1章
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飲み込んだ水が、喉の奥を焼いた。
冷たいはずの湖水は、炎のように熱かった。口の中を、喉を、肺を、容赦なく満たしていく。息を吸おうとするたびに水が入り、吐き出そうとしても何も追いつかない。ただ内側だけが裂けるように痛んだ。胸が痙攣する。肺が悲鳴を上げる。けれどその悲鳴すら、水の底では誰にも届かない。
身体中に手が這っていた。
亡者の手だった。青白くふやけた指が、足首を掴む。脛に爪を立てる。ローブの裾に絡みつき、腰を、腕を、肩を、首元を捕まえる。引き摺り下ろすためだけに存在している手だった。恨みも、怒りも、言葉もない。ただ沈めるためだけの執着が、冷たくまとわりついてくる。
レギュラスは杖を握り直そうとした。
上へ。
ただ一度でいい。たったひとつ呪文を放てれば、それでいい。
だがその腕に何本もの手が絡みつく。肘が曲がらない。肩が上がらない。まるで腕そのものが水底に縫い留められたみたいだった。振り払おうとしても、身体は鉛のように重い。脚を蹴ろうとしても、膝の裏にまで指が食い込んで、動かせない。
握っていた杖が、指の間からするりと抜けた。
あ、と思ったときにはもう遅い。
黒い水の中に、細い木の影がゆっくりと落ちていく。自分から離れていく。追おうとしても、指一本届かない。
だめだ、とレギュラスは思った。
杖なしでは威力が落ちる。そんなことは知っている。けれど何もできないよりはましだ。指先で、せめて無声呪文を、と力を込める。ほんの少しでも魔力を走らせようとした。意識を集中させる。呪文の形を思い描く。けれど指先はぴくりとも動かなかった。
もう一ミリも、動けない。
足を掴まれ、腰を抱え込まれ、腕を押さえ込まれ、身体はどんどん深い方へ引かれていく。上を見れば、わずかな光が揺れていた。遠い。ひどく遠い。手を伸ばしたところで決して届かない場所で、水面だけが静かにきらめいている。
そこは地上だった。
空気があって、呼吸ができて、生きられる場所だ。
レギュラスは目を見開いたまま、その光を見た。
帰れない。
その言葉が、不意に胸の奥へ沈んだ。
ああ、やっぱり、帰れないのだ。
最初からわかっていた。
わかっていて来た。自分がするべきことだからしただけだ。ここに来れば、おそらく二度と戻れないことくらい、理解していた。ブラックの名を持つ人間としても、あの方の秘密に気づいてしまった愚か者としても、生かして帰されるような道ではなかった。
それでも来た。
けれど。
死ぬ瞬間が、こんなにも苦しいなんて思わなかった。
もっと静かなものかと思っていた。
もっと、覚悟の延長にある冷たい終わりだと思っていた。
こんなふうに身体のすべてが生にしがみついて、みっともなく空気を求めて、喉を焼かれ、肺を潰され、何ひとつまともに考えられないほど惨めなものだとは、思っていなかった。
胸が苦しい。
痛い。
息がしたい。
死にたくない、と思った。
その感情が胸の奥に浮かんだ瞬間、レギュラスは自分でも驚いた。遅すぎる。あまりにも遅すぎる。ここに来る前に抱くべき感情だった。覚悟を決めたあとで、今さらそんなことを思ったところで、何の意味もない。
けれど身体は正直だった。
生きたい。
まだ死にたくない。
こんなところで、誰にも知られず、冷たい湖の底に沈んで終わりたくない。
亡者の手が、さらに強く腕を引いた。
口が開く。
また水が流れ込む。
喉が焼け、肺が潰れそうになる。視界の端が白く明滅した。頭の奥がじんじんと痺れる。思考が遠のき始める。苦しいはずなのに、どこか感覚だけが鈍っていく。
上の光が、もうひどく小さい。
自分はここで沈むのだと、ようやく身体が理解し始めていた。
そうしたら、急に。
何でもないものが脳裏をよぎった。
窓辺に差す朝の光。
読みかけの本。
まだ乾ききっていないインクの匂い。
暖炉の火。
磨かれた手すり。
夜更けにしんと静まり返る廊下。
そんなものだった。
特別な記憶ではない。誰かの顔ですらない。ただ、自分が帰るはずだった場所の輪郭だけが、不意に胸の奥へ浮かび上がった。穏やかで、静かで、くだらないほどありふれたもの。けれど二度と触れられないのだと思った瞬間、それはひどく眩しかった。
帰りたかった。
その思いだけが、遅れて胸を貫いた。
こんな水の底ではなく。
こんな腐った手に掴まれたままではなく。
生きて、どこかへ帰りたかった。
けれど、もう遅い。
視界がまた暗くなる。
身体から力が抜けていく。
抵抗しようとする意志すら、水に溶けて薄れていく。
指先に、もう感覚はほとんどなかった。
それでもレギュラスは最後に一度だけ、動かない手を上へ伸ばそうとした。
届かないとわかっていても。
無駄だとわかっていても。
ただ本能のように、光の方へ。
けれどその腕を、下から伸びた無数の手が掴んだ。
冷たい。
重い。
逃がさないという意思だけが、骨まで染み込んでくる。
身体が、また一段深く沈む。
上から差していたかすかな光が、水の揺らぎの向こうで歪んだ。
遠ざかる。
薄れていく。
世界が閉じていく。
レギュラスは薄れていく意識の中で、ひどく静かに思った。
ああ。
ここで終わるのか。
その瞬間、胸の奥に残っていた最後の熱が、ふっと消えかけた。
誰かが、自分を引き上げている。
その感覚だけが、途切れかけた意識の底にかすかに残った。
腕を掴まれているのか、肩を抱かれているのか、それすらもうよくわからない。ただ、さっきまで確かに自分を湖底へ引き摺り込んでいた力とは逆の方向へ、身体が動いていた。上へ。水面へ。地上へ。沈むためではなく、生かすための力だった。
ひどく乱暴に咳き込みたかった。
肺に入り込んだ水を吐き出したかった。
けれど身体はもう、そういう当たり前の命令すら聞いてくれなかった。
耳の奥で、何かがぶつかる音がした。
ガチャ、ガチャ、と。
小さな瓶がいくつも触れ合うような音だった。
霞む視界の向こうで、誰かが湖へ向かって手を振るっている。
白い指先。
細い手首。
揺れる黒い影。
女だ、とレギュラスは思った。
それだけはわかった。
女で、こんな場所に来られる人間がいるとは思わなかった。しかも一人で。しかも、この湖のそばまで。
女は湖に向かって、何かを撒いていた。
粉末なのか、液体なのかもわからない。ただ、ガラス瓶を次々に開けては、その中身を水面へ叩きつけるみたいに撒いている。瓶同士がぶつかる音だけが、遠く、途切れ途切れに届いた。
何をしているのか理解できない。
あれが何の薬なのかも、どうしてこんな場所でそんなものが効くのかも、まったくわからない。
脳がもう回らなかった。
ただ、その直後。
自分に食らいついていた亡者たちが、一斉に引いた。
ぞっとするほど急だった。
さっきまでどんな呪文を放っても、どれだけ抵抗しても、決して離さなかったものたちが。
腕を、脚を、肩を、首を、執念深く掴み続けていた亡者たちが。
まるで何かを恐れたように、同時に水の底へ後退していく。
驚愕した。
そんなことがあるのか、と思った。
あれだけの執着が、こんなにもあっさりと剥がれるのかと。
けれど驚きすら、もううまく続かなかった。
意識が薄い。
何もかもが遠い。
水面から引き上げられる。
空気に触れる。
冷たい夜気が、濡れた皮膚を刺す。
そこでようやく、自分が地上に戻されたのだとわかった。
途端に、胃の奥から何かが込み上げた。
激しく咳き込み、水を吐き出そうとする。
けれど吐き出しきれない。
喉が焼ける。
肺が引き攣る。
胸の奥が潰れそうに苦しい。
水を飲んだときからわかっていた。あれはただの湖水じゃない。冷たさの奥に、もっと別のものがあった。魔力に触れて、内側から臓器を焼くような、呪いに近い何か。
喉も、肺も。
もっと深いところまで。
魔力を伝って、臓器が焼け切れていく。
自分でもわかった。
色んな器官がもう、働きをやめようとしている。
心臓が拍を乱し、肺が空気を拒み、指先から順番に感覚が消えていく。助かる類の傷ではない。そんなことくらい、レギュラスには理解できた。
「大丈夫ですか」
声がした。
女の声だった。
近い。
震えている。
「お願いです、生きてください」
「どうか……ああ、どうか、死んでしまわないで」
必死に何かを言っている。
でも、もう音が拾えない。
言葉の形だけがかろうじて耳に触れ、意味になる前に崩れていく。
助けようとしてくれている。
それだけはわかった。
どうしてここまでしてくれるのかはわからない。
見ず知らずの男を。
しかも、こんな湖から引き上げたばかりの、半ば死体みたいな男を。
けれど、もう無理だと思った。
自分の身体が終わっていく感覚だけは、嫌になるほど鮮明だった。
火傷したみたいに喉が痛む。
肺がまともに空気を受けつけない。
胸の内側で何かが崩れていく。
血が巡るたびに、呪いが深くなる。
たぶんもう、間に合わない。
ならせめて、とレギュラスは思った。
地上で死ねるのなら、それは幸運なのだと。
あの湖の底で。
誰にも見つからず。
亡者どもに絡みつかれたまま沈み、朽ちていくよりは。
せめて、地上でよかった。
濡れた土の匂いがする。
草が肌に触れている。
夜気が頬を打つ。
苦しい。痛い。息ができない。
それでも、地上だ。
それだけで十分だと思おうとした。
もし可能なら。
自分の遺体は静かに埋めてほしい、とぼんやり思った。
見つかれば、きっと見せしめにされる。
体をぐちゃぐちゃに壊されるだろう。
あの方に逆らった愚かな裏切り者として、誰の目にもわかる形で晒されるかもしれない。
それは避けたかった。
せめて死んだあとくらいは、静かにしてほしい。
父と母の顔が浮かんだ。
もし遺体がブラック家へ戻されたら。
母はきっと、ヒステリックに発狂するだろう。
泣き叫んで、周囲を責めて、何もかも壊すように取り乱す。
父はたぶん、何も言わずに静かに悲しむ。
静かなまま、ひどく深く傷つく。
どちらにも、そんな顔をさせたくなかった。
もう十分だった。
自分が死ぬことで足りるのなら、それで終わりでよかった。
これ以上、自分のせいで誰かが壊れるところなんて見たくない。
女の手が、自分の頬に触れた気がした。
冷たい指だった。
けれど爪先まで震えていて、必死に生へ引き留めようとしているのが伝わった。
申し訳ない、と思った。
礼も言えない。
せっかく助けようとしてくれているのに、その善意に何ひとつ返せない。
名も知らない女に、こんな終わり際を押しつけることになる。
それが、ひどく申し訳なかった。
けれどもう十分だから。
どうか、そこまでしなくていい。
救おうとしなくていい。
そう思った。
意識の底で、そう願った。
知らない女の手を煩わせたくなかったし、これ以上、自分の無様な生への執着を誰かに見せるのも嫌だった。もう終わるのだと受け入れてしまえば、それで楽になれる気がした。
だからレギュラスは、かすかに残っていた力すら手放しかけた。
瞼が落ちる。
視界が閉じていく。
女の輪郭が、夜の闇に溶ける。
それでも最後にひとつだけ、妙に鮮明に残ったのは。
自分を呼び止めるその声が、ひどく必死だったことだった。
ルメール草は、あの湖畔にしか生えない。
だから行くしかなかった。
危険な場所だということは、アランも知っていた。あの湖には近づくなと、幼い頃から何度も言われてきた。岸辺に立つだけでも気味が悪い。水は黒く、昼でも底が見えず、風のない日でさえ妙にざわめいていることがある。あそこにはよくないものが棲んでいるのだと、誰もが知っていて、誰も詳しくは口にしなかった。
それでも、その近くにしか生えない薬草がある。
ルメール草。
強い鎮静作用を持つ、銀がかった細葉の草だ。煎じれば痙攣を鎮め、調合を工夫すれば激しい吐き気も抑えられる。数が要る薬ではないが、必要な時には他で代えが利かない。だからアランは、朝のうちに摘んで、すぐ帰るつもりでいた。
本当に、それだけのつもりだった。
湿った土を踏みしめ、なるべく湖を見ないように岸辺を歩く。風は弱い。空も明るい。普段なら、もっと静かなはずだった。
なのに今日は、違った。
湖がざわついていた。
波立っている、というのとは違う。もっと内側から騒いでいるみたいな、落ち着きのない揺れだった。黒い水面の下で何か大きなものが蠢いているような、不吉なざわめき。見ているだけで背筋が冷たくなる。
アランは足を止めた。
おかしい、と思った。
あんな場所が、ざわざわしているなんて、普段ならありえない。誰も近寄らないような場所なのに。自分でさえ、薬草を摘んだら即帰るつもりだった。長居をする理由なんてない。見ないふりをして引き返すべきだと、頭ではすぐにわかった。
だが次の瞬間。
人が見えた。
黒い水の中に、沈んでいく人影があった。
息を呑む間もなかった。
引き摺られている。
ただ沈んでいるのではない。何かに、下へ、下へと引かれていた。腕がもがく。水面近くで一度だけ浮かびかけた身体が、次の瞬間にはまたずるりと深い方へ持っていかれる。まるで湖そのものが、その人間を呑み込もうとしているみたいだった。
恐ろしい光景だった。
アランはその場に立ち尽くした。
足先が冷える。喉がひゅっと狭くなる。逃げなければ、と本能が叫んだ。
けれど帰れなかった。
こんなものを見てしまって、帰れるはずがない。
人が、目の前で引き摺られて沈んでいった。
その男の指先が、水の中でわずかに動いた。きっと何か呪文を放とうとしたのだろう。助かろうとしたのだ。けれどその手は持ち上がりきらず、光も生まれないまま、その指先ごとまた黒い水に沈んでいく。
アランははっと我に返った。
鞄を開ける。
瓶が指にぶつかって鳴る。焦ってうまく掴めない。落としそうになった小瓶をどうにか引き寄せ、中身を確かめる余裕もないまま栓を抜いた。
湖を鎮静できる薬。
本来なら強い吐き気止めとして使うものだ。内側で暴れ続けるものを抑え込むための処方。水そのものに使うようなものではない。けれど理論の上では、この湖の異様なざわめきにも効くはずだった。あくまで理論上では、というだけで、試したことなんて一度もない。
それでも、もうこれしかなかった。
「どうか……」
祈るみたいに呟いて、アランは薬瓶を水面へ投げた。
小瓶が割れる。
透明な液体が黒い湖に散る。
一瞬だった。
ほんの一瞬だけ、水面が静まった。
ざわざわと内側から騒いでいた気配が、ふっと息を止めたみたいに鎮まる。その瞬間を逃したら終わりだとわかった。アランは裾が濡れるのも構わず岸辺へ踏み込み、沈みかけていた男の腕を掴んだ。
冷たい。
ぞっとするほど冷たい腕だった。
水をたっぷり吸ったローブが重い。身体そのものも大きい。しかも全身から力が抜けきっていて、支えようとしてもまるで形がない。生きている人間を引き上げているというより、濡れた石像を無理やり水から剥がしているみたいだった。
「お願い……っ」
返事はない。
だがまだ離すわけにはいかなかった。
水の底から、また何かが来る気配がした。
さっき一瞬だけ引いたものたちが、もう戻ってこようとしている。
アランは必死に男を引いた。
腕だけでは駄目だ。肩に手を回す。滑る。指がうまくかからない。濡れた布越しに掴んでも重みが逃げていく。足を踏ん張って後ろへ体重をかけるたび、泥が靴の下でぬるりとずれた。
重たい。
水を吸って。
そもそものこの男の重さに加えて。
全身の力が抜けているからこそ、その重たさはさらに増していた。
それでも引くしかない。
腕が震える。肩が抜けそうに痛む。息が上がる。もう少しで手が滑りそうだった。
ようやく、ずるりと男の上半身が岸に上がった。
その瞬間、水面がまた低くざわめく。
戻ってくる、とアランは直感した。
怖かった。あまりにも怖かった。今ここで手を離したら、自分まであの湖に引きずられるかもしれない。そんな想像が頭をよぎる。けれど目の前の男は、もうほとんど動かない。ここで離せば、そのまま終わるのだとわかった。
アランは歯を食いしばり、最後の力で男をさらに引いた。
肩、胸、腰。
重い身体が少しずつ地上へ上がってくる。濡れたローブが地面を擦り、泥と草を巻き込みながら、ようやく完全に湖から引き離された。
そこで初めて、アランは大きく息を吸った。
膝が震えている。
心臓がうるさいほど鳴っている。
けれど休んでいる暇はなかった。
男はぐったりと横たわったまま、まるで死体のように動かない。
黒い髪が水を含んで額に張りつき、長い睫毛の先から雫が落ちる。血の気のない顔はひどく整っていて、その美しさがかえって生気のなさを際立たせていた。年若い。まだほんの青年だ。こんな場所で沈んでいいような顔ではなかった。
だがその唇は青く、呼吸はほとんど見えない。
「……しっかりしてください」
アランは膝をつき、震える手で男の肩に触れた。
冷たすぎる。
濡れた布越しでもわかるほど、体温が落ちていた。
生きているのか。
間に合ったのか。
それすらまだわからない。
けれど、ここまでしておいて見捨てることなどできなかった。
アランは息を整えながら、持ってきた薬瓶の位置を頭の中で確かめた。何が使える。どれなら今すぐ使える。吐き気止め、鎮静、呼吸補助、保温のための簡易薬。足りないものだらけだ。それでもやるしかない。
湖の方を振り返る。
黒い水面は、また何事もなかったみたいに静まっていた。
けれどさっき見たものを、見間違いだったとは到底思えない。
あの場所から、この男を連れ帰らなければならない。
アランはもう一度男を見下ろした。
こんな重たい人を、一人で。
しかもこの状態で。
無茶だとわかっている。
それでも。
「あなた、死なないでください」
答えはない。
ただ濡れた睫毛が微かに震えたように見えて、アランはそれだけを頼りに、男の身体を支えるため再び手を伸ばした。
目が覚めたとき、最初に見えたのは天井だった。
木の天井だった。
黒く磨き上げられた装飾も、重たく垂れ下がる天蓋もない。ただ組まれた木材がそのまま見えている、低く、素朴な天井。ぼんやりと視線を動かしても、見慣れたブラック家の寝室とは何もかも違った。
生きている、のかとレギュラスは思った。
まさかもう一度目覚めるとは思っていなかった。
あの湖から引き上げられたあと、地上で死ねるならそれで十分だとさえ思ったのに。喉も肺も、内臓までも焼き切れていくのを自分で感じていた。助かるはずがないと、あの時たしかにそう思った。
なのに天井がある。
木の匂いがする。
どこかで小さく火が鳴る音がする。
生きている。
その事実が、ひどく鈍く胸の奥へ落ちていった。
全身が軋むように痛んだ。
指先から胸の奥まで、どこもかしこもまともではない。少し息を吸うだけで肋骨の内側まできしむ。喉はまだ焼けたままで、乾き切っているのに、水を欲しがることすら怖かった。唇も乾いて裂けていた。わずかに口を動かしただけで、皮膚がぱきりと割れて痛む。
「気づいてくれたんですね、よかったです」
声がした。
やわらかい女の声だった。
聞き覚えがある。水の中から遠く聞いた、あの声だ。
レギュラスは痛む首をわずかに動かした。
女がいた。
今度ははっきり見えた。
翡翠の瞳が、最初に目に入った。光を含むと深く色を変える石みたいな目だった。黒い髪が肩のあたりで静かに揺れる。若い。思っていたよりずっと若い。細くて、白くて、どこか頼りなさげですらある。少なくとも、湖から男を引きずり上げるようなことに長けた人間には見えなかった。
この女が、自分を。
そう思うと、驚きより先に奇妙な感覚が来た。
あの場所の恐ろしさを知らないわけがない。
ましてあんな光景を見て、普通の人間なら逃げる。
なのにこの女は近づき、自分を引き上げ、生かした。
何者だ、と思った。
まず礼を言わなければならない。
そう思って唇を動かす。
だが言葉は喉を通らなかった。空気が掠れただけで、声にならない。裂けた唇にまた痛みが走って、レギュラスは思わず眉を寄せた。
「まだ話せないと思います」
女はすぐにそう言った。
責めるでもなく、宥めるような口調だった。
「喉の粘膜が焼け爛れていました。粘膜の修復には、少し時間がかかるんです」
焼け爛れていた。
その言葉に、レギュラスは内心で苦く笑いそうになった。
ああ、やはりただの水ではなかったのだと改めて思う。あの湖は、やはり人を殺すための場所だった。
かろうじて、頷く。
動くだけで疲れる。
それでも寝たままというのは耐えがたく、レギュラスは起き上がろうとした。
身体に力を入れる。
だがすぐに限界が来た。腕が支えられない。腹に力が入らない。わずかに肩を浮かせただけでベッドがぎしりと軋み、その振動がそのまま痛みに変わって全身を走る。
狭い、と思った。
ベッドそのものがブラック家のものよりずっと小さい。部屋も広くないのだろう。身体を少し動かしただけで、どこか窮屈だった。
「まだ無理をしないでください」
女が言う。
「内臓の回復も時間がかかります」
内臓。
そこまで言われれば、さすがに起き上がれない理由は理解できた。理解はできる。だが納得とは別だった。こんなふうに、自力で身体も起こせないというのは屈辱だった。自分の生死を自分で決められず、ただ寝かされ、治される側に回っている。
しかも、見知らぬ女に。
レギュラスは呼吸を浅く整えながら、もう一度彼女を見た。
あまりにも善意だった。
それがむしろ恐ろしくもある。
見返りを求めない人間は、時にもっとも読めない。何を知っているのか。どこまで見たのか。自分が何者か、この女は知っているのか。あの湖に沈みかけていた男を拾ったことが、どれほど危ういことか理解しているのか。
問いたいことはいくらでもあった。
だが声は出ない。
そして何より。
今、自分の生殺与奪の権はこの女の手の中にある。
そう思った。
水を与えるかどうか。
薬を盛るかどうか。
匿うか、突き出すか。
生かすか、見捨てるか。
全部、この女次第だ。
それは本来なら、ひどく不快なことのはずだった。誰かに命を預けるなど、冗談ではない。まして相手の正体もわからないのに。恐れるべき状況だと、頭は冷静にそう告げていた。
なのに。
どこか安心している自分がいることに、レギュラスは気づいた。
もう何も考えなくていいような気がした。
自分で立たなくてもいい。
戦わなくてもいい。
判断しなくてもいい。
この女が、自分を生かそうとしている。その事実だけに、ひどく静かな安堵があった。
疲れているのだ、とレギュラスは思った。
それくらいでなければ説明がつかない。
女はそんな彼の視線に気づいたのか、少しだけ困ったように微笑んだ。
「そんなに警戒しなくて大丈夫です」
その言葉に、レギュラスは内心で皮肉に眉をひそめる。
警戒するなと言われて警戒を解けるほど、愚かではない。
けれど同時に、その声音には押しつけがなさすぎて、逆に刺が抜かれるようでもあった。
「ここは安全です。少なくとも、あなたが眠っている間に誰かを呼んだりはしていません」
そこまで聞いて、レギュラスの目がわずかに細くなる。
やはり、ある程度は理解しているのだ。
自分が人に見つかって困る立場であることを。
女はその反応を見て、小さく息をついた。
「名前も、まだ聞きません。事情も」
「今はとにかく、生きていてください」
ひどく静かな言い方だった。
生きていてください。
その言葉が、妙に胸の奥へ沈んだ。
レギュラスは目を閉じかけ、また開く。
喉が痛む。
全身が痛む。
息をするだけで疲れる。
それでも、確かに生きていた。
助けられたのだ、この女に。
礼も言えないまま。
名前も知らないまま。
ただ無様に、命だけを拾われた。
屈辱のはずなのに。
惨めなはずなのに。
なぜかその事実は、彼の中に奇妙なぬくもりを残していた。
女が水差しに手を伸ばし、濡らした布でそっと彼の唇の端を湿らせる。
ひび割れた皮膚に沁みて痛い。だがそれすら、今は現実の感触として心地よかった。
レギュラスは声にならないまま、わずかに目を伏せた。
こんなふうに誰かの善意の中で横たわることなど、自分の人生にはないと思っていた。だからこそ落ち着かない。落ち着かないのに、その落ち着かなさごと、深く沈むように身を預けてしまいそうだった。
損傷した内臓と、焼け爛れた粘膜とでは、どちらが先に回復していくだろうか。
アランは寝台の脇に立ちながら、静かに男の寝顔を見下ろした。
喉も肺も深く傷んでいる。けれどそれだけではない。あの湖の水は、飲んだだけで終わる代物ではなかった。魔力を帯びた異常な水が、喉を通って内側へ入り込み、臓器の内側まで炎症を広げている。目に見えない分、そちらの方が厄介だった。
食事なんて、とてもできる状態ではない。
だから寝ている間に、栄養だけは腕から入れていた。高濃度の栄養剤を薄く魔力で巡らせ、体が拒絶しにくいよう少しずつ流す。応急処置としては上々だが、いつまでもこれだけでは足りない。炎症を抑え、少しでも身体そのものが回復へ向かわなければ、先はない。
アランは薬を小さな器で溶かし、慎重に混ぜた。
強すぎてはいけない。
けれど弱すぎても意味がない。
匙の先で最後にひと混ぜしてから、ベッドサイドの小さなテーブルにコップを置く。ちょうどその頃、寝台の上の男がわずかに目を開けた。
「薬を、自力で飲めますか」
そう声をかけると、銀色の目がゆっくりとこちらを向いた。
まだ焦点が定まりきらないような、熱に浮かされた目だった。それでも意識はあるらしい。
アランはそっと寝台の縁に腰を寄せ、起き上がろうとする彼の背に手を回した。
重い。
前よりは少しましになったとはいえ、力の入らない大人の身体は、少し支えるだけでも重かった。肩甲骨の下に腕を差し入れ、沈み込まないよう背中を支える。そうしなければ、そのまままたシーツへ倒れ込んでしまいそうだった。
「……うっ…………」
男が何か言おうとした。
だが言葉にはならない。
喉の奥で砕けた呻きが漏れ、息に混じって消えていく。痛みのせいか、焦りのせいか、その声は聞いているだけで胸が詰まるような苦しさを帯びていた。
「無理に話さなくて大丈夫です」
アランは背中を支える手に少しだけ力を込め、なるべく安心させるようゆっくり言った。
「炎症を抑える薬です。内臓の炎症にも、粘膜の損傷にも効きます」
男は力なく、けれど確かに頷いた。
その小さな反応に、アランはほっと息をついた。
信用してくれているのだと思った。
害するつもりなんてない。
ただ、生きてほしい。それだけだ。
そのために、自分は魔法薬を専攻して学んだ。
そのために、難しい勉強も、眠れない実習も、何度も挫けそうになる試験も耐えて、ヒーラー資格だって取ったのだ。
目の前で苦しんでいる人を前にして、何もできないままでいたくなかった。
アランはコップを取り、彼の前へ差し出した。
途端に。
男の身体が目に見えて震えた。
びくり、と大きく肩が跳ねる。
その目が、コップの中の水に吸い寄せられるように向けられた次の瞬間、まるで反射みたいにその手が動いた。
ぱし、と弾かれる。
アランの手から離れたガラスのコップは、そのまま床に落ちて砕け散った。
鋭い音が、小さな部屋に響く。
「……っ」
男の呼吸が一気に荒くなった。
肩が大きく上下している。
喉はまともに使えないはずなのに、それでも息だけが苦しげに漏れていた。震えている。青ざめた顔のまま、目だけがひどく見開かれている。苦しそうで、それ以上に、恐れているようだった。
アランははっとした。
理解した。
水は、だめなのだ。
あの湖の揺れを、思い出させるのかもしれない。
黒くざわめく水面。
引き摺られ、沈み、飲まされ、喉も肺も焼かれた場所。
死に限りなく近いところまで連れていかれた人なのだ。
死に引きずられる恐怖を、全身で味わった人なのだ。
そんな人に対して、自分はあまりにも無神経だった。
「ごめんなさい」
アランはすぐにそう言った。
砕けたガラスより、彼の呼吸の方が気になった。
「私が無神経でした。ごめんなさい」
男はまだ肩で息をしていた。
何かを言おうとしても、喉がそれを許さない。ただ指先がかすかに震え、逃げるようにシーツを掴んでいる。
アランは急いで立ち上がり、棚の上を見回した。
透明でないもの。
水面が見えないもの。
すぐに、普段自分が使っているマグカップが目に留まった。淡い乳白色の釉薬がかかった、外から中の様子が見えないものだ。アランはそれを取り、水を入れたあと、飲み口だけが少し空く蓋をそっと載せた。
水面の揺れが目に入らないように。
水そのものを、できるだけ思い出させないように。
それを両手で持って、寝台のそばへ戻る。
「これでなら、どうでしょうか」
なるべく穏やかに言って、差し出す。
男はすぐには手を出さなかった。
けれど数秒ののち、まだ震える指先で、そっとそれを受け取ってくれた。
そのとき初めて、アランも胸の奥で張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
「大丈夫です。ゆっくりで」
肩で息をするその肩に、アランはそっと手を添えた。
骨ばった感触の向こうで、濡れた羽毛みたいに細かい震えがまだ残っている。
時々、背中をさする。
呼吸を整えるように。
焦らなくていいと伝えるように。
男は蓋つきの飲み口に口を寄せ、少しだけ水を含んだ。喉が焼けているせいか、そのわずかな量でもひどく慎重になる。飲み込んだあと、目を閉じて、痛みに耐えるように呼吸を止めた。
けれど拒絶はしなかった。
アランはその様子を見ながら、薬の器を手に取った。
「少しずつでいいです」
「急ぐとつらいですから」
そう言って薬を差し出すと、男は苦しげながらも再び頷く。
飲もうとしている。
生きようとしている。
それだけで、アランの胸は熱くなった。
ほんの少し前まで、この人は湖の底へ沈みかけていたのだ。諦めてしまってもおかしくないほど壊れているのに、それでも今、震える手でカップを持っている。水を拒んだことさえ、弱さではなかった。あれはきっと、身体に深く刻まれた恐怖そのものだ。それでも彼は、戻ってきている。
アランは背中を支えたまま、ふと思いついたように小さく言った。
「これは、じゃあ……あなたのマグカップにしましょう」
男の銀の目が、ゆっくりとこちらを向いた。
「透明なコップは、もう使いません。これを、あなた専用にします」
声はやわらかく、けれど半分は自分に言い聞かせるみたいでもあった。
もう二度と、同じ怖がらせ方はしないように。
男は何も言えない。
ただその目が、ほんのわずかに揺れた。
アランはその反応を深追いせず、ただ背中をさすり続けた。
「だから安心してください」
返事はない。
けれどその肩の震えは、さっきより少しだけ小さくなっていた。
小さな部屋には、火のはぜる音と、荒いながらも確かに続いている彼の呼吸だけが満ちていた。
砕けたガラス片は床に散ったままだったが、今はそれを片づけるより先に、この人を落ち着かせる方が大切だった。
アランは寝台のそばから離れず、まるで壊れものを扱うみたいに慎重に、彼が薬を飲みきるのを見守った。
冷たいはずの湖水は、炎のように熱かった。口の中を、喉を、肺を、容赦なく満たしていく。息を吸おうとするたびに水が入り、吐き出そうとしても何も追いつかない。ただ内側だけが裂けるように痛んだ。胸が痙攣する。肺が悲鳴を上げる。けれどその悲鳴すら、水の底では誰にも届かない。
身体中に手が這っていた。
亡者の手だった。青白くふやけた指が、足首を掴む。脛に爪を立てる。ローブの裾に絡みつき、腰を、腕を、肩を、首元を捕まえる。引き摺り下ろすためだけに存在している手だった。恨みも、怒りも、言葉もない。ただ沈めるためだけの執着が、冷たくまとわりついてくる。
レギュラスは杖を握り直そうとした。
上へ。
ただ一度でいい。たったひとつ呪文を放てれば、それでいい。
だがその腕に何本もの手が絡みつく。肘が曲がらない。肩が上がらない。まるで腕そのものが水底に縫い留められたみたいだった。振り払おうとしても、身体は鉛のように重い。脚を蹴ろうとしても、膝の裏にまで指が食い込んで、動かせない。
握っていた杖が、指の間からするりと抜けた。
あ、と思ったときにはもう遅い。
黒い水の中に、細い木の影がゆっくりと落ちていく。自分から離れていく。追おうとしても、指一本届かない。
だめだ、とレギュラスは思った。
杖なしでは威力が落ちる。そんなことは知っている。けれど何もできないよりはましだ。指先で、せめて無声呪文を、と力を込める。ほんの少しでも魔力を走らせようとした。意識を集中させる。呪文の形を思い描く。けれど指先はぴくりとも動かなかった。
もう一ミリも、動けない。
足を掴まれ、腰を抱え込まれ、腕を押さえ込まれ、身体はどんどん深い方へ引かれていく。上を見れば、わずかな光が揺れていた。遠い。ひどく遠い。手を伸ばしたところで決して届かない場所で、水面だけが静かにきらめいている。
そこは地上だった。
空気があって、呼吸ができて、生きられる場所だ。
レギュラスは目を見開いたまま、その光を見た。
帰れない。
その言葉が、不意に胸の奥へ沈んだ。
ああ、やっぱり、帰れないのだ。
最初からわかっていた。
わかっていて来た。自分がするべきことだからしただけだ。ここに来れば、おそらく二度と戻れないことくらい、理解していた。ブラックの名を持つ人間としても、あの方の秘密に気づいてしまった愚か者としても、生かして帰されるような道ではなかった。
それでも来た。
けれど。
死ぬ瞬間が、こんなにも苦しいなんて思わなかった。
もっと静かなものかと思っていた。
もっと、覚悟の延長にある冷たい終わりだと思っていた。
こんなふうに身体のすべてが生にしがみついて、みっともなく空気を求めて、喉を焼かれ、肺を潰され、何ひとつまともに考えられないほど惨めなものだとは、思っていなかった。
胸が苦しい。
痛い。
息がしたい。
死にたくない、と思った。
その感情が胸の奥に浮かんだ瞬間、レギュラスは自分でも驚いた。遅すぎる。あまりにも遅すぎる。ここに来る前に抱くべき感情だった。覚悟を決めたあとで、今さらそんなことを思ったところで、何の意味もない。
けれど身体は正直だった。
生きたい。
まだ死にたくない。
こんなところで、誰にも知られず、冷たい湖の底に沈んで終わりたくない。
亡者の手が、さらに強く腕を引いた。
口が開く。
また水が流れ込む。
喉が焼け、肺が潰れそうになる。視界の端が白く明滅した。頭の奥がじんじんと痺れる。思考が遠のき始める。苦しいはずなのに、どこか感覚だけが鈍っていく。
上の光が、もうひどく小さい。
自分はここで沈むのだと、ようやく身体が理解し始めていた。
そうしたら、急に。
何でもないものが脳裏をよぎった。
窓辺に差す朝の光。
読みかけの本。
まだ乾ききっていないインクの匂い。
暖炉の火。
磨かれた手すり。
夜更けにしんと静まり返る廊下。
そんなものだった。
特別な記憶ではない。誰かの顔ですらない。ただ、自分が帰るはずだった場所の輪郭だけが、不意に胸の奥へ浮かび上がった。穏やかで、静かで、くだらないほどありふれたもの。けれど二度と触れられないのだと思った瞬間、それはひどく眩しかった。
帰りたかった。
その思いだけが、遅れて胸を貫いた。
こんな水の底ではなく。
こんな腐った手に掴まれたままではなく。
生きて、どこかへ帰りたかった。
けれど、もう遅い。
視界がまた暗くなる。
身体から力が抜けていく。
抵抗しようとする意志すら、水に溶けて薄れていく。
指先に、もう感覚はほとんどなかった。
それでもレギュラスは最後に一度だけ、動かない手を上へ伸ばそうとした。
届かないとわかっていても。
無駄だとわかっていても。
ただ本能のように、光の方へ。
けれどその腕を、下から伸びた無数の手が掴んだ。
冷たい。
重い。
逃がさないという意思だけが、骨まで染み込んでくる。
身体が、また一段深く沈む。
上から差していたかすかな光が、水の揺らぎの向こうで歪んだ。
遠ざかる。
薄れていく。
世界が閉じていく。
レギュラスは薄れていく意識の中で、ひどく静かに思った。
ああ。
ここで終わるのか。
その瞬間、胸の奥に残っていた最後の熱が、ふっと消えかけた。
誰かが、自分を引き上げている。
その感覚だけが、途切れかけた意識の底にかすかに残った。
腕を掴まれているのか、肩を抱かれているのか、それすらもうよくわからない。ただ、さっきまで確かに自分を湖底へ引き摺り込んでいた力とは逆の方向へ、身体が動いていた。上へ。水面へ。地上へ。沈むためではなく、生かすための力だった。
ひどく乱暴に咳き込みたかった。
肺に入り込んだ水を吐き出したかった。
けれど身体はもう、そういう当たり前の命令すら聞いてくれなかった。
耳の奥で、何かがぶつかる音がした。
ガチャ、ガチャ、と。
小さな瓶がいくつも触れ合うような音だった。
霞む視界の向こうで、誰かが湖へ向かって手を振るっている。
白い指先。
細い手首。
揺れる黒い影。
女だ、とレギュラスは思った。
それだけはわかった。
女で、こんな場所に来られる人間がいるとは思わなかった。しかも一人で。しかも、この湖のそばまで。
女は湖に向かって、何かを撒いていた。
粉末なのか、液体なのかもわからない。ただ、ガラス瓶を次々に開けては、その中身を水面へ叩きつけるみたいに撒いている。瓶同士がぶつかる音だけが、遠く、途切れ途切れに届いた。
何をしているのか理解できない。
あれが何の薬なのかも、どうしてこんな場所でそんなものが効くのかも、まったくわからない。
脳がもう回らなかった。
ただ、その直後。
自分に食らいついていた亡者たちが、一斉に引いた。
ぞっとするほど急だった。
さっきまでどんな呪文を放っても、どれだけ抵抗しても、決して離さなかったものたちが。
腕を、脚を、肩を、首を、執念深く掴み続けていた亡者たちが。
まるで何かを恐れたように、同時に水の底へ後退していく。
驚愕した。
そんなことがあるのか、と思った。
あれだけの執着が、こんなにもあっさりと剥がれるのかと。
けれど驚きすら、もううまく続かなかった。
意識が薄い。
何もかもが遠い。
水面から引き上げられる。
空気に触れる。
冷たい夜気が、濡れた皮膚を刺す。
そこでようやく、自分が地上に戻されたのだとわかった。
途端に、胃の奥から何かが込み上げた。
激しく咳き込み、水を吐き出そうとする。
けれど吐き出しきれない。
喉が焼ける。
肺が引き攣る。
胸の奥が潰れそうに苦しい。
水を飲んだときからわかっていた。あれはただの湖水じゃない。冷たさの奥に、もっと別のものがあった。魔力に触れて、内側から臓器を焼くような、呪いに近い何か。
喉も、肺も。
もっと深いところまで。
魔力を伝って、臓器が焼け切れていく。
自分でもわかった。
色んな器官がもう、働きをやめようとしている。
心臓が拍を乱し、肺が空気を拒み、指先から順番に感覚が消えていく。助かる類の傷ではない。そんなことくらい、レギュラスには理解できた。
「大丈夫ですか」
声がした。
女の声だった。
近い。
震えている。
「お願いです、生きてください」
「どうか……ああ、どうか、死んでしまわないで」
必死に何かを言っている。
でも、もう音が拾えない。
言葉の形だけがかろうじて耳に触れ、意味になる前に崩れていく。
助けようとしてくれている。
それだけはわかった。
どうしてここまでしてくれるのかはわからない。
見ず知らずの男を。
しかも、こんな湖から引き上げたばかりの、半ば死体みたいな男を。
けれど、もう無理だと思った。
自分の身体が終わっていく感覚だけは、嫌になるほど鮮明だった。
火傷したみたいに喉が痛む。
肺がまともに空気を受けつけない。
胸の内側で何かが崩れていく。
血が巡るたびに、呪いが深くなる。
たぶんもう、間に合わない。
ならせめて、とレギュラスは思った。
地上で死ねるのなら、それは幸運なのだと。
あの湖の底で。
誰にも見つからず。
亡者どもに絡みつかれたまま沈み、朽ちていくよりは。
せめて、地上でよかった。
濡れた土の匂いがする。
草が肌に触れている。
夜気が頬を打つ。
苦しい。痛い。息ができない。
それでも、地上だ。
それだけで十分だと思おうとした。
もし可能なら。
自分の遺体は静かに埋めてほしい、とぼんやり思った。
見つかれば、きっと見せしめにされる。
体をぐちゃぐちゃに壊されるだろう。
あの方に逆らった愚かな裏切り者として、誰の目にもわかる形で晒されるかもしれない。
それは避けたかった。
せめて死んだあとくらいは、静かにしてほしい。
父と母の顔が浮かんだ。
もし遺体がブラック家へ戻されたら。
母はきっと、ヒステリックに発狂するだろう。
泣き叫んで、周囲を責めて、何もかも壊すように取り乱す。
父はたぶん、何も言わずに静かに悲しむ。
静かなまま、ひどく深く傷つく。
どちらにも、そんな顔をさせたくなかった。
もう十分だった。
自分が死ぬことで足りるのなら、それで終わりでよかった。
これ以上、自分のせいで誰かが壊れるところなんて見たくない。
女の手が、自分の頬に触れた気がした。
冷たい指だった。
けれど爪先まで震えていて、必死に生へ引き留めようとしているのが伝わった。
申し訳ない、と思った。
礼も言えない。
せっかく助けようとしてくれているのに、その善意に何ひとつ返せない。
名も知らない女に、こんな終わり際を押しつけることになる。
それが、ひどく申し訳なかった。
けれどもう十分だから。
どうか、そこまでしなくていい。
救おうとしなくていい。
そう思った。
意識の底で、そう願った。
知らない女の手を煩わせたくなかったし、これ以上、自分の無様な生への執着を誰かに見せるのも嫌だった。もう終わるのだと受け入れてしまえば、それで楽になれる気がした。
だからレギュラスは、かすかに残っていた力すら手放しかけた。
瞼が落ちる。
視界が閉じていく。
女の輪郭が、夜の闇に溶ける。
それでも最後にひとつだけ、妙に鮮明に残ったのは。
自分を呼び止めるその声が、ひどく必死だったことだった。
ルメール草は、あの湖畔にしか生えない。
だから行くしかなかった。
危険な場所だということは、アランも知っていた。あの湖には近づくなと、幼い頃から何度も言われてきた。岸辺に立つだけでも気味が悪い。水は黒く、昼でも底が見えず、風のない日でさえ妙にざわめいていることがある。あそこにはよくないものが棲んでいるのだと、誰もが知っていて、誰も詳しくは口にしなかった。
それでも、その近くにしか生えない薬草がある。
ルメール草。
強い鎮静作用を持つ、銀がかった細葉の草だ。煎じれば痙攣を鎮め、調合を工夫すれば激しい吐き気も抑えられる。数が要る薬ではないが、必要な時には他で代えが利かない。だからアランは、朝のうちに摘んで、すぐ帰るつもりでいた。
本当に、それだけのつもりだった。
湿った土を踏みしめ、なるべく湖を見ないように岸辺を歩く。風は弱い。空も明るい。普段なら、もっと静かなはずだった。
なのに今日は、違った。
湖がざわついていた。
波立っている、というのとは違う。もっと内側から騒いでいるみたいな、落ち着きのない揺れだった。黒い水面の下で何か大きなものが蠢いているような、不吉なざわめき。見ているだけで背筋が冷たくなる。
アランは足を止めた。
おかしい、と思った。
あんな場所が、ざわざわしているなんて、普段ならありえない。誰も近寄らないような場所なのに。自分でさえ、薬草を摘んだら即帰るつもりだった。長居をする理由なんてない。見ないふりをして引き返すべきだと、頭ではすぐにわかった。
だが次の瞬間。
人が見えた。
黒い水の中に、沈んでいく人影があった。
息を呑む間もなかった。
引き摺られている。
ただ沈んでいるのではない。何かに、下へ、下へと引かれていた。腕がもがく。水面近くで一度だけ浮かびかけた身体が、次の瞬間にはまたずるりと深い方へ持っていかれる。まるで湖そのものが、その人間を呑み込もうとしているみたいだった。
恐ろしい光景だった。
アランはその場に立ち尽くした。
足先が冷える。喉がひゅっと狭くなる。逃げなければ、と本能が叫んだ。
けれど帰れなかった。
こんなものを見てしまって、帰れるはずがない。
人が、目の前で引き摺られて沈んでいった。
その男の指先が、水の中でわずかに動いた。きっと何か呪文を放とうとしたのだろう。助かろうとしたのだ。けれどその手は持ち上がりきらず、光も生まれないまま、その指先ごとまた黒い水に沈んでいく。
アランははっと我に返った。
鞄を開ける。
瓶が指にぶつかって鳴る。焦ってうまく掴めない。落としそうになった小瓶をどうにか引き寄せ、中身を確かめる余裕もないまま栓を抜いた。
湖を鎮静できる薬。
本来なら強い吐き気止めとして使うものだ。内側で暴れ続けるものを抑え込むための処方。水そのものに使うようなものではない。けれど理論の上では、この湖の異様なざわめきにも効くはずだった。あくまで理論上では、というだけで、試したことなんて一度もない。
それでも、もうこれしかなかった。
「どうか……」
祈るみたいに呟いて、アランは薬瓶を水面へ投げた。
小瓶が割れる。
透明な液体が黒い湖に散る。
一瞬だった。
ほんの一瞬だけ、水面が静まった。
ざわざわと内側から騒いでいた気配が、ふっと息を止めたみたいに鎮まる。その瞬間を逃したら終わりだとわかった。アランは裾が濡れるのも構わず岸辺へ踏み込み、沈みかけていた男の腕を掴んだ。
冷たい。
ぞっとするほど冷たい腕だった。
水をたっぷり吸ったローブが重い。身体そのものも大きい。しかも全身から力が抜けきっていて、支えようとしてもまるで形がない。生きている人間を引き上げているというより、濡れた石像を無理やり水から剥がしているみたいだった。
「お願い……っ」
返事はない。
だがまだ離すわけにはいかなかった。
水の底から、また何かが来る気配がした。
さっき一瞬だけ引いたものたちが、もう戻ってこようとしている。
アランは必死に男を引いた。
腕だけでは駄目だ。肩に手を回す。滑る。指がうまくかからない。濡れた布越しに掴んでも重みが逃げていく。足を踏ん張って後ろへ体重をかけるたび、泥が靴の下でぬるりとずれた。
重たい。
水を吸って。
そもそものこの男の重さに加えて。
全身の力が抜けているからこそ、その重たさはさらに増していた。
それでも引くしかない。
腕が震える。肩が抜けそうに痛む。息が上がる。もう少しで手が滑りそうだった。
ようやく、ずるりと男の上半身が岸に上がった。
その瞬間、水面がまた低くざわめく。
戻ってくる、とアランは直感した。
怖かった。あまりにも怖かった。今ここで手を離したら、自分まであの湖に引きずられるかもしれない。そんな想像が頭をよぎる。けれど目の前の男は、もうほとんど動かない。ここで離せば、そのまま終わるのだとわかった。
アランは歯を食いしばり、最後の力で男をさらに引いた。
肩、胸、腰。
重い身体が少しずつ地上へ上がってくる。濡れたローブが地面を擦り、泥と草を巻き込みながら、ようやく完全に湖から引き離された。
そこで初めて、アランは大きく息を吸った。
膝が震えている。
心臓がうるさいほど鳴っている。
けれど休んでいる暇はなかった。
男はぐったりと横たわったまま、まるで死体のように動かない。
黒い髪が水を含んで額に張りつき、長い睫毛の先から雫が落ちる。血の気のない顔はひどく整っていて、その美しさがかえって生気のなさを際立たせていた。年若い。まだほんの青年だ。こんな場所で沈んでいいような顔ではなかった。
だがその唇は青く、呼吸はほとんど見えない。
「……しっかりしてください」
アランは膝をつき、震える手で男の肩に触れた。
冷たすぎる。
濡れた布越しでもわかるほど、体温が落ちていた。
生きているのか。
間に合ったのか。
それすらまだわからない。
けれど、ここまでしておいて見捨てることなどできなかった。
アランは息を整えながら、持ってきた薬瓶の位置を頭の中で確かめた。何が使える。どれなら今すぐ使える。吐き気止め、鎮静、呼吸補助、保温のための簡易薬。足りないものだらけだ。それでもやるしかない。
湖の方を振り返る。
黒い水面は、また何事もなかったみたいに静まっていた。
けれどさっき見たものを、見間違いだったとは到底思えない。
あの場所から、この男を連れ帰らなければならない。
アランはもう一度男を見下ろした。
こんな重たい人を、一人で。
しかもこの状態で。
無茶だとわかっている。
それでも。
「あなた、死なないでください」
答えはない。
ただ濡れた睫毛が微かに震えたように見えて、アランはそれだけを頼りに、男の身体を支えるため再び手を伸ばした。
目が覚めたとき、最初に見えたのは天井だった。
木の天井だった。
黒く磨き上げられた装飾も、重たく垂れ下がる天蓋もない。ただ組まれた木材がそのまま見えている、低く、素朴な天井。ぼんやりと視線を動かしても、見慣れたブラック家の寝室とは何もかも違った。
生きている、のかとレギュラスは思った。
まさかもう一度目覚めるとは思っていなかった。
あの湖から引き上げられたあと、地上で死ねるならそれで十分だとさえ思ったのに。喉も肺も、内臓までも焼き切れていくのを自分で感じていた。助かるはずがないと、あの時たしかにそう思った。
なのに天井がある。
木の匂いがする。
どこかで小さく火が鳴る音がする。
生きている。
その事実が、ひどく鈍く胸の奥へ落ちていった。
全身が軋むように痛んだ。
指先から胸の奥まで、どこもかしこもまともではない。少し息を吸うだけで肋骨の内側まできしむ。喉はまだ焼けたままで、乾き切っているのに、水を欲しがることすら怖かった。唇も乾いて裂けていた。わずかに口を動かしただけで、皮膚がぱきりと割れて痛む。
「気づいてくれたんですね、よかったです」
声がした。
やわらかい女の声だった。
聞き覚えがある。水の中から遠く聞いた、あの声だ。
レギュラスは痛む首をわずかに動かした。
女がいた。
今度ははっきり見えた。
翡翠の瞳が、最初に目に入った。光を含むと深く色を変える石みたいな目だった。黒い髪が肩のあたりで静かに揺れる。若い。思っていたよりずっと若い。細くて、白くて、どこか頼りなさげですらある。少なくとも、湖から男を引きずり上げるようなことに長けた人間には見えなかった。
この女が、自分を。
そう思うと、驚きより先に奇妙な感覚が来た。
あの場所の恐ろしさを知らないわけがない。
ましてあんな光景を見て、普通の人間なら逃げる。
なのにこの女は近づき、自分を引き上げ、生かした。
何者だ、と思った。
まず礼を言わなければならない。
そう思って唇を動かす。
だが言葉は喉を通らなかった。空気が掠れただけで、声にならない。裂けた唇にまた痛みが走って、レギュラスは思わず眉を寄せた。
「まだ話せないと思います」
女はすぐにそう言った。
責めるでもなく、宥めるような口調だった。
「喉の粘膜が焼け爛れていました。粘膜の修復には、少し時間がかかるんです」
焼け爛れていた。
その言葉に、レギュラスは内心で苦く笑いそうになった。
ああ、やはりただの水ではなかったのだと改めて思う。あの湖は、やはり人を殺すための場所だった。
かろうじて、頷く。
動くだけで疲れる。
それでも寝たままというのは耐えがたく、レギュラスは起き上がろうとした。
身体に力を入れる。
だがすぐに限界が来た。腕が支えられない。腹に力が入らない。わずかに肩を浮かせただけでベッドがぎしりと軋み、その振動がそのまま痛みに変わって全身を走る。
狭い、と思った。
ベッドそのものがブラック家のものよりずっと小さい。部屋も広くないのだろう。身体を少し動かしただけで、どこか窮屈だった。
「まだ無理をしないでください」
女が言う。
「内臓の回復も時間がかかります」
内臓。
そこまで言われれば、さすがに起き上がれない理由は理解できた。理解はできる。だが納得とは別だった。こんなふうに、自力で身体も起こせないというのは屈辱だった。自分の生死を自分で決められず、ただ寝かされ、治される側に回っている。
しかも、見知らぬ女に。
レギュラスは呼吸を浅く整えながら、もう一度彼女を見た。
あまりにも善意だった。
それがむしろ恐ろしくもある。
見返りを求めない人間は、時にもっとも読めない。何を知っているのか。どこまで見たのか。自分が何者か、この女は知っているのか。あの湖に沈みかけていた男を拾ったことが、どれほど危ういことか理解しているのか。
問いたいことはいくらでもあった。
だが声は出ない。
そして何より。
今、自分の生殺与奪の権はこの女の手の中にある。
そう思った。
水を与えるかどうか。
薬を盛るかどうか。
匿うか、突き出すか。
生かすか、見捨てるか。
全部、この女次第だ。
それは本来なら、ひどく不快なことのはずだった。誰かに命を預けるなど、冗談ではない。まして相手の正体もわからないのに。恐れるべき状況だと、頭は冷静にそう告げていた。
なのに。
どこか安心している自分がいることに、レギュラスは気づいた。
もう何も考えなくていいような気がした。
自分で立たなくてもいい。
戦わなくてもいい。
判断しなくてもいい。
この女が、自分を生かそうとしている。その事実だけに、ひどく静かな安堵があった。
疲れているのだ、とレギュラスは思った。
それくらいでなければ説明がつかない。
女はそんな彼の視線に気づいたのか、少しだけ困ったように微笑んだ。
「そんなに警戒しなくて大丈夫です」
その言葉に、レギュラスは内心で皮肉に眉をひそめる。
警戒するなと言われて警戒を解けるほど、愚かではない。
けれど同時に、その声音には押しつけがなさすぎて、逆に刺が抜かれるようでもあった。
「ここは安全です。少なくとも、あなたが眠っている間に誰かを呼んだりはしていません」
そこまで聞いて、レギュラスの目がわずかに細くなる。
やはり、ある程度は理解しているのだ。
自分が人に見つかって困る立場であることを。
女はその反応を見て、小さく息をついた。
「名前も、まだ聞きません。事情も」
「今はとにかく、生きていてください」
ひどく静かな言い方だった。
生きていてください。
その言葉が、妙に胸の奥へ沈んだ。
レギュラスは目を閉じかけ、また開く。
喉が痛む。
全身が痛む。
息をするだけで疲れる。
それでも、確かに生きていた。
助けられたのだ、この女に。
礼も言えないまま。
名前も知らないまま。
ただ無様に、命だけを拾われた。
屈辱のはずなのに。
惨めなはずなのに。
なぜかその事実は、彼の中に奇妙なぬくもりを残していた。
女が水差しに手を伸ばし、濡らした布でそっと彼の唇の端を湿らせる。
ひび割れた皮膚に沁みて痛い。だがそれすら、今は現実の感触として心地よかった。
レギュラスは声にならないまま、わずかに目を伏せた。
こんなふうに誰かの善意の中で横たわることなど、自分の人生にはないと思っていた。だからこそ落ち着かない。落ち着かないのに、その落ち着かなさごと、深く沈むように身を預けてしまいそうだった。
損傷した内臓と、焼け爛れた粘膜とでは、どちらが先に回復していくだろうか。
アランは寝台の脇に立ちながら、静かに男の寝顔を見下ろした。
喉も肺も深く傷んでいる。けれどそれだけではない。あの湖の水は、飲んだだけで終わる代物ではなかった。魔力を帯びた異常な水が、喉を通って内側へ入り込み、臓器の内側まで炎症を広げている。目に見えない分、そちらの方が厄介だった。
食事なんて、とてもできる状態ではない。
だから寝ている間に、栄養だけは腕から入れていた。高濃度の栄養剤を薄く魔力で巡らせ、体が拒絶しにくいよう少しずつ流す。応急処置としては上々だが、いつまでもこれだけでは足りない。炎症を抑え、少しでも身体そのものが回復へ向かわなければ、先はない。
アランは薬を小さな器で溶かし、慎重に混ぜた。
強すぎてはいけない。
けれど弱すぎても意味がない。
匙の先で最後にひと混ぜしてから、ベッドサイドの小さなテーブルにコップを置く。ちょうどその頃、寝台の上の男がわずかに目を開けた。
「薬を、自力で飲めますか」
そう声をかけると、銀色の目がゆっくりとこちらを向いた。
まだ焦点が定まりきらないような、熱に浮かされた目だった。それでも意識はあるらしい。
アランはそっと寝台の縁に腰を寄せ、起き上がろうとする彼の背に手を回した。
重い。
前よりは少しましになったとはいえ、力の入らない大人の身体は、少し支えるだけでも重かった。肩甲骨の下に腕を差し入れ、沈み込まないよう背中を支える。そうしなければ、そのまままたシーツへ倒れ込んでしまいそうだった。
「……うっ…………」
男が何か言おうとした。
だが言葉にはならない。
喉の奥で砕けた呻きが漏れ、息に混じって消えていく。痛みのせいか、焦りのせいか、その声は聞いているだけで胸が詰まるような苦しさを帯びていた。
「無理に話さなくて大丈夫です」
アランは背中を支える手に少しだけ力を込め、なるべく安心させるようゆっくり言った。
「炎症を抑える薬です。内臓の炎症にも、粘膜の損傷にも効きます」
男は力なく、けれど確かに頷いた。
その小さな反応に、アランはほっと息をついた。
信用してくれているのだと思った。
害するつもりなんてない。
ただ、生きてほしい。それだけだ。
そのために、自分は魔法薬を専攻して学んだ。
そのために、難しい勉強も、眠れない実習も、何度も挫けそうになる試験も耐えて、ヒーラー資格だって取ったのだ。
目の前で苦しんでいる人を前にして、何もできないままでいたくなかった。
アランはコップを取り、彼の前へ差し出した。
途端に。
男の身体が目に見えて震えた。
びくり、と大きく肩が跳ねる。
その目が、コップの中の水に吸い寄せられるように向けられた次の瞬間、まるで反射みたいにその手が動いた。
ぱし、と弾かれる。
アランの手から離れたガラスのコップは、そのまま床に落ちて砕け散った。
鋭い音が、小さな部屋に響く。
「……っ」
男の呼吸が一気に荒くなった。
肩が大きく上下している。
喉はまともに使えないはずなのに、それでも息だけが苦しげに漏れていた。震えている。青ざめた顔のまま、目だけがひどく見開かれている。苦しそうで、それ以上に、恐れているようだった。
アランははっとした。
理解した。
水は、だめなのだ。
あの湖の揺れを、思い出させるのかもしれない。
黒くざわめく水面。
引き摺られ、沈み、飲まされ、喉も肺も焼かれた場所。
死に限りなく近いところまで連れていかれた人なのだ。
死に引きずられる恐怖を、全身で味わった人なのだ。
そんな人に対して、自分はあまりにも無神経だった。
「ごめんなさい」
アランはすぐにそう言った。
砕けたガラスより、彼の呼吸の方が気になった。
「私が無神経でした。ごめんなさい」
男はまだ肩で息をしていた。
何かを言おうとしても、喉がそれを許さない。ただ指先がかすかに震え、逃げるようにシーツを掴んでいる。
アランは急いで立ち上がり、棚の上を見回した。
透明でないもの。
水面が見えないもの。
すぐに、普段自分が使っているマグカップが目に留まった。淡い乳白色の釉薬がかかった、外から中の様子が見えないものだ。アランはそれを取り、水を入れたあと、飲み口だけが少し空く蓋をそっと載せた。
水面の揺れが目に入らないように。
水そのものを、できるだけ思い出させないように。
それを両手で持って、寝台のそばへ戻る。
「これでなら、どうでしょうか」
なるべく穏やかに言って、差し出す。
男はすぐには手を出さなかった。
けれど数秒ののち、まだ震える指先で、そっとそれを受け取ってくれた。
そのとき初めて、アランも胸の奥で張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
「大丈夫です。ゆっくりで」
肩で息をするその肩に、アランはそっと手を添えた。
骨ばった感触の向こうで、濡れた羽毛みたいに細かい震えがまだ残っている。
時々、背中をさする。
呼吸を整えるように。
焦らなくていいと伝えるように。
男は蓋つきの飲み口に口を寄せ、少しだけ水を含んだ。喉が焼けているせいか、そのわずかな量でもひどく慎重になる。飲み込んだあと、目を閉じて、痛みに耐えるように呼吸を止めた。
けれど拒絶はしなかった。
アランはその様子を見ながら、薬の器を手に取った。
「少しずつでいいです」
「急ぐとつらいですから」
そう言って薬を差し出すと、男は苦しげながらも再び頷く。
飲もうとしている。
生きようとしている。
それだけで、アランの胸は熱くなった。
ほんの少し前まで、この人は湖の底へ沈みかけていたのだ。諦めてしまってもおかしくないほど壊れているのに、それでも今、震える手でカップを持っている。水を拒んだことさえ、弱さではなかった。あれはきっと、身体に深く刻まれた恐怖そのものだ。それでも彼は、戻ってきている。
アランは背中を支えたまま、ふと思いついたように小さく言った。
「これは、じゃあ……あなたのマグカップにしましょう」
男の銀の目が、ゆっくりとこちらを向いた。
「透明なコップは、もう使いません。これを、あなた専用にします」
声はやわらかく、けれど半分は自分に言い聞かせるみたいでもあった。
もう二度と、同じ怖がらせ方はしないように。
男は何も言えない。
ただその目が、ほんのわずかに揺れた。
アランはその反応を深追いせず、ただ背中をさすり続けた。
「だから安心してください」
返事はない。
けれどその肩の震えは、さっきより少しだけ小さくなっていた。
小さな部屋には、火のはぜる音と、荒いながらも確かに続いている彼の呼吸だけが満ちていた。
砕けたガラス片は床に散ったままだったが、今はそれを片づけるより先に、この人を落ち着かせる方が大切だった。
アランは寝台のそばから離れず、まるで壊れものを扱うみたいに慎重に、彼が薬を飲みきるのを見守った。
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