1章
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報告書は、いつだって乾いている。
血の匂いも、焼けた土の匂いも、泣き声も――紙は一切吸わない。
そこに残るのは数字と結論と、署名だけだ。
だからこそ、魔法省の執務室でそれを開く瞬間ほど、世界が簡単に壊れていく場面もないのだとレギュラスは知っていた。
机の上に置かれた封緘付きの書類。
魔法兵管理部、検査班主任の印。
蝋が割れる音が、妙に鮮明に響いた。
レギュラス・ブラックは紙を引き出し、淡々と目を走らせる。
文字が視界に流れ込む。
血液反応、魔力波長、古式術式との親和性、家系に特有の“封緘痕”――いくつもの項目が並び、最後に一行、結論が置かれていた。
――噂に聞くセシールの血と一致。対象は封印系統の適性を確実に保持。
レギュラスは、口元だけで笑った。
愉快だからではない。
ただ、予測が当たったという事実が、静かに心地よかった。
「……僕の目は、狂っていない」
低く呟く声は、硝子のように澄んでいるのに温度がない。
あの地下牢で見た翡翠の瞳。あの牢獄の汚泥の中で、たった一点だけ宝石のように光っていた女。
あれは偶然の美ではない。
“血”が作る美だった。
――どうりで。
一際目立つ女だと思った。
その辺の捕虜の一人に埋もれて、ただ泣き叫び、ただ怯えて終わっていい存在ではない。
おそらくあの部族の中では、いやイェルスの中では――
彼女は姫のように扱われていたはずだ。
封印の血を持つ一族の娘。
“破れぬ封印”を扱える一族が、ただの子どもを雑に育てるはずがない。
守り、飾り、伝え、祀る。
それが彼らの宗教観ならなおさらだ。
レギュラスの脳裏に、あの女の首元の光が蘇る。
牢の薄闇でもわかるほど質の良い首飾り。耳に揺れていた飾り。
他の捕虜の装飾品が“お守り”であるなら、彼女のそれは“印”だった。
――特別である証拠。
彼女がただの娘ではない証拠。
そして同時に、それが英国にとっての“価値”である証拠。
レギュラスは椅子の背にもたれ、指先で机を軽く叩いた。
次に必要なのは、術式の移植でも、血の採取でもない。
会話だ。
言葉を通して、折る。
理解させる。
従わせる。
「……さて」
唇の端に微かな笑みを残したまま、レギュラスは立ち上がった。
別室は、先ほどより整えられていた。
床は洗われ、器具は布で覆われ、空気には消毒の匂いが薄く漂う。
それでも、恐怖だけは拭えない。
恐怖は汚れではなく、ここにいる者の胸の内側に染み付くものだから。
椅子に拘束された女―― アラン・セシールは、汗と埃と乾いた涙の跡を頬に残していた。
それでも、目だけが濁らない。
翡翠の瞳が、憎しみを研いだ刃のようにこちらを見ている。
レギュラスはその視線を受け止め、あくまで丁寧に言った。
「検査結果が出ました。あなたは――セシールの血ですね」
女は返事をしない。
返事の代わりに、喉の奥で言葉を噛み殺すような音がする。
何かを吐き捨てたいのに、相手の言語がわからない。
その苛立ちが、まるで火種みたいに瞳の奥で揺れていた。
レギュラスは小さく息を吐いた。
「まずは、翻訳呪文からいきましょうか」
あくまで軽い口調。
しかしそれは、彼女の世界を根元から変える一言だった。
「会話ができないんじゃ、話になりませんからね」
レギュラスが杖を取り出すと、女の身体が反射的に強張った。
拘束されているのに、恐怖で身を捩る。
肩が震え、息が荒くなり、鎖と革が擦れる音がかすかに鳴る。
――痛みを知っているのだ。
あの奇妙な杖の光が、どれほど容赦なく身体を裂くかを。
レギュラスは、優しく言った。
「怯えなくていいですよ。翻訳呪文です」
その優しさが、どこか残酷だった。
優しい声ほど、拒絶の余地がない。
彼女に選ばせない。怯えるな、と命じる形になる。
杖が滑らかに振られ、空気に淡い波が走る。
目に見えない膜が、女の喉と耳を撫でるように通り過ぎた。
一瞬、女の表情が凍った。
次に、怒りが噴き上がる。
彼女は叫ぶ。
いつもなら意味にならないはずの音が――今この瞬間、確かな言葉として、レギュラスの脳に届いた。
「私に触れてみろ! 父と母の、先祖の呪いが――お前も、お前の一族も呪い殺す!」
その言葉が、鮮明に耳へ落ちた瞬間。
レギュラスは――笑ってしまった。
声を立てて笑うのではない。
口元がわずかに上がり、瞳の奥に愉悦が灯る。
“理解できた”という事実が可笑しいのではない。
理解できた内容が、あまりにも古く、あまりにも時代遅れで、あまりにも――人間臭かった。
呪い。
先祖の呪い。
一族を呪い殺す。
この近代化が始まり、官僚制が整い、戦略が合理へと研ぎ澄まされつつある魔法界で、まだそんな言葉が生きている。
それを、真正面から投げつけられる。
懐かしい響きだった。
そして同時に、滑稽だった。
――神も祈りも呪いも、力の前では沈黙する。
沈黙しないのなら、沈黙させるだけだ。
レギュラスは彼女を見下ろし、薄く微笑んだ。
「元気がよろしいですね」
まるで褒め言葉のように。
しかしそれは、火を灯した者に向ける優しい評価ではなく、
“まだ折れていない”ものを見つけた者の、静かな喜びだった。
女は憎しみで息を震わせ、翡翠の瞳で睨み続ける。
その瞳の中に、父と母の死が燃えている。
祖国の灰が沈んでいる。
絶望があり、それでも折れない誇りがある。
レギュラスは、少しだけ身を屈めた。
距離を詰め、声を落とす。
まるで、秘密を囁くように。
「呪いは、信じる者の中でだけ育つんですよ」
そして、さも当然のように続ける。
「あなたが信じているなら、あなたの中では本物でしょう。……けれど僕は、信じません」
銀の瞳が、冷たく光る。
「信じないものに、呪いは届かない。届かないなら――」
言葉の先をわざと途切れさせた。
続きは言わなくても伝わる。
彼女の恐怖が、きっと勝手に補完する。
――届くように作り変える。
――届かないなら、別の形で壊す。
レギュラスは、再び少しだけ笑った。
「あなたは、よく吠えますね」
柔らかく、丁寧に。
だからこそ残酷に。
「大丈夫。僕はあなたの“呪い”を恐れません。
代わりに、あなたが僕を恐れるように――きちんと整えてあげます」
その言葉を理解した瞬間、女の瞳が揺れた。
怒りが、恐怖に一瞬だけ押しやられる。
けれど次の瞬間には、また燃え上がる。憎しみが、翡翠をさらに濃くする。
レギュラスはその色から目を離せないまま、静かに考えた。
封印の血は、想像以上に強い。
そしてこの女は、想像以上に厄介だ。
厄介だからこそ――欲しい。
世界を守るための封印。
それを扱う血。
それを宿す人間の誇りと怒り。
全部まとめて、掌に収める。
そうすれば海の上でも陸の上でも、英国は負けない。
そして何より、
この翡翠の瞳が、いつか恐怖ではなく――
“自分の言葉”に反応する瞬間を見てみたい。
レギュラスは、微笑みを崩さずに告げた。
「さあ。まずは、あなたに“理解”してもらいましょう。
あなたがここにいる理由を。あなたが何者かを。
そして――あなたが、誰のものになるのかを」
翡翠の瞳が、鋭く光った。
その光は抵抗の色だった。
けれどレギュラスにとっては、抵抗ですら価値だった。
折るべきものが、確かにそこにある。
折った瞬間、きっと美しい。
そう確信してしまうほどに、
その瞳は、この地下の白い灯りの下でも宝石みたいに煌めいていた。
呪文が落ちた瞬間、世界の“輪郭”が変わった。
それは光が変わるとか、空気が変わるとか、そういう目に見える変化ではない。
音の意味が――突然、骨の内側へ入り込んでくる。
さっきまでただの異音だったものが、言葉になる。
耳を滑って消えていた響きが、理解として脳に刺さる。
そして何より――自分の声が、ただの叫びではなく“相手に届く”ものになる。
アランは息を止めた。
届く、という事実が、吐き気がするほど嫌だった。
理解し合えるような人種ではない。
この集団は、平気で赤子を殺し、踏みつけ、老人を引きずり、空を焼き、地を割り――ひとつの国を滅ぼした。
そんな者たちの言葉が、意味として入ってくる。
それは、殴られる痛みとは違う屈辱だった。
皮膚ではなく、魂の内側を汚される屈辱。
拘束された椅子の上で、アランは震える指先を握り締めた。
爪が掌に食い込み、かすかな痛みが自分をつなぎとめる。
――わかってしまう。
――聞こえてしまう。
――届いてしまう。
嫌だ。
こんなもの、いらない。
目の前の男は――レギュラスと呼ばれた男は、まるでそれを楽しんでいるように見えた。
銀色の瞳が、白い灯りを冷たく反射し、彫刻のように整った顔が、穏やかな微笑みの形を保っている。
その微笑みが、アランには恐ろしかった。
怒鳴られるほうがまだ良い。殴られるほうがまだ良い。
この男は、笑いながら地獄を整える。
言葉がわかるようになった瞬間、あの“整いすぎた恐怖”が、さらに鮮明になった。
アランは喉の奥の震えを押し殺し、言った。
震えているのに、できるだけはっきりと。
「……戻して」
声が掠れた。息が浅い。
それでも言葉は届く。届いてしまう。
「これ以上……これ以上、私が……死後の魂か、地獄から、這い上がれなくなる前に……イェルスに戻して」
言いながら、自分でも矛盾を感じた。
戻ったところで何がある。焼け野原だ。灰だ。父と母の亡骸すらもう見つからないかもしれない。
それでも、ここよりはいい。
ここにいると、自分が自分でなくなる。
“理解できる”ことが、心を削る。
この男の言葉が、意味として脳に残ることが、汚れのように蓄積していく。
レギュラスは、少し首を傾げた。
その動作があまりに優雅で、礼儀正しくて――逆に不気味だった。
「……死後? 魂? 地獄?」
彼は、へらへらと笑った。
本当に笑っているのに、温かさがない。
笑い方の形だけが完璧で、そこに人間の乱れが一つもない。
「なんです? それは」
その問いの仕方が、アランの背中に氷を滑り込ませた。
無知を装っているのか。
本当に理解できないのか。
どちらにせよ、恐ろしいのは同じだった。
彼は“信仰”という言葉を、玩具みたいに転がしている。
“死後”や“地獄”という概念を、可笑しがっている。
イェルスでは、死は終わりではない。
魂は大地へ戻り、祖先の記憶の海へ溶け、封印の血は祈りとともに受け継がれていく。
死者は見守り、時に呪い、時に守る。
だからこそ、彼女は今ここで、地獄に引きずり落とされる感覚があった。
言葉が通じなかった時は、まだよかった。
伝わらないなら、守れるものがある。
自分の世界は自分の中で閉じていられた。
でも今は、違う。
この男は、彼女の言葉を理解する。
理解した上で、笑う。
アランは歯を食いしばり、翡翠の瞳を逸らさなかった。
逃げたくない。
逃げれば負ける。
負ければ、父と母がさらに遠くなる気がした。
「……あなたたちは」
声が震えた。怒りで。屈辱で。恐怖で。
「人を殺して、国を滅ぼして……それでも笑っていられる。
そんな人間が、魂や地獄を知らないはずがない」
レギュラスは、困ったように唇を上げた。
困ってなどいないのに、困ったふりをする。
その“整ったふり”が、凶器だった。
「知りませんよ」
さらりと言う。
まるで天気の話みたいに。
「少なくとも、僕にとっては……死後も魂も地獄も、あなたほど切実ではない」
その言い方が、優しいのに残酷だった。
“あなたほど切実ではない”
つまり、彼には失ったものがないと言っているのか。
失っても構わないものしかないと言っているのか。
レギュラスは、拘束具の間から覗く彼女の喉元へ視線を落とした。
そこにあるのは、彼女が守ろうとした信仰の欠片。
彼女が“特別”である証。
封印の血の印。
「でも、あなたが恐れていることはわかります」
銀色の瞳が、ゆっくりと彼女へ戻る。
「あなたは、ここにいることで“戻れなくなる”と感じている。
あなたの言う……魂が汚れる、とでも?」
アランの胃がひゅっと縮んだ。
理解される。
言葉の意味だけではなく、心の形まで読まれる。
それが、何より怖い。
レギュラスは微笑みを崩さず、穏やかな声のまま続ける。
「なら安心してください。あなたは戻れます」
その瞬間、アランの胸が、ほんの一瞬だけ軽くなりかけた。
だが次の言葉が、その軽さを踏み潰した。
「――僕が、許す形で」
甘い声。
丁寧な言葉。
それが鎖になる。
アランは息を呑み、身体が震えた。
拘束具が擦れ、革がきしむ。
「……やめて」
声が掠れる。
拒絶したい。拒絶しなければいけない。
でも拒絶の言葉さえ、相手に届いてしまう。
レギュラスは、へらへらと笑った。
笑いながら、彼女を壊すための言葉を丁寧に選ぶ。
「やめませんよ」
その一言が、刃だった。
「僕はあなたを欲しがっている。
あなたの血も、あなたの封印も、あなたの言葉も。
――あなたが『地獄』と呼ぶ場所から、這い上がれなくなるくらいに」
冗談みたいに言う。
けれど、冗談ではない。
この男は、それを本気で言っている。
整いすぎた微笑み。
銀色の瞳の冷たさ。
貴族の礼儀をまとった捕食者。
アランは、胸の奥で何かが折れそうになるのを必死で支えた。
泣くな。
叫ぶな。
今は、折れるな。
理解できてしまうからこそ、わかった。
――この男は、言葉で人を縛る。
――鎖よりも強いものを、声で作る。
そしてそれは、暴力よりもずっと逃げ場がない。
翡翠の瞳が、痛みで滲む。
それでも、アランは睨んだ。
「……私は、あなたたちを許さない」
レギュラスはその言葉を聞いて、まるで褒められたみたいに微笑んだ。
「いいですね」
低く、優しく。
「そのままでいてください。
僕は――その憎しみごと、手に入れたい」
彼の言葉が、意味としてアランの中に沈んでいく。
それが、何よりも屈辱だった。
潮の匂いが、魔法省の石壁の奥にまで入り込んでいた。
港湾区画――海上輸送と艦隊運用を司る部門は、地上のどの執務室よりも“戦争”の匂いが濃い。塩と鉄、濡れた縄、乾ききらない木材、そして魔法灯に焼かれた羊皮紙の匂い。潮騒はここでは音ではなく、床下から伝ってくる微かな振動として存在していた。
レギュラス・ブラックは、艦隊試験区画の上階回廊に立っていた。視線の先には、巨大な帆と装甲を備えた輸送艦。甲板には魔法兵が整列し、結界術式班が陣を描くように立ち位置を取っている。海へ出る前の儀式に似ていた――祈りではなく、計測と制御の儀式。
「……投入は完了しました」
報告したのは、魔法兵指揮官カシウス・ハロウだった。軍装はきっちりと整い、声は淡々としている。彼の後ろで、術式班が金属製の小箱を慎重に運んでいた。蓋には封緘呪文、そして“セシール”とだけ記された識別紋。
小箱の中にあるのは――血。
アラン・セシールの血だ。
レギュラスは瞬きひとつせず、海面へ落ちる陽光のきらめきを眺めた。美しいものが嫌いなわけではない。美しいものが価値を持つのは、それが役に立つときだけだ、と彼は思っているだけだ。
「結界展開、開始」
号令が落ちる。
魔法兵たちが一斉に手を上げ、杖先から光が弧を描いた。最初はいつもと同じ。魔力の厚い者たちが紡ぐ、実務的で堅牢な防御膜。船体を包むように、空気が一枚膜を得る。
そこへ、術式班が小箱を開いた。
血が混ぜ込まれるのは、海へ投げるのではない。乱暴な“献げ”ではなく、術式としての混入。銀の針で刻まれた紋様に、極少量の血が触れる。赤が吸い込まれ、紋様が一瞬だけ暗く脈打った。
――次の瞬間。
結界が、目に見えて“厚く”なった。
光が変わるわけではない。色が派手になるわけでもない。
ただ、空気の密度が変わった。
視界の端で、海風の粒子が結界に当たって弾かれるのが見えるほどに、外側と内側の境界が明確になる。
「……」
カシウスの口が、わずかに開いた。
「強度、上昇。既存比――二割、いや三割……増。反応の遅延なし。結界の歪み、ほぼゼロ」
術式班の者が震える声で続ける。
「精度が……違います。補正が勝手に走っている。まるで結界そのものが、自分で“整っていく”ような……」
レギュラスは、そこで初めて笑った。
短い、抑えた笑み。
期待が“結果”に変わったときにだけ出る、癖のような表情。
「素晴らしい精度ですね」
彼の言葉は褒めているはずなのに、どこか冷たい。
褒めているのは人間ではなく、成果だ。
「これまでよりずっと強固だ。海上でも、魔力の散りが抑えられる。揺れの補正も勝手に入る……」
「はい。まさしく」
カシウスは報告書に視線を落とし、続けた。
「……ただし、完全ではありません。強度は上がりましたが、“破れない”とは言い切れない。外部からの集中攻撃、あるいは……想定外の大規模干渉が入れば、裂ける可能性は残ります」
その言葉に、レギュラスの笑みが消えた。
消えたというより、薄い膜の下に引っ込んだ。
「当然です」
とても静かに言う。
「セシールの血は、強固な封印ではなく――完全な封印だと聞いている。今見ているのは、まだ“完全”ではない」
完全ではない以上、完全に近づける必要がある。
それは努力目標ではなく、義務だ。
戦争の場で“ほぼ”は死を呼ぶ。
レギュラスは回廊の手すりに指先を置いた。冷たい金属が、彼の体温を受け取る。海風が外套の裾を揺らし、潮の匂いがほんの少し濃くなる。
「ハロウ指揮官」
「はっ」
「セシールの封印が“条件下のみ”で発動すると、先ほど言いましたね」
カシウスの表情が、微かに硬くなった。
軍人の顔だ。慎重に言葉を選ぶ顔。
「はい。イェルス側の資料を解析した結果、そして捕虜たちの断片的な供述から……条件がある可能性が高い、と」
「その条件とは?」
レギュラスは、淡々と尋ねた。
だがその淡々とした声の下に、獲物へ焦点を合わせる捕食者の集中が潜んでいる。
カシウスは一度だけ息を整え、語り出した。
「……まず前提として、今回の結果は“混入”です。血を術式に混ぜ、魔力の編成を補助する形。これでも十分に異常な強化が得られました。ですが、彼らが語る“完全な封印”は――」
言葉を区切り、彼は目を上げた。
「“血を取れば発動する”という単純なものではありません」
レギュラスの瞳が、わずかに細まった。
その変化は小さいが、空気が一段冷える。
「続けてください」
カシウスは頷く。
「セシールの封印は、血ではなく……意思を媒介にして完成する、と。彼らの言葉では、血は“鍵”でしかない。鍵だけでは扉は閉まらない。扉を閉じるのは、鍵を回す者の意志です」
意志。
その単語が、港の潮風の中で妙に重く響いた。
「つまり?」
「本人が、封印する意思を持って“承認”したときにだけ、完全な封印が成立する。逆に言えば――」
カシウスは迷いなく言う。
「強制された血は、完全になりません。抵抗のある鍵は、最後まで回り切らない。だから現在の結界は“強固”止まりです」
レギュラスは、ほんの少しだけ笑った。
さっきの満足の笑みではない。
皮肉と興味が混じった、薄い笑み。
「ずいぶんと……宗教的だ」
「はい。彼らは祭祀の民です。“誓い”を重く扱う。封印を成立させる条件として、いくつかの要素が出ています」
カシウスは指を折る。
「一、本人の意思――守ると決めること。
二、言葉――彼らの儀礼語で封緘句を唱えること。
三、対象の明確化――何を封じ、誰を守るかを具体的に定めること。
そして、最後に――」
ほんの一瞬、彼の声が落ちた。
「“真名”です」
「真名?」
「ええ。彼らは真名を非常に重く扱う。封印の血を持つ者は、真名を軽々しく明かさない。真名を口にし、誓いとともに封緘句を唱えた瞬間にのみ、封印が“完全”になる――そうです」
レギュラスは瞬きもせず、海上の結界を見下ろした。
結界は強固だ。現状でも、十分に戦略を変えられる。
だが、“完全”という言葉を知ってしまった以上、彼の思考はそこに止まらない。
――意思。
――誓い。
――真名。
それらは、剣や金より扱いづらい。
だが同時に、扱えた時の効果は絶大だ。
レギュラスの脳裏に、翡翠の瞳が浮かんだ。
憎しみで研がれた視線。
呪いを叫び、祖国を求める声。
あの女は、こちらに協力する意思など欠片もない。
だからこそ、面白い。
「結論は簡単ですね」
レギュラスは、静かに言った。
「彼女が“守る”と決めたときに、封印は完全になる。
彼女が真名を口にし、誓いを立てたときに、扉は閉まる」
カシウスは表情を変えず、ただ頷いた。
軍人の顔のまま、しかしその内側に微かな戸惑いが滲む。
“どうやって?”という問いを、喉の奥に飲み込んでいる。
レギュラスは、その問いに答えるように微笑んだ。
「なら――彼女に決めさせるだけです」
優しい言い方だった。
だが、それが一番残酷な命令だ。
「守りたいものを与える。守らせたい対象を作る。
彼女がそれを失う恐怖に耐えられないように整えて……
彼女の意思で、封印を選ばせる」
海上の結界が、遠くで淡く揺れた。
潮風が強まり、波が船腹を叩く音が上がる。
レギュラスは外套の襟をわずかに正し、踵を返した。
「彼女のところへ戻ります」
その声には、迷いがない。
血は手に入れた。
次は意思だ。
そして意思を手に入れるために、最も有効な道を――
彼はもう、選び終えていた。
魔法省の夜は、地上よりも静かだった。
窓の外に星はない。風の音もない。あるのは、石造りの建物が抱え込んだ重い空気と、遠くの回廊を歩く足音、それに紙が擦れる乾いた音だけ。執務室の魔法灯は一定の明るさで机上を照らし、燭台の炎は揺れずにまっすぐ立っている。
静けさが整いすぎていて、まるで世界そのものが“決裁待ち”をしているようだった。
レギュラス・ブラックは椅子に腰を下ろし、報告書の束を指先で揃えた。
封緘が施された文書は、どれも人の命の重さを吸わない。
血も涙も匂いも、紙は拒む。そこに残るのは、数字と分類と処理方針だけ。
“イェルス捕虜一覧”
“収容区画:地下”
“身元不明者多数”
“言語:翻訳呪文により一部解読可能”
そして最も重要な一行――
セシールの血:対象一名(確定)
レギュラスはそれを読み終え、薄く笑った。
笑みは穏やかで、どこまでも丁寧なのに、温度がない。
「必要なのは血です」
独り言のように呟いた。
セシールの血。完全な封印へ至る鍵。
海上の結界を“強固”から“完全”へ押し上げる要素。
――それ以外は、正直、いらない。
捕虜たちの奇妙な装飾品も、彼らの祈りも、古い儀礼も、時代遅れの言葉も。
この近代化しつつある魔法界において、それは価値にならない。
価値になるのは、結果だけだ。
だが。
ここで他の捕虜を全員始末すれば、あの女はどうなるだろう――と、レギュラスは考えた。
翡翠の瞳。
憎しみで尖った目。
呪いを吐き捨て、祖国へ戻せと叫んだ声。
彼女は、“守る”という条件を満たさなければ完全封印は発動しない。
そして彼女が守るものを失えば、心は壊れる。
壊れた女の血は、ただの血になる。
怒りと狂気だけが残り、誓いは立てられない。
――発狂するのだろう。
その結論が、レギュラスにとって脅威ではなく“手札の喪失”として浮かぶあたり、彼自身の冷たさがよくわかる。
彼は哀れみでは動かない。
動くのは目的だけだ。
扉が控えめに叩かれた。
「入れ」
静かな声。
入室を許す言葉に、許可の匂いがする。
許可する側の人間の声だ。
入ってきたのは、魔法兵指揮官――カシウス・ハロウだった。
軍装は整い、靴音は控えめで、背筋は一本の槍のようにまっすぐ。報告を持ってきた者特有の緊張がわずかに漂うが、瞳は揺れない。
「長官。捕虜について追加報告がございます」
「聞きましょう」
レギュラスは机の端に指先を置いたまま、視線だけを上げる。
穏やかな動作でありながら、拒絶の余地を与えない視線。
ハロウは資料を差し出し、続けた。
「捕虜たちの中に、セシールの血を引く女と親しかった人間が何名かいるようです」
レギュラスの瞳が、わずかに細くなる。
興味が、紙の上から立ち上がる。
「なるほど。使えそうですね」
声は柔らかい。
けれどその柔らかさは、獲物に刃を当てる直前の静けさに似ていた。
「男です? 女です?」
ハロウは一拍置いて答える。
「……両方です」
両方。
レギュラスは、ほんの少し笑った。
偶然とは思わない。
特別な血を持つ者の周囲には、特別な役割の人間が集まりやすい。守り手、補佐、あるいは――感情の錘。
女の方はおそらく、共に育った友人の枠だろう。
同じ土に触れ、同じ祭祀を見、同じ恐怖を知った者。
“信じ合う”という概念がまだ生きている世界で、彼女の精神を支えていた存在。
だが、男。
男は、違う匂いがした。
友人以上。
家族でもない距離。
彼女の感情を最も深く揺らす“何か”。
守るという意志を引き出すなら、恐怖だけでは足りない。
恐怖は人を固めるが、誓いを作るのはしばしば――愛や執着だ。
レギュラスは椅子に深く腰を預け、指先を組んだ。
その姿勢は優雅で、余裕に満ちている。余裕があるからこそ、恐ろしい。
「……では、分けましょう」
言葉はやさしい提案の形をしている。
けれど実態は、命の配属決定だった。
「女は任せます」
レギュラスはハロウに告げる。
「何かしらセシールの血についてわかるのであれば、吐かせてください」
吐かせて。
その言葉が、あまりにも静かに口から出るのが、逆に残酷だった。拷問の詳細を語らない。それは彼が“方法”に興味がないからではない。結果さえ出ればいいからだ。
ハロウは一瞬だけ眉を動かし、すぐに頷いた。
「承知いたしました」
レギュラスは続ける。視線はすでに次の盤面に移っている。
「男は――僕の方に呼んでください」
ハロウの目が、ほんのわずかに動いた。
指揮官としての直感が働いたのだろう。
“それは尋問では済まない”と。
だが彼は軍人だ。命令に従う。
「……かしこまりました。拘束状態で連れて参ります」
「結構です」
レギュラスは満足そうに頷いた。
こうして捕虜たちは、“生かされる理由”を与えられた。もちろん慈悲ではない。取引材料としての価値でしかない。
――セシールの血が必要なのであって、他のガラクタは正直いらない。
だが、いらないからこそ“使える”。
捨て駒は、使い方次第で王を縛る鎖にもなる。
レギュラスは、机上に置かれた捕虜一覧を指でなぞった。
名前のない者たち。番号で呼ばれる者たち。
彼らの生死は、今や自分の指先の上にある。
そして、その指先の先に――翡翠の瞳の女がいる。
男の方は、上手く使えば。
あの女を――ひいては“守りの血”を、自由に動かせる力を手に入れられる可能性がある。
意思。
儀礼語。
対象の明確化。
真名。
彼女が“守る”と決めなければ完全は発動しない。
ならば、彼女が守らざるを得ない状況を作る。
守らなければ、失う。
守れば、手に入る。
そしてその選択を“彼女の意思”に見せかける。
――美しい。
レギュラスは、口元に薄い微笑みを置いた。
それは勝利を確信した者の微笑みであり、同時に、これから人の心を壊して組み替える者の微笑みだった。
「ハロウ指揮官」
呼び止める声は穏やかだ。
「一つだけ」
ハロウが立ち止まり、振り向く。
「その男の様子は?」
「……抵抗はしますが、理性は保っています。女の名を何度も呼びました。こちらの言語は理解しているようです。翻訳呪文の必要は、恐らくありません」
レギュラスの瞳が、静かに光った。
必要ない。
それはつまり、最初から言葉が通じる。
言葉で折ることができる。
言葉で縛ることができる。
「素晴らしい」
レギュラスは微笑む。
「では、早めに。今夜のうちにでも」
ハロウは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
扉が閉まり、再び執務室に静けさが戻る。
レギュラスは書類を閉じ、指先で封緘の痕をなぞった。
外は夜だ。
けれど魔法省の地下で、イェルスの捕虜たちは眠れない。
そして彼は――眠らせるつもりもない。
“守る”という意志を引き出すには、眠りは邪魔だ。
苦痛も恐怖も、喪失も、取引も。
すべてを素材にして、彼女の選択を作り上げる。
レギュラスは静かに息を吐き、銀の瞳を伏せた。
「……さあ」
誰にも聞こえない声で呟く。
「あなたが何を守るか、選ばせてあげましょう」
それは慈悲の言葉の形をしている。
だがその中身は、鎖だった。
血の匂いも、焼けた土の匂いも、泣き声も――紙は一切吸わない。
そこに残るのは数字と結論と、署名だけだ。
だからこそ、魔法省の執務室でそれを開く瞬間ほど、世界が簡単に壊れていく場面もないのだとレギュラスは知っていた。
机の上に置かれた封緘付きの書類。
魔法兵管理部、検査班主任の印。
蝋が割れる音が、妙に鮮明に響いた。
レギュラス・ブラックは紙を引き出し、淡々と目を走らせる。
文字が視界に流れ込む。
血液反応、魔力波長、古式術式との親和性、家系に特有の“封緘痕”――いくつもの項目が並び、最後に一行、結論が置かれていた。
――噂に聞くセシールの血と一致。対象は封印系統の適性を確実に保持。
レギュラスは、口元だけで笑った。
愉快だからではない。
ただ、予測が当たったという事実が、静かに心地よかった。
「……僕の目は、狂っていない」
低く呟く声は、硝子のように澄んでいるのに温度がない。
あの地下牢で見た翡翠の瞳。あの牢獄の汚泥の中で、たった一点だけ宝石のように光っていた女。
あれは偶然の美ではない。
“血”が作る美だった。
――どうりで。
一際目立つ女だと思った。
その辺の捕虜の一人に埋もれて、ただ泣き叫び、ただ怯えて終わっていい存在ではない。
おそらくあの部族の中では、いやイェルスの中では――
彼女は姫のように扱われていたはずだ。
封印の血を持つ一族の娘。
“破れぬ封印”を扱える一族が、ただの子どもを雑に育てるはずがない。
守り、飾り、伝え、祀る。
それが彼らの宗教観ならなおさらだ。
レギュラスの脳裏に、あの女の首元の光が蘇る。
牢の薄闇でもわかるほど質の良い首飾り。耳に揺れていた飾り。
他の捕虜の装飾品が“お守り”であるなら、彼女のそれは“印”だった。
――特別である証拠。
彼女がただの娘ではない証拠。
そして同時に、それが英国にとっての“価値”である証拠。
レギュラスは椅子の背にもたれ、指先で机を軽く叩いた。
次に必要なのは、術式の移植でも、血の採取でもない。
会話だ。
言葉を通して、折る。
理解させる。
従わせる。
「……さて」
唇の端に微かな笑みを残したまま、レギュラスは立ち上がった。
別室は、先ほどより整えられていた。
床は洗われ、器具は布で覆われ、空気には消毒の匂いが薄く漂う。
それでも、恐怖だけは拭えない。
恐怖は汚れではなく、ここにいる者の胸の内側に染み付くものだから。
椅子に拘束された女―― アラン・セシールは、汗と埃と乾いた涙の跡を頬に残していた。
それでも、目だけが濁らない。
翡翠の瞳が、憎しみを研いだ刃のようにこちらを見ている。
レギュラスはその視線を受け止め、あくまで丁寧に言った。
「検査結果が出ました。あなたは――セシールの血ですね」
女は返事をしない。
返事の代わりに、喉の奥で言葉を噛み殺すような音がする。
何かを吐き捨てたいのに、相手の言語がわからない。
その苛立ちが、まるで火種みたいに瞳の奥で揺れていた。
レギュラスは小さく息を吐いた。
「まずは、翻訳呪文からいきましょうか」
あくまで軽い口調。
しかしそれは、彼女の世界を根元から変える一言だった。
「会話ができないんじゃ、話になりませんからね」
レギュラスが杖を取り出すと、女の身体が反射的に強張った。
拘束されているのに、恐怖で身を捩る。
肩が震え、息が荒くなり、鎖と革が擦れる音がかすかに鳴る。
――痛みを知っているのだ。
あの奇妙な杖の光が、どれほど容赦なく身体を裂くかを。
レギュラスは、優しく言った。
「怯えなくていいですよ。翻訳呪文です」
その優しさが、どこか残酷だった。
優しい声ほど、拒絶の余地がない。
彼女に選ばせない。怯えるな、と命じる形になる。
杖が滑らかに振られ、空気に淡い波が走る。
目に見えない膜が、女の喉と耳を撫でるように通り過ぎた。
一瞬、女の表情が凍った。
次に、怒りが噴き上がる。
彼女は叫ぶ。
いつもなら意味にならないはずの音が――今この瞬間、確かな言葉として、レギュラスの脳に届いた。
「私に触れてみろ! 父と母の、先祖の呪いが――お前も、お前の一族も呪い殺す!」
その言葉が、鮮明に耳へ落ちた瞬間。
レギュラスは――笑ってしまった。
声を立てて笑うのではない。
口元がわずかに上がり、瞳の奥に愉悦が灯る。
“理解できた”という事実が可笑しいのではない。
理解できた内容が、あまりにも古く、あまりにも時代遅れで、あまりにも――人間臭かった。
呪い。
先祖の呪い。
一族を呪い殺す。
この近代化が始まり、官僚制が整い、戦略が合理へと研ぎ澄まされつつある魔法界で、まだそんな言葉が生きている。
それを、真正面から投げつけられる。
懐かしい響きだった。
そして同時に、滑稽だった。
――神も祈りも呪いも、力の前では沈黙する。
沈黙しないのなら、沈黙させるだけだ。
レギュラスは彼女を見下ろし、薄く微笑んだ。
「元気がよろしいですね」
まるで褒め言葉のように。
しかしそれは、火を灯した者に向ける優しい評価ではなく、
“まだ折れていない”ものを見つけた者の、静かな喜びだった。
女は憎しみで息を震わせ、翡翠の瞳で睨み続ける。
その瞳の中に、父と母の死が燃えている。
祖国の灰が沈んでいる。
絶望があり、それでも折れない誇りがある。
レギュラスは、少しだけ身を屈めた。
距離を詰め、声を落とす。
まるで、秘密を囁くように。
「呪いは、信じる者の中でだけ育つんですよ」
そして、さも当然のように続ける。
「あなたが信じているなら、あなたの中では本物でしょう。……けれど僕は、信じません」
銀の瞳が、冷たく光る。
「信じないものに、呪いは届かない。届かないなら――」
言葉の先をわざと途切れさせた。
続きは言わなくても伝わる。
彼女の恐怖が、きっと勝手に補完する。
――届くように作り変える。
――届かないなら、別の形で壊す。
レギュラスは、再び少しだけ笑った。
「あなたは、よく吠えますね」
柔らかく、丁寧に。
だからこそ残酷に。
「大丈夫。僕はあなたの“呪い”を恐れません。
代わりに、あなたが僕を恐れるように――きちんと整えてあげます」
その言葉を理解した瞬間、女の瞳が揺れた。
怒りが、恐怖に一瞬だけ押しやられる。
けれど次の瞬間には、また燃え上がる。憎しみが、翡翠をさらに濃くする。
レギュラスはその色から目を離せないまま、静かに考えた。
封印の血は、想像以上に強い。
そしてこの女は、想像以上に厄介だ。
厄介だからこそ――欲しい。
世界を守るための封印。
それを扱う血。
それを宿す人間の誇りと怒り。
全部まとめて、掌に収める。
そうすれば海の上でも陸の上でも、英国は負けない。
そして何より、
この翡翠の瞳が、いつか恐怖ではなく――
“自分の言葉”に反応する瞬間を見てみたい。
レギュラスは、微笑みを崩さずに告げた。
「さあ。まずは、あなたに“理解”してもらいましょう。
あなたがここにいる理由を。あなたが何者かを。
そして――あなたが、誰のものになるのかを」
翡翠の瞳が、鋭く光った。
その光は抵抗の色だった。
けれどレギュラスにとっては、抵抗ですら価値だった。
折るべきものが、確かにそこにある。
折った瞬間、きっと美しい。
そう確信してしまうほどに、
その瞳は、この地下の白い灯りの下でも宝石みたいに煌めいていた。
呪文が落ちた瞬間、世界の“輪郭”が変わった。
それは光が変わるとか、空気が変わるとか、そういう目に見える変化ではない。
音の意味が――突然、骨の内側へ入り込んでくる。
さっきまでただの異音だったものが、言葉になる。
耳を滑って消えていた響きが、理解として脳に刺さる。
そして何より――自分の声が、ただの叫びではなく“相手に届く”ものになる。
アランは息を止めた。
届く、という事実が、吐き気がするほど嫌だった。
理解し合えるような人種ではない。
この集団は、平気で赤子を殺し、踏みつけ、老人を引きずり、空を焼き、地を割り――ひとつの国を滅ぼした。
そんな者たちの言葉が、意味として入ってくる。
それは、殴られる痛みとは違う屈辱だった。
皮膚ではなく、魂の内側を汚される屈辱。
拘束された椅子の上で、アランは震える指先を握り締めた。
爪が掌に食い込み、かすかな痛みが自分をつなぎとめる。
――わかってしまう。
――聞こえてしまう。
――届いてしまう。
嫌だ。
こんなもの、いらない。
目の前の男は――レギュラスと呼ばれた男は、まるでそれを楽しんでいるように見えた。
銀色の瞳が、白い灯りを冷たく反射し、彫刻のように整った顔が、穏やかな微笑みの形を保っている。
その微笑みが、アランには恐ろしかった。
怒鳴られるほうがまだ良い。殴られるほうがまだ良い。
この男は、笑いながら地獄を整える。
言葉がわかるようになった瞬間、あの“整いすぎた恐怖”が、さらに鮮明になった。
アランは喉の奥の震えを押し殺し、言った。
震えているのに、できるだけはっきりと。
「……戻して」
声が掠れた。息が浅い。
それでも言葉は届く。届いてしまう。
「これ以上……これ以上、私が……死後の魂か、地獄から、這い上がれなくなる前に……イェルスに戻して」
言いながら、自分でも矛盾を感じた。
戻ったところで何がある。焼け野原だ。灰だ。父と母の亡骸すらもう見つからないかもしれない。
それでも、ここよりはいい。
ここにいると、自分が自分でなくなる。
“理解できる”ことが、心を削る。
この男の言葉が、意味として脳に残ることが、汚れのように蓄積していく。
レギュラスは、少し首を傾げた。
その動作があまりに優雅で、礼儀正しくて――逆に不気味だった。
「……死後? 魂? 地獄?」
彼は、へらへらと笑った。
本当に笑っているのに、温かさがない。
笑い方の形だけが完璧で、そこに人間の乱れが一つもない。
「なんです? それは」
その問いの仕方が、アランの背中に氷を滑り込ませた。
無知を装っているのか。
本当に理解できないのか。
どちらにせよ、恐ろしいのは同じだった。
彼は“信仰”という言葉を、玩具みたいに転がしている。
“死後”や“地獄”という概念を、可笑しがっている。
イェルスでは、死は終わりではない。
魂は大地へ戻り、祖先の記憶の海へ溶け、封印の血は祈りとともに受け継がれていく。
死者は見守り、時に呪い、時に守る。
だからこそ、彼女は今ここで、地獄に引きずり落とされる感覚があった。
言葉が通じなかった時は、まだよかった。
伝わらないなら、守れるものがある。
自分の世界は自分の中で閉じていられた。
でも今は、違う。
この男は、彼女の言葉を理解する。
理解した上で、笑う。
アランは歯を食いしばり、翡翠の瞳を逸らさなかった。
逃げたくない。
逃げれば負ける。
負ければ、父と母がさらに遠くなる気がした。
「……あなたたちは」
声が震えた。怒りで。屈辱で。恐怖で。
「人を殺して、国を滅ぼして……それでも笑っていられる。
そんな人間が、魂や地獄を知らないはずがない」
レギュラスは、困ったように唇を上げた。
困ってなどいないのに、困ったふりをする。
その“整ったふり”が、凶器だった。
「知りませんよ」
さらりと言う。
まるで天気の話みたいに。
「少なくとも、僕にとっては……死後も魂も地獄も、あなたほど切実ではない」
その言い方が、優しいのに残酷だった。
“あなたほど切実ではない”
つまり、彼には失ったものがないと言っているのか。
失っても構わないものしかないと言っているのか。
レギュラスは、拘束具の間から覗く彼女の喉元へ視線を落とした。
そこにあるのは、彼女が守ろうとした信仰の欠片。
彼女が“特別”である証。
封印の血の印。
「でも、あなたが恐れていることはわかります」
銀色の瞳が、ゆっくりと彼女へ戻る。
「あなたは、ここにいることで“戻れなくなる”と感じている。
あなたの言う……魂が汚れる、とでも?」
アランの胃がひゅっと縮んだ。
理解される。
言葉の意味だけではなく、心の形まで読まれる。
それが、何より怖い。
レギュラスは微笑みを崩さず、穏やかな声のまま続ける。
「なら安心してください。あなたは戻れます」
その瞬間、アランの胸が、ほんの一瞬だけ軽くなりかけた。
だが次の言葉が、その軽さを踏み潰した。
「――僕が、許す形で」
甘い声。
丁寧な言葉。
それが鎖になる。
アランは息を呑み、身体が震えた。
拘束具が擦れ、革がきしむ。
「……やめて」
声が掠れる。
拒絶したい。拒絶しなければいけない。
でも拒絶の言葉さえ、相手に届いてしまう。
レギュラスは、へらへらと笑った。
笑いながら、彼女を壊すための言葉を丁寧に選ぶ。
「やめませんよ」
その一言が、刃だった。
「僕はあなたを欲しがっている。
あなたの血も、あなたの封印も、あなたの言葉も。
――あなたが『地獄』と呼ぶ場所から、這い上がれなくなるくらいに」
冗談みたいに言う。
けれど、冗談ではない。
この男は、それを本気で言っている。
整いすぎた微笑み。
銀色の瞳の冷たさ。
貴族の礼儀をまとった捕食者。
アランは、胸の奥で何かが折れそうになるのを必死で支えた。
泣くな。
叫ぶな。
今は、折れるな。
理解できてしまうからこそ、わかった。
――この男は、言葉で人を縛る。
――鎖よりも強いものを、声で作る。
そしてそれは、暴力よりもずっと逃げ場がない。
翡翠の瞳が、痛みで滲む。
それでも、アランは睨んだ。
「……私は、あなたたちを許さない」
レギュラスはその言葉を聞いて、まるで褒められたみたいに微笑んだ。
「いいですね」
低く、優しく。
「そのままでいてください。
僕は――その憎しみごと、手に入れたい」
彼の言葉が、意味としてアランの中に沈んでいく。
それが、何よりも屈辱だった。
潮の匂いが、魔法省の石壁の奥にまで入り込んでいた。
港湾区画――海上輸送と艦隊運用を司る部門は、地上のどの執務室よりも“戦争”の匂いが濃い。塩と鉄、濡れた縄、乾ききらない木材、そして魔法灯に焼かれた羊皮紙の匂い。潮騒はここでは音ではなく、床下から伝ってくる微かな振動として存在していた。
レギュラス・ブラックは、艦隊試験区画の上階回廊に立っていた。視線の先には、巨大な帆と装甲を備えた輸送艦。甲板には魔法兵が整列し、結界術式班が陣を描くように立ち位置を取っている。海へ出る前の儀式に似ていた――祈りではなく、計測と制御の儀式。
「……投入は完了しました」
報告したのは、魔法兵指揮官カシウス・ハロウだった。軍装はきっちりと整い、声は淡々としている。彼の後ろで、術式班が金属製の小箱を慎重に運んでいた。蓋には封緘呪文、そして“セシール”とだけ記された識別紋。
小箱の中にあるのは――血。
アラン・セシールの血だ。
レギュラスは瞬きひとつせず、海面へ落ちる陽光のきらめきを眺めた。美しいものが嫌いなわけではない。美しいものが価値を持つのは、それが役に立つときだけだ、と彼は思っているだけだ。
「結界展開、開始」
号令が落ちる。
魔法兵たちが一斉に手を上げ、杖先から光が弧を描いた。最初はいつもと同じ。魔力の厚い者たちが紡ぐ、実務的で堅牢な防御膜。船体を包むように、空気が一枚膜を得る。
そこへ、術式班が小箱を開いた。
血が混ぜ込まれるのは、海へ投げるのではない。乱暴な“献げ”ではなく、術式としての混入。銀の針で刻まれた紋様に、極少量の血が触れる。赤が吸い込まれ、紋様が一瞬だけ暗く脈打った。
――次の瞬間。
結界が、目に見えて“厚く”なった。
光が変わるわけではない。色が派手になるわけでもない。
ただ、空気の密度が変わった。
視界の端で、海風の粒子が結界に当たって弾かれるのが見えるほどに、外側と内側の境界が明確になる。
「……」
カシウスの口が、わずかに開いた。
「強度、上昇。既存比――二割、いや三割……増。反応の遅延なし。結界の歪み、ほぼゼロ」
術式班の者が震える声で続ける。
「精度が……違います。補正が勝手に走っている。まるで結界そのものが、自分で“整っていく”ような……」
レギュラスは、そこで初めて笑った。
短い、抑えた笑み。
期待が“結果”に変わったときにだけ出る、癖のような表情。
「素晴らしい精度ですね」
彼の言葉は褒めているはずなのに、どこか冷たい。
褒めているのは人間ではなく、成果だ。
「これまでよりずっと強固だ。海上でも、魔力の散りが抑えられる。揺れの補正も勝手に入る……」
「はい。まさしく」
カシウスは報告書に視線を落とし、続けた。
「……ただし、完全ではありません。強度は上がりましたが、“破れない”とは言い切れない。外部からの集中攻撃、あるいは……想定外の大規模干渉が入れば、裂ける可能性は残ります」
その言葉に、レギュラスの笑みが消えた。
消えたというより、薄い膜の下に引っ込んだ。
「当然です」
とても静かに言う。
「セシールの血は、強固な封印ではなく――完全な封印だと聞いている。今見ているのは、まだ“完全”ではない」
完全ではない以上、完全に近づける必要がある。
それは努力目標ではなく、義務だ。
戦争の場で“ほぼ”は死を呼ぶ。
レギュラスは回廊の手すりに指先を置いた。冷たい金属が、彼の体温を受け取る。海風が外套の裾を揺らし、潮の匂いがほんの少し濃くなる。
「ハロウ指揮官」
「はっ」
「セシールの封印が“条件下のみ”で発動すると、先ほど言いましたね」
カシウスの表情が、微かに硬くなった。
軍人の顔だ。慎重に言葉を選ぶ顔。
「はい。イェルス側の資料を解析した結果、そして捕虜たちの断片的な供述から……条件がある可能性が高い、と」
「その条件とは?」
レギュラスは、淡々と尋ねた。
だがその淡々とした声の下に、獲物へ焦点を合わせる捕食者の集中が潜んでいる。
カシウスは一度だけ息を整え、語り出した。
「……まず前提として、今回の結果は“混入”です。血を術式に混ぜ、魔力の編成を補助する形。これでも十分に異常な強化が得られました。ですが、彼らが語る“完全な封印”は――」
言葉を区切り、彼は目を上げた。
「“血を取れば発動する”という単純なものではありません」
レギュラスの瞳が、わずかに細まった。
その変化は小さいが、空気が一段冷える。
「続けてください」
カシウスは頷く。
「セシールの封印は、血ではなく……意思を媒介にして完成する、と。彼らの言葉では、血は“鍵”でしかない。鍵だけでは扉は閉まらない。扉を閉じるのは、鍵を回す者の意志です」
意志。
その単語が、港の潮風の中で妙に重く響いた。
「つまり?」
「本人が、封印する意思を持って“承認”したときにだけ、完全な封印が成立する。逆に言えば――」
カシウスは迷いなく言う。
「強制された血は、完全になりません。抵抗のある鍵は、最後まで回り切らない。だから現在の結界は“強固”止まりです」
レギュラスは、ほんの少しだけ笑った。
さっきの満足の笑みではない。
皮肉と興味が混じった、薄い笑み。
「ずいぶんと……宗教的だ」
「はい。彼らは祭祀の民です。“誓い”を重く扱う。封印を成立させる条件として、いくつかの要素が出ています」
カシウスは指を折る。
「一、本人の意思――守ると決めること。
二、言葉――彼らの儀礼語で封緘句を唱えること。
三、対象の明確化――何を封じ、誰を守るかを具体的に定めること。
そして、最後に――」
ほんの一瞬、彼の声が落ちた。
「“真名”です」
「真名?」
「ええ。彼らは真名を非常に重く扱う。封印の血を持つ者は、真名を軽々しく明かさない。真名を口にし、誓いとともに封緘句を唱えた瞬間にのみ、封印が“完全”になる――そうです」
レギュラスは瞬きもせず、海上の結界を見下ろした。
結界は強固だ。現状でも、十分に戦略を変えられる。
だが、“完全”という言葉を知ってしまった以上、彼の思考はそこに止まらない。
――意思。
――誓い。
――真名。
それらは、剣や金より扱いづらい。
だが同時に、扱えた時の効果は絶大だ。
レギュラスの脳裏に、翡翠の瞳が浮かんだ。
憎しみで研がれた視線。
呪いを叫び、祖国を求める声。
あの女は、こちらに協力する意思など欠片もない。
だからこそ、面白い。
「結論は簡単ですね」
レギュラスは、静かに言った。
「彼女が“守る”と決めたときに、封印は完全になる。
彼女が真名を口にし、誓いを立てたときに、扉は閉まる」
カシウスは表情を変えず、ただ頷いた。
軍人の顔のまま、しかしその内側に微かな戸惑いが滲む。
“どうやって?”という問いを、喉の奥に飲み込んでいる。
レギュラスは、その問いに答えるように微笑んだ。
「なら――彼女に決めさせるだけです」
優しい言い方だった。
だが、それが一番残酷な命令だ。
「守りたいものを与える。守らせたい対象を作る。
彼女がそれを失う恐怖に耐えられないように整えて……
彼女の意思で、封印を選ばせる」
海上の結界が、遠くで淡く揺れた。
潮風が強まり、波が船腹を叩く音が上がる。
レギュラスは外套の襟をわずかに正し、踵を返した。
「彼女のところへ戻ります」
その声には、迷いがない。
血は手に入れた。
次は意思だ。
そして意思を手に入れるために、最も有効な道を――
彼はもう、選び終えていた。
魔法省の夜は、地上よりも静かだった。
窓の外に星はない。風の音もない。あるのは、石造りの建物が抱え込んだ重い空気と、遠くの回廊を歩く足音、それに紙が擦れる乾いた音だけ。執務室の魔法灯は一定の明るさで机上を照らし、燭台の炎は揺れずにまっすぐ立っている。
静けさが整いすぎていて、まるで世界そのものが“決裁待ち”をしているようだった。
レギュラス・ブラックは椅子に腰を下ろし、報告書の束を指先で揃えた。
封緘が施された文書は、どれも人の命の重さを吸わない。
血も涙も匂いも、紙は拒む。そこに残るのは、数字と分類と処理方針だけ。
“イェルス捕虜一覧”
“収容区画:地下”
“身元不明者多数”
“言語:翻訳呪文により一部解読可能”
そして最も重要な一行――
セシールの血:対象一名(確定)
レギュラスはそれを読み終え、薄く笑った。
笑みは穏やかで、どこまでも丁寧なのに、温度がない。
「必要なのは血です」
独り言のように呟いた。
セシールの血。完全な封印へ至る鍵。
海上の結界を“強固”から“完全”へ押し上げる要素。
――それ以外は、正直、いらない。
捕虜たちの奇妙な装飾品も、彼らの祈りも、古い儀礼も、時代遅れの言葉も。
この近代化しつつある魔法界において、それは価値にならない。
価値になるのは、結果だけだ。
だが。
ここで他の捕虜を全員始末すれば、あの女はどうなるだろう――と、レギュラスは考えた。
翡翠の瞳。
憎しみで尖った目。
呪いを吐き捨て、祖国へ戻せと叫んだ声。
彼女は、“守る”という条件を満たさなければ完全封印は発動しない。
そして彼女が守るものを失えば、心は壊れる。
壊れた女の血は、ただの血になる。
怒りと狂気だけが残り、誓いは立てられない。
――発狂するのだろう。
その結論が、レギュラスにとって脅威ではなく“手札の喪失”として浮かぶあたり、彼自身の冷たさがよくわかる。
彼は哀れみでは動かない。
動くのは目的だけだ。
扉が控えめに叩かれた。
「入れ」
静かな声。
入室を許す言葉に、許可の匂いがする。
許可する側の人間の声だ。
入ってきたのは、魔法兵指揮官――カシウス・ハロウだった。
軍装は整い、靴音は控えめで、背筋は一本の槍のようにまっすぐ。報告を持ってきた者特有の緊張がわずかに漂うが、瞳は揺れない。
「長官。捕虜について追加報告がございます」
「聞きましょう」
レギュラスは机の端に指先を置いたまま、視線だけを上げる。
穏やかな動作でありながら、拒絶の余地を与えない視線。
ハロウは資料を差し出し、続けた。
「捕虜たちの中に、セシールの血を引く女と親しかった人間が何名かいるようです」
レギュラスの瞳が、わずかに細くなる。
興味が、紙の上から立ち上がる。
「なるほど。使えそうですね」
声は柔らかい。
けれどその柔らかさは、獲物に刃を当てる直前の静けさに似ていた。
「男です? 女です?」
ハロウは一拍置いて答える。
「……両方です」
両方。
レギュラスは、ほんの少し笑った。
偶然とは思わない。
特別な血を持つ者の周囲には、特別な役割の人間が集まりやすい。守り手、補佐、あるいは――感情の錘。
女の方はおそらく、共に育った友人の枠だろう。
同じ土に触れ、同じ祭祀を見、同じ恐怖を知った者。
“信じ合う”という概念がまだ生きている世界で、彼女の精神を支えていた存在。
だが、男。
男は、違う匂いがした。
友人以上。
家族でもない距離。
彼女の感情を最も深く揺らす“何か”。
守るという意志を引き出すなら、恐怖だけでは足りない。
恐怖は人を固めるが、誓いを作るのはしばしば――愛や執着だ。
レギュラスは椅子に深く腰を預け、指先を組んだ。
その姿勢は優雅で、余裕に満ちている。余裕があるからこそ、恐ろしい。
「……では、分けましょう」
言葉はやさしい提案の形をしている。
けれど実態は、命の配属決定だった。
「女は任せます」
レギュラスはハロウに告げる。
「何かしらセシールの血についてわかるのであれば、吐かせてください」
吐かせて。
その言葉が、あまりにも静かに口から出るのが、逆に残酷だった。拷問の詳細を語らない。それは彼が“方法”に興味がないからではない。結果さえ出ればいいからだ。
ハロウは一瞬だけ眉を動かし、すぐに頷いた。
「承知いたしました」
レギュラスは続ける。視線はすでに次の盤面に移っている。
「男は――僕の方に呼んでください」
ハロウの目が、ほんのわずかに動いた。
指揮官としての直感が働いたのだろう。
“それは尋問では済まない”と。
だが彼は軍人だ。命令に従う。
「……かしこまりました。拘束状態で連れて参ります」
「結構です」
レギュラスは満足そうに頷いた。
こうして捕虜たちは、“生かされる理由”を与えられた。もちろん慈悲ではない。取引材料としての価値でしかない。
――セシールの血が必要なのであって、他のガラクタは正直いらない。
だが、いらないからこそ“使える”。
捨て駒は、使い方次第で王を縛る鎖にもなる。
レギュラスは、机上に置かれた捕虜一覧を指でなぞった。
名前のない者たち。番号で呼ばれる者たち。
彼らの生死は、今や自分の指先の上にある。
そして、その指先の先に――翡翠の瞳の女がいる。
男の方は、上手く使えば。
あの女を――ひいては“守りの血”を、自由に動かせる力を手に入れられる可能性がある。
意思。
儀礼語。
対象の明確化。
真名。
彼女が“守る”と決めなければ完全は発動しない。
ならば、彼女が守らざるを得ない状況を作る。
守らなければ、失う。
守れば、手に入る。
そしてその選択を“彼女の意思”に見せかける。
――美しい。
レギュラスは、口元に薄い微笑みを置いた。
それは勝利を確信した者の微笑みであり、同時に、これから人の心を壊して組み替える者の微笑みだった。
「ハロウ指揮官」
呼び止める声は穏やかだ。
「一つだけ」
ハロウが立ち止まり、振り向く。
「その男の様子は?」
「……抵抗はしますが、理性は保っています。女の名を何度も呼びました。こちらの言語は理解しているようです。翻訳呪文の必要は、恐らくありません」
レギュラスの瞳が、静かに光った。
必要ない。
それはつまり、最初から言葉が通じる。
言葉で折ることができる。
言葉で縛ることができる。
「素晴らしい」
レギュラスは微笑む。
「では、早めに。今夜のうちにでも」
ハロウは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
扉が閉まり、再び執務室に静けさが戻る。
レギュラスは書類を閉じ、指先で封緘の痕をなぞった。
外は夜だ。
けれど魔法省の地下で、イェルスの捕虜たちは眠れない。
そして彼は――眠らせるつもりもない。
“守る”という意志を引き出すには、眠りは邪魔だ。
苦痛も恐怖も、喪失も、取引も。
すべてを素材にして、彼女の選択を作り上げる。
レギュラスは静かに息を吐き、銀の瞳を伏せた。
「……さあ」
誰にも聞こえない声で呟く。
「あなたが何を守るか、選ばせてあげましょう」
それは慈悲の言葉の形をしている。
だがその中身は、鎖だった。
