1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
レギュラス・ブラックの書斎で夜が削れていく。
言葉が尽きるまで、疲れ果てるまで話すことが増えたせいか、眠りに落ちる直前に襲ってきた悪夢を見なくなった。
夢を見るほどの体力さえ、毎晩の会話で削られていくのだ。
火の入った暖炉の前。
濃い木の香りと、乾いた紙の匂い。
インクの黒と蝋の赤。
この部屋の全てが秩序そのもので、ここにいる限り、イェルスの焼けた匂いが薄まる。
薄まることが、怖い。
ソファに沈むと、身体が重い。
今日も一日、歩き方を整えられ、言葉の角を削られ、食事の間合いを測らされ、与えられた秩序の中で息をしてきた。
それでも夜になればまた、この男の前に座る。
逃げ場がない。
けれど不思議と、ここに呼ばれることに慣れ始めている自分がいる。
レギュラスはグラスを揺らしながら、こちらを見た。
銀の瞳が、以前ほど刃に見えなくなる瞬間がある。
その錯覚が危険だと分かっているのに、止められない。
「最近は悪夢は見ますか」
静かな問い。
そこに嘲りが混じらないことが逆に居心地悪い。
アランは少し考えた。
思い出そうとすると、疲労が先に身体を沈める。
「……いいえ。疲れ果てて寝ることが多いです」
本当だ。
悪夢を見ないのは救われたからじゃない。
ただ、見る力が残っていないだけだ。
レギュラスは小さく笑った。
声を出して笑うというより、喉の奥で楽しげに息をこぼす。
「それはよかったです」
その言葉が、優しさみたいに耳に触れる。
触れた瞬間、胸の奥が揺れる。
違う。
救われたわけじゃない。
この男が何かをしてくれたからじゃない。
疲れているだけだ。
そう思っていないと、こちらの心の形が変わってしまう。
それが怖かった。
アランは視線を逸らし、指先を膝の上で組んだ。
爪が布を軽く押す。
最近、口付けをする回数が増えた。
それは事実で、事実なのに、誰にも言えない。
自分の中でさえ、言葉にしたくない。
口にした瞬間、何かが決定してしまいそうで。
レギュラスは酒を飲む。
そして話す。
話して、笑う。
話しながら、ふいに距離を詰めてくる。
柔らかい、熱。
唇が重なる。
そのたびに、酒の甘い酸味が口内に残り、呼吸が乱れる。
心臓が音を立てる。
それでも、それから先には進まない。
――それが、分からなかった。
この国では、口付けだけを重ねることにどんな意味があるのか。
エルヤは、口付けてくれたらそこで終わらない。
求める。
求められる。
互いの熱が同じ方向を向いていると分かるから、迷いがない。
先へ進むことが、自然で、当たり前で、確かめ合う行為だった。
けれどレギュラス・ブラックは違う。
唇だけを奪い、
奪ったあとも、平然と話を続ける。
まるでそれで十分だと言うみたいに。
まるで、こちらが欲を持つことを待っているみたいに。
何がしたいのか。
何が満たされるのか。
そう考えた瞬間、胃の奥がひどく冷えた。
――いやだ。
こんなことを思っている自分が、いやだ。
まるで、ねだっているみたいだ。
経験なんてエルヤしかないくせに、
エルヤとできないことを、この男に求めているみたいで。
自分で自分が気持ち悪い。
汚い。
薄ら汚い欲が、どこかから滲み出てくる。
それを認めたくなくて、アランは口を閉ざした。
言葉が増えれば増えるほど、うっかり本音がこぼれる気がした。
この男は、そういう隙を拾うのが上手い。
拾って、整えて、逃げ道を塞ぐ。
レギュラスはアランの沈黙を不思議そうに眺め、グラスを置いた。
その音が、静かな部屋に落ちる。
「……何か考えていました?」
息が止まる。
いいえと答えるのが正解だ。
何も考えていない、と。
疲れているだけだ、と。
けれど、彼の前では正解を選ぶほど、胸が苦しくなる。
正解を言えば言うほど、自分の輪郭が薄くなる気がした。
アランは視線を上げかけて、すぐに落とした。
銀の瞳に触れたら、何かがほどけてしまう。
「……いいえ。何でもありません」
嘘だ。
何でもないはずがない。
口付けの熱が残っている。
喉が乾く。
胸の奥が痛い。
懐かしいイェルスの風景が揺れ、同時にこの部屋の暖炉の火が柔らかく揺れている。
救われたわけじゃない。
救われたと思ったら負けだ。
そう言い聞かせるほど、
レギュラスの「それはよかったです」という声が、
不意に耳の奥でやさしく反響して、
心のどこかを撫でるように残り続けた。
それがいちばん、怖かった。
書斎で口付けることが増えた。
話の合間に、何気ない仕草のように。
視線が絡んだ瞬間に、自然に。
数回、角度と深さを変えて。
そしてまた、何事もなかったかのように会話へ戻る。
最初の頃のように、アランはもう驚いた顔をしない。
息を呑むことはある。睫毛が震えることもある。
けれど、恐怖で固まるような反応は薄れた。
慣れ始めているのだろう。
――そこは、いい兆候だ。
手応えはある。
翡翠の瞳に浮かぶ熱を、確かに見ている。
女という生き物にも男と同じくらいの欲が浮かぶ瞬間があることを、レギュラスは嫌というほど知っていた。
そしてアランは、それを隠すのが下手だ。
わかりやすいくらいに、瞳に出る。
頬に出る。
呼吸の間に出る。
なのに。
どれほど待っても、次へ進むための合図が返ってこない。
言葉でも、仕草でも、たった一つの肯定でもいい。
続けてほしい。抱いてほしい。触れてほしい。
そういう明確な意思を、彼女は一切渡してこない。
強情な女だ。
従順さと、最後の一線の頑固さが同居している。
まるで――どこまで奪われても、核だけは差し出さないと決めているみたいに。
レギュラスはグラスを置き、背もたれに深く体を預けた。
火の揺れる音だけが部屋の底で鳴っている。
紙とインクの匂い。
整いすぎた書斎の静けさ。
その中に、アランの体温だけが異質に熱い。
さっき口付けた唇の感触が、まだ自分の中に残っている。
柔らかいのに、抵抗の残滓がある。
受け止めるが、開かない。
熱を返すが、求めない。
――何を怖がっている?
答えは分かっている。
エルヤ・ナイーム。
あの男に縛られている。
誓いと故郷と、焼けた大地と、戻れない未来。
その全部が彼女を縛っている。
けれど、それだけじゃない。
アラン自身の誇りが、彼女の喉を固くしている。
欲しがることは負けだと、どこかで思っている。
この支配者に求める言葉を渡した瞬間、完全に手の中に落ちると理解している。
その理解が、腹立たしいほど賢い。
レギュラスは少し身を乗り出し、彼女の顔を覗き込む。
距離を詰めた瞬間、アランの指先が小さく揺れた。
避けない。
逃げない。
ただ、きちんと背筋を伸ばしてしまう。
それがまた可笑しい。
可笑しいのに、焦れる。
「どうしました?」
あえて聞いた。
それで終わりなのかという顔をしているアランに。
彼女は視線を逸らし、唇を結ぶ。
赤みの薄い口元が、微かに濡れているのが目に入る。
自分が付けた痕だ。
「……なんでもありません」
またそれか、と内心で笑いそうになる。
いつになったらその返答が変わるのか。
何でもない、の中にどれほどの感情が詰まっているのかを、こちらが知らないとでも思っているのだろうか。
みものではある。
この女が自分の欲を認め、言葉にし、差し出す瞬間はきっと美しい。
だが――そろそろ早くしてほしいとも思う。
レギュラスは指先でアランの顎を軽く持ち上げた。
無理やりではない。
ほんの少し、視線を合わせるために。
翡翠がこちらを向く。
熱がある。
羞恥と警戒と、薄い怒りが混ざった熱。
「本当に、何でもないんですか?」
柔らかく問う。
逃げ道を塞ぐ問いを、優しい口調で。
アランは言葉を探す。
探している間の呼吸が乱れる。
その乱れが、望んでいるのに言えない証拠だ。
レギュラスはもう一度、短く口付けた。
深くはしない。
試すように、軽く。
離れ際、彼女の唇が追いかけるように僅かに動いたのを見逃さない。
――ほら。
欲はある。
あるのに、言わない。
「アラン」
名を呼ぶだけで、彼女の睫毛が震える。
その震えが、苛立ちと甘さの両方を煽る。
「僕はね、あなたが欲しいものを、あなたの口から聞きたいんです」
それは命令ではない。
けれど選択肢でもない。
言えと同義の優しさ。
アランは息を呑む。
そして、また黙る。
レギュラスは笑った。
笑い声は出さない。
ただ、唇の端だけが歪む。
――焦れる。
焦れるほど、欲しくなる。
早く落ちてこないだろうか。
この翡翠が、自分の手の中に自ら転がり落ちる瞬間を。
それが見たい。
それを待つ時間すら、愉しいのに――。
「なんでもないなら」
レギュラスは低く囁き、また口付けた。
今度は少しだけ深く。
角度を変え、呼吸を奪う程度に。
そしてすぐ離す。
「……今夜も、ここまでですね」
言葉は淡々としているのに、内側は熱を持っている。
アランがその物足りなさをどう処理するのか、見ていたい。
否応なく、考えさせたい。
自分の欲を、彼女自身に自覚させたい。
アランは何も言わない。
言えない。
けれど翡翠の瞳の奥で、火だけが揺れている。
レギュラスはその火を眺めながら、静かに思った。
――いつになったら、あなたはなんでもないをやめるんでしょうね。
廊下ですれ違うたびに、空気の密度が変わる。
屋敷の廊下は広い。
黒い絨毯が音を吸い、壁の燭台が淡く揺れて、鏡のように磨かれた床がわずかな光を返す。
距離を取ろうと思えば取れるはずの場所だ。
なのに、レギュラス・ブラックはいつも――わざと、その距離を選ぶ。
ふらりと近づいてきて、至近距離で立ち止まる。
それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
何もされていないのに。
触れられていないのに。
皮膚の裏側が、先に熱を思い出す。
「今日は寒いですね」
ただそれだけ。
誰が聞いても差し障りのない、取り止めもない一言。
「……はい」
返事をすると、レギュラスはほんの少しだけ顔を寄せる。
距離はさらに詰まり、呼吸の気配が耳元に落ちる。
酒の匂いはしない。
それが余計に厄介だった。
酔いではなく、素面でこの距離を作っている。
「暖炉の火を強めておきましょう。凍えて倒れられたら困りますから」
困る、という言葉の響きが妙に柔らかい。
けれどその柔らかさの奥に、硬い刃があるのを知っている。
倒れたら困るのは、慈しみではなく目的のためだ。
封印のため。
犠牲のため。
海のため。
侵略のため。
――分かっているのに。
耳の近くに残った熱が、言葉の意味より先に身体へ沁みる。
彼が去ったあと、風が通り抜けると、そこだけひどく寒くなる。
触れられていないのに、触れられた場所みたいに感覚が残ってしまう。
次も同じだ。
礼儀作法の指導を受けている時。
背筋、顎の角度、視線の落とし方。
教育係の冷たい声が飛ぶ中で、アランは何度も形を作り直される。
手の位置が少しずれただけで「違います」と言われ、心が削れていく。
そんな場面に、レギュラスが現れる。
あまりにも自然に、屋敷の空気の一部みたいに。
そしてやはり、わざと近い。
教育係の横に立つでもなく、少し離れた場所から見るでもなく。
アランのすぐ背後、肩越しに、視線が落ちる位置。
「随分と上達しましたね」
口調は褒めている。
褒めているのに、背中に冷たい指先をなぞられるような感覚が走る。
彼の声が、肩甲骨のあたりに触れる。
アランは息を浅くする。
胸が上下するのを見られたくない。
鼓動が早まるのを悟られたくない。
それが、何より悔しい。
レギュラスは続ける。
「その角度、綺麗です」
ただそれだけで、頬が熱くなる。
自分の意思とは関係なく。
体が反応してしまうことが、吐き気がするほど屈辱だ。
彼は一言二言だけ落として、すぐに去っていく。
本当に、何もしない。
触れもしない。
命令もしない。
ただ近寄って、熱だけを残して去る。
残されたアランは、息を吐くタイミングを失う。
教育係の声がまた飛んでくる。
「アラン様。集中してください」
集中している。
していた。
していたのに、今は全てが乱されている。
――わざとだ。
周りに聞こえても問題ない言葉しか選ばない。
それなのに、距離だけは意味を持たせる。
この距離を選び、この熱を落とし、この反応を引き出している。
こちらの反応を楽しんでいる。
そう感じる。
悪意がある。
確信に近い形で。
それが、すごく悔しくて不快だった。
不快なのに――不快だと表に出すことすらしたくない。
眉をひそめることも、視線を逸らすことも、背を引くことも。
全部、負けの形に見える。
まるで自分が物足りなさを抱いていることを認めてしまうみたいで。
何もしない。
何もしないのに、意識させられる。
何も奪われていないのに、呼吸だけが奪われる。
廊下で彼の足音が遠ざかっていく。
黒いローブの裾が揺れ、角を曲がる。
それを目で追ってしまいそうになって、アランは慌てて視線を床に落とした。
――追うな。
見送るな。
意識するな。
そう命じるほど、頭の中に彼の声が残る。
耳元の熱が消えない。
空気が、まだ彼の形をしている。
自分が嫌だった。
こんなことを繰り返されるだけで、心が揺れる自分が。
何もしないを重ねられるほど、次を想像してしまう自分が。
それでもアランは顔を上げ、淡々とした表情を作る。
教育係に向かって、言われた通りに歩き直す。
踵の細い靴が床を叩く。
音が、やけに大きく響く気がした。
――何もなかった。
今のも、何もなかった。
そうやって自分に言い聞かせながら、
アランは自分の胸の奥で、確かに何かが起きてしまっていることだけを、見ないふりをした。
朝から屋敷が騒がしい。
いつもの使用人たちの足音とは違う、硬い靴音が廊下を叩き、扉が短く開閉されるたびに冷たい外気が流れ込む。
軍服を纏った者が出入りしている。それだけで屋敷の空気が締まり、黒い壁の内側にまで戦の匂いが沁み込んでくるようだった。
黒い布の上に銀のボタン。
胸元の徽章。
硬い腰の帯に揺れる杖。
彼らが通り過ぎるたび、アランは無意識に肩をすくめてしまう。
自分の血を、誰かの命を、何かの犠牲を、当然のように「必要なもの」として扱う世界。
その中心にいるのが、レギュラス・ブラックだ。
呼ばれたのは、昼前だった。
執事の声は丁寧で、内容だけが刃物のように鋭い。
「アラン様。旦那様がお呼びです」
胸の奥がひやりと沈む。
足元の床が少し遠のいたように感じる。
身体が軽くなるのではなく、重くなる――逃げられない重さ。
書斎に通されると、いつもの匂いがそこにあった。
木と紙とインク、暖炉の灰の匂い。
普段なら少しだけ落ち着くはずの空気が、今日は違う。
机の上に広げられたものが、部屋の温度を変えていた。
地図。
大きな地図がテーブルいっぱいに広げられ、その上に駒が並んでいる。
小さな金属の塊――兵の数、部隊、配置、補給線。
細い線が引かれ、矢印が伸び、線は海を渡るだけでなく、陸へも伸びていた。
不気味だった。
紙の上に並ぶ駒は、まるで生きた人間の代わりに置かれた小さな墓標に見えた。
あの海を渡る戦艦に封印を施した時のことが、皮膚の下から浮かび上がる。
血の匂い。
術式の言葉。
震える指先。
できませんと喉が叫んだあの日の絶望。
今、地図には陸路から北上する線が描かれている。
海ではない。
大地を踏む。
森を抜け、山を越え、国境を越え――また誰かの国が焼けるのだと、線が告げている。
「こちらへ」
声がして、アランははっと顔を上げた。
レギュラスが立っている。
いつもの黒いローブ。
しかしその下に、今日は軍服の気配があった。
硬い布の影がわずかに見え、金属の光が袖口で揺れる。
残酷なほどに似合っている。
似合うことが、怖い。
レギュラスは椅子を引いた。
アランのための椅子ではない。
座れという命令を、礼儀の形に包んだだけの動きだ。
アランは震える指で椅子の背を掴み、ゆっくりと腰を下ろした。
テーブルが近い。
地図が近い。
駒が近い。
そして、彼が近い。
レギュラスは対面ではなく、斜めに立ち、地図の端を指先で押さえた。
爪先まで整った所作が、地図の上の矢印と同じくらい冷たい。
「アラン」
名を呼ばれただけで、胸が痛む。
呼び方が柔らかくなっていることに気づいてしまうからだ。
この部屋で夜通し話し込むようになってから、彼の声には時々、包み込むような温度が宿る。
それが恐ろしい。
包み込まれた瞬間、気づけば呼吸を許してしまう自分がいるから。
「お願いがあるんです」
その言い方が、これまでと違った。
命令の時の当然が薄く、代わりに頼むという形が乗っている。
威圧は変わらないのに、柔らかさが表面を覆い、残酷さだけが見えにくくされている。
まるで、毒を蜜で包んで差し出すみたいに。
アランは喉の奥がきゅっと締まった。
言葉が出ない。
出してはいけない気がする。
返事をした瞬間、契約が成立してしまう気がして。
レギュラスは地図から目を離さず、静かに続けた。
「今回の北海への遠征で、英国の魔法兵が随分と痛手を負いました」
語り口が、あまりにも滑らかだった。
まるで悲しい物語を語って聞かせるように。
戦場で死んだ者のことを惜しむふりをして、次の犠牲を正当化するための前置き。
胃がすくむ。
胸の内側が冷える。
泣きたいのに、泣けば負ける。
泣けば“同情”という形で支配される。
そう分かっているのに、目の奥が熱くなる。
レギュラスの声は甘い。
夜、書斎で二人きりの時の、あの柔らかな空気のままだった。
口付ける直前のような、息が近づく時の、あの温度のままだ。
――違う。
違うのに。
「補給線が伸びれば伸びるほど、敵はそこを狙います。
兵は防御のために分散し、攻撃力が落ちる。
そうなれば、こちらが優位に立てる戦も長引く」
淡々と、論理で並べられていく言葉。
けれどその論理の終点にあるのは、いつも同じだった。
“もっと攻める”。
“もっと奪う”。
アランは地図の矢印を見て、目を逸らした。
矢印の先にあるのは、誰かの家であり、誰かの子であり、誰かの祈りだ。
祈りを踏み潰す音が、紙の上から聞こえてくる気がする。
「……わたしは……」
声を出そうとしたが、喉が震えて途切れた。
拒絶の言葉は何度も飲み込んできた。
拒絶すれば、犠牲が別の形で増えると知っているからだ。
拒絶すれば、エルヤが危険に晒されると分かっているからだ。
レギュラスはようやくアランを見た。
銀色の瞳が、真っ直ぐに刺さる。
その視線は冷たいのに、声は相変わらず甘い。
「英国は、このままでは終われません」
終われない。
それは勝つまで止まらないという宣言。
侵略の手を緩めないという誓い。
神の名を笑い、呪いを笑い、命を数で数える者の、平然とした決意。
アランの胸の中で何かがひび割れた。
イェルスの青い空、草の匂い、星の下で誓った未来。
それらが一瞬だけ鮮やかに浮かび、次の瞬間、燃えた大地の匂いに塗り潰される。
「あなたの術が必要です」
レギュラスはそう言って、地図の上に指を置いた。
陸路の線の上。
駒の列の上。
その指先が滑るだけで、何百の命が動き、何千の命が終わるのだと分かる。
「陸を進む部隊全体を守る結界に、封印を――」
言葉が続くのを聞いた瞬間、アランは息を呑んだ。
身体の内側が拒絶で震える。
慈しみのない場所で、封印など宿らない。
愛のない守りは、ただの形だけの殻だ。
それでも彼は宿らせろと言う。
宿らなくても“効いたことにしろと言う。
そして効いたと見なされれば、また次が来る。
終わらない。
永遠に。
アランの視界が滲んだ。
涙が落ちないように、必死に瞬きを堪えた。
泣けば、この男はきっと笑う。
優しく見せかけて、そこに付け込む。
「……どうして」
ようやく出た声は、小さく擦れていた。
どうして、そんなに欲しいのか。
どうして、そんなに奪うのか。
どうして、終われないのか。
問いの形を作りきれないまま、アランの唇が震える。
レギュラスは一歩近づいた。
また、いつものわざとの距離。
触れないのに、熱だけを置く距離。
アランの耳元に落ちる声は、ひどく穏やかだった。
「勝つためですよ」
あまりにも簡単に言う。
勝つ、という二文字で、祈りも命も未来も踏み潰す。
「あなたが嫌なら、別の犠牲を用意します。
……あなたが選べばいい」
選べ、と言いながら、選択肢を地獄にするやり方。
アランは唇を噛んだ。
血の味がしそうで、怖くてすぐに離す。
レギュラスは、アランの沈黙を肯定と受け取ったように、さらに優しい声で言った。
「ねえ、アラン。あなたならできます」
その言葉が、毒だった。
褒め言葉の形をした鎖。
できると言われるほど、逃げ道が塞がれる。
アランは泣きそうになりながら、地図を見た。
矢印は北へ伸びている。
駒は整列している。
そしてその上に、彼の指先がある。
――英国はこのままでは終われない。
その宣言の中に、自分が組み込まれている。
血も、術も、声も、心も。
求められる度に削られ、削られ、最後には何も残らなくなる未来が見えた。
それでもアランは、声にならない言葉を飲み込む。
エルヤの顔が浮かぶ。
同胞の名が浮かぶ。
守りたいという気持ちだけが、かろうじて自分を立たせる。
唇が震える。
涙が溜まる。
それでも落とさない。
――落とせない。
レギュラスの銀の瞳が、ゆっくりとアランを捉え続けた。
まるで、泣くならここで泣け、と言うように。
泣いてもいい、と言うように。
泣いた瞬間、それさえも支配する気配で。
「アラン」
名を呼ばれる。
それだけで、胸の奥がまた痛くなる。
アランは返事をしない。
できない。
返事をした瞬間、全てが始まってしまうから。
ただ、震える息だけが、書斎の静けさの中に落ちていった。
アランが断れないことは、最初からわかっていた。
人質に取られたものが多すぎる。
彼女の中に残っている祖国の誇りも、焼けた大地の記憶も、同胞の名も、エルヤ・ナイームの存在も――その全部が、鎖のように彼女を縛っている。
だからアランは、声を殺して頷く。
泣きそうに唇を噛み、震える息を飲み込んで。
拒絶を口にしない。できない。
それが“了承”だと、この国では扱われる。
レギュラスはそれを見届けた瞬間、テーブルから離れた。
地図の上に伸びていた指先を引き、駒の列の冷たさから自分の体温へ切り替えるように、ゆっくりと立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る小さな音。
その音だけで、アランの肩がびくりと跳ねた。
怯えるな、と言うつもりはない。
怯えを消す方法を、彼は知っている。
怖くないと説得するのではなく、温度で包んで麻痺させればいい。
心が拒絶するより先に、身体が安心してしまう形を作る。
歩み寄る。
その足取りに迷いはない。
アランの前で止まり、何も言わずに腕を伸ばす。
抱きしめた。
胸の奥へ押し込むような強さではなく、逃げ道を残したまま囲い込む抱擁。
けれど逃げられるはずがない。
アランの背中は瞬間、固くなり、次にゆっくりと震えた。
呼吸が詰まり、喉の奥で小さく音が鳴る。
髪から、石鹸と布の匂いがする。
イェルスの土や獣の匂いはもう薄い。
それが少し、満足でもあり、苛立ちでもある。
レギュラスは、アランの背を撫でた。
指先で整えるように。
慰めるように。
――褒めるように。
「よく決めましたね」
耳元に落とす声は、ひどく柔らかい。
夜、書斎で話す時の温度に近い。
その温度を、今ここで与えるのは意図的だった。
決断の直後に甘やかせば、苦しさと救いが結びつく。
これをしたら苦しいではなく、これをしたら抱きしめられるになる。
アランの身体が、ほんの少しだけ緩む。
緩んでしまう。
それが悔しいというように、翡翠の瞳が瞬きを早めた。
レギュラスはわざと、さらに言葉を重ねる。
「あなたのおかげで、僕の兵たちが家族のもとに帰れる可能性が上がりますね」
――わざと、そう言った。
封印を命じるのではなく、救済だと思わせるために。
犠牲ではなく、赦される行いだと思わせるために。
彼女の慈しみという原理を、こちらの目的に接続するために。
家族。帰れる。可能性。
その単語は、彼女の内側に残っている守るという本能に刺さる。
親が子を守るように。
無償の思いが根底にある術式――その綺麗な部分だけを掬い取って、英国の兵に貼り付ける。
アランの呼吸が揺れた。
胸が上下するのが、抱きしめている腕の内側に伝わってくる。
震えが、怒りなのか、悲しみなのか、屈辱なのか、分からないほど混ざっている。
翡翠の瞳が、泣きそうに潤んでいた。
その潤みが美しくて、レギュラスは内心で舌を巻く。
宝石は濡れると光を増す。
彼女の瞳も同じだ。
泣きたいのに耐える、その境界が一番眩しい。
レギュラスは、抱擁を少しだけ強めた。
逃げられない程度に。
けれど苦しくない程度に。
守っていると錯覚できる力で。
「大丈夫です」
言葉だけが優しいのではない。
優しいふりを、体温で本物に見せる。
そこが彼の残酷さだった。
「あなたが壊れないように、治癒班も整えます。血の量も、こちらで管理します。
……無茶はさせません」
無茶をさせない、という言葉が、滑稽で可笑しいほど甘い。
誰の命を犠牲にしたと思っているのか。
その無茶を強いたのは誰か。
答えは、抱擁の中心にいる男だ。
それでもアランは反論しない。
できない。
抱きしめられている間だけ、声が喉に絡まる。
悲鳴を上げる代わりに、涙が溜まっていく。
レギュラスはその沈黙すら褒美のように扱った。
アランが了承した直後に、ここまで腕の中に収まっている。
抵抗は、表に出ていない。
瞳が濡れているのに、叫ばない。
それが彼にとっての勝利だった。
「あなたは優しいですね、アラン」
優しい、と呼ぶことで、彼女はますます優しく振る舞わざるを得なくなる。
それを拒めば、自分の信じてきたものを裏切ることになるからだ。
レギュラスは、彼女の髪に唇を落とした。
頬ではない。
口でもない。
髪――境界線の外側。
けれどその小さな接触が、甘やかしとして十分に効くことを知っている。
「……僕はね」
囁く声は、ほとんど吐息だ。
「あなたがここで良いことをしたと思えるようにしてあげたいんです」
それは救いの言葉に聞こえる。
けれど実態は、支配の形を整える宣言だった。
彼女の罪悪感を、彼の秩序で包み込む。
そうすれば、彼女は折れにくくなる。
アランの肩が震え、ようやく小さく息が漏れた。
否定でも肯定でもない、ただの弱い音。
レギュラスは抱擁を解かない。
解けば彼女は冷える。
冷えればまた、拒絶が戻る。
戻る前に、温度の記憶で塗り潰しておく。
「偉いですね」
甘い声でそう言って、もう一度背を撫でた。
褒めて、宥めて、閉じ込める。
アランが泣きそうに潤んだ翡翠の瞳を伏せるまで、レギュラスは静かに、優しさを続けた。
屋敷の空気が、また戦の匂いに染まった日だった。
朝から軍服の男たちが出入りし、硬い靴音が床を叩く。
廊下の曲がり角で交わされる短い報告の声。
扉の隙間から漏れる地図の紙の擦れる音。
それらがひとつに混ざり、エルヤの胸の奥をじわじわと締め付けてくる。
――まただ。
また、彼女が呼ばれる。
また、あの男の机の上に線が引かれる。
また、アランの血が、アランの祈りが、アランの守りが、英国の侵略の道具にされる。
エルヤは分かっていた。
アランが断れないことを。
自分が人質になっていること。
散り散りにされた同胞たちが、あの男の気まぐれひとつで踏み潰されること。
それを理解した上で、アランが頷いたのだということも。
けれど――理解と、耐えられるかは別だった。
こうして彼女は今回も削られていく。
犠牲にするものは血だけではない。
彼女の中に積み重なっていくものがある。
罪の意識。
背負う呪い。
神に背いたことの代償。
守るはずだった術で人を守れなかったという痛み。
それでも術を施してしまったという現実。
彼女の肩に見えない石が乗せられていくみたいに、日々が重くなる。
泣きたいのに泣けないまま、息の仕方だけが下手になっていく。
それが痛くて、苦しくてたまらなかった。
エルヤは、屋敷の決まりを思い出す。
どこにも監視がある。
どこにも逃げ場はない。
物置小屋でさえ見られていた。
近づけば、腕の紋様が熱を持つかもしれない。
逆らえば死ぬ。
分かっている。
分かっているのに――体が動いた。
廊下の影で、アランの背を見つけた瞬間、足が勝手に踏み出した。
黒い布に包まれた彼女の姿。
英国式の服に慣れたはずなのに、その背中だけはいつまでも小さく見える。
あの大地を走っていた頃の強さが、ここでは細く折れそうに見えてしまう。
「アラン」
声を低く抑える。
名前を呼んだだけで、彼女の肩が小さく跳ねた。
振り返った翡翠の瞳は、すでに濡れていた。
泣いた痕を隠すのが下手な目だった。
胸の奥が、焼けたみたいに痛む。
「……エルヤ」
呼び返す声が、弱い。
それだけで、エルヤは耐えられなくなった。
「これ以上、見てられない」
言ってしまった。
言うつもりなんてなかった。
彼女を責めたいわけじゃない。
苦しませたいわけでもない。
ただ、誰かが――せめて自分だけでも、彼女の苦しさを止めなければと思った。
アランの瞳が揺れ、涙が一粒、縁に溜まる。
その涙が、この世で一番見たくないものだった。
エルヤは彼女の肩を掴み、乱暴にならない程度に引き寄せた。
近づいた途端、彼女の体が震える。
恐怖ではない。
我慢が限界に達した震えだ。
抱きしめた瞬間、その小さな震えが腕の中に伝わって、エルヤは息を詰めた。
「……ごめん」
言葉が喉で擦れる。
「言いすぎた。ごめん、アラン」
抱きしめる。
ぎゅっと力を入れる。
離したら、彼女はまた一人で耐えてしまう。
この屋敷の冷たい秩序の中で、黙って削れていく。
それが怖かった。
アランの額が、エルヤの胸に当たる。
髪から石鹸の匂いがする。
故郷の草や土の匂いは、もう薄い。
それがまた、胸を締め付ける。
「……やだ」
アランの声がかすかに漏れる。
否定ではない。
置いていかないでに近い、子供みたいな音。
エルヤは耐えられず、口付けた。
唇が重なる。
懐かしい熱が戻ってくる。
それだけで世界が少しだけ元に戻る気がした。
崩れたものが一瞬だけ形を取り戻す。
けれどそれも、すぐにこの屋敷の空気に押し潰されそうになる。
アランの手がエルヤの首に巻き付く。
細い指が必死で掴む。
まるで――離さないでくれ、と言っているみたいだった。
その必死さが、胸を掻きむしる。
「アラン……」
もう一度呼ぶと、アランは息を吸い込み、唇を離して小さく首を振った。
「……私、……断れない」
弱々しい言葉。
それでも言葉にしたのは、エルヤに伝えたかったからだ。
責めないで、と。
分かって、と。
エルヤは彼女の頬に指を添え、涙の縁をそっと拭った。
指先が震える。
震えが止まらない。
「分かってる」
嘘じゃない。
分かっている。
理解している。
だからこそ苦しい。
「分かってるのに……それでも」
言葉の先が続かない。
続ければ、彼女を追い詰めてしまう。
彼女を追い詰めるのは、あの男の役目でいい。
自分まで同じ刃を向けたくない。
エルヤはもう一度抱きしめ、耳元で囁いた。
「……削られないで。お願いだから」
祈りみたいな言葉だった。
神に背いたと教え込まれてきた自分が、それでも今、祈ってしまう。
神ではなく、ただ彼女に。
アランは返事をしない。
返事の代わりに、首に巻き付いた手に力を込めた。
その力が、懇願だった。
生きるための縋りつきだった。
エルヤはその手をほどけなかった。
ほどけば、彼女の心が落ちてしまう気がした。
この屋敷の秩序に、完全に呑まれてしまう気がした。
だからただ、抱きしめる。
監視の目がどこかにあると分かっていても。
腕の紋様が熱を持つ恐怖があっても。
彼女の涙だけは、これ以上増やしたくなかった。
レギュラスに禁じられている。
けれど、もうどうでもよかった。
封印をかけると告げた。
苦渋の決断をした。
それは命を奪うことと同じ重さで、胸の内側を削っていく。
同胞も、エルヤも、自分自身も――どれも守れないまま、ただ「守りの術」だけを差し出す。
だったらせめて今だけは。
今夜だけは、エルヤの温もりが欲しかった。
足音を殺して廊下を進む。
屋敷の暗がりはいつもより深く、灯りが届かない場所ほど心臓の音が響いた。
どこかに目がある。
いつだって監視はある。
それでも歩みは止まらない。
咎められたなら、封印の術を引き合いに出すつもりだった。
「あなたの兵を守るために、私は神に背く」
そう言い切ってしまえるほどに、今のアランは追い詰められている。
扉の前で一度だけ息を整え、手を伸ばした。
ノックはしない。
音を立てればすべてが崩れる気がした。
扉が軋む。
次の瞬間、部屋の空気が頬に触れた。
――匂いが、違う。
エルヤの部屋には彼の匂いが満ちていた。
イェルスにいた頃の土と草と風の匂いではない。
英国の石と木と、洗われた布の匂いが混じっている。
けれど、それでも。
彼自身の匂いは変わらなかった。
それだけで胸がほどけそうになる。
涙が出そうになる。
どこにも逃げ場がなくなったこの屋敷の中で、唯一“帰れる匂い”だった。
「…… アラン?」
暗がりの中でエルヤの声がする。
驚きと、そしてすぐに滲む安堵。
駆け寄ってくる気配に、アランは喉が詰まった。
言葉にしようとしたのに、声が出ない。
出せば壊れてしまいそうだった。
だから、腕を伸ばす。
エルヤの胸に額を押し付けた瞬間、彼の腕が躊躇いなく背に回ってきた。
抱きしめられる。
強く、けれど痛くないように。
ここにいると教える抱擁だった。
「……来ちゃだめだって」
囁く声は責めていない。
ただ震えている。
その震えが、腕に刻まれた紋様の存在を思い出させる。
「分かってる」
アランはやっと声を出した。
かすれていて、自分でも驚くほど弱い。
「でも……今は、どうでもいい」
エルヤの腕の中で、息を吸う。
息が肺まで届く感覚が、久しぶりだった。
それほどまでに、アランはずっと息を浅くして生きていた。
「封印を……かけるって言った」
その言葉が落ちた瞬間、エルヤの抱擁が一瞬固くなる。
怒りではない。
痛みだ。
耐えるために体を強張らせた痛み。
「……そうか」
エルヤはそう呟いて、アランの髪に唇を落とした。
軽く。
何度も確かめるように。
「だから、来たの?」
アランは頷いた。
頷きながら、情けなくなる。
まるで子どもみたいに、慰めをねだっている。
「今だけ……欲しい」
何が、とは言わない。
言ってしまえば恥ずかしくて、息が止まってしまう。
けれどエルヤはわかったように、少しだけ笑った。
「……こっち」
手を引かれる。
その手が温かい。
いつも導いてくれる手だ。
どんな闇の中でも、この手の温度だけは嘘をつかない。
ベッドの縁に座らされ、アランは自分の指先が震えていることに気づく。
怖い。
何が怖いのか分からないくらい、全部が怖い。
罪悪感も、背徳も、見つかる恐怖も。
それでも、欲しい気持ちがその全部を押しのけてくる。
エルヤがアランの頬に触れ、目元の濡れを親指で拭った。
涙が勝手に滲んでいたらしい。
見られたくなかったのに、見られてしまった。
「泣くな」
命令じゃない。
祈りみたいな声だった。
「泣いたら……俺が、あの男を殺しに行きたくなる」
アランは息を呑んだ。
その言葉の危うさが怖くて、同時に、胸が熱くなる。
守られていると錯覚してしまう熱。
「だめ」
やっと言えた。
震える声で。
「死なないで。あなたまでいなくなったら……私は……」
言葉が途切れる。
最後まで言えない。
言ってしまえば、本当に世界が終わる気がした。
エルヤはその続きを奪うように、唇を重ねた。
懐かしい熱。
心臓が痛むほどに好きな熱。
レギュラスの口付けが残した甘さとは違う。
もっと深い。
もっと古い。
祈りと誓いと、星空の下で交わした約束と同じ匂いがする。
アランの手が、自然にエルヤの首に回る。
引き寄せる。
離したくない。
まるで「離さないで」と言っているみたいに、指に力が入る。
エルヤが笑った。
「…… アラン」
名を呼ばれるだけで、胸がほどけていく。
彼が服を脱ぐと、腕の紋様がよく見えた。
黒い魔法の刻印。
レギュラスの作った規則の証。
それが彼の肌にあるだけで、胸が締め付けられる。
アランは指でなぞった。
恐る恐る。
痛みを確かめるみたいに。
エルヤは微笑んだ。
その微笑みが、昔と変わらなくて、泣きそうになる。
「アラン」
そして、少しだけ声を落とす。
「今はそこじゃなくて……もっと別のところに触れてほしい」
その言葉に、アランの頬が熱くなる。
恥ずかしい。
恥ずかしいのに、胸の奥が甘く疼く。
求められることが、許されていた頃の自分が蘇る。
アランは小さく息を吸って、目を伏せた。
どうしてこんなにも欲してしまうのか。
どうしてこんなにも、満たされたいと思ってしまうのか。
けれど答えは簡単だった。
――生きるためだ。
削られて、奪われて、命令されて。
それでも息をするために、どこかで温もりが必要だった。
それが今夜は、エルヤだった。
激しい波に攫われていくような夜だった。
身体ではなく、心が攫われていく。
ずっと押し込めてきた熱が、決壊する。
レギュラス・ブラックに少しずつ与えられてきた知らない甘さを、アランは今、エルヤの中でほどいてしまう。
ほどいていい場所が、やっと見つかったみたいに。
溺れる瞬間、全ての罪が許されたような気でいられる。
神に背いたことさえも、今だけは遠のく。
この腕の中だけが、世界の中心になる。
「アラン、好きだ」
エルヤが言う。
息の間に落ちる告白は、強くて優しい。
アランは涙をこぼしながら笑った。
泣いているのに、嬉しい。
「私も……あなたが好き」
故郷の言葉で告げる瞬間は、何よりも幸福だった。
レギュラスが纏う甘さよりずっと深い。
花の香りみたいに軽くない。
土と星と祈りの重さがある。
アランはエルヤの胸に顔を埋めた。
そこに耳を当てると、心臓の音が聞こえる。
生きている音だ。
自分もまだ生きていると、思い出せる音だ。
「帰ろう」
エルヤが囁く。
震える声で、でも確かに。
アランは目を閉じて頷いた。
今は、ただ頷けた。
それだけでいい。
夜が深くなっていく。
屋敷の秩序も、監視も、刻印も、全部消えたわけじゃない。
けれど、アランは久しぶりに守られているという感覚の中で、息を吐くことができた。
そして、その幸福が長く続かないことを、彼女はまだ知らないふりをしていた。
言葉が尽きるまで、疲れ果てるまで話すことが増えたせいか、眠りに落ちる直前に襲ってきた悪夢を見なくなった。
夢を見るほどの体力さえ、毎晩の会話で削られていくのだ。
火の入った暖炉の前。
濃い木の香りと、乾いた紙の匂い。
インクの黒と蝋の赤。
この部屋の全てが秩序そのもので、ここにいる限り、イェルスの焼けた匂いが薄まる。
薄まることが、怖い。
ソファに沈むと、身体が重い。
今日も一日、歩き方を整えられ、言葉の角を削られ、食事の間合いを測らされ、与えられた秩序の中で息をしてきた。
それでも夜になればまた、この男の前に座る。
逃げ場がない。
けれど不思議と、ここに呼ばれることに慣れ始めている自分がいる。
レギュラスはグラスを揺らしながら、こちらを見た。
銀の瞳が、以前ほど刃に見えなくなる瞬間がある。
その錯覚が危険だと分かっているのに、止められない。
「最近は悪夢は見ますか」
静かな問い。
そこに嘲りが混じらないことが逆に居心地悪い。
アランは少し考えた。
思い出そうとすると、疲労が先に身体を沈める。
「……いいえ。疲れ果てて寝ることが多いです」
本当だ。
悪夢を見ないのは救われたからじゃない。
ただ、見る力が残っていないだけだ。
レギュラスは小さく笑った。
声を出して笑うというより、喉の奥で楽しげに息をこぼす。
「それはよかったです」
その言葉が、優しさみたいに耳に触れる。
触れた瞬間、胸の奥が揺れる。
違う。
救われたわけじゃない。
この男が何かをしてくれたからじゃない。
疲れているだけだ。
そう思っていないと、こちらの心の形が変わってしまう。
それが怖かった。
アランは視線を逸らし、指先を膝の上で組んだ。
爪が布を軽く押す。
最近、口付けをする回数が増えた。
それは事実で、事実なのに、誰にも言えない。
自分の中でさえ、言葉にしたくない。
口にした瞬間、何かが決定してしまいそうで。
レギュラスは酒を飲む。
そして話す。
話して、笑う。
話しながら、ふいに距離を詰めてくる。
柔らかい、熱。
唇が重なる。
そのたびに、酒の甘い酸味が口内に残り、呼吸が乱れる。
心臓が音を立てる。
それでも、それから先には進まない。
――それが、分からなかった。
この国では、口付けだけを重ねることにどんな意味があるのか。
エルヤは、口付けてくれたらそこで終わらない。
求める。
求められる。
互いの熱が同じ方向を向いていると分かるから、迷いがない。
先へ進むことが、自然で、当たり前で、確かめ合う行為だった。
けれどレギュラス・ブラックは違う。
唇だけを奪い、
奪ったあとも、平然と話を続ける。
まるでそれで十分だと言うみたいに。
まるで、こちらが欲を持つことを待っているみたいに。
何がしたいのか。
何が満たされるのか。
そう考えた瞬間、胃の奥がひどく冷えた。
――いやだ。
こんなことを思っている自分が、いやだ。
まるで、ねだっているみたいだ。
経験なんてエルヤしかないくせに、
エルヤとできないことを、この男に求めているみたいで。
自分で自分が気持ち悪い。
汚い。
薄ら汚い欲が、どこかから滲み出てくる。
それを認めたくなくて、アランは口を閉ざした。
言葉が増えれば増えるほど、うっかり本音がこぼれる気がした。
この男は、そういう隙を拾うのが上手い。
拾って、整えて、逃げ道を塞ぐ。
レギュラスはアランの沈黙を不思議そうに眺め、グラスを置いた。
その音が、静かな部屋に落ちる。
「……何か考えていました?」
息が止まる。
いいえと答えるのが正解だ。
何も考えていない、と。
疲れているだけだ、と。
けれど、彼の前では正解を選ぶほど、胸が苦しくなる。
正解を言えば言うほど、自分の輪郭が薄くなる気がした。
アランは視線を上げかけて、すぐに落とした。
銀の瞳に触れたら、何かがほどけてしまう。
「……いいえ。何でもありません」
嘘だ。
何でもないはずがない。
口付けの熱が残っている。
喉が乾く。
胸の奥が痛い。
懐かしいイェルスの風景が揺れ、同時にこの部屋の暖炉の火が柔らかく揺れている。
救われたわけじゃない。
救われたと思ったら負けだ。
そう言い聞かせるほど、
レギュラスの「それはよかったです」という声が、
不意に耳の奥でやさしく反響して、
心のどこかを撫でるように残り続けた。
それがいちばん、怖かった。
書斎で口付けることが増えた。
話の合間に、何気ない仕草のように。
視線が絡んだ瞬間に、自然に。
数回、角度と深さを変えて。
そしてまた、何事もなかったかのように会話へ戻る。
最初の頃のように、アランはもう驚いた顔をしない。
息を呑むことはある。睫毛が震えることもある。
けれど、恐怖で固まるような反応は薄れた。
慣れ始めているのだろう。
――そこは、いい兆候だ。
手応えはある。
翡翠の瞳に浮かぶ熱を、確かに見ている。
女という生き物にも男と同じくらいの欲が浮かぶ瞬間があることを、レギュラスは嫌というほど知っていた。
そしてアランは、それを隠すのが下手だ。
わかりやすいくらいに、瞳に出る。
頬に出る。
呼吸の間に出る。
なのに。
どれほど待っても、次へ進むための合図が返ってこない。
言葉でも、仕草でも、たった一つの肯定でもいい。
続けてほしい。抱いてほしい。触れてほしい。
そういう明確な意思を、彼女は一切渡してこない。
強情な女だ。
従順さと、最後の一線の頑固さが同居している。
まるで――どこまで奪われても、核だけは差し出さないと決めているみたいに。
レギュラスはグラスを置き、背もたれに深く体を預けた。
火の揺れる音だけが部屋の底で鳴っている。
紙とインクの匂い。
整いすぎた書斎の静けさ。
その中に、アランの体温だけが異質に熱い。
さっき口付けた唇の感触が、まだ自分の中に残っている。
柔らかいのに、抵抗の残滓がある。
受け止めるが、開かない。
熱を返すが、求めない。
――何を怖がっている?
答えは分かっている。
エルヤ・ナイーム。
あの男に縛られている。
誓いと故郷と、焼けた大地と、戻れない未来。
その全部が彼女を縛っている。
けれど、それだけじゃない。
アラン自身の誇りが、彼女の喉を固くしている。
欲しがることは負けだと、どこかで思っている。
この支配者に求める言葉を渡した瞬間、完全に手の中に落ちると理解している。
その理解が、腹立たしいほど賢い。
レギュラスは少し身を乗り出し、彼女の顔を覗き込む。
距離を詰めた瞬間、アランの指先が小さく揺れた。
避けない。
逃げない。
ただ、きちんと背筋を伸ばしてしまう。
それがまた可笑しい。
可笑しいのに、焦れる。
「どうしました?」
あえて聞いた。
それで終わりなのかという顔をしているアランに。
彼女は視線を逸らし、唇を結ぶ。
赤みの薄い口元が、微かに濡れているのが目に入る。
自分が付けた痕だ。
「……なんでもありません」
またそれか、と内心で笑いそうになる。
いつになったらその返答が変わるのか。
何でもない、の中にどれほどの感情が詰まっているのかを、こちらが知らないとでも思っているのだろうか。
みものではある。
この女が自分の欲を認め、言葉にし、差し出す瞬間はきっと美しい。
だが――そろそろ早くしてほしいとも思う。
レギュラスは指先でアランの顎を軽く持ち上げた。
無理やりではない。
ほんの少し、視線を合わせるために。
翡翠がこちらを向く。
熱がある。
羞恥と警戒と、薄い怒りが混ざった熱。
「本当に、何でもないんですか?」
柔らかく問う。
逃げ道を塞ぐ問いを、優しい口調で。
アランは言葉を探す。
探している間の呼吸が乱れる。
その乱れが、望んでいるのに言えない証拠だ。
レギュラスはもう一度、短く口付けた。
深くはしない。
試すように、軽く。
離れ際、彼女の唇が追いかけるように僅かに動いたのを見逃さない。
――ほら。
欲はある。
あるのに、言わない。
「アラン」
名を呼ぶだけで、彼女の睫毛が震える。
その震えが、苛立ちと甘さの両方を煽る。
「僕はね、あなたが欲しいものを、あなたの口から聞きたいんです」
それは命令ではない。
けれど選択肢でもない。
言えと同義の優しさ。
アランは息を呑む。
そして、また黙る。
レギュラスは笑った。
笑い声は出さない。
ただ、唇の端だけが歪む。
――焦れる。
焦れるほど、欲しくなる。
早く落ちてこないだろうか。
この翡翠が、自分の手の中に自ら転がり落ちる瞬間を。
それが見たい。
それを待つ時間すら、愉しいのに――。
「なんでもないなら」
レギュラスは低く囁き、また口付けた。
今度は少しだけ深く。
角度を変え、呼吸を奪う程度に。
そしてすぐ離す。
「……今夜も、ここまでですね」
言葉は淡々としているのに、内側は熱を持っている。
アランがその物足りなさをどう処理するのか、見ていたい。
否応なく、考えさせたい。
自分の欲を、彼女自身に自覚させたい。
アランは何も言わない。
言えない。
けれど翡翠の瞳の奥で、火だけが揺れている。
レギュラスはその火を眺めながら、静かに思った。
――いつになったら、あなたはなんでもないをやめるんでしょうね。
廊下ですれ違うたびに、空気の密度が変わる。
屋敷の廊下は広い。
黒い絨毯が音を吸い、壁の燭台が淡く揺れて、鏡のように磨かれた床がわずかな光を返す。
距離を取ろうと思えば取れるはずの場所だ。
なのに、レギュラス・ブラックはいつも――わざと、その距離を選ぶ。
ふらりと近づいてきて、至近距離で立ち止まる。
それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
何もされていないのに。
触れられていないのに。
皮膚の裏側が、先に熱を思い出す。
「今日は寒いですね」
ただそれだけ。
誰が聞いても差し障りのない、取り止めもない一言。
「……はい」
返事をすると、レギュラスはほんの少しだけ顔を寄せる。
距離はさらに詰まり、呼吸の気配が耳元に落ちる。
酒の匂いはしない。
それが余計に厄介だった。
酔いではなく、素面でこの距離を作っている。
「暖炉の火を強めておきましょう。凍えて倒れられたら困りますから」
困る、という言葉の響きが妙に柔らかい。
けれどその柔らかさの奥に、硬い刃があるのを知っている。
倒れたら困るのは、慈しみではなく目的のためだ。
封印のため。
犠牲のため。
海のため。
侵略のため。
――分かっているのに。
耳の近くに残った熱が、言葉の意味より先に身体へ沁みる。
彼が去ったあと、風が通り抜けると、そこだけひどく寒くなる。
触れられていないのに、触れられた場所みたいに感覚が残ってしまう。
次も同じだ。
礼儀作法の指導を受けている時。
背筋、顎の角度、視線の落とし方。
教育係の冷たい声が飛ぶ中で、アランは何度も形を作り直される。
手の位置が少しずれただけで「違います」と言われ、心が削れていく。
そんな場面に、レギュラスが現れる。
あまりにも自然に、屋敷の空気の一部みたいに。
そしてやはり、わざと近い。
教育係の横に立つでもなく、少し離れた場所から見るでもなく。
アランのすぐ背後、肩越しに、視線が落ちる位置。
「随分と上達しましたね」
口調は褒めている。
褒めているのに、背中に冷たい指先をなぞられるような感覚が走る。
彼の声が、肩甲骨のあたりに触れる。
アランは息を浅くする。
胸が上下するのを見られたくない。
鼓動が早まるのを悟られたくない。
それが、何より悔しい。
レギュラスは続ける。
「その角度、綺麗です」
ただそれだけで、頬が熱くなる。
自分の意思とは関係なく。
体が反応してしまうことが、吐き気がするほど屈辱だ。
彼は一言二言だけ落として、すぐに去っていく。
本当に、何もしない。
触れもしない。
命令もしない。
ただ近寄って、熱だけを残して去る。
残されたアランは、息を吐くタイミングを失う。
教育係の声がまた飛んでくる。
「アラン様。集中してください」
集中している。
していた。
していたのに、今は全てが乱されている。
――わざとだ。
周りに聞こえても問題ない言葉しか選ばない。
それなのに、距離だけは意味を持たせる。
この距離を選び、この熱を落とし、この反応を引き出している。
こちらの反応を楽しんでいる。
そう感じる。
悪意がある。
確信に近い形で。
それが、すごく悔しくて不快だった。
不快なのに――不快だと表に出すことすらしたくない。
眉をひそめることも、視線を逸らすことも、背を引くことも。
全部、負けの形に見える。
まるで自分が物足りなさを抱いていることを認めてしまうみたいで。
何もしない。
何もしないのに、意識させられる。
何も奪われていないのに、呼吸だけが奪われる。
廊下で彼の足音が遠ざかっていく。
黒いローブの裾が揺れ、角を曲がる。
それを目で追ってしまいそうになって、アランは慌てて視線を床に落とした。
――追うな。
見送るな。
意識するな。
そう命じるほど、頭の中に彼の声が残る。
耳元の熱が消えない。
空気が、まだ彼の形をしている。
自分が嫌だった。
こんなことを繰り返されるだけで、心が揺れる自分が。
何もしないを重ねられるほど、次を想像してしまう自分が。
それでもアランは顔を上げ、淡々とした表情を作る。
教育係に向かって、言われた通りに歩き直す。
踵の細い靴が床を叩く。
音が、やけに大きく響く気がした。
――何もなかった。
今のも、何もなかった。
そうやって自分に言い聞かせながら、
アランは自分の胸の奥で、確かに何かが起きてしまっていることだけを、見ないふりをした。
朝から屋敷が騒がしい。
いつもの使用人たちの足音とは違う、硬い靴音が廊下を叩き、扉が短く開閉されるたびに冷たい外気が流れ込む。
軍服を纏った者が出入りしている。それだけで屋敷の空気が締まり、黒い壁の内側にまで戦の匂いが沁み込んでくるようだった。
黒い布の上に銀のボタン。
胸元の徽章。
硬い腰の帯に揺れる杖。
彼らが通り過ぎるたび、アランは無意識に肩をすくめてしまう。
自分の血を、誰かの命を、何かの犠牲を、当然のように「必要なもの」として扱う世界。
その中心にいるのが、レギュラス・ブラックだ。
呼ばれたのは、昼前だった。
執事の声は丁寧で、内容だけが刃物のように鋭い。
「アラン様。旦那様がお呼びです」
胸の奥がひやりと沈む。
足元の床が少し遠のいたように感じる。
身体が軽くなるのではなく、重くなる――逃げられない重さ。
書斎に通されると、いつもの匂いがそこにあった。
木と紙とインク、暖炉の灰の匂い。
普段なら少しだけ落ち着くはずの空気が、今日は違う。
机の上に広げられたものが、部屋の温度を変えていた。
地図。
大きな地図がテーブルいっぱいに広げられ、その上に駒が並んでいる。
小さな金属の塊――兵の数、部隊、配置、補給線。
細い線が引かれ、矢印が伸び、線は海を渡るだけでなく、陸へも伸びていた。
不気味だった。
紙の上に並ぶ駒は、まるで生きた人間の代わりに置かれた小さな墓標に見えた。
あの海を渡る戦艦に封印を施した時のことが、皮膚の下から浮かび上がる。
血の匂い。
術式の言葉。
震える指先。
できませんと喉が叫んだあの日の絶望。
今、地図には陸路から北上する線が描かれている。
海ではない。
大地を踏む。
森を抜け、山を越え、国境を越え――また誰かの国が焼けるのだと、線が告げている。
「こちらへ」
声がして、アランははっと顔を上げた。
レギュラスが立っている。
いつもの黒いローブ。
しかしその下に、今日は軍服の気配があった。
硬い布の影がわずかに見え、金属の光が袖口で揺れる。
残酷なほどに似合っている。
似合うことが、怖い。
レギュラスは椅子を引いた。
アランのための椅子ではない。
座れという命令を、礼儀の形に包んだだけの動きだ。
アランは震える指で椅子の背を掴み、ゆっくりと腰を下ろした。
テーブルが近い。
地図が近い。
駒が近い。
そして、彼が近い。
レギュラスは対面ではなく、斜めに立ち、地図の端を指先で押さえた。
爪先まで整った所作が、地図の上の矢印と同じくらい冷たい。
「アラン」
名を呼ばれただけで、胸が痛む。
呼び方が柔らかくなっていることに気づいてしまうからだ。
この部屋で夜通し話し込むようになってから、彼の声には時々、包み込むような温度が宿る。
それが恐ろしい。
包み込まれた瞬間、気づけば呼吸を許してしまう自分がいるから。
「お願いがあるんです」
その言い方が、これまでと違った。
命令の時の当然が薄く、代わりに頼むという形が乗っている。
威圧は変わらないのに、柔らかさが表面を覆い、残酷さだけが見えにくくされている。
まるで、毒を蜜で包んで差し出すみたいに。
アランは喉の奥がきゅっと締まった。
言葉が出ない。
出してはいけない気がする。
返事をした瞬間、契約が成立してしまう気がして。
レギュラスは地図から目を離さず、静かに続けた。
「今回の北海への遠征で、英国の魔法兵が随分と痛手を負いました」
語り口が、あまりにも滑らかだった。
まるで悲しい物語を語って聞かせるように。
戦場で死んだ者のことを惜しむふりをして、次の犠牲を正当化するための前置き。
胃がすくむ。
胸の内側が冷える。
泣きたいのに、泣けば負ける。
泣けば“同情”という形で支配される。
そう分かっているのに、目の奥が熱くなる。
レギュラスの声は甘い。
夜、書斎で二人きりの時の、あの柔らかな空気のままだった。
口付ける直前のような、息が近づく時の、あの温度のままだ。
――違う。
違うのに。
「補給線が伸びれば伸びるほど、敵はそこを狙います。
兵は防御のために分散し、攻撃力が落ちる。
そうなれば、こちらが優位に立てる戦も長引く」
淡々と、論理で並べられていく言葉。
けれどその論理の終点にあるのは、いつも同じだった。
“もっと攻める”。
“もっと奪う”。
アランは地図の矢印を見て、目を逸らした。
矢印の先にあるのは、誰かの家であり、誰かの子であり、誰かの祈りだ。
祈りを踏み潰す音が、紙の上から聞こえてくる気がする。
「……わたしは……」
声を出そうとしたが、喉が震えて途切れた。
拒絶の言葉は何度も飲み込んできた。
拒絶すれば、犠牲が別の形で増えると知っているからだ。
拒絶すれば、エルヤが危険に晒されると分かっているからだ。
レギュラスはようやくアランを見た。
銀色の瞳が、真っ直ぐに刺さる。
その視線は冷たいのに、声は相変わらず甘い。
「英国は、このままでは終われません」
終われない。
それは勝つまで止まらないという宣言。
侵略の手を緩めないという誓い。
神の名を笑い、呪いを笑い、命を数で数える者の、平然とした決意。
アランの胸の中で何かがひび割れた。
イェルスの青い空、草の匂い、星の下で誓った未来。
それらが一瞬だけ鮮やかに浮かび、次の瞬間、燃えた大地の匂いに塗り潰される。
「あなたの術が必要です」
レギュラスはそう言って、地図の上に指を置いた。
陸路の線の上。
駒の列の上。
その指先が滑るだけで、何百の命が動き、何千の命が終わるのだと分かる。
「陸を進む部隊全体を守る結界に、封印を――」
言葉が続くのを聞いた瞬間、アランは息を呑んだ。
身体の内側が拒絶で震える。
慈しみのない場所で、封印など宿らない。
愛のない守りは、ただの形だけの殻だ。
それでも彼は宿らせろと言う。
宿らなくても“効いたことにしろと言う。
そして効いたと見なされれば、また次が来る。
終わらない。
永遠に。
アランの視界が滲んだ。
涙が落ちないように、必死に瞬きを堪えた。
泣けば、この男はきっと笑う。
優しく見せかけて、そこに付け込む。
「……どうして」
ようやく出た声は、小さく擦れていた。
どうして、そんなに欲しいのか。
どうして、そんなに奪うのか。
どうして、終われないのか。
問いの形を作りきれないまま、アランの唇が震える。
レギュラスは一歩近づいた。
また、いつものわざとの距離。
触れないのに、熱だけを置く距離。
アランの耳元に落ちる声は、ひどく穏やかだった。
「勝つためですよ」
あまりにも簡単に言う。
勝つ、という二文字で、祈りも命も未来も踏み潰す。
「あなたが嫌なら、別の犠牲を用意します。
……あなたが選べばいい」
選べ、と言いながら、選択肢を地獄にするやり方。
アランは唇を噛んだ。
血の味がしそうで、怖くてすぐに離す。
レギュラスは、アランの沈黙を肯定と受け取ったように、さらに優しい声で言った。
「ねえ、アラン。あなたならできます」
その言葉が、毒だった。
褒め言葉の形をした鎖。
できると言われるほど、逃げ道が塞がれる。
アランは泣きそうになりながら、地図を見た。
矢印は北へ伸びている。
駒は整列している。
そしてその上に、彼の指先がある。
――英国はこのままでは終われない。
その宣言の中に、自分が組み込まれている。
血も、術も、声も、心も。
求められる度に削られ、削られ、最後には何も残らなくなる未来が見えた。
それでもアランは、声にならない言葉を飲み込む。
エルヤの顔が浮かぶ。
同胞の名が浮かぶ。
守りたいという気持ちだけが、かろうじて自分を立たせる。
唇が震える。
涙が溜まる。
それでも落とさない。
――落とせない。
レギュラスの銀の瞳が、ゆっくりとアランを捉え続けた。
まるで、泣くならここで泣け、と言うように。
泣いてもいい、と言うように。
泣いた瞬間、それさえも支配する気配で。
「アラン」
名を呼ばれる。
それだけで、胸の奥がまた痛くなる。
アランは返事をしない。
できない。
返事をした瞬間、全てが始まってしまうから。
ただ、震える息だけが、書斎の静けさの中に落ちていった。
アランが断れないことは、最初からわかっていた。
人質に取られたものが多すぎる。
彼女の中に残っている祖国の誇りも、焼けた大地の記憶も、同胞の名も、エルヤ・ナイームの存在も――その全部が、鎖のように彼女を縛っている。
だからアランは、声を殺して頷く。
泣きそうに唇を噛み、震える息を飲み込んで。
拒絶を口にしない。できない。
それが“了承”だと、この国では扱われる。
レギュラスはそれを見届けた瞬間、テーブルから離れた。
地図の上に伸びていた指先を引き、駒の列の冷たさから自分の体温へ切り替えるように、ゆっくりと立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る小さな音。
その音だけで、アランの肩がびくりと跳ねた。
怯えるな、と言うつもりはない。
怯えを消す方法を、彼は知っている。
怖くないと説得するのではなく、温度で包んで麻痺させればいい。
心が拒絶するより先に、身体が安心してしまう形を作る。
歩み寄る。
その足取りに迷いはない。
アランの前で止まり、何も言わずに腕を伸ばす。
抱きしめた。
胸の奥へ押し込むような強さではなく、逃げ道を残したまま囲い込む抱擁。
けれど逃げられるはずがない。
アランの背中は瞬間、固くなり、次にゆっくりと震えた。
呼吸が詰まり、喉の奥で小さく音が鳴る。
髪から、石鹸と布の匂いがする。
イェルスの土や獣の匂いはもう薄い。
それが少し、満足でもあり、苛立ちでもある。
レギュラスは、アランの背を撫でた。
指先で整えるように。
慰めるように。
――褒めるように。
「よく決めましたね」
耳元に落とす声は、ひどく柔らかい。
夜、書斎で話す時の温度に近い。
その温度を、今ここで与えるのは意図的だった。
決断の直後に甘やかせば、苦しさと救いが結びつく。
これをしたら苦しいではなく、これをしたら抱きしめられるになる。
アランの身体が、ほんの少しだけ緩む。
緩んでしまう。
それが悔しいというように、翡翠の瞳が瞬きを早めた。
レギュラスはわざと、さらに言葉を重ねる。
「あなたのおかげで、僕の兵たちが家族のもとに帰れる可能性が上がりますね」
――わざと、そう言った。
封印を命じるのではなく、救済だと思わせるために。
犠牲ではなく、赦される行いだと思わせるために。
彼女の慈しみという原理を、こちらの目的に接続するために。
家族。帰れる。可能性。
その単語は、彼女の内側に残っている守るという本能に刺さる。
親が子を守るように。
無償の思いが根底にある術式――その綺麗な部分だけを掬い取って、英国の兵に貼り付ける。
アランの呼吸が揺れた。
胸が上下するのが、抱きしめている腕の内側に伝わってくる。
震えが、怒りなのか、悲しみなのか、屈辱なのか、分からないほど混ざっている。
翡翠の瞳が、泣きそうに潤んでいた。
その潤みが美しくて、レギュラスは内心で舌を巻く。
宝石は濡れると光を増す。
彼女の瞳も同じだ。
泣きたいのに耐える、その境界が一番眩しい。
レギュラスは、抱擁を少しだけ強めた。
逃げられない程度に。
けれど苦しくない程度に。
守っていると錯覚できる力で。
「大丈夫です」
言葉だけが優しいのではない。
優しいふりを、体温で本物に見せる。
そこが彼の残酷さだった。
「あなたが壊れないように、治癒班も整えます。血の量も、こちらで管理します。
……無茶はさせません」
無茶をさせない、という言葉が、滑稽で可笑しいほど甘い。
誰の命を犠牲にしたと思っているのか。
その無茶を強いたのは誰か。
答えは、抱擁の中心にいる男だ。
それでもアランは反論しない。
できない。
抱きしめられている間だけ、声が喉に絡まる。
悲鳴を上げる代わりに、涙が溜まっていく。
レギュラスはその沈黙すら褒美のように扱った。
アランが了承した直後に、ここまで腕の中に収まっている。
抵抗は、表に出ていない。
瞳が濡れているのに、叫ばない。
それが彼にとっての勝利だった。
「あなたは優しいですね、アラン」
優しい、と呼ぶことで、彼女はますます優しく振る舞わざるを得なくなる。
それを拒めば、自分の信じてきたものを裏切ることになるからだ。
レギュラスは、彼女の髪に唇を落とした。
頬ではない。
口でもない。
髪――境界線の外側。
けれどその小さな接触が、甘やかしとして十分に効くことを知っている。
「……僕はね」
囁く声は、ほとんど吐息だ。
「あなたがここで良いことをしたと思えるようにしてあげたいんです」
それは救いの言葉に聞こえる。
けれど実態は、支配の形を整える宣言だった。
彼女の罪悪感を、彼の秩序で包み込む。
そうすれば、彼女は折れにくくなる。
アランの肩が震え、ようやく小さく息が漏れた。
否定でも肯定でもない、ただの弱い音。
レギュラスは抱擁を解かない。
解けば彼女は冷える。
冷えればまた、拒絶が戻る。
戻る前に、温度の記憶で塗り潰しておく。
「偉いですね」
甘い声でそう言って、もう一度背を撫でた。
褒めて、宥めて、閉じ込める。
アランが泣きそうに潤んだ翡翠の瞳を伏せるまで、レギュラスは静かに、優しさを続けた。
屋敷の空気が、また戦の匂いに染まった日だった。
朝から軍服の男たちが出入りし、硬い靴音が床を叩く。
廊下の曲がり角で交わされる短い報告の声。
扉の隙間から漏れる地図の紙の擦れる音。
それらがひとつに混ざり、エルヤの胸の奥をじわじわと締め付けてくる。
――まただ。
また、彼女が呼ばれる。
また、あの男の机の上に線が引かれる。
また、アランの血が、アランの祈りが、アランの守りが、英国の侵略の道具にされる。
エルヤは分かっていた。
アランが断れないことを。
自分が人質になっていること。
散り散りにされた同胞たちが、あの男の気まぐれひとつで踏み潰されること。
それを理解した上で、アランが頷いたのだということも。
けれど――理解と、耐えられるかは別だった。
こうして彼女は今回も削られていく。
犠牲にするものは血だけではない。
彼女の中に積み重なっていくものがある。
罪の意識。
背負う呪い。
神に背いたことの代償。
守るはずだった術で人を守れなかったという痛み。
それでも術を施してしまったという現実。
彼女の肩に見えない石が乗せられていくみたいに、日々が重くなる。
泣きたいのに泣けないまま、息の仕方だけが下手になっていく。
それが痛くて、苦しくてたまらなかった。
エルヤは、屋敷の決まりを思い出す。
どこにも監視がある。
どこにも逃げ場はない。
物置小屋でさえ見られていた。
近づけば、腕の紋様が熱を持つかもしれない。
逆らえば死ぬ。
分かっている。
分かっているのに――体が動いた。
廊下の影で、アランの背を見つけた瞬間、足が勝手に踏み出した。
黒い布に包まれた彼女の姿。
英国式の服に慣れたはずなのに、その背中だけはいつまでも小さく見える。
あの大地を走っていた頃の強さが、ここでは細く折れそうに見えてしまう。
「アラン」
声を低く抑える。
名前を呼んだだけで、彼女の肩が小さく跳ねた。
振り返った翡翠の瞳は、すでに濡れていた。
泣いた痕を隠すのが下手な目だった。
胸の奥が、焼けたみたいに痛む。
「……エルヤ」
呼び返す声が、弱い。
それだけで、エルヤは耐えられなくなった。
「これ以上、見てられない」
言ってしまった。
言うつもりなんてなかった。
彼女を責めたいわけじゃない。
苦しませたいわけでもない。
ただ、誰かが――せめて自分だけでも、彼女の苦しさを止めなければと思った。
アランの瞳が揺れ、涙が一粒、縁に溜まる。
その涙が、この世で一番見たくないものだった。
エルヤは彼女の肩を掴み、乱暴にならない程度に引き寄せた。
近づいた途端、彼女の体が震える。
恐怖ではない。
我慢が限界に達した震えだ。
抱きしめた瞬間、その小さな震えが腕の中に伝わって、エルヤは息を詰めた。
「……ごめん」
言葉が喉で擦れる。
「言いすぎた。ごめん、アラン」
抱きしめる。
ぎゅっと力を入れる。
離したら、彼女はまた一人で耐えてしまう。
この屋敷の冷たい秩序の中で、黙って削れていく。
それが怖かった。
アランの額が、エルヤの胸に当たる。
髪から石鹸の匂いがする。
故郷の草や土の匂いは、もう薄い。
それがまた、胸を締め付ける。
「……やだ」
アランの声がかすかに漏れる。
否定ではない。
置いていかないでに近い、子供みたいな音。
エルヤは耐えられず、口付けた。
唇が重なる。
懐かしい熱が戻ってくる。
それだけで世界が少しだけ元に戻る気がした。
崩れたものが一瞬だけ形を取り戻す。
けれどそれも、すぐにこの屋敷の空気に押し潰されそうになる。
アランの手がエルヤの首に巻き付く。
細い指が必死で掴む。
まるで――離さないでくれ、と言っているみたいだった。
その必死さが、胸を掻きむしる。
「アラン……」
もう一度呼ぶと、アランは息を吸い込み、唇を離して小さく首を振った。
「……私、……断れない」
弱々しい言葉。
それでも言葉にしたのは、エルヤに伝えたかったからだ。
責めないで、と。
分かって、と。
エルヤは彼女の頬に指を添え、涙の縁をそっと拭った。
指先が震える。
震えが止まらない。
「分かってる」
嘘じゃない。
分かっている。
理解している。
だからこそ苦しい。
「分かってるのに……それでも」
言葉の先が続かない。
続ければ、彼女を追い詰めてしまう。
彼女を追い詰めるのは、あの男の役目でいい。
自分まで同じ刃を向けたくない。
エルヤはもう一度抱きしめ、耳元で囁いた。
「……削られないで。お願いだから」
祈りみたいな言葉だった。
神に背いたと教え込まれてきた自分が、それでも今、祈ってしまう。
神ではなく、ただ彼女に。
アランは返事をしない。
返事の代わりに、首に巻き付いた手に力を込めた。
その力が、懇願だった。
生きるための縋りつきだった。
エルヤはその手をほどけなかった。
ほどけば、彼女の心が落ちてしまう気がした。
この屋敷の秩序に、完全に呑まれてしまう気がした。
だからただ、抱きしめる。
監視の目がどこかにあると分かっていても。
腕の紋様が熱を持つ恐怖があっても。
彼女の涙だけは、これ以上増やしたくなかった。
レギュラスに禁じられている。
けれど、もうどうでもよかった。
封印をかけると告げた。
苦渋の決断をした。
それは命を奪うことと同じ重さで、胸の内側を削っていく。
同胞も、エルヤも、自分自身も――どれも守れないまま、ただ「守りの術」だけを差し出す。
だったらせめて今だけは。
今夜だけは、エルヤの温もりが欲しかった。
足音を殺して廊下を進む。
屋敷の暗がりはいつもより深く、灯りが届かない場所ほど心臓の音が響いた。
どこかに目がある。
いつだって監視はある。
それでも歩みは止まらない。
咎められたなら、封印の術を引き合いに出すつもりだった。
「あなたの兵を守るために、私は神に背く」
そう言い切ってしまえるほどに、今のアランは追い詰められている。
扉の前で一度だけ息を整え、手を伸ばした。
ノックはしない。
音を立てればすべてが崩れる気がした。
扉が軋む。
次の瞬間、部屋の空気が頬に触れた。
――匂いが、違う。
エルヤの部屋には彼の匂いが満ちていた。
イェルスにいた頃の土と草と風の匂いではない。
英国の石と木と、洗われた布の匂いが混じっている。
けれど、それでも。
彼自身の匂いは変わらなかった。
それだけで胸がほどけそうになる。
涙が出そうになる。
どこにも逃げ場がなくなったこの屋敷の中で、唯一“帰れる匂い”だった。
「…… アラン?」
暗がりの中でエルヤの声がする。
驚きと、そしてすぐに滲む安堵。
駆け寄ってくる気配に、アランは喉が詰まった。
言葉にしようとしたのに、声が出ない。
出せば壊れてしまいそうだった。
だから、腕を伸ばす。
エルヤの胸に額を押し付けた瞬間、彼の腕が躊躇いなく背に回ってきた。
抱きしめられる。
強く、けれど痛くないように。
ここにいると教える抱擁だった。
「……来ちゃだめだって」
囁く声は責めていない。
ただ震えている。
その震えが、腕に刻まれた紋様の存在を思い出させる。
「分かってる」
アランはやっと声を出した。
かすれていて、自分でも驚くほど弱い。
「でも……今は、どうでもいい」
エルヤの腕の中で、息を吸う。
息が肺まで届く感覚が、久しぶりだった。
それほどまでに、アランはずっと息を浅くして生きていた。
「封印を……かけるって言った」
その言葉が落ちた瞬間、エルヤの抱擁が一瞬固くなる。
怒りではない。
痛みだ。
耐えるために体を強張らせた痛み。
「……そうか」
エルヤはそう呟いて、アランの髪に唇を落とした。
軽く。
何度も確かめるように。
「だから、来たの?」
アランは頷いた。
頷きながら、情けなくなる。
まるで子どもみたいに、慰めをねだっている。
「今だけ……欲しい」
何が、とは言わない。
言ってしまえば恥ずかしくて、息が止まってしまう。
けれどエルヤはわかったように、少しだけ笑った。
「……こっち」
手を引かれる。
その手が温かい。
いつも導いてくれる手だ。
どんな闇の中でも、この手の温度だけは嘘をつかない。
ベッドの縁に座らされ、アランは自分の指先が震えていることに気づく。
怖い。
何が怖いのか分からないくらい、全部が怖い。
罪悪感も、背徳も、見つかる恐怖も。
それでも、欲しい気持ちがその全部を押しのけてくる。
エルヤがアランの頬に触れ、目元の濡れを親指で拭った。
涙が勝手に滲んでいたらしい。
見られたくなかったのに、見られてしまった。
「泣くな」
命令じゃない。
祈りみたいな声だった。
「泣いたら……俺が、あの男を殺しに行きたくなる」
アランは息を呑んだ。
その言葉の危うさが怖くて、同時に、胸が熱くなる。
守られていると錯覚してしまう熱。
「だめ」
やっと言えた。
震える声で。
「死なないで。あなたまでいなくなったら……私は……」
言葉が途切れる。
最後まで言えない。
言ってしまえば、本当に世界が終わる気がした。
エルヤはその続きを奪うように、唇を重ねた。
懐かしい熱。
心臓が痛むほどに好きな熱。
レギュラスの口付けが残した甘さとは違う。
もっと深い。
もっと古い。
祈りと誓いと、星空の下で交わした約束と同じ匂いがする。
アランの手が、自然にエルヤの首に回る。
引き寄せる。
離したくない。
まるで「離さないで」と言っているみたいに、指に力が入る。
エルヤが笑った。
「…… アラン」
名を呼ばれるだけで、胸がほどけていく。
彼が服を脱ぐと、腕の紋様がよく見えた。
黒い魔法の刻印。
レギュラスの作った規則の証。
それが彼の肌にあるだけで、胸が締め付けられる。
アランは指でなぞった。
恐る恐る。
痛みを確かめるみたいに。
エルヤは微笑んだ。
その微笑みが、昔と変わらなくて、泣きそうになる。
「アラン」
そして、少しだけ声を落とす。
「今はそこじゃなくて……もっと別のところに触れてほしい」
その言葉に、アランの頬が熱くなる。
恥ずかしい。
恥ずかしいのに、胸の奥が甘く疼く。
求められることが、許されていた頃の自分が蘇る。
アランは小さく息を吸って、目を伏せた。
どうしてこんなにも欲してしまうのか。
どうしてこんなにも、満たされたいと思ってしまうのか。
けれど答えは簡単だった。
――生きるためだ。
削られて、奪われて、命令されて。
それでも息をするために、どこかで温もりが必要だった。
それが今夜は、エルヤだった。
激しい波に攫われていくような夜だった。
身体ではなく、心が攫われていく。
ずっと押し込めてきた熱が、決壊する。
レギュラス・ブラックに少しずつ与えられてきた知らない甘さを、アランは今、エルヤの中でほどいてしまう。
ほどいていい場所が、やっと見つかったみたいに。
溺れる瞬間、全ての罪が許されたような気でいられる。
神に背いたことさえも、今だけは遠のく。
この腕の中だけが、世界の中心になる。
「アラン、好きだ」
エルヤが言う。
息の間に落ちる告白は、強くて優しい。
アランは涙をこぼしながら笑った。
泣いているのに、嬉しい。
「私も……あなたが好き」
故郷の言葉で告げる瞬間は、何よりも幸福だった。
レギュラスが纏う甘さよりずっと深い。
花の香りみたいに軽くない。
土と星と祈りの重さがある。
アランはエルヤの胸に顔を埋めた。
そこに耳を当てると、心臓の音が聞こえる。
生きている音だ。
自分もまだ生きていると、思い出せる音だ。
「帰ろう」
エルヤが囁く。
震える声で、でも確かに。
アランは目を閉じて頷いた。
今は、ただ頷けた。
それだけでいい。
夜が深くなっていく。
屋敷の秩序も、監視も、刻印も、全部消えたわけじゃない。
けれど、アランは久しぶりに守られているという感覚の中で、息を吐くことができた。
そして、その幸福が長く続かないことを、彼女はまだ知らないふりをしていた。
10/10ページ
