1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
アランを頷かせた。
それだけで、今夜の仕事は終わったと思っていた。
地図の上の駒は整列し、報告は必要な分だけ集まって、決裁の署名も済ませた。
兵は守られる。北海の遠征で削れた戦力も、次は無駄死にを減らせる。
英国の侵略は止まらない――いや、むしろ加速する。
満足だった。
こういう満足は、理屈で成り立つ。
数値で測れて、結果で証明できて、誰が見ても同じ結論に辿り着く。
曖昧さがない。
だから心地いい。
だから今夜は、久しぶりに余白を使おうと思っていた。
書斎にアランが来たら、少し甘やかしてやろうと。
抱きしめて、今夜は怖い話をしないで、ただ言葉を与えて。
彼女が息を取り戻せるように。
――そしてその息が、また自分の命令を受け入れられるように。
そういう種類の甘やかしだ。
自分の支配のやり方の一つだ。
褒美と、慰めと、麻痺。
グラスに注いだ赤い酒が、灯りを受けて静かに揺れる。
机の上の書類の角、黒いインク、乾いた羽根ペン。
完璧な秩序の中で、レギュラスは小さく息を吐いた。
その時、扉の外から報告が届いた。
「旦那様。…… アラン様が、エルヤ・ナイームの部屋へ」
一瞬、言葉が意味を持たないまま耳を通り過ぎた。
次の瞬間、胸の奥が一気に冷えた。
熱が引く。
酒の赤が薄くなる気がした。
室内の温度が変わったようにさえ感じる。
指先が冷たくなる。
「……そう」
声は落ち着いていた。
落ち着かせる必要があった。
ここで声を荒げるのは美しくない。
支配者が感情の揺れを表に出すのは、無能のすることだ。
けれど、グラスを持つ手には力が入った。
透明な硝子がきしむほど、静かに、確実に。
あの男の部屋で何をしているのか。
誰だって理解できる。
わかりやすすぎるほどに露骨な事実だ。
あの翡翠の瞳が、何度も何でもないで押し込めたもの。
口付けの先を求めそうで求めないふりをして、羞恥で誤魔化していたもの。
あれを、あの男には簡単に渡しているのだろうか。
自分には決して欲している思いを打ち明けないくせに。
エルヤ・ナイームに対して、どこまで素直に自分を開いているのかと思うと、胸の奥に気持ちの悪い感覚が広がった。
敗北を突きつけられた気がした。
――自分は、ここまで整えたのに。
衣装も。言葉も。礼儀も。秩序も。
恐怖で縛り、褒美で釣り、会話で心をほどき、夜の時間を積み重ねて。
唇まで重ねて。
彼女が自分の世界に染まりかける手応えだって、確かにあった。
それなのに。
その“熱”の決定権だけは、あの男の手元に残っている。
レギュラスは、笑いそうになった。
乾いた笑いが喉の奥で鳴る寸前で、飲み込む。
滑稽だ。
こんなことで苛立つなんて。
国を落とし、海を封じ、他国を従えさせる自分が。
たった一人の女の、たった一夜の行為で、冷える。
けれど、不快だった。
シンプルに、不快だった。
秩序の中で許したのは側に仕えさせることだけだ。
守らせる、監視させる、支えにさせる。
それ以上は禁じた。
禁じたはずだった。
破るのか、と。
彼女も。
あの男も。
グラスを机に置く。
音は立てない。
立てる必要がない。
音で怒りを示すような真似は、下品だ。
代わりに、静かに考える。
どう処理するか。
誰の首をどう締めるか。
どこまで許し、どこで折り、どこで見せしめにするか。
アランを叱責すればいい?
いや、今は良くない。
彼女は封印を引き受けたばかりだ。
ここで叩けば、罪悪感の糸が切れて壊れる。
壊れたら術式が鈍る。
それは困る。
なら、エルヤ・ナイームだ。
あの男はわかりやすい。
直向きで、無謀で、愛という言葉のためなら命を投げる。
だからこそ操りやすい。
そして今、忠誠の揺らぎがある。
規則の破り方を覚えた。
監視を軽んじた。
――釘は刺した。次はないと。
レギュラスは目を伏せ、赤い酒を一口飲んだ。
甘い。酸い。
舌に残るその味が、今夜はひどく不快だった。
あの女が、あの男の部屋で同じ熱を飲み込んでいるのだと想像すると、胃の底が冷たくなる。
「……報告は続けて」
レギュラスの声は静かだった。
静かで、丁寧で、整っていた。
その整いの中に、怒りが沈殿していく。
彼はゆっくりと立ち上がり、窓の方へ歩いた。
夜の闇がガラスに映る。
銀色の瞳がそこに重なる。
――半分手に入れたと思ったのに。
苛立ちが溢れかえりそうになる。
けれど溢れさせない。
怒りは、外に出すものではない。
形にして、秩序にして、相手の逃げ道を塞ぐために使うものだ。
今夜、書斎に来たらとびきり甘やかそうと思っていた。
その予定だけが、冷たく宙に浮いたまま、ひび割れていく。
そしてレギュラスは、そのひび割れの音を誰にも聞かせないまま、静かに怒りを溜め続けた。
陸路の遠征のために集められた魔法兵たちは、地図の上の駒ではなく――現実の地面に、幾重にも折り重なる黒い列としてそこにいた。
北へ、北へ。
冷たい風を切って進む隊列は、鎧やローブの擦れる音と、遠くで鳴る号令の声に支配されている。
空は重く、雲は低い。
湿った空気が肺に絡み、地面は踏みしめるたびに鈍く沈む。
イェルスの土の匂いとは違う。
ここは英国の土だ。
硬く、冷たく、そして――命を道具として扱う国の匂いがした。
アランはその隊列の中央に立たされていた。
周囲には術式を記録する官吏、警戒の兵、指揮官の部下たち。
視線が刺さる。
見物の視線ではない。
期待と、催促と、監視。
「成功させろ」という無言の圧力が、四方八方から押し寄せる。
結界魔法そのものは、魔法兵たちが既に組み上げていた。
幾層にも張り巡らされた透明な膜が、空気をほんの僅かに歪ませている。
しかしそれは結界であって、封印ではない。
持続が弱い。
衝撃に耐えない。
それを――破れぬものへ近づけるのが、アランの役目だった。
何を犠牲にするか。
思い出すだけで胃が痙攣した。
あの包帯の男の、じっと濁った目。
まだ生きていた。
痛みの中で息をしていた。
それでも奪った。
奪わせた。
奪わされた。
二度としたくない。
あれはもう、したくない。
罪に罪を重ねていく感覚に、いつか本当に息ができなくなる。
「犠牲にするものは選んでいい」
レギュラス・ブラックはそう言った。
優しさの形をして。
けれどその言葉は、同時にこう聞こえた。
――いくらでも差し出せる命が、まだある。
――そして、君はそれを選ぶ側にいる。
恐ろしかった。
選べるということが、どれほど残酷か。
彼はそれを知っているのに、わざと与えてくる。
アランは視線を伏せたまま、喉の奥で唾を飲み込んだ。
選択肢は無限にあるふりをして、実際は狭い。
犠牲を拒めば、次に出されるのは誰か。
それはきっと――エルヤだ。
だから、答えは最初から決まっていた。
「……私の血を媒介にします」
言葉が口から落ちると、風がそれを攫っていく。
誰かが小さく息を呑む気配がした。
驚きなのか、安堵なのか。
レギュラスは一歩も動かず、ただその銀色の瞳でアランを見た。
目は笑っていない。
優しくもない。
測っている。
「足りないでしょう」
きっぱりと言い切る声。
柔らかい声色なのに、刃が入っていた。
逃げ道のない断言。
「途中で崩れられたら困ります」
アランの背筋が凍った。
困るという単語が、兵たちの命ではなく、自分の価値に向けられていると分かったからだ。
崩れれば、価値が落ちる。
価値が落ちれば、代わりが用意される。
その代わりが、誰であるかは――考えないようにしてきた。
「……だから、壊れないようにします」
声が震えそうになるのを堪えた。
自分の血で。
自分の命で。
せめて、この大罪を償う真似だけでもできるなら。
アランは袖を捲った。
白い肌が冷気に晒され、鳥肌が立つ。
刃物のように整えられた治療器具と、血を受ける器。
神聖なものではなく、手順で管理された“作業”の道具としてそこに並んでいた。
唇を噛みしめる。
痛みは怖くない。
怖いのは、血が減っていくほどに、心まで空になっていくことだった。
自分が自分でなくなる感覚。
それでもやらなければならない。
アランが指先を立て、古い言葉を胸の中で転がす。
杖は必要ない。
それがイェルスの術だ。
祈りであり、呪いであり、魔法だった。
――守ると決める。
――対象を明確にする。
――封緘句を繋ぐ。
偽りのない封印は、本来なら慈しみで起こる。
親が子を抱くように。
傷ついたものを守るように。
無償の愛が媒介になる。
けれど目の前にあるのは、遠征と侵略のための布陣だ。
慈しみなど湧かない。
嫌悪と恐怖しかない。
それでも、“守り”の形だけは作れる。
血が術を繋ぐ。
血が膜を重くし、強度を上げる。
血が、感情の不足を無理やり補う。
アランは器に血を落とした。
赤が広がる。
温かい。
一滴落ちるたびに、体温が少しずつ奪われていく。
その瞬間、レギュラスの声が落ちた。
「……では、僕も差し出しましょう」
アランは思わず顔を上げた。
何を言い出すのかと思った。
その言葉の意味が理解できず、目が見開かれる。
「あなた一人で完成させるには、きっと足りない」
淡々と。
冷静に。
それが当然であるように。
まるで不足している材料を補うだけの話のように。
「その分は僕の血で補いましょう」
一瞬、時間が止まったみたいだった。
風の音も、兵の息遣いも、遠くの号令も消えて、ただ彼の声だけが耳の奥に残る。
――この男が?
――自分の血を?
平気で誰かを連れてきて殺せと言える男だ。
命を殉死と呼んで飾り立てる男だ。
そんな男が、自分の血を差し出す?
信じられなかった。
恐ろしくもあった。
彼が差し出すものは、優しさではなく、必ず何かの形で回収される。
それを知っているのに、胸の奥が小さく揺れてしまう。
「……なぜ」
アランの声は掠れていた。
問いの形になっていない。
ただ漏れただけの言葉。
レギュラスはその掠れた声に、わずかに口角を上げた。
笑っているのか、試しているのか、判別がつかない。
「あなたが倒れたら困るからです」
そう言ってしまえば、それまで。
理屈としては完璧だった。
彼らしい。
優しさではなく、効率と管理。
けれど、彼はさらに一歩近づいた。
黒いローブの裾が風に揺れ、軍服の金具が微かに鳴る。
その近さが、アランの心臓を余計に騒がせる。
「それとも」
低い声。
「あなたは、僕の血が混じるのが嫌ですか?」
逃げ道のない質問。
いつものやり方。
どちらを選んでも、彼の掌の上だ。
アランは首を振るしかなかった。
嫌だと言えば、代わりの犠牲が出てくる。
それが誰になるかなんて分かり切っている。
だから、答えはひとつしかない。
「……嫌では、ありません」
その瞬間、レギュラスの銀色の瞳が僅かに柔らかく見えた。
錯覚だ。
酒の夜の笑いと同じ、紛い物の温もり。
そう思っておかないと、胸の中の何かが壊れる。
レギュラスは袖口を少し捲り、迷いなく自分の腕を差し出した。
真っ白な皮膚に走る血管。
そこに刃が触れる前の静けさ。
アランは手が震えそうになった。
彼の血を流すことが、恐ろしい。
それを“恐ろしい”と思う自分が、もっと恐ろしい。
彼は人の血を流させた。
自分に流させた。
なのに、彼の血を流すとなると――躊躇いが出る。
どうして。
何に怯えているのか。
レギュラスは静かに囁いた。
「大丈夫ですよ、アラン」
名前を呼ばれるだけで、胸がきゅっとなる。
嫌なのに。
拒みたいのに。
拒めない。
「あなたが求める慈しみが足りないなら」
その言葉が、刃みたいに刺さる。
「僕がそれを補えばいい」
何を補うというのだ。
慈しみ?
この男が?
けれど、彼は平然としていた。
自分の体の一部を差し出す覚悟がある顔をしていた。
アランは目を閉じた。
息を吸って、吐く。
そして、刃を取った。
最初の一滴が落ちる。
赤が器の底で混じり合う。
自分の血と、彼の血が。
同じ色で、同じ温度で、区別がつかないまま。
その混ざり合いが、なぜだかひどく嫌だった。
けれど同時に、逃げられない現実の印のようでもあった。
術式の言葉を紡ぐ。
封緘句を繋ぐ。
対象を定める。
北へ進む隊列、その全体を包み込む膜を閉じる、
血が落ちるたびに、結界が厚くなる。
空気の歪みが増し、風の流れが変わる。
見えない膜が地平線まで伸びていく感覚が、指先に伝わってくる。
アランは立っている。
立たなければならない。
倒れたら、すべてが崩れる。
視界の端が白く滲む。
遠くで誰かが自分の名を呼んだ気がする。
けれど耳に入らない。
ただ、術式だけが身体の中心で回り続ける。
――守りたくないものを、守る。
――守るために、血を流す。
――守りの術を、侵略の盾にする。
神に背く痛みが、背骨を這い上がる。
それでも、息を吸う。
吐く。
血を落とす。
言葉を繋ぐ。
そして最後の封緘句を落とす瞬間、アランの膝がわずかに揺れた。
その揺れを、すぐ隣でレギュラスが支えた。
肩に触れた手の熱が、驚くほど現実だった。
「ほら」
低い声が耳の近くで響く。
「壊れませんよ」
それが命令なのか、慰めなのか、どちらでも同じだった。
アランは歯を食いしばり、最後の言葉を結界へ滑り込ませた。
膜が、閉じる。
音のない完成。
空が一瞬だけ静まり、次いで風が戻る。
周囲の者たちが息を吐く気配がした。
誰かが「成功だ」と囁く。
それは祝福ではなく、安堵――道具が壊れなかったことへの安堵。
アランは視界が揺れたまま、器の中の赤を見つめた。
自分の血と彼の血が混じった色。
その色が、北へ進む兵たちを守る。
守ることで、また誰かが死ぬ。
守ることで、またどこかが焼け野原になる。
それでも、倒れなかった。
倒れないように支えられた。
その事実が、いちばん苦しかった。
血が止まったのは、痛みが消えたからではなかった。
恐怖が、薄れたからでもない。
ただ――流れ続けるものが、急に終わったという感覚があった。
アランの腕に走る細い傷口は、まだ熱を持っていた。自分の血が器へ落ちていく音と、それに合わせて結界が閉じていく感覚が、骨の奥にまで染みついて離れない。膝の裏が震えて、今にも崩れそうなのに、周囲には誰もそれを気遣う空気がない。あるのは、完成した膜を指で確かめる仕草と、胸の内に浮かぶ期待――これで死なずに済む、という、あまりにも身勝手な安堵。
「こちらへ」
低い声が背中を押した。
レギュラス・ブラックが一歩近づく。その黒い影が、アランの腕に落ちる。彼が杖を抜いた瞬間、空気が変わった。イェルスの魔法のように、指先で紡がれる柔らかな流れではない。杖の芯が空気の中の魔力を強引に引き寄せ、形にしてしまう――鋭く、決定的な力の匂いがした。
アランは息を止めかけて、自分の唇が乾いていることに気づいた。
この杖からは、緑の閃光も出る。人を壊し、魂を絶つ呪文も出る。
そう分かっているから、喉がすくむ。
なのに。
杖先が傷口の上をなぞると、冷たい光が一筋、皮膚を撫でた。
熱が引いていく。血が滲む感覚が、途中で途切れる。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
まるでナイフで線を入れた傷が、目の前で縫い付けられていくみたいだった。縫合のように、皮膚が寄り合い、盛り上がりが残る。跡が消えるわけではない。けれど――これ以上、ここから血が落ちない。崩れない。流れない。
その安心が、悔しいほどに胸へ入ってきた。
不思議だった。
こんなに恐ろしいものを扱う男が、同じ杖で癒すこともできる。
それが、ただ不思議なだけでは済まなくなりそうな予感がした。嫌悪だけで世界を保ってきたはずなのに、嫌悪の隙間に、別のものが入り込みそうで――それが何より恐ろしい。
「よくやってくれました、アラン・セシール」
囁くような声で、彼は言った。
褒め言葉の形をしているのに、やはり命令に近い響きがある。胸の奥が反射で硬くなる。
「これで、魔法兵たちが守られます」
視線が勝手に前へ向いた。
隊列の端から端まで、目の前に並ぶ魔法兵たちがざわめいている。見えない膜に手を伸ばし、空気の抵抗を確かめる者。驚いた顔で仲間と視線を交わす者。感心したように口笛を吹きそうな者。
彼らはこれから、北へ進む。
他国を――イェルスをそうしたように、侵略して、焼いて、殺して、平らにして帰ってくる。
そう思うだけで、胃が冷たく縮んだ。
それでも、彼らにも家族がいる。
待っている妻がいるかもしれない。幼い子がいるかもしれない。年老いた親がいるかもしれない。
その者たちのもとへ、生きたまま戻る可能性が上がるのだ。
救いなのだ。
これは救いなのだ。
そう思うことで必死に立っている。
アランは、唇の裏側を強く噛んだ。血の味が広がりそうになるのを堪える。泣いてしまえば、何かが崩れる気がした。
「手当をさせます。ゆっくり休んでください」
レギュラスが言う。
その瞬間、医務魔法使いたちが寄ってくる気配がした。白いローブの裾が揺れ、薬草と消毒の匂いが鼻を刺す。誰かがアランの腕を取ろうとする。
けれど、次に落ちた声は、さらに静かで、さらに強かった。
「……部屋で休ませてください」
命令だった。誰に向けた言葉なのか一目で分かる。
控えていた執事が、すぐに頭を下げる気配。
医務魔法使いたちも一瞬だけ動きを止め、次いで頷く。
アランは、ぼんやりとレギュラスを見る。
なぜ、ここで。
なぜ、部屋でなのか。
自分は道具でしかないはずなのに、なぜ、今だけこんなふうに囲い込む。
思考が追いつかないまま、体だけが重力に負けそうになる。
それを見越したように、レギュラスの手がわずかに背に添えられた。
触れられた場所が、じわりと熱を持つ。
止血の魔法の冷たさとは別の熱だ。
アランはそれが怖くて、怖くて――同時に、あまりにも現実で、逃げ場がなかった。
通された部屋は、空気の匂いからして違った。
扉が開いた瞬間、アランは足を止めそうになる。自分に与えられている部屋より、天井が高い。窓も大きい。重たいカーテンが深い闇色で揺れ、壁の装飾も、調度も、どれも余分がありすぎるほど整えられている。豪華なのに、息が詰まる。落ち着くどころか、胸の奥がざわついた。
医務魔法使いが淡々と手当を始める。
腕を持ち上げられ、傷口の状態を確かめられ、薬の匂いと杖先の光が行き来する。丁寧に説明もされる。けれどアランは、その声が遠くなるほど、寝台の大きさに目を奪われていた。
広い。
必要以上に広い。
ここでなら――
ふと、昨夜のエルヤの腕を思い出してしまう。あの体温。あの匂い。禁じられているはずなのに、どうでもよくなって、堪えきれずに求めてしまった熱。胸の奥の渇きが埋まっていく感覚。
その記憶が、寝台の広さと結びついてしまって、頬が熱くなる。
やめて。
今ここで、そんなことを思い出したくない。
医務魔法使いが一礼して退くと、室内が急に静かになった。
静けさの中に、遠くの軍靴の音が染み込んでくる。屋敷全体がまだ忙しなく息をしているのに、この部屋だけが別の世界みたいだった。
扉が開く。
レギュラス・ブラックが入ってきた。黒いローブの影が、部屋の豪奢をさらに冷たく見せる。彼は当然のように歩き、当然のようにここにいる。
「どうです? 具合は」
いつもの整った声。
アランは言葉を探せず、数回だけ頷いた。喉が乾いている。口を開けば、余計なものが漏れそうで怖かった。
レギュラスはためらいもなく寝台へ向かい、――そして、横になった。
寝台の反対側へ。あまりにも自然に。まるで最初からそうするつもりだったみたいに。
「僕は少し貧血気味なので、横になります」
その一言が、アランの背筋を強張らせる。
驚きが遅れて胸に落ちてくる。
なぜ。
なぜ、ここで。
なぜ、同じ寝台に。
その瞬間、ようやく理解が追いついた。
この部屋は、レギュラスの部屋だ。だから広い。だから豪勢だ。だから、何もかもが“彼の秩序”で整っている。
アランの指先が、毛布の端を掴む。掴む必要なんてないのに、何かにしがみつかないと落ち着けなかった。
「……なぜ、私をここに置くんですか」
声が、思ったより小さかった。
抗議にしたかったのに、問いかけの形になってしまう。それが悔しい。
レギュラスは枕に頭を預けたまま、銀色の瞳だけをこちらへ向けた。瞳の色は冷たいのに、表情には妙な柔らかさがある。最近よく見る、あの分からない温度。
「あなたの容態が変わった時、すぐに気づけるからです」
正しい。
理屈としては、完璧に正しい。
だからこそ反論の言葉が見つからない。
けれど、胸の奥が落ち着かない。寝台がどれほど広くても、この男の気配が同じ空間にあるだけで、呼吸の仕方が分からなくなる。
彼のいる場所は、いつだって安全ではない。
甘い声も、優しさに似た言葉も、全部どこかで刃を隠している。
アランは寝台の端に腰を下ろしたまま、動けずにいた。
レギュラスの視線が、ふいにアランの腕の傷に落ちる。縫い合わされた盛り上がり。そこに残る跡。
「……痛みは?」
また、普通の問いだ。
普通の人がするみたいな。
それが余計に怖い。
アランは首を振ろうとして、途中で止めた。痛い、と言えばこの男は何をするのか。大丈夫、と言えばまた封印を命じられるのか。
答え方ひとつで、未来が変わる気がする。
「……大丈夫です」
やっと絞り出した声は、掠れていた。
レギュラスは小さく笑った。声を出すほどではなく、口元だけがわずかに緩む。
その笑みに、アランは心臓を掴まれるような感覚を覚えた。
今夜、ここで眠るのか。
この男の横で。
エルヤではなく。
広い寝台が、急に狭く感じた。
豪華な部屋が、牢のように思えた。
そして何より、彼の「気づけるから」という言葉が、守りではなく監視の宣告にしか聞こえない自分が、悲しかった。
静けさが、少しずつ濃くなっていった。
部屋の灯りは落とされているわけではない。けれど豪奢な寝室は、薄いカーテン越しに夜の闇を抱き込み、柔らかな金の光だけが調度を撫でていた。香の匂いがうっすらと漂っている。清潔で、甘くて、どこか冷たい匂い。自分に与えられた部屋とは違う。ここは、誰かの息遣いすら支配の一部になるような場所だ。
アランは寝台の端に浅く腰をかけたまま動けなかった。
布は柔らかいのに、背中が硬い。心臓が落ち着かない。医務魔法使いが去ったあと、残されたのは二人きりという事実だけで、その重みがじわじわと肩にのしかかる。
反対側に横たわるレギュラス・ブラックは、静かに目を閉じていた。
閉じているだけだ。眠ってはいない。そう思い込もうとしていた。
――この男が、眠るはずがない。
誰かの命を秤にかけ、国を滅ぼし、地図に駒を並べて笑う男だ。
彼のいる場所は常に緊張が満ちていて、休息など許されない。眠りとは、隙だ。隙を見せることを嫌う男が、他人の前で眠りに落ちるなんて。
そう思っていたのに。
ふ、と。
ほんの小さな息の抜け方が変わった。
胸のあたりがゆるやかに上下する。呼吸が深くなる。一定の間隔で、鼻先からかすかな寝息が漏れ始めた。
びっくりした。
彼は――本当に寝ている。
アランの指先が、無意識に毛布の端を握りしめていた。握ってどうなるわけでもないのに、今この瞬間、何かを掴んでいなければ心が落ち着かなかった。
驚くほど早かった。さっきまで言葉を操っていた口が、もう静かだ。銀色の瞳は閉ざされ、あの冷たい刃みたいな視線が消えている。
……疲れていたのだろう。
気を張っていたのだろう。
それは当然かもしれない、と遅れて理解が追いかけてくる。今日、彼は軍の報告を受け、地図を広げ、命令を積み重ね、そして――自分と同じだけ血を流した。
いや、同じだけではないかもしれない。
アランの脳裏に、あの瞬間が蘇る。
器を満たすために、腕に刃を入れた時のこと。
自分は震えた。神に背く感覚で胃が締めつけられ、喉が詰まり、血が落ちる音すら怖かった。
けれど彼は迷いがなかった。
刃を当てる角度も、深さも、速さも。決めた通りに行う人間の手だった。
痛みがあるはずなのに、それを痛みとして扱わない顔をしていた。
だから、傷は自分より深かったのかもしれない。
血の量も、自分より多かったのかもしれない。
互いの血はトレーの中で混じり合っていた。赤は赤に溶けて、どちらのものか見分けなどつかなかった。
けれどあの迷いのない切り方を思うと、彼の方が多く流した可能性は十分にある。
自分の体を犠牲にすることにさえ躊躇がないのだとしたら――この男は一体、どこまで自分の理屈のために自分を削れるのだろう。
眠りに落ちた顔を見つめながら、アランはその怖さを飲み込んだ。
寝ている時の顔まで、恐ろしく端正に整っている。
眉の形も、睫毛の影も、鼻梁の線も。
戦場の報告を受ける時の冷たい表情も、命令を下す時の微笑みも、今はない。
ただ静かに、整いすぎるほどに整っている。
その整いが、どうしようもなく人間らしいと感じてしまった瞬間、胸が痛んだ。
――エルヤ以外で、人の顔の良さを認めたのは初めてだった。
そんなことを思った自分が、恥ずかしい。
同時に、恐ろしい。
彼の頬に落ちる灯りが、柔らかく肌を照らす。
唇は、ほんの少しだけ緩んでいる。眠りの中でさえ、誰かに命令する言葉を吐きそうな形なのに、今は音もない。
アランは、息を詰めた。
自分の手が、勝手に動きそうになったからだ。
触れてはいけない。
この男に触れる理由などない。
触れた瞬間、何かが変わってしまう気がした。変わってしまったら、戻れない気がした。
それでも、指先がほんの少し浮いた。
宙を探るように、彼の頬の方へ――
気づいた途端、アランはぎゅっと手を握り込んだ。爪が掌に食い込む痛みで、指を止める。
自分で自分を止めながら、胸の奥がぞっとした。
何をしているの。
何を考えているの。
この男は、敵だ。
イェルスを焼いた男だ。父と母を奪った側の人間だ。
そのはずなのに、眠っているだけで、こんなにも違って見えるなんて。
アランは視線を逸らし、寝台の布を見つめた。縫い合わされた傷の盛り上がりが、腕に微かな熱として残っている。血を流した感覚がまだ抜けない。
それでも、耳に届く寝息は穏やかで、規則正しくて、まるでここが戦場でも牢獄でもないみたいに錯覚させる。
――眠っている。
その事実が、何よりも怖かった。
この男が隙を見せたということが。
そして、その隙に心が揺れそうになる自分が。
アランは毛布の端をさらに強く握り、息を潜めたまま、ただ彼の寝息を数え続けた。
自分が眠りに落ちてしまわないように。
この部屋の静けさに騙されてしまわないように。
それだけで、今夜の仕事は終わったと思っていた。
地図の上の駒は整列し、報告は必要な分だけ集まって、決裁の署名も済ませた。
兵は守られる。北海の遠征で削れた戦力も、次は無駄死にを減らせる。
英国の侵略は止まらない――いや、むしろ加速する。
満足だった。
こういう満足は、理屈で成り立つ。
数値で測れて、結果で証明できて、誰が見ても同じ結論に辿り着く。
曖昧さがない。
だから心地いい。
だから今夜は、久しぶりに余白を使おうと思っていた。
書斎にアランが来たら、少し甘やかしてやろうと。
抱きしめて、今夜は怖い話をしないで、ただ言葉を与えて。
彼女が息を取り戻せるように。
――そしてその息が、また自分の命令を受け入れられるように。
そういう種類の甘やかしだ。
自分の支配のやり方の一つだ。
褒美と、慰めと、麻痺。
グラスに注いだ赤い酒が、灯りを受けて静かに揺れる。
机の上の書類の角、黒いインク、乾いた羽根ペン。
完璧な秩序の中で、レギュラスは小さく息を吐いた。
その時、扉の外から報告が届いた。
「旦那様。…… アラン様が、エルヤ・ナイームの部屋へ」
一瞬、言葉が意味を持たないまま耳を通り過ぎた。
次の瞬間、胸の奥が一気に冷えた。
熱が引く。
酒の赤が薄くなる気がした。
室内の温度が変わったようにさえ感じる。
指先が冷たくなる。
「……そう」
声は落ち着いていた。
落ち着かせる必要があった。
ここで声を荒げるのは美しくない。
支配者が感情の揺れを表に出すのは、無能のすることだ。
けれど、グラスを持つ手には力が入った。
透明な硝子がきしむほど、静かに、確実に。
あの男の部屋で何をしているのか。
誰だって理解できる。
わかりやすすぎるほどに露骨な事実だ。
あの翡翠の瞳が、何度も何でもないで押し込めたもの。
口付けの先を求めそうで求めないふりをして、羞恥で誤魔化していたもの。
あれを、あの男には簡単に渡しているのだろうか。
自分には決して欲している思いを打ち明けないくせに。
エルヤ・ナイームに対して、どこまで素直に自分を開いているのかと思うと、胸の奥に気持ちの悪い感覚が広がった。
敗北を突きつけられた気がした。
――自分は、ここまで整えたのに。
衣装も。言葉も。礼儀も。秩序も。
恐怖で縛り、褒美で釣り、会話で心をほどき、夜の時間を積み重ねて。
唇まで重ねて。
彼女が自分の世界に染まりかける手応えだって、確かにあった。
それなのに。
その“熱”の決定権だけは、あの男の手元に残っている。
レギュラスは、笑いそうになった。
乾いた笑いが喉の奥で鳴る寸前で、飲み込む。
滑稽だ。
こんなことで苛立つなんて。
国を落とし、海を封じ、他国を従えさせる自分が。
たった一人の女の、たった一夜の行為で、冷える。
けれど、不快だった。
シンプルに、不快だった。
秩序の中で許したのは側に仕えさせることだけだ。
守らせる、監視させる、支えにさせる。
それ以上は禁じた。
禁じたはずだった。
破るのか、と。
彼女も。
あの男も。
グラスを机に置く。
音は立てない。
立てる必要がない。
音で怒りを示すような真似は、下品だ。
代わりに、静かに考える。
どう処理するか。
誰の首をどう締めるか。
どこまで許し、どこで折り、どこで見せしめにするか。
アランを叱責すればいい?
いや、今は良くない。
彼女は封印を引き受けたばかりだ。
ここで叩けば、罪悪感の糸が切れて壊れる。
壊れたら術式が鈍る。
それは困る。
なら、エルヤ・ナイームだ。
あの男はわかりやすい。
直向きで、無謀で、愛という言葉のためなら命を投げる。
だからこそ操りやすい。
そして今、忠誠の揺らぎがある。
規則の破り方を覚えた。
監視を軽んじた。
――釘は刺した。次はないと。
レギュラスは目を伏せ、赤い酒を一口飲んだ。
甘い。酸い。
舌に残るその味が、今夜はひどく不快だった。
あの女が、あの男の部屋で同じ熱を飲み込んでいるのだと想像すると、胃の底が冷たくなる。
「……報告は続けて」
レギュラスの声は静かだった。
静かで、丁寧で、整っていた。
その整いの中に、怒りが沈殿していく。
彼はゆっくりと立ち上がり、窓の方へ歩いた。
夜の闇がガラスに映る。
銀色の瞳がそこに重なる。
――半分手に入れたと思ったのに。
苛立ちが溢れかえりそうになる。
けれど溢れさせない。
怒りは、外に出すものではない。
形にして、秩序にして、相手の逃げ道を塞ぐために使うものだ。
今夜、書斎に来たらとびきり甘やかそうと思っていた。
その予定だけが、冷たく宙に浮いたまま、ひび割れていく。
そしてレギュラスは、そのひび割れの音を誰にも聞かせないまま、静かに怒りを溜め続けた。
陸路の遠征のために集められた魔法兵たちは、地図の上の駒ではなく――現実の地面に、幾重にも折り重なる黒い列としてそこにいた。
北へ、北へ。
冷たい風を切って進む隊列は、鎧やローブの擦れる音と、遠くで鳴る号令の声に支配されている。
空は重く、雲は低い。
湿った空気が肺に絡み、地面は踏みしめるたびに鈍く沈む。
イェルスの土の匂いとは違う。
ここは英国の土だ。
硬く、冷たく、そして――命を道具として扱う国の匂いがした。
アランはその隊列の中央に立たされていた。
周囲には術式を記録する官吏、警戒の兵、指揮官の部下たち。
視線が刺さる。
見物の視線ではない。
期待と、催促と、監視。
「成功させろ」という無言の圧力が、四方八方から押し寄せる。
結界魔法そのものは、魔法兵たちが既に組み上げていた。
幾層にも張り巡らされた透明な膜が、空気をほんの僅かに歪ませている。
しかしそれは結界であって、封印ではない。
持続が弱い。
衝撃に耐えない。
それを――破れぬものへ近づけるのが、アランの役目だった。
何を犠牲にするか。
思い出すだけで胃が痙攣した。
あの包帯の男の、じっと濁った目。
まだ生きていた。
痛みの中で息をしていた。
それでも奪った。
奪わせた。
奪わされた。
二度としたくない。
あれはもう、したくない。
罪に罪を重ねていく感覚に、いつか本当に息ができなくなる。
「犠牲にするものは選んでいい」
レギュラス・ブラックはそう言った。
優しさの形をして。
けれどその言葉は、同時にこう聞こえた。
――いくらでも差し出せる命が、まだある。
――そして、君はそれを選ぶ側にいる。
恐ろしかった。
選べるということが、どれほど残酷か。
彼はそれを知っているのに、わざと与えてくる。
アランは視線を伏せたまま、喉の奥で唾を飲み込んだ。
選択肢は無限にあるふりをして、実際は狭い。
犠牲を拒めば、次に出されるのは誰か。
それはきっと――エルヤだ。
だから、答えは最初から決まっていた。
「……私の血を媒介にします」
言葉が口から落ちると、風がそれを攫っていく。
誰かが小さく息を呑む気配がした。
驚きなのか、安堵なのか。
レギュラスは一歩も動かず、ただその銀色の瞳でアランを見た。
目は笑っていない。
優しくもない。
測っている。
「足りないでしょう」
きっぱりと言い切る声。
柔らかい声色なのに、刃が入っていた。
逃げ道のない断言。
「途中で崩れられたら困ります」
アランの背筋が凍った。
困るという単語が、兵たちの命ではなく、自分の価値に向けられていると分かったからだ。
崩れれば、価値が落ちる。
価値が落ちれば、代わりが用意される。
その代わりが、誰であるかは――考えないようにしてきた。
「……だから、壊れないようにします」
声が震えそうになるのを堪えた。
自分の血で。
自分の命で。
せめて、この大罪を償う真似だけでもできるなら。
アランは袖を捲った。
白い肌が冷気に晒され、鳥肌が立つ。
刃物のように整えられた治療器具と、血を受ける器。
神聖なものではなく、手順で管理された“作業”の道具としてそこに並んでいた。
唇を噛みしめる。
痛みは怖くない。
怖いのは、血が減っていくほどに、心まで空になっていくことだった。
自分が自分でなくなる感覚。
それでもやらなければならない。
アランが指先を立て、古い言葉を胸の中で転がす。
杖は必要ない。
それがイェルスの術だ。
祈りであり、呪いであり、魔法だった。
――守ると決める。
――対象を明確にする。
――封緘句を繋ぐ。
偽りのない封印は、本来なら慈しみで起こる。
親が子を抱くように。
傷ついたものを守るように。
無償の愛が媒介になる。
けれど目の前にあるのは、遠征と侵略のための布陣だ。
慈しみなど湧かない。
嫌悪と恐怖しかない。
それでも、“守り”の形だけは作れる。
血が術を繋ぐ。
血が膜を重くし、強度を上げる。
血が、感情の不足を無理やり補う。
アランは器に血を落とした。
赤が広がる。
温かい。
一滴落ちるたびに、体温が少しずつ奪われていく。
その瞬間、レギュラスの声が落ちた。
「……では、僕も差し出しましょう」
アランは思わず顔を上げた。
何を言い出すのかと思った。
その言葉の意味が理解できず、目が見開かれる。
「あなた一人で完成させるには、きっと足りない」
淡々と。
冷静に。
それが当然であるように。
まるで不足している材料を補うだけの話のように。
「その分は僕の血で補いましょう」
一瞬、時間が止まったみたいだった。
風の音も、兵の息遣いも、遠くの号令も消えて、ただ彼の声だけが耳の奥に残る。
――この男が?
――自分の血を?
平気で誰かを連れてきて殺せと言える男だ。
命を殉死と呼んで飾り立てる男だ。
そんな男が、自分の血を差し出す?
信じられなかった。
恐ろしくもあった。
彼が差し出すものは、優しさではなく、必ず何かの形で回収される。
それを知っているのに、胸の奥が小さく揺れてしまう。
「……なぜ」
アランの声は掠れていた。
問いの形になっていない。
ただ漏れただけの言葉。
レギュラスはその掠れた声に、わずかに口角を上げた。
笑っているのか、試しているのか、判別がつかない。
「あなたが倒れたら困るからです」
そう言ってしまえば、それまで。
理屈としては完璧だった。
彼らしい。
優しさではなく、効率と管理。
けれど、彼はさらに一歩近づいた。
黒いローブの裾が風に揺れ、軍服の金具が微かに鳴る。
その近さが、アランの心臓を余計に騒がせる。
「それとも」
低い声。
「あなたは、僕の血が混じるのが嫌ですか?」
逃げ道のない質問。
いつものやり方。
どちらを選んでも、彼の掌の上だ。
アランは首を振るしかなかった。
嫌だと言えば、代わりの犠牲が出てくる。
それが誰になるかなんて分かり切っている。
だから、答えはひとつしかない。
「……嫌では、ありません」
その瞬間、レギュラスの銀色の瞳が僅かに柔らかく見えた。
錯覚だ。
酒の夜の笑いと同じ、紛い物の温もり。
そう思っておかないと、胸の中の何かが壊れる。
レギュラスは袖口を少し捲り、迷いなく自分の腕を差し出した。
真っ白な皮膚に走る血管。
そこに刃が触れる前の静けさ。
アランは手が震えそうになった。
彼の血を流すことが、恐ろしい。
それを“恐ろしい”と思う自分が、もっと恐ろしい。
彼は人の血を流させた。
自分に流させた。
なのに、彼の血を流すとなると――躊躇いが出る。
どうして。
何に怯えているのか。
レギュラスは静かに囁いた。
「大丈夫ですよ、アラン」
名前を呼ばれるだけで、胸がきゅっとなる。
嫌なのに。
拒みたいのに。
拒めない。
「あなたが求める慈しみが足りないなら」
その言葉が、刃みたいに刺さる。
「僕がそれを補えばいい」
何を補うというのだ。
慈しみ?
この男が?
けれど、彼は平然としていた。
自分の体の一部を差し出す覚悟がある顔をしていた。
アランは目を閉じた。
息を吸って、吐く。
そして、刃を取った。
最初の一滴が落ちる。
赤が器の底で混じり合う。
自分の血と、彼の血が。
同じ色で、同じ温度で、区別がつかないまま。
その混ざり合いが、なぜだかひどく嫌だった。
けれど同時に、逃げられない現実の印のようでもあった。
術式の言葉を紡ぐ。
封緘句を繋ぐ。
対象を定める。
北へ進む隊列、その全体を包み込む膜を閉じる、
血が落ちるたびに、結界が厚くなる。
空気の歪みが増し、風の流れが変わる。
見えない膜が地平線まで伸びていく感覚が、指先に伝わってくる。
アランは立っている。
立たなければならない。
倒れたら、すべてが崩れる。
視界の端が白く滲む。
遠くで誰かが自分の名を呼んだ気がする。
けれど耳に入らない。
ただ、術式だけが身体の中心で回り続ける。
――守りたくないものを、守る。
――守るために、血を流す。
――守りの術を、侵略の盾にする。
神に背く痛みが、背骨を這い上がる。
それでも、息を吸う。
吐く。
血を落とす。
言葉を繋ぐ。
そして最後の封緘句を落とす瞬間、アランの膝がわずかに揺れた。
その揺れを、すぐ隣でレギュラスが支えた。
肩に触れた手の熱が、驚くほど現実だった。
「ほら」
低い声が耳の近くで響く。
「壊れませんよ」
それが命令なのか、慰めなのか、どちらでも同じだった。
アランは歯を食いしばり、最後の言葉を結界へ滑り込ませた。
膜が、閉じる。
音のない完成。
空が一瞬だけ静まり、次いで風が戻る。
周囲の者たちが息を吐く気配がした。
誰かが「成功だ」と囁く。
それは祝福ではなく、安堵――道具が壊れなかったことへの安堵。
アランは視界が揺れたまま、器の中の赤を見つめた。
自分の血と彼の血が混じった色。
その色が、北へ進む兵たちを守る。
守ることで、また誰かが死ぬ。
守ることで、またどこかが焼け野原になる。
それでも、倒れなかった。
倒れないように支えられた。
その事実が、いちばん苦しかった。
血が止まったのは、痛みが消えたからではなかった。
恐怖が、薄れたからでもない。
ただ――流れ続けるものが、急に終わったという感覚があった。
アランの腕に走る細い傷口は、まだ熱を持っていた。自分の血が器へ落ちていく音と、それに合わせて結界が閉じていく感覚が、骨の奥にまで染みついて離れない。膝の裏が震えて、今にも崩れそうなのに、周囲には誰もそれを気遣う空気がない。あるのは、完成した膜を指で確かめる仕草と、胸の内に浮かぶ期待――これで死なずに済む、という、あまりにも身勝手な安堵。
「こちらへ」
低い声が背中を押した。
レギュラス・ブラックが一歩近づく。その黒い影が、アランの腕に落ちる。彼が杖を抜いた瞬間、空気が変わった。イェルスの魔法のように、指先で紡がれる柔らかな流れではない。杖の芯が空気の中の魔力を強引に引き寄せ、形にしてしまう――鋭く、決定的な力の匂いがした。
アランは息を止めかけて、自分の唇が乾いていることに気づいた。
この杖からは、緑の閃光も出る。人を壊し、魂を絶つ呪文も出る。
そう分かっているから、喉がすくむ。
なのに。
杖先が傷口の上をなぞると、冷たい光が一筋、皮膚を撫でた。
熱が引いていく。血が滲む感覚が、途中で途切れる。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
まるでナイフで線を入れた傷が、目の前で縫い付けられていくみたいだった。縫合のように、皮膚が寄り合い、盛り上がりが残る。跡が消えるわけではない。けれど――これ以上、ここから血が落ちない。崩れない。流れない。
その安心が、悔しいほどに胸へ入ってきた。
不思議だった。
こんなに恐ろしいものを扱う男が、同じ杖で癒すこともできる。
それが、ただ不思議なだけでは済まなくなりそうな予感がした。嫌悪だけで世界を保ってきたはずなのに、嫌悪の隙間に、別のものが入り込みそうで――それが何より恐ろしい。
「よくやってくれました、アラン・セシール」
囁くような声で、彼は言った。
褒め言葉の形をしているのに、やはり命令に近い響きがある。胸の奥が反射で硬くなる。
「これで、魔法兵たちが守られます」
視線が勝手に前へ向いた。
隊列の端から端まで、目の前に並ぶ魔法兵たちがざわめいている。見えない膜に手を伸ばし、空気の抵抗を確かめる者。驚いた顔で仲間と視線を交わす者。感心したように口笛を吹きそうな者。
彼らはこれから、北へ進む。
他国を――イェルスをそうしたように、侵略して、焼いて、殺して、平らにして帰ってくる。
そう思うだけで、胃が冷たく縮んだ。
それでも、彼らにも家族がいる。
待っている妻がいるかもしれない。幼い子がいるかもしれない。年老いた親がいるかもしれない。
その者たちのもとへ、生きたまま戻る可能性が上がるのだ。
救いなのだ。
これは救いなのだ。
そう思うことで必死に立っている。
アランは、唇の裏側を強く噛んだ。血の味が広がりそうになるのを堪える。泣いてしまえば、何かが崩れる気がした。
「手当をさせます。ゆっくり休んでください」
レギュラスが言う。
その瞬間、医務魔法使いたちが寄ってくる気配がした。白いローブの裾が揺れ、薬草と消毒の匂いが鼻を刺す。誰かがアランの腕を取ろうとする。
けれど、次に落ちた声は、さらに静かで、さらに強かった。
「……部屋で休ませてください」
命令だった。誰に向けた言葉なのか一目で分かる。
控えていた執事が、すぐに頭を下げる気配。
医務魔法使いたちも一瞬だけ動きを止め、次いで頷く。
アランは、ぼんやりとレギュラスを見る。
なぜ、ここで。
なぜ、部屋でなのか。
自分は道具でしかないはずなのに、なぜ、今だけこんなふうに囲い込む。
思考が追いつかないまま、体だけが重力に負けそうになる。
それを見越したように、レギュラスの手がわずかに背に添えられた。
触れられた場所が、じわりと熱を持つ。
止血の魔法の冷たさとは別の熱だ。
アランはそれが怖くて、怖くて――同時に、あまりにも現実で、逃げ場がなかった。
通された部屋は、空気の匂いからして違った。
扉が開いた瞬間、アランは足を止めそうになる。自分に与えられている部屋より、天井が高い。窓も大きい。重たいカーテンが深い闇色で揺れ、壁の装飾も、調度も、どれも余分がありすぎるほど整えられている。豪華なのに、息が詰まる。落ち着くどころか、胸の奥がざわついた。
医務魔法使いが淡々と手当を始める。
腕を持ち上げられ、傷口の状態を確かめられ、薬の匂いと杖先の光が行き来する。丁寧に説明もされる。けれどアランは、その声が遠くなるほど、寝台の大きさに目を奪われていた。
広い。
必要以上に広い。
ここでなら――
ふと、昨夜のエルヤの腕を思い出してしまう。あの体温。あの匂い。禁じられているはずなのに、どうでもよくなって、堪えきれずに求めてしまった熱。胸の奥の渇きが埋まっていく感覚。
その記憶が、寝台の広さと結びついてしまって、頬が熱くなる。
やめて。
今ここで、そんなことを思い出したくない。
医務魔法使いが一礼して退くと、室内が急に静かになった。
静けさの中に、遠くの軍靴の音が染み込んでくる。屋敷全体がまだ忙しなく息をしているのに、この部屋だけが別の世界みたいだった。
扉が開く。
レギュラス・ブラックが入ってきた。黒いローブの影が、部屋の豪奢をさらに冷たく見せる。彼は当然のように歩き、当然のようにここにいる。
「どうです? 具合は」
いつもの整った声。
アランは言葉を探せず、数回だけ頷いた。喉が乾いている。口を開けば、余計なものが漏れそうで怖かった。
レギュラスはためらいもなく寝台へ向かい、――そして、横になった。
寝台の反対側へ。あまりにも自然に。まるで最初からそうするつもりだったみたいに。
「僕は少し貧血気味なので、横になります」
その一言が、アランの背筋を強張らせる。
驚きが遅れて胸に落ちてくる。
なぜ。
なぜ、ここで。
なぜ、同じ寝台に。
その瞬間、ようやく理解が追いついた。
この部屋は、レギュラスの部屋だ。だから広い。だから豪勢だ。だから、何もかもが“彼の秩序”で整っている。
アランの指先が、毛布の端を掴む。掴む必要なんてないのに、何かにしがみつかないと落ち着けなかった。
「……なぜ、私をここに置くんですか」
声が、思ったより小さかった。
抗議にしたかったのに、問いかけの形になってしまう。それが悔しい。
レギュラスは枕に頭を預けたまま、銀色の瞳だけをこちらへ向けた。瞳の色は冷たいのに、表情には妙な柔らかさがある。最近よく見る、あの分からない温度。
「あなたの容態が変わった時、すぐに気づけるからです」
正しい。
理屈としては、完璧に正しい。
だからこそ反論の言葉が見つからない。
けれど、胸の奥が落ち着かない。寝台がどれほど広くても、この男の気配が同じ空間にあるだけで、呼吸の仕方が分からなくなる。
彼のいる場所は、いつだって安全ではない。
甘い声も、優しさに似た言葉も、全部どこかで刃を隠している。
アランは寝台の端に腰を下ろしたまま、動けずにいた。
レギュラスの視線が、ふいにアランの腕の傷に落ちる。縫い合わされた盛り上がり。そこに残る跡。
「……痛みは?」
また、普通の問いだ。
普通の人がするみたいな。
それが余計に怖い。
アランは首を振ろうとして、途中で止めた。痛い、と言えばこの男は何をするのか。大丈夫、と言えばまた封印を命じられるのか。
答え方ひとつで、未来が変わる気がする。
「……大丈夫です」
やっと絞り出した声は、掠れていた。
レギュラスは小さく笑った。声を出すほどではなく、口元だけがわずかに緩む。
その笑みに、アランは心臓を掴まれるような感覚を覚えた。
今夜、ここで眠るのか。
この男の横で。
エルヤではなく。
広い寝台が、急に狭く感じた。
豪華な部屋が、牢のように思えた。
そして何より、彼の「気づけるから」という言葉が、守りではなく監視の宣告にしか聞こえない自分が、悲しかった。
静けさが、少しずつ濃くなっていった。
部屋の灯りは落とされているわけではない。けれど豪奢な寝室は、薄いカーテン越しに夜の闇を抱き込み、柔らかな金の光だけが調度を撫でていた。香の匂いがうっすらと漂っている。清潔で、甘くて、どこか冷たい匂い。自分に与えられた部屋とは違う。ここは、誰かの息遣いすら支配の一部になるような場所だ。
アランは寝台の端に浅く腰をかけたまま動けなかった。
布は柔らかいのに、背中が硬い。心臓が落ち着かない。医務魔法使いが去ったあと、残されたのは二人きりという事実だけで、その重みがじわじわと肩にのしかかる。
反対側に横たわるレギュラス・ブラックは、静かに目を閉じていた。
閉じているだけだ。眠ってはいない。そう思い込もうとしていた。
――この男が、眠るはずがない。
誰かの命を秤にかけ、国を滅ぼし、地図に駒を並べて笑う男だ。
彼のいる場所は常に緊張が満ちていて、休息など許されない。眠りとは、隙だ。隙を見せることを嫌う男が、他人の前で眠りに落ちるなんて。
そう思っていたのに。
ふ、と。
ほんの小さな息の抜け方が変わった。
胸のあたりがゆるやかに上下する。呼吸が深くなる。一定の間隔で、鼻先からかすかな寝息が漏れ始めた。
びっくりした。
彼は――本当に寝ている。
アランの指先が、無意識に毛布の端を握りしめていた。握ってどうなるわけでもないのに、今この瞬間、何かを掴んでいなければ心が落ち着かなかった。
驚くほど早かった。さっきまで言葉を操っていた口が、もう静かだ。銀色の瞳は閉ざされ、あの冷たい刃みたいな視線が消えている。
……疲れていたのだろう。
気を張っていたのだろう。
それは当然かもしれない、と遅れて理解が追いかけてくる。今日、彼は軍の報告を受け、地図を広げ、命令を積み重ね、そして――自分と同じだけ血を流した。
いや、同じだけではないかもしれない。
アランの脳裏に、あの瞬間が蘇る。
器を満たすために、腕に刃を入れた時のこと。
自分は震えた。神に背く感覚で胃が締めつけられ、喉が詰まり、血が落ちる音すら怖かった。
けれど彼は迷いがなかった。
刃を当てる角度も、深さも、速さも。決めた通りに行う人間の手だった。
痛みがあるはずなのに、それを痛みとして扱わない顔をしていた。
だから、傷は自分より深かったのかもしれない。
血の量も、自分より多かったのかもしれない。
互いの血はトレーの中で混じり合っていた。赤は赤に溶けて、どちらのものか見分けなどつかなかった。
けれどあの迷いのない切り方を思うと、彼の方が多く流した可能性は十分にある。
自分の体を犠牲にすることにさえ躊躇がないのだとしたら――この男は一体、どこまで自分の理屈のために自分を削れるのだろう。
眠りに落ちた顔を見つめながら、アランはその怖さを飲み込んだ。
寝ている時の顔まで、恐ろしく端正に整っている。
眉の形も、睫毛の影も、鼻梁の線も。
戦場の報告を受ける時の冷たい表情も、命令を下す時の微笑みも、今はない。
ただ静かに、整いすぎるほどに整っている。
その整いが、どうしようもなく人間らしいと感じてしまった瞬間、胸が痛んだ。
――エルヤ以外で、人の顔の良さを認めたのは初めてだった。
そんなことを思った自分が、恥ずかしい。
同時に、恐ろしい。
彼の頬に落ちる灯りが、柔らかく肌を照らす。
唇は、ほんの少しだけ緩んでいる。眠りの中でさえ、誰かに命令する言葉を吐きそうな形なのに、今は音もない。
アランは、息を詰めた。
自分の手が、勝手に動きそうになったからだ。
触れてはいけない。
この男に触れる理由などない。
触れた瞬間、何かが変わってしまう気がした。変わってしまったら、戻れない気がした。
それでも、指先がほんの少し浮いた。
宙を探るように、彼の頬の方へ――
気づいた途端、アランはぎゅっと手を握り込んだ。爪が掌に食い込む痛みで、指を止める。
自分で自分を止めながら、胸の奥がぞっとした。
何をしているの。
何を考えているの。
この男は、敵だ。
イェルスを焼いた男だ。父と母を奪った側の人間だ。
そのはずなのに、眠っているだけで、こんなにも違って見えるなんて。
アランは視線を逸らし、寝台の布を見つめた。縫い合わされた傷の盛り上がりが、腕に微かな熱として残っている。血を流した感覚がまだ抜けない。
それでも、耳に届く寝息は穏やかで、規則正しくて、まるでここが戦場でも牢獄でもないみたいに錯覚させる。
――眠っている。
その事実が、何よりも怖かった。
この男が隙を見せたということが。
そして、その隙に心が揺れそうになる自分が。
アランは毛布の端をさらに強く握り、息を潜めたまま、ただ彼の寝息を数え続けた。
自分が眠りに落ちてしまわないように。
この部屋の静けさに騙されてしまわないように。
