1章
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食卓に着く前から、違和感は鼻を刺していた。
屋敷の空気は常に整っている。
黒の壁に、銀の食器に、料理の香りに、使用人の足音に。
すべてが“秩序”として磨かれ、余計な揺らぎを排除している。
その中に混じる、乾いた異臭。
塗料の匂いだ。修繕に使う、雨風に耐えるための強い塗料。肌に触れることすら想定されていない、鈍く硬い匂い。
不快だな、とレギュラスは思った。
匂いが不快なのではない。
“誰かが勝手に屋敷のものを使い、勝手に意味のわからないことをした”という事実が不快だった。
執事から報告は受けていた。
アランに与えた部屋で、二人が何かを口ずさみ、白い塗料を顔に塗っていたと。
そしてその塗料が水で洗っても落ちないと。
馬鹿じゃないのかと思った。
だが、報告の段階ではまだ、どこか他人事のように聞き流せた。
何を思い出そうが自由だし、そこを縛るつもりはない。
頭の中の郷愁だの、信仰だの、祈りだの。
そんなものを全て一つ一つ取り上げて管理しようとは思わない。
――思わないはずだった。
ただ、行動に移してそれを屋敷に持ち込むのは別だ。
扉が開き、二人が食堂へ入ってきた瞬間。
レギュラスはようやく、執事の報告の“意味”を理解した。
美しい翡翠の瞳を持つ顔に、訳のわからない白い塗料が塗りたくられている。
何の意味を持つのかわからない文様が、不気味なほどに翡翠の色を際立たせる。
その白は汚れのようでいて、汚れではない。
――意図をもった“装飾”だ。
理解できないものほど、目に刺さる。
視線を後ろに控える男へ移せば、その男も同じような文様を顔に宿していた。
揃いの印。揃いの儀式。揃いの秘密。
そこに、他者を拒む閉じた輪がある。
その輪の中心に、自分がいない。
乾いた笑いが喉の奥で鳴った。
面白い。
いや、面白くない。
美しさは、整えられるべきだ。
この屋敷の黒の中で、翡翠は最上の飾りになる。
その飾りに、意味不明な白を塗りつけるなど――
まるで宝石を泥で汚すようなものだ。
レギュラスは椅子に腰を下ろしたまま、静かに二人を見た。
使用人たちはいつもより息を潜めている。
視線を落としながらも、耳は立っている。
この屋敷では、“何を見せるか”が秩序の一部だ。
「……何をやってるんです?」
声は穏やかだった。
穏やかなほど、逃げ場がない。
アランが一瞬、身を固くする。
翡翠の瞳が揺れ、それでもすぐに伏せられる。
「すみません」
短い謝罪。
彼女の頬はところどころ赤い。
擦ったのだろう。落とそうとして、必死に。
その必死さが、さらに滑稽で、さらに苛立たしい。
塗料は屋敷の修繕に使うためのものだ。雨風に強い。
顔に塗るものではない。
馬鹿の極みだ。
何より――その美しい顔に“汚れ”が付けられたようで、受け入れがたかった。
「勝手な真似は控えるよう、伝えたはずです」
淡々と告げる。
“伝えた”という言い方の裏には、“従うのが当然”が含まれている。
「すみません」
また同じ言葉。
謝罪は、従属の形。
口にするたび、彼女は自分で首輪を締める。
レギュラスはそこで、視線をエルヤへ向けた。
この男だ。
アランが何かをしようとするとき、必ずこの男がいる。
支えであり、火種であり、逃亡の理由であり、そして――彼女の心の避難所。
避難所を残したままでは、支配は完成しない。
「それから、エルヤ・ナイーム」
名を呼ぶ。
名を呼ぶだけで、人は“こちら側”に引き寄せられる。
拒めないように、秩序の言葉で縛る。
「あなたは、アラン・セシールの部屋に入ることを禁じます」
空気が凍った。
アランの瞳が跳ねる。
エルヤの肩がわずかに強張る。
抗議が喉まで上がったはずだ。
けれど彼は声を出さない。
腕に刻まれた紋様が、彼の沈黙を保証している。
側で守らせてやるとは言った。
けれどそれは、同じ空間に入り込み好き勝手に触れ合っていいという許しではない。
ここはイェルスではない。
英国であり、ブラック家の屋敷だ。
秩序はすべてこちら側にある。
エルヤは明らかに動揺している。
だが俯く。
俯くしかない。
「返事がありませんが?」
レギュラスは微笑みすら浮かべず、ただ問いを重ねる。
質問形式で逃げ道を塞ぐ。
相手が“はい”と答える形を作り、その“はい”を誓約に変える。
エルヤの唇が震える。
震えを噛み殺して、彼は言った。
「……はい」
小さな声。
小さな声ほど、縛りは強い。
「よろしい」
レギュラスは静かに頷く。
その頷きが、処分の印のように重い。
「この屋敷では、祖国の奔放な触れ合いは徹底的に排除してください。
目に映ると不愉快です」
言い切ると、アランの顔が赤くなった。
怒りか、羞恥か。
“奔放”という言い方が気に障ったのだろう。
古代文明の残ったイェルスの地では、身に纏う服も薄く、露出が多い。
英国では品がないと言われるほどの露出だった。
そんな格好で男女が共に育ってきたのだと言うのだから、奔放さは想像に難くない。
――いや、想像する必要もない。
目の前に現実がある。
白い文様を揃えて、歌を口ずさみ、互いの顔に触れる。
閉じた輪を作り、屋敷の秩序の外側で呼吸をする。
それが、レギュラスには耐え難かった。
アランが何か言いかける。
唇が開きかけて、閉じられる。
言えば、また何かを失うと理解した顔だ。
その理解の早さだけは、評価している。
だからこそ、余計に腹立たしい。
理解しているなら、最初からやるな。
最初から“こちらの秩序”の中で息をしろ。
レギュラスはグラスを持ち上げ、静かに口をつけた。
ワインの味が、いつもより苦く感じる。
それが自分の感情のせいだと理解するのが、さらに不愉快だった。
彼は思う。
――何を思い出そうが自由だ。
だがそれを“形”にして、この屋敷へ持ち込むな。
この屋敷で形を与えるのは、僕だけで十分だ。
翡翠の瞳の美しさは、黒の中でこそ完成する。
白など要らない。
祈りなど要らない。
故郷など、要らない。
必要なのは、秩序だけだ。
そしてその秩序の中で、彼女がいつか、白ではなく黒を“神聖”と呼ぶようになる瞬間を――
レギュラスは、静かに待っているつもりでいた。
エルヤを奪われるのは、耐えがたかった。
喉の奥が焼ける。胸の内側が、薄い硝子みたいに軋む。
“禁じます”という一言が、ただの命令以上の意味を持っていることを、アランは理解していた。
あれは境界線ではない。切断だ。
自分の呼吸に繋がっているものを、切り離す刃だ。
人目のつくところでは触れない。近づかない。
それは約束できる。もう、そうしてきた。
同胞の視線さえも避けるように、背中を押し合う距離で止めて。
手を伸ばしたい衝動を、指先の中で握り潰してきた。
けれど――与えられた部屋の中でする行動まで縛られたくなかった。
彼の隣で寝たい。
ただそれだけ。
ただそれだけの当たり前に抱く感情すら、許されなくなったのだから。
夜が来るたび、屋敷の黒が濃くなるたび、イェルスの焼け野原がまぶたの裏に蘇る。
父母の倒れる音。炎の匂い。鎖が擦れる冷たい音。
一人で眠れば、すべてが襲ってくる。
眠ることが、恐怖の中へ沈むことになる。
せめて、共に向かい合って話して笑って。
誰も見ていない部屋の中で触れ合いたい。
その温度がないと、身体の中の何かが枯れてしまう。
支えが無くなれば、立てなくなる。
立てなくなれば、次に守れなくなるものが増える。
だから、言わなければならなかった。
言うことが屈辱だと知りながら。
食堂の後、あるいは執務室へ呼び出された時間だった。
黒い木目の机。整えられた紙束。蝋燭の匂い。
レギュラスは椅子に深く腰掛け、何でもない顔でこちらを見ていた。
その銀色の瞳は、いつもと同じ。
人を“人”として見ない光だ。
アランは一歩踏み出し、唇を噛んだ。
お願いという形の言葉を口にするのは、屈辱だった。
けれどここで意地を張れば、彼からどんどん遠ざかる。
遠ざかれば、いつのまにか支えが無くなり、立てなくなる。
アランは息を整え、頭を下げないまま言った。
せめて、姿勢だけは折りたくなかった。
「……エルヤを、部屋に呼ぶ許可をください」
言い終えた瞬間、胸の奥がじくりと痛んだ。
言葉が、自分の誇りを削っていく音がした。
レギュラスはすぐに答えない。
沈黙の間を置く。
その間に、相手の心拍が乱れるのを待つ。
そして待った末に、穏やかに問う。
「なぜです」
質問は刃の形をしている。
“正解”を答えなければ、次の刃が来る。
逃げ場は最初からない。
アランは目を逸らさなかった。
逸らしたら負ける。
逸らしたら、もっと奪われる。
喉の奥が詰まる。
言えば弱みになる。
けれど弱みを隠せば、許可は出ない。
アランは、ほとんど祈るみたいに言った。
「……彼が、支えだからです」
レギュラスの口元が僅かに動いた。
笑みとも取れるし、ただの形とも取れる。
その曖昧さが、いちばん恐ろしい。
「なるほど」
彼は静かに頷く。
「では、その役目は僕が引き受けます」
アランは一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
理解した瞬間、血の気が引く。
――何を言っているのだろう。
この男が。支えになる?
信じられない。支えではない。
刺してくる刃そのものみたいな男だ。
どこにも癒しはないし、どこにも慈しみのかけらも宿していない男だ。
「……あなたが?」
声が震えそうになるのを、歯を食いしばって止める。
震えは恐れでもあり、怒りでもあった。
自分の支えを奪いながら、代わりを名乗る厚かましさ。
それを、当然のことのように言うこの男の恐ろしさ。
レギュラスは淡々と続けた。
答えではない。決定だ。
「あなたの部屋に誰かが入れることはありません」
言葉が落ちるたび、扉が閉まる音がする。
鍵が増える音がする。
「あなたが誰かの部屋に入ることも」
逃げ道が塞がれる。
階段が消える。
窓が塞がれる。
「許されるのは――僕のところに来ることだけです」
最後の一言が、ゆっくりと喉に絡みついた。
“僕のところに来る”。
それは許可のような形をしている。
救いのような形をしている。
けれど実際は、囲いだ。
この屋敷の秩序の中心に、アランを引きずり込むための言葉だ。
アランの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
息が苦しい。
エルヤを奪われる恐怖と、この男の“代わり”になるという宣言への嫌悪が絡み合い、身体の内側が捻じれる。
「……それは」
声が出かけて、止まる。
何を言っても無駄だとわかる。
彼は既に決めている。
決めたことを、丁寧な言葉で告げているだけだ。
レギュラスはアランの沈黙を見て、薄く微笑んだ。
優しい微笑みほど、残酷に見えるものはない。
「あなたは“支え”が必要だと言った」
静かな声。
まるで親切のように。
「なら、最も確実で、最も強い支えを与えます。
――僕が、あなたの傍にいる」
アランは唇を噛んだ。
血の味がした。
泣きたいのではない。
ただ、屈辱で、胸が焼ける。
支えを求めて口を開いたのに、返ってきたのは檻だった。
温度を求めたのに、返ってきたのは銀の刃だった。
それでもアランは、目を逸らさない。
逸らせば、すべてが決まる。
逸らした瞬間に、エルヤとの糸が切れる。
翡翠の瞳だけが、必死に光を保つ。
揺れても、折れないと告げるために。
けれど、レギュラスの銀色の瞳は――
その光を“いつか自分の色に染める”と、既に決めているように見えた。
食事を終えた後、アランは彼の書斎へ呼ばれた。
廊下を歩く足音が、黒い屋敷の中でやけに大きく響く。
背中に視線が刺さっている気がして、歩幅が乱れないように気をつけた。
扉の前に立つと、掌が冷たくなる。
結界はまだ緩んでいないはずなのに。
まだでも要求されるのかと、身体が先に構える。息が浅くなる。
「どうぞ」
中から声がして、扉が開く。
書斎はいつもと同じ――黒と銀と、紙の匂い。
蝋燭の火が落ち着いていて、静かな部屋だった。
静かなのに、ここはいつも戦場みたいに感じる。言葉が刃になるからだ。
レギュラスは机に向かっていたが、アランの入室に合わせて手を止めた。
視線だけがこちらへ向く。銀色。
それだけで、喉の奥が固まる。
魔法兵の命を犠牲にさせた男の声が、耳の内側に蘇る。
――できます。
――よくできました。
胸が苦しくなるのを隠すために、背筋が勝手に伸びた。
指先が忙しなく動く。自分でも止められない。
その動きを“寒さ”と取ったのか、革のソファにかけられていた布が差し出される。
「そんなに怯えなくていいですよ」
拍子抜けするほど穏やかな声だった。
穏やかさが逆に不気味で、アランはすぐに手を出せない。
差し出された布に触れた瞬間、何かを誓わされた気になる。
それでも、拒めば別の何かが奪われる。
アランは恐る恐る布を受け取った。
ふわりと柔らかい。暖かい。
その暖かさが、かえって胸を締め付けた。
暖かいものを与えられると、奪われたものの冷たさが際立つ。
「英国はイェルスの土地と違って四季があります。
比較的暖かな地で育ったあなたにとって、今の季節は寒いのでは?」
事実だ。
けれど事実を丁寧に口にされると、まるで彼が“気遣っている”ように聞こえる。
その錯覚が、腹立たしくて、怖い。
「……寒い、です」
思わず言ってしまい、アランは自分に苛立つ。
言葉を渡した。小さな情報。
けれど小さな情報が積み重なれば、いずれ骨まで奪われる。
レギュラスは書卓の前ではなく、ソファの向かいへ移った。
テーブルが狭いから、距離が近い。
食卓で顔を合わせる時よりずっと近い。
それだけで、胸が反射的に縮む。
銀色の瞳が、アランを真正面から捉える。
「……あなたの事を色々聞きたくて呼んだんです」
来た。
“聞く”という形の搾取。
今度はこちらから何を引き出して奪い取る気でいるのかと構える。
肩が固くなる。
布を握る指が、無意識に強くなる。
レギュラスはその反応を見て、ふっと笑った。
笑い声は小さく、上品で、だからこそ刺さる。
「そんな顔をしなくても。
あなたの封印が必要な時は、もっとはっきり言いますから」
軽く言う。軽く言うから恐ろしい。
必要なら奪う、と当然のように言う。
アランは口を開きかけて閉じた。
反論しても意味がない。
意味がないどころか、弱さを見せるだけだ。
「何を好んで、何を嫌うのか。そういうことでも構いません。
あなたの口から語られる、あなた自身のことを知りたいんです」
レギュラスの声は穏やかで、問いは柔らかい。
だが柔らかい問いほど逃げ道がない。
拒めば“拒絶”として記録される。
答えれば“情報”として利用される。
どの情報なら引き渡しても問題ないのか。
どこまでなら奪われずに済むのか。
アランの頭は、即座に計算を始める。
「……なぜ」
やっと絞り出した声は、掠れていた。
「なぜ、知りたいんですか」
レギュラスは少しだけ首を傾げた。
その仕草が、妙に丁寧で、腹立たしいほど綺麗だった。
「僕の屋敷にいる以上、あなたは僕の責任です。
あなたが何に苦しんで、何で落ち着くのか。
それを知っておくのは合理的でしょう?」
合理的。
その言葉で、優しさの皮が剥がれる。
これは支配のための観察だ。
「……合理的、だから」
アランが復唱すると、レギュラスは口元をわずかに上げた。
「ええ。感情ではなく、手段です」
どこまでも正直で、どこまでも残酷だ。
救いがない。
――なのに。
布の暖かさが膝の上に残っている。
それが、会話の間にある沈黙をほんの少しだけ柔らかくする。
レギュラスは指を組んだ。
指先の動きまで整っている。
整いすぎていて、人間味が薄い。
「例えば。食事はどうです?
食堂であなたはいつも、少しだけ手が止まる。
何が苦手ですか」
アランは喉の奥で息を飲んだ。
観察されている。
自分の癖も、震えも、戸惑いも、全部拾われている。
答えたくない。
けれど、食事の好みなら命には繋がらない。
その程度なら渡せる。
渡しても、奪われるのは小さく済む。
「……甘いものは、好きです」
言ってしまった。
イェルスでは蜂蜜は貴重で、祭りの日だけ口にできた。
その記憶まで一緒に口から出そうになり、アランは慌てて止める。
「苦いものが、少し……」
言葉を切る。
“なぜ苦いものが苦手なのか”は言わない。
そこは守る。
守れるものは守る。
レギュラスは頷いた。
「甘いもの。なるほど。
では、果物は?」
質問が続く。
少しずつ、少しずつ。
網を編むように。
「……好きです。特に、赤いもの」
ザクロ。
イェルスの赤い実。
そう言いそうになって、また喉で止める。
固有名詞は危険だ。
固有名詞は“場所”を連れてくる。
場所は“帰路”を連れてくる。
帰路は、潰される。
レギュラスは、アランの一瞬の躊躇を見逃さない。
「赤いもの、とは?」
「……色です」
短く答える。
レギュラスの目が少し細くなる。
思ったより機嫌がいいように見えるのが腹立たしい。
「色の好みがあるんですね」
「……あります」
「では黒は?」
その問いに、アランの呼吸が止まった。
黒。
この屋敷の色。
この男の色。
「……嫌いです」
嘘ではない。
けれど言った瞬間、背中に冷たい汗が浮く。
ここで“嫌い”と言うことの危険を、遅れて理解する。
支配者の色を嫌いだと言った。
何をされるかわからない。
けれどレギュラスは、怒らなかった。
むしろ薄く笑った。
「正直ですね」
笑いが、愉快そうで、静かで、厄介だ。
「嫌いなのに、よく着ていますよ」
アランは唇を噛んだ。
着せられている。
自分で選んでいない。
その当然の事実を、彼はあえて“あなたが選んだ”みたいに言う。
「……選んでいません」
「ええ、知っています」
すぐに返され、アランは言葉を失う。
知っている。
知っていて、それを言う。
――弄ばれている。
レギュラスは足を組み、ほんの少しだけ身を乗り出した。
距離がさらに近い。
銀色の瞳に、自分の翡翠が映るのが嫌だった。
映ってしまえば、捕まってしまう気がする。
「では、何なら選びたいですか」
選びたい、という言葉に胸が疼く。
選びたいものなんて、山ほどある。
帰りたい。逃げたい。守りたい。
エルヤの隣にいたい。イェルスの風の中で眠りたい。
――全部、言えない。
言えないからこそ、アランは“安全な答え”を選ぶ。
「……暖かい布が、いいです」
膝の上の布を見て言う。
自分が今受け取っているものに結びつければ、話は逸れる。
逸れた分だけ、核心を守れる。
レギュラスは静かに頷いた。
「では、暖かいものを用意しましょう。
あなたは寒さに弱い。
それがわかっただけでも、今日あなたがここへ来た価値があります」
価値。
自分が“価値”として計られている。
アランはその言葉に、胸の奥が嫌に冷えた。
けれど同時に、布の暖かさが確かに救いになっていることも否定できない。
その矛盾が、さらに腹立たしい。
「……次は、何を聞くんですか」
アランがそう言うと、レギュラスは少し笑った。
今度は本当に、軽い笑いだった。
「あなたが答えられる範囲でいい。
――あなたが眠る時、何が怖い?」
その問いで、アランの指が止まった。
眠る時。
怖いもの。
それは“過去”だ。焼け野原だ。
父と母だ。
“奪われた”という事実そのものだ。
言えば、奪われる。
言わなければ、追い詰められる。
アランは喉の奥で、言葉を選んだ。
心臓が痛い。
「……夢です」
「どんな夢?」
「……炎」
それだけ言った。
炎が、すべてを含む。
家が崩れる夢も、橋が落ちる夢も、緑の閃光も。
全部炎に溶かせば、細部は守れる。
レギュラスはしばらく黙った。
その沈黙が、妙に長い。
考えているのか、味わっているのか、判断がつかない。
「炎、ですか」
繰り返す声が、いつもより少し低い。
そこにほんの僅かな――興味。
いや、所有欲が混じる。
「なら、炎のない眠りを与えましょう。
僕が」
最後の一言が、静かに落ちた。
アランの背筋が凍る。
エルヤの代わりに、“支え”になると言ったときと同じ。
奪うために、与える。
そのやり方が、あまりにも鮮やかで恐ろしい。
アランは言葉を失い、布を握りしめた。
握りしめることでしか、自分の輪郭を保てなかった。
レギュラスはそんなアランを見て、ふっと笑う。
「ほら。こうして話すだけで、あなたは少し落ち着く。
僕の質問は、あなたを壊すためだけではないんですよ」
壊すためだけではない。
その言い方が、いちばん信用ならなかった。
けれど――この静けさの中で、彼が今すぐ命令を突きつけてこないことに、ほんの少しだけ息が楽になる自分がいる。
その事実に、アランはぞっとした。
近づいている。
望んでいないはずなのに、距離が縮んでいく。
どこまでなら奪われずに済むのか。
どこまでなら守れるのか。
その計算を続けながら、アランは銀色の瞳から目を逸らさないようにした。
逸らしたら、負ける。
逸らしたら、もっと近づかれてしまう気がしたから。
彼女は、常に“奪われる”準備をしている。
こちらの言葉が終わる前に、次の刃を想像して肩を固くする。
問いを投げれば、答えを差し出すより先に“どこまでなら安全か”を計算する――それが癖になってしまっている。
だから、奪う前に与える。
警戒を解くために、まず自分のことから話す。
彼女が“こちらは問うばかりで、何も差し出さない”と感じる限り、心の扉は固く閉じたままだ。
扉をこじ開けるのは容易い。だが、壊してしまえば意味がない。
必要なのは、壊さずに、鍵をこちらの手に握ることだ。
書斎の灯りは柔らかく、火の揺れが壁に淡い影を作る。
アランはソファに座り、膝の上の布を指先でいじっている。
落ち着かない癖。
それを“落ち着かせる言葉”を、自分はもう見つけ始めている。
「あなたは――空を飛んだことは?」
穏やかな声で問う。
“封印”でも、“犠牲”でもない話題。
彼女が構えすぎないように、あえて軽い問いを選ぶ。
アランは一瞬こちらを見て、首を振った。
「……ありません」
「そう。高いところは平気です?」
彼女の瞳がわずかに揺れる。
高いところ――その言葉が、故郷の崖や木々を連れてくるのだろう。
けれど彼女は慎重に息を整え、答える。
「平気です。……木には登れます」
その言い方が、もうだめだった。
笑ってしまう。
英国の女たちは“木に登れます”などと言わない。
そもそも木に登る機会がない。
この女がどれほど遠い場所で生まれ育ってきたかが、短い一言で伝わる。
レギュラスは喉の奥で笑いを殺し、わざと軽く肩をすくめた。
「木に登れるなら、十分ですね」
アランが眉をひそめる。
「……笑った?」
「失礼。想像してしまって」
「何をですか」
「あなたが木の上から、僕を見下ろしているところを」
アランの口が開きかけ、閉じる。
言い返したいのに、言い返せない。
その戸惑いが、妙に人間らしい。
レギュラスはそこで、先に自分の話を差し出した。
彼女が“こちらだけが取る”と感じないように。
「僕は箒で空を駆けるのが好きでした。最近はほとんどしませんが」
アランの瞳が少し大きくなる。
「……箒で?」
「ええ」
「箒は、掃除の……」
「ええ、掃除にも使います」
あまりにも真面目に言うから、また笑いそうになる。
けれど笑えば、彼女は扉を閉じる。
だから笑いは抑え、説明の形に整える。
「箒で飛ぶのは、英国の魔法界で生まれた競技であり文化です。
あなたの国の“木の上”より、ずっと高いところを飛べますよ」
アランは息を呑む。
翡翠の瞳に、期待と驚きが混じる。
自分に向けてきた瞳の中で、初めて見る表情だった。
「……空を……飛べるのですか?」
「飛べます」
レギュラスは短く答えてから、すぐに続ける。
答えを与えたまま終わらせない。
彼女の興味が湧いた今、質問は自然に引き出せる。
「あなたの国では、空を飛ぶことは“禁じられて”いましたか?
それとも、必要がなかった?」
アランは考えるように視線を落とす。
その沈黙の間に、彼女の思考の癖を読む。
“禁じられていた”と答えれば宗教の匂いがする。
“必要がなかった”と答えれば生活の匂いがする。
「……必要が、ありませんでした」
「なぜ?」
「……地が、近いからです」
意味がすぐに掴めない言い方だった。
だが、だからこそ面白い。
彼女の世界には、空より地面の方が近い。
空に憧れる理由がなかった。
それが、文化の差であり、価値観の差だ。
「地が近い。なるほど」
レギュラスはゆっくり頷く。
「あなたは……走る方が得意ですか?」
アランは少し驚いた顔でこちらを見た。
そして、ほんのわずかに頷く。
「……はい。山を走れます」
「山を」
レギュラスは言葉を反芻し、口元を緩めた。
「英国の貴族令嬢に“山を走れます”と言わせたら、社交界がひっくり返りますね」
「社交界って……何です」
「人が集まって、笑って、見栄を張って、噂をして、結婚を決める場所です」
アランの顔に、嫌悪とも興味とも取れる複雑な影が落ちる。
“結婚”という単語が、彼女の中の何かを刺激したのだろう。
エルヤの存在が、一瞬だけ瞳の奥をよぎる。
だから、そこで深入りはしない。
扉が閉まる前に、別の扉を叩く。
「あなたは泳げますか?」
「……泳げます」
「海は?」
アランの指が布を掴む。
海――奪われたものに繋がる。
英国が欲しがったものの中心。
怖い言葉だ。
「……見たことはあります。
でも、イェルスの海は……静かでした」
静かでした、という過去形。
そこに既に“戻れない”が混じる。
彼女は気づいていないふりをしているが、言葉は正直だ。
レギュラスは頷いた。
そして、わざと自分の弱点に触れる。
「僕は海が好きですが、同時に嫌いでもあります」
アランの目がこちらへ向く。
“なぜ?”と聞きたくなる顔だ。
彼女の方から問いが出るように仕向ける。
そうすれば、情報は“差し出されたもの”ではなく、“交換”になる。
案の定、アランは小さく尋ねた。
「……どうしてですか」
よろしい。
彼女の方から聞いた。
この形を作るのが大切だ。
「海は、全てを隠すからです。
深い場所に落ちたものは、見えなくなる。
見えなくなると、人は“無かったこと”にしやすい」
アランはじっと聞いている。
その翡翠が、今は刃を向けてこない。
“聞く”という姿勢になっている。
それだけで距離が縮まる。
「あなたは、隠されたものが嫌いですか?」
アランは少し迷った。
迷うのは当然だ。
この問いは、彼女の信仰や価値観に触れる。
「……嫌いです」
「正直ですね」
「……正直でいると、損をします」
ぽつりと漏れた言葉。
それは、今までの出来事を全て含んでいる。
この屋敷で学んだこと。
この男に刻み込まれた恐怖。
レギュラスはそこで、あえて否定しない。
否定すると慰めになる。
慰めは、彼女を別の方向へ逃がす。
「損をしないように、僕の前では賢く正直でいてください」
矛盾した言い方。
だが矛盾の中に、彼女の居場所を作る。
アランの眉が僅かに動く。
「……賢く、正直?」
「ええ。
あなたが答えたくないことは答えなくていい。
その代わり、答えられることは隠さないでほしい」
“許可”を与える。
許可を与えた者が、ルールを決める。
彼女が自由になったと錯覚するほど、こちらは握りやすくなる。
アランは布を握りしめながら、少しずつ息を深くした。
「……箒で飛ぶのは、怖くないのですか」
今度は彼女の方から問いが出た。
良い。
興味が芽生えている。
「最初は怖かった」
レギュラスは珍しく過去を差し出す。
「でも、怖さより速さが勝つ瞬間がある。
風が耳元で鳴って、世界が小さくなる。
その瞬間だけは――」
レギュラスは少し言葉を切り、わざと視線を外した。
“本音”の匂いを混ぜる。
彼女がそれを嗅ぎつけた時、こちらへの関心が深まる。
「……考えなくて済む」
アランが静かに呟いた。
レギュラスは視線を戻し、彼女の言葉を拾う。
「ええ。よく分かっていますね」
アランは自分が言ってしまったことに気づいたように、はっと口を閉じる。
――今のは、彼女自身のことだ。
考えたくないものがある。
考えずに済む瞬間を求めている。
レギュラスは追い詰めない。
追い詰めれば扉が閉まる。
代わりに、淡く提案する。
「いつか、あなたも飛んでみますか」
アランの瞳が揺れる。
恐れと、憧れが同時に揺れる。
その揺れが、あまりにも新鮮だった。
「……私にも、できますか」
「できます」
即答する。
即答は安心を与える。
安心は依存を生む。
「あなたが“やりたい”と言うなら」
最後に条件をつける。
彼女の意思を尊重しているように見せるために。
その意思が、結局こちらの掌の上でしか許されないことを、彼女はまだ完全には理解していない。
アランは少し黙り、やがて小さく言った。
「……高いところは、平気です」
さっきの言葉を、もう一度。
自分に言い聞かせるように。
レギュラスは笑いそうになった。
“木には登れます”と言った彼女が、今は“空”を想像している。
その変化が、何よりの収穫だった。
「ええ。木より高いところを、あなたに見せてあげます」
穏やかに言いながら、レギュラスは思う。
彼女は今、ほんの一瞬、こちらに期待した。
その期待は、恐怖よりも強い鎖になる。
さりげなく問い、さりげなく答え、さりげなく自分の話を混ぜる。
そうして、情報を得る。
心に近づく。
彼女が“奪われた”と感じない形で。
彼女が“自分から差し出した”と思う形で。
そしていつか、翡翠の瞳がこちらを見上げるたびに、
“恐れ”ではなく、“欲しい”という色を宿すようになるまで。
屋敷の空気は常に整っている。
黒の壁に、銀の食器に、料理の香りに、使用人の足音に。
すべてが“秩序”として磨かれ、余計な揺らぎを排除している。
その中に混じる、乾いた異臭。
塗料の匂いだ。修繕に使う、雨風に耐えるための強い塗料。肌に触れることすら想定されていない、鈍く硬い匂い。
不快だな、とレギュラスは思った。
匂いが不快なのではない。
“誰かが勝手に屋敷のものを使い、勝手に意味のわからないことをした”という事実が不快だった。
執事から報告は受けていた。
アランに与えた部屋で、二人が何かを口ずさみ、白い塗料を顔に塗っていたと。
そしてその塗料が水で洗っても落ちないと。
馬鹿じゃないのかと思った。
だが、報告の段階ではまだ、どこか他人事のように聞き流せた。
何を思い出そうが自由だし、そこを縛るつもりはない。
頭の中の郷愁だの、信仰だの、祈りだの。
そんなものを全て一つ一つ取り上げて管理しようとは思わない。
――思わないはずだった。
ただ、行動に移してそれを屋敷に持ち込むのは別だ。
扉が開き、二人が食堂へ入ってきた瞬間。
レギュラスはようやく、執事の報告の“意味”を理解した。
美しい翡翠の瞳を持つ顔に、訳のわからない白い塗料が塗りたくられている。
何の意味を持つのかわからない文様が、不気味なほどに翡翠の色を際立たせる。
その白は汚れのようでいて、汚れではない。
――意図をもった“装飾”だ。
理解できないものほど、目に刺さる。
視線を後ろに控える男へ移せば、その男も同じような文様を顔に宿していた。
揃いの印。揃いの儀式。揃いの秘密。
そこに、他者を拒む閉じた輪がある。
その輪の中心に、自分がいない。
乾いた笑いが喉の奥で鳴った。
面白い。
いや、面白くない。
美しさは、整えられるべきだ。
この屋敷の黒の中で、翡翠は最上の飾りになる。
その飾りに、意味不明な白を塗りつけるなど――
まるで宝石を泥で汚すようなものだ。
レギュラスは椅子に腰を下ろしたまま、静かに二人を見た。
使用人たちはいつもより息を潜めている。
視線を落としながらも、耳は立っている。
この屋敷では、“何を見せるか”が秩序の一部だ。
「……何をやってるんです?」
声は穏やかだった。
穏やかなほど、逃げ場がない。
アランが一瞬、身を固くする。
翡翠の瞳が揺れ、それでもすぐに伏せられる。
「すみません」
短い謝罪。
彼女の頬はところどころ赤い。
擦ったのだろう。落とそうとして、必死に。
その必死さが、さらに滑稽で、さらに苛立たしい。
塗料は屋敷の修繕に使うためのものだ。雨風に強い。
顔に塗るものではない。
馬鹿の極みだ。
何より――その美しい顔に“汚れ”が付けられたようで、受け入れがたかった。
「勝手な真似は控えるよう、伝えたはずです」
淡々と告げる。
“伝えた”という言い方の裏には、“従うのが当然”が含まれている。
「すみません」
また同じ言葉。
謝罪は、従属の形。
口にするたび、彼女は自分で首輪を締める。
レギュラスはそこで、視線をエルヤへ向けた。
この男だ。
アランが何かをしようとするとき、必ずこの男がいる。
支えであり、火種であり、逃亡の理由であり、そして――彼女の心の避難所。
避難所を残したままでは、支配は完成しない。
「それから、エルヤ・ナイーム」
名を呼ぶ。
名を呼ぶだけで、人は“こちら側”に引き寄せられる。
拒めないように、秩序の言葉で縛る。
「あなたは、アラン・セシールの部屋に入ることを禁じます」
空気が凍った。
アランの瞳が跳ねる。
エルヤの肩がわずかに強張る。
抗議が喉まで上がったはずだ。
けれど彼は声を出さない。
腕に刻まれた紋様が、彼の沈黙を保証している。
側で守らせてやるとは言った。
けれどそれは、同じ空間に入り込み好き勝手に触れ合っていいという許しではない。
ここはイェルスではない。
英国であり、ブラック家の屋敷だ。
秩序はすべてこちら側にある。
エルヤは明らかに動揺している。
だが俯く。
俯くしかない。
「返事がありませんが?」
レギュラスは微笑みすら浮かべず、ただ問いを重ねる。
質問形式で逃げ道を塞ぐ。
相手が“はい”と答える形を作り、その“はい”を誓約に変える。
エルヤの唇が震える。
震えを噛み殺して、彼は言った。
「……はい」
小さな声。
小さな声ほど、縛りは強い。
「よろしい」
レギュラスは静かに頷く。
その頷きが、処分の印のように重い。
「この屋敷では、祖国の奔放な触れ合いは徹底的に排除してください。
目に映ると不愉快です」
言い切ると、アランの顔が赤くなった。
怒りか、羞恥か。
“奔放”という言い方が気に障ったのだろう。
古代文明の残ったイェルスの地では、身に纏う服も薄く、露出が多い。
英国では品がないと言われるほどの露出だった。
そんな格好で男女が共に育ってきたのだと言うのだから、奔放さは想像に難くない。
――いや、想像する必要もない。
目の前に現実がある。
白い文様を揃えて、歌を口ずさみ、互いの顔に触れる。
閉じた輪を作り、屋敷の秩序の外側で呼吸をする。
それが、レギュラスには耐え難かった。
アランが何か言いかける。
唇が開きかけて、閉じられる。
言えば、また何かを失うと理解した顔だ。
その理解の早さだけは、評価している。
だからこそ、余計に腹立たしい。
理解しているなら、最初からやるな。
最初から“こちらの秩序”の中で息をしろ。
レギュラスはグラスを持ち上げ、静かに口をつけた。
ワインの味が、いつもより苦く感じる。
それが自分の感情のせいだと理解するのが、さらに不愉快だった。
彼は思う。
――何を思い出そうが自由だ。
だがそれを“形”にして、この屋敷へ持ち込むな。
この屋敷で形を与えるのは、僕だけで十分だ。
翡翠の瞳の美しさは、黒の中でこそ完成する。
白など要らない。
祈りなど要らない。
故郷など、要らない。
必要なのは、秩序だけだ。
そしてその秩序の中で、彼女がいつか、白ではなく黒を“神聖”と呼ぶようになる瞬間を――
レギュラスは、静かに待っているつもりでいた。
エルヤを奪われるのは、耐えがたかった。
喉の奥が焼ける。胸の内側が、薄い硝子みたいに軋む。
“禁じます”という一言が、ただの命令以上の意味を持っていることを、アランは理解していた。
あれは境界線ではない。切断だ。
自分の呼吸に繋がっているものを、切り離す刃だ。
人目のつくところでは触れない。近づかない。
それは約束できる。もう、そうしてきた。
同胞の視線さえも避けるように、背中を押し合う距離で止めて。
手を伸ばしたい衝動を、指先の中で握り潰してきた。
けれど――与えられた部屋の中でする行動まで縛られたくなかった。
彼の隣で寝たい。
ただそれだけ。
ただそれだけの当たり前に抱く感情すら、許されなくなったのだから。
夜が来るたび、屋敷の黒が濃くなるたび、イェルスの焼け野原がまぶたの裏に蘇る。
父母の倒れる音。炎の匂い。鎖が擦れる冷たい音。
一人で眠れば、すべてが襲ってくる。
眠ることが、恐怖の中へ沈むことになる。
せめて、共に向かい合って話して笑って。
誰も見ていない部屋の中で触れ合いたい。
その温度がないと、身体の中の何かが枯れてしまう。
支えが無くなれば、立てなくなる。
立てなくなれば、次に守れなくなるものが増える。
だから、言わなければならなかった。
言うことが屈辱だと知りながら。
食堂の後、あるいは執務室へ呼び出された時間だった。
黒い木目の机。整えられた紙束。蝋燭の匂い。
レギュラスは椅子に深く腰掛け、何でもない顔でこちらを見ていた。
その銀色の瞳は、いつもと同じ。
人を“人”として見ない光だ。
アランは一歩踏み出し、唇を噛んだ。
お願いという形の言葉を口にするのは、屈辱だった。
けれどここで意地を張れば、彼からどんどん遠ざかる。
遠ざかれば、いつのまにか支えが無くなり、立てなくなる。
アランは息を整え、頭を下げないまま言った。
せめて、姿勢だけは折りたくなかった。
「……エルヤを、部屋に呼ぶ許可をください」
言い終えた瞬間、胸の奥がじくりと痛んだ。
言葉が、自分の誇りを削っていく音がした。
レギュラスはすぐに答えない。
沈黙の間を置く。
その間に、相手の心拍が乱れるのを待つ。
そして待った末に、穏やかに問う。
「なぜです」
質問は刃の形をしている。
“正解”を答えなければ、次の刃が来る。
逃げ場は最初からない。
アランは目を逸らさなかった。
逸らしたら負ける。
逸らしたら、もっと奪われる。
喉の奥が詰まる。
言えば弱みになる。
けれど弱みを隠せば、許可は出ない。
アランは、ほとんど祈るみたいに言った。
「……彼が、支えだからです」
レギュラスの口元が僅かに動いた。
笑みとも取れるし、ただの形とも取れる。
その曖昧さが、いちばん恐ろしい。
「なるほど」
彼は静かに頷く。
「では、その役目は僕が引き受けます」
アランは一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
理解した瞬間、血の気が引く。
――何を言っているのだろう。
この男が。支えになる?
信じられない。支えではない。
刺してくる刃そのものみたいな男だ。
どこにも癒しはないし、どこにも慈しみのかけらも宿していない男だ。
「……あなたが?」
声が震えそうになるのを、歯を食いしばって止める。
震えは恐れでもあり、怒りでもあった。
自分の支えを奪いながら、代わりを名乗る厚かましさ。
それを、当然のことのように言うこの男の恐ろしさ。
レギュラスは淡々と続けた。
答えではない。決定だ。
「あなたの部屋に誰かが入れることはありません」
言葉が落ちるたび、扉が閉まる音がする。
鍵が増える音がする。
「あなたが誰かの部屋に入ることも」
逃げ道が塞がれる。
階段が消える。
窓が塞がれる。
「許されるのは――僕のところに来ることだけです」
最後の一言が、ゆっくりと喉に絡みついた。
“僕のところに来る”。
それは許可のような形をしている。
救いのような形をしている。
けれど実際は、囲いだ。
この屋敷の秩序の中心に、アランを引きずり込むための言葉だ。
アランの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
息が苦しい。
エルヤを奪われる恐怖と、この男の“代わり”になるという宣言への嫌悪が絡み合い、身体の内側が捻じれる。
「……それは」
声が出かけて、止まる。
何を言っても無駄だとわかる。
彼は既に決めている。
決めたことを、丁寧な言葉で告げているだけだ。
レギュラスはアランの沈黙を見て、薄く微笑んだ。
優しい微笑みほど、残酷に見えるものはない。
「あなたは“支え”が必要だと言った」
静かな声。
まるで親切のように。
「なら、最も確実で、最も強い支えを与えます。
――僕が、あなたの傍にいる」
アランは唇を噛んだ。
血の味がした。
泣きたいのではない。
ただ、屈辱で、胸が焼ける。
支えを求めて口を開いたのに、返ってきたのは檻だった。
温度を求めたのに、返ってきたのは銀の刃だった。
それでもアランは、目を逸らさない。
逸らせば、すべてが決まる。
逸らした瞬間に、エルヤとの糸が切れる。
翡翠の瞳だけが、必死に光を保つ。
揺れても、折れないと告げるために。
けれど、レギュラスの銀色の瞳は――
その光を“いつか自分の色に染める”と、既に決めているように見えた。
食事を終えた後、アランは彼の書斎へ呼ばれた。
廊下を歩く足音が、黒い屋敷の中でやけに大きく響く。
背中に視線が刺さっている気がして、歩幅が乱れないように気をつけた。
扉の前に立つと、掌が冷たくなる。
結界はまだ緩んでいないはずなのに。
まだでも要求されるのかと、身体が先に構える。息が浅くなる。
「どうぞ」
中から声がして、扉が開く。
書斎はいつもと同じ――黒と銀と、紙の匂い。
蝋燭の火が落ち着いていて、静かな部屋だった。
静かなのに、ここはいつも戦場みたいに感じる。言葉が刃になるからだ。
レギュラスは机に向かっていたが、アランの入室に合わせて手を止めた。
視線だけがこちらへ向く。銀色。
それだけで、喉の奥が固まる。
魔法兵の命を犠牲にさせた男の声が、耳の内側に蘇る。
――できます。
――よくできました。
胸が苦しくなるのを隠すために、背筋が勝手に伸びた。
指先が忙しなく動く。自分でも止められない。
その動きを“寒さ”と取ったのか、革のソファにかけられていた布が差し出される。
「そんなに怯えなくていいですよ」
拍子抜けするほど穏やかな声だった。
穏やかさが逆に不気味で、アランはすぐに手を出せない。
差し出された布に触れた瞬間、何かを誓わされた気になる。
それでも、拒めば別の何かが奪われる。
アランは恐る恐る布を受け取った。
ふわりと柔らかい。暖かい。
その暖かさが、かえって胸を締め付けた。
暖かいものを与えられると、奪われたものの冷たさが際立つ。
「英国はイェルスの土地と違って四季があります。
比較的暖かな地で育ったあなたにとって、今の季節は寒いのでは?」
事実だ。
けれど事実を丁寧に口にされると、まるで彼が“気遣っている”ように聞こえる。
その錯覚が、腹立たしくて、怖い。
「……寒い、です」
思わず言ってしまい、アランは自分に苛立つ。
言葉を渡した。小さな情報。
けれど小さな情報が積み重なれば、いずれ骨まで奪われる。
レギュラスは書卓の前ではなく、ソファの向かいへ移った。
テーブルが狭いから、距離が近い。
食卓で顔を合わせる時よりずっと近い。
それだけで、胸が反射的に縮む。
銀色の瞳が、アランを真正面から捉える。
「……あなたの事を色々聞きたくて呼んだんです」
来た。
“聞く”という形の搾取。
今度はこちらから何を引き出して奪い取る気でいるのかと構える。
肩が固くなる。
布を握る指が、無意識に強くなる。
レギュラスはその反応を見て、ふっと笑った。
笑い声は小さく、上品で、だからこそ刺さる。
「そんな顔をしなくても。
あなたの封印が必要な時は、もっとはっきり言いますから」
軽く言う。軽く言うから恐ろしい。
必要なら奪う、と当然のように言う。
アランは口を開きかけて閉じた。
反論しても意味がない。
意味がないどころか、弱さを見せるだけだ。
「何を好んで、何を嫌うのか。そういうことでも構いません。
あなたの口から語られる、あなた自身のことを知りたいんです」
レギュラスの声は穏やかで、問いは柔らかい。
だが柔らかい問いほど逃げ道がない。
拒めば“拒絶”として記録される。
答えれば“情報”として利用される。
どの情報なら引き渡しても問題ないのか。
どこまでなら奪われずに済むのか。
アランの頭は、即座に計算を始める。
「……なぜ」
やっと絞り出した声は、掠れていた。
「なぜ、知りたいんですか」
レギュラスは少しだけ首を傾げた。
その仕草が、妙に丁寧で、腹立たしいほど綺麗だった。
「僕の屋敷にいる以上、あなたは僕の責任です。
あなたが何に苦しんで、何で落ち着くのか。
それを知っておくのは合理的でしょう?」
合理的。
その言葉で、優しさの皮が剥がれる。
これは支配のための観察だ。
「……合理的、だから」
アランが復唱すると、レギュラスは口元をわずかに上げた。
「ええ。感情ではなく、手段です」
どこまでも正直で、どこまでも残酷だ。
救いがない。
――なのに。
布の暖かさが膝の上に残っている。
それが、会話の間にある沈黙をほんの少しだけ柔らかくする。
レギュラスは指を組んだ。
指先の動きまで整っている。
整いすぎていて、人間味が薄い。
「例えば。食事はどうです?
食堂であなたはいつも、少しだけ手が止まる。
何が苦手ですか」
アランは喉の奥で息を飲んだ。
観察されている。
自分の癖も、震えも、戸惑いも、全部拾われている。
答えたくない。
けれど、食事の好みなら命には繋がらない。
その程度なら渡せる。
渡しても、奪われるのは小さく済む。
「……甘いものは、好きです」
言ってしまった。
イェルスでは蜂蜜は貴重で、祭りの日だけ口にできた。
その記憶まで一緒に口から出そうになり、アランは慌てて止める。
「苦いものが、少し……」
言葉を切る。
“なぜ苦いものが苦手なのか”は言わない。
そこは守る。
守れるものは守る。
レギュラスは頷いた。
「甘いもの。なるほど。
では、果物は?」
質問が続く。
少しずつ、少しずつ。
網を編むように。
「……好きです。特に、赤いもの」
ザクロ。
イェルスの赤い実。
そう言いそうになって、また喉で止める。
固有名詞は危険だ。
固有名詞は“場所”を連れてくる。
場所は“帰路”を連れてくる。
帰路は、潰される。
レギュラスは、アランの一瞬の躊躇を見逃さない。
「赤いもの、とは?」
「……色です」
短く答える。
レギュラスの目が少し細くなる。
思ったより機嫌がいいように見えるのが腹立たしい。
「色の好みがあるんですね」
「……あります」
「では黒は?」
その問いに、アランの呼吸が止まった。
黒。
この屋敷の色。
この男の色。
「……嫌いです」
嘘ではない。
けれど言った瞬間、背中に冷たい汗が浮く。
ここで“嫌い”と言うことの危険を、遅れて理解する。
支配者の色を嫌いだと言った。
何をされるかわからない。
けれどレギュラスは、怒らなかった。
むしろ薄く笑った。
「正直ですね」
笑いが、愉快そうで、静かで、厄介だ。
「嫌いなのに、よく着ていますよ」
アランは唇を噛んだ。
着せられている。
自分で選んでいない。
その当然の事実を、彼はあえて“あなたが選んだ”みたいに言う。
「……選んでいません」
「ええ、知っています」
すぐに返され、アランは言葉を失う。
知っている。
知っていて、それを言う。
――弄ばれている。
レギュラスは足を組み、ほんの少しだけ身を乗り出した。
距離がさらに近い。
銀色の瞳に、自分の翡翠が映るのが嫌だった。
映ってしまえば、捕まってしまう気がする。
「では、何なら選びたいですか」
選びたい、という言葉に胸が疼く。
選びたいものなんて、山ほどある。
帰りたい。逃げたい。守りたい。
エルヤの隣にいたい。イェルスの風の中で眠りたい。
――全部、言えない。
言えないからこそ、アランは“安全な答え”を選ぶ。
「……暖かい布が、いいです」
膝の上の布を見て言う。
自分が今受け取っているものに結びつければ、話は逸れる。
逸れた分だけ、核心を守れる。
レギュラスは静かに頷いた。
「では、暖かいものを用意しましょう。
あなたは寒さに弱い。
それがわかっただけでも、今日あなたがここへ来た価値があります」
価値。
自分が“価値”として計られている。
アランはその言葉に、胸の奥が嫌に冷えた。
けれど同時に、布の暖かさが確かに救いになっていることも否定できない。
その矛盾が、さらに腹立たしい。
「……次は、何を聞くんですか」
アランがそう言うと、レギュラスは少し笑った。
今度は本当に、軽い笑いだった。
「あなたが答えられる範囲でいい。
――あなたが眠る時、何が怖い?」
その問いで、アランの指が止まった。
眠る時。
怖いもの。
それは“過去”だ。焼け野原だ。
父と母だ。
“奪われた”という事実そのものだ。
言えば、奪われる。
言わなければ、追い詰められる。
アランは喉の奥で、言葉を選んだ。
心臓が痛い。
「……夢です」
「どんな夢?」
「……炎」
それだけ言った。
炎が、すべてを含む。
家が崩れる夢も、橋が落ちる夢も、緑の閃光も。
全部炎に溶かせば、細部は守れる。
レギュラスはしばらく黙った。
その沈黙が、妙に長い。
考えているのか、味わっているのか、判断がつかない。
「炎、ですか」
繰り返す声が、いつもより少し低い。
そこにほんの僅かな――興味。
いや、所有欲が混じる。
「なら、炎のない眠りを与えましょう。
僕が」
最後の一言が、静かに落ちた。
アランの背筋が凍る。
エルヤの代わりに、“支え”になると言ったときと同じ。
奪うために、与える。
そのやり方が、あまりにも鮮やかで恐ろしい。
アランは言葉を失い、布を握りしめた。
握りしめることでしか、自分の輪郭を保てなかった。
レギュラスはそんなアランを見て、ふっと笑う。
「ほら。こうして話すだけで、あなたは少し落ち着く。
僕の質問は、あなたを壊すためだけではないんですよ」
壊すためだけではない。
その言い方が、いちばん信用ならなかった。
けれど――この静けさの中で、彼が今すぐ命令を突きつけてこないことに、ほんの少しだけ息が楽になる自分がいる。
その事実に、アランはぞっとした。
近づいている。
望んでいないはずなのに、距離が縮んでいく。
どこまでなら奪われずに済むのか。
どこまでなら守れるのか。
その計算を続けながら、アランは銀色の瞳から目を逸らさないようにした。
逸らしたら、負ける。
逸らしたら、もっと近づかれてしまう気がしたから。
彼女は、常に“奪われる”準備をしている。
こちらの言葉が終わる前に、次の刃を想像して肩を固くする。
問いを投げれば、答えを差し出すより先に“どこまでなら安全か”を計算する――それが癖になってしまっている。
だから、奪う前に与える。
警戒を解くために、まず自分のことから話す。
彼女が“こちらは問うばかりで、何も差し出さない”と感じる限り、心の扉は固く閉じたままだ。
扉をこじ開けるのは容易い。だが、壊してしまえば意味がない。
必要なのは、壊さずに、鍵をこちらの手に握ることだ。
書斎の灯りは柔らかく、火の揺れが壁に淡い影を作る。
アランはソファに座り、膝の上の布を指先でいじっている。
落ち着かない癖。
それを“落ち着かせる言葉”を、自分はもう見つけ始めている。
「あなたは――空を飛んだことは?」
穏やかな声で問う。
“封印”でも、“犠牲”でもない話題。
彼女が構えすぎないように、あえて軽い問いを選ぶ。
アランは一瞬こちらを見て、首を振った。
「……ありません」
「そう。高いところは平気です?」
彼女の瞳がわずかに揺れる。
高いところ――その言葉が、故郷の崖や木々を連れてくるのだろう。
けれど彼女は慎重に息を整え、答える。
「平気です。……木には登れます」
その言い方が、もうだめだった。
笑ってしまう。
英国の女たちは“木に登れます”などと言わない。
そもそも木に登る機会がない。
この女がどれほど遠い場所で生まれ育ってきたかが、短い一言で伝わる。
レギュラスは喉の奥で笑いを殺し、わざと軽く肩をすくめた。
「木に登れるなら、十分ですね」
アランが眉をひそめる。
「……笑った?」
「失礼。想像してしまって」
「何をですか」
「あなたが木の上から、僕を見下ろしているところを」
アランの口が開きかけ、閉じる。
言い返したいのに、言い返せない。
その戸惑いが、妙に人間らしい。
レギュラスはそこで、先に自分の話を差し出した。
彼女が“こちらだけが取る”と感じないように。
「僕は箒で空を駆けるのが好きでした。最近はほとんどしませんが」
アランの瞳が少し大きくなる。
「……箒で?」
「ええ」
「箒は、掃除の……」
「ええ、掃除にも使います」
あまりにも真面目に言うから、また笑いそうになる。
けれど笑えば、彼女は扉を閉じる。
だから笑いは抑え、説明の形に整える。
「箒で飛ぶのは、英国の魔法界で生まれた競技であり文化です。
あなたの国の“木の上”より、ずっと高いところを飛べますよ」
アランは息を呑む。
翡翠の瞳に、期待と驚きが混じる。
自分に向けてきた瞳の中で、初めて見る表情だった。
「……空を……飛べるのですか?」
「飛べます」
レギュラスは短く答えてから、すぐに続ける。
答えを与えたまま終わらせない。
彼女の興味が湧いた今、質問は自然に引き出せる。
「あなたの国では、空を飛ぶことは“禁じられて”いましたか?
それとも、必要がなかった?」
アランは考えるように視線を落とす。
その沈黙の間に、彼女の思考の癖を読む。
“禁じられていた”と答えれば宗教の匂いがする。
“必要がなかった”と答えれば生活の匂いがする。
「……必要が、ありませんでした」
「なぜ?」
「……地が、近いからです」
意味がすぐに掴めない言い方だった。
だが、だからこそ面白い。
彼女の世界には、空より地面の方が近い。
空に憧れる理由がなかった。
それが、文化の差であり、価値観の差だ。
「地が近い。なるほど」
レギュラスはゆっくり頷く。
「あなたは……走る方が得意ですか?」
アランは少し驚いた顔でこちらを見た。
そして、ほんのわずかに頷く。
「……はい。山を走れます」
「山を」
レギュラスは言葉を反芻し、口元を緩めた。
「英国の貴族令嬢に“山を走れます”と言わせたら、社交界がひっくり返りますね」
「社交界って……何です」
「人が集まって、笑って、見栄を張って、噂をして、結婚を決める場所です」
アランの顔に、嫌悪とも興味とも取れる複雑な影が落ちる。
“結婚”という単語が、彼女の中の何かを刺激したのだろう。
エルヤの存在が、一瞬だけ瞳の奥をよぎる。
だから、そこで深入りはしない。
扉が閉まる前に、別の扉を叩く。
「あなたは泳げますか?」
「……泳げます」
「海は?」
アランの指が布を掴む。
海――奪われたものに繋がる。
英国が欲しがったものの中心。
怖い言葉だ。
「……見たことはあります。
でも、イェルスの海は……静かでした」
静かでした、という過去形。
そこに既に“戻れない”が混じる。
彼女は気づいていないふりをしているが、言葉は正直だ。
レギュラスは頷いた。
そして、わざと自分の弱点に触れる。
「僕は海が好きですが、同時に嫌いでもあります」
アランの目がこちらへ向く。
“なぜ?”と聞きたくなる顔だ。
彼女の方から問いが出るように仕向ける。
そうすれば、情報は“差し出されたもの”ではなく、“交換”になる。
案の定、アランは小さく尋ねた。
「……どうしてですか」
よろしい。
彼女の方から聞いた。
この形を作るのが大切だ。
「海は、全てを隠すからです。
深い場所に落ちたものは、見えなくなる。
見えなくなると、人は“無かったこと”にしやすい」
アランはじっと聞いている。
その翡翠が、今は刃を向けてこない。
“聞く”という姿勢になっている。
それだけで距離が縮まる。
「あなたは、隠されたものが嫌いですか?」
アランは少し迷った。
迷うのは当然だ。
この問いは、彼女の信仰や価値観に触れる。
「……嫌いです」
「正直ですね」
「……正直でいると、損をします」
ぽつりと漏れた言葉。
それは、今までの出来事を全て含んでいる。
この屋敷で学んだこと。
この男に刻み込まれた恐怖。
レギュラスはそこで、あえて否定しない。
否定すると慰めになる。
慰めは、彼女を別の方向へ逃がす。
「損をしないように、僕の前では賢く正直でいてください」
矛盾した言い方。
だが矛盾の中に、彼女の居場所を作る。
アランの眉が僅かに動く。
「……賢く、正直?」
「ええ。
あなたが答えたくないことは答えなくていい。
その代わり、答えられることは隠さないでほしい」
“許可”を与える。
許可を与えた者が、ルールを決める。
彼女が自由になったと錯覚するほど、こちらは握りやすくなる。
アランは布を握りしめながら、少しずつ息を深くした。
「……箒で飛ぶのは、怖くないのですか」
今度は彼女の方から問いが出た。
良い。
興味が芽生えている。
「最初は怖かった」
レギュラスは珍しく過去を差し出す。
「でも、怖さより速さが勝つ瞬間がある。
風が耳元で鳴って、世界が小さくなる。
その瞬間だけは――」
レギュラスは少し言葉を切り、わざと視線を外した。
“本音”の匂いを混ぜる。
彼女がそれを嗅ぎつけた時、こちらへの関心が深まる。
「……考えなくて済む」
アランが静かに呟いた。
レギュラスは視線を戻し、彼女の言葉を拾う。
「ええ。よく分かっていますね」
アランは自分が言ってしまったことに気づいたように、はっと口を閉じる。
――今のは、彼女自身のことだ。
考えたくないものがある。
考えずに済む瞬間を求めている。
レギュラスは追い詰めない。
追い詰めれば扉が閉まる。
代わりに、淡く提案する。
「いつか、あなたも飛んでみますか」
アランの瞳が揺れる。
恐れと、憧れが同時に揺れる。
その揺れが、あまりにも新鮮だった。
「……私にも、できますか」
「できます」
即答する。
即答は安心を与える。
安心は依存を生む。
「あなたが“やりたい”と言うなら」
最後に条件をつける。
彼女の意思を尊重しているように見せるために。
その意思が、結局こちらの掌の上でしか許されないことを、彼女はまだ完全には理解していない。
アランは少し黙り、やがて小さく言った。
「……高いところは、平気です」
さっきの言葉を、もう一度。
自分に言い聞かせるように。
レギュラスは笑いそうになった。
“木には登れます”と言った彼女が、今は“空”を想像している。
その変化が、何よりの収穫だった。
「ええ。木より高いところを、あなたに見せてあげます」
穏やかに言いながら、レギュラスは思う。
彼女は今、ほんの一瞬、こちらに期待した。
その期待は、恐怖よりも強い鎖になる。
さりげなく問い、さりげなく答え、さりげなく自分の話を混ぜる。
そうして、情報を得る。
心に近づく。
彼女が“奪われた”と感じない形で。
彼女が“自分から差し出した”と思う形で。
そしていつか、翡翠の瞳がこちらを見上げるたびに、
“恐れ”ではなく、“欲しい”という色を宿すようになるまで。
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