1章
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信用のためにも、騎士団の用意した部屋で過ごすことを求められた。
この本部の一室を使え、と。
当然のことだろう。
むしろ、それ以外の扱いを期待していたわけでもない。
それはいい。
レギュラスはアランと並んで部屋へ入った。
普通の一部屋、という感じだった。
質素な寝台がひとつ、机がひとつ、椅子が二脚。窓は小さく、壁には最低限の棚しかない。昨夜泊まった宿より、もっと人の家の一室に近い。借り物の部屋なのに、妙に生活の影が薄くて、だからこそ逆に落ち着く気もした。
「こっちの方が落ち着きますね」
アランがそう言った。
レギュラスは荷物を置きながら、わずかに目を細める。
「そうです?」
「あなたが落ち着くなら、どこでもいいです」
アランは少し笑った。
その笑みを見て、レギュラスもつられて口元をゆるめかける。
だが、そのあとの沈黙の中で、さっきの違和感がまたじわりと浮かび上がってきた。
レギュラスはアランの隣に座る。
シリウスが彼女をアランと呼んだ、あの一瞬を覚えている。
ただ同学年だったから。
ただ顔見知りだったから。
それだけで説明できるのかもしれない。
けれど。
ジェームズ・ポッターも。
リーマス・ルーピンも。
あの場の空気の揺れ方は、ただ知っている女に向ける視線ではなかった。
とくにシリウスの、あの妙な間。
名前を呼んだ時の声の低さ。
あれは兄が弟の恋人候補に向ける普通の反応には見えなかった。
何かを知っている目だった。
あるいは、知りすぎていて、どう扱えばいいのかわからない目。
レギュラスはしばらく黙っていたが、やがて何でもない調子を装って口を開いた。
「兄たちと同学年だったんですね」
アランは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、すぐに頷く。
「ええ」
「でも、全然関わりはありませんでした」
早い、とレギュラスは思った。
まだそこまで聞いていない。
同学年だったのかと確認しただけだ。
なのに全然関わりはありませんでしたまで、自分から差し出してくる。
その早さが、どこか矛盾を浮き彫りにしているようだった。
関わりがないなら、そこまで先回りして言う必要はない。
ないはずなのに、言った。
アラン自身、その不自然さに気づいているのかいないのか。
表情はできるだけ穏やかだったが、指先だけが膝の上で少し落ち着かなかった。
レギュラスはそれを見た。
見たうえで、何も言わない。
「そう」
小さく言って、頷く。
「ならいいんです」
今すぐ掘ろうとしても、彼女は隠すだろう。
それはもうわかっている。
アランは、言いたくないことを無理に言葉にしない。しかも今みたいに、昔のことと今の自分とがぶつかる場面では、余計に。
だから、引き下がる。
問い詰めるのは簡単だ。
どういうことですか、と重ねることもできる。
でもそうしたところで、今ほしい答えは出てこない気がした。
レギュラスは寝台の端へ軽く背を預けて、しばらく黙っていた。
部屋の中は静かだ。
騎士団本部の中なのに、ここだけ切り取られたみたいに落ち着いている。
外に誰かの足音が遠く響くたび、今自分たちが完全な味方の中にいるわけではないのだとわかる。
それでも今は、安全だ。
安全なのに。
胸の内は少しも静まらなかった。
「……疲れましたね」
アランがぽつりと言う。
「ええ」
レギュラスは答える。
「色々ありすぎました」
アランは小さく笑って、それから肩の力を抜いた。
けれどその笑いも、どこか少し空元気だ。
レギュラスは視線を横へ流す。
黒髪の輪郭。
少しやつれた頬。
翡翠の瞳は、さっきからこちらを見たり逸らしたりしている。
シリウスのことを思い出しているのだろうか。
ふいにそう考えてしまって、胸の奥が鈍くざらついた。
昔好きだった男。
初めて好きになった人。
そして、自分の兄。
考えたくない組み合わせだった。
だが今は、その可能性を完全に否定もできない。
シリウスの視線。
アランの先回りした否定。
全部が微妙に噛み合ってしまう。
レギュラスは内心で息を吐いた。
面倒だ、と思う。
こんな状況でまで、そんなことを考えている自分も。
分霊箱も、闇の帝王も、騎士団との協力も、他に考えるべきことはいくらでもあるのに。
それでも引っかかるのは、結局アランのことだからなのだろう。
彼女が昔誰を好きだったのか。
今どこまでその影を引きずっているのか。
そして、その相手がよりにもよって兄なのか。
知れば確実に気分は悪くなる。
だが知らないままなのも、ひどく落ち着かなかった。
「レギュラス」
アランが静かに呼ぶ。
「はい」
「まだ、怒ってますか」
「契約のこと」
レギュラスは一瞬だけ目を閉じた。
そちらの話を持ち出されると、確かに怒るべきはそっちだと思い出す。
あんな重いものを勝手に背負ったこと。
それを当然みたいに差し出したこと。
「怒ってますよ」
正直に言うと、アランは少しだけ身を縮めた。
その反応が小動物じみていて、可愛いと思ってしまう自分がまた腹立たしい。
「でも今は」
レギュラスはゆっくり続ける。
「別のことも気になってます」
アランの睫毛がぴくりと動く。
やはり、察する程度には心当たりがあるのだ。
「あの人たちの視線ですか」
先に言ったのは、アランの方だった。
レギュラスは少しだけ驚いたように、彼女を見る。
それから低く答える。
「ええ」
「あなたも気づいていたんですね」
「そりゃあ……」
アランは視線を落とす。
「気まずいので」
気まずい。
その言い方は正直だ。
そして、その正直さが余計に何かを隠しているようでもある。
「シリウスはあなたを知っていました」
「ポッターも、ルーピンも」
レギュラスは淡々と言う。
「ただの同学年、ではない気がしました」
アランはすぐには返さなかった。
膝の上に置いた手を、自分で軽く握る。
沈黙が少し長い。
レギュラスは待った。
待ちながら、これ以上追い込めば黙るのだろうとも感じていた。
「……昔のことです」
ようやく出てきたのは、そんな曖昧な言葉だった。
「ええ」
レギュラスは頷く。
「その昔に、兄がいるんですか」
アランは息を詰める。
そこで初めて、レギュラスは自分の推測がほぼ当たっていると確信した。
胸の奥が、ひどく嫌な音を立てる。
だが顔には出さない。
ここで機嫌をあからさまに崩す方が、たぶん彼女をさらに閉ざさせる。
「……今、聞きますか」
アランが小さく言う。
「聞かない方がいいですか」
「よくは、ないです」
「でも、聞かないままでいるのもよくない気がします」
その返しに、アランは何も言えなくなった。
部屋の中がまた静かになる。
外の足音が遠い。
近くにいるはずの彼女が、今だけ少し遠い。
レギュラスはそこでようやく、手を伸ばしてアランの指先に触れた。
責めるためではなく、逃がさないためでもなく。
ただ、ここにいるのだと互いに確かめるように。
「無理に全部話せとは言いません」
低く言う。
「でも、僕は」
一度だけ言葉を切る。
「あなたが隠す時の顔を、だいぶ知ってしまったので」
アランは少しだけ、困ったように笑った。
それは肯定に近い笑いだった。
「……嫌ですね」
「ええ」
レギュラスもわずかに口元をゆるめる。
「あなたにとっては」
「レギュラスにとっても、たぶん」
「そうですね」
たぶん、ではない。
確実に嫌だ。
でも、それでも聞かなければならないと思う。
シリウス・ブラック。
兄。
昔の恋。
その全部が本当なら、気にしないふりなど到底できない。
レギュラスは握ったアランの手を、少しだけ強くした。
「今すぐ全部じゃなくていいです」
「でも、いつかちゃんと聞かせてください」
アランは目を伏せたまま、小さく頷いた。
「……はい」
その返事だけで、レギュラスは今夜はそこまでにすることにした。
これ以上掘れば、彼女はまた閉じる。
それは今ではない。
今はまだ、騎士団の本部で、
分霊箱も、
闇の帝王も、
命を賭けた契約も、
何もかもが動いた直後だ。
昔の男の影まで、この場で全部引きずり出すべきではない。
「なら、いいんです」
そう言って、レギュラスは手を離さずにそのまま座り直した。
アランも少しだけ肩の力を抜く。
だが、その横顔にはまだ薄く緊張が残っていた。
レギュラスはそれを見ながら思う。
兄のことを知れば、たぶん気分は最悪になる。
シリウスの方も、アランを前にして明らかに妙だった。
そしてジェームズたちの視線も、ただの再会ではないものを含んでいた。
気に入らない。
全部、気に入らない。
けれど今はまだ、彼女が自分の隣にいる。
それだけで十分だと、無理やり自分に言い聞かせるしかなかった。
シリウスに会ってから、アランの心の中はずっと荒れていた。
一発でレギュラスに見抜かれるとは思わなかった。
彼だ。
シリウス・ブラックだ。
自分があの頃、必死に追いかけた人だ。
久しぶりに見た彼は、やっぱりどこまでも、あの頃必死に追いかけた彼だった。
年齢を重ねて、少し影が落ちて、学生時代よりもずっと大人になっているのに。
目元の鋭さも、ふとした時に口元へ浮かぶ不遜な感じも、何もかもが記憶の中の彼と繋がってしまう。
レギュラスに何も悟られたくなくて。
動揺しないようにしたのに。
それでもレギュラスは何かを感じ取った。
あの人は、本当にそういうところだけ鋭い。
騎士団側が用意した食事の席は、アランの中では地獄だった。
長いテーブル。
何人もの視線。
落ち着かない食器の音。
知らない場所で、知らない空気の中で、でも知っている顔がいくつもある。
その中でアランは、まず最初にレギュラスの前のグラスをそっと逆さまにした。
水は不要、という意味を込めて。
薬も何もかも、あの家に置いてきてしまった。
吸入用の粉も、落ち着かせるための魔法薬も、全部。
だから今ここで、レギュラスの発作を誘発させるようなものは避けたかった。
彼はもうかなり回復している。
けれど、水の揺れる光景だけは、今でも時々ひどく駄目な時がある。
こういう緊張の場なら、なおさらだった。
「……すみません、アラン」
レギュラスが小さく言った。
アランは首を振る。
「いいんです」
それだけ答えて、彼の前から水差しを少し遠ざける。
それを見ていたシリウスが、何か言いたげに視線を寄越した気がしたが、アランは気づかないふりをした。
こんなに大勢で食事を取ることなんて、ない。
普段はレギュラスと二人きりだ。
狭い食卓で向かい合って、今日買った野菜の話をして、薬草の仕分けのことを話して、時々どうでもいいことで笑う。
それに比べてここは、あまりにも人が多い。
誰に視線を向ければいいのかもわからない。
シリウスの視線も。
彼ら友人たちの視線も。
痛いほどだった。
問い詰めてくるわけではない。
露骨に敵意を向けてくるわけでもない。
なのに、知っている者同士の間にしかないあの微妙な探り方が、ひどく息苦しい。
「ヒーラー資格を取ったんだってね」
リーマスがそう言った。
落ち着いた、やわらかな声だった。
当たり障りのない会話を選んでくれているのがわかる。
ありがたかった。
「さすがだよ」
アランはフォークを置いて、小さく頷く。
「ありがとうございます」
それだけ返す。
それ以上話すと、余計なことまで零れそうだった。
どこで資格を取ったとか、今はどういう薬を作っているとか、そういう普通の話題に見せかけて、きっとすぐ過去と今が繋がってしまう。
だから短く終える。
ジェームズが何か言いかけて、結局飲み込んだのが見えた。
その気遣いもわかる。
わかるけれど、その気遣いがあること自体が、もう普通ではない。
アランは食事を続けるふりをしながら、内心では祈るような思いだった。
あまりレギュラスに、
過去を感じさせそうなことを言わないでほしい。
シリウスと自分のことを。
あの頃の、どうしようもなくみっともなかった自分を。
今ここで、彼に連想させるようなことだけは、しないでほしい。
レギュラスは静かだった。
食事の手つきも、言葉も、整っている。
いつも通りに見える。
でもアランにはわかる。
静かすぎる時の彼は、だいたい色々考えている。
特に今は、あの部屋で少し触れた話の続きを、きっと頭のどこかでなぞっている。
兄たちと同学年だったんですね。
ええ、でも全然関わりはありませんでした。
あんなふうに、早すぎる否定をしてしまった。
自分でも不自然だったと思う。
シリウスの顔を見た瞬間から、たぶんアランは少し壊れていた。
記憶の中の少年と、
目の前の男と、
それにレギュラスの兄という事実まで一度に重なってしまって。
頭も心も、整理が追いつかなかった。
だから言葉がうまく選べなかったのだ。
「アラン」
小さく呼ばれて、はっとする。
レギュラスだった。
「食べられていますか」
その言い方があまりにも普段通りで、アランは少しだけ救われる。
「はい」
「無理なら残してください」
「大丈夫です」
そう答えると、レギュラスはそれ以上何も言わなかった。
けれどその銀の瞳は、一瞬だけじっとこちらを見て、それから静かに皿へ戻る。
見透かされている。
でも今は問い詰めないでいてくれている。
その優しさが、ありがたくもあり、少し苦しくもあった。
シリウスはあまり話さなかった。
それが逆に辛かった。
昔なら、もっと軽く笑って、場をさらって、誰かをからかっていたはずだ。
そういう人だった。
なのに今は、妙に黙っていて、時々こちらを見る。
その視線に昔の熱はない。
あるのは、気まずさと、悔恨と、どう扱えばいいのかわからない戸惑いだ。
そんな目を向けられる日が来るなんて、あの頃の自分は想像もしなかっただろう。
好きで好きで、苦しくてたまらなくて。
それでも彼の一番でいたくて、必死だった少女が知ったら、何と思うだろう。
たぶん、また傷つくのだろう。
今さらそんな目で見られても遅い、と。
でも今のアランは、もうそこには戻らなかった。
戻らない。
戻れない。
戻りたくもない。
そう思えることだけが、唯一の救いだった。
レギュラスの隣にいると、そのことがはっきりする。
今、自分が気にしているのはシリウスの機嫌ではない。
彼にどう思われるかでもない。
レギュラスが変に勘づきすぎて傷つかないか。
発作を起こさないか。
この緊張の場を無事に越えられるか。
そちらの方が、ずっと大きかった。
そう考えると、少しだけ呼吸がしやすくなる。
「……先生」
誰か若い騎士団の一人がダンブルドアに話しかける声が遠くでして、食卓の空気がほんの少し別の方向へ逸れた。
その隙に、アランはようやく一口だけパンを口に運ぶ。
味なんてほとんどわからない。
でも食べなければ余計に目立つ。
レギュラスの横顔が視界に入る。
シリウスに少し似ている。
血を分けた兄弟なのだから当然だ。
けれどやっぱり、違う。
同じ銀の瞳でも、
見つめてくる時の温度が違う。
同じ整った顔立ちでも、
自分を傷つけるために使われたことは一度もない。
その違いを、アランはもうちゃんと知っている。
それでも心が荒れるのは、初めての傷がそう簡単には消えないからだ。
古い傷跡みたいに、普段は平気でも、天気が変わると急に痛む。
今日は、そういう日なのだと思うしかない。
レギュラスが、また小さく声を落とした。
「あとで部屋に戻ったら、少し休みましょう」
それだけの言葉なのに、アランは泣きそうになりかけた。
今ここでそんな顔はできないから、ただ頷くだけに留める。
「はい」
短く返して、また皿に視線を落とす。
祈るような思いで食事を続ける。
これ以上、誰も。
レギュラスに過去を感じさせるようなことを言いませんように。
この気まずくて痛い時間が、どうか早く終わりますように。
そして部屋へ戻ったら。
ちゃんと、自分の心の荒れ方と向き合わなければならないのだろうと、アランは静かに覚悟していた。
食事の席で、レギュラスはシリウス・ブラックがアランへ向ける視線を意識して見ていた。
最初は違和感だった。
だが今は、もうほとんど確信に近い。
思えば、自分の推測を裏付ける事実はたくさんあった。
女の選択肢が広かったことも。
多分、顔のいい男だったところも。
そして何より、自分をどこか似ていると告げてきたことからも。
シリウス・ブラックが、アランの過去だ。
アランから聞く必要がないくらいに、もうあの場の空気感で見て取れた。
シリウスの目は、昔の女を見る目だった。
ただの同級生でも、ただの知人でもない。
よく知っている。
知りすぎていて、どう扱っていいかわからない。
そんな男の目だった。
そしてアランの方も、平静を装ってはいたが、完璧ではなかった。
動揺していた。
それを隠そうとする時の早口も、
余計なことを先回りして否定する癖も、
レギュラスはもう知っている。
だから、もう十分だった。
部屋に入って二人になった瞬間。
苛立ちと、焦りと、不快感が一気に爆ぜた。
レギュラスはアランを壁際へ押しやった。
逃がさないように、
けれど本気で痛くはしない力で。
そのまま抱きしめる。
両手首ごと壁へ押しつける。
「レギュラス……」
アランが息を呑む。
けれど、その名を呼ぶ声には拒絶がなかった。
レギュラスはそのまま、奪うように、それでいて縋るように口付けた。
激しくというより、深く。
言葉では足りない苛立ちごと押しつけるみたいに。
シリウスの視線も、
食卓の気まずさも、
アランが昔その男に向けていたであろう熱も、
全部上書きしてしまいたかった。
アランは拒まない。
その従順さに、レギュラスの中の怒りはさらに掻き立てられた。
昔のあの男のそばで磨かれたものなのか、と。
そう思ってしまうと、余計にどうしようもなくなる。
唇を深く重ねる。
どちらのものとも分からない唾液が顎を伝って落ちる。
呼吸が上がる。
アランの肩が小さく震える。
その全部が、自分の感情をろくでもない方向へ煽った。
その時だった。
扉が開いた。
レギュラスは一瞬も手を離さなかったが、目だけはそちらへ向けた。
今まさに渦中にいる男。
シリウス・ブラックが、扉の向こうに立っていた。
数秒。
ほんの数秒だけ、空気が凍る。
「……わりぃ」
シリウスが言う。
声音は思っていたより低かった。
「出直す」
「いえ、どうぞ」
レギュラスは即座に返した。
気分は最悪だった。
ノックもせずに開けてきたのだから、怒りは当然ある。
だが、それ以上に、ここで動揺なんか見せたくなかった。
シリウスに。
あの男にだけは。
アランの手首を押さえたまま、
唇の熱もまだ残したまま、
レギュラスは平然とした顔を作る。
シリウスの視線が一瞬だけアランに落ちる。
赤くなった頬、
濡れた唇、
乱れた呼吸。
それを見たうえで、何も言わない。
「お前の杖」
シリウスはぶっきらぼうに言った。
「こっちに登録するからよ」
「今ねぇんだろ? 杖芯から材料から測ってもらえよ」
「杖師が来てる」
それだけ言うと、シリウスはすぐに扉を閉めた。
静寂が戻る。
レギュラスは数秒、その場から動かなかった。
呼吸だけがまだ少し荒い。
やがて、唇の濡れ方を拭うように、手のひらで口元を擦る。
アランの顔は真っ赤だった。
息も上がっている。
唇も濡れていた。
毒だ、とレギュラスは思った。
こんな顔を見せられて。
その直後にシリウスの顔まで差し挟まれたのでは、平静でいられる方がおかしい。
レギュラスはゆっくりアランの手首を離した。
壁に押しつけていた跡が、白い肌にうっすら残っている。
触れた指先でそこを軽く撫でると、アランが小さく息を揺らした。
「……痛かったですか」
聞く声は、さっきまでの熱と打って変わって低く静かだった。
「いいえ……」
アランは少し息を整えながら首を振る。
それから、戸惑いと恥ずかしさの混じった目でレギュラスを見る。
「レギュラス、あの」
「ええ」
「怒ってます?」
その問いに、レギュラスは少しだけ目を細めた。
「かなり」
正直に言う。
「シリウスに」
一拍置く。
「あなたにも」
アランの睫毛が揺れる。
「私に?」
「ええ」
「そんな顔で、平気なふりをするので」
アランはすぐには返せなかった。
図星なのだろう。
レギュラスは壁際に残る彼女の熱をまだ感じながら、低く続けた。
「もうわかっています」
「兄が、あなたの過去なんでしょう」
アランが息を止める。
否定しない。
それだけで十分だった。
レギュラスはゆっくりと、けれど視線を逸らさずにアランを見つめた。
「わかっていても、気分は最悪です」
「さっきの食事の席で、兄があなたを見る目も」
「あなたが兄を見た時の、ほんの一瞬の動揺も」
「全部」
アランは目を伏せた。
その仕草が、かえって肯定みたいで余計に腹立たしい。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
レギュラスはその謝罪を聞いて、胸の奥がさらにざらつくのを感じた。
謝ってほしいわけではない。
過去があること自体に、今さら謝られても仕方ない。
ただ、気に入らないのだ。
兄が彼女の過去にいることも、
兄が今もその痕跡を彼女の中に残していることも、
そしてそんな兄と自分が似ていると、彼女が言ったことも。
全部。
レギュラスはアランの顎に手を添えて、もう一度こちらを向かせた。
「待っています」
アランが、まだ少し潤んだ声でそう言った。
レギュラスは一瞬、意味を測りかねた。
だが次の瞬間、彼女の視線が扉の方へ向く。
杖のことだ。
杖師のところへ行くことを、ちゃんと受け入れている。
そしてそのうえで、自分を待つと言っている。
その一言だけで、さっきまで煮え立っていたものが少しだけ落ち着いた。
レギュラスは手を離し、アランの頬を最後にひと撫でした。
「すぐに戻ります」
そう言うと、アランは小さく頷いた。
レギュラスは扉へ向かいながら、内心で静かに思う。
シリウス・ブラック。
兄。
アランの過去。
気に入らない。
到底、受け入れたくもない。
けれど、さっき扉を開けたあの男は。
赤くなったアランの顔を見て、
自分の唇の痕を見て、
何も言わずに杖の話だけをして閉めた。
それが妙に引っかかる。
嫉妬か。
後悔か。
罪悪感か。
何であれ、兄もまた平静ではないのだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。
アランが待っている。
それだけで十分だ。
そう自分に言い聞かせながらも、レギュラスの胸の奥にはまだ、兄に対する冷たい敵意が静かに居座り続けていた。
杖登録をするためだけに集まったはずなのに。
部屋の空気は、とんでもなく不穏だった。
シリウスとレギュラス。
兄弟そろって現れたその瞬間から、杖師の工房みたいな仮設部屋の温度が一段下がった気がした。
新しい杖の作成と、その杖の登録。
本来なら淡々と進むだけの作業だ。
なのに二人とも不機嫌さが隠せていない。
シリウスは元からそういうところがある。
苛立てば顔にも声にも出るし、隠そうともしない。
だがレギュラス・ブラックでさえ、今日は顔に出ていた。
この男、ほんとに顔に出るようになったのかとジェームズは思う。
「二人とも、座ったら?」
とりあえずそう言う。
どちらも返事はしないが、椅子には腰を下ろした。
杖師が道具を整え、レギュラスの前へ立つ。
年老いたその魔女は、兄弟の空気などまるで見えていないみたいに落ち着いていた。
「では、魔力を見せてくださいな」
レギュラスは黙って手を差し出す。
杖師がその掌の上に薄い水晶片を浮かべる。水晶が淡く震え、銀色とも黒ともつかない光が流れ始める。
魔力の粒子。
流れ。
属性。
その全部を見ているのだろう。
ジェームズは少し身を乗り出した。
レギュラスの魔力は、見ていて不思議だった。
静かなくせに重い。
整っているのに、底の方に刃みたいな鋭さがある。昔からそうだった。学校にいた頃から、彼の魔法は妙に冷たく綺麗で、それがかえって気味悪かったのを覚えている。
「杖芯は昔、何を?」
杖師が問う。
「サンダーバードの尾羽です」
レギュラスは淡々と答える。
「長さは?」
「十二と四分の一インチ」
「他に配合されていた木材の処理は?」
「銀塩処理を一度」
「湿度への反発を少し強めていました」
質問に対して、よどみなく答えていく。
記憶力も、分析も、やはり馬鹿みたいに正確だ。
そのあいだ、シリウスは腕を組んでいた。
落ち着かないのが丸わかりだ。
椅子に座っているのに、いつでも立ち上がって喧嘩を始められそうな体勢をしている。
そして。
気まずさだらけの空間で、最初に口を開いたのはレギュラスの方だった。
「ノックという概念を知らなさすぎでしょう、あなたは」
あまりにも唐突だったので、ジェームズは一瞬意味がわからなかった。
だが次の瞬間、ああ、さっきの件か、と察する。
シリウスが眉を跳ね上げる。
「悪かったっつってんだろ」
「それで済む話だと思ってる時点で、駄目なんですよ」
「お前、いちいち嫌味だな」
「事実です」
ジェームズは杖師の方を見た。
老女は魔力の測定を続けたまま、聞こえていないふりをしている。
さすがに慣れている。
シリウスが舌打ちして、少し前へ身を乗り出した。
「あいつ混血だぞ」
低い声だった。
「おめぇの嫌いな」
ジェームズは、あ、と内心で思った。
そこを突くか。
だがレギュラスは顔色ひとつ変えなかった。
「だからなんです」
その返しに。
驚いた。
ジェームズも。
シリウスも。
たぶん杖師でさえ、ほんの少しだけ手を止めた。
純血主義の中心にいるような男だったはずだ。
あのブラック家の。
あのレギュラスが。
まさか、混血の魔女を平気だと思えるほどに、その価値観を変えているのだから、驚かない方が無理だった。
シリウスが目を細める。
「どういう魂胆だよ」
「てめぇが純血主義をくつがえすってよぉ」
レギュラスは杖師に魔力を見せながら、視線だけを兄へ向けた。
「純血の魔法使いは貴重ですから」
「守られるべきです。そこは変わりません」
そこまでは、ジェームズにも理解できる。
今の世の中、純血の血筋が少なくなっているのは事実だ。
守りたいと思う者がいること自体は、不自然ではない。
だがレギュラスは、続けた。
「ただ」
「たった一人の不老不死の追求のために、多くの生命が犠牲にされていいわけじゃないと言ってるんです」
正論だった。
ジェームズは思わず、少しだけ息を吐いた。
確かに、その通りだ。
純血魔法使いがどんどん少なくなる世の中で、その血が貴重だ、守るべきだという考えそのものはわかる。
だがレギュラスは、純血以外の魔法使いを排除していこうとする、行きすぎた純血主義を掲げていたわけではないのだと。
少なくとも今のこの言葉を聞く限り、そう見えた。
初めて知った、という気持ちすらあった。
昔からそうだったのか。
それとも分霊箱に気づいた時から変わったのか。
あるいはアラン・セシールに出会ってから、価値観の輪郭が崩れたのか。
そこはまだわからない。
だが、その言葉が彼の口から出るのなら。
この男を信用するに値すると思えた。
そしてなにより。
アラン・セシール。
あの混血の魔法使いである女が、今、彼の隣にいる。
それだけでレギュラスの言い分に、妙な信憑性が生まれてしまう。
もし口先だけなら。
あんなふうに当然のようにだからなんですとは言えない気がした。
シリウスは不機嫌そうに顔をしかめた。
だが今のやりとりでは、口では分が悪い。ジェームズは直感していた。
それでもシリウスは引かなかった。
「随分と物分かりがいいこと、急に言うじゃねぇか」
「じゃあお前は純血の女とさっさとガキでも作って、その守らなきゃならねぇ純血を増やせよ」
品のない言い方だった。
ジェームズは思わずこめかみを押さえたくなる。
だがレギュラスは、むしろ少しだけ静かになった。
「僕が、アラン・セシールの隣にいるのが引っかかりますか?」
シリウスの肩がぴくりと動く。
「んなこと言ってねぇんだよ」
「揚げ足とんな」
「そうですか」
その短い返しが、逆に鋭かった。
シリウスがここまでなると、たいてい口では負ける。
ジェームズはそれを昔からよく知っていた。
そして同時に、自分の中にも別種の痛みが湧いてくるのを感じる。
かつて女遊びも絶頂期だった親友は、アラン・セシールを大層可哀想なほどに扱っていた。
それを自分もこの目で見てきた。
だから彼女に会うと、こちらまで申し訳なくなる。
とくに、彼女の翡翠の瞳がリリーと同じ色だから。
余計にそう思うのだ。
止めるべきだった。
もっとちゃんと。
最低だぞと、本気で止めるべきだった。
けれどどこかで、自分も少し羨ましかったのだ。
こんなにも女から尽くされ、なんでも差し出される側の親友を。
あの頃の自分の、軽薄さを思う。
君はシリウスじゃなかったら幸せになれるのに、どうして彼なんだい?
そんな呑気なことを言って、アラン・セシールを戸惑わせたこともあった。
彼女はシリウスに必死だったというのに。
それを揶揄うみたいに、あんな言葉で片づけた。
今思い返すと、本当にどうしようもない。
ジェームズは二人の間に入るみたいに、わざと明るい声を出した。
「はいはい、兄弟喧嘩はあとでやってくれ」
「今は杖の話だろ」
シリウスが舌打ちする。
レギュラスはもうこちらを見ていない。
また杖師の質問へ戻っていた。
「木は?」
「黒檀が最有力かと」
「前と完全に同じでなくても構いません」
「今の僕に馴染むものを」
その答え方が、ジェームズには少し印象的だった。
前と同じでなくてもいい。
昔のままに戻る気はない、ということだろうか。
杖師が細い目を上げる。
「随分変わったんだね、坊や」
レギュラスは少しだけ間を置いてから答えた。
「そうかもしれません」
その言い方は、誇るでもなく、恥じるでもなく、ただ受け入れているようだった。
シリウスはそれを聞いて、ますます面白くなさそうな顔をする。
変わったレギュラス。
変えたアラン。
たぶん今、シリウスの中ではその二つが結びついているのだろう。
そしてそれが気に入らないのだ。
ジェームズにはわかった。
シリウスは、ただ弟が闇から離れたことに苛立っているだけじゃない。
アラン・セシールが、その弟の隣にいることに、妙にざわついている。
それが罪悪感なのか、
嫉妬のなれの果てなのか、
それとも単に過去を突きつけられている苦さなのかはわからない。
だが間違いなく、平静ではない。
「杖芯は少し柔らかいものがいいかもね」
杖師が独り言みたいに言う。
「今の魔力は鋭いけど、支えるものが前より増えてる」
ジェームズは思わずレギュラスを見た。
支えるもの。
それが何を指しているのか、たぶんこの部屋の全員がわかっていた。
シリウスだけが、わざとそっぽを向く。
「……で」
シリウスが低く言う。
「登録が済んだら終わりか?」
「そう急ぐなって」
ジェームズが軽く返す。
「逃げないよ、たぶん」
「逃げる必要があるなら、最初からここに来ていませんよ」
レギュラスが淡々と言う。
その一言に、またシリウスの顔が険しくなる。
けれど今度は何も言わなかった。
言い返せば言い返すほど、レギュラスの方が冷静に見えるとわかっているのかもしれない。
ジェームズは心の中で、やれやれと思った。
この兄弟は、本当に面倒くさい。
だが同時に、少しだけほっともしていた。
少なくともレギュラスの言葉は筋が通っている。
感情ではなく理屈で戦うつもりがある。
そしてアラン・セシールが彼の隣にいる以上、嘘の上塗りだけでは説明のつかない部分が確かにある。
なら、信じる価値はある。
杖師がようやく顔を上げた。
「いいだろう」
「材料は揃う。今日中に登録だけは済ませるよ」
「仕上がりは明日だ」
レギュラスが立ち上がる。
その瞬間、シリウスも立った。
また空気がぴりつく。
ジェームズは二人の間へ視線を滑らせながら思う。
アラン・セシール。
まさか今になって、あの子の名がこんなところで、こんなふうに重たく響くとは思わなかった。
そしてたぶん。
この兄弟の間にある最も大きな火種は、もう分霊箱だけではないのだろう。
ジェームズは小さく息を吐いた。
「ほら、終わったんなら戻りなよ」
「アランが待ってんだろう」
その名を出した途端、レギュラスの表情がほんの少しだけ柔らかくなる。
わかりやすすぎて、ジェームズは内心で苦笑した。
シリウスはその変化を見て、またひどく不機嫌そうな顔をした。だが、今度は何も言わなかった。
たぶん言えなかったのだろう。
今さら何を言っても、自分が過去にしたことの上には立てないと、どこかでわかっているから。
ジェームズはそれを見ながら、昔より少しだけ大人になった痛みというのは、案外こういう形で返ってくるのかもしれないなと、ぼんやり思っていた。
廊下の角を曲がったところで、アランとぶつかった。
細い肩がわずかに跳ねる。
翡翠の瞳が見開かれて、それからすぐに伏せられる。
その一連の仕草に、かつての面影がちゃんとあった。
懐かしさと。
痛みと。
後悔と。
色んなものが一気に押し寄せてきて、シリウスは一瞬言葉を失いそうになった。
「……わりい」
先に出たのは、それだけだった。
「いえ、ごめんなさい」
アランもすぐにそう返す。
やっぱり俯いて、顔を見ずに話す癖もそのままだった。
そのまま足早に立ち去ろうとする気配に、シリウスは咄嗟にその手を取っていた。
細い手首だった。
昔より少しだけ大人になっているのに、それでも簡単に掴めてしまう細さだった。
アランがはっと息を呑む。
「少し、話さねぇか」
言いながら、自分でも思う。
今更何を話すのかと。
けれど、顔を見て話したかった。
あと、詫びたい気持ちもあった。
随分と酷い扱いをしてしまったと。
ちゃんと詫びて、自分の中のものを少し軽くしたい思いもあった。
そして、綺麗になったと伝えたいような思いもあった。
色んな感情が混じっている。
「……何を、ですか」
アランの声は小さい。
それでも振りほどこうとはしない。
「色々だよ」
シリウスは苦く笑った。
「俺のことも話すし。お前のことも聞きたい」
本当に、聞きたいことはたくさんあった。
魔法薬に長けていた彼女が、どこでヒーラー資格なんて取ったのか。
今まで働いていたのか。
何をしていたのか。
レギュラスを好きなのか。
そして、自分のことも話したかった。
騎士団に入って戦闘続きだった日々のこと。
親友がもうすぐ結婚すること。
そこに子どもが生まれたら、名付け親になるつもりだとか。
そして、アランのことをずっと申し訳ないと思っていたこととか。
アランは返答に困ったように固まっていた。
その顔を見た瞬間、シリウスの中で何かが強く掴まれた。
愚かにも、もう一度あの頃をやり直せたなら。
もっとちゃんと大切に扱って、向き合っていくことができるのに、だなんて。
今更すぎることを考えてしまう。
アランはやがて、ゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳が揺れている。
その揺れを見て、シリウスはわかってしまった。
この女は、今もなお自分を見て揺れているのだと。
あの頃、何度も何度も向けられた、真っ直ぐすぎるほどの感情。
好きだと、あまりにも疑いなく差し出されたあの熱が、今なおその中に完全には消えていないのだと見て取れてしまった。
その事実が、シリウスの中で何かを満たした。
最低だ、とすぐに思う。
こんな時に。
こんな状況で。
その揺れを見て、安堵に近いものを覚えるなんて。
けれど止まらなかった。
「…… アラン」
名前を呼ぶと、彼女の睫毛が震える。
「まだ、俺のこと」
そこまで言って、シリウスは少しだけ言葉を選ぶ。
「完全には、どうでもよくなってねぇんだな」
アランの顔が一気に熱を持つのがわかった。
否定したいのだろう。
けれど、すぐには言葉にならない。
その沈黙が、余計に答えみたいだった。
「ちが……」
ようやく出た声はひどく弱かった。
「違わねぇよ」
シリウスは低く言った。
自分でも、どこか意地の悪い響きが混じっているのがわかる。
「お前、昔と同じ顔する」
「困って、でも振りほどけなくて」
「それでもまだ、ちゃんと嫌えねぇ顔だ」
アランは息を止めたまま、シリウスを見ている。
その目に、戸惑いと、痛みと、そしてほんの少しの懐かしさが混じっていた。
全部、知っている色だった。
あの頃、何度も見た。
自分の一言で揺れ、
自分の気まぐれに期待し、
それでも最後にはまた縋る、あの目。
胸が痛む。
痛むのに、同時に満たされる。
こんなにも自分を好きだった女は、他にいなかった。
何をしても離れず、
どれだけ酷くしても、それでも好きをくれた。
その事実を、今また確かめてしまった気がして、シリウスはどうしようもなく息苦しくなった。
「……シリウス」
アランが小さく名を呼ぶ。
昔と違って、その呼び方には甘さよりも困惑が多い。
それでも、まだ自分の名をそう呼ぶことに、妙な熱が胸に差す。
「俺さ」
シリウスは手首を掴む力を少しだけゆるめる。
けれど離さない。
「お前に悪かったって、本当に思ってる」
「今さらだし、謝って済むわけでもねぇってわかってるけど」
アランは黙っている。
「でも」
シリウスは目を細めた。
「もし、あの頃をやり直せるなら」
「今ならもっと、まともに向き合える」
それは本音だった。
本音で、そして最悪でもあった。
今の自分は、当時ほど馬鹿ではない。
女の気持ちを弄ぶことがどれほど酷いことかも、少しはわかる。
だからもし、あの頃に戻れたなら。
今ならもっと大事にできるのに、と。
そんなことを思う資格なんてないのに。
アランはその言葉を聞いて、ひどく苦しそうな顔をした。
「そんなこと……」
声が震える。
「今言われても、困ります」
「わかってる」
「わかってないです」
アランは珍しく、はっきり言った。
翡翠の瞳が揺れている。
「私、あの頃ずっと」
そこで言葉が詰まる。
けれど、逃げずに続ける。
「ずっと、それが欲しかったんです」
「ちゃんと見てもらうことも、ちゃんと向き合ってもらうことも」
「でも、もう終わったことなんです」
シリウスは何も言えなかった。
終わったこと。
その通りだ。
終わったからこそ、今こうして言える。
終わったからこそ、今さら悔やめる。
でも、終わったものは戻らない。
アランは手首を取られたまま、少しだけ目を伏せた。
「……レギュラスがいます」
静かな声だった。
「だから、もう」
息を吸って、
「昔みたいに揺らさないでください」
その一言で、シリウスは胸の奥を強く打たれた。
揺れているのだ。
やっぱり。
それでも、自分で止めようとしている。
その必死さが見えるから、余計に残酷だった。
シリウスはゆっくりと手を離した。
今度はもう、掴んだままではいられなかった。
「……悪い」
またそれしか言えない。
アランは手首を胸元へ引き寄せて、少しだけ撫でるようにした。
痛かったわけじゃないだろう。
ただ落ち着きたかっただけだ。
「お前、綺麗になったな」
シリウスはぽつりと言った。
アランが目を上げる。
驚いたように。
「昔から可愛かったんだろうけど」
シリウスは苦く笑う。
「俺がちゃんと見てなかっただけだな」
アランは返事をしなかった。
その代わり、少しだけ悲しそうに笑った。
その笑みを見て、シリウスはまた思う。
ああ、やっぱり。
この女は昔、自分を本当に好きだったのだと。
そして、今も完全には消えきっていないのだと。
それが満たす。
満たしてしまう。
男としての醜い部分が、静かに甘く満ちる。
それでも。
今ここでそのまま踏み込めば、今度こそ本当に最低だ。
シリウスは息を吐いて、一歩だけ下がった。
「……もう行けよ」
アランはすぐには動かなかった。
けれどやがて小さく頷く。
「はい」
「レギュラス、待ってるんだろ」
その名を出すと、アランの表情が少しだけ変わる。
困惑とは違う、もっと柔らかいものへ。
それを見て、シリウスはわかる。
自分はもう、今のこの女の中心にはいない。
たとえ少し揺れたとしても、戻ってくる先は自分ではない。
それでもなお、その揺れを見て満たされてしまった自分のどうしようもなさに、シリウスは内心で小さく笑った。
「…… アラン」
「はい」
「もし、あいつに泣かされたら」
少しだけ間を置く。
「その時だけは俺に言え」
アランは一瞬だけ目を見開いた。
それから、困ったように、でもどこか優しく笑った。
「多分、大丈夫です」
その返事に、シリウスは頷くしかなかった。
そしてアランが去っていく後ろ姿を見ながら、胸の奥に残る痛みと満たされ方の両方を、どうにも整理できないまま立ち尽くしていた。
この本部の一室を使え、と。
当然のことだろう。
むしろ、それ以外の扱いを期待していたわけでもない。
それはいい。
レギュラスはアランと並んで部屋へ入った。
普通の一部屋、という感じだった。
質素な寝台がひとつ、机がひとつ、椅子が二脚。窓は小さく、壁には最低限の棚しかない。昨夜泊まった宿より、もっと人の家の一室に近い。借り物の部屋なのに、妙に生活の影が薄くて、だからこそ逆に落ち着く気もした。
「こっちの方が落ち着きますね」
アランがそう言った。
レギュラスは荷物を置きながら、わずかに目を細める。
「そうです?」
「あなたが落ち着くなら、どこでもいいです」
アランは少し笑った。
その笑みを見て、レギュラスもつられて口元をゆるめかける。
だが、そのあとの沈黙の中で、さっきの違和感がまたじわりと浮かび上がってきた。
レギュラスはアランの隣に座る。
シリウスが彼女をアランと呼んだ、あの一瞬を覚えている。
ただ同学年だったから。
ただ顔見知りだったから。
それだけで説明できるのかもしれない。
けれど。
ジェームズ・ポッターも。
リーマス・ルーピンも。
あの場の空気の揺れ方は、ただ知っている女に向ける視線ではなかった。
とくにシリウスの、あの妙な間。
名前を呼んだ時の声の低さ。
あれは兄が弟の恋人候補に向ける普通の反応には見えなかった。
何かを知っている目だった。
あるいは、知りすぎていて、どう扱えばいいのかわからない目。
レギュラスはしばらく黙っていたが、やがて何でもない調子を装って口を開いた。
「兄たちと同学年だったんですね」
アランは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、すぐに頷く。
「ええ」
「でも、全然関わりはありませんでした」
早い、とレギュラスは思った。
まだそこまで聞いていない。
同学年だったのかと確認しただけだ。
なのに全然関わりはありませんでしたまで、自分から差し出してくる。
その早さが、どこか矛盾を浮き彫りにしているようだった。
関わりがないなら、そこまで先回りして言う必要はない。
ないはずなのに、言った。
アラン自身、その不自然さに気づいているのかいないのか。
表情はできるだけ穏やかだったが、指先だけが膝の上で少し落ち着かなかった。
レギュラスはそれを見た。
見たうえで、何も言わない。
「そう」
小さく言って、頷く。
「ならいいんです」
今すぐ掘ろうとしても、彼女は隠すだろう。
それはもうわかっている。
アランは、言いたくないことを無理に言葉にしない。しかも今みたいに、昔のことと今の自分とがぶつかる場面では、余計に。
だから、引き下がる。
問い詰めるのは簡単だ。
どういうことですか、と重ねることもできる。
でもそうしたところで、今ほしい答えは出てこない気がした。
レギュラスは寝台の端へ軽く背を預けて、しばらく黙っていた。
部屋の中は静かだ。
騎士団本部の中なのに、ここだけ切り取られたみたいに落ち着いている。
外に誰かの足音が遠く響くたび、今自分たちが完全な味方の中にいるわけではないのだとわかる。
それでも今は、安全だ。
安全なのに。
胸の内は少しも静まらなかった。
「……疲れましたね」
アランがぽつりと言う。
「ええ」
レギュラスは答える。
「色々ありすぎました」
アランは小さく笑って、それから肩の力を抜いた。
けれどその笑いも、どこか少し空元気だ。
レギュラスは視線を横へ流す。
黒髪の輪郭。
少しやつれた頬。
翡翠の瞳は、さっきからこちらを見たり逸らしたりしている。
シリウスのことを思い出しているのだろうか。
ふいにそう考えてしまって、胸の奥が鈍くざらついた。
昔好きだった男。
初めて好きになった人。
そして、自分の兄。
考えたくない組み合わせだった。
だが今は、その可能性を完全に否定もできない。
シリウスの視線。
アランの先回りした否定。
全部が微妙に噛み合ってしまう。
レギュラスは内心で息を吐いた。
面倒だ、と思う。
こんな状況でまで、そんなことを考えている自分も。
分霊箱も、闇の帝王も、騎士団との協力も、他に考えるべきことはいくらでもあるのに。
それでも引っかかるのは、結局アランのことだからなのだろう。
彼女が昔誰を好きだったのか。
今どこまでその影を引きずっているのか。
そして、その相手がよりにもよって兄なのか。
知れば確実に気分は悪くなる。
だが知らないままなのも、ひどく落ち着かなかった。
「レギュラス」
アランが静かに呼ぶ。
「はい」
「まだ、怒ってますか」
「契約のこと」
レギュラスは一瞬だけ目を閉じた。
そちらの話を持ち出されると、確かに怒るべきはそっちだと思い出す。
あんな重いものを勝手に背負ったこと。
それを当然みたいに差し出したこと。
「怒ってますよ」
正直に言うと、アランは少しだけ身を縮めた。
その反応が小動物じみていて、可愛いと思ってしまう自分がまた腹立たしい。
「でも今は」
レギュラスはゆっくり続ける。
「別のことも気になってます」
アランの睫毛がぴくりと動く。
やはり、察する程度には心当たりがあるのだ。
「あの人たちの視線ですか」
先に言ったのは、アランの方だった。
レギュラスは少しだけ驚いたように、彼女を見る。
それから低く答える。
「ええ」
「あなたも気づいていたんですね」
「そりゃあ……」
アランは視線を落とす。
「気まずいので」
気まずい。
その言い方は正直だ。
そして、その正直さが余計に何かを隠しているようでもある。
「シリウスはあなたを知っていました」
「ポッターも、ルーピンも」
レギュラスは淡々と言う。
「ただの同学年、ではない気がしました」
アランはすぐには返さなかった。
膝の上に置いた手を、自分で軽く握る。
沈黙が少し長い。
レギュラスは待った。
待ちながら、これ以上追い込めば黙るのだろうとも感じていた。
「……昔のことです」
ようやく出てきたのは、そんな曖昧な言葉だった。
「ええ」
レギュラスは頷く。
「その昔に、兄がいるんですか」
アランは息を詰める。
そこで初めて、レギュラスは自分の推測がほぼ当たっていると確信した。
胸の奥が、ひどく嫌な音を立てる。
だが顔には出さない。
ここで機嫌をあからさまに崩す方が、たぶん彼女をさらに閉ざさせる。
「……今、聞きますか」
アランが小さく言う。
「聞かない方がいいですか」
「よくは、ないです」
「でも、聞かないままでいるのもよくない気がします」
その返しに、アランは何も言えなくなった。
部屋の中がまた静かになる。
外の足音が遠い。
近くにいるはずの彼女が、今だけ少し遠い。
レギュラスはそこでようやく、手を伸ばしてアランの指先に触れた。
責めるためではなく、逃がさないためでもなく。
ただ、ここにいるのだと互いに確かめるように。
「無理に全部話せとは言いません」
低く言う。
「でも、僕は」
一度だけ言葉を切る。
「あなたが隠す時の顔を、だいぶ知ってしまったので」
アランは少しだけ、困ったように笑った。
それは肯定に近い笑いだった。
「……嫌ですね」
「ええ」
レギュラスもわずかに口元をゆるめる。
「あなたにとっては」
「レギュラスにとっても、たぶん」
「そうですね」
たぶん、ではない。
確実に嫌だ。
でも、それでも聞かなければならないと思う。
シリウス・ブラック。
兄。
昔の恋。
その全部が本当なら、気にしないふりなど到底できない。
レギュラスは握ったアランの手を、少しだけ強くした。
「今すぐ全部じゃなくていいです」
「でも、いつかちゃんと聞かせてください」
アランは目を伏せたまま、小さく頷いた。
「……はい」
その返事だけで、レギュラスは今夜はそこまでにすることにした。
これ以上掘れば、彼女はまた閉じる。
それは今ではない。
今はまだ、騎士団の本部で、
分霊箱も、
闇の帝王も、
命を賭けた契約も、
何もかもが動いた直後だ。
昔の男の影まで、この場で全部引きずり出すべきではない。
「なら、いいんです」
そう言って、レギュラスは手を離さずにそのまま座り直した。
アランも少しだけ肩の力を抜く。
だが、その横顔にはまだ薄く緊張が残っていた。
レギュラスはそれを見ながら思う。
兄のことを知れば、たぶん気分は最悪になる。
シリウスの方も、アランを前にして明らかに妙だった。
そしてジェームズたちの視線も、ただの再会ではないものを含んでいた。
気に入らない。
全部、気に入らない。
けれど今はまだ、彼女が自分の隣にいる。
それだけで十分だと、無理やり自分に言い聞かせるしかなかった。
シリウスに会ってから、アランの心の中はずっと荒れていた。
一発でレギュラスに見抜かれるとは思わなかった。
彼だ。
シリウス・ブラックだ。
自分があの頃、必死に追いかけた人だ。
久しぶりに見た彼は、やっぱりどこまでも、あの頃必死に追いかけた彼だった。
年齢を重ねて、少し影が落ちて、学生時代よりもずっと大人になっているのに。
目元の鋭さも、ふとした時に口元へ浮かぶ不遜な感じも、何もかもが記憶の中の彼と繋がってしまう。
レギュラスに何も悟られたくなくて。
動揺しないようにしたのに。
それでもレギュラスは何かを感じ取った。
あの人は、本当にそういうところだけ鋭い。
騎士団側が用意した食事の席は、アランの中では地獄だった。
長いテーブル。
何人もの視線。
落ち着かない食器の音。
知らない場所で、知らない空気の中で、でも知っている顔がいくつもある。
その中でアランは、まず最初にレギュラスの前のグラスをそっと逆さまにした。
水は不要、という意味を込めて。
薬も何もかも、あの家に置いてきてしまった。
吸入用の粉も、落ち着かせるための魔法薬も、全部。
だから今ここで、レギュラスの発作を誘発させるようなものは避けたかった。
彼はもうかなり回復している。
けれど、水の揺れる光景だけは、今でも時々ひどく駄目な時がある。
こういう緊張の場なら、なおさらだった。
「……すみません、アラン」
レギュラスが小さく言った。
アランは首を振る。
「いいんです」
それだけ答えて、彼の前から水差しを少し遠ざける。
それを見ていたシリウスが、何か言いたげに視線を寄越した気がしたが、アランは気づかないふりをした。
こんなに大勢で食事を取ることなんて、ない。
普段はレギュラスと二人きりだ。
狭い食卓で向かい合って、今日買った野菜の話をして、薬草の仕分けのことを話して、時々どうでもいいことで笑う。
それに比べてここは、あまりにも人が多い。
誰に視線を向ければいいのかもわからない。
シリウスの視線も。
彼ら友人たちの視線も。
痛いほどだった。
問い詰めてくるわけではない。
露骨に敵意を向けてくるわけでもない。
なのに、知っている者同士の間にしかないあの微妙な探り方が、ひどく息苦しい。
「ヒーラー資格を取ったんだってね」
リーマスがそう言った。
落ち着いた、やわらかな声だった。
当たり障りのない会話を選んでくれているのがわかる。
ありがたかった。
「さすがだよ」
アランはフォークを置いて、小さく頷く。
「ありがとうございます」
それだけ返す。
それ以上話すと、余計なことまで零れそうだった。
どこで資格を取ったとか、今はどういう薬を作っているとか、そういう普通の話題に見せかけて、きっとすぐ過去と今が繋がってしまう。
だから短く終える。
ジェームズが何か言いかけて、結局飲み込んだのが見えた。
その気遣いもわかる。
わかるけれど、その気遣いがあること自体が、もう普通ではない。
アランは食事を続けるふりをしながら、内心では祈るような思いだった。
あまりレギュラスに、
過去を感じさせそうなことを言わないでほしい。
シリウスと自分のことを。
あの頃の、どうしようもなくみっともなかった自分を。
今ここで、彼に連想させるようなことだけは、しないでほしい。
レギュラスは静かだった。
食事の手つきも、言葉も、整っている。
いつも通りに見える。
でもアランにはわかる。
静かすぎる時の彼は、だいたい色々考えている。
特に今は、あの部屋で少し触れた話の続きを、きっと頭のどこかでなぞっている。
兄たちと同学年だったんですね。
ええ、でも全然関わりはありませんでした。
あんなふうに、早すぎる否定をしてしまった。
自分でも不自然だったと思う。
シリウスの顔を見た瞬間から、たぶんアランは少し壊れていた。
記憶の中の少年と、
目の前の男と、
それにレギュラスの兄という事実まで一度に重なってしまって。
頭も心も、整理が追いつかなかった。
だから言葉がうまく選べなかったのだ。
「アラン」
小さく呼ばれて、はっとする。
レギュラスだった。
「食べられていますか」
その言い方があまりにも普段通りで、アランは少しだけ救われる。
「はい」
「無理なら残してください」
「大丈夫です」
そう答えると、レギュラスはそれ以上何も言わなかった。
けれどその銀の瞳は、一瞬だけじっとこちらを見て、それから静かに皿へ戻る。
見透かされている。
でも今は問い詰めないでいてくれている。
その優しさが、ありがたくもあり、少し苦しくもあった。
シリウスはあまり話さなかった。
それが逆に辛かった。
昔なら、もっと軽く笑って、場をさらって、誰かをからかっていたはずだ。
そういう人だった。
なのに今は、妙に黙っていて、時々こちらを見る。
その視線に昔の熱はない。
あるのは、気まずさと、悔恨と、どう扱えばいいのかわからない戸惑いだ。
そんな目を向けられる日が来るなんて、あの頃の自分は想像もしなかっただろう。
好きで好きで、苦しくてたまらなくて。
それでも彼の一番でいたくて、必死だった少女が知ったら、何と思うだろう。
たぶん、また傷つくのだろう。
今さらそんな目で見られても遅い、と。
でも今のアランは、もうそこには戻らなかった。
戻らない。
戻れない。
戻りたくもない。
そう思えることだけが、唯一の救いだった。
レギュラスの隣にいると、そのことがはっきりする。
今、自分が気にしているのはシリウスの機嫌ではない。
彼にどう思われるかでもない。
レギュラスが変に勘づきすぎて傷つかないか。
発作を起こさないか。
この緊張の場を無事に越えられるか。
そちらの方が、ずっと大きかった。
そう考えると、少しだけ呼吸がしやすくなる。
「……先生」
誰か若い騎士団の一人がダンブルドアに話しかける声が遠くでして、食卓の空気がほんの少し別の方向へ逸れた。
その隙に、アランはようやく一口だけパンを口に運ぶ。
味なんてほとんどわからない。
でも食べなければ余計に目立つ。
レギュラスの横顔が視界に入る。
シリウスに少し似ている。
血を分けた兄弟なのだから当然だ。
けれどやっぱり、違う。
同じ銀の瞳でも、
見つめてくる時の温度が違う。
同じ整った顔立ちでも、
自分を傷つけるために使われたことは一度もない。
その違いを、アランはもうちゃんと知っている。
それでも心が荒れるのは、初めての傷がそう簡単には消えないからだ。
古い傷跡みたいに、普段は平気でも、天気が変わると急に痛む。
今日は、そういう日なのだと思うしかない。
レギュラスが、また小さく声を落とした。
「あとで部屋に戻ったら、少し休みましょう」
それだけの言葉なのに、アランは泣きそうになりかけた。
今ここでそんな顔はできないから、ただ頷くだけに留める。
「はい」
短く返して、また皿に視線を落とす。
祈るような思いで食事を続ける。
これ以上、誰も。
レギュラスに過去を感じさせるようなことを言いませんように。
この気まずくて痛い時間が、どうか早く終わりますように。
そして部屋へ戻ったら。
ちゃんと、自分の心の荒れ方と向き合わなければならないのだろうと、アランは静かに覚悟していた。
食事の席で、レギュラスはシリウス・ブラックがアランへ向ける視線を意識して見ていた。
最初は違和感だった。
だが今は、もうほとんど確信に近い。
思えば、自分の推測を裏付ける事実はたくさんあった。
女の選択肢が広かったことも。
多分、顔のいい男だったところも。
そして何より、自分をどこか似ていると告げてきたことからも。
シリウス・ブラックが、アランの過去だ。
アランから聞く必要がないくらいに、もうあの場の空気感で見て取れた。
シリウスの目は、昔の女を見る目だった。
ただの同級生でも、ただの知人でもない。
よく知っている。
知りすぎていて、どう扱っていいかわからない。
そんな男の目だった。
そしてアランの方も、平静を装ってはいたが、完璧ではなかった。
動揺していた。
それを隠そうとする時の早口も、
余計なことを先回りして否定する癖も、
レギュラスはもう知っている。
だから、もう十分だった。
部屋に入って二人になった瞬間。
苛立ちと、焦りと、不快感が一気に爆ぜた。
レギュラスはアランを壁際へ押しやった。
逃がさないように、
けれど本気で痛くはしない力で。
そのまま抱きしめる。
両手首ごと壁へ押しつける。
「レギュラス……」
アランが息を呑む。
けれど、その名を呼ぶ声には拒絶がなかった。
レギュラスはそのまま、奪うように、それでいて縋るように口付けた。
激しくというより、深く。
言葉では足りない苛立ちごと押しつけるみたいに。
シリウスの視線も、
食卓の気まずさも、
アランが昔その男に向けていたであろう熱も、
全部上書きしてしまいたかった。
アランは拒まない。
その従順さに、レギュラスの中の怒りはさらに掻き立てられた。
昔のあの男のそばで磨かれたものなのか、と。
そう思ってしまうと、余計にどうしようもなくなる。
唇を深く重ねる。
どちらのものとも分からない唾液が顎を伝って落ちる。
呼吸が上がる。
アランの肩が小さく震える。
その全部が、自分の感情をろくでもない方向へ煽った。
その時だった。
扉が開いた。
レギュラスは一瞬も手を離さなかったが、目だけはそちらへ向けた。
今まさに渦中にいる男。
シリウス・ブラックが、扉の向こうに立っていた。
数秒。
ほんの数秒だけ、空気が凍る。
「……わりぃ」
シリウスが言う。
声音は思っていたより低かった。
「出直す」
「いえ、どうぞ」
レギュラスは即座に返した。
気分は最悪だった。
ノックもせずに開けてきたのだから、怒りは当然ある。
だが、それ以上に、ここで動揺なんか見せたくなかった。
シリウスに。
あの男にだけは。
アランの手首を押さえたまま、
唇の熱もまだ残したまま、
レギュラスは平然とした顔を作る。
シリウスの視線が一瞬だけアランに落ちる。
赤くなった頬、
濡れた唇、
乱れた呼吸。
それを見たうえで、何も言わない。
「お前の杖」
シリウスはぶっきらぼうに言った。
「こっちに登録するからよ」
「今ねぇんだろ? 杖芯から材料から測ってもらえよ」
「杖師が来てる」
それだけ言うと、シリウスはすぐに扉を閉めた。
静寂が戻る。
レギュラスは数秒、その場から動かなかった。
呼吸だけがまだ少し荒い。
やがて、唇の濡れ方を拭うように、手のひらで口元を擦る。
アランの顔は真っ赤だった。
息も上がっている。
唇も濡れていた。
毒だ、とレギュラスは思った。
こんな顔を見せられて。
その直後にシリウスの顔まで差し挟まれたのでは、平静でいられる方がおかしい。
レギュラスはゆっくりアランの手首を離した。
壁に押しつけていた跡が、白い肌にうっすら残っている。
触れた指先でそこを軽く撫でると、アランが小さく息を揺らした。
「……痛かったですか」
聞く声は、さっきまでの熱と打って変わって低く静かだった。
「いいえ……」
アランは少し息を整えながら首を振る。
それから、戸惑いと恥ずかしさの混じった目でレギュラスを見る。
「レギュラス、あの」
「ええ」
「怒ってます?」
その問いに、レギュラスは少しだけ目を細めた。
「かなり」
正直に言う。
「シリウスに」
一拍置く。
「あなたにも」
アランの睫毛が揺れる。
「私に?」
「ええ」
「そんな顔で、平気なふりをするので」
アランはすぐには返せなかった。
図星なのだろう。
レギュラスは壁際に残る彼女の熱をまだ感じながら、低く続けた。
「もうわかっています」
「兄が、あなたの過去なんでしょう」
アランが息を止める。
否定しない。
それだけで十分だった。
レギュラスはゆっくりと、けれど視線を逸らさずにアランを見つめた。
「わかっていても、気分は最悪です」
「さっきの食事の席で、兄があなたを見る目も」
「あなたが兄を見た時の、ほんの一瞬の動揺も」
「全部」
アランは目を伏せた。
その仕草が、かえって肯定みたいで余計に腹立たしい。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
レギュラスはその謝罪を聞いて、胸の奥がさらにざらつくのを感じた。
謝ってほしいわけではない。
過去があること自体に、今さら謝られても仕方ない。
ただ、気に入らないのだ。
兄が彼女の過去にいることも、
兄が今もその痕跡を彼女の中に残していることも、
そしてそんな兄と自分が似ていると、彼女が言ったことも。
全部。
レギュラスはアランの顎に手を添えて、もう一度こちらを向かせた。
「待っています」
アランが、まだ少し潤んだ声でそう言った。
レギュラスは一瞬、意味を測りかねた。
だが次の瞬間、彼女の視線が扉の方へ向く。
杖のことだ。
杖師のところへ行くことを、ちゃんと受け入れている。
そしてそのうえで、自分を待つと言っている。
その一言だけで、さっきまで煮え立っていたものが少しだけ落ち着いた。
レギュラスは手を離し、アランの頬を最後にひと撫でした。
「すぐに戻ります」
そう言うと、アランは小さく頷いた。
レギュラスは扉へ向かいながら、内心で静かに思う。
シリウス・ブラック。
兄。
アランの過去。
気に入らない。
到底、受け入れたくもない。
けれど、さっき扉を開けたあの男は。
赤くなったアランの顔を見て、
自分の唇の痕を見て、
何も言わずに杖の話だけをして閉めた。
それが妙に引っかかる。
嫉妬か。
後悔か。
罪悪感か。
何であれ、兄もまた平静ではないのだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。
アランが待っている。
それだけで十分だ。
そう自分に言い聞かせながらも、レギュラスの胸の奥にはまだ、兄に対する冷たい敵意が静かに居座り続けていた。
杖登録をするためだけに集まったはずなのに。
部屋の空気は、とんでもなく不穏だった。
シリウスとレギュラス。
兄弟そろって現れたその瞬間から、杖師の工房みたいな仮設部屋の温度が一段下がった気がした。
新しい杖の作成と、その杖の登録。
本来なら淡々と進むだけの作業だ。
なのに二人とも不機嫌さが隠せていない。
シリウスは元からそういうところがある。
苛立てば顔にも声にも出るし、隠そうともしない。
だがレギュラス・ブラックでさえ、今日は顔に出ていた。
この男、ほんとに顔に出るようになったのかとジェームズは思う。
「二人とも、座ったら?」
とりあえずそう言う。
どちらも返事はしないが、椅子には腰を下ろした。
杖師が道具を整え、レギュラスの前へ立つ。
年老いたその魔女は、兄弟の空気などまるで見えていないみたいに落ち着いていた。
「では、魔力を見せてくださいな」
レギュラスは黙って手を差し出す。
杖師がその掌の上に薄い水晶片を浮かべる。水晶が淡く震え、銀色とも黒ともつかない光が流れ始める。
魔力の粒子。
流れ。
属性。
その全部を見ているのだろう。
ジェームズは少し身を乗り出した。
レギュラスの魔力は、見ていて不思議だった。
静かなくせに重い。
整っているのに、底の方に刃みたいな鋭さがある。昔からそうだった。学校にいた頃から、彼の魔法は妙に冷たく綺麗で、それがかえって気味悪かったのを覚えている。
「杖芯は昔、何を?」
杖師が問う。
「サンダーバードの尾羽です」
レギュラスは淡々と答える。
「長さは?」
「十二と四分の一インチ」
「他に配合されていた木材の処理は?」
「銀塩処理を一度」
「湿度への反発を少し強めていました」
質問に対して、よどみなく答えていく。
記憶力も、分析も、やはり馬鹿みたいに正確だ。
そのあいだ、シリウスは腕を組んでいた。
落ち着かないのが丸わかりだ。
椅子に座っているのに、いつでも立ち上がって喧嘩を始められそうな体勢をしている。
そして。
気まずさだらけの空間で、最初に口を開いたのはレギュラスの方だった。
「ノックという概念を知らなさすぎでしょう、あなたは」
あまりにも唐突だったので、ジェームズは一瞬意味がわからなかった。
だが次の瞬間、ああ、さっきの件か、と察する。
シリウスが眉を跳ね上げる。
「悪かったっつってんだろ」
「それで済む話だと思ってる時点で、駄目なんですよ」
「お前、いちいち嫌味だな」
「事実です」
ジェームズは杖師の方を見た。
老女は魔力の測定を続けたまま、聞こえていないふりをしている。
さすがに慣れている。
シリウスが舌打ちして、少し前へ身を乗り出した。
「あいつ混血だぞ」
低い声だった。
「おめぇの嫌いな」
ジェームズは、あ、と内心で思った。
そこを突くか。
だがレギュラスは顔色ひとつ変えなかった。
「だからなんです」
その返しに。
驚いた。
ジェームズも。
シリウスも。
たぶん杖師でさえ、ほんの少しだけ手を止めた。
純血主義の中心にいるような男だったはずだ。
あのブラック家の。
あのレギュラスが。
まさか、混血の魔女を平気だと思えるほどに、その価値観を変えているのだから、驚かない方が無理だった。
シリウスが目を細める。
「どういう魂胆だよ」
「てめぇが純血主義をくつがえすってよぉ」
レギュラスは杖師に魔力を見せながら、視線だけを兄へ向けた。
「純血の魔法使いは貴重ですから」
「守られるべきです。そこは変わりません」
そこまでは、ジェームズにも理解できる。
今の世の中、純血の血筋が少なくなっているのは事実だ。
守りたいと思う者がいること自体は、不自然ではない。
だがレギュラスは、続けた。
「ただ」
「たった一人の不老不死の追求のために、多くの生命が犠牲にされていいわけじゃないと言ってるんです」
正論だった。
ジェームズは思わず、少しだけ息を吐いた。
確かに、その通りだ。
純血魔法使いがどんどん少なくなる世の中で、その血が貴重だ、守るべきだという考えそのものはわかる。
だがレギュラスは、純血以外の魔法使いを排除していこうとする、行きすぎた純血主義を掲げていたわけではないのだと。
少なくとも今のこの言葉を聞く限り、そう見えた。
初めて知った、という気持ちすらあった。
昔からそうだったのか。
それとも分霊箱に気づいた時から変わったのか。
あるいはアラン・セシールに出会ってから、価値観の輪郭が崩れたのか。
そこはまだわからない。
だが、その言葉が彼の口から出るのなら。
この男を信用するに値すると思えた。
そしてなにより。
アラン・セシール。
あの混血の魔法使いである女が、今、彼の隣にいる。
それだけでレギュラスの言い分に、妙な信憑性が生まれてしまう。
もし口先だけなら。
あんなふうに当然のようにだからなんですとは言えない気がした。
シリウスは不機嫌そうに顔をしかめた。
だが今のやりとりでは、口では分が悪い。ジェームズは直感していた。
それでもシリウスは引かなかった。
「随分と物分かりがいいこと、急に言うじゃねぇか」
「じゃあお前は純血の女とさっさとガキでも作って、その守らなきゃならねぇ純血を増やせよ」
品のない言い方だった。
ジェームズは思わずこめかみを押さえたくなる。
だがレギュラスは、むしろ少しだけ静かになった。
「僕が、アラン・セシールの隣にいるのが引っかかりますか?」
シリウスの肩がぴくりと動く。
「んなこと言ってねぇんだよ」
「揚げ足とんな」
「そうですか」
その短い返しが、逆に鋭かった。
シリウスがここまでなると、たいてい口では負ける。
ジェームズはそれを昔からよく知っていた。
そして同時に、自分の中にも別種の痛みが湧いてくるのを感じる。
かつて女遊びも絶頂期だった親友は、アラン・セシールを大層可哀想なほどに扱っていた。
それを自分もこの目で見てきた。
だから彼女に会うと、こちらまで申し訳なくなる。
とくに、彼女の翡翠の瞳がリリーと同じ色だから。
余計にそう思うのだ。
止めるべきだった。
もっとちゃんと。
最低だぞと、本気で止めるべきだった。
けれどどこかで、自分も少し羨ましかったのだ。
こんなにも女から尽くされ、なんでも差し出される側の親友を。
あの頃の自分の、軽薄さを思う。
君はシリウスじゃなかったら幸せになれるのに、どうして彼なんだい?
そんな呑気なことを言って、アラン・セシールを戸惑わせたこともあった。
彼女はシリウスに必死だったというのに。
それを揶揄うみたいに、あんな言葉で片づけた。
今思い返すと、本当にどうしようもない。
ジェームズは二人の間に入るみたいに、わざと明るい声を出した。
「はいはい、兄弟喧嘩はあとでやってくれ」
「今は杖の話だろ」
シリウスが舌打ちする。
レギュラスはもうこちらを見ていない。
また杖師の質問へ戻っていた。
「木は?」
「黒檀が最有力かと」
「前と完全に同じでなくても構いません」
「今の僕に馴染むものを」
その答え方が、ジェームズには少し印象的だった。
前と同じでなくてもいい。
昔のままに戻る気はない、ということだろうか。
杖師が細い目を上げる。
「随分変わったんだね、坊や」
レギュラスは少しだけ間を置いてから答えた。
「そうかもしれません」
その言い方は、誇るでもなく、恥じるでもなく、ただ受け入れているようだった。
シリウスはそれを聞いて、ますます面白くなさそうな顔をする。
変わったレギュラス。
変えたアラン。
たぶん今、シリウスの中ではその二つが結びついているのだろう。
そしてそれが気に入らないのだ。
ジェームズにはわかった。
シリウスは、ただ弟が闇から離れたことに苛立っているだけじゃない。
アラン・セシールが、その弟の隣にいることに、妙にざわついている。
それが罪悪感なのか、
嫉妬のなれの果てなのか、
それとも単に過去を突きつけられている苦さなのかはわからない。
だが間違いなく、平静ではない。
「杖芯は少し柔らかいものがいいかもね」
杖師が独り言みたいに言う。
「今の魔力は鋭いけど、支えるものが前より増えてる」
ジェームズは思わずレギュラスを見た。
支えるもの。
それが何を指しているのか、たぶんこの部屋の全員がわかっていた。
シリウスだけが、わざとそっぽを向く。
「……で」
シリウスが低く言う。
「登録が済んだら終わりか?」
「そう急ぐなって」
ジェームズが軽く返す。
「逃げないよ、たぶん」
「逃げる必要があるなら、最初からここに来ていませんよ」
レギュラスが淡々と言う。
その一言に、またシリウスの顔が険しくなる。
けれど今度は何も言わなかった。
言い返せば言い返すほど、レギュラスの方が冷静に見えるとわかっているのかもしれない。
ジェームズは心の中で、やれやれと思った。
この兄弟は、本当に面倒くさい。
だが同時に、少しだけほっともしていた。
少なくともレギュラスの言葉は筋が通っている。
感情ではなく理屈で戦うつもりがある。
そしてアラン・セシールが彼の隣にいる以上、嘘の上塗りだけでは説明のつかない部分が確かにある。
なら、信じる価値はある。
杖師がようやく顔を上げた。
「いいだろう」
「材料は揃う。今日中に登録だけは済ませるよ」
「仕上がりは明日だ」
レギュラスが立ち上がる。
その瞬間、シリウスも立った。
また空気がぴりつく。
ジェームズは二人の間へ視線を滑らせながら思う。
アラン・セシール。
まさか今になって、あの子の名がこんなところで、こんなふうに重たく響くとは思わなかった。
そしてたぶん。
この兄弟の間にある最も大きな火種は、もう分霊箱だけではないのだろう。
ジェームズは小さく息を吐いた。
「ほら、終わったんなら戻りなよ」
「アランが待ってんだろう」
その名を出した途端、レギュラスの表情がほんの少しだけ柔らかくなる。
わかりやすすぎて、ジェームズは内心で苦笑した。
シリウスはその変化を見て、またひどく不機嫌そうな顔をした。だが、今度は何も言わなかった。
たぶん言えなかったのだろう。
今さら何を言っても、自分が過去にしたことの上には立てないと、どこかでわかっているから。
ジェームズはそれを見ながら、昔より少しだけ大人になった痛みというのは、案外こういう形で返ってくるのかもしれないなと、ぼんやり思っていた。
廊下の角を曲がったところで、アランとぶつかった。
細い肩がわずかに跳ねる。
翡翠の瞳が見開かれて、それからすぐに伏せられる。
その一連の仕草に、かつての面影がちゃんとあった。
懐かしさと。
痛みと。
後悔と。
色んなものが一気に押し寄せてきて、シリウスは一瞬言葉を失いそうになった。
「……わりい」
先に出たのは、それだけだった。
「いえ、ごめんなさい」
アランもすぐにそう返す。
やっぱり俯いて、顔を見ずに話す癖もそのままだった。
そのまま足早に立ち去ろうとする気配に、シリウスは咄嗟にその手を取っていた。
細い手首だった。
昔より少しだけ大人になっているのに、それでも簡単に掴めてしまう細さだった。
アランがはっと息を呑む。
「少し、話さねぇか」
言いながら、自分でも思う。
今更何を話すのかと。
けれど、顔を見て話したかった。
あと、詫びたい気持ちもあった。
随分と酷い扱いをしてしまったと。
ちゃんと詫びて、自分の中のものを少し軽くしたい思いもあった。
そして、綺麗になったと伝えたいような思いもあった。
色んな感情が混じっている。
「……何を、ですか」
アランの声は小さい。
それでも振りほどこうとはしない。
「色々だよ」
シリウスは苦く笑った。
「俺のことも話すし。お前のことも聞きたい」
本当に、聞きたいことはたくさんあった。
魔法薬に長けていた彼女が、どこでヒーラー資格なんて取ったのか。
今まで働いていたのか。
何をしていたのか。
レギュラスを好きなのか。
そして、自分のことも話したかった。
騎士団に入って戦闘続きだった日々のこと。
親友がもうすぐ結婚すること。
そこに子どもが生まれたら、名付け親になるつもりだとか。
そして、アランのことをずっと申し訳ないと思っていたこととか。
アランは返答に困ったように固まっていた。
その顔を見た瞬間、シリウスの中で何かが強く掴まれた。
愚かにも、もう一度あの頃をやり直せたなら。
もっとちゃんと大切に扱って、向き合っていくことができるのに、だなんて。
今更すぎることを考えてしまう。
アランはやがて、ゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳が揺れている。
その揺れを見て、シリウスはわかってしまった。
この女は、今もなお自分を見て揺れているのだと。
あの頃、何度も何度も向けられた、真っ直ぐすぎるほどの感情。
好きだと、あまりにも疑いなく差し出されたあの熱が、今なおその中に完全には消えていないのだと見て取れてしまった。
その事実が、シリウスの中で何かを満たした。
最低だ、とすぐに思う。
こんな時に。
こんな状況で。
その揺れを見て、安堵に近いものを覚えるなんて。
けれど止まらなかった。
「…… アラン」
名前を呼ぶと、彼女の睫毛が震える。
「まだ、俺のこと」
そこまで言って、シリウスは少しだけ言葉を選ぶ。
「完全には、どうでもよくなってねぇんだな」
アランの顔が一気に熱を持つのがわかった。
否定したいのだろう。
けれど、すぐには言葉にならない。
その沈黙が、余計に答えみたいだった。
「ちが……」
ようやく出た声はひどく弱かった。
「違わねぇよ」
シリウスは低く言った。
自分でも、どこか意地の悪い響きが混じっているのがわかる。
「お前、昔と同じ顔する」
「困って、でも振りほどけなくて」
「それでもまだ、ちゃんと嫌えねぇ顔だ」
アランは息を止めたまま、シリウスを見ている。
その目に、戸惑いと、痛みと、そしてほんの少しの懐かしさが混じっていた。
全部、知っている色だった。
あの頃、何度も見た。
自分の一言で揺れ、
自分の気まぐれに期待し、
それでも最後にはまた縋る、あの目。
胸が痛む。
痛むのに、同時に満たされる。
こんなにも自分を好きだった女は、他にいなかった。
何をしても離れず、
どれだけ酷くしても、それでも好きをくれた。
その事実を、今また確かめてしまった気がして、シリウスはどうしようもなく息苦しくなった。
「……シリウス」
アランが小さく名を呼ぶ。
昔と違って、その呼び方には甘さよりも困惑が多い。
それでも、まだ自分の名をそう呼ぶことに、妙な熱が胸に差す。
「俺さ」
シリウスは手首を掴む力を少しだけゆるめる。
けれど離さない。
「お前に悪かったって、本当に思ってる」
「今さらだし、謝って済むわけでもねぇってわかってるけど」
アランは黙っている。
「でも」
シリウスは目を細めた。
「もし、あの頃をやり直せるなら」
「今ならもっと、まともに向き合える」
それは本音だった。
本音で、そして最悪でもあった。
今の自分は、当時ほど馬鹿ではない。
女の気持ちを弄ぶことがどれほど酷いことかも、少しはわかる。
だからもし、あの頃に戻れたなら。
今ならもっと大事にできるのに、と。
そんなことを思う資格なんてないのに。
アランはその言葉を聞いて、ひどく苦しそうな顔をした。
「そんなこと……」
声が震える。
「今言われても、困ります」
「わかってる」
「わかってないです」
アランは珍しく、はっきり言った。
翡翠の瞳が揺れている。
「私、あの頃ずっと」
そこで言葉が詰まる。
けれど、逃げずに続ける。
「ずっと、それが欲しかったんです」
「ちゃんと見てもらうことも、ちゃんと向き合ってもらうことも」
「でも、もう終わったことなんです」
シリウスは何も言えなかった。
終わったこと。
その通りだ。
終わったからこそ、今こうして言える。
終わったからこそ、今さら悔やめる。
でも、終わったものは戻らない。
アランは手首を取られたまま、少しだけ目を伏せた。
「……レギュラスがいます」
静かな声だった。
「だから、もう」
息を吸って、
「昔みたいに揺らさないでください」
その一言で、シリウスは胸の奥を強く打たれた。
揺れているのだ。
やっぱり。
それでも、自分で止めようとしている。
その必死さが見えるから、余計に残酷だった。
シリウスはゆっくりと手を離した。
今度はもう、掴んだままではいられなかった。
「……悪い」
またそれしか言えない。
アランは手首を胸元へ引き寄せて、少しだけ撫でるようにした。
痛かったわけじゃないだろう。
ただ落ち着きたかっただけだ。
「お前、綺麗になったな」
シリウスはぽつりと言った。
アランが目を上げる。
驚いたように。
「昔から可愛かったんだろうけど」
シリウスは苦く笑う。
「俺がちゃんと見てなかっただけだな」
アランは返事をしなかった。
その代わり、少しだけ悲しそうに笑った。
その笑みを見て、シリウスはまた思う。
ああ、やっぱり。
この女は昔、自分を本当に好きだったのだと。
そして、今も完全には消えきっていないのだと。
それが満たす。
満たしてしまう。
男としての醜い部分が、静かに甘く満ちる。
それでも。
今ここでそのまま踏み込めば、今度こそ本当に最低だ。
シリウスは息を吐いて、一歩だけ下がった。
「……もう行けよ」
アランはすぐには動かなかった。
けれどやがて小さく頷く。
「はい」
「レギュラス、待ってるんだろ」
その名を出すと、アランの表情が少しだけ変わる。
困惑とは違う、もっと柔らかいものへ。
それを見て、シリウスはわかる。
自分はもう、今のこの女の中心にはいない。
たとえ少し揺れたとしても、戻ってくる先は自分ではない。
それでもなお、その揺れを見て満たされてしまった自分のどうしようもなさに、シリウスは内心で小さく笑った。
「…… アラン」
「はい」
「もし、あいつに泣かされたら」
少しだけ間を置く。
「その時だけは俺に言え」
アランは一瞬だけ目を見開いた。
それから、困ったように、でもどこか優しく笑った。
「多分、大丈夫です」
その返事に、シリウスは頷くしかなかった。
そしてアランが去っていく後ろ姿を見ながら、胸の奥に残る痛みと満たされ方の両方を、どうにも整理できないまま立ち尽くしていた。
