1章
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彼女は、ソファーで寝ていた。
最初にそれに気づいたとき、レギュラスはしばらく目を逸らせなかった。
部屋の隅に置かれた小さなソファー。寝台のような幅はなく、身体をまっすぐ伸ばすには明らかに足りない。けれどアランは細く、小さな体を器用に丸めるようにして、そこで眠っていた。薄い毛布を肩まで引き上げ、黒い髪を少し乱したまま、浅い眠りに落ちている。
あれで、なんとか足りてしまうのだろう。
そう思うと、申し訳なかった。
自分がこの狭いベッドを占領しているから。
本来なら彼女の部屋であるはずなのに、彼女はあんな場所で身体を休めている。
なのに自分はいまだ、ベッドの上からまともに動けもしない。
少し身体を起こすだけでも息が切れる。
寝返りさえ、一人ではろくに打てない。
腕に残る栄養剤の痕、寝台脇に並べられた薬瓶、蓋付きのマグカップ。どれを見ても、自分がまだ完全に介抱される側の人間であることを嫌でも思い知らされた。
夜中、悪夢にうなされて起きることがある。
というより、ここ数日はそればかりだった。
水の底だった。
黒い湖が、毎晩のように夢の中で口を開く。喉の奥へ水が流れ込む感覚。肺が焼ける痛み。亡者の手が足首に絡みつき、指先まで冷たく引き摺り下ろしていく重み。助からないと理解していながら、なお息を求めてみっともなくもがく自分。
それらがあまりにも鮮明で、夢から醒めたあとも現実との境目がしばらくわからなくなる。
その夜もそうだった。
息ができないと思って、レギュラスは弾かれたように目を開いた。喉がひどく乾いている。胸が苦しい。シーツの上で指が強張り、呼吸が浅く速くなる。目の前は木の天井なのに、身体だけがまだ湖の底にあるみたいだった。
かすれた息が漏れた瞬間、ソファーで眠っていたアランが飛び起きた。
「……大丈夫です、今行きます」
寝起きで掠れた声なのに、動きだけは驚くほど早い。
毛布を払い、素足のまま床を踏んで、すぐに寝台のそばへ来る。いつもと同じように、彼女は戸棚から小さな紙包みを取り出した。細かい粉末薬を吸入器具に入れ、慣れた手つきで差し出してくる。
「これを。息、楽になりますから」
レギュラスは震える手でそれを受け取る。
吸い込む。
粉末が喉の奥に触れ、さらに肺の方へ落ちていく。最初はわずかに刺激がある。けれど数秒も経たないうちに、あれほど暴れていた呼吸が少しずつ落ち着いていくのがわかった。胸の内側に広がっていた無秩序な痙攣が、ひとつひとつ鎮められていく。
魔法みたいな薬だった。
実際、魔法薬なのだから当然なのだが、それでもそう思わずにはいられない。つい今しがたまで肺の奥まで恐怖で縮み上がっていたのに、これを吸うと身体が思い出したように呼吸の仕方を取り戻す。
レギュラスが少し息を整えるまで、アランは何も言わず背中に手を添えていた。
その手は小さい。
けれど確かで、妙に安心する。
「……落ち着いてきましたか」
問いかけに、レギュラスはかすかに頷く。
彼女はそれを見ると、ようやく肩から力を抜いた。眠っていたところを起こされたはずなのに、迷惑そうな顔はひとつもしない。ただ本当に、彼が落ち着いたことに安堵しているようだった。
そんな夜が何度もあった。
そして食事のあとには、時々吐き気が来る。
少しずつ口から摂れるようになったのはいい兆候だとアランは言う。けれど身体はまだ完全に受け入れきれないのだろう。胃が痙攣し、喉の奥がせり上がってくる感覚が急に来る。予兆はあっても、身体が追いつかない。
動けない分、その場で吐くしかなかった。
間に合わない。
身体を起こすのにも時間がかかる。
器を寄せてもらうのも、自分からはまともに言い出せない。
結果としてシーツを汚すことになる。
そのたびに、レギュラスはひどい羞恥に襲われた。
惨めだった。
情けなかった。
信じたくなかった。
自分の吐瀉物の処理まで、よく知らない女にさせているなんて。
ブラック家で生きてきた人間としてではなく、一人の男として耐えがたい屈辱だった。弱っている姿を見られるのも、本来なら我慢ならない。なのに今はその最たるものを毎日のように晒している。
あるとき、また食後に急に込み上げてきて、レギュラスは身を捩った。
耐えようとしたが無理だった。
喉が焼けるように収縮し、結局ベッドの上に吐き散らかしてしまう。
酸の匂いが広がる。
熱い羞恥で顔が引きつる。
息を切らしたまま目を閉じると、アランがすぐに傍へ来た気配がした。
責められると思ったわけではない。
彼女が責める人間ではないことくらい、もう知っていた。
けれどその優しさが、かえって自分を追い詰めることがある。
「……吐く力が戻ってきた証拠です」
アランは落ち着いた声でそう言った。
「いい兆候ですよ」
いい兆候。
そう言われても、レギュラスにはとてもそうは思えない。
汚したのだ。
また彼女に手間をかけさせたのだ。
それを前向きな言葉で包まれるほど、みじめさが増す気がした。
「ベッドをきれいにしますね」
そう言って彼女は、ためらいなく彼の身体を起こしにかかる。
この作業でさえ、介助が要る。
レギュラスはそのたび、自分がどれほど無力になっているか思い知らされる。脇に腕を差し入れられ、背を支えられ、少しずつ体勢を変えられる。自力でできることではない。情けなかった。消えたいくらいだった。
アランは彼の重みを必死に受け止めながら、汚れたシーツから身体をずらしていく。細い腕なのに、どうしてこんなに根気よく支えられるのだろうと思う。息を詰めながらも、彼女は一度も乱暴にならない。あくまで壊れものに触れるみたいに慎重だった。
ようやくレギュラスを椅子代わりのクッションにもたれかからせると、アランは濡れ布と清めの魔法で手早く寝台を整え始めた。
その小さな背中を見ると、たまらなく苦しくなった。
自分のみっともなさを、目の前で形にされているようだった。
彼女は何も言わない。
嫌な顔もしない。
ただ当たり前みたいに処理して、汚れたものを片づけ、清潔なシーツを敷き直す。
その当たり前が、余計につらい。
もし彼女が呆れたり、あからさまに迷惑がったりしたなら、いっそ楽だったかもしれない。こちらもそれを見越して心を固くできる。だがアランはそんな顔をしない。彼の無様さを、無様さとして扱わない。ただ回復途中のひとつの症状として受け止めてしまう。
それがひどく苦しかった。
けれど同時に。
楽でもあった。
与えられたものを食べて、
薬をもらって、
寝かされて、
起こされて。
何も考えなくていい感じは、あまりにも楽だった。
本来の自分なら、そんな状態を忌々しく思うはずだった。誰かに管理され、指示され、世話をされるなど、耐えがたいはずなのに。今はそのすべてが、妙に甘やかな安堵を伴っていた。
全部、任せてしまっていい。
その感覚はとても大きかった。
いつ薬を飲むか。
どれだけ食べるか。
今日はどこまで身体を起こしていいか。
悪夢のあと何を吸えば落ち着くか。
何もかも彼女が決めてくれる。
自分はそれに従っていれば、生き延びられる。
ひどく受動的で、屈辱的で、それなのにどうしようもなく心地よい。
判断を手放してしまえることが、こんなにも楽だとは思わなかった。
アランは寝台を整え終えると、振り返って彼を見た。
「もう一度、横になりますか」
レギュラスは少しだけ視線を逸らした。
返事の代わりに、わずかに頷く。
彼女は何も言わずに近づき、また身体を支えた。
腕を回され、重みを預ける。
それは屈辱であると同時に、ほっとする行為でもあった。自分では支えきれない身体を、彼女が迷いなく受け止めてくれる。その確かさに、勝手に力が抜ける。
寝台に戻され、背の下のシーツが新しい感触に変わる。
吐いたばかりで気分はまだ悪い。
喉も胸も焼けるようだ。
それでも整えられたベッドに横たわると、身体が少しだけ安堵した。
アランが濡れ布で口元を拭ってくれる。
「少し休みましょう」
「次はもう少し軽いものにしますから」
その言い方が、あまりにも自然だった。
失敗したとか、迷惑だったとか、そういう空気を一切含まない。ただ次はどう回復を助けるか、それだけを考えている声音。
レギュラスは彼女を見た。
翡翠の瞳は静かで、責める色を持たない。
そんな目で見られると、こちらの方が壊れそうになる。
無様だ。
情けない。
見苦しい。
それでも彼女は、自分を患者として扱い続ける。
嫌悪も侮蔑も交えずに。
レギュラスは目を伏せた。
全部任せてしまっていいという安心感は、とても大きかった。
大きすぎて、たまに怖くなるほどだった。
このまま回復して、歩けるようになって、声が戻ったら。
自分はここを出て行くのだろうか。
また自分で決め、自分で動き、自分で全てを背負う側へ戻るのだろうか。
当然そうすべきなのに。
今はまだ、この狭い部屋で、
彼女がソファーで眠り、
自分はベッドで介抱されるこの異様な日々の中に、
沈むように甘えていたかった。
そんなことを思う自分が、一番信じられなかった。
名前を聞かれたとき、レギュラスはほんのわずかに息を止めた。
ここへ来てから、彼女はまだ一度も深く詮索しなかった。
事情も、出自も、なぜあの湖にいたのかも。
聞こうと思えばいくらでも聞けたはずなのに、アランはそれをしなかった。ただ治療に必要なことだけをして、必要な分だけ言葉を交わし、回復を見守ってきた。
だからこそ、今さら名前を口にすることが、妙に重たく感じた。
名乗るべきだとは思う。
少なくとも、命を救われておいて名無しのままでいるのは卑怯だ。
けれど。
ブラックの姓だけは、言えなかった。
この魔法界で、その姓が持つ意味は大きすぎる。
シリウス・ブラック。
騎士団に入り、名を知られ、英雄のように語られるあの兄と。
闇の魔法使いたちを何人も輩出してきた、その他のブラック一族。
自分は後者だ。
あの姓を出した瞬間、この部屋の空気が変わる気がした。
今ここにある穏やかさが、ひび割れてしまう気がした。
怖がらせてしまうかもしれない。彼女の翡翠の瞳に、警戒や嫌悪が宿るのを見たくなかった。
だからレギュラスは、短く息を整えてから言った。
「……レギュラスです」
自分の名だけを。
アランはその名を一度胸の中で確かめるみたいに、静かに繰り返した。
「レギュラス」
やわらかく発音されると、それだけで妙にくすぐったい。
自分の名なのに、誰かにそんなふうに呼ばれることに慣れていなかった。
「レギュラスと呼んでいいのですか」
真っ直ぐにそう聞かれて、レギュラスは少しだけ目を細めた。
「ええ」
「そうしてください」
アランはほっとしたように微笑んだ。
その反応があまりにも素直で、レギュラスの肩からも少し力が抜ける。
「あなたのことは?」
そう尋ねたところで、自分でも少し妙だと思った。
名前はもう知っているのだ。
ヒーラー資格の証明書に載っていた。
顔写真の横に、はっきりと記されていた名前。
アラン・セシール。
けれどそれを、改めて彼女自身の口から聞きたかった。
紙の上の文字としてではなく、彼女の名前として。
アランは少しだけ首を傾げて、それからすぐに答えた。
「アランと呼んでください、レギュラス」
その言い方があまりにも自然で、レギュラスは思わず笑ってしまった。
早速呼ぶのか、と。
つい今しがた名を知ったばかりなのに、まるで最初からそうしていたみたいに、なんのためらいもなく名前を口にする。その無邪気さが可笑しかった。可笑しいのに、胸の奥があたたかくなる。
「ずいぶん、迷いがないんですね」
レギュラスが言うと、アランはきょとんとした。
「だって、そう呼んでいいって言ってくれたでしょう?」
まるで何かおかしなことを言ったのはこちらだとでもいう顔だった。
レギュラスはまた笑う。
喉に響きすぎないよう気をつけながら、それでも笑みは抑えきれなかった。
「そうでしたね」
「はい」
アランもつられるように笑う。
そのやりとりが、なんでもなさすぎて、眩しかった。
ブラック家では、名前にはいつも何かがまとわりついていた。
家格、期待、失望、血筋、役割。
ただ呼ばれるだけで終わることなんてほとんどない。
誰かの息子として、誰かの弟として、何を背負う人間かまで含めて名前は存在していた。
けれど今ここでの「レギュラス」は違う。
ただの自分の名だった。
彼女に呼ばれるためだけの、軽くて静かな音だった。
アランは寝台の脇の椅子に座り直しながら、もう一度口にした。
「レギュラス」
「……なんです?」
「呼んでみたかっただけです」
あまりにも率直で、レギュラスは一瞬言葉を失う。
それから、少し困ったように息を吐いた。
「あなたは時々、驚くほど遠慮がない」
「そうでしょうか」
「ええ」
アランは少し考えてから、小さく笑った。
「でも、よかったです」
「ずっと『あなた』って呼ぶのも変ですし」
「それは確かに」
「でしょう?」
うれしそうに言うものだから、レギュラスはまた目元を和らげた。
名前を呼ばれる。
それだけのことなのに、胸の奥に波紋が広がる。
レギュラス。
アランの声で呼ばれるその音は、思っていたよりずっとやさしい響きをしていた。
彼はふと、彼女の方を見た。
「…… アラン」
今度は自分が呼ぶ。
すると彼女は、ほんの少しだけ目を見開いた。
それからふわりと笑う。
「はい」
たったそれだけで、なぜこんなにも胸が詰まるのだろうと思った。
互いに名前を知っただけだ。
何も始まっていないし、何も変わっていない。
それでも確かに、何かが変わった気がした。
この部屋の空気が少しだけ近くなる。
よそよそしかった距離に、薄い橋がかかる。
アランはそのまま、どこか楽しそうに言った。
「じゃあこれからは、ちゃんとレギュラスって呼びますね」
「……もう十分ちゃんと呼んでいましたよ」
「もっと呼びます」
「なぜです?」
「せっかくですから」
理屈になっていない。
けれどそれが彼女らしい気もして、レギュラスは肩を揺らした。
笑うとまだ喉が少し痛む。
だがその痛みさえ、今は悪くなかった。
アラン。
レギュラス。
ただそれだけを交わしただけなのに。
それだけで、この部屋の温度がほんの少し上がったような気がした。
目が覚めたとき、部屋が静かすぎて、レギュラスはすぐに違和感を覚えた。
いつもなら何かしら気配がある。
薬草を刻む音や、湯の沸く小さな音や、ページをめくる気配。アランは静かな女だったが、それでもこの狭い家の中にいれば、彼女が生きて動いている気配はどこかに必ずあった。
なのに、今日は何もない。
レギュラスは薄く息を吸った。
そんなに広くもない家だった。
いや、広くないどころではない。信じられないほど簡素で、小さい。部屋はひとつしかない。寝台も、ダイニングテーブルも、キッチンも、棚も、暖炉も、全部がひとつの空間に押し込められている。
ブラック家では考えられない間取りだった。
あの屋敷では、寝るための部屋と食事のための部屋は当然のように分かれていたし、一人が使うだけの書斎ですらここより広い。だがこの家には境目がない。生活のすべてが、この一室にそのまま置かれている。
それなのに。
その狭い部屋の中に、彼女が見当たらなかった。
レギュラスはゆっくりと体を起こした。
もう、一人で起き上がることはできる。
少しなら歩けるようにもなった。
回復しているのだと、頭では理解している。
だがそれは、あくまで“少し”だ。
足を床につけると、まだ身体の内側に鈍い痛みが走る。喉はほとんど治っていても、胸の奥には疲労が残り、脚にはすぐ力が尽きる。杖もない。こんな状態で敵と遭遇すれば、あっという間に終わる。自分がまだぼろぼろなのだということは、嫌になるほどわかっていた。
「…… アラン?」
呼んでみる。
返事はない。
寝台の脇。小さなテーブル。キッチンの前。窓辺。ソファー。
どこにもいない。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
狭い家なのに。
一人で置かれていると、ひどく恐ろしかった。
ただ誰もいないというだけで、空間の輪郭が急に不穏に見え始める。静かすぎる部屋の隅に、あの湖の気配がまた滲んでくる気がした。悪夢は眠っている時だけではない。少し隙があれば、起きている間にも入り込んでくる。
このまま、一人で置かれて。
またあの黒い水の底へ引き戻されたらどうする。
馬鹿げた考えだとわかっているのに、身体は先に反応してしまう。
呼吸が速くなる。
脈が上がる。
指先が少し冷える。
レギュラスは立ち上がり、数歩だけ歩いた。
扉の方へ向かう。床板が小さく軋む。その音さえ妙に大きく聞こえる。
どこへ行った。
なぜ何も言わずに。
戻るのか。
戻らないのか。
思考が、悪い方へ転がりそうになる。
その時だった。
扉が開いた。
外の光と一緒に、アランが入ってくる。
両腕に荷物を抱えていた。布袋から細い根菜が覗き、紙包みと丸いパンの端が見える。もう片方の手には、包まれた魚らしい細長い影もあった。
「レギュラス!」
アランは彼の姿を見るなり目を見開いた。
それからすぐ、ぱっと表情を明るくした。
「起きていたんですね。お魚が手に入ったんですよ。塩焼きにしましょう」
その声を聞いた瞬間。
レギュラスの呼吸が、すっと落ち着いた。
自分でもわかるほどだった。
乱れていた拍が、少しずつ元へ戻っていく。強張っていた肩の力が抜ける。開いたままだった唇から、長いため息が漏れた。
アランはそんな彼の様子に気づいたのか、荷物を置くより先に少し心配そうな顔になる。
「どうしましたか?」
「苦しかったですか?」
「いえ……」
レギュラスは首を振った。
それから、まだ少しだけ掠れる声で尋ねる。
「どちらへ?」
アランはきょとんとして、それからすぐに答えた。
「調合した魔法薬を卸してきました。市場にです」
「そのお金で、魚とか根菜とか、パンも少し買いましたよ」
市場。
魔法薬を卸す。
その金で食料を買う。
ごく普通の、ここでの生活の話だった。
置いていくつもりだったわけではない。
姿を消したわけでも、見捨てるつもりでもない。
ただ、この家の暮らしを繋いでいくための外出だったのだ。
それがわかると、レギュラスはひどく安堵した。
滑稽なほどに。
「……そうですか」
たったそれだけ返すのが精一杯だった。
それ以上何か言えば、今の自分がどれほど動揺していたか滲み出てしまいそうで。
アランは彼をじっと見た。
何かを察したような、けれど問い詰めない目だった。
「もしかして、起きたとき誰もいなくて不安でした?」
あまりにそのまま言い当てられて、レギュラスは一瞬黙った。
否定したい。
そんな子どもみたいなこと、と。
だが今さら取り繕うのも無意味な気がした。
「……少し」
と答えると、アランは荷物を抱えたまま、ふっとやわらかく笑った。
「ごめんなさい。起きる前に戻れると思ったんですけど、魚屋さんが今日は少し混んでいて」
その説明の仕方まで、ひどく生活に根ざしていて。
レギュラスはまた静かに息を吐く。
市場が混んでいた。
魚屋に並んでいた。
その程度の理由で彼女は遅れただけなのだ。
こんなふうに日々は続いている。
命を拾われた劇的な日だけではなく、そのあとも当たり前に買い物があって、薬を売って、食材を選んで、料理をして、生きていくための時間が流れている。
その中に自分も入れられているのだと、ようやく実感した。
アランは荷物をテーブルに置きながら言った。
「次からは書き置きしておきますね」
「市場に行ってきます、って」
「……いえ、そこまでしていただかなくても」
「でも心配させてしまいましたから」
あっさり言ってしまう。
レギュラスはその背を見つめた。
小さな体で荷物をほどき、魚を包みから出して、水桶の横へ置いている。もう完全に、今夜の食卓の支度を始めていた。
「塩焼きなら食べやすいと思うんです」
「根菜はスープにしましょうか。パンは少し炙った方がおいしいかな」
そんなことを独り言みたいに言いながら、手際よく動いている。
レギュラスは扉のそばに立ったまま、その姿を見ていた。
自分が不安に陥っていた数分のあいだも、彼女はただ今日の食事のことを考えていたのだろう。市場で何を買うか、どれなら今の自分が食べられるか、何が一番身体に負担が少ないか。
その事実が、胸の奥へじんわり沁みた。
「アラン」
呼ぶと、彼女が振り向く。
「はい?」
「……おかえりなさい」
言ったあとで、妙なことを口にしたと思った。
だがアランは少し目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「ただいま戻りました、レギュラス」
その返事に、部屋の空気があたたかくなる。
レギュラスはようやく、扉のそばからゆっくり手を離した。
まだ胸の奥に薄い疲労は残っている。けれど、もうあの嫌な冷たさはない。
彼女は出て行ったのではなかった。
ちゃんと戻ってきた。
それだけのことが、今の自分にはどうしようもなく大きかった。
これまでは、食事はいつもベッドまで運ばれてきた。
起き上がるだけで息が切れていた頃は、それが当然だった。アランが小さな盆に器を載せて運んできて、寝台のそばに腰かけ、こぼさないよう支えてくれる。そうして少しずつ口に運ぶのが日常になっていた。
けれど今日は違った。
「今日は、テーブルで食べてみましょうか」
そう言われて、レギュラスは少しだけ驚いた。
驚いたが、嫌ではなかった。
ゆっくりと立ち上がり、まだ完全ではない足取りで数歩進む。壁や椅子の背に軽く手を置きながらではあるが、もうそれくらいはできるようになっていた。アランは無理に支えようとはせず、ただすぐ手を貸せる距離で見守っている。
そうしてたどり着いたダイニングテーブルは、思っていた以上に狭かった。
いや、この家全体が狭いのだから当然なのだが。
二人で向かい合って座ると、距離が近い気がする。手を伸ばせば届く。足だって少し動かし方を誤れば触れてしまいそうだ。
レギュラスは椅子に腰を下ろしながら、妙に落ち着かない心地になった。
女と距離を詰めることなんて、学生時代には数え切れないほど経験してきた。
舞踏会で踊ることも、談笑することも、わざと距離を近くして相手を揺らすことも、珍しいことではなかった。そんなものには慣れているはずだった。
なのに、アランとは緊張してしまう。
なぜなのか、自分でもよくわからない。
あまりにも素朴な部屋で、質素な木のテーブルを挟んでいるだけなのに、妙に意識してしまう。
視線を落とすと、食事が並んでいた。
これもまた、ブラック家では見たことのないものばかりだった。
貶しているわけではない。
本当に、見たことがないのだ。家庭で作られる料理というものに、そもそも縁が薄かった。屋敷の食卓に並ぶものはいつだって整然としていて、見栄えも格式も考え抜かれた料理だった。対してここにあるものは、もっと生活に近い匂いがする。
湯気の立つ根菜のスープ。
塩焼きにされた魚。
少し炙られて表面がきつね色になったパン。
皿の端には、火を通した青菜も添えられていた。
簡素だが、温かかった。
「しっかり食べて、栄養つけてくださいね」
向かいに座ったアランがそう言う。
宣言されていた通り、魚は塩焼きにされていた。
皮がぱりっと焼けていて、香ばしい匂いがする。パンも少しだけ炙られていて、表面が軽く硬く、中はまだやわらかそうだった。
十分だった。
いや、十分以上だった。
レギュラスはまずスープに口をつけた。
温かさが喉を滑っていく。
もう痛まない。
それだけで少し感動に近いものがあった。嚥下するたびに焼けるようだった日々が、たしかに遠ざかっている。
魚も食べる。
塩気がちょうどよく、焼きすぎてもいない。余計な飾りは何もないのに、ちゃんと美味しい。パンはその魚やスープによく合った。炙られた香ばしさが心地いい。
「美味しいです、アラン」
気づけば、そう言っていた。
アランが顔を上げる。
その翡翠の瞳が、少し嬉しそうに揺れた。
「本当ですか?」
「ええ」
レギュラスは頷く。
それからもう一口、魚を口に運ぶ。
最近、自分の話し方が少し変わってきていることに気づいていた。
短い言葉のあとに、相手の名前をつける。
ありがとう、アラン。
大丈夫です、アラン。
美味しいです、アラン。
ただそれだけのことなのに、不思議と意味合いが変わる気がした。
誰に向けて言っているのかが、はっきりする。ただの感想ではなく、相手に伝えたくて言っているのだという感じが強くなる。
アランもその呼び方にもう慣れたのか、自然に受け止めていた。
「よかったです、レギュラス」
「塩焼きだけで足りるかなってちょっと心配だったんです」
「十分ですよ」
「むしろ、食べやすいです」
「それならよかった」
そう言って、アランも自分の皿に手をつける。
同じ魚を食べ、同じスープを飲み、パンをちぎる。その何気ない動作を向かい側で見ていると、妙に胸がざわついた。
二人で同じものを食べている。
屋敷では考えもしなかった感覚だった。
給仕が取り分けるのでもなく、格式ばった沈黙の中で進む食事でもなく、ただ小さなテーブルで向かい合って、同じ皿の種類を前にしている。
テーブルが狭いせいで、アランがパンを取るたびに袖が少し近づく。
スープの器を持ち上げる手元もよく見える。
そんなことにいちいち意識が向いてしまう自分が、少し滑稽だった。
「どうしましたか?」
アランが不思議そうに尋ねる。
見つめすぎていたらしい。
「いえ」
レギュラスは少しだけ笑った。
「ただ、こうして食べるのは新鮮だと思って」
「テーブルですか?」
「ええ」
「ずっとベッドの上でしたから」
「ああ、たしかに」
アランも納得したように頷く。
「でも、座って食べられるくらい元気になったってことですね」
その言い方が、やはり彼女らしいと思う。
出来事をすぐに回復の証へ結びつける。大げさに喜ぶわけではないのに、ひとつずつ大事にしてくれる。
「そうですね、アラン」
名前をつけて返すと、アランはまた少し笑った。
「最近、よく名前をつけますね」
言われて、レギュラスは一瞬だけ目を細めた。
「嫌ですか?」
「いいえ」
「なんだか、ちゃんと私に言ってくれてる感じがします」
まさに自分が思っていたことを、あっさり言い当てられてしまって、レギュラスは少しだけ言葉に詰まる。
「……そういうつもりです」
そう答えると、アランは素直に嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、もっと聞きます」
「何をです?」
「美味しいとか、ありがとうとか」
「欲張りですね」
「だって嬉しいので」
なんでもない顔で言うものだから、レギュラスは思わず目を伏せた。
喉ではなく、胸の奥が少し熱くなる。
魚の骨を丁寧に避けながら、彼はまた一口食べた。
「本当に美味しいです、アラン」
「ありがとうございます、レギュラス」
向かい合って、ただそれだけを交わす。
陰謀もない。
探り合いもない。
誰かに聞かせるためでも、何かを引き出すためでもない。
小さな家の小さなテーブルで、二人きりで食事をしているだけだ。
なのにその時間は、レギュラスにとって驚くほど特別だった。
アランがスープを飲んで、ふと彼の皿を見る。
「魚、もう少しありますよ」
「食べられそうですか?」
レギュラスは少し考えてから頷いた。
「食べます」
「えらいですね」
「子どもみたいな言い方をしますね」
「でも褒めたくなります」
そう言いながら、アランは立ち上がって皿を取る。
狭い空間だから、すぐそばを通る。体温がかすかに近づいて、それだけでまた妙に意識してしまう。
レギュラスは自分でもおかしくなるほど、その一つ一つに心を揺らされていた。
学生時代、女と距離を詰めることにこんな緊張を覚えたことはなかった。
もっとずっと気軽で、もっとずっと計算のうちだった。
けれどアランには、何も仕掛けようという気になれない。
ただ近いだけで落ち着かなくなる。
それなのに離れたいとは思わない。
アランが皿を置き直し、また向かいへ戻ってくる。
「はい、追加です」
「無理はしないでくださいね」
「はい、アラン」
また名前をつけて返すと、彼女はくすっと笑った。
狭いテーブル。
近い距離。
見たことのない家庭料理。
向かいで笑う翡翠の瞳の女。
そのどれもが、レギュラスには新しかった。
そして思っていた以上に、心地よかった。
最初にそれに気づいたとき、レギュラスはしばらく目を逸らせなかった。
部屋の隅に置かれた小さなソファー。寝台のような幅はなく、身体をまっすぐ伸ばすには明らかに足りない。けれどアランは細く、小さな体を器用に丸めるようにして、そこで眠っていた。薄い毛布を肩まで引き上げ、黒い髪を少し乱したまま、浅い眠りに落ちている。
あれで、なんとか足りてしまうのだろう。
そう思うと、申し訳なかった。
自分がこの狭いベッドを占領しているから。
本来なら彼女の部屋であるはずなのに、彼女はあんな場所で身体を休めている。
なのに自分はいまだ、ベッドの上からまともに動けもしない。
少し身体を起こすだけでも息が切れる。
寝返りさえ、一人ではろくに打てない。
腕に残る栄養剤の痕、寝台脇に並べられた薬瓶、蓋付きのマグカップ。どれを見ても、自分がまだ完全に介抱される側の人間であることを嫌でも思い知らされた。
夜中、悪夢にうなされて起きることがある。
というより、ここ数日はそればかりだった。
水の底だった。
黒い湖が、毎晩のように夢の中で口を開く。喉の奥へ水が流れ込む感覚。肺が焼ける痛み。亡者の手が足首に絡みつき、指先まで冷たく引き摺り下ろしていく重み。助からないと理解していながら、なお息を求めてみっともなくもがく自分。
それらがあまりにも鮮明で、夢から醒めたあとも現実との境目がしばらくわからなくなる。
その夜もそうだった。
息ができないと思って、レギュラスは弾かれたように目を開いた。喉がひどく乾いている。胸が苦しい。シーツの上で指が強張り、呼吸が浅く速くなる。目の前は木の天井なのに、身体だけがまだ湖の底にあるみたいだった。
かすれた息が漏れた瞬間、ソファーで眠っていたアランが飛び起きた。
「……大丈夫です、今行きます」
寝起きで掠れた声なのに、動きだけは驚くほど早い。
毛布を払い、素足のまま床を踏んで、すぐに寝台のそばへ来る。いつもと同じように、彼女は戸棚から小さな紙包みを取り出した。細かい粉末薬を吸入器具に入れ、慣れた手つきで差し出してくる。
「これを。息、楽になりますから」
レギュラスは震える手でそれを受け取る。
吸い込む。
粉末が喉の奥に触れ、さらに肺の方へ落ちていく。最初はわずかに刺激がある。けれど数秒も経たないうちに、あれほど暴れていた呼吸が少しずつ落ち着いていくのがわかった。胸の内側に広がっていた無秩序な痙攣が、ひとつひとつ鎮められていく。
魔法みたいな薬だった。
実際、魔法薬なのだから当然なのだが、それでもそう思わずにはいられない。つい今しがたまで肺の奥まで恐怖で縮み上がっていたのに、これを吸うと身体が思い出したように呼吸の仕方を取り戻す。
レギュラスが少し息を整えるまで、アランは何も言わず背中に手を添えていた。
その手は小さい。
けれど確かで、妙に安心する。
「……落ち着いてきましたか」
問いかけに、レギュラスはかすかに頷く。
彼女はそれを見ると、ようやく肩から力を抜いた。眠っていたところを起こされたはずなのに、迷惑そうな顔はひとつもしない。ただ本当に、彼が落ち着いたことに安堵しているようだった。
そんな夜が何度もあった。
そして食事のあとには、時々吐き気が来る。
少しずつ口から摂れるようになったのはいい兆候だとアランは言う。けれど身体はまだ完全に受け入れきれないのだろう。胃が痙攣し、喉の奥がせり上がってくる感覚が急に来る。予兆はあっても、身体が追いつかない。
動けない分、その場で吐くしかなかった。
間に合わない。
身体を起こすのにも時間がかかる。
器を寄せてもらうのも、自分からはまともに言い出せない。
結果としてシーツを汚すことになる。
そのたびに、レギュラスはひどい羞恥に襲われた。
惨めだった。
情けなかった。
信じたくなかった。
自分の吐瀉物の処理まで、よく知らない女にさせているなんて。
ブラック家で生きてきた人間としてではなく、一人の男として耐えがたい屈辱だった。弱っている姿を見られるのも、本来なら我慢ならない。なのに今はその最たるものを毎日のように晒している。
あるとき、また食後に急に込み上げてきて、レギュラスは身を捩った。
耐えようとしたが無理だった。
喉が焼けるように収縮し、結局ベッドの上に吐き散らかしてしまう。
酸の匂いが広がる。
熱い羞恥で顔が引きつる。
息を切らしたまま目を閉じると、アランがすぐに傍へ来た気配がした。
責められると思ったわけではない。
彼女が責める人間ではないことくらい、もう知っていた。
けれどその優しさが、かえって自分を追い詰めることがある。
「……吐く力が戻ってきた証拠です」
アランは落ち着いた声でそう言った。
「いい兆候ですよ」
いい兆候。
そう言われても、レギュラスにはとてもそうは思えない。
汚したのだ。
また彼女に手間をかけさせたのだ。
それを前向きな言葉で包まれるほど、みじめさが増す気がした。
「ベッドをきれいにしますね」
そう言って彼女は、ためらいなく彼の身体を起こしにかかる。
この作業でさえ、介助が要る。
レギュラスはそのたび、自分がどれほど無力になっているか思い知らされる。脇に腕を差し入れられ、背を支えられ、少しずつ体勢を変えられる。自力でできることではない。情けなかった。消えたいくらいだった。
アランは彼の重みを必死に受け止めながら、汚れたシーツから身体をずらしていく。細い腕なのに、どうしてこんなに根気よく支えられるのだろうと思う。息を詰めながらも、彼女は一度も乱暴にならない。あくまで壊れものに触れるみたいに慎重だった。
ようやくレギュラスを椅子代わりのクッションにもたれかからせると、アランは濡れ布と清めの魔法で手早く寝台を整え始めた。
その小さな背中を見ると、たまらなく苦しくなった。
自分のみっともなさを、目の前で形にされているようだった。
彼女は何も言わない。
嫌な顔もしない。
ただ当たり前みたいに処理して、汚れたものを片づけ、清潔なシーツを敷き直す。
その当たり前が、余計につらい。
もし彼女が呆れたり、あからさまに迷惑がったりしたなら、いっそ楽だったかもしれない。こちらもそれを見越して心を固くできる。だがアランはそんな顔をしない。彼の無様さを、無様さとして扱わない。ただ回復途中のひとつの症状として受け止めてしまう。
それがひどく苦しかった。
けれど同時に。
楽でもあった。
与えられたものを食べて、
薬をもらって、
寝かされて、
起こされて。
何も考えなくていい感じは、あまりにも楽だった。
本来の自分なら、そんな状態を忌々しく思うはずだった。誰かに管理され、指示され、世話をされるなど、耐えがたいはずなのに。今はそのすべてが、妙に甘やかな安堵を伴っていた。
全部、任せてしまっていい。
その感覚はとても大きかった。
いつ薬を飲むか。
どれだけ食べるか。
今日はどこまで身体を起こしていいか。
悪夢のあと何を吸えば落ち着くか。
何もかも彼女が決めてくれる。
自分はそれに従っていれば、生き延びられる。
ひどく受動的で、屈辱的で、それなのにどうしようもなく心地よい。
判断を手放してしまえることが、こんなにも楽だとは思わなかった。
アランは寝台を整え終えると、振り返って彼を見た。
「もう一度、横になりますか」
レギュラスは少しだけ視線を逸らした。
返事の代わりに、わずかに頷く。
彼女は何も言わずに近づき、また身体を支えた。
腕を回され、重みを預ける。
それは屈辱であると同時に、ほっとする行為でもあった。自分では支えきれない身体を、彼女が迷いなく受け止めてくれる。その確かさに、勝手に力が抜ける。
寝台に戻され、背の下のシーツが新しい感触に変わる。
吐いたばかりで気分はまだ悪い。
喉も胸も焼けるようだ。
それでも整えられたベッドに横たわると、身体が少しだけ安堵した。
アランが濡れ布で口元を拭ってくれる。
「少し休みましょう」
「次はもう少し軽いものにしますから」
その言い方が、あまりにも自然だった。
失敗したとか、迷惑だったとか、そういう空気を一切含まない。ただ次はどう回復を助けるか、それだけを考えている声音。
レギュラスは彼女を見た。
翡翠の瞳は静かで、責める色を持たない。
そんな目で見られると、こちらの方が壊れそうになる。
無様だ。
情けない。
見苦しい。
それでも彼女は、自分を患者として扱い続ける。
嫌悪も侮蔑も交えずに。
レギュラスは目を伏せた。
全部任せてしまっていいという安心感は、とても大きかった。
大きすぎて、たまに怖くなるほどだった。
このまま回復して、歩けるようになって、声が戻ったら。
自分はここを出て行くのだろうか。
また自分で決め、自分で動き、自分で全てを背負う側へ戻るのだろうか。
当然そうすべきなのに。
今はまだ、この狭い部屋で、
彼女がソファーで眠り、
自分はベッドで介抱されるこの異様な日々の中に、
沈むように甘えていたかった。
そんなことを思う自分が、一番信じられなかった。
名前を聞かれたとき、レギュラスはほんのわずかに息を止めた。
ここへ来てから、彼女はまだ一度も深く詮索しなかった。
事情も、出自も、なぜあの湖にいたのかも。
聞こうと思えばいくらでも聞けたはずなのに、アランはそれをしなかった。ただ治療に必要なことだけをして、必要な分だけ言葉を交わし、回復を見守ってきた。
だからこそ、今さら名前を口にすることが、妙に重たく感じた。
名乗るべきだとは思う。
少なくとも、命を救われておいて名無しのままでいるのは卑怯だ。
けれど。
ブラックの姓だけは、言えなかった。
この魔法界で、その姓が持つ意味は大きすぎる。
シリウス・ブラック。
騎士団に入り、名を知られ、英雄のように語られるあの兄と。
闇の魔法使いたちを何人も輩出してきた、その他のブラック一族。
自分は後者だ。
あの姓を出した瞬間、この部屋の空気が変わる気がした。
今ここにある穏やかさが、ひび割れてしまう気がした。
怖がらせてしまうかもしれない。彼女の翡翠の瞳に、警戒や嫌悪が宿るのを見たくなかった。
だからレギュラスは、短く息を整えてから言った。
「……レギュラスです」
自分の名だけを。
アランはその名を一度胸の中で確かめるみたいに、静かに繰り返した。
「レギュラス」
やわらかく発音されると、それだけで妙にくすぐったい。
自分の名なのに、誰かにそんなふうに呼ばれることに慣れていなかった。
「レギュラスと呼んでいいのですか」
真っ直ぐにそう聞かれて、レギュラスは少しだけ目を細めた。
「ええ」
「そうしてください」
アランはほっとしたように微笑んだ。
その反応があまりにも素直で、レギュラスの肩からも少し力が抜ける。
「あなたのことは?」
そう尋ねたところで、自分でも少し妙だと思った。
名前はもう知っているのだ。
ヒーラー資格の証明書に載っていた。
顔写真の横に、はっきりと記されていた名前。
アラン・セシール。
けれどそれを、改めて彼女自身の口から聞きたかった。
紙の上の文字としてではなく、彼女の名前として。
アランは少しだけ首を傾げて、それからすぐに答えた。
「アランと呼んでください、レギュラス」
その言い方があまりにも自然で、レギュラスは思わず笑ってしまった。
早速呼ぶのか、と。
つい今しがた名を知ったばかりなのに、まるで最初からそうしていたみたいに、なんのためらいもなく名前を口にする。その無邪気さが可笑しかった。可笑しいのに、胸の奥があたたかくなる。
「ずいぶん、迷いがないんですね」
レギュラスが言うと、アランはきょとんとした。
「だって、そう呼んでいいって言ってくれたでしょう?」
まるで何かおかしなことを言ったのはこちらだとでもいう顔だった。
レギュラスはまた笑う。
喉に響きすぎないよう気をつけながら、それでも笑みは抑えきれなかった。
「そうでしたね」
「はい」
アランもつられるように笑う。
そのやりとりが、なんでもなさすぎて、眩しかった。
ブラック家では、名前にはいつも何かがまとわりついていた。
家格、期待、失望、血筋、役割。
ただ呼ばれるだけで終わることなんてほとんどない。
誰かの息子として、誰かの弟として、何を背負う人間かまで含めて名前は存在していた。
けれど今ここでの「レギュラス」は違う。
ただの自分の名だった。
彼女に呼ばれるためだけの、軽くて静かな音だった。
アランは寝台の脇の椅子に座り直しながら、もう一度口にした。
「レギュラス」
「……なんです?」
「呼んでみたかっただけです」
あまりにも率直で、レギュラスは一瞬言葉を失う。
それから、少し困ったように息を吐いた。
「あなたは時々、驚くほど遠慮がない」
「そうでしょうか」
「ええ」
アランは少し考えてから、小さく笑った。
「でも、よかったです」
「ずっと『あなた』って呼ぶのも変ですし」
「それは確かに」
「でしょう?」
うれしそうに言うものだから、レギュラスはまた目元を和らげた。
名前を呼ばれる。
それだけのことなのに、胸の奥に波紋が広がる。
レギュラス。
アランの声で呼ばれるその音は、思っていたよりずっとやさしい響きをしていた。
彼はふと、彼女の方を見た。
「…… アラン」
今度は自分が呼ぶ。
すると彼女は、ほんの少しだけ目を見開いた。
それからふわりと笑う。
「はい」
たったそれだけで、なぜこんなにも胸が詰まるのだろうと思った。
互いに名前を知っただけだ。
何も始まっていないし、何も変わっていない。
それでも確かに、何かが変わった気がした。
この部屋の空気が少しだけ近くなる。
よそよそしかった距離に、薄い橋がかかる。
アランはそのまま、どこか楽しそうに言った。
「じゃあこれからは、ちゃんとレギュラスって呼びますね」
「……もう十分ちゃんと呼んでいましたよ」
「もっと呼びます」
「なぜです?」
「せっかくですから」
理屈になっていない。
けれどそれが彼女らしい気もして、レギュラスは肩を揺らした。
笑うとまだ喉が少し痛む。
だがその痛みさえ、今は悪くなかった。
アラン。
レギュラス。
ただそれだけを交わしただけなのに。
それだけで、この部屋の温度がほんの少し上がったような気がした。
目が覚めたとき、部屋が静かすぎて、レギュラスはすぐに違和感を覚えた。
いつもなら何かしら気配がある。
薬草を刻む音や、湯の沸く小さな音や、ページをめくる気配。アランは静かな女だったが、それでもこの狭い家の中にいれば、彼女が生きて動いている気配はどこかに必ずあった。
なのに、今日は何もない。
レギュラスは薄く息を吸った。
そんなに広くもない家だった。
いや、広くないどころではない。信じられないほど簡素で、小さい。部屋はひとつしかない。寝台も、ダイニングテーブルも、キッチンも、棚も、暖炉も、全部がひとつの空間に押し込められている。
ブラック家では考えられない間取りだった。
あの屋敷では、寝るための部屋と食事のための部屋は当然のように分かれていたし、一人が使うだけの書斎ですらここより広い。だがこの家には境目がない。生活のすべてが、この一室にそのまま置かれている。
それなのに。
その狭い部屋の中に、彼女が見当たらなかった。
レギュラスはゆっくりと体を起こした。
もう、一人で起き上がることはできる。
少しなら歩けるようにもなった。
回復しているのだと、頭では理解している。
だがそれは、あくまで“少し”だ。
足を床につけると、まだ身体の内側に鈍い痛みが走る。喉はほとんど治っていても、胸の奥には疲労が残り、脚にはすぐ力が尽きる。杖もない。こんな状態で敵と遭遇すれば、あっという間に終わる。自分がまだぼろぼろなのだということは、嫌になるほどわかっていた。
「…… アラン?」
呼んでみる。
返事はない。
寝台の脇。小さなテーブル。キッチンの前。窓辺。ソファー。
どこにもいない。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
狭い家なのに。
一人で置かれていると、ひどく恐ろしかった。
ただ誰もいないというだけで、空間の輪郭が急に不穏に見え始める。静かすぎる部屋の隅に、あの湖の気配がまた滲んでくる気がした。悪夢は眠っている時だけではない。少し隙があれば、起きている間にも入り込んでくる。
このまま、一人で置かれて。
またあの黒い水の底へ引き戻されたらどうする。
馬鹿げた考えだとわかっているのに、身体は先に反応してしまう。
呼吸が速くなる。
脈が上がる。
指先が少し冷える。
レギュラスは立ち上がり、数歩だけ歩いた。
扉の方へ向かう。床板が小さく軋む。その音さえ妙に大きく聞こえる。
どこへ行った。
なぜ何も言わずに。
戻るのか。
戻らないのか。
思考が、悪い方へ転がりそうになる。
その時だった。
扉が開いた。
外の光と一緒に、アランが入ってくる。
両腕に荷物を抱えていた。布袋から細い根菜が覗き、紙包みと丸いパンの端が見える。もう片方の手には、包まれた魚らしい細長い影もあった。
「レギュラス!」
アランは彼の姿を見るなり目を見開いた。
それからすぐ、ぱっと表情を明るくした。
「起きていたんですね。お魚が手に入ったんですよ。塩焼きにしましょう」
その声を聞いた瞬間。
レギュラスの呼吸が、すっと落ち着いた。
自分でもわかるほどだった。
乱れていた拍が、少しずつ元へ戻っていく。強張っていた肩の力が抜ける。開いたままだった唇から、長いため息が漏れた。
アランはそんな彼の様子に気づいたのか、荷物を置くより先に少し心配そうな顔になる。
「どうしましたか?」
「苦しかったですか?」
「いえ……」
レギュラスは首を振った。
それから、まだ少しだけ掠れる声で尋ねる。
「どちらへ?」
アランはきょとんとして、それからすぐに答えた。
「調合した魔法薬を卸してきました。市場にです」
「そのお金で、魚とか根菜とか、パンも少し買いましたよ」
市場。
魔法薬を卸す。
その金で食料を買う。
ごく普通の、ここでの生活の話だった。
置いていくつもりだったわけではない。
姿を消したわけでも、見捨てるつもりでもない。
ただ、この家の暮らしを繋いでいくための外出だったのだ。
それがわかると、レギュラスはひどく安堵した。
滑稽なほどに。
「……そうですか」
たったそれだけ返すのが精一杯だった。
それ以上何か言えば、今の自分がどれほど動揺していたか滲み出てしまいそうで。
アランは彼をじっと見た。
何かを察したような、けれど問い詰めない目だった。
「もしかして、起きたとき誰もいなくて不安でした?」
あまりにそのまま言い当てられて、レギュラスは一瞬黙った。
否定したい。
そんな子どもみたいなこと、と。
だが今さら取り繕うのも無意味な気がした。
「……少し」
と答えると、アランは荷物を抱えたまま、ふっとやわらかく笑った。
「ごめんなさい。起きる前に戻れると思ったんですけど、魚屋さんが今日は少し混んでいて」
その説明の仕方まで、ひどく生活に根ざしていて。
レギュラスはまた静かに息を吐く。
市場が混んでいた。
魚屋に並んでいた。
その程度の理由で彼女は遅れただけなのだ。
こんなふうに日々は続いている。
命を拾われた劇的な日だけではなく、そのあとも当たり前に買い物があって、薬を売って、食材を選んで、料理をして、生きていくための時間が流れている。
その中に自分も入れられているのだと、ようやく実感した。
アランは荷物をテーブルに置きながら言った。
「次からは書き置きしておきますね」
「市場に行ってきます、って」
「……いえ、そこまでしていただかなくても」
「でも心配させてしまいましたから」
あっさり言ってしまう。
レギュラスはその背を見つめた。
小さな体で荷物をほどき、魚を包みから出して、水桶の横へ置いている。もう完全に、今夜の食卓の支度を始めていた。
「塩焼きなら食べやすいと思うんです」
「根菜はスープにしましょうか。パンは少し炙った方がおいしいかな」
そんなことを独り言みたいに言いながら、手際よく動いている。
レギュラスは扉のそばに立ったまま、その姿を見ていた。
自分が不安に陥っていた数分のあいだも、彼女はただ今日の食事のことを考えていたのだろう。市場で何を買うか、どれなら今の自分が食べられるか、何が一番身体に負担が少ないか。
その事実が、胸の奥へじんわり沁みた。
「アラン」
呼ぶと、彼女が振り向く。
「はい?」
「……おかえりなさい」
言ったあとで、妙なことを口にしたと思った。
だがアランは少し目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「ただいま戻りました、レギュラス」
その返事に、部屋の空気があたたかくなる。
レギュラスはようやく、扉のそばからゆっくり手を離した。
まだ胸の奥に薄い疲労は残っている。けれど、もうあの嫌な冷たさはない。
彼女は出て行ったのではなかった。
ちゃんと戻ってきた。
それだけのことが、今の自分にはどうしようもなく大きかった。
これまでは、食事はいつもベッドまで運ばれてきた。
起き上がるだけで息が切れていた頃は、それが当然だった。アランが小さな盆に器を載せて運んできて、寝台のそばに腰かけ、こぼさないよう支えてくれる。そうして少しずつ口に運ぶのが日常になっていた。
けれど今日は違った。
「今日は、テーブルで食べてみましょうか」
そう言われて、レギュラスは少しだけ驚いた。
驚いたが、嫌ではなかった。
ゆっくりと立ち上がり、まだ完全ではない足取りで数歩進む。壁や椅子の背に軽く手を置きながらではあるが、もうそれくらいはできるようになっていた。アランは無理に支えようとはせず、ただすぐ手を貸せる距離で見守っている。
そうしてたどり着いたダイニングテーブルは、思っていた以上に狭かった。
いや、この家全体が狭いのだから当然なのだが。
二人で向かい合って座ると、距離が近い気がする。手を伸ばせば届く。足だって少し動かし方を誤れば触れてしまいそうだ。
レギュラスは椅子に腰を下ろしながら、妙に落ち着かない心地になった。
女と距離を詰めることなんて、学生時代には数え切れないほど経験してきた。
舞踏会で踊ることも、談笑することも、わざと距離を近くして相手を揺らすことも、珍しいことではなかった。そんなものには慣れているはずだった。
なのに、アランとは緊張してしまう。
なぜなのか、自分でもよくわからない。
あまりにも素朴な部屋で、質素な木のテーブルを挟んでいるだけなのに、妙に意識してしまう。
視線を落とすと、食事が並んでいた。
これもまた、ブラック家では見たことのないものばかりだった。
貶しているわけではない。
本当に、見たことがないのだ。家庭で作られる料理というものに、そもそも縁が薄かった。屋敷の食卓に並ぶものはいつだって整然としていて、見栄えも格式も考え抜かれた料理だった。対してここにあるものは、もっと生活に近い匂いがする。
湯気の立つ根菜のスープ。
塩焼きにされた魚。
少し炙られて表面がきつね色になったパン。
皿の端には、火を通した青菜も添えられていた。
簡素だが、温かかった。
「しっかり食べて、栄養つけてくださいね」
向かいに座ったアランがそう言う。
宣言されていた通り、魚は塩焼きにされていた。
皮がぱりっと焼けていて、香ばしい匂いがする。パンも少しだけ炙られていて、表面が軽く硬く、中はまだやわらかそうだった。
十分だった。
いや、十分以上だった。
レギュラスはまずスープに口をつけた。
温かさが喉を滑っていく。
もう痛まない。
それだけで少し感動に近いものがあった。嚥下するたびに焼けるようだった日々が、たしかに遠ざかっている。
魚も食べる。
塩気がちょうどよく、焼きすぎてもいない。余計な飾りは何もないのに、ちゃんと美味しい。パンはその魚やスープによく合った。炙られた香ばしさが心地いい。
「美味しいです、アラン」
気づけば、そう言っていた。
アランが顔を上げる。
その翡翠の瞳が、少し嬉しそうに揺れた。
「本当ですか?」
「ええ」
レギュラスは頷く。
それからもう一口、魚を口に運ぶ。
最近、自分の話し方が少し変わってきていることに気づいていた。
短い言葉のあとに、相手の名前をつける。
ありがとう、アラン。
大丈夫です、アラン。
美味しいです、アラン。
ただそれだけのことなのに、不思議と意味合いが変わる気がした。
誰に向けて言っているのかが、はっきりする。ただの感想ではなく、相手に伝えたくて言っているのだという感じが強くなる。
アランもその呼び方にもう慣れたのか、自然に受け止めていた。
「よかったです、レギュラス」
「塩焼きだけで足りるかなってちょっと心配だったんです」
「十分ですよ」
「むしろ、食べやすいです」
「それならよかった」
そう言って、アランも自分の皿に手をつける。
同じ魚を食べ、同じスープを飲み、パンをちぎる。その何気ない動作を向かい側で見ていると、妙に胸がざわついた。
二人で同じものを食べている。
屋敷では考えもしなかった感覚だった。
給仕が取り分けるのでもなく、格式ばった沈黙の中で進む食事でもなく、ただ小さなテーブルで向かい合って、同じ皿の種類を前にしている。
テーブルが狭いせいで、アランがパンを取るたびに袖が少し近づく。
スープの器を持ち上げる手元もよく見える。
そんなことにいちいち意識が向いてしまう自分が、少し滑稽だった。
「どうしましたか?」
アランが不思議そうに尋ねる。
見つめすぎていたらしい。
「いえ」
レギュラスは少しだけ笑った。
「ただ、こうして食べるのは新鮮だと思って」
「テーブルですか?」
「ええ」
「ずっとベッドの上でしたから」
「ああ、たしかに」
アランも納得したように頷く。
「でも、座って食べられるくらい元気になったってことですね」
その言い方が、やはり彼女らしいと思う。
出来事をすぐに回復の証へ結びつける。大げさに喜ぶわけではないのに、ひとつずつ大事にしてくれる。
「そうですね、アラン」
名前をつけて返すと、アランはまた少し笑った。
「最近、よく名前をつけますね」
言われて、レギュラスは一瞬だけ目を細めた。
「嫌ですか?」
「いいえ」
「なんだか、ちゃんと私に言ってくれてる感じがします」
まさに自分が思っていたことを、あっさり言い当てられてしまって、レギュラスは少しだけ言葉に詰まる。
「……そういうつもりです」
そう答えると、アランは素直に嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、もっと聞きます」
「何をです?」
「美味しいとか、ありがとうとか」
「欲張りですね」
「だって嬉しいので」
なんでもない顔で言うものだから、レギュラスは思わず目を伏せた。
喉ではなく、胸の奥が少し熱くなる。
魚の骨を丁寧に避けながら、彼はまた一口食べた。
「本当に美味しいです、アラン」
「ありがとうございます、レギュラス」
向かい合って、ただそれだけを交わす。
陰謀もない。
探り合いもない。
誰かに聞かせるためでも、何かを引き出すためでもない。
小さな家の小さなテーブルで、二人きりで食事をしているだけだ。
なのにその時間は、レギュラスにとって驚くほど特別だった。
アランがスープを飲んで、ふと彼の皿を見る。
「魚、もう少しありますよ」
「食べられそうですか?」
レギュラスは少し考えてから頷いた。
「食べます」
「えらいですね」
「子どもみたいな言い方をしますね」
「でも褒めたくなります」
そう言いながら、アランは立ち上がって皿を取る。
狭い空間だから、すぐそばを通る。体温がかすかに近づいて、それだけでまた妙に意識してしまう。
レギュラスは自分でもおかしくなるほど、その一つ一つに心を揺らされていた。
学生時代、女と距離を詰めることにこんな緊張を覚えたことはなかった。
もっとずっと気軽で、もっとずっと計算のうちだった。
けれどアランには、何も仕掛けようという気になれない。
ただ近いだけで落ち着かなくなる。
それなのに離れたいとは思わない。
アランが皿を置き直し、また向かいへ戻ってくる。
「はい、追加です」
「無理はしないでくださいね」
「はい、アラン」
また名前をつけて返すと、彼女はくすっと笑った。
狭いテーブル。
近い距離。
見たことのない家庭料理。
向かいで笑う翡翠の瞳の女。
そのどれもが、レギュラスには新しかった。
そして思っていた以上に、心地よかった。
