1章
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唇が離れた瞬間の温度が、まだそこに残っている気がした。
物置小屋の薄暗さ。埃の匂い。息の白さ。
そして、思いがけず重なった唇の柔らかさ。
今度はちゃんとと自分で言ってしまった声の震えまで、耳の奥に残っている。
唇が重なった瞬間、心がひどくほどけてしまった。
ほどけた心は、勝手に過去へと引きずられていく。
自由だった。
自由に、彼とあの美しい大地を駆け巡った。
馬の背に後ろから抱かれて、夕陽を追いかけるように走るのが好きだった。
風が髪をほどき、彼の胸の温度が背中に伝わってくる。
手綱を握る彼の腕の力強さに、安心して身を預けられた。
大きな木に登って、休める場所を探した。
高い枝の上で、二人だけの影になって、上空から見るこの大地の美しさを語るのが好きだった。
緑の濃淡。川の光。鳥の群れ。
彼が「ここに生まれて良かった」と笑うたび、自分も同じ気持ちになれた。
崖の上から見下ろす海の深さが好きだった。
怖いのに、怖いからこそ――生きていると感じた。
潮の匂いが濃く、波の音が胸の奥まで響く。
その隣に彼がいてくれれば、何も恐くなかった。
草の上に寝転んで、一緒に見上げる満開の星空が好きだった。
星はいつもそこにあって、祈りはいつも届いて、
明日も続くと信じられた。
父と母が、自分を愛して守りの呪文を授けてくれたように。
エルヤとの間に生まれた子供にも同じように、この守りを注いでいくつもりだった。守るという言葉が、未来を作る言葉だった頃。
守ることが、誇りだった頃。
――それが今は。
触れたいのに触れられない。
部屋には入るなと言われた。
夜に彼の体温に寄り添うことすら、禁じられた。
当たり前に許されていたものが、罪になる。
それなのに、あの日。
思いがけず重なった唇のせいで。
心が、欲に手を伸ばしてしまう。
もっと欲しい。
もっと触れてほしい。
もっと求めてほしい。
求められることが許されていた頃に戻りたい。
求めることが罪でなかった頃に戻りたい。
気づけばずっと、エルヤを目で追っていた。
覚えのいい彼は、どんどんこの国の言葉も流暢になっていく。
所作も整っていく。
礼儀を覚え、頭の下げ方を覚え、声の抑え方を覚え、目線の置き方まで変わっていく。
それが生き延びるための術だと分かっているのに。
分かっているのに、胸が痛い。
作法というものが入り込んだ彼よりも。
英国式の凛とした黒の衣装に包まれた彼よりも。
故郷の衣装を着て、イェルスの優しい言葉を話す彼の方が好きだった。
日差しを浴びて笑い、汗を拭って、土の匂いのまま抱き寄せてくれた彼が――好きだった。
エルヤの細くて長い指が作業に動かされるたびに、目で追っていく。
あの指は優しく触れてくれる。
色んな熱を与えてくれる。
何度も溺れて沈んで、最後は引き上げてくれる。
目が合いそうになって、慌てて逸らす。
恥ずかしくて顔が熱くなる。
一体、何を考えているのか自分は。
何てはしたないことを考えているのか。
ここはブラック家の屋敷。
秩序のど真ん中。
監視の目がある。
エルヤの腕には紋様が刻まれている。
逆らえば死が来る。
自分が望むような触れ合いは、彼に危険を呼ぶ。
それでも心は勝手に言う。
彼の熱に包まれたい。
包まれるだけでなく、こちらの全てを暴いてさらって、引き摺り出して掻き回して、甘いもので満たしてほしい。
それを望む自分が怖い。
望んでしまうほどに弱くなっている自分が、悔しい。
「アラン、どうした?」
不意にエルヤの声が落ちる。
心臓が跳ねた。
見られていたのかと思って、さらに顔が熱くなる。
「……何でもない」
言葉はすぐ出た。
反射みたいに。
何でもないは、この屋敷で身につけた嘘だ。
エルヤは少しだけ首を傾げる。
その仕草が、昔と変わらなくて。
胸がきゅっと縮む。
「本当に?」
「……本当」
嘘だ。
本当は触れてほしい。
本当は彼の腕に戻りたい。
本当は――あの頃みたいに、当たり前に求めて、当たり前に求められたい。
けれど言えない。
言った瞬間、崩れてしまうから。
恥ずかしくて、情けなくて、そして――怖い。
エルヤが一歩近づきかけて、すぐに止まる。
止まったのは、きっと紋様のせいだ。
止まったのは、監視の目のせいだ。
止まったのは、あの男の秩序のせいだ。
その止まるが痛くて、アランは笑いそうになる。
泣きそうにもなる。
自由だった頃の自分は、こんな風に欲を恥じたりしなかった。
欲は生きることと同じだった。
触れたいと思うことは、悪ではなかった。
なのに今は、欲があることすら罪みたいに感じる。
アランは視線を落とし、指先を握りしめた。
胸の奥で燃えているものを、誰にも見せないように。
――何でもない。
そう繰り返しながら。
本当は、何でもあるのに。
揺らぎは、音を立てない。
だからこそ、気づいた瞬間に腹の底を冷やす。
静かに侵食して、こちらの整えた秩序の隙間から入り込む。
そして気づけば、中心にまで手が届いている。
レギュラスは最初に、エルヤ・ナイームの焦りに気づいた。
目線の走り方、呼吸の浅さ、無駄に整った礼儀の裏側に残る獣のような衝動。
釘は刺した。次はないと告げた。
あの腕の紋様が、言葉以上の意味を持つことも理解させた。
彼は従う。従わなければ死ぬ。
――だから、あの男の揺らぎなど、制御の範囲だと思っていた。
けれど、違った。
本当に不快だったのは、エルヤではない。
アランだ。
自分の方に転がりかけていた実感があった。
会話の間が柔らかくなり、警戒の棘が鈍り、質問の返しが増えた。
夜に呼べば、怯えながらも隣へ座り、グラスを拒む仕草さえどこか幼く見えた。
あの翡翠の瞳に、こちらの言葉が届き始めている――そう思っていた。
なのに。
食卓で。廊下で。作業の場で。
アランがエルヤを見る目が、こっちの方が羞恥心を抱かされるほどに熱を帯びている。
気づいていないつもりなのだろう。
自分では「隠している」と思っている。
だから視線をそっと滑らせ、相手の指先を追って、何事もない顔をしようとする。
けれど、その必死さが――逆に露骨だった。
彼女は、エルヤの手を見ている。
細い指が布に触れるたび、何かを整えるたび、糸を結ぶたび。
その一つ一つに、過去の温度を重ねている。
触れられない分、目で触れている。
そして、気づかれそうになって目を逸らす。
頬が赤くなる。
息が一瞬だけ乱れる。
それを恥だと思っている顔が、余計に生々しい。
鼻で笑いそうになった。
この高貴な屋敷で。
自分の敷いた秩序の中で。
こんなにも薄ら汚い男女の性の熱を見せられようなんて。
吐き気がするにも程がある。
――半分手に入れたようなものだと思っていたところ、これだ。
苛立ちは溢れかえりそうになる。
彼女は、こちらの言葉に頷くようになった。
こちらの問いに答えることに慣れた。
香辛料の強い料理を避けようかと言えば、無理をしなくていいと言えば、そこに“優しさを見出しかけている。
それが、こちらの思惑通りだったはずなのに。
それなのに、結局――彼女の熱は、あの男に向いている。
支えだの誓いだの、くだらない。
誓いが何を守る?
秩序と権力の前で、誓いは紙切れだ。
それを証明するために、彼女をここへ置いたのに。
それでも彼女は、まだ昔の熱を抱えている。
抱えたまま、こちらに近づいてくる。
近づきながら、あの男を目で追っている。
その矛盾が、ひどく不愉快だった。
レギュラスは、自分の中で何かがきしむ音を聞いた。
静かな嫉妬。
ただの支配欲ではない、もっと不格好で、認めたくない感情。
翡翠の瞳が他人の熱を宿すことへの――許し難さ。
奪えなかったものは今までになかった
そう思ってきた。
人も、国も、命も。
けれど今、奪うべきものが明確になる。
それは彼女の力でも血でもない。
――彼女が誰を見て熱を帯びるか、だ。
レギュラスはゆっくりとグラスを持ち上げ、口をつけた。
赤い液体が喉を滑る。
熱はない。
味もない。
ただ、決意だけが静かに固まっていく。
あの男には釘を刺した。
次はない。
だから次に切り分けるべきは、アランの揺らぎだ。
揺らいだなら、正す。
秩序の中で起きた歪みは、秩序で直す。
彼女の視線があの男を追うのなら。
追えないようにすればいい。
触れられないようにするのでは足りない。
思い出せないようにすればいい。
それができるのが、ブラック家の権力だ。
この屋敷の秩序だ。
そして――自分だ。
レギュラスは微笑んだ。
柔らかく、丁寧に。
逃げ道を塞ぐ微笑み。
苛立ちが溢れそうなのに、声は静かだった。
――この熱も、いずれこちらへ向けさせる。
彼女が恥じるほどの熱なら、なおさら。
それを向ける相手を、選べるのは僕だ。
夜、レギュラスと話すことは、もはや習慣になっていた。
呼ばれる。
扉を叩く。
許可を待って入る。
その一連の動きに、身体が先に慣れてしまっているのが怖い。
色んな話をした。
恐ろしい人なのに。独裁的で、平気で命を代償にしてしまう人なのに。
時折、優しく答えてくれる。
ふっと笑う顔が、ほんの一瞬だけ幼く見える気がして、視線の置き場に困る。
近づけば傷つく。
近づけば奪われる。
そう分かっているのに――言葉を交わす時間が増えるほど、心の中の警戒が疲れるようになっていった。
疲れた瞬間、隙ができる。
その隙が怖い。
その日もいつも通り呼ばれたはずだった。
なのに、部屋に足を踏み入れた瞬間から、空気が違った。
レギュラスはいつもよりよく笑っていた。
声を出して。口を開けて。
普段の彼から想像もつかない柔らかさで。
まるで、別人みたいだった。
ソファに座る姿はいつも通り整っているのに、表情だけがほどけている。
銀色の瞳が、冷たくない。
――冷たいはずなのに。
人の命を平気で犠牲の一つに変えられる残酷さを持っているのに。
その口が、声が、笑っている。
アランは戸惑って、思わず口にしてしまった。
「……今日は、よく笑うんですね」
レギュラスはグラスを軽く揺らしながら、あっさり言った。
「ええ。気分がいいので」
その一言が、妙に怖かった。
気分がいいから笑う――それは当たり前のことなのに、彼が言うと気分がいいの基準が分からなくなる。
誰かが死んだからか。誰かが屈したからか。国が落ちたからか。
それとも、本当にただ、酒のせいなのか。
目線を落とすと、彼の手の中の薄いグラスの赤が揺れている。
血のような色。
けれどもう、あの赤に最初ほど怯えない自分がいる。
彼の飲む酒が、そうさせているのだろうと分かった。
酒の力を借りてそうなっているのだとしても――こんな風にずっと笑っていられる人ならいいのに、と思ってしまった。
軍の配置を考えたり、他国の侵略や統治や支配を考えることなく。
些細なことを話して、笑っていられるほうが幸せになれるはずなのに。
なぜ、そうしないのだろう。
なぜ、わざわざ残酷でいるのだろう。
その答えは分かっている。
彼はそういう人だからだ。
けれど、目の前の笑顔は、それを一瞬だけ曖昧にする。
「あなたは……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。
あなたも疲れるんですか。あなたも寂しいんですか。
そんなことを聞くのは、愚かだ。
答えを受け取る資格なんて自分にはない。
レギュラスはその沈黙を、責めるようには見なかった。
むしろ楽しそうに、話題を変えるように言った。
「今日は、あなたの国の話をもう少し聞かせてください」
彼はよく、イェルスの言い伝えや物語、祭祀、食べ物の話を好んで聞いてくる。
まるで宝物を眺めるみたいに。
壊すために眺めるのか、集めるために眺めるのか――それすら分からない。
「何が知りたいんですか」
できるだけ平坦に返す。
ここで浮かれたくない。
彼の笑顔に引っ張られたくない。
レギュラスは顎に指を添え、少しだけ考えるふりをしてから言った。
「そうですね……あなたたちの名前の話でも」
「名前?」
「ええ。真名とは別の――日常の名です。
あなたたちは、子どもにどうやって名を授けるんです?」
胸が一瞬ひやりとした。
真名、と彼が口にしただけで、心臓が縮む。
けれど彼はそこには踏み込まず、あくまで日常の名と言った。
針先のような距離感。
刺してこないように見せながら、皮膚のすぐ近くをなぞる。
アランは慎重に言葉を選ぶ。
「……生まれてすぐには、名は与えません。
最初は呼び名だけです。
泣き声や、目の光の強さや、抱いたときの温度で、呼びやすい言葉を決めて……それで呼びます」
「温度で」
レギュラスは面白そうに繰り返す。
「ええ。赤子って……熱いんです。
命があるって、そういう熱で分かる。
それが落ち着くまで、名を急がないんです」
レギュラスはしばらく黙り、そして、妙に柔らかく笑った。
「いい国ですね。……僕の国とは、随分違う」
その言い方が、胸に刺さった。
僕の国という言葉に、彼の誇りと支配が詰まっているはずなのに、今はどこか寂しさみたいに聞こえる。
は慌てて、話を逸らすように続ける。
「名を授ける時は、夜にします。
星がよく見える日に。
家族が集まって、火を焚いて……大地の神に、この子を見守ってくださいって」
「祈りですか」
レギュラスは口元だけ笑って、意地悪く言う。
「神が忙しそうですね。
毎晩あちこちで赤子が生まれるなら、休む暇もない」
冷たい返し。
残酷な返し。
いつもの彼の棘。
けれど――表情は柔らかいままだった。
声の温度も、温もりがある。
冷たい言葉を、温かい声で言う。
その矛盾が、こちらの足場を奪う。
アランは戸惑いながらも、思わず小さく言い返してしまう。
「忙しくても……見てくれるんです。
祈りがあるから、見守られるんです」
「信じてるんですね」
「信じます。……信じないと、あの土地では生きられません」
本当だ。
信じることで、恐怖を越えてきた。
信じることで、守りを渡してきた。
信じることで、愛を形にしてきた。
レギュラスはグラスを口に運び、赤い液体を喉へ落とす。
その仕草がやけにゆっくりで、視線がそこに吸い寄せられる。
「では、祭祀の話をもう一つ」
「……祭祀は、たくさんあります」
「たくさんの中から、あなたが一番好きだったものを」
好きだったもの。
思い出すだけで胸が痛む。
けれど、言ってしまう。
「……声を返す祭りがありました」
レギュラスの眉がわずかに動く。
「声を返す?」
「冬の終わりに。
皆で一日、誰も声を出さないんです。
歌も、笑い声も、怒鳴り声も。
その代わり、指先で印を結んで……想いだけを渡す」
「面倒ですね」
また冷たい返し。
けれど、彼は笑っている。
「でも最後に、夜になったら……一斉に声を出すんです。
祈りの言葉を、歌を。
一年分の声を神に返して、また新しい声をもらうって」
言い終えた瞬間、胸の奥がひゅっと痛んだ。
自分は今、声を奪われていない。
けれど自由に声を出せない。
この屋敷で、声は武器になる。
声は弱みになる。
声は支配される。
レギュラスはその痛みを見抜いたのか、ふっと笑みを薄くした。
「……あなたの国の声は、綺麗ですね」
その一言が、熱い刃みたいだった。
優しいのに、刺さる。
褒められたのに、奪われる気がする。
アランは視線を落とした。
何が本物なのか分からなくなる。
冷たい言葉。
温かい声。
柔らかい笑顔。
残酷な過去。
そして、今ここで、こんなふうに話している現実。
距離感が、一気に変わった気がした。
彼が近づいたのか。
自分が近づいたのか。
それすら分からない。
レギュラスは軽く息を吐き、また笑った。
今夜の彼は、まるで楽しそうに“人”をしている。
「まだ時間はあります。
他にも聞かせてください。……あなたの好きだったことを」
アランの胸が、嫌にざわつく。
好きだったこと、という言葉が――あまりにも危険だった。
好きだったことを話すほど、心が柔らかくなる。
心が柔らかくなれば、奪われやすくなる。
分かっている。
分かっているのに。
アランは小さく息を吸って、ゆっくり言葉を探した。
拒めない自分が、怖かった。
話しているうちに、だんだん瞼が重くなってきた。
眠気は、油断を連れてくる。
油断は、この屋敷では致命傷になる。
分かっているのに――夜更けの柔らかい灯りと、酒の匂いと、彼の今日の笑い声が、身体の緊張をほどいていった。
レギュラスはグラスを置き、ふいにこちらへ身を寄せてくる。
近い。
いつもより、近い。
エルヤとは違う種類の美しさが、目の前に満ちた。
夜空のように澄み切って、冷たいはずなのに、光を吸い込むような顔。
銀色の瞳が、近づくほどに恐ろしくなる。
本能が一歩下がれと叫ぶ。
けれど睡魔が降りかかっているせいか、反応が遅れた。
警戒して身を引くまでの僅かな間が――致命傷だった。
くちびるが重なる。
息が止まった。
驚きで身体が固まる前に、口の中に甘い酸味が広がった。
飲んだこともない酒の味。
真っ赤な色をしているのに、血の味とはかけ離れている。
果実のような匂いと、喉の奥を熱くする刺激。
それが、不自然に生々しくて、嫌なのに、嫌だと声にできない。
くちびるが離れると、レギュラス・ブラックは笑っていた。
まるで、彼女の反応を待っていたみたいに。
まるで、恐怖も屈辱も、可愛らしいものを見たように。
アランは何も言えなかった。
言葉が喉で絡まり、音にならない。
手のひらだけが冷たくなる。
「アラン。あなたはよく神の話をしますね」
言葉だけは柔らかい。
けれどそれは、逃げ道を塞ぐ柔らかさだ。
優しさのように聞こえる形で、首輪を締める。
当然だった。
イェルスと神は切っても切り離せない。
祭祀も食事も、習慣も掟も。
生きることのすべてに神が絡んでいる。
イェルスは神が与えてくれた楽園だと信じてきたのだから。
「ここでは」
レギュラスは少しだけ声を落とす。
親密さを装うように。
「僕を神だと思っていいです」
あまりにも平然と言い切るから、背筋が寒くなるのに。
同時に、どこか納得させられてしまう感覚があるのが恐ろしい。
この屋敷で、命令が絶対で、秩序が絶対で、拒めないのなら――確かに彼は神に近い。
だからこそ、アランは笑ってしまった。
笑うつもりなんてなかったのに。
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
「……人が、神の名を名乗るんですか」
震えた声。
けれど笑ってしまったせいで、反抗とも嘲りとも取れる。
レギュラスは怒らなかった。
むしろ、面白そうに目を細めた。
「ええ。恐れ多いですか?」
その問いは、罠だった。
恐れ多いと言えば、屈する。
屈さないと言えば、神を否定する。
どちらに転んでも、彼の手の上だ。
アランは答えられず、視線を逸らす。
逸らした先に、彼の手がある。
長い指。整った爪。
その指で、命を犠牲に選ばせた。
その指で、印を刻ませた。
その指が、今、こちらの頬に触れそうな距離にある。
「ねぇ、アラン」
呼び方が甘い。
甘さが、逆に怖い。
「僕を愛したら、あなたは必ず幸せになれますよ」
言い切る強さが、どこまでもこの男らしかった。
迷いがない。
自分が与えるものが絶対だと思っている。
だからこそ、確信してしまう。
自分の望む愛と、彼が与えられる愛という名のものは、どこまで行っても交わらない。
慈しみで守る愛と、支配で抱え込む愛。
温度が違う。根が違う。
同じ言葉を使っているだけで、別物だ。
それなのに。
また、くちびるが重なる。
今度は逃げる間がない。
顎を捉えられ、静かに角度を変えられる。
口の中へ、酒の味が流し込まれる。
知りたくもない、甘く酸っぱい熱が、呼吸を奪っていく。
アランは瞼を閉じた。
閉じたほうが楽だった。
見てしまえば、銀色の瞳に飲まれてしまう気がしたから。
レギュラスは唇を離さないまま、囁く。
「僕は莫大な富を与えてあげられます。
誰もがあなたに跪く権力だってあげます。
あなたが望むなら国だって手に入る。
欲しいものはすべて、あなたの手の中に収まりますよ」
与えようとしてくれるものが、どれも恐ろしいものばかりだった。
そのどれも、欲しいと思えない。
富はいらない。
ささやかな幸せがあればいい。
同じ火を囲んで、同じ星を見上げて、同じ祈りを口にできればいい。
跪かせる権力が欲しいわけではない。
イェルスでは王も姫も関係なく、神のもとに平等だった。
人が人の上に立つことに価値を置かなかった。
国は手に入れるものではない。
互いの文化を尊重し合い、国としてあり続けるべきで、侵略して潰してしまうものではない。
守るべきものを、奪うことで得たくない。
なのに、この男はそれを幸せだと言う。
そのズレが、恐ろしくて仕方がない。
恐ろしい男なのに。
唇に触れてくる熱が、エルヤのものに――どこか似ている気がして、アランは混乱した。
同じ熱。
同じ柔らかさ。
同じ息づかい。
皆、誰も、同じように口付けをするのだろうか。
経験なんて、彼としかない。
他を知らない。
比べられない。
だから余計に怖い。
違いが分からないまま、熱だけが身体に残る。
熱は、思考より先に心を揺らす。
心が揺れれば、境界が曖昧になる。
曖昧になれば――奪われる。
アランは唇を噛み、震える息を飲み込んだ。
酒の甘さがまだ舌に残っている。
その甘さが、どこまでも不快で。
どこまでも――忘れがたい。
「……私は」
言葉を探そうとして、声が掠れた。
拒絶を言いたいのに、拒絶の形にできない。
この屋敷では、拒絶は罰を呼ぶから。
恐怖が、言葉の喉元で止まる。
レギュラスはそんなアランを、満足そうに見つめていた。
追い詰めて、動けなくして、息を乱させて――
それでもなお「優しく」笑える男。
その笑顔のせいで、アランは自分がどこに立っているのか分からなくなりそうだった。
口付けながら、レギュラスは確信していた。
自分は――見たこともない世界を与えてやれる。
エルヤ・ナイームでは届かない場所へ、アランを置ける。
そのための富も、権力も、秩序も、すでにこの手の中にある。
彼女が言い伝えを語るたび、祭祀を語るたび、星と神の名を口にするたび、
その“世界”が小さく見えるわけではない。
ただ、脆い。
外側からの暴力に弱いという意味ではない。
内側から溶ける――欲や恐怖や寂しさに、簡単に揺らぐ。
揺らぐなら、落ちる。
落ちてしまえばいい。
そうなれば、彼女はもう怯えなくて済む。
怯えの代わりに、こちらの確信に身を預ければいい。
そのほうが、ずっと楽だ。
口付けながら、ふと思った。
――さっさと落ちてこないだろうか。
一度では足りない。
数回に分けて唇を重ねた。
角度を少しずつ変えて、深さを変えて。
急がない。
奪うつもりはない、という形を崩さない。
あなたが望むなら続けられるという体裁のまま、選択を彼女に渡したふりをする。
それが自分のやり方だ。
無理やり押し倒すのは簡単だ。
だが欲しいのは、抵抗のない身体ではない。
自分から差し出される言葉だ。
自分から縋る声だ。
だからこそ、あえて止める。
息が乱れても、体温が上がっても、そこで引く。
続きが欲しいなら――欲しいと言え、と。
抱いてほしいと言え、と。
酒が回っている。
何度も口付けた。
当然、身体は熱を持つ。
普通の空気の読める女なら、ここらで合図を出してくる。
視線でも、指先でも、息遣いでも。
続きをと、分かる形で。
なのに、アランはない。
受け止めることはする。
拒絶の声も上げない。
けれど――解いて、曝け出すことはしない。
頑なに、最後の扉を閉めたまま、こちらが触れられる範囲だけを差し出してくる。
その慎ましさが、苛立ちを煽った。
慎ましさというより、強情だ。
賢い女のやり方だ。
与えすぎない。
奪われない。
それを本能で知っている。
けれど、知っているならなおさら――教えてやりたかった。
彼女は、エルヤを物欲しそうにずっと見つめる。
目で追う必死さで、欲が透けて見える。
女にだって欲はある。
それを自分は知っている。
そしてその欲は、決してエルヤ・ナイームでなければ埋められないわけではない。
彼女は、まだ彼にしか知らない熱を抱えている。
だから、その熱が唯一だと勘違いしている。
違う。
世界はもっと広い。
熱は、もっと深い。
そしてレギュラス・ブラックが与えられないものなど――何もない。
それを、身体で分からせることはできる。
けれど、無理矢理進める真似はしたくない。
無理矢理は、勝ってもつまらない。
折れた後に残るのは、恨みか、空虚か、従属だけだ。
欲しいのは――“選んだ”という形。
彼女自身が、言葉を差し出す形。
だから待つ。
待っているふりをしながら、追い詰める。
次に会うまでの間に、彼女の唇に残った酒の味が消えないように。
彼女が眠ろうとするたび、あの熱が蘇るように。
そして、誰の熱を求めているのか、自分の中で答えを出すように。
それなのにアランは、言わない。
視線も、指先も、声も。
一切こちらに続きをと渡してこない。
そのくせ、唇を重ねた余韻だけは受け止めて、静かに呼吸を乱し、翡翠の瞳を伏せる。
――強情な女だ。
レギュラスは薄く笑った。
怒りではない。
期待でもない。
もっと厄介な愉しさだ。
落ちるなら、早いほうがいい。
けれど、落ちないなら落ちないで――
その時間さえ、奪う価値がある。
彼女が言葉をねだる瞬間を、想像するだけで喉が熱くなった。
「抱きしめて」
「キスして」
「あなたがほしい」
その一言を、彼女の口から言わせるまで。
逃げ道を塞ぎ、優しく強引に追い込み、
彼女の“強情”ごと手に入れる。
レギュラスは、静かにグラスを置いた。
赤い液体が揺れて、灯りを映す。
その揺れが、彼の胸の内と同じように落ち着かないのが可笑しかった。
――さっさと、落ちてきてください。アラン。
食事の時間は、いつも呼吸が浅くなる。
皿の白さ、銀の光、卓布の張り。
一つ一つが完璧で、そこに自分の指先が触れるだけで何かを汚してしまいそうだった。
教育係の目は鋭い。
背筋の角度。肘の位置。ナイフの置き方。フォークの運び方。
細部を、細部のまま守れと言われる。
「違います」
冷たい声が飛ぶたび、手が止まる。
たった数ミリのずれ。
たった一瞬の迷い。
それだけで空気が張り詰め、胸の奥がきゅっと縮む。
言われれば言われるほど、食べようとする気持ちが遠ざかっていく。
もう何もいらない。
全部下げて。
そう言ってしまいたくなるくらいだった。
ため息をつきたい。
けれど、この屋敷でため息は反抗に等しい。
反抗だと取られれば、容赦のない叱責が飛ぶ。
痛みを伴う指導が来る。
それを、もう身体が覚えてしまっている。
アランは唇を噛み、フォークを握り直した。
指先が震える。
震えが目立てば、また直される。
直されれば、さらに震える。
終わりのない輪の中に閉じ込められている気がした。
「……もう一度」
教育係の声が落ちる。
その一言だけで、胃が重くなる。
その時だった。
食卓の斜め向かいに座っていたレギュラスが、グラスを軽く置いた。
音は小さいのに、空気が変わる。
教育係たちの視線が一斉にそちらへ動く。
レギュラスは面白そうに、けれど怠そうに口角を上げた。
「コウモリを焼いて食べられる姫なんです。手加減してくれません?」
冗談みたいな口調。
ふわりと笑う声。
それが、この張り詰めた空間に一瞬だけ割れ目を作った。
教育係たちはすぐに顔色を変え、慌てて頭を下げる。
「旦那様……」
アランは、目を瞬かせた。
今の言い方。
コウモリを――姫なんです、だなんて。
馬鹿にされているようでもあった。
からかわれているようでもあった。
けれど同時に、それが矛先を逸らすための言葉だとも分かった。
自分が責められ続けているこの場で、
彼がわざと軽口を叩いて、教育係の厳しさを緩めようとしている。
――助け舟。
そう理解した瞬間、胸の奥がじわりと熱くなって、すぐに困惑が追いかけてきた。
なぜ?
どうして、この男が?
この屋敷の主人である彼が、厳しさを望めばいくらでも厳しくできるはずなのに。
むしろ折らせるなら、教育係の叱責を止める理由なんてない。
それなのに。
レギュラスは、アランの手元を一瞥し、淡々と言った。
「随分と上達しています。
この二つを使って肉を切れるようになったのなら、もう十分です。
明日から食事の指導は抜きましょう」
「ですが、旦那様……」
教育係の声に、焦りが混じる。
まだ仕上げが、まだ品位が、まだ矯正が――そう言いたいのだろう。
彼らの役目は“完璧”を作ることだ。
途中で切り上げるのは許されない。
けれどレギュラスは、視線を上げただけで彼らを黙らせる圧を持っていた。
笑みは残っているのに、瞳の銀が冷える。
そこに、命令の温度が宿る。
「僕が十分だと言いました」
短い一言。
それだけで、教育係たちは言葉を飲み込んだ。
アランは息を止めたまま、そのやり取りを見ていた。
まるで、自分のために争われているようで落ち着かない。
自分のために決められているのに、置いてきぼりにされる感覚。
「……どうして」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
聞くつもりなんてなかった。
ただ、胸の中の困惑が溢れただけだった。
レギュラスはアランを見た。
今夜の彼の顔は穏やかで、だから余計にわからなくなる。
何が本物で、何が計算で、どこが罠なのか。
「あなたが食事を嫌いになったら困るでしょう」
あまりにも当然のように言う。
まるで、ただの配慮みたいに。
「……私は、嫌いになっても」
言いかけて、やめた。
嫌いになっても、この屋敷で嫌いなど許されない。
そう自分に言い聞かせてきたのに、彼の前では言葉がほどけそうになる。
レギュラスは小さく息を吐き、少しだけ唇の端を上げた。
「無理をする必要のないところで、無理をしなくていい。
――以前も言いましたよね」
その言い方が、優しさに似ていて。
優しさの形をしているのに、命令でもあって。
アランは胸がきゅっと締まった。
助け舟なのに、救われた気がしない。
救われたのに、支配の輪の中にいることを思い知らされる。
教育係たちは、まだ納得できない顔で俯きながらも、ゆっくりと引いた。
その場の空気が少しだけ緩む。
けれどアランの心は、逆に固くなっていく。
この男は恐ろしい。
残酷で、強くて、何でも奪える。
それなのに、今みたいに突然、こちらを楽にさせることがある。
それが――怖い。
何を狙っているのか分からない。
何を引き出したいのか分からない。
優しさのように見える刃が、いちばん厄介だ。
アランはフォークを置き、伏せた瞳のまま小さく言った。
「……ありがとうございます」
言った瞬間、胸の奥がざわついた。
礼を言うべき相手なのか。
礼を言ったら何かを渡してしまうのではないか。
その不安が、遅れて襲ってくる。
レギュラスは、満足そうでもなく、怒っているでもなく、ただ淡く笑った。
「どういたしまして。――食事を続けてください、アラン」
その一言で、また距離が変わる。
救われたはずなのに、近づかれた気がして、戸惑いが増す。
アランは頷いて、皿に視線を戻した。
ナイフの刃が、銀色に光っている。
自分の手はまだ震えていた。
けれど――さっきより少しだけ、息ができる。
その事実が、いちばん恐ろしかった。
今日のレギュラス・ブラックは、いつもよりも軍の匂いを纏っていた。
黒いローブの裾が揺れるたび、内側に覗く濃い色の軍服が目に刺さる。
金具の光、肩の線の張り、無駄のない硬質な仕立て。
残酷なほどに、この男に似合っていた。
似合ってしまうことが、腹立たしいくらいに。
アランは彼の正面に座っていた。
ここ数日、会話は増えた。
増えたのに、距離が縮まったようで――縮まっていない。
いつだって彼の言葉は、何かを差し出す形をして、何かを奪う。
「アーシュ・カデルですが」
レギュラスが何気ない調子で言った瞬間、アランの胸がきゅっと縮んだ。
その名は、イェルスの土と同じ匂いを連れてくる。
焼けた森、乾いた風、狩りの煙、笑い声。
もう戻れない景色。
「あなたも驚きますよ。ここまでの速さの出世は、なかなかありません」
淡々と告げられる評価が、なぜか屈辱に近かった。
誇るべきことのはずなのに、誇らせてもらえない感覚。
この男の口から語られる同胞の成功は、いつも鎖の音を伴う。
「現在、彼は――准尉です。
来月の戦功次第では、少尉への昇進も視野に入る」
准尉。
アランは、その言葉の重さを完全には知らない。
けれど引き上げられているという意味だけは伝わった。
捕虜だった男が、英国の軍の中で肩書きを得ていく。
それがどれほど異常で、どれほど巧妙な支配かも。
アーシュは元々、イェルスの地でも優れた狩人だった。
大きな体格を生かして獲物を仕留める力があり、体力は底なしだった。
笑いながら山を駆け、川を渡り、獣を担いで帰ってきた。
エルヤでさえ、あの体力には敵わないと冗談めかして言っていた。
「そうですか」
アランは、喉の奥の硬さを押し殺して答えた。
嬉しいはずなのに、素直に嬉しいと言えない。
それは祝福ではなく、切り離しに聞こえるからだ。
レギュラスは少しだけ口元を緩めた。
まるで、アランの反応を確認してから次を差し出すように。
「それから――」
息が止まる。
「彼は英国の女を妻にするそうです」
その一言が、胸の奥を鋭く突いた。
アランは瞬きもできなかった。
理解した途端に痛みが広がり、呼吸の仕方を忘れる。
胃の辺りがぎゅっと縮み、そこに冷たい手を入れられたように感覚がなくなる。
人が人を愛するのは自由だ。
誰を選ぶかは、誰にも決められない。
それはイェルスの教えでもある。
神のもとに、心は誰のものでもない。
――それでも。
この地に生まれ育った女を伴侶に選ぶということは。
この国の言葉で誓い、
この国の家に入り、
この国の秩序の中で暮らすということは。
つまり、アーシュ自身が
イェルスに戻るという意思を、手放したということだ。
アランは唇を噛んだ。
噛んだのに、痛みが遠い。
痛いのはそこじゃない。
「……彼が望んだのなら」
絞り出した声は、ひどく薄かった。
自分の言葉なのに、どこか他人事みたいに聞こえる。
レギュラスは頷いた。
「ええ。望んでいますよ。優秀な者は、望み方も賢い」
褒める口調なのに、冷たい。
賢い、という言葉がまるでこちらに馴染むことを指しているみたいで。
アランの胸はさらに痛んだ。
こうして少しずつ。
捕虜たちの中から、イェルスが薄れていく。
食事が変わる。
言葉が変わる。
服が変わる。
歩き方が変わる。
価値の置き方が変わる。
そして、帰る理由が変わる。
美しい自然に囲まれたあの国は。
焼け野原になって、奪われて、閉じ込められたままなのに。
思い出だけが取り残されていく。
泣きそうになった。
けれど泣いたら負けだと思った。
ここで泣けば、レギュラスはそれを効いたと判断する。
痛みを見せた分だけ、もっと刺してくる。
アランは背筋を伸ばし、翡翠の瞳を伏せたまま言った。
「……おめでとう、と。伝えてください」
言った瞬間、胸がさらに痛んだ。
祝福の言葉が、別れの言葉になってしまうから。
レギュラスは静かにアランを見下ろした。
軍服の硬い線が、彼の残酷さを強調する。
それでも声は、驚くほど柔らかい。
「もちろん。
あなたがそう言ったと、きちんと伝えましょう」
そのきちんとが、どうしようもなく怖かった。
アランの言葉まで支配の道具にして、
同胞の心をさらにこちら側へ寄せるために使うのだと、分かってしまう。
アランは拳を膝の上で握りしめた。
爪が掌に食い込み、やっと痛みが現実をつないでくれる。
イェルスは、皆の心の中から消えていく。
自分の中からさえ、少しずつ。
その事実が、涙よりも先に喉を締め付けた。
いつだったか、アランとそんな話をした。
空を飛べるのですか、と彼女は目を丸くして、まるで子どもみたいに驚いた。
木なら登れます、と。
高いところは平気で、そこから景色を見下ろせる、と。
――ならば、箒はどうだ。
木よりもずっと高い場所から、世界を見渡せる。
地面に縛られない。
鎖も、扉も、靴の踵の細さも、儀礼の角度も。
ほんのひとときだけ忘れられる。
それは、彼女に与えるには過ぎた自由だろうか。
そう思って、すぐに笑った。
自由の形を見せるのは、支配の手段にもなる。
選べると錯覚させるほど、人は従順になる。
けれど今日のレギュラスは、計算だけではなかった。
ただ、見たかったのだ。
翡翠の瞳が、恐怖ではなく驚きで満ちる瞬間を。
屋敷の裏庭、視界を遮るものの少ない芝の広場。
風が通り抜け、木々が遠くで葉を鳴らしている。
空は淡い青で、雲は薄く、まるで指先で破れそうなほど軽い。
レギュラスは箒を手に、背後を振り返った。
「アラン。怖くないですよ。落ちはしませんから」
言い切る声はあまりにも落ち着いていて、落ちるという可能性そのものがこの男には存在しないように聞こえた。
アランは、唇を少しだけ結び、足元を見た。
地面。
草。
その上にある細い棒のようなものが、どうして空を飛ぶのか理解が追いついていない顔。
それでも彼女は逃げなかった。
恐る恐る近づき、箒に跨る。
後ろに。
布越しに伝わる体温が一瞬だけ震えた。
寒さではない。
恐怖と期待の入り混じった震え。
「手は前に。――そう、こうです」
レギュラスは振り返らずに言い、アランの両腕を自分に回させる。
躊躇いが指先に残っていた。
けれど腕が腰に回った瞬間、その手は意外なほどしっかりと掴んだ。
触れられる。
抱きつかれる。
その事実に胸の奥が静かに満たされる。
拒まれるより、よほど素直だ。
彼女はまだ、欲を認めない。
けれど身体は、必要な場所に迷わず縋る。
「行きますよ」
箒が地面を離れた。
ふわり、と言うにはあまりにも急で。
一気に風が顔を叩き、衣服の裾が跳ねる。
アランの息が詰まったのが背中越しに分かった。
次の瞬間、悲鳴が上がる。
「――っ……!」
それは恐怖の声であり、驚きの声であり、怒りにも似た声だった。
落ちる、と思ったのだろう。
地面が遠ざかる。
木々が小さくなる。
屋敷が、黒い箱のように縮んでいく。
レギュラスは速度を落とさず、風を切った。
「大丈夫です。落ちません」
言葉は短いのに、不思議と確かだった。
背中に回された腕がさらに強くなる。
しがみつく力が増す。
その必死さが、滑稽ではなく、妙に愛おしい。
それでも、彼女の声は変わっていく。
悲鳴はやがて、息を呑む音に変わり、
息を呑む音は、感嘆へと溶けていく。
「……すごい……」
かすれた声が風に散り、レギュラスの耳に届く。
翡翠の瞳が空を映しているのが想像できた。
彼女は適応が早い。
そもそもの運動神経の良さが、この女には備わっている。
あの地で生きてきたのなら当然だ。
箒の上での体のバランスも、驚くほど上手く取っている。
レギュラスは湖の上へ出た。
水面が空を写し、風に揺れて銀の鱗みたいに光る。
川の上流も見せる。
森の切れ目から、緩やかな丘が広がる。
英国の自然はイェルスのそれには及ばないのかもしれない。
だが、レギュラスが見た中では十分すぎるほど豊かだと思っている。
背中でアランが小さく息を吐いた。
「……この国にも、こんなところがあるんですね」
その声は、警戒の薄い、素直な響きだった。
レギュラスは少しだけ口元を緩める。
「ええ。綺麗でしょう?」
――イェルスの方が、と言われたらどうしよう。
一瞬だけそんな考えが浮かび、すぐに捨てた。
比べられることが不快なのではない。
比べて彼女が“帰る場所”を思い出すことが、面倒なのだ。
けれどアランは何も言わなかった。
ただ、風を吸い込み、目を見開いている気配だけが伝わってくる。
少し高度を落とし、速度を緩める。
風が優しくなったところで、レギュラスが言った。
「少し休憩しましょうか」
「ええ……!」
返事が弾む。
その弾み方が、いちばん危うい。
楽しさを覚えた声は、鎖を忘れさせる。
アランはすぐに指を伸ばし、下を指すように言った。
「あそこの木。あれなら幹も枝もしっかりしています。
あそこに降りましょう」
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
――待て。
降りる場所が、なぜ地上ではなく木の上なんだ。
常識的に考えておかしい。
だがその常識が、この女とはあまりにも違う。
木は休む場所だと、本気で思っている顔をしている。
レギュラスは咳払いひとつで気持ちを整え、淡々と言った。
「地上でいいでしょう」
「でも、あそこの木は絶対に座り心地がいいです」
真剣だ。
心底、木の上が正しいと思っている。
アランの声には譲れない熱が混じっていて、レギュラスは思わず鼻で笑いそうになった。
「地上の方がいいに決まってます」
「木の上の方がいいに決まってます」
言い合いが、幼稚なほど噛み合わない。
けれどその噛み合わなさが、妙に心地いい。
彼女がこうして譲らない姿を見せるのは、この屋敷では珍しい。
礼儀作法の場では押し黙るくせに、木の話になると頑固になる。
そのギャップが、可笑しくて仕方がない。
レギュラスは箒を旋回させ、アランの指した木に向かいながら、わざとため息をついた。
「あなたは本当に……」
言葉の続きを飲み込む。
面倒だと言うには、声が柔らかくなりすぎる。
可愛いと口にするほど酔ってもいない。
木の枝先に近づくと、葉が風にざわめいた。
枝のしなり。
確かに太い。
確かに座れそうだ。
だが、わざわざ木の上に降りる必要などない。
「落ちたらどうするんです」
「落ちません。私は木なら落ちません」
自信満々に言うから、レギュラスは笑いを堪えきれなくなる。
落ちるかどうかの話ではなく、そんなところで休憩する発想が理解できないのだが。
「……分かりました」
不本意そうに言いながら、レギュラスは箒を枝の近くへ寄せた。
停止の呪文を軽くかけ、空中で静止させる。
枝に足をかけ、着地する。
続けてアランが降りる。
彼女は意外なほど器用だった。
足場の取り方が、まるで日常の延長みたいに自然だ。
靴もない。
けれど怖がらない。
枝の上に腰を下ろし、木の肌に手を当てる。
「ほら。絶対に座り心地がいい」
勝ち誇った声が、風に溶けた。
レギュラスは枝の上で、半歩離れて座る。
地上より高い。
風が近い。
空に近い。
そして、背後には何もない。
本来なら落ち着かないはずなのに。
アランの目は、子どものように輝いていた。
この瞬間だけ、囚人ではない顔をしている。
レギュラスはその横顔を見つめ、静かに思った。
――こういう顔を、もっと早く落ちて見せてくれればいいのに。
けれど言葉にはしない。
言葉にした瞬間、彼女はまた硬くなる。
だからただ、風の音と葉擦れの中で、銀の瞳を細めた。
「……綺麗でしょう?」
繰り返した問いに、アランは小さく頷いた。
「綺麗です」
それだけで、十分だった。
比べない。
否定しない。
ただ受け取った。
木の上で、世界は少しだけ静かだった。
その静けさの中で、アランの体温が、わずかにこちらへ傾いているのが分かった。
落ちないように――ではない。
ただ、風に揺れながら、隣の存在を確かめるように。
その僅かな重みが、レギュラスの胸の奥をゆっくりと満たしていった。
物置小屋の薄暗さ。埃の匂い。息の白さ。
そして、思いがけず重なった唇の柔らかさ。
今度はちゃんとと自分で言ってしまった声の震えまで、耳の奥に残っている。
唇が重なった瞬間、心がひどくほどけてしまった。
ほどけた心は、勝手に過去へと引きずられていく。
自由だった。
自由に、彼とあの美しい大地を駆け巡った。
馬の背に後ろから抱かれて、夕陽を追いかけるように走るのが好きだった。
風が髪をほどき、彼の胸の温度が背中に伝わってくる。
手綱を握る彼の腕の力強さに、安心して身を預けられた。
大きな木に登って、休める場所を探した。
高い枝の上で、二人だけの影になって、上空から見るこの大地の美しさを語るのが好きだった。
緑の濃淡。川の光。鳥の群れ。
彼が「ここに生まれて良かった」と笑うたび、自分も同じ気持ちになれた。
崖の上から見下ろす海の深さが好きだった。
怖いのに、怖いからこそ――生きていると感じた。
潮の匂いが濃く、波の音が胸の奥まで響く。
その隣に彼がいてくれれば、何も恐くなかった。
草の上に寝転んで、一緒に見上げる満開の星空が好きだった。
星はいつもそこにあって、祈りはいつも届いて、
明日も続くと信じられた。
父と母が、自分を愛して守りの呪文を授けてくれたように。
エルヤとの間に生まれた子供にも同じように、この守りを注いでいくつもりだった。守るという言葉が、未来を作る言葉だった頃。
守ることが、誇りだった頃。
――それが今は。
触れたいのに触れられない。
部屋には入るなと言われた。
夜に彼の体温に寄り添うことすら、禁じられた。
当たり前に許されていたものが、罪になる。
それなのに、あの日。
思いがけず重なった唇のせいで。
心が、欲に手を伸ばしてしまう。
もっと欲しい。
もっと触れてほしい。
もっと求めてほしい。
求められることが許されていた頃に戻りたい。
求めることが罪でなかった頃に戻りたい。
気づけばずっと、エルヤを目で追っていた。
覚えのいい彼は、どんどんこの国の言葉も流暢になっていく。
所作も整っていく。
礼儀を覚え、頭の下げ方を覚え、声の抑え方を覚え、目線の置き方まで変わっていく。
それが生き延びるための術だと分かっているのに。
分かっているのに、胸が痛い。
作法というものが入り込んだ彼よりも。
英国式の凛とした黒の衣装に包まれた彼よりも。
故郷の衣装を着て、イェルスの優しい言葉を話す彼の方が好きだった。
日差しを浴びて笑い、汗を拭って、土の匂いのまま抱き寄せてくれた彼が――好きだった。
エルヤの細くて長い指が作業に動かされるたびに、目で追っていく。
あの指は優しく触れてくれる。
色んな熱を与えてくれる。
何度も溺れて沈んで、最後は引き上げてくれる。
目が合いそうになって、慌てて逸らす。
恥ずかしくて顔が熱くなる。
一体、何を考えているのか自分は。
何てはしたないことを考えているのか。
ここはブラック家の屋敷。
秩序のど真ん中。
監視の目がある。
エルヤの腕には紋様が刻まれている。
逆らえば死が来る。
自分が望むような触れ合いは、彼に危険を呼ぶ。
それでも心は勝手に言う。
彼の熱に包まれたい。
包まれるだけでなく、こちらの全てを暴いてさらって、引き摺り出して掻き回して、甘いもので満たしてほしい。
それを望む自分が怖い。
望んでしまうほどに弱くなっている自分が、悔しい。
「アラン、どうした?」
不意にエルヤの声が落ちる。
心臓が跳ねた。
見られていたのかと思って、さらに顔が熱くなる。
「……何でもない」
言葉はすぐ出た。
反射みたいに。
何でもないは、この屋敷で身につけた嘘だ。
エルヤは少しだけ首を傾げる。
その仕草が、昔と変わらなくて。
胸がきゅっと縮む。
「本当に?」
「……本当」
嘘だ。
本当は触れてほしい。
本当は彼の腕に戻りたい。
本当は――あの頃みたいに、当たり前に求めて、当たり前に求められたい。
けれど言えない。
言った瞬間、崩れてしまうから。
恥ずかしくて、情けなくて、そして――怖い。
エルヤが一歩近づきかけて、すぐに止まる。
止まったのは、きっと紋様のせいだ。
止まったのは、監視の目のせいだ。
止まったのは、あの男の秩序のせいだ。
その止まるが痛くて、アランは笑いそうになる。
泣きそうにもなる。
自由だった頃の自分は、こんな風に欲を恥じたりしなかった。
欲は生きることと同じだった。
触れたいと思うことは、悪ではなかった。
なのに今は、欲があることすら罪みたいに感じる。
アランは視線を落とし、指先を握りしめた。
胸の奥で燃えているものを、誰にも見せないように。
――何でもない。
そう繰り返しながら。
本当は、何でもあるのに。
揺らぎは、音を立てない。
だからこそ、気づいた瞬間に腹の底を冷やす。
静かに侵食して、こちらの整えた秩序の隙間から入り込む。
そして気づけば、中心にまで手が届いている。
レギュラスは最初に、エルヤ・ナイームの焦りに気づいた。
目線の走り方、呼吸の浅さ、無駄に整った礼儀の裏側に残る獣のような衝動。
釘は刺した。次はないと告げた。
あの腕の紋様が、言葉以上の意味を持つことも理解させた。
彼は従う。従わなければ死ぬ。
――だから、あの男の揺らぎなど、制御の範囲だと思っていた。
けれど、違った。
本当に不快だったのは、エルヤではない。
アランだ。
自分の方に転がりかけていた実感があった。
会話の間が柔らかくなり、警戒の棘が鈍り、質問の返しが増えた。
夜に呼べば、怯えながらも隣へ座り、グラスを拒む仕草さえどこか幼く見えた。
あの翡翠の瞳に、こちらの言葉が届き始めている――そう思っていた。
なのに。
食卓で。廊下で。作業の場で。
アランがエルヤを見る目が、こっちの方が羞恥心を抱かされるほどに熱を帯びている。
気づいていないつもりなのだろう。
自分では「隠している」と思っている。
だから視線をそっと滑らせ、相手の指先を追って、何事もない顔をしようとする。
けれど、その必死さが――逆に露骨だった。
彼女は、エルヤの手を見ている。
細い指が布に触れるたび、何かを整えるたび、糸を結ぶたび。
その一つ一つに、過去の温度を重ねている。
触れられない分、目で触れている。
そして、気づかれそうになって目を逸らす。
頬が赤くなる。
息が一瞬だけ乱れる。
それを恥だと思っている顔が、余計に生々しい。
鼻で笑いそうになった。
この高貴な屋敷で。
自分の敷いた秩序の中で。
こんなにも薄ら汚い男女の性の熱を見せられようなんて。
吐き気がするにも程がある。
――半分手に入れたようなものだと思っていたところ、これだ。
苛立ちは溢れかえりそうになる。
彼女は、こちらの言葉に頷くようになった。
こちらの問いに答えることに慣れた。
香辛料の強い料理を避けようかと言えば、無理をしなくていいと言えば、そこに“優しさを見出しかけている。
それが、こちらの思惑通りだったはずなのに。
それなのに、結局――彼女の熱は、あの男に向いている。
支えだの誓いだの、くだらない。
誓いが何を守る?
秩序と権力の前で、誓いは紙切れだ。
それを証明するために、彼女をここへ置いたのに。
それでも彼女は、まだ昔の熱を抱えている。
抱えたまま、こちらに近づいてくる。
近づきながら、あの男を目で追っている。
その矛盾が、ひどく不愉快だった。
レギュラスは、自分の中で何かがきしむ音を聞いた。
静かな嫉妬。
ただの支配欲ではない、もっと不格好で、認めたくない感情。
翡翠の瞳が他人の熱を宿すことへの――許し難さ。
奪えなかったものは今までになかった
そう思ってきた。
人も、国も、命も。
けれど今、奪うべきものが明確になる。
それは彼女の力でも血でもない。
――彼女が誰を見て熱を帯びるか、だ。
レギュラスはゆっくりとグラスを持ち上げ、口をつけた。
赤い液体が喉を滑る。
熱はない。
味もない。
ただ、決意だけが静かに固まっていく。
あの男には釘を刺した。
次はない。
だから次に切り分けるべきは、アランの揺らぎだ。
揺らいだなら、正す。
秩序の中で起きた歪みは、秩序で直す。
彼女の視線があの男を追うのなら。
追えないようにすればいい。
触れられないようにするのでは足りない。
思い出せないようにすればいい。
それができるのが、ブラック家の権力だ。
この屋敷の秩序だ。
そして――自分だ。
レギュラスは微笑んだ。
柔らかく、丁寧に。
逃げ道を塞ぐ微笑み。
苛立ちが溢れそうなのに、声は静かだった。
――この熱も、いずれこちらへ向けさせる。
彼女が恥じるほどの熱なら、なおさら。
それを向ける相手を、選べるのは僕だ。
夜、レギュラスと話すことは、もはや習慣になっていた。
呼ばれる。
扉を叩く。
許可を待って入る。
その一連の動きに、身体が先に慣れてしまっているのが怖い。
色んな話をした。
恐ろしい人なのに。独裁的で、平気で命を代償にしてしまう人なのに。
時折、優しく答えてくれる。
ふっと笑う顔が、ほんの一瞬だけ幼く見える気がして、視線の置き場に困る。
近づけば傷つく。
近づけば奪われる。
そう分かっているのに――言葉を交わす時間が増えるほど、心の中の警戒が疲れるようになっていった。
疲れた瞬間、隙ができる。
その隙が怖い。
その日もいつも通り呼ばれたはずだった。
なのに、部屋に足を踏み入れた瞬間から、空気が違った。
レギュラスはいつもよりよく笑っていた。
声を出して。口を開けて。
普段の彼から想像もつかない柔らかさで。
まるで、別人みたいだった。
ソファに座る姿はいつも通り整っているのに、表情だけがほどけている。
銀色の瞳が、冷たくない。
――冷たいはずなのに。
人の命を平気で犠牲の一つに変えられる残酷さを持っているのに。
その口が、声が、笑っている。
アランは戸惑って、思わず口にしてしまった。
「……今日は、よく笑うんですね」
レギュラスはグラスを軽く揺らしながら、あっさり言った。
「ええ。気分がいいので」
その一言が、妙に怖かった。
気分がいいから笑う――それは当たり前のことなのに、彼が言うと気分がいいの基準が分からなくなる。
誰かが死んだからか。誰かが屈したからか。国が落ちたからか。
それとも、本当にただ、酒のせいなのか。
目線を落とすと、彼の手の中の薄いグラスの赤が揺れている。
血のような色。
けれどもう、あの赤に最初ほど怯えない自分がいる。
彼の飲む酒が、そうさせているのだろうと分かった。
酒の力を借りてそうなっているのだとしても――こんな風にずっと笑っていられる人ならいいのに、と思ってしまった。
軍の配置を考えたり、他国の侵略や統治や支配を考えることなく。
些細なことを話して、笑っていられるほうが幸せになれるはずなのに。
なぜ、そうしないのだろう。
なぜ、わざわざ残酷でいるのだろう。
その答えは分かっている。
彼はそういう人だからだ。
けれど、目の前の笑顔は、それを一瞬だけ曖昧にする。
「あなたは……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。
あなたも疲れるんですか。あなたも寂しいんですか。
そんなことを聞くのは、愚かだ。
答えを受け取る資格なんて自分にはない。
レギュラスはその沈黙を、責めるようには見なかった。
むしろ楽しそうに、話題を変えるように言った。
「今日は、あなたの国の話をもう少し聞かせてください」
彼はよく、イェルスの言い伝えや物語、祭祀、食べ物の話を好んで聞いてくる。
まるで宝物を眺めるみたいに。
壊すために眺めるのか、集めるために眺めるのか――それすら分からない。
「何が知りたいんですか」
できるだけ平坦に返す。
ここで浮かれたくない。
彼の笑顔に引っ張られたくない。
レギュラスは顎に指を添え、少しだけ考えるふりをしてから言った。
「そうですね……あなたたちの名前の話でも」
「名前?」
「ええ。真名とは別の――日常の名です。
あなたたちは、子どもにどうやって名を授けるんです?」
胸が一瞬ひやりとした。
真名、と彼が口にしただけで、心臓が縮む。
けれど彼はそこには踏み込まず、あくまで日常の名と言った。
針先のような距離感。
刺してこないように見せながら、皮膚のすぐ近くをなぞる。
アランは慎重に言葉を選ぶ。
「……生まれてすぐには、名は与えません。
最初は呼び名だけです。
泣き声や、目の光の強さや、抱いたときの温度で、呼びやすい言葉を決めて……それで呼びます」
「温度で」
レギュラスは面白そうに繰り返す。
「ええ。赤子って……熱いんです。
命があるって、そういう熱で分かる。
それが落ち着くまで、名を急がないんです」
レギュラスはしばらく黙り、そして、妙に柔らかく笑った。
「いい国ですね。……僕の国とは、随分違う」
その言い方が、胸に刺さった。
僕の国という言葉に、彼の誇りと支配が詰まっているはずなのに、今はどこか寂しさみたいに聞こえる。
は慌てて、話を逸らすように続ける。
「名を授ける時は、夜にします。
星がよく見える日に。
家族が集まって、火を焚いて……大地の神に、この子を見守ってくださいって」
「祈りですか」
レギュラスは口元だけ笑って、意地悪く言う。
「神が忙しそうですね。
毎晩あちこちで赤子が生まれるなら、休む暇もない」
冷たい返し。
残酷な返し。
いつもの彼の棘。
けれど――表情は柔らかいままだった。
声の温度も、温もりがある。
冷たい言葉を、温かい声で言う。
その矛盾が、こちらの足場を奪う。
アランは戸惑いながらも、思わず小さく言い返してしまう。
「忙しくても……見てくれるんです。
祈りがあるから、見守られるんです」
「信じてるんですね」
「信じます。……信じないと、あの土地では生きられません」
本当だ。
信じることで、恐怖を越えてきた。
信じることで、守りを渡してきた。
信じることで、愛を形にしてきた。
レギュラスはグラスを口に運び、赤い液体を喉へ落とす。
その仕草がやけにゆっくりで、視線がそこに吸い寄せられる。
「では、祭祀の話をもう一つ」
「……祭祀は、たくさんあります」
「たくさんの中から、あなたが一番好きだったものを」
好きだったもの。
思い出すだけで胸が痛む。
けれど、言ってしまう。
「……声を返す祭りがありました」
レギュラスの眉がわずかに動く。
「声を返す?」
「冬の終わりに。
皆で一日、誰も声を出さないんです。
歌も、笑い声も、怒鳴り声も。
その代わり、指先で印を結んで……想いだけを渡す」
「面倒ですね」
また冷たい返し。
けれど、彼は笑っている。
「でも最後に、夜になったら……一斉に声を出すんです。
祈りの言葉を、歌を。
一年分の声を神に返して、また新しい声をもらうって」
言い終えた瞬間、胸の奥がひゅっと痛んだ。
自分は今、声を奪われていない。
けれど自由に声を出せない。
この屋敷で、声は武器になる。
声は弱みになる。
声は支配される。
レギュラスはその痛みを見抜いたのか、ふっと笑みを薄くした。
「……あなたの国の声は、綺麗ですね」
その一言が、熱い刃みたいだった。
優しいのに、刺さる。
褒められたのに、奪われる気がする。
アランは視線を落とした。
何が本物なのか分からなくなる。
冷たい言葉。
温かい声。
柔らかい笑顔。
残酷な過去。
そして、今ここで、こんなふうに話している現実。
距離感が、一気に変わった気がした。
彼が近づいたのか。
自分が近づいたのか。
それすら分からない。
レギュラスは軽く息を吐き、また笑った。
今夜の彼は、まるで楽しそうに“人”をしている。
「まだ時間はあります。
他にも聞かせてください。……あなたの好きだったことを」
アランの胸が、嫌にざわつく。
好きだったこと、という言葉が――あまりにも危険だった。
好きだったことを話すほど、心が柔らかくなる。
心が柔らかくなれば、奪われやすくなる。
分かっている。
分かっているのに。
アランは小さく息を吸って、ゆっくり言葉を探した。
拒めない自分が、怖かった。
話しているうちに、だんだん瞼が重くなってきた。
眠気は、油断を連れてくる。
油断は、この屋敷では致命傷になる。
分かっているのに――夜更けの柔らかい灯りと、酒の匂いと、彼の今日の笑い声が、身体の緊張をほどいていった。
レギュラスはグラスを置き、ふいにこちらへ身を寄せてくる。
近い。
いつもより、近い。
エルヤとは違う種類の美しさが、目の前に満ちた。
夜空のように澄み切って、冷たいはずなのに、光を吸い込むような顔。
銀色の瞳が、近づくほどに恐ろしくなる。
本能が一歩下がれと叫ぶ。
けれど睡魔が降りかかっているせいか、反応が遅れた。
警戒して身を引くまでの僅かな間が――致命傷だった。
くちびるが重なる。
息が止まった。
驚きで身体が固まる前に、口の中に甘い酸味が広がった。
飲んだこともない酒の味。
真っ赤な色をしているのに、血の味とはかけ離れている。
果実のような匂いと、喉の奥を熱くする刺激。
それが、不自然に生々しくて、嫌なのに、嫌だと声にできない。
くちびるが離れると、レギュラス・ブラックは笑っていた。
まるで、彼女の反応を待っていたみたいに。
まるで、恐怖も屈辱も、可愛らしいものを見たように。
アランは何も言えなかった。
言葉が喉で絡まり、音にならない。
手のひらだけが冷たくなる。
「アラン。あなたはよく神の話をしますね」
言葉だけは柔らかい。
けれどそれは、逃げ道を塞ぐ柔らかさだ。
優しさのように聞こえる形で、首輪を締める。
当然だった。
イェルスと神は切っても切り離せない。
祭祀も食事も、習慣も掟も。
生きることのすべてに神が絡んでいる。
イェルスは神が与えてくれた楽園だと信じてきたのだから。
「ここでは」
レギュラスは少しだけ声を落とす。
親密さを装うように。
「僕を神だと思っていいです」
あまりにも平然と言い切るから、背筋が寒くなるのに。
同時に、どこか納得させられてしまう感覚があるのが恐ろしい。
この屋敷で、命令が絶対で、秩序が絶対で、拒めないのなら――確かに彼は神に近い。
だからこそ、アランは笑ってしまった。
笑うつもりなんてなかったのに。
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
「……人が、神の名を名乗るんですか」
震えた声。
けれど笑ってしまったせいで、反抗とも嘲りとも取れる。
レギュラスは怒らなかった。
むしろ、面白そうに目を細めた。
「ええ。恐れ多いですか?」
その問いは、罠だった。
恐れ多いと言えば、屈する。
屈さないと言えば、神を否定する。
どちらに転んでも、彼の手の上だ。
アランは答えられず、視線を逸らす。
逸らした先に、彼の手がある。
長い指。整った爪。
その指で、命を犠牲に選ばせた。
その指で、印を刻ませた。
その指が、今、こちらの頬に触れそうな距離にある。
「ねぇ、アラン」
呼び方が甘い。
甘さが、逆に怖い。
「僕を愛したら、あなたは必ず幸せになれますよ」
言い切る強さが、どこまでもこの男らしかった。
迷いがない。
自分が与えるものが絶対だと思っている。
だからこそ、確信してしまう。
自分の望む愛と、彼が与えられる愛という名のものは、どこまで行っても交わらない。
慈しみで守る愛と、支配で抱え込む愛。
温度が違う。根が違う。
同じ言葉を使っているだけで、別物だ。
それなのに。
また、くちびるが重なる。
今度は逃げる間がない。
顎を捉えられ、静かに角度を変えられる。
口の中へ、酒の味が流し込まれる。
知りたくもない、甘く酸っぱい熱が、呼吸を奪っていく。
アランは瞼を閉じた。
閉じたほうが楽だった。
見てしまえば、銀色の瞳に飲まれてしまう気がしたから。
レギュラスは唇を離さないまま、囁く。
「僕は莫大な富を与えてあげられます。
誰もがあなたに跪く権力だってあげます。
あなたが望むなら国だって手に入る。
欲しいものはすべて、あなたの手の中に収まりますよ」
与えようとしてくれるものが、どれも恐ろしいものばかりだった。
そのどれも、欲しいと思えない。
富はいらない。
ささやかな幸せがあればいい。
同じ火を囲んで、同じ星を見上げて、同じ祈りを口にできればいい。
跪かせる権力が欲しいわけではない。
イェルスでは王も姫も関係なく、神のもとに平等だった。
人が人の上に立つことに価値を置かなかった。
国は手に入れるものではない。
互いの文化を尊重し合い、国としてあり続けるべきで、侵略して潰してしまうものではない。
守るべきものを、奪うことで得たくない。
なのに、この男はそれを幸せだと言う。
そのズレが、恐ろしくて仕方がない。
恐ろしい男なのに。
唇に触れてくる熱が、エルヤのものに――どこか似ている気がして、アランは混乱した。
同じ熱。
同じ柔らかさ。
同じ息づかい。
皆、誰も、同じように口付けをするのだろうか。
経験なんて、彼としかない。
他を知らない。
比べられない。
だから余計に怖い。
違いが分からないまま、熱だけが身体に残る。
熱は、思考より先に心を揺らす。
心が揺れれば、境界が曖昧になる。
曖昧になれば――奪われる。
アランは唇を噛み、震える息を飲み込んだ。
酒の甘さがまだ舌に残っている。
その甘さが、どこまでも不快で。
どこまでも――忘れがたい。
「……私は」
言葉を探そうとして、声が掠れた。
拒絶を言いたいのに、拒絶の形にできない。
この屋敷では、拒絶は罰を呼ぶから。
恐怖が、言葉の喉元で止まる。
レギュラスはそんなアランを、満足そうに見つめていた。
追い詰めて、動けなくして、息を乱させて――
それでもなお「優しく」笑える男。
その笑顔のせいで、アランは自分がどこに立っているのか分からなくなりそうだった。
口付けながら、レギュラスは確信していた。
自分は――見たこともない世界を与えてやれる。
エルヤ・ナイームでは届かない場所へ、アランを置ける。
そのための富も、権力も、秩序も、すでにこの手の中にある。
彼女が言い伝えを語るたび、祭祀を語るたび、星と神の名を口にするたび、
その“世界”が小さく見えるわけではない。
ただ、脆い。
外側からの暴力に弱いという意味ではない。
内側から溶ける――欲や恐怖や寂しさに、簡単に揺らぐ。
揺らぐなら、落ちる。
落ちてしまえばいい。
そうなれば、彼女はもう怯えなくて済む。
怯えの代わりに、こちらの確信に身を預ければいい。
そのほうが、ずっと楽だ。
口付けながら、ふと思った。
――さっさと落ちてこないだろうか。
一度では足りない。
数回に分けて唇を重ねた。
角度を少しずつ変えて、深さを変えて。
急がない。
奪うつもりはない、という形を崩さない。
あなたが望むなら続けられるという体裁のまま、選択を彼女に渡したふりをする。
それが自分のやり方だ。
無理やり押し倒すのは簡単だ。
だが欲しいのは、抵抗のない身体ではない。
自分から差し出される言葉だ。
自分から縋る声だ。
だからこそ、あえて止める。
息が乱れても、体温が上がっても、そこで引く。
続きが欲しいなら――欲しいと言え、と。
抱いてほしいと言え、と。
酒が回っている。
何度も口付けた。
当然、身体は熱を持つ。
普通の空気の読める女なら、ここらで合図を出してくる。
視線でも、指先でも、息遣いでも。
続きをと、分かる形で。
なのに、アランはない。
受け止めることはする。
拒絶の声も上げない。
けれど――解いて、曝け出すことはしない。
頑なに、最後の扉を閉めたまま、こちらが触れられる範囲だけを差し出してくる。
その慎ましさが、苛立ちを煽った。
慎ましさというより、強情だ。
賢い女のやり方だ。
与えすぎない。
奪われない。
それを本能で知っている。
けれど、知っているならなおさら――教えてやりたかった。
彼女は、エルヤを物欲しそうにずっと見つめる。
目で追う必死さで、欲が透けて見える。
女にだって欲はある。
それを自分は知っている。
そしてその欲は、決してエルヤ・ナイームでなければ埋められないわけではない。
彼女は、まだ彼にしか知らない熱を抱えている。
だから、その熱が唯一だと勘違いしている。
違う。
世界はもっと広い。
熱は、もっと深い。
そしてレギュラス・ブラックが与えられないものなど――何もない。
それを、身体で分からせることはできる。
けれど、無理矢理進める真似はしたくない。
無理矢理は、勝ってもつまらない。
折れた後に残るのは、恨みか、空虚か、従属だけだ。
欲しいのは――“選んだ”という形。
彼女自身が、言葉を差し出す形。
だから待つ。
待っているふりをしながら、追い詰める。
次に会うまでの間に、彼女の唇に残った酒の味が消えないように。
彼女が眠ろうとするたび、あの熱が蘇るように。
そして、誰の熱を求めているのか、自分の中で答えを出すように。
それなのにアランは、言わない。
視線も、指先も、声も。
一切こちらに続きをと渡してこない。
そのくせ、唇を重ねた余韻だけは受け止めて、静かに呼吸を乱し、翡翠の瞳を伏せる。
――強情な女だ。
レギュラスは薄く笑った。
怒りではない。
期待でもない。
もっと厄介な愉しさだ。
落ちるなら、早いほうがいい。
けれど、落ちないなら落ちないで――
その時間さえ、奪う価値がある。
彼女が言葉をねだる瞬間を、想像するだけで喉が熱くなった。
「抱きしめて」
「キスして」
「あなたがほしい」
その一言を、彼女の口から言わせるまで。
逃げ道を塞ぎ、優しく強引に追い込み、
彼女の“強情”ごと手に入れる。
レギュラスは、静かにグラスを置いた。
赤い液体が揺れて、灯りを映す。
その揺れが、彼の胸の内と同じように落ち着かないのが可笑しかった。
――さっさと、落ちてきてください。アラン。
食事の時間は、いつも呼吸が浅くなる。
皿の白さ、銀の光、卓布の張り。
一つ一つが完璧で、そこに自分の指先が触れるだけで何かを汚してしまいそうだった。
教育係の目は鋭い。
背筋の角度。肘の位置。ナイフの置き方。フォークの運び方。
細部を、細部のまま守れと言われる。
「違います」
冷たい声が飛ぶたび、手が止まる。
たった数ミリのずれ。
たった一瞬の迷い。
それだけで空気が張り詰め、胸の奥がきゅっと縮む。
言われれば言われるほど、食べようとする気持ちが遠ざかっていく。
もう何もいらない。
全部下げて。
そう言ってしまいたくなるくらいだった。
ため息をつきたい。
けれど、この屋敷でため息は反抗に等しい。
反抗だと取られれば、容赦のない叱責が飛ぶ。
痛みを伴う指導が来る。
それを、もう身体が覚えてしまっている。
アランは唇を噛み、フォークを握り直した。
指先が震える。
震えが目立てば、また直される。
直されれば、さらに震える。
終わりのない輪の中に閉じ込められている気がした。
「……もう一度」
教育係の声が落ちる。
その一言だけで、胃が重くなる。
その時だった。
食卓の斜め向かいに座っていたレギュラスが、グラスを軽く置いた。
音は小さいのに、空気が変わる。
教育係たちの視線が一斉にそちらへ動く。
レギュラスは面白そうに、けれど怠そうに口角を上げた。
「コウモリを焼いて食べられる姫なんです。手加減してくれません?」
冗談みたいな口調。
ふわりと笑う声。
それが、この張り詰めた空間に一瞬だけ割れ目を作った。
教育係たちはすぐに顔色を変え、慌てて頭を下げる。
「旦那様……」
アランは、目を瞬かせた。
今の言い方。
コウモリを――姫なんです、だなんて。
馬鹿にされているようでもあった。
からかわれているようでもあった。
けれど同時に、それが矛先を逸らすための言葉だとも分かった。
自分が責められ続けているこの場で、
彼がわざと軽口を叩いて、教育係の厳しさを緩めようとしている。
――助け舟。
そう理解した瞬間、胸の奥がじわりと熱くなって、すぐに困惑が追いかけてきた。
なぜ?
どうして、この男が?
この屋敷の主人である彼が、厳しさを望めばいくらでも厳しくできるはずなのに。
むしろ折らせるなら、教育係の叱責を止める理由なんてない。
それなのに。
レギュラスは、アランの手元を一瞥し、淡々と言った。
「随分と上達しています。
この二つを使って肉を切れるようになったのなら、もう十分です。
明日から食事の指導は抜きましょう」
「ですが、旦那様……」
教育係の声に、焦りが混じる。
まだ仕上げが、まだ品位が、まだ矯正が――そう言いたいのだろう。
彼らの役目は“完璧”を作ることだ。
途中で切り上げるのは許されない。
けれどレギュラスは、視線を上げただけで彼らを黙らせる圧を持っていた。
笑みは残っているのに、瞳の銀が冷える。
そこに、命令の温度が宿る。
「僕が十分だと言いました」
短い一言。
それだけで、教育係たちは言葉を飲み込んだ。
アランは息を止めたまま、そのやり取りを見ていた。
まるで、自分のために争われているようで落ち着かない。
自分のために決められているのに、置いてきぼりにされる感覚。
「……どうして」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
聞くつもりなんてなかった。
ただ、胸の中の困惑が溢れただけだった。
レギュラスはアランを見た。
今夜の彼の顔は穏やかで、だから余計にわからなくなる。
何が本物で、何が計算で、どこが罠なのか。
「あなたが食事を嫌いになったら困るでしょう」
あまりにも当然のように言う。
まるで、ただの配慮みたいに。
「……私は、嫌いになっても」
言いかけて、やめた。
嫌いになっても、この屋敷で嫌いなど許されない。
そう自分に言い聞かせてきたのに、彼の前では言葉がほどけそうになる。
レギュラスは小さく息を吐き、少しだけ唇の端を上げた。
「無理をする必要のないところで、無理をしなくていい。
――以前も言いましたよね」
その言い方が、優しさに似ていて。
優しさの形をしているのに、命令でもあって。
アランは胸がきゅっと締まった。
助け舟なのに、救われた気がしない。
救われたのに、支配の輪の中にいることを思い知らされる。
教育係たちは、まだ納得できない顔で俯きながらも、ゆっくりと引いた。
その場の空気が少しだけ緩む。
けれどアランの心は、逆に固くなっていく。
この男は恐ろしい。
残酷で、強くて、何でも奪える。
それなのに、今みたいに突然、こちらを楽にさせることがある。
それが――怖い。
何を狙っているのか分からない。
何を引き出したいのか分からない。
優しさのように見える刃が、いちばん厄介だ。
アランはフォークを置き、伏せた瞳のまま小さく言った。
「……ありがとうございます」
言った瞬間、胸の奥がざわついた。
礼を言うべき相手なのか。
礼を言ったら何かを渡してしまうのではないか。
その不安が、遅れて襲ってくる。
レギュラスは、満足そうでもなく、怒っているでもなく、ただ淡く笑った。
「どういたしまして。――食事を続けてください、アラン」
その一言で、また距離が変わる。
救われたはずなのに、近づかれた気がして、戸惑いが増す。
アランは頷いて、皿に視線を戻した。
ナイフの刃が、銀色に光っている。
自分の手はまだ震えていた。
けれど――さっきより少しだけ、息ができる。
その事実が、いちばん恐ろしかった。
今日のレギュラス・ブラックは、いつもよりも軍の匂いを纏っていた。
黒いローブの裾が揺れるたび、内側に覗く濃い色の軍服が目に刺さる。
金具の光、肩の線の張り、無駄のない硬質な仕立て。
残酷なほどに、この男に似合っていた。
似合ってしまうことが、腹立たしいくらいに。
アランは彼の正面に座っていた。
ここ数日、会話は増えた。
増えたのに、距離が縮まったようで――縮まっていない。
いつだって彼の言葉は、何かを差し出す形をして、何かを奪う。
「アーシュ・カデルですが」
レギュラスが何気ない調子で言った瞬間、アランの胸がきゅっと縮んだ。
その名は、イェルスの土と同じ匂いを連れてくる。
焼けた森、乾いた風、狩りの煙、笑い声。
もう戻れない景色。
「あなたも驚きますよ。ここまでの速さの出世は、なかなかありません」
淡々と告げられる評価が、なぜか屈辱に近かった。
誇るべきことのはずなのに、誇らせてもらえない感覚。
この男の口から語られる同胞の成功は、いつも鎖の音を伴う。
「現在、彼は――准尉です。
来月の戦功次第では、少尉への昇進も視野に入る」
准尉。
アランは、その言葉の重さを完全には知らない。
けれど引き上げられているという意味だけは伝わった。
捕虜だった男が、英国の軍の中で肩書きを得ていく。
それがどれほど異常で、どれほど巧妙な支配かも。
アーシュは元々、イェルスの地でも優れた狩人だった。
大きな体格を生かして獲物を仕留める力があり、体力は底なしだった。
笑いながら山を駆け、川を渡り、獣を担いで帰ってきた。
エルヤでさえ、あの体力には敵わないと冗談めかして言っていた。
「そうですか」
アランは、喉の奥の硬さを押し殺して答えた。
嬉しいはずなのに、素直に嬉しいと言えない。
それは祝福ではなく、切り離しに聞こえるからだ。
レギュラスは少しだけ口元を緩めた。
まるで、アランの反応を確認してから次を差し出すように。
「それから――」
息が止まる。
「彼は英国の女を妻にするそうです」
その一言が、胸の奥を鋭く突いた。
アランは瞬きもできなかった。
理解した途端に痛みが広がり、呼吸の仕方を忘れる。
胃の辺りがぎゅっと縮み、そこに冷たい手を入れられたように感覚がなくなる。
人が人を愛するのは自由だ。
誰を選ぶかは、誰にも決められない。
それはイェルスの教えでもある。
神のもとに、心は誰のものでもない。
――それでも。
この地に生まれ育った女を伴侶に選ぶということは。
この国の言葉で誓い、
この国の家に入り、
この国の秩序の中で暮らすということは。
つまり、アーシュ自身が
イェルスに戻るという意思を、手放したということだ。
アランは唇を噛んだ。
噛んだのに、痛みが遠い。
痛いのはそこじゃない。
「……彼が望んだのなら」
絞り出した声は、ひどく薄かった。
自分の言葉なのに、どこか他人事みたいに聞こえる。
レギュラスは頷いた。
「ええ。望んでいますよ。優秀な者は、望み方も賢い」
褒める口調なのに、冷たい。
賢い、という言葉がまるでこちらに馴染むことを指しているみたいで。
アランの胸はさらに痛んだ。
こうして少しずつ。
捕虜たちの中から、イェルスが薄れていく。
食事が変わる。
言葉が変わる。
服が変わる。
歩き方が変わる。
価値の置き方が変わる。
そして、帰る理由が変わる。
美しい自然に囲まれたあの国は。
焼け野原になって、奪われて、閉じ込められたままなのに。
思い出だけが取り残されていく。
泣きそうになった。
けれど泣いたら負けだと思った。
ここで泣けば、レギュラスはそれを効いたと判断する。
痛みを見せた分だけ、もっと刺してくる。
アランは背筋を伸ばし、翡翠の瞳を伏せたまま言った。
「……おめでとう、と。伝えてください」
言った瞬間、胸がさらに痛んだ。
祝福の言葉が、別れの言葉になってしまうから。
レギュラスは静かにアランを見下ろした。
軍服の硬い線が、彼の残酷さを強調する。
それでも声は、驚くほど柔らかい。
「もちろん。
あなたがそう言ったと、きちんと伝えましょう」
そのきちんとが、どうしようもなく怖かった。
アランの言葉まで支配の道具にして、
同胞の心をさらにこちら側へ寄せるために使うのだと、分かってしまう。
アランは拳を膝の上で握りしめた。
爪が掌に食い込み、やっと痛みが現実をつないでくれる。
イェルスは、皆の心の中から消えていく。
自分の中からさえ、少しずつ。
その事実が、涙よりも先に喉を締め付けた。
いつだったか、アランとそんな話をした。
空を飛べるのですか、と彼女は目を丸くして、まるで子どもみたいに驚いた。
木なら登れます、と。
高いところは平気で、そこから景色を見下ろせる、と。
――ならば、箒はどうだ。
木よりもずっと高い場所から、世界を見渡せる。
地面に縛られない。
鎖も、扉も、靴の踵の細さも、儀礼の角度も。
ほんのひとときだけ忘れられる。
それは、彼女に与えるには過ぎた自由だろうか。
そう思って、すぐに笑った。
自由の形を見せるのは、支配の手段にもなる。
選べると錯覚させるほど、人は従順になる。
けれど今日のレギュラスは、計算だけではなかった。
ただ、見たかったのだ。
翡翠の瞳が、恐怖ではなく驚きで満ちる瞬間を。
屋敷の裏庭、視界を遮るものの少ない芝の広場。
風が通り抜け、木々が遠くで葉を鳴らしている。
空は淡い青で、雲は薄く、まるで指先で破れそうなほど軽い。
レギュラスは箒を手に、背後を振り返った。
「アラン。怖くないですよ。落ちはしませんから」
言い切る声はあまりにも落ち着いていて、落ちるという可能性そのものがこの男には存在しないように聞こえた。
アランは、唇を少しだけ結び、足元を見た。
地面。
草。
その上にある細い棒のようなものが、どうして空を飛ぶのか理解が追いついていない顔。
それでも彼女は逃げなかった。
恐る恐る近づき、箒に跨る。
後ろに。
布越しに伝わる体温が一瞬だけ震えた。
寒さではない。
恐怖と期待の入り混じった震え。
「手は前に。――そう、こうです」
レギュラスは振り返らずに言い、アランの両腕を自分に回させる。
躊躇いが指先に残っていた。
けれど腕が腰に回った瞬間、その手は意外なほどしっかりと掴んだ。
触れられる。
抱きつかれる。
その事実に胸の奥が静かに満たされる。
拒まれるより、よほど素直だ。
彼女はまだ、欲を認めない。
けれど身体は、必要な場所に迷わず縋る。
「行きますよ」
箒が地面を離れた。
ふわり、と言うにはあまりにも急で。
一気に風が顔を叩き、衣服の裾が跳ねる。
アランの息が詰まったのが背中越しに分かった。
次の瞬間、悲鳴が上がる。
「――っ……!」
それは恐怖の声であり、驚きの声であり、怒りにも似た声だった。
落ちる、と思ったのだろう。
地面が遠ざかる。
木々が小さくなる。
屋敷が、黒い箱のように縮んでいく。
レギュラスは速度を落とさず、風を切った。
「大丈夫です。落ちません」
言葉は短いのに、不思議と確かだった。
背中に回された腕がさらに強くなる。
しがみつく力が増す。
その必死さが、滑稽ではなく、妙に愛おしい。
それでも、彼女の声は変わっていく。
悲鳴はやがて、息を呑む音に変わり、
息を呑む音は、感嘆へと溶けていく。
「……すごい……」
かすれた声が風に散り、レギュラスの耳に届く。
翡翠の瞳が空を映しているのが想像できた。
彼女は適応が早い。
そもそもの運動神経の良さが、この女には備わっている。
あの地で生きてきたのなら当然だ。
箒の上での体のバランスも、驚くほど上手く取っている。
レギュラスは湖の上へ出た。
水面が空を写し、風に揺れて銀の鱗みたいに光る。
川の上流も見せる。
森の切れ目から、緩やかな丘が広がる。
英国の自然はイェルスのそれには及ばないのかもしれない。
だが、レギュラスが見た中では十分すぎるほど豊かだと思っている。
背中でアランが小さく息を吐いた。
「……この国にも、こんなところがあるんですね」
その声は、警戒の薄い、素直な響きだった。
レギュラスは少しだけ口元を緩める。
「ええ。綺麗でしょう?」
――イェルスの方が、と言われたらどうしよう。
一瞬だけそんな考えが浮かび、すぐに捨てた。
比べられることが不快なのではない。
比べて彼女が“帰る場所”を思い出すことが、面倒なのだ。
けれどアランは何も言わなかった。
ただ、風を吸い込み、目を見開いている気配だけが伝わってくる。
少し高度を落とし、速度を緩める。
風が優しくなったところで、レギュラスが言った。
「少し休憩しましょうか」
「ええ……!」
返事が弾む。
その弾み方が、いちばん危うい。
楽しさを覚えた声は、鎖を忘れさせる。
アランはすぐに指を伸ばし、下を指すように言った。
「あそこの木。あれなら幹も枝もしっかりしています。
あそこに降りましょう」
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
――待て。
降りる場所が、なぜ地上ではなく木の上なんだ。
常識的に考えておかしい。
だがその常識が、この女とはあまりにも違う。
木は休む場所だと、本気で思っている顔をしている。
レギュラスは咳払いひとつで気持ちを整え、淡々と言った。
「地上でいいでしょう」
「でも、あそこの木は絶対に座り心地がいいです」
真剣だ。
心底、木の上が正しいと思っている。
アランの声には譲れない熱が混じっていて、レギュラスは思わず鼻で笑いそうになった。
「地上の方がいいに決まってます」
「木の上の方がいいに決まってます」
言い合いが、幼稚なほど噛み合わない。
けれどその噛み合わなさが、妙に心地いい。
彼女がこうして譲らない姿を見せるのは、この屋敷では珍しい。
礼儀作法の場では押し黙るくせに、木の話になると頑固になる。
そのギャップが、可笑しくて仕方がない。
レギュラスは箒を旋回させ、アランの指した木に向かいながら、わざとため息をついた。
「あなたは本当に……」
言葉の続きを飲み込む。
面倒だと言うには、声が柔らかくなりすぎる。
可愛いと口にするほど酔ってもいない。
木の枝先に近づくと、葉が風にざわめいた。
枝のしなり。
確かに太い。
確かに座れそうだ。
だが、わざわざ木の上に降りる必要などない。
「落ちたらどうするんです」
「落ちません。私は木なら落ちません」
自信満々に言うから、レギュラスは笑いを堪えきれなくなる。
落ちるかどうかの話ではなく、そんなところで休憩する発想が理解できないのだが。
「……分かりました」
不本意そうに言いながら、レギュラスは箒を枝の近くへ寄せた。
停止の呪文を軽くかけ、空中で静止させる。
枝に足をかけ、着地する。
続けてアランが降りる。
彼女は意外なほど器用だった。
足場の取り方が、まるで日常の延長みたいに自然だ。
靴もない。
けれど怖がらない。
枝の上に腰を下ろし、木の肌に手を当てる。
「ほら。絶対に座り心地がいい」
勝ち誇った声が、風に溶けた。
レギュラスは枝の上で、半歩離れて座る。
地上より高い。
風が近い。
空に近い。
そして、背後には何もない。
本来なら落ち着かないはずなのに。
アランの目は、子どものように輝いていた。
この瞬間だけ、囚人ではない顔をしている。
レギュラスはその横顔を見つめ、静かに思った。
――こういう顔を、もっと早く落ちて見せてくれればいいのに。
けれど言葉にはしない。
言葉にした瞬間、彼女はまた硬くなる。
だからただ、風の音と葉擦れの中で、銀の瞳を細めた。
「……綺麗でしょう?」
繰り返した問いに、アランは小さく頷いた。
「綺麗です」
それだけで、十分だった。
比べない。
否定しない。
ただ受け取った。
木の上で、世界は少しだけ静かだった。
その静けさの中で、アランの体温が、わずかにこちらへ傾いているのが分かった。
落ちないように――ではない。
ただ、風に揺れながら、隣の存在を確かめるように。
その僅かな重みが、レギュラスの胸の奥をゆっくりと満たしていった。
