1章
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ブラック家の屋敷で、夜はとくに黒かった。
灯りがあっても黒い。薪が爆ぜても黒い。窓の外に月があっても、黒は薄まらない。
アランにとって、その黒は“眠り”を許さない色だった。
与えられた部屋は、整っている。豪奢で、清潔で、寝台は柔らかい。
けれど、そこは“自分の場所”ではない。
一人で扉を閉めた途端、静けさが牙をむく。
勝手に不安が増殖して、呼吸の隙間から入り込み、頭蓋の内側で膨れ上がる。
――焼け野原。
――緑の閃光。
――崩れる家。
――剥がされる腕。
――鎖の音。
あの日の悪夢が蘇る。
誰もいないはずなのに足音が聞こえる気がして、誰もいないはずなのに炎の匂いがする気がして、心臓が落ち着く場所を探して暴れる。
眠ろうとするほど、恐怖が濃くなる。
眠りの縁で、祖国が燃える。
だから、アランはエルヤの部屋へ行った。
気づけば、何度も。
扉を開ける口実も必要なくなっていた。
エルヤの横で、彼の体温を感じていないとまともな睡眠が取れなかった。
彼の肩の温度。胸の上下。息の音。
それらが“現実はまだ続いている”と教えてくれる。
怖いのは消えない。けれど、溺れずに済む。
エルヤの存在は、アランの要だった。
彼がいるからまだ立っていられる。
彼のおかげで、イェルスに帰るという夢を諦めないでいられる。
だからこそ――距離が近くなるのは当然だった。
当然なのに、それはこの屋敷の“秩序”の中では罪になる。
その夜も、アランは食卓に座っていた。
長いテーブル。銀食器。淡い香りの料理。
そして斜め向かい側には、レギュラス・ブラックがいる。
彼は食事をしているようで、こちらを見ている。
躾の成果を測っているような目で、指先の角度まで、呼吸の乱れまで、何もかもを。
その視線を感じるだけで、フォークやナイフを握る指先が震えた。
震えを隠そうとすればするほど、震えが大きくなる。
アランは唇を噛み、視線を皿に落とす。
食べているふりをしながら、胃が冷える。
隣にいるエルヤの気配が救いなのに、その救いが“弱点”として見られている気がして胸が苦しい。
そのときだった。
レギュラスが、ゆっくりとナイフとフォークを置いた。
銀が皿に触れる小さな音が、恐ろしく大きく響く。
音だけで、空気が変わる。
「アラン。エルヤ・ナイーム」
名を呼ばれた瞬間、アランの肩が僅かに強張った。
エルヤの気配も一段固くなる。
屋敷の使用人たちの動きが、ほとんど止まったように感じる。
彼らは聞いている。聞いていないふりをして、聞いている。
「あなたたち二人に忠告しましょう」
穏やかな声だった。
けれど、その穏やかさは刃の鞘だ。鞘の中には必ず刃がある。
アランはゆっくり顔を上げた。
銀色の瞳が射抜いてくる。
背筋が嫌に伸びる。伸びるというより、伸ばされる。
「この屋敷では、常に監視の目があると思っていいです」
“思っていい”ではない。
“そうだ”という宣告だ。
アランの喉が鳴った。
嫌な予感が、舌の裏側に苦く広がる。
レギュラスは淡々と続ける。
「アラン、あなたが夜中にエルヤの部屋に入っていることが――何日も報告されています」
その言葉に、顔が熱くなった。
熱くなるのは怒りではない。恥だった。
そんなところを人に見られていたこと。
そして、それをこの男の口から、冷静な言葉として告げられているという事実。
胸の奥まで焼けるように熱いのに、指先は冷たくなる。
返す言葉に戸惑う。
言い訳なんてできない。
でも、黙っても認めたことになる。
アランの視界の端で、後ろに控えていたエルヤが同じように固まっているのがわかった。
彼もまた、屈辱を噛み殺している。
そして―― アランが恥をかかされていることに、怒りを抱いている。
その怒りがさらに怖い。
怒りは、この屋敷では罰を呼ぶ。
レギュラスは、その二人の硬直を楽しむように、少しだけ微笑んだ。
「この屋敷の使用人たちを見てください」
言葉がやけに丁寧だ。
「あなたたちのような行為を、誰がしていますか?」
アランの喉が詰まった。
使用人たちは視線を落としている。
けれど耳は立っている。
きっと、彼らは“そんなことはしない”。
しないように躾けられている。
この屋敷の秩序に従うことが、生存の条件だから。
さらに言葉が詰まる。
何を言えばいいのか分からない。
違う、と言えば言うほど、惨めになる。
“眠れないから”なんて、弱さを晒すだけだ。
“怖いから”なんて、彼の嗜好を喜ばせるだけだ。
レギュラスの銀色の瞳が、アランの翡翠をじっと見つめる。
その視線は温度がないのに、身体だけが熱くなる。
「今、あなた方は秩序を学んでいるはずです」
淡々とした声。
「だったら、それがどんなものかは、もうわかるはずでしょう」
秩序。
秩序とは、誰が誰に属するかをはっきりさせること。
秩序とは、距離を守ること。
秩序とは、勝手に寄りかからないこと。
――秩序とは、この屋敷で“自由”が許されないということ。
アランは口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。
言えば、揺れる。
揺れたら、折られる。
レギュラスは最後に、優しく仕上げるように言った。
「同じ指摘をさせないでくださいね」
笑みが浮かぶ。
微笑みなのに、扉が閉まる音みたいだった。
“次はない”という意味を、微笑みで告げるのがこの男だ。
アランの頬の熱は引かない。
恥ずかしさで、呼吸が乱れそうになる。
けれど乱れたら――それすら見られる。測られる。玩具にされる。
アランは唇を強く噛んだ。
血の味が滲む。
それでようやく、息が整う。
「……わかりました」
かすれた声で、それだけ言うのが精一杯だった。
斜め後ろで、エルヤが微かに息を呑む音がした。
彼は何か言いたいのだろう。
守りたいのだろう。
でも言えば、また何かが奪われる。
アランは一瞬だけ振り返り、目だけでエルヤに伝えた。
――大丈夫。
――今は、耐えて。
エルヤの瞳が、痛いほどに揺れる。
それでも頷く。
食卓の上の料理は冷めていく。
銀食器は光っている。
屋敷の秩序は完璧だ。
その完璧の中で、アランの胸の奥にだけ、ひとつ小さな誓いが燃えていた。
恥は、忘れない。
屈辱は、捨てない。
いずれ全部、帰るための火種に変える。
そして今夜は――
一人で眠る。
扉を閉める。
悪夢に噛まれても、声を出さない。
帰るために。
レギュラスは書類の束を机に置いたまま、指先だけで紙の端を揃えた。
完璧に整える癖は、彼の思考にもそのまま表れる。
筋道が通っていないものは嫌いだ。曖昧さは、最も不快な汚れだ。
その日、呼ばれたのは屋敷の一室だった。
黒檀の壁に、淡い魔法灯。
窓の外は鈍い空で、雨が降る予感だけが漂っている。
アラン・セシールは椅子に座らされていた。
姿勢は整えさせられている。髪も整えさせられている。
それでも翡翠の瞳だけが、まだ“屈しない色”を残している。
レギュラスは彼女を見下ろし、穏やかに問うた。
「あなたの言う“完璧な封印”とやらは、どうすれば完成するのです?」
言葉の形は丁寧だが、内容は命令だ。
彼女の答えが気に入らなければ、答えが変わるまで追い詰める。
アランは一拍、黙った。
その沈黙の中に、怒りがある。嫌悪がある。
だが、言葉に変えるしかない。変えなければ、彼は勝手に解釈する。
「……本来は」
彼女の声は低い。
心を削りながら、血を吐くように言う。
「親が子に与える無償の思いが根底にあるものです。
慈しみの心を媒介に、護りを強化する。
愛がないなら……宿らない」
レギュラスは、それを聞いて眉一つ動かさなかった。
内心の不快さは、表情に出さない。
出す必要がない。
――愛。
――慈しみ。
――親が子を思う。
どれも曖昧で、輪郭がなく、測れない。
測れないものは制御できない。
制御できないものは、嫌いだ。
そういうものが、レギュラス・ブラックにとっては曖昧で嫌いだった。
彼女の言葉を正とするならば。
本来の目的とかけ離れた使い方はできない――ということになる。
戦艦に、侵略に、征服に。
“守る”という名目ではなく、“攻めるために守る”という歪んだ形では、完成しない。
だが。
できないわけがない。
レギュラスの思考は即座にそこへ戻る。
原理があるなら、再現できる。
再現できるなら、量と手順と条件で固定できる。
感情など、変数として排除すべきノイズだ。
事実、血の犠牲の量を上げれば結界は間違いなく強固になった。
持続が弱かっただけで。
ならば犠牲の量をさらに上げれば、持続は続く。
理屈はそのはずだ。
筋の通った理屈は好む。
だが、感情を挟んだ理屈は受け入れられない。
この封印の術に、愛だの護りだの。親が子を思うだの。
そういった気色の悪い論理を入れ込まれると、笑ってしまいそうになる。
レギュラスは静かに椅子の背に身体を預け、薄く微笑んだ。
「なるほど。……あなたはそれを“必要条件”だと言う」
その言い方が、既に否定の準備だった。
必要条件など、こちらが決める。
「しかし、あなたの血を混ぜるだけで結界は強固になった。
あなた自身が、証明している」
アランの翡翠の瞳が僅かに揺れる。
言い返したいのに、言い返せない揺れ。
「持続が弱かったのは、術が未完成だったからではありません。
……心が伴っていないからです」
アランが言う。
その言葉は、訴えというより警告だ。
この男がどれほど危険かを、彼女は知っている。
「そんなことをすれば、必ず呪いが跳ね返ります」
レギュラスは笑みを深くしない。
ただ、冷たく、面白がるように目を細める。
呪い。
またその言葉だ。
呪いという言葉でこちらが怯むとでも思っているのか。
この国が積み上げてきたのは、呪いより確かなものだ。
制度、兵力、金、恐怖。
呪いより恐ろしいものなど、この国にはいくらでもある。
レギュラスは穏やかな声のまま、結論だけを落とした。
「やれる範囲で構いませんよ。犠牲の量を増やしましょう」
その言葉は提案の形をしている。
だが実際は命令だ。
“やれ”と言っている。
アランの顔色が一瞬だけ変わる。
血の気が引く。
それでも翡翠の瞳が、必死に光を保つ。
「……そんなことをすれば必ず――」
「では」
レギュラスは言葉を遮った。
遮ることに一片の罪悪感もない。
こちらの理屈の方が正しいと確信しているからだ。
「その呪いごと跳ね返しましょう」
淡々と、当然のように。
「それができるだけの力が、この英国にはあるんですよ」
アランは息を呑んだ。
その息を呑む音さえ、レギュラスには小さな勝利の音に聞こえる。
恐れが生まれた。
恐れが生まれたなら、従う準備が整う。
レギュラスは机の上の書類を指先で叩き、視線を上げた。
「封印の代償を、僕が考慮する理由はありません」
冷えた声が落ちる。
「必要なのは結果です。
あなたの言う“愛”が必要なら――」
彼は一瞬だけ微笑み、刃を隠して言った。
「あなたに“愛している”と思い込ませる環境を用意すればいい。
それだけでしょう?」
アランの瞳が揺れる。
怒りと恐怖が交差し、言葉にならない。
レギュラスはその揺れを見ながら、心の中で結論を固めた。
完璧な封印は、簡単にはかけられない。
だが、簡単にかけられないなら――
簡単にかけられるように“条件”を作ればいい。
人の心を条件にする術なら、なおさら。
心ほど、操作しやすいものはない。
レギュラスは穏やかに微笑んだまま、最後に言った。
「あなたが嫌がろうと、恐れようと、関係ありません。
あなたの術は、この国のために使われる」
優しい声で言い切るほど、残酷になる。
その残酷さが、屋敷の黒にぴたりと馴染む。
アランの翡翠の瞳は、怒りで光りながらも、言葉を失っていた。
そしてレギュラスは、呪いより恐ろしいものがこの国にいくらでもあることを――
彼女に、もう一度教えてやるつもりでいた。
白い部屋だった。
白い壁、白い天井、白いシーツ。清潔を装うための白。けれどその白の隅々には、どうしても隠しきれない“生”の匂いが沈んでいる。消毒薬の鋭い香りの奥に、金属の匂いが混じる。湿った布の匂い。焦げた魔力の残り香。――生き物の体が壊れたときにしか漂わない気配。
寝台の上に、男が横たえられていた。
全身を包帯で覆われている。
顔の輪郭さえ曖昧で、白い布が人間を“形”に保っているだけのようだった。滲み出した液体が包帯を汚している。赤でもなく、透明でもない、濁った色。命が体内でうまく回らなくなったときの色。胸のあたりがわずかに上下するのが見えて、彼がまだ生きているのだと、残酷なほどはっきりわかる。
長くはないのかもしれない。
けれど、それでも、その命を奪うようなことはできない。
アランは喉の奥がきゅっと縮むのを感じながら、息を整えようとした。
――大丈夫。言えばいい。言うしかない。
自分に言い聞かせる声が、すぐにぐらつく。こういう場に立つたび、焼け野原の匂いが胸の奥から蘇る。緑の閃光。倒れた父と母。剥がされた手。鎖の音。すべてが、一瞬で皮膚の裏側に張り付く。
それでも、アランは言った。
声が震えないように、できる限り丁寧に。
「……できません」
背後から、間髪入れずに言葉が重なる。
「できます」
レギュラス・ブラックの声は、いつも整っていた。
声に荒さがない。怒鳴らない。だからこそ恐ろしい。抵抗する者の呼吸の隙間を、淡々と塞いでいく。
アランは振り返らなかった。振り返った瞬間、銀色の瞳に捕まる。捕まれば、逃げ道のない場所へ引きずり込まれる。
だから視線は寝台に縫い付ける。包帯の下にある胸の上下に。まだ生きている呼吸に。
イェルスでは、人が人の命を奪うことを絶対に正とは扱わない。
それは神に背く行為になる。代償は必ず来る。そう教えられて育ってきた。
命の終わりは、人が決めるものではない。神が決めるものだ。だから、どれほど痛みに満ちた終わりであっても、そこに手を加えることは“罪”だった。
けれど、この国は、その罪を“手順”にする。
レギュラスの足音が、床の上を静かに近づいた。
黒いローブの気配が、部屋の白を汚していくように感じた。
「僕の育てた魔法兵はですね」
まるで講義のような声。
慈悲を語るような口調で、慈悲とは反対のことを言う。
「この国のために死ねることを誇りに思います。これはただの死ではない。殉死です。だからあなたは何も気にしなくていい」
“気にしなくていい”。
その言葉が、アランの胸の奥を殴った。
気にしないで命を奪えと言う。気にしないで魂を汚せと言う。
この国では、死が誇りになる。そんな世界があること自体、アランには理解できなかった。理解できないのに、従わされる。
アランは喉の奥に溜まった苦さを飲み込む。
視界が少し滲む。泣きたいのではない。怒りでもない。
ただ、世界が違いすぎて、心が追いつかない。
「命の終わりは……神が決めるものです」
言葉にすると、あまりにも小さい。
この白い部屋の中でさえ、信仰は軽い。薄い。折れそうだ。
レギュラスは一歩、さらに距離を詰めた。
今度は声が背後ではなく、耳の近くに落ちた。息が触れるほどの距離。
「僕が用意した犠牲が気に入らないのならば」
囁き。
毒の味を隠した甘さ。
「エルヤ・ナイームを犠牲にしますか?」
世界がひっくり返る感覚がした。
内臓が持ち上がり、胃が喉へせり上がる。息が止まる。指先から血の気が引いていく。
その名前は、アランにとって“帰る”という願いそのものだった。支えだった。要だった。
そんなこと、絶対にできない。
彼を失えば生きていけなくなる。
人生が潰える。夢が終わる。世界が終わる。
レギュラスは、アランの反応を待っていた。
待つというより、味わっている。揺れる心の形を、宝石を転がすように眺めている。
「愛が必要なんでしょう?」
笑いを含んだ声が、さらに耳元へ絡む。
「エルヤ・ナイームにはあなたの愛が宿る。ちょうどいい犠牲になるじゃないですか」
楽しそうに告げてくる。
地獄だった。
エルヤか、目の前の男か。
それを選べと言ってくる。
選ぶという形で、心を破壊する。
アランの視界が揺れる。包帯の白が滲んで、寝台が遠のく。
この場に立っていられない。膝が崩れそうになる。
けれど崩れた瞬間に、彼は“決める”だろう。決めてしまうだろう。
エルヤを犠牲にするという最悪の答えを、彼の口から当然のように落とされてしまう。
耐えられなかった。
アランは唇を噛み、痛みで意識を繋いだ。
そして、喉の奥から、かすれた声を押し出した。
「……わかりました」
それは承諾ではない。屈服でもない。
ただ、守るための選択だった。守るべきものを守るために、別のものを切り捨てるしかないという、最も残酷な形。
アランは、目の前の男を選ぶ。
選ぶしかなかった。
エルヤは選べないのだから。
レギュラスが満足げに息を吐く気配がした。
それだけで、アランの心臓が嫌な音を立てる。
彼は勝ったと思っている。思わせておけばいい。
でも、勝っているのは誰だろう。
アランは寝台の横へ進んだ。
手のひらが冷たい。指先が震える。
包帯に触れたくない。触れれば、命の重さが伝わってしまう。
伝わったら、最後まで手が動かなくなる。
「……ごめんなさい」
故郷の言葉で、誰にも届かないほど小さく呟いた。
神にだけ届いてほしい。
届かないと知っていても、そう願うしかない。
杖は要らない。
指先だけで、祈りの形をなぞる。
イェルスの術は、もともと誰かを抱きしめる手の延長だ。
慈しみの心が、護りを強くする。
――慈しみ?
今、アランの胸にある慈しみは、目の前の男へ向いていない。
向けられない。
向けたら、エルヤが危うくなる。
向けたら、未来が折れる。
アランの慈しみは、ただ一つの方向へしか流れない。
守りたいのは、エルヤだ。
同胞だ。
イェルスへ帰るという願いだ。
その願いのために、別の命を奪う。
矛盾が胸の奥を裂いた。裂けた場所から冷たいものが流れ込んで、感覚が薄れていく。
涙が出そうになる。泣いてはいけない。泣けば、心が止まる。
儀礼語の封緘句が、喉の奥でほどける。
対象の明確化。
意志。
誓う言葉。
真名だけは言わない。
真名は、奪われるものではない。
真名は、エルヤにしか渡さないと決めたものだ。
そこだけは守る。そこだけは譲れない。
光が生まれる。
薄い膜のような、柔らかい光。
その光は、男の身体を包むのではなく――吸い上げるように沈んでいく。
命の熱を、術の形へ変換していく。
胸の上下が止まった。
音が消えた。
世界が一瞬、真空になったみたいに静かになり、アランの耳には自分の心臓の音だけが残る。
生きていることが、罰のように響く。
その瞬間、遠くの海上で結界が“締まる”感覚があった。
術が噛み合う。
鎖が固定される。
持続が生まれる。強度が増す。
男の犠牲をもってして、強固な結界が完成した。
この前施した、自分の血を多く犠牲にして作り上げたものより、より強固で、持続するだろう。
それがわかるから、余計に胸が痛い。
成果が出てしまった。
成果が出てしまったから、次も求められる。
次も、次も。
アランの指先が、震えたまま止まる。
膝が崩れそうになるのを、床の冷たさで支える。
倒れてはいけない。倒れたら終わる。
終われば、次はエルヤが差し出される。
レギュラスの声が、背中に落ちた。
「よくできました」
優しい声ほど残酷なものはない。
アランは振り返らなかった。振り返れば、銀色の瞳に映る自分が――もう祈りを語れる人間ではなくなっている気がしたから。
心が、ひび割れていく。
割れそうだった。
けれど完全には割れない。割れきってしまえば、守れなくなる。
アランは、ただ呼吸をした。
息を吸って、吐いて。
それだけで精一杯だった。
“帰る”ために。
“守る”ために。
そのために、今日もまた、ひとつ何かを失った。
封印は、施された。
それも前回よりたわみもなく、強固で、持続するものを。
どんな葛藤があったにせよ、アラン・セシールはやった。
指先は震えていただろう。心は裂けていただろう。
けれど結果は残った。結果だけが、この世界では価値になる。
十分だった。
守りが永遠でなくてもいい。緩んできたなら、また掛けさせればいいだけだ。
壊れないものを一度で作る必要はない。壊れたら直させればいい。
その“直させる”という行為そのものが、支配を更新する。
成功させたからには褒美も与える。
それがレギュラス・ブラックのやり方だった。
飴と鎖。甘さと恐怖。どちらか片方では長く続かない。
片方が強いほど、もう片方は穏やかに見える。
その配合を、彼は骨の髄まで理解している。
宝飾品や衣服は、屋敷に山ほどある。
だが、あの女は――自分自身が宝石のような瞳を持っている。
どんな宝石を贈っても、あの翡翠には勝てない気がした。
勝てないものを贈るのは、つまらない。
彼女が“欲しい”と望む対象に触れさせ、そこを自分の掌で握っていると教えるほうが、ずっと美しい。
だから、彼女の同胞を屋敷に呼ぶことにした。
呼び寄せたのは数名。
今や彼らは、ただの捕虜ではない。
適材適所に配置され、それぞれ相応の身分を与えられ、衣食住を整えられている。
それが恩恵であると同時に、首輪であることを――この屋敷にいる者は皆、知っている。
イェルスの地の古代的な暮らしから、近代的な英国の富へ。
価値観が変わってきた頃合いだとレギュラスは踏んでいた。
人は一度、便利さを覚える。
人は一度、庇護の甘さを覚える。
人は一度、上に立つ感覚を覚える。
そして一度覚えたら、戻れない。
より多くの富が欲しくなる。
より高い地位が欲しくなる。
忠誠を誓い、成果を挙げれば相応の褒美が与えられる。
その分かりやすい構図を、彼らが覚えてしまえば――
手に入れたものは、次の手に届くたびに、もう手放せない。
食卓の準備が整うと、アランもそこへ呼ばれた。
黒い屋敷の広間に、蝋燭の光が揺れる。
彼女はまだ疲労を残し、顔色も淡い。
けれど翡翠の瞳だけは、消えない。
消えないからこそ、なおさら美しい。
そして、苛立たしい。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、指先でグラスの縁をなぞった。
その仕草だけで、場の空気が整列する。
「今夜は、あなたの“褒美”を用意しました」
穏やかな声で告げる。
褒美と呼ぶことで、彼女が拒否しづらくなるのを計算している。
彼女は何も返さない。
返したくないのだろう。
それでも、耳は言葉を受け取ってしまう。
扉が開き、同胞たちが入ってきた。
その瞬間、アランの肩が僅かに強張るのがわかった。
息が止まったように見えた。
目が、一人ひとりを追う。
追ってしまう。
そこには安堵がある。彼らが生きている安堵。
けれど安堵と同じ速度で、別の感情が浮かぶ。
――違う。
彼らはもう、イェルスの民の姿ではない。
英国の服を着ている。仕立ての良い布地。磨かれた靴。
言葉も、ぎこちなく英国語を混ぜ始めている。
姿勢が整い始めている。
顔に“慣れ”が滲み始めている。
それが、決定的だった。
レギュラスは、その“違い”を見せたかった。
生きている同胞を見せれば、アランは喜ぶ。
だが同時に――
決定的な隔たりを感じるだろう。
その瞬間の、絶望に似た顔が見たかった。
同胞の中で、ひときわ体格のいい男が一歩進み出た。
彼は今、魔法兵の花形に配置されている。杖を握らされ、訓練を受け、見込みが早く頭角を表しているという報告が上がっている。
目は、以前よりも強い光を持っていた。
力を知った目だ。
自分が“上に行ける”と気づいた者の目。
この地で、人の上に立てる予感を知れば元には戻れない。
杖を握り、より強い呪文を覚えれば――指先だけで紡ぐ弱々しい呪文で満足はできない。
それは、本人がいちばんよく分かっているはずだった。
レギュラスはその男に向けて、穏やかに言った。
「訓練の成果は上々だそうですね」
褒め言葉。
それだけで男の背筋が伸び、口元が僅かに緩む。
誇りがそこにある。
誇りがあるなら、忠誠は買える。
次に、女が前へ出た。
ワーゲン家に配属してやった女だ。
器用にこなしていると知らせがあった。手先が器用で、屋敷の女主人が彼女を気に入っていると。
気に入られるほど、与えられるものは増える。
見たこともないような布。宝飾。甘い菓子。温かい湯。
権力ある者からの圧倒的な庇護。
その感覚は、一度知ればもう戻れない。
彼女の頬には、薄く“豊かさ”が宿り始めていた。
アランの瞳が揺れる。
揺れは小さいが、確かに揺れる。
喜びたいのに、喜べない。
生きていてほしいのに、変わってほしくない。
変わってほしくないのに、変わってしまった。
その矛盾が、翡翠の奥で渦を巻く。
レギュラスはそれを見て、静かに満足した。
彼女の心はまだ折れきっていない。
だから、折る価値がある。
「彼らはよくやっています。あなたの同胞は、優秀だ」
優秀。
その一言で、イェルスの民は“素材”に変わる。
道具に変わる。
使えるものに変わる。
そしてアランは、その“優秀”が自分を追い詰めることを理解してしまう。
同胞が価値を持ったなら、同胞はこの国のものになる。
同胞が褒美を受け取ったなら、褒美は鎖になる。
同胞のうちの誰かが、アランの方を見た。
その目には、懐かしさと、戸惑いと、そして――ほんの僅かな距離があった。
彼ら自身も気づいている。
戻れない橋を、渡り始めていることを。
アランの胸の奥が、静かに沈む。
言葉が出ない。
出れば崩れる。
崩れた姿を、この男は望んでいる。
レギュラスはその沈黙を、ワインの余韻みたいに味わった。
そして最後に、優しい声で締めくくる。
「褒美です、アラン・セシール。あなたが成功させたから、彼らはここにいます」
与えたのは自分だと、丁寧に刻む。
奪えるのも自分だと、言わずに示す。
「あなたが次も成功させれば、彼らはもっと良い場所へ行ける。
――わかりやすいでしょう?」
翡翠の瞳が、痛いほどに光る。
怒りと涙の境界で、それでも崩れない光。
その光が、レギュラスにはたまらなく愉快だった。
同胞を与える。
同胞を守ると見せる。
同胞を“変える”。
そして彼女の心の中に、二度と消えない隔たりを作る。
それが褒美であり、罰であり、支配の完成だった。
レギュラスは微笑んだ。
黒い屋敷の中で、翡翠が曇っていく瞬間を――
ゆっくりと、堪能するために。
屋敷の廊下は、相変わらず黒かった。
黒い壁、黒い扉、黒い絨毯。光さえ控えめに整えられ、影が影のまま置かれている。
その黒の中で、アランはふと、白を見つけた。
使用人たちが何かの補修に使うのだろう、小さな壺。蓋の隙間から、乾いた匂いが漏れている。手に取ると重みがあって、指先にざらつきが伝わった。開けば、白い塗料が眠っていた。
あまりに白い。眩しいほどに。
黒い屋敷の中で、その白だけが異物のように浮いた。
イェルスで白は神聖な色だった。
幼い頃から、白は祈りの色だった。
大地の神に祈りを捧げる祭りが、一番好きだった。
花の種を割って、その中に隠れている白い粉を指先に取る。乾いた粉は肌に触れると冷たく、ほんの少し甘い香りがした。
それを頬に、額に、鼻筋に――模様を描く。
親が子に書いてあげたり。友と描き合ったり。
笑い声が弾んで、草の匂いが濃くなる日。
エルヤにも、よく書いてあげていた。
思い出は、ここでは毒にも薬にもなる。
思い出すほど苦しいのに、思い出さないと自分が空になってしまう。
アランは壺を抱え、誰にも見られないように、急いで自分の部屋へ戻った。
扉を閉めると、胸の奥に溜めていた息が少しだけ漏れた。
静けさが戻ってくる。
黒い屋敷の静けさ。けれど今だけは、その静けさを“味方”にしたかった。
指先で白を掬う。
少し粘りがあって、匂いがきつい。イェルスの花の粉みたいに優しくない。
けれど、白は白だった。
それだけで、胸の奥に小さな灯がともる。
鏡に映る自分の顔が、見知らぬものみたいに感じる。
英国の衣装。英国の髪型。英国の光。
翡翠の瞳だけが、まだ故郷の色を残しているのに、他のすべてが奪われていく。
だから、白を描こうと思った。
顔に模様を描けば、ほんの一瞬だけでも、イェルスの自分に戻れる気がした。
コンコン、と控えめなノックがした。
アランは壺を隠すように抱え、扉を開ける。
そこにいたのはエルヤだった。
彼もまた、英国の服を着せられている。
腕の内側に刻まれた印は、袖に隠れているはずなのに、見えないところで脈打つ気配がする。
その事実だけで胸が痛むのに――彼がここにいることで、アランの心は確かに呼吸をしやすくなる。
「……どうしたの?」
エルヤが小声で尋ねる。
アランは壺を見せた。
「見つけたの」
蓋を開けた瞬間、白が光を反射する。
黒い部屋の中で、白はあまりにも強い。
エルヤの目がそれを見て、わずかに揺れた。
すぐに、その揺れを隠すように唇を引き結ぶ。
けれどアランにはわかった。彼も思い出している。
「……白だ」
「ええ」
アランは頷き、指先に白を取った。
匂いはきつい。けれど手触りは、どこか懐かしい。
祭りの朝、母が自分の頬に模様を描いてくれたときの指先の温度を思い出す。
「エルヤ、これ、付けてあげる」
アランが言うと、エルヤは少し迷うように目を伏せ、それから静かに屈んだ。
一緒に育ったはずなのに。
いつのまにか彼だけが随分と背が高くなった。
だからこうして目線を合わせる時、彼は屈んでくれる。
その仕草が、やけに優しくて、胸がきゅっと痛む。
アランは端正になった彼の顔立ちに、白をそっと置く。
頬骨の上。額の端。鼻筋の脇。
イェルスの祭りの真似事。
真似事なのに、心が躍った。
白を描く指先が震える。
震えは恐怖からではなく、懐かしさからだった。
こんなにも懐かしいことを、まだ自分ができるのだと知って。
「……匂いが違うな」
エルヤが小さく笑う。
それは笑いというより、息だ。
息が笑いの形をしただけ。
「うん。でも、白は白よ」
アランは最後に、小さな印を頬に置いた。
花の粉で描いた模様の代わりに。
するとエルヤが、壺を指先で受け取る。
「今度は僕が」
エルヤはそう言って、指先に白を取った。
その動きが少しぎこちない。
指先で紡ぐ術には慣れていても、“描く”ことは別なのだ。
アランは椅子に腰を下ろし、顔を上げた。
エルヤの指が近づく。
「綺麗に書いて」
アランが言うと、エルヤは困ったように眉を寄せる。
「僕は下手だからな」
その言い方が、昔のままだった。
イェルスで、少年だった頃の声のまま。
そのままなのが嬉しくて、アランは笑いそうになる。
笑えば泣いてしまいそうで、唇を噛んだ。
エルヤの指先が、アランの頬に触れる。
冷たい。塗料が冷たい。
でも、その向こうの指の温度が、確かにあたたかい。
額に線が引かれる。
頬に丸が置かれる。
少し歪んで、少し滲んで――それでも、たしかに“祈りの形”になる。
「……どう?」
エルヤが不安げに尋ねる。
アランは鏡を見ずに、ただ頷いた。
「綺麗」
嘘ではなかった。
形の美しさではない。
彼が描いてくれたという事実が、美しかった。
二人は声を潜めるようにして、祭りの歌を口ずさんだ。
昔、皆で歌った歌。
大地の神に感謝する旋律。
風と土と、獣の命に感謝する歌。
懐かしさが込み上げる。
踊りも歌も。
獣の肉に感謝しながら、皆で分け与えて食べる食事も。
皆で同じ神に祈る儀式も。
火の周りで笑い合った夜も。
星の下で手を繋いだ帰り道も。
全てが、幸せだった。
そして今、それがどれほど尊かったかを――
この黒い屋敷の中で、白を顔に塗りながら、痛いほど理解する。
アランはエルヤの肩に額を寄せた。
ほんの少し。ほんの一瞬。
それだけで、息が楽になる。
「……必ず帰ろうね」
アランが囁くと、エルヤの胸が小さく震えた。
彼は頷き、同じ言葉で返す。
「帰ろう。必ず」
二人の頬の白が、黒い部屋の中で淡く光る。
それは子供じみた遊びのようで、祈りのようで、呪いのようでもあった。
この屋敷が奪えるものは多い。
けれど、今この瞬間の“故郷”だけは、奪えない。
奪わせない。
アランはそう思いながら、祭りの歌をもう一度小さく口ずさんだ。
涙が出そうになるのを、歌の形にして飲み込むために。
灯りがあっても黒い。薪が爆ぜても黒い。窓の外に月があっても、黒は薄まらない。
アランにとって、その黒は“眠り”を許さない色だった。
与えられた部屋は、整っている。豪奢で、清潔で、寝台は柔らかい。
けれど、そこは“自分の場所”ではない。
一人で扉を閉めた途端、静けさが牙をむく。
勝手に不安が増殖して、呼吸の隙間から入り込み、頭蓋の内側で膨れ上がる。
――焼け野原。
――緑の閃光。
――崩れる家。
――剥がされる腕。
――鎖の音。
あの日の悪夢が蘇る。
誰もいないはずなのに足音が聞こえる気がして、誰もいないはずなのに炎の匂いがする気がして、心臓が落ち着く場所を探して暴れる。
眠ろうとするほど、恐怖が濃くなる。
眠りの縁で、祖国が燃える。
だから、アランはエルヤの部屋へ行った。
気づけば、何度も。
扉を開ける口実も必要なくなっていた。
エルヤの横で、彼の体温を感じていないとまともな睡眠が取れなかった。
彼の肩の温度。胸の上下。息の音。
それらが“現実はまだ続いている”と教えてくれる。
怖いのは消えない。けれど、溺れずに済む。
エルヤの存在は、アランの要だった。
彼がいるからまだ立っていられる。
彼のおかげで、イェルスに帰るという夢を諦めないでいられる。
だからこそ――距離が近くなるのは当然だった。
当然なのに、それはこの屋敷の“秩序”の中では罪になる。
その夜も、アランは食卓に座っていた。
長いテーブル。銀食器。淡い香りの料理。
そして斜め向かい側には、レギュラス・ブラックがいる。
彼は食事をしているようで、こちらを見ている。
躾の成果を測っているような目で、指先の角度まで、呼吸の乱れまで、何もかもを。
その視線を感じるだけで、フォークやナイフを握る指先が震えた。
震えを隠そうとすればするほど、震えが大きくなる。
アランは唇を噛み、視線を皿に落とす。
食べているふりをしながら、胃が冷える。
隣にいるエルヤの気配が救いなのに、その救いが“弱点”として見られている気がして胸が苦しい。
そのときだった。
レギュラスが、ゆっくりとナイフとフォークを置いた。
銀が皿に触れる小さな音が、恐ろしく大きく響く。
音だけで、空気が変わる。
「アラン。エルヤ・ナイーム」
名を呼ばれた瞬間、アランの肩が僅かに強張った。
エルヤの気配も一段固くなる。
屋敷の使用人たちの動きが、ほとんど止まったように感じる。
彼らは聞いている。聞いていないふりをして、聞いている。
「あなたたち二人に忠告しましょう」
穏やかな声だった。
けれど、その穏やかさは刃の鞘だ。鞘の中には必ず刃がある。
アランはゆっくり顔を上げた。
銀色の瞳が射抜いてくる。
背筋が嫌に伸びる。伸びるというより、伸ばされる。
「この屋敷では、常に監視の目があると思っていいです」
“思っていい”ではない。
“そうだ”という宣告だ。
アランの喉が鳴った。
嫌な予感が、舌の裏側に苦く広がる。
レギュラスは淡々と続ける。
「アラン、あなたが夜中にエルヤの部屋に入っていることが――何日も報告されています」
その言葉に、顔が熱くなった。
熱くなるのは怒りではない。恥だった。
そんなところを人に見られていたこと。
そして、それをこの男の口から、冷静な言葉として告げられているという事実。
胸の奥まで焼けるように熱いのに、指先は冷たくなる。
返す言葉に戸惑う。
言い訳なんてできない。
でも、黙っても認めたことになる。
アランの視界の端で、後ろに控えていたエルヤが同じように固まっているのがわかった。
彼もまた、屈辱を噛み殺している。
そして―― アランが恥をかかされていることに、怒りを抱いている。
その怒りがさらに怖い。
怒りは、この屋敷では罰を呼ぶ。
レギュラスは、その二人の硬直を楽しむように、少しだけ微笑んだ。
「この屋敷の使用人たちを見てください」
言葉がやけに丁寧だ。
「あなたたちのような行為を、誰がしていますか?」
アランの喉が詰まった。
使用人たちは視線を落としている。
けれど耳は立っている。
きっと、彼らは“そんなことはしない”。
しないように躾けられている。
この屋敷の秩序に従うことが、生存の条件だから。
さらに言葉が詰まる。
何を言えばいいのか分からない。
違う、と言えば言うほど、惨めになる。
“眠れないから”なんて、弱さを晒すだけだ。
“怖いから”なんて、彼の嗜好を喜ばせるだけだ。
レギュラスの銀色の瞳が、アランの翡翠をじっと見つめる。
その視線は温度がないのに、身体だけが熱くなる。
「今、あなた方は秩序を学んでいるはずです」
淡々とした声。
「だったら、それがどんなものかは、もうわかるはずでしょう」
秩序。
秩序とは、誰が誰に属するかをはっきりさせること。
秩序とは、距離を守ること。
秩序とは、勝手に寄りかからないこと。
――秩序とは、この屋敷で“自由”が許されないということ。
アランは口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。
言えば、揺れる。
揺れたら、折られる。
レギュラスは最後に、優しく仕上げるように言った。
「同じ指摘をさせないでくださいね」
笑みが浮かぶ。
微笑みなのに、扉が閉まる音みたいだった。
“次はない”という意味を、微笑みで告げるのがこの男だ。
アランの頬の熱は引かない。
恥ずかしさで、呼吸が乱れそうになる。
けれど乱れたら――それすら見られる。測られる。玩具にされる。
アランは唇を強く噛んだ。
血の味が滲む。
それでようやく、息が整う。
「……わかりました」
かすれた声で、それだけ言うのが精一杯だった。
斜め後ろで、エルヤが微かに息を呑む音がした。
彼は何か言いたいのだろう。
守りたいのだろう。
でも言えば、また何かが奪われる。
アランは一瞬だけ振り返り、目だけでエルヤに伝えた。
――大丈夫。
――今は、耐えて。
エルヤの瞳が、痛いほどに揺れる。
それでも頷く。
食卓の上の料理は冷めていく。
銀食器は光っている。
屋敷の秩序は完璧だ。
その完璧の中で、アランの胸の奥にだけ、ひとつ小さな誓いが燃えていた。
恥は、忘れない。
屈辱は、捨てない。
いずれ全部、帰るための火種に変える。
そして今夜は――
一人で眠る。
扉を閉める。
悪夢に噛まれても、声を出さない。
帰るために。
レギュラスは書類の束を机に置いたまま、指先だけで紙の端を揃えた。
完璧に整える癖は、彼の思考にもそのまま表れる。
筋道が通っていないものは嫌いだ。曖昧さは、最も不快な汚れだ。
その日、呼ばれたのは屋敷の一室だった。
黒檀の壁に、淡い魔法灯。
窓の外は鈍い空で、雨が降る予感だけが漂っている。
アラン・セシールは椅子に座らされていた。
姿勢は整えさせられている。髪も整えさせられている。
それでも翡翠の瞳だけが、まだ“屈しない色”を残している。
レギュラスは彼女を見下ろし、穏やかに問うた。
「あなたの言う“完璧な封印”とやらは、どうすれば完成するのです?」
言葉の形は丁寧だが、内容は命令だ。
彼女の答えが気に入らなければ、答えが変わるまで追い詰める。
アランは一拍、黙った。
その沈黙の中に、怒りがある。嫌悪がある。
だが、言葉に変えるしかない。変えなければ、彼は勝手に解釈する。
「……本来は」
彼女の声は低い。
心を削りながら、血を吐くように言う。
「親が子に与える無償の思いが根底にあるものです。
慈しみの心を媒介に、護りを強化する。
愛がないなら……宿らない」
レギュラスは、それを聞いて眉一つ動かさなかった。
内心の不快さは、表情に出さない。
出す必要がない。
――愛。
――慈しみ。
――親が子を思う。
どれも曖昧で、輪郭がなく、測れない。
測れないものは制御できない。
制御できないものは、嫌いだ。
そういうものが、レギュラス・ブラックにとっては曖昧で嫌いだった。
彼女の言葉を正とするならば。
本来の目的とかけ離れた使い方はできない――ということになる。
戦艦に、侵略に、征服に。
“守る”という名目ではなく、“攻めるために守る”という歪んだ形では、完成しない。
だが。
できないわけがない。
レギュラスの思考は即座にそこへ戻る。
原理があるなら、再現できる。
再現できるなら、量と手順と条件で固定できる。
感情など、変数として排除すべきノイズだ。
事実、血の犠牲の量を上げれば結界は間違いなく強固になった。
持続が弱かっただけで。
ならば犠牲の量をさらに上げれば、持続は続く。
理屈はそのはずだ。
筋の通った理屈は好む。
だが、感情を挟んだ理屈は受け入れられない。
この封印の術に、愛だの護りだの。親が子を思うだの。
そういった気色の悪い論理を入れ込まれると、笑ってしまいそうになる。
レギュラスは静かに椅子の背に身体を預け、薄く微笑んだ。
「なるほど。……あなたはそれを“必要条件”だと言う」
その言い方が、既に否定の準備だった。
必要条件など、こちらが決める。
「しかし、あなたの血を混ぜるだけで結界は強固になった。
あなた自身が、証明している」
アランの翡翠の瞳が僅かに揺れる。
言い返したいのに、言い返せない揺れ。
「持続が弱かったのは、術が未完成だったからではありません。
……心が伴っていないからです」
アランが言う。
その言葉は、訴えというより警告だ。
この男がどれほど危険かを、彼女は知っている。
「そんなことをすれば、必ず呪いが跳ね返ります」
レギュラスは笑みを深くしない。
ただ、冷たく、面白がるように目を細める。
呪い。
またその言葉だ。
呪いという言葉でこちらが怯むとでも思っているのか。
この国が積み上げてきたのは、呪いより確かなものだ。
制度、兵力、金、恐怖。
呪いより恐ろしいものなど、この国にはいくらでもある。
レギュラスは穏やかな声のまま、結論だけを落とした。
「やれる範囲で構いませんよ。犠牲の量を増やしましょう」
その言葉は提案の形をしている。
だが実際は命令だ。
“やれ”と言っている。
アランの顔色が一瞬だけ変わる。
血の気が引く。
それでも翡翠の瞳が、必死に光を保つ。
「……そんなことをすれば必ず――」
「では」
レギュラスは言葉を遮った。
遮ることに一片の罪悪感もない。
こちらの理屈の方が正しいと確信しているからだ。
「その呪いごと跳ね返しましょう」
淡々と、当然のように。
「それができるだけの力が、この英国にはあるんですよ」
アランは息を呑んだ。
その息を呑む音さえ、レギュラスには小さな勝利の音に聞こえる。
恐れが生まれた。
恐れが生まれたなら、従う準備が整う。
レギュラスは机の上の書類を指先で叩き、視線を上げた。
「封印の代償を、僕が考慮する理由はありません」
冷えた声が落ちる。
「必要なのは結果です。
あなたの言う“愛”が必要なら――」
彼は一瞬だけ微笑み、刃を隠して言った。
「あなたに“愛している”と思い込ませる環境を用意すればいい。
それだけでしょう?」
アランの瞳が揺れる。
怒りと恐怖が交差し、言葉にならない。
レギュラスはその揺れを見ながら、心の中で結論を固めた。
完璧な封印は、簡単にはかけられない。
だが、簡単にかけられないなら――
簡単にかけられるように“条件”を作ればいい。
人の心を条件にする術なら、なおさら。
心ほど、操作しやすいものはない。
レギュラスは穏やかに微笑んだまま、最後に言った。
「あなたが嫌がろうと、恐れようと、関係ありません。
あなたの術は、この国のために使われる」
優しい声で言い切るほど、残酷になる。
その残酷さが、屋敷の黒にぴたりと馴染む。
アランの翡翠の瞳は、怒りで光りながらも、言葉を失っていた。
そしてレギュラスは、呪いより恐ろしいものがこの国にいくらでもあることを――
彼女に、もう一度教えてやるつもりでいた。
白い部屋だった。
白い壁、白い天井、白いシーツ。清潔を装うための白。けれどその白の隅々には、どうしても隠しきれない“生”の匂いが沈んでいる。消毒薬の鋭い香りの奥に、金属の匂いが混じる。湿った布の匂い。焦げた魔力の残り香。――生き物の体が壊れたときにしか漂わない気配。
寝台の上に、男が横たえられていた。
全身を包帯で覆われている。
顔の輪郭さえ曖昧で、白い布が人間を“形”に保っているだけのようだった。滲み出した液体が包帯を汚している。赤でもなく、透明でもない、濁った色。命が体内でうまく回らなくなったときの色。胸のあたりがわずかに上下するのが見えて、彼がまだ生きているのだと、残酷なほどはっきりわかる。
長くはないのかもしれない。
けれど、それでも、その命を奪うようなことはできない。
アランは喉の奥がきゅっと縮むのを感じながら、息を整えようとした。
――大丈夫。言えばいい。言うしかない。
自分に言い聞かせる声が、すぐにぐらつく。こういう場に立つたび、焼け野原の匂いが胸の奥から蘇る。緑の閃光。倒れた父と母。剥がされた手。鎖の音。すべてが、一瞬で皮膚の裏側に張り付く。
それでも、アランは言った。
声が震えないように、できる限り丁寧に。
「……できません」
背後から、間髪入れずに言葉が重なる。
「できます」
レギュラス・ブラックの声は、いつも整っていた。
声に荒さがない。怒鳴らない。だからこそ恐ろしい。抵抗する者の呼吸の隙間を、淡々と塞いでいく。
アランは振り返らなかった。振り返った瞬間、銀色の瞳に捕まる。捕まれば、逃げ道のない場所へ引きずり込まれる。
だから視線は寝台に縫い付ける。包帯の下にある胸の上下に。まだ生きている呼吸に。
イェルスでは、人が人の命を奪うことを絶対に正とは扱わない。
それは神に背く行為になる。代償は必ず来る。そう教えられて育ってきた。
命の終わりは、人が決めるものではない。神が決めるものだ。だから、どれほど痛みに満ちた終わりであっても、そこに手を加えることは“罪”だった。
けれど、この国は、その罪を“手順”にする。
レギュラスの足音が、床の上を静かに近づいた。
黒いローブの気配が、部屋の白を汚していくように感じた。
「僕の育てた魔法兵はですね」
まるで講義のような声。
慈悲を語るような口調で、慈悲とは反対のことを言う。
「この国のために死ねることを誇りに思います。これはただの死ではない。殉死です。だからあなたは何も気にしなくていい」
“気にしなくていい”。
その言葉が、アランの胸の奥を殴った。
気にしないで命を奪えと言う。気にしないで魂を汚せと言う。
この国では、死が誇りになる。そんな世界があること自体、アランには理解できなかった。理解できないのに、従わされる。
アランは喉の奥に溜まった苦さを飲み込む。
視界が少し滲む。泣きたいのではない。怒りでもない。
ただ、世界が違いすぎて、心が追いつかない。
「命の終わりは……神が決めるものです」
言葉にすると、あまりにも小さい。
この白い部屋の中でさえ、信仰は軽い。薄い。折れそうだ。
レギュラスは一歩、さらに距離を詰めた。
今度は声が背後ではなく、耳の近くに落ちた。息が触れるほどの距離。
「僕が用意した犠牲が気に入らないのならば」
囁き。
毒の味を隠した甘さ。
「エルヤ・ナイームを犠牲にしますか?」
世界がひっくり返る感覚がした。
内臓が持ち上がり、胃が喉へせり上がる。息が止まる。指先から血の気が引いていく。
その名前は、アランにとって“帰る”という願いそのものだった。支えだった。要だった。
そんなこと、絶対にできない。
彼を失えば生きていけなくなる。
人生が潰える。夢が終わる。世界が終わる。
レギュラスは、アランの反応を待っていた。
待つというより、味わっている。揺れる心の形を、宝石を転がすように眺めている。
「愛が必要なんでしょう?」
笑いを含んだ声が、さらに耳元へ絡む。
「エルヤ・ナイームにはあなたの愛が宿る。ちょうどいい犠牲になるじゃないですか」
楽しそうに告げてくる。
地獄だった。
エルヤか、目の前の男か。
それを選べと言ってくる。
選ぶという形で、心を破壊する。
アランの視界が揺れる。包帯の白が滲んで、寝台が遠のく。
この場に立っていられない。膝が崩れそうになる。
けれど崩れた瞬間に、彼は“決める”だろう。決めてしまうだろう。
エルヤを犠牲にするという最悪の答えを、彼の口から当然のように落とされてしまう。
耐えられなかった。
アランは唇を噛み、痛みで意識を繋いだ。
そして、喉の奥から、かすれた声を押し出した。
「……わかりました」
それは承諾ではない。屈服でもない。
ただ、守るための選択だった。守るべきものを守るために、別のものを切り捨てるしかないという、最も残酷な形。
アランは、目の前の男を選ぶ。
選ぶしかなかった。
エルヤは選べないのだから。
レギュラスが満足げに息を吐く気配がした。
それだけで、アランの心臓が嫌な音を立てる。
彼は勝ったと思っている。思わせておけばいい。
でも、勝っているのは誰だろう。
アランは寝台の横へ進んだ。
手のひらが冷たい。指先が震える。
包帯に触れたくない。触れれば、命の重さが伝わってしまう。
伝わったら、最後まで手が動かなくなる。
「……ごめんなさい」
故郷の言葉で、誰にも届かないほど小さく呟いた。
神にだけ届いてほしい。
届かないと知っていても、そう願うしかない。
杖は要らない。
指先だけで、祈りの形をなぞる。
イェルスの術は、もともと誰かを抱きしめる手の延長だ。
慈しみの心が、護りを強くする。
――慈しみ?
今、アランの胸にある慈しみは、目の前の男へ向いていない。
向けられない。
向けたら、エルヤが危うくなる。
向けたら、未来が折れる。
アランの慈しみは、ただ一つの方向へしか流れない。
守りたいのは、エルヤだ。
同胞だ。
イェルスへ帰るという願いだ。
その願いのために、別の命を奪う。
矛盾が胸の奥を裂いた。裂けた場所から冷たいものが流れ込んで、感覚が薄れていく。
涙が出そうになる。泣いてはいけない。泣けば、心が止まる。
儀礼語の封緘句が、喉の奥でほどける。
対象の明確化。
意志。
誓う言葉。
真名だけは言わない。
真名は、奪われるものではない。
真名は、エルヤにしか渡さないと決めたものだ。
そこだけは守る。そこだけは譲れない。
光が生まれる。
薄い膜のような、柔らかい光。
その光は、男の身体を包むのではなく――吸い上げるように沈んでいく。
命の熱を、術の形へ変換していく。
胸の上下が止まった。
音が消えた。
世界が一瞬、真空になったみたいに静かになり、アランの耳には自分の心臓の音だけが残る。
生きていることが、罰のように響く。
その瞬間、遠くの海上で結界が“締まる”感覚があった。
術が噛み合う。
鎖が固定される。
持続が生まれる。強度が増す。
男の犠牲をもってして、強固な結界が完成した。
この前施した、自分の血を多く犠牲にして作り上げたものより、より強固で、持続するだろう。
それがわかるから、余計に胸が痛い。
成果が出てしまった。
成果が出てしまったから、次も求められる。
次も、次も。
アランの指先が、震えたまま止まる。
膝が崩れそうになるのを、床の冷たさで支える。
倒れてはいけない。倒れたら終わる。
終われば、次はエルヤが差し出される。
レギュラスの声が、背中に落ちた。
「よくできました」
優しい声ほど残酷なものはない。
アランは振り返らなかった。振り返れば、銀色の瞳に映る自分が――もう祈りを語れる人間ではなくなっている気がしたから。
心が、ひび割れていく。
割れそうだった。
けれど完全には割れない。割れきってしまえば、守れなくなる。
アランは、ただ呼吸をした。
息を吸って、吐いて。
それだけで精一杯だった。
“帰る”ために。
“守る”ために。
そのために、今日もまた、ひとつ何かを失った。
封印は、施された。
それも前回よりたわみもなく、強固で、持続するものを。
どんな葛藤があったにせよ、アラン・セシールはやった。
指先は震えていただろう。心は裂けていただろう。
けれど結果は残った。結果だけが、この世界では価値になる。
十分だった。
守りが永遠でなくてもいい。緩んできたなら、また掛けさせればいいだけだ。
壊れないものを一度で作る必要はない。壊れたら直させればいい。
その“直させる”という行為そのものが、支配を更新する。
成功させたからには褒美も与える。
それがレギュラス・ブラックのやり方だった。
飴と鎖。甘さと恐怖。どちらか片方では長く続かない。
片方が強いほど、もう片方は穏やかに見える。
その配合を、彼は骨の髄まで理解している。
宝飾品や衣服は、屋敷に山ほどある。
だが、あの女は――自分自身が宝石のような瞳を持っている。
どんな宝石を贈っても、あの翡翠には勝てない気がした。
勝てないものを贈るのは、つまらない。
彼女が“欲しい”と望む対象に触れさせ、そこを自分の掌で握っていると教えるほうが、ずっと美しい。
だから、彼女の同胞を屋敷に呼ぶことにした。
呼び寄せたのは数名。
今や彼らは、ただの捕虜ではない。
適材適所に配置され、それぞれ相応の身分を与えられ、衣食住を整えられている。
それが恩恵であると同時に、首輪であることを――この屋敷にいる者は皆、知っている。
イェルスの地の古代的な暮らしから、近代的な英国の富へ。
価値観が変わってきた頃合いだとレギュラスは踏んでいた。
人は一度、便利さを覚える。
人は一度、庇護の甘さを覚える。
人は一度、上に立つ感覚を覚える。
そして一度覚えたら、戻れない。
より多くの富が欲しくなる。
より高い地位が欲しくなる。
忠誠を誓い、成果を挙げれば相応の褒美が与えられる。
その分かりやすい構図を、彼らが覚えてしまえば――
手に入れたものは、次の手に届くたびに、もう手放せない。
食卓の準備が整うと、アランもそこへ呼ばれた。
黒い屋敷の広間に、蝋燭の光が揺れる。
彼女はまだ疲労を残し、顔色も淡い。
けれど翡翠の瞳だけは、消えない。
消えないからこそ、なおさら美しい。
そして、苛立たしい。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、指先でグラスの縁をなぞった。
その仕草だけで、場の空気が整列する。
「今夜は、あなたの“褒美”を用意しました」
穏やかな声で告げる。
褒美と呼ぶことで、彼女が拒否しづらくなるのを計算している。
彼女は何も返さない。
返したくないのだろう。
それでも、耳は言葉を受け取ってしまう。
扉が開き、同胞たちが入ってきた。
その瞬間、アランの肩が僅かに強張るのがわかった。
息が止まったように見えた。
目が、一人ひとりを追う。
追ってしまう。
そこには安堵がある。彼らが生きている安堵。
けれど安堵と同じ速度で、別の感情が浮かぶ。
――違う。
彼らはもう、イェルスの民の姿ではない。
英国の服を着ている。仕立ての良い布地。磨かれた靴。
言葉も、ぎこちなく英国語を混ぜ始めている。
姿勢が整い始めている。
顔に“慣れ”が滲み始めている。
それが、決定的だった。
レギュラスは、その“違い”を見せたかった。
生きている同胞を見せれば、アランは喜ぶ。
だが同時に――
決定的な隔たりを感じるだろう。
その瞬間の、絶望に似た顔が見たかった。
同胞の中で、ひときわ体格のいい男が一歩進み出た。
彼は今、魔法兵の花形に配置されている。杖を握らされ、訓練を受け、見込みが早く頭角を表しているという報告が上がっている。
目は、以前よりも強い光を持っていた。
力を知った目だ。
自分が“上に行ける”と気づいた者の目。
この地で、人の上に立てる予感を知れば元には戻れない。
杖を握り、より強い呪文を覚えれば――指先だけで紡ぐ弱々しい呪文で満足はできない。
それは、本人がいちばんよく分かっているはずだった。
レギュラスはその男に向けて、穏やかに言った。
「訓練の成果は上々だそうですね」
褒め言葉。
それだけで男の背筋が伸び、口元が僅かに緩む。
誇りがそこにある。
誇りがあるなら、忠誠は買える。
次に、女が前へ出た。
ワーゲン家に配属してやった女だ。
器用にこなしていると知らせがあった。手先が器用で、屋敷の女主人が彼女を気に入っていると。
気に入られるほど、与えられるものは増える。
見たこともないような布。宝飾。甘い菓子。温かい湯。
権力ある者からの圧倒的な庇護。
その感覚は、一度知ればもう戻れない。
彼女の頬には、薄く“豊かさ”が宿り始めていた。
アランの瞳が揺れる。
揺れは小さいが、確かに揺れる。
喜びたいのに、喜べない。
生きていてほしいのに、変わってほしくない。
変わってほしくないのに、変わってしまった。
その矛盾が、翡翠の奥で渦を巻く。
レギュラスはそれを見て、静かに満足した。
彼女の心はまだ折れきっていない。
だから、折る価値がある。
「彼らはよくやっています。あなたの同胞は、優秀だ」
優秀。
その一言で、イェルスの民は“素材”に変わる。
道具に変わる。
使えるものに変わる。
そしてアランは、その“優秀”が自分を追い詰めることを理解してしまう。
同胞が価値を持ったなら、同胞はこの国のものになる。
同胞が褒美を受け取ったなら、褒美は鎖になる。
同胞のうちの誰かが、アランの方を見た。
その目には、懐かしさと、戸惑いと、そして――ほんの僅かな距離があった。
彼ら自身も気づいている。
戻れない橋を、渡り始めていることを。
アランの胸の奥が、静かに沈む。
言葉が出ない。
出れば崩れる。
崩れた姿を、この男は望んでいる。
レギュラスはその沈黙を、ワインの余韻みたいに味わった。
そして最後に、優しい声で締めくくる。
「褒美です、アラン・セシール。あなたが成功させたから、彼らはここにいます」
与えたのは自分だと、丁寧に刻む。
奪えるのも自分だと、言わずに示す。
「あなたが次も成功させれば、彼らはもっと良い場所へ行ける。
――わかりやすいでしょう?」
翡翠の瞳が、痛いほどに光る。
怒りと涙の境界で、それでも崩れない光。
その光が、レギュラスにはたまらなく愉快だった。
同胞を与える。
同胞を守ると見せる。
同胞を“変える”。
そして彼女の心の中に、二度と消えない隔たりを作る。
それが褒美であり、罰であり、支配の完成だった。
レギュラスは微笑んだ。
黒い屋敷の中で、翡翠が曇っていく瞬間を――
ゆっくりと、堪能するために。
屋敷の廊下は、相変わらず黒かった。
黒い壁、黒い扉、黒い絨毯。光さえ控えめに整えられ、影が影のまま置かれている。
その黒の中で、アランはふと、白を見つけた。
使用人たちが何かの補修に使うのだろう、小さな壺。蓋の隙間から、乾いた匂いが漏れている。手に取ると重みがあって、指先にざらつきが伝わった。開けば、白い塗料が眠っていた。
あまりに白い。眩しいほどに。
黒い屋敷の中で、その白だけが異物のように浮いた。
イェルスで白は神聖な色だった。
幼い頃から、白は祈りの色だった。
大地の神に祈りを捧げる祭りが、一番好きだった。
花の種を割って、その中に隠れている白い粉を指先に取る。乾いた粉は肌に触れると冷たく、ほんの少し甘い香りがした。
それを頬に、額に、鼻筋に――模様を描く。
親が子に書いてあげたり。友と描き合ったり。
笑い声が弾んで、草の匂いが濃くなる日。
エルヤにも、よく書いてあげていた。
思い出は、ここでは毒にも薬にもなる。
思い出すほど苦しいのに、思い出さないと自分が空になってしまう。
アランは壺を抱え、誰にも見られないように、急いで自分の部屋へ戻った。
扉を閉めると、胸の奥に溜めていた息が少しだけ漏れた。
静けさが戻ってくる。
黒い屋敷の静けさ。けれど今だけは、その静けさを“味方”にしたかった。
指先で白を掬う。
少し粘りがあって、匂いがきつい。イェルスの花の粉みたいに優しくない。
けれど、白は白だった。
それだけで、胸の奥に小さな灯がともる。
鏡に映る自分の顔が、見知らぬものみたいに感じる。
英国の衣装。英国の髪型。英国の光。
翡翠の瞳だけが、まだ故郷の色を残しているのに、他のすべてが奪われていく。
だから、白を描こうと思った。
顔に模様を描けば、ほんの一瞬だけでも、イェルスの自分に戻れる気がした。
コンコン、と控えめなノックがした。
アランは壺を隠すように抱え、扉を開ける。
そこにいたのはエルヤだった。
彼もまた、英国の服を着せられている。
腕の内側に刻まれた印は、袖に隠れているはずなのに、見えないところで脈打つ気配がする。
その事実だけで胸が痛むのに――彼がここにいることで、アランの心は確かに呼吸をしやすくなる。
「……どうしたの?」
エルヤが小声で尋ねる。
アランは壺を見せた。
「見つけたの」
蓋を開けた瞬間、白が光を反射する。
黒い部屋の中で、白はあまりにも強い。
エルヤの目がそれを見て、わずかに揺れた。
すぐに、その揺れを隠すように唇を引き結ぶ。
けれどアランにはわかった。彼も思い出している。
「……白だ」
「ええ」
アランは頷き、指先に白を取った。
匂いはきつい。けれど手触りは、どこか懐かしい。
祭りの朝、母が自分の頬に模様を描いてくれたときの指先の温度を思い出す。
「エルヤ、これ、付けてあげる」
アランが言うと、エルヤは少し迷うように目を伏せ、それから静かに屈んだ。
一緒に育ったはずなのに。
いつのまにか彼だけが随分と背が高くなった。
だからこうして目線を合わせる時、彼は屈んでくれる。
その仕草が、やけに優しくて、胸がきゅっと痛む。
アランは端正になった彼の顔立ちに、白をそっと置く。
頬骨の上。額の端。鼻筋の脇。
イェルスの祭りの真似事。
真似事なのに、心が躍った。
白を描く指先が震える。
震えは恐怖からではなく、懐かしさからだった。
こんなにも懐かしいことを、まだ自分ができるのだと知って。
「……匂いが違うな」
エルヤが小さく笑う。
それは笑いというより、息だ。
息が笑いの形をしただけ。
「うん。でも、白は白よ」
アランは最後に、小さな印を頬に置いた。
花の粉で描いた模様の代わりに。
するとエルヤが、壺を指先で受け取る。
「今度は僕が」
エルヤはそう言って、指先に白を取った。
その動きが少しぎこちない。
指先で紡ぐ術には慣れていても、“描く”ことは別なのだ。
アランは椅子に腰を下ろし、顔を上げた。
エルヤの指が近づく。
「綺麗に書いて」
アランが言うと、エルヤは困ったように眉を寄せる。
「僕は下手だからな」
その言い方が、昔のままだった。
イェルスで、少年だった頃の声のまま。
そのままなのが嬉しくて、アランは笑いそうになる。
笑えば泣いてしまいそうで、唇を噛んだ。
エルヤの指先が、アランの頬に触れる。
冷たい。塗料が冷たい。
でも、その向こうの指の温度が、確かにあたたかい。
額に線が引かれる。
頬に丸が置かれる。
少し歪んで、少し滲んで――それでも、たしかに“祈りの形”になる。
「……どう?」
エルヤが不安げに尋ねる。
アランは鏡を見ずに、ただ頷いた。
「綺麗」
嘘ではなかった。
形の美しさではない。
彼が描いてくれたという事実が、美しかった。
二人は声を潜めるようにして、祭りの歌を口ずさんだ。
昔、皆で歌った歌。
大地の神に感謝する旋律。
風と土と、獣の命に感謝する歌。
懐かしさが込み上げる。
踊りも歌も。
獣の肉に感謝しながら、皆で分け与えて食べる食事も。
皆で同じ神に祈る儀式も。
火の周りで笑い合った夜も。
星の下で手を繋いだ帰り道も。
全てが、幸せだった。
そして今、それがどれほど尊かったかを――
この黒い屋敷の中で、白を顔に塗りながら、痛いほど理解する。
アランはエルヤの肩に額を寄せた。
ほんの少し。ほんの一瞬。
それだけで、息が楽になる。
「……必ず帰ろうね」
アランが囁くと、エルヤの胸が小さく震えた。
彼は頷き、同じ言葉で返す。
「帰ろう。必ず」
二人の頬の白が、黒い部屋の中で淡く光る。
それは子供じみた遊びのようで、祈りのようで、呪いのようでもあった。
この屋敷が奪えるものは多い。
けれど、今この瞬間の“故郷”だけは、奪えない。
奪わせない。
アランはそう思いながら、祭りの歌をもう一度小さく口ずさんだ。
涙が出そうになるのを、歌の形にして飲み込むために。
