1章
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魔法省の地下から上がってくる報告は、いつも同じ匂いがする。
鉄と紙と、恐怖を洗い流したあとの薄い薬品臭。
そこに“国の終わり”や“人の痛み”が混ざっているはずなのに、報告書は整っていて、言葉は乾いている。整いすぎた文章の奥に、呻きや泣き声が押し込められている。
レギュラス・ブラックはその乾いた束を机に並べ、指先で一枚を抜き取った。
捕虜の供述。
結果。
不足。
次の手。
視線が止まるのは、紙の上ではなく――翡翠の瞳の女の輪郭だった。
彼女を見てしまった瞬間から、もうわかっていた。
エルヤ・ナイームが何者かなど、男なら誰でもわかる。
あの女が特別であったことが。
そして、互いにとって互いが特別であったのだろうことが。
痛いほど鮮明に。
視線が絡み、呼吸が乱れ、言葉より先に身体が反応する。
あれは友人ではない。
保護者でもない。
単なる同胞でもない。
――“守る”と決める理由だ。
だからこそ、使える駒だった。
完全な封印が必要とする条件は、本人の意思。
ならば、その意思を呼び起こす材料を用意すればいい。
望ましくない形でも構わない。
彼女が守ると決めざるを得ない状況を作り、その“決めた”という事実さえ取れればいい。
守らせたいものを与える。
失わせる恐怖を見せる。
選ばせる形を整える。
そして――使える駒は、多いほうがいい。
必要な時に、必要な分だけ出せるように。
手札が多いほど、相手の逃げ道は減る。
扉が叩かれ、整った足音が入ってきた。
ハロウ指揮官。
軍装は変わらず清潔で、表情は揺れない。
その揺れなさが、この場では“信用”だった。
レギュラスは顔を上げ、柔らかく言った。
「ハロウ指揮官。女の方からは何と?」
問いは短い。
だがその短さの中に、“結果だけを寄越せ”という命令が詰まっている。
ハロウは一歩前に出て、資料を差し出した。
「はい、長官。女は――対象と共に育った友人でした」
「血については?」
「……セシールの血については、あまり知識はない様子です。封印の術式に関する詳細も、核心には触れていません。恐らく、教えられていない。もしくは――」
「もしくは?」
「彼女自身が“内側”ではない。外縁の人間かと」
レギュラスは静かに頷いた。
友人という枠は、彼女を支える“感情”にはなっても、術式の情報源にはなりにくい。予想通りだ。
だが、ハロウはそこで一拍置き、報告の続きを落とした。
その一文は、紙よりも重かった。
「ただ……エルヤ・ナイームと、彼女は――両親の前で婚約の誓いを立てていたそうです」
沈黙が一瞬、部屋を満たした。
レギュラスは、次の瞬間――笑った。
声を立てて笑うでもなく、肩を揺らすでもない。
ただ、口元がゆっくりと上がり、銀色の瞳の奥に冷たい光が灯る。
「誓い、ですか」
まるで古い童話を聞いた時のような響き。
呆れと興味が絡む、薄い笑み。
「今時」
言葉が、軽い刃になって落ちる。
「笑わせる。面白いですね」
彼は椅子に背を預け、指先で机を軽く叩いた。
乾いた音。
その音が、誓いの重さを嘲るように響いた。
「本当に……どこまでも宗教的だ」
――誓い。
――婚約。
――両親の前で。
その響きには、共同体の古い価値観が詰まっている。
神に誓い、祖先に誓い、血と血の結び目に誓う。
そんなものが、今の魔法界にも、まだ生きている。
それが可笑しくて、同時に、便利だった。
誓いには形式がある。
形式には条件がある。
条件には、提示が必要だ。
そして提示に必要なのは――金だ。
レギュラスは笑みを消さないまま、ハロウを見た。
「婚約の誓いとなれば、彼らの世界にも“提示条件”があったはずです」
「……はい。女の証言では、贈与の儀があったと」
「贈与」
レギュラスはその単語を口の中で転がし、噛み砕く。
「つまり、取引ですね」
取引という言葉が、ここでは最も誠実だ。
祈りよりも。
呪いよりも。
誓いよりも。
「面白い」
レギュラスは小さく息を吐き、上品に微笑んだ。
「彼女は“守る”と決める前に、すでに一度“誓った”わけだ。
誓いが魂に刻まれるのなら――」
銀の瞳が、静かに凍る。
「刻まれた場所を、こちらが踏める」
ハロウが微かに息を呑んだ。
だが口には出さない。
この男の思考の先にあるものを、想像できてしまったからだ。
レギュラスはゆっくりと立ち上がり、窓のない壁の方へ数歩歩いた。
そこに映るものは何もない。
しかし彼の視線はすでに、地下の別室にいる翡翠の瞳へ伸びている。
「エルヤは、彼女に会いたがっていますね」
「はい。何度も」
「なら」
レギュラスは振り返り、穏やかに言った。
穏やかすぎて、恐ろしい。
「会わせましょう。
――ただし、“婚約者”として必要なものを、こちらが提示した上で」
ハロウが瞬きをする。
「提示、とは……」
レギュラスは微笑みを深くした。
「条件です。対価です。保証です」
そして最後に、さらりと結論を落とす。
「金で買える誓いなら、金で縛り直せる」
誓いを嘲っているのに、誓いの力を最大限に利用する。
それが、レギュラス・ブラックのやり方だった。
「ハロウ指揮官」
「はっ」
「友人の女は“生かして”おきなさい。彼女は情報源ではなく、引き金になり得ます」
「承知いたしました」
レギュラスは満足そうに頷き、机上の報告書を閉じた。
封緘の痕を指でなぞりながら、低く呟く。
「宗教的で結構。古くて結構。
――人は、自分が信じた形でしか壊れないんですから」
その言葉が、地下の冷気の中に、静かに沈んでいった。
拘束が解かれないまま、アランは移された。
手首の革は肌に食い込み、足首の鎖は歩幅を決める。引きずられるたび、金属が床に擦れて乾いた音を立てた。
怒鳴り声も、杖の光もない。
ただ、静かに、淡々と――“運ばれている”。
それが一番、怖かった。
扉が開いた瞬間、空気の匂いが変わった。
地下の湿り気と薬品の匂いが薄れ、代わりに甘い香が鼻を刺す。花の香りとも、樹脂の香りとも違う。きっと高価な香木を煮詰めた匂いだ。
目の前に広がったのは、あまりにも荘厳な部屋だった。
天井が高い。
壁は磨かれ、金属の装飾が繊細な模様を描いている。
魔法灯は淡い光を放ち、まるで昼間のように隅々まで照らしているのに、その光が冷たい。鏡面の床がそれを反射し、視線の置き場を奪う。
イェルスでは見たことがない煌びやかさだった。
宝飾の眩しさではない。
“支配”の眩しさ。
力が、富が、当たり前のように積み上げられた光。
アランは思わず瞬きを繰り返した。
どこを見ればいいのかわからない。目を逸らす場所すら奪われる。
視線を落とせば、着せられた衣装が目に入る。
それは、彼女のものではなかった。
胸元に細かな金属の刺繍。腕には細く光る鎖飾り。毛皮は柔らかく、肌触りが良すぎて吐き気がした。
イェルスの地で自分がまとっていた、泥と風を知る衣服とは程遠い。
こんな服では馬にも乗れない。弓も引けない。走り回ることなどできない。
“生きるための服”ではなく、“飾るための服”だ。
――檻だ。
美しい檻を与えられているだけだ、とアランは思った。
部屋の奥、重い椅子に腰掛けている男がいた。
整った姿勢、乱れない外套、銀色の瞳。
レギュラス・ブラック。
あの地下牢で見下ろしてきた男。
言葉を整えて人を壊す男。
彼は立ち上がりもしない。
アランが引き立てられ、椅子の前に止められるのを見ても、ただ穏やかに視線を上げるだけだ。
その穏やかさが、部屋の煌びやかさより不気味だった。
「驚きましたか」
微笑みながら言う。
まるで客を迎えるみたいに。
アランは答えない。答える言葉を持っていても、答えたくなかった。
ここで何かを言えば、それが“会話”になってしまう。
会話になった瞬間、この男はさらに踏み込んでくる。
レギュラスは、さも当然のように本題へ入った。
「取引をしましょう」
その一言で、部屋の輝きが牙を剥いた気がした。
「完璧な封印のために」
完璧。封印。
その単語が、アランの胸に刺さる。
自分がどれだけ“道具”として見られているか、改めて突きつけられる。
そして、彼は切り札を出すように、淡々と言った。
「エルヤ・ナイームが、あなたに会いたがっているそうです」
呼吸が止まった。
頭の中で、すべてが一瞬にして反転する。
地下の暗闇で、必死に視線を探した瞬間。
鎖の音。
彼の声。
自分を気遣ってくれた記憶――皮膚が痛くないか、息が苦しくないか、歩けるか、無理をするな、と。
胸が熱くなって、同時に冷えた。
アランは矢継ぎ早に喋り出した。
止められない。言葉が溢れる。恐怖が、焦りが、喉を押し開ける。
「彼に何をしたの? 彼は無事なの?
彼はどこにいるの? 彼を解放して――」
「質問は一つまでです」
レギュラスの声は、柔らかいまま、鋭く切れた。
刃のように、言葉の流れを断つ。
アランは唇を噛み、肺の奥まで息を吸って、言い直す。
「……無事なの?」
翡翠の瞳が、必死に男を射抜く。
憎い。
それでも、今は憎しみより先に、彼の無事が欲しかった。
レギュラスは微笑んだ。
あまりにも余裕のある微笑みだった。
「ええ。今のところは」
――今のところ。
その一言で、胸がぎゅっと締め付けられた。
安堵の形をした痛みだった。救われた気がしたのに、救われきらない。
“今のところ”という言葉が、首輪のように喉にかかる。
会いたい。
顔を見て、無事を確かめたい。
声を聞きたい。
触れられなくてもいい、ただそこに生きていると確認したい。
ここに連れてこられる間も、エルヤは何度も自分を気遣ってくれた。
自分も苦しいはずなのに。
疲れているだろうに。
それでも、アランの歩幅に合わせ、鎖の音に紛れて小さく言った。
――皮膚は痛くないか。
――苦しくないか。
――大丈夫か。
その優しさが、今この部屋で、鋭い刃になってアランの胸を裂く。
取引の匂いがした。
鼻の奥ではなく、心の奥で嗅いだ匂いだ。
甘くて、冷たい。
助けるふりをして奪う匂い。
目の前の男は、きっと言う。
彼を助けたいなら、何かを差し出せ、と。
――わかる。
わかってしまうのが、さらに屈辱だった。
自分がどれほど抵抗しても、この男の盤上で踊らされる。
理解できる言語で、理解できる形の脅迫を差し出される。
レギュラスは椅子からゆっくり立ち上がり、アランの前へ歩いてきた。
高価な床に靴音が静かに落ちる。
距離が縮まるたび、息が浅くなる。
「あなたは賢いですね」
囁くような声。
褒め言葉の形をした鎖。
「もう、気づいている。
僕がエルヤを“材料”にしていることに」
アランの喉が鳴った。
否定したい。叫びたい。
でも、叫べば叫ぶほど、彼は嬉しそうにする。
レギュラスは、目の高さを合わせるように少しだけ身を屈めた。
銀色の瞳が、翡翠を映し込む。
「安心してください」
優しい声。
だからこそ、最悪だった。
「僕は彼を簡単に壊したりしません。
あなたが“正しい選択”をする限り」
――正しい選択。
その言葉を聞いた瞬間、アランの背筋が冷たくなった。
これは選択ではない。
これは、選択の形をした強制だ。
レギュラスは微笑みを崩さない。
「あなたが欲しいのは、彼の安全。彼と会うこと。彼を失わないこと。
……そうでしょう?」
アランは、言葉が出なかった。
頷きたくない。
でも否定できない。
否定できないことが、胸をさらに締め付ける。
レギュラスの指先が、彼女の衣装の襟元に触れ、装飾の端を軽く整える。
まるで妻の身だしなみを直す夫みたいに。
その仕草が、吐き気がするほど自然で、ぞっとするほど支配的だった。
「取引は簡単です」
レギュラスは、柔らかく告げる。
「あなたが“完璧な封印”に協力する。
そのために必要なもの――意思、言葉、対象、真名。
それを僕に渡す」
言葉が、冷たく整列していく。
アランの逃げ道を、丁寧に埋めながら。
「そうすれば、エルヤは無事でいられる。
会わせることもできます。
……解放についても、考えてあげられる」
“考えてあげられる”。
約束ではない。保証でもない。
ただの首輪だ。
アランの胸の奥で、怒りが燃え上がる。
同時に、恐怖がそれを押し潰そうとする。
――断れば、彼がどうなるかわからない。
――頷けば、自分の魂が汚される。
イェルスの地で誓ったもの。
父と母の血。
先祖の言葉。
封印の血を持つ者としての誇り。
それらが、今、金色に輝くこの部屋の中で、踏み潰されようとしている。
アランは唇を震わせ、やっと声を出した。
「……彼を、利用しないで」
懇願に近い声だった。
それが悔しくて、喉が痛い。
レギュラスは、へらへらと笑った。
整った笑い。上品な笑い。
人を絶望させるために磨かれた笑い。
「利用しているのは、あなたのほうですよ」
淡々と言う。
「あなたは彼を守りたい。
だから、僕の言うことを聞く。
……それだけです」
アランの胸がきゅっと縮む。
正しい。
彼の言葉は、残酷なほど正しい形をしている。
だからこそ――息ができない。
会いたい。
無事を確かめたい。
失いたくない。
その願いが、今この瞬間、鎖になってアラン自身の首へ巻きつく。
レギュラスは、その鎖の端を指先で軽く握っている。
そしてアランは、理解してしまった。
この男は、エルヤを殺さなくてもいい。
殺さないほうがいい。
生かしたまま、ずっと見せつければいい。
――守るために、差し出せ。
――守るために、誓え。
完全な封印のために。
レギュラスは、銀の瞳でアランを覗き込み、静かに囁いた。
「さあ。あなたは賢い。
……僕に、何を渡します?」
その問いが、荘厳な部屋の輝きの中で、ひどく冷たく響いた。
拘束具の重みが、思考を鈍らせるはずだった。
けれどアランの中で、痛みはもう“雑音”になっていた。
革が皮膚に食い込み、鎖が足首の骨を冷たく撫でるたび、胸の奥に溜まるのは恐怖ではなく、静かな怒りだった。恐怖は揺らす。怒りは研ぐ。
この男――レギュラス・ブラックは、イェルスの封印をすべて知りはしない。
彼は情報を集める。奪う。解析する。
けれど、封印は知識だけで完成しない。
封印は“血”と“言葉”と“誓い”でできている。
そして何より、イェルスの封印は、渡してはいけないものを渡した瞬間に、永遠に奪われる。
ならば理はこちらにある。
こちらが“本物”を知っている。
彼はそれを欲しがっているだけだ。
全てを渡す必要はない。
完璧に見せかければいい。
真名なんて渡さない。
それは永遠の誓いを立てたエルヤ・ナイームにしか渡さないと決めたものだ。
イェルスの大地と、両親の血と、祖先の声を背負って――自分が唯一“差し出す”と決めた相手にだけ。
アランは一度、浅い呼吸を整えた。
目の前の煌びやかな部屋。装飾の光。香木の甘い匂い。
この光景は、自分を眩ませるためにある。
心を奪うためにある。
奪われてたまるか、と彼女は思った。
レギュラスは、椅子の前でゆったりと立ち、銀色の瞳でアランを見下ろしている。
余裕のある立ち姿。整いすぎた笑み。
“もう詰みだ”と言わんばかりの顔。
その笑みを見ていると、胸の奥が冷たくなるのに、同時にどこかで火が灯る。
この男は、勝ち誇るほど楽しいのだ。
他人の選択を奪い、他人の誓いを解体し、そこから利益を作り出すことが。
――なら、裏切るしかない。
アランは唇を開いた。
声が震えないように、息を深く吸う。
“屈した女”の声になってはいけない。
“条件を提示する女”の声でなければならない。
「……より強固な封印を希望するのなら」
言葉が、相手に届く。届いてしまう。
それでも、今はそれを武器にする。
「必要なものがあります」
レギュラスの眉が、わずかに動いた。
興味。
欲望。
獲物が自ら餌の匂いを放ったときの目。
「聞きましょう」
彼はすぐに答えた。
勝ち誇ったように笑っている。
美しく冷たい笑みだった。
“やっと従った”とでも思っているのだろう。
その思い込みが、今はありがたかった。
アランは視線を逸らさない。
翡翠の瞳の奥にあるのは憎しみだ。
けれど今だけは、憎しみを“従順”に見せかける。
「あなたたちは、私の血を混ぜて結界を強くした。……それは正しい」
認める。
先に認めて、相手の油断を呼ぶ。
嘘を混ぜる前に、ほんの少し本当を差し出す。
「でも、完全にはならない。血は……鍵でしかないから」
レギュラスは頷く。
彼はその情報をすでに掴んでいる。だから、ここは一致させる。
アランは続けた。
「完全に近づけるには、血と同じくらい大切な“結び”が必要です」
「結び?」
レギュラスが繰り返す。
アランはその一語を、わざと少しだけ曖昧にした。
曖昧さは嘘の余白になる。
「イェルスの封印は、ただ閉じるのではなく……“繋ぐ”のです。外と内を、守る側と守られる側を」
彼女はゆっくり言葉を選ぶ。
自分が何を隠し、何を差し出すか――一語ごとに決めながら。
「そのために必要なのは、四つ」
レギュラスの瞳が静かに光った。
彼は“数”が好きだ。体系化された手順が好きだ。
四つ、と言えばそれだけで真実味が増す。
アランは指先をわずかに握りしめ、告げた。
「一つ目は――誓約の対象です」
「対象?」
「何を守り、何を閉じ込めるのか。対象が曖昧だと、封印は広がりすぎて薄くなる。だから、守る対象を一つに絞る必要がある」
ここまでは、真実に近い。
“対象の明確化”を別の言い方で包んだだけだ。
レギュラスは納得する。納得してくれればいい。
「二つ目は――媒介の印」
レギュラスの眉が、ほんの少し上がる。
知らない単語が出ると、彼は逆に興味を示す。
アランは落ち着いた声で続ける。
「血だけでは足りない。血が触れる“形”が必要です。肌に刻む簡易の印。……あなたたちの言葉で言うなら、魔力の導線です。印がないと、血はただ散る」
嘘ではない。
しかし核心ではない。
“儀礼語”や“封緘句”を隠し、代わりに“印”という技術的な話へ引っ張る。
相手が好む方向へ誘導する。
レギュラスは小さく頷いた。
合理に見える嘘は、彼の喉を通りやすい。
「三つ目は――封緘句」
ここでアランは、あえて“言葉が必要”だと認めた。
しかし、彼女が渡すのは本物ではない。
「封印を閉じるための短い文。イェルスの儀礼語で唱える。……ただ、儀礼語といっても難しいものではありません。基本形だけで足りる。型が合っていればいい」
レギュラスの目が鋭くなる。
“儀礼語”という単語を、彼はすでに好んでいる。
アランはわざとそれを餌にした。
「基本形?」
「ええ。古い型です。意味よりも“音”が重要です。あなたが知りたいのは完璧でしょうけれど……完璧を求めすぎると、逆に歪む。封印は形がすべてです」
“意味より音が重要”
それは半分嘘だ。半分本当だ。
しかしこの半分は、レギュラスの判断を鈍らせる。
“意味”を奪われた言葉なら、彼は安心して使う。
だが本当は、意味も、意志も、真名も必要だ。
そして――四つ目。
アランはそこだけ、ほんのわずかに間を置いた。
心臓が一拍強く鳴る。
ここが境界線。
ここで真名を差し出してはならない。
「四つ目は――代償です」
レギュラスの口元が、さらに緩んだ。
彼は“代償”が好きだ。
代償は取引になる。取引なら彼が支配できる。
アランは、わざと淡々と言う。
「封印は、ただの防御ではない。閉じるためには何かを置いていく必要がある。……血の量でもいい。時間でもいい。記憶でもいい。命でもいい。封印に“重み”を与えるものが必要です」
ここが最大の偽りだった。
本当の“最後の条件”は、真名。
誓いとともに口にする、本人の“真の名”。
だがそれを代償にすり替える。
代償なら、彼は金で買えると思う。
金で買えないものを、金で買える形に変える。
それがこの男の癖だ。
レギュラスは満足そうに頷いた。
「なるほど」
銀色の瞳が、宝石を鑑定するように光る。
“これで足りる”と判断し始めている目。
「では、あなたはその四つを提供できる?」
アランは喉の奥で息を呑んだ。
“提供できる”と言わせたいのだ。
言わせた瞬間、彼はそれを当然の権利として奪いにくる。
だが、ここで否定はできない。
エルヤがいる。
“今のところは”無事だという言葉が、まだ耳に残っている。
アランは一度だけ目を伏せ、次に顔を上げた。
震えを隠したまま、決められた台詞のように言う。
「……できます」
レギュラスが笑った。
勝ち誇った笑み。美しく冷たい笑み。
その笑みを見ながら、アランは心の中で誓い直す。
――真名は渡さない。
――封緘句も、本物は渡さない。
――完璧に見せかけて、完璧を避ける。
彼女は続ける。
ここからが、細部の偽装だ。
「ただし、条件があります」
レギュラスの眉が上がる。
条件。
取引。
彼の好物。
アランは静かに言った。
「封緘句は、唱える順序と間違えない呼吸が必要です。
……そのために、私が実際に“場”を見て、指示しなければならない」
嘘の目的は、ここにある。
封緘句を自分の口から離さない。
儀礼語の核心を、相手に渡さない。
現場に連れて行かれるのは危険だ。けれど同時に、現場でなら壊せる余地もある。
そして何より――真名を口にしない限り、完全にはならない。
レギュラスは少し考えるふりをして、微笑んだ。
「いいでしょう」
その瞬間、アランの胸の奥がひやりと冷えた。
通った。
嘘が通った。
同時に、別の恐怖が生まれる。
この男は、次に必ず“代償”を要求してくる。
血の量か、時間か、命か。
そのどれを差し出すにしても、エルヤを盾にされる。
けれど――それでも。
アランは、翡翠の瞳の奥で火を消さなかった。
嘘は屈服ではない。
嘘は抵抗だ。
生き残るための刃だ。
レギュラスの銀の瞳が、満足げに細まる。
「では、進めましょうか。完璧に近づける」
“完璧”という単語が、皮肉のように響く。
完璧に近づけるほど、この男は欲しくなる。
欲しがれば欲しがるほど、アランは隠す。
真名は渡さない。
真の誓いも渡さない。
渡すのは、完璧に見える“欠けた形”。
その形が、いつか彼の手の中で崩れる瞬間を想像しながら――
アランは静かに頷いた。
屈したように見せかけて。
胸の奥で、決して折れないまま。
アラン・セシールは、思っていたよりずっと早く折れた。
もちろん――完全に、ではない。
彼女の目にはまだ憎しみが残っているし、声には棘がある。身体の芯に残る誇りも、消えていない。
それでも、“こちらの言葉で条件を提示してきた”という事実だけで十分だった。
折れた、とレギュラスは呼ぶ。
相手が「拒む」から「交渉する」に変わった瞬間を。
その一歩は、意志の形が変わった証拠だ。
あとは、整えていけばいい。
こんなに早くここまで来るとは思わなかったが――まあいい。
予定通り。望み通り。
言うことはない。
執務室の魔法灯の下、レギュラスは報告書を閉じ、指先で封緘の痕を軽くなぞった。乾いた紙の感触が心地よい。
世界は、文字の束にできる。
国も、人も、意思も。
そして――彼女も。
ふと、脳裏にあの部屋の光景が差し込む。
あの荘厳な室内。磨かれた床。整いすぎた灯り。
拘束されたままの女。
イェルスの地に馴染んだ粗い衣服を脱がせ、英国の装いを与えた瞬間。
……美しさが跳ね上がった気がした。
土と風の匂いをまとっていたときも、確かに目を引いた。
だが英国の布と刺繍は、彼女の輪郭を残酷なほど引き立てる。
毛皮の縁取りが肩の線を際立たせ、細い装飾が首元の白さを強調し、肌の上に落ちる影まで上品に整えてしまう。
まるで――
この国の光が、最初から彼女のために用意されていたみたいだった。
「……惜しい」
レギュラスは小さく呟く。
惜しいのは、彼女を手に入れるまでに時間がかかることではない。
あんな遅れた地に置いておくには、実に惜しいほどの“素材”だということだ。
エルヤ・ナイームにしてもそうだ。
あの青年の骨格の整い方、言葉の扱い、目の濁らなさ。
どれも、あの土地の“過去”に埋もれるには勿体ない。
翡翠の瞳は――なおさらだ。
あんな何もない大地に似合う色ではない。
土と灰と祈りの色ではなく、
磨かれた金属と、宝飾と、権力の光に映える色だ。
この英国にこそ相応しい。
自分の支配の中にこそ、相応しい。
思うだけで、胸の奥に静かな満足が溜まっていく。
人も国も、正しい場所に置けば正しい形で輝く。
彼女はその典型だ。
――ただ。
その美しさが、すでにエルヤ・ナイームに渡されたものであるという事実だけが、癪だった。
あの男が彼女を“守るべき人”と言ったときの目。
それを思い出すだけで、レギュラスの口元がわずかに歪む。
守る? 誓い? 婚約?
笑わせる。
だが、笑いながらも認めている。
“守られる価値”として彼女が誰かの心に刻まれていることを。
それが癪で、同時に――利用価値がある。
奪えそうな予感がした。
奪えなかったものは、今までになかった。
人にしろ、国にしろ、命にしろ。
欲しいと思ったものは、形を変えてでも手に入れてきた。
反抗する相手には逃げ道を塞ぎ、
正義を掲げる相手には正義の形で首輪をつけ、
忠誠を求める相手には忠誠の報酬を与えて縛る。
エルヤも同じだ。
“守る”という言葉を握っている限り、彼は動く。
そして彼女も、彼がいる限り動く。
その二人の間にあるものを、切り裂く必要はない。
切り裂くより、掴めばいい。
結び目ごと、自分の掌に乗せてしまえばいい。
レギュラスは椅子にもたれ、指先で机を軽く叩いた。
乾いた音が、一つ、二つ。
「……面倒ではないですね」
呟きは、独り言のようでいて、宣言だった。
「彼女はもう、交渉に乗った。
残るのは、彼女に“守る”と決めさせること。
そしてそれを――彼女自身の意思だと思わせること」
完璧な封印のために。
海上戦のために。
英国のために。
そういう大義の形を整えておけば、誰も疑わない。
彼女の意思が歪められたとしても、それは“必要な決断”になる。
レギュラスは微笑んだ。
静かで、美しく、冷たい笑み。
「早く折れてくれて助かります、アラン・セシール」
名前を呼ぶときだけ、声が妙に柔らかくなるのが自分でもわかった。
それが支配欲なのか、所有欲なのか、あるいはもっと厄介な何かなのか――今はまだ分類しない。
分類する必要がない。
手に入れるまでは。
そして、手に入れてしまえば。
奪うことに慣れた者の確信が、銀色の瞳の奥で静かに光った。
拘束具が少しだけ“軽くなった”気がしたのは、錯覚だった。
革の跡は皮膚に残り、鎖の冷たさは骨の奥まで染みる。
けれど、あの取引の言葉を交わしたあと――周囲の兵の扱いが、ほんのわずかに変わった。乱暴に引きずられることは減り、声も必要以上に荒れない。
それが慈悲ではないことを、アランはよくわかっていた。
“折れた”と判断されたからだ。
“使える”と判断されたからだ。
それでも、心は勝手に安堵を探す。
息をできる場所を、必死に探す。
アランは別室の椅子に座らされ、目の前の男――レギュラス・ブラックの姿を見上げた。
煌びやかな部屋は相変わらず眩しく、香木の甘い匂いが鼻を刺す。
この国の富と力が、壁の飾りの一つ一つに滲んでいる。
「……イェルスの、他の民は」
声が出る。
言葉が届く。
その事実がまだ屈辱なのに、今はそれでも聞かなければならなかった。
「捕虜にされた人たち。……みんな、どうなったの」
問いは震えていた。
怒りではなく、恐怖で。
自分が見なかった間に、誰かが消されてしまう恐怖。
レギュラスは、驚いたような素振りすら見せない。
最初からその質問が来ると知っていたように、穏やかに答える。
「配属しましたよ」
淡々とした声。
それがいかにも事務的で、余計に怖い。
「あなた以外の捕虜たちは全員、魔法省のいろんな部署の作業手として、バラバラに」
アランの喉が鳴った。
作業手。
つまり、生かされている。
使われている。
でも――少なくとも、今すぐ殺されるわけではない。
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
息が戻る。
一度、身体の内側で固まっていたものが溶け、涙が出そうになる。泣くのは嫌なのに、安堵は勝手に目を潤ませる。
「……そう」
掠れた声が漏れた。
誰かが生きている。
ただそれだけで、心は少し救われてしまう。
救われたくないのに、救われてしまう。
それが悔しい。
だが安堵の火が灯ると、次に影が浮かぶ。
一番気になる影。
エルヤ・ナイーム。
彼の顔が脳裏に張り付いたまま離れない。
鎖を引きずりながらも、何度も振り返ってくれた。
自分より自分を気遣ってくれた。
その優しさが、今では恐怖そのものになっている。
――危険な目に遭わされていないか。
――ひどいことをされていないか。
――心が折られていないか。
アランは堪えきれずに口を開いた。
さっきより速い声で、ひとつだけに絞れないまま、それでも必死に一つに絞る。
「エルヤは……どこに?」
レギュラスの目が、ほんの少しだけ細くなる。
翡翠の瞳が自分に向けられた瞬間に、彼は“そこだ”と確信したようだった。
彼女の守るべきもの。
彼女を動かす鎖。
レギュラスは口元を緩め、優雅に笑った。
整いすぎた笑み。
その笑みが、アランの胃を冷やす。
「エルヤ・ナイームは特別待遇ですよ」
淡々と言うのに、どこか愉しそうだった。
“特別待遇”という言葉が、良い意味に聞こえない。
特別に守られているのか、特別に壊されているのか――この男が口にする“特別”はいつも両方の匂いを持つ。
アランの肩が微かに震える。
「……特別?」
「ええ」
レギュラスは、まるで当然のことのように続けた。
「あなたの婚約者のようですから」
その一言が、胸を刺した。
婚約者。
イェルスの誓い。両親の前で交わした言葉。
あの土地の神と祖先を背負った誓い。
それが、ここでは――この男の口からは、ただの“札”として吐き出される。
アランは唇を噛んだ。
痛みが走る。血の味がする。
「……婚約者“のよう”ですって?」
声が震えた。怒りと、羞恥と、恐怖が混ざる。
否定したい。けれど否定したら、彼が危険に晒される気がした。
肯定したくない。けれど肯定したら、この男に握られる。
どちらでも、鎖だ。
レギュラスはアランの揺れを眺めるように見つめ、ゆっくりと歩み寄った。
床に落ちる靴音は静かで、だから余計に逃げ場がない。
「あなたが気にするから、特別にしました」
言葉が優しいのに、内容が残酷だった。
気にするなら、こちらが管理する。
気にするなら、こちらが握る。
気にするなら、それを使う。
レギュラスは、囁くように付け加える。
「安心してください。今のところ――無事です」
またその言い方。
“今のところ”。
未来を握っている者だけが使える言い方。
アランの胸がぎゅっと締まる。
安堵と恐怖が同時に来て、息が詰まる。
会いたい。
無事を確かめたい。
でも会った瞬間、この男の盤面が完成してしまう気もした。
それでも――
「会わせて」
声が漏れた。
懇願の形になってしまうのが悔しいのに、止められない。
レギュラスは満足そうに微笑んだ。
翡翠の瞳が揺れるのを、何よりの成果として受け取っている顔。
「もちろん」
優雅に頷いてから、あくまで穏やかに言う。
「条件次第で」
条件。
取引。
鎖。
アランは、その言葉を理解できてしまうことが、また屈辱だった。
理解できるから、恐怖が具体的になる。
具体的になるから、逃げ道が見えなくなる。
それでも彼女は、目を逸らさなかった。
――エルヤを守る。
――守るために、ここで折れない。
その決意だけが、煌びやかな部屋の中で、唯一自分のものだった。
鉄と紙と、恐怖を洗い流したあとの薄い薬品臭。
そこに“国の終わり”や“人の痛み”が混ざっているはずなのに、報告書は整っていて、言葉は乾いている。整いすぎた文章の奥に、呻きや泣き声が押し込められている。
レギュラス・ブラックはその乾いた束を机に並べ、指先で一枚を抜き取った。
捕虜の供述。
結果。
不足。
次の手。
視線が止まるのは、紙の上ではなく――翡翠の瞳の女の輪郭だった。
彼女を見てしまった瞬間から、もうわかっていた。
エルヤ・ナイームが何者かなど、男なら誰でもわかる。
あの女が特別であったことが。
そして、互いにとって互いが特別であったのだろうことが。
痛いほど鮮明に。
視線が絡み、呼吸が乱れ、言葉より先に身体が反応する。
あれは友人ではない。
保護者でもない。
単なる同胞でもない。
――“守る”と決める理由だ。
だからこそ、使える駒だった。
完全な封印が必要とする条件は、本人の意思。
ならば、その意思を呼び起こす材料を用意すればいい。
望ましくない形でも構わない。
彼女が守ると決めざるを得ない状況を作り、その“決めた”という事実さえ取れればいい。
守らせたいものを与える。
失わせる恐怖を見せる。
選ばせる形を整える。
そして――使える駒は、多いほうがいい。
必要な時に、必要な分だけ出せるように。
手札が多いほど、相手の逃げ道は減る。
扉が叩かれ、整った足音が入ってきた。
ハロウ指揮官。
軍装は変わらず清潔で、表情は揺れない。
その揺れなさが、この場では“信用”だった。
レギュラスは顔を上げ、柔らかく言った。
「ハロウ指揮官。女の方からは何と?」
問いは短い。
だがその短さの中に、“結果だけを寄越せ”という命令が詰まっている。
ハロウは一歩前に出て、資料を差し出した。
「はい、長官。女は――対象と共に育った友人でした」
「血については?」
「……セシールの血については、あまり知識はない様子です。封印の術式に関する詳細も、核心には触れていません。恐らく、教えられていない。もしくは――」
「もしくは?」
「彼女自身が“内側”ではない。外縁の人間かと」
レギュラスは静かに頷いた。
友人という枠は、彼女を支える“感情”にはなっても、術式の情報源にはなりにくい。予想通りだ。
だが、ハロウはそこで一拍置き、報告の続きを落とした。
その一文は、紙よりも重かった。
「ただ……エルヤ・ナイームと、彼女は――両親の前で婚約の誓いを立てていたそうです」
沈黙が一瞬、部屋を満たした。
レギュラスは、次の瞬間――笑った。
声を立てて笑うでもなく、肩を揺らすでもない。
ただ、口元がゆっくりと上がり、銀色の瞳の奥に冷たい光が灯る。
「誓い、ですか」
まるで古い童話を聞いた時のような響き。
呆れと興味が絡む、薄い笑み。
「今時」
言葉が、軽い刃になって落ちる。
「笑わせる。面白いですね」
彼は椅子に背を預け、指先で机を軽く叩いた。
乾いた音。
その音が、誓いの重さを嘲るように響いた。
「本当に……どこまでも宗教的だ」
――誓い。
――婚約。
――両親の前で。
その響きには、共同体の古い価値観が詰まっている。
神に誓い、祖先に誓い、血と血の結び目に誓う。
そんなものが、今の魔法界にも、まだ生きている。
それが可笑しくて、同時に、便利だった。
誓いには形式がある。
形式には条件がある。
条件には、提示が必要だ。
そして提示に必要なのは――金だ。
レギュラスは笑みを消さないまま、ハロウを見た。
「婚約の誓いとなれば、彼らの世界にも“提示条件”があったはずです」
「……はい。女の証言では、贈与の儀があったと」
「贈与」
レギュラスはその単語を口の中で転がし、噛み砕く。
「つまり、取引ですね」
取引という言葉が、ここでは最も誠実だ。
祈りよりも。
呪いよりも。
誓いよりも。
「面白い」
レギュラスは小さく息を吐き、上品に微笑んだ。
「彼女は“守る”と決める前に、すでに一度“誓った”わけだ。
誓いが魂に刻まれるのなら――」
銀の瞳が、静かに凍る。
「刻まれた場所を、こちらが踏める」
ハロウが微かに息を呑んだ。
だが口には出さない。
この男の思考の先にあるものを、想像できてしまったからだ。
レギュラスはゆっくりと立ち上がり、窓のない壁の方へ数歩歩いた。
そこに映るものは何もない。
しかし彼の視線はすでに、地下の別室にいる翡翠の瞳へ伸びている。
「エルヤは、彼女に会いたがっていますね」
「はい。何度も」
「なら」
レギュラスは振り返り、穏やかに言った。
穏やかすぎて、恐ろしい。
「会わせましょう。
――ただし、“婚約者”として必要なものを、こちらが提示した上で」
ハロウが瞬きをする。
「提示、とは……」
レギュラスは微笑みを深くした。
「条件です。対価です。保証です」
そして最後に、さらりと結論を落とす。
「金で買える誓いなら、金で縛り直せる」
誓いを嘲っているのに、誓いの力を最大限に利用する。
それが、レギュラス・ブラックのやり方だった。
「ハロウ指揮官」
「はっ」
「友人の女は“生かして”おきなさい。彼女は情報源ではなく、引き金になり得ます」
「承知いたしました」
レギュラスは満足そうに頷き、机上の報告書を閉じた。
封緘の痕を指でなぞりながら、低く呟く。
「宗教的で結構。古くて結構。
――人は、自分が信じた形でしか壊れないんですから」
その言葉が、地下の冷気の中に、静かに沈んでいった。
拘束が解かれないまま、アランは移された。
手首の革は肌に食い込み、足首の鎖は歩幅を決める。引きずられるたび、金属が床に擦れて乾いた音を立てた。
怒鳴り声も、杖の光もない。
ただ、静かに、淡々と――“運ばれている”。
それが一番、怖かった。
扉が開いた瞬間、空気の匂いが変わった。
地下の湿り気と薬品の匂いが薄れ、代わりに甘い香が鼻を刺す。花の香りとも、樹脂の香りとも違う。きっと高価な香木を煮詰めた匂いだ。
目の前に広がったのは、あまりにも荘厳な部屋だった。
天井が高い。
壁は磨かれ、金属の装飾が繊細な模様を描いている。
魔法灯は淡い光を放ち、まるで昼間のように隅々まで照らしているのに、その光が冷たい。鏡面の床がそれを反射し、視線の置き場を奪う。
イェルスでは見たことがない煌びやかさだった。
宝飾の眩しさではない。
“支配”の眩しさ。
力が、富が、当たり前のように積み上げられた光。
アランは思わず瞬きを繰り返した。
どこを見ればいいのかわからない。目を逸らす場所すら奪われる。
視線を落とせば、着せられた衣装が目に入る。
それは、彼女のものではなかった。
胸元に細かな金属の刺繍。腕には細く光る鎖飾り。毛皮は柔らかく、肌触りが良すぎて吐き気がした。
イェルスの地で自分がまとっていた、泥と風を知る衣服とは程遠い。
こんな服では馬にも乗れない。弓も引けない。走り回ることなどできない。
“生きるための服”ではなく、“飾るための服”だ。
――檻だ。
美しい檻を与えられているだけだ、とアランは思った。
部屋の奥、重い椅子に腰掛けている男がいた。
整った姿勢、乱れない外套、銀色の瞳。
レギュラス・ブラック。
あの地下牢で見下ろしてきた男。
言葉を整えて人を壊す男。
彼は立ち上がりもしない。
アランが引き立てられ、椅子の前に止められるのを見ても、ただ穏やかに視線を上げるだけだ。
その穏やかさが、部屋の煌びやかさより不気味だった。
「驚きましたか」
微笑みながら言う。
まるで客を迎えるみたいに。
アランは答えない。答える言葉を持っていても、答えたくなかった。
ここで何かを言えば、それが“会話”になってしまう。
会話になった瞬間、この男はさらに踏み込んでくる。
レギュラスは、さも当然のように本題へ入った。
「取引をしましょう」
その一言で、部屋の輝きが牙を剥いた気がした。
「完璧な封印のために」
完璧。封印。
その単語が、アランの胸に刺さる。
自分がどれだけ“道具”として見られているか、改めて突きつけられる。
そして、彼は切り札を出すように、淡々と言った。
「エルヤ・ナイームが、あなたに会いたがっているそうです」
呼吸が止まった。
頭の中で、すべてが一瞬にして反転する。
地下の暗闇で、必死に視線を探した瞬間。
鎖の音。
彼の声。
自分を気遣ってくれた記憶――皮膚が痛くないか、息が苦しくないか、歩けるか、無理をするな、と。
胸が熱くなって、同時に冷えた。
アランは矢継ぎ早に喋り出した。
止められない。言葉が溢れる。恐怖が、焦りが、喉を押し開ける。
「彼に何をしたの? 彼は無事なの?
彼はどこにいるの? 彼を解放して――」
「質問は一つまでです」
レギュラスの声は、柔らかいまま、鋭く切れた。
刃のように、言葉の流れを断つ。
アランは唇を噛み、肺の奥まで息を吸って、言い直す。
「……無事なの?」
翡翠の瞳が、必死に男を射抜く。
憎い。
それでも、今は憎しみより先に、彼の無事が欲しかった。
レギュラスは微笑んだ。
あまりにも余裕のある微笑みだった。
「ええ。今のところは」
――今のところ。
その一言で、胸がぎゅっと締め付けられた。
安堵の形をした痛みだった。救われた気がしたのに、救われきらない。
“今のところ”という言葉が、首輪のように喉にかかる。
会いたい。
顔を見て、無事を確かめたい。
声を聞きたい。
触れられなくてもいい、ただそこに生きていると確認したい。
ここに連れてこられる間も、エルヤは何度も自分を気遣ってくれた。
自分も苦しいはずなのに。
疲れているだろうに。
それでも、アランの歩幅に合わせ、鎖の音に紛れて小さく言った。
――皮膚は痛くないか。
――苦しくないか。
――大丈夫か。
その優しさが、今この部屋で、鋭い刃になってアランの胸を裂く。
取引の匂いがした。
鼻の奥ではなく、心の奥で嗅いだ匂いだ。
甘くて、冷たい。
助けるふりをして奪う匂い。
目の前の男は、きっと言う。
彼を助けたいなら、何かを差し出せ、と。
――わかる。
わかってしまうのが、さらに屈辱だった。
自分がどれほど抵抗しても、この男の盤上で踊らされる。
理解できる言語で、理解できる形の脅迫を差し出される。
レギュラスは椅子からゆっくり立ち上がり、アランの前へ歩いてきた。
高価な床に靴音が静かに落ちる。
距離が縮まるたび、息が浅くなる。
「あなたは賢いですね」
囁くような声。
褒め言葉の形をした鎖。
「もう、気づいている。
僕がエルヤを“材料”にしていることに」
アランの喉が鳴った。
否定したい。叫びたい。
でも、叫べば叫ぶほど、彼は嬉しそうにする。
レギュラスは、目の高さを合わせるように少しだけ身を屈めた。
銀色の瞳が、翡翠を映し込む。
「安心してください」
優しい声。
だからこそ、最悪だった。
「僕は彼を簡単に壊したりしません。
あなたが“正しい選択”をする限り」
――正しい選択。
その言葉を聞いた瞬間、アランの背筋が冷たくなった。
これは選択ではない。
これは、選択の形をした強制だ。
レギュラスは微笑みを崩さない。
「あなたが欲しいのは、彼の安全。彼と会うこと。彼を失わないこと。
……そうでしょう?」
アランは、言葉が出なかった。
頷きたくない。
でも否定できない。
否定できないことが、胸をさらに締め付ける。
レギュラスの指先が、彼女の衣装の襟元に触れ、装飾の端を軽く整える。
まるで妻の身だしなみを直す夫みたいに。
その仕草が、吐き気がするほど自然で、ぞっとするほど支配的だった。
「取引は簡単です」
レギュラスは、柔らかく告げる。
「あなたが“完璧な封印”に協力する。
そのために必要なもの――意思、言葉、対象、真名。
それを僕に渡す」
言葉が、冷たく整列していく。
アランの逃げ道を、丁寧に埋めながら。
「そうすれば、エルヤは無事でいられる。
会わせることもできます。
……解放についても、考えてあげられる」
“考えてあげられる”。
約束ではない。保証でもない。
ただの首輪だ。
アランの胸の奥で、怒りが燃え上がる。
同時に、恐怖がそれを押し潰そうとする。
――断れば、彼がどうなるかわからない。
――頷けば、自分の魂が汚される。
イェルスの地で誓ったもの。
父と母の血。
先祖の言葉。
封印の血を持つ者としての誇り。
それらが、今、金色に輝くこの部屋の中で、踏み潰されようとしている。
アランは唇を震わせ、やっと声を出した。
「……彼を、利用しないで」
懇願に近い声だった。
それが悔しくて、喉が痛い。
レギュラスは、へらへらと笑った。
整った笑い。上品な笑い。
人を絶望させるために磨かれた笑い。
「利用しているのは、あなたのほうですよ」
淡々と言う。
「あなたは彼を守りたい。
だから、僕の言うことを聞く。
……それだけです」
アランの胸がきゅっと縮む。
正しい。
彼の言葉は、残酷なほど正しい形をしている。
だからこそ――息ができない。
会いたい。
無事を確かめたい。
失いたくない。
その願いが、今この瞬間、鎖になってアラン自身の首へ巻きつく。
レギュラスは、その鎖の端を指先で軽く握っている。
そしてアランは、理解してしまった。
この男は、エルヤを殺さなくてもいい。
殺さないほうがいい。
生かしたまま、ずっと見せつければいい。
――守るために、差し出せ。
――守るために、誓え。
完全な封印のために。
レギュラスは、銀の瞳でアランを覗き込み、静かに囁いた。
「さあ。あなたは賢い。
……僕に、何を渡します?」
その問いが、荘厳な部屋の輝きの中で、ひどく冷たく響いた。
拘束具の重みが、思考を鈍らせるはずだった。
けれどアランの中で、痛みはもう“雑音”になっていた。
革が皮膚に食い込み、鎖が足首の骨を冷たく撫でるたび、胸の奥に溜まるのは恐怖ではなく、静かな怒りだった。恐怖は揺らす。怒りは研ぐ。
この男――レギュラス・ブラックは、イェルスの封印をすべて知りはしない。
彼は情報を集める。奪う。解析する。
けれど、封印は知識だけで完成しない。
封印は“血”と“言葉”と“誓い”でできている。
そして何より、イェルスの封印は、渡してはいけないものを渡した瞬間に、永遠に奪われる。
ならば理はこちらにある。
こちらが“本物”を知っている。
彼はそれを欲しがっているだけだ。
全てを渡す必要はない。
完璧に見せかければいい。
真名なんて渡さない。
それは永遠の誓いを立てたエルヤ・ナイームにしか渡さないと決めたものだ。
イェルスの大地と、両親の血と、祖先の声を背負って――自分が唯一“差し出す”と決めた相手にだけ。
アランは一度、浅い呼吸を整えた。
目の前の煌びやかな部屋。装飾の光。香木の甘い匂い。
この光景は、自分を眩ませるためにある。
心を奪うためにある。
奪われてたまるか、と彼女は思った。
レギュラスは、椅子の前でゆったりと立ち、銀色の瞳でアランを見下ろしている。
余裕のある立ち姿。整いすぎた笑み。
“もう詰みだ”と言わんばかりの顔。
その笑みを見ていると、胸の奥が冷たくなるのに、同時にどこかで火が灯る。
この男は、勝ち誇るほど楽しいのだ。
他人の選択を奪い、他人の誓いを解体し、そこから利益を作り出すことが。
――なら、裏切るしかない。
アランは唇を開いた。
声が震えないように、息を深く吸う。
“屈した女”の声になってはいけない。
“条件を提示する女”の声でなければならない。
「……より強固な封印を希望するのなら」
言葉が、相手に届く。届いてしまう。
それでも、今はそれを武器にする。
「必要なものがあります」
レギュラスの眉が、わずかに動いた。
興味。
欲望。
獲物が自ら餌の匂いを放ったときの目。
「聞きましょう」
彼はすぐに答えた。
勝ち誇ったように笑っている。
美しく冷たい笑みだった。
“やっと従った”とでも思っているのだろう。
その思い込みが、今はありがたかった。
アランは視線を逸らさない。
翡翠の瞳の奥にあるのは憎しみだ。
けれど今だけは、憎しみを“従順”に見せかける。
「あなたたちは、私の血を混ぜて結界を強くした。……それは正しい」
認める。
先に認めて、相手の油断を呼ぶ。
嘘を混ぜる前に、ほんの少し本当を差し出す。
「でも、完全にはならない。血は……鍵でしかないから」
レギュラスは頷く。
彼はその情報をすでに掴んでいる。だから、ここは一致させる。
アランは続けた。
「完全に近づけるには、血と同じくらい大切な“結び”が必要です」
「結び?」
レギュラスが繰り返す。
アランはその一語を、わざと少しだけ曖昧にした。
曖昧さは嘘の余白になる。
「イェルスの封印は、ただ閉じるのではなく……“繋ぐ”のです。外と内を、守る側と守られる側を」
彼女はゆっくり言葉を選ぶ。
自分が何を隠し、何を差し出すか――一語ごとに決めながら。
「そのために必要なのは、四つ」
レギュラスの瞳が静かに光った。
彼は“数”が好きだ。体系化された手順が好きだ。
四つ、と言えばそれだけで真実味が増す。
アランは指先をわずかに握りしめ、告げた。
「一つ目は――誓約の対象です」
「対象?」
「何を守り、何を閉じ込めるのか。対象が曖昧だと、封印は広がりすぎて薄くなる。だから、守る対象を一つに絞る必要がある」
ここまでは、真実に近い。
“対象の明確化”を別の言い方で包んだだけだ。
レギュラスは納得する。納得してくれればいい。
「二つ目は――媒介の印」
レギュラスの眉が、ほんの少し上がる。
知らない単語が出ると、彼は逆に興味を示す。
アランは落ち着いた声で続ける。
「血だけでは足りない。血が触れる“形”が必要です。肌に刻む簡易の印。……あなたたちの言葉で言うなら、魔力の導線です。印がないと、血はただ散る」
嘘ではない。
しかし核心ではない。
“儀礼語”や“封緘句”を隠し、代わりに“印”という技術的な話へ引っ張る。
相手が好む方向へ誘導する。
レギュラスは小さく頷いた。
合理に見える嘘は、彼の喉を通りやすい。
「三つ目は――封緘句」
ここでアランは、あえて“言葉が必要”だと認めた。
しかし、彼女が渡すのは本物ではない。
「封印を閉じるための短い文。イェルスの儀礼語で唱える。……ただ、儀礼語といっても難しいものではありません。基本形だけで足りる。型が合っていればいい」
レギュラスの目が鋭くなる。
“儀礼語”という単語を、彼はすでに好んでいる。
アランはわざとそれを餌にした。
「基本形?」
「ええ。古い型です。意味よりも“音”が重要です。あなたが知りたいのは完璧でしょうけれど……完璧を求めすぎると、逆に歪む。封印は形がすべてです」
“意味より音が重要”
それは半分嘘だ。半分本当だ。
しかしこの半分は、レギュラスの判断を鈍らせる。
“意味”を奪われた言葉なら、彼は安心して使う。
だが本当は、意味も、意志も、真名も必要だ。
そして――四つ目。
アランはそこだけ、ほんのわずかに間を置いた。
心臓が一拍強く鳴る。
ここが境界線。
ここで真名を差し出してはならない。
「四つ目は――代償です」
レギュラスの口元が、さらに緩んだ。
彼は“代償”が好きだ。
代償は取引になる。取引なら彼が支配できる。
アランは、わざと淡々と言う。
「封印は、ただの防御ではない。閉じるためには何かを置いていく必要がある。……血の量でもいい。時間でもいい。記憶でもいい。命でもいい。封印に“重み”を与えるものが必要です」
ここが最大の偽りだった。
本当の“最後の条件”は、真名。
誓いとともに口にする、本人の“真の名”。
だがそれを代償にすり替える。
代償なら、彼は金で買えると思う。
金で買えないものを、金で買える形に変える。
それがこの男の癖だ。
レギュラスは満足そうに頷いた。
「なるほど」
銀色の瞳が、宝石を鑑定するように光る。
“これで足りる”と判断し始めている目。
「では、あなたはその四つを提供できる?」
アランは喉の奥で息を呑んだ。
“提供できる”と言わせたいのだ。
言わせた瞬間、彼はそれを当然の権利として奪いにくる。
だが、ここで否定はできない。
エルヤがいる。
“今のところは”無事だという言葉が、まだ耳に残っている。
アランは一度だけ目を伏せ、次に顔を上げた。
震えを隠したまま、決められた台詞のように言う。
「……できます」
レギュラスが笑った。
勝ち誇った笑み。美しく冷たい笑み。
その笑みを見ながら、アランは心の中で誓い直す。
――真名は渡さない。
――封緘句も、本物は渡さない。
――完璧に見せかけて、完璧を避ける。
彼女は続ける。
ここからが、細部の偽装だ。
「ただし、条件があります」
レギュラスの眉が上がる。
条件。
取引。
彼の好物。
アランは静かに言った。
「封緘句は、唱える順序と間違えない呼吸が必要です。
……そのために、私が実際に“場”を見て、指示しなければならない」
嘘の目的は、ここにある。
封緘句を自分の口から離さない。
儀礼語の核心を、相手に渡さない。
現場に連れて行かれるのは危険だ。けれど同時に、現場でなら壊せる余地もある。
そして何より――真名を口にしない限り、完全にはならない。
レギュラスは少し考えるふりをして、微笑んだ。
「いいでしょう」
その瞬間、アランの胸の奥がひやりと冷えた。
通った。
嘘が通った。
同時に、別の恐怖が生まれる。
この男は、次に必ず“代償”を要求してくる。
血の量か、時間か、命か。
そのどれを差し出すにしても、エルヤを盾にされる。
けれど――それでも。
アランは、翡翠の瞳の奥で火を消さなかった。
嘘は屈服ではない。
嘘は抵抗だ。
生き残るための刃だ。
レギュラスの銀の瞳が、満足げに細まる。
「では、進めましょうか。完璧に近づける」
“完璧”という単語が、皮肉のように響く。
完璧に近づけるほど、この男は欲しくなる。
欲しがれば欲しがるほど、アランは隠す。
真名は渡さない。
真の誓いも渡さない。
渡すのは、完璧に見える“欠けた形”。
その形が、いつか彼の手の中で崩れる瞬間を想像しながら――
アランは静かに頷いた。
屈したように見せかけて。
胸の奥で、決して折れないまま。
アラン・セシールは、思っていたよりずっと早く折れた。
もちろん――完全に、ではない。
彼女の目にはまだ憎しみが残っているし、声には棘がある。身体の芯に残る誇りも、消えていない。
それでも、“こちらの言葉で条件を提示してきた”という事実だけで十分だった。
折れた、とレギュラスは呼ぶ。
相手が「拒む」から「交渉する」に変わった瞬間を。
その一歩は、意志の形が変わった証拠だ。
あとは、整えていけばいい。
こんなに早くここまで来るとは思わなかったが――まあいい。
予定通り。望み通り。
言うことはない。
執務室の魔法灯の下、レギュラスは報告書を閉じ、指先で封緘の痕を軽くなぞった。乾いた紙の感触が心地よい。
世界は、文字の束にできる。
国も、人も、意思も。
そして――彼女も。
ふと、脳裏にあの部屋の光景が差し込む。
あの荘厳な室内。磨かれた床。整いすぎた灯り。
拘束されたままの女。
イェルスの地に馴染んだ粗い衣服を脱がせ、英国の装いを与えた瞬間。
……美しさが跳ね上がった気がした。
土と風の匂いをまとっていたときも、確かに目を引いた。
だが英国の布と刺繍は、彼女の輪郭を残酷なほど引き立てる。
毛皮の縁取りが肩の線を際立たせ、細い装飾が首元の白さを強調し、肌の上に落ちる影まで上品に整えてしまう。
まるで――
この国の光が、最初から彼女のために用意されていたみたいだった。
「……惜しい」
レギュラスは小さく呟く。
惜しいのは、彼女を手に入れるまでに時間がかかることではない。
あんな遅れた地に置いておくには、実に惜しいほどの“素材”だということだ。
エルヤ・ナイームにしてもそうだ。
あの青年の骨格の整い方、言葉の扱い、目の濁らなさ。
どれも、あの土地の“過去”に埋もれるには勿体ない。
翡翠の瞳は――なおさらだ。
あんな何もない大地に似合う色ではない。
土と灰と祈りの色ではなく、
磨かれた金属と、宝飾と、権力の光に映える色だ。
この英国にこそ相応しい。
自分の支配の中にこそ、相応しい。
思うだけで、胸の奥に静かな満足が溜まっていく。
人も国も、正しい場所に置けば正しい形で輝く。
彼女はその典型だ。
――ただ。
その美しさが、すでにエルヤ・ナイームに渡されたものであるという事実だけが、癪だった。
あの男が彼女を“守るべき人”と言ったときの目。
それを思い出すだけで、レギュラスの口元がわずかに歪む。
守る? 誓い? 婚約?
笑わせる。
だが、笑いながらも認めている。
“守られる価値”として彼女が誰かの心に刻まれていることを。
それが癪で、同時に――利用価値がある。
奪えそうな予感がした。
奪えなかったものは、今までになかった。
人にしろ、国にしろ、命にしろ。
欲しいと思ったものは、形を変えてでも手に入れてきた。
反抗する相手には逃げ道を塞ぎ、
正義を掲げる相手には正義の形で首輪をつけ、
忠誠を求める相手には忠誠の報酬を与えて縛る。
エルヤも同じだ。
“守る”という言葉を握っている限り、彼は動く。
そして彼女も、彼がいる限り動く。
その二人の間にあるものを、切り裂く必要はない。
切り裂くより、掴めばいい。
結び目ごと、自分の掌に乗せてしまえばいい。
レギュラスは椅子にもたれ、指先で机を軽く叩いた。
乾いた音が、一つ、二つ。
「……面倒ではないですね」
呟きは、独り言のようでいて、宣言だった。
「彼女はもう、交渉に乗った。
残るのは、彼女に“守る”と決めさせること。
そしてそれを――彼女自身の意思だと思わせること」
完璧な封印のために。
海上戦のために。
英国のために。
そういう大義の形を整えておけば、誰も疑わない。
彼女の意思が歪められたとしても、それは“必要な決断”になる。
レギュラスは微笑んだ。
静かで、美しく、冷たい笑み。
「早く折れてくれて助かります、アラン・セシール」
名前を呼ぶときだけ、声が妙に柔らかくなるのが自分でもわかった。
それが支配欲なのか、所有欲なのか、あるいはもっと厄介な何かなのか――今はまだ分類しない。
分類する必要がない。
手に入れるまでは。
そして、手に入れてしまえば。
奪うことに慣れた者の確信が、銀色の瞳の奥で静かに光った。
拘束具が少しだけ“軽くなった”気がしたのは、錯覚だった。
革の跡は皮膚に残り、鎖の冷たさは骨の奥まで染みる。
けれど、あの取引の言葉を交わしたあと――周囲の兵の扱いが、ほんのわずかに変わった。乱暴に引きずられることは減り、声も必要以上に荒れない。
それが慈悲ではないことを、アランはよくわかっていた。
“折れた”と判断されたからだ。
“使える”と判断されたからだ。
それでも、心は勝手に安堵を探す。
息をできる場所を、必死に探す。
アランは別室の椅子に座らされ、目の前の男――レギュラス・ブラックの姿を見上げた。
煌びやかな部屋は相変わらず眩しく、香木の甘い匂いが鼻を刺す。
この国の富と力が、壁の飾りの一つ一つに滲んでいる。
「……イェルスの、他の民は」
声が出る。
言葉が届く。
その事実がまだ屈辱なのに、今はそれでも聞かなければならなかった。
「捕虜にされた人たち。……みんな、どうなったの」
問いは震えていた。
怒りではなく、恐怖で。
自分が見なかった間に、誰かが消されてしまう恐怖。
レギュラスは、驚いたような素振りすら見せない。
最初からその質問が来ると知っていたように、穏やかに答える。
「配属しましたよ」
淡々とした声。
それがいかにも事務的で、余計に怖い。
「あなた以外の捕虜たちは全員、魔法省のいろんな部署の作業手として、バラバラに」
アランの喉が鳴った。
作業手。
つまり、生かされている。
使われている。
でも――少なくとも、今すぐ殺されるわけではない。
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
息が戻る。
一度、身体の内側で固まっていたものが溶け、涙が出そうになる。泣くのは嫌なのに、安堵は勝手に目を潤ませる。
「……そう」
掠れた声が漏れた。
誰かが生きている。
ただそれだけで、心は少し救われてしまう。
救われたくないのに、救われてしまう。
それが悔しい。
だが安堵の火が灯ると、次に影が浮かぶ。
一番気になる影。
エルヤ・ナイーム。
彼の顔が脳裏に張り付いたまま離れない。
鎖を引きずりながらも、何度も振り返ってくれた。
自分より自分を気遣ってくれた。
その優しさが、今では恐怖そのものになっている。
――危険な目に遭わされていないか。
――ひどいことをされていないか。
――心が折られていないか。
アランは堪えきれずに口を開いた。
さっきより速い声で、ひとつだけに絞れないまま、それでも必死に一つに絞る。
「エルヤは……どこに?」
レギュラスの目が、ほんの少しだけ細くなる。
翡翠の瞳が自分に向けられた瞬間に、彼は“そこだ”と確信したようだった。
彼女の守るべきもの。
彼女を動かす鎖。
レギュラスは口元を緩め、優雅に笑った。
整いすぎた笑み。
その笑みが、アランの胃を冷やす。
「エルヤ・ナイームは特別待遇ですよ」
淡々と言うのに、どこか愉しそうだった。
“特別待遇”という言葉が、良い意味に聞こえない。
特別に守られているのか、特別に壊されているのか――この男が口にする“特別”はいつも両方の匂いを持つ。
アランの肩が微かに震える。
「……特別?」
「ええ」
レギュラスは、まるで当然のことのように続けた。
「あなたの婚約者のようですから」
その一言が、胸を刺した。
婚約者。
イェルスの誓い。両親の前で交わした言葉。
あの土地の神と祖先を背負った誓い。
それが、ここでは――この男の口からは、ただの“札”として吐き出される。
アランは唇を噛んだ。
痛みが走る。血の味がする。
「……婚約者“のよう”ですって?」
声が震えた。怒りと、羞恥と、恐怖が混ざる。
否定したい。けれど否定したら、彼が危険に晒される気がした。
肯定したくない。けれど肯定したら、この男に握られる。
どちらでも、鎖だ。
レギュラスはアランの揺れを眺めるように見つめ、ゆっくりと歩み寄った。
床に落ちる靴音は静かで、だから余計に逃げ場がない。
「あなたが気にするから、特別にしました」
言葉が優しいのに、内容が残酷だった。
気にするなら、こちらが管理する。
気にするなら、こちらが握る。
気にするなら、それを使う。
レギュラスは、囁くように付け加える。
「安心してください。今のところ――無事です」
またその言い方。
“今のところ”。
未来を握っている者だけが使える言い方。
アランの胸がぎゅっと締まる。
安堵と恐怖が同時に来て、息が詰まる。
会いたい。
無事を確かめたい。
でも会った瞬間、この男の盤面が完成してしまう気もした。
それでも――
「会わせて」
声が漏れた。
懇願の形になってしまうのが悔しいのに、止められない。
レギュラスは満足そうに微笑んだ。
翡翠の瞳が揺れるのを、何よりの成果として受け取っている顔。
「もちろん」
優雅に頷いてから、あくまで穏やかに言う。
「条件次第で」
条件。
取引。
鎖。
アランは、その言葉を理解できてしまうことが、また屈辱だった。
理解できるから、恐怖が具体的になる。
具体的になるから、逃げ道が見えなくなる。
それでも彼女は、目を逸らさなかった。
――エルヤを守る。
――守るために、ここで折れない。
その決意だけが、煌びやかな部屋の中で、唯一自分のものだった。
