1章
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食卓の端で、エルヤは静かに指先を組んでいた。
黒い布に包まれた椅子の背は高く、部屋の天井はやけに遠い。英国の屋敷の空間は、いつだって人間を小さく見せる。小さくしたまま、従わせるために作られているようだった。
その中で、いちばん変わったものが目に入る。
アランの視線の動きだ。
かつては、どんな場面でもアランの瞳はまず自分を探した。息をつく場所を探すように、助けの手を探すように。
それが今は――レギュラス・ブラックの声が響くと、そちらへ向く。瞬間的に怯えが差して、そしてすぐに、ほんの僅かに和らぐ。
その和らぎが、エルヤの腹の底を冷たくした。
誰に絆されているのか。
何に救われてしまっているのか。
あの男は、罪の元凶だ。
イェルスを焼き、父と母を奪い、同胞を散らし、アランの血を道具として扱い、命を犠牲にさせ、祈りを笑った男だ。
その男が、夜の書斎で笑う。柔らかい声で、体調を案じる。布をかける。酒の味を教える。箒の風を見せる。
――優しさの形を借りて、心の隙間に入り込む。
アランが罪に耐えきれなくなったところへ、その罪を生んだ男が手を差し伸べる。
それがどれほど残酷な構図か、エルヤにはわかる。
わかるのに、止められない。
「大丈夫」
アランがそう言った声が、耳の奥で何度も反響する。
あの時、自分は安堵した。安堵してしまった。
そのことが、今になって恐ろしくなる。
大丈夫という言葉が、真実ではなく隠し方になっている気がしたからだ。
抱きしめても、埋まらない。
腕の中に収めた瞬間、アランは確かに弱く息を吐く。
体温がこちらへ寄る。肩の力が少し落ちる。
それだけで、胸の奥が甘くなる。帰ってきた、と思う。
けれど、すぐにその甘さの底に別の色が混ざる。
――何かが、足りない。
抱きしめたのに。
口づけたのに。
かつてはそれだけで、世界が元に戻った。自分たちが自分たちに戻れた。
今は違う。
唇を重ねた瞬間にさえ、どこかに隙間が残る。
その隙間の形が、レギュラスの影に似ている気がして、吐き気がした。
埋まらない間に、入り込んでくる。
音もなく、当然の顔で。
まるで“最初からそこにいた”みたいに。
エルヤは、アランの指先を見る。
フォークを持つ角度が、前より整っている。
グラスを持つ手が、迷わなくなっている。
あの屋敷が叩き込んだ作法が、彼女の身体を少しずつこの国の形”に変えている。
それは、アランが強いからだ。適応してしまう。生き延びるために。
でも適応は、時に奪われることと同じだ。
アランがふと笑った。
レギュラスの何気ない言葉に対して――ほんの一瞬。
その笑みは、イェルスの火のそばで見た笑みに似ていた。
似ているから、エルヤは胸が締め付けられる。
あれは自分だけが引き出せると思っていた表情だった。
自分だけのものだと信じていた。
違う。違うはずだ。
アランは、そんな男に心を許すはずがない。
自分たちは誓った。真名も、未来も、星空の下で。
――なのに。
「焦るな」
頭の中で何度も言う。
焦ったところで、環境は変わらない。
この屋敷では、動けば死ぬ。腕の紋様がそれを教えている。
逆らえば、痛みが走る。息が詰まる。視界が黒くなる。
あの男の秩序の中で、焦りは自分の首を絞めるだけだ。
そう理解しているのに、心臓は勝手に速くなる。
奪われるという想像が止まらない。
レギュラスが笑うたびに、アランの警戒が薄れるたびに、
胸の内側が、ざりざりと削られていく。
呼吸が浅くなって、手のひらが汗ばむ。
それでも顔には出せない。出したら終わる。
自分は捕虜で、従者で、鎖で縛られた男だ。
自由に嫉妬することすら、許されない。
それでも、目だけは止められない。
アランの横顔。
瞬きの回数。
レギュラスが近づいたときの肩の動き。
拒絶の形が、以前より遅くなっていないか。
驚きが、困惑が、いつの間にか受け入れに変わっていないか。
一つ一つを数えるたび、焦りは増える。
増えた焦りは、どこにも逃がせない。
祈りを捧げる場所もない。神は遠い。
この国の天井の下では、祈りの言葉さえ監視される。
エルヤは、唇を噛んだ。
血の味が滲む。
抱きしめても、口づけても、埋まらない。
埋まらないから、もっと欲しくなる。
もっと触れたくなる。もっと確かめたくなる。
確かめれば確かめるほど、隙間が見えてしまう。
その隙間に、レギュラス・ブラックの影が差し込んでいる気がして、
エルヤは自分の中の何かが、壊れる音を聞いた。
怖い。
怖いのに、動けない。
そしていちばん恐ろしいのは――
アランの側で、アラン自身がその変化に気づかないふりをしているように見えることだった。
屋敷に戻るたび、同じ匂いがした。
磨かれた木と蝋、冷えた石の廊下、どこかに残る火の気配。いつもならそれはただの“帰還”でしかない。日々の延長線。次の命令を出すための場所。
けれど最近は、扉を開ける前の一瞬に、胸の奥がわずかに軽くなるのを感じる。
――いる。
確かめる必要もないのに、先に結論だけが落ちてくる。
あの翡翠が、あの小さな呼吸が、あの、癖のある間が。
部屋の中に足を踏み入れると、彼女はそこにいた。
灯りの下、黒の布に沈むように座っているのに、瞳だけは光を集める。いつ見ても不公平な色だと思う。あの色は、この屋敷の黒を汚すどころか、黒の価値を上げてしまう。腹立たしいほどに似合う。
「戻りました」
口に出す声は、いつも通りに整っているはずだった。
けれど返ってくる「おかえりなさい」が、少し遅れて、少し迷って、それでも出てくる。指導された正解の言葉だとわかっていても、その正解がこの部屋にあるという事実だけで満たされる。情けないほどに。
何かを奪い取った瞬間の満足とは違う。
勝ち取った富とも、屈服させた相手とも違う。
ただそこにいる、というだけで、体の奥の緊張がほどけていく。
その日あった出来事を、彼女はぽつりぽつりと話す。
大した話ではない。何の成果も生まない。国の地図を動かすでもない。戦況を左右するでもない。
けれど、それがいい。
「今日の教育係が、厳しかったです」
翡翠の瞳が少しだけ細くなる。溜息までは出さないが、言葉の端がほんのわずかに拗ねる。その拗ね方が、英国の女たちの上品な不満とは違って、妙に率直で、妙に生々しくて、笑いが漏れそうになる。
「そうですか」
わざと淡々と返すと、アランは少し眉を寄せた。
その反応が、もう面白い。
「ナイフの角度が違うと言われました。私……角度なんて、知りません」
「知る必要がない角度もありますよ」
「でも、怒られます」
「怒られるのが嫌ですか」
「……嫌です」
言い切るまでの間が、たまらない。
嫌だと言った瞬間、まるで自分が子どもみたいに感じて、悔しそうに視線を落とす。そういうところが、彼女の“そのままだ。整えられるほど、窮屈に見える。
「あなたは、完璧な英国の淑女にならなくていい」
口にした自分の言葉に、いちばん驚いたのは自分だった。
今まで、手に入れたいものは全部手に入れなければ気が済まなかった。
奪ってでも、壊してでも、形を変えてでも、自分の手中に収めてきた。そうしなければ世界は自分を裏切る。そう思って生きてきた。
なのに、最近は違う。
彼女の崩れが消えてしまうのが、怖い。
あの国の匂いが、言葉の癖が、木に登りたがる常識外れの発想が、食べ方の拙さが、恐れの中で必死に立っている歪さが――全部、消えてしまうのが。
完璧に整えたら、手に入ったことになるはずなのに。
完璧にした瞬間、失う気がする。
壊すくらいなら、そのままでいてほしい。そんな発想が、自分の中から生まれることが不思議だった。
アランは、その言葉をどう受け取ればいいかわからない顔をした。
翡翠が揺れる。疑いと警戒と、それでもほんの少しの安堵が混じった色。
「……怒られなくて、いいんですか」
「怒らせたいのは、僕だけで十分でしょう」
冗談のつもりで言うと、彼女の頬が一瞬だけ赤くなった。
その赤が、煽る。
自分の中の悪意が、愉しさに変わるのがわかる。
けれど今日は、その愉しさすら柔らかい。
ソファの横に座り、肩を抱き寄せる。
彼女は硬くなるが、すぐには離れない。最初の頃なら跳ねたはずの身体が、今は“耐える”という形でそこにいる。耐えることが許しで、許しが距離になる。そんな日々の積み重ねが、いつのまにか当たり前になりつつある。
口づける。
深くはしない。求めさせるほど追い詰めもしない。
ただ触れて、離れて、また言葉を続ける。
それだけで、十分だと思えてしまう。
彼女が落ちなくてもいい、と思い始めている自分がいる。
落としたいと思っていたはずなのに。
あんなに、あの男から奪いたいと思っていたはずなのに。
帰ったら部屋にいて、なんでもない話をして、頷いて、返して。
時々抱き寄せて、時々口づけて、そして眠る。
それだけで、随分と満たされる。
弱さを許された気がした。
いや、弱さを“許してもいい”相手ができた気がした。
この世界で唯一、鎧を脱がせてくれる場所。
それは、支配とも規律とも違う。
ただの“居場所”だ。
夜が更けるほど、彼女のまぶたは重くなる。
言葉が短くなっていく。返事が遅くなっていく。
その遅れすら心地よい。無防備に近い。
眠りに落ちる瞬間、彼女の呼吸が揃っていくのを感じると、妙に胸が静かになる。
「……今日は、もう寝ます」
小さな声。
「ええ」
毛布を引き上げる。
それは命令でも規則でもない。
ただ、そうしたいからそうする。
そしてふと思う。
全部を手に入れなくても、いい。
手に入れ損ねたままでも、この日常が続くなら。
側にいて話をして、時々触れることが当たり前になるなら。
落とすことよりも、ここにいることの方が、今はずっと、満たしてくる。
それが自分にとってどれほど危険な変化か、理解している。
理解しているのに、止めようと思わない。
扉の向こうに世界が広がっている。
侵略も、命令も、地図も、数字も、犠牲もある。
けれど、この部屋の中だけは、ただ翡翠が静かに光っている。
――それで、十分だと。
そう思ってしまう自分が、いちばん恐ろしかった。
エルヤ・ナイームという男の厄介さは、腕に刻んだ紋様だけでは縛り切れない種類のものだった。
従う。
命令には逆らわない。
この屋敷の秩序を理解したふりをする。
――それでも、あの男の目だけは、最後まで折れない。
アランを見るときの視線。
あれが邪魔だった。ひどく。
食卓で。廊下で。作業の合間で。
ほんの一瞬でも彼女と目が合えば、その瞬間に空気が変わる。あの男の中にある“帰る場所”が、翡翠の瞳を通して這い出してくる。
祖国だの、誓いだの、神だの。
そんな曖昧で、形のないものを、あんなにも強い確信として握っているのが気に入らない。
あの男が、アランの中にいる限り。
手に入る範囲が、確実に狭まる。
完全に落とせない理由がそこにある。
アランがこちらに寄るたび、必ずどこかで“引き戻す手”がある。
それは彼女の誇りでもあり、傷でもあり――そして、あの男そのものだ。
処分することなど、容易い。
命令ひとつ。紋様ひとつ。あるいは事故ひとつ。
兵の数と同じくらい、死の形は用意できる。いくらでも。
けれど、得策ではない。
アランは許さない。
許さないだけではない。彼女の中の何かが決定的に折れる。
折れればいい、と思っていた時期もあった。泣いて縋って、完全にこちらに依存してしまえばいいと。
だが今は――折れてほしくない。
翡翠の瞳が濁るのは見たくない。
あの瞳が、こちらを見なくなるのは、もっと嫌だった。
だから、別の方法が必要だった。
レギュラスは執務机の前で、ゆっくりと指を組む。
夜更け。屋敷は静まり返っている。遠くで時計が鳴り、暖炉の火が小さく音を立てる。
壁に掛かった地図も、今日は開いていない。駒もない。報告書も閉じられている。
この部屋の中だけは、軍も戦も消えていた。
それでも頭の中だけは、いつものまま冷える。
――エルヤ・ナイームに別の女をあてがう。
その発想は、あまりにも単純で、そしてあまりにも効率的だった。
若い男だ。
それなりの女を与えれば、転ぶ可能性は高い。
祖国の言葉で誓い合ったから何だというのか。
人間の忠誠は、腹が満ち、肌が温まり、明日の不安が消えれば、驚くほど簡単に形を変える。
特に、報酬の仕組みを知ってしまった人間は。
この屋敷には、女がいる。
使用人の中にも、外から出入りする者の中にも。
それなりの顔立ちをして、それなりに現実を知っている女はいくらでもいる。
そして彼女たちの多くは、報酬に弱い。家族に弱い。借金に弱い。地位に弱い。
弱点がある人間ほど、動かしやすい。
レギュラスは小さく息を吐く。
嫌悪が、喉の奥に薄く残る。
女を与えるという言い方が、いかにも下品だ。
だが、下品な策ほど、世の中ではよく効く。
机の上の銀のベルに指先を触れた。
呼べば執事は来る。
呼べば、名簿も、経歴も、弱点も、すぐに並ぶ。
この屋敷には、いつでも人を選別するための情報が揃っている。
けれど、鳴らさなかった。
代わりに、扉の向こうを思い浮かべる。
エルヤが立つ場所。
アランの背後に影のように寄り添う、あの姿。
彼は従っている。
しかし心の中では、ずっと別の秩序を握っている。
その秩序の中心に、アランがいる。
その事実が、苛立たしい。
同時に、妙な興味も煽る。
――どれほど与えれば、崩れるのか。
――どれほど甘いものを差し出せば、手を伸ばすのか。
レギュラスの口元に、笑みの形だけが浮かぶ。冷たい笑みだ。
だが、その笑みの裏には、別の温度が混じっていることを自覚してしまう。
アランの前では見せたくない種類の、不純な熱。
「……一途、ですか」
独り言が落ちる。
たった一人に向けた忠誠。
その一点だけで、ここまで頑丈に立っている。
馬鹿げている。
美徳のように語られるのも気に入らない。
美徳は時に、最も邪魔な障害物になる。
レギュラスは椅子から立ち上がり、窓辺へ向かう。
夜の庭は黒く沈み、木々が風で揺れている。
外の闇は、彼が生きてきた世界そのものだ。秩序の外にある混沌。
それを眺めながら、頭の中で策を組み立てる。
女は誰がいい。
軽すぎる女では駄目だ。エルヤは警戒心が強い。
同情を引ける、真面目そうな女。
困窮しているが品位は保っている女。
救われたい女は、救う側に見せかけた檻を受け入れやすい。
家族がいればなおいい。
家族の病。弟の学費。父の負債。母の薬。
理由がある女は、理由で動く。
それに報酬を付ける。
金だけでは足りない。金は消える。
地位を与える。住む場所を与える。衣食住を保証する。
そして――家族にも同じだけ与える。
そうすれば女は裏切れない。
女が裏切れなければ、エルヤも逃げられない。
簡単だ。
あまりにも簡単で、笑えてくる。
なのに、胸の奥に小さな棘が残る。
この策が成功したとき、アランはどういう顔をするのか。
あの男が別の女に手を伸ばしたと知ったとき、翡翠の瞳はどんな色になるのか。
――泣くだろうか。
――怒るだろうか。
――それとも、何も言わずに、ただ静かに壊れるだろうか。
想像して、腹の底がぞくりと冷える。
その冷えは愉しさに似ている。だが、それだけではない。
どこかで、嫌な不安も混じっている。
壊すくらいなら、そのままでいてほしい。
最近芽生えた、あの不合理な願いが、こういうところで顔を出す。
レギュラスは目を細める。
窓ガラスに映る自分の顔は、相変わらず端正で、相変わらず冷たい。
その冷たさの奥に、どれほどの矛盾が潜んでいるかを、誰にも見せたくなかった。
「……処分は簡単です」
声に出して確認する。
自分に言い聞かせるように。
「だから、簡単な方を選ぶ必要はない」
あくまで得策を取る。
そういうことにしておく。
レギュラスは窓から背を向け、机へ戻った。
ベルに指が触れる。今度こそ鳴らすのかと思った。
だが、やはり鳴らさない。
代わりに、机の端に置かれたグラスを持ち上げ、一口だけ酒を含む。
甘い。酸味がある。赤い液体は喉を温める。
けれど胸の中の苛立ちは、温まらない。
エルヤ・ナイームの一途さは邪魔だ。
邪魔で――そして、羨ましいとすら思ってしまいそうになるから、なおさら邪魔だった。
その夜、レギュラスは結局、誰の名も呼ばなかった。
策だけが、静かに、黒い水面の底で形を整えていった。
いつでも引き上げられるように。
いつでも、翡翠の瞳から“あの男”を剥がすために。
屋敷の中に、ひとつだけ“異物”を増やした。
名は――エヴリン・グレイ
母親と二人暮らし。父は早くに亡くし、若い肩に生活がのしかかっていると聞いた。けれど貧しさの匂いを纏わない女だった。
顔立ちは平均以上、派手さはない。むしろその控えめさが、品のよさを際立たせる。声は柔らかいが、媚びない。礼儀作法は最初から身についていた。指先の動きに乱れがなく、目線の落とし方がきれいだった。
――こういう女は、厄介な男を落とせる。
少なくとも、そう思えた。
レギュラスは執務机の前で、薄い紙束を指先で整える。戦況報告とは別の、どうでもいい書類。だが、それが今夜の苛立ちの正体だった。
「……で?」
淡々と問いかける声に、向かい側のエヴリンが小さく背筋を正した。控えめに頭を下げる。その所作だけは確かに美しい。けれど、口から出てくる内容は、毎回、同じように無価値だった。
「本日は、洗濯室でお会いしました。エルヤ様は――」
「様はいりません」
語尾を切ると、エヴリンはすぐに言い直す。
「……エルヤ・ナイームは、礼を言って通り過ぎました。私が籠を持とうとしたのですが、『自分でできる』と……」
それだけか、と喉の奥が冷える。
机の上には、同じ質感の紙が何枚も積まれている。
通り過ぎた。
目を合わせなかった。
必要以上に話さない。
仕事の手を止めない。
指先が早い。
礼儀だけは正しい。
逐一、律儀に書かれているのに。
どれも、どうでもよすぎた。
レギュラスはグラスに指をかけ、氷が溶ける音だけを聞いた。酒はまだ喉に落とさない。落としたところで、この苛立ちは薄まらない。
「……あなたは、何をしにここへ来たんです?」
ゆっくりと問うと、エヴリンの睫毛が一度だけ震えた。怯えではない。困惑でもない。――自分の立場を理解した上での、緊張だ。
「申し訳ありません。私は、できる限り近づいております。けれど、彼は……」
「彼は?」
「……線を引いています。誰に対しても」
それは、報告書の最初からずっと読んでいる。
エルヤ・ナイームは、誰にも甘くならない。
礼儀を学び、英国語を学び、指示には従う。
だが、心の扉は閉じたまま。いや、閉じているというより――最初から、そこに“入るべき人間”が決まっている。
アランだけ。
その一点の頑なさが、腹立たしいほど眩しく、そして鬱陶しい。
レギュラスは紙束を置き、指を組んだ。爪先から喉まで、静かに怒りが満ちていくのがわかる。声を荒らげれば終わりだ。そんなことはしたくない。自分の支配は、もっと洗練されているべきだった。
けれど、洗練が追いつかないほど、報告が“薄い”。
「食事の席では」
「離れたところに座ります。必要なこと以外、口を開きません」
「庭では」
「通り過ぎます」
「廊下では」
「挨拶をして終わりです」
「……それで?」
自分でも笑いそうになる。
こんな些細なことで、こんなにも時間を取られている。
戦艦だの陸戦だの、国を動かす決裁だの――そういうものの間に、男一人の視線の向け先をねじ曲げる案件が混じっている。
下品だ。
馬鹿げている。
情けない。
それでも、引き返せない。
エルヤがアランに残っている限り、こちらの手は必ずどこかで止まる。
止まるのが嫌だった。
自分が止まらされるのが、もっと嫌だった。
レギュラスは、静かに息を吐いた。
「……エヴリン」
名を呼ぶと、女は小さく顔を上げた。目はまっすぐだ。卑屈ではない。だが、ここにいる理由を理解している目でもある。――報酬と引き換えに、誰かの心を揺らす役目。
「あなたは、彼を落とすために用意した」
口に出した瞬間、胸の奥がわずかに痒くなる。
自分で自分を軽蔑したくなる。
こんな言葉を、こんな用途で使う日が来るとは。
エヴリンは一瞬だけ視線を伏せ、それから丁寧に頷いた。
「はい」
その返事が、なおさら腹立たしい。
従順な返事が欲しかったわけではない。
結果が欲しい。結果だけが欲しい。
「彼は、あなたに興味を示さない」
「……はい」
「あなたが品よく振る舞うほど、余計に距離を取る」
レギュラスは唇の端に笑みを作る。笑っているようで、笑っていない。
「誠実な男ですね。――滑稽なくらいに」
エヴリンは何も返さない。返せない。
自分の報告が“失敗”であることを、彼女自身が一番理解している。
レギュラスは肘を机につき、指先でこめかみを軽く押さえた。頭が痛いわけではない。苛立ちが、脳の内側を冷たく撫でるような感覚があるだけだ。
「そろそろ……」
言葉が喉で引っかかる。
こんな命令、今まで下したことがない。
処刑命令のほうがずっと上品に聞こえるほどだ。
それでも、口にしなければ進まない。
「そろそろ、何か仕掛けられませんか」
自分の声が、自分のものではないみたいだった。
品位が落ちる音がした。
それでも言った。言ってしまった。
エヴリンの頬がほんの少しだけ強張る。羞恥ではない。覚悟の色だ。
女は息を吸い、静かに答えた。
「……彼の弱点は、私ではありません」
その言葉が、胸の奥を刺す。わかっている。
弱点は、アランだ。
だからこそ、こんな遠回りをしている。
「ですが」
エヴリンが続ける。
「彼女のためになるという形でなら、彼は動きます。私に興味がなくても、彼女を守るためなら……」
レギュラスの瞳が細くなる。
「つまり?」
「アラン・セシールが困る状況を作れば、彼は私の方へ視線を向けます。……彼女の負担を減らす、と言って」
それは策としては理解できる。
だが、その策の中でアランを困らせるという発想が出た瞬間、胸の内側が妙にざらついた。
苛立ちなのか。
不快なのか。
それとも、別の何かなのか。
レギュラスはグラスを持ち上げ、やっと一口だけ酒を飲んだ。甘い酸味が舌に残る。
「アランを巻き込むのは――」
言いかけて、やめる。
何を躊躇している。
自分は何度でもアランを巻き込んできた。血も、罪も、呪いも、全て巻き込んで動かしてきた。
今さら巻き込むのはなどと、どの口が言う。
レギュラスは静かに笑った。自嘲に近い笑み。
「……いいでしょう」
許可を出す声が、落ち着いているのが腹立たしい。
冷静でいられる自分が、ますます情けない。
「ただし、条件があります」
エヴリンが目を上げる。
「アランを壊すような真似はしない。彼女の前で見せしめのようなことも、不要です。――あなたは品よく仕掛けなさい」
自分が何を言っているのか、内心で笑いそうになった。
品よく仕掛ける。
どれほど矛盾した命令だろう。
けれどエヴリンは、はっきりと頷く。
「承知しました」
立ち上がり、もう一度頭を下げて去っていく背中を見送りながら、レギュラスは机に残った紙束へ視線を落とした。
白い紙の上に並ぶ、どうでもいい進展のない日々。
そこに自分の苛立ちが、みっともなく染みついている。
――早く。
喉の奥で、言葉にならない命令が膨らむ。
早く、あの男の一途さを折りたい。
早く、アランの中の彼を薄めたい。
早く、こちらだけを見上げる翡翠にしたい。
欲しいものを欲しいと認めるたびに、品位が削られていくのに。
それでも、削られたぶんだけ、欲が研ぎ澄まされていくのがわかる。
レギュラスはベルを鳴らさなかった。
ただ、薄い笑みのまま、次の報告が届く未来を思い描いた。
今度こそ、退屈ではない報告であることを。
そしてその報告が、胸の奥のざらつきを――勝利という形で塗り潰してくれることを。
エヴリン・グレイが、最初に覚えたのは「呼吸の整い方」だった。
屋敷の廊下を歩く足音。扉の開閉。報告の声。誰かの笑い。そういうものが日常の中で擦れ合っても、彼――エルヤ・ナイームの呼吸だけは、いつも同じ間隔で胸を上下させていた。乱れない。乱してはいけない、と自分に言い聞かせるように。けれど、誰かにその内側を覗かせないための壁のようにも見えた。
初めは命令だった。
レギュラス・ブラックの一言で、彼に近づく役目を与えられた。拒む選択肢がないことくらい、エヴリンは知っている。母と二人暮らし。頼れる家も、戻る故郷も、今は形だけの地図の上にしか残っていない。屋敷に置かれるというのは、保護であり、鎖であり、生活の保証だった。
だから、笑って頷き、言われた通りにした。
――けれど、彼は優しかった。
想像していたのは、もっと鋭い反発だった。蔑みか、怒りか、無視か。ところがエルヤは、目が合えば軽く会釈を返し、話しかければ必要なだけの言葉を返した。言葉の隙間に、相手を傷つける棘がない。何かを求める目線もない。触れようとしない。近づき過ぎない。けれど、冷たいわけでもない。
たとえば、作業場で糸が指に絡みついて、エヴリンが小さく息を詰めたとき。
「指を切ります」
低い声が落ちてくるより先に、彼の手が動いた。自分の手を掴むのではなく、糸の端を持ち上げ、絡みを外し、刃物の位置をずらす。説明は短いのに、怖くない。やっていることは親切なのに、距離は保たれている。
その「保ち方」が、残酷なくらい上手だった。
女たちが惹かれるのも、わかってしまう。必要以上に踏み込まないからこそ、相手は勝手に踏み込みたくなる。自分だけが特別に見えてしまう。けれど実際には、彼は誰に対しても同じ温度で、同じ高さの壁を置いているだけだ。
そして、その壁の向こうに、すでに一つだけ、色がある。
翡翠。
アラン・セシールの瞳の色が、彼の中で動かないことを、エヴリンは最初の数日で悟った。どれほど視界に入ろうとしても、どれほど自分を整えようとしても、あの翡翠色がある限り、勝負にすらならない。比べるものではない。あれは恋だ。誓いだ。帰る場所だ。失った祖国よりも、守るべき「人」になってしまったものだ。
それが、少し羨ましくて、少し痛かった。
エヴリンにも、かつては国があった。家があった。父がいた。季節の匂いが、町の音が、当たり前に続くと思っていた暮らしが。
けれど紛争が始まり、食べ物が減り、夜の足音が増え、父の顔が日々疲れていき、ある日を境に「ここを出るしかない」と言われた。選んだのは生き残ることだった。自分の意思で、この国へ来た。だから、連れてこられた彼とは違う――違う、はずなのに。
「故郷を失う」感覚だけは、同じ匂いがした。
だから、正面から落とすやり方を、エヴリンは捨てた。
彼の心の中心に翡翠があるのなら、そこへ無理に割り込むのではなく、周縁に触れる。彼が抱えているものを、少しだけ軽くする。聞き役になる。話させる。語らせる。語った分だけ、息を吸えるようになるから。
その夜、作業が一段落した頃合い。人の気配が薄くなった廊下の端で、エヴリンは彼の隣に立った。横に並ぶのではない。少し後ろ。視界を邪魔しない位置。
「……ねえ」
呼びかける声が震えないように、喉を整える。
エルヤが顔を向けた。整った横顔。けれどその美しさより、目の奥の静かな決意の硬さの方が怖い。
「あなたの国で、これはなんと言うの?」
エヴリンは、自分の掌に乗せていた小さな木の欠片を見せた。修繕で余った端材。何でもないもの。だからこそ、答えやすい。
彼の視線が木片に落ちる。ほんの一瞬、呼吸の間隔が変わった気がした。
「……それは」
口を開きかけて、閉じる。言葉を選んでいる。英国語の問題ではない。言ってしまえば、そこから連鎖する何かがあると、彼は知っている。
エヴリンは追い打ちしない。笑わない。困らせない。ただ、待った。
しばらくして、彼は小さく息を吐く。
「……僕たちの言葉では」
音の並びが、英国語とは違う柔らかさで紡がれた。耳に馴染まない、けれど不思議と落ち着く響き。たったそれだけで、エヴリンの胸の奥が微かに疼いた。
「きれいな言葉」
褒めると、彼はすぐに視線を逸らす。照れではなく、防衛。褒め言葉が、距離を縮める刃になることを知っているから。
「どんな食べ物を食べていたの?」
次の質問は、もっと軽いはずだった。けれど彼は、少しだけ眉を寄せる。思い出す味に、痛みが混ざっているのだろう。
「獣の肉。……魚も。果物もあった」
「果物は、甘い?」
「甘い。…… アランが、好きだった」
その名前が落ちた瞬間、彼の表情がわずかに崩れた。壁の向こうから、翡翠色が漏れるみたいに。言ってしまった、と自分で気づいたように、口元が硬くなる。
エヴリンは、胸の奥で小さく勝った気がした。勝利じゃない。侵入でもない。ただ、彼が初めて自分の口から、アランの輪郭を外へ滲ませた。それだけで、計画の歯車が回った気がした。
「夏はどのくらい暑いの?」
エヴリンは、わざと季節の話に戻した。痛みから目を逸らすためではなく、痛みを包むために。重さのある話をしたら、軽い話で息をさせる。そうやって人は、少しずつ言葉を取り戻す。
彼は少し迷ってから、答えた。
「日差しが強い。……でも、風が通る」
「風の匂いは?」
「……土と、草と。火の匂いも」
火。
その一語に、彼の喉が僅かに詰まるのがわかった。焼けた祖国の匂い。血の匂い。泣き声。鎖。あの日のすべて。
エヴリンは黙った。慰めの言葉は言わない。軽々しく「大変だったね」などと口にすれば、その瞬間に彼は壁を立て直す。彼が欲しいのは同情ではない。彼が守っているものを、誰かが勝手に覗かないことだ。
だから、エヴリンはただ頷いた。
「……教えてくれて、ありがとう」
彼はエヴリンを見た。驚きの色が僅かに浮かぶ。感謝されることに慣れていない目だった。あるいは、感謝を受け取ることが、彼にとって「許し」に似ていて怖いのかもしれない。
「僕は……」
言いかけて、また止まる。
その沈黙が、今までよりも長かった。けれどエヴリンは焦らない。焦った瞬間、すべてが命令の匂いに戻ってしまう。
やがて彼は、ほんの小さく頭を下げた。
「……どういたしまして」
たったそれだけ。
それでも、エヴリンは確信した。
この男は隙がないのではない。隙を作らないように生きているだけだ。
そしてその隙のない胸の奥には、翡翠色の誓いが根を張っている。だからこそ、エヴリンはそこを奪おうとはしない。奪えないと知っているし、奪うこと自体が彼を壊す。
壊れたものは、役に立たない。
――レギュラスに報告するべき言葉が、ふっと脳裏を過ぎる。
けれど、今だけは。
エヴリンは、自分の中の薄い罪悪感を押し込めて、彼の横顔を見つめた。
少しずつでいい。ほんの少しずつでいい。
彼が話したくなる言葉を、積み重ねていく。
翡翠の瞳に敵わないと知りながら、それでも。
人が人を好きになる理由は、勝ち負けじゃないのだと――自分に言い訳しながら。
黒い布に包まれた椅子の背は高く、部屋の天井はやけに遠い。英国の屋敷の空間は、いつだって人間を小さく見せる。小さくしたまま、従わせるために作られているようだった。
その中で、いちばん変わったものが目に入る。
アランの視線の動きだ。
かつては、どんな場面でもアランの瞳はまず自分を探した。息をつく場所を探すように、助けの手を探すように。
それが今は――レギュラス・ブラックの声が響くと、そちらへ向く。瞬間的に怯えが差して、そしてすぐに、ほんの僅かに和らぐ。
その和らぎが、エルヤの腹の底を冷たくした。
誰に絆されているのか。
何に救われてしまっているのか。
あの男は、罪の元凶だ。
イェルスを焼き、父と母を奪い、同胞を散らし、アランの血を道具として扱い、命を犠牲にさせ、祈りを笑った男だ。
その男が、夜の書斎で笑う。柔らかい声で、体調を案じる。布をかける。酒の味を教える。箒の風を見せる。
――優しさの形を借りて、心の隙間に入り込む。
アランが罪に耐えきれなくなったところへ、その罪を生んだ男が手を差し伸べる。
それがどれほど残酷な構図か、エルヤにはわかる。
わかるのに、止められない。
「大丈夫」
アランがそう言った声が、耳の奥で何度も反響する。
あの時、自分は安堵した。安堵してしまった。
そのことが、今になって恐ろしくなる。
大丈夫という言葉が、真実ではなく隠し方になっている気がしたからだ。
抱きしめても、埋まらない。
腕の中に収めた瞬間、アランは確かに弱く息を吐く。
体温がこちらへ寄る。肩の力が少し落ちる。
それだけで、胸の奥が甘くなる。帰ってきた、と思う。
けれど、すぐにその甘さの底に別の色が混ざる。
――何かが、足りない。
抱きしめたのに。
口づけたのに。
かつてはそれだけで、世界が元に戻った。自分たちが自分たちに戻れた。
今は違う。
唇を重ねた瞬間にさえ、どこかに隙間が残る。
その隙間の形が、レギュラスの影に似ている気がして、吐き気がした。
埋まらない間に、入り込んでくる。
音もなく、当然の顔で。
まるで“最初からそこにいた”みたいに。
エルヤは、アランの指先を見る。
フォークを持つ角度が、前より整っている。
グラスを持つ手が、迷わなくなっている。
あの屋敷が叩き込んだ作法が、彼女の身体を少しずつこの国の形”に変えている。
それは、アランが強いからだ。適応してしまう。生き延びるために。
でも適応は、時に奪われることと同じだ。
アランがふと笑った。
レギュラスの何気ない言葉に対して――ほんの一瞬。
その笑みは、イェルスの火のそばで見た笑みに似ていた。
似ているから、エルヤは胸が締め付けられる。
あれは自分だけが引き出せると思っていた表情だった。
自分だけのものだと信じていた。
違う。違うはずだ。
アランは、そんな男に心を許すはずがない。
自分たちは誓った。真名も、未来も、星空の下で。
――なのに。
「焦るな」
頭の中で何度も言う。
焦ったところで、環境は変わらない。
この屋敷では、動けば死ぬ。腕の紋様がそれを教えている。
逆らえば、痛みが走る。息が詰まる。視界が黒くなる。
あの男の秩序の中で、焦りは自分の首を絞めるだけだ。
そう理解しているのに、心臓は勝手に速くなる。
奪われるという想像が止まらない。
レギュラスが笑うたびに、アランの警戒が薄れるたびに、
胸の内側が、ざりざりと削られていく。
呼吸が浅くなって、手のひらが汗ばむ。
それでも顔には出せない。出したら終わる。
自分は捕虜で、従者で、鎖で縛られた男だ。
自由に嫉妬することすら、許されない。
それでも、目だけは止められない。
アランの横顔。
瞬きの回数。
レギュラスが近づいたときの肩の動き。
拒絶の形が、以前より遅くなっていないか。
驚きが、困惑が、いつの間にか受け入れに変わっていないか。
一つ一つを数えるたび、焦りは増える。
増えた焦りは、どこにも逃がせない。
祈りを捧げる場所もない。神は遠い。
この国の天井の下では、祈りの言葉さえ監視される。
エルヤは、唇を噛んだ。
血の味が滲む。
抱きしめても、口づけても、埋まらない。
埋まらないから、もっと欲しくなる。
もっと触れたくなる。もっと確かめたくなる。
確かめれば確かめるほど、隙間が見えてしまう。
その隙間に、レギュラス・ブラックの影が差し込んでいる気がして、
エルヤは自分の中の何かが、壊れる音を聞いた。
怖い。
怖いのに、動けない。
そしていちばん恐ろしいのは――
アランの側で、アラン自身がその変化に気づかないふりをしているように見えることだった。
屋敷に戻るたび、同じ匂いがした。
磨かれた木と蝋、冷えた石の廊下、どこかに残る火の気配。いつもならそれはただの“帰還”でしかない。日々の延長線。次の命令を出すための場所。
けれど最近は、扉を開ける前の一瞬に、胸の奥がわずかに軽くなるのを感じる。
――いる。
確かめる必要もないのに、先に結論だけが落ちてくる。
あの翡翠が、あの小さな呼吸が、あの、癖のある間が。
部屋の中に足を踏み入れると、彼女はそこにいた。
灯りの下、黒の布に沈むように座っているのに、瞳だけは光を集める。いつ見ても不公平な色だと思う。あの色は、この屋敷の黒を汚すどころか、黒の価値を上げてしまう。腹立たしいほどに似合う。
「戻りました」
口に出す声は、いつも通りに整っているはずだった。
けれど返ってくる「おかえりなさい」が、少し遅れて、少し迷って、それでも出てくる。指導された正解の言葉だとわかっていても、その正解がこの部屋にあるという事実だけで満たされる。情けないほどに。
何かを奪い取った瞬間の満足とは違う。
勝ち取った富とも、屈服させた相手とも違う。
ただそこにいる、というだけで、体の奥の緊張がほどけていく。
その日あった出来事を、彼女はぽつりぽつりと話す。
大した話ではない。何の成果も生まない。国の地図を動かすでもない。戦況を左右するでもない。
けれど、それがいい。
「今日の教育係が、厳しかったです」
翡翠の瞳が少しだけ細くなる。溜息までは出さないが、言葉の端がほんのわずかに拗ねる。その拗ね方が、英国の女たちの上品な不満とは違って、妙に率直で、妙に生々しくて、笑いが漏れそうになる。
「そうですか」
わざと淡々と返すと、アランは少し眉を寄せた。
その反応が、もう面白い。
「ナイフの角度が違うと言われました。私……角度なんて、知りません」
「知る必要がない角度もありますよ」
「でも、怒られます」
「怒られるのが嫌ですか」
「……嫌です」
言い切るまでの間が、たまらない。
嫌だと言った瞬間、まるで自分が子どもみたいに感じて、悔しそうに視線を落とす。そういうところが、彼女の“そのままだ。整えられるほど、窮屈に見える。
「あなたは、完璧な英国の淑女にならなくていい」
口にした自分の言葉に、いちばん驚いたのは自分だった。
今まで、手に入れたいものは全部手に入れなければ気が済まなかった。
奪ってでも、壊してでも、形を変えてでも、自分の手中に収めてきた。そうしなければ世界は自分を裏切る。そう思って生きてきた。
なのに、最近は違う。
彼女の崩れが消えてしまうのが、怖い。
あの国の匂いが、言葉の癖が、木に登りたがる常識外れの発想が、食べ方の拙さが、恐れの中で必死に立っている歪さが――全部、消えてしまうのが。
完璧に整えたら、手に入ったことになるはずなのに。
完璧にした瞬間、失う気がする。
壊すくらいなら、そのままでいてほしい。そんな発想が、自分の中から生まれることが不思議だった。
アランは、その言葉をどう受け取ればいいかわからない顔をした。
翡翠が揺れる。疑いと警戒と、それでもほんの少しの安堵が混じった色。
「……怒られなくて、いいんですか」
「怒らせたいのは、僕だけで十分でしょう」
冗談のつもりで言うと、彼女の頬が一瞬だけ赤くなった。
その赤が、煽る。
自分の中の悪意が、愉しさに変わるのがわかる。
けれど今日は、その愉しさすら柔らかい。
ソファの横に座り、肩を抱き寄せる。
彼女は硬くなるが、すぐには離れない。最初の頃なら跳ねたはずの身体が、今は“耐える”という形でそこにいる。耐えることが許しで、許しが距離になる。そんな日々の積み重ねが、いつのまにか当たり前になりつつある。
口づける。
深くはしない。求めさせるほど追い詰めもしない。
ただ触れて、離れて、また言葉を続ける。
それだけで、十分だと思えてしまう。
彼女が落ちなくてもいい、と思い始めている自分がいる。
落としたいと思っていたはずなのに。
あんなに、あの男から奪いたいと思っていたはずなのに。
帰ったら部屋にいて、なんでもない話をして、頷いて、返して。
時々抱き寄せて、時々口づけて、そして眠る。
それだけで、随分と満たされる。
弱さを許された気がした。
いや、弱さを“許してもいい”相手ができた気がした。
この世界で唯一、鎧を脱がせてくれる場所。
それは、支配とも規律とも違う。
ただの“居場所”だ。
夜が更けるほど、彼女のまぶたは重くなる。
言葉が短くなっていく。返事が遅くなっていく。
その遅れすら心地よい。無防備に近い。
眠りに落ちる瞬間、彼女の呼吸が揃っていくのを感じると、妙に胸が静かになる。
「……今日は、もう寝ます」
小さな声。
「ええ」
毛布を引き上げる。
それは命令でも規則でもない。
ただ、そうしたいからそうする。
そしてふと思う。
全部を手に入れなくても、いい。
手に入れ損ねたままでも、この日常が続くなら。
側にいて話をして、時々触れることが当たり前になるなら。
落とすことよりも、ここにいることの方が、今はずっと、満たしてくる。
それが自分にとってどれほど危険な変化か、理解している。
理解しているのに、止めようと思わない。
扉の向こうに世界が広がっている。
侵略も、命令も、地図も、数字も、犠牲もある。
けれど、この部屋の中だけは、ただ翡翠が静かに光っている。
――それで、十分だと。
そう思ってしまう自分が、いちばん恐ろしかった。
エルヤ・ナイームという男の厄介さは、腕に刻んだ紋様だけでは縛り切れない種類のものだった。
従う。
命令には逆らわない。
この屋敷の秩序を理解したふりをする。
――それでも、あの男の目だけは、最後まで折れない。
アランを見るときの視線。
あれが邪魔だった。ひどく。
食卓で。廊下で。作業の合間で。
ほんの一瞬でも彼女と目が合えば、その瞬間に空気が変わる。あの男の中にある“帰る場所”が、翡翠の瞳を通して這い出してくる。
祖国だの、誓いだの、神だの。
そんな曖昧で、形のないものを、あんなにも強い確信として握っているのが気に入らない。
あの男が、アランの中にいる限り。
手に入る範囲が、確実に狭まる。
完全に落とせない理由がそこにある。
アランがこちらに寄るたび、必ずどこかで“引き戻す手”がある。
それは彼女の誇りでもあり、傷でもあり――そして、あの男そのものだ。
処分することなど、容易い。
命令ひとつ。紋様ひとつ。あるいは事故ひとつ。
兵の数と同じくらい、死の形は用意できる。いくらでも。
けれど、得策ではない。
アランは許さない。
許さないだけではない。彼女の中の何かが決定的に折れる。
折れればいい、と思っていた時期もあった。泣いて縋って、完全にこちらに依存してしまえばいいと。
だが今は――折れてほしくない。
翡翠の瞳が濁るのは見たくない。
あの瞳が、こちらを見なくなるのは、もっと嫌だった。
だから、別の方法が必要だった。
レギュラスは執務机の前で、ゆっくりと指を組む。
夜更け。屋敷は静まり返っている。遠くで時計が鳴り、暖炉の火が小さく音を立てる。
壁に掛かった地図も、今日は開いていない。駒もない。報告書も閉じられている。
この部屋の中だけは、軍も戦も消えていた。
それでも頭の中だけは、いつものまま冷える。
――エルヤ・ナイームに別の女をあてがう。
その発想は、あまりにも単純で、そしてあまりにも効率的だった。
若い男だ。
それなりの女を与えれば、転ぶ可能性は高い。
祖国の言葉で誓い合ったから何だというのか。
人間の忠誠は、腹が満ち、肌が温まり、明日の不安が消えれば、驚くほど簡単に形を変える。
特に、報酬の仕組みを知ってしまった人間は。
この屋敷には、女がいる。
使用人の中にも、外から出入りする者の中にも。
それなりの顔立ちをして、それなりに現実を知っている女はいくらでもいる。
そして彼女たちの多くは、報酬に弱い。家族に弱い。借金に弱い。地位に弱い。
弱点がある人間ほど、動かしやすい。
レギュラスは小さく息を吐く。
嫌悪が、喉の奥に薄く残る。
女を与えるという言い方が、いかにも下品だ。
だが、下品な策ほど、世の中ではよく効く。
机の上の銀のベルに指先を触れた。
呼べば執事は来る。
呼べば、名簿も、経歴も、弱点も、すぐに並ぶ。
この屋敷には、いつでも人を選別するための情報が揃っている。
けれど、鳴らさなかった。
代わりに、扉の向こうを思い浮かべる。
エルヤが立つ場所。
アランの背後に影のように寄り添う、あの姿。
彼は従っている。
しかし心の中では、ずっと別の秩序を握っている。
その秩序の中心に、アランがいる。
その事実が、苛立たしい。
同時に、妙な興味も煽る。
――どれほど与えれば、崩れるのか。
――どれほど甘いものを差し出せば、手を伸ばすのか。
レギュラスの口元に、笑みの形だけが浮かぶ。冷たい笑みだ。
だが、その笑みの裏には、別の温度が混じっていることを自覚してしまう。
アランの前では見せたくない種類の、不純な熱。
「……一途、ですか」
独り言が落ちる。
たった一人に向けた忠誠。
その一点だけで、ここまで頑丈に立っている。
馬鹿げている。
美徳のように語られるのも気に入らない。
美徳は時に、最も邪魔な障害物になる。
レギュラスは椅子から立ち上がり、窓辺へ向かう。
夜の庭は黒く沈み、木々が風で揺れている。
外の闇は、彼が生きてきた世界そのものだ。秩序の外にある混沌。
それを眺めながら、頭の中で策を組み立てる。
女は誰がいい。
軽すぎる女では駄目だ。エルヤは警戒心が強い。
同情を引ける、真面目そうな女。
困窮しているが品位は保っている女。
救われたい女は、救う側に見せかけた檻を受け入れやすい。
家族がいればなおいい。
家族の病。弟の学費。父の負債。母の薬。
理由がある女は、理由で動く。
それに報酬を付ける。
金だけでは足りない。金は消える。
地位を与える。住む場所を与える。衣食住を保証する。
そして――家族にも同じだけ与える。
そうすれば女は裏切れない。
女が裏切れなければ、エルヤも逃げられない。
簡単だ。
あまりにも簡単で、笑えてくる。
なのに、胸の奥に小さな棘が残る。
この策が成功したとき、アランはどういう顔をするのか。
あの男が別の女に手を伸ばしたと知ったとき、翡翠の瞳はどんな色になるのか。
――泣くだろうか。
――怒るだろうか。
――それとも、何も言わずに、ただ静かに壊れるだろうか。
想像して、腹の底がぞくりと冷える。
その冷えは愉しさに似ている。だが、それだけではない。
どこかで、嫌な不安も混じっている。
壊すくらいなら、そのままでいてほしい。
最近芽生えた、あの不合理な願いが、こういうところで顔を出す。
レギュラスは目を細める。
窓ガラスに映る自分の顔は、相変わらず端正で、相変わらず冷たい。
その冷たさの奥に、どれほどの矛盾が潜んでいるかを、誰にも見せたくなかった。
「……処分は簡単です」
声に出して確認する。
自分に言い聞かせるように。
「だから、簡単な方を選ぶ必要はない」
あくまで得策を取る。
そういうことにしておく。
レギュラスは窓から背を向け、机へ戻った。
ベルに指が触れる。今度こそ鳴らすのかと思った。
だが、やはり鳴らさない。
代わりに、机の端に置かれたグラスを持ち上げ、一口だけ酒を含む。
甘い。酸味がある。赤い液体は喉を温める。
けれど胸の中の苛立ちは、温まらない。
エルヤ・ナイームの一途さは邪魔だ。
邪魔で――そして、羨ましいとすら思ってしまいそうになるから、なおさら邪魔だった。
その夜、レギュラスは結局、誰の名も呼ばなかった。
策だけが、静かに、黒い水面の底で形を整えていった。
いつでも引き上げられるように。
いつでも、翡翠の瞳から“あの男”を剥がすために。
屋敷の中に、ひとつだけ“異物”を増やした。
名は――エヴリン・グレイ
母親と二人暮らし。父は早くに亡くし、若い肩に生活がのしかかっていると聞いた。けれど貧しさの匂いを纏わない女だった。
顔立ちは平均以上、派手さはない。むしろその控えめさが、品のよさを際立たせる。声は柔らかいが、媚びない。礼儀作法は最初から身についていた。指先の動きに乱れがなく、目線の落とし方がきれいだった。
――こういう女は、厄介な男を落とせる。
少なくとも、そう思えた。
レギュラスは執務机の前で、薄い紙束を指先で整える。戦況報告とは別の、どうでもいい書類。だが、それが今夜の苛立ちの正体だった。
「……で?」
淡々と問いかける声に、向かい側のエヴリンが小さく背筋を正した。控えめに頭を下げる。その所作だけは確かに美しい。けれど、口から出てくる内容は、毎回、同じように無価値だった。
「本日は、洗濯室でお会いしました。エルヤ様は――」
「様はいりません」
語尾を切ると、エヴリンはすぐに言い直す。
「……エルヤ・ナイームは、礼を言って通り過ぎました。私が籠を持とうとしたのですが、『自分でできる』と……」
それだけか、と喉の奥が冷える。
机の上には、同じ質感の紙が何枚も積まれている。
通り過ぎた。
目を合わせなかった。
必要以上に話さない。
仕事の手を止めない。
指先が早い。
礼儀だけは正しい。
逐一、律儀に書かれているのに。
どれも、どうでもよすぎた。
レギュラスはグラスに指をかけ、氷が溶ける音だけを聞いた。酒はまだ喉に落とさない。落としたところで、この苛立ちは薄まらない。
「……あなたは、何をしにここへ来たんです?」
ゆっくりと問うと、エヴリンの睫毛が一度だけ震えた。怯えではない。困惑でもない。――自分の立場を理解した上での、緊張だ。
「申し訳ありません。私は、できる限り近づいております。けれど、彼は……」
「彼は?」
「……線を引いています。誰に対しても」
それは、報告書の最初からずっと読んでいる。
エルヤ・ナイームは、誰にも甘くならない。
礼儀を学び、英国語を学び、指示には従う。
だが、心の扉は閉じたまま。いや、閉じているというより――最初から、そこに“入るべき人間”が決まっている。
アランだけ。
その一点の頑なさが、腹立たしいほど眩しく、そして鬱陶しい。
レギュラスは紙束を置き、指を組んだ。爪先から喉まで、静かに怒りが満ちていくのがわかる。声を荒らげれば終わりだ。そんなことはしたくない。自分の支配は、もっと洗練されているべきだった。
けれど、洗練が追いつかないほど、報告が“薄い”。
「食事の席では」
「離れたところに座ります。必要なこと以外、口を開きません」
「庭では」
「通り過ぎます」
「廊下では」
「挨拶をして終わりです」
「……それで?」
自分でも笑いそうになる。
こんな些細なことで、こんなにも時間を取られている。
戦艦だの陸戦だの、国を動かす決裁だの――そういうものの間に、男一人の視線の向け先をねじ曲げる案件が混じっている。
下品だ。
馬鹿げている。
情けない。
それでも、引き返せない。
エルヤがアランに残っている限り、こちらの手は必ずどこかで止まる。
止まるのが嫌だった。
自分が止まらされるのが、もっと嫌だった。
レギュラスは、静かに息を吐いた。
「……エヴリン」
名を呼ぶと、女は小さく顔を上げた。目はまっすぐだ。卑屈ではない。だが、ここにいる理由を理解している目でもある。――報酬と引き換えに、誰かの心を揺らす役目。
「あなたは、彼を落とすために用意した」
口に出した瞬間、胸の奥がわずかに痒くなる。
自分で自分を軽蔑したくなる。
こんな言葉を、こんな用途で使う日が来るとは。
エヴリンは一瞬だけ視線を伏せ、それから丁寧に頷いた。
「はい」
その返事が、なおさら腹立たしい。
従順な返事が欲しかったわけではない。
結果が欲しい。結果だけが欲しい。
「彼は、あなたに興味を示さない」
「……はい」
「あなたが品よく振る舞うほど、余計に距離を取る」
レギュラスは唇の端に笑みを作る。笑っているようで、笑っていない。
「誠実な男ですね。――滑稽なくらいに」
エヴリンは何も返さない。返せない。
自分の報告が“失敗”であることを、彼女自身が一番理解している。
レギュラスは肘を机につき、指先でこめかみを軽く押さえた。頭が痛いわけではない。苛立ちが、脳の内側を冷たく撫でるような感覚があるだけだ。
「そろそろ……」
言葉が喉で引っかかる。
こんな命令、今まで下したことがない。
処刑命令のほうがずっと上品に聞こえるほどだ。
それでも、口にしなければ進まない。
「そろそろ、何か仕掛けられませんか」
自分の声が、自分のものではないみたいだった。
品位が落ちる音がした。
それでも言った。言ってしまった。
エヴリンの頬がほんの少しだけ強張る。羞恥ではない。覚悟の色だ。
女は息を吸い、静かに答えた。
「……彼の弱点は、私ではありません」
その言葉が、胸の奥を刺す。わかっている。
弱点は、アランだ。
だからこそ、こんな遠回りをしている。
「ですが」
エヴリンが続ける。
「彼女のためになるという形でなら、彼は動きます。私に興味がなくても、彼女を守るためなら……」
レギュラスの瞳が細くなる。
「つまり?」
「アラン・セシールが困る状況を作れば、彼は私の方へ視線を向けます。……彼女の負担を減らす、と言って」
それは策としては理解できる。
だが、その策の中でアランを困らせるという発想が出た瞬間、胸の内側が妙にざらついた。
苛立ちなのか。
不快なのか。
それとも、別の何かなのか。
レギュラスはグラスを持ち上げ、やっと一口だけ酒を飲んだ。甘い酸味が舌に残る。
「アランを巻き込むのは――」
言いかけて、やめる。
何を躊躇している。
自分は何度でもアランを巻き込んできた。血も、罪も、呪いも、全て巻き込んで動かしてきた。
今さら巻き込むのはなどと、どの口が言う。
レギュラスは静かに笑った。自嘲に近い笑み。
「……いいでしょう」
許可を出す声が、落ち着いているのが腹立たしい。
冷静でいられる自分が、ますます情けない。
「ただし、条件があります」
エヴリンが目を上げる。
「アランを壊すような真似はしない。彼女の前で見せしめのようなことも、不要です。――あなたは品よく仕掛けなさい」
自分が何を言っているのか、内心で笑いそうになった。
品よく仕掛ける。
どれほど矛盾した命令だろう。
けれどエヴリンは、はっきりと頷く。
「承知しました」
立ち上がり、もう一度頭を下げて去っていく背中を見送りながら、レギュラスは机に残った紙束へ視線を落とした。
白い紙の上に並ぶ、どうでもいい進展のない日々。
そこに自分の苛立ちが、みっともなく染みついている。
――早く。
喉の奥で、言葉にならない命令が膨らむ。
早く、あの男の一途さを折りたい。
早く、アランの中の彼を薄めたい。
早く、こちらだけを見上げる翡翠にしたい。
欲しいものを欲しいと認めるたびに、品位が削られていくのに。
それでも、削られたぶんだけ、欲が研ぎ澄まされていくのがわかる。
レギュラスはベルを鳴らさなかった。
ただ、薄い笑みのまま、次の報告が届く未来を思い描いた。
今度こそ、退屈ではない報告であることを。
そしてその報告が、胸の奥のざらつきを――勝利という形で塗り潰してくれることを。
エヴリン・グレイが、最初に覚えたのは「呼吸の整い方」だった。
屋敷の廊下を歩く足音。扉の開閉。報告の声。誰かの笑い。そういうものが日常の中で擦れ合っても、彼――エルヤ・ナイームの呼吸だけは、いつも同じ間隔で胸を上下させていた。乱れない。乱してはいけない、と自分に言い聞かせるように。けれど、誰かにその内側を覗かせないための壁のようにも見えた。
初めは命令だった。
レギュラス・ブラックの一言で、彼に近づく役目を与えられた。拒む選択肢がないことくらい、エヴリンは知っている。母と二人暮らし。頼れる家も、戻る故郷も、今は形だけの地図の上にしか残っていない。屋敷に置かれるというのは、保護であり、鎖であり、生活の保証だった。
だから、笑って頷き、言われた通りにした。
――けれど、彼は優しかった。
想像していたのは、もっと鋭い反発だった。蔑みか、怒りか、無視か。ところがエルヤは、目が合えば軽く会釈を返し、話しかければ必要なだけの言葉を返した。言葉の隙間に、相手を傷つける棘がない。何かを求める目線もない。触れようとしない。近づき過ぎない。けれど、冷たいわけでもない。
たとえば、作業場で糸が指に絡みついて、エヴリンが小さく息を詰めたとき。
「指を切ります」
低い声が落ちてくるより先に、彼の手が動いた。自分の手を掴むのではなく、糸の端を持ち上げ、絡みを外し、刃物の位置をずらす。説明は短いのに、怖くない。やっていることは親切なのに、距離は保たれている。
その「保ち方」が、残酷なくらい上手だった。
女たちが惹かれるのも、わかってしまう。必要以上に踏み込まないからこそ、相手は勝手に踏み込みたくなる。自分だけが特別に見えてしまう。けれど実際には、彼は誰に対しても同じ温度で、同じ高さの壁を置いているだけだ。
そして、その壁の向こうに、すでに一つだけ、色がある。
翡翠。
アラン・セシールの瞳の色が、彼の中で動かないことを、エヴリンは最初の数日で悟った。どれほど視界に入ろうとしても、どれほど自分を整えようとしても、あの翡翠色がある限り、勝負にすらならない。比べるものではない。あれは恋だ。誓いだ。帰る場所だ。失った祖国よりも、守るべき「人」になってしまったものだ。
それが、少し羨ましくて、少し痛かった。
エヴリンにも、かつては国があった。家があった。父がいた。季節の匂いが、町の音が、当たり前に続くと思っていた暮らしが。
けれど紛争が始まり、食べ物が減り、夜の足音が増え、父の顔が日々疲れていき、ある日を境に「ここを出るしかない」と言われた。選んだのは生き残ることだった。自分の意思で、この国へ来た。だから、連れてこられた彼とは違う――違う、はずなのに。
「故郷を失う」感覚だけは、同じ匂いがした。
だから、正面から落とすやり方を、エヴリンは捨てた。
彼の心の中心に翡翠があるのなら、そこへ無理に割り込むのではなく、周縁に触れる。彼が抱えているものを、少しだけ軽くする。聞き役になる。話させる。語らせる。語った分だけ、息を吸えるようになるから。
その夜、作業が一段落した頃合い。人の気配が薄くなった廊下の端で、エヴリンは彼の隣に立った。横に並ぶのではない。少し後ろ。視界を邪魔しない位置。
「……ねえ」
呼びかける声が震えないように、喉を整える。
エルヤが顔を向けた。整った横顔。けれどその美しさより、目の奥の静かな決意の硬さの方が怖い。
「あなたの国で、これはなんと言うの?」
エヴリンは、自分の掌に乗せていた小さな木の欠片を見せた。修繕で余った端材。何でもないもの。だからこそ、答えやすい。
彼の視線が木片に落ちる。ほんの一瞬、呼吸の間隔が変わった気がした。
「……それは」
口を開きかけて、閉じる。言葉を選んでいる。英国語の問題ではない。言ってしまえば、そこから連鎖する何かがあると、彼は知っている。
エヴリンは追い打ちしない。笑わない。困らせない。ただ、待った。
しばらくして、彼は小さく息を吐く。
「……僕たちの言葉では」
音の並びが、英国語とは違う柔らかさで紡がれた。耳に馴染まない、けれど不思議と落ち着く響き。たったそれだけで、エヴリンの胸の奥が微かに疼いた。
「きれいな言葉」
褒めると、彼はすぐに視線を逸らす。照れではなく、防衛。褒め言葉が、距離を縮める刃になることを知っているから。
「どんな食べ物を食べていたの?」
次の質問は、もっと軽いはずだった。けれど彼は、少しだけ眉を寄せる。思い出す味に、痛みが混ざっているのだろう。
「獣の肉。……魚も。果物もあった」
「果物は、甘い?」
「甘い。…… アランが、好きだった」
その名前が落ちた瞬間、彼の表情がわずかに崩れた。壁の向こうから、翡翠色が漏れるみたいに。言ってしまった、と自分で気づいたように、口元が硬くなる。
エヴリンは、胸の奥で小さく勝った気がした。勝利じゃない。侵入でもない。ただ、彼が初めて自分の口から、アランの輪郭を外へ滲ませた。それだけで、計画の歯車が回った気がした。
「夏はどのくらい暑いの?」
エヴリンは、わざと季節の話に戻した。痛みから目を逸らすためではなく、痛みを包むために。重さのある話をしたら、軽い話で息をさせる。そうやって人は、少しずつ言葉を取り戻す。
彼は少し迷ってから、答えた。
「日差しが強い。……でも、風が通る」
「風の匂いは?」
「……土と、草と。火の匂いも」
火。
その一語に、彼の喉が僅かに詰まるのがわかった。焼けた祖国の匂い。血の匂い。泣き声。鎖。あの日のすべて。
エヴリンは黙った。慰めの言葉は言わない。軽々しく「大変だったね」などと口にすれば、その瞬間に彼は壁を立て直す。彼が欲しいのは同情ではない。彼が守っているものを、誰かが勝手に覗かないことだ。
だから、エヴリンはただ頷いた。
「……教えてくれて、ありがとう」
彼はエヴリンを見た。驚きの色が僅かに浮かぶ。感謝されることに慣れていない目だった。あるいは、感謝を受け取ることが、彼にとって「許し」に似ていて怖いのかもしれない。
「僕は……」
言いかけて、また止まる。
その沈黙が、今までよりも長かった。けれどエヴリンは焦らない。焦った瞬間、すべてが命令の匂いに戻ってしまう。
やがて彼は、ほんの小さく頭を下げた。
「……どういたしまして」
たったそれだけ。
それでも、エヴリンは確信した。
この男は隙がないのではない。隙を作らないように生きているだけだ。
そしてその隙のない胸の奥には、翡翠色の誓いが根を張っている。だからこそ、エヴリンはそこを奪おうとはしない。奪えないと知っているし、奪うこと自体が彼を壊す。
壊れたものは、役に立たない。
――レギュラスに報告するべき言葉が、ふっと脳裏を過ぎる。
けれど、今だけは。
エヴリンは、自分の中の薄い罪悪感を押し込めて、彼の横顔を見つめた。
少しずつでいい。ほんの少しずつでいい。
彼が話したくなる言葉を、積み重ねていく。
翡翠の瞳に敵わないと知りながら、それでも。
人が人を好きになる理由は、勝ち負けじゃないのだと――自分に言い訳しながら。
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