1章
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石の床は冷たかった。
頬を寄せるほど近くにあるその冷たさが、今のアランには逆に熱かった。逃走の熱、恐怖の熱、皮膚に残る呪文の痛みの熱――それらがまだ身体の内側で暴れている。
連行された先は、見慣れたはずの地下区画の一室だった。
けれど空気が違う。
人が多い。
灯りが強い。
そして何より、ここには“彼”がいる。
レギュラス・ブラック。
せっかく着替えさせられた、美しい英国式の衣装は台無しだった。
地面に伏せられたのか、裾には土がついている。
髪は乱れ、細い飾りがどこかで外れたのか、翡翠の瞳の横で光を失って揺れている。
呼吸は上がり、頬は赤みを帯び――それが悔しいほどに情けない。
アランは床に膝をついたまま、顔を上げる。
視界の先、少し高い位置に立つレギュラスが、静かにこちらを見下ろしていた。
怒りの顔ではない。
苛立ちの顔でもない。
……むしろ、愉しんでいるように見えた。
その視線の前に、イェルスの捕虜たちが列を成していた。
拘束され、疲弊し、恐怖と怒りを抱えた同胞たち。
けれど奇妙なことに――中には、ほとんどが皆、英国の服を着ている。
異国の衣装のまま、この魔法省での職に従事することは好ましくない。
そういう理屈で、衣服を“与えられた”のだろう。
男たちは粗末ながら整えられた制服に近い服を着せられ、女の中にはそれなりに整えられた服を与えられている者もいた。
襟元だけはきちんとした布。靴だけは新品。髪だけは一度梳かされた痕跡。
――まるで、家畜の毛並みを整えるように。
アランの胸に、吐き気が込み上げる。
富と秩序の皮を被せて、内側の自由を奪う。
それがこの国のやり方だ。
レギュラスはアランを詰めるより先に、捕虜たちへ視線を巡らせた。
彼がまず狙っているのは、彼女の口ではない。
彼らの“心”だ。
アランはそれがわかった瞬間、背筋が冷えた。
自分だけを折るより、同胞を“こちら側”に引き込む方が早い。
同胞がこちら側に立てば、逃げ道は消える。
祖国への帰還は、希望ではなく笑い話になる。
レギュラスの視線が、一人の男に止まった。
捕虜の中でもひときわ体格がいい。肩幅があり、首が太い。
骨格が違う。
目が濁っていない。
怯えよりも、怒りが先に立つ目。
レギュラスはゆっくりとその男を指差した。
「あなた」
男が歯を食いしばる。
だが、言葉は出ない。
翻訳呪文が行き渡っているはずなのに、口の中で呪いの言葉が詰まっているのだろう。
レギュラスが管理官に小さく合図すると、名簿が渡された。
彼はその紙を一瞥し、まるで今ここで“所有物の名”を決めるように、淡々と言う。
「……アーシュ・カデル」
呼ばれた男の肩がわずかに跳ねた。
名を呼ばれるのは、侮辱にも、拘束にもなる。
“個体”として切り出されるからだ。
レギュラスは穏やかに続ける。
「体格がいい。魔力の反応も強い。
杖のいらない呪文ばかり扱ってきたのでしょうが――」
彼はそこで軽く首を傾げた。
まるで学者が未開の技術を論じるような顔で。
「杖を握らせれば、もっとよく動ける」
言葉が、刃になって突き刺さる。
“あなたの力は、こちらの道具を持って初めて完成する”という侮辱。
だが同時に、それは甘い餌でもある。
「軍の花形に配置しましょう。用心棒としては十分です。……忠誠を示すなら、地位も給金も与える」
捕虜たちの列がざわめいた。
ざわめきは恐怖ではない。
欲が揺れた音だ。
――給金。
――地位。
――軍の花形。
イェルスでは存在しなかった概念が、ここでは紙一枚で提示される。
アランの喉が詰まった。
見える。
同胞の目の奥で、“揺らぎ”が生まれるのが。
レギュラスはその揺らぎを見逃さない。
むしろ、それを育てるように、次の駒を拾った。
今度は、一人の女。
それなりの顔立ち。派手ではないが、整っている。
目が賢い。
そして、恐らく“生き延びること”を最優先にできる目。
レギュラスは名簿を見て、微笑んだ。
「リネア・サハル」
女が息を呑んだ。
周囲の女たちが、彼女を見た。
視線が刺さる。羨望と恐怖が混じる視線。
「あなたは――」
レギュラスは柔らかく言う。
まるで贈り物を差し出すように。
「どこかの貴族の家に、使用人として置いてあげましょう。
整った部屋、清潔な寝台、温かな食事。
美しいドレスを着る必要はないかもしれませんが――」
ここで彼は、わざと“美しい”という言葉を置く。
「美しい宝飾品に囲まれ、富の中で生きる。
イェルスの地では出来なかったことを、今ここで約束してあげます」
女の唇が震えた。
拒絶ではない。
想像してしまった震えだ。
光。
布。
宝石。
暖かい食事。
眠れる場所。
“奪われた生活”の代わりに、“別の生活”が提示される。
故郷を失った者にとって、代わりの生活は毒にもなる。
甘く、危険で、そして簡単だ。
すると、イェルスの捕虜たちはざわめき出した。
最初は小さな囁きだった。
けれど、その囁きはじわじわと広がる。
まるで火が乾いた草を舐めていくように。
「……英国は、素晴らしい」
誰かが呟いた。
それが呪いのように繰り返される。
「食事が違う。……あれは美味しい」
「働けば金がもらえる。金で欲しいものが買える」
「わかりやすい」
「神に祈っても腹は膨れない」
「ここでは、努力が形になる」
目に見えない神なんかを信仰していく生き方より、よほどわかりやすく欲を満たしてくれる。
それが英国だ、と。
誰かが、まるで自分を納得させるように言う。
アランの胸の奥が、じわじわと裂けた。
違う。
違う、と叫びたい。
イェルスの祈りは、腹を満たすためのものじゃない。
生きる意味を繋ぐためのものだ。
大地に触れて、風を感じて、星に名をつけて――自分たちが“ここにいる”ことを確かめるためのものだ。
それを、金と食事と布で塗りつぶされていく。
アランは唇を噛んだ。
血の味がする。
同胞のざわめきが、裏切りの音に聞こえる。
でも、責められない。
誰もが疲れている。誰もが失った。
“楽な道”が目の前に差し出されたら、手が伸びるのは当然だ。
そこへ、レギュラスが静かに歩み寄ってきた。
アランの前で足を止める。
そして、彼はしゃがんで目線を合わせるでもなく、あくまで“見下ろす”位置のまま、優雅に言った。
「どうです?」
囁くような声。
だが、その声は捕虜全体に届くように調整されている。
「あなたが守ろうとしたものは、こうして――簡単に形を変えられる」
アランは歯を食いしばり、翡翠の瞳で睨み返した。
だが、呼吸が上がっているせいで言葉がすぐに出ない。
怒りはあるのに、身体が追いつかない。
レギュラスはその沈黙を“答え”として受け取ったように微笑む。
「あなたが騙したつもりでいる間に、僕は手を伸ばした」
その声に、室内のざわめきが一瞬だけ沈む。
全員が聞いている。
全員が、彼の言葉に従って空気を変えている。
レギュラスは楽しげに続けた。
「彼らをこちら側につけるのは簡単です。
富と秩序と安全――あなたの神より、わかりやすい」
アランの喉が震えた。
叫びたいのに、叫べない。
叫べば、また同胞が傷つけられる。
レギュラスはそこでようやく、核心へ触れるように視線を細めた。
「さて、アラン・セシール」
名を呼ばれるだけで、身体の内側が凍る。
あの男が本当に欲しいものが、今から始まる。
「逃げようとした。捕虜たちを動かした。
そして海上結界は揺らぎ始めた」
彼は穏やかに笑う。
「――あなたが最初から、僕を騙す気だった証拠です」
アランは息を吸った。
言わなければならない。
それでも、真名だけは渡せない。
その一線を守るために、彼女は唇を開く。
だが、言葉が出る前に、レギュラスが低く言った。
「あなたは賢い女です。
だからこそ、今ここで選べますよね」
選べる――その言葉が最も残酷だった。
選べるように見せて、選択肢を奪う。
レギュラスの銀色の瞳が、アランの翡翠を捕まえて離さない。
「本当の最後を、言いなさい」
空気が固まった。
捕虜たちのざわめきが止まり、誰もが息を止める。
アランは、同胞の視線を背中に感じた。
期待と恐怖が混じった視線。
――守らなければ。
真名は渡さない。
けれど、ここで折れれば全てが終わる。
アランの胸の奥で、イェルスの風が鳴った。
遠いのに、確かに鳴った。
そして彼女は、その風に縋るように――
必死に、言葉を探し始めた。
空気が、重かった。
石の壁に反響する息遣い。金属の拘束具がわずかに擦れる音。
魔法灯の白い光が、捕虜たちの頬の汗と、衣服の皺と、恐怖の影を容赦なく浮かび上がらせる。
アランはその中央に立たされていた。
乱れた髪。汚れた裾。呼吸はまだ落ち着かず、胸が上下している。
青ざめた顔は血の気を失っているのに――それでもなお、翡翠の瞳だけが光を絶やさない。
その宝石めいた輝きが、レギュラスの視線を吸い寄せて離さなかった。
捕虜たちが、ざわめいている。
さっきまで怒りと恐怖の色だった声が、今は別の色を帯び始めていた。
給金。地位。安全。食事。暖かい寝台。
それらの単語が舌の上で甘く転がり、神や祖先への祈りよりもわかりやすい“救い”として、目の前に差し出されている。
目の前で同胞が欲に飲まれていく。
圧倒的な英国の富と強さに屈していく。
屈していくのは、心だ。
心が屈すれば、身体は簡単に従う。
それを、レギュラスはよく知っている。
アランは何も言えなくなった。
叫びたい。違うと言いたい。
祈りを捨てるな、帰る場所を忘れるな。
そう叫びたいのに、喉が硬く閉じて声にならない。
叫んだところで、彼らが明日から空腹にならないわけじゃない。
叫んだところで、死んだ同胞が戻るわけじゃない。
――守る。
――帰る。
その二つの言葉が、いま目の前で薄く溶けていく。
その沈黙を、レギュラスは待っていたかのように、柔らかく切り裂いた。
「さあ、アラン・セシール」
名を呼ぶ声が、やけに整っている。
丁寧で、穏やかで、まるで慈悲の響きすら含んでいるのが気味が悪い。
「よくもまあ、欺いてくれたじゃないですか」
アランの肩が微かに跳ねた。
視線が揺れる。
だがすぐに、翡翠の瞳が持ち直すように前を向く。
――違う。
――欺いたのは、あなたたちだ。
――奪ったのは、あなたたちだ。
そう言い返したいのに、言葉が追いつかない。
胸が痛むほど鳴っている。
レギュラスは彼女の青ざめた顔を見て、心の奥でひどく静かに思った。
青ざめても、まだ美しい。
本当に、惜しい女だ。
今まで見てきたどんな煌びやかな女よりも――この翡翠の宝石が目を奪う。
悔しくなるほどに、見惚れる。
彼はそれを自覚しながら、笑みを崩さない。
見惚れたことを悟られたくないのではない。
悟らせる必要がない。
支配する側が“惚れた”などという弱みは、彼の辞書にはない。
彼が持つのは、興味と所有欲だけだ。
アランは喉の奥の震えを押し殺し、言葉を絞り出した。
「……あなたに、イェルスの封印は扱えない」
その声は細い。けれど、芯があった。
諦めの声ではない。最後に残った誇りの刃。
レギュラスは、あっさりと頷いた。
「結構です」
そして、笑う。
「僕が扱わなくていい。あなたがやればいいんです」
その一言が、鎖の音みたいに響いた。
彼女の逃げ道を塞ぐ音。
“あなたがやる”――それは命令であり、永遠の拘束だった。
アランの背中に寒気が走る。
怖い。
だが、翡翠の瞳の光は消えない。
恐れを抱きながらも、真っ直ぐにこちらを見てくる。
「他国の侵略のために使う封印は、必ずその報いを受けます」
アランの声が強まる。
それは呪いではなく、警告だ。
祖国を守ってきた血の、最後の抗い。
「イェルスの呪いは強い……」
レギュラスは、その言葉を聞いて、心底おかしそうに目を細めた。
報い。呪い。
そんなものをまだ信じているのか。
力を前に、富を前に、権力を前に。
そんなものは何の足枷にもならない。
足枷になるのは、現実だけだ。
現実を動かすのは、武力と金と制度。
彼はそれを知り尽くしている。
「では」
レギュラスは一歩近づき、声を落とした。
落とした声ほどよく刺さることを、彼は計算している。
「あなたがここで僕に逆らうことの報いは、どう降りかかると思います?」
その問いは、優しい顔をした脅迫だった。
アランの喉が詰まる。
視界の端で、同胞たちがざわめき出すのがわかった。
口々に懇願を口にし始める。
助けてくれ、やめてくれ、従うから。
誰かが泣き、誰かが膝を折り、誰かがアランを見た。
その視線が、重い。
――アラン。
――あなたが決めて。
――あなたが守って。
――あなたが。
彼女の胸が揺れる。
呼吸が乱れる。
心が揺れる。
揺れてはいけないのに、揺れてしまう。
そのとき、隣から小さな力が腕に触れた。
エルヤ・ナイーム。
彼も拘束されている。それでも身体を寄せ、声を絞り出す。
「アラン……ダメだ。揺れちゃダメだ」
必死な声。
怒りではない。願いの声。
「帰ろう。イェルスに」
その言葉が、アランの胸をさらに痛くする。
帰りたい。帰りたいのに。
帰るためには、今ここで折れないことが必要なのに。
同胞が崩れていく。泣いている。懇願している。
レギュラスは、その二人のやり取りを見て、内心で鼻で笑った。
大層な男女の熱い誓いとやらを、今ここで見せられている。
だが、そんなものを見たい趣味はない。
彼が興味を持つのは、誓いが“どれほど人を縛るか”だけだ。
誓いが強いほど、利用価値が上がる。
レギュラスはゆっくりとエルヤへ視線を移した。
銀色の瞳が、彼を計る。値札を付ける。
「協力するのなら」
声が柔らかい。
だからこそ、恐ろしい。
「あなたには、恋人を一番近くで守り抜ける騎士の称号を与えますよ」
捕虜たちが息を呑む。
“騎士”。
“称号”。
その響きが、彼らの中で甘く弾ける。
「騎士となれば爵位が付きます」
レギュラスは淡々と告げる。
爵位。制度。階級。
イェルスにはなかったものを、ここでは簡単に与えられる。
「富も権力も、この女の隣で手に入る」
そして最後に、無邪気な問いの形で刺す。
「理想では?」
アランの身体が震えた。
その言葉は、エルヤへの誘惑であり、同胞への誘惑であり、アランへの嘲りでもある。
“隣で守る”――その言葉で、彼女の誓いを汚す。
誓いを制度に変える。
制度に変えた瞬間、誓いは英国の所有物になる。
エルヤの瞳が揺れる。
怒りが燃える。
だが同時に、痛みが走る。
守るために従うという選択肢が、現実として目の前に置かれたからだ。
アランは息を吸い、唇を噛む。
翡翠の瞳が濡れる。泣きたくないのに、涙が浮く。
レギュラスは、その涙の直前の表情を見て、胸の奥で静かに満足した。
――ほら。
揺れた。
彼は“呪い”など信じない。
だが、人が揺れる瞬間だけは信じている。
揺れは必ず、折れへ繋がるから。
そしてレギュラスは、優しい声で追い詰める。
「さあ、アラン・セシール」
再び名を呼ぶ。
その名を呼ぶたびに、彼女はここに縛り付けられる。
「あなたの言う“報い”とやらを恐れるなら――」
一拍置く。
逃げ道を塞ぐ間。
「まず、今ここで、僕に逆らう報いを想像してみるといい」
室内の空気がさらに冷える。
捕虜たちの懇願が増える。
同胞の視線が刺さる。
エルヤの手が、アランの腕をきつく掴む。
アランは、震える息の中で――
最後の一線を守ろうと必死に、言葉を探した。
真名は渡さない。
けれど、同胞もエルヤも守りたい。
その矛盾を抱えたまま、翡翠の瞳だけが、折れずに光っていた。
胸の奥で、何かがきしむ音がした。
それは誇りが折れる音ではない。誇りを守るために、別の部分を曲げる音だった。
アランは、レギュラスの銀色の瞳を見返しながら――同時に、周囲の空気を見た。
捕虜たちのざわめき。懇願。泣き声。
兵の杖先に集まる魔力の気配。
誰かが動けば、誰かが倒れる。
それが、この場所のルールだ。
今この場で反抗することが得策でないことは理解できた。
ここで声を上げれば皆、見せしめのように酷い目に遭わされるのだろう。
ただ拘束されるだけでは済まない。
痛みを与え、恐怖を植え付け、二度と立ち上がれないように心を折る。
――そういうことを、この男は平気でやる。
甘い提案をして、希望を見せた上で叩き折る。
それが、彼のやり方だ。
それを、アランは身をもって知った。
翡翠の瞳の奥が熱くなる。
泣きたいわけじゃない。
怒りで熱いのだ。
だが怒りは、ここでは武器にならない。
怒りを武器にできるのは、力を持つ者だけだ。
アランはゆっくりと息を吐いた。
震えを押し込めるために、肺の奥まで空気を満たし、静かに吐き出す。
折れるしかない。
その言葉が胸に落ちると、胃が痛くなった。
自分の中で何かが死ぬ感覚がした。
けれど、死なせてはいけないものがある。
望みだけは、捨てたくない。
アランは視線をわずかに動かし、エルヤの方を見た。
拘束されていても、彼はアランを見ている。
まっすぐに、必死に。
その目が言っている。
――生きろ。
――ここで終わらせるな。
そして、レギュラスが投げつけた甘い言葉が、今になって毒と薬の両方の形で胸に残っている。
“隣で守れる”
“称号”
“爵位”
“富と権力”
くだらない。
忌まわしい。
それでも――
エルヤは自分のそばにいられると言った。
その事実だけが、暗闇の中の一本の灯りになる。
灯りは小さい。けれど、消えていない。
消えていないなら、歩ける。
アランは、膝の震えを止めるように指先を握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛みが意識を現実に縫い止める。
ここで折れるのは、終わりではない。
ここで折れるのは、次に立ち上がるためだ。
彼がそばにいるなら。
何度でも立ち上がれそうな気がした。
倒されても、引きずられても、泥を付けられても。
息を奪われそうになっても。
その手の温度を思い出せるなら、また立ち上がる。
アランは唇を開き、声を出す前に一度だけ飲み込んだ。
言葉は屈辱になる。
けれど今は、その屈辱を使って生き延びる。
翡翠の瞳は揺れたまま、それでも消えずに光っていた。
そして彼女は、折れるように見せるための静かな形で、首を僅かに下げた。
――生きる。
――取り戻す。
――必ず帰る。
その誓いだけを、喉の奥のいちばん深いところに隠したまま。
ブラック家の屋敷は、長いこと“黒”だけで出来ていた。
黒檀の梁。黒い大理石の床。黒い絨毯。夜のように深いカーテン。
蝋燭の灯りでさえ金色ではなく、どこか白く冷えた光に見える――そういう屋敷だ。
富と権力で磨かれた豪奢でさえ、色彩を拒むような静けさに沈んでいる。
ここは、世界に対して牙を隠す巣だと、誰が見てもわかる。
その屋敷に、アラン・セシールを置くことにした。
決めたのは、迷いではない。
必要だからだ。
海上結界が揺らぎ始めた以上、彼女を手元から離す理由がどこにもない。
そして――彼女を“手元”に置くという行為は、単なる監視では終わらないことをレギュラス自身が理解していた。
馬車の扉が開き、アランが降り立った瞬間。
屋敷の黒は、ただの黒ではなくなった。
この女を屋敷に置くだけで、黒一色だった屋敷が一気に華やいだ。
それは花が咲く華やかさではない。
宝石が置かれたときに生まれる、空気の密度の変化だ。
翡翠の色が、黒の上で息をする。
黒に吸われず、黒に負けず、むしろ黒を引き立てる。
自分の持つ色に、翡翠の色があまりにも良く合う。
まるで帰るべき場所に収まったかのように。
屋敷にはまったアラン・セシールは、美しかった。
その美しさが――この屋敷の“正しさ”を証明するようで、レギュラスはひどく満足した。
奪ったのではない。
元々ここにあるべきものを、正しい場所に置いた。
そう言い訳できるほど、彼女はこの黒に似合ってしまう。
アランは、広間の中央に立たされた。
高い天井から垂れるシャンデリアの光が、彼女の髪の乱れや、頬の疲労や、肌の擦れた痕まで照らし出す。
それがまだ“捕虜”の痕跡を残しているのに、屋敷の空気はそれすら飾りに変えるように冷静だった。
使用人たちが一斉に動き出す。
衣装係が近づき、手袋の布地を当て、裾の長さを測り、髪に触れる許可もないまま梳き始める。
香水の小瓶が開き、白い湯気の立つ湯を運ぶ者がいる。
宝飾係が箱を開け、首元にあてがい、耳元の長さを測り、指輪の内径を確かめる。
アランはその間じゅう、硬直していた。
抵抗すれば、また誰かが傷つく。
抵抗しなくても、これは暴力だ。
柔らかい布と甘い香りに包まれた暴力。
困惑の色が大きいのだろう。
翡翠の瞳が不安気に揺れている。
彼女の目は、まだ“逃げ道”を探している目だった。
窓の位置。扉の数。廊下の角度。
それを読み取ろうとするたび、使用人の手が彼女を別の方向へ向ける。
視線の自由さえ奪いながら、丁寧に、丁寧に。
やがて、黒い衣装が彼女に着せられた。
深い黒。光を吸い込む黒。
だが布地は柔らかく、動くたびに波のように艶を返す。
首元は過剰に露出しない。
その代わり、肌の白さが際立つ。
そして何より――瞳が、浮き上がる。
翡翠が、黒の中で燃える。
レギュラスは少し離れた場所から、その変化を眺めた。
満足が胸の奥で静かに広がる。
この屋敷の黒が、初めて“色”を持ったように見える。
彼は歩み寄り、アランの前で足を止めた。
無理に顔を上げさせない。
それでも彼女の瞳は、自然と彼に向く。
向けてしまう。
支配の構造は、そこにある。
「似合っていますよ」
柔らかな声音。褒め言葉の形。
だが、その言葉もまた首輪に近い。
「あなたの瞳の色に、黒はよく映えます」
翡翠の瞳が、わずかに揺れた。
怒りとも、屈辱とも、どちらとも取れる揺れ。
アランは何も返してこない。
まるでこちらからの褒め言葉など、受け取りたくもないというかのように。
褒められた瞬間に“所有”が成立することを、彼女は本能で知っている。
レギュラスはその沈黙を気にしなかった。
気にする必要がない。
ここはブラック家で、彼女はその中に置かれた。
それだけで答えは出ている。
そして約束通り、エルヤ・ナイームを彼女の側に仕えさせるよう手配した。
屋敷の使用人に混じる形で、彼が入ってくる。
整えられた服。磨かれた靴。
けれど、その目だけがイェルスの地の色を残している。
怒りと、悔しさと、守るべきものを探す目。
そのエルヤが――着飾らされたアランを見た瞬間、足を止めた。
言葉を失っている。
それは“美しさ”に圧倒された顔だった。
彼が求めていたのは、泥と血の中でも折れないアランの強さのはずなのに。
今目の前にいるのは、黒の中で翡翠を燃やす、まるで別の世界の女だった。
彼の瞳が揺れる。
焦りが混じる。
喜びではない。
怯えに近い。
――こんなふうに飾り立てられたら、遠くなる。
――この国のものになってしまう。
その恐怖が、彼の中で形になっていくのが見える。
イェルスの地に戻りたいと言いながら。
英国式に飾り立てられたアラン・セシールの美しさに、圧巻されている。
力の前にひれ伏した敗者の姿、そのものだった。
レギュラスは、その反応を見逃さない。
むしろ、愉快だった。
誓いの力を、制度と富の光で揺らす。
それがどれほど容易いか――彼は今、目の前で確認していた。
レギュラスはエルヤに視線を向け、穏やかに告げる。
「あなたは彼女の側にいなさい。……守りたいのでしょう?」
“守る”という言葉が、彼の口から出るときほど残酷なものはない。
守るという名目で、従属を強いるからだ。
エルヤの喉が動く。
何か言い返したい。
けれど言い返せない。
言い返せば、アランが傷つく。
言い返せば、この屋敷が牙を剥く。
その沈黙が、レギュラスには何よりの証だった。
――ほら。
――ここでは、僕の方が強い。
彼は再びアランを見た。
黒の中の翡翠。
不安に揺れていても、光だけは消えない瞳。
まるで帰るべき場所に収まったかのように、屋敷にはまってしまった女。
レギュラスは微笑んだ。
柔らかく、上品に。
だがそれは、扉が閉まる音と同じ微笑みだった。
「ようこそ、ブラック家へ」
歓迎の言葉の形をした、収監の宣告を――
彼は丁寧に、彼女の耳に落とした。
命令は、祈りの形をしていなかった。
それは紙に印された文字で、署名で、封緘蝋で、そして――誰も逆らえない声で届く。
ブラック家の屋敷の静けさの中に、魔法省の冷たい規則が滑り込んでくる。
海上の戦艦に封印を施せ。
アランはその言葉を読み、指先が僅かに震えた。
震えは恐怖だけではない。怒りもある。
けれど怒りは声にならず、ただ皮膚の裏側に熱を溜めていく。
「準備は整っています」
淡々と告げる使者の声が、屋敷の黒い廊下に反響した。
窓の外は曇り、冬の風が樹々を揺らしている。
その音さえ遠く、アランの耳には命令の響きだけが残った。
――海。
イェルスの海は、もっと柔らかかった。
岩肌に砕ける波も、冷たさの中に生き物の匂いがあった。
潮は祈りの言葉を運び、風は祖先の話を連れてきた。
海は、守るべき場所だった。
けれど英国の海は、違う。
戦艦は鋼鉄の獣だ。
海を渡るためではなく、海を踏み潰すために造られた獣。
それに封印を施せという。
アランは喉の奥で息を吸い、静かに吐いた。
息が白くならない室内で、胸の中だけが凍っていく。
イェルスの地で、セシールの一族にのみ授けられた封印の術。
それは本来、戦のためのものではなかった。
親が子を守るように、慈しみの心を媒介に護りを強化する。
抱きしめる手の温度と、眠りを確かめる指先と、恐怖から遠ざけたいという願い――
そういう無償の愛が、封印の“原理”であり“原点”だと、言い伝えられてきた。
丹念に呪文を重ねるだけでは宿らない。
手順を正しく踏むだけでは足りない。
形を整えただけの術は、ただの光の膜で終わる。
――守りたい、という気持ち。
その一点がなければ、どれほど技巧を尽くしても“封印”にはならない。
それがセシールの血の誇りであり、誓いであり、禁忌だった。
なのに。
レギュラス・ブラックに命令され、英国の海上魔法兵を守るための結界に封印魔法を施せと言われても。
そこに慈しみも、慈愛も、何も湧かない。
湧くのは、嫌悪だ。
湧くのは、恐怖だ。
湧くのは、奪われた大地の匂いと、倒れた同胞の体温の消え方と、焼け落ちた家の熱の記憶。
心のど真ん中が、冷たく荒れている。
アランはふと、広間の窓から見える庭を見た。
黒い樹々が、冷えた空に伸びている。
ここにはイェルスの風がない。
土の匂いも違う。
祈りが触れられる場所がない。
――完璧な封印なんて、出来るわけがない。
喉の奥で呟いても、声にはならない。
言葉にすれば、叩き折られるのがわかっている。
それでも、命令は降りかかる。
断れば、エルヤがどうなるかわからない。
同胞がどうなるかわからない。
この屋敷で与えられている“安全”が、刃になって返ってくる。
アランは指先を強く握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛みが現実を繋ぎ止める。
守りたいものがある。
守りたいのは――英国の戦艦ではない。
イェルスだ。
同胞だ。
エルヤだ。
そして、いつか生まれるかもしれない未来だ。
けれど今の自分は、その守りたいものに手を伸ばすために、敵の船に術を施さなければならない。
この矛盾が、胸の奥を裂く。
アランは目を閉じた。
祈りの言葉が喉の奥で小さく揺れる。
だがそこに、慈愛は湧かない。
湧かないのに、命じられる。
――それでも、やらなければ。
そう思った瞬間、背後から静かな足音が近づいた。
黒い廊下の先に、あの男の気配があるような気がして、アランの背筋が反射的に硬くなる。
レギュラス・ブラックの命令は、いつも“選択”の顔をしている。
だが本当は、選ばせるためではない。
折れさせるためだ。
アランは唇を噛み、翡翠の瞳を開いた。
そこに宿る光だけは、消さないと決めて。
完璧な封印は、できない。
できないからこそ――
彼に“完璧だ”と思わせるだけの“形”を作るしかない。
その決意が、彼女の胸の奥で静かに固まっていった。
ブラック家の屋敷には、音の“格”があった。
廊下を滑るように進む靴音、銀食器が触れ合うかすかな響き、薪が爆ぜる乾いた小さな破裂音――そのどれもが、許された分だけ鳴り、許されない分だけ黙る。
屋敷の奥、重い扉の向こうにある小さな応接の間は、まるで儀礼のためだけに切り取られた空間だった。黒檀の壁、濃い絨毯、窓から差し込む光さえ薄く冷たい。
そこに立たされている青年の姿は、まだ“馴染んでいない”と一目でわかる。
エルヤ・ナイーム。
整えられた服を着せられてはいる。髪も一度は梳かされている。
それでも、立ち方が違う。呼吸が違う。
目が、違う。
誰かに従うための目ではなく、誰かを守るための目をしている。――それが鬱陶しかった。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、指先で肘掛けの彫刻を軽く撫でた。
微笑んでいる。社交の場と何一つ変わらない穏やかな笑み。
けれど、その笑みの奥には、刃が整然と並んでいた。
「まず」
穏やかな声が、部屋の静けさに溶けて落ちる。
「礼儀からです。あなたは僕の屋敷にいる。――それだけで、あなたの振る舞いは“あなた個人の問題”ではなくなるんですよ」
部屋の隅には、指導役として付けられた者が控えていた。
年嵩の執事、姿勢の美しい女中頭、礼法に長けた家庭教師。
彼らは声を出さない。ただ、観察し、記録し、必要なら矯正する。矯正は言葉だけでは終わらないことを、この屋敷の空気が語っていた。
エルヤはまっすぐに立ち、唇を引き結んだ。
その顎の角度が、“屈しない”と宣言している。
とくにアランのこととなると、途端に強く出ようとする――その無謀なほどの直向きさが、実に鬱陶しい。
見ていて楽しくはある。だが、この屋敷にはそんなものはいらない。
「あなたに教えるべきことは、たった一つです」
レギュラスは柔らかい声音のまま、逃げ道を消す。
「屋敷の主人は、僕です。命令は絶対。理解できますね?」
問いかけの形をしていても、答えはひとつしかない。
“はい”以外は、ここでは反逆になる。
エルヤの喉が動いた。飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
それでも目は逸らさない。翡翠の瞳を持つ女の隣に立つことを選んだ男の目だ。
「……理解します」
声は低い。悔しさが滲んでいる。
レギュラスは微笑みを崩さず、軽く頷いた。
「よろしい。では次です」
レギュラスが指先を上げると、指導役の執事が一歩進み、簡潔に告げる。
「敬称。返答。視線の置き方。歩幅。立ち止まる位置。扉の前での待機。食卓の所作。すべてです」
その“すべて”が、鎖の別名だとエルヤは知っているだろう。
けれど知っていても、今は飲み込むしかない。
礼法の指導は細部から始まった。
返答は短く。語尾は落としすぎない。反論は“質問の形”に変える。
主人の前では先に口を開かない。視線を合わせる時間は長すぎない。
握り拳は見せない。呼吸を乱さない。
それらを一つずつ訂正されるたびに、エルヤの肩の筋肉が微かに強張る。
怒りがある。屈辱がある。
だが、それを表に出すことは許されない。
レギュラスはその様子を、興味深げに眺めていた。
まるで珍しい生き物を観察するように。
――従わせるのは簡単だ。壊すのも簡単だ。
だが、壊すより先に“形を整える”ほうが、ずっと美しい。
「口の聞き方にも気をつけてくださいね」
レギュラスは微笑みながら言った。
褒めるようで、釘を刺す声。
「あなたは、アラン・セシールのことになると急に強く出ようとする。……それは、無謀ですよ」
“無謀”という言葉を、あえて優しく言う。
優しく言われるほど、相手は自分の幼さを自覚させられる。
エルヤの目が僅かに揺れた。
彼は言い返したい。
“彼女を守るためだ”と。
“あなたたちが奪ったからだ”と。
けれど、言い返せば――この屋敷では、言葉は刃になる。
自分に向けられる刃になる。
そしてそれは、アランへも届く。
レギュラスはその葛藤を見抜いたまま、静かに続けた。
「この屋敷で僕に歯向かうものなど、あってはならない。ましてや、対等のように話されることも許しません」
言葉は淡々としているのに、空気が重く沈む。
指導役たちが息をするタイミングさえ計り始める。
レギュラスは椅子から立ち上がった。
黒いローブの裾が、絨毯の上を音もなく滑る。
歩み寄るほど、エルヤの身体が本能的に硬くなる。
逃げ場がない距離で、レギュラスは立ち止まり、杖を取り出した。
杖の木目は暗く、艶があり、まるで夜そのものを削り出したようだった。
「忠誠は、言葉だけでは足りません」
そう言って、レギュラスは軽く首を傾げる。
親切な教師のような仕草。
けれど次に来るものを知っている者ほど、その仕草に凍る。
「あなたは“理解した”と言いましたね。
――では、証明しましょう」
エルヤの腕を掴む者はいない。
命令もない。
だが、動けない。
動けば“反抗”になる。
反抗になれば、罰は自分だけで済まない。
レギュラスが杖を振る。
空気が切り裂かれる音はしない。
ただ、熱が走った。
エルヤの腕の内側――皮膚の薄い場所に、焼けるような痛みが食い込む。
血が滲むのではない。
皮膚そのものが“刻まれる”。
黒い炎のような線が、ゆっくりと形を成していく。
ブラック家の紋様。
蛇のように絡む線。
星の配置。
古い家の誇りが、呪いのように肌に沈む。
痛みは、ただの痛みではなかった。
熱が骨に触れ、骨が“理解”を強いられる。
刻まれた印が、皮膚の上ではなく、内側で脈打つ。
逆らえば、この印が即座に死を呼び起こす――そんな確信が、理屈ではなく本能として押し付けられる。
エルヤは息を呑んだ。喉の奥が震える。
だが、呻き声は出さない。
誇りが、最後の抵抗として沈黙を選ぶ。
レギュラスは杖を下ろし、完成した紋様を眺めた。
満足げに、ほんの僅かに目を細める。
「これでいい」
言葉が静かに落ちる。
“いい”のは、印の美しさではない。
従属の完成だ。
エルヤの腕の紋様は、まだ赤く熱を持っている。
その熱を感じながら、彼は歯を食いしばる。
そして―― アランの顔が脳裏をよぎる。
彼女の翡翠。彼女の震え。彼女の意地。
守るために、ここで倒れられない。
レギュラスは穏やかに微笑み、耳障りなほど丁寧に告げた。
「いいですか、エルヤ・ナイーム」
名を呼ぶ声すら、支配だ。
「今日から、あなたの神は――イェルスに伝わる神話の中の神ではありません」
一拍。
その間に、逃げ道が閉じ切る。
「このレギュラス・ブラックです」
室内が、凍った。
エルヤの瞳が燃える。怒りが走る。
だが怒りは、今ここでは無意味だ。
怒りは“死”を呼ぶだけだ。
それを、腕の印が教えている。
エルヤは唇を噛み、血の味を飲み込んだ。
そして、喉の奥から言葉を引きずり出す。
誇りを傷つけても、生き延びるための言葉。
「……心得ております」
その声は、震えていないように見せた声だった。
震えているのは、きっと胸の内側だけだ。
レギュラスは、嬉しそうに笑った。
褒める声の形をした、確認。
「いい返事ですね」
彼は杖を軽く回し、まるで次の授業に移る教師のように言う。
「では、次は“膝の折り方”からいきましょうか。
あなたがこの屋敷で何を守りたいのかは知りませんが――守りたいなら、まず僕の前で正しく跪けるようにならないとですよ」
エルヤの視界の端で、指導役の執事が一歩進む。
淡々と、容赦なく、指示を出す準備をする。
エルヤは腕の熱を抱えたまま、ゆっくりと膝を折った。
石床に膝が触れる冷たさが、胸の内側の火をさらに燃やす。
屈辱。
怒り。
それでも――生きる。
アランのそばにいるために。
いつか、帰るために。
レギュラスはその姿を見下ろしながら、微笑みを崩さなかった。
黒い屋敷の中で、翡翠の宝石を閉じ込めるための“鍵”が、今、ひとつ完成したのだと――確信する微笑みだった。
その日から、アランは“学ぶ”ことを命じられた。
学ぶ――という言葉の柔らかさは、この屋敷では欺瞞に近い。
それは指導という名の躾だった。
黒い屋敷に相応しい形へ、彼女を削り、磨き、馴染ませる作業。
翡翠を黒檀の箱に収めるための、丁寧で残酷な手順。
最初に与えられたのは語学だった。
翻訳呪文があるのに、なお英国語を叩き込まれる。
単語。発音。敬称。言い回し。沈黙の置き方。
それらは会話のためではない。
“正しく従うため”に必要な形だ。
「繰り返してください」
冷静な教師の声が響く。
アランの舌がもつれる。
母国の言葉の滑らかさは、この国の固い音の並びとは違う。
歯の隙間で、喉の奥で、硬い石を転がすような感覚。
それが屈辱だった。
次は食事。
銀食器の持ち方。フォークの角度。ナイフの引き方。
一口の大きさ。噛む回数。飲み込むタイミング。
皿の上に残していいもの、残してはいけないもの。
グラスを置く位置。視線を落とす場所。
何を口に運ぶかより、どう口に運ぶか。
身体を“この国の形式”に縫い付ける。
「違います、もう一度」
淡々と訂正が飛ぶたび、アランの頬が熱くなる。
怒りではない。恥と屈辱の熱だ。
礼儀作法はさらに広がった。
挨拶の角度。歩幅。階段の上り方。扉の開け方。
笑みの浮かべ方。言葉を言い切らない癖。
沈黙の意味。質問の受け取り方。
――この屋敷では、言葉以上に“態度”が命令される。
アランは何度も、呼吸を整えようとした。
けれど、胸の奥にあるのは嫌悪と恐怖だ。
慈しみの心を媒介にするはずの封印の血が、こんな場所で何を学べというのか。
それでも、彼女は折れない。
折れないのは、強いからではない。
強くいなければ、エルヤが消されると知っているからだ。
同胞が散らされると知っているからだ。
そして何より――帰りたいからだ。
その帰りたいという望みだけが、彼女の背骨を支えていた。
そして支えは、もう一つある。
エルヤが側にいるから、何とか乗り切れた。
彼もまた、別の場所で礼法を叩き込まれているはずなのに、アランの学びの時間には“付き添い”として呼ばれた。
それがレギュラスの趣味なのか、計算なのかはわからない。
だが、呼ばれたことが救いであるのは確かだった。
嫌な指示が飛んでくるたびに、アランは視線を逸らすようにエルヤを見る。
指導役の冷たい声を真正面から受け止めれば、自分が壊れてしまいそうになるから。
エルヤの存在だけが、ここが現実だと教えてくれる。
エルヤの瞳が、言葉ではなく目で言う。
――頑張れ。
――生きろ。
――ここで終わらせるな。
アランはその目を見て、唇を噛み、また銀食器を持ち直した。
手が震えていても、指先に力を込める。
視線を落とす。呼吸を整える。
何度でも繰り返す。
休憩が挟まれた。
教師や使用人が部屋の端へ退き、短い沈黙が落ちる。
そこに残るのは、黒い部屋と、二人だけの呼吸。
アランは椅子の背から身体を少しずつ解放し、肩の力を抜いた。
息が詰まっていたのだと、そのとき初めて気づく。
胸が痛いほどに空気を吸い込み、ゆっくり吐く。
エルヤが近づき、隣の席に腰を下ろす。
彼の腕に刻まれた黒い紋様が、袖口から僅かに覗いた。
その印を見るだけで、アランの胸が締め付けられる。
自分のせいだ。自分が生きるために、彼は縛られた。
アランは何も言えず、ただエルヤの肩に額を寄せた。
ほんの少し寄りかかるだけで、目の奥が熱くなる。
故郷の風が蘇る。
イェルスの草の匂い。
水の音。
夜に浮かぶ星の輪郭。
二人で寄り添って、言葉がなくても通じた日々。
まるで、あの美しい自然の中で肩を寄せていたときみたいに。
同じように、この部屋でもエルヤに寄りかかる。
「……ここは息が詰まるね」
アランが故郷の言葉で囁くと、エルヤも同じ言葉で返した。
母国語は柔らかく、舌に馴染む。
それだけで泣きたくなるほど、安心する。
「でも、見て。君はまだ光ってる」
エルヤが小さく笑う。
その笑みは疲れているのに、優しい。
アランは首を振り、泣きそうな声で答えた。
「光ってなんかない。……ただ、消えたくないだけ」
エルヤはアランの手を取った。
温かい手。
この屋敷の黒の中で、唯一ちゃんと温度を持っているもの。
「アラン」
彼が真剣な声で言う。
故郷の言葉で、祈りのように。
「必ず帰ろう」
その一言が、胸の奥の何かを強く叩いた。
帰る。
帰る。
帰る。
アランは頷いた。
涙が滲む。だがそれを落とさないように、瞬きをゆっくりする。
「ええ」
声が震える。震えてもいい。今だけは。
「絶対に」
二人の言葉が、黒い部屋の中で小さな火になる。
誰にも見えない場所で、誰にも奪われない場所で、誓いが形になる。
やがて遠くで、扉の向こうがわずかに動く気配がした。
休憩が終わる合図だ。
現実が戻ってくる。
アランはエルヤから身体を離した。
名残惜しいほどに。
けれど、離れるときに彼の目を見る。
――頑張れ。
その目がまた言う。
アランは小さく頷き、背筋を伸ばした。
銀食器の冷たさに、指先をもう一度慣らす。
言葉の硬さに、舌をもう一度慣らす。
礼儀という檻に、身体をもう一度押し込む。
帰るために。
そしていつか、イェルスの風の下で、この時間を笑い話にするために。
頬を寄せるほど近くにあるその冷たさが、今のアランには逆に熱かった。逃走の熱、恐怖の熱、皮膚に残る呪文の痛みの熱――それらがまだ身体の内側で暴れている。
連行された先は、見慣れたはずの地下区画の一室だった。
けれど空気が違う。
人が多い。
灯りが強い。
そして何より、ここには“彼”がいる。
レギュラス・ブラック。
せっかく着替えさせられた、美しい英国式の衣装は台無しだった。
地面に伏せられたのか、裾には土がついている。
髪は乱れ、細い飾りがどこかで外れたのか、翡翠の瞳の横で光を失って揺れている。
呼吸は上がり、頬は赤みを帯び――それが悔しいほどに情けない。
アランは床に膝をついたまま、顔を上げる。
視界の先、少し高い位置に立つレギュラスが、静かにこちらを見下ろしていた。
怒りの顔ではない。
苛立ちの顔でもない。
……むしろ、愉しんでいるように見えた。
その視線の前に、イェルスの捕虜たちが列を成していた。
拘束され、疲弊し、恐怖と怒りを抱えた同胞たち。
けれど奇妙なことに――中には、ほとんどが皆、英国の服を着ている。
異国の衣装のまま、この魔法省での職に従事することは好ましくない。
そういう理屈で、衣服を“与えられた”のだろう。
男たちは粗末ながら整えられた制服に近い服を着せられ、女の中にはそれなりに整えられた服を与えられている者もいた。
襟元だけはきちんとした布。靴だけは新品。髪だけは一度梳かされた痕跡。
――まるで、家畜の毛並みを整えるように。
アランの胸に、吐き気が込み上げる。
富と秩序の皮を被せて、内側の自由を奪う。
それがこの国のやり方だ。
レギュラスはアランを詰めるより先に、捕虜たちへ視線を巡らせた。
彼がまず狙っているのは、彼女の口ではない。
彼らの“心”だ。
アランはそれがわかった瞬間、背筋が冷えた。
自分だけを折るより、同胞を“こちら側”に引き込む方が早い。
同胞がこちら側に立てば、逃げ道は消える。
祖国への帰還は、希望ではなく笑い話になる。
レギュラスの視線が、一人の男に止まった。
捕虜の中でもひときわ体格がいい。肩幅があり、首が太い。
骨格が違う。
目が濁っていない。
怯えよりも、怒りが先に立つ目。
レギュラスはゆっくりとその男を指差した。
「あなた」
男が歯を食いしばる。
だが、言葉は出ない。
翻訳呪文が行き渡っているはずなのに、口の中で呪いの言葉が詰まっているのだろう。
レギュラスが管理官に小さく合図すると、名簿が渡された。
彼はその紙を一瞥し、まるで今ここで“所有物の名”を決めるように、淡々と言う。
「……アーシュ・カデル」
呼ばれた男の肩がわずかに跳ねた。
名を呼ばれるのは、侮辱にも、拘束にもなる。
“個体”として切り出されるからだ。
レギュラスは穏やかに続ける。
「体格がいい。魔力の反応も強い。
杖のいらない呪文ばかり扱ってきたのでしょうが――」
彼はそこで軽く首を傾げた。
まるで学者が未開の技術を論じるような顔で。
「杖を握らせれば、もっとよく動ける」
言葉が、刃になって突き刺さる。
“あなたの力は、こちらの道具を持って初めて完成する”という侮辱。
だが同時に、それは甘い餌でもある。
「軍の花形に配置しましょう。用心棒としては十分です。……忠誠を示すなら、地位も給金も与える」
捕虜たちの列がざわめいた。
ざわめきは恐怖ではない。
欲が揺れた音だ。
――給金。
――地位。
――軍の花形。
イェルスでは存在しなかった概念が、ここでは紙一枚で提示される。
アランの喉が詰まった。
見える。
同胞の目の奥で、“揺らぎ”が生まれるのが。
レギュラスはその揺らぎを見逃さない。
むしろ、それを育てるように、次の駒を拾った。
今度は、一人の女。
それなりの顔立ち。派手ではないが、整っている。
目が賢い。
そして、恐らく“生き延びること”を最優先にできる目。
レギュラスは名簿を見て、微笑んだ。
「リネア・サハル」
女が息を呑んだ。
周囲の女たちが、彼女を見た。
視線が刺さる。羨望と恐怖が混じる視線。
「あなたは――」
レギュラスは柔らかく言う。
まるで贈り物を差し出すように。
「どこかの貴族の家に、使用人として置いてあげましょう。
整った部屋、清潔な寝台、温かな食事。
美しいドレスを着る必要はないかもしれませんが――」
ここで彼は、わざと“美しい”という言葉を置く。
「美しい宝飾品に囲まれ、富の中で生きる。
イェルスの地では出来なかったことを、今ここで約束してあげます」
女の唇が震えた。
拒絶ではない。
想像してしまった震えだ。
光。
布。
宝石。
暖かい食事。
眠れる場所。
“奪われた生活”の代わりに、“別の生活”が提示される。
故郷を失った者にとって、代わりの生活は毒にもなる。
甘く、危険で、そして簡単だ。
すると、イェルスの捕虜たちはざわめき出した。
最初は小さな囁きだった。
けれど、その囁きはじわじわと広がる。
まるで火が乾いた草を舐めていくように。
「……英国は、素晴らしい」
誰かが呟いた。
それが呪いのように繰り返される。
「食事が違う。……あれは美味しい」
「働けば金がもらえる。金で欲しいものが買える」
「わかりやすい」
「神に祈っても腹は膨れない」
「ここでは、努力が形になる」
目に見えない神なんかを信仰していく生き方より、よほどわかりやすく欲を満たしてくれる。
それが英国だ、と。
誰かが、まるで自分を納得させるように言う。
アランの胸の奥が、じわじわと裂けた。
違う。
違う、と叫びたい。
イェルスの祈りは、腹を満たすためのものじゃない。
生きる意味を繋ぐためのものだ。
大地に触れて、風を感じて、星に名をつけて――自分たちが“ここにいる”ことを確かめるためのものだ。
それを、金と食事と布で塗りつぶされていく。
アランは唇を噛んだ。
血の味がする。
同胞のざわめきが、裏切りの音に聞こえる。
でも、責められない。
誰もが疲れている。誰もが失った。
“楽な道”が目の前に差し出されたら、手が伸びるのは当然だ。
そこへ、レギュラスが静かに歩み寄ってきた。
アランの前で足を止める。
そして、彼はしゃがんで目線を合わせるでもなく、あくまで“見下ろす”位置のまま、優雅に言った。
「どうです?」
囁くような声。
だが、その声は捕虜全体に届くように調整されている。
「あなたが守ろうとしたものは、こうして――簡単に形を変えられる」
アランは歯を食いしばり、翡翠の瞳で睨み返した。
だが、呼吸が上がっているせいで言葉がすぐに出ない。
怒りはあるのに、身体が追いつかない。
レギュラスはその沈黙を“答え”として受け取ったように微笑む。
「あなたが騙したつもりでいる間に、僕は手を伸ばした」
その声に、室内のざわめきが一瞬だけ沈む。
全員が聞いている。
全員が、彼の言葉に従って空気を変えている。
レギュラスは楽しげに続けた。
「彼らをこちら側につけるのは簡単です。
富と秩序と安全――あなたの神より、わかりやすい」
アランの喉が震えた。
叫びたいのに、叫べない。
叫べば、また同胞が傷つけられる。
レギュラスはそこでようやく、核心へ触れるように視線を細めた。
「さて、アラン・セシール」
名を呼ばれるだけで、身体の内側が凍る。
あの男が本当に欲しいものが、今から始まる。
「逃げようとした。捕虜たちを動かした。
そして海上結界は揺らぎ始めた」
彼は穏やかに笑う。
「――あなたが最初から、僕を騙す気だった証拠です」
アランは息を吸った。
言わなければならない。
それでも、真名だけは渡せない。
その一線を守るために、彼女は唇を開く。
だが、言葉が出る前に、レギュラスが低く言った。
「あなたは賢い女です。
だからこそ、今ここで選べますよね」
選べる――その言葉が最も残酷だった。
選べるように見せて、選択肢を奪う。
レギュラスの銀色の瞳が、アランの翡翠を捕まえて離さない。
「本当の最後を、言いなさい」
空気が固まった。
捕虜たちのざわめきが止まり、誰もが息を止める。
アランは、同胞の視線を背中に感じた。
期待と恐怖が混じった視線。
――守らなければ。
真名は渡さない。
けれど、ここで折れれば全てが終わる。
アランの胸の奥で、イェルスの風が鳴った。
遠いのに、確かに鳴った。
そして彼女は、その風に縋るように――
必死に、言葉を探し始めた。
空気が、重かった。
石の壁に反響する息遣い。金属の拘束具がわずかに擦れる音。
魔法灯の白い光が、捕虜たちの頬の汗と、衣服の皺と、恐怖の影を容赦なく浮かび上がらせる。
アランはその中央に立たされていた。
乱れた髪。汚れた裾。呼吸はまだ落ち着かず、胸が上下している。
青ざめた顔は血の気を失っているのに――それでもなお、翡翠の瞳だけが光を絶やさない。
その宝石めいた輝きが、レギュラスの視線を吸い寄せて離さなかった。
捕虜たちが、ざわめいている。
さっきまで怒りと恐怖の色だった声が、今は別の色を帯び始めていた。
給金。地位。安全。食事。暖かい寝台。
それらの単語が舌の上で甘く転がり、神や祖先への祈りよりもわかりやすい“救い”として、目の前に差し出されている。
目の前で同胞が欲に飲まれていく。
圧倒的な英国の富と強さに屈していく。
屈していくのは、心だ。
心が屈すれば、身体は簡単に従う。
それを、レギュラスはよく知っている。
アランは何も言えなくなった。
叫びたい。違うと言いたい。
祈りを捨てるな、帰る場所を忘れるな。
そう叫びたいのに、喉が硬く閉じて声にならない。
叫んだところで、彼らが明日から空腹にならないわけじゃない。
叫んだところで、死んだ同胞が戻るわけじゃない。
――守る。
――帰る。
その二つの言葉が、いま目の前で薄く溶けていく。
その沈黙を、レギュラスは待っていたかのように、柔らかく切り裂いた。
「さあ、アラン・セシール」
名を呼ぶ声が、やけに整っている。
丁寧で、穏やかで、まるで慈悲の響きすら含んでいるのが気味が悪い。
「よくもまあ、欺いてくれたじゃないですか」
アランの肩が微かに跳ねた。
視線が揺れる。
だがすぐに、翡翠の瞳が持ち直すように前を向く。
――違う。
――欺いたのは、あなたたちだ。
――奪ったのは、あなたたちだ。
そう言い返したいのに、言葉が追いつかない。
胸が痛むほど鳴っている。
レギュラスは彼女の青ざめた顔を見て、心の奥でひどく静かに思った。
青ざめても、まだ美しい。
本当に、惜しい女だ。
今まで見てきたどんな煌びやかな女よりも――この翡翠の宝石が目を奪う。
悔しくなるほどに、見惚れる。
彼はそれを自覚しながら、笑みを崩さない。
見惚れたことを悟られたくないのではない。
悟らせる必要がない。
支配する側が“惚れた”などという弱みは、彼の辞書にはない。
彼が持つのは、興味と所有欲だけだ。
アランは喉の奥の震えを押し殺し、言葉を絞り出した。
「……あなたに、イェルスの封印は扱えない」
その声は細い。けれど、芯があった。
諦めの声ではない。最後に残った誇りの刃。
レギュラスは、あっさりと頷いた。
「結構です」
そして、笑う。
「僕が扱わなくていい。あなたがやればいいんです」
その一言が、鎖の音みたいに響いた。
彼女の逃げ道を塞ぐ音。
“あなたがやる”――それは命令であり、永遠の拘束だった。
アランの背中に寒気が走る。
怖い。
だが、翡翠の瞳の光は消えない。
恐れを抱きながらも、真っ直ぐにこちらを見てくる。
「他国の侵略のために使う封印は、必ずその報いを受けます」
アランの声が強まる。
それは呪いではなく、警告だ。
祖国を守ってきた血の、最後の抗い。
「イェルスの呪いは強い……」
レギュラスは、その言葉を聞いて、心底おかしそうに目を細めた。
報い。呪い。
そんなものをまだ信じているのか。
力を前に、富を前に、権力を前に。
そんなものは何の足枷にもならない。
足枷になるのは、現実だけだ。
現実を動かすのは、武力と金と制度。
彼はそれを知り尽くしている。
「では」
レギュラスは一歩近づき、声を落とした。
落とした声ほどよく刺さることを、彼は計算している。
「あなたがここで僕に逆らうことの報いは、どう降りかかると思います?」
その問いは、優しい顔をした脅迫だった。
アランの喉が詰まる。
視界の端で、同胞たちがざわめき出すのがわかった。
口々に懇願を口にし始める。
助けてくれ、やめてくれ、従うから。
誰かが泣き、誰かが膝を折り、誰かがアランを見た。
その視線が、重い。
――アラン。
――あなたが決めて。
――あなたが守って。
――あなたが。
彼女の胸が揺れる。
呼吸が乱れる。
心が揺れる。
揺れてはいけないのに、揺れてしまう。
そのとき、隣から小さな力が腕に触れた。
エルヤ・ナイーム。
彼も拘束されている。それでも身体を寄せ、声を絞り出す。
「アラン……ダメだ。揺れちゃダメだ」
必死な声。
怒りではない。願いの声。
「帰ろう。イェルスに」
その言葉が、アランの胸をさらに痛くする。
帰りたい。帰りたいのに。
帰るためには、今ここで折れないことが必要なのに。
同胞が崩れていく。泣いている。懇願している。
レギュラスは、その二人のやり取りを見て、内心で鼻で笑った。
大層な男女の熱い誓いとやらを、今ここで見せられている。
だが、そんなものを見たい趣味はない。
彼が興味を持つのは、誓いが“どれほど人を縛るか”だけだ。
誓いが強いほど、利用価値が上がる。
レギュラスはゆっくりとエルヤへ視線を移した。
銀色の瞳が、彼を計る。値札を付ける。
「協力するのなら」
声が柔らかい。
だからこそ、恐ろしい。
「あなたには、恋人を一番近くで守り抜ける騎士の称号を与えますよ」
捕虜たちが息を呑む。
“騎士”。
“称号”。
その響きが、彼らの中で甘く弾ける。
「騎士となれば爵位が付きます」
レギュラスは淡々と告げる。
爵位。制度。階級。
イェルスにはなかったものを、ここでは簡単に与えられる。
「富も権力も、この女の隣で手に入る」
そして最後に、無邪気な問いの形で刺す。
「理想では?」
アランの身体が震えた。
その言葉は、エルヤへの誘惑であり、同胞への誘惑であり、アランへの嘲りでもある。
“隣で守る”――その言葉で、彼女の誓いを汚す。
誓いを制度に変える。
制度に変えた瞬間、誓いは英国の所有物になる。
エルヤの瞳が揺れる。
怒りが燃える。
だが同時に、痛みが走る。
守るために従うという選択肢が、現実として目の前に置かれたからだ。
アランは息を吸い、唇を噛む。
翡翠の瞳が濡れる。泣きたくないのに、涙が浮く。
レギュラスは、その涙の直前の表情を見て、胸の奥で静かに満足した。
――ほら。
揺れた。
彼は“呪い”など信じない。
だが、人が揺れる瞬間だけは信じている。
揺れは必ず、折れへ繋がるから。
そしてレギュラスは、優しい声で追い詰める。
「さあ、アラン・セシール」
再び名を呼ぶ。
その名を呼ぶたびに、彼女はここに縛り付けられる。
「あなたの言う“報い”とやらを恐れるなら――」
一拍置く。
逃げ道を塞ぐ間。
「まず、今ここで、僕に逆らう報いを想像してみるといい」
室内の空気がさらに冷える。
捕虜たちの懇願が増える。
同胞の視線が刺さる。
エルヤの手が、アランの腕をきつく掴む。
アランは、震える息の中で――
最後の一線を守ろうと必死に、言葉を探した。
真名は渡さない。
けれど、同胞もエルヤも守りたい。
その矛盾を抱えたまま、翡翠の瞳だけが、折れずに光っていた。
胸の奥で、何かがきしむ音がした。
それは誇りが折れる音ではない。誇りを守るために、別の部分を曲げる音だった。
アランは、レギュラスの銀色の瞳を見返しながら――同時に、周囲の空気を見た。
捕虜たちのざわめき。懇願。泣き声。
兵の杖先に集まる魔力の気配。
誰かが動けば、誰かが倒れる。
それが、この場所のルールだ。
今この場で反抗することが得策でないことは理解できた。
ここで声を上げれば皆、見せしめのように酷い目に遭わされるのだろう。
ただ拘束されるだけでは済まない。
痛みを与え、恐怖を植え付け、二度と立ち上がれないように心を折る。
――そういうことを、この男は平気でやる。
甘い提案をして、希望を見せた上で叩き折る。
それが、彼のやり方だ。
それを、アランは身をもって知った。
翡翠の瞳の奥が熱くなる。
泣きたいわけじゃない。
怒りで熱いのだ。
だが怒りは、ここでは武器にならない。
怒りを武器にできるのは、力を持つ者だけだ。
アランはゆっくりと息を吐いた。
震えを押し込めるために、肺の奥まで空気を満たし、静かに吐き出す。
折れるしかない。
その言葉が胸に落ちると、胃が痛くなった。
自分の中で何かが死ぬ感覚がした。
けれど、死なせてはいけないものがある。
望みだけは、捨てたくない。
アランは視線をわずかに動かし、エルヤの方を見た。
拘束されていても、彼はアランを見ている。
まっすぐに、必死に。
その目が言っている。
――生きろ。
――ここで終わらせるな。
そして、レギュラスが投げつけた甘い言葉が、今になって毒と薬の両方の形で胸に残っている。
“隣で守れる”
“称号”
“爵位”
“富と権力”
くだらない。
忌まわしい。
それでも――
エルヤは自分のそばにいられると言った。
その事実だけが、暗闇の中の一本の灯りになる。
灯りは小さい。けれど、消えていない。
消えていないなら、歩ける。
アランは、膝の震えを止めるように指先を握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛みが意識を現実に縫い止める。
ここで折れるのは、終わりではない。
ここで折れるのは、次に立ち上がるためだ。
彼がそばにいるなら。
何度でも立ち上がれそうな気がした。
倒されても、引きずられても、泥を付けられても。
息を奪われそうになっても。
その手の温度を思い出せるなら、また立ち上がる。
アランは唇を開き、声を出す前に一度だけ飲み込んだ。
言葉は屈辱になる。
けれど今は、その屈辱を使って生き延びる。
翡翠の瞳は揺れたまま、それでも消えずに光っていた。
そして彼女は、折れるように見せるための静かな形で、首を僅かに下げた。
――生きる。
――取り戻す。
――必ず帰る。
その誓いだけを、喉の奥のいちばん深いところに隠したまま。
ブラック家の屋敷は、長いこと“黒”だけで出来ていた。
黒檀の梁。黒い大理石の床。黒い絨毯。夜のように深いカーテン。
蝋燭の灯りでさえ金色ではなく、どこか白く冷えた光に見える――そういう屋敷だ。
富と権力で磨かれた豪奢でさえ、色彩を拒むような静けさに沈んでいる。
ここは、世界に対して牙を隠す巣だと、誰が見てもわかる。
その屋敷に、アラン・セシールを置くことにした。
決めたのは、迷いではない。
必要だからだ。
海上結界が揺らぎ始めた以上、彼女を手元から離す理由がどこにもない。
そして――彼女を“手元”に置くという行為は、単なる監視では終わらないことをレギュラス自身が理解していた。
馬車の扉が開き、アランが降り立った瞬間。
屋敷の黒は、ただの黒ではなくなった。
この女を屋敷に置くだけで、黒一色だった屋敷が一気に華やいだ。
それは花が咲く華やかさではない。
宝石が置かれたときに生まれる、空気の密度の変化だ。
翡翠の色が、黒の上で息をする。
黒に吸われず、黒に負けず、むしろ黒を引き立てる。
自分の持つ色に、翡翠の色があまりにも良く合う。
まるで帰るべき場所に収まったかのように。
屋敷にはまったアラン・セシールは、美しかった。
その美しさが――この屋敷の“正しさ”を証明するようで、レギュラスはひどく満足した。
奪ったのではない。
元々ここにあるべきものを、正しい場所に置いた。
そう言い訳できるほど、彼女はこの黒に似合ってしまう。
アランは、広間の中央に立たされた。
高い天井から垂れるシャンデリアの光が、彼女の髪の乱れや、頬の疲労や、肌の擦れた痕まで照らし出す。
それがまだ“捕虜”の痕跡を残しているのに、屋敷の空気はそれすら飾りに変えるように冷静だった。
使用人たちが一斉に動き出す。
衣装係が近づき、手袋の布地を当て、裾の長さを測り、髪に触れる許可もないまま梳き始める。
香水の小瓶が開き、白い湯気の立つ湯を運ぶ者がいる。
宝飾係が箱を開け、首元にあてがい、耳元の長さを測り、指輪の内径を確かめる。
アランはその間じゅう、硬直していた。
抵抗すれば、また誰かが傷つく。
抵抗しなくても、これは暴力だ。
柔らかい布と甘い香りに包まれた暴力。
困惑の色が大きいのだろう。
翡翠の瞳が不安気に揺れている。
彼女の目は、まだ“逃げ道”を探している目だった。
窓の位置。扉の数。廊下の角度。
それを読み取ろうとするたび、使用人の手が彼女を別の方向へ向ける。
視線の自由さえ奪いながら、丁寧に、丁寧に。
やがて、黒い衣装が彼女に着せられた。
深い黒。光を吸い込む黒。
だが布地は柔らかく、動くたびに波のように艶を返す。
首元は過剰に露出しない。
その代わり、肌の白さが際立つ。
そして何より――瞳が、浮き上がる。
翡翠が、黒の中で燃える。
レギュラスは少し離れた場所から、その変化を眺めた。
満足が胸の奥で静かに広がる。
この屋敷の黒が、初めて“色”を持ったように見える。
彼は歩み寄り、アランの前で足を止めた。
無理に顔を上げさせない。
それでも彼女の瞳は、自然と彼に向く。
向けてしまう。
支配の構造は、そこにある。
「似合っていますよ」
柔らかな声音。褒め言葉の形。
だが、その言葉もまた首輪に近い。
「あなたの瞳の色に、黒はよく映えます」
翡翠の瞳が、わずかに揺れた。
怒りとも、屈辱とも、どちらとも取れる揺れ。
アランは何も返してこない。
まるでこちらからの褒め言葉など、受け取りたくもないというかのように。
褒められた瞬間に“所有”が成立することを、彼女は本能で知っている。
レギュラスはその沈黙を気にしなかった。
気にする必要がない。
ここはブラック家で、彼女はその中に置かれた。
それだけで答えは出ている。
そして約束通り、エルヤ・ナイームを彼女の側に仕えさせるよう手配した。
屋敷の使用人に混じる形で、彼が入ってくる。
整えられた服。磨かれた靴。
けれど、その目だけがイェルスの地の色を残している。
怒りと、悔しさと、守るべきものを探す目。
そのエルヤが――着飾らされたアランを見た瞬間、足を止めた。
言葉を失っている。
それは“美しさ”に圧倒された顔だった。
彼が求めていたのは、泥と血の中でも折れないアランの強さのはずなのに。
今目の前にいるのは、黒の中で翡翠を燃やす、まるで別の世界の女だった。
彼の瞳が揺れる。
焦りが混じる。
喜びではない。
怯えに近い。
――こんなふうに飾り立てられたら、遠くなる。
――この国のものになってしまう。
その恐怖が、彼の中で形になっていくのが見える。
イェルスの地に戻りたいと言いながら。
英国式に飾り立てられたアラン・セシールの美しさに、圧巻されている。
力の前にひれ伏した敗者の姿、そのものだった。
レギュラスは、その反応を見逃さない。
むしろ、愉快だった。
誓いの力を、制度と富の光で揺らす。
それがどれほど容易いか――彼は今、目の前で確認していた。
レギュラスはエルヤに視線を向け、穏やかに告げる。
「あなたは彼女の側にいなさい。……守りたいのでしょう?」
“守る”という言葉が、彼の口から出るときほど残酷なものはない。
守るという名目で、従属を強いるからだ。
エルヤの喉が動く。
何か言い返したい。
けれど言い返せない。
言い返せば、アランが傷つく。
言い返せば、この屋敷が牙を剥く。
その沈黙が、レギュラスには何よりの証だった。
――ほら。
――ここでは、僕の方が強い。
彼は再びアランを見た。
黒の中の翡翠。
不安に揺れていても、光だけは消えない瞳。
まるで帰るべき場所に収まったかのように、屋敷にはまってしまった女。
レギュラスは微笑んだ。
柔らかく、上品に。
だがそれは、扉が閉まる音と同じ微笑みだった。
「ようこそ、ブラック家へ」
歓迎の言葉の形をした、収監の宣告を――
彼は丁寧に、彼女の耳に落とした。
命令は、祈りの形をしていなかった。
それは紙に印された文字で、署名で、封緘蝋で、そして――誰も逆らえない声で届く。
ブラック家の屋敷の静けさの中に、魔法省の冷たい規則が滑り込んでくる。
海上の戦艦に封印を施せ。
アランはその言葉を読み、指先が僅かに震えた。
震えは恐怖だけではない。怒りもある。
けれど怒りは声にならず、ただ皮膚の裏側に熱を溜めていく。
「準備は整っています」
淡々と告げる使者の声が、屋敷の黒い廊下に反響した。
窓の外は曇り、冬の風が樹々を揺らしている。
その音さえ遠く、アランの耳には命令の響きだけが残った。
――海。
イェルスの海は、もっと柔らかかった。
岩肌に砕ける波も、冷たさの中に生き物の匂いがあった。
潮は祈りの言葉を運び、風は祖先の話を連れてきた。
海は、守るべき場所だった。
けれど英国の海は、違う。
戦艦は鋼鉄の獣だ。
海を渡るためではなく、海を踏み潰すために造られた獣。
それに封印を施せという。
アランは喉の奥で息を吸い、静かに吐いた。
息が白くならない室内で、胸の中だけが凍っていく。
イェルスの地で、セシールの一族にのみ授けられた封印の術。
それは本来、戦のためのものではなかった。
親が子を守るように、慈しみの心を媒介に護りを強化する。
抱きしめる手の温度と、眠りを確かめる指先と、恐怖から遠ざけたいという願い――
そういう無償の愛が、封印の“原理”であり“原点”だと、言い伝えられてきた。
丹念に呪文を重ねるだけでは宿らない。
手順を正しく踏むだけでは足りない。
形を整えただけの術は、ただの光の膜で終わる。
――守りたい、という気持ち。
その一点がなければ、どれほど技巧を尽くしても“封印”にはならない。
それがセシールの血の誇りであり、誓いであり、禁忌だった。
なのに。
レギュラス・ブラックに命令され、英国の海上魔法兵を守るための結界に封印魔法を施せと言われても。
そこに慈しみも、慈愛も、何も湧かない。
湧くのは、嫌悪だ。
湧くのは、恐怖だ。
湧くのは、奪われた大地の匂いと、倒れた同胞の体温の消え方と、焼け落ちた家の熱の記憶。
心のど真ん中が、冷たく荒れている。
アランはふと、広間の窓から見える庭を見た。
黒い樹々が、冷えた空に伸びている。
ここにはイェルスの風がない。
土の匂いも違う。
祈りが触れられる場所がない。
――完璧な封印なんて、出来るわけがない。
喉の奥で呟いても、声にはならない。
言葉にすれば、叩き折られるのがわかっている。
それでも、命令は降りかかる。
断れば、エルヤがどうなるかわからない。
同胞がどうなるかわからない。
この屋敷で与えられている“安全”が、刃になって返ってくる。
アランは指先を強く握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛みが現実を繋ぎ止める。
守りたいものがある。
守りたいのは――英国の戦艦ではない。
イェルスだ。
同胞だ。
エルヤだ。
そして、いつか生まれるかもしれない未来だ。
けれど今の自分は、その守りたいものに手を伸ばすために、敵の船に術を施さなければならない。
この矛盾が、胸の奥を裂く。
アランは目を閉じた。
祈りの言葉が喉の奥で小さく揺れる。
だがそこに、慈愛は湧かない。
湧かないのに、命じられる。
――それでも、やらなければ。
そう思った瞬間、背後から静かな足音が近づいた。
黒い廊下の先に、あの男の気配があるような気がして、アランの背筋が反射的に硬くなる。
レギュラス・ブラックの命令は、いつも“選択”の顔をしている。
だが本当は、選ばせるためではない。
折れさせるためだ。
アランは唇を噛み、翡翠の瞳を開いた。
そこに宿る光だけは、消さないと決めて。
完璧な封印は、できない。
できないからこそ――
彼に“完璧だ”と思わせるだけの“形”を作るしかない。
その決意が、彼女の胸の奥で静かに固まっていった。
ブラック家の屋敷には、音の“格”があった。
廊下を滑るように進む靴音、銀食器が触れ合うかすかな響き、薪が爆ぜる乾いた小さな破裂音――そのどれもが、許された分だけ鳴り、許されない分だけ黙る。
屋敷の奥、重い扉の向こうにある小さな応接の間は、まるで儀礼のためだけに切り取られた空間だった。黒檀の壁、濃い絨毯、窓から差し込む光さえ薄く冷たい。
そこに立たされている青年の姿は、まだ“馴染んでいない”と一目でわかる。
エルヤ・ナイーム。
整えられた服を着せられてはいる。髪も一度は梳かされている。
それでも、立ち方が違う。呼吸が違う。
目が、違う。
誰かに従うための目ではなく、誰かを守るための目をしている。――それが鬱陶しかった。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、指先で肘掛けの彫刻を軽く撫でた。
微笑んでいる。社交の場と何一つ変わらない穏やかな笑み。
けれど、その笑みの奥には、刃が整然と並んでいた。
「まず」
穏やかな声が、部屋の静けさに溶けて落ちる。
「礼儀からです。あなたは僕の屋敷にいる。――それだけで、あなたの振る舞いは“あなた個人の問題”ではなくなるんですよ」
部屋の隅には、指導役として付けられた者が控えていた。
年嵩の執事、姿勢の美しい女中頭、礼法に長けた家庭教師。
彼らは声を出さない。ただ、観察し、記録し、必要なら矯正する。矯正は言葉だけでは終わらないことを、この屋敷の空気が語っていた。
エルヤはまっすぐに立ち、唇を引き結んだ。
その顎の角度が、“屈しない”と宣言している。
とくにアランのこととなると、途端に強く出ようとする――その無謀なほどの直向きさが、実に鬱陶しい。
見ていて楽しくはある。だが、この屋敷にはそんなものはいらない。
「あなたに教えるべきことは、たった一つです」
レギュラスは柔らかい声音のまま、逃げ道を消す。
「屋敷の主人は、僕です。命令は絶対。理解できますね?」
問いかけの形をしていても、答えはひとつしかない。
“はい”以外は、ここでは反逆になる。
エルヤの喉が動いた。飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
それでも目は逸らさない。翡翠の瞳を持つ女の隣に立つことを選んだ男の目だ。
「……理解します」
声は低い。悔しさが滲んでいる。
レギュラスは微笑みを崩さず、軽く頷いた。
「よろしい。では次です」
レギュラスが指先を上げると、指導役の執事が一歩進み、簡潔に告げる。
「敬称。返答。視線の置き方。歩幅。立ち止まる位置。扉の前での待機。食卓の所作。すべてです」
その“すべて”が、鎖の別名だとエルヤは知っているだろう。
けれど知っていても、今は飲み込むしかない。
礼法の指導は細部から始まった。
返答は短く。語尾は落としすぎない。反論は“質問の形”に変える。
主人の前では先に口を開かない。視線を合わせる時間は長すぎない。
握り拳は見せない。呼吸を乱さない。
それらを一つずつ訂正されるたびに、エルヤの肩の筋肉が微かに強張る。
怒りがある。屈辱がある。
だが、それを表に出すことは許されない。
レギュラスはその様子を、興味深げに眺めていた。
まるで珍しい生き物を観察するように。
――従わせるのは簡単だ。壊すのも簡単だ。
だが、壊すより先に“形を整える”ほうが、ずっと美しい。
「口の聞き方にも気をつけてくださいね」
レギュラスは微笑みながら言った。
褒めるようで、釘を刺す声。
「あなたは、アラン・セシールのことになると急に強く出ようとする。……それは、無謀ですよ」
“無謀”という言葉を、あえて優しく言う。
優しく言われるほど、相手は自分の幼さを自覚させられる。
エルヤの目が僅かに揺れた。
彼は言い返したい。
“彼女を守るためだ”と。
“あなたたちが奪ったからだ”と。
けれど、言い返せば――この屋敷では、言葉は刃になる。
自分に向けられる刃になる。
そしてそれは、アランへも届く。
レギュラスはその葛藤を見抜いたまま、静かに続けた。
「この屋敷で僕に歯向かうものなど、あってはならない。ましてや、対等のように話されることも許しません」
言葉は淡々としているのに、空気が重く沈む。
指導役たちが息をするタイミングさえ計り始める。
レギュラスは椅子から立ち上がった。
黒いローブの裾が、絨毯の上を音もなく滑る。
歩み寄るほど、エルヤの身体が本能的に硬くなる。
逃げ場がない距離で、レギュラスは立ち止まり、杖を取り出した。
杖の木目は暗く、艶があり、まるで夜そのものを削り出したようだった。
「忠誠は、言葉だけでは足りません」
そう言って、レギュラスは軽く首を傾げる。
親切な教師のような仕草。
けれど次に来るものを知っている者ほど、その仕草に凍る。
「あなたは“理解した”と言いましたね。
――では、証明しましょう」
エルヤの腕を掴む者はいない。
命令もない。
だが、動けない。
動けば“反抗”になる。
反抗になれば、罰は自分だけで済まない。
レギュラスが杖を振る。
空気が切り裂かれる音はしない。
ただ、熱が走った。
エルヤの腕の内側――皮膚の薄い場所に、焼けるような痛みが食い込む。
血が滲むのではない。
皮膚そのものが“刻まれる”。
黒い炎のような線が、ゆっくりと形を成していく。
ブラック家の紋様。
蛇のように絡む線。
星の配置。
古い家の誇りが、呪いのように肌に沈む。
痛みは、ただの痛みではなかった。
熱が骨に触れ、骨が“理解”を強いられる。
刻まれた印が、皮膚の上ではなく、内側で脈打つ。
逆らえば、この印が即座に死を呼び起こす――そんな確信が、理屈ではなく本能として押し付けられる。
エルヤは息を呑んだ。喉の奥が震える。
だが、呻き声は出さない。
誇りが、最後の抵抗として沈黙を選ぶ。
レギュラスは杖を下ろし、完成した紋様を眺めた。
満足げに、ほんの僅かに目を細める。
「これでいい」
言葉が静かに落ちる。
“いい”のは、印の美しさではない。
従属の完成だ。
エルヤの腕の紋様は、まだ赤く熱を持っている。
その熱を感じながら、彼は歯を食いしばる。
そして―― アランの顔が脳裏をよぎる。
彼女の翡翠。彼女の震え。彼女の意地。
守るために、ここで倒れられない。
レギュラスは穏やかに微笑み、耳障りなほど丁寧に告げた。
「いいですか、エルヤ・ナイーム」
名を呼ぶ声すら、支配だ。
「今日から、あなたの神は――イェルスに伝わる神話の中の神ではありません」
一拍。
その間に、逃げ道が閉じ切る。
「このレギュラス・ブラックです」
室内が、凍った。
エルヤの瞳が燃える。怒りが走る。
だが怒りは、今ここでは無意味だ。
怒りは“死”を呼ぶだけだ。
それを、腕の印が教えている。
エルヤは唇を噛み、血の味を飲み込んだ。
そして、喉の奥から言葉を引きずり出す。
誇りを傷つけても、生き延びるための言葉。
「……心得ております」
その声は、震えていないように見せた声だった。
震えているのは、きっと胸の内側だけだ。
レギュラスは、嬉しそうに笑った。
褒める声の形をした、確認。
「いい返事ですね」
彼は杖を軽く回し、まるで次の授業に移る教師のように言う。
「では、次は“膝の折り方”からいきましょうか。
あなたがこの屋敷で何を守りたいのかは知りませんが――守りたいなら、まず僕の前で正しく跪けるようにならないとですよ」
エルヤの視界の端で、指導役の執事が一歩進む。
淡々と、容赦なく、指示を出す準備をする。
エルヤは腕の熱を抱えたまま、ゆっくりと膝を折った。
石床に膝が触れる冷たさが、胸の内側の火をさらに燃やす。
屈辱。
怒り。
それでも――生きる。
アランのそばにいるために。
いつか、帰るために。
レギュラスはその姿を見下ろしながら、微笑みを崩さなかった。
黒い屋敷の中で、翡翠の宝石を閉じ込めるための“鍵”が、今、ひとつ完成したのだと――確信する微笑みだった。
その日から、アランは“学ぶ”ことを命じられた。
学ぶ――という言葉の柔らかさは、この屋敷では欺瞞に近い。
それは指導という名の躾だった。
黒い屋敷に相応しい形へ、彼女を削り、磨き、馴染ませる作業。
翡翠を黒檀の箱に収めるための、丁寧で残酷な手順。
最初に与えられたのは語学だった。
翻訳呪文があるのに、なお英国語を叩き込まれる。
単語。発音。敬称。言い回し。沈黙の置き方。
それらは会話のためではない。
“正しく従うため”に必要な形だ。
「繰り返してください」
冷静な教師の声が響く。
アランの舌がもつれる。
母国の言葉の滑らかさは、この国の固い音の並びとは違う。
歯の隙間で、喉の奥で、硬い石を転がすような感覚。
それが屈辱だった。
次は食事。
銀食器の持ち方。フォークの角度。ナイフの引き方。
一口の大きさ。噛む回数。飲み込むタイミング。
皿の上に残していいもの、残してはいけないもの。
グラスを置く位置。視線を落とす場所。
何を口に運ぶかより、どう口に運ぶか。
身体を“この国の形式”に縫い付ける。
「違います、もう一度」
淡々と訂正が飛ぶたび、アランの頬が熱くなる。
怒りではない。恥と屈辱の熱だ。
礼儀作法はさらに広がった。
挨拶の角度。歩幅。階段の上り方。扉の開け方。
笑みの浮かべ方。言葉を言い切らない癖。
沈黙の意味。質問の受け取り方。
――この屋敷では、言葉以上に“態度”が命令される。
アランは何度も、呼吸を整えようとした。
けれど、胸の奥にあるのは嫌悪と恐怖だ。
慈しみの心を媒介にするはずの封印の血が、こんな場所で何を学べというのか。
それでも、彼女は折れない。
折れないのは、強いからではない。
強くいなければ、エルヤが消されると知っているからだ。
同胞が散らされると知っているからだ。
そして何より――帰りたいからだ。
その帰りたいという望みだけが、彼女の背骨を支えていた。
そして支えは、もう一つある。
エルヤが側にいるから、何とか乗り切れた。
彼もまた、別の場所で礼法を叩き込まれているはずなのに、アランの学びの時間には“付き添い”として呼ばれた。
それがレギュラスの趣味なのか、計算なのかはわからない。
だが、呼ばれたことが救いであるのは確かだった。
嫌な指示が飛んでくるたびに、アランは視線を逸らすようにエルヤを見る。
指導役の冷たい声を真正面から受け止めれば、自分が壊れてしまいそうになるから。
エルヤの存在だけが、ここが現実だと教えてくれる。
エルヤの瞳が、言葉ではなく目で言う。
――頑張れ。
――生きろ。
――ここで終わらせるな。
アランはその目を見て、唇を噛み、また銀食器を持ち直した。
手が震えていても、指先に力を込める。
視線を落とす。呼吸を整える。
何度でも繰り返す。
休憩が挟まれた。
教師や使用人が部屋の端へ退き、短い沈黙が落ちる。
そこに残るのは、黒い部屋と、二人だけの呼吸。
アランは椅子の背から身体を少しずつ解放し、肩の力を抜いた。
息が詰まっていたのだと、そのとき初めて気づく。
胸が痛いほどに空気を吸い込み、ゆっくり吐く。
エルヤが近づき、隣の席に腰を下ろす。
彼の腕に刻まれた黒い紋様が、袖口から僅かに覗いた。
その印を見るだけで、アランの胸が締め付けられる。
自分のせいだ。自分が生きるために、彼は縛られた。
アランは何も言えず、ただエルヤの肩に額を寄せた。
ほんの少し寄りかかるだけで、目の奥が熱くなる。
故郷の風が蘇る。
イェルスの草の匂い。
水の音。
夜に浮かぶ星の輪郭。
二人で寄り添って、言葉がなくても通じた日々。
まるで、あの美しい自然の中で肩を寄せていたときみたいに。
同じように、この部屋でもエルヤに寄りかかる。
「……ここは息が詰まるね」
アランが故郷の言葉で囁くと、エルヤも同じ言葉で返した。
母国語は柔らかく、舌に馴染む。
それだけで泣きたくなるほど、安心する。
「でも、見て。君はまだ光ってる」
エルヤが小さく笑う。
その笑みは疲れているのに、優しい。
アランは首を振り、泣きそうな声で答えた。
「光ってなんかない。……ただ、消えたくないだけ」
エルヤはアランの手を取った。
温かい手。
この屋敷の黒の中で、唯一ちゃんと温度を持っているもの。
「アラン」
彼が真剣な声で言う。
故郷の言葉で、祈りのように。
「必ず帰ろう」
その一言が、胸の奥の何かを強く叩いた。
帰る。
帰る。
帰る。
アランは頷いた。
涙が滲む。だがそれを落とさないように、瞬きをゆっくりする。
「ええ」
声が震える。震えてもいい。今だけは。
「絶対に」
二人の言葉が、黒い部屋の中で小さな火になる。
誰にも見えない場所で、誰にも奪われない場所で、誓いが形になる。
やがて遠くで、扉の向こうがわずかに動く気配がした。
休憩が終わる合図だ。
現実が戻ってくる。
アランはエルヤから身体を離した。
名残惜しいほどに。
けれど、離れるときに彼の目を見る。
――頑張れ。
その目がまた言う。
アランは小さく頷き、背筋を伸ばした。
銀食器の冷たさに、指先をもう一度慣らす。
言葉の硬さに、舌をもう一度慣らす。
礼儀という檻に、身体をもう一度押し込む。
帰るために。
そしていつか、イェルスの風の下で、この時間を笑い話にするために。
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