1章
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空は、あまりにも青かった。
イェルスの国の朝はいつも、光の匂いがした。湿った草の甘さ、森の奥から運ばれてくる冷たい水の気配、遠くの峰を撫でる風の硬さ。鳥たちの羽音が縫い目のように空を走り、草原では動物たちが無邪気に駆け、谷の向こうまで続く緑の波が――このまま永遠に、どこまでも続くのだと、アラン・セシールは疑いもしなかった。
誰だって、そんなふうに信じたくなるほど、イェルスは美しかった。
だから、最初に“それ”を見たとき、脳が理解を拒んだ。
遠くで光が跳ねた。稲妻でも、太陽の反射でもない。鋭く、冷たく、意思のある光。次の瞬間、空気が裂けたような音がして、森の縁が一部――いや、木々が根ごと持ち上げられたように、黒い煙と炎に変わった。
「……なに?」
声が、喉の奥で凍りついた。
騒ぎが波紋のように広がっていく。家々の戸が開き、人々が外へ飛び出し、誰かが叫ぶ。言葉はイェルスのもので、普段なら耳に馴染むはずの響きが、この瞬間だけは遠い。風が、焦げた匂いを運んでくる。いつもなら暖炉の火の匂いに混じる甘い薪の香りが、今日は違う――鉄と土と、焼けた布のような、胸を掻きむしる匂いだった。
それから、異国の言葉が降ってきた。
空から、というより、空気の上に乗って滑り込んできた。硬い音、切り落とすような抑揚、命令の形をした声。イェルスの柔らかい母語とは違う、刃物のような響きが幾重にも重なって、耳の内側を引き裂く。
見知らぬ人間たちが現れた。
黒や深い色の衣をまとい、手には杖――イェルスでも儀礼で用いることのあるそれと似ているのに、使い方が違った。彼らは杖を掲げ、躊躇なく空間を撃ち抜く。光が走る。地面がえぐれ、屋根が砕け、橋が呻いて落ちた。川が白く泡立ち、悲鳴が喉から喉へ渡っていく。誰かが祈る声、誰かが泣き叫ぶ声、子どもが母を呼ぶ声――それらが、炎の爆ぜる音に飲み込まれていく。
アランは、足が動かなかった。
身体のどこかが「これは夢だ」と言い張っているのに、足元の土が震え、頬に熱が当たり、空気が痛いほど乾いている。現実の輪郭だけが、冷酷に鮮明だった。
「アラン!」
母の声が、すぐそばで弾けた。
振り向くより先に、両腕が彼女を抱きしめた。母の体温。香草と乳香の混じった匂い。いつもと同じ――いや、いつもより強く、必死に、骨にまで染み込ませるように。
父が前に出た。セシールの血を持つ人の、誇り高い背中。アランはその背中を何度も見て育った。儀礼の場でも、国境の巡察でも、宴の席でも。いつだって揺るがない背中だった。
「下がるんだ。アランを――」
言葉の途中で、世界が緑に染まった。
緑の閃光は美しいはずなのに、あれほど冷たく残酷な色を、アランは知らなかった。光が父の胸を貫き、父の体が跳ねるように反り、声にならない息が漏れた。続けて、母がアランを庇うように抱きかかえたまま、同じ光に撃ち抜かれる。
時間が止まったように思えた。
父と母が――いつもならアランの世界の中心にあるはずの二人が、あまりにも簡単に、倒れていく。地面に触れる音が、妙に乾いて聞こえた。大地が二人を受け止めるのに、少し遅れたような気さえした。
「……いや」
喉から出た声は、誰のものか分からないほど掠れていた。
膝が崩れた。アランは二人の亡骸へと縋りついた。服が煤で汚れ、指先が震える。父の頬はまだ温かい。母の髪が、風に揺れて頬に触れる。その柔らかさが、逆に恐ろしかった。こんなにも現実なのに、二人は目を開けない。
「起きて……お願い、起きて……!」
呼びかける言葉が、祈りにも命令にもならない。声はすぐに泣き崩れ、喉の奥で潰れた。世界は燃え続ける。家々が崩れる音がする。橋が雪崩落ちる轟音が、地面を通して腹の底を叩く。人々の悲鳴は、重なり合って、ひとつの巨大な獣の鳴き声みたいになっていく。
そして、異国の言葉がまた響いた。
「――連行しろ。」
意味は分からないのに、音だけが刺さる。空気の温度が変わる。足音が近づく。影が落ちる。
誰かがアランの肩を掴んだ。乱暴な指。冷たい掌。引き剥がす力が、情け容赦なく増していく。アランは父の衣を掴んで抵抗した。指が白くなるほど握り、布が裂けるほど力を込めた。だが、腕は簡単に捻り上げられた。
「やめて……やめて! 離して!」
母の手を探して掴もうとする。その瞬間、髪を引かれ、首が後ろへ反らされた。視界が火の色に揺れ、涙が熱で乾きかける。息を吸うだけで喉が焼ける。咳が出る。咳が出るたび、胸の中の痛みが膨らんでいく。
引き剥がされた。
父と母の亡骸から、アランの体が、まるで不要な布切れみたいに、乱暴に引き離される。指先が空を掻く。最後の感触が消えていく。まるで、世界から根を抜かれたようだった。
「お願い、お願いだから……!」
言葉は誰にも届かなかった。
次に来たのは、金属の冷たさだった。
手首に、足首に、そして首に――重い鎖が巻き付けられる。冷えた鉄が肌を噛み、骨の近くまで痛みが食い込む。締め付けられるたび、呼吸が浅くなる。首の鎖が擦れて、皮膚がひりついた。アランは反射的に鎖を引き剥がそうとしたが、すぐに腕が引かれ、膝が地面に打ちつけられた。
土が口に入った。焦げた土の味がした。
立たされる。いや、引きずり上げられる。足元が定まらない。人の波が押し寄せ、同じように鎖をつけられた誰かが泣き、誰かが怒鳴り、誰かが無言で震えている。老いた者の瞳は空っぽで、幼い子は声を枯らして母を呼び続けている。母親らしき女が必死に手を伸ばすが、杖の光が走って彼女の足元を打ち、彼女は倒れ込んだ。
アランは、その光の意味を理解した。
抵抗は許されない。泣いても、叫んでも、祈っても。ここでは、ただ“連れていく”ことだけが決まっている。
「……どこへ……」
喉の奥から零れた問いは、煤と涙で歪んだ声になった。答えはない。代わりに、異国の言葉が、冷たく、淡々と押し寄せてくる。耳に入るたび、アランの中で何かが硬く固まっていく。恐怖だけではない。怒り。憎しみ。喪失の形をした黒い熱。
ふと、視界の端に、崩れ落ちた橋が見えた。川は濁り、煙が立ち昇り、かつての美しい景色は、もうどこにもない。草原の緑は灰に覆われ、鳥たちの声は途切れ、動物の姿も見えなかった。
――イェルスは、終わった。
その事実が、遅れて胸に落ちた。
アランは足を止めようとした。父と母のいる場所へ戻ろうとした。だが鎖が鳴り、引かれる。足がもつれる。膝が擦れる。痛みが走っても、それより胸の奥が裂けるほうが先だった。
一度だけ、振り返った。
炎の向こうに、父と母の姿はもう見えない。煙が幕のように揺れて、すべてを隠してしまう。代わりに見えたのは、燃える家々と、倒れた人影と、空を裂くように走る光。あまりにも非現実な“地獄の光景”が、しかし確かに、自分の祖国の上に広がっている。
アランは唇を噛んだ。
泣き声が喉を突き上げる。それを、無理やり押し殺す。泣いたら負ける、という理屈ではない。ただ、泣いてしまった瞬間、自分の中の何かが崩れて、二度と立てなくなる気がした。
歯の間から、か細い息が漏れる。
「……許さない」
声は震え、煤に汚れて、ひどく小さかった。それでも、確かに言った。自分に言い聞かせるように。父と母に誓うように。
鎖が、また鳴った。
歩け、と言われている。従え、と言われている。アランの足は、抵抗するように重い。それでも、引かれる力のほうが強い。人の列が動き出し、捕虜たちが、ひとつの長い鎖になって進んでいく。
どこへ連れて行かれるのか。
これからどうされるのか。
絶望は、視界の端々に黒い染みを作り、息のたびに膨らんだ。けれど同時に、胸の奥のどこかで、燃え残った火種みたいなものが、しつこく赤く光っている。
それは、祖国を奪われた痛みであり、両親を奪われた怒りであり、そして――生きている限り消せない憎悪だった。
アラン・セシールは鎖に繋がれたまま、焼け野原になったイェルスを背にした。
あの美しい国が、どこまでも続くと思っていた自分の未来ごと、誰かに踏み潰された朝だった。
そしてその朝から、彼女の世界は、英国へ向かって――冷たく、重く、引きずられていく。
レギュラスブラックがこの報告を受けた瞬間、興味はすでに「イェルスがどれほど遅れているか」ではなく――“破れぬ封印”が、本当に破れないのかに移っていた。
イェルス。地図の端に、半ば伝説として残る土地。
未開発というより、意図して取り残されたような集落。石の道、煤けた祭具、古代文明の残骸がそのまま土に埋まり、掘り起こされることもなく、語り継がれる言葉だけが時代を生き延びている。
そこでは杖を使わない。
指先で魔法を施す。血管の熱、皮膚の摩擦、呼吸の合図――身体そのものを媒介にして、奇妙な魔法を編む部族。
そして、その土地を長く治めてきた一族がいるとされる。
“破れぬ封印を施す一族”。
それは言い伝えであり、噂であり、しかし英国の中枢にとっては、もはや噂では済まない「資源」だった。
海を使って他国を攻める時代が来る。
陸と違い、海の上では逃げ場がない。
甲板の上、潮に濡れた木材、風が奪う体温。波に煽られれば陣形は崩れ、魔法の照準も乱れる。
その中で、揺るぎない防御がある者が勝つ。
防御が堅牢なら、攻撃に兵を回せる。
編成も配置も効率がいい。
戦略は、より合理へ。より冷酷へ。
――だから必要だった。
封印を操れる一族が。
だが、交渉に向かった魔法兵から上がってきた報告は、拍子抜けするほど短かった。
「言葉が通じず。尖らせた石の槍のようなものを投擲されました」
報告書の文字から、埃の匂いが漂うようだった。
血の匂いではない。侮辱の匂い。英国の誇りを、石ころで擦ったような不快感。
ブラック家の執務室は静かだった。
重いカーテンが冬の光を遮り、机の上には整然と書類が積まれている。蝋燭の炎は揺れもせず、銀のペン先だけが淡く光った。
レギュラスは報告書を閉じる。
その動作は丁寧で、乱れがない。乱暴に投げ捨てたりはしない。感情を物にぶつける趣味はない――ただ、次の手を決めるだけだ。
「腹立たしいですね」
独り言のように呟いた声は低く柔らかい。
だが柔らかいだけで、温度がない。
“この英国の高貴な魔法兵に対して”
石を研いだ粗末な武器で迎え撃つという行為が、交渉の拒絶である以前に、礼節への挑発だった。
レギュラスは視線を上げ、控えていた魔法兵の指揮官へ向き直る。
呼ばれていた男は、カシウスハロウ。軍装の端々は清潔で、姿勢が崩れない。命令に慣れ、命令を出す側の目をしている。
「――話は必要ありません」
その一言で、場の空気が切り替わった。
交渉という単語が消え、制圧という単語だけが残る。
「どれくらいの兵で制圧できます?」
指揮官は一瞬も迷わない。
その迷いのなさが、英国の強さであり、同時に残酷さでもあった。
「五十名ほどで事足りるかと思われます。非常に小さな集落でした」
小さな集落。
そこにあるのは、文明の遅れた生活と、奇妙な魔法と、そして破れぬ封印の伝承。
価値があるのは、それだけ。
レギュラスの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
それは喜びではない。判断が確定したときにだけ現れる、癖に近い表情だった。
「結構」
短く告げ、机の引き出しから一枚の許可証を引き出す。
墨を落とす位置も、署名の角度も、すべてが正確。
彼の字は美しい。美しいがゆえに、命令がいっそう冷たく見える。
「では百名の魔法兵を動かす許可を渡します」
指揮官の眉がほんのわずかに動いた。
五十で足りると言った。
だが、レギュラスは倍を出す。そこに意味がある。
――抵抗をさせない。
――見せしめにする。
――一族を確実に“確保”する。
“封印を操れる者”が欠ければ意味がない。
そして、あの土地の人間に「交渉」という概念が通じないのなら、最初から選択肢はひとつだ。
レギュラスは許可証を指揮官へ差し出した。
紙一枚が、国ひとつの運命を決める。
その軽さに、誰も驚かない。ここではそれが普通だった。
「明日中に、イェルスを堕として」
最後の言葉だけ、ほんの少し丁寧に――まるで綺麗に包んだ贈り物みたいに告げる。
「封印の力を持つ一族の人間を、連れてきてください」
“連れてきてください”
その柔らかさが、命令の残酷さを際立たせる。
指揮官は片膝をつき、頭を垂れる。
「承知いたしました、長官。明日中に」
その返答が終わった瞬間、イェルスの未来は事実上、閉じられた。
レギュラスはもう指揮官を見ていない。
すでに次の盤面を見ている。
封印を得た後、どの艦隊に搭載するか。
どの魔法兵の部隊を前線へ回すか。
海の上での戦争が、現実になる日のために。
そして、捕らえてくる“一族”の中に――
どんな顔があるのか。
どんな目があるのか。
どんな怒りがあるのか。
そのことだけが、ほんの少しだけ、レギュラスの興味を引いた。
魔法省の地下は、地上とは時間の流れが違う。
窓のない廊下に灯る魔法灯は、昼も夜も同じ明るさで、同じ色で、同じ沈黙を照らしている。石壁には湿り気が染み、空気には鉄と薬品と、洗い落としきれない恐怖の匂いが薄く滲んでいた。足音だけが反響し、遠くで鎖の擦れる音や、どこかの扉が閉まる鈍い響きが、腹の底へ遅れて落ちてくる。
――魔法兵管理部、地下。
ここは“人間”を収める場所であって、人間を迎える場所ではない。
収容、分類、制御。
そういう単語で世界ができている。
レギュラス・ブラックは、その廊下をためらいなく歩いた。
黒い外套の裾が、冷たい石に触れて滑る。背筋はまっすぐで、表情は穏やかに整っている。けれどその穏やかさは、温度のない大理石のようだった。彼の隣を歩く護衛が二名、少し後ろには担当官が控え、書類の束を抱えたまま早足でついてくる。
「報告では、連行は数十名でしたね」
レギュラスが言うと、担当官は喉を鳴らして頷いた。
「はい。イェルスから連行された者は三十数名。その他は、現地で――死に絶えたとの報告です。指揮官カシウス・ハロウより」
“死に絶えた”。
その言葉が、この地下の空気にすんなり溶けていくのが、レギュラスには妙に滑稽だった。国ひとつの終わりを、紙の上の数行で処理できるほど、この世界は手際がいい。
手際がいい――それはつまり、痛みを痛みとして扱わないということだ。
鉄格子の並ぶ区画へ入ると、空気がさらに重くなった。灯りは同じはずなのに、影が濃い。人の気配が密になり、呼吸の音が混じる。ここでは沈黙すら濁っている。
奥の牢へ近づくにつれ、ざわめきが膨らんだ。
異国の言葉が飛び交う。
耳に馴染まない音の連なりが、鳥の鳴き声のように甲高く、時に低く、時にひどく切羽詰まって響く。
レギュラスの眉が、わずかに動いた。
「……これが、イェルスの者たちです」
担当官が低い声で告げる。
柵の向こうにいたのは、確かに“部族”と呼ぶほうがふさわしい人々だった。
衣服は英国のものと形が違い、布は粗く、それでも奇妙な意匠が施されている。刺繍なのか、織りなのか、もしくは魔法的な印なのか――不規則な線が肩から胸へ走り、腰のあたりで結ばれている。首や腕には装飾品。石、骨、金属の輪。色あせた紐で編まれた護符。歯や爪のように見えるものまで、揺れていた。
祭祀や神物を重要視する宗教観の部族だと、報告書にはあった。
だが、レギュラスにとってそんなものは、価値がなかった。
神。祈り。
それらで守れるものなど、この世にない。
守るのは、圧倒的な権力。
武力。
そして、金。
それだけだ。
牢の中の者たちは、互いの体を寄せ合っていた。
まるで寒さをしのぐように――いや、もっと切実に、これから起こる悲劇に備えているように。誰かの腕が誰かの肩を抱き、誰かの背中が子どもを覆い、老いた者が中央に押し込まれる。目が怯え、喉が震え、言葉が止まらない。
小汚い光景だった。
何も知らぬ弱者が、弱者同士で縋り合っている。
その“縋り”が、レギュラスには鬱陶しかった。
ひとつひとつの命に意味を与えているのは神ではない。祈りでもない。彼ら自身の恐怖と、こちらが握っている力だ。ならば、彼らの言葉がいくら飛び交おうと、受け取る理由はない。
大事なのは――こちら側の言い分を、わからせること。
レギュラスは牢の前で足を止めた。
鉄格子越しに、捕虜たちを見下ろす位置。彼らは本能的に息を呑み、言葉が一瞬だけ途切れた。
その沈黙に、レギュラスは薄く笑った。
「ああ。静かになることはできるのですね」
その一言が、鞭のように空気を裂く。
捕虜たちは言葉の意味を理解できない。だが、声の調子と、立ち姿と、周囲の兵の態度だけで――この男が“上”だと悟る。
同時に、悟ってしまったからこそ、恐怖が増す。
レギュラスは担当官へ視線を投げた。
「セシールの血を持つ者は、どれです?」
冷淡な問い。
答えを待つ間の顔にも、感情の起伏がない。彼にとってこれは、命の選別ではない。目的達成のための確認にすぎない。
担当官が躊躇し、手元の書類に目を落とす。
「……確定はまだ。ただ、あの一族は代々――」
「説明は要りません」
即座に切り捨てる。
必要なのは“誰か”。
封印を扱える血。その血がどの身体に宿っているか。それだけだ。
レギュラスが鉄格子へ一歩近づくと、捕虜たちは一斉に視線を上げた。
好奇。恐怖。憎しみ。懇願。
ありとあらゆる感情が濁った水のように溢れ、目の中で渦を巻いている。
――どれも、小汚い。
その時だった。
レギュラスの視線が、ふと、どこかで止まった。
捕虜たちの群れの奥、互いの体に守られるようにして隠れていた一人の女。
顔には煤と土が残り、頬に乾いた涙の跡が筋になっている。髪は乱れ、衣服も破れている。
それなのに――目だけが。
翡翠色の瞳だった。
牢獄の薄闇の中で、その色だけが不自然に澄んでいた。
まるで石の奥に灯りが宿っているように、微かな光を抱いている。
宝石のように、冷たく、硬く、そして美しい。
そこにあるのは、祈りの光ではない。
絶望の中でなお消えない、何かの意志の光だった。
レギュラスは、息をするのを忘れた。
自分でも驚くほど、視線が離れない。
周囲の捕虜の目がどれだけ騒がしくても、どれだけ醜くても、彼の世界はその翡翠の一点へ収束していく。
女は、こちらを見返していた。
怯えているのに、逃げない。
憎んでいるのに、目を逸らさない。
その瞳には、恐怖の奥に鋭い棘があった。自分の身がどうなろうと、屈しないという棘。
――面白い。
それは、レギュラスの中で久しく感じていなかった種類の感覚だった。
美貌に対する欲とも違う。
戦利品を眺める満足とも違う。
もっと厄介で、もっと深いところを撫でる、静かな興味。
彼は、口元だけで笑う。
「……あなた」
呼びかけても、女は理解しない。
理解しないはずなのに、女の肩がわずかに強張った。音ではなく、意図を感じ取ったように。
レギュラスは、鉄格子の向こうへ手を伸ばした。
届かない距離。
だが“届かない”という事実さえ、彼には重要ではなかった。ここにいる限り、距離はいつでも縮められる。
「セシールの血が、あなたですか?」
問いは柔らかい。
けれど、拒否の余地がない。
その口調そのものが鎖になる。
女の唇が震えた。
意味不明な言語が、絞り出すように流れ出る。
怒りの言葉か、祈りか、呪いか。
彼にはわからない。
だが、わからなくていい。
レギュラスの瞳は、翡翠の瞳だけを映していた。
「いいでしょう。言葉など要りません」
その声は静かで、優しいほど丁寧だった。
だからこそ、牢の空気が凍る。
「あなたが拒むなら――拒めない形にするだけです」
捕虜たちがざわめいた。
女の周りの者たちが、まるで彼女を隠すように体を寄せる。
しかしその動きは、すでに遅い。
レギュラスは、担当官へ視線を移す。
「この女を」
言い切る前に、もう決定していた。
「別室へ。徹底的に調べてください。血筋、術式、印、何でも。
――そして、封印を扱えると確認できたら、僕のもとへ」
担当官は顔色を変え、深く頭を下げる。
「はっ……承知いたしました」
捕虜の中から、悲鳴にも似た声が上がった。
女は叫ばなかった。
ただ、翡翠の瞳を細め、レギュラスを睨むように見つめ続ける。
その目が、彼を不意に満たした。
胸の奥に、冷たい満足が落ちる。
破れぬ封印――その価値に、ようやく輪郭が生まれた気がしたのだ。
ただの力ではない。
ただの術式でもない。
“意思”を宿した力。
“誇り”を宿した血。
レギュラスは、ほんの少しだけ近づくように身を屈め、鉄格子越しに彼女へ微笑んだ。
「あなたは、ここでは不釣り合いですね」
低く、甘いほどに静かな声で。
「――だからこそ、連れて帰りたくなります」
その言葉が理解されなくても構わない。
理解されないままでも、彼の欲しいものは変わらない。
翡翠の瞳が、暗闇の中で煌めいた。
宝石の光が、牢獄の汚泥の上に落ちる。
そしてレギュラスは悟った。
この女は――
封印よりも厄介で、封印よりも価値がある“何か”を、きっと自分に与える。
それが救いになるのか、破滅になるのか。
まだ知らない。
知らないことこそが、彼の指先をわずかに熱くした。
別室は、牢よりも静かだった。
静かであるはずなのに、耳の奥がざわついていた。
沈黙が、音として残る部屋。息をする音すら拾い上げて、冷たい石壁が反響させる。灯りは白く、容赦がない。影の逃げ場を与えない明るさが、そこにいる者を“検体”に変えてしまう。
アランは椅子に縛り付けられていた。
手首。肘。胸の上。足首。
革の帯がいくつも重なり、彼女の身体を椅子へ固定している。少しでも身を捩れば、皮膚が擦れてひりついた。爪先に力を込めようとしても、足首の拘束が先に痛みを返す。
暴れないほうがいい、と彼らは言ったのだろう。
言葉はわからない。
だが、意味は痛みが教えてくれる。
一度、反射的に腕を引いた。
次の瞬間、奇妙な杖が向けられ、短い呪文の音が落ちた。鋭い光が跳ねて、アランの身体を貫いた。電流ではない。火でもない。もっと嫌な痛みだった。骨の内側を掻きむしるような、筋を引き裂くような、恥を焼き付けられるような痛み。
息が詰まり、喉が鳴り、涙が勝手に滲んだ。
――痛い。
――でも、泣くな。
泣けば、負ける。
泣けば、父と母の最期が、ただの惨劇になる。
アランは唇を噛んで、痛みの波を飲み込んだ。
鉄の味が舌に広がる。血の味。いまここにいるのは、血も涙もない人殺しの集団だ。そう思うだけで胸が熱くなる。熱くなるくせに、指先は冷たい。恐怖が、体温を奪っていく。
「……!」
誰かが、布を剥がす。
衣服を引き裂くように捲り上げ、皮膚を露わにする。
指先が滑る。冷たい金属が当たる。
身体中を調べられた。
何を探しているのかは知らない。
この野蛮な人間たちが、アランの体のどこに価値を見出しているのかも。
だが、わかることがひとつある。
彼らは“人間”を探しているのではない。
“もの”を探している。
血筋。印。術式。何かの証。
そういうもののために、彼らは国を焼き、人を殺し、子どもが泣く声を踏み潰した。
言葉は理解できない。
理解しようとも思わない。
理解した瞬間、自分が少しでも彼らに歩み寄ってしまう気がした。
憎しみの純度を薄めたくなかった。
――許さない。
――絶対に、許さない。
父と母の倒れる音が、まだ耳の奥にある。
緑の閃光。焼けた匂い。崩れる家。泣き叫ぶ声。
そして、引き剥がされた自分の手。
痛みが波のように戻ってくる。
腰のあたりを探られた時、反射的に身を捩った。
すぐに杖の光が飛び、再びあの痛みが落ちた。
「……っ、ああ……!」
声が漏れてしまった。
悔しい。
その悔しさを噛み潰そうとした瞬間――扉が開く音がした。
空気が変わった。
護衛たちの動きが揃い、誰かが姿勢を正す気配。
足音が一つ、ゆっくりと近づく。
急がず、迷わず、当然のように。
アランは顔を上げた。
そこにいたのは、地下牢の前で自分を見ていた男だった。
黒い外套。整った姿勢。静かな歩き方。
目だけが、異様に冷たい。
銀色の瞳。
冷たい金属が光を返すみたいな色。
人の温度を拒む色。
彼は部屋の中央で立ち止まり、アランを見下ろした。
視線はまるで、宝石を鑑定する者の目だった。価値を測り、欠点を探し、どこを切ればもっと光るかを考える目。
唇が、わずかに笑う。
「……名前は名乗れます?」
その言葉は、音としては柔らかかった。
けれど内容は、鎖だった。
名乗れ。
お前が誰であるか差し出せ。
差し出せば、この場の主導権はこちらが握る。
の胸に、黒い怒りが湧き上がった。
名など、渡すものか。
彼らは父と母を殺した。
同胞を殺した。
自分の国を焼いた。
その相手に、“私”の名を差し出す理由がどこにある。
アランは喉の奥から言葉を引きずり出した。
母国の言葉で。イェルスの発音で。
祈りではなく呪いとして。
「この人殺し」
声は震えている。痛みと恐怖で震えている。
だが、そこに屈服は混ぜない。
「お前たちは呪われる。お前たちの一族も。ろくな死に方をしない。私が呪ってやる――絶対に許さない」
母国語の罵倒は、部屋の空気を引き裂くように響いた。
意味が伝わらなくていい。
伝えるために言ったわけではない。
これは自分のためだ。
父と母に誓うためだ。
生き残った自分が、憎しみを手放さないと刻むためだ。
男は、その言葉を聞いても表情を崩さなかった。
困ったように眉を上げるでもなく、怒るでもない。
ただ、興味深そうに目を細めた。
「……長い名前ですね」
淡々とした声。
冗談のようで、冗談ではない。
その瞬間、アランの背筋に寒気が走った。
この男は、自分が何を言っているかを理解できなくても、言われた“感情”を楽しんでいる。
怒りも憎しみも、彼にとっては珍しい玩具だ。
レギュラスは、ゆっくりと距離を詰めた。
足音が近づくたび、アランの心臓が嫌な跳ね方をする。
逃げられない。椅子に縛り付けられている。
手を上げることも、身を引くこともできない。
彼の指が、アランの頬に触れた。
冷たい。
指先が、体温を奪う。
そして、容赦なく頬を掴み上げられた。
顎が上を向く。痛みが走る。
視界に、銀色の瞳が近づく。
彫刻のような顔――整いすぎていて、血の通った人間に見えない。完璧で、だからこそ不気味だ。
彼は、アランの翡翠の瞳を覗き込む。
その眼差しは、まるで触れるみたいにじっとりと深い。
触れられているのに、手ではない。目で。
「……なるほど」
小さく呟く。
何かを確信したように。
アランは歯を食いしばった。
痛い。屈辱だ。恐ろしい。
それでも、この男の前で涙を落とすのだけは嫌だった。
――殺されたのは、自分じゃない。
――生き残ったのは、自分だ。
――だから私は、折れない。
レギュラスの指が、頬骨のあたりをわずかに撫でる。
優しさに見せかけた確認。
逃げ場を塞ぐ、静かな暴力。
「あなたの言葉はわかりません」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「けれど、あなたが僕を憎んでいることはよくわかります」
“よくわかる”
その言い方が、まるで褒美みたいで、アランは吐き気がした。
レギュラスは、掴んだ頬を離さないまま、微笑んだ。
冷たく、優雅に。
「それでいい。僕はあなたに、わかってもらう必要があるだけです」
言葉の意味は理解できなくても、圧は伝わる。
逆らえば痛みが降る。
拒めば、拒めない形にされる。
その現実が、アランの体の奥に沈んだ。
――この男が、ここを支配している。
――この男が、私を“持ち帰る”つもりだ。
それが恐怖として脊髄を走り抜ける一方で、
翡翠の瞳の奥に、燃え残る火が揺れた。
憎しみが、まだ消えない。
怒りが、まだ生きている。
アランは銀色の瞳を睨み返し、母国語で、もう一度だけ吐き捨てた。
「……お前を殺してやる」
言葉は通じない。
でも、願いは自分の中で生き続ける。
レギュラスは、その目を見て、ほんの少しだけ――愉しそうに笑った。
イェルスの国の朝はいつも、光の匂いがした。湿った草の甘さ、森の奥から運ばれてくる冷たい水の気配、遠くの峰を撫でる風の硬さ。鳥たちの羽音が縫い目のように空を走り、草原では動物たちが無邪気に駆け、谷の向こうまで続く緑の波が――このまま永遠に、どこまでも続くのだと、アラン・セシールは疑いもしなかった。
誰だって、そんなふうに信じたくなるほど、イェルスは美しかった。
だから、最初に“それ”を見たとき、脳が理解を拒んだ。
遠くで光が跳ねた。稲妻でも、太陽の反射でもない。鋭く、冷たく、意思のある光。次の瞬間、空気が裂けたような音がして、森の縁が一部――いや、木々が根ごと持ち上げられたように、黒い煙と炎に変わった。
「……なに?」
声が、喉の奥で凍りついた。
騒ぎが波紋のように広がっていく。家々の戸が開き、人々が外へ飛び出し、誰かが叫ぶ。言葉はイェルスのもので、普段なら耳に馴染むはずの響きが、この瞬間だけは遠い。風が、焦げた匂いを運んでくる。いつもなら暖炉の火の匂いに混じる甘い薪の香りが、今日は違う――鉄と土と、焼けた布のような、胸を掻きむしる匂いだった。
それから、異国の言葉が降ってきた。
空から、というより、空気の上に乗って滑り込んできた。硬い音、切り落とすような抑揚、命令の形をした声。イェルスの柔らかい母語とは違う、刃物のような響きが幾重にも重なって、耳の内側を引き裂く。
見知らぬ人間たちが現れた。
黒や深い色の衣をまとい、手には杖――イェルスでも儀礼で用いることのあるそれと似ているのに、使い方が違った。彼らは杖を掲げ、躊躇なく空間を撃ち抜く。光が走る。地面がえぐれ、屋根が砕け、橋が呻いて落ちた。川が白く泡立ち、悲鳴が喉から喉へ渡っていく。誰かが祈る声、誰かが泣き叫ぶ声、子どもが母を呼ぶ声――それらが、炎の爆ぜる音に飲み込まれていく。
アランは、足が動かなかった。
身体のどこかが「これは夢だ」と言い張っているのに、足元の土が震え、頬に熱が当たり、空気が痛いほど乾いている。現実の輪郭だけが、冷酷に鮮明だった。
「アラン!」
母の声が、すぐそばで弾けた。
振り向くより先に、両腕が彼女を抱きしめた。母の体温。香草と乳香の混じった匂い。いつもと同じ――いや、いつもより強く、必死に、骨にまで染み込ませるように。
父が前に出た。セシールの血を持つ人の、誇り高い背中。アランはその背中を何度も見て育った。儀礼の場でも、国境の巡察でも、宴の席でも。いつだって揺るがない背中だった。
「下がるんだ。アランを――」
言葉の途中で、世界が緑に染まった。
緑の閃光は美しいはずなのに、あれほど冷たく残酷な色を、アランは知らなかった。光が父の胸を貫き、父の体が跳ねるように反り、声にならない息が漏れた。続けて、母がアランを庇うように抱きかかえたまま、同じ光に撃ち抜かれる。
時間が止まったように思えた。
父と母が――いつもならアランの世界の中心にあるはずの二人が、あまりにも簡単に、倒れていく。地面に触れる音が、妙に乾いて聞こえた。大地が二人を受け止めるのに、少し遅れたような気さえした。
「……いや」
喉から出た声は、誰のものか分からないほど掠れていた。
膝が崩れた。アランは二人の亡骸へと縋りついた。服が煤で汚れ、指先が震える。父の頬はまだ温かい。母の髪が、風に揺れて頬に触れる。その柔らかさが、逆に恐ろしかった。こんなにも現実なのに、二人は目を開けない。
「起きて……お願い、起きて……!」
呼びかける言葉が、祈りにも命令にもならない。声はすぐに泣き崩れ、喉の奥で潰れた。世界は燃え続ける。家々が崩れる音がする。橋が雪崩落ちる轟音が、地面を通して腹の底を叩く。人々の悲鳴は、重なり合って、ひとつの巨大な獣の鳴き声みたいになっていく。
そして、異国の言葉がまた響いた。
「――連行しろ。」
意味は分からないのに、音だけが刺さる。空気の温度が変わる。足音が近づく。影が落ちる。
誰かがアランの肩を掴んだ。乱暴な指。冷たい掌。引き剥がす力が、情け容赦なく増していく。アランは父の衣を掴んで抵抗した。指が白くなるほど握り、布が裂けるほど力を込めた。だが、腕は簡単に捻り上げられた。
「やめて……やめて! 離して!」
母の手を探して掴もうとする。その瞬間、髪を引かれ、首が後ろへ反らされた。視界が火の色に揺れ、涙が熱で乾きかける。息を吸うだけで喉が焼ける。咳が出る。咳が出るたび、胸の中の痛みが膨らんでいく。
引き剥がされた。
父と母の亡骸から、アランの体が、まるで不要な布切れみたいに、乱暴に引き離される。指先が空を掻く。最後の感触が消えていく。まるで、世界から根を抜かれたようだった。
「お願い、お願いだから……!」
言葉は誰にも届かなかった。
次に来たのは、金属の冷たさだった。
手首に、足首に、そして首に――重い鎖が巻き付けられる。冷えた鉄が肌を噛み、骨の近くまで痛みが食い込む。締め付けられるたび、呼吸が浅くなる。首の鎖が擦れて、皮膚がひりついた。アランは反射的に鎖を引き剥がそうとしたが、すぐに腕が引かれ、膝が地面に打ちつけられた。
土が口に入った。焦げた土の味がした。
立たされる。いや、引きずり上げられる。足元が定まらない。人の波が押し寄せ、同じように鎖をつけられた誰かが泣き、誰かが怒鳴り、誰かが無言で震えている。老いた者の瞳は空っぽで、幼い子は声を枯らして母を呼び続けている。母親らしき女が必死に手を伸ばすが、杖の光が走って彼女の足元を打ち、彼女は倒れ込んだ。
アランは、その光の意味を理解した。
抵抗は許されない。泣いても、叫んでも、祈っても。ここでは、ただ“連れていく”ことだけが決まっている。
「……どこへ……」
喉の奥から零れた問いは、煤と涙で歪んだ声になった。答えはない。代わりに、異国の言葉が、冷たく、淡々と押し寄せてくる。耳に入るたび、アランの中で何かが硬く固まっていく。恐怖だけではない。怒り。憎しみ。喪失の形をした黒い熱。
ふと、視界の端に、崩れ落ちた橋が見えた。川は濁り、煙が立ち昇り、かつての美しい景色は、もうどこにもない。草原の緑は灰に覆われ、鳥たちの声は途切れ、動物の姿も見えなかった。
――イェルスは、終わった。
その事実が、遅れて胸に落ちた。
アランは足を止めようとした。父と母のいる場所へ戻ろうとした。だが鎖が鳴り、引かれる。足がもつれる。膝が擦れる。痛みが走っても、それより胸の奥が裂けるほうが先だった。
一度だけ、振り返った。
炎の向こうに、父と母の姿はもう見えない。煙が幕のように揺れて、すべてを隠してしまう。代わりに見えたのは、燃える家々と、倒れた人影と、空を裂くように走る光。あまりにも非現実な“地獄の光景”が、しかし確かに、自分の祖国の上に広がっている。
アランは唇を噛んだ。
泣き声が喉を突き上げる。それを、無理やり押し殺す。泣いたら負ける、という理屈ではない。ただ、泣いてしまった瞬間、自分の中の何かが崩れて、二度と立てなくなる気がした。
歯の間から、か細い息が漏れる。
「……許さない」
声は震え、煤に汚れて、ひどく小さかった。それでも、確かに言った。自分に言い聞かせるように。父と母に誓うように。
鎖が、また鳴った。
歩け、と言われている。従え、と言われている。アランの足は、抵抗するように重い。それでも、引かれる力のほうが強い。人の列が動き出し、捕虜たちが、ひとつの長い鎖になって進んでいく。
どこへ連れて行かれるのか。
これからどうされるのか。
絶望は、視界の端々に黒い染みを作り、息のたびに膨らんだ。けれど同時に、胸の奥のどこかで、燃え残った火種みたいなものが、しつこく赤く光っている。
それは、祖国を奪われた痛みであり、両親を奪われた怒りであり、そして――生きている限り消せない憎悪だった。
アラン・セシールは鎖に繋がれたまま、焼け野原になったイェルスを背にした。
あの美しい国が、どこまでも続くと思っていた自分の未来ごと、誰かに踏み潰された朝だった。
そしてその朝から、彼女の世界は、英国へ向かって――冷たく、重く、引きずられていく。
レギュラスブラックがこの報告を受けた瞬間、興味はすでに「イェルスがどれほど遅れているか」ではなく――“破れぬ封印”が、本当に破れないのかに移っていた。
イェルス。地図の端に、半ば伝説として残る土地。
未開発というより、意図して取り残されたような集落。石の道、煤けた祭具、古代文明の残骸がそのまま土に埋まり、掘り起こされることもなく、語り継がれる言葉だけが時代を生き延びている。
そこでは杖を使わない。
指先で魔法を施す。血管の熱、皮膚の摩擦、呼吸の合図――身体そのものを媒介にして、奇妙な魔法を編む部族。
そして、その土地を長く治めてきた一族がいるとされる。
“破れぬ封印を施す一族”。
それは言い伝えであり、噂であり、しかし英国の中枢にとっては、もはや噂では済まない「資源」だった。
海を使って他国を攻める時代が来る。
陸と違い、海の上では逃げ場がない。
甲板の上、潮に濡れた木材、風が奪う体温。波に煽られれば陣形は崩れ、魔法の照準も乱れる。
その中で、揺るぎない防御がある者が勝つ。
防御が堅牢なら、攻撃に兵を回せる。
編成も配置も効率がいい。
戦略は、より合理へ。より冷酷へ。
――だから必要だった。
封印を操れる一族が。
だが、交渉に向かった魔法兵から上がってきた報告は、拍子抜けするほど短かった。
「言葉が通じず。尖らせた石の槍のようなものを投擲されました」
報告書の文字から、埃の匂いが漂うようだった。
血の匂いではない。侮辱の匂い。英国の誇りを、石ころで擦ったような不快感。
ブラック家の執務室は静かだった。
重いカーテンが冬の光を遮り、机の上には整然と書類が積まれている。蝋燭の炎は揺れもせず、銀のペン先だけが淡く光った。
レギュラスは報告書を閉じる。
その動作は丁寧で、乱れがない。乱暴に投げ捨てたりはしない。感情を物にぶつける趣味はない――ただ、次の手を決めるだけだ。
「腹立たしいですね」
独り言のように呟いた声は低く柔らかい。
だが柔らかいだけで、温度がない。
“この英国の高貴な魔法兵に対して”
石を研いだ粗末な武器で迎え撃つという行為が、交渉の拒絶である以前に、礼節への挑発だった。
レギュラスは視線を上げ、控えていた魔法兵の指揮官へ向き直る。
呼ばれていた男は、カシウスハロウ。軍装の端々は清潔で、姿勢が崩れない。命令に慣れ、命令を出す側の目をしている。
「――話は必要ありません」
その一言で、場の空気が切り替わった。
交渉という単語が消え、制圧という単語だけが残る。
「どれくらいの兵で制圧できます?」
指揮官は一瞬も迷わない。
その迷いのなさが、英国の強さであり、同時に残酷さでもあった。
「五十名ほどで事足りるかと思われます。非常に小さな集落でした」
小さな集落。
そこにあるのは、文明の遅れた生活と、奇妙な魔法と、そして破れぬ封印の伝承。
価値があるのは、それだけ。
レギュラスの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
それは喜びではない。判断が確定したときにだけ現れる、癖に近い表情だった。
「結構」
短く告げ、机の引き出しから一枚の許可証を引き出す。
墨を落とす位置も、署名の角度も、すべてが正確。
彼の字は美しい。美しいがゆえに、命令がいっそう冷たく見える。
「では百名の魔法兵を動かす許可を渡します」
指揮官の眉がほんのわずかに動いた。
五十で足りると言った。
だが、レギュラスは倍を出す。そこに意味がある。
――抵抗をさせない。
――見せしめにする。
――一族を確実に“確保”する。
“封印を操れる者”が欠ければ意味がない。
そして、あの土地の人間に「交渉」という概念が通じないのなら、最初から選択肢はひとつだ。
レギュラスは許可証を指揮官へ差し出した。
紙一枚が、国ひとつの運命を決める。
その軽さに、誰も驚かない。ここではそれが普通だった。
「明日中に、イェルスを堕として」
最後の言葉だけ、ほんの少し丁寧に――まるで綺麗に包んだ贈り物みたいに告げる。
「封印の力を持つ一族の人間を、連れてきてください」
“連れてきてください”
その柔らかさが、命令の残酷さを際立たせる。
指揮官は片膝をつき、頭を垂れる。
「承知いたしました、長官。明日中に」
その返答が終わった瞬間、イェルスの未来は事実上、閉じられた。
レギュラスはもう指揮官を見ていない。
すでに次の盤面を見ている。
封印を得た後、どの艦隊に搭載するか。
どの魔法兵の部隊を前線へ回すか。
海の上での戦争が、現実になる日のために。
そして、捕らえてくる“一族”の中に――
どんな顔があるのか。
どんな目があるのか。
どんな怒りがあるのか。
そのことだけが、ほんの少しだけ、レギュラスの興味を引いた。
魔法省の地下は、地上とは時間の流れが違う。
窓のない廊下に灯る魔法灯は、昼も夜も同じ明るさで、同じ色で、同じ沈黙を照らしている。石壁には湿り気が染み、空気には鉄と薬品と、洗い落としきれない恐怖の匂いが薄く滲んでいた。足音だけが反響し、遠くで鎖の擦れる音や、どこかの扉が閉まる鈍い響きが、腹の底へ遅れて落ちてくる。
――魔法兵管理部、地下。
ここは“人間”を収める場所であって、人間を迎える場所ではない。
収容、分類、制御。
そういう単語で世界ができている。
レギュラス・ブラックは、その廊下をためらいなく歩いた。
黒い外套の裾が、冷たい石に触れて滑る。背筋はまっすぐで、表情は穏やかに整っている。けれどその穏やかさは、温度のない大理石のようだった。彼の隣を歩く護衛が二名、少し後ろには担当官が控え、書類の束を抱えたまま早足でついてくる。
「報告では、連行は数十名でしたね」
レギュラスが言うと、担当官は喉を鳴らして頷いた。
「はい。イェルスから連行された者は三十数名。その他は、現地で――死に絶えたとの報告です。指揮官カシウス・ハロウより」
“死に絶えた”。
その言葉が、この地下の空気にすんなり溶けていくのが、レギュラスには妙に滑稽だった。国ひとつの終わりを、紙の上の数行で処理できるほど、この世界は手際がいい。
手際がいい――それはつまり、痛みを痛みとして扱わないということだ。
鉄格子の並ぶ区画へ入ると、空気がさらに重くなった。灯りは同じはずなのに、影が濃い。人の気配が密になり、呼吸の音が混じる。ここでは沈黙すら濁っている。
奥の牢へ近づくにつれ、ざわめきが膨らんだ。
異国の言葉が飛び交う。
耳に馴染まない音の連なりが、鳥の鳴き声のように甲高く、時に低く、時にひどく切羽詰まって響く。
レギュラスの眉が、わずかに動いた。
「……これが、イェルスの者たちです」
担当官が低い声で告げる。
柵の向こうにいたのは、確かに“部族”と呼ぶほうがふさわしい人々だった。
衣服は英国のものと形が違い、布は粗く、それでも奇妙な意匠が施されている。刺繍なのか、織りなのか、もしくは魔法的な印なのか――不規則な線が肩から胸へ走り、腰のあたりで結ばれている。首や腕には装飾品。石、骨、金属の輪。色あせた紐で編まれた護符。歯や爪のように見えるものまで、揺れていた。
祭祀や神物を重要視する宗教観の部族だと、報告書にはあった。
だが、レギュラスにとってそんなものは、価値がなかった。
神。祈り。
それらで守れるものなど、この世にない。
守るのは、圧倒的な権力。
武力。
そして、金。
それだけだ。
牢の中の者たちは、互いの体を寄せ合っていた。
まるで寒さをしのぐように――いや、もっと切実に、これから起こる悲劇に備えているように。誰かの腕が誰かの肩を抱き、誰かの背中が子どもを覆い、老いた者が中央に押し込まれる。目が怯え、喉が震え、言葉が止まらない。
小汚い光景だった。
何も知らぬ弱者が、弱者同士で縋り合っている。
その“縋り”が、レギュラスには鬱陶しかった。
ひとつひとつの命に意味を与えているのは神ではない。祈りでもない。彼ら自身の恐怖と、こちらが握っている力だ。ならば、彼らの言葉がいくら飛び交おうと、受け取る理由はない。
大事なのは――こちら側の言い分を、わからせること。
レギュラスは牢の前で足を止めた。
鉄格子越しに、捕虜たちを見下ろす位置。彼らは本能的に息を呑み、言葉が一瞬だけ途切れた。
その沈黙に、レギュラスは薄く笑った。
「ああ。静かになることはできるのですね」
その一言が、鞭のように空気を裂く。
捕虜たちは言葉の意味を理解できない。だが、声の調子と、立ち姿と、周囲の兵の態度だけで――この男が“上”だと悟る。
同時に、悟ってしまったからこそ、恐怖が増す。
レギュラスは担当官へ視線を投げた。
「セシールの血を持つ者は、どれです?」
冷淡な問い。
答えを待つ間の顔にも、感情の起伏がない。彼にとってこれは、命の選別ではない。目的達成のための確認にすぎない。
担当官が躊躇し、手元の書類に目を落とす。
「……確定はまだ。ただ、あの一族は代々――」
「説明は要りません」
即座に切り捨てる。
必要なのは“誰か”。
封印を扱える血。その血がどの身体に宿っているか。それだけだ。
レギュラスが鉄格子へ一歩近づくと、捕虜たちは一斉に視線を上げた。
好奇。恐怖。憎しみ。懇願。
ありとあらゆる感情が濁った水のように溢れ、目の中で渦を巻いている。
――どれも、小汚い。
その時だった。
レギュラスの視線が、ふと、どこかで止まった。
捕虜たちの群れの奥、互いの体に守られるようにして隠れていた一人の女。
顔には煤と土が残り、頬に乾いた涙の跡が筋になっている。髪は乱れ、衣服も破れている。
それなのに――目だけが。
翡翠色の瞳だった。
牢獄の薄闇の中で、その色だけが不自然に澄んでいた。
まるで石の奥に灯りが宿っているように、微かな光を抱いている。
宝石のように、冷たく、硬く、そして美しい。
そこにあるのは、祈りの光ではない。
絶望の中でなお消えない、何かの意志の光だった。
レギュラスは、息をするのを忘れた。
自分でも驚くほど、視線が離れない。
周囲の捕虜の目がどれだけ騒がしくても、どれだけ醜くても、彼の世界はその翡翠の一点へ収束していく。
女は、こちらを見返していた。
怯えているのに、逃げない。
憎んでいるのに、目を逸らさない。
その瞳には、恐怖の奥に鋭い棘があった。自分の身がどうなろうと、屈しないという棘。
――面白い。
それは、レギュラスの中で久しく感じていなかった種類の感覚だった。
美貌に対する欲とも違う。
戦利品を眺める満足とも違う。
もっと厄介で、もっと深いところを撫でる、静かな興味。
彼は、口元だけで笑う。
「……あなた」
呼びかけても、女は理解しない。
理解しないはずなのに、女の肩がわずかに強張った。音ではなく、意図を感じ取ったように。
レギュラスは、鉄格子の向こうへ手を伸ばした。
届かない距離。
だが“届かない”という事実さえ、彼には重要ではなかった。ここにいる限り、距離はいつでも縮められる。
「セシールの血が、あなたですか?」
問いは柔らかい。
けれど、拒否の余地がない。
その口調そのものが鎖になる。
女の唇が震えた。
意味不明な言語が、絞り出すように流れ出る。
怒りの言葉か、祈りか、呪いか。
彼にはわからない。
だが、わからなくていい。
レギュラスの瞳は、翡翠の瞳だけを映していた。
「いいでしょう。言葉など要りません」
その声は静かで、優しいほど丁寧だった。
だからこそ、牢の空気が凍る。
「あなたが拒むなら――拒めない形にするだけです」
捕虜たちがざわめいた。
女の周りの者たちが、まるで彼女を隠すように体を寄せる。
しかしその動きは、すでに遅い。
レギュラスは、担当官へ視線を移す。
「この女を」
言い切る前に、もう決定していた。
「別室へ。徹底的に調べてください。血筋、術式、印、何でも。
――そして、封印を扱えると確認できたら、僕のもとへ」
担当官は顔色を変え、深く頭を下げる。
「はっ……承知いたしました」
捕虜の中から、悲鳴にも似た声が上がった。
女は叫ばなかった。
ただ、翡翠の瞳を細め、レギュラスを睨むように見つめ続ける。
その目が、彼を不意に満たした。
胸の奥に、冷たい満足が落ちる。
破れぬ封印――その価値に、ようやく輪郭が生まれた気がしたのだ。
ただの力ではない。
ただの術式でもない。
“意思”を宿した力。
“誇り”を宿した血。
レギュラスは、ほんの少しだけ近づくように身を屈め、鉄格子越しに彼女へ微笑んだ。
「あなたは、ここでは不釣り合いですね」
低く、甘いほどに静かな声で。
「――だからこそ、連れて帰りたくなります」
その言葉が理解されなくても構わない。
理解されないままでも、彼の欲しいものは変わらない。
翡翠の瞳が、暗闇の中で煌めいた。
宝石の光が、牢獄の汚泥の上に落ちる。
そしてレギュラスは悟った。
この女は――
封印よりも厄介で、封印よりも価値がある“何か”を、きっと自分に与える。
それが救いになるのか、破滅になるのか。
まだ知らない。
知らないことこそが、彼の指先をわずかに熱くした。
別室は、牢よりも静かだった。
静かであるはずなのに、耳の奥がざわついていた。
沈黙が、音として残る部屋。息をする音すら拾い上げて、冷たい石壁が反響させる。灯りは白く、容赦がない。影の逃げ場を与えない明るさが、そこにいる者を“検体”に変えてしまう。
アランは椅子に縛り付けられていた。
手首。肘。胸の上。足首。
革の帯がいくつも重なり、彼女の身体を椅子へ固定している。少しでも身を捩れば、皮膚が擦れてひりついた。爪先に力を込めようとしても、足首の拘束が先に痛みを返す。
暴れないほうがいい、と彼らは言ったのだろう。
言葉はわからない。
だが、意味は痛みが教えてくれる。
一度、反射的に腕を引いた。
次の瞬間、奇妙な杖が向けられ、短い呪文の音が落ちた。鋭い光が跳ねて、アランの身体を貫いた。電流ではない。火でもない。もっと嫌な痛みだった。骨の内側を掻きむしるような、筋を引き裂くような、恥を焼き付けられるような痛み。
息が詰まり、喉が鳴り、涙が勝手に滲んだ。
――痛い。
――でも、泣くな。
泣けば、負ける。
泣けば、父と母の最期が、ただの惨劇になる。
アランは唇を噛んで、痛みの波を飲み込んだ。
鉄の味が舌に広がる。血の味。いまここにいるのは、血も涙もない人殺しの集団だ。そう思うだけで胸が熱くなる。熱くなるくせに、指先は冷たい。恐怖が、体温を奪っていく。
「……!」
誰かが、布を剥がす。
衣服を引き裂くように捲り上げ、皮膚を露わにする。
指先が滑る。冷たい金属が当たる。
身体中を調べられた。
何を探しているのかは知らない。
この野蛮な人間たちが、アランの体のどこに価値を見出しているのかも。
だが、わかることがひとつある。
彼らは“人間”を探しているのではない。
“もの”を探している。
血筋。印。術式。何かの証。
そういうもののために、彼らは国を焼き、人を殺し、子どもが泣く声を踏み潰した。
言葉は理解できない。
理解しようとも思わない。
理解した瞬間、自分が少しでも彼らに歩み寄ってしまう気がした。
憎しみの純度を薄めたくなかった。
――許さない。
――絶対に、許さない。
父と母の倒れる音が、まだ耳の奥にある。
緑の閃光。焼けた匂い。崩れる家。泣き叫ぶ声。
そして、引き剥がされた自分の手。
痛みが波のように戻ってくる。
腰のあたりを探られた時、反射的に身を捩った。
すぐに杖の光が飛び、再びあの痛みが落ちた。
「……っ、ああ……!」
声が漏れてしまった。
悔しい。
その悔しさを噛み潰そうとした瞬間――扉が開く音がした。
空気が変わった。
護衛たちの動きが揃い、誰かが姿勢を正す気配。
足音が一つ、ゆっくりと近づく。
急がず、迷わず、当然のように。
アランは顔を上げた。
そこにいたのは、地下牢の前で自分を見ていた男だった。
黒い外套。整った姿勢。静かな歩き方。
目だけが、異様に冷たい。
銀色の瞳。
冷たい金属が光を返すみたいな色。
人の温度を拒む色。
彼は部屋の中央で立ち止まり、アランを見下ろした。
視線はまるで、宝石を鑑定する者の目だった。価値を測り、欠点を探し、どこを切ればもっと光るかを考える目。
唇が、わずかに笑う。
「……名前は名乗れます?」
その言葉は、音としては柔らかかった。
けれど内容は、鎖だった。
名乗れ。
お前が誰であるか差し出せ。
差し出せば、この場の主導権はこちらが握る。
の胸に、黒い怒りが湧き上がった。
名など、渡すものか。
彼らは父と母を殺した。
同胞を殺した。
自分の国を焼いた。
その相手に、“私”の名を差し出す理由がどこにある。
アランは喉の奥から言葉を引きずり出した。
母国の言葉で。イェルスの発音で。
祈りではなく呪いとして。
「この人殺し」
声は震えている。痛みと恐怖で震えている。
だが、そこに屈服は混ぜない。
「お前たちは呪われる。お前たちの一族も。ろくな死に方をしない。私が呪ってやる――絶対に許さない」
母国語の罵倒は、部屋の空気を引き裂くように響いた。
意味が伝わらなくていい。
伝えるために言ったわけではない。
これは自分のためだ。
父と母に誓うためだ。
生き残った自分が、憎しみを手放さないと刻むためだ。
男は、その言葉を聞いても表情を崩さなかった。
困ったように眉を上げるでもなく、怒るでもない。
ただ、興味深そうに目を細めた。
「……長い名前ですね」
淡々とした声。
冗談のようで、冗談ではない。
その瞬間、アランの背筋に寒気が走った。
この男は、自分が何を言っているかを理解できなくても、言われた“感情”を楽しんでいる。
怒りも憎しみも、彼にとっては珍しい玩具だ。
レギュラスは、ゆっくりと距離を詰めた。
足音が近づくたび、アランの心臓が嫌な跳ね方をする。
逃げられない。椅子に縛り付けられている。
手を上げることも、身を引くこともできない。
彼の指が、アランの頬に触れた。
冷たい。
指先が、体温を奪う。
そして、容赦なく頬を掴み上げられた。
顎が上を向く。痛みが走る。
視界に、銀色の瞳が近づく。
彫刻のような顔――整いすぎていて、血の通った人間に見えない。完璧で、だからこそ不気味だ。
彼は、アランの翡翠の瞳を覗き込む。
その眼差しは、まるで触れるみたいにじっとりと深い。
触れられているのに、手ではない。目で。
「……なるほど」
小さく呟く。
何かを確信したように。
アランは歯を食いしばった。
痛い。屈辱だ。恐ろしい。
それでも、この男の前で涙を落とすのだけは嫌だった。
――殺されたのは、自分じゃない。
――生き残ったのは、自分だ。
――だから私は、折れない。
レギュラスの指が、頬骨のあたりをわずかに撫でる。
優しさに見せかけた確認。
逃げ場を塞ぐ、静かな暴力。
「あなたの言葉はわかりません」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「けれど、あなたが僕を憎んでいることはよくわかります」
“よくわかる”
その言い方が、まるで褒美みたいで、アランは吐き気がした。
レギュラスは、掴んだ頬を離さないまま、微笑んだ。
冷たく、優雅に。
「それでいい。僕はあなたに、わかってもらう必要があるだけです」
言葉の意味は理解できなくても、圧は伝わる。
逆らえば痛みが降る。
拒めば、拒めない形にされる。
その現実が、アランの体の奥に沈んだ。
――この男が、ここを支配している。
――この男が、私を“持ち帰る”つもりだ。
それが恐怖として脊髄を走り抜ける一方で、
翡翠の瞳の奥に、燃え残る火が揺れた。
憎しみが、まだ消えない。
怒りが、まだ生きている。
アランは銀色の瞳を睨み返し、母国語で、もう一度だけ吐き捨てた。
「……お前を殺してやる」
言葉は通じない。
でも、願いは自分の中で生き続ける。
レギュラスは、その目を見て、ほんの少しだけ――愉しそうに笑った。
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