1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
レギュラスは、早かった。
アランが口にした“条件”は、翌日には揃えられていた。
誓約の対象――海上を渡る魔法兵の結界。
媒介の印――術式班が夜を徹して描いた導線。
封緘句――彼女が与えた“型”を忠実に写し取った発声の手順。
そして、代償。
代償だけは、あまりにも簡単に決まった。
「犠牲は、血の量を増やしましょう」
そう言ったのは、レギュラスだ。
まるで紙の量を増やすような軽さで。
まるで税率を調整するみたいに。
アランはその言葉に反射的に背筋を強張らせたが、同時に理解もした。
彼にとって“血”は道具だ。
痛みは、痛む側の問題でしかない。
それでも、拒むことはできない。
拒めば、エルヤに会えない。
拒めば、捕虜たちがどうなるかわからない。
拒めば、イェルスは永遠に焼け野原のまま、記憶の中だけの国になる。
だから、頷くしかない。
海へ出る艦隊の前、術式区画の広い円形の床に、結界の陣が描かれていた。
銀色の粉が光の筋を作り、刻まれた符号が幾重にも重なり、まるで巨大な蜘蛛の巣のように広がっている。
魔法灯の光は冷たく、石床の上に影が落ちるたび、模様が生き物のようにうねって見えた。
その中心に置かれた椅子に、アランは座らされる。
拘束は“必要最低限”だけ。
手首は自由だが、立ち上がれない。逃げられない。
逃げようとする意思すら、ここでは現実にならない。
横に、白衣の医務魔法使いが控えていた。
その手つきは落ち着いていて、器具は清潔で、針先は銀色に光る。
治癒の準備が整っていることが、余計に恐ろしい。
治癒できるからこそ、どれだけ血を抜いても“続けられる”。
レギュラスが、円陣の外側からゆっくり歩いてくる。
「治癒はこちらで最高峰の医務魔法使いを手配できますので」
丁寧な口調。
親切の形をした支配。
「安心してどうぞ」
アランはその言葉を飲み込んだ。
安心などできるはずがない。
だが、ここで彼に噛みついたところで何も変わらない。
変えられるのは――自分が“完全に見える封印”を作り、そこに真の条件を落とさないことだけだ。
医務魔法使いが腕に布を巻く。
血管を浮かせるための圧迫。
皮膚が締め付けられ、脈が強く打つ。
針が入る瞬間、アランは目を閉じなかった。
目を閉じたら、イェルスの光景が浮かぶからだ。
焼け野原。悲鳴。緑の閃光。両親の倒れる音。
それを思い出すたび、心が崩れそうになる。
針が刺さる。
鋭い痛み。
次いで、熱が引かれていく感覚――自分の中のものが、外へ流れていく感覚。
透明な管を伝って、赤が溜まっていく。
それは“命”の色だった。
だがここでは、ただの“材料”の色。
アランは唇を強く結び、息を整えた。
これが終われば、エルヤに会える。
それだけを、胸の奥で繰り返す。
祈りではない。誓いでもない。
生き延びるための、唯一の手綱。
会えたら――
彼と共にここを去りたい。
イェルスに戻って、また一からやり直したい。
父と母はもういないけれど。
自分たちが子を作り、父と母になればいい。
焼け落ちた大地に、新しい家を建てればいい。
倒れた木々の代わりに苗を植えればいい。
あの自然に囲まれた美しい地を、取り戻したい。
そして、捕虜たちも全員解放してやりたい。
散り散りにされた同胞を、もう一度集めたい。
泣いている子どもを抱きしめ、老いた者に火を分け、傷ついた者の名を呼びたい。
自分たちの帰る場所は、イェルスだ。
あの大地こそ、帰る意味がある。
土と風と、水と星が、まだ自分の中に残っている。
――だから、ここで終わらせる。
アランは顔を上げ、円陣の中心を見据えた。
術式班が配置につき、魔法兵が杖を掲げる。
海上結界の骨格となる魔力が、外側からじわじわと立ち上がってくる。
空気が震え、光が薄い膜を作り、見えない壁が生まれ始める。
その上に、彼女の血が流し込まれる。
アランは“媒介の印”を目で追った。
自分が言った通りの形。
彼らは忠実だ。徹底的だ。
だからこそ、嘘も通る。
封緘句を唱える段になり、アランは静かに口を開いた。
音。
型。
呼吸。
間。
彼女は“基本形”だけを滑らかに紡ぎ、意味の核を避けて、完璧に聞こえるように整える。
声は震えない。
震えさせない。
血が抜かれていくのに、頭は冴えていく。
体温が少しずつ下がり、指先が冷たくなり、視界の端が白く霞む。
それでも、声だけは整え続ける。
“完璧に見える封印”をかけていく。
結界が厚くなる。
光の膜が強くなる。
術式が自分で補正を始め、歪みが消え、波の揺れに追随するように滑らかに馴染んでいく。
周囲から、抑えきれないざわめきが起こった。
驚嘆。
歓声に近い息遣い。
誰かが「素晴らしい」と呟いたのが聞こえる。
レギュラスの視線が、アランに注がれているのがわかった。
満足。確信。所有の影。
だがアランは、その視線を見返さない。
見返したら、負ける。
負けた瞬間、真名を奪われる気がした。
血の量が増える。
管の中の赤が濃く、重くなる。
胸が苦しくなる。
呼吸が浅くなる。
医務魔法使いが素早く杖を振り、傷と痛みを麻痺させ、意識を繋ぎ止める。
「大丈夫です」と低く言う声が遠い。
大丈夫ではない。
でも、倒れてはいけない。
倒れたら終わる。
終わったら、エルヤに会えない。
アランは最後の一節を、さらに丁寧に整えた。
本物の“鍵”を差し出さないまま、扉が閉じたように見せる。
それが彼女の戦い方だった。
結界が完成した瞬間、空気が“密閉”に近い感触を持った。
外の風が、音もなく弾かれる。
海の気配が遠ざかる。
周囲が息を呑む。
レギュラスの足音が近づき、彼女の前で止まった。
「見事です」
その声は、やけに柔らかい。
「あなたは本当に……賢い」
アランの視界が揺れた。
血を失ったせいだ。
それでも彼女は、かろうじて頷いた。
これが終われば、エルヤに会える。
胸の奥で、その言葉をもう一度だけ繰り返す。
言葉が、細い糸になって意識を繋ぐ。
イェルスへ帰る。
彼と帰る。
同胞を解放する。
その未来だけを抱きしめながら、アランは冷えた指先で自分の“本当の名”を、喉の奥に深く沈めたまま――
静かに息を吐いた。
素晴らしかった。
結界の光が完全に落ち着いた瞬間、港湾区画に満ちていたざわめきが、息を呑む沈黙へ変わった。
それは成功を確かめるための沈黙ではない。目の前で起きたものが“常識の外側”にあると理解した者たちが、言葉を失う沈黙だった。
術式を唱えるアラン・セシールの姿は、誰もが目を奪われていた。
血を抜かれながら、声を乱さず、呼吸の間を狂わせず、儀礼の型を崩さない。
ひとつの音が落ちるたびに光が厚みを増し、印が生き物のように反応し、結界が自ら補正を始める。
術式班が何度も見てきた結界とは、根本から違う。
彼らは見ているのに理解が追いつかない。理解が追いつかないから、ただ見惚れる。
犠牲のために血を流す姿さえ、神聖な美しさがある。
頬の白さ。
睫毛の影。
血が管を伝っていく赤の濃さ。
それらがどれも、魔法灯の冷たい光の下で不気味なほど整ってしまう。
憎しみを宿した翡翠の瞳すら、宝石のように澄み、神殿に祀られる像のような静けさを纏う。
どこを取っても、美しい女だった。
――これで、英国は崩れない防御を手に入れた。
海からでも、陸からでも。
どれほど魔力をぶつけられようと、艦隊は沈まない。輸送路は途切れない。上陸は安全になる。
防御に割いていた兵を攻撃へ回せる。
攻撃へ回せば、征服の速度は上がる。
速度が上がれば、恐怖が追いつかないうちに世界は塗り替わる。
世界中が、もはや英国そのものになる日だって近いかもしれない。
レギュラスは胸の奥でその未来を描きながら、表情を崩さなかった。
彼が勝利を確信するときほど、声は穏やかになり、仕草は丁寧になる。
興奮は滲ませない。興奮は管理するものだ。
そして、管理できる者だけが世界を管理できる。
結界が完全に定着したのを見届けると、彼は静かに円陣へ歩み寄った。
兵たちが道を開ける。術式班が息を止める。
その中心にいるアランは、最後の音を落とし終えたところだった。
糸が切れる直前の人形のように、ふらりと身体が揺れた。
血を流しすぎたのだ。
顔色が白い。唇の色が薄い。
それでも彼女は倒れまいとしている。
倒れたら負けだと思っている目をしている。
その意地が、また美しい。
レギュラスは迷いなく手を伸ばし、肩を支えた。
指先が衣装の布を掴み、体温の低下を直に感じる。
彼女は一瞬だけ身を強張らせたが、抵抗する力は残っていない。
怒りがある。憎しみもある。
それでも、身体だけは“支えられる”ことを受け入れてしまう。
その瞬間が、ひどく甘い。
「よくやりましたね、アラン・セシール」
囁くような声だった。
褒めているのに、慰めているのに――それは労いではない。
成果に対する所有の確認だ。
“君が成したのではない、僕が成させた”という宣言に近い。
アランは焦点の合わない瞳で、レギュラスを見上げかけ、すぐに逸らした。
屈辱を噛み潰す動き。
唇が僅かに震える。
それすら、彼にとっては愉悦だった。
英国の服装が、よく似合う。
イェルスの粗い衣服を脱がせた瞬間に跳ね上がった美しさが、今は確信に変わっている。
この国の布、この国の装飾、この国の光。
それらが彼女を“正しい場所”に置いたように見せる。
まるで最初から、この国のために存在した女のように。
レギュラスは肩を支えたまま、結界を見上げた。
光は厚く、揺らぎは少ない。
海風が当たっても、膜がびくともしない。
完成だ。目標は達成された。
素晴らしい。
これ以上なく、素晴らしい。
彼は唇の端に穏やかな笑みを浮かべ、低く言った。
「これで、我々は海を恐れなくていい」
それは軍人に向けた宣言でもあり、世界に向けた予告でもあった。
そして同時に、腕の中の女に向けた、静かな命令でもある。
――君は、もう戻れない。
戻れないほどに、役に立ちすぎた。
美しすぎた。
価値がありすぎた。
レギュラスはアランの肩を支えながら、彼女の耳元にだけ届く声で、柔らかく、しかし逃げ道のない調子で言った。
「約束は覚えていますよ。……終われば、会わせます」
“会わせる”。
主語は彼だ。選ぶのは彼だ。許可するのは彼だ。
アランの喉が小さく動いた。
その反応を確かめるように、レギュラスは指先に少しだけ力を込めた。
逃げようとするなら、逃がさない。
倒れるなら、倒れさせない。
この成果を生んだ女を、今ここで壊す気はない。
壊すのはいつでもできる。
だから、今は――
満足のままに支える。
世界を手に入れた満足と、翡翠の瞳を腕の中に収めた満足を、同じ呼吸で味わいながら。
扉が開く音は、あまりにも静かだった。
けれどアランの胸の中では、それが雷鳴みたいに鳴り響いた。
“終わったら会わせる”――その言葉が本当に果たされるのか、最後まで信じ切れなかった。信じてしまったら、その瞬間、彼に縛られる気がしたから。
案内されたのは、地下牢の湿った暗がりではない。
小さな控室だった。壁は石のままなのに、灯りは柔らかく、床はきちんと清められている。
特別待遇。
その言葉の意味が、ここでやっと形になる。
椅子が一つ。
その前に立つ兵の影。
そして――
扉の向こうに、彼がいた。
エルヤ・ナイーム。
顔を見た途端、涙が出た。
自分でも驚くほど、止まらなかった。
目が熱くなって、視界が滲み、喉が詰まって、息が震える。
彼の名を呼ぼうとしたのに、声にならない。
ただ、唇が動いて、涙だけが落ちる。
エルヤは一瞬、息を呑んだ。
次の瞬間には、足を踏み出していた。
鎖はない。けれど見張りの目がある。その中で、彼は迷いなくアランに近づき、両腕で抱きしめた。
強く。
壊れものを扱うみたいに慎重で、それでも離したくないみたいに強く。
「……生きてた」
耳元で、掠れた声が震えた。
怒りでも恐怖でもない、ただの安堵の音。
抱きしめられた瞬間、アランはさらに泣いた。
胸の奥がほどける音がした。
何度も抱きしめられたはずなのに、遠かった。
ほんの数日離れただけで。
世界の終わりのように思えてしまった。
「ごめん」
アランは喉の奥から絞り出すように言った。
何に対しての謝罪なのか、自分でもわからない。
彼を守れなかったことか、自分が折れたように見せたことか、祖国を奪われたことか。
全部かもしれない。
エルヤは首を振り、抱きしめる腕をさらに強くした。
「謝るな。……君がここにいるのが、もう」
言葉が途中で途切れる。
それ以上言えば、心が崩れるのをわかっている声だった。
アランは彼の胸に額を押しつけ、涙を隠すように息を吸った。
彼の匂いがした。土と煙の匂いではない。
ここで強制的に洗い流された、石と水の匂い。
それでも、確かに彼だった。
――生きている。
それだけで、胸の奥の暗闇が少しだけ薄くなる。
だが、長くは抱きしめていられない。
この部屋にも、見張りの目がある。
時間は“許可された時間”でしかない。
アランは自分から腕をほどき、彼の顔を両手で確かめるように触れた。
頬の骨。口元。目の下の影。
痣はない。血の跡もない。
けれど疲労が、彼の瞳の奥に沈んでいる。
「ひどいこと、されてない?」
問いは震えた。
恐ろしくて、答えを聞きたくなくて、それでも聞かなければならない。
エルヤは低く笑った。笑えないのに笑う人間の表情で。
「特別待遇らしい。……君のおかげでな」
その言い方が、刺さった。
アランは唇を噛んだ。
“おかげ”なんかじゃない。
“取引の道具”にされたのだ。
だからこそ、言わなければならない。
アランは周囲の気配を一度だけ確かめ、声を落とした。
息の音に紛れるほど小さく。
それでも、彼にだけは届くように。
「エルヤ」
呼ぶだけで胸が痛い。
「……私、嘘をついた」
エルヤの眉が僅かに動く。
理解が追いつく前の、警戒の形。
「レギュラス・ブラックに、取引をしたふりをした。完璧な封印に必要なものを、全部は渡してない」
言葉が早くなる。
時間がない。許可された時間は短い。
そして何より、嘘が露呈する前に動かなければならない。
「血の量を増やして、見た目だけは完璧にした。……でも、本当の“最後”は渡してない。完璧に見えるようにしただけ」
エルヤの目が、真っ直ぐにアランを射抜いた。
怒りではない。驚きでもない。
――誇りと、恐怖と、理解。
「……ばかだ」
低い声で言って、彼はすぐに首を振った。
「いや。ばかじゃない。……賢い。君らしい」
アランの喉が詰まり、涙がまた落ちそうになるのを必死で堪えた。
「聞いて」
アランはエルヤの袖を掴む。
離したくない。けれど、いま掴むのは彼の腕ではなく未来だ。
「同胞を連れて、イェルスの地に帰りたい」
言葉が、願いの形で震える。
「散り散りにされてる。部署に作業手として配属されたって……聞いた。生きてる。だから、連れて帰れる。私たちの帰る場所はここじゃない。イェルスだよ。あの大地に戻らないと」
エルヤの目に、炎のような光が灯った。
それは復讐の炎ではなく、帰郷の炎。
焼け落ちた場所を取り戻すための火。
「……結界は」
エルヤが短く問う。
彼は本質を掴むのが早い。
生き残るための頭を持っている。
アランは頷いた。頷きながら、心臓が痛いほど鳴った。
「はりぼて」
言葉が苦い。
自分の嘘が、同時に世界の危機にもなることを理解しているから。
「完璧に見える。でも長くは持たない。歪みが出る。誰かが気づく。……嘘が露呈する前に、ここから出なきゃいけない」
エルヤの拳が握られる。
爪が掌に食い込むほど強く。
「いつ」
「すぐ」
アランは迷わず言った。
迷えば終わる。迷いは死ぬ。
「私が“完璧”を作ったふりをした瞬間から、時間はもう減り続けてる。彼らが確認を重ねれば重ねるほど、壊れ方も早くなる。だから――」
言いかけたところで、扉の外の足音が近づいた。
許可された時間が終わる音。
アランの背筋が凍る。
泣きたい。叫びたい。
でも今は、泣く時間じゃない。
エルヤはアランの肩を掴み、額をこつんと触れさせた。
短い、けれど確かな接触。
誓いの代わりみたいな接触。
「俺は、君を連れて帰る」
声が震えていた。
でも、その震えは恐怖じゃない。
決意の震えだ。
「同胞も。……全員」
アランの目が熱くなる。
それでも頷く。
泣くのはあとだ。
扉が開きかける気配がした。
見張りの気配が鋭くなる。
アランは最後に、もう一度だけ彼を抱きしめた。
短く。必死に。
離れるために抱きしめる抱擁。
「生きて」
囁いた。
「絶対に」
エルヤは抱き返し、耳元で低く答えた。
「君も」
その瞬間、扉が開き、冷たい空気が差し込む。
現実が、二人を引き剥がす。
アランは涙を拭う暇もなく背筋を伸ばし、顔を上げた。
翡翠の瞳に残る熱を押し込め、もう一度“捕虜”の顔を作る。
けれど胸の奥には、確かに火が灯っていた。
――帰る。
――嘘が露呈する前に。
――この国の光の中ではなく、イェルスの風の中へ。
はりぼての完璧な結界が崩れるより先に、彼女は必ずこの場所を抜け出す。
その決意だけが、今のアランを立たせていた。
廊下の空気は、冷たい石の匂いがした。
磨かれ、清められ、秩序のために整えられた匂い。――この国の匂い。
アランは壁際に身を寄せ、息を殺した。
遠くで靴音が反響している。交代の時間。巡回の間隔。
規則正しさは隙になる。規則は、読める。
胸の奥で、ひとつだけ名前を握りしめる。
エルヤ。
待ち合わせの場所。
そこへ辿り着けば、終わりではない。始まりだ。
杖はない。
けれど、杖は必要ない。
それがイェルスの祈りであり、呪いであり、魔法だった。
アランは両手を胸元に添える。指先を重ね、呼吸を整える。
喉ではなく、肺の奥で言葉を形にする。
言葉は音ではなく、意志だ。
意志は大地に触れる。
大地は、返す。
唇が静かに動いた。
「……」
聞き取れないほど小さな、儀礼語。
それは英国の耳にはただの囁きだ。
けれどアランの中では、血を通って骨に触れ、骨から世界へ滲む。
まず、霧。
床の冷気がふっと持ち上がった。
目には見えないはずの湿りが、白い息のように形を成し、廊下の隅から滲み出す。
細い霧が、糸のように絡み、やがて一息のうちに濃くなった。
濃い霧を呼び寄せる。
霧は壁の装飾を曖昧にし、灯りの輪郭を溶かし、見張りの視線の道筋を塞ぐ。
ただ視界が悪くなるだけじゃない。霧は、音も吸う。足音の反響が鈍り、距離感が狂う。
次に、結界の“薄い膜”を撫でる。
この地下には、常に一体に漂う結界がある。
逃亡を阻むための、気配を探るための、術式の網。
アランはそれを“壊す”のではなく、“眠らせる”。
指先が空を切る。
肌の上を滑る見えない糸をほどくように、儀礼語を重ねる。
結界が、一瞬だけ鳴った。
低い、耳では聞こえない音。
魔力の膜が、すっと力を抜く。
一体に漂う結界を無効化させる。
長くは持たない。
わかっている。これは強引な突破ではなく、隙間を開けるだけの細工。
それでも――今は、数分が必要だ。
そして最後に。
アランは目を閉じ、脳裏に“混乱”そのものを思い描いた。
方向がわからなくなる感覚。
正しい判断が溶ける感覚。
恐怖と焦りが、互いに互いを食い合って増幅していく感覚。
それを、霧に乗せて流す。
「……眠れ。迷え。疑え」
儀礼語は、呪いでもある。
優しい祈りが、時に刃になる。
刃は必要な時だけ抜く。それがイェルスのやり方だった。
監視兵たちに錯乱呪文をかける。
霧の奥、足音が近づいた。
影が二つ。
兵たちが霧の中へ踏み込んだ瞬間――
「……何だ、これ」
声が揺れる。
次いで、別の兵の声。
「灯りが……位置が違う。いや、こっちだ、違う、戻れ……」
方向感覚が崩れていく。
互いの声を互いが疑い始める。
「おい、誰かいるのか? ……おい!」
霧が、彼らの言葉を飲み込みながら、さらに濃くなった。
アランはその隙に、身体を滑らせるように動く。
鎖の音を立てないように。衣擦れの音を霧に紛らせるように。
息は浅く、鼓動だけがうるさい。
部屋を抜け出す。
石の回廊。曲がり角。階段の影。
この国の地下は迷路のようで、けれど規則がある。
規則があるなら、読める。
アランは待ち合わせの場所へ向かった。
胸の奥で、何度もその場所をなぞる。
扉の数。右、左、直進。――ここ。
霧が背中にまとわりつく。
錯乱が続いている気配が薄れる。
結界の膜が、再び張りを取り戻し始める感触。
焦りが喉に絡みついた。
そのとき、影が動いた。
「アラン!」
声がした。
英国語ではない――イェルスの響きを含んだ呼び方。
耳がその音を拾った瞬間、身体の芯がほどける。
エルヤ・ナイームがいた。
彼はアランの手を掴む。
迷いなく、強く。
その手が暖かい。人の体温が、こんなにも救いになることをアランは知らなかった。
「エルヤ……急いで。みんなを探しましょう」
息が切れた声で言う。
言葉は短いのに、願いが詰まっている。
エルヤは頷き、彼女の手を引いた。
いつも導いてくれるこの手に、また救われる。
けれど。
霧が薄い。
錯乱の響きが、もう弱り始めている。
杖を使わない自分たちの放つ呪文は弱い。
それが現実だった。
美しいイェルスの土地に、強い呪文なんて要らなかった。
あの土地全体が魔法のような美しさに溢れていたのだから。
ほんの少し生活を豊かにする程度の呪文で、事足りた。
火を起こす。水を清める。霧を呼ぶ。痛みを和らげる。
それで十分だった。
だからこそ。
今、この石と鉄と結界の国で、自分の魔法の弱さが無力感として突き刺さる。
霧は晴れかけ、錯乱呪文の糸がほつれ、無効化したはずの結界もまた強度を上げ始める。
空気が、再び“張る”感覚。
膜が戻る。
追跡の目が戻る。
アランの喉がきゅっと締まった。
「……まずい」
呟いた瞬間、エルヤが彼女の手を握り直した。
力強く、しかし優しく。
「アラン、大丈夫」
彼は息を整え、目を閉じた。
アランよりも深く、強く、魔法を“引く”ことができる人間の呼吸だった。
彼は同じく杖を持たない。
けれど、彼の意志は太い。
「僕がかけよう」
エルヤの指先が、空を撫でる。
霧の中に残った錯乱の残滓を拾い集め、結び直す。
まるで切れかけた糸を、もう一度強く撚り合わせるように。
低い儀礼語が、短く落ちた。
その瞬間――
霧が、再び濃くなった。
薄れていた白が厚みを取り戻し、灯りの輪郭が滲む。
兵の声が遠くで上ずり、怒鳴り声が違う方向へ飛ぶ。
「こっちだ! 違う、戻れ! ……どこだ!」
錯乱呪文の威力が上がる。
同時に、張り直されかけた結界の膜が、再び揺らいだ。
光の導線が歪み、探知の感覚が鈍り、追跡の網が一瞬だけ緩む。
結界も弱り始める。
アランは息を呑んで、エルヤの横顔を見た。
汗がこめかみに滲んでいる。
それでも、彼の目は揺れていない。
「……あなた」
声にならない感謝が胸に溢れる。
エルヤは振り返らず、ただ彼女の手を引く力を強めた。
「行くよ」
短い命令。
それは守る者の言葉だった。
二人は霧の中を駆けた。
石の床を、足音を霧に溶かしながら。
錯乱の波が保つ間に、結界が息を整え直す前に。
――同胞を探す。
――全員連れて帰る。
――嘘が露呈する前に、ここを出る。
アランの胸の奥で、イェルスの風が一瞬だけ吹いた気がした。
あの大地の匂いが、遠い記憶ではなく、帰るべき現実として息をし始めた。
霧の報告が机の上に置かれた瞬間、レギュラスはそれを“情報”としてではなく、“異物”として受け取った。
紙はただの紙だ。
インクはただのインクだ。
けれど、その数行が放つ違和感は、どんな血の匂いよりも濃かった。
霧が強い。
地下区画の視界が奪われ、巡回兵が錯乱。
探知結界が一部不安定。
――霧。
レギュラスは指先で報告書の端を挟み、ゆっくりと持ち上げた。
目は笑っていない。銀色の瞳の奥で、氷が静かに割れる音がした。
霧が出る条件を満たしていない。
この管理区画は乾いている。湿度は常に制御されている。
空調の流れは一定、温度差もない。
霧が立つのは、外気が流れ込む時。あるいは魔力の急激な冷却が起きた時。
それ以外に“自然な霧”が出るはずがない。
それなのに、こんな報告が上がる。
普通におかしい。
違和感しかない。
レギュラスは椅子から立ち上がり、執務室の扉を開けた。
柔らかな足取りのまま廊下を進む。
その歩き方が穏やかであるほど、周囲は音を失う。
彼の怒りは声ではなく、空気の密度で伝わる。
地下の管理区画――魔法兵管理部の統制室には、すでに呼び出しを受けた者たちが揃っていた。
指揮官のカシウス・ハロウ。
背筋は真っ直ぐ、表情は平板。だが目だけが鋭い。
この場で唯一、レギュラスの視線に耐えうる男だ。
その隣に、管理官がいる。
魔法兵管理部の施設統括――管理官ドリアン・アッシュクロフト。
細身で神経質そうな顔立ち、額に薄い汗。数字と規則を信仰して生きてきた人間の目。
さらに一段下がって、巡査官。
巡回隊の責任者――巡査官マルコム・グレイヴス。
頑丈な体躯に、現場の泥を知る眼差し。だが今は、その目が落ち着かない。
レギュラスは彼らの前に立ち、穏やかな笑みを浮かべた。
その笑みが、場を凍らせる。
「……霧が強い、ですか」
低い声。
問いかけの形をしているが、確認ではない。
“報告がここにある以上、あなたたちは言い逃れできませんよね”という宣告。
管理官アッシュクロフトが慌てて口を開いた。
「は、はい、長官。記録上も複数の区画で……視界が――」
「霧が出る条件を述べてみてください」
レギュラスが遮った。
柔らかく、けれど切断するように。
「ご存知でしょう。あなたたちなら」
指揮官ハロウは沈黙を保ったまま、状況を測っている。
一方で管理官と巡査官は、急に“試験”を受ける学生みたいに顔色を変えた。
管理官アッシュクロフトが、喉を鳴らしながら答える。
「……外気の流入による温度差、もしくは湿度の急上昇。あと、空調系統の停止、冷却魔法の暴発……」
「探知結界の魔力冷却が過剰になった場合も、霧状に見えることがあります」
巡査官グレイヴスが付け足す。現場の口調だが、言葉が上滑りしている。
レギュラスは頷いた。
ゆっくりと。
肯定ではなく、“そう言わせた”という満足の頷き。
「ええ、そうですよね」
そして、次の刃を静かに落とす。
「では今日はどうでした?」
短い一文。
だがそれは、今日の外気流入、湿度、空調、冷却術式、結界のログ――すべてを把握していない者を確実に詰ませる問いだ。
管理官アッシュクロフトの口が開いたまま止まる。
唇が乾き、目が泳ぐ。
「きょ、今日は……空調は正常稼働、湿度は規定範囲、外気流入は……封鎖記録上は、ありません」
「封鎖記録上?」
レギュラスが微笑む。
巡査官グレイヴスが噛みつくように答えた。
「巡回時、扉の封印痕に異常は見当たりませんでした。破られた形跡も……」
「つまり」
レギュラスは視線をゆっくり移し、三人を順番に見た。
最後にハロウに視線が止まり、ほんの一瞬だけ“理解者”の目になる。
だがすぐに、全員に等しく冷たい目に戻る。
「条件が満たされていないのに霧が出た、ということですね」
誰も反論できない。
反論した瞬間、己の無能を自白するだけだ。
レギュラスは静かに、しかし明確に結論へ踏み込んだ。
「おかしいんじゃありません?」
声が優しいのが、逆に恐ろしい。
彼は怒鳴らない。
怒鳴る必要がないほど、相手の逃げ道を塞ぐのが上手い。
管理官アッシュクロフトが青ざめ、巡査官グレイヴスが唾を飲む。
ハロウだけが、レギュラスの意図を理解したように、顎を引いた。
――霧は自然ではない。
――霧は意図的。
――意図を持てるのは、杖を使わない者たち。
――捕虜。
レギュラスは、柔らかな声音のまま命じた。
「イェルスの捕虜たちを全員、今すぐに集めなさい」
一切の躊躇を許さない命令。
“今すぐ”。
“全員”。
その二語だけで、逃げ道は消える。
「部署ごとに散っていようと関係ありません。引き抜いて構わない。必要な手続きは、僕が後で整えます」
整える――それは、この男の得意分野だ。
法と権限と署名で、どんな暴力も“正規の手続き”に変える。
レギュラスは最後に、笑みを消した。
銀色の瞳が、氷そのものになる。
「もし一人でも欠けていたら」
言葉が、低く落ちる。
脅しではない。確定した未来の宣告だ。
「あなたたちの“管理”が間違っていたということです。……理解しましたね?」
誰もが反射的に頷いた。
頷くしかなかった。
ハロウが一歩前に出る。
「長官。直ちに動かします」
「ええ。頼みます」
レギュラスは穏やかに返す。
だがその穏やかさは、獲物が罠にかかったことを確信した捕食者の静けさだった。
霧は、ただの霧ではない。
逃亡の始まりの匂いだ。
そしてレギュラスは、その匂いを嗅ぎ逃さない。
霧はもう、薄かった。
濃い白がほどけ、魔法灯の輪郭が戻り、石の床がはっきりと見え始める。
追跡の網が――この国の結界が――ゆっくりと息を吹き返していく感触が、皮膚の裏側にまとわりついてくる。
それでもアランは走った。
エルヤに手を引かれ、同胞の腕を掴み、名前を呼び、迷いなく角を曲がる。
見張りをかいくぐり、作業区画の隙間を抜け、幾つかの扉を破って――数人だけでも、引き抜いた。
呼吸が荒い。
喉が熱い。
心臓が痛いほど鳴っている。
けれど、同胞の顔がある。
怯えた目。怒りの目。泣きそうな目。
それらが“生きている”という証拠だった。
「……急いで」
アランは掠れた声で言い、背中を押した。
ここを抜ければ、まだ――まだ道はある。
嘘が露呈する前に、まだ逃げられる。
そう思った瞬間だった。
霧の向こう、廊下の端に、揃った足音が響いた。
規則正しい、軍靴の音。
数ではない。隊列だ。
光が走る。
結界が“目”を取り戻した合図。
次の瞬間、四方から魔法兵が現れた。
通路の入口、曲がり角、背後の扉――
まるで最初からそこにいたかのように、迷いのない配置。
杖が一斉に上がる。
銀の光が、矢のようにこちらへ向く。
「止まれ!」
怒号が霧を裂いた。
アランの身体が硬直するより早く、エルヤが一歩前に出た。
同胞を背に庇うように立ち、手を強く握り直す。
「……走れない」
アランの脳が冷たく言う。
ここで走れば、背中に呪文が飛ぶ。
走らなくても、飛ぶかもしれない。
それでも、足が動いたのは――同胞が後ろで息を呑んだせいだ。
子どもがいるわけではない。けれど、誰もが“逃げたい”目をしている。
その目を見たら、止まれなかった。
「行くよ!」
アランが叫ぶ前に、呪文が降ってきた。
容赦がない。
強い光が空気を裂き、皮膚を掠めた。
熱い。
焼けるような痛みが走り、次いで、じわりと遅れて痛覚が追いかけてくる。
身体の表面が、見えない刃でひっかかれたみたいに痛む。
熱が広がり、爛れるような感覚が肌にまとわりつく。
「……っ!」
悲鳴が上がった。アランの声ではない。
背後の同胞の誰かが、膝を折り、腕を抱えた。
また光が走る。
今度は床が跳ねた。
衝撃が足首から伝わり、鎖の冷たさを思い出す。
逃げ道が削られていく。足場が奪われていく。
「やめて!」
アランが叫んだ瞬間、別の叫びが重なった。
「―― アラン!」
その声に、心臓が跳ね上がる。
エルヤだ。
彼はアランの腕を掴み、引き寄せ、盾のように前へ立つ。
だが、光の数が違う。
兵たちは迷いなく距離を詰め、包囲を狭めてくる。
霧の残りが、まるで逃げ場のない檻の白さに見えた。
アランは息を吸い、喉が裂けるほど叫んだ。
「エルヤ!」
名を呼ぶだけで、胸が痛い。
名を呼ぶたびに、ここにいることが現実になる。
彼が狙われる現実が、濃くなる。
――その直後だった。
同胞のひとりが、前に出た。
誰よりも先に、身体を投げ出すように。
杖はない。けれど指先が鋭く走り、彼らの古い祈りの形が空気を揺らした。
弱いはずの魔法が、必死の意志で形になり、兵たちの足元の霧を爆ぜさせる。
一瞬、包囲が揺らいだ。
「今だ!」
誰かが叫ぶ。
アランが同胞を押し出そうとした、その瞬間――
ひときわ強い呪文が放たれた。
細い閃光。
音もなく、一直線に。
それは、迷いなくその同胞を貫いた。
一瞬だった。
彼の身体がわずかに反り、目が見開かれ、声にならない息が漏れ――
そのまま地面に倒れる。
石床に打ち付けられる鈍い音。
そして、動かなくなる。
時間が止まったみたいだった。
アランの喉が勝手に鳴り、足が勝手に彼へ向かった。
膝が床につく。手が震える。
倒れた身体に触れる。熱が、薄い。
脈を探す指先が、空を掴む。
「タヤ……?」
名前が、口から零れ落ちる。
まるで、名前を呼べば戻ってくるみたいに。
「タヤ。しっかりして……タヤ!」
声が裏返る。
涙が滲む。
視界が揺れる。
だが、返事はない。
胸が上下しない。
世界が、また焼け野原の色を帯びる。
「アラン!」
エルヤの声が、鋭く飛んできた。
彼はアランの肩を掴み、無理やり引き上げようとする。
その手が震えている。怒りではなく、恐怖と焦りで。
「抵抗をやめて!」
その言葉が、刃のように刺さった。
「今は従うんだ。――それが一番、傷つけられない」
従う。
その単語が、アランの誇りを削る。
けれど、現実はもっと残酷だった。
杖が一斉に向けられている。
次は誰が倒れる?
次は、どの同胞が?
次は、エルヤが?
アランの喉が詰まり、唇が震えた。
足元にはタヤが倒れている。
助けられない。今ここで助けようとすれば、全員が終わる。
アランは歯を食いしばった。
血の味がした。
ゆっくりと両手を上げる。
指先が震え、肩が痛み、皮膚の焼ける感覚がまだ残っている。
その痛みは――屈辱の形をしていた。
同胞たちも、次々に手を上げる。
誰かが泣き、誰かが歯を食いしばり、誰かがタヤを見て嗚咽を漏らす。
それでも、倒れない。立っている。
兵たちが近づき、無遠慮に腕を捻り、押さえつける。
乱暴に、容赦なく。
アランの皮膚にまた熱が走り、痛みで視界が白くなる。
「……動くな」
命令が落ちる。
アランはエルヤの方を見る。
彼は唇を噛み、目だけで“生きろ”と言っていた。
怒りに燃えているのに、今はそれを押し殺している目だった。
――ここで死ぬわけにはいかない。
――ここで折れても、終わりじゃない。
アランは胸の奥で繰り返す。
タヤの体温が消えていく感覚が、背中を押す。
ここで終わらせないために、いまは従う。
兵たちが列を作り、捕縛の輪が閉じていく。
アランは最後にもう一度だけ、床に倒れたタヤを見る。
名前を呼びたい。抱きしめたい。連れて帰りたい。
でも、喉から出たのは声ではなく、息だけだった。
そしてアランは、エルヤの手の温かさをもう一度だけ思い出して――
その温かさを失わないために、唇を噛みしめたまま、連行される列へ足を踏み入れた。
報告は、重なるときほど“音”を持つ。
紙が机に置かれる乾いた音。
封緘蝋を剥がす指先の擦れる音。
そして、読み終えたあとの沈黙が――一番うるさい。
レギュラスは執務机の上に並んだ三通の報告書を、順番に指先で滑らせた。
インクの匂い。紙の繊維。封印術式の痕跡。
どれもいつも通りの、管理された秩序の匂いだ。
だが内容だけが、異物だった。
イェルスの捕虜たちが、配置先から一斉に姿を消しかけたこと。
アラン・セシールとエルヤ・ナイームが、逃亡を企図していたこと。
そして――海上に張った結界が揺らぎ始めたこと。
最後の一文に目を落とした瞬間、レギュラスの口元が、ゆっくりと歪んだ。
笑いが出た。
喉の奥で、低く短い笑いが転がる。
楽しげでもなければ、苛立ちの爆発でもない。
“なるほど”と腑に落ちたときにだけ出る、冷たい愉悦の音。
「……ずいぶんと命知らずですね」
誰に言うでもなく呟く。
室内には、暖炉の火の弾ける音と、遠くの魔法灯の微かな唸りだけが返事をする。
大胆なことをしてくれた。
あの女は最初からそれが目的だったのだ。
今になって、輪郭が一気に鮮明になる。
あの翡翠の瞳。屈辱を噛み殺しているようでいて、どこかで必ず芯を折らなかった瞳。
条件を並べ、手順を語り、言葉を整え、そして“完璧”を差し出した――その顔の裏側。
ほんの一瞬の隙を見て、逃げようとした。
逃げ押せるわけもないくせに。
弱いものこそ悪あがきが見苦しい。
そう思うはずなのに、胸の奥に灯るのは嫌悪より先に、奇妙な満足だった。
――やるじゃないですか。
完璧に整えられた結界を、自分は確かに見た。
光の膜が安定した瞬間の、あの“密閉”の感触。
術式の導線が震えながら自己補正を始めた、あの完成度。
ほんの一瞬だったようだが、それでも確かに舌を巻いた。
そして、褒めた。
「見事です」
「あなたは賢い」
その言葉を、あの女はどう受け取ったのだろう。
屈辱か。勝利か。あるいは、薄い希望か。
言われたものを整え、正しいとされた手順を踏んだ。
――だが、その“正しさ”そのものが、罠だったのだ。
最初からこちらを騙す気でいたのだろう。
なかなかやる女だった。
このレギュラス・ブラック相手に。
紛い物で取引に応じようなんて。
よほどの命知らずか、馬鹿か。
あるいは――
レギュラスはそこで一度、思考を切った。
余計な解釈は不要だ。
必要なのは、次に打つ手だけ。
彼はベルを一度鳴らした。
呼び出しの音が短く響く。
扉が開き、秘書官が顔を覗かせるより先に、レギュラスは淡々と命じた。
「ハロウ指揮官を。今すぐ」
声は穏やかで、滑らかだった。
だからこそ、背筋が冷える。
ほどなくして、石床に靴音が近づく。
指揮官カシウス・ハロウが、常と変わらぬ平板な表情で入室した。
その後ろに、施設統括の管理官ドリアン・アッシュクロフト。
巡回隊責任者の巡査官マルコム・グレイヴス。
三人とも、すでに事態の深刻さを理解している顔だった。呼び出しの速さだけで、わかる。
レギュラスは椅子に座ったまま、報告書を一枚ずつ指先で叩く。
「状況は把握しましたか」
「はい、長官」
ハロウが先に答える。声は揺れない。
管理官アッシュクロフトは額に汗を浮かべ、巡査官グレイヴスは奥歯を噛みしめている。
海上結界の揺らぎ――それは失点ではなく、国家の喉元に触れる危険だ。
彼らが青ざめるのも当然だった。
レギュラスは笑みを残したまま、視線を上げた。
「面白いですね」
その一言で、室内の温度が下がる。
「捕虜たちが動いた。アラン・セシールとエルヤ・ナイームが逃げた。
そして結界が揺らぎ始めた」
指先が報告書の端をなぞる。
まるで獲物の首筋を撫でるように。
「つまり、彼女は最初から“それ”を目的にしていた。あなたたちの網を、薄いところから裂きに来た」
管理官アッシュクロフトが喉を鳴らした。言い訳の準備が顔に浮かぶ。
だがレギュラスは、言い訳を許す空気を与えない。穏やかなまま、逃げ道を消していく。
「完璧に見える封印は、完璧ではなかった。
――そういうことですね」
誰も反論できない。
反論すれば、現状の揺らぎを否定することになる。
否定できない。
レギュラスは静かに息を吐いた。
怒りはない。少なくとも、表面には。
ただ、面白くて仕方がないという目をしていた。
思い通りに動く人間は退屈だ。
思い通りに“動こうとする”人間は、愉快だ。
その愉快さを、彼は躊躇なく踏み潰せる。
「逃げ押せるわけもないのに」
淡い微笑みのまま言い切る。
その口調が、逆に残酷だった。
「弱いものの悪あがきは見苦しい。
……ですが、今回は少し褒めてあげてもいい」
ハロウが微かに眉を動かす。
管理官と巡査官は、褒めるという単語の意味がわからない顔をした。
褒めた直後に何が起きるかを知っているからだ。
レギュラスは机に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
背筋が伸び、ローブの裾が静かに揺れる。
室内の全員が、反射的に姿勢を正す。
「命令します」
声がさらに柔らかくなる。
柔らかくなるほど、命令は絶対になる。
「イェルスの民とアラン・セシールを、同時に拘束して――僕の前に連れてきなさい」
言葉は簡潔で、容赦がない。
「部署に散っている捕虜も含めて全員。
取りこぼしは許しません。
“同時に”です。順番に見せる必要はありません。
彼女に状況を計算させる時間を与えない」
巡査官グレイヴスが硬い声で答えた。
「了解しました、長官。直ちに包囲と回収に」
「包囲は丁寧に。
騒ぎは広げない。
ただし、抵抗は――折って構いません」
その一言が落ちた瞬間、管理官アッシュクロフトの顔がさらに青くなる。
だがレギュラスは気にも留めない。視線はハロウに向く。
「指揮官、海上結界の揺らぎはどれくらいです?」
「観測上、局所的に脈動が出始めています。基礎結界は維持。
ただし、波形が……“呼吸”のように揺れています」
「呼吸」
レギュラスはその単語を反芻し、楽しげに口元を上げた。
「まるで生き物ですね」
生き物なら殺せる。
規則があるなら折れる。
呼吸があるなら止められる。
「よろしい。結界の監視を倍に。
揺らぎが増す前に、原因を“人の形”で持ってきてください」
最後の言葉が、刃のように冷たい。
レギュラスは窓のない執務室の、何も映らないガラス面に視線をやった。
そこに映るのは自分の輪郭だけ。
整った顔。銀色の瞳。微笑み。
あの翡翠の瞳が、今どこで何を思っているのか。
逃げられると本気で思っているのか。
それとも、捕まることも計算に入れているのか。
――いずれにせよ。
「連れてきなさい」
もう一度だけ、同じ命令を繰り返す。
念押しではない。宣告だ。
「僕は、彼女から“本当の最後”を聞いていません。
……聞くまで終わりませんから」
その言葉は、優しい口調で紡がれた。
けれど中身は、終わりのない檻だった。
三人が一斉に動き出す。
扉が開き、命令が走り、地下の空気が変わっていく。
レギュラスはその背中を見送りながら、ひとり静かに笑った。
大胆なことをしてくれた。
命知らずな女だ。
――だからこそ、手放す理由がどこにもない。
翡翠の瞳も、嘘も、悪あがきも。
すべて、ここで終わらせる。
自分の掌の上で。
