきどきしている。背中を向けたまま、小さく息を吐いた。
その朝からだった。
同じベッドに入るのが、少しずつ自然になっていったのは。
最初はあくまで発作の時だけだった。
寝台の端に座って、背中をさすって、呼吸が落ち着くまで側にいる。けれどそのまま彼がまた眠りに入りそうになると、アランも気が抜けて眠たくなる。椅子へ戻るより、このままの方が早い。少しだけ、と横になる。
そうして彼が眠るまで背中をさすっていれば、自分も一緒に寝落ちしてしまう。
それが何度も繰り返された。
夜中の薄暗い部屋の中で、アランはもうほとんど抵抗しなくなっていた。彼の発作がひどい夜ほど、寝台へ行くのも早くなる。声をかけ、背中をさすり、震えが小さくなるのを待つ。そうして気づけば隣に横たわっている。
レギュラスも、それを拒まなかった。
むしろアランが側にいる夜の方が、彼は少し深く眠れるようだった。
呼吸の乱れが収まるのが早い。
眠りの境目で何度も落ちかけていた意識が、彼女の体温ひとつで地上につなぎとめられるみたいだった。
そんなある日。
発作が収まり、部屋に静けさが戻ったあとだった。
アランはいつものように、背中をさすったまま寝台の端で彼を見守っていた。レギュラスは目を閉じていたが、まだ完全には眠っていないらしかった。
ふいに彼が目を開ける。
ひどく真剣な顔をしていた。
「……嫌じゃなかったら」
静かな声だった。
夜のせいで余計に深く響く。
「ここにいてくれると、眠りやすいです」
アランは瞬いた。
あまりにもまっすぐな頼み方だった。
駆け引きも、試すような色もない。ただ本当に、それを願っている人の顔だった。
アランは思わず、こくこくと頷いた。
「はい」
「います」
即答に近かった。
レギュラスの目元が、ほんの少しやわらぐ。
それを見た瞬間、アランの胸の奥がじんと熱くなった。
自分が、誰かの支えになれる。
それはアランにとって、とても嬉しいことだった。
学生時代、自分はいつも“大勢いるうちの一人”だった気がする。
いくらでも代えがきいて。
いてもいなくてもよくて。
誰かの一番に必要とされることなんて、たぶんなかった。
笑って、頑張って、ちゃんとしていても、それでも結局は“その他大勢”のままだった、あの頃の可哀想な自分。
けれど今は違う。
レギュラスが、自分を必要としている。
自分がここにいることで、彼は眠れる。
自分の手が、声が、体温が、彼を地上につなぎとめている。
そのことが、アランにはたまらなく嬉しかった。
昔の自分を、少しだけ救ってやれる気がした。
いてもいなくてもよかった自分ではなく、今ここにいてほしいと願われる自分でいられる気がした。
だからアランは、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫です」
「ちゃんといますから」
レギュラスは何も言わなかった。
けれどその指先が、ほんの少しだけ強くアランの手を握る。
その小さな力が、彼の信頼そのものみたいに思えた。
だからアランは決めた。
レギュラスが手を伸ばしてくる限り。
絶対に、その手を離したりしないようにしようと。
夜のたびに引き戻す。
悪夢の底へ沈みそうになるたび、ここにいると教える。
彼が自分の力で眠れるようになるまで、何度でも背中をさする。
この人が必要としてくれるなら、自分はそこにいたい。
それはもう、ただの治療だけではなかった。
けれどアランはまだ、その名前を知らないふりをしていた。
その夜、レギュラスは久しぶりに、まとまった眠りを取れた。
途中で何度か浅く意識は浮いたけれど、胸が跳ね上がるような発作にはならなかった。眠りの底へ落ちる瞬間も、すぐ隣にあるアランの体温が地上の輪郭を保ってくれていた。背中に回された小さな手と、規則正しい呼吸が、湖ではなく眠りなのだと身体に教え続けてくれた。
だから翌朝、目が覚めた時の頭の重さが少し違った。
まだ万全ではない。
だが、起き上がれる。
身体の奥にわずかな力が戻っているのを感じて、レギュラスは寝台の上でしばらく黙っていた。
世界に足を踏み出さねばと思った。
一人では今はとても行けない。
外へ出て、人の声を浴びて、知らない気配の中を歩くなど、今の自分にはまだ荷が重い。だが彼女の隣でなら。一緒ならば。外に出られるという日を増やしたかった。
だからアランが支度を始めた時、レギュラスは自分から声をかけた。
「今日は、どこかへ行くんですか」
アランは薬瓶を布で包みながら振り向いた。
「ええ。診療所と薬局に少し」
「あと市場にも寄る予定です」
「それなら」
レギュラスは少し言葉を選んでから、
「荷物持ちでもなんでもしますから、付き添わせてください」
と言った。
アランは目を丸くした。
少し考えるように彼を見つめる。その翡翠の瞳の中に、無理をさせていいものかという逡巡が見えた。
「……大丈夫ですか?」
「歩けるところまでで構いません」
「無理なら、すぐ戻ります」
それでもアランはまだ少し迷っていたが、最後には頷いた。
「じゃあ、本当に無理はしないでくださいね」
「荷物持ちでも何でも、は半分だけ聞いておきます」
レギュラスはその言い方に少し笑った。
「半分だけ?」
「全部真に受けると、倒れるまで頑張りそうですから」
図星で、彼は何も返せなかった。
外の空気は、まだ少し冷たかった。
小さな家の扉を出て、アランの隣に並ぶ。
それだけのことなのに、足元が少し不安だった。けれど一歩ずつ進めば、ちゃんと地面は硬い。湖の水みたいに足を奪ってはこない。
市場で買い物なんて、学生時代のホグズミードくらいしか記憶にない。
それも、友人たちと気軽に歩いた学生の町であって、生活を支えるための買い物ではなかった。今目の前に広がっているのは、もっとずっと生々しい暮らしの場だ。人が大きな声で値を呼び、品物を抱え、足早に行き交っている。
だがその前に、アランはまず診療所へ寄った。
小さな建物の裏口から入り、調合した薬を卸す。
瓶の数や種類を確認され、手帳に記録がつけられる。アランは慣れた様子で受け答えしていた。次に薬局へ行って、また別の薬を渡す。そこでも軽く話をし、次の依頼について何か言葉を交わしている。
レギュラスはその様子を黙って見ていた。
こんなに色々行っていたんですね、と素直に思った。
小さな家の中で、薬を煎じたり刻んだりしている姿は見ていた。だがそれがこうして外のあちこちへ繋がっているとは、改めて見るまで実感していなかった。
「こんなに色々行っていたんですね」
思わず口にすると、アランが振り向いた。
「毎日ではないですけどね」
「でも、家で作って終わりじゃないので」
「そうでしょうね」
レギュラスは頷く。
当然のことなのに、自分はその“当然”を知らなかった。
それから市場へ入る。
途端に、空気が一気に濃くなった。
商人の掛け声が近い。
威勢のいい声が、無遠慮に耳へ入り込んでくる。野菜、魚、果物、布、香辛料。色んな匂いが混ざっていて、足元も人の流れで落ち着かない。
アランはその中を、慣れた足取りで進んでいく。
レギュラスは少し遅れながらついていった。
買い物の仕方も、正直よくわからない。アランはどれも同じに見える野菜を前にして、真剣な顔で吟味していた。重さを手で確かめ、傷み具合を見て、値段を聞き、納得してから籠へ入れる。
そのひとつひとつが、レギュラスには知らない世界だった。
少し、苦手だった。
距離が近すぎる。
人の声が直接すぎる。
屋敷や社交の場にはある、見えない線引きみたいなものがここにはない。誰もが誰かの懐へ平気で踏み込んでくる。
だから、不意に腕を触られた時、レギュラスは肩を強張らせた。
振り向けば、身なりの整っていない女が立っていた。
にやりとした笑みを浮かべて、距離が近い。
「お兄さん、薔薇はいかが?」
「薔薇……ですか?」
レギュラスは面食らって聞き返した。
薔薇。
屋敷ではよく飾られていた。
ヴァルブルガが好むからだ。深い紅のものも、白いものも、客間や食卓に当然のようにあった。
アランと暮らすあの小さな家には、少し合わない気もする。
けれど女はこういうものが好きだろうか、とも思う。アランが花を部屋に置いたらどんな顔をするのか、そんなことまで一瞬で頭をよぎった。
その時だった。
ぐい、と手を引かれた。
アランだった。
「レギュラス、いりませんよ」
きっぱり言って、そのまま彼を女から引き剥がす。
細い腕なのに、意外と力があった。レギュラスは半ば押されるように数歩離れ、ようやく立ち止まる。
「……?」
あまりにも即断だったので、彼は少し戸惑った。
アランはそのまま何食わぬ顔で歩き出そうとする。
「アラン」
呼び止めると、彼女が振り向く。
「薔薇という割に、薔薇を持ってませんでしたけど」
「どういうことです?」
単純に疑問で聞いた。
するとアランは一瞬だけ黙り、それから何とも言えない顔をした。
困ったような、呆れたような、でも少しだけ面白がっているような。
「あのですね」
声を潜める。
「あれは、本当に薔薇って意味じゃなくて」
「男性が好きな女性を買っていいですよ、っていう場所に連れて行かれるんです」
レギュラスは一拍遅れて、その意味を理解した。
ああ。
そういうことか。
頬の熱がじわりと上がるのを、自分でも感じた。
無知だった。あまりにも。
市場の雑多な空気にも慣れていないくせに、そこへ含まれる隠語や合図の類まで理解できるはずもない。自分がどれだけ世間知らずかを、こんなところで思い知らされるとは思わなかった。
「……なるほど」
それしか言えなかった。
アランは腕を組み、少しだけ眉を上げる。
「なるほど、じゃないです」
「ついて行かなくてよかったです、本当に」
「ついて行くつもりは」
「ありましたよ」
「少なくとも、薔薇を買う方向では考えてました」
そこまで言い当てられて、レギュラスは目を逸らした。
事実だった。
あの小さな家に合うかどうかまで、一瞬考えていた。
「……あなたが喜ぶかもしれないと」
小さくそう言うと、アランは一瞬だけ目を瞬いた。
「私が?」
「花が」
「好きかもしれないと、思っただけです」
そう口にした途端、自分で自分の言葉に少しだけいたたまれなくなる。
何を言っているのだろうと思う。
だがアランは、思いのほかやわらかい顔になった。
「花は、嫌いじゃないです」
そう言ってから、少し笑う。
「でも次からは、本当に花を売ってる人から買ってくださいね」
レギュラスはようやく苦笑した。
「肝に銘じます」
「ちゃんとです」
「ええ、ちゃんとです」
アランは満足したように頷いて、また野菜の並ぶ方へ歩いていく。
レギュラスはその後ろ姿を見ながら、まだ少し残る恥ずかしさを胸の内で噛みしめた。
世界に足を踏み出すというのは、こういうことなのだろう。
知らないものに触れて。
自分の無知を知って。
時には少し恥をかいて。
それでも一人ではなく、隣に誰かがいてくれるから戻ってこられる。
アランが振り返る。
「レギュラス、こっちです」
その声に、彼はすぐ歩き出した。
「はい、アラン」
世界はまだ少しうるさくて、少し怖い。
けれど彼女の隣でなら、その中へ出ていく日を増やしていける気がした。
こんな生活を、数か月も続けていれば。
当然、情は芽生える。
命を拾われ、介抱され、眠れない夜をいくつも越えるために同じ寝台で体温を分け合ってきたのだ。しかも相手は、ただ優しいだけではない。レギュラスが最も無様で、最も弱っていた時期を知っていながら、それでも変わらずに隣へいてくれた女だ。
情だけで済むはずがなかった。
身体の回復が、完全に近づけば近づくほど。
今までは押し込められていた生理的な欲求が、またゆっくりと顔を出し始める。
人が生きているからこそ芽生える欲求だった。
生きるための食欲や睡眠欲だけではない。
もっと別の。
異性の肌を求めようとする、ごく原始的で、けれど確かな欲求。
それが戻ってきたことに、レギュラスは奇妙な感慨すら覚えた。
ああ、自分の身体はそこまで回復したのか、と。
あの家の薬棚には、ずらりと材料が並んでいる。
薬草、粉末、乾燥させた根、見慣れない鉱物片、小瓶に詰められた抽出液。
アランはそれらを組み合わせ、自分に飲ませ、塗り、吸わせ、数ヶ月かけて地獄の湖のあとからここまで引き戻した。
すごい腕の女だと思う。
そして今、その女は夜になると、すぐ隣にいる。
もうそれは習慣みたいになっていた。
眠りに落ちる時、アランの体は近い。
悪夢の底へ落ちないために、縋りつくように腕を回す。そうしていると、これ以上沈まなくてよくて、安心できる。アランの体は、とてつもなく安心をくれる支えだった。
けれど今夜は、少し違った。
安心として縋りつきたくて触れるのではない。
もっと奥の。
彼女の核となる部分を、こちらに差し出してほしいと思った。
そして自分が渡そうとするものも、受け取ってほしいと思った。
隣で眠るアランの呼吸は穏やかだった。
薄暗い部屋の中で、彼女の黒い髪が枕に広がっている。手を伸ばせば触れられる距離にいて、実際、いつも触れているのに。今夜はその距離が妙に苦しかった。
「…… アラン」
名前を呼ぶと、彼女がうっすらと目を開けた。
「はい、レギュラス?」
寝入りばなの、やわらかい声だった。
その無防備さに、余計に喉が詰まりそうになる。
「その……嫌じゃなかったら……」
そこまで言って、レギュラスは言葉に詰まった。
こんなふうにたどたどしく誘うような男ではなかった。
むしろ過去には、女の方からいくらでも寄ってきた。何もここまで言葉を探す必要などなかったし、欲しいと望まれることに慣れていた。
なのにアランの前では、何も通用しない。
言葉にして誘おうとすることが、こんなにも恥ずかしいのかと、レギュラスは初めて知った。
ただでさえ、彼女には最悪の時期を見られている。吐いて、震えて、眠れなくて、夜中に縋りついていた男が、今さら何を、と自分でも思う。
けれど欲求は、そういう理性では引かなかった。
アランは、まだ眠たげな目のまま彼を見た。
それから少しだけ考えるように瞬きをして、やがてやさしく微笑んだ。
「嫌じゃないです」
レギュラスの胸が、一瞬だけ強く打つ。
だが次の言葉で、その高まりは少し妙な方向へ転んだ。
「だからこうして眠るでしょう?」
そう言って、アランはいつも通りの抱擁をしてきた。
腕が回る。
背中をゆっくりさする。
大丈夫だと伝えるような、あの触れ方。
レギュラスは目を閉じた。
わかっている。
それを今までずっと求めてきた。
そのおかげで乗り越えられた夜がたくさんあった。
けれど今は、そうじゃない。
そういうのじゃないものを、こちらは「嫌じゃなかったら」という言葉に乗せて求めたのだ。
だが、伝わらない。
いや、伝えていないのだから当然だった。
こんな曖昧な言い方で通じるほど、この話題はやさしくない。
アランは何も疑っていない。
ただ、また不安な夜なのだと思っている。だからいつものように落ち着かせようとして、背中をさすってくれる。
その手が、今夜に限ってひどく残酷だった。
やさしい。
あまりにもやさしい。
だからこそ余計に、こちらの欲が卑しく思える。
「……レギュラス?」
反応が薄いのを不思議に思ったのか、アランが少しだけ体を離して顔を覗き込もうとする。
レギュラスはその前に、彼女の肩口へ額を押しつけた。
「いえ」
「……大丈夫です」
声が少し低くなる。
自分でも、わずかに苦い響きが混ざったのがわかった。
抱かせてほしい、などという品のない言葉は絶対に言いたくなかった。
それを口にした瞬間、何かが決定的に崩れそうだった。
今まで積み上げてきたものの輪郭が変わる気がしたし、何より、彼女があまりにも無垢に自分を支えてくれている今、それを欲望で汚すみたいで耐えがたかった。
意地と。
プライドと。
欲求が。
こんなにもぼろぼろの姿を見られたあとでさえ、なおレギュラスの中でせめぎ合っていた。
アランはまだ事情を理解していない顔で、彼の髪にそっと手をやった。
「今日は少し落ち着かないですか?」
問いかけが、あまりにもずれていて。
けれどそのずれ方すら、アランらしかった。
レギュラスはほとんど笑いそうになった。
笑えないのに、可笑しくて、情けなくて。
「……そうですね」
苦し紛れにそう答えると、アランは真面目に頷いた。
「じゃあ、いつもよりしっかり背中さすります」
その返しに、とうとうレギュラスは本当に小さく息を漏らした。
笑いなのか、ため息なのか、自分でもよくわからない。
アランの手は、何も知らないまま背中を撫で続ける。
沈まないように。
安心できるように。
ただそれだけのつもりで。
レギュラスはその手の下で、目を閉じた。
欲しかったのは、たしかにこれではない。
けれど、これでしか満たされないものが自分の中にあるのも事実だった。
アランの腕の中にいると、まだ少しだけ世界が静かになる。
欲が苦しくても、みじめでも、ここにいれば呼吸はできる。
それが余計に、どうしようもなかった。
「アラン」
かすかに呼ぶと、彼女はすぐに応じた。
「はい?」
その素直さに、レギュラスはしばらく黙る。
言うべき言葉は、ついに見つからなかった。
「……いえ」
「ありがとうございます」
結局、そんな無難なところへ逃げるしかない。
アランはやわらかく微笑んだ。
「どういたしまして」
そしてまた、何も知らない手つきで彼の背を撫でる。
レギュラスは暗い天井の方へ視線を上げた。
情が芽生えるのは当然だ。
その先まで欲してしまうのも、きっと当然なのだろう。
けれど、彼女のやさしさに甘えてここまで来た自分が、次に何を望んでいいのかはまだわからない。
ただ今夜は、欲求を喉の奥へ押し込めたまま、
いつものように彼女の腕の中で眠るしかなかった。
最初は、ただ生きていてくれるだけでよかった。
あの湖から引き上げた時は、本当にもう駄目かもしれないと思った。喉も肺も、内臓も、何もかも傷んでいて、呼吸を繋ぎ止めるだけで精一杯だった。目を覚ますかどうかすらわからなかったのに。
今は違う。
向かい合って話すことが増えた。
顔を見て話すことが増えた。
お互いの名前を呼ぶことが増えた。
それが、たまらなく嬉しい。
朝に目が覚めて、今日はどのくらい顔色がいいかを見る。
食事のとき、昨日よりもしっかり座れているかを見る。
薬を飲んだあと、呼吸がどれだけ落ち着いているかを見る。
そんなことばかり気にしている自分に、アランは少し笑ってしまいそうになる。
湖で彼を引きずり上げたときは、顔なんてとてもしっかり見られなかった。
重かったし、必死だったし、死なせてはいけないということだけで頭がいっぱいだった。濡れた黒髪と、ひどく冷たい肌と、動かない身体の印象しか残っていない。
けれどこうして向かい合うことが増えた今、アランはようやく落ち着いて彼の顔を見る機会を得ていた。
レギュラスは、とても整っていた。
驚くくらいに。
目鼻立ちは鋭すぎず、けれど緩すぎもしない。横顔の線も、睫毛の長さも、笑ったときにほんの少しだけ和らぐ目元も、全部が不思議なくらいきれいだった。こんな人が本当に目の前にいるのだと、時々信じられなくなる。
それに、ぼろぼろなのにも関わらず、上質な品の良さが至るところから滲んでいた。
話し方も。
言葉選びも。
食器の持ち方も。
椅子に腰かける所作ひとつまで、自然なのに崩れない。
きっとどこかの貴族の人間なのだろう、とアランは思っていた。
そうでなければ、あんなふうに染みついた品の良さは出ない。意識して作れる類のものではなくて、ずっとそういう場所で生きてきた人の空気だ。
なのに不思議と、彼はそれを押しつけがましく見せたりしない。
高貴さを武器にする人間もいるのに、レギュラスは違った。ただ静かにそこにあるだけだ。それが余計に彼を美しく見せていた。
けれどアランがもっと驚いているのは、魔力の回復速度だった。
異常に早い。
身体はまだ完全には戻っていない。疲れやすいし、長く立っていれば顔色も落ちる。けれど魔力だけは、まるで別の生き物みたいに回復していった。
元々持っている量が、常人離れしているのだ。
ある日、試しにとアランは自分の杖を彼に持たせてみた。
まだ早いかもしれないとも思った。
でも、そろそろ魔力の通り方を確かめておきたかった。
レギュラスは少しだけ躊躇ったあと、杖を受け取った。
アランの杖は彼のものより少し短いから、手の中ではやや不格好に見える。
「無理なら、すぐやめてくださいね」
そう言ったのに、次の瞬間には杖の先がかすかに震えた。
魔力が乗っている。
しかも、あまりにも自然に。
アランは思わず目を見開いた。
ぼろぼろなのに。まだ本調子からは程遠いはずなのに。ほんの少し触れただけで、杖がちゃんと彼の魔力に応えている。
「すごいですね、レギュラス」
思わず、そう口にしていた。
「もしかして、超一流の魔法使いだったりするんですか?」
レギュラスはその言い方が可笑しかったのか、少しだけ笑った。
「そんなんじゃありませんよ」
その笑い方まで、きれいだった。
口角の上がり方が、とても美しい。
大げさではなく、本当にそう思う。冷たく見せるための笑みではなくて、自然にこぼれた時の彼の笑みは、思っていたよりずっとやわらかい。整った顔立ちがそこだけふっとほどけて、ひどく目を引く。
アランは危うく見とれそうになって、慌てて目を逸らした。
何をしているのだろうと思う。
患者相手に。
いや、もう患者というだけではないのかもしれないけれど、それでもこんなふうにいちいち心を揺らしていてはよくない。
「でも、本当にすごいです」
「こんなに魔力の戻りが早い人、あまり見たことありません」
目を逸らしたまま言うと、レギュラスは杖を見つめながら少しだけ沈黙した。
それから、穏やかな声で返す。
「元々、魔力だけは多い方でした」
「だけ、なんですか?」
「ええ。扱いが上手いかどうかは別です」
「そんなことないでしょう」
アランが思わず言い返すと、レギュラスはまた少し笑う。
そのたびに胸の奥が落ち着かなくなる。
アランは咳払いをして、ようやく彼の方を見た。
レギュラスは杖を持つ手をゆっくり下ろしながら、少しだけ疲れたように息を吐いていた。やはりまだ完全ではない。できるからといって無理をさせてはいけない。
「今日はここまでにしましょう」
「でも、本当に順調です。前よりずっと」
アランがそう言うと、彼は素直に頷いた。
「あなたのおかげです、アラン」
また名前をつけて言う。
それだけで、アランの胸があたたかくなる。
自分に向けて言われていると、はっきりわかる。
「違いますよ」
「レギュラスがちゃんと頑張ってるからです」
「頑張らされている、の間違いでは?」
「それもありますね」
アランが笑うと、レギュラスもつられて笑った。
その向かい合った笑い合いが、ひどく自然になってきている。
少し前までは、生きているかどうかだけを気にしていたのに。今はこんなふうに、軽口を交わせる。
回復しているのだ。
ちゃんと、確実に。
アランはそれがたまらなく嬉しかった。
嬉しくて、胸の奥がきゅうとする。
このままもっと元気になってほしい。
もっと食べて、もっと話して、もっと笑ってほしい。
そう思う自分に気づくたび、アランは少しだけ怖くなる。
この人は、きっとどこか別の場所の人だ。
自分の知らない世界で生きてきた人で、自分の小さな家にずっと留まるような人ではない。
回復すれば、いつかここを出ていく。
それなのに今は、そんな先のことを考えたくなかった。
「レギュラス」
アランはそっと呼んだ。
「はい?」
「元気になってきて、よかったです」
あまりにもそのままの言葉だった。
気の利いたことは何も言えない。ただ本当に、そう思ったから。
レギュラスは一瞬だけ目を丸くして、それからとても静かに微笑んだ。
「ええ」
「僕も、そう思います」
その言葉に、アランはまた胸がいっぱいになる。
彼が元気になっていくことが嬉しい。
話せることが嬉しい。
名前を呼べることが嬉しい。
向かい合って、目を見て笑えることが嬉しい。
そんな当たり前みたいなことが、今のアランにはひどく大切だった。
身体は、たしかに回復していた。
歩ける距離は伸びた。
食べられる量も増えた。
声も戻った。
杖に魔力だって乗る。
なのに。
それと反比例するみたいに、夜だけがどんどん越えがたくなっていった。
眠りに落ちる瞬間が、恐ろしい。
意識が薄くなる。
身体の力が抜ける。
手足の輪郭が曖昧になって、世界が遠ざかる。
その感覚が、あの湖に引きずり込まれる感覚とあまりにも似ていた。
沈んでいく時もそうだった。
身体が重くなって、自分の意思とは関係なく下へ持っていかれる。抵抗しても、指先に力を込めても、どうにもならずに意識が遠のいていく。眠りは本来穏やかなもののはずなのに、レギュラスにとっては違った。毎晩、眠ることそのものが死に直結しているようで、恐ろしくてたまらなかった。
目を閉じる。
少しずつ沈む。
だめだ、と思う。
その瞬間、胸が跳ね上がる。
息ができない。
喉はもう治っているはずなのに、空気が入らない気がする。心臓だけがひどい勢いで打ち、肺が浅く速く動く。指先が冷える。シーツの感触が、いつの間にかあの湖の水草みたいに感じられて、脚を絡め取られている錯覚がする。
目を開ける。
天井がある。
木の天井だ。
ここは地上だ。
わかっているのに、身体が納得しない。
「レギュラス、レギュラス」
アランの声がする。
「大丈夫ですよ。あなたは地上にいます」
その声が、必死にこちらを引き戻してくれる。
夜中、どれだけ彼女を起こしただろう。
何度目かわからない発作のたびに、アランは飛び起きて寝台へ来る。眠たそうにすることも、苛立つこともない。ただ真っ直ぐに彼の名を呼ぶ。
「レギュラス、こっちを見てください」
「息をして。ゆっくりです」
「大丈夫。沈んでいません」
その声に縋らないと、帰ってこられない。
今の自分は、ひどくそれをわかっていた。
アランの声がなければ、きっとまたあの湖へ落ちていく。実際には落ちていないのに、意識だけが何度でも沈みかける。そのたびに彼女が岸辺になってくれる。
ある夜、震えがあまりにひどくて、アランはためらいがちに彼の肩へ腕を回した。
その瞬間、レギュラスははっとした。
あたたかい。
アランの体温を感じると、あの冷たい湖が引いていく。
濡れて冷え切った死の水ではない。
生きた人間の、やわらかな熱だ。
彼女の手が腕に触れていると、沈んでいくのを止めてもらえる。
ここでいいのだと、地上に留まっていていいのだと、身体の方が少しずつ思い出す。
レギュラスは呼吸を整えようとしながら、無意識にその手へ縋った。
細い手首を掴む。
離したらまた落ちる気がした。
アランは何も言わない。
ただもう片方の手で背中をゆっくりさする。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫」
「私がいますから」
夜中に何度も、同じことを繰り返した。
寝入りばなに発作を起こす日もあれば、眠ってから悪夢に落ちて飛び起きる日もある。ようやく落ち着いたと思った一時間後に、また同じように胸が暴れ出すこともあった。
そうなると朝がひどくきつい。
身体は重い。
頭も鈍い。
起き上がれば立てないほどではないのに、眠気と疲労が奥にへばりついている。瞼が熱く、呼吸にさえ倦怠が混じる。
それでも起きようとするのは、意地だった。
前より動けるようになった。
歩けるようにもなった。
起きて、食卓につけるようになった。
そこまで回復したのに、またベッドに沈んでいたくない。
アランはもう起きて動いている。火を起こし、朝の支度をし、薬草を選り分けている。自分だけが寝台で寝てばかりいるのは、ひどく敗北感があった。
だから朝、眠気で頭が重くても起き上がろうとする。
けれど、そういう日に限って足元がふらついた。
椅子まで歩こうとしたところで視界が揺れ、レギュラスは思わず壁に手をつく。心臓がまだ夜の延長みたいに落ち着かず、胸の奥がじわじわ苦しい。
アランがすぐ気づいて近づいてきた。
「眠たいなら、寝ていてもいいんですよ」
やわらかくそう言う。
「……そうは、いきません」
レギュラスは少し眉を寄せた。
掠れてはいない。ちゃんと声は出る。なのにその言葉には妙な頑なさが混じった。
「あなたはもう起きている」
「動いているのに、僕だけ寝ているわけには」
言いかけて、少し息が乱れる。
それだけでも今の自分の余裕のなさがわかって、余計に苛立った。
アランはそんな彼を静かに見上げた。
「寝られる時に寝ましょう」
ただ、それだけを言う。
責めない。
叱らない。
頑張れとも言わない。
寝られる時に寝ればいいのだと、まるでそれが当然だと言うみたいに。
そんなふうに甘やかされると、もう駄目になる。
どんどん駄目になる。
レギュラスはそう思った。
自分は本来、こんなふうに扱われてはいけない人間だ。
弱音を許される側でも、休みたい時に休めばいいと言われる側でもない。立てるなら立て。動けるなら動け。そうして生きてきた。
なのにアランは、眠たいなら寝ていていいと言う。
怖い夜を越えられなかった翌朝に、無理をしなくていいと言う。
それでいいのだと、平気な顔で言ってしまう。
そんなことを許されたら、本当に立てなくなってしまう気がした。
どんどん彼女に依存してしまう。
夜に縋り、朝にも甘え、もう一人ではまともに戻れなくなる。
「レギュラス」
名前を呼ばれる。
見ると、アランはすぐそばに立っていた。
翡翠の瞳がまっすぐこちらを見ている。彼女は彼の考えていることを全部正確に読み取っているわけではないだろう。それでも、何か張りつめたものがあるときだけは、妙に勘がいい。
「だめになることと、休むことは、同じじゃないです」
静かな声だった。
「夜を越えるのに体力を使ったなら、朝に少し休むのは普通のことです」
「それは怠けてるんじゃなくて、回復の途中ってだけです」
あまりにもまっとうな言葉だった。
だからこそ、レギュラスは返す言葉が見つからない。
正しいのだろう。
彼女の言うことは。
頭ではわかる。
けれど正しさとは別のところで、自分の中の何かが怯えている。
誰かにこうして許されることに。
立てない自分を、そのままでいいと言われることに。
アランは少しだけ手を伸ばし、彼の袖を軽くつまんだ。
「今日は朝ごはん、あとでもいいです」
「少し横になりますか?」
その触れ方がひどくやさしくて、レギュラスは目を伏せた。
ほんの少し前の自分なら、そんな誘導は拒んでいただろう。
意地でも椅子に座り、食卓についたはずだ。
けれど今は、もう限界に近い眠気があった。
夜のたび削られていく心のせいで、朝が空っぽになっている。
「……少しだけ」
そう言うと、アランはほっとしたみたいに微笑んだ。
「はい」
「少しだけでいいです」
その“少しだけ”にすら、救われる。
全部を諦めるのではなく、今朝だけ。
今だけ。
そう言ってもらえると、負けた感じが少し和らぐ。
アランは彼を寝台へ導き、毛布を整えた。
横になると、身体の方が先に安堵した。自分が思っていた以上に疲れていたのだとわかる。瞼がすぐ重くなる。
けれど眠りに落ちるのはやはり怖くて、レギュラスは無意識にアランの袖口を掴んだ。
自分でも子どもじみていると思う。
離してやるべきだとも思う。
なのに指は離れなかった。
アランはその手を見て、何も言わず椅子を寝台のそばへ引き寄せた。
「ここにいます」
それだけ言う。
「だから、少しだけ休みましょう」
レギュラスは目を閉じた。
怖い。
眠るのはまだ怖い。
沈む感覚は消えない。
それでも、アランの体温がすぐそばにあると、湖は少し遠くなる。
彼女の気配が岸辺になって、ここは地上だと教え続けてくれる。
そんなふうに甘やかされると、もう本当に駄目になる。
どんどん駄目になる。
そう思いながらも、レギュラスは掴んだ袖を離せないまま、ゆっくりと眠気の中へ落ちていった。
朝、目が覚めても、身体がひどくだるい日があった。
夜を越えるだけで力を使い果たしたみたいに、手足が重い。目は覚めているのに、起き上がる気力がどこにもない。身体を少し動かしただけで、また寝台の奥へ沈んでいきたくなる。
そういう朝、レギュラスはただベッドに沈んでいた。
起きなければと思う。
もうテーブルで食事を取れるようになったのだし、ここまで回復しておいて、またこんなふうに寝台にしがみつくのはどうかしているとも思う。
思うのに、身体がついてこない。
毛布の中で浅く息をつき、半分だけ開いた目で木の天井を見ていると、やがてアランがこちらへ来る気配がした。
「起きてますか?」
小さな声と一緒に、食器の触れ合う音がする。
レギュラスがそちらへ目を向けると、アランは小さな盆を抱えて立っていた。湯気の立つスープと、切り分けられた柔らかいパン、それから少しだけ火を通した果物まで載っている。
「今日はこっちで食べましょう」
当然みたいに言って、彼女は寝台の脇へ盆を置いた。
レギュラスは一瞬、言葉を失う。
もうテーブルで取れるようになったというのに。
こんなふうにまた、朝食をベッドまで運ばれるなんて。
甘やかされている、としか言いようがなかった。
それなのに。
それが、心地よかった。
こんな朝くらい起きなくていいのだと、アランが先に決めてしまう。自分で葛藤する余地すらなく、はいどうぞと与えられてしまう。そのあまりの自然さに、抗う理由が少しずつ削がれていく。
「……すみません」
レギュラスは掠れのない声でそう言った。
喉はもう戻っている。だからこそ、こういう言葉も以前よりずっとはっきり発せられる。
「朝から、みっともないですね」
アランは盆を整えていた手を止め、少しだけ首を傾げた。
「昨晩、きつかったでしょうからね」
「仕方ないですよ」
あっさりと、そう言う。
まるで本当に何でもないことみたいに。
夜中に何度も起こされて、自分だって眠れていないはずなのに、そのことを恨みに変える気配がひとつもない。
レギュラスは目を伏せた。
みっともないのは事実だ。
情けないのも事実だ。
それでも彼女は、その事実を責める材料にしない。ただ昨晩きつかったのだから仕方ないと、それだけで済ませてしまう。
そういうところが、ずるいと思う。
アランは寝台の背を少し起こしてくれて、食べやすい位置に器を置き直した。レギュラスが受け取りやすいように、匙の向きまで整えてくれる。
「今日は無理に起きなくていいです」
「食べたら、また寝てください」
「そんなに甘やかすと、本当に立てなくなりますよ」
レギュラスが半分本気で言うと、アランは少し笑った。
「立てる日はちゃんと立ってますから、大丈夫です」
「今日は休む日です」
休む日。
そんな分類を勝手につけられてしまうと、もう反論しにくい。
レギュラスは観念したように匙を取り、スープを口に運んだ。温かい。味もやさしい。胃に落ちる感じが穏やかで、夜明け前から張り詰めていた身体が少しずつほどけていく。
「美味しいです、アラン」
そう言うと、彼女は満足そうに頷いた。
「よかったです、レギュラス」
朝食を食べ終える頃には、眠気がまた強くなっていた。
身体が“もう十分です”とでも言うみたいに、内側から重くなる。
アランは器を下げながら、
「じゃあ、お昼くらいまで寝ていてくださいね」
と言う。
言われるままに、レギュラスはまた横になった。
少しだけ、と自分では思っていても、そういう日は本当に昼過ぎまで眠ってしまう。
目が覚めたとき、部屋は静かだった。
アランはいない。
一瞬だけ胸がざわめく。
けれど以前とは違って、今度はすぐに視線がテーブルの方へ向いた。そこに何かがある気がしたからだ。
案の定、置き手紙があった。
小さな紙切れに、整った字で短く書かれている。
少し市場へ行ってきます。
起きたら、テーブルのパンを食べてください。
無理に歩き回らないこと。
すぐ戻ります。
その横には、本当にパンが置かれていた。
布がふわりとかけられていて、乾かないようになっている。隣には小さな瓶に入った果実の煮詰めたものまで添えられていた。
腹が減った時のために、だろう。
どこまでも至れり尽くせりだった。
レギュラスは寝台の上で、その紙をしばらく見つめた。
申し訳ない。
いたたまれない。
ここまで面倒を見させて、自分は何をしているのだろうと思う。昼過ぎまで眠り、起きれば食べ物が用意されていて、留守にするなら書き置きまである。患者としては理想的な扱いなのかもしれないが、一人の男としては情けなさが募るばかりだ。
それなのに。
甘えが許されるこの感じが、ひどく心地いい。
何も心配しなくていいように整えられていること。
空腹になる前に食べ物があり、自分が不安にならないよう行き先が書かれていること。
戻ってくると、当然のように約束されていること。
それら全部が、レギュラスの中の張りつめた部分を少しずつ溶かしていく。
彼はようやく起き上がり、ゆっくりテーブルの方へ歩いた。
以前より足取りはしっかりしている。それでもまだ完全ではない。だからこそ、こういう気遣いがありがたいのだと認めざるを得なかった。
布をめくると、焼き直したらしいパンからほんのり香ばしい匂いがした。
レギュラスはそれを手に取り、置き手紙をもう一度見た。
無理に歩き回らないこと。
まるで子どもに言い聞かせるみたいな一文に、少し笑ってしまう。
だがその笑いの奥にあるのは、嫌悪ではなく、どうしようもない安堵だった。
こんなふうに面倒を見られることに、慣れてはいけない。
心地よいと思いすぎてもいけない。
いつかここを出ていくのだとわかっているのだから、なおさら。
それでも今だけは。
この小さな家で、
置き手紙とパンを残して出かけていく女の気遣いに、
心を預けていたかった。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、静かな部屋の中でパンをちぎった。
申し訳ない。
いたたまれない。
それなのに心地いい。
その矛盾ごと、ゆっくり噛みしめるしかなかった。
その夜も、レギュラスは眠りに落ちる手前で発作を起こした。
胸がひどく上下している。
息を吸っているのに足りていないみたいで、喉の奥がひゅうひゅうと鳴る。目は開いているのに、もう半分は悪夢の向こう側にいるような顔だった。
「レギュラス、ここです」
「大丈夫、地上ですよ」
アランはいつものように寝台へ腰かけ、彼の背中をゆっくりさすった。
もう慣れた動きになっていた。
肩甲骨の間を、落ち着かせるように。
呼吸に合わせて、急がず、何度も。
そうしていると、彼の身体は少しずつこちら側へ戻ってくる。
今夜はいつもよりひどかった。
何度落ち着いても、またすぐ胸が跳ねて、指先がシーツを掴む。離れようとする意識を、必死に繋ぎ止めているみたいだった。アランは寝台の端に座ったまま、ずっと背中をさすっていた。時々、熱を確かめるみたいに肩へ手を置く。髪に触れそうなほど近づいて、呼吸の乱れを見守る。
「大丈夫です」
「沈んでいません」
「私がいますから」
何度目かわからないその言葉を、夜の静かな部屋に落とし続けた。
レギュラスは途中から、半分眠っているのか起きているのかも曖昧になっていた。
それでもアランの袖を掴んでいる。
指先にすがる力だけは、最後まで抜けなかった。
だからアランは、もう寝台の端から動かなかった。
背中をさすったまま、少しずつ自分の身体も傾いていく。眠気が重たく瞼に降りてくる。今日は市場へも行ったし、昼に薬草の仕分けもした。夕方にはスープを煮て、明日の分の調合も終わらせた。疲れていないわけがない。
それでも、彼が眠るまでは起きていようと思っていた。
思っていたのに。
いつの間にか、アランは同じベッドの上で目を閉じて眠ってしまっていた。
背中をさする手だけが、途中で止まったまま。
朝、目が覚めた瞬間、アランは自分がどこにいるのかわからなかった。
木の天井。
すぐ近くに規則正しい呼吸の音。
頬にかかるあたたかな吐息。
そして目の前には、レギュラスの顔があった。
「……っ」
心臓に悪かった。
あまりにも近い。
びっくりするほど近い。
まだ眠っているらしい彼の顔が、目の前にある。長い睫毛も、静かに閉じた銀の目も、寝起きの少し無防備な口元も、全部が近すぎる。整いすぎた顔立ちが至近距離にあると、暴力みたいだとアランは思った。朝一番で見るには刺激が強すぎる。
しかもしっかりと、しがみつくようにして眠っていた。
彼の腕が、アランの肩口にゆるく絡んでいる。
自分の方も、寝落ちする前に支えていた姿勢のまま、かなり彼に寄りかかっていた。
アランは一気に顔が熱くなるのを感じた。
なんでこんな。
いや、夜中の流れを思い出せば理由はわかる。発作がひどくて、寝台の端から離れられなくて、そのまま自分も寝落ちしてしまったのだ。でも、わかっていても心臓は全然落ち着かなかった。
朝食の支度をしなければ。
そう思って、そっと身体を動かそうとする。
するとそのわずかな動きで、レギュラスの睫毛が震えた。
まずい、と思った時にはもう遅かった。
彼もゆっくりと目を開ける。
至近距離で視線が合った。
アランは息を呑み、レギュラスは一瞬だけはっきりと驚いた顔をした。だが彼はすぐに視線を落ち着けて、少しだけ腕の力を抜いた。
「……すみません」
起き抜けの低い声でそう言う。
「一晩中、迷惑をかけてしまってますね」
その言い方があまりにもいつも通りで、アランは逆に少し落ち着いた。
自分だけが動揺していたのが、少し恥ずかしくなる。
「いいんです」
アランは慌てて首を振る。
「眠れましたか」
「少し」
レギュラスはそう答えて、いつものように控えめに笑った。
その笑みがあまりにも近くで見えて、アランはまた危うく固まりそうになる。
「少しでも眠れたならよかったです」
どうにかそう返して、アランは今度こそ寝台から抜け出した。
足を床につける時、まだ胸がどきどきしている。背中を向けたまま、小さく息を吐いた。
その朝からだった。
同じベッドに入るのが、少しずつ自然になっていったのは。
最初はあくまで発作の時だけだった。
寝台の端に座って、背中をさすって、呼吸が落ち着くまで側にいる。けれどそのまま彼がまた眠りに入りそうになると、アランも気が抜けて眠たくなる。椅子へ戻るより、このままの方が早い。少しだけ、と横になる。
そうして彼が眠るまで背中をさすっていれば、自分も一緒に寝落ちしてしまう。
それが何度も繰り返された。
夜中の薄暗い部屋の中で、アランはもうほとんど抵抗しなくなっていた。彼の発作がひどい夜ほど、寝台へ行くのも早くなる。声をかけ、背中をさすり、震えが小さくなるのを待つ。そうして気づけば隣に横たわっている。
レギュラスも、それを拒まなかった。
むしろアランが側にいる夜の方が、彼は少し深く眠れるようだった。
呼吸の乱れが収まるのが早い。
眠りの境目で何度も落ちかけていた意識が、彼女の体温ひとつで地上につなぎとめられるみたいだった。
そんなある日。
発作が収まり、部屋に静けさが戻ったあとだった。
アランはいつものように、背中をさすったまま寝台の端で彼を見守っていた。レギュラスは目を閉じていたが、まだ完全には眠っていないらしかった。
ふいに彼が目を開ける。
ひどく真剣な顔をしていた。
「……嫌じゃなかったら」
静かな声だった。
夜のせいで余計に深く響く。
「ここにいてくれると、眠りやすいです」
アランは瞬いた。
あまりにもまっすぐな頼み方だった。
駆け引きも、試すような色もない。ただ本当に、それを願っている人の顔だった。
アランは思わず、こくこくと頷いた。
「はい」
「います」
即答に近かった。
レギュラスの目元が、ほんの少しやわらぐ。
それを見た瞬間、アランの胸の奥がじんと熱くなった。
自分が、誰かの支えになれる。
それはアランにとって、とても嬉しいことだった。
学生時代、自分はいつも“大勢いるうちの一人”だった気がする。
いくらでも代えがきいて。
いてもいなくてもよくて。
誰かの一番に必要とされることなんて、たぶんなかった。
笑って、頑張って、ちゃんとしていても、それでも結局は“その他大勢”のままだった、あの頃の可哀想な自分。
けれど今は違う。
レギュラスが、自分を必要としている。
自分がここにいることで、彼は眠れる。
自分の手が、声が、体温が、彼を地上につなぎとめている。
そのことが、アランにはたまらなく嬉しかった。
昔の自分を、少しだけ救ってやれる気がした。
いてもいなくてもよかった自分ではなく、今ここにいてほしいと願われる自分でいられる気がした。
だからアランは、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫です」
「ちゃんといますから」
レギュラスは何も言わなかった。
けれどその指先が、ほんの少しだけ強くアランの手を握る。
その小さな力が、彼の信頼そのものみたいに思えた。
だからアランは決めた。
レギュラスが手を伸ばしてくる限り。
絶対に、その手を離したりしないようにしようと。
夜のたびに引き戻す。
悪夢の底へ沈みそうになるたび、ここにいると教える。
彼が自分の力で眠れるようになるまで、何度でも背中をさする。
この人が必要としてくれるなら、自分はそこにいたい。
それはもう、ただの治療だけではなかった。
けれどアランはまだ、その名前を知らないふりをしていた。
その夜、レギュラスは久しぶりに、まとまった眠りを取れた。
途中で何度か浅く意識は浮いたけれど、胸が跳ね上がるような発作にはならなかった。眠りの底へ落ちる瞬間も、すぐ隣にあるアランの体温が地上の輪郭を保ってくれていた。背中に回された小さな手と、規則正しい呼吸が、湖ではなく眠りなのだと身体に教え続けてくれた。
だから翌朝、目が覚めた時の頭の重さが少し違った。
まだ万全ではない。
だが、起き上がれる。
身体の奥にわずかな力が戻っているのを感じて、レギュラスは寝台の上でしばらく黙っていた。
世界に足を踏み出さねばと思った。
一人では今はとても行けない。
外へ出て、人の声を浴びて、知らない気配の中を歩くなど、今の自分にはまだ荷が重い。だが彼女の隣でなら。一緒ならば。外に出られるという日を増やしたかった。
だからアランが支度を始めた時、レギュラスは自分から声をかけた。
「今日は、どこかへ行くんですか」
アランは薬瓶を布で包みながら振り向いた。
「ええ。診療所と薬局に少し」
「あと市場にも寄る予定です」
「それなら」
レギュラスは少し言葉を選んでから、
「荷物持ちでもなんでもしますから、付き添わせてください」
と言った。
アランは目を丸くした。
少し考えるように彼を見つめる。その翡翠の瞳の中に、無理をさせていいものかという逡巡が見えた。
「……大丈夫ですか?」
「歩けるところまでで構いません」
「無理なら、すぐ戻ります」
それでもアランはまだ少し迷っていたが、最後には頷いた。
「じゃあ、本当に無理はしないでくださいね」
「荷物持ちでも何でも、は半分だけ聞いておきます」
レギュラスはその言い方に少し笑った。
「半分だけ?」
「全部真に受けると、倒れるまで頑張りそうですから」
図星で、彼は何も返せなかった。
外の空気は、まだ少し冷たかった。
小さな家の扉を出て、アランの隣に並ぶ。
それだけのことなのに、足元が少し不安だった。けれど一歩ずつ進めば、ちゃんと地面は硬い。湖の水みたいに足を奪ってはこない。
市場で買い物なんて、学生時代のホグズミードくらいしか記憶にない。
それも、友人たちと気軽に歩いた学生の町であって、生活を支えるための買い物ではなかった。今目の前に広がっているのは、もっとずっと生々しい暮らしの場だ。人が大きな声で値を呼び、品物を抱え、足早に行き交っている。
だがその前に、アランはまず診療所へ寄った。
小さな建物の裏口から入り、調合した薬を卸す。
瓶の数や種類を確認され、手帳に記録がつけられる。アランは慣れた様子で受け答えしていた。次に薬局へ行って、また別の薬を渡す。そこでも軽く話をし、次の依頼について何か言葉を交わしている。
レギュラスはその様子を黙って見ていた。
こんなに色々行っていたんですね、と素直に思った。
小さな家の中で、薬を煎じたり刻んだりしている姿は見ていた。だがそれがこうして外のあちこちへ繋がっているとは、改めて見るまで実感していなかった。
「こんなに色々行っていたんですね」
思わず口にすると、アランが振り向いた。
「毎日ではないですけどね」
「でも、家で作って終わりじゃないので」
「そうでしょうね」
レギュラスは頷く。
当然のことなのに、自分はその“当然”を知らなかった。
それから市場へ入る。
途端に、空気が一気に濃くなった。
商人の掛け声が近い。
威勢のいい声が、無遠慮に耳へ入り込んでくる。野菜、魚、果物、布、香辛料。色んな匂いが混ざっていて、足元も人の流れで落ち着かない。
アランはその中を、慣れた足取りで進んでいく。
レギュラスは少し遅れながらついていった。
買い物の仕方も、正直よくわからない。アランはどれも同じに見える野菜を前にして、真剣な顔で吟味していた。重さを手で確かめ、傷み具合を見て、値段を聞き、納得してから籠へ入れる。
そのひとつひとつが、レギュラスには知らない世界だった。
少し、苦手だった。
距離が近すぎる。
人の声が直接すぎる。
屋敷や社交の場にはある、見えない線引きみたいなものがここにはない。誰もが誰かの懐へ平気で踏み込んでくる。
だから、不意に腕を触られた時、レギュラスは肩を強張らせた。
振り向けば、身なりの整っていない女が立っていた。
にやりとした笑みを浮かべて、距離が近い。
「お兄さん、薔薇はいかが?」
「薔薇……ですか?」
レギュラスは面食らって聞き返した。
薔薇。
屋敷ではよく飾られていた。
ヴァルブルガが好むからだ。深い紅のものも、白いものも、客間や食卓に当然のようにあった。
アランと暮らすあの小さな家には、少し合わない気もする。
けれど女はこういうものが好きだろうか、とも思う。アランが花を部屋に置いたらどんな顔をするのか、そんなことまで一瞬で頭をよぎった。
その時だった。
ぐい、と手を引かれた。
アランだった。
「レギュラス、いりませんよ」
きっぱり言って、そのまま彼を女から引き剥がす。
細い腕なのに、意外と力があった。レギュラスは半ば押されるように数歩離れ、ようやく立ち止まる。
「……?」
あまりにも即断だったので、彼は少し戸惑った。
アランはそのまま何食わぬ顔で歩き出そうとする。
「アラン」
呼び止めると、彼女が振り向く。
「薔薇という割に、薔薇を持ってませんでしたけど」
「どういうことです?」
単純に疑問で聞いた。
するとアランは一瞬だけ黙り、それから何とも言えない顔をした。
困ったような、呆れたような、でも少しだけ面白がっているような。
「あのですね」
声を潜める。
「あれは、本当に薔薇って意味じゃなくて」
「男性が好きな女性を買っていいですよ、っていう場所に連れて行かれるんです」
レギュラスは一拍遅れて、その意味を理解した。
ああ。
そういうことか。
頬の熱がじわりと上がるのを、自分でも感じた。
無知だった。あまりにも。
市場の雑多な空気にも慣れていないくせに、そこへ含まれる隠語や合図の類まで理解できるはずもない。自分がどれだけ世間知らずかを、こんなところで思い知らされるとは思わなかった。
「……なるほど」
それしか言えなかった。
アランは腕を組み、少しだけ眉を上げる。
「なるほど、じゃないです」
「ついて行かなくてよかったです、本当に」
「ついて行くつもりは」
「ありましたよ」
「少なくとも、薔薇を買う方向では考えてました」
そこまで言い当てられて、レギュラスは目を逸らした。
事実だった。
あの小さな家に合うかどうかまで、一瞬考えていた。
「……あなたが喜ぶかもしれないと」
小さくそう言うと、アランは一瞬だけ目を瞬いた。
「私が?」
「花が」
「好きかもしれないと、思っただけです」
そう口にした途端、自分で自分の言葉に少しだけいたたまれなくなる。
何を言っているのだろうと思う。
だがアランは、思いのほかやわらかい顔になった。
「花は、嫌いじゃないです」
そう言ってから、少し笑う。
「でも次からは、本当に花を売ってる人から買ってくださいね」
レギュラスはようやく苦笑した。
「肝に銘じます」
「ちゃんとです」
「ええ、ちゃんとです」
アランは満足したように頷いて、また野菜の並ぶ方へ歩いていく。
レギュラスはその後ろ姿を見ながら、まだ少し残る恥ずかしさを胸の内で噛みしめた。
世界に足を踏み出すというのは、こういうことなのだろう。
知らないものに触れて。
自分の無知を知って。
時には少し恥をかいて。
それでも一人ではなく、隣に誰かがいてくれるから戻ってこられる。
アランが振り返る。
「レギュラス、こっちです」
その声に、彼はすぐ歩き出した。
「はい、アラン」
世界はまだ少しうるさくて、少し怖い。
けれど彼女の隣でなら、その中へ出ていく日を増やしていける気がした。
こんな生活を、数か月も続けていれば。
当然、情は芽生える。
命を拾われ、介抱され、眠れない夜をいくつも越えるために同じ寝台で体温を分け合ってきたのだ。しかも相手は、ただ優しいだけではない。レギュラスが最も無様で、最も弱っていた時期を知っていながら、それでも変わらずに隣へいてくれた女だ。
情だけで済むはずがなかった。
身体の回復が、完全に近づけば近づくほど。
今までは押し込められていた生理的な欲求が、またゆっくりと顔を出し始める。
人が生きているからこそ芽生える欲求だった。
生きるための食欲や睡眠欲だけではない。
もっと別の。
異性の肌を求めようとする、ごく原始的で、けれど確かな欲求。
それが戻ってきたことに、レギュラスは奇妙な感慨すら覚えた。
ああ、自分の身体はそこまで回復したのか、と。
あの家の薬棚には、ずらりと材料が並んでいる。
薬草、粉末、乾燥させた根、見慣れない鉱物片、小瓶に詰められた抽出液。
アランはそれらを組み合わせ、自分に飲ませ、塗り、吸わせ、数ヶ月かけて地獄の湖のあとからここまで引き戻した。
すごい腕の女だと思う。
そして今、その女は夜になると、すぐ隣にいる。
もうそれは習慣みたいになっていた。
眠りに落ちる時、アランの体は近い。
悪夢の底へ落ちないために、縋りつくように腕を回す。そうしていると、これ以上沈まなくてよくて、安心できる。アランの体は、とてつもなく安心をくれる支えだった。
けれど今夜は、少し違った。
安心として縋りつきたくて触れるのではない。
もっと奥の。
彼女の核となる部分を、こちらに差し出してほしいと思った。
そして自分が渡そうとするものも、受け取ってほしいと思った。
隣で眠るアランの呼吸は穏やかだった。
薄暗い部屋の中で、彼女の黒い髪が枕に広がっている。手を伸ばせば触れられる距離にいて、実際、いつも触れているのに。今夜はその距離が妙に苦しかった。
「…… アラン」
名前を呼ぶと、彼女がうっすらと目を開けた。
「はい、レギュラス?」
寝入りばなの、やわらかい声だった。
その無防備さに、余計に喉が詰まりそうになる。
「その……嫌じゃなかったら……」
そこまで言って、レギュラスは言葉に詰まった。
こんなふうにたどたどしく誘うような男ではなかった。
むしろ過去には、女の方からいくらでも寄ってきた。何もここまで言葉を探す必要などなかったし、欲しいと望まれることに慣れていた。
なのにアランの前では、何も通用しない。
言葉にして誘おうとすることが、こんなにも恥ずかしいのかと、レギュラスは初めて知った。
ただでさえ、彼女には最悪の時期を見られている。吐いて、震えて、眠れなくて、夜中に縋りついていた男が、今さら何を、と自分でも思う。
けれど欲求は、そういう理性では引かなかった。
アランは、まだ眠たげな目のまま彼を見た。
それから少しだけ考えるように瞬きをして、やがてやさしく微笑んだ。
「嫌じゃないです」
レギュラスの胸が、一瞬だけ強く打つ。
だが次の言葉で、その高まりは少し妙な方向へ転んだ。
「だからこうして眠るでしょう?」
そう言って、アランはいつも通りの抱擁をしてきた。
腕が回る。
背中をゆっくりさする。
大丈夫だと伝えるような、あの触れ方。
レギュラスは目を閉じた。
わかっている。
それを今までずっと求めてきた。
そのおかげで乗り越えられた夜がたくさんあった。
けれど今は、そうじゃない。
そういうのじゃないものを、こちらは「嫌じゃなかったら」という言葉に乗せて求めたのだ。
だが、伝わらない。
いや、伝えていないのだから当然だった。
こんな曖昧な言い方で通じるほど、この話題はやさしくない。
アランは何も疑っていない。
ただ、また不安な夜なのだと思っている。だからいつものように落ち着かせようとして、背中をさすってくれる。
その手が、今夜に限ってひどく残酷だった。
やさしい。
あまりにもやさしい。
だからこそ余計に、こちらの欲が卑しく思える。
「……レギュラス?」
反応が薄いのを不思議に思ったのか、アランが少しだけ体を離して顔を覗き込もうとする。
レギュラスはその前に、彼女の肩口へ額を押しつけた。
「いえ」
「……大丈夫です」
声が少し低くなる。
自分でも、わずかに苦い響きが混ざったのがわかった。
抱かせてほしい、などという品のない言葉は絶対に言いたくなかった。
それを口にした瞬間、何かが決定的に崩れそうだった。
今まで積み上げてきたものの輪郭が変わる気がしたし、何より、彼女があまりにも無垢に自分を支えてくれている今、それを欲望で汚すみたいで耐えがたかった。
意地と。
プライドと。
欲求が。
こんなにもぼろぼろの姿を見られたあとでさえ、なおレギュラスの中でせめぎ合っていた。
アランはまだ事情を理解していない顔で、彼の髪にそっと手をやった。
「今日は少し落ち着かないですか?」
問いかけが、あまりにもずれていて。
けれどそのずれ方すら、アランらしかった。
レギュラスはほとんど笑いそうになった。
笑えないのに、可笑しくて、情けなくて。
「……そうですね」
苦し紛れにそう答えると、アランは真面目に頷いた。
「じゃあ、いつもよりしっかり背中さすります」
その返しに、とうとうレギュラスは本当に小さく息を漏らした。
笑いなのか、ため息なのか、自分でもよくわからない。
アランの手は、何も知らないまま背中を撫で続ける。
沈まないように。
安心できるように。
ただそれだけのつもりで。
レギュラスはその手の下で、目を閉じた。
欲しかったのは、たしかにこれではない。
けれど、これでしか満たされないものが自分の中にあるのも事実だった。
アランの腕の中にいると、まだ少しだけ世界が静かになる。
欲が苦しくても、みじめでも、ここにいれば呼吸はできる。
それが余計に、どうしようもなかった。
「アラン」
かすかに呼ぶと、彼女はすぐに応じた。
「はい?」
その素直さに、レギュラスはしばらく黙る。
言うべき言葉は、ついに見つからなかった。
「……いえ」
「ありがとうございます」
結局、そんな無難なところへ逃げるしかない。
アランはやわらかく微笑んだ。
「どういたしまして」
そしてまた、何も知らない手つきで彼の背を撫でる。
レギュラスは暗い天井の方へ視線を上げた。
情が芽生えるのは当然だ。
その先まで欲してしまうのも、きっと当然なのだろう。
けれど、彼女のやさしさに甘えてここまで来た自分が、次に何を望んでいいのかはまだわからない。
ただ今夜は、欲求を喉の奥へ押し込めたまま、
いつものように彼女の腕の中で眠るしかなかった。
