1章
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変な時間から眠ったせいで、目が覚めるのも妙に早かった。
闇がまだ部屋に残っている。窓の外は深い紺で、カーテンの隙間からわずかに差し込む青白い気配が、夜明けの手前だと知らせていた。屋敷は沈黙の中にあり、廊下を行き交う足音もない。時計の針の音だけが、規則正しく耳に届く。
レギュラスは静かに息を吸い、ゆっくりと吐いた。
頭の奥が、まだ少し重い。目を開けた瞬間にわかる。血を流した後特有の、軽い眩暈――視界の縁がわずかに遠のくような感覚。身体は眠ったはずなのに、完全に回復したわけではない。儀式の名残が、皮膚の内側に薄く残っている。
そして隣に、彼女がいた。
アラン・セシール。
寝台の広さは十分にあるのに、彼女の存在だけで空間の密度が変わる。呼吸の気配が、温度が、やけに鮮明に感じられた。
眠っている。珍しく、完全に。肩の力が抜けていて、眉間の緊張もほどけている。警戒と恐怖で固められていたはずの顔が、今だけは静かだった。
美しい寝顔だと思った。
翡翠の瞳が閉じられていることが惜しい――それは本音だった。あの瞳がこちらを刺す時の意志も、恐怖も、怒りも。何もかもが翡翠に宿る。だから閉じられていると物足りない。
それでも、整っている。呼吸に合わせて、わずかに唇が動く。その仕草さえ、妙に整って見える。
無意識に手が伸びた。
彼女の肩口にかかっている毛布が少しずれていたからだ、と自分に言い聞かせる理由を探しながら。
毛布を肩まで引き上げる。指先が布越しに、熱を拾う。細い肩のラインがそこにあるだけで、触れてはいないのに触れたような錯覚が走った。
――その瞬間だった。
ぱちり、と。
翡翠が開いた。
まっすぐにこちらを見てきて、レギュラスはほんのわずかに息を止めた。
不意打ちだった。眠っていたはずの彼女が、いきなり世界の中心みたいな目で見返してくる。その澄んだ色に、夜明け前の青が重なる。
「……起こしました?」
自分の声が、思ったより低く落ちた。
余計な動揺を隠すように、いつもの調子を探し当てる。柔らかく、しかし主導権を譲らない音。
アランはゆっくりと上体を起こす。髪が頬に落ち、それを払う仕草がまだ眠気に鈍い。
それでも、目は覚めている。警戒が薄い代わりに、困惑が宿っている。
「朝ですか……?」
「いえ、まだ全然早いです。僕が目を覚ましただけで」
そう言いながら、レギュラスは自分の体の重さを改めて感じていた。眩暈は軽い。けれど確かにある。
儀式のあと、血を流したあとの感覚。少し世界が遠い。立ち上がると、ほんの一瞬、床が浮く。
――ということは。
アランは自分より多く血を流している可能性がある。彼女は媒介だった。術式の中心だった。あの結界の核を担ったのは彼女だ。自分が補ったとしても、負担の比率は変わらない。
ならば、彼女が平気でいるはずがない。
「体調はどうです?」
問いは、自然に出た。
いつもの尋問の質問と似ているはずなのに、違う温度で落ちたことに自分が気づく。答えを引き出すためではない。確認、というより……確かめたい、に近い。
アランは一瞬だけ言葉を探し、それから短く頷いた。
「平気です」
平気なはずがない、と喉の奥で思う。
けれど彼女がそう言うなら、今はそれ以上押せない。押せば、またあの翡翠に刃が戻る。戻ってしまえば、今この薄い時間の静けさが壊れる。
レギュラスは視線を逸らし、ベッドの縁に手をついた。
立ち上がる動作は慎重になる。体が軽いと錯覚する瞬間と、重いと現実を突きつける瞬間が交互に来る。
何か言うべきだと思った。
これからどうするでもいい。休んでいなさいでもいい。あるいは次の封印は――という現実の話でも。
頭の中でいくつも言葉が並ぶのに、どれも今この部屋に合わない。
だから、結局、出てきたのは。
「……シャワー浴びてきます」
口にしてから、自分で分からなくなる。
なぜ報告しているのか。執事に告げればいいだけのことを。彼女に告げる必要などない。
アランは少し目を瞬かせた。
その反応に、レギュラスはさらに妙な違和感を覚える。ここは自分の部屋で、自分の屋敷で、自分の秩序の中なのに、彼女の前では時折、言葉が“普通”になりかける。
それが不快なのか、心地いいのか。
判断する前に、彼は寝台から距離を取るように歩き出した。
「……すぐ戻ります」
そう付け足したのは、ほとんど癖みたいなものだった。
扉へ向かう背中に、翡翠の視線が残っている気がして、レギュラスはほんの少しだけ歩幅を速めた。
湯気の残る髪を指で梳きながら、レギュラスは廊下を戻った。
石造りの床は冷たいはずなのに、足の裏に感じる温度は妙に生々しい。血を流した後の眩暈は、湯でいくらか薄まった。だが完全に消えたわけではない。身体の芯に、静かな鈍さが残っている。
扉の前で一度、呼吸を整える。
自分の部屋だ。
自分が戻る場所だ。
いつもなら扉を開けた瞬間、そこにあるのは整えられた寝台と、香と、完璧に機能する静けさだけ。誰の気配もない、完璧な空間。
――けれど今だけは、違う。
把手に触れた指先が、ほんのわずかに躊躇した。こんな感覚を持つ自分が滑稽で腹立たしい。
それでも扉を押し開ける。
当たり前のように、そこに彼女がいた。
アラン・セシール。
寝台の端に浅く腰掛けている。毛布を肩にかけたまま、背筋はどこか固い。自分の部屋の豪奢さにまだ馴染んでいないのだろう。落ち着かないのはわかる。ここは彼女のために作られた空間ではない。支配のための部屋だ。秩序のための部屋だ。
それなのに――
「……」
息が、静かにほどけた。
部屋を開けたら当たり前のようにそこにいる。
それが、こんなにも満たされる事実になるとは知らなかった。
心臓の奥が、じわりと熱を持つ。言葉にするには幼稚で、認めるには不本意で、けれど確かに“満足”という名でしか説明できないものが、胸の底から湧き上がってくる。
自分の部屋に、翡翠がある。
翡翠の瞳が、自分の方を見上げる。
視線が合った瞬間、頭の中で何かが静かに決まる音がした。
――ずっとそうであってほしい。
この扉を開けるたび、翡翠がここにいてほしい。
扉の向こうに他の男の影がちらつくような、あんな不快な現実を二度と繰り返したくない。
レギュラスはゆっくりと室内に入り、扉を閉めた。鍵をかける音は立てない。必要ない。ここは自分の領域だ。逃げ場などもともとない。
だが今日、その必要ないが少し違う意味を持つのが自分でもわかった。
「……大丈夫でしたか」
声は自然に柔らかくなる。湯に濡れた髪の水滴が、首筋を伝って落ちた。シャツの襟元がわずかに冷える。
それでも視線は彼女から離れない。
アランは頷いた。けれどその頷きには、いつもより微かな揺らぎがある。疲労か、警戒か、あるいは――別の感情か。
その“別”を想像してしまう自分が、愉快で同時に苛立たしい。
レギュラスは寝台の反対側へ回り込み、濡れたタオルを椅子にかけた。何気ない動作のふりをしながら、彼女の気配を確かめ続ける。
そこにいる。逃げていない。誰の部屋にも行っていない。
その事実だけで、胸の奥が静かに満たされていく。
やがて、振り返る。
「これからは、ここで寝てください」
自分でも驚くほど、言葉がまっすぐ出た。
命令の形をしているのに、そこにある感情は規則ではない。支配でも規律でもない。もっと個人的で、もっと露骨な――願いに近い。
「その方が、僕が安心します」
口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
安心。
そんな曖昧な言葉を、自分が使うとは。
普段なら嫌う種類の概念だ。曖昧で、感情に寄りかかった言葉。理屈で固定できない言葉。
けれど今は、それ以外の表現が見つからなかった。
アランは言葉を失ったように瞬いた。
驚いているのか、迷っているのか。両方だろう。翡翠の奥に、ほんの僅かな動揺が走る。
その揺らぎを見て、レギュラスの口元にかすかな笑みが浮かんだ。嗜虐ではない。勝利でもない。
ただ、手応えだ。
――あれほど待った。
何度も口付けて、距離を詰めて、言葉を交わして、少しずつ彼女を自分の空気に慣らしてきた。
それなのに、あの夜、エルヤ・ナイームの部屋へ行かれた屈辱。
自分の与えた熱を、別の男の腕の中で解いていると想像した瞬間、胸の底が冷え切った感覚。
思い出すだけで、今も不快が喉の奥に残る。
ここにいてくれたら。
ここで眠ってくれたら。
もう二度と、あんなことは起こさせない。
完全に彼女が落ちるまで。
この部屋の中で、目の届くところで、じっくりと見ていられる。
彼女が自分の熱に慣れ、求める言葉を吐き、望む態度を差し出すまで――逃げ道をひとつずつ、丁寧に塞いでいける。
レギュラスは寝台の縁に腰を下ろした。距離は詰めすぎない。だが離れすぎもしない。彼女が息を飲むのがわかる絶妙な場所に、慎重に座る。
視線を外さないまま、低く言う。
「嫌なら、理由を聞きます」
逃げ道のように見せかけた刃だ。
理由を口にさせれば、その言葉を材料にできる。
断るなら断るでいい。彼女が何を怖れているのかを知れる。
そして――怖れの形を知れば、折り方はいくらでもある。
「……でも、ここにいてくれたら」
レギュラスの指が、毛布の端に触れた。彼女の肩口の布を整えるような、昨夜と同じ動作。
偶然のふりをした必然。
「僕は、随分と楽になります」
それは脅しではない。
規則でもない。
甘さに似た言葉で、彼女の心を引き寄せるための――手段であり、本音でもあった。
翡翠が揺れる。
アランの唇が、何かを言いかけて閉じる。
その迷いの沈黙が、レギュラスにはたまらなく心地よかった。
屋敷の門をくぐる瞬間が、こんなにも救いに近い形を持つようになるとは、以前の自分は想像もしなかった。
軍事部の廊下は常に乾いている。紙とインク、金属と魔力の匂い。命令と報告と数字の匂い。
そこにあるのは秩序だ。合理だ。勝敗だ。
好きなはずの世界なのに――時々、信じられないほど疲れる。
芳しくない戦況を聞かされた日。
机上の地図に並ぶ駒が、ただの木片ではなくなる。ひとつ倒れるたび、兵の名が消える。家が、姓が、未来が、消える。
負傷して戻ってきた兵を見舞った日。
包帯と薬の匂いは、どれほど慣れても胃の底に残る。歯を食いしばって笑おうとする者、声を出せず目だけで敬礼する者。自分の前で“誇り”を見せるその姿が、なおさら重い。
そして魔法訓練と称して、実践形式の演習を行った日。
泥と煤と熱。足が攣り、腰が軋み、腕の傷が再び疼く。黒いローブの裾は汚れるし、靴は泥を吸い、肩甲骨の奥が鈍く痛む。
戦うことは好きだ。勝つことは快い。けれど、身体が限界に近づくと、思考さえ削れていく。
今日もそうだった。
廊下の灯りが滲むほど、頭が重い。息は熱い。喉は乾いている。
それでも表情は崩さない。崩す必要がない。崩せば周囲が騒ぎ、余計に面倒が増える。支えるべき柱が軋んでいるなど、誰にも見せるものではない。
馬車を降り、屋敷の扉が開く。
執事が一礼し、いつもの言葉を口にする。
その一つ一つを聞き流しながら、レギュラスは足を進めた。
――そして。
視界の先に、翡翠があった。
廊下の影の中で、灯りを受けてわずかに光る瞳。
アラン・セシールがこちらを見上げている。
迎えに出るよう命じた覚えはない。けれど、いつの間にか彼女はここにいることを覚えたらしい。自分の帰る時間を、気配で察しているのかもしれない。
たったそれだけで、胸の底に絡みついていた疲労が、ほどける気がした。
馬鹿げている。
こんなことで、人は救われるのか。
――救われるのだ、と認めるのは癪だった。
だから、わかりやすく喜ぶような真似はしない。
口元も緩めない。声の温度も変えない。
ただ、歩みだけがほんの少し早くなる。その自覚があるのが、さらに腹立たしい。
アランの前に立つと、煤の匂いが自分から立ち上るのがわかった。焼けた土の匂い。薬草の焦げた匂い。演習で転げ回った泥の匂い。
こんなものを彼女に近づけるのは、品位という意味では最悪だ。
けれど、今はそんな理屈がどうでもいい。
レギュラスは躊躇なく腕を伸ばし、アランを抱き寄せた。
細い体が胸に当たる。
自分の軍服の硬さと、彼女の柔らかさが不釣り合いで、逆に落ち着く。
肩口に頬が触れた瞬間、アランが小さく息を呑んだ。怖れか、驚きか、それとも――慣れ始めた証か。
抱き寄せながら、レギュラスは思った。
ここに帰るのが癒しになっている。
軍事部にいる間、何度も想像してしまう。扉を開けたら翡翠がいる光景を。
それは弱さだ、と切り捨てることもできる。
だが、弱さがあるからこそ、人は長く立っていられる。
「……おかえりなさい……」
アランの声が、胸の近くから聞こえた。
言葉はぎこちない。悩んだ末に絞り出したような声音。
こういう時はこう言うと、誰かに教えられたのだろう。礼儀の形として。秩序の作法として。
それでも――満たされた。
わかっていても、型にはまった言葉だとしても。
自分の帰宅に向けられた言葉だ。
自分の部屋に、自分の屋敷に、彼女がいるという事実が、確かにここにある。
レギュラスは腕の力を少しだけ強めた。
強めたのに、抱きしめる理由を口にしない。
口にすれば、それは欲になってしまう。
欲と認めた瞬間、支配の形が崩れる気がした。
だから代わりに、淡々とした声で言う。
「……汚れますよ」
煤と泥の匂いがするだろう、という意味の言葉。
けれどそれは、離れろという命令ではない。
むしろ――抱きしめたままの言い訳だ。
アランは何も言わない。
ただ、僅かに肩が緩む。
その小さな緩みが、レギュラスの疲労を最後まで溶かした。
屋敷に戻ることが、ただの帰宅ではなくなっている。
軍事部からここへ戻ることが、今日を終わらせる儀式になってしまった。
そしてその儀式の中心にいるのは、黒ではなく、翡翠だった。
彼の足音は、もう聞き分けられるようになっていた。
屋敷の床は磨き込まれているから、靴音はよく響く。使用人たちの足音も、護衛の足音も、教育係の控えめな歩みも、どれも似たような規則を刻んでいる。けれど――彼の足音だけは違った。迷いがない。速すぎず遅すぎず、一定の重さで廊下を切ってくる。扉の向こうから近づくたび、空気の密度が変わっていく。
指導係は言った。
外で待つこと。
出迎えること。
かけるべき言葉も、声の高さも、礼の角度も、決められた通りに。
覚えることは得意だった。生き残るために覚えてきた。
けれど、ここで教え込まれた正解は、時々自分の心を切り刻む。
自分の口から出てくる言葉は、言わされているだけなのか。
それとも、いつのまにか自分の意思に変わってしまったのか。
どちらなのか分からないまま、アランは廊下の先を見つめた。
扉が開き、黒が入ってくる。
「戻りました」
レギュラスの声は、いつも通り整っていた。
それなのに今日の声には、ほんのわずかに粗さが混じっている気がした。呼吸の間隔が、いつもより重い。目が、少しだけ乾いている。軍の匂いがする。煤と鉄と、汗と魔力の残り香。怖い匂いなのに、なぜかそれが“帰ってきた”という事実を強める。
アランは胸の奥の小さな震えを押し殺し、教えられた通りに口を開く。
「……おかえりなさい……」
相変わらず、この言葉が正解なのかは分からない。
けれど、その言葉が落ちた瞬間だけ、レギュラスの表情が少しだけ和らぐのを、アランは見逃せなくなってしまっていた。
今日は抱擁はなかった。
その代わり、レギュラスの手が伸びてきて、アランの腕を取る。
引く力は強くないのに、逆らえない方向へと空気が動く。体が勝手に従ってしまう。彼に触れられた箇所が熱を帯びるのが悔しい。
そのまま部屋へ入る。
扉が閉じる音が、外の世界を切り離す。
レギュラスはコートを外すでもなく、椅子に腰を落とすでもなく、ただ立ったまま小さく息を吐いた。
「……はぁ」
ため息だった。
ため息を、彼が。
その次に落ちた言葉は、もっと驚くものだった。
「疲れました」
その声は弱音の形をしていた。
けれど弱くはなかった。ただ、短い言葉の中に、今日の重さが折り畳まれているようだった。報告書の山より、地図より、命令よりも、生々しい。
アランの口が勝手に動いてしまう。教えられた言葉ではなく、咄嗟の言葉。
「……どうしてですか」
言ってから、しまったと思った。
問い返すのは無礼だ。余計な興味を示すのは危険だ。何を返されるか分からない。
けれどレギュラスは叱責しなかった。
銀色の瞳が、アランを捉える。
いつもより近い。いつもより、温度が曖昧だ。
「いいえ、何でもないです」
そう言いながら、彼はアランを引いた手を放さない。
握られている腕から、彼の体温がじわりと伝わってくる。疲労の熱。戦場の熱。無数の命の熱。
「……あなたがいるから、そう思えます」
その言葉が、胸の奥に落ちた瞬間、アランは言葉を失った。
あなたがいるから――それは、誰かが誰かに言う言葉だ。
秩序の言葉ではなく、命令の言葉でもなく、取引の言葉でもない。
そんなものを、この男の口から聞く日が来るなんて思わなかった。
アランは息を飲む。
嬉しいと感じてしまうのが怖い。
怖いのに、頬が熱くなるのを止められない。
「……私は」
何か言おうとして、言葉が見つからない。
正解はどれだ。
この場で言うべき言葉は何だ。
指導係の声が頭をよぎる。けれど今、目の前の男は、教科書の中の旦那様ではない。
レギュラスは、ほんの少しだけ目を細めた。
「難しい顔をしないで。あなたは、そこにいればいい」
その言い方が、命令なのか、願いなのか、アランには判別できなかった。
ただ一つだけ確かなのは――その瞬間、アランの中で出迎えが作法ではなく習慣になってしまった理由が、わずかに見えた気がしたことだった。
彼の足音を聞くと、身体が先に動く。
危険だと思うより先に、扉の外へ出てしまう。
そして「おかえりなさい」と言う。
それが、言わされているだけなら、こんなにも胸が痛むはずがない。
最初は、何でもなかった。
「疲れました」と言った後に続くのは、いつも決まって「何でもない」ですべてを片付ける言葉だった。
必要以上に話す必要はない。説明は弱さにつながる。共有は隙を作る。――そうやって生きてきた。そうやって秩序を築いてきた。口を開けば感情が混じる。感情は曖昧で、曖昧なものは嫌いだった。
けれど、扉を開けたときに翡翠の瞳がこちらを見る。
たったそれだけで、今日という一日が“終わっていく”感覚があった。
「戻りました」
「……おかえりなさい……」
そのやり取りが、ただの作法ではなくなってから、少しずつ歯車がずれ始めた。
ずれ始めたというより、今まで噛み合っていなかったものが、妙な角度で噛み合い始めた。
最初は、本当に些細なことだけだった。
「今日は雨が降りそうでしたよ」
言いながら自分でも馬鹿らしいと思う。天候の話など、執務に何の役にも立たない。兵の命を救いもしない。国境を押し広げもしない。なのに口から出た。
アランは少し驚いた顔をして、それでも頷く。
「この国の雨は冷たいですね」
その返事を聞いて、レギュラスは妙に満足した。
会話が成立したことではない。彼女が自分に向けて言葉を返したという事実が、疲労の底に落ちていた何かを持ち上げた。
次の日は、もう少しだけ具体的になった。
「魔法省で、無駄に声の大きい連中がいました。会議の場でね。内容より主張が先に来る。……頭が痛くなります」
言ってから、しまったと思う。愚痴だ。生産性がない。
アランは眉を寄せて困ったように笑い――その小さな表情が、レギュラスの胸に奇妙な軽さを運んだ。
「……うるさい人は、どこにでもいます」
たったそれだけの言葉なのに、なぜか肩の力が抜ける。
結論も助言もいらない。ただ、受け取られたことが楽だった。
それから少しずつ、報告ではない“出来事”が、彼の口からこぼれるようになった。
「訓練で若い兵が、杖を握る手を震わせていました。実力はあるのに、恐怖が勝つ。……恐怖は、厄介ですね」
言った瞬間、自分が何を語っているのか分からなくなる。
恐怖――その言葉を、彼女の前で口にするなど。
けれどアランは目を逸らさず、ただ静かに聞いていた。翡翠の瞳が、揺れていない。そこに侮りも同情もない。
「……恐怖は、逃げたくなります」
アランがそう言った。
その短い言葉が、まるで刃のように胸の奥へ刺さる。自分の恐怖を理解したいのではない。理解されたいとも思っていない。
ただ、その言葉が、彼女の生きてきた恐怖と同じ土台から生まれているのがわかって――黙るしかなかった。
沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙が苦しくない。むしろ、室内の空気がほどけていくようだった。
ある夜、レギュラスはグラスを持ったまま、ふと口にした。
「今日、負傷して戻った兵がいました。死にはしません。……ただ、片腕は、もう戻らないでしょう」
それは報告ではない。数字でもない。命令でもない。
ただの事実だ。
言ってしまった後、喉の奥が妙に熱くなる。自分が痛みを抱えていることを認めたようで嫌だった。
アランの指先が、毛布の端を握り直す。
彼女は何も言わなかった。
言わないまま、ゆっくりと息を吐いた。――それが、妙に救いだった。
何かを慰められるのは好まない。
励ましの言葉は時に嘘になる。
同情は吐き気がする。
けれど、彼女がそこにいて、聞いて、逃げないというだけで、心の奥が少しだけ“解ける”。
不思議だった。
話すことは生産性がないと思ってきた。意味がないと思ってきた。
それでも――話すと、楽になる。
解ける。
ほどける。
鎧の継ぎ目が一つずつ外れていくように、締め上げていたものが緩む。
そして自分は、その緩みを求めてしまっている。
軍事部の硬い空気の中では決して生まれない、息を吸える時間を。
翌日、屋敷に戻る足取りが少しだけ軽いことに気づいて、レギュラスは内心で舌打ちした。
そんなものに救われるほど、自分は弱くないはずだ。
そう思いながらも――扉の向こうに翡翠の瞳があることを、確かに期待してしまっている。
それが、ひどく腹立たしくて。
同時に、やめられないほど甘かった。
屋敷の廊下に響く足音は、いつからか耳が覚えてしまった。
重くて、迷いがなくて、規則正しい。急いでいる日も、疲れている日も、その歩幅だけは崩れない。――崩れないはずなのに。
扉が開く音がして、黒い影が現れる。煤と金属と、乾いた風の匂い。軍服の下で擦れた布の音。
いつもならそれだけで喉の奥が冷え、胸の奥が硬くなるはずだった。
「戻りました」
「……おかえりなさい」
教えられた言葉。正解として与えられた言葉。
けれどその言葉が、口から落ちるたびに、少しだけ自分のものになっていくのがわかる。変だ。怖い。自分で自分が。
レギュラスは返事の代わりに、腕を差し出す。引かれるまま部屋に入る。扉が閉まり、外の気配が途切れる。
そこで初めて彼は小さく息を吐いた。
「……はぁ」
ほんの一瞬、肩の力が落ちる。あの男が。
あの男が、疲れたという言葉をこぼす。
「疲れました」
その一言が、ひどく生々しくて、胸の奥がざわついた。
こちらのせいで疲れたのかもしれない、という恐怖と、そうじゃないのなら何に疲れたのかという疑問が同時に湧く。
「どうしてですか」
問いが口をついて出てしまった。
自分でも驚いて、すぐに後悔する。聞いていいことではない。奪われる。巻き込まれる。
そう思ったのに、彼はすぐに“何でもない”とは言わなかった。
「軍事部で……報告が立て続けに来ました。北の遠征はね、想像以上に面倒です」
淡々とした調子。けれど、ほんの少しだけ言葉に棘がある。苛立ちが混ざっている。
それが、彼の“温度”なのだと気づく。冷たいだけの声ではなくなっている。
「面倒、ですか」
返す言葉は短くなる。
長く語れば奪われる。余計な情報を渡すことになる。そうやって自分は生き延びてきた。
だから頷く。短く返す。それだけでいい、と自分に言い聞かせる。
「ええ。面倒です。……死ぬべき兵は死ぬべきだと簡単に言う者がいる。机の上で、口だけで」
その瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。
人の命を犠牲にしろと命じてきた男が、そんな言い方をする。
矛盾が怖い。矛盾が、人間の顔をして近づいてくるのが怖い。
「……あなたは、簡単に言う側だと思っていました」
そう言ってしまった。
言ってしまってから、しまったと思う。
銀色の瞳がこちらに向く。刺すような視線。けれど怒りはない。むしろ少しだけ、面白がるような光が宿っていた。
「そう見えますか」
「……見えます」
アランは視線を落とす。
自分の言葉の棘が恥ずかしい。恐ろしい。叱責されるかもしれない。
けれどレギュラスは笑わない。軽く鼻で息を吐いただけだった。
「では、あなたは正しい。僕は簡単に言えます。……言えるからこそ、言うべきではない場面も知っている」
何それ、と頭の中で声が上がる。
理解できない。理解したくない。
なのに、その言葉が妙に胸の奥に残る。嫌な残り方をする。柔らかい毒みたいに。
別の日は、もっとくだらない話だった。
彼が軍服の襟を少し緩めながら言った。
「今日、演習で泥だらけになりました。……僕が、ですよ」
「……想像できません」
「でしょう。想像できない顔をしています」
からかうように言って、彼はほんの少しだけ口角を上げる。
その笑みが、ここ最近増えた“声の笑い”と同じ種類だと気づいて、アランの喉が乾いた。
「……あなたにも、転ぶことがあるんですか」
「転びました。転がりました。……部下たちは必死に見ないふりをしていましたね」
その光景を思い浮かべた瞬間、笑いそうになってしまって、慌てて唇を噛む。
笑ったらいけない。
けれどレギュラスはそれを見て、さらに柔らかく笑った。
「笑ってもいいんですよ、アラン」
名前を呼ばれる。
それだけで肩がこわばる。
怖いのに、胸のどこかがほどけてしまいそうで怖い。
気に入らない人間の話もした。
冷たい声で切り捨てるのではなく、苛立ちを混ぜて、ほんの少しだけ愚痴みたいに。
「今日、会議で声の大きい男がいました。主張だけが先に立つ。内容が薄い。……こういう連中は、何を食べて生きているんでしょうね」
「……同じものを食べていると思います」
思わず返してしまう。
するとレギュラスは短く笑い、椅子の背にもたれた。
「あなたの返しは時々、妙に鋭い」
褒められているのか、見定められているのか。
わからない。わからないから、返事ができない。
ただ頷いて、指先を隠すように袖を握る。
そうして夜が終わる。
彼が疲れたとこぼし、少し話し、そして静かに息を整えていくのを、隣で聞く。
それだけのことが、いつのまにか“習慣”になった。
怖いのに。
怖いはずなのに。
自分の中で、彼の世界が少しずつ広がっていく。
魔法省の廊下、軍事部の灰色の空気、地図の上を動く駒、演習で泥に汚れる軍服。
それらが、絵の具のように自分の内側に落ちて、色を増やしていく。
それを、ほんの少しだけ――ほんの少しだけ、嬉しいと思ってしまう自分がいる。
その瞬間が、何より恐ろしい。
エルヤの顔が脳裏に浮かぶ。
あの手。あの匂い。あの声。故郷の言葉。
帰ろうと誓った熱。
それなのに、別の男の声が、別の男の温度が、自分の心の縁をなぞり始めている。
裏切りだ。
そう思うのに、拒みきれない。
レギュラスは多くを語らない。
けれど語り始めたという事実が、重い。
あの男が、話す。温度を混ぜる。愚痴を言う。笑う。疲れたと言う。
そのたびにアランは頷き、短く返し、受け止める。
受け止めてしまう。
――受け止めた分だけ、心の内側に、彼の居場所ができていく気がした。
それが怖くて、胸の奥がぎゅっと痛くなるのに。
彼が言葉を落としたあと、少しだけ楽そうに息を吐くのを見ると、やめたいと思えない。
「……あなたがいるから、そう思えます」
以前、そう言われた言葉が蘇る。
あれは嘘だと思った。
そう思わないと、自分が壊れると思った。
けれど今夜もまた、彼は疲れた声で何かをこぼし、アランは小さく頷く。
その繰り返しが、静かに、確実に、彼女の中の何かを変えていく。
変わってしまう予感が、なまなましくて。
その予感を抱きながらも、アランは目を逸らせなかった。
エルヤは、いつもアランの半歩後ろにいた。
それは“従者”として与えられた立ち位置でありながら、イェルスの頃と同じ――守る者としての距離でもあった。危険があれば先に気づいて、先に手を伸ばし、先に盾になる。そうしてくれることが、今も変わらず胸を温めるのに、同時に胸を刺した。
屋敷の中は静かだった。けれど静かなのは音だけで、目は至る所にある。
廊下の絨毯の模様、壁に掛けられた肖像画、扉の向こうの気配。息をするだけでも誰かに数えられているような、息苦しさがあった。
そんな場所で、エルヤが声を落とす。
「アラン」
呼び方が、故郷の夜と同じだった。
ただそれだけで、アランの喉の奥が痛む。帰りたい、という思いが呼び起こされる。帰れない、という事実も一緒に。
「……何?」
返事は短くなる。短くしないと、声が震える。
エルヤはその震えを聞き取ったのか、眉を寄せて近づいた。無意識に手を伸ばしてくる指先に、アランは反射で身を引きそうになる。――引く理由が、怖かった。触れられたいのに、触れられたくない理由が別にあるみたいで。
「何も……されてない?」
問いは、刃のように柔らかかった。
痛くないように当ててくるのに、当てられた瞬間、心の奥が裂ける。
「僕は心配なんだ。あの人に近づかれて……何もされてない? 嫌なこと、言われてない? 触られてない?」
エルヤの声は必死だった。
必死さが、嬉しいのに、痛い。嬉しいのに痛い、なんて矛盾の塊みたいな感情を、こんな場所で抱き続けていることがもう嫌だった。
アランは一瞬、目を伏せた。
触られてないと言えば嘘になる。
嫌なことはされてないと言えば、それも嘘だ。
あの男の言葉は甘くて、残酷で、どこが境界線なのかわからない。口づけひとつとっても、暴力のようでいて、暴力だけでは片づけられない何かが混ざる。
――そしていちばん厄介なのは、自分がそれを拒みきれない瞬間を知ってしまったこと。
「……大丈夫」
口が勝手にそう答えた。
嘘が、すぐに形になってしまう。自分の舌が怖い。
「本当に? 顔色が……」
エルヤの手が、アランの頬に触れようとする。
その手を避けたいわけじゃないのに、アランの肩がわずかに強ばる。触れられることで、いまの自分の汚さが全部バレてしまいそうだった。
イェルスの娘としての誇りが、剥がれ落ちていることが。
神に背くことを、もう一度、もう二度とやってしまったことが。
命を奪う選択をしたことが。
そして――レギュラス・ブラックと話し、笑い、眠ることが減り、悪夢が薄れていくことを、どこかで楽だと感じてしまったことが。
それらを、エルヤの手が触れた瞬間に全部見抜かれるような気がして、息が詰まった。
「……エルヤ」
名前を呼ぶだけで、胸の奥が軋んだ。
彼は守ってくれる。昔も今も。
だからこそ、守ってもらう自分が、情けなくて、腹立たしくて、恥ずかしい。
「僕、怖いんだ」
エルヤがそう言った。
怖い、と言うエルヤを見たことがない。狩りの前も、嵐の夜も、崖の上でも、彼は怖いと言わなかった。
それなのにこの屋敷では、彼は怖いと言う。
レギュラスという名の秩序が、彼からその言葉を引き出してしまう。
「アランが……あの人のものになっていくみたいで」
その言葉が、アランの胸を強く打った。
そんなふうに見えているのか。
そう見えてしまうほど、距離が変わっているのか。
否定したいのに、否定できない。
否定すれば、エルヤは安心する。安心させたい。
でも否定は、嘘になる。自分の中で確かに起きている揺れを、なかったことにする嘘になる。
嘘をつく自分が、嫌だった。
アランは息を吸う。
喉が痛い。泣きそうになる。でも泣いたら、全部崩れる。
「……近いだけ」
絞り出した言葉が、薄っぺらく聞こえた。
近いだけ、という言い方がすでに危うい。
近いのは距離だけじゃない――そんな事実を、自分自身がいちばん知っている。
エルヤは、アランの顔を覗き込む。
まっすぐな瞳。信じたい瞳。信じている瞳。
その瞳が、いまの自分には眩しくて痛い。
「アラン」
もう一度呼ばれて、アランはこたえる代わりに唇を噛む。
触られてないと嘘をつくより、
近いだけと誤魔化すより、
いっそ、何も言わずに抱きついてしまいたかった。
けれど抱きついたら、今度はレギュラスの顔が脳裏に浮かぶ。
銀色の目が、静かに笑う。
支えは僕が引き受けます
あの言葉が、毒のように残っている。
アランは胸の奥で、何かが嫌な音を立てるのを感じた。
自分は、どこまで汚れてしまったのだろう。
神に背き、人を殺め、欺き、嘘を重ね――それでもまだ、自分は“帰りたい”と言えるのだろうか。
「……大丈夫だよ、エルヤ」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
大丈夫じゃない。
大丈夫じゃないのに、大丈夫だと言う自分が、どこまでも汚い。
エルヤの安堵が、わずかに顔に浮かぶ。
それを見た瞬間、アランはさらに苦しくなる。
この安堵は、自分の嘘でできたものだ。
優しさの形をしているのに、罪でできた安堵だ。
だからアランは笑えなかった。
ただ、祈るように目を伏せた。
嘘がこれ以上、二人の間に深く入り込まないように。
そして、自分の中の揺らぎが、取り返しのつかないところまで育ってしまわないように。
闇がまだ部屋に残っている。窓の外は深い紺で、カーテンの隙間からわずかに差し込む青白い気配が、夜明けの手前だと知らせていた。屋敷は沈黙の中にあり、廊下を行き交う足音もない。時計の針の音だけが、規則正しく耳に届く。
レギュラスは静かに息を吸い、ゆっくりと吐いた。
頭の奥が、まだ少し重い。目を開けた瞬間にわかる。血を流した後特有の、軽い眩暈――視界の縁がわずかに遠のくような感覚。身体は眠ったはずなのに、完全に回復したわけではない。儀式の名残が、皮膚の内側に薄く残っている。
そして隣に、彼女がいた。
アラン・セシール。
寝台の広さは十分にあるのに、彼女の存在だけで空間の密度が変わる。呼吸の気配が、温度が、やけに鮮明に感じられた。
眠っている。珍しく、完全に。肩の力が抜けていて、眉間の緊張もほどけている。警戒と恐怖で固められていたはずの顔が、今だけは静かだった。
美しい寝顔だと思った。
翡翠の瞳が閉じられていることが惜しい――それは本音だった。あの瞳がこちらを刺す時の意志も、恐怖も、怒りも。何もかもが翡翠に宿る。だから閉じられていると物足りない。
それでも、整っている。呼吸に合わせて、わずかに唇が動く。その仕草さえ、妙に整って見える。
無意識に手が伸びた。
彼女の肩口にかかっている毛布が少しずれていたからだ、と自分に言い聞かせる理由を探しながら。
毛布を肩まで引き上げる。指先が布越しに、熱を拾う。細い肩のラインがそこにあるだけで、触れてはいないのに触れたような錯覚が走った。
――その瞬間だった。
ぱちり、と。
翡翠が開いた。
まっすぐにこちらを見てきて、レギュラスはほんのわずかに息を止めた。
不意打ちだった。眠っていたはずの彼女が、いきなり世界の中心みたいな目で見返してくる。その澄んだ色に、夜明け前の青が重なる。
「……起こしました?」
自分の声が、思ったより低く落ちた。
余計な動揺を隠すように、いつもの調子を探し当てる。柔らかく、しかし主導権を譲らない音。
アランはゆっくりと上体を起こす。髪が頬に落ち、それを払う仕草がまだ眠気に鈍い。
それでも、目は覚めている。警戒が薄い代わりに、困惑が宿っている。
「朝ですか……?」
「いえ、まだ全然早いです。僕が目を覚ましただけで」
そう言いながら、レギュラスは自分の体の重さを改めて感じていた。眩暈は軽い。けれど確かにある。
儀式のあと、血を流したあとの感覚。少し世界が遠い。立ち上がると、ほんの一瞬、床が浮く。
――ということは。
アランは自分より多く血を流している可能性がある。彼女は媒介だった。術式の中心だった。あの結界の核を担ったのは彼女だ。自分が補ったとしても、負担の比率は変わらない。
ならば、彼女が平気でいるはずがない。
「体調はどうです?」
問いは、自然に出た。
いつもの尋問の質問と似ているはずなのに、違う温度で落ちたことに自分が気づく。答えを引き出すためではない。確認、というより……確かめたい、に近い。
アランは一瞬だけ言葉を探し、それから短く頷いた。
「平気です」
平気なはずがない、と喉の奥で思う。
けれど彼女がそう言うなら、今はそれ以上押せない。押せば、またあの翡翠に刃が戻る。戻ってしまえば、今この薄い時間の静けさが壊れる。
レギュラスは視線を逸らし、ベッドの縁に手をついた。
立ち上がる動作は慎重になる。体が軽いと錯覚する瞬間と、重いと現実を突きつける瞬間が交互に来る。
何か言うべきだと思った。
これからどうするでもいい。休んでいなさいでもいい。あるいは次の封印は――という現実の話でも。
頭の中でいくつも言葉が並ぶのに、どれも今この部屋に合わない。
だから、結局、出てきたのは。
「……シャワー浴びてきます」
口にしてから、自分で分からなくなる。
なぜ報告しているのか。執事に告げればいいだけのことを。彼女に告げる必要などない。
アランは少し目を瞬かせた。
その反応に、レギュラスはさらに妙な違和感を覚える。ここは自分の部屋で、自分の屋敷で、自分の秩序の中なのに、彼女の前では時折、言葉が“普通”になりかける。
それが不快なのか、心地いいのか。
判断する前に、彼は寝台から距離を取るように歩き出した。
「……すぐ戻ります」
そう付け足したのは、ほとんど癖みたいなものだった。
扉へ向かう背中に、翡翠の視線が残っている気がして、レギュラスはほんの少しだけ歩幅を速めた。
湯気の残る髪を指で梳きながら、レギュラスは廊下を戻った。
石造りの床は冷たいはずなのに、足の裏に感じる温度は妙に生々しい。血を流した後の眩暈は、湯でいくらか薄まった。だが完全に消えたわけではない。身体の芯に、静かな鈍さが残っている。
扉の前で一度、呼吸を整える。
自分の部屋だ。
自分が戻る場所だ。
いつもなら扉を開けた瞬間、そこにあるのは整えられた寝台と、香と、完璧に機能する静けさだけ。誰の気配もない、完璧な空間。
――けれど今だけは、違う。
把手に触れた指先が、ほんのわずかに躊躇した。こんな感覚を持つ自分が滑稽で腹立たしい。
それでも扉を押し開ける。
当たり前のように、そこに彼女がいた。
アラン・セシール。
寝台の端に浅く腰掛けている。毛布を肩にかけたまま、背筋はどこか固い。自分の部屋の豪奢さにまだ馴染んでいないのだろう。落ち着かないのはわかる。ここは彼女のために作られた空間ではない。支配のための部屋だ。秩序のための部屋だ。
それなのに――
「……」
息が、静かにほどけた。
部屋を開けたら当たり前のようにそこにいる。
それが、こんなにも満たされる事実になるとは知らなかった。
心臓の奥が、じわりと熱を持つ。言葉にするには幼稚で、認めるには不本意で、けれど確かに“満足”という名でしか説明できないものが、胸の底から湧き上がってくる。
自分の部屋に、翡翠がある。
翡翠の瞳が、自分の方を見上げる。
視線が合った瞬間、頭の中で何かが静かに決まる音がした。
――ずっとそうであってほしい。
この扉を開けるたび、翡翠がここにいてほしい。
扉の向こうに他の男の影がちらつくような、あんな不快な現実を二度と繰り返したくない。
レギュラスはゆっくりと室内に入り、扉を閉めた。鍵をかける音は立てない。必要ない。ここは自分の領域だ。逃げ場などもともとない。
だが今日、その必要ないが少し違う意味を持つのが自分でもわかった。
「……大丈夫でしたか」
声は自然に柔らかくなる。湯に濡れた髪の水滴が、首筋を伝って落ちた。シャツの襟元がわずかに冷える。
それでも視線は彼女から離れない。
アランは頷いた。けれどその頷きには、いつもより微かな揺らぎがある。疲労か、警戒か、あるいは――別の感情か。
その“別”を想像してしまう自分が、愉快で同時に苛立たしい。
レギュラスは寝台の反対側へ回り込み、濡れたタオルを椅子にかけた。何気ない動作のふりをしながら、彼女の気配を確かめ続ける。
そこにいる。逃げていない。誰の部屋にも行っていない。
その事実だけで、胸の奥が静かに満たされていく。
やがて、振り返る。
「これからは、ここで寝てください」
自分でも驚くほど、言葉がまっすぐ出た。
命令の形をしているのに、そこにある感情は規則ではない。支配でも規律でもない。もっと個人的で、もっと露骨な――願いに近い。
「その方が、僕が安心します」
口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
安心。
そんな曖昧な言葉を、自分が使うとは。
普段なら嫌う種類の概念だ。曖昧で、感情に寄りかかった言葉。理屈で固定できない言葉。
けれど今は、それ以外の表現が見つからなかった。
アランは言葉を失ったように瞬いた。
驚いているのか、迷っているのか。両方だろう。翡翠の奥に、ほんの僅かな動揺が走る。
その揺らぎを見て、レギュラスの口元にかすかな笑みが浮かんだ。嗜虐ではない。勝利でもない。
ただ、手応えだ。
――あれほど待った。
何度も口付けて、距離を詰めて、言葉を交わして、少しずつ彼女を自分の空気に慣らしてきた。
それなのに、あの夜、エルヤ・ナイームの部屋へ行かれた屈辱。
自分の与えた熱を、別の男の腕の中で解いていると想像した瞬間、胸の底が冷え切った感覚。
思い出すだけで、今も不快が喉の奥に残る。
ここにいてくれたら。
ここで眠ってくれたら。
もう二度と、あんなことは起こさせない。
完全に彼女が落ちるまで。
この部屋の中で、目の届くところで、じっくりと見ていられる。
彼女が自分の熱に慣れ、求める言葉を吐き、望む態度を差し出すまで――逃げ道をひとつずつ、丁寧に塞いでいける。
レギュラスは寝台の縁に腰を下ろした。距離は詰めすぎない。だが離れすぎもしない。彼女が息を飲むのがわかる絶妙な場所に、慎重に座る。
視線を外さないまま、低く言う。
「嫌なら、理由を聞きます」
逃げ道のように見せかけた刃だ。
理由を口にさせれば、その言葉を材料にできる。
断るなら断るでいい。彼女が何を怖れているのかを知れる。
そして――怖れの形を知れば、折り方はいくらでもある。
「……でも、ここにいてくれたら」
レギュラスの指が、毛布の端に触れた。彼女の肩口の布を整えるような、昨夜と同じ動作。
偶然のふりをした必然。
「僕は、随分と楽になります」
それは脅しではない。
規則でもない。
甘さに似た言葉で、彼女の心を引き寄せるための――手段であり、本音でもあった。
翡翠が揺れる。
アランの唇が、何かを言いかけて閉じる。
その迷いの沈黙が、レギュラスにはたまらなく心地よかった。
屋敷の門をくぐる瞬間が、こんなにも救いに近い形を持つようになるとは、以前の自分は想像もしなかった。
軍事部の廊下は常に乾いている。紙とインク、金属と魔力の匂い。命令と報告と数字の匂い。
そこにあるのは秩序だ。合理だ。勝敗だ。
好きなはずの世界なのに――時々、信じられないほど疲れる。
芳しくない戦況を聞かされた日。
机上の地図に並ぶ駒が、ただの木片ではなくなる。ひとつ倒れるたび、兵の名が消える。家が、姓が、未来が、消える。
負傷して戻ってきた兵を見舞った日。
包帯と薬の匂いは、どれほど慣れても胃の底に残る。歯を食いしばって笑おうとする者、声を出せず目だけで敬礼する者。自分の前で“誇り”を見せるその姿が、なおさら重い。
そして魔法訓練と称して、実践形式の演習を行った日。
泥と煤と熱。足が攣り、腰が軋み、腕の傷が再び疼く。黒いローブの裾は汚れるし、靴は泥を吸い、肩甲骨の奥が鈍く痛む。
戦うことは好きだ。勝つことは快い。けれど、身体が限界に近づくと、思考さえ削れていく。
今日もそうだった。
廊下の灯りが滲むほど、頭が重い。息は熱い。喉は乾いている。
それでも表情は崩さない。崩す必要がない。崩せば周囲が騒ぎ、余計に面倒が増える。支えるべき柱が軋んでいるなど、誰にも見せるものではない。
馬車を降り、屋敷の扉が開く。
執事が一礼し、いつもの言葉を口にする。
その一つ一つを聞き流しながら、レギュラスは足を進めた。
――そして。
視界の先に、翡翠があった。
廊下の影の中で、灯りを受けてわずかに光る瞳。
アラン・セシールがこちらを見上げている。
迎えに出るよう命じた覚えはない。けれど、いつの間にか彼女はここにいることを覚えたらしい。自分の帰る時間を、気配で察しているのかもしれない。
たったそれだけで、胸の底に絡みついていた疲労が、ほどける気がした。
馬鹿げている。
こんなことで、人は救われるのか。
――救われるのだ、と認めるのは癪だった。
だから、わかりやすく喜ぶような真似はしない。
口元も緩めない。声の温度も変えない。
ただ、歩みだけがほんの少し早くなる。その自覚があるのが、さらに腹立たしい。
アランの前に立つと、煤の匂いが自分から立ち上るのがわかった。焼けた土の匂い。薬草の焦げた匂い。演習で転げ回った泥の匂い。
こんなものを彼女に近づけるのは、品位という意味では最悪だ。
けれど、今はそんな理屈がどうでもいい。
レギュラスは躊躇なく腕を伸ばし、アランを抱き寄せた。
細い体が胸に当たる。
自分の軍服の硬さと、彼女の柔らかさが不釣り合いで、逆に落ち着く。
肩口に頬が触れた瞬間、アランが小さく息を呑んだ。怖れか、驚きか、それとも――慣れ始めた証か。
抱き寄せながら、レギュラスは思った。
ここに帰るのが癒しになっている。
軍事部にいる間、何度も想像してしまう。扉を開けたら翡翠がいる光景を。
それは弱さだ、と切り捨てることもできる。
だが、弱さがあるからこそ、人は長く立っていられる。
「……おかえりなさい……」
アランの声が、胸の近くから聞こえた。
言葉はぎこちない。悩んだ末に絞り出したような声音。
こういう時はこう言うと、誰かに教えられたのだろう。礼儀の形として。秩序の作法として。
それでも――満たされた。
わかっていても、型にはまった言葉だとしても。
自分の帰宅に向けられた言葉だ。
自分の部屋に、自分の屋敷に、彼女がいるという事実が、確かにここにある。
レギュラスは腕の力を少しだけ強めた。
強めたのに、抱きしめる理由を口にしない。
口にすれば、それは欲になってしまう。
欲と認めた瞬間、支配の形が崩れる気がした。
だから代わりに、淡々とした声で言う。
「……汚れますよ」
煤と泥の匂いがするだろう、という意味の言葉。
けれどそれは、離れろという命令ではない。
むしろ――抱きしめたままの言い訳だ。
アランは何も言わない。
ただ、僅かに肩が緩む。
その小さな緩みが、レギュラスの疲労を最後まで溶かした。
屋敷に戻ることが、ただの帰宅ではなくなっている。
軍事部からここへ戻ることが、今日を終わらせる儀式になってしまった。
そしてその儀式の中心にいるのは、黒ではなく、翡翠だった。
彼の足音は、もう聞き分けられるようになっていた。
屋敷の床は磨き込まれているから、靴音はよく響く。使用人たちの足音も、護衛の足音も、教育係の控えめな歩みも、どれも似たような規則を刻んでいる。けれど――彼の足音だけは違った。迷いがない。速すぎず遅すぎず、一定の重さで廊下を切ってくる。扉の向こうから近づくたび、空気の密度が変わっていく。
指導係は言った。
外で待つこと。
出迎えること。
かけるべき言葉も、声の高さも、礼の角度も、決められた通りに。
覚えることは得意だった。生き残るために覚えてきた。
けれど、ここで教え込まれた正解は、時々自分の心を切り刻む。
自分の口から出てくる言葉は、言わされているだけなのか。
それとも、いつのまにか自分の意思に変わってしまったのか。
どちらなのか分からないまま、アランは廊下の先を見つめた。
扉が開き、黒が入ってくる。
「戻りました」
レギュラスの声は、いつも通り整っていた。
それなのに今日の声には、ほんのわずかに粗さが混じっている気がした。呼吸の間隔が、いつもより重い。目が、少しだけ乾いている。軍の匂いがする。煤と鉄と、汗と魔力の残り香。怖い匂いなのに、なぜかそれが“帰ってきた”という事実を強める。
アランは胸の奥の小さな震えを押し殺し、教えられた通りに口を開く。
「……おかえりなさい……」
相変わらず、この言葉が正解なのかは分からない。
けれど、その言葉が落ちた瞬間だけ、レギュラスの表情が少しだけ和らぐのを、アランは見逃せなくなってしまっていた。
今日は抱擁はなかった。
その代わり、レギュラスの手が伸びてきて、アランの腕を取る。
引く力は強くないのに、逆らえない方向へと空気が動く。体が勝手に従ってしまう。彼に触れられた箇所が熱を帯びるのが悔しい。
そのまま部屋へ入る。
扉が閉じる音が、外の世界を切り離す。
レギュラスはコートを外すでもなく、椅子に腰を落とすでもなく、ただ立ったまま小さく息を吐いた。
「……はぁ」
ため息だった。
ため息を、彼が。
その次に落ちた言葉は、もっと驚くものだった。
「疲れました」
その声は弱音の形をしていた。
けれど弱くはなかった。ただ、短い言葉の中に、今日の重さが折り畳まれているようだった。報告書の山より、地図より、命令よりも、生々しい。
アランの口が勝手に動いてしまう。教えられた言葉ではなく、咄嗟の言葉。
「……どうしてですか」
言ってから、しまったと思った。
問い返すのは無礼だ。余計な興味を示すのは危険だ。何を返されるか分からない。
けれどレギュラスは叱責しなかった。
銀色の瞳が、アランを捉える。
いつもより近い。いつもより、温度が曖昧だ。
「いいえ、何でもないです」
そう言いながら、彼はアランを引いた手を放さない。
握られている腕から、彼の体温がじわりと伝わってくる。疲労の熱。戦場の熱。無数の命の熱。
「……あなたがいるから、そう思えます」
その言葉が、胸の奥に落ちた瞬間、アランは言葉を失った。
あなたがいるから――それは、誰かが誰かに言う言葉だ。
秩序の言葉ではなく、命令の言葉でもなく、取引の言葉でもない。
そんなものを、この男の口から聞く日が来るなんて思わなかった。
アランは息を飲む。
嬉しいと感じてしまうのが怖い。
怖いのに、頬が熱くなるのを止められない。
「……私は」
何か言おうとして、言葉が見つからない。
正解はどれだ。
この場で言うべき言葉は何だ。
指導係の声が頭をよぎる。けれど今、目の前の男は、教科書の中の旦那様ではない。
レギュラスは、ほんの少しだけ目を細めた。
「難しい顔をしないで。あなたは、そこにいればいい」
その言い方が、命令なのか、願いなのか、アランには判別できなかった。
ただ一つだけ確かなのは――その瞬間、アランの中で出迎えが作法ではなく習慣になってしまった理由が、わずかに見えた気がしたことだった。
彼の足音を聞くと、身体が先に動く。
危険だと思うより先に、扉の外へ出てしまう。
そして「おかえりなさい」と言う。
それが、言わされているだけなら、こんなにも胸が痛むはずがない。
最初は、何でもなかった。
「疲れました」と言った後に続くのは、いつも決まって「何でもない」ですべてを片付ける言葉だった。
必要以上に話す必要はない。説明は弱さにつながる。共有は隙を作る。――そうやって生きてきた。そうやって秩序を築いてきた。口を開けば感情が混じる。感情は曖昧で、曖昧なものは嫌いだった。
けれど、扉を開けたときに翡翠の瞳がこちらを見る。
たったそれだけで、今日という一日が“終わっていく”感覚があった。
「戻りました」
「……おかえりなさい……」
そのやり取りが、ただの作法ではなくなってから、少しずつ歯車がずれ始めた。
ずれ始めたというより、今まで噛み合っていなかったものが、妙な角度で噛み合い始めた。
最初は、本当に些細なことだけだった。
「今日は雨が降りそうでしたよ」
言いながら自分でも馬鹿らしいと思う。天候の話など、執務に何の役にも立たない。兵の命を救いもしない。国境を押し広げもしない。なのに口から出た。
アランは少し驚いた顔をして、それでも頷く。
「この国の雨は冷たいですね」
その返事を聞いて、レギュラスは妙に満足した。
会話が成立したことではない。彼女が自分に向けて言葉を返したという事実が、疲労の底に落ちていた何かを持ち上げた。
次の日は、もう少しだけ具体的になった。
「魔法省で、無駄に声の大きい連中がいました。会議の場でね。内容より主張が先に来る。……頭が痛くなります」
言ってから、しまったと思う。愚痴だ。生産性がない。
アランは眉を寄せて困ったように笑い――その小さな表情が、レギュラスの胸に奇妙な軽さを運んだ。
「……うるさい人は、どこにでもいます」
たったそれだけの言葉なのに、なぜか肩の力が抜ける。
結論も助言もいらない。ただ、受け取られたことが楽だった。
それから少しずつ、報告ではない“出来事”が、彼の口からこぼれるようになった。
「訓練で若い兵が、杖を握る手を震わせていました。実力はあるのに、恐怖が勝つ。……恐怖は、厄介ですね」
言った瞬間、自分が何を語っているのか分からなくなる。
恐怖――その言葉を、彼女の前で口にするなど。
けれどアランは目を逸らさず、ただ静かに聞いていた。翡翠の瞳が、揺れていない。そこに侮りも同情もない。
「……恐怖は、逃げたくなります」
アランがそう言った。
その短い言葉が、まるで刃のように胸の奥へ刺さる。自分の恐怖を理解したいのではない。理解されたいとも思っていない。
ただ、その言葉が、彼女の生きてきた恐怖と同じ土台から生まれているのがわかって――黙るしかなかった。
沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙が苦しくない。むしろ、室内の空気がほどけていくようだった。
ある夜、レギュラスはグラスを持ったまま、ふと口にした。
「今日、負傷して戻った兵がいました。死にはしません。……ただ、片腕は、もう戻らないでしょう」
それは報告ではない。数字でもない。命令でもない。
ただの事実だ。
言ってしまった後、喉の奥が妙に熱くなる。自分が痛みを抱えていることを認めたようで嫌だった。
アランの指先が、毛布の端を握り直す。
彼女は何も言わなかった。
言わないまま、ゆっくりと息を吐いた。――それが、妙に救いだった。
何かを慰められるのは好まない。
励ましの言葉は時に嘘になる。
同情は吐き気がする。
けれど、彼女がそこにいて、聞いて、逃げないというだけで、心の奥が少しだけ“解ける”。
不思議だった。
話すことは生産性がないと思ってきた。意味がないと思ってきた。
それでも――話すと、楽になる。
解ける。
ほどける。
鎧の継ぎ目が一つずつ外れていくように、締め上げていたものが緩む。
そして自分は、その緩みを求めてしまっている。
軍事部の硬い空気の中では決して生まれない、息を吸える時間を。
翌日、屋敷に戻る足取りが少しだけ軽いことに気づいて、レギュラスは内心で舌打ちした。
そんなものに救われるほど、自分は弱くないはずだ。
そう思いながらも――扉の向こうに翡翠の瞳があることを、確かに期待してしまっている。
それが、ひどく腹立たしくて。
同時に、やめられないほど甘かった。
屋敷の廊下に響く足音は、いつからか耳が覚えてしまった。
重くて、迷いがなくて、規則正しい。急いでいる日も、疲れている日も、その歩幅だけは崩れない。――崩れないはずなのに。
扉が開く音がして、黒い影が現れる。煤と金属と、乾いた風の匂い。軍服の下で擦れた布の音。
いつもならそれだけで喉の奥が冷え、胸の奥が硬くなるはずだった。
「戻りました」
「……おかえりなさい」
教えられた言葉。正解として与えられた言葉。
けれどその言葉が、口から落ちるたびに、少しだけ自分のものになっていくのがわかる。変だ。怖い。自分で自分が。
レギュラスは返事の代わりに、腕を差し出す。引かれるまま部屋に入る。扉が閉まり、外の気配が途切れる。
そこで初めて彼は小さく息を吐いた。
「……はぁ」
ほんの一瞬、肩の力が落ちる。あの男が。
あの男が、疲れたという言葉をこぼす。
「疲れました」
その一言が、ひどく生々しくて、胸の奥がざわついた。
こちらのせいで疲れたのかもしれない、という恐怖と、そうじゃないのなら何に疲れたのかという疑問が同時に湧く。
「どうしてですか」
問いが口をついて出てしまった。
自分でも驚いて、すぐに後悔する。聞いていいことではない。奪われる。巻き込まれる。
そう思ったのに、彼はすぐに“何でもない”とは言わなかった。
「軍事部で……報告が立て続けに来ました。北の遠征はね、想像以上に面倒です」
淡々とした調子。けれど、ほんの少しだけ言葉に棘がある。苛立ちが混ざっている。
それが、彼の“温度”なのだと気づく。冷たいだけの声ではなくなっている。
「面倒、ですか」
返す言葉は短くなる。
長く語れば奪われる。余計な情報を渡すことになる。そうやって自分は生き延びてきた。
だから頷く。短く返す。それだけでいい、と自分に言い聞かせる。
「ええ。面倒です。……死ぬべき兵は死ぬべきだと簡単に言う者がいる。机の上で、口だけで」
その瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。
人の命を犠牲にしろと命じてきた男が、そんな言い方をする。
矛盾が怖い。矛盾が、人間の顔をして近づいてくるのが怖い。
「……あなたは、簡単に言う側だと思っていました」
そう言ってしまった。
言ってしまってから、しまったと思う。
銀色の瞳がこちらに向く。刺すような視線。けれど怒りはない。むしろ少しだけ、面白がるような光が宿っていた。
「そう見えますか」
「……見えます」
アランは視線を落とす。
自分の言葉の棘が恥ずかしい。恐ろしい。叱責されるかもしれない。
けれどレギュラスは笑わない。軽く鼻で息を吐いただけだった。
「では、あなたは正しい。僕は簡単に言えます。……言えるからこそ、言うべきではない場面も知っている」
何それ、と頭の中で声が上がる。
理解できない。理解したくない。
なのに、その言葉が妙に胸の奥に残る。嫌な残り方をする。柔らかい毒みたいに。
別の日は、もっとくだらない話だった。
彼が軍服の襟を少し緩めながら言った。
「今日、演習で泥だらけになりました。……僕が、ですよ」
「……想像できません」
「でしょう。想像できない顔をしています」
からかうように言って、彼はほんの少しだけ口角を上げる。
その笑みが、ここ最近増えた“声の笑い”と同じ種類だと気づいて、アランの喉が乾いた。
「……あなたにも、転ぶことがあるんですか」
「転びました。転がりました。……部下たちは必死に見ないふりをしていましたね」
その光景を思い浮かべた瞬間、笑いそうになってしまって、慌てて唇を噛む。
笑ったらいけない。
けれどレギュラスはそれを見て、さらに柔らかく笑った。
「笑ってもいいんですよ、アラン」
名前を呼ばれる。
それだけで肩がこわばる。
怖いのに、胸のどこかがほどけてしまいそうで怖い。
気に入らない人間の話もした。
冷たい声で切り捨てるのではなく、苛立ちを混ぜて、ほんの少しだけ愚痴みたいに。
「今日、会議で声の大きい男がいました。主張だけが先に立つ。内容が薄い。……こういう連中は、何を食べて生きているんでしょうね」
「……同じものを食べていると思います」
思わず返してしまう。
するとレギュラスは短く笑い、椅子の背にもたれた。
「あなたの返しは時々、妙に鋭い」
褒められているのか、見定められているのか。
わからない。わからないから、返事ができない。
ただ頷いて、指先を隠すように袖を握る。
そうして夜が終わる。
彼が疲れたとこぼし、少し話し、そして静かに息を整えていくのを、隣で聞く。
それだけのことが、いつのまにか“習慣”になった。
怖いのに。
怖いはずなのに。
自分の中で、彼の世界が少しずつ広がっていく。
魔法省の廊下、軍事部の灰色の空気、地図の上を動く駒、演習で泥に汚れる軍服。
それらが、絵の具のように自分の内側に落ちて、色を増やしていく。
それを、ほんの少しだけ――ほんの少しだけ、嬉しいと思ってしまう自分がいる。
その瞬間が、何より恐ろしい。
エルヤの顔が脳裏に浮かぶ。
あの手。あの匂い。あの声。故郷の言葉。
帰ろうと誓った熱。
それなのに、別の男の声が、別の男の温度が、自分の心の縁をなぞり始めている。
裏切りだ。
そう思うのに、拒みきれない。
レギュラスは多くを語らない。
けれど語り始めたという事実が、重い。
あの男が、話す。温度を混ぜる。愚痴を言う。笑う。疲れたと言う。
そのたびにアランは頷き、短く返し、受け止める。
受け止めてしまう。
――受け止めた分だけ、心の内側に、彼の居場所ができていく気がした。
それが怖くて、胸の奥がぎゅっと痛くなるのに。
彼が言葉を落としたあと、少しだけ楽そうに息を吐くのを見ると、やめたいと思えない。
「……あなたがいるから、そう思えます」
以前、そう言われた言葉が蘇る。
あれは嘘だと思った。
そう思わないと、自分が壊れると思った。
けれど今夜もまた、彼は疲れた声で何かをこぼし、アランは小さく頷く。
その繰り返しが、静かに、確実に、彼女の中の何かを変えていく。
変わってしまう予感が、なまなましくて。
その予感を抱きながらも、アランは目を逸らせなかった。
エルヤは、いつもアランの半歩後ろにいた。
それは“従者”として与えられた立ち位置でありながら、イェルスの頃と同じ――守る者としての距離でもあった。危険があれば先に気づいて、先に手を伸ばし、先に盾になる。そうしてくれることが、今も変わらず胸を温めるのに、同時に胸を刺した。
屋敷の中は静かだった。けれど静かなのは音だけで、目は至る所にある。
廊下の絨毯の模様、壁に掛けられた肖像画、扉の向こうの気配。息をするだけでも誰かに数えられているような、息苦しさがあった。
そんな場所で、エルヤが声を落とす。
「アラン」
呼び方が、故郷の夜と同じだった。
ただそれだけで、アランの喉の奥が痛む。帰りたい、という思いが呼び起こされる。帰れない、という事実も一緒に。
「……何?」
返事は短くなる。短くしないと、声が震える。
エルヤはその震えを聞き取ったのか、眉を寄せて近づいた。無意識に手を伸ばしてくる指先に、アランは反射で身を引きそうになる。――引く理由が、怖かった。触れられたいのに、触れられたくない理由が別にあるみたいで。
「何も……されてない?」
問いは、刃のように柔らかかった。
痛くないように当ててくるのに、当てられた瞬間、心の奥が裂ける。
「僕は心配なんだ。あの人に近づかれて……何もされてない? 嫌なこと、言われてない? 触られてない?」
エルヤの声は必死だった。
必死さが、嬉しいのに、痛い。嬉しいのに痛い、なんて矛盾の塊みたいな感情を、こんな場所で抱き続けていることがもう嫌だった。
アランは一瞬、目を伏せた。
触られてないと言えば嘘になる。
嫌なことはされてないと言えば、それも嘘だ。
あの男の言葉は甘くて、残酷で、どこが境界線なのかわからない。口づけひとつとっても、暴力のようでいて、暴力だけでは片づけられない何かが混ざる。
――そしていちばん厄介なのは、自分がそれを拒みきれない瞬間を知ってしまったこと。
「……大丈夫」
口が勝手にそう答えた。
嘘が、すぐに形になってしまう。自分の舌が怖い。
「本当に? 顔色が……」
エルヤの手が、アランの頬に触れようとする。
その手を避けたいわけじゃないのに、アランの肩がわずかに強ばる。触れられることで、いまの自分の汚さが全部バレてしまいそうだった。
イェルスの娘としての誇りが、剥がれ落ちていることが。
神に背くことを、もう一度、もう二度とやってしまったことが。
命を奪う選択をしたことが。
そして――レギュラス・ブラックと話し、笑い、眠ることが減り、悪夢が薄れていくことを、どこかで楽だと感じてしまったことが。
それらを、エルヤの手が触れた瞬間に全部見抜かれるような気がして、息が詰まった。
「……エルヤ」
名前を呼ぶだけで、胸の奥が軋んだ。
彼は守ってくれる。昔も今も。
だからこそ、守ってもらう自分が、情けなくて、腹立たしくて、恥ずかしい。
「僕、怖いんだ」
エルヤがそう言った。
怖い、と言うエルヤを見たことがない。狩りの前も、嵐の夜も、崖の上でも、彼は怖いと言わなかった。
それなのにこの屋敷では、彼は怖いと言う。
レギュラスという名の秩序が、彼からその言葉を引き出してしまう。
「アランが……あの人のものになっていくみたいで」
その言葉が、アランの胸を強く打った。
そんなふうに見えているのか。
そう見えてしまうほど、距離が変わっているのか。
否定したいのに、否定できない。
否定すれば、エルヤは安心する。安心させたい。
でも否定は、嘘になる。自分の中で確かに起きている揺れを、なかったことにする嘘になる。
嘘をつく自分が、嫌だった。
アランは息を吸う。
喉が痛い。泣きそうになる。でも泣いたら、全部崩れる。
「……近いだけ」
絞り出した言葉が、薄っぺらく聞こえた。
近いだけ、という言い方がすでに危うい。
近いのは距離だけじゃない――そんな事実を、自分自身がいちばん知っている。
エルヤは、アランの顔を覗き込む。
まっすぐな瞳。信じたい瞳。信じている瞳。
その瞳が、いまの自分には眩しくて痛い。
「アラン」
もう一度呼ばれて、アランはこたえる代わりに唇を噛む。
触られてないと嘘をつくより、
近いだけと誤魔化すより、
いっそ、何も言わずに抱きついてしまいたかった。
けれど抱きついたら、今度はレギュラスの顔が脳裏に浮かぶ。
銀色の目が、静かに笑う。
支えは僕が引き受けます
あの言葉が、毒のように残っている。
アランは胸の奥で、何かが嫌な音を立てるのを感じた。
自分は、どこまで汚れてしまったのだろう。
神に背き、人を殺め、欺き、嘘を重ね――それでもまだ、自分は“帰りたい”と言えるのだろうか。
「……大丈夫だよ、エルヤ」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
大丈夫じゃない。
大丈夫じゃないのに、大丈夫だと言う自分が、どこまでも汚い。
エルヤの安堵が、わずかに顔に浮かぶ。
それを見た瞬間、アランはさらに苦しくなる。
この安堵は、自分の嘘でできたものだ。
優しさの形をしているのに、罪でできた安堵だ。
だからアランは笑えなかった。
ただ、祈るように目を伏せた。
嘘がこれ以上、二人の間に深く入り込まないように。
そして、自分の中の揺らぎが、取り返しのつかないところまで育ってしまわないように。
