1章
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鼻を突き抜けるような香辛料の匂いが、料理の湯気に混じって立ち上った。
一皿に乗せられた色は濃く、艶やかで、見るからに強い味がする。
英国の食卓は整っている。銀のナイフ、白い皿、静かな蝋燭の灯り。
けれどその整いの中に、突如として異国の火が置かれたみたいだった。
アランはフォークで小さく切り分け、恐る恐る口へ運ぶ。
次の瞬間、舌が刺された。
熱い。
痛い。
痺れる。
香辛料が口の中で爆ぜ、喉の奥まで突き抜ける。
思わず咳き込みそうになって、慌てて水に手を伸ばした。
グラスを持つ指先が僅かに震える。
水を飲む。飲んでもまだ、舌がじんじんと残っている。
こんなもの、食べたことがない。
それなのに――向かい側に座る男は何ともない顔でそれを食べていた。
銀の瞳は、皿ではなくアランの反応を見ている。
観察。
けれど、最近のその観察は、以前のような残酷さだけではない形をしている。
「辛いものは苦手でした?」
レギュラスが静かに言った。
声は淡い。咎めるでも、笑うでもない。
ただ、確認するように。
アランは水を飲み込み、喉の奥を整える。
答えない、という選択肢が今でもあるのに、
気づけば口が動いていた。
「……初めて食べて、驚きました」
言ってから、あ、と心のどこかで思う。
また“情報”を渡した。
好みを渡した。弱点を渡した。
なのに以前ほど、胸が凍らない。
会話が自然と増えてくるようになってから、
好き嫌いをこの男に渡すことに対して、戸惑いが薄れていった。
それが、怖かった。
レギュラスはほんの少し頷き、口元にごく薄い笑みを浮かべる。
笑みが、整いすぎていて不気味なのに――
その笑みが向けられているのが、自分だとわかると、心がざわつく。
「では今度から、刺激の強い香辛料は使わない料理を出させましょう」
あまりにも当然のように言われて、アランは反射的に首を振った。
「そこまでしなくて、かまいません」
答えは早かった。
早すぎて、自分でも驚くほどだった。
自分の好みに合わせられて、この屋敷の人間を動かされるのは苦しくなる。
肩身が狭くなるような思いだった。
――“特別扱い”は、恩恵ではない。
特別扱いは、鎖の形を変えただけの支配だ。
そして何より、同胞たちが見たらどう思うのか。
自分だけが守られているように見えたら――そんなの、耐えられない。
レギュラスはすぐに引かない。
引かない問いは、いつも逃げ道を塞ぐためにある。
「なぜです」
声は柔らかい。
柔らかいからこそ、拒めない。
「無理をする必要のないところで、無理をしなくてかまいません」
優しさに似た響きだった。
わからなくなるほどに。
純粋な優しさが向けられているようだった。
アランは、その言葉の中に罠を探す。
探してしまう。
無理をしなくていいと言いながら、別の何かを求めているのではないか。
次に奪うものを、穏やかに整えているのではないか。
けれど言葉の端々が、妙に丁寧で、落ち着いている。
いつもならもっと、愉快そうに、面白がるように言うはずなのに。
今日はそうではない。
だから余計に、アランは混乱する。
「……私が、特別になれば」
そう言いかけて、止めた。
“特別”という言葉を口にした瞬間、
それをこの男が喜ぶ気がしたからだ。
喜んで、もっと特別にして、もっと逃げられなくする。
アランは言葉を選び直す。
「……この屋敷の人たちを、私のために動かさせたくないんです」
レギュラスは微かに目を細めた。
感心したようでもあり、呆れたようでもある。
判断がつかない。
「あなたは、随分と気を遣うんですね」
気を遣っているのではない。
怖いのだ。
“与えられる”ことが怖い。
与えられるほど、奪われるのが確定するから。
その言葉を飲み込んで、アランはただ、布ナプキンを指先で整えた。
落ち着いているふりをする。
会話が増えれば増えるほど、こういうふりが上手くなる。
それもまた、彼に馴染んでいくようで嫌だった。
レギュラスはワインを一口含み、ゆっくり飲み込む。
その間の沈黙が、以前ほど恐ろしくなくなっていることに、アランは気づいてしまう。
――沈黙が恐ろしくない。
それは、会話が“日常”になりかけているということだ。
「……では、こうしましょう」
レギュラスが静かに言った。
「香辛料を完全に止めるのではなく、あなたが食べられる程度に調整する。
あなたが“特別”になるのではありません。
この屋敷の食事が、少しだけ柔らかくなるだけです」
言葉が巧妙だった。
特別ではない、と言いながら、
彼女のために世界を少し動かす。
しかもそれを“自然なこと”として差し出す。
アランの喉がきゅっと鳴る。
「……そんなふうに言われたら」
言葉が続かない。
拒めない。
拒めないのが、悔しい。
拒めないのに、心のどこかがほんの少し、息をついてしまうのがもっと悔しい。
レギュラスは、アランの表情の揺れを見て、ほとんど微笑みに近いものを浮かべた。
“落ちた”とは言わない。
だが“揺れた”のは確かだ。
揺れは次の一歩になる。
「あなたは辛いものが苦手。
甘いものが好き。
寒さに弱い。
高いところは平気。木には登れる」
指折り数えるように言われて、アランの顔が熱くなる。
自分のことが、言葉で並べられる。
それが恥ずかしい。
それが怖い。
それが――どこか、くすぐったい。
「……言わないでください」
小さく言うと、レギュラスは肩をすくめた。
「事実を並べただけですよ。
あなた自身が言ったことです」
そう言われると、言い返せない。
確かに自分の口から出た。
自分で差し出した。
その事実が、胸の奥をきゅっと締める。
「……あなたは?」
アランはふと、口にしていた。
問い返してしまった。
レギュラスのことを、知ろうとしている。
自分でも驚くほど自然に。
レギュラスの銀色の瞳が、静かに光った。
“来た”という光。
彼女が自分から問いを投げた。
それは、近づく合図だ。
「僕ですか」
レギュラスはわざと少し考えるふりをしてから、穏やかに言う。
「辛いものは好きです。
――人が慌てる顔を見るのも、ね」
最後の一言に、アランは悔しそうに目を伏せた。
やっぱりこの男だ。
やっぱり楽しんでいる。
けれど、その“楽しみ”が以前よりも柔らかい角を持っている気がして、余計に混乱する。
レギュラスは続ける。
「でもあなたが嫌がるなら、控えます。
あなたが“無理をしなくていい”ように」
同じ言葉をもう一度。
優しさに似た言葉。
けれど、それが本当に優しさなのか、それとも支配なのか――
アランには、まだ判別できない。
ただひとつだけ確かなのは。
いつのまにか、食事の時間が“ただ怖いだけ”ではなくなっていること。
気づけば会話が増え、
気づけば呼吸が少しだけ深くなり、
気づけばこの男の声に慣れ始めていること。
それが、何より怖かった。
眠りに落ちるのが、恐ろしい夜がある。
その日がまさにそうだった。
灯りを落として、布団に指先を沈めた瞬間から、胸の奥がざわざわと騒ぎ始める。
静かになればなるほど、あの日の音が大きくなる。
焼ける匂い。崩れる木の音。泣き叫ぶ声。
そして――緑の閃光。
エルヤを部屋には呼べない。
彼に触れて心を宥めることはできない。
誰にも見られない部屋の中でさえ許されないと告げられた言葉が、壁みたいに立ちはだかる。
抱きしめてほしい、という当たり前の願いすら、ここでは罪になる。
だから今日は眠る直前に、容赦なく襲ってくるものを、ただ一人で受け止めるしかない――そう思っていた。
コン、と扉が鳴った。
小さな音。
それだけで心臓が跳ねた。
使用人のものか、それとも――。
躰が先に緊張して、息が浅くなる。
「アラン」
呼ぶ声は低く、静かで。
それだけで誰かわかるのが、嫌だった。
「……来て」
命令。
逃げ場のない命令。
アランは布を握り、ゆっくり立ち上がった。
行きたくない。
けれど行かないという選択肢がないことを、もう知っている。
廊下は暗く、足音が黒い絨毯に吸い込まれる。
どこまで行っても黒。
どこまで行っても逃げられない。
書斎の扉の前で立ち止まると、ノックする前に開いた。
中は蝋燭の火が一本だけ揺れていた。
いつもより暗い。
静かで、柔らかい匂いがする。紙と革の匂い。
そして――少し甘い香り。
レギュラス・ブラックはソファに座っていた。
いつもなら、彼は向かい側に座る。
だから自分もそうしようと、反射的に向かいのソファへ向かった。
「こちらにどうぞ」
穏やかな声だった。
指先で示されたのは、彼の隣。
隣と言っても、少し離れたところ。
距離はある。けれど――向かい側に座っていた時より近い。
胸がきゅっと縮む。
警戒と不安が同時に上がってくる。
近いほど、刺されやすい。
アランは足を止め、数秒迷った。
迷っている間も、銀色の瞳が逃さず見ている気がした。
逃げるためではなく、捕まえるために見ている目。
結局、アランは示された場所に腰を下ろした。
ソファの革が沈み、温度が肌に伝わる。
レギュラスは卓の上に置かれていた薄いグラスを取り、そっと差し出した。
赤い液体が満たされていて――まるで血のようだった。
生理的に恐ろしくて見ていられない。
喉がぎゅっと狭くなる。
アランは拒む意味を込めて、首を振った。
「酒は飲みませんか?」
そこで初めて、それが酒なのだと知った。
赤い色が、血の色と重なって見えただけだ。
それでも――この国の残酷さは、こういうものを嗜むところにもごく自然と現れるのではないかとさえ思えてしまう。
「イェルスでは、女は飲みません」
アランが言うと、レギュラスは目を瞬かせた。
驚きというより、純粋な疑問の顔。
「では男だけが飲むんです?」
問い返しが、あまりにも普通だった。
計算の匂いがしない。
それが逆に不気味で、そして――奇妙に新鮮だった。
「……ええ。酒は、神と共に男たちが飲むものです」
アランは慎重に言葉を選ぶ。
信仰を口にするのは危険だ。
けれど聞かれたからには答える。答えないと次が来る。
「神と共に、ですか」
レギュラスがゆっくり言葉を反芻する。
馬鹿にする気配はない。
ただ、確かめるように。
「どんな儀式です?」
「……祭りの日です。狩りをした日。大地に祈りを捧げた日。
男たちが火の周りに集まって……歌を歌って、肉を分け合って……」
そこまで言って、アランは口を閉じた。
思い出が溢れそうだった。
火の匂い。笑い声。白い粉の模様。
――さっき、エルヤと真似事をした記憶が一瞬でよみがえる。
レギュラスの視線が、アランの顔のどこかに触れる。
白い塗料の跡はもう落としてあるはずなのに、まるでまだ残っている気がして、頬が熱くなる。
「女は、火の周りにいないんですか」
「……います。けれど飲まない」
「なぜ」
短い問い。
理由を掘る問い。
アランは胸の奥で、少し迷う。
言ってしまえば笑われるかもしれない。
けれど彼の目は、笑う前の目ではない。
今はただ、知りたい目だ。
「……子を守るからです」
「子を」
「女は……子を宿します。
だから、身体を乱すものを入れない。
神に捧げる祈りを、穢さない」
言い終えた瞬間、息が少し苦しくなった。
“穢れ”という概念を、英国の人間に理解できるはずがない。
理解できないからこそ、笑われる。
けれどレギュラスは、笑わなかった。
指先でグラスを回しながら、ただ小さく頷いた。
「理屈は分かります」
その言葉に、アランの眉がわずかに動く。
分かる?
この男が?
レギュラスは淡く続けた。
「あなたの国では、女が守りなんですね」
アランは言い返したくなる。
守り?
守れなかった。
父と母も、同胞も。
守りの血を持つと言われた自分すら、守れないままここにいる。
「……守りでした」
小さく、過去形になる。
それが自分でも悔しくて、唇を噛む。
レギュラスはその揺れを見て、あえて話題をずらした。
珍しく“追い詰めない”選択。
「では、あなたは甘い飲み物の方が好きですか」
「……甘いものは、好きです」
「やっぱり」
どこか愉快そうに言われ、アランは思わず顔を上げる。
やっぱりという言い方が、妙に親しげに聞こえるのが腹立たしい。
「……なぜ分かるんですか」
アランの方から問いが出てしまった。
それに気づいて、すぐに口を閉じる。
けれど遅い。
レギュラスの瞳が、静かに光った。
「食事の時、あなたは甘いものが出ると視線が少しだけ柔らかくなる」
観察されている。
それなのに――柔らかくなると指摘されたことが、なぜか胸の奥をくすぐったくした。
レギュラスはグラスを口に運び、ほんの一口だけ含む。
喉が動く。
赤い液体が体内へ消えるのを見て、アランはぞわりとした。
「……怖い?」
レギュラスが尋ねた。
「色が」
アランは正直に言ってしまう。
言ってから、後悔する。
弱みを渡した。
だがレギュラスはその弱みを、今は刃にしなかった。
代わりに、さらりと言う。
「では、あなたの前では飲まないようにしましょう」
簡単に。
当たり前のように。
それが“優しさ”に見えるのが、いちばん恐ろしい。
アランは混乱して、言葉が追いつかない。
「……どうして、呼んだんですか」
本当は聞きたくない。
答えが怖い。
けれど聞かないと、もっと怖い。
レギュラスは少しだけ黙って、火の揺れを見る。
その横顔が、妙に静かだった。
「眠れない顔をしていましたから」
「……」
「あなたは、眠りに落ちるのが恐ろしい夜がある」
断定。
でも当たっている。
当たりすぎていて、胸が痛い。
「……なぜ、分かるんですか」
「分かりますよ」
レギュラスがこちらを見る。
銀色の瞳は冷たいはずなのに、今日は測っているように見えない。
ただ、見ている。
「あなたの呼吸が変わる。
目が、遠いものを見ようとする。
――炎の夢を見ると言いましたね」
アランは背筋が凍った。
炎を覚えている。
自分が口にした小さな情報が、こうして戻ってくる。
「怖いなら、今夜は眠らなくていい」
「……」
「ここにいなさい」
命令の形なのに、檻ではなく“避難所”の形をしている。
その形が、わからなくさせる。
この男は刃なのに、刃であることを忘れさせる言葉を平気で使う。
アランは唇を噛み、布を握りしめた。
怖い。
けれど――一人の部屋へ戻って、悪夢に沈むよりは。
「……あなたの隣にいるのは、許されるんですか」
言ってから、顔が熱くなる。
自分で言ってしまった。
隣という言葉を。
レギュラスはほんの少し、口元を上げた。
「僕が許すことは、許されます」
当然のように。
それがこの屋敷の掟だと言うように。
そして、計算のない疑問の顔で、もう一度だけ言う。
「――あなたの国の神は、眠れない夜に何を与えるんです?」
アランは答えに詰まった。
神は、救ってくれなかった。
父も母も守れなかった。
自分の国も守れなかった。
けれど、火の周りで歌う時だけは、確かに心が救われていた。
「……歌を」
小さく答える。
「歌?」
「……皆で、歌います。
一人じゃなくなるから」
その言葉が口から落ちた瞬間、アランは自分の喉が震えるのを感じた。
今のは、祈りではなく――本音だった。
レギュラスはしばらく黙り、やがて静かに頷いた。
「なら、今夜は一人にしない」
それは優しさの言葉に聞こえる。
けれど、同時に“囲い込む”言葉でもある。
アランはその矛盾を抱えたまま、火の揺れを見つめた。
どこに計算があるのか分からない顔で人と話せる男なのか、と――
また思ってしまう自分が、いちばん怖かった。
夜は長い。
けれど、今夜はその長さが心地よかった。
書斎の灯りは落とされ、蝋燭の火だけが揺れている。
影が壁を這い、沈黙が濃くなるはずの時間なのに――その濃さが今夜は柔らかい。
グラスの中で赤い酒がわずかに揺れ、香りだけが空気に溶けた。
手応えは感じている。
色んな好みを聞き出し、何でもない話を重ねていくことで、少しずつアランの方が問うてくることも増えた。
その“自分から問う”という動きは、彼女にとって小さな裏切りだ。
裏切りの芽は、いつだって甘い。
表情が、どんどん豊かになっていく。
時々思い出したように警戒が宿るが、それもまたすぐに霞んでいく。
翡翠の瞳にいろんな温度が宿るのを見るのが心地よかった。
怒り、恐れ、戸惑い、呆れ、そして――ほんの微かな好奇心。
その好奇心が育つ瞬間が、何より美しい。
レギュラスはグラスを軽く揺らし、香りを楽しむふりをしながら言った。
「あなたは、さっき獣の肉と言いましたね」
アランは膝の上で布を握り直し、小さく頷く。
「ええ。狩りは大切でした。感謝して、分け合って……」
「感謝?」
「命をもらうからです」
あまりにも当たり前のように言う。
その当たり前が、英国の当たり前と噛み合わないのが面白い。
「では……あなたは、何でも食べるんですか」
アランは一瞬迷い、それから淡々と答える。
「食べます。そこにいるものは」
「例えば?」
「……コウモリも」
レギュラスは思わず笑いを漏らした。
「コウモリを食べるんです?」
アランは眉をひそめる。馬鹿にされたと感じたのだろう。
だが、その反発が出るのがいい。
反発は、感情がこちらに向いている証拠だ。
「ええ。焼いたりも煮たりもします」
「信じられない。味は?」
「脂が少ないです。香草を入れると食べやすい」
「香草……」
レギュラスが復唱すると、アランは少しだけ身を乗り出した。
「あなたたちは、香草を使わないのですか?」
――来た。
彼女の方から質問。
レギュラスはすぐに答えず、わざと一口酒を含んでから言う。
間を置くと、彼女は続きを待つ。待つという行為が、こちらへの信頼を積む。
「使いますよ。料理人の腕次第です。
ただ……僕は香草よりも、胡椒の方が好きでしたね」
「胡椒?」
「舌が少し痛むくらいの刺激がいい」
アランの目が丸くなる。
「痛いのが、好きなんですか」
「好きというより……生きている実感がある」
言った瞬間、アランの表情がふっと揺れた。
意味を測りかねる顔。
そして、その意味を知りたくなる顔。
「……あなたは、いつも“実感”が必要なのですか」
質問が返ってくる。
彼女の問い返しは、もう警戒だけではない。
興味が混じっている。
レギュラスは笑みを薄くして、わざと少しだけ弱みを差し出した。
「必要でした。若い頃は特に。
完璧でいるほど、何も感じなくなることがある」
アランが静かに息を呑む。
彼女は“完璧”という単語に敏感だ。
この男がそれを自分で口にするのは、少し意外なのだろう。
「……完璧は、苦しい?」
問いが柔らかい。
まるで本当に心配しているみたいな響きが混じった。
その響きに、レギュラスは喉の奥で愉快さを覚える。
「苦しい、というより……退屈です」
「退屈」
「ええ。だから、刺激が欲しくなる」
レギュラスは言いながら、グラスの縁を指でなぞった。
赤い液体の色は、彼女にとって恐怖の色だ。
だからこそ、今夜の彼女は飲まない。
飲まないのに夜通し付き合っている。それがすでに譲歩だ。
アランはふと、話題を変えた。
変えるというより、思い出したように口にする。
「……祭りの話を、もう少し聞きますか」
「聞きますよ」
「崖から海に……飛び降りる祭祀があります」
レギュラスの眉が動く。
「崖から?」
「ええ。神に誓いを立てる時に」
そんなことをして何を誓えるのか、何を祈れるのか。
意味がわからない。
わからないけれど――彼女はそれを見て過ごしたのだ。
そう思うと不思議と、その光景を思い浮かべるのが嫌悪感にまでは至らなかった。
「死にたいんですか、それは」
レギュラスが率直に言うと、アランは少し笑った。
笑った。
今夜、初めて。
「死にません。潮の流れを読むんです」
「読む?」
「飛び込む場所と、飛び込む角度と、息の入れ方」
「……息の入れ方?」
アランは頷き、手で小さく動きを示す。
彼女が自分の身体の使い方を語るとき、翡翠の瞳が生きる。
この屋敷で押し殺している野性の名残が、ふっと息を吹き返す。
レギュラスはそれをじっと見ていた。
「あなたは飛び込めるんです?」
「ええ、もちろんです」
即答。
迷いがない。
崖から飛び降りる部族の姫なんて、英国では考えられない。
レギュラスは口元を上げる。
「では今度、僕の目の前で見せてください」
「……ここには崖がありません」
「崖なら用意できます。海も」
当然のように言う。
用意できないものはない、と言うみたいに。
アランの顔が硬くなる。
彼女は“用意する”という言葉の裏にある支配を知っている。
今の言葉は冗談の形をした命令にもなり得る。
だからレギュラスは、そこで一段だけ声を軽くした。
「冗談ですよ。
ただ――あなたの度胸を見てみたい。
木に登れる女が崖から飛ぶなんて、面白いでしょう」
「……面白い、って」
アランの眉が寄る。
怒っているようで、完全には怒っていない。
戸惑いが混じる。
その混じり方が、夜を柔らかくする。
「あなたは、怖いものがないんですか」
彼女がふいに尋ねた。
レギュラスの方へ、問いが飛んでくる。
それは、彼女の世界からこちらへ橋が伸びた瞬間だった。
レギュラスは少しだけ目を細める。
答え方を選ぶ。
強さ”を見せる答えは簡単だが、今夜欲しいのはそれじゃない。
今夜欲しいのは、彼女の心が近づく感覚だ。
「ありますよ」
「……何が」
「失うこと」
アランの瞳が揺れた。
それは彼女自身の痛みに触れる言葉でもある。
「あなたは?」
レギュラスが問い返す。
彼女に答えさせるのではなく、会話を“往復”にする。
アランは一瞬黙り、膝の布を指で撫でた。
「……眠ることが、怖いです」
「炎の夢?」
「ええ」
「今夜も?」
アランは小さく頷く。
その頷きが、弱さの告白だ。
そして告白を引き出せたことが、胸の奥を満たす。
レギュラスはそこで、あえて優しいことを言わない。
優しさは彼女を混乱させる。
混乱は警戒を呼び戻す。
代わりに、事実の形で寄り添う。
「なら、話しましょう。眠くなるまで」
「……眠くならなかったら」
「朝まで」
当然のように言う。
朝まで付き合うと言っているのではない。
朝まで“ここにいさせる”と言っている。
だが彼女は、それをどこか救いのように受け取ってしまう。
アランは戸惑いながら、少しだけ息を緩めた。
「あなたは、眠らなくて平気なんですか」
「平気ではありません。
でも、必要なら起きます」
「必要……」
「あなたが今夜、壊れないために」
言葉が落ちた瞬間、アランの目が微かに見開かれた。
壊れるという表現が、彼女の中の恐怖と一致したのだろう。
そして、翡翠の瞳に宿る温度がまた変わる。
疑いと、安堵と、理解しかけた何か。
その色が混ざり合うのを、レギュラスは眺める。
欲しいと思ったものが、ゆっくり時間をかけて落ちてくる様というのは、こんなにも愉しいのだ。
レギュラスは酒を一口飲み、ふと別の話題を投げた。
重くならないように。
彼女の口が自然に動くように。
「あなたの国には、甘い菓子は?」
アランは少し笑った。
「蜂蜜だけです。
でも、祭りの日に……少しだけ」
「少しだけ、か。
あなたはそれで満足していたんですね」
「満足でした。みんなで分けたから」
「共有が好きなんだ」
「……あなたは違うんですか」
問いが返ってくる。
また、橋が伸びる。
レギュラスは少しだけ肩をすくめた。
「僕は――独り占めが好きでした」
素直に言う。
その素直さに、アランは笑うのか、引くのか。
アランは一瞬固まり、それから、小さく息を吐いた。
「正直ですね」
「あなたに言われるとは」
レギュラスが笑うと、アランもほんの僅かに口元を緩めた。
その微笑みが、夜の中で火みたいに小さく灯る。
――こんな顔をするのだ。
彼女は。
怯えて震えるだけじゃなく、笑うことができる。
そして、その笑いが自分の前で起きた。
それが嬉しい、という感情に似たものを、レギュラスは認めたくなくて、酒で喉を潤した。
「あなたは、まだ他にも信じられない食べ物を持っていそうですね」
「あります。蛇も」
「蛇」
「はい。干して、煮ます」
「……あなたの国の料理人は、勇敢だ」
「みんな、料理します」
「姫も?」
「姫も」
その言い方が、誇りみたいに響く。
イェルスの“姫”は、守られているだけではない。
自分で生きてきたのだ。
レギュラスはその事実を、ゆっくり飲み込む。
それが欲しい。
彼女の誇りも、生き方も、翡翠の瞳の奥の“自分の世界”も。
夜はまだ長い。
グラスの中の赤は減り、蝋燭の芯が少しずつ短くなる。
それでも会話は途切れない。
彼女が質問を返し、驚き、時々笑い、時々警戒し、そしてまた霞んでいく。
翡翠の瞳が、少しずつ自分側に近づいた気がして心地がいい。
落ちてくる。
ゆっくり。
けれど確実に。
その過程のすべてが、レギュラスにとっては愉しみだった。
海は、崩れなかった。
潮の上に張られた結界は、風にも波にも揺らがない。
結界の上に重ねられた封印は、まるで“世界の輪郭”そのものを固めるように機能していた。
敵国の迎撃術式は弾かれ、遠距離の干渉は通らず、海上戦の不確実性は驚くほど削られていく。
攻める側が恐れるべきは、海ではない。
――もはや“守り”だけだった。
そしてその守りが確保された瞬間、攻撃に全ての魔法兵を割ける。
編成は単純化し、兵站は安定し、侵攻は滑らかに、当然のように進んでいく。
報告書の束が机に積み上がり、地図に刺さる針が日々増える。
赤い線が海を跨ぎ、国境を容易くなぞり潰していく。
続々と各国の魔法界が“英国の名の下”に集まり、条約は屈服と同義になった。
この世界地図は、そのうち英国だけになる日も近い。
そう思うと、レギュラスは笑いが出てきた。
笑うべきだ。
正しい方向へ世界が整っていく。
混沌は嫌いだ。曖昧は嫌いだ。
統一された秩序ほど美しいものはない。
「長官」
控えていたハロウ指揮官が、資料を一枚差し出す。
無駄のない動き。軍人らしい簡潔さ。
それに対してレギュラスは、紙面を一瞥するだけで意図を理解した。
「アーシュ・カデル、ですか」
名前を口にするだけで、捕虜の出自と同時に成果が浮かぶ。
指先だけで弱い呪文を紡いでいたはずの男が、杖を握った瞬間に伸びた。
伸び方が異常だった。
巡査官もそこに口を挟む。
マルコム・グレイヴス――口の端に、微かに不満が見える。
「はい、長官。
アーシュ・カデルは、杖を用いての攻撃呪文の命中率が非常に高い。持続力も強い。
訓練の吸収も早い。現場の評価が上がっております」
ハロウも頷いた。
「命中率は既存兵の上位層と同等、持続に関しては一段上です。
防御術式の切り替えも速い。
……花形に置いてやれば、勝利を引っ張る駒になります」
レギュラスは指で机の縁を軽く叩いた。
満足の癖のような動きだった。
「素晴らしいじゃないですか。ハロウ指揮官。
あなたから見て――アーシュ・カデルを引き上げるなら、どの立ち位置がいいと思います?」
引き上げるという言葉は、配置ではなく支配だ。
上げる者は、上げた者に頭を垂れる。
その構造が美しい。
ハロウは即座に答える。
「前線指揮系統の末端に置くより、突撃部隊の中核に据えるのが良いかと。
特に海上侵攻の先行隊――上陸直後の制圧部隊です。
勝利が目に見えれば、忠誠の形が定着します」
「なるほど」
レギュラスはゆっくり頷く。
勝利は麻薬だ。
麻薬を与えれば、戻れなくなる。
「では、そのようにして差し上げましょう」
軽い一言で、人の運命が決まる。
軍の花形。称賛。報奨。権力の匂い。
捕虜だった男が英国の勝利の象徴へ転がり上がる。
その瞬間――巡査官が、抑えきれないように言った。
「……ですが、あくまで捕虜の出です」
空気がわずかに冷える。
ハロウの表情が微かに固まった。
言うべきでない場面で言った、と理解している顔だ。
レギュラスは巡査官を見た。
視線だけで、喉元を掴める。
「優秀なものを引き上げていくのは当然でしょう?」
淡い笑み。
柔らかい声。
けれどその柔らかさは、刃の背だ。逃げ道を塞ぐ。
「無能なあなたの立場と引き換えでもいいですが、どうします?」
巡査官の顔色が変わる。
抗議も弁明も、喉の奥で凍りつく。
引き換えという言葉が、現実味を持ちすぎているからだ。
この男は本当にやる。やるからこそ、怖い。
沈黙。
その沈黙が答えだった。
レギュラスは愉快だった。
捕虜の出自を盾にする者は、たいてい自分が盾で守られている側だ。
盾を失った瞬間、何も残らない。
「よろしい」
レギュラスは視線を地図へ戻す。
海を跨ぐ針の列が、整然と並んでいる。
封印は効いている。効きすぎるほどに。
この世界の“抵抗”が、ひどく滑稽に見える。
「アーシュ・カデルには、功績に応じた階級を与えましょう。
ただし――」
一拍置く。
「報奨は成果に比例します。
忠誠も同じです。
彼が英国の中で生きる道を選ぶなら、僕はそれを最大限、用意する」
用意する。
与える。
そして、与えた分だけ縛る。
ハロウが頷いた。
「承知しました、長官」
巡査官はまだ黙っている。
黙るしかない。
その黙りこそが、この国の秩序だ。
レギュラスは紙の端に指を置き、次の報告書を引き寄せた。
海上侵攻はスムーズに進んでいる。
守りは盤石。攻撃に全てを割ける。
――世界は、英国に収束していく。
そしてその中心にある封印が、アラン・セシールの手で施されているという事実が、
レギュラスの心をひどく満たした。
あの翡翠の瞳。
あの手。
あの祈りの形をした魔法。
彼女の力が、世界を塗り替える。
その光景を自分が指揮している。
笑いが、また喉の奥で生まれた。
美しい翡翠の瞳は、かつて自分だけを映していたはずだ。
焚き火の揺れの中で。
潮風の匂いの中で。
獣の肉を分け合い、祈りの歌を重ね、眠る前に額へ触れて――
二人で生きていく未来を想像して、何度も誓い合った。
それなのに今。
圧倒的な強さを前に、イェルスの誇りは容赦なく踏み潰されていく。
食卓の席で、レギュラス・ブラックがアランに対して話しかける頻度が上がった。
ただ質問を投げるだけではない。
答えを待ち、頷き、時に笑い、時に――まるで彼女の世界を楽しんでいるように聞き取る。
アランが向ける警戒の色が、少しずつ和らいでいるのが分かる。
あれほど鋭かった棘が、時折ぼやける。
返事の速度が変わる。
視線が逃げる速さが変わる。
そして、ふとした瞬間――彼女が“自分から”問いを返す。
その一つ一つが、エルヤの胸の奥を冷たく締め付けた。
取り返しのつかないところまで、彼女の心があの男に侵略されてしまいそうで恐ろしくなる。
侵略だ。
海から国を堕とすのと同じように、彼は彼女の内側を堕としていく。
恐怖で縛り、秩序で囲い、与えることで奪い、会話で距離を詰める。
それがあの男のやり方だと、エルヤは嫌というほど理解していた。
いつのまにか見慣れてしまった英国の服装。
見慣れた上に、似合っているとさえ思ってしまう自分が悲しい。
黒い布、光る宝飾、指先の細い手袋。
それらが翡翠の瞳を、妙に際立たせる。
違う。
彼女には、あたたかな太陽の下で、手足を自由に出して、開放的なイェルスの服を着て、あの大地を走り回っている姿がよく似合うのに。
泥も、汗も、風も、彼女のものだったはずだ。
それをこの屋敷は、香水と布と礼儀で塗り替えていく。
そして何より。
部屋には入るなと言われてしまった。
の部屋には、入れない。
は誰の部屋にも入れない。
許されるのはレギュラスのところだけ――そんな理屈が、この屋敷では秩序と呼ばれている。
近づけない。
同じ廊下にいても、距離は壁ほど遠い。
目の前にいても、手を伸ばせば紋様が疼き、身体が先に屈する。
忠誠の印。
死を呼ぶ印。
それでも、今夜だけは――どうしても耐えられなかった。
食事の席でアランがほんの一瞬、笑った。
レギュラスの言葉に、ほんの一瞬、表情がほどけた。
それを見た瞬間、胸の奥の何かが焼けるように痛んだ。
嫉妬。
恐ろしさ。
不安。
それらが混ざり合い、喉の奥を詰まらせる。
だから、エルヤは彼女の手首を掴んだ。
人目を避け、物置のような小部屋に押し込む。
埃の匂い。古い布の匂い。
扉を閉めた瞬間、世界が狭くなる。
狭さが、救いになる。
「エルヤ……」
自分を呼ぶ声。
アランの声は変わらない。
それだけで、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「……危ない」
絞るように言う。
叱るつもりではない。
ただ、怖かった。
「……あの男には気をつけて。絶対に次を仕掛けてくる」
アランは黙っている。
黙りの中に、疲れがある。
疲れの中に、諦めが混ざっている気がして、さらに怖くなる。
「警戒を怠らないで。心を許すようなことをしないで」
言葉は祈りに似ていた。
願いに似ていた。
けれどその願いは、返事を待つ余裕もなく壊れそうだった。
エルヤは、アランの返事を待つより先に口付けた。
衝動だった。確認だった。
まだ自分のものだと、言葉より確かなもので確かめたかった。
唇が触れた瞬間、違和感が舌に広がる。
粘度のある何か。
甘さでもなく、苦さでもない、色味の強い味。
彼女の唇に、よく分からないものが塗られている。
離れた瞬間、エルヤは眉をひそめて言ってしまう。
「……何これ。変な味だ」
アランは、笑った。
その笑いが、胸に刺さるほど可愛かった。
刺さるほど――遠かった。
アランは袖で唇を拭った。
その仕草が、あまりにも懐かしい。
イェルスの地で、水を飲んだ後によくやっていた仕草だ。
彼女は忘れていない。
彼女はまだ、そこにいる。
「……エルヤ」
アランが小さく呼ぶ。
そして、子どもみたいに言う。
「もう一回しよう。今度はちゃんと」
息が詰まった。
今度はちゃんと――それは、さっきの口付けが恐怖で歪んでいたことを、彼女が理解しているということだ。
「ちゃんと、って……」
言いかけた言葉は、もう意味を持たなかった。
アランが少し背伸びをする。
狭い小部屋の中で、翡翠の瞳が近づく。
その瞳に、レギュラスの影がちらついて見えて――エルヤはそれを追い払うように、今度は自分から深く口付けた。
甘く。
確かめるように。
思い出すように。
お互いの体温の正しさを、何度も上書きするように。
唇が離れた時、アランの頬がほんのり赤い。
息が細く震えている。
それでも瞳は、まだ自分を見ている。
――まだ、自分を見ている。
その事実だけで、エルヤは救われた。
救われたからこそ、同時に怖くなる。
この救いが、次に奪われるのではないかと。
扉の向こうは広い。
廊下の先には銀色の目がある。
秩序と権力と、奪うための優しさがある。
エルヤは額をアランの額にそっと寄せた。
二人だけの祈りの距離。
「……帰ろう」
小さく言う。
けれど言葉は、どこか弱い。
アランは頷いた。
頷いたけれど、その頷きの奥に、ほんの少しだけ――迷いが混じった気がして。
エルヤは、その迷いを見ないふりをした。
見てしまえば、今夜の自分が壊れるから。
ただ、もう一度だけ唇を重ねた。
今度は確かに、甘く。
深く。
二人の誓いを、ここに残すために。
焦りの匂いは、隠せない。
それは声の震えでも、露骨な反抗でもない。
もっと些細で、もっと生々しいもの――視線の揺れ、足の向き、沈黙の長さ。
呼吸の浅さ。手の置き方。
何もしていないようで、常に“何かをしたい”と身体が語っている。
エルヤ・ナイームの様子からして、少しずつ焦りを感じてきているであろうことを、レギュラスは察していた。
動きたくてたまらないのだろう事なんて、手に取るほどにわかる。
わかるけれど腕にある紋様の縛りによって、あの男は自分の命令通りに動く。
動かなければ死ぬ。
それは従うのではなく、従わされることだ。
だからこそ、彼の内側には焦りが溜まる。
溜まれば、どこかで漏れる。
屋敷では至る所に目があると思えと忠告はしていた。
していたが、それでもなおあの男は行動を起こした。
物置小屋。
影の匂いがする場所。
人が見ていないと思いたくなる場所。
――つまり、こちらへの忠誠の揺らぎでもある。
レギュラスは呼び出しをかけた。
わざわざ大勢の前で恥をかかせる必要はない。
恥はアランに刺さる。
エルヤだけに刺すなら、静かな部屋で十分だ。
書斎ではない。
あまりにも主人の間すぎると、彼は最初から膝を折る。
折れてしまえば、焦りは見えない。
見たいのは折れた姿ではなく、折れきらない部分が軋む音だ。
応接の小部屋。
蝋燭を一本だけ。
薄暗い空間に、レギュラスはソファへ深く腰を下ろして待った。
扉が開く。
エルヤが入ってくる。
礼儀は身につき始めている。
頭の下げ方、足運び、目線の置き方。
それらは教えた通りだ。
――けれど、焦りは消えていない。
指先がわずかに強張っている。
視線が一瞬だけ、出口の方へ滑る。
その滑りが、彼の内側の騒がしさを語る。
レギュラスはすぐに咎めない。
沈黙を置く。
沈黙の中で、相手が自分の呼吸の音を聞き始める。
その瞬間が、もっとも素直な顔になる。
「エルヤ・ナイーム」
名を呼ぶと、彼は一段硬くなる。
呼び捨てではない。丁寧な呼び方。
だからこそ余計に怖い。
レギュラスは首を少し傾け、穏やかに問いを投げた。
「物置小屋は、監視の目がないと思いました?」
その瞬間、エルヤの目が見開かれた。
端正な顔立ちが衝撃の色に沈む。
喉が小さく動く。
まさかそこまで、という顔だ。
まさかそんなところにまで――と思っているのだろう。
見られていない場所があると信じたくなる。
人間は皆そうだ。
希望があるうちは、必ず盲点を探す。
レギュラスは笑わなかった。
笑えば“遊び”になる。
これは遊びではないと、彼に理解させる必要がある。
「……」
エルヤが何か言おうとして、言葉が出ない。
舌が絡まる。
焦りが、今ここで輪郭を持った。
レギュラスはそこで、ようやく言葉を滑らせる。
「ここはイェルスの地ではないんです」
淡々と。
事実のように。
反論の余地を与えない声音で。
「秩序のど真ん中にある、ブラック家の屋敷です」
その言葉は、部屋の空気を冷やした。
“秩序”という単語が、この屋敷では刃になる。
秩序に逆らう者は、排除される。
排除の方法はいくらでもある。
彼は腕の紋様を知っている。
死が具体的に想像できる。
レギュラスはグラスに指を添え、音もなく回す。
赤い液体が揺れる。
エルヤの視線が一瞬それに吸い寄せられ、すぐに戻る。
その戻し方すら、律儀になっている。
しつけは効いている。
だから余計に、内側の焦りが透ける。
「忠告しましたよね」
レギュラスは優しい声で言った。
優しい声ほど、逃げ道を潰す。
「この屋敷では、至る所に目があると思っていいと」
エルヤの肩が微かに上下する。
呼吸が少しだけ早い。
「……心得ております」
ようやく出た言葉は、訓練された答えだ。
だがレギュラスはその答えを求めていない。
求めているのは、“本音”の揺れ。
「心得ているのに、行動した」
レギュラスは静かに指摘する。
「それはつまり――僕への忠誠が揺らいだということです」
言葉を明確にすると、相手は否定したくなる。
否定しようとすれば、より多くを喋る。
喋れば、焦りが露わになる。
エルヤの瞳が揺れた。
怒りとも悲しみともつかない色。
その色の奥に、必死さがある。
守りたいものがある男の色だ。
「……違います」
やっと吐き出した否定。
震えが混じる。
礼儀の衣の下から、生身が顔を出す。
レギュラスは首を傾ける。
「では、何です」
短い問い。
逃げ道のない問い。
エルヤは唇を噛む。
噛んだ唇が白くなる。
紋様が腕の中で疼くように感じているのだろう。
“正解”を言わなければ、次が来る。
次は痛みかもしれない。死かもしれない。
それでも彼は、目を逸らさない。
逸らせない。
逸らした瞬間、アランがどこかへ連れて行かれる気がしているから。
「…… アランは」
その名が出た瞬間、レギュラスの内側で静かに笑いが生まれた。
やはりそこだ。
そこに紐が結ばれている。
「アラン・セシールのことになると、あなたは分かりやすい」
優しい口調で、残酷なことを言う。
分かりやすいという言葉は、扱いやすいという宣告だ。
「あなたは焦っている。
彼女を守っているつもりなんでしょう。僕から」
レギュラスはまるで同情するように言いながら、核心を握って離さない。
「――でも、守れていませんよね」
エルヤの目がかっと熱を帯びた。
怒りが燃える。
けれどその怒りはすぐに、絶望の色に変わりかける。
守れなかった現実が、あまりにも重いからだ。
レギュラスはそこで、軽く息を吐いた。
「いいですか。あなたがやるべきことは一つです」
声は穏やか。
命令の形をしているのに、道を示す形をしている。
「僕の秩序の中で、彼女の傍にいること。
それだけです」
エルヤの喉が鳴る。
傍にいるという言葉に希望が混じる。
だがすぐ後ろに棘がある。
レギュラスは微笑んだ。
「それ以上を望むなら――あなたの腕が、あなたに教えてくれるでしょう」
視線を、エルヤの腕の紋様へ落とす。
それだけで十分だった。
紋様は言葉より雄弁だ。
逆らえば死ぬ。
守りたいもののために動けば、死が来る。
エルヤは拳を握りしめ、震えを隠す。
その震えが、焦りそのものだった。
レギュラスは満足した。
焦りは、行動を呼ぶ。
行動は、失敗を呼ぶ。
失敗は、より強い鎖を正当化する。
そして――その鎖の先には、いつもアランがいる。
「次はないですよ」
レギュラスは静かに言った。
「物置小屋も、廊下の影も、あなたの信じた盲点も。
すべて、僕の中にあります」
銀色の瞳が、ゆっくりとエルヤを射抜く。
「理解しましたか、エルヤ・ナイーム」
返事は遅れた。
遅れたが、出すしかない。
「……はい」
その声は、従順さの形をしていた。
けれど内側には、焼けるような焦りがまだ残っている。
レギュラスはそれを見逃さなかった。
むしろ、望んでいた。
焦れば焦るほど、彼女は支えを探す。
支えを奪われた彼女は、最後にどこへ来るのか。
――自分のところに、来るしかない。
一皿に乗せられた色は濃く、艶やかで、見るからに強い味がする。
英国の食卓は整っている。銀のナイフ、白い皿、静かな蝋燭の灯り。
けれどその整いの中に、突如として異国の火が置かれたみたいだった。
アランはフォークで小さく切り分け、恐る恐る口へ運ぶ。
次の瞬間、舌が刺された。
熱い。
痛い。
痺れる。
香辛料が口の中で爆ぜ、喉の奥まで突き抜ける。
思わず咳き込みそうになって、慌てて水に手を伸ばした。
グラスを持つ指先が僅かに震える。
水を飲む。飲んでもまだ、舌がじんじんと残っている。
こんなもの、食べたことがない。
それなのに――向かい側に座る男は何ともない顔でそれを食べていた。
銀の瞳は、皿ではなくアランの反応を見ている。
観察。
けれど、最近のその観察は、以前のような残酷さだけではない形をしている。
「辛いものは苦手でした?」
レギュラスが静かに言った。
声は淡い。咎めるでも、笑うでもない。
ただ、確認するように。
アランは水を飲み込み、喉の奥を整える。
答えない、という選択肢が今でもあるのに、
気づけば口が動いていた。
「……初めて食べて、驚きました」
言ってから、あ、と心のどこかで思う。
また“情報”を渡した。
好みを渡した。弱点を渡した。
なのに以前ほど、胸が凍らない。
会話が自然と増えてくるようになってから、
好き嫌いをこの男に渡すことに対して、戸惑いが薄れていった。
それが、怖かった。
レギュラスはほんの少し頷き、口元にごく薄い笑みを浮かべる。
笑みが、整いすぎていて不気味なのに――
その笑みが向けられているのが、自分だとわかると、心がざわつく。
「では今度から、刺激の強い香辛料は使わない料理を出させましょう」
あまりにも当然のように言われて、アランは反射的に首を振った。
「そこまでしなくて、かまいません」
答えは早かった。
早すぎて、自分でも驚くほどだった。
自分の好みに合わせられて、この屋敷の人間を動かされるのは苦しくなる。
肩身が狭くなるような思いだった。
――“特別扱い”は、恩恵ではない。
特別扱いは、鎖の形を変えただけの支配だ。
そして何より、同胞たちが見たらどう思うのか。
自分だけが守られているように見えたら――そんなの、耐えられない。
レギュラスはすぐに引かない。
引かない問いは、いつも逃げ道を塞ぐためにある。
「なぜです」
声は柔らかい。
柔らかいからこそ、拒めない。
「無理をする必要のないところで、無理をしなくてかまいません」
優しさに似た響きだった。
わからなくなるほどに。
純粋な優しさが向けられているようだった。
アランは、その言葉の中に罠を探す。
探してしまう。
無理をしなくていいと言いながら、別の何かを求めているのではないか。
次に奪うものを、穏やかに整えているのではないか。
けれど言葉の端々が、妙に丁寧で、落ち着いている。
いつもならもっと、愉快そうに、面白がるように言うはずなのに。
今日はそうではない。
だから余計に、アランは混乱する。
「……私が、特別になれば」
そう言いかけて、止めた。
“特別”という言葉を口にした瞬間、
それをこの男が喜ぶ気がしたからだ。
喜んで、もっと特別にして、もっと逃げられなくする。
アランは言葉を選び直す。
「……この屋敷の人たちを、私のために動かさせたくないんです」
レギュラスは微かに目を細めた。
感心したようでもあり、呆れたようでもある。
判断がつかない。
「あなたは、随分と気を遣うんですね」
気を遣っているのではない。
怖いのだ。
“与えられる”ことが怖い。
与えられるほど、奪われるのが確定するから。
その言葉を飲み込んで、アランはただ、布ナプキンを指先で整えた。
落ち着いているふりをする。
会話が増えれば増えるほど、こういうふりが上手くなる。
それもまた、彼に馴染んでいくようで嫌だった。
レギュラスはワインを一口含み、ゆっくり飲み込む。
その間の沈黙が、以前ほど恐ろしくなくなっていることに、アランは気づいてしまう。
――沈黙が恐ろしくない。
それは、会話が“日常”になりかけているということだ。
「……では、こうしましょう」
レギュラスが静かに言った。
「香辛料を完全に止めるのではなく、あなたが食べられる程度に調整する。
あなたが“特別”になるのではありません。
この屋敷の食事が、少しだけ柔らかくなるだけです」
言葉が巧妙だった。
特別ではない、と言いながら、
彼女のために世界を少し動かす。
しかもそれを“自然なこと”として差し出す。
アランの喉がきゅっと鳴る。
「……そんなふうに言われたら」
言葉が続かない。
拒めない。
拒めないのが、悔しい。
拒めないのに、心のどこかがほんの少し、息をついてしまうのがもっと悔しい。
レギュラスは、アランの表情の揺れを見て、ほとんど微笑みに近いものを浮かべた。
“落ちた”とは言わない。
だが“揺れた”のは確かだ。
揺れは次の一歩になる。
「あなたは辛いものが苦手。
甘いものが好き。
寒さに弱い。
高いところは平気。木には登れる」
指折り数えるように言われて、アランの顔が熱くなる。
自分のことが、言葉で並べられる。
それが恥ずかしい。
それが怖い。
それが――どこか、くすぐったい。
「……言わないでください」
小さく言うと、レギュラスは肩をすくめた。
「事実を並べただけですよ。
あなた自身が言ったことです」
そう言われると、言い返せない。
確かに自分の口から出た。
自分で差し出した。
その事実が、胸の奥をきゅっと締める。
「……あなたは?」
アランはふと、口にしていた。
問い返してしまった。
レギュラスのことを、知ろうとしている。
自分でも驚くほど自然に。
レギュラスの銀色の瞳が、静かに光った。
“来た”という光。
彼女が自分から問いを投げた。
それは、近づく合図だ。
「僕ですか」
レギュラスはわざと少し考えるふりをしてから、穏やかに言う。
「辛いものは好きです。
――人が慌てる顔を見るのも、ね」
最後の一言に、アランは悔しそうに目を伏せた。
やっぱりこの男だ。
やっぱり楽しんでいる。
けれど、その“楽しみ”が以前よりも柔らかい角を持っている気がして、余計に混乱する。
レギュラスは続ける。
「でもあなたが嫌がるなら、控えます。
あなたが“無理をしなくていい”ように」
同じ言葉をもう一度。
優しさに似た言葉。
けれど、それが本当に優しさなのか、それとも支配なのか――
アランには、まだ判別できない。
ただひとつだけ確かなのは。
いつのまにか、食事の時間が“ただ怖いだけ”ではなくなっていること。
気づけば会話が増え、
気づけば呼吸が少しだけ深くなり、
気づけばこの男の声に慣れ始めていること。
それが、何より怖かった。
眠りに落ちるのが、恐ろしい夜がある。
その日がまさにそうだった。
灯りを落として、布団に指先を沈めた瞬間から、胸の奥がざわざわと騒ぎ始める。
静かになればなるほど、あの日の音が大きくなる。
焼ける匂い。崩れる木の音。泣き叫ぶ声。
そして――緑の閃光。
エルヤを部屋には呼べない。
彼に触れて心を宥めることはできない。
誰にも見られない部屋の中でさえ許されないと告げられた言葉が、壁みたいに立ちはだかる。
抱きしめてほしい、という当たり前の願いすら、ここでは罪になる。
だから今日は眠る直前に、容赦なく襲ってくるものを、ただ一人で受け止めるしかない――そう思っていた。
コン、と扉が鳴った。
小さな音。
それだけで心臓が跳ねた。
使用人のものか、それとも――。
躰が先に緊張して、息が浅くなる。
「アラン」
呼ぶ声は低く、静かで。
それだけで誰かわかるのが、嫌だった。
「……来て」
命令。
逃げ場のない命令。
アランは布を握り、ゆっくり立ち上がった。
行きたくない。
けれど行かないという選択肢がないことを、もう知っている。
廊下は暗く、足音が黒い絨毯に吸い込まれる。
どこまで行っても黒。
どこまで行っても逃げられない。
書斎の扉の前で立ち止まると、ノックする前に開いた。
中は蝋燭の火が一本だけ揺れていた。
いつもより暗い。
静かで、柔らかい匂いがする。紙と革の匂い。
そして――少し甘い香り。
レギュラス・ブラックはソファに座っていた。
いつもなら、彼は向かい側に座る。
だから自分もそうしようと、反射的に向かいのソファへ向かった。
「こちらにどうぞ」
穏やかな声だった。
指先で示されたのは、彼の隣。
隣と言っても、少し離れたところ。
距離はある。けれど――向かい側に座っていた時より近い。
胸がきゅっと縮む。
警戒と不安が同時に上がってくる。
近いほど、刺されやすい。
アランは足を止め、数秒迷った。
迷っている間も、銀色の瞳が逃さず見ている気がした。
逃げるためではなく、捕まえるために見ている目。
結局、アランは示された場所に腰を下ろした。
ソファの革が沈み、温度が肌に伝わる。
レギュラスは卓の上に置かれていた薄いグラスを取り、そっと差し出した。
赤い液体が満たされていて――まるで血のようだった。
生理的に恐ろしくて見ていられない。
喉がぎゅっと狭くなる。
アランは拒む意味を込めて、首を振った。
「酒は飲みませんか?」
そこで初めて、それが酒なのだと知った。
赤い色が、血の色と重なって見えただけだ。
それでも――この国の残酷さは、こういうものを嗜むところにもごく自然と現れるのではないかとさえ思えてしまう。
「イェルスでは、女は飲みません」
アランが言うと、レギュラスは目を瞬かせた。
驚きというより、純粋な疑問の顔。
「では男だけが飲むんです?」
問い返しが、あまりにも普通だった。
計算の匂いがしない。
それが逆に不気味で、そして――奇妙に新鮮だった。
「……ええ。酒は、神と共に男たちが飲むものです」
アランは慎重に言葉を選ぶ。
信仰を口にするのは危険だ。
けれど聞かれたからには答える。答えないと次が来る。
「神と共に、ですか」
レギュラスがゆっくり言葉を反芻する。
馬鹿にする気配はない。
ただ、確かめるように。
「どんな儀式です?」
「……祭りの日です。狩りをした日。大地に祈りを捧げた日。
男たちが火の周りに集まって……歌を歌って、肉を分け合って……」
そこまで言って、アランは口を閉じた。
思い出が溢れそうだった。
火の匂い。笑い声。白い粉の模様。
――さっき、エルヤと真似事をした記憶が一瞬でよみがえる。
レギュラスの視線が、アランの顔のどこかに触れる。
白い塗料の跡はもう落としてあるはずなのに、まるでまだ残っている気がして、頬が熱くなる。
「女は、火の周りにいないんですか」
「……います。けれど飲まない」
「なぜ」
短い問い。
理由を掘る問い。
アランは胸の奥で、少し迷う。
言ってしまえば笑われるかもしれない。
けれど彼の目は、笑う前の目ではない。
今はただ、知りたい目だ。
「……子を守るからです」
「子を」
「女は……子を宿します。
だから、身体を乱すものを入れない。
神に捧げる祈りを、穢さない」
言い終えた瞬間、息が少し苦しくなった。
“穢れ”という概念を、英国の人間に理解できるはずがない。
理解できないからこそ、笑われる。
けれどレギュラスは、笑わなかった。
指先でグラスを回しながら、ただ小さく頷いた。
「理屈は分かります」
その言葉に、アランの眉がわずかに動く。
分かる?
この男が?
レギュラスは淡く続けた。
「あなたの国では、女が守りなんですね」
アランは言い返したくなる。
守り?
守れなかった。
父と母も、同胞も。
守りの血を持つと言われた自分すら、守れないままここにいる。
「……守りでした」
小さく、過去形になる。
それが自分でも悔しくて、唇を噛む。
レギュラスはその揺れを見て、あえて話題をずらした。
珍しく“追い詰めない”選択。
「では、あなたは甘い飲み物の方が好きですか」
「……甘いものは、好きです」
「やっぱり」
どこか愉快そうに言われ、アランは思わず顔を上げる。
やっぱりという言い方が、妙に親しげに聞こえるのが腹立たしい。
「……なぜ分かるんですか」
アランの方から問いが出てしまった。
それに気づいて、すぐに口を閉じる。
けれど遅い。
レギュラスの瞳が、静かに光った。
「食事の時、あなたは甘いものが出ると視線が少しだけ柔らかくなる」
観察されている。
それなのに――柔らかくなると指摘されたことが、なぜか胸の奥をくすぐったくした。
レギュラスはグラスを口に運び、ほんの一口だけ含む。
喉が動く。
赤い液体が体内へ消えるのを見て、アランはぞわりとした。
「……怖い?」
レギュラスが尋ねた。
「色が」
アランは正直に言ってしまう。
言ってから、後悔する。
弱みを渡した。
だがレギュラスはその弱みを、今は刃にしなかった。
代わりに、さらりと言う。
「では、あなたの前では飲まないようにしましょう」
簡単に。
当たり前のように。
それが“優しさ”に見えるのが、いちばん恐ろしい。
アランは混乱して、言葉が追いつかない。
「……どうして、呼んだんですか」
本当は聞きたくない。
答えが怖い。
けれど聞かないと、もっと怖い。
レギュラスは少しだけ黙って、火の揺れを見る。
その横顔が、妙に静かだった。
「眠れない顔をしていましたから」
「……」
「あなたは、眠りに落ちるのが恐ろしい夜がある」
断定。
でも当たっている。
当たりすぎていて、胸が痛い。
「……なぜ、分かるんですか」
「分かりますよ」
レギュラスがこちらを見る。
銀色の瞳は冷たいはずなのに、今日は測っているように見えない。
ただ、見ている。
「あなたの呼吸が変わる。
目が、遠いものを見ようとする。
――炎の夢を見ると言いましたね」
アランは背筋が凍った。
炎を覚えている。
自分が口にした小さな情報が、こうして戻ってくる。
「怖いなら、今夜は眠らなくていい」
「……」
「ここにいなさい」
命令の形なのに、檻ではなく“避難所”の形をしている。
その形が、わからなくさせる。
この男は刃なのに、刃であることを忘れさせる言葉を平気で使う。
アランは唇を噛み、布を握りしめた。
怖い。
けれど――一人の部屋へ戻って、悪夢に沈むよりは。
「……あなたの隣にいるのは、許されるんですか」
言ってから、顔が熱くなる。
自分で言ってしまった。
隣という言葉を。
レギュラスはほんの少し、口元を上げた。
「僕が許すことは、許されます」
当然のように。
それがこの屋敷の掟だと言うように。
そして、計算のない疑問の顔で、もう一度だけ言う。
「――あなたの国の神は、眠れない夜に何を与えるんです?」
アランは答えに詰まった。
神は、救ってくれなかった。
父も母も守れなかった。
自分の国も守れなかった。
けれど、火の周りで歌う時だけは、確かに心が救われていた。
「……歌を」
小さく答える。
「歌?」
「……皆で、歌います。
一人じゃなくなるから」
その言葉が口から落ちた瞬間、アランは自分の喉が震えるのを感じた。
今のは、祈りではなく――本音だった。
レギュラスはしばらく黙り、やがて静かに頷いた。
「なら、今夜は一人にしない」
それは優しさの言葉に聞こえる。
けれど、同時に“囲い込む”言葉でもある。
アランはその矛盾を抱えたまま、火の揺れを見つめた。
どこに計算があるのか分からない顔で人と話せる男なのか、と――
また思ってしまう自分が、いちばん怖かった。
夜は長い。
けれど、今夜はその長さが心地よかった。
書斎の灯りは落とされ、蝋燭の火だけが揺れている。
影が壁を這い、沈黙が濃くなるはずの時間なのに――その濃さが今夜は柔らかい。
グラスの中で赤い酒がわずかに揺れ、香りだけが空気に溶けた。
手応えは感じている。
色んな好みを聞き出し、何でもない話を重ねていくことで、少しずつアランの方が問うてくることも増えた。
その“自分から問う”という動きは、彼女にとって小さな裏切りだ。
裏切りの芽は、いつだって甘い。
表情が、どんどん豊かになっていく。
時々思い出したように警戒が宿るが、それもまたすぐに霞んでいく。
翡翠の瞳にいろんな温度が宿るのを見るのが心地よかった。
怒り、恐れ、戸惑い、呆れ、そして――ほんの微かな好奇心。
その好奇心が育つ瞬間が、何より美しい。
レギュラスはグラスを軽く揺らし、香りを楽しむふりをしながら言った。
「あなたは、さっき獣の肉と言いましたね」
アランは膝の上で布を握り直し、小さく頷く。
「ええ。狩りは大切でした。感謝して、分け合って……」
「感謝?」
「命をもらうからです」
あまりにも当たり前のように言う。
その当たり前が、英国の当たり前と噛み合わないのが面白い。
「では……あなたは、何でも食べるんですか」
アランは一瞬迷い、それから淡々と答える。
「食べます。そこにいるものは」
「例えば?」
「……コウモリも」
レギュラスは思わず笑いを漏らした。
「コウモリを食べるんです?」
アランは眉をひそめる。馬鹿にされたと感じたのだろう。
だが、その反発が出るのがいい。
反発は、感情がこちらに向いている証拠だ。
「ええ。焼いたりも煮たりもします」
「信じられない。味は?」
「脂が少ないです。香草を入れると食べやすい」
「香草……」
レギュラスが復唱すると、アランは少しだけ身を乗り出した。
「あなたたちは、香草を使わないのですか?」
――来た。
彼女の方から質問。
レギュラスはすぐに答えず、わざと一口酒を含んでから言う。
間を置くと、彼女は続きを待つ。待つという行為が、こちらへの信頼を積む。
「使いますよ。料理人の腕次第です。
ただ……僕は香草よりも、胡椒の方が好きでしたね」
「胡椒?」
「舌が少し痛むくらいの刺激がいい」
アランの目が丸くなる。
「痛いのが、好きなんですか」
「好きというより……生きている実感がある」
言った瞬間、アランの表情がふっと揺れた。
意味を測りかねる顔。
そして、その意味を知りたくなる顔。
「……あなたは、いつも“実感”が必要なのですか」
質問が返ってくる。
彼女の問い返しは、もう警戒だけではない。
興味が混じっている。
レギュラスは笑みを薄くして、わざと少しだけ弱みを差し出した。
「必要でした。若い頃は特に。
完璧でいるほど、何も感じなくなることがある」
アランが静かに息を呑む。
彼女は“完璧”という単語に敏感だ。
この男がそれを自分で口にするのは、少し意外なのだろう。
「……完璧は、苦しい?」
問いが柔らかい。
まるで本当に心配しているみたいな響きが混じった。
その響きに、レギュラスは喉の奥で愉快さを覚える。
「苦しい、というより……退屈です」
「退屈」
「ええ。だから、刺激が欲しくなる」
レギュラスは言いながら、グラスの縁を指でなぞった。
赤い液体の色は、彼女にとって恐怖の色だ。
だからこそ、今夜の彼女は飲まない。
飲まないのに夜通し付き合っている。それがすでに譲歩だ。
アランはふと、話題を変えた。
変えるというより、思い出したように口にする。
「……祭りの話を、もう少し聞きますか」
「聞きますよ」
「崖から海に……飛び降りる祭祀があります」
レギュラスの眉が動く。
「崖から?」
「ええ。神に誓いを立てる時に」
そんなことをして何を誓えるのか、何を祈れるのか。
意味がわからない。
わからないけれど――彼女はそれを見て過ごしたのだ。
そう思うと不思議と、その光景を思い浮かべるのが嫌悪感にまでは至らなかった。
「死にたいんですか、それは」
レギュラスが率直に言うと、アランは少し笑った。
笑った。
今夜、初めて。
「死にません。潮の流れを読むんです」
「読む?」
「飛び込む場所と、飛び込む角度と、息の入れ方」
「……息の入れ方?」
アランは頷き、手で小さく動きを示す。
彼女が自分の身体の使い方を語るとき、翡翠の瞳が生きる。
この屋敷で押し殺している野性の名残が、ふっと息を吹き返す。
レギュラスはそれをじっと見ていた。
「あなたは飛び込めるんです?」
「ええ、もちろんです」
即答。
迷いがない。
崖から飛び降りる部族の姫なんて、英国では考えられない。
レギュラスは口元を上げる。
「では今度、僕の目の前で見せてください」
「……ここには崖がありません」
「崖なら用意できます。海も」
当然のように言う。
用意できないものはない、と言うみたいに。
アランの顔が硬くなる。
彼女は“用意する”という言葉の裏にある支配を知っている。
今の言葉は冗談の形をした命令にもなり得る。
だからレギュラスは、そこで一段だけ声を軽くした。
「冗談ですよ。
ただ――あなたの度胸を見てみたい。
木に登れる女が崖から飛ぶなんて、面白いでしょう」
「……面白い、って」
アランの眉が寄る。
怒っているようで、完全には怒っていない。
戸惑いが混じる。
その混じり方が、夜を柔らかくする。
「あなたは、怖いものがないんですか」
彼女がふいに尋ねた。
レギュラスの方へ、問いが飛んでくる。
それは、彼女の世界からこちらへ橋が伸びた瞬間だった。
レギュラスは少しだけ目を細める。
答え方を選ぶ。
強さ”を見せる答えは簡単だが、今夜欲しいのはそれじゃない。
今夜欲しいのは、彼女の心が近づく感覚だ。
「ありますよ」
「……何が」
「失うこと」
アランの瞳が揺れた。
それは彼女自身の痛みに触れる言葉でもある。
「あなたは?」
レギュラスが問い返す。
彼女に答えさせるのではなく、会話を“往復”にする。
アランは一瞬黙り、膝の布を指で撫でた。
「……眠ることが、怖いです」
「炎の夢?」
「ええ」
「今夜も?」
アランは小さく頷く。
その頷きが、弱さの告白だ。
そして告白を引き出せたことが、胸の奥を満たす。
レギュラスはそこで、あえて優しいことを言わない。
優しさは彼女を混乱させる。
混乱は警戒を呼び戻す。
代わりに、事実の形で寄り添う。
「なら、話しましょう。眠くなるまで」
「……眠くならなかったら」
「朝まで」
当然のように言う。
朝まで付き合うと言っているのではない。
朝まで“ここにいさせる”と言っている。
だが彼女は、それをどこか救いのように受け取ってしまう。
アランは戸惑いながら、少しだけ息を緩めた。
「あなたは、眠らなくて平気なんですか」
「平気ではありません。
でも、必要なら起きます」
「必要……」
「あなたが今夜、壊れないために」
言葉が落ちた瞬間、アランの目が微かに見開かれた。
壊れるという表現が、彼女の中の恐怖と一致したのだろう。
そして、翡翠の瞳に宿る温度がまた変わる。
疑いと、安堵と、理解しかけた何か。
その色が混ざり合うのを、レギュラスは眺める。
欲しいと思ったものが、ゆっくり時間をかけて落ちてくる様というのは、こんなにも愉しいのだ。
レギュラスは酒を一口飲み、ふと別の話題を投げた。
重くならないように。
彼女の口が自然に動くように。
「あなたの国には、甘い菓子は?」
アランは少し笑った。
「蜂蜜だけです。
でも、祭りの日に……少しだけ」
「少しだけ、か。
あなたはそれで満足していたんですね」
「満足でした。みんなで分けたから」
「共有が好きなんだ」
「……あなたは違うんですか」
問いが返ってくる。
また、橋が伸びる。
レギュラスは少しだけ肩をすくめた。
「僕は――独り占めが好きでした」
素直に言う。
その素直さに、アランは笑うのか、引くのか。
アランは一瞬固まり、それから、小さく息を吐いた。
「正直ですね」
「あなたに言われるとは」
レギュラスが笑うと、アランもほんの僅かに口元を緩めた。
その微笑みが、夜の中で火みたいに小さく灯る。
――こんな顔をするのだ。
彼女は。
怯えて震えるだけじゃなく、笑うことができる。
そして、その笑いが自分の前で起きた。
それが嬉しい、という感情に似たものを、レギュラスは認めたくなくて、酒で喉を潤した。
「あなたは、まだ他にも信じられない食べ物を持っていそうですね」
「あります。蛇も」
「蛇」
「はい。干して、煮ます」
「……あなたの国の料理人は、勇敢だ」
「みんな、料理します」
「姫も?」
「姫も」
その言い方が、誇りみたいに響く。
イェルスの“姫”は、守られているだけではない。
自分で生きてきたのだ。
レギュラスはその事実を、ゆっくり飲み込む。
それが欲しい。
彼女の誇りも、生き方も、翡翠の瞳の奥の“自分の世界”も。
夜はまだ長い。
グラスの中の赤は減り、蝋燭の芯が少しずつ短くなる。
それでも会話は途切れない。
彼女が質問を返し、驚き、時々笑い、時々警戒し、そしてまた霞んでいく。
翡翠の瞳が、少しずつ自分側に近づいた気がして心地がいい。
落ちてくる。
ゆっくり。
けれど確実に。
その過程のすべてが、レギュラスにとっては愉しみだった。
海は、崩れなかった。
潮の上に張られた結界は、風にも波にも揺らがない。
結界の上に重ねられた封印は、まるで“世界の輪郭”そのものを固めるように機能していた。
敵国の迎撃術式は弾かれ、遠距離の干渉は通らず、海上戦の不確実性は驚くほど削られていく。
攻める側が恐れるべきは、海ではない。
――もはや“守り”だけだった。
そしてその守りが確保された瞬間、攻撃に全ての魔法兵を割ける。
編成は単純化し、兵站は安定し、侵攻は滑らかに、当然のように進んでいく。
報告書の束が机に積み上がり、地図に刺さる針が日々増える。
赤い線が海を跨ぎ、国境を容易くなぞり潰していく。
続々と各国の魔法界が“英国の名の下”に集まり、条約は屈服と同義になった。
この世界地図は、そのうち英国だけになる日も近い。
そう思うと、レギュラスは笑いが出てきた。
笑うべきだ。
正しい方向へ世界が整っていく。
混沌は嫌いだ。曖昧は嫌いだ。
統一された秩序ほど美しいものはない。
「長官」
控えていたハロウ指揮官が、資料を一枚差し出す。
無駄のない動き。軍人らしい簡潔さ。
それに対してレギュラスは、紙面を一瞥するだけで意図を理解した。
「アーシュ・カデル、ですか」
名前を口にするだけで、捕虜の出自と同時に成果が浮かぶ。
指先だけで弱い呪文を紡いでいたはずの男が、杖を握った瞬間に伸びた。
伸び方が異常だった。
巡査官もそこに口を挟む。
マルコム・グレイヴス――口の端に、微かに不満が見える。
「はい、長官。
アーシュ・カデルは、杖を用いての攻撃呪文の命中率が非常に高い。持続力も強い。
訓練の吸収も早い。現場の評価が上がっております」
ハロウも頷いた。
「命中率は既存兵の上位層と同等、持続に関しては一段上です。
防御術式の切り替えも速い。
……花形に置いてやれば、勝利を引っ張る駒になります」
レギュラスは指で机の縁を軽く叩いた。
満足の癖のような動きだった。
「素晴らしいじゃないですか。ハロウ指揮官。
あなたから見て――アーシュ・カデルを引き上げるなら、どの立ち位置がいいと思います?」
引き上げるという言葉は、配置ではなく支配だ。
上げる者は、上げた者に頭を垂れる。
その構造が美しい。
ハロウは即座に答える。
「前線指揮系統の末端に置くより、突撃部隊の中核に据えるのが良いかと。
特に海上侵攻の先行隊――上陸直後の制圧部隊です。
勝利が目に見えれば、忠誠の形が定着します」
「なるほど」
レギュラスはゆっくり頷く。
勝利は麻薬だ。
麻薬を与えれば、戻れなくなる。
「では、そのようにして差し上げましょう」
軽い一言で、人の運命が決まる。
軍の花形。称賛。報奨。権力の匂い。
捕虜だった男が英国の勝利の象徴へ転がり上がる。
その瞬間――巡査官が、抑えきれないように言った。
「……ですが、あくまで捕虜の出です」
空気がわずかに冷える。
ハロウの表情が微かに固まった。
言うべきでない場面で言った、と理解している顔だ。
レギュラスは巡査官を見た。
視線だけで、喉元を掴める。
「優秀なものを引き上げていくのは当然でしょう?」
淡い笑み。
柔らかい声。
けれどその柔らかさは、刃の背だ。逃げ道を塞ぐ。
「無能なあなたの立場と引き換えでもいいですが、どうします?」
巡査官の顔色が変わる。
抗議も弁明も、喉の奥で凍りつく。
引き換えという言葉が、現実味を持ちすぎているからだ。
この男は本当にやる。やるからこそ、怖い。
沈黙。
その沈黙が答えだった。
レギュラスは愉快だった。
捕虜の出自を盾にする者は、たいてい自分が盾で守られている側だ。
盾を失った瞬間、何も残らない。
「よろしい」
レギュラスは視線を地図へ戻す。
海を跨ぐ針の列が、整然と並んでいる。
封印は効いている。効きすぎるほどに。
この世界の“抵抗”が、ひどく滑稽に見える。
「アーシュ・カデルには、功績に応じた階級を与えましょう。
ただし――」
一拍置く。
「報奨は成果に比例します。
忠誠も同じです。
彼が英国の中で生きる道を選ぶなら、僕はそれを最大限、用意する」
用意する。
与える。
そして、与えた分だけ縛る。
ハロウが頷いた。
「承知しました、長官」
巡査官はまだ黙っている。
黙るしかない。
その黙りこそが、この国の秩序だ。
レギュラスは紙の端に指を置き、次の報告書を引き寄せた。
海上侵攻はスムーズに進んでいる。
守りは盤石。攻撃に全てを割ける。
――世界は、英国に収束していく。
そしてその中心にある封印が、アラン・セシールの手で施されているという事実が、
レギュラスの心をひどく満たした。
あの翡翠の瞳。
あの手。
あの祈りの形をした魔法。
彼女の力が、世界を塗り替える。
その光景を自分が指揮している。
笑いが、また喉の奥で生まれた。
美しい翡翠の瞳は、かつて自分だけを映していたはずだ。
焚き火の揺れの中で。
潮風の匂いの中で。
獣の肉を分け合い、祈りの歌を重ね、眠る前に額へ触れて――
二人で生きていく未来を想像して、何度も誓い合った。
それなのに今。
圧倒的な強さを前に、イェルスの誇りは容赦なく踏み潰されていく。
食卓の席で、レギュラス・ブラックがアランに対して話しかける頻度が上がった。
ただ質問を投げるだけではない。
答えを待ち、頷き、時に笑い、時に――まるで彼女の世界を楽しんでいるように聞き取る。
アランが向ける警戒の色が、少しずつ和らいでいるのが分かる。
あれほど鋭かった棘が、時折ぼやける。
返事の速度が変わる。
視線が逃げる速さが変わる。
そして、ふとした瞬間――彼女が“自分から”問いを返す。
その一つ一つが、エルヤの胸の奥を冷たく締め付けた。
取り返しのつかないところまで、彼女の心があの男に侵略されてしまいそうで恐ろしくなる。
侵略だ。
海から国を堕とすのと同じように、彼は彼女の内側を堕としていく。
恐怖で縛り、秩序で囲い、与えることで奪い、会話で距離を詰める。
それがあの男のやり方だと、エルヤは嫌というほど理解していた。
いつのまにか見慣れてしまった英国の服装。
見慣れた上に、似合っているとさえ思ってしまう自分が悲しい。
黒い布、光る宝飾、指先の細い手袋。
それらが翡翠の瞳を、妙に際立たせる。
違う。
彼女には、あたたかな太陽の下で、手足を自由に出して、開放的なイェルスの服を着て、あの大地を走り回っている姿がよく似合うのに。
泥も、汗も、風も、彼女のものだったはずだ。
それをこの屋敷は、香水と布と礼儀で塗り替えていく。
そして何より。
部屋には入るなと言われてしまった。
の部屋には、入れない。
は誰の部屋にも入れない。
許されるのはレギュラスのところだけ――そんな理屈が、この屋敷では秩序と呼ばれている。
近づけない。
同じ廊下にいても、距離は壁ほど遠い。
目の前にいても、手を伸ばせば紋様が疼き、身体が先に屈する。
忠誠の印。
死を呼ぶ印。
それでも、今夜だけは――どうしても耐えられなかった。
食事の席でアランがほんの一瞬、笑った。
レギュラスの言葉に、ほんの一瞬、表情がほどけた。
それを見た瞬間、胸の奥の何かが焼けるように痛んだ。
嫉妬。
恐ろしさ。
不安。
それらが混ざり合い、喉の奥を詰まらせる。
だから、エルヤは彼女の手首を掴んだ。
人目を避け、物置のような小部屋に押し込む。
埃の匂い。古い布の匂い。
扉を閉めた瞬間、世界が狭くなる。
狭さが、救いになる。
「エルヤ……」
自分を呼ぶ声。
アランの声は変わらない。
それだけで、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「……危ない」
絞るように言う。
叱るつもりではない。
ただ、怖かった。
「……あの男には気をつけて。絶対に次を仕掛けてくる」
アランは黙っている。
黙りの中に、疲れがある。
疲れの中に、諦めが混ざっている気がして、さらに怖くなる。
「警戒を怠らないで。心を許すようなことをしないで」
言葉は祈りに似ていた。
願いに似ていた。
けれどその願いは、返事を待つ余裕もなく壊れそうだった。
エルヤは、アランの返事を待つより先に口付けた。
衝動だった。確認だった。
まだ自分のものだと、言葉より確かなもので確かめたかった。
唇が触れた瞬間、違和感が舌に広がる。
粘度のある何か。
甘さでもなく、苦さでもない、色味の強い味。
彼女の唇に、よく分からないものが塗られている。
離れた瞬間、エルヤは眉をひそめて言ってしまう。
「……何これ。変な味だ」
アランは、笑った。
その笑いが、胸に刺さるほど可愛かった。
刺さるほど――遠かった。
アランは袖で唇を拭った。
その仕草が、あまりにも懐かしい。
イェルスの地で、水を飲んだ後によくやっていた仕草だ。
彼女は忘れていない。
彼女はまだ、そこにいる。
「……エルヤ」
アランが小さく呼ぶ。
そして、子どもみたいに言う。
「もう一回しよう。今度はちゃんと」
息が詰まった。
今度はちゃんと――それは、さっきの口付けが恐怖で歪んでいたことを、彼女が理解しているということだ。
「ちゃんと、って……」
言いかけた言葉は、もう意味を持たなかった。
アランが少し背伸びをする。
狭い小部屋の中で、翡翠の瞳が近づく。
その瞳に、レギュラスの影がちらついて見えて――エルヤはそれを追い払うように、今度は自分から深く口付けた。
甘く。
確かめるように。
思い出すように。
お互いの体温の正しさを、何度も上書きするように。
唇が離れた時、アランの頬がほんのり赤い。
息が細く震えている。
それでも瞳は、まだ自分を見ている。
――まだ、自分を見ている。
その事実だけで、エルヤは救われた。
救われたからこそ、同時に怖くなる。
この救いが、次に奪われるのではないかと。
扉の向こうは広い。
廊下の先には銀色の目がある。
秩序と権力と、奪うための優しさがある。
エルヤは額をアランの額にそっと寄せた。
二人だけの祈りの距離。
「……帰ろう」
小さく言う。
けれど言葉は、どこか弱い。
アランは頷いた。
頷いたけれど、その頷きの奥に、ほんの少しだけ――迷いが混じった気がして。
エルヤは、その迷いを見ないふりをした。
見てしまえば、今夜の自分が壊れるから。
ただ、もう一度だけ唇を重ねた。
今度は確かに、甘く。
深く。
二人の誓いを、ここに残すために。
焦りの匂いは、隠せない。
それは声の震えでも、露骨な反抗でもない。
もっと些細で、もっと生々しいもの――視線の揺れ、足の向き、沈黙の長さ。
呼吸の浅さ。手の置き方。
何もしていないようで、常に“何かをしたい”と身体が語っている。
エルヤ・ナイームの様子からして、少しずつ焦りを感じてきているであろうことを、レギュラスは察していた。
動きたくてたまらないのだろう事なんて、手に取るほどにわかる。
わかるけれど腕にある紋様の縛りによって、あの男は自分の命令通りに動く。
動かなければ死ぬ。
それは従うのではなく、従わされることだ。
だからこそ、彼の内側には焦りが溜まる。
溜まれば、どこかで漏れる。
屋敷では至る所に目があると思えと忠告はしていた。
していたが、それでもなおあの男は行動を起こした。
物置小屋。
影の匂いがする場所。
人が見ていないと思いたくなる場所。
――つまり、こちらへの忠誠の揺らぎでもある。
レギュラスは呼び出しをかけた。
わざわざ大勢の前で恥をかかせる必要はない。
恥はアランに刺さる。
エルヤだけに刺すなら、静かな部屋で十分だ。
書斎ではない。
あまりにも主人の間すぎると、彼は最初から膝を折る。
折れてしまえば、焦りは見えない。
見たいのは折れた姿ではなく、折れきらない部分が軋む音だ。
応接の小部屋。
蝋燭を一本だけ。
薄暗い空間に、レギュラスはソファへ深く腰を下ろして待った。
扉が開く。
エルヤが入ってくる。
礼儀は身につき始めている。
頭の下げ方、足運び、目線の置き方。
それらは教えた通りだ。
――けれど、焦りは消えていない。
指先がわずかに強張っている。
視線が一瞬だけ、出口の方へ滑る。
その滑りが、彼の内側の騒がしさを語る。
レギュラスはすぐに咎めない。
沈黙を置く。
沈黙の中で、相手が自分の呼吸の音を聞き始める。
その瞬間が、もっとも素直な顔になる。
「エルヤ・ナイーム」
名を呼ぶと、彼は一段硬くなる。
呼び捨てではない。丁寧な呼び方。
だからこそ余計に怖い。
レギュラスは首を少し傾け、穏やかに問いを投げた。
「物置小屋は、監視の目がないと思いました?」
その瞬間、エルヤの目が見開かれた。
端正な顔立ちが衝撃の色に沈む。
喉が小さく動く。
まさかそこまで、という顔だ。
まさかそんなところにまで――と思っているのだろう。
見られていない場所があると信じたくなる。
人間は皆そうだ。
希望があるうちは、必ず盲点を探す。
レギュラスは笑わなかった。
笑えば“遊び”になる。
これは遊びではないと、彼に理解させる必要がある。
「……」
エルヤが何か言おうとして、言葉が出ない。
舌が絡まる。
焦りが、今ここで輪郭を持った。
レギュラスはそこで、ようやく言葉を滑らせる。
「ここはイェルスの地ではないんです」
淡々と。
事実のように。
反論の余地を与えない声音で。
「秩序のど真ん中にある、ブラック家の屋敷です」
その言葉は、部屋の空気を冷やした。
“秩序”という単語が、この屋敷では刃になる。
秩序に逆らう者は、排除される。
排除の方法はいくらでもある。
彼は腕の紋様を知っている。
死が具体的に想像できる。
レギュラスはグラスに指を添え、音もなく回す。
赤い液体が揺れる。
エルヤの視線が一瞬それに吸い寄せられ、すぐに戻る。
その戻し方すら、律儀になっている。
しつけは効いている。
だから余計に、内側の焦りが透ける。
「忠告しましたよね」
レギュラスは優しい声で言った。
優しい声ほど、逃げ道を潰す。
「この屋敷では、至る所に目があると思っていいと」
エルヤの肩が微かに上下する。
呼吸が少しだけ早い。
「……心得ております」
ようやく出た言葉は、訓練された答えだ。
だがレギュラスはその答えを求めていない。
求めているのは、“本音”の揺れ。
「心得ているのに、行動した」
レギュラスは静かに指摘する。
「それはつまり――僕への忠誠が揺らいだということです」
言葉を明確にすると、相手は否定したくなる。
否定しようとすれば、より多くを喋る。
喋れば、焦りが露わになる。
エルヤの瞳が揺れた。
怒りとも悲しみともつかない色。
その色の奥に、必死さがある。
守りたいものがある男の色だ。
「……違います」
やっと吐き出した否定。
震えが混じる。
礼儀の衣の下から、生身が顔を出す。
レギュラスは首を傾ける。
「では、何です」
短い問い。
逃げ道のない問い。
エルヤは唇を噛む。
噛んだ唇が白くなる。
紋様が腕の中で疼くように感じているのだろう。
“正解”を言わなければ、次が来る。
次は痛みかもしれない。死かもしれない。
それでも彼は、目を逸らさない。
逸らせない。
逸らした瞬間、アランがどこかへ連れて行かれる気がしているから。
「…… アランは」
その名が出た瞬間、レギュラスの内側で静かに笑いが生まれた。
やはりそこだ。
そこに紐が結ばれている。
「アラン・セシールのことになると、あなたは分かりやすい」
優しい口調で、残酷なことを言う。
分かりやすいという言葉は、扱いやすいという宣告だ。
「あなたは焦っている。
彼女を守っているつもりなんでしょう。僕から」
レギュラスはまるで同情するように言いながら、核心を握って離さない。
「――でも、守れていませんよね」
エルヤの目がかっと熱を帯びた。
怒りが燃える。
けれどその怒りはすぐに、絶望の色に変わりかける。
守れなかった現実が、あまりにも重いからだ。
レギュラスはそこで、軽く息を吐いた。
「いいですか。あなたがやるべきことは一つです」
声は穏やか。
命令の形をしているのに、道を示す形をしている。
「僕の秩序の中で、彼女の傍にいること。
それだけです」
エルヤの喉が鳴る。
傍にいるという言葉に希望が混じる。
だがすぐ後ろに棘がある。
レギュラスは微笑んだ。
「それ以上を望むなら――あなたの腕が、あなたに教えてくれるでしょう」
視線を、エルヤの腕の紋様へ落とす。
それだけで十分だった。
紋様は言葉より雄弁だ。
逆らえば死ぬ。
守りたいもののために動けば、死が来る。
エルヤは拳を握りしめ、震えを隠す。
その震えが、焦りそのものだった。
レギュラスは満足した。
焦りは、行動を呼ぶ。
行動は、失敗を呼ぶ。
失敗は、より強い鎖を正当化する。
そして――その鎖の先には、いつもアランがいる。
「次はないですよ」
レギュラスは静かに言った。
「物置小屋も、廊下の影も、あなたの信じた盲点も。
すべて、僕の中にあります」
銀色の瞳が、ゆっくりとエルヤを射抜く。
「理解しましたか、エルヤ・ナイーム」
返事は遅れた。
遅れたが、出すしかない。
「……はい」
その声は、従順さの形をしていた。
けれど内側には、焼けるような焦りがまだ残っている。
レギュラスはそれを見逃さなかった。
むしろ、望んでいた。
焦れば焦るほど、彼女は支えを探す。
支えを奪われた彼女は、最後にどこへ来るのか。
――自分のところに、来るしかない。
