1章
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一人で少し熱を冷ましてから、部屋に戻ろうと思っていた。
シリウスに会って、揺れたことは認めたくない。
認めたくないのに、身体の方がまだあの時のままだった。
握られた手首が、まだ熱い。
嫌だった。
その熱が、まるで昔の自分の残り火みたいで。
レギュラスがいるのだから。
もうあんなふうに揺れたくないのに。
なぜシリウス・ブラックの前に立つと、いつだってあの情けない少女に戻ってしまうのだろう。
自分で自分が嫌になる。
だから少しだけ時間が欲しかった。
廊下の端で深呼吸をして、何でもなかった顔に戻して、それから部屋に入ろうと思っていたのに。
部屋の扉が、先に開いた。
アランはびくりと肩を揺らした。
そこに立っていたのは、レギュラスだった。
「今、迎えに行こうと思ってました」
静かな声だった。
責める色はない。
それが逆に胸に刺さる。
「ごめんなさい」
アランは慌てて言う。
「遅くなりました」
「心配しましたよ」
それだけ言って、レギュラスは扉を少し大きく開けた。
中へ入れ、ということなのだろう。
アランは頷いて部屋に入る。
扉が閉まる音が、やけに近く響いた。
部屋の中はさっき出た時のままだ。
狭い寝台と、机と、椅子。
落ち着くはずなのに、今のアランには少しも落ち着かなかった。
何かを察されたくなくて。
余計なことを言わないように心がける。
「杖はどうでしたか」
できるだけ普通に、そう聞いた。
「問題ありません」
レギュラスはコートを脱ぎながら答える。
「明日には仕上がるそうです」
「よかったです」
「ええ」
そこで会話が切れた。
気まずい。
いや、正確には気まずいのではない。
アランが勝手にそうしているだけだ。
レギュラスは何も問い詰めていない。
むしろ普段より静かで、落ち着いている。
なのにアランの方が、その落ち着きに耐えられない。
レギュラスが優しければ優しいほど、申し訳なさが募る。
シリウスに揺れた。
それは、たしかに事実だった。
戻りたいわけじゃない。
今さら何かをやり直したいわけでもない。
それでも、昔欲しかった言葉を急に向けられて、全然平気ではいられなかった。
それが自分で許せない。
「アラン」
名前を呼ばれて、アランははっと顔を上げた。
レギュラスは少しだけ眉を寄せている。
怒っているわけではない。
ただ、心配している顔だった。
「こっちへ」
短くそう言う。
アランは少し迷って、それから素直に近づいた。
近づいた瞬間、レギュラスに腕を引かれて、そのまま抱きしめられる。
「……レギュラス」
「冷たいですね」
髪に頬を寄せたまま、彼が言う。
「廊下にいたでしょう」
見抜かれている。
全部ではなくても、少なくとも何かを落ち着かせようとしていたことくらいは。
アランは彼の胸元に額を押しつけた。
言い訳が思いつかない。
「少しだけ……」
ようやく出た声は小さかった。
「少しだけ、外の空気を吸いたくて」
「嘘ではないですよね?」
「……はい」
レギュラスはそれ以上は追及しなかった。
ただ、背中へ手を回して、ゆっくり撫でる。
その手つきがやさしくて、余計に泣きそうになる。
「シリウスと何を話したんですか」
しばらくして、低い声で問われた。
やっぱりそこは避けられなかった。
アランは目を閉じる。
「少しだけ」
「昔のことを、謝られました」
レギュラスの手が、背中の上でほんの少し止まる。
でもすぐにまた動き出す。
「それで?」
「それで……」
喉が詰まる。
「今さら困るって、言いました」
「ええ」
「それから」
アランはさらに小さくなる。
「もう終わったことだって」
レギュラスは黙って聞いていた。
「でも」
アランはその先を言うのがひどく嫌だった。
言えばきっと、自分で自分をもっと嫌いになる。
それでも、黙ったままでいるのも卑怯だった。
「でも、少しだけ揺れました」
とうとうそう言うと、胸の奥がぎゅっと縮む。
「昔、欲しかった言葉を言われたので」
「今さら、遅いのに」
「それなのに、全然平気ではいられなくて」
恥ずかしかった。
情けなかった。
レギュラスの前でこんなことを言わなければならない自分が、本当に嫌だった。
「……ごめんなさい」
結局、最後はそれしか出てこない。
レギュラスはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が怖くて、アランは彼の服を少しだけ強く掴んだ。
怒るだろうか。
呆れるだろうか。
それとも、やっぱりまだシリウスなのかと思うだろうか。
どれでもおかしくない。
そう思って身を固くした時だった。
「謝らないでください」
意外なほど静かな声だった。
アランはゆっくり顔を上げる。
レギュラスは、少しだけ苦そうな顔をしていた。
でも怒ってはいなかった。
「気分はよくないです」
正直にそう言う。
「兄に揺らされたと聞いて、いい気分でいられるほどできた人間じゃない」
アランは何も言えない。
「でも」
レギュラスは続ける。
「揺れたことと、戻りたいことは違うんでしょう」
その問いに、アランはすぐ頷いた。
「違います」
「だったら、今はそれでいいです」
あまりにもまっすぐな返しで、アランは少し目を見開いた。
「いいんですか」
「よくはないです」
レギュラスは少しだけ皮肉っぽく言う。
「でも、あなたがちゃんと自分で揺れたと認めて、こっちに戻ってきたなら」
「今は、それで十分です」
戻ってきた。
その言葉が、胸に深く落ちる。
そうだ。
揺れた。
でも戻ってきた。
今ここにいて、抱きしめられている相手はレギュラスだ。
昔の少女に引き戻されかけても、最後に戻ってきたのはここだ。
アランはそこで初めて、少しだけ呼吸がしやすくなった。
「……嫌にならないんですか」
思わず聞く。
「何がです?」
「こんなふうに」
言葉を探す。
「昔のことで、まだ揺れる私が」
レギュラスは少しだけ目を細めた。
それから、アランの頬に触れる。
「嫌にはなりますよ」
「兄にも、昔にも、全部」
その正直さに、アランは少しだけ泣きそうに笑った。
「でも、私には?」
問い返される。
アランは息を止める。
その答えを聞くのが怖い。
レギュラスは、やわらかく、けれど逃がさない目でこちらを見た。
「あなたには、なりません」
それだけだった。
たったそれだけなのに、胸がいっぱいになる。
古傷ごと嫌われるのではないかと思っていたところへ、その傷を抱えたままでも、あなた自身は嫌じゃないと言われる。
それが、ひどく救いだった。
アランはとうとう、レギュラスの胸に顔を埋めた。
「……ずるいです」
「何がです?」
「そういうことを、ちゃんと言うところが」
レギュラスは小さく笑った気配を見せた。
「兄との差をつけないといけませんから」
その言い方に、アランは少しだけ肩を震わせた。
泣いたのか笑ったのか、自分でも曖昧だった。
「比べてないです」
「僕は比べてます」
「レギュラス」
「だって気に入らないでしょう」
低く、素直に言う。
「今でもあなたを揺らせることが」
アランは何も言えなかった。
たしかに気に入らないのだろう。
その通りだ。
でも、それを隠さずに言ってくれることが、今はありがたかった。
「今日はもう」
レギュラスが背を撫でながら言う。
「無理に平気なふりをしなくていいです」
「でも……」
「でも、じゃありません」
「荒れたなら、荒れたでいい」
「その代わり、一人で冷まそうとしないでください」
アランは目を閉じた。
廊下で一人、手首の熱が消えるのを待っていた自分を思い出す。
あれは確かに、あまり良くなかったのかもしれない。
「……はい」
「次からは、迎えに行く前にちゃんと戻ってきてください」
その言い方が少しだけ拗ねたみたいで、アランはようやくほんの少し笑った。
「はい」
レギュラスはその返事を聞いて、アランの額に軽く口づけた。
「よろしい」
そんなふうにまとめるのが可笑しくて。
でも、その可笑しさのおかげで、心の荒れ方が少しだけ静まる。
レギュラスが優しければ優しいほど、申し訳なさが募る。
けれどたぶん、今はその申し訳なさごと受け取ってもらうしかないのだろう。
アランは彼を抱き返した。
シリウスに会って、揺れた。
それは消せない。
でも、今こうして抱きしめ返したいと思う相手が誰なのかも、もうちゃんとわかっていた。
作戦会議の卓上に広げられた地図を見た瞬間、レギュラスの頭の中ではもういくつもの動きが組み上がり始めていた。
どこでデスイーターが動くか。
誰が先に出てくるか。
どういう呪文の流れで場を制圧しようとするか。
想像がつく。
それどころか、顔まで浮かぶ。
あの男ならこの狭い通路を好むだろう。
あの女なら高所を取る。
あの二人が組めば、片方が面で圧をかけて、もう片方が死角から骨を折りにくる。
彼らの特徴も。
魔力の性質も。
呪文の癖も。
怒り方も、焦った時に崩れる箇所も、理解している。
それを抑えて臨めば、こちら側の消耗は最小限で済む。
レギュラスは地図の一点を指先で示した。
「ここは避けた方がいいです」
騎士団の視線が集まる。
わずかな沈黙。
まだ全員が完全にこちらを受け入れているわけではないとわかる間だった。
「理由は?」
リーマスが冷静に問う。
「遮蔽物が少ない」
レギュラスは淡々と答える。
「それだけならまだいいんですが、ここは横幅の割に天井が高い。上から撃ち下ろす側に有利すぎます」
「デスイーターの中に、面で制圧するより一点に穴を穿つのを好む人間が二人います。彼らが高所を取れば、こちらは防御に魔力を持っていかれすぎる」
ジェームズが地図を覗き込みながら唸る。
「じゃあ、こっちへ引き込む?」
「ええ」
レギュラスは別の場所へ指を滑らせる。
「ここなら通路が折れていて、視線が切れる。撃ち合いより足を止める呪文の方が効く」
「それに、この幅なら三人以上は並べない。数を活かせなくなります」
「なるほどな」
ジェームズは素直に頷いた。
その素直さに、少しだけ場の空気が和らぐ。
だが次の瞬間、シリウスが椅子に深くもたれたまま、ひどく面白くなさそうに口を開いた。
「随分詳しいこったな」
「そりゃ元仲間なら、勝たせる方法も負ける方法もよく知ってるわけだ」
棘がある。
あからさまだ。
レギュラスは視線を地図から上げなかった。
一々兄がつっかかってくるのが、心底気に食わない。
けれど、ここで同じ土俵に乗って言い返し、人前で争いたくはなかった。
そんなことをして得をするのはデスイーターだけだ。
「シリウス、それは今じゃない」
ジェームズがすぐに制した。
「今してるのは作戦会議だ」
助け舟、というほど優しいものではない。
だが、こちらが黙っていれば、むしろ逆にあちら側から勝手に場を整える力が働く。
それはレギュラスにももう見えていた。
だから黙る。
シリウスは不機嫌そうな顔を隠そうともしない。
全身で表している。
それが子どもじみて見えて、余計に腹が立った。
こっちの方がよほど不機嫌極まりない。
だが、それを顔に出さないことで、せめて自分はこの男とは違うと、自分自身で線引きしたかった。
レギュラスはゆっくり息を吐き、もう一度地図の上へ手を戻した。
「彼らは広く展開できる場所を好みます」
「理由は単純で、数で押すのに慣れているからです。だからこちらが選ぶべきなのは、狭くて、角が多くて、連携を切りやすい地形です」
「名前は出せるか?」
今度はリーマスではなく、ムーディが低く言った。
片目がぎらりとこちらを射る。
「動く可能性が高い連中のな」
「出せます」
レギュラスは頷いた。
「ルシウスが直接動くなら、正面から崩すより包囲の完成を待つはずです。だから最初に来るのは別働です」
「候補は三人」
指を折るみたいに短く続ける。
「一人は威力偏重。一人は毒や遅効性の魔法薬を混ぜる。もう一人は拘束術が得意です」
「厄介なのばっかりじゃねぇか」
誰かが舌打ちまじりに言う。
「ええ」
レギュラスはあっさり認める。
「だから先に知っていることに意味がある」
そこでようやく、何人かの目が疑う相手から使える情報源へ少しだけ変わったのがわかった。
それでいい、とレギュラスは思う。
好かれる必要はない。
役に立てばいい。
「毒を使う奴は誰が相手するといい?」
リリーが静かに口を開く。
彼女の声は、場を感情から引き戻す力があった。
「正面から火力で押さない人がいいです」
レギュラスは即答する。
「むしろ細かく見られる人。あの手の人間は、魔法そのものより混ぜ物に癖が出る」
「あなたか、リーマス」
一瞬だけ視線を二人へ向ける。
「多分、その二人が一番早く気づける」
リリーが頷き、リーマスも静かに同意した。
シリウスは腕を組んだままだ。
口は閉じたが、不機嫌さは一つも消えていない。
レギュラスはそれを視界の端で捉えながら、あえてそちらを見なかった。
「拘束術の方は?」
「速い人が危ないです」
レギュラスは言う。
「自分の足で切り抜けられると思って突っ込む人ほど、足元を取られる」
ほんの一瞬、シリウスの方へ視線が向きかけたが、止める。
代わりにジェームズへ向ける。
「だから前へ出るなら、単独じゃなく二人で」
「片方が足元、片方が上を見てください」
「了解」
ジェームズは素直に返した。
その返事の軽さに、シリウスがわずかに顔をしかめるのが見える。
面倒だ、とレギュラスは思う。
兄は昔からそうだ。
自分が感情をむき出しにしても、それを周りが何とかしてくれることに慣れている。
けれどこちらは違う。
今ここで必要なのは、有用であることだけだ。
「最後に」
レギュラスは地図の端を指で軽く叩く。
「彼らは撤退の時こそ雑になります。勝ち切れないと見た瞬間、急に精度より速度へ寄る」
「だから追うなら、その切り替わりを待ってからの方がいい」
「序盤で勝ちを狙うより、崩れ方を見た方が確実です」
「……ふん」
シリウスが鼻で笑うような音を立てた。
「まるで手の内全部わかってるみてぇな言い方だな」
今度は誰もすぐには制さなかった。
場が一瞬だけ止まる。
レギュラスはようやく、静かに兄を見た。
「わかっていますよ」
声は冷えていた。
「だから今ここにいるんです」
ほんのわずかな緊張が走る。
シリウスの目が細くなる。
言い返したそうだった。
だが、その前にムーディが杖の先で机を軽く叩いた。
「感情のぶつけ合いは後にしろ」
「今はこいつの情報を使う」
「それだけだ」
その一言で、会議はまた流れを取り戻す。
レギュラスは内心で小さく息を吐いた。
うまくいった、というほどでもない。
だが崩さずに済んだ。
それで十分だ。
この男とは違う。
兄とは違う。
そういう意地が、今のレギュラスにはまだ大きかった。
人前で感情に負けたくない。
アランの前でも。
騎士団の前でも。
とくに兄の前では。
「では配置を組もう」
ダンブルドアが静かに言う。
その声で、全員が地図へ戻った。
レギュラスも視線を落とす。
シリウスの不機嫌はまだ消えていない。
自分の方も同じだった。
いや、むしろこちらの方が深く、冷たく煮えている。
それでも顔には出さない。
顔に出さないことで。
口調を崩さないことで。
せめて自分は、兄のように感情で場を汚す男ではないと、そう証明したかった。
たとえそれが、ひどく意地の悪い線引きだったとしても。
レギュラスの伝えた内容は、認めたくないが的確だった。
こちらはほとんど負傷を出さずに臨めた。
それはかなり大きい。
実際、あの場にいた誰もがわかっているはずだった。動線の切り方も、誰をどこに当てるべきかも、デスイーター側の崩れ方も、あいつの読みは外れなかった。
腹立たしいほどに。
だからこそ、シリウスの苛立ちは余計に増していた。
数日、立て続けに騎士団本部で食事を一緒に取ることが増えた。
レギュラスは当然、アランの隣で食事を取っている。
そこまではいい。
いや、よくはないが、そこに文句をつける筋合いは今の自分にはないとわかっている。
だが気に障ることは、ほかにもあった。
毎回、アランがガラスのグラスを裏返して避けるのだ。
最初は気まぐれかと思った。
だが違う。
必ずだ。
レギュラスの前にだけ、置かれたガラスのグラスをそっと伏せる。水差しも少し遠ざける。何かが見えている人間の動きだった。
なんの理由があるのか、意味がわからない。
いつ戦闘になるかわからないのだから、誰も酒なんか飲まない。
ただ食事の時に水くらいは飲む。
それなのにレギュラスは飲まない。
飲まないどころか、アランが最初から避ける。
それが妙にひっかかった。
しかもレギュラスも、それを当然みたいに受け入れている。
礼を言うわけでもない。
説明するわけでもない。
ただ、そうされることがもう日常になっているみたいな顔をしている。
その自然さが、シリウスにはひどく気に入らなかった。
「そういえば、今日は出かけたのかい?」
ジェームズが、いつもの妙に明るい調子でアランへ聞いた。
「はい」
アランは小さく頷く。
「少し雑貨の買い物に出ました」
雑貨。
その言葉の軽さに、シリウスは内心で眉をひそめた。
今の状況で、雑貨。
もちろん日常は必要だ。
必要なのはわかっている。
だがデスイーターに追われる身で、そんな平穏そうな響きのする言葉を口にされると、妙にざらつく。
リーマスがすぐに静かに口を挟んだ。
「君たち二人だけでの外出は、まだ避けてほしいんだ」
少しだけ言いにくそうに間を置く。
「その……疑ってるとか、そういうわけじゃないんだけど」
「騎士団の中にはまだ、レギュラス、君に不信感を持ったままの人間もいるから……」
配慮した言い方だった。
リーマスらしい、無駄に角を立てない話し方。
レギュラスは食事の手を止めて、すぐに頷いた。
「ええ、承知しました」
「外出の際は、どなたかの付き添いを依頼します」
その素直に従うそぶりすら、もう腹が立つ。
内心ではいつでも反撃できる牙を眠らせているくせに。
穏やかに頷いて、理性的で、物分かりの良い顔をして見せる。
そういうところが昔から癪だった。
レギュラス・ブラックは、いつだってそうだ。
表では静かに譲る。
だが本当に譲っているわけではない。
必要なら、いつでも喉を裂ける場所に牙を隠している。
シリウスはそれを知っている。
知っているから、なおさらその“従順そうな顔”が気に食わない。
「随分、聞き分けがいいこったな」
思わず、刺すように言っていた。
テーブルの空気が少し止まる。
ジェームズが、あーあ、という顔をする。
リーマスは露骨にため息を飲み込んだ。
レギュラスはすぐにはこちらを見なかった。
ナイフとフォークをきちんと置いて、それからようやく視線だけを上げる。
「今、揉める理由がありませんから」
その答え方が、やっぱり気に障る。
落ち着き払っていて、余計な感情が見えない。
「へえ」
シリウスは椅子に深くもたれて口角を歪めた。
「揉める理由ができたら、やる気満々ってことか?」
「必要なら」
レギュラスはあっさり言った。
ジェームズが小さく頭を抱えた。
「君たちほんと食事のたびにやるのやめろって」
「先に絡んでくるのは兄さんでしょう」
「お前に兄さんって呼ばれるたびにムカつくんだよ」
「それはお気の毒ですね」
淡々と返される。
その淡々さが、シリウスにはなおさら煽りにしか聞こえない。
アランはその横で、ずっと静かだった。
けれど視線だけは少し落ち着かない。
昔の彼女なら、きっとこういう時、自分のせいで空気が悪くなったみたいな顔をしただろう。
今も少し、その気配がある。
それがまた、シリウスを苛立たせる。
何でだ。
何でまだ、そんなふうに気を回す。
もう自分の顔色なんか見なくていいはずなのに。
「シリウス」
リリーが静かに言った。
声は低くないのに、妙に効く。
「あなたが一番、不信感を持ってるみたいに聞こえるわ」
シリウスは舌打ちしたいのを堪えた。
「持ってねぇとは言ってねぇよ」
「なら、せめて騎士団の中にはみたいな顔はやめなさい」
リリーはパンをちぎりながら、さらりと言う。
「あなた個人の問題でしょ」
ジェームズが吹き出しかけて、慌てて咳払いした。
シリウスは何も返せなかった。
返せないところを突かれるのが、一番腹立たしい。
レギュラスはそのやりとりを黙って見ていた。
口を挟まない。
勝手にこっちが転んでいくのを待つみたいに。
それがまた、ムカつく。
「……お前さ」
シリウスは今度は真正面から弟を見た。
「なんで水飲まねぇんだ」
思ったより先に、それが口から出た。
アランの指先がぴくりと止まる。
レギュラスの目が、ごくわずかに細くなる。
「何です、急に」
「毎回だろ」
シリウスは顎でグラスを示す。
「こいつが先に伏せる」
「お前は何も言わねぇ」
「でも毎回そうしてる」
食卓にいる何人かが、そこで初めて気づいたようにレギュラスの前を見た。
グラスはたしかに伏せられている。
アランが口を開きかける。
だがその前に、レギュラスが静かに言った。
「苦手なんです」
それだけだった。
シリウスは眉を寄せる。
「水が?」
「ガラス越しの揺れが」
レギュラスは短く続ける。
「今はまだ、少し」
その言い方に、シリウスは一瞬だけ言葉を失った。
湖か。
あの話の続きか。
死にかけた時の。
だからアランが毎回、先に避けているのだ。
まるで呼吸するみたいな自然さで。
レギュラスが発作を起こさないように。
そのことがわかった瞬間、胸の奥に別の苛立ちが差し込んだ。
そんなことまで、こいつは知っているのか。
そんなところまで、一緒に生きてきたのか。
「……そうかよ」
シリウスは低く言うしかなかった。
アランは何も言わない。
ただ、また水差しを少し遠ざけ直しただけだ。
その仕草が、何度も繰り返してきたものだとわかってしまう。
レギュラスはそれ以上説明しなかった。
必要以上に弱みを晒す気はないのだろう。
あくまで最小限だけを差し出す。
その態度も、やっぱり腹立たしい。
でも、さっきまでとは少し種類が違っていた。
シリウスはふいに思う。
レギュラス・ブラックは、本当に二年、アランと暮らしていたのだ。
その事実が、こういう些細なところに出てしまう。
食卓で水を避ける動きひとつ。
それだけで。
「買い物って、何買ったんだ?」
ジェームズが、空気を少し戻そうとするみたいにアランへ聞いた。
「布巾とか、糸とか」
アランは答える。
「あと、薬瓶を少し」
「薬瓶?」
「ここにもあるだろ」
「使い慣れた形があるんです」
その返答に、レギュラスがわずかに頷く。
その頷きまで自然で、シリウスはまた妙なざらつきを覚えた。
なんなんだ、この感じは。
イラつく。
でも、ただの嫌悪じゃない。
自分が知らない二年が、そこにまるごとある。
その中にアランがいて、レギュラスがいて、日常がある。
そしてその日常は、たぶん自分が想像するよりずっと濃い。
シリウスはフォークを置いた。
「……お前」
またレギュラスを見る。
「ずいぶん変わったな」
レギュラスは少しだけ首を傾げた。
「どの辺がです?」
「そういうとこ全部だよ」
シリウスは吐き捨てるみたいに言う。
「昔のお前なら、こんなとこで大人しく飯食ってる顔してねぇ」
レギュラスは少し黙った。
それから、ごく静かに答えた。
「昔の僕なら」
「そもそもここまで来ていません」
その通りすぎて、シリウスは何も返せなかった。
ジェームズがリーマスと視線を交わす。
リリーは静かに食事を続けている。
シリウスだけが、そこで取り残されたみたいな気分になった。
レギュラスの伝えた内容は、的確だった。
こちらはほとんど負傷を出さずに臨めた。
それはかなり大きい。
わかっている。
ちゃんと戦力だ。
ちゃんと役に立つ。
そしてアランが、あいつの隣で自然に呼吸していることも、もう何度も見せつけられている。
それでも。
いらだつものは、いらだつ。
自分が知らないところで、弟が変わっていたこと。
しかもその変化の中心に、アラン・セシールがいること。
全部まとめて、気に入らないまま消えてくれなかった。
レギュラス・ブラックとアラン・セシールが二人並ぶと、どうしてだろうか、妙な生々しさを感じてしまう時があった。
別に、露骨に触れ合っているわけではない。
人前で寄り添い合っているわけでもない。
けれど、何気ない仕草や言葉の端々に。
あの二人だけが積み上げてきたのであろうものが、こちらにも滲んで見えるのだ。
二人の中ではもう当たり前になっているのだろう。
水の入ったグラスをアランが自然に遠ざけることも。
レギュラスがそれを礼も言わず受け入れることも。
会話の途中でほんの一瞬目を合わせるだけで、どちらかが次に何を言うかわかっているみたいな間の取り方も。
そういうもの全部が、妙に生々しかった。
騎士団の本部は、一階を会議の場として使っていて、二階にはいくつか部屋がある。
今は、その一室をレギュラスとアランが使っていた。
別の一室は荷物置きだったり、仮眠用だったりでたまに利用する。
ジェームズがたまたまその辺りを通りかかった時のことだった。
彼らの部屋の前を通った瞬間、寝台の軋む音が思い切りした。
古い建物だから、どうしても床が軋む。
寝台だって古い。シーツは替えているが、ベッドフレームなんて一体何年使っているのだろうという代物だ。
だから、多分そういうことなのだろうと思う。
別に咎める筋合いはない。
咎めようなんて思ってもいない。
数日滞在していて、外出すら制限されているのだから。
互いを確かめ合う行為をするとしたら、そこしかないのだろうし。
むしろ少し同情するまであった。あんな、男所帯にもない簡素すぎる部屋で、あの貴族のレギュラス・ブラックが、という意味でも。
頭では理解していても、やっぱり気まずいものは気まずい。
しかも翌日、本人たちは何でもないような顔で作戦会議に臨んでいるのだから。
意図せず知ってしまったこちらの方が、いたたまれない。
自分とリリーは違う。
少なくともジェームズは、そう思っていた。
リリーには、騎士団の戦闘員として戦う者の振る舞いがある。
人前でべたべたすることもないし、私情をわざわざ場に持ち込まない。
だから、レギュラス・ブラックとアラン・セシールが纏うような空気感みたいなものは、人前では出していない、と思っている。
思っているだけかもしれないが。
その日も会議が終わって、人がばらけたあと。
シリウスと二人きりになった。
何となく、空気が緩んだ瞬間だったのだろう。
シリウスが唐突に言った。
「なぁ」
「ん?」
「アイツさ、今でもエロいのかな」
一瞬、何の話かわからなかった。
次の瞬間、ああ、と気づいて、ジェームズは思わず吹き出した。
「君さあ……」
笑ってしまう。
笑ってしまうが、同時に、さすがにもう笑えてくる、という種類の可笑しさだった。
あの頃。
少年シリウスは、よくそんなことを言っていたものだった。
地味なくせに、だとか。
見た目に反して、だとか。
そういう余計な前置きをつけて。
そしてそれを、笑いながらも興味津々で聞いていた自分がいた。
今思えば、そういう話題に上げること自体が、もうあの頃の彼女への侮辱だったのだ。
それを今さらようやく、この年になって、少年たちの罪として理解している。
ジェームズはまだ少し笑いの余韻を残しながら、首を振った。
「君、最低だよ」
シリウスが片眉を上げる。
「僕も人のこと言えないけどさ」
その一言で、シリウスの顔が少しだけ動いた。
冗談の顔をしていたのに、ジェームズが本気で言ったのがわかったのだろう。
しばらく、沈黙が落ちる。
ジェームズはその沈黙を埋めるみたいに、小さく息を吐いた。
「……昔、笑ってたからね。僕も」
「君がああいうこと言うたび、一緒になって」
シリウスは壁に肩を預けたまま、視線を逸らした。
軽口を叩いた時の勢いはもうない。
「今になって思うけど」
ジェームズは続ける。
「あれ、相当ひどかったよ」
「彼女を人として見てなかった」
シリウスは何も言わない。
だがその沈黙は、聞いていない沈黙ではなかった。
わかっているからこそ、何も返せない時の沈黙だった。
「レギュラスといるアラン見てるとさ」
ジェームズは少しだけ言葉を探す。
「今さら余計に思うんだよね」
「あの子、ちゃんと大事にされる側だったんだなって」
それはべつに、レギュラスを全面的に美化しているわけではない。
あいつはあいつで面倒くさいし、刺々しいし、騎士団に対しても完全に腹を見せているわけじゃない。
でも少なくとも、アランへの扱いには軽さがない。
そこだけは見ていてわかる。
シリウスがようやく、小さく鼻で息を吐いた。
「……わかってるよ」
声は低かった。
「わかってるから、余計に」
そこで少し言葉を切る。
「こういう最低なこと、ふと口から出るんだろうな」
ジェームズはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
たぶんシリウスは、本当に後悔しているのだ。
そして後悔しているからこそ、昔の下品な癖みたいなものが、時々こうして顔を出す。
まともに向き合うには痛すぎるから、軽口に逃げるのだ。
それもまた、どうしようもなく子供っぽい。
「やめなよ、ほんと」
ジェームズは苦笑しながら言った。
「今のアランに対しても失礼だし」
「昔のアランにも失礼だ」
「……うるせぇな」
「うるさく言うよ」
ジェームズはあっさり返す。
「君、ほんとそういうとこだけ成長遅いんだから」
シリウスは舌打ちしたそうな顔をしたが、結局しなかった。
廊下の向こうで、誰かの足音がした。
静かな本部の中で、その音が妙に遠く響く。
ジェームズは壁にもたれながら、ふと思う。
人のことは言えない。
本当にそうだ。
一緒になって笑っていたのだから。
あの頃のシリウスの最低さに、自分も加担していたのだから。
それを今こうして、最低だと言えるようになった自分は。
少しは成長したのだろうか。
わからない。
でも、少なくとももう、あれをただの武勇伝みたいに笑う気にはなれなかった。
シリウスがぼそりと呟く。
「……今のあいつに、そんな目で見られてるわけねぇのにな」
「誰に?」
「アランに決まってんだろ」
ジェームズは一瞬だけ黙った。
それから、あえて軽い調子で返す。
「当たり前じゃん」
「今さらそんなの期待してたら、それこそ最低更新だよ」
シリウスはそこでとうとう小さく笑った。
自嘲みたいな笑いだった。
「更新か」
「うん、更新」
ジェームズも笑う。
「記録伸ばさないでほしいね」
少しだけ空気がゆるむ。
けれどそのゆるみの底に、苦いものはちゃんと残っていた。
たぶん消えない。
昔したことは、そう簡単には消えない。
それでも今さらでも、せめて。
もう同じ目線で笑うことだけは、しないでいようとジェームズは思っていた。
全然、集中できなかった。
壁が薄い。
古い建物だから仕方がないのだろうが、至るところに傷みがある。床も、扉も、寝台も、静かにしていてもどこかが鳴る。二階の廊下を誰かが通るだけで足音が響くし、隣室で椅子を引いただけでも気配が伝わる。
外に出られればまだよかった。
けれど、騎士団の人間を一人つけると言われている以上、どこかへ抜けて休んで、だなんてこともできない。
見張りの目をつけたまま、アランを抱けるほど図太くはなかったし、何よりそんな状況では彼女が心から落ち着けない。
どこにも隙がなかった。
アランと過ごしたあの小さな家なら。
どんな夜だって、互いに欲しい時に求められた。
外から覗く目もなく、廊下を誰かが通ることもなく、気配を殺す必要もない。ただ狭い寝台の上で、欲しい時に抱き寄せて、声を殺しもしないで済んだ。
ここではそうはいかない。
同じ古いベッドでも、ここのはどうにも嫌だった。
軋み方が下品で、知らない人間の気配が染みついている気がする。宿の寝台だって借り物だったが、少なくともあの時は二人きりだった。ここは違う。壁の向こうにも、この建物そのものの中にも、常に誰かがいる。
それが腹立たしかった。
しかもシリウスがいる。
ジェームズ・ポッターがいる。
リーマス・ルーピンがいる。
アランの過去を知っている人間たちが、同じ屋根の下にいる。
そんな場所で、何日も彼女をすぐ隣に感じながら、ただ我慢し続ける方が、レギュラスにはよほど耐えがたかった。
だから食事の席で、レギュラスはあくまでジェームズ・ポッターに向けて告げた。
兄を相手に選ばないのは単純にいけすかないし、自分にとっては話になる相手ではないからだ。シリウスへ直接言えば、話はまた別の方向へ荒れるだけだろう。だったら、まだ場を見られるジェームズに言う方が早い。
「見張りはつけてもらって構いませんので」
ナイフとフォークをきちんと置いてから、レギュラスは言った。
「ここを出て暮らさせていただけませんか」
食卓に、わずかな沈黙が落ちた。
ジェームズが瞬きをする。
リーマスは一瞬だけ眉を寄せたが、否定の顔ではない。
シリウスだけが露骨にこちらを見る。
アランは横で静かに息を止めた気配がした。
「数日ここに滞在しましたが」
レギュラスは続ける。
「必要な管理下に置くという目的は理解しています。今後も位置の把握と見張りが必要だということも」
「ただ、この本部での生活を長引かせるのは、僕たちにも、そちらにも不都合が多いと思います」
「不都合?」
ジェームズが聞き返す。
「ええ」
レギュラスはあっさり頷いた。
「こちらとしては生活の自由がなさすぎる」
「そちらとしては、ずっと二人分の生活を抱えることになる」
「それに、ここは人が多い」
最後の一言に、ジェームズが少しだけ口元を動かした。
何を察したのかは知らない。
だが察されても構わなかった。
「それもそうだね」
ジェームズは素直に頷いた。
「その方が君たちにとってもいいだろうし」
シリウスが鼻で笑うような音を立てる。
「ずいぶん切実そうじゃねぇか」
その言い方に、レギュラスはゆっくり視線だけを向けた。
「ええ」
静かに言う。
「切実ですよ」
シリウスは一瞬だけ言葉を失ったようだった。
まさかそこを否定しないと思わなかったのだろう。
ジェームズが咳払いをして、わざとらしく話を戻す。
「じゃあ、候補地を考えよう」
「本部から近すぎず、でも連絡が取れて、見張りも立てやすい場所」
「完全に自由ってわけにはまだいかないから、そのへんは我慢してもらうことになるけど」
「承知しています」
レギュラスは即答した。
その横で、アランがようやく少しだけ息をついた。
視線を落としていたが、口元がほんの少し和らいでいる。
たぶん彼女も、この本部に居続けることが窮屈だったのだろう。特にシリウスがいる以上、気の休まる時間などほとんどないはずだ。
レギュラスはその横顔を見て、内心で小さく息を吐いた。
出たい。
とにかくここを出たい。
見張りがついてもいい。
位置を把握されてもいい。
多少不自由でもいい。
それでも、壁の向こうに騎士団の気配があって、寝台の軋みひとつに神経を使うこの生活よりはましだった。
レギュラスは食卓の上で、さりげなくアランの手の甲に指先を触れさせた。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれない程度に。
アランが小さくこちらを見る。
何でもない顔で、レギュラスは皿へ視線を戻した。
けれどその一瞬だけで、彼女が同じことを思っていたのがわかった。
ここを出たい、と。
食事が終わって部屋へ戻る途中、アランが小さな声で言った。
「……ありがとうございます」
「何がです?」
「言ってくれて」
アランは少しだけ視線を泳がせる。
「私も、そろそろきついなと思ってました」
レギュラスは思わず口元をゆるめた。
「でしょうね」
「あなた、ずっと気を張っていたので」
「レギュラスもです」
「ええ」
それは認める。
「全然落ち着きません」
「それは、見張られてるからですか」
問われて、レギュラスは少しだけ考えるふりをした。
だが答えは単純だった。
「それもありますが」
歩きながら、アランの方を見ずに続ける。
「普通に何日も我慢する方が嫌なんですよ」
アランの足が一瞬だけ乱れた。
わかりやすすぎて、レギュラスは少し笑いそうになる。
「……そういうこと、廊下で言わないでください」
「事実でしょう」
「あなたも平気そうな顔をしてますけど、そうでもないくせに」
「私は別に」
「嘘ですね」
即答すると、アランは頬を少し赤くした。
その反応を見るだけで、ここ数日のもどかしさが少し和らぐ。
部屋へ戻ると、相変わらず狭い寝台と薄い壁がそこにあった。
けれど、出られる見込みが立っただけで、少し空気が違って感じられる。
アランが椅子へ腰を下ろす。
レギュラスはその前に立って、しばらく彼女を見下ろしていた。
「何ですか」
アランが少し照れたように言う。
「いえ」
レギュラスは静かに答える。
「ようやく、まともにあなたを抱ける場所へ出られそうだと思って」
アランは耳まで赤くなった。
だがその顔を見て、レギュラスは本当に少し機嫌が良くなるのを感じた。
何日も我慢するより。
ちゃんと出て、ちゃんと二人で暮らせる方がいい。
見張りがつこうが、多少不自由が残ろうが。
少なくとも、今よりましになる。
そう思えただけで、レギュラスの中の苛立ちは少しだけ形を変えていた。
ここを出る。
また二人で暮らす。
そして今度こそ、誰にも邪魔されずにアランへ触れる。
その見通しだけが、ようやくこの数日を耐える理由になりそうだった。
シリウスに会って、揺れたことは認めたくない。
認めたくないのに、身体の方がまだあの時のままだった。
握られた手首が、まだ熱い。
嫌だった。
その熱が、まるで昔の自分の残り火みたいで。
レギュラスがいるのだから。
もうあんなふうに揺れたくないのに。
なぜシリウス・ブラックの前に立つと、いつだってあの情けない少女に戻ってしまうのだろう。
自分で自分が嫌になる。
だから少しだけ時間が欲しかった。
廊下の端で深呼吸をして、何でもなかった顔に戻して、それから部屋に入ろうと思っていたのに。
部屋の扉が、先に開いた。
アランはびくりと肩を揺らした。
そこに立っていたのは、レギュラスだった。
「今、迎えに行こうと思ってました」
静かな声だった。
責める色はない。
それが逆に胸に刺さる。
「ごめんなさい」
アランは慌てて言う。
「遅くなりました」
「心配しましたよ」
それだけ言って、レギュラスは扉を少し大きく開けた。
中へ入れ、ということなのだろう。
アランは頷いて部屋に入る。
扉が閉まる音が、やけに近く響いた。
部屋の中はさっき出た時のままだ。
狭い寝台と、机と、椅子。
落ち着くはずなのに、今のアランには少しも落ち着かなかった。
何かを察されたくなくて。
余計なことを言わないように心がける。
「杖はどうでしたか」
できるだけ普通に、そう聞いた。
「問題ありません」
レギュラスはコートを脱ぎながら答える。
「明日には仕上がるそうです」
「よかったです」
「ええ」
そこで会話が切れた。
気まずい。
いや、正確には気まずいのではない。
アランが勝手にそうしているだけだ。
レギュラスは何も問い詰めていない。
むしろ普段より静かで、落ち着いている。
なのにアランの方が、その落ち着きに耐えられない。
レギュラスが優しければ優しいほど、申し訳なさが募る。
シリウスに揺れた。
それは、たしかに事実だった。
戻りたいわけじゃない。
今さら何かをやり直したいわけでもない。
それでも、昔欲しかった言葉を急に向けられて、全然平気ではいられなかった。
それが自分で許せない。
「アラン」
名前を呼ばれて、アランははっと顔を上げた。
レギュラスは少しだけ眉を寄せている。
怒っているわけではない。
ただ、心配している顔だった。
「こっちへ」
短くそう言う。
アランは少し迷って、それから素直に近づいた。
近づいた瞬間、レギュラスに腕を引かれて、そのまま抱きしめられる。
「……レギュラス」
「冷たいですね」
髪に頬を寄せたまま、彼が言う。
「廊下にいたでしょう」
見抜かれている。
全部ではなくても、少なくとも何かを落ち着かせようとしていたことくらいは。
アランは彼の胸元に額を押しつけた。
言い訳が思いつかない。
「少しだけ……」
ようやく出た声は小さかった。
「少しだけ、外の空気を吸いたくて」
「嘘ではないですよね?」
「……はい」
レギュラスはそれ以上は追及しなかった。
ただ、背中へ手を回して、ゆっくり撫でる。
その手つきがやさしくて、余計に泣きそうになる。
「シリウスと何を話したんですか」
しばらくして、低い声で問われた。
やっぱりそこは避けられなかった。
アランは目を閉じる。
「少しだけ」
「昔のことを、謝られました」
レギュラスの手が、背中の上でほんの少し止まる。
でもすぐにまた動き出す。
「それで?」
「それで……」
喉が詰まる。
「今さら困るって、言いました」
「ええ」
「それから」
アランはさらに小さくなる。
「もう終わったことだって」
レギュラスは黙って聞いていた。
「でも」
アランはその先を言うのがひどく嫌だった。
言えばきっと、自分で自分をもっと嫌いになる。
それでも、黙ったままでいるのも卑怯だった。
「でも、少しだけ揺れました」
とうとうそう言うと、胸の奥がぎゅっと縮む。
「昔、欲しかった言葉を言われたので」
「今さら、遅いのに」
「それなのに、全然平気ではいられなくて」
恥ずかしかった。
情けなかった。
レギュラスの前でこんなことを言わなければならない自分が、本当に嫌だった。
「……ごめんなさい」
結局、最後はそれしか出てこない。
レギュラスはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が怖くて、アランは彼の服を少しだけ強く掴んだ。
怒るだろうか。
呆れるだろうか。
それとも、やっぱりまだシリウスなのかと思うだろうか。
どれでもおかしくない。
そう思って身を固くした時だった。
「謝らないでください」
意外なほど静かな声だった。
アランはゆっくり顔を上げる。
レギュラスは、少しだけ苦そうな顔をしていた。
でも怒ってはいなかった。
「気分はよくないです」
正直にそう言う。
「兄に揺らされたと聞いて、いい気分でいられるほどできた人間じゃない」
アランは何も言えない。
「でも」
レギュラスは続ける。
「揺れたことと、戻りたいことは違うんでしょう」
その問いに、アランはすぐ頷いた。
「違います」
「だったら、今はそれでいいです」
あまりにもまっすぐな返しで、アランは少し目を見開いた。
「いいんですか」
「よくはないです」
レギュラスは少しだけ皮肉っぽく言う。
「でも、あなたがちゃんと自分で揺れたと認めて、こっちに戻ってきたなら」
「今は、それで十分です」
戻ってきた。
その言葉が、胸に深く落ちる。
そうだ。
揺れた。
でも戻ってきた。
今ここにいて、抱きしめられている相手はレギュラスだ。
昔の少女に引き戻されかけても、最後に戻ってきたのはここだ。
アランはそこで初めて、少しだけ呼吸がしやすくなった。
「……嫌にならないんですか」
思わず聞く。
「何がです?」
「こんなふうに」
言葉を探す。
「昔のことで、まだ揺れる私が」
レギュラスは少しだけ目を細めた。
それから、アランの頬に触れる。
「嫌にはなりますよ」
「兄にも、昔にも、全部」
その正直さに、アランは少しだけ泣きそうに笑った。
「でも、私には?」
問い返される。
アランは息を止める。
その答えを聞くのが怖い。
レギュラスは、やわらかく、けれど逃がさない目でこちらを見た。
「あなたには、なりません」
それだけだった。
たったそれだけなのに、胸がいっぱいになる。
古傷ごと嫌われるのではないかと思っていたところへ、その傷を抱えたままでも、あなた自身は嫌じゃないと言われる。
それが、ひどく救いだった。
アランはとうとう、レギュラスの胸に顔を埋めた。
「……ずるいです」
「何がです?」
「そういうことを、ちゃんと言うところが」
レギュラスは小さく笑った気配を見せた。
「兄との差をつけないといけませんから」
その言い方に、アランは少しだけ肩を震わせた。
泣いたのか笑ったのか、自分でも曖昧だった。
「比べてないです」
「僕は比べてます」
「レギュラス」
「だって気に入らないでしょう」
低く、素直に言う。
「今でもあなたを揺らせることが」
アランは何も言えなかった。
たしかに気に入らないのだろう。
その通りだ。
でも、それを隠さずに言ってくれることが、今はありがたかった。
「今日はもう」
レギュラスが背を撫でながら言う。
「無理に平気なふりをしなくていいです」
「でも……」
「でも、じゃありません」
「荒れたなら、荒れたでいい」
「その代わり、一人で冷まそうとしないでください」
アランは目を閉じた。
廊下で一人、手首の熱が消えるのを待っていた自分を思い出す。
あれは確かに、あまり良くなかったのかもしれない。
「……はい」
「次からは、迎えに行く前にちゃんと戻ってきてください」
その言い方が少しだけ拗ねたみたいで、アランはようやくほんの少し笑った。
「はい」
レギュラスはその返事を聞いて、アランの額に軽く口づけた。
「よろしい」
そんなふうにまとめるのが可笑しくて。
でも、その可笑しさのおかげで、心の荒れ方が少しだけ静まる。
レギュラスが優しければ優しいほど、申し訳なさが募る。
けれどたぶん、今はその申し訳なさごと受け取ってもらうしかないのだろう。
アランは彼を抱き返した。
シリウスに会って、揺れた。
それは消せない。
でも、今こうして抱きしめ返したいと思う相手が誰なのかも、もうちゃんとわかっていた。
作戦会議の卓上に広げられた地図を見た瞬間、レギュラスの頭の中ではもういくつもの動きが組み上がり始めていた。
どこでデスイーターが動くか。
誰が先に出てくるか。
どういう呪文の流れで場を制圧しようとするか。
想像がつく。
それどころか、顔まで浮かぶ。
あの男ならこの狭い通路を好むだろう。
あの女なら高所を取る。
あの二人が組めば、片方が面で圧をかけて、もう片方が死角から骨を折りにくる。
彼らの特徴も。
魔力の性質も。
呪文の癖も。
怒り方も、焦った時に崩れる箇所も、理解している。
それを抑えて臨めば、こちら側の消耗は最小限で済む。
レギュラスは地図の一点を指先で示した。
「ここは避けた方がいいです」
騎士団の視線が集まる。
わずかな沈黙。
まだ全員が完全にこちらを受け入れているわけではないとわかる間だった。
「理由は?」
リーマスが冷静に問う。
「遮蔽物が少ない」
レギュラスは淡々と答える。
「それだけならまだいいんですが、ここは横幅の割に天井が高い。上から撃ち下ろす側に有利すぎます」
「デスイーターの中に、面で制圧するより一点に穴を穿つのを好む人間が二人います。彼らが高所を取れば、こちらは防御に魔力を持っていかれすぎる」
ジェームズが地図を覗き込みながら唸る。
「じゃあ、こっちへ引き込む?」
「ええ」
レギュラスは別の場所へ指を滑らせる。
「ここなら通路が折れていて、視線が切れる。撃ち合いより足を止める呪文の方が効く」
「それに、この幅なら三人以上は並べない。数を活かせなくなります」
「なるほどな」
ジェームズは素直に頷いた。
その素直さに、少しだけ場の空気が和らぐ。
だが次の瞬間、シリウスが椅子に深くもたれたまま、ひどく面白くなさそうに口を開いた。
「随分詳しいこったな」
「そりゃ元仲間なら、勝たせる方法も負ける方法もよく知ってるわけだ」
棘がある。
あからさまだ。
レギュラスは視線を地図から上げなかった。
一々兄がつっかかってくるのが、心底気に食わない。
けれど、ここで同じ土俵に乗って言い返し、人前で争いたくはなかった。
そんなことをして得をするのはデスイーターだけだ。
「シリウス、それは今じゃない」
ジェームズがすぐに制した。
「今してるのは作戦会議だ」
助け舟、というほど優しいものではない。
だが、こちらが黙っていれば、むしろ逆にあちら側から勝手に場を整える力が働く。
それはレギュラスにももう見えていた。
だから黙る。
シリウスは不機嫌そうな顔を隠そうともしない。
全身で表している。
それが子どもじみて見えて、余計に腹が立った。
こっちの方がよほど不機嫌極まりない。
だが、それを顔に出さないことで、せめて自分はこの男とは違うと、自分自身で線引きしたかった。
レギュラスはゆっくり息を吐き、もう一度地図の上へ手を戻した。
「彼らは広く展開できる場所を好みます」
「理由は単純で、数で押すのに慣れているからです。だからこちらが選ぶべきなのは、狭くて、角が多くて、連携を切りやすい地形です」
「名前は出せるか?」
今度はリーマスではなく、ムーディが低く言った。
片目がぎらりとこちらを射る。
「動く可能性が高い連中のな」
「出せます」
レギュラスは頷いた。
「ルシウスが直接動くなら、正面から崩すより包囲の完成を待つはずです。だから最初に来るのは別働です」
「候補は三人」
指を折るみたいに短く続ける。
「一人は威力偏重。一人は毒や遅効性の魔法薬を混ぜる。もう一人は拘束術が得意です」
「厄介なのばっかりじゃねぇか」
誰かが舌打ちまじりに言う。
「ええ」
レギュラスはあっさり認める。
「だから先に知っていることに意味がある」
そこでようやく、何人かの目が疑う相手から使える情報源へ少しだけ変わったのがわかった。
それでいい、とレギュラスは思う。
好かれる必要はない。
役に立てばいい。
「毒を使う奴は誰が相手するといい?」
リリーが静かに口を開く。
彼女の声は、場を感情から引き戻す力があった。
「正面から火力で押さない人がいいです」
レギュラスは即答する。
「むしろ細かく見られる人。あの手の人間は、魔法そのものより混ぜ物に癖が出る」
「あなたか、リーマス」
一瞬だけ視線を二人へ向ける。
「多分、その二人が一番早く気づける」
リリーが頷き、リーマスも静かに同意した。
シリウスは腕を組んだままだ。
口は閉じたが、不機嫌さは一つも消えていない。
レギュラスはそれを視界の端で捉えながら、あえてそちらを見なかった。
「拘束術の方は?」
「速い人が危ないです」
レギュラスは言う。
「自分の足で切り抜けられると思って突っ込む人ほど、足元を取られる」
ほんの一瞬、シリウスの方へ視線が向きかけたが、止める。
代わりにジェームズへ向ける。
「だから前へ出るなら、単独じゃなく二人で」
「片方が足元、片方が上を見てください」
「了解」
ジェームズは素直に返した。
その返事の軽さに、シリウスがわずかに顔をしかめるのが見える。
面倒だ、とレギュラスは思う。
兄は昔からそうだ。
自分が感情をむき出しにしても、それを周りが何とかしてくれることに慣れている。
けれどこちらは違う。
今ここで必要なのは、有用であることだけだ。
「最後に」
レギュラスは地図の端を指で軽く叩く。
「彼らは撤退の時こそ雑になります。勝ち切れないと見た瞬間、急に精度より速度へ寄る」
「だから追うなら、その切り替わりを待ってからの方がいい」
「序盤で勝ちを狙うより、崩れ方を見た方が確実です」
「……ふん」
シリウスが鼻で笑うような音を立てた。
「まるで手の内全部わかってるみてぇな言い方だな」
今度は誰もすぐには制さなかった。
場が一瞬だけ止まる。
レギュラスはようやく、静かに兄を見た。
「わかっていますよ」
声は冷えていた。
「だから今ここにいるんです」
ほんのわずかな緊張が走る。
シリウスの目が細くなる。
言い返したそうだった。
だが、その前にムーディが杖の先で机を軽く叩いた。
「感情のぶつけ合いは後にしろ」
「今はこいつの情報を使う」
「それだけだ」
その一言で、会議はまた流れを取り戻す。
レギュラスは内心で小さく息を吐いた。
うまくいった、というほどでもない。
だが崩さずに済んだ。
それで十分だ。
この男とは違う。
兄とは違う。
そういう意地が、今のレギュラスにはまだ大きかった。
人前で感情に負けたくない。
アランの前でも。
騎士団の前でも。
とくに兄の前では。
「では配置を組もう」
ダンブルドアが静かに言う。
その声で、全員が地図へ戻った。
レギュラスも視線を落とす。
シリウスの不機嫌はまだ消えていない。
自分の方も同じだった。
いや、むしろこちらの方が深く、冷たく煮えている。
それでも顔には出さない。
顔に出さないことで。
口調を崩さないことで。
せめて自分は、兄のように感情で場を汚す男ではないと、そう証明したかった。
たとえそれが、ひどく意地の悪い線引きだったとしても。
レギュラスの伝えた内容は、認めたくないが的確だった。
こちらはほとんど負傷を出さずに臨めた。
それはかなり大きい。
実際、あの場にいた誰もがわかっているはずだった。動線の切り方も、誰をどこに当てるべきかも、デスイーター側の崩れ方も、あいつの読みは外れなかった。
腹立たしいほどに。
だからこそ、シリウスの苛立ちは余計に増していた。
数日、立て続けに騎士団本部で食事を一緒に取ることが増えた。
レギュラスは当然、アランの隣で食事を取っている。
そこまではいい。
いや、よくはないが、そこに文句をつける筋合いは今の自分にはないとわかっている。
だが気に障ることは、ほかにもあった。
毎回、アランがガラスのグラスを裏返して避けるのだ。
最初は気まぐれかと思った。
だが違う。
必ずだ。
レギュラスの前にだけ、置かれたガラスのグラスをそっと伏せる。水差しも少し遠ざける。何かが見えている人間の動きだった。
なんの理由があるのか、意味がわからない。
いつ戦闘になるかわからないのだから、誰も酒なんか飲まない。
ただ食事の時に水くらいは飲む。
それなのにレギュラスは飲まない。
飲まないどころか、アランが最初から避ける。
それが妙にひっかかった。
しかもレギュラスも、それを当然みたいに受け入れている。
礼を言うわけでもない。
説明するわけでもない。
ただ、そうされることがもう日常になっているみたいな顔をしている。
その自然さが、シリウスにはひどく気に入らなかった。
「そういえば、今日は出かけたのかい?」
ジェームズが、いつもの妙に明るい調子でアランへ聞いた。
「はい」
アランは小さく頷く。
「少し雑貨の買い物に出ました」
雑貨。
その言葉の軽さに、シリウスは内心で眉をひそめた。
今の状況で、雑貨。
もちろん日常は必要だ。
必要なのはわかっている。
だがデスイーターに追われる身で、そんな平穏そうな響きのする言葉を口にされると、妙にざらつく。
リーマスがすぐに静かに口を挟んだ。
「君たち二人だけでの外出は、まだ避けてほしいんだ」
少しだけ言いにくそうに間を置く。
「その……疑ってるとか、そういうわけじゃないんだけど」
「騎士団の中にはまだ、レギュラス、君に不信感を持ったままの人間もいるから……」
配慮した言い方だった。
リーマスらしい、無駄に角を立てない話し方。
レギュラスは食事の手を止めて、すぐに頷いた。
「ええ、承知しました」
「外出の際は、どなたかの付き添いを依頼します」
その素直に従うそぶりすら、もう腹が立つ。
内心ではいつでも反撃できる牙を眠らせているくせに。
穏やかに頷いて、理性的で、物分かりの良い顔をして見せる。
そういうところが昔から癪だった。
レギュラス・ブラックは、いつだってそうだ。
表では静かに譲る。
だが本当に譲っているわけではない。
必要なら、いつでも喉を裂ける場所に牙を隠している。
シリウスはそれを知っている。
知っているから、なおさらその“従順そうな顔”が気に食わない。
「随分、聞き分けがいいこったな」
思わず、刺すように言っていた。
テーブルの空気が少し止まる。
ジェームズが、あーあ、という顔をする。
リーマスは露骨にため息を飲み込んだ。
レギュラスはすぐにはこちらを見なかった。
ナイフとフォークをきちんと置いて、それからようやく視線だけを上げる。
「今、揉める理由がありませんから」
その答え方が、やっぱり気に障る。
落ち着き払っていて、余計な感情が見えない。
「へえ」
シリウスは椅子に深くもたれて口角を歪めた。
「揉める理由ができたら、やる気満々ってことか?」
「必要なら」
レギュラスはあっさり言った。
ジェームズが小さく頭を抱えた。
「君たちほんと食事のたびにやるのやめろって」
「先に絡んでくるのは兄さんでしょう」
「お前に兄さんって呼ばれるたびにムカつくんだよ」
「それはお気の毒ですね」
淡々と返される。
その淡々さが、シリウスにはなおさら煽りにしか聞こえない。
アランはその横で、ずっと静かだった。
けれど視線だけは少し落ち着かない。
昔の彼女なら、きっとこういう時、自分のせいで空気が悪くなったみたいな顔をしただろう。
今も少し、その気配がある。
それがまた、シリウスを苛立たせる。
何でだ。
何でまだ、そんなふうに気を回す。
もう自分の顔色なんか見なくていいはずなのに。
「シリウス」
リリーが静かに言った。
声は低くないのに、妙に効く。
「あなたが一番、不信感を持ってるみたいに聞こえるわ」
シリウスは舌打ちしたいのを堪えた。
「持ってねぇとは言ってねぇよ」
「なら、せめて騎士団の中にはみたいな顔はやめなさい」
リリーはパンをちぎりながら、さらりと言う。
「あなた個人の問題でしょ」
ジェームズが吹き出しかけて、慌てて咳払いした。
シリウスは何も返せなかった。
返せないところを突かれるのが、一番腹立たしい。
レギュラスはそのやりとりを黙って見ていた。
口を挟まない。
勝手にこっちが転んでいくのを待つみたいに。
それがまた、ムカつく。
「……お前さ」
シリウスは今度は真正面から弟を見た。
「なんで水飲まねぇんだ」
思ったより先に、それが口から出た。
アランの指先がぴくりと止まる。
レギュラスの目が、ごくわずかに細くなる。
「何です、急に」
「毎回だろ」
シリウスは顎でグラスを示す。
「こいつが先に伏せる」
「お前は何も言わねぇ」
「でも毎回そうしてる」
食卓にいる何人かが、そこで初めて気づいたようにレギュラスの前を見た。
グラスはたしかに伏せられている。
アランが口を開きかける。
だがその前に、レギュラスが静かに言った。
「苦手なんです」
それだけだった。
シリウスは眉を寄せる。
「水が?」
「ガラス越しの揺れが」
レギュラスは短く続ける。
「今はまだ、少し」
その言い方に、シリウスは一瞬だけ言葉を失った。
湖か。
あの話の続きか。
死にかけた時の。
だからアランが毎回、先に避けているのだ。
まるで呼吸するみたいな自然さで。
レギュラスが発作を起こさないように。
そのことがわかった瞬間、胸の奥に別の苛立ちが差し込んだ。
そんなことまで、こいつは知っているのか。
そんなところまで、一緒に生きてきたのか。
「……そうかよ」
シリウスは低く言うしかなかった。
アランは何も言わない。
ただ、また水差しを少し遠ざけ直しただけだ。
その仕草が、何度も繰り返してきたものだとわかってしまう。
レギュラスはそれ以上説明しなかった。
必要以上に弱みを晒す気はないのだろう。
あくまで最小限だけを差し出す。
その態度も、やっぱり腹立たしい。
でも、さっきまでとは少し種類が違っていた。
シリウスはふいに思う。
レギュラス・ブラックは、本当に二年、アランと暮らしていたのだ。
その事実が、こういう些細なところに出てしまう。
食卓で水を避ける動きひとつ。
それだけで。
「買い物って、何買ったんだ?」
ジェームズが、空気を少し戻そうとするみたいにアランへ聞いた。
「布巾とか、糸とか」
アランは答える。
「あと、薬瓶を少し」
「薬瓶?」
「ここにもあるだろ」
「使い慣れた形があるんです」
その返答に、レギュラスがわずかに頷く。
その頷きまで自然で、シリウスはまた妙なざらつきを覚えた。
なんなんだ、この感じは。
イラつく。
でも、ただの嫌悪じゃない。
自分が知らない二年が、そこにまるごとある。
その中にアランがいて、レギュラスがいて、日常がある。
そしてその日常は、たぶん自分が想像するよりずっと濃い。
シリウスはフォークを置いた。
「……お前」
またレギュラスを見る。
「ずいぶん変わったな」
レギュラスは少しだけ首を傾げた。
「どの辺がです?」
「そういうとこ全部だよ」
シリウスは吐き捨てるみたいに言う。
「昔のお前なら、こんなとこで大人しく飯食ってる顔してねぇ」
レギュラスは少し黙った。
それから、ごく静かに答えた。
「昔の僕なら」
「そもそもここまで来ていません」
その通りすぎて、シリウスは何も返せなかった。
ジェームズがリーマスと視線を交わす。
リリーは静かに食事を続けている。
シリウスだけが、そこで取り残されたみたいな気分になった。
レギュラスの伝えた内容は、的確だった。
こちらはほとんど負傷を出さずに臨めた。
それはかなり大きい。
わかっている。
ちゃんと戦力だ。
ちゃんと役に立つ。
そしてアランが、あいつの隣で自然に呼吸していることも、もう何度も見せつけられている。
それでも。
いらだつものは、いらだつ。
自分が知らないところで、弟が変わっていたこと。
しかもその変化の中心に、アラン・セシールがいること。
全部まとめて、気に入らないまま消えてくれなかった。
レギュラス・ブラックとアラン・セシールが二人並ぶと、どうしてだろうか、妙な生々しさを感じてしまう時があった。
別に、露骨に触れ合っているわけではない。
人前で寄り添い合っているわけでもない。
けれど、何気ない仕草や言葉の端々に。
あの二人だけが積み上げてきたのであろうものが、こちらにも滲んで見えるのだ。
二人の中ではもう当たり前になっているのだろう。
水の入ったグラスをアランが自然に遠ざけることも。
レギュラスがそれを礼も言わず受け入れることも。
会話の途中でほんの一瞬目を合わせるだけで、どちらかが次に何を言うかわかっているみたいな間の取り方も。
そういうもの全部が、妙に生々しかった。
騎士団の本部は、一階を会議の場として使っていて、二階にはいくつか部屋がある。
今は、その一室をレギュラスとアランが使っていた。
別の一室は荷物置きだったり、仮眠用だったりでたまに利用する。
ジェームズがたまたまその辺りを通りかかった時のことだった。
彼らの部屋の前を通った瞬間、寝台の軋む音が思い切りした。
古い建物だから、どうしても床が軋む。
寝台だって古い。シーツは替えているが、ベッドフレームなんて一体何年使っているのだろうという代物だ。
だから、多分そういうことなのだろうと思う。
別に咎める筋合いはない。
咎めようなんて思ってもいない。
数日滞在していて、外出すら制限されているのだから。
互いを確かめ合う行為をするとしたら、そこしかないのだろうし。
むしろ少し同情するまであった。あんな、男所帯にもない簡素すぎる部屋で、あの貴族のレギュラス・ブラックが、という意味でも。
頭では理解していても、やっぱり気まずいものは気まずい。
しかも翌日、本人たちは何でもないような顔で作戦会議に臨んでいるのだから。
意図せず知ってしまったこちらの方が、いたたまれない。
自分とリリーは違う。
少なくともジェームズは、そう思っていた。
リリーには、騎士団の戦闘員として戦う者の振る舞いがある。
人前でべたべたすることもないし、私情をわざわざ場に持ち込まない。
だから、レギュラス・ブラックとアラン・セシールが纏うような空気感みたいなものは、人前では出していない、と思っている。
思っているだけかもしれないが。
その日も会議が終わって、人がばらけたあと。
シリウスと二人きりになった。
何となく、空気が緩んだ瞬間だったのだろう。
シリウスが唐突に言った。
「なぁ」
「ん?」
「アイツさ、今でもエロいのかな」
一瞬、何の話かわからなかった。
次の瞬間、ああ、と気づいて、ジェームズは思わず吹き出した。
「君さあ……」
笑ってしまう。
笑ってしまうが、同時に、さすがにもう笑えてくる、という種類の可笑しさだった。
あの頃。
少年シリウスは、よくそんなことを言っていたものだった。
地味なくせに、だとか。
見た目に反して、だとか。
そういう余計な前置きをつけて。
そしてそれを、笑いながらも興味津々で聞いていた自分がいた。
今思えば、そういう話題に上げること自体が、もうあの頃の彼女への侮辱だったのだ。
それを今さらようやく、この年になって、少年たちの罪として理解している。
ジェームズはまだ少し笑いの余韻を残しながら、首を振った。
「君、最低だよ」
シリウスが片眉を上げる。
「僕も人のこと言えないけどさ」
その一言で、シリウスの顔が少しだけ動いた。
冗談の顔をしていたのに、ジェームズが本気で言ったのがわかったのだろう。
しばらく、沈黙が落ちる。
ジェームズはその沈黙を埋めるみたいに、小さく息を吐いた。
「……昔、笑ってたからね。僕も」
「君がああいうこと言うたび、一緒になって」
シリウスは壁に肩を預けたまま、視線を逸らした。
軽口を叩いた時の勢いはもうない。
「今になって思うけど」
ジェームズは続ける。
「あれ、相当ひどかったよ」
「彼女を人として見てなかった」
シリウスは何も言わない。
だがその沈黙は、聞いていない沈黙ではなかった。
わかっているからこそ、何も返せない時の沈黙だった。
「レギュラスといるアラン見てるとさ」
ジェームズは少しだけ言葉を探す。
「今さら余計に思うんだよね」
「あの子、ちゃんと大事にされる側だったんだなって」
それはべつに、レギュラスを全面的に美化しているわけではない。
あいつはあいつで面倒くさいし、刺々しいし、騎士団に対しても完全に腹を見せているわけじゃない。
でも少なくとも、アランへの扱いには軽さがない。
そこだけは見ていてわかる。
シリウスがようやく、小さく鼻で息を吐いた。
「……わかってるよ」
声は低かった。
「わかってるから、余計に」
そこで少し言葉を切る。
「こういう最低なこと、ふと口から出るんだろうな」
ジェームズはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
たぶんシリウスは、本当に後悔しているのだ。
そして後悔しているからこそ、昔の下品な癖みたいなものが、時々こうして顔を出す。
まともに向き合うには痛すぎるから、軽口に逃げるのだ。
それもまた、どうしようもなく子供っぽい。
「やめなよ、ほんと」
ジェームズは苦笑しながら言った。
「今のアランに対しても失礼だし」
「昔のアランにも失礼だ」
「……うるせぇな」
「うるさく言うよ」
ジェームズはあっさり返す。
「君、ほんとそういうとこだけ成長遅いんだから」
シリウスは舌打ちしたそうな顔をしたが、結局しなかった。
廊下の向こうで、誰かの足音がした。
静かな本部の中で、その音が妙に遠く響く。
ジェームズは壁にもたれながら、ふと思う。
人のことは言えない。
本当にそうだ。
一緒になって笑っていたのだから。
あの頃のシリウスの最低さに、自分も加担していたのだから。
それを今こうして、最低だと言えるようになった自分は。
少しは成長したのだろうか。
わからない。
でも、少なくとももう、あれをただの武勇伝みたいに笑う気にはなれなかった。
シリウスがぼそりと呟く。
「……今のあいつに、そんな目で見られてるわけねぇのにな」
「誰に?」
「アランに決まってんだろ」
ジェームズは一瞬だけ黙った。
それから、あえて軽い調子で返す。
「当たり前じゃん」
「今さらそんなの期待してたら、それこそ最低更新だよ」
シリウスはそこでとうとう小さく笑った。
自嘲みたいな笑いだった。
「更新か」
「うん、更新」
ジェームズも笑う。
「記録伸ばさないでほしいね」
少しだけ空気がゆるむ。
けれどそのゆるみの底に、苦いものはちゃんと残っていた。
たぶん消えない。
昔したことは、そう簡単には消えない。
それでも今さらでも、せめて。
もう同じ目線で笑うことだけは、しないでいようとジェームズは思っていた。
全然、集中できなかった。
壁が薄い。
古い建物だから仕方がないのだろうが、至るところに傷みがある。床も、扉も、寝台も、静かにしていてもどこかが鳴る。二階の廊下を誰かが通るだけで足音が響くし、隣室で椅子を引いただけでも気配が伝わる。
外に出られればまだよかった。
けれど、騎士団の人間を一人つけると言われている以上、どこかへ抜けて休んで、だなんてこともできない。
見張りの目をつけたまま、アランを抱けるほど図太くはなかったし、何よりそんな状況では彼女が心から落ち着けない。
どこにも隙がなかった。
アランと過ごしたあの小さな家なら。
どんな夜だって、互いに欲しい時に求められた。
外から覗く目もなく、廊下を誰かが通ることもなく、気配を殺す必要もない。ただ狭い寝台の上で、欲しい時に抱き寄せて、声を殺しもしないで済んだ。
ここではそうはいかない。
同じ古いベッドでも、ここのはどうにも嫌だった。
軋み方が下品で、知らない人間の気配が染みついている気がする。宿の寝台だって借り物だったが、少なくともあの時は二人きりだった。ここは違う。壁の向こうにも、この建物そのものの中にも、常に誰かがいる。
それが腹立たしかった。
しかもシリウスがいる。
ジェームズ・ポッターがいる。
リーマス・ルーピンがいる。
アランの過去を知っている人間たちが、同じ屋根の下にいる。
そんな場所で、何日も彼女をすぐ隣に感じながら、ただ我慢し続ける方が、レギュラスにはよほど耐えがたかった。
だから食事の席で、レギュラスはあくまでジェームズ・ポッターに向けて告げた。
兄を相手に選ばないのは単純にいけすかないし、自分にとっては話になる相手ではないからだ。シリウスへ直接言えば、話はまた別の方向へ荒れるだけだろう。だったら、まだ場を見られるジェームズに言う方が早い。
「見張りはつけてもらって構いませんので」
ナイフとフォークをきちんと置いてから、レギュラスは言った。
「ここを出て暮らさせていただけませんか」
食卓に、わずかな沈黙が落ちた。
ジェームズが瞬きをする。
リーマスは一瞬だけ眉を寄せたが、否定の顔ではない。
シリウスだけが露骨にこちらを見る。
アランは横で静かに息を止めた気配がした。
「数日ここに滞在しましたが」
レギュラスは続ける。
「必要な管理下に置くという目的は理解しています。今後も位置の把握と見張りが必要だということも」
「ただ、この本部での生活を長引かせるのは、僕たちにも、そちらにも不都合が多いと思います」
「不都合?」
ジェームズが聞き返す。
「ええ」
レギュラスはあっさり頷いた。
「こちらとしては生活の自由がなさすぎる」
「そちらとしては、ずっと二人分の生活を抱えることになる」
「それに、ここは人が多い」
最後の一言に、ジェームズが少しだけ口元を動かした。
何を察したのかは知らない。
だが察されても構わなかった。
「それもそうだね」
ジェームズは素直に頷いた。
「その方が君たちにとってもいいだろうし」
シリウスが鼻で笑うような音を立てる。
「ずいぶん切実そうじゃねぇか」
その言い方に、レギュラスはゆっくり視線だけを向けた。
「ええ」
静かに言う。
「切実ですよ」
シリウスは一瞬だけ言葉を失ったようだった。
まさかそこを否定しないと思わなかったのだろう。
ジェームズが咳払いをして、わざとらしく話を戻す。
「じゃあ、候補地を考えよう」
「本部から近すぎず、でも連絡が取れて、見張りも立てやすい場所」
「完全に自由ってわけにはまだいかないから、そのへんは我慢してもらうことになるけど」
「承知しています」
レギュラスは即答した。
その横で、アランがようやく少しだけ息をついた。
視線を落としていたが、口元がほんの少し和らいでいる。
たぶん彼女も、この本部に居続けることが窮屈だったのだろう。特にシリウスがいる以上、気の休まる時間などほとんどないはずだ。
レギュラスはその横顔を見て、内心で小さく息を吐いた。
出たい。
とにかくここを出たい。
見張りがついてもいい。
位置を把握されてもいい。
多少不自由でもいい。
それでも、壁の向こうに騎士団の気配があって、寝台の軋みひとつに神経を使うこの生活よりはましだった。
レギュラスは食卓の上で、さりげなくアランの手の甲に指先を触れさせた。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれない程度に。
アランが小さくこちらを見る。
何でもない顔で、レギュラスは皿へ視線を戻した。
けれどその一瞬だけで、彼女が同じことを思っていたのがわかった。
ここを出たい、と。
食事が終わって部屋へ戻る途中、アランが小さな声で言った。
「……ありがとうございます」
「何がです?」
「言ってくれて」
アランは少しだけ視線を泳がせる。
「私も、そろそろきついなと思ってました」
レギュラスは思わず口元をゆるめた。
「でしょうね」
「あなた、ずっと気を張っていたので」
「レギュラスもです」
「ええ」
それは認める。
「全然落ち着きません」
「それは、見張られてるからですか」
問われて、レギュラスは少しだけ考えるふりをした。
だが答えは単純だった。
「それもありますが」
歩きながら、アランの方を見ずに続ける。
「普通に何日も我慢する方が嫌なんですよ」
アランの足が一瞬だけ乱れた。
わかりやすすぎて、レギュラスは少し笑いそうになる。
「……そういうこと、廊下で言わないでください」
「事実でしょう」
「あなたも平気そうな顔をしてますけど、そうでもないくせに」
「私は別に」
「嘘ですね」
即答すると、アランは頬を少し赤くした。
その反応を見るだけで、ここ数日のもどかしさが少し和らぐ。
部屋へ戻ると、相変わらず狭い寝台と薄い壁がそこにあった。
けれど、出られる見込みが立っただけで、少し空気が違って感じられる。
アランが椅子へ腰を下ろす。
レギュラスはその前に立って、しばらく彼女を見下ろしていた。
「何ですか」
アランが少し照れたように言う。
「いえ」
レギュラスは静かに答える。
「ようやく、まともにあなたを抱ける場所へ出られそうだと思って」
アランは耳まで赤くなった。
だがその顔を見て、レギュラスは本当に少し機嫌が良くなるのを感じた。
何日も我慢するより。
ちゃんと出て、ちゃんと二人で暮らせる方がいい。
見張りがつこうが、多少不自由が残ろうが。
少なくとも、今よりましになる。
そう思えただけで、レギュラスの中の苛立ちは少しだけ形を変えていた。
ここを出る。
また二人で暮らす。
そして今度こそ、誰にも邪魔されずにアランへ触れる。
その見通しだけが、ようやくこの数日を耐える理由になりそうだった。
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