1章
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その日、屋敷に戻ったレギュラスは、玄関ホールの空気がいつもと違うことにすぐ気づいた。
人の気配が多い。
軽やかな布擦れの音と、どこか浮き立った女たちの声。
普段なら静謐な廊下に、そのざわめきが白い糸のように伸びていた。
「奥様、こちらでございます」
執事に呼び止められ、レギュラスは頷く。
案内されたのは、一階の一室——ふだんは応接に使われる広間だったはずの場所だ。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
そこはもはや応接室ではなく、小さな仕立て屋の工房と化していた。
窓際には布地の束が山のように積まれ、白や生成り、淡い青に、黒に近い深い緑。
机の上にはリボンやレース、パールのボタン、銀糸の刺繍見本が整然と並べられている。
数人の仕立て屋たちが、針と糸を持って立ち働き、ピンを摘まんだ指先が忙しく動いていた。
そして、その中心に——アランがいた。
彼女は、鏡の前に立っていた。
上半身は柔らかな絹のコルセットに包まれ、その上から薄いレースがさらりと重ねられている。
肩は繊細なレースの上に小さく袖が乗り、鎖骨にかけて透ける布が彼女の肌の白さを際立たせていた。
スカートは、足元に向かって静かに広がっている。
純白ではなく、かすかに温度を帯びたアイヴォリー。
光を受けるたびに、ごく淡い金の影が布の皺を流れていく。
裾には、ブラック家の紋章をさりげなく織り込んだ唐草模様の刺繍が施されていた。
派手さはないが、細部に宿る威厳と品格が、ドレスそのものをこの家のものとして主張している。
黒髪は、仮のまとめ髪に結われていた。
いつものようにすべてを下ろしているのではなく、後頭部で柔らかく束ねられ、一部が緩やかな波を描いて背に落ちている。
まだ装飾は差されていないのに、その姿だけで、十分にひとつの絵になっていた。
鏡の中には、三人のアランがいる。
正面からこちらを見るアランと、横からラインを確認するアランと、少し俯いて裾を見つめるアラン。
どの角度を切り取っても、美しかった。
レギュラスは、一歩だけ足を踏み入れたところで、その場に根を下ろしたように動けなくなった。
自分は、こんなものを手に入れたのか——
その実感が、遅れて胸に押し寄せる。
魔法省でどれだけ権力を握ろうと、どれほどの取引を成功させようと、この光景に匹敵する価値のあるものが他にあるのかと、思わずにはいられなかった。
「まあ、レギュラス」
少し離れた場所に控えていたヴァルブルガが、息子に気づいて声をかけた。
彼女は黒いローブの上から、美しいダマスク織のオーバードレスを羽織り、腕を組んでいる。
表情は厳しく整っていたが、その目には誇らしさが隠しきれなかった。
「ちょうどよろしいところでした。
この仕立てを決める前に、あなたの目も通しておきたいと思っていたのです」
レギュラスは、かろうじて唇を動かす。
「そうでしたか……失礼しました、母上。
僕は騒がしさを聞きつけて、少し覗きに来ただけなのですが」
視線は、自然とアランに引き寄せられていた。
彼女は、ヴァルブルガの言葉に従うように、鏡越しにこちらを振り向いた。
翡翠の瞳が、光の反射を受けていっそう鮮やかに映える。
絹の光沢と、レースの透け感と、黒髪の深さ。
そのすべてが、彼女の存在のためだけに用意されたかのようだった。
レギュラスは、息をすることさえ忘れかけた。
「……」
仕立て屋の一人が、気を利かせてそっと後ろに下がる。
ピンを持ったまま、一歩、二歩と距離を取り、主と花嫁になる女のあいだに、わずかな空間を作る。
アランは、鏡の中の自分をもう一度確かめるように見つめていた。
表情は固い。
華やかなドレスを纏っているにもかかわらず、その瞳の奥には、まだどこか遠くを見ているような影があった。
それでも——美しかった。
感情の揺れさえも、ドレスの静かな優雅さと混ざり合って、一層複雑な魅力になっている。
レギュラスは、ようやく言葉を絞り出した。
「……美しすぎて、言葉が出ませんね」
心からの、率直な一言だった。
飾り立てた賛辞ではなく、事実をそのまま口にしただけだ。
部屋の空気が、ふと静まり返る。
仕立て屋たちの手が止まり、何人かがこっそりと視線を交わした。
アランの肩が、わずかに強張る。
うつむきかけた顔を持ち上げ、ヴァルブルガの方へ視線を向けた。
「……ヴァルブルガ様が、選んでくださったおかげです」
丁寧に言葉を選ぶ。
レギュラスからの称賛を、正面から受け止めることを避けるかのように。
「わたくしにとっては、過分なほどのドレスでございます。
すべて、ヴァルブルガ様のご判断と、仕立て屋の方々の腕のおかげで」
ヴァルブルガは、その答えに満足げに目を細めた。
「謙遜が過ぎるわ、アラン。
どれほど布や技を揃えても、それを着こなせなければ意味がないのよ」
言いながら、アランの背後に回り、腰のあたりのラインを少しだけ直す。
その手つきは厳しいが、その指先にはどこか慈しみがあった。
「このドレスが映えるのは、あなたが立っているからこそ。
ブラック家の嫁にふさわしい姿になってきたわ」
レギュラスは、その会話を聞きながら、内心で息を整える。
——僕は、こんな光景を求めていたのだろうか。
セシール家に申し入れをし、ありとあらゆる条件を積み重ね、ローランドを盤外へ押し出し、アランをこの屋敷へ連れてきた。
政治的にも、研究の面でも、すべては理にかなった選択だった。
その結果として目の前にあるのは——
ブラック家の色を纏った、翡翠の瞳の花嫁の姿。
歓喜は確かにあった。
喉元までせり上がるような陶酔。
自分がこの世界のなかで、何を手に入れたのかを知らしめる象徴として、これ以上のものはない。
だが同時に、鏡に映るアランのわずかな強張りも、彼は見逃さなかった。
レギュラスは、少しだけ歩み寄った。
ドレスの裾を踏まぬよう、注意深く距離を保ちながら。
「母上の選択は、いつもながら見事です」
先にヴァルブルガを立てる。
自分の喜びを、家の誇りにすり替えるように。
「このドレスを纏ったアランを見て……ブラックの名を負うことの意味を、改めて実感しました」
ヴァルブルガの口元が、誇らしげに持ち上がる。
「ようやくそれが分かるようになったなら、あなたも当主になる準備が整ってきたのでしょうね」
母の言葉に、レギュラスは軽く頭を垂れた。
アランは、鏡越しにレギュラスを一瞬だけ見た。
その視線は、どこか探るようであり、どこか諦めを含んでもいた。
「……ありがとうございます」
それが、誰に向けた言葉なのか、自分でも判然としないまま、アランは静かに礼を述べる。
「ブラック家の名に、恥じぬように努めます」
その言葉は、誓いというより、義務を受け入れる宣言に近かった。
だが、レギュラスにとっては、それでも十分だった。
彼女が「努める」と言った。
この家にふさわしい妻であろうとする意思を、口にした。
それだけで、胸の奥の歓喜はさらに強まる。
「……アラン」
名を呼ぶ。
鏡の中で、翡翠の瞳が再びこちらを向く。
「このドレスを選んでくれて、ありがとうございます」
彼女が本心から選んだのかどうかは、もはや問題ではなかった。
ブラック家の花嫁として、この衣を纏うことを受け入れたという事実だけが、レギュラスには重要だった。
アランは、わずかにまぶたを伏せた。
「わたくしは、ただ……ヴァルブルガ様のご意向に従っただけです」
「それでも」
レギュラスは、穏やかに続ける。
「この姿を見せてくれたのは、あなたです」
アランの喉元が、かすかに上下する。
何かを飲み込むような動き。
部屋の隅で、仕立て屋たちがひそやかに囁き合う気配があった。
「お似合いですわ」「なんて美しい」「まさにブラック家の奥方にふさわしい」と。
その声を、レギュラスは心地よい雑音として受け止めていた。
——羨望も、称賛も、すべてこの女と共に浴びることができる。
その事実が、彼の自尊心を満たしていく。
鏡の前で、アランは静かに立っていた。
アイヴォリーのドレスに包まれた身体。
背筋はまっすぐで、目元にはまだ緊張が残っている。
それでも、彼女はもう、セシール家の娘だけではなかった。
ブラック家の色を纏い、ブラック家の者たちの視線を受ける存在になりつつある。
レギュラスは、その移ろいの瞬間を、確かに目撃していた。
歓喜と、わずかな疼きを胸に抱えながら。
そして、ひとつだけ確信していた。
——この女を手放すつもりは、最初から一度もなかったのだ、と。
夜が、屋敷を静かに締めつけていた。
高い天井に吊るされた魔法灯はすでに落とされ、廊下には壁際の小さな燭台だけがかすかな光を落としている。
遠く、時計の針が静かに時を刻む音。
使用人たちの足音もとだえ、屋敷はゆっくりと「夜の顔」を見せはじめていた。
レギュラスは、自室の窓辺に立っていた。
カーテン越しに見える夜空は、雲ひとつなく澄んでいる。
上着は脱いでいるのに、喉元にはいつも通りきちんとネクタイが結ばれたままだった。
鏡の前に立つアランの姿が、何度も脳裏に浮かんでは消える。
アイヴォリーのドレス。
光を含んだ絹。
透けるレース越しに覗いたうなじ。
黒髪のまとめられたラインと、鏡の中でほんの少し怯えたように揺れた翡翠の瞳。
あれほど美しいドレス姿を見たせいか、今夜このまま、ひとりでこの寝台に横たわるという想像がやけに耐えがたく思えた。
寝室の中央には、十分すぎるほど大きなベッドがある。
ブラック家の当主としてふさわしい、質のいい寝具が惜しみなく使われた場所だ。
けれど今夜は、そこが妙に広く、寒々しく見えた。
本来なら、あのベッドに並ぶはずだった二人分の気配。
その一人は、今も屋敷のどこか、別の部屋でひとり眠る準備をしている。
そもそも論として——と、レギュラスは内心で思考を並べる。
妻としてこの屋敷に入り、家族として迎え入れられながら、寝室を別にする。
それは確かに、アランの希望だった。
彼女なりの境界線。
ブラック家との婚姻を受け入れつつも、自分の心だけは差し出さないための最後の防波堤。
だが、夫として考えれば、その「防波堤」は、礼節から大きく外れていると言ってもよかった。
夫婦が同じ屋根の下に暮らし、同じ食卓を囲みながら、夜だけは別々の場所で眠る。
貴族社会の常識からすれば、やや滑稽な話だ。
今日の彼女の姿を思えばなおさらだった。
ヴァルブルガと仕立て屋たちに囲まれ、ブラック家の色を纏った花嫁。
ドレスの裾に織り込まれた紋章は、彼女がこの家の一員であることを雄弁に物語っていた。
あれほどまでに「ブラック家の妻」に仕立て上げられた女が、その夜を夫の寝室ではなく、ひとり自室で過ごすという矛盾。
理屈を重ねれば重ねるほど、別々の寝室は滑稽でさえあるのに。
しかし——口に出すことはできない。
ここまで少しずつ縮めてきた距離を、ひとことで引きはがすほど愚かではなかった。
「寝室を共にしましょう」
そう告げれば、その瞬間、彼女の目には最初に出会った夜会と同じ「嫌悪」の色が浮かぶだろう。
あの夜、部屋を取れとバーテミウスに命じたときと同じ種の男として、再び見なされる。
それだけは、避けたかった。
だからレギュラスは、考え方を変えることにした。
命令ではなく、懇願として。
義務ではなく、「今夜だけ」の願いとして。
少なくとも、彼女が「拒む権利」を持っている形で伝えたかった。
それが、彼なりに譲れる一歩だった。
部屋を出るとき、レギュラスはネクタイを指で緩めた。
着崩すほどではないが、ほんの僅かにきつさを和らげる。
廊下は静まり返っている。
夜番の使用人たちが遠くで控えているだけで、この一角に人影はない。
柔らかな絨毯が足音を吸い込み、靴底の音はほとんど響かなかった。
アランの部屋の前まで来ると、扉の下から、かすかに灯の漏れるのが見えた。
まだ眠ってはいないのだろう。
レギュラスは、扉の前で一度だけ立ち止まった。
拳を握りかけては緩め、深く息を吸う。
命令口調は封じる。
軽口も、甘く飾り立てた誘い文句も使わない。
「今夜くらいは当然だ」といった権利の主張も、すべて飲み込む。
ただ、願いとして。
そう決めてから、ようやくノックをした。
コン、コン、と控えめな音。
少し間を置いて、扉の向こうから小さな衣擦れの音が聞こえる。
「……どなたでしょうか」
閉じた扉越しに、少しだけ警戒を含んだアランの声。
「僕です。」
その名乗りに、扉の向こうで動きが止まった気配がした。
戸惑いの沈黙。
やがて、ゆっくりと鍵の外れる音が続いた。
扉がわずかに開き、翡翠色の瞳が隙間から覗く。
「……レギュラス様」
髪はほどかれ、肩より下で柔らかく波打っている。
ドレスではなく、夜のためのシンプルなガウン。
白と淡い灰色が混ざった落ち着いた色調で、装飾も少ない。
それでも、先ほどのドレス姿を見たばかりの目には、これもまた新鮮な美しさとして映った。
「遅い時間にすみません。少し、よろしいですか」
レギュラスは、いつもの穏やかな声で言った。
アランは一瞬、迷うように視線をさまよわせた。
しかし、完全に拒む言葉を選ぶ前に、自分で扉を広げてしまう。
「……お入りください」
アランの部屋には、小さなランプがひとつ灯っていた。
机の上には、開きかけの本と、半分ほど書かれた手紙。
ベッドにはまだ誰も横になっておらず、きちんと整えられたシーツが静かに白さを主張している。
レギュラスは、扉が閉じられるのを待ってから、いつもの椅子に視線を向けた。
「座っても?」
「どうぞ」
アランもまた、椅子の背に掛けていたショールをそっと手に取り、胸元に掛ける。
ほんの少し距離を保とうとする無意識の動作。
レギュラスは、そのすべてを責めもせず、見逃しもしなかった。
椅子に腰を下ろし、膝の上で指を組む。
机に資料を広げるでもなく、茶を求めるでもなく、ただ彼女に向き合うためだけに座るのは、初めてに近かった。
「今夜は……資料も、仕事の話も持ってきていません」
先に断りを入れる。
アランが、わずかに首を傾げた。
「でしたら……何か、わたくしにご用件が?」
「はい」
短く返事をしてから、レギュラスは一拍置いた。
言葉を選ぶ時間。
命令ではなく、願いとして。
その線を越えないよう、慎重に。
「さきほどの、ドレス姿を見てしまったせいかもしれません」
口に出すと、想像以上に率直な響きになった。
アランの頬に、かすかな紅が広がる。
「……お恥ずかしい限りです。
まだ仕上げ前の仮縫いですし、落ち着きのない様子を見せてしまったように思います」
「いいえ。とても、綺麗でした」
レギュラスは、そこだけは迷わず言い切った。
「ブラック家の屋敷の中で、あれほどの姿を見ることができるとは思っていませんでした。
少し、浮かれているのかもしれません」
自嘲めかして笑う。
アランは、その笑みの意味を探るように視線を落とした。
レギュラスは、指先にほんの少しだけ力を込めた。
ここからが本題だ、と自分に言い聞かせる。
「アラン」
「……はい」
「今夜——」
喉に引っかかる言葉を、押し出すように紡ぐ。
「今夜だけで構いません。
僕と、一緒に夜を過ごしてくれませんか」
室内の空気が、ぴたりと止まった。
それは確かに「求める」言葉だった。
だが、「夫として当然だ」と主張する響きはどこにもない。
許可を求める側の言い方。
アランの瞳が、大きく見開かれる。
ショールを握る指先に、力がこもるのが見えた。
「……寝室を、別にと申し上げたのは、わたくしです」
静かな反論。
それは、ここまで守り続けてきた唯一の条件を、必死に思い出そうとする人の声だった。
「それは、レギュラス様も……ご理解くださっているものと」
「理解しています」
レギュラスは、遮らなかった。
彼女の言葉を最後まで聞いたうえで、静かに頷く。
「あなたの望みであり、いまのあなたを支えるために必要な“距離”だということも」
その言葉に、アランアラン肩の力が一瞬だけ抜けた。
理解されていないわけではないのだと、ようやく信じかけたところで——次の言葉が続く。
「だからこそ、命令という形ではなく、お願いとして聞いてほしいのです」
灰色の瞳が、真っ直ぐに彼女を捉える。
「今日は、僕がひとりでこの部屋に戻り、ただ眠るのが……どうしようもなく、嫌に感じました」
アランの胸が、かすかに上下する。
そんな正直な告白をされるとは思っていなかったのだろう。
「あなたのドレス姿を見てしまってから……
あれほどの花嫁を迎える屋敷の主が、その夜をひとりで過ごすのは、あまりにも間の抜けた話です」
少しだけ冗談めかして付け加える。
けれど、その奥には確かな寂しさが滲んでいた。
「それに——」
言葉を探すように、レギュラスは視線をほんの少しだけ落とした。
「僕は、あなたがブラック家に来てから、たくさんのものを差し出させてきた自覚があります」
実家。
ローランドとの未来。
セシール家としての、別の選択肢。
「寝室を別に、という条件すら、きちんと守れているかどうか、自信はありません」
部屋に通い、時間を奪い、心を揺らし続けていることを指しているのだと、アランにも分かった。
「それでも、今夜の願いだけは……“僕のわがまま”として受け取ってもらえないでしょうか」
命令ではなく、わがままとして。
アランは、息を詰めてレギュラスを見つめていた。
いくつもの感情が、一度に胸の中で渦を巻く。
あの夜会で、半ば強引に連れて行かれた部屋。
脱がされかけたときの、婚約を告げた自分の声。
そして、すべてが変わってしまった夜。
同じ男が、今はこうして「お願い」という形をとっている。
それをどう受け止めればいいのか、自分でも分からなかった。
沈黙が落ちる。
外の廊下から、時計の音だけが微かに届いている。
レギュラスは、その沈黙を焦らなかった。
急かせば、アランはそのまま殻に閉じこもる。
それが分かっているから、待つしかない。
しばらくして、アランはようやく口を開いた。
「……一緒に、夜を過ごすとは」
ことさら慎重に、言葉を選ぶ。
「具体的に、どういうことをお考えでいらっしゃるのですか」
それは、彼女なりの「防御線」の確認だった。
完全に拒む前に、どこまで許されるのかを知ろうとする問い。
レギュラスは、その問いを予期していたかのように、すぐに答えた。
「あなたが望まないことは、しません」
即答だった。
「ただ、同じ部屋で、同じ時間を過ごしたい。
あなたが眠るまで、そばにいてもいいかと聞いているつもりです」
それは、完全な真実ではなかった。
彼の中にある欲望は、そんなに綺麗な形で収まるものではない。
ドレス姿を思い出すたびに、ベッドの上の姿を想像してしまう程度には、彼もまた肉体を持つ男だった。
それでも、今ここでその全てを押し通そうとは思わなかった。
命令ではない、と自分で決めた以上、譲るべきものもある。
「もし、途中で嫌になれば、その時ははっきり言ってください。
あなたが拒めば、僕はすぐに部屋を出ます」
アランの瞳が、揺れた。
信じていいのか分からない揺れ方。
「……本当に?」
「ええ。約束しましょう」
レギュラスは、椅子から少し身を乗り出した。
「あなたが『嫌だ』と口にしたときは、すぐに引きます。
今夜、ここへ来たこの一歩を、無理やり二歩三歩に変えるような真似はしません」
それがどれほど彼自身の欲求と反するかを、口には出さなかった。
言えば言うほど、薄っぺらくなる自覚があったからだ。
アランは、ショールの端を強く握りしめたまま、視線を床に落とした。
——ローランドなら、どうするだろう。
そんな考えが、一瞬だけ頭を掠める。
彼はきっと、こんな夜に「一緒にいてほしい」と言うことすら、ためらったのではないか。
婚姻の形を壊してでも、自分を守ろうとしたかもしれない。
けれど現実には、隣にいるのはレギュラス・ブラックだ。
魔法省の役員であり、ブラック家の後継であり、自分をここへ連れてきた男。
彼のわがままを、どこまで受け入れるのか。
それを決めるのは、自分自身しかいない。
長い沈黙のあと、アランはようやく顔を上げた。
翡翠の瞳が、迷いを抱えたまま、レギュラスをまっすぐに見つめる。
「……今夜だけです」
掠れるような声だった。
「今夜だけ。
レギュラス様の“わがまま”として、受け取ります」
それは、完全な許しではなかった。
あくまで一夜限りの猶予。
明日になれば、また寝室は別々に戻されるかもしれない。
それでも、レギュラスにとっては十分だった。
胸の奥で、張り詰めていたものが音もなくほどけていく。
そのほどけていく感覚と同時に、この一言を引き出すまでに費やした時間と労力が、全て報われるような満足感が広がった。
「ありがとうございます、アラン」
レギュラスは立ち上がり、その場で深く頭を垂れた。
彼女が見たことのないほど丁寧な礼。
アランは、その姿に、むしろ戸惑いに近い感情を覚える。
命令ではなく、懇願として。
その線を守ろうとする男の不器用な努力が、そこには確かにあった。
この夜が、どのような形で終わるのか。
まだ誰にも分からない。
ただひとつだけ確かなのは——
レギュラス・ブラックは、長い廊下を戻ることを選ばなかったということ。
今夜だけは、自ら選んだ「孤独な寝室」から一歩踏み出し、
アランと同じ夜の空気を、同じ部屋で吸おうとしているということだった。
その夜、アランの部屋には、いつもと違う空気が流れていた。
寝台脇のランプには薄い布が掛けられ、灯りは柔らかく落とされている。
壁にかかる影はすべて輪郭を失い、室内には白でも黒でもない曖昧な陰がたゆたっていた。
ベッドの上には、きちんと伸ばされた白いシーツ。
枕は二つ並べられている。
ほんの少し前まで、片側はいつも整えられたまま朝を迎えていた。
今夜だけは、違う。
アランは、ナイトドレスの上からショールを羽織っていた。
淡い色の薄手の布を、そのまま肩に滑らせるのではなく、胸元のところで固く結んである。
結び目の位置が、やけに厳重だ。
手元を見るだけで、その意図は分かった。
胸元から布をかき分けようと思っても、簡単には隙間を作らせない。
縛り目は固く、指で引くだけでは緩みそうにない。
レギュラスは、その様子を見て小さく息を吐いた。
「……徹底していますね、相変わらず」
苦笑とも、自嘲ともつかない声だった。
アランは、目だけをレギュラスに向けた。
ショールの端を軽く押さえたまま、少し居心地悪そうにしている。
「レギュラス様がお約束くださったことを、わたくしなりに信じようとしてはおります。
ですが、それとこれとは話が別です」
「別、ですか」
「わたくしが、自分で守りたいと思う線は……わたくし自身が決めたいのです」
正面からぶつけられた言葉に、レギュラスは一瞬だけ目を細めた。
そのまま笑みだけを残して、肩をすくめる。
「徹底ぶりには敬服しますよ、アラン」
嫌味ではなく、本気でそう言っているようだった。
寝台の片側にアランが、反対側にレギュラスが立つ。
同じ場所に、ふたり分の影が重なっている光景が、まだどこか現実味を帯びない。
「……明かりを、少し落としてもよろしいですか」
アランの問いかけに、レギュラスは頷いた。
「ええ。あなたの好きなように」
アランがランプの火を小さく絞る。
部屋の明度がさらに落ち、輪郭はぼやけ、代わりに気配だけが濃くなった。
アランは、そっとベッドに腰を下ろした。
ナイトドレスの裾を整え、布団を持ち上げ、きちんと内側に身を滑り込ませる。
動作のひとつひとつに緊張が滲んでいた。
レギュラスは、その様子を見届けてから、自分も反対側から身体を横たえた。
シーツがかすかに鳴る。
ふたりの体温が、布越しに同じ寝台へ流れ込んでくる。
ほんの数十センチの距離。
肩と肩が触れるには足りない、しかし手を伸ばせば容易に届いてしまう近さ。
静寂が降りる。
「……おやすみなさい、レギュラス様」
アランが先に口を開いた。
その声は、思ったよりも普通だった。
震えすぎてもおらず、無理に明るさを繕おうとしてもいない。
レギュラスは、目を閉じるでも開けたままでもいられず、視線を天井に向けた。
「おやすみなさい、アラン」
約束どおり――何もしない。
そう告げたのは自分だ。
それでも、現実にこの距離で横になってみると、驚くほど不自然な状態だった。
同じベッドに、男女が並んで横たわっている。
夫婦としてこの屋敷にいるはずなのに、ショールの結び目ひとつを境に、境界線が引かれている。
その滑稽さと痛々しさの両方が、レギュラスの胸の内側で絡まり合った。
横になって数分も経たないうちに、アランの呼吸が少し早くなっているのが伝わってきた。
眠気のせいではない。
意識して抑え込もうとして、かえって浅くなっている。
ナイトドレスの布が、胸元でわずかに上下する。
ショールの結び目が、そのたびに微かに揺れた。
彼女は、ひたすら目を閉じていた。
視線をどこにも向けず、まるで自分の存在を薄めようとしているかのように、布団の中で小さくなろうとしている。
レギュラスは、その様子を横目で見つめながら、心のどこかで苦笑していた。
——本当に、寝ようとしている。
驚きにも似た感情が、遅れて浮かぶ。
確かに「何もしない」と口にしたのは自分だ。
今夜の願いを「わがまま」として受け取ってほしい、と懇願したのも自分だ。
それでもどこかで、アランの方も、もう少し構えるものだと思っていた。
緊張からくる拒絶、言葉での牽制、せめてひとつふたつは何かが起きるだろうと。
だが現実は、予想よりもずっと静かだ。
彼女は本当に、ただ眠るつもりでいる。
本気にしているのか、と問いかけたくなる自分に、レギュラスは内心で呆れた。
——本気にしろと言ったのは、他でもな自分だろう。
しばらくのあいだ、ふたりは互いに背を向けず、同じ方向を向いたまま黙っていた。
外の風が窓をかすかに鳴らし、遠くの時計が時間を告げる。
アランの睫毛は、微かに震えている。
目を閉じているのに、眠気からくる揺れ方ではない。
レギュラスは、胸の中でひとつだけため息を飲み込んだ。
「……アラン」
抑えめの声で名前を呼ぶ。
「はい」
返事は即座に返ってきた。
眠っていないことが、あまりにも分かりやすい。
「そんなに、固くならなくても大丈夫ですよ」
「固く、なっているでしょうか」
「ええ。布団ごと石になってしまいそうなくらいには」
思わず口から出た軽口に、アランの肩が小さく揺れた。
自分でも可笑しかったのか、息がひとつだけ小さく漏れる。
「……どう、すればよいのか分からないのです」
ぽつりと漏れた言葉には、正直さが滲んでいた。
「こうして同じベッドに入ること自体、初めてに近いですから。
レギュラス様と、という意味ではなく……その……」
ローランドと過ごした夜の記憶が、ふと胸をかすめる。
それをそのまま言葉にすることはできず、アランはそこで口を噤んだ。
レギュラスは、短く息を吸った。
「どうすればよいか、ですか」
「はい」
「簡単ですよ」
彼は、ゆっくりと身体を横向きにし、アランの方へ向き直った。
床がきしむほどの動きではない。
シーツが静かに擦れただけだ。
「眠れないときは、誰だって少しだけ誰かを必要とするものです」
言いながら、そっと腕を伸ばした。
ショールの結び目には触れない。
その一段手前、肩口のあたりに指先をかける。
力を込めすぎないように、肩を抱き寄せた。
驚いたように、アランの身体がわずかに強張る。
しかし、抵抗する手は伸びてこない。
胸と背中のあいだに、布と空気が一枚挟まる。
それでも、互いの体温はさほど遠くなかった。
レギュラスは、腕の中の感触を確かめるように一度だけ息を吐き、そこから先を動かさなかった。
口付けひとつもない。
額に唇を寄せることもせず、指先で肌をなぞることもない。
本当にただ、肩を抱き寄せただけだった。
こんな展開を、誰が理解できるだろう。
同じ寝台で、寄り添うような体勢を取っていながら、それ以上の何も起こらない夜が存在すると、誰が想像できるだろうか。
アランにも、レギュラスにも、理解できているとは言い難かった。
アランは、抱かれた肩の感触を手探りするように、自分の内側を探っていた。
肩を包む掌は、大きいが、力は強くない。
締めつけるでもなく、離すでもなく、ただそこにある。
呼吸のたびに、背中越しに伝わる胸の上下。
近すぎて、どこからが自分の鼓動で、どこからが相手のものなのか、判別がつかなくなる。
恐怖にも似た緊張は、たしかにある。
その一方で、不思議な静けさもあった。
——本当に、これ以上は何もしないのだろうか。
疑いにも似た思いが胸をよぎる。
だが、時間が過ぎても、レギュラスの手は動かなかった。
胸元のショールの結び目には、誰の指も触れない。
眠りへ誘い込もうとするような甘い言葉もなく、ただ、「今、ここにいる」ということを確認させるような温度だけがある。
その温度に、アランのまぶたが少しだけ重くなった。
こんなふうに誰かに寄り添われた夜が、今まであっただろうかと考える。
欲望の前置きでもなく、慰めに偽装された執着でもなく、ただ「一緒にいる」ということだけを差し出された時間。
ローランドと過ごした静かな夜とは違う種類の静けさ。
レギュラスの腕の中のそれは、どこか不器用で、どこか危うかった。
彼が本当は何を求めているのか知っているからこそ、その不自然な「何もしなさ」が、かえって胸に残る。
——どうして、何もしないのだろう。
問いは、喉まで上ってきたが、声にはならなかった。
聞いてしまえば壊れてしまう均衡があると、本能が知っている。
やがて、アランの呼吸は、今度こそゆっくりとしたリズムを刻みはじめた。
まどろみと意識のあいだを揺れる時間。
眠りに落ちてしまうのが惜しいような、けれど抗いきれない感覚。
耳元で、レギュラスの心音が淡く響いていた。
一定の速さ。
それほど乱れているわけではない。
彼の方もまた、自分を抑え込んでいるのだと、朧げな意識の中で理解した。
レギュラスは、腕の中の体温が少しずつ重くなっていくのを感じていた。
最初は張り詰めていた肩の筋肉が、徐々に力を抜きはじめる。
胸元の布の上下も、さっきまでのような不規則さを失い、深く、静かな波になっていく。
ようやく眠りかけているのだと気づいたとき、胸の奥に不思議な感覚が生まれた。
欲望が消えたわけではない。
ドレス姿を思い返せば、今でも身体のどこかが疼く。
それでも、今この瞬間、腕の中の女が安心して眠りに落ちかけていることの方が、何倍も尊く思えた。
ここで衝動に任せて口付けを落とすことはできる。
眠りかけの意識を揺さぶれば、ショールの結び目など簡単に解けるだろう。
言葉ひとつ、手の角度ひとつで、この夜を別の色に染めることは難しくない。
そういう技を、彼は嫌というほど身につけている。
けれど、そうして得られる勝利は、どこか薄っぺらい。
この夜だけは、それをしたくなかった。
アランが、つい先ほどまでぎゅっと握りしめていた防御の結び目。
それを力ずくでほどくのではなく、自分から少しずつ手を離し、いつの日か自分の意思でショールを解くようになる姿を見たい。
その欲の方が、強かった。
レギュラスは、ほんの僅かに腕の力を緩める。
逃がすのではなく、眠りを妨げない程度に。
「おやすみなさい、アラン」
もう一度だけ、ほとんど聞き取れないくらいの小さな声でそう言った。
返事はなかった。
代わりに、アランの呼吸が、さらに深くなる。
彼女は、本当に眠ろうとしている。
いや――すでに半分は、眠りに落ちているのかもしれない。
同じベッドで、同じ布団の中で、肩を抱き寄せたまま、何も起こらない夜。
こんな展開を、他の誰かに説明したところで、誰が理解するだろうか。
かつての自分にさえ、信じられない話だ。
それでも、レギュラス・ブラックは、その奇妙な夜の形を、どこか気に入っていた。
この夜を境に何かが変わるのか、それとも何も変わらないのか。
答えはまだ分からない。
ただ、ひとつだけ確かなのは——
彼は、自分のわがままを、思っていた以上に慎重に扱おうとしている、ということだった。
夜が、ゆっくりと更けていく。
眠りに落ちた女と、その肩を抱いたまま目を閉じられずにいる男を包み込むように。
翌朝の魔法省は、いつも通り冷静で忙しなかった。
執務階の廊下には、書類の束を抱えた役人たちが行き交い、ペンの走る音やフクロウ便の羽音が、規則正しく積み重なっていく。
そのなか、レギュラスの執務室だけが、ほんのわずかに空気の色を変えていた。
机の上には、いつも通り整然と並べられた書類。
報告書、請願書、承認印が必要な契約文書。
それらに目を通しながらも、レギュラスの表情にはどこか浮ついた影が見える。
口元の笑みが、いつものような冷静なものより、わずかに柔らかい。
――昨夜のことを、思い返している。
アランの部屋で過ごした、不可思議な夜。
同じベッドに入り、肩を抱き寄せておきながら、口付けひとつ交わさなかったという、前代未聞の「清い夜」。
自分で思い出しても、どこかむず痒く、説明のしようがない。
そこへ、ノックもそこそこに扉が開いた。
「失礼します、レギュラス」
書類の束を片腕に抱えたバーテミウス・クラウチ・ジュニアが入ってくる。
いつもの無駄のない足取り。
灰色に近い淡い瞳が、室内を一度だけすばやく見渡し、すぐに主の元へ向いた。
「例の件に関する報告書がまとまりました。署名をいただく必要のあるものは、こちらに」
淡々とした口調で机の上に書類を並べていく。
手際は見事で、各書類の位置も、レギュラスが読みやすいように寸分違わず整えられている。
レギュラスはペンを手に取り、数枚に目を通してからふと顔を上げた。
「手早いですね。助かります」
「仕事ですから」
それから、バーテミウスは一拍置いて、じっとレギュラスの顔を見た。
「……で?」
「……何がです?」
「何が、ではありませんよ」
バーテミウスは、書類を整えていた手を止めた。
書類の束を軽く指で叩きながら、静かに口角を上げる。
「その、妙に機嫌のいい顔は何でしょう。
いつもなら、朝一番でこの量の報告書を見せられた時点で、もっとこう……気配が冷えるはずなんですが」
「僕がいつもどれだけ感じ悪く仕事しているみたいな言い方ですね」
「事実を申し上げているだけです」
さらりと言い捨ててから、バーテミウスはわざとらしくため息をついた。
「で。昨晩、アラン嬢の部屋に行かれたんですよね?」
レギュラスの手が、わずかに止まる。
ペン先が紙の上で一瞬滑り、インクが小さく滲んだ。
「……誰から聞きました?」
「誰からも聞いていませんよ。
あなたの顔を見れば、だいたいのことは分かります」
そう言って、バーテミウスは机の端に腰を軽く預けた。
報告の姿勢というより、長年の悪友に茶化しを入れるときの態度だ。
「さて。昨夜はさぞ“素晴らしい夜”をお過ごしかと思っていたんですが」
「言い方に悪意がありますね、あなたは」
「善意で言えという方が無茶です」
にこりともせず言い切ってから、バーテミウスは身を乗り出した。
「で、どうだったんです?」
レギュラスは、数秒黙り込んだ。
書類に視線を落としたまま、返答を探すようにペン先を軽く回す。
そして、観念したように短く答えた。
「……何もしていませんよ」
「はい?」
「だから、何もしていません」
バーテミウスの瞳が、瞬きを忘れたようにレギュラスを凝視した。
次の瞬間、堪えきれなくなったように息を吐き出す。
「……ちょっとお待ちください」
手の甲で口元を押さえ、それでも笑いが漏れる。
肩がくつくつと揺れた。
「今、“何もしていない”と仰いました?」
「ええ。言いました」
「同じベッドに入っておきながら?」
「入っていましたね」
「肩を抱き寄せた、と仰っていたところまでは、まだ理解できたんですが」
「そこから先は、何も」
淡々と繰り返したところで、バーテミウスはとうとう耐え切れなくなったらしい。
机から半歩身を引き、俯いた肩を震わせながら声を押し殺す。
「……いくつなんです、あなたたち」
こらえきれなかった笑いが、ついに言葉になった。
「本当に。
同じ寝台で横になって、肩を抱いて、それで終わり? それで“おやすみなさい”?」
「本当ですよ。まったく」
レギュラスは、書類をひとつ脇へ寄せながら、やれやれとでも言いたげに肩をすくめた。
「僕としても、何度か自分の正気を疑いました」
「疑うべきですね、それは」
バーテミウスは、ようやく顔を上げた。
瞳の端に、かすかな笑いの名残が光る。
「レギュラス。あなたですよ?
夜会で見初めた令嬢は、その日のうちに部屋を取って落とすのが、いつもの流れだったあなたが」
「過去の話をそんなに整然と列挙しないでください」
「そのあなたが、正式な婚約者と同じベッド。
しかも“今夜はあなたのわがままとして受け取ります”なんて綺麗な言葉まで貰っておきながら」
「どこまで聞いていたんですか、あなたは」
「そこから先、“何もしませんでした”と胸を張るのは、もはや清らかを通り越して滑稽ですよ」
バーテミウスは、心底おかしそうに笑った。
「いや、いいんですよ? 健全で。
実に健全で、道徳的で、模範的で。
魔法省役員の鑑のようなお振る舞いです」
「どう聞いても馬鹿にしているとしか受け取れませんね」
「気のせいではありません」
レギュラスは、ペン先で机を軽く叩いた。
それでも、反論らしい反論はしなかった。
昨夜の光景は、彼の中でもうまく言語化できないまま、静かな余韻だけを残している。
アランの肩の重さ。
眠りに落ちる前の、かすかな震え。
ショールを固く結んだ結び目。
それらが、口付けや熱に変わることなく、そのまま「何もしない夜」を形作ってしまった。
「……まあ」
バーテミウスは、ひとしきり笑ってから、ようやく真面目な顔つきに戻った。
「それだけ手加減できるようになったというのは、悪い話ではないですが」
「手加減、という表現は好きではありませんね」
レギュラスは、書類をひとつ手繰り寄せた。
印章を押す位置を確認しながら、淡々と続ける。
「僕が昨夜したのは、手加減というより……少しだけ“先を見た”だけです」
「ほう」
「力ずくで結び目を解いて得られるものより、自分から手を伸ばしてほどいてくれる未来の方が、価値がある」
言いながら、自分で自分に苦笑したくなる。
「そう思わせるくらいには、アラン・セシールという女に、僕は本気で参っているのだと思います」
バーテミウスは、その告白に目を細めた。
先ほどまでの茶化し方とは少し違う、観察者の目だ。
「……それはそれは」
軽く肩を竦める。
「レギュラスが“先を見て待つ”なんて。
ほんの数年前のあなたに聞かせてやりたい話ですね」
「聞かせないでください。鬱陶しいので」
「ただ」
バーテミウスは、机に指をトントンと当てた。
「そうやって距離を詰めることに成功すればするほど、あなたの足元も、だんだん逃げ場がなくなっていきますよ」
「今さらですね」
レギュラスは、印章をひとつ落とした。
赤い蝋とインクが、契約書の端を彩る。
「もうとっくに、逃げるつもりはありませんから」
その口ぶりは、あまりにもあっさりしていた。
夜会でアランを見初めたときと同じくらい、迷いのない声。
バーテミウスは、ふっと息を吐いた。
それから、口元にまた小さな笑みを浮かべる。
「でしたら今後も、清く正しい新婚生活のご報告を、楽しみにしています」
「“正しい”かどうかはともかく、“清い”時間はそう長く続かないと思いますけどね」
「そのときはまた、詳細なご報告を」
「誰があなたなんかに話しますか」
口ではそう言いながら、昨夜の出来事を真っ先に話しているあたり、レギュラスも自分の矛盾には気づいている。
バーテミウスは、書類の束を揃え直しながら立ち上がった。
「とりあえず、今朝のあなたの機嫌がいい理由は把握しました。
仕事に支障がない程度には、今後も適度に“何もしない夜”を挟んでください」
「どんな助言ですか、それは」
「魔法省全体の生産性のためですよ」
そんな軽口を残し、バーテミウスは扉へ向かった。
去り際、振り返らずに一言だけ付け加える。
「……いくつなんです、本当に。あなたたち」
「本当ですよ。まったく」
レギュラスは、苦笑しながら額に手を当てた。
同じベッドに入って肩を抱き寄せるだけで終わる夜。
他人に話せば笑われるような展開を、本気で守り抜いた自分自身が、誰よりも一番、信じられなかった。
それでも――ふと、思う。
あの夜、何もしなかったという事実そのものが、
アランとの間に、これから先積み上げていくものの土台になるのだとすれば。
笑われても、悪くない夜だったと、そう言える気がしていた。
人の気配が多い。
軽やかな布擦れの音と、どこか浮き立った女たちの声。
普段なら静謐な廊下に、そのざわめきが白い糸のように伸びていた。
「奥様、こちらでございます」
執事に呼び止められ、レギュラスは頷く。
案内されたのは、一階の一室——ふだんは応接に使われる広間だったはずの場所だ。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
そこはもはや応接室ではなく、小さな仕立て屋の工房と化していた。
窓際には布地の束が山のように積まれ、白や生成り、淡い青に、黒に近い深い緑。
机の上にはリボンやレース、パールのボタン、銀糸の刺繍見本が整然と並べられている。
数人の仕立て屋たちが、針と糸を持って立ち働き、ピンを摘まんだ指先が忙しく動いていた。
そして、その中心に——アランがいた。
彼女は、鏡の前に立っていた。
上半身は柔らかな絹のコルセットに包まれ、その上から薄いレースがさらりと重ねられている。
肩は繊細なレースの上に小さく袖が乗り、鎖骨にかけて透ける布が彼女の肌の白さを際立たせていた。
スカートは、足元に向かって静かに広がっている。
純白ではなく、かすかに温度を帯びたアイヴォリー。
光を受けるたびに、ごく淡い金の影が布の皺を流れていく。
裾には、ブラック家の紋章をさりげなく織り込んだ唐草模様の刺繍が施されていた。
派手さはないが、細部に宿る威厳と品格が、ドレスそのものをこの家のものとして主張している。
黒髪は、仮のまとめ髪に結われていた。
いつものようにすべてを下ろしているのではなく、後頭部で柔らかく束ねられ、一部が緩やかな波を描いて背に落ちている。
まだ装飾は差されていないのに、その姿だけで、十分にひとつの絵になっていた。
鏡の中には、三人のアランがいる。
正面からこちらを見るアランと、横からラインを確認するアランと、少し俯いて裾を見つめるアラン。
どの角度を切り取っても、美しかった。
レギュラスは、一歩だけ足を踏み入れたところで、その場に根を下ろしたように動けなくなった。
自分は、こんなものを手に入れたのか——
その実感が、遅れて胸に押し寄せる。
魔法省でどれだけ権力を握ろうと、どれほどの取引を成功させようと、この光景に匹敵する価値のあるものが他にあるのかと、思わずにはいられなかった。
「まあ、レギュラス」
少し離れた場所に控えていたヴァルブルガが、息子に気づいて声をかけた。
彼女は黒いローブの上から、美しいダマスク織のオーバードレスを羽織り、腕を組んでいる。
表情は厳しく整っていたが、その目には誇らしさが隠しきれなかった。
「ちょうどよろしいところでした。
この仕立てを決める前に、あなたの目も通しておきたいと思っていたのです」
レギュラスは、かろうじて唇を動かす。
「そうでしたか……失礼しました、母上。
僕は騒がしさを聞きつけて、少し覗きに来ただけなのですが」
視線は、自然とアランに引き寄せられていた。
彼女は、ヴァルブルガの言葉に従うように、鏡越しにこちらを振り向いた。
翡翠の瞳が、光の反射を受けていっそう鮮やかに映える。
絹の光沢と、レースの透け感と、黒髪の深さ。
そのすべてが、彼女の存在のためだけに用意されたかのようだった。
レギュラスは、息をすることさえ忘れかけた。
「……」
仕立て屋の一人が、気を利かせてそっと後ろに下がる。
ピンを持ったまま、一歩、二歩と距離を取り、主と花嫁になる女のあいだに、わずかな空間を作る。
アランは、鏡の中の自分をもう一度確かめるように見つめていた。
表情は固い。
華やかなドレスを纏っているにもかかわらず、その瞳の奥には、まだどこか遠くを見ているような影があった。
それでも——美しかった。
感情の揺れさえも、ドレスの静かな優雅さと混ざり合って、一層複雑な魅力になっている。
レギュラスは、ようやく言葉を絞り出した。
「……美しすぎて、言葉が出ませんね」
心からの、率直な一言だった。
飾り立てた賛辞ではなく、事実をそのまま口にしただけだ。
部屋の空気が、ふと静まり返る。
仕立て屋たちの手が止まり、何人かがこっそりと視線を交わした。
アランの肩が、わずかに強張る。
うつむきかけた顔を持ち上げ、ヴァルブルガの方へ視線を向けた。
「……ヴァルブルガ様が、選んでくださったおかげです」
丁寧に言葉を選ぶ。
レギュラスからの称賛を、正面から受け止めることを避けるかのように。
「わたくしにとっては、過分なほどのドレスでございます。
すべて、ヴァルブルガ様のご判断と、仕立て屋の方々の腕のおかげで」
ヴァルブルガは、その答えに満足げに目を細めた。
「謙遜が過ぎるわ、アラン。
どれほど布や技を揃えても、それを着こなせなければ意味がないのよ」
言いながら、アランの背後に回り、腰のあたりのラインを少しだけ直す。
その手つきは厳しいが、その指先にはどこか慈しみがあった。
「このドレスが映えるのは、あなたが立っているからこそ。
ブラック家の嫁にふさわしい姿になってきたわ」
レギュラスは、その会話を聞きながら、内心で息を整える。
——僕は、こんな光景を求めていたのだろうか。
セシール家に申し入れをし、ありとあらゆる条件を積み重ね、ローランドを盤外へ押し出し、アランをこの屋敷へ連れてきた。
政治的にも、研究の面でも、すべては理にかなった選択だった。
その結果として目の前にあるのは——
ブラック家の色を纏った、翡翠の瞳の花嫁の姿。
歓喜は確かにあった。
喉元までせり上がるような陶酔。
自分がこの世界のなかで、何を手に入れたのかを知らしめる象徴として、これ以上のものはない。
だが同時に、鏡に映るアランのわずかな強張りも、彼は見逃さなかった。
レギュラスは、少しだけ歩み寄った。
ドレスの裾を踏まぬよう、注意深く距離を保ちながら。
「母上の選択は、いつもながら見事です」
先にヴァルブルガを立てる。
自分の喜びを、家の誇りにすり替えるように。
「このドレスを纏ったアランを見て……ブラックの名を負うことの意味を、改めて実感しました」
ヴァルブルガの口元が、誇らしげに持ち上がる。
「ようやくそれが分かるようになったなら、あなたも当主になる準備が整ってきたのでしょうね」
母の言葉に、レギュラスは軽く頭を垂れた。
アランは、鏡越しにレギュラスを一瞬だけ見た。
その視線は、どこか探るようであり、どこか諦めを含んでもいた。
「……ありがとうございます」
それが、誰に向けた言葉なのか、自分でも判然としないまま、アランは静かに礼を述べる。
「ブラック家の名に、恥じぬように努めます」
その言葉は、誓いというより、義務を受け入れる宣言に近かった。
だが、レギュラスにとっては、それでも十分だった。
彼女が「努める」と言った。
この家にふさわしい妻であろうとする意思を、口にした。
それだけで、胸の奥の歓喜はさらに強まる。
「……アラン」
名を呼ぶ。
鏡の中で、翡翠の瞳が再びこちらを向く。
「このドレスを選んでくれて、ありがとうございます」
彼女が本心から選んだのかどうかは、もはや問題ではなかった。
ブラック家の花嫁として、この衣を纏うことを受け入れたという事実だけが、レギュラスには重要だった。
アランは、わずかにまぶたを伏せた。
「わたくしは、ただ……ヴァルブルガ様のご意向に従っただけです」
「それでも」
レギュラスは、穏やかに続ける。
「この姿を見せてくれたのは、あなたです」
アランの喉元が、かすかに上下する。
何かを飲み込むような動き。
部屋の隅で、仕立て屋たちがひそやかに囁き合う気配があった。
「お似合いですわ」「なんて美しい」「まさにブラック家の奥方にふさわしい」と。
その声を、レギュラスは心地よい雑音として受け止めていた。
——羨望も、称賛も、すべてこの女と共に浴びることができる。
その事実が、彼の自尊心を満たしていく。
鏡の前で、アランは静かに立っていた。
アイヴォリーのドレスに包まれた身体。
背筋はまっすぐで、目元にはまだ緊張が残っている。
それでも、彼女はもう、セシール家の娘だけではなかった。
ブラック家の色を纏い、ブラック家の者たちの視線を受ける存在になりつつある。
レギュラスは、その移ろいの瞬間を、確かに目撃していた。
歓喜と、わずかな疼きを胸に抱えながら。
そして、ひとつだけ確信していた。
——この女を手放すつもりは、最初から一度もなかったのだ、と。
夜が、屋敷を静かに締めつけていた。
高い天井に吊るされた魔法灯はすでに落とされ、廊下には壁際の小さな燭台だけがかすかな光を落としている。
遠く、時計の針が静かに時を刻む音。
使用人たちの足音もとだえ、屋敷はゆっくりと「夜の顔」を見せはじめていた。
レギュラスは、自室の窓辺に立っていた。
カーテン越しに見える夜空は、雲ひとつなく澄んでいる。
上着は脱いでいるのに、喉元にはいつも通りきちんとネクタイが結ばれたままだった。
鏡の前に立つアランの姿が、何度も脳裏に浮かんでは消える。
アイヴォリーのドレス。
光を含んだ絹。
透けるレース越しに覗いたうなじ。
黒髪のまとめられたラインと、鏡の中でほんの少し怯えたように揺れた翡翠の瞳。
あれほど美しいドレス姿を見たせいか、今夜このまま、ひとりでこの寝台に横たわるという想像がやけに耐えがたく思えた。
寝室の中央には、十分すぎるほど大きなベッドがある。
ブラック家の当主としてふさわしい、質のいい寝具が惜しみなく使われた場所だ。
けれど今夜は、そこが妙に広く、寒々しく見えた。
本来なら、あのベッドに並ぶはずだった二人分の気配。
その一人は、今も屋敷のどこか、別の部屋でひとり眠る準備をしている。
そもそも論として——と、レギュラスは内心で思考を並べる。
妻としてこの屋敷に入り、家族として迎え入れられながら、寝室を別にする。
それは確かに、アランの希望だった。
彼女なりの境界線。
ブラック家との婚姻を受け入れつつも、自分の心だけは差し出さないための最後の防波堤。
だが、夫として考えれば、その「防波堤」は、礼節から大きく外れていると言ってもよかった。
夫婦が同じ屋根の下に暮らし、同じ食卓を囲みながら、夜だけは別々の場所で眠る。
貴族社会の常識からすれば、やや滑稽な話だ。
今日の彼女の姿を思えばなおさらだった。
ヴァルブルガと仕立て屋たちに囲まれ、ブラック家の色を纏った花嫁。
ドレスの裾に織り込まれた紋章は、彼女がこの家の一員であることを雄弁に物語っていた。
あれほどまでに「ブラック家の妻」に仕立て上げられた女が、その夜を夫の寝室ではなく、ひとり自室で過ごすという矛盾。
理屈を重ねれば重ねるほど、別々の寝室は滑稽でさえあるのに。
しかし——口に出すことはできない。
ここまで少しずつ縮めてきた距離を、ひとことで引きはがすほど愚かではなかった。
「寝室を共にしましょう」
そう告げれば、その瞬間、彼女の目には最初に出会った夜会と同じ「嫌悪」の色が浮かぶだろう。
あの夜、部屋を取れとバーテミウスに命じたときと同じ種の男として、再び見なされる。
それだけは、避けたかった。
だからレギュラスは、考え方を変えることにした。
命令ではなく、懇願として。
義務ではなく、「今夜だけ」の願いとして。
少なくとも、彼女が「拒む権利」を持っている形で伝えたかった。
それが、彼なりに譲れる一歩だった。
部屋を出るとき、レギュラスはネクタイを指で緩めた。
着崩すほどではないが、ほんの僅かにきつさを和らげる。
廊下は静まり返っている。
夜番の使用人たちが遠くで控えているだけで、この一角に人影はない。
柔らかな絨毯が足音を吸い込み、靴底の音はほとんど響かなかった。
アランの部屋の前まで来ると、扉の下から、かすかに灯の漏れるのが見えた。
まだ眠ってはいないのだろう。
レギュラスは、扉の前で一度だけ立ち止まった。
拳を握りかけては緩め、深く息を吸う。
命令口調は封じる。
軽口も、甘く飾り立てた誘い文句も使わない。
「今夜くらいは当然だ」といった権利の主張も、すべて飲み込む。
ただ、願いとして。
そう決めてから、ようやくノックをした。
コン、コン、と控えめな音。
少し間を置いて、扉の向こうから小さな衣擦れの音が聞こえる。
「……どなたでしょうか」
閉じた扉越しに、少しだけ警戒を含んだアランの声。
「僕です。」
その名乗りに、扉の向こうで動きが止まった気配がした。
戸惑いの沈黙。
やがて、ゆっくりと鍵の外れる音が続いた。
扉がわずかに開き、翡翠色の瞳が隙間から覗く。
「……レギュラス様」
髪はほどかれ、肩より下で柔らかく波打っている。
ドレスではなく、夜のためのシンプルなガウン。
白と淡い灰色が混ざった落ち着いた色調で、装飾も少ない。
それでも、先ほどのドレス姿を見たばかりの目には、これもまた新鮮な美しさとして映った。
「遅い時間にすみません。少し、よろしいですか」
レギュラスは、いつもの穏やかな声で言った。
アランは一瞬、迷うように視線をさまよわせた。
しかし、完全に拒む言葉を選ぶ前に、自分で扉を広げてしまう。
「……お入りください」
アランの部屋には、小さなランプがひとつ灯っていた。
机の上には、開きかけの本と、半分ほど書かれた手紙。
ベッドにはまだ誰も横になっておらず、きちんと整えられたシーツが静かに白さを主張している。
レギュラスは、扉が閉じられるのを待ってから、いつもの椅子に視線を向けた。
「座っても?」
「どうぞ」
アランもまた、椅子の背に掛けていたショールをそっと手に取り、胸元に掛ける。
ほんの少し距離を保とうとする無意識の動作。
レギュラスは、そのすべてを責めもせず、見逃しもしなかった。
椅子に腰を下ろし、膝の上で指を組む。
机に資料を広げるでもなく、茶を求めるでもなく、ただ彼女に向き合うためだけに座るのは、初めてに近かった。
「今夜は……資料も、仕事の話も持ってきていません」
先に断りを入れる。
アランが、わずかに首を傾げた。
「でしたら……何か、わたくしにご用件が?」
「はい」
短く返事をしてから、レギュラスは一拍置いた。
言葉を選ぶ時間。
命令ではなく、願いとして。
その線を越えないよう、慎重に。
「さきほどの、ドレス姿を見てしまったせいかもしれません」
口に出すと、想像以上に率直な響きになった。
アランの頬に、かすかな紅が広がる。
「……お恥ずかしい限りです。
まだ仕上げ前の仮縫いですし、落ち着きのない様子を見せてしまったように思います」
「いいえ。とても、綺麗でした」
レギュラスは、そこだけは迷わず言い切った。
「ブラック家の屋敷の中で、あれほどの姿を見ることができるとは思っていませんでした。
少し、浮かれているのかもしれません」
自嘲めかして笑う。
アランは、その笑みの意味を探るように視線を落とした。
レギュラスは、指先にほんの少しだけ力を込めた。
ここからが本題だ、と自分に言い聞かせる。
「アラン」
「……はい」
「今夜——」
喉に引っかかる言葉を、押し出すように紡ぐ。
「今夜だけで構いません。
僕と、一緒に夜を過ごしてくれませんか」
室内の空気が、ぴたりと止まった。
それは確かに「求める」言葉だった。
だが、「夫として当然だ」と主張する響きはどこにもない。
許可を求める側の言い方。
アランの瞳が、大きく見開かれる。
ショールを握る指先に、力がこもるのが見えた。
「……寝室を、別にと申し上げたのは、わたくしです」
静かな反論。
それは、ここまで守り続けてきた唯一の条件を、必死に思い出そうとする人の声だった。
「それは、レギュラス様も……ご理解くださっているものと」
「理解しています」
レギュラスは、遮らなかった。
彼女の言葉を最後まで聞いたうえで、静かに頷く。
「あなたの望みであり、いまのあなたを支えるために必要な“距離”だということも」
その言葉に、アランアラン肩の力が一瞬だけ抜けた。
理解されていないわけではないのだと、ようやく信じかけたところで——次の言葉が続く。
「だからこそ、命令という形ではなく、お願いとして聞いてほしいのです」
灰色の瞳が、真っ直ぐに彼女を捉える。
「今日は、僕がひとりでこの部屋に戻り、ただ眠るのが……どうしようもなく、嫌に感じました」
アランの胸が、かすかに上下する。
そんな正直な告白をされるとは思っていなかったのだろう。
「あなたのドレス姿を見てしまってから……
あれほどの花嫁を迎える屋敷の主が、その夜をひとりで過ごすのは、あまりにも間の抜けた話です」
少しだけ冗談めかして付け加える。
けれど、その奥には確かな寂しさが滲んでいた。
「それに——」
言葉を探すように、レギュラスは視線をほんの少しだけ落とした。
「僕は、あなたがブラック家に来てから、たくさんのものを差し出させてきた自覚があります」
実家。
ローランドとの未来。
セシール家としての、別の選択肢。
「寝室を別に、という条件すら、きちんと守れているかどうか、自信はありません」
部屋に通い、時間を奪い、心を揺らし続けていることを指しているのだと、アランにも分かった。
「それでも、今夜の願いだけは……“僕のわがまま”として受け取ってもらえないでしょうか」
命令ではなく、わがままとして。
アランは、息を詰めてレギュラスを見つめていた。
いくつもの感情が、一度に胸の中で渦を巻く。
あの夜会で、半ば強引に連れて行かれた部屋。
脱がされかけたときの、婚約を告げた自分の声。
そして、すべてが変わってしまった夜。
同じ男が、今はこうして「お願い」という形をとっている。
それをどう受け止めればいいのか、自分でも分からなかった。
沈黙が落ちる。
外の廊下から、時計の音だけが微かに届いている。
レギュラスは、その沈黙を焦らなかった。
急かせば、アランはそのまま殻に閉じこもる。
それが分かっているから、待つしかない。
しばらくして、アランはようやく口を開いた。
「……一緒に、夜を過ごすとは」
ことさら慎重に、言葉を選ぶ。
「具体的に、どういうことをお考えでいらっしゃるのですか」
それは、彼女なりの「防御線」の確認だった。
完全に拒む前に、どこまで許されるのかを知ろうとする問い。
レギュラスは、その問いを予期していたかのように、すぐに答えた。
「あなたが望まないことは、しません」
即答だった。
「ただ、同じ部屋で、同じ時間を過ごしたい。
あなたが眠るまで、そばにいてもいいかと聞いているつもりです」
それは、完全な真実ではなかった。
彼の中にある欲望は、そんなに綺麗な形で収まるものではない。
ドレス姿を思い出すたびに、ベッドの上の姿を想像してしまう程度には、彼もまた肉体を持つ男だった。
それでも、今ここでその全てを押し通そうとは思わなかった。
命令ではない、と自分で決めた以上、譲るべきものもある。
「もし、途中で嫌になれば、その時ははっきり言ってください。
あなたが拒めば、僕はすぐに部屋を出ます」
アランの瞳が、揺れた。
信じていいのか分からない揺れ方。
「……本当に?」
「ええ。約束しましょう」
レギュラスは、椅子から少し身を乗り出した。
「あなたが『嫌だ』と口にしたときは、すぐに引きます。
今夜、ここへ来たこの一歩を、無理やり二歩三歩に変えるような真似はしません」
それがどれほど彼自身の欲求と反するかを、口には出さなかった。
言えば言うほど、薄っぺらくなる自覚があったからだ。
アランは、ショールの端を強く握りしめたまま、視線を床に落とした。
——ローランドなら、どうするだろう。
そんな考えが、一瞬だけ頭を掠める。
彼はきっと、こんな夜に「一緒にいてほしい」と言うことすら、ためらったのではないか。
婚姻の形を壊してでも、自分を守ろうとしたかもしれない。
けれど現実には、隣にいるのはレギュラス・ブラックだ。
魔法省の役員であり、ブラック家の後継であり、自分をここへ連れてきた男。
彼のわがままを、どこまで受け入れるのか。
それを決めるのは、自分自身しかいない。
長い沈黙のあと、アランはようやく顔を上げた。
翡翠の瞳が、迷いを抱えたまま、レギュラスをまっすぐに見つめる。
「……今夜だけです」
掠れるような声だった。
「今夜だけ。
レギュラス様の“わがまま”として、受け取ります」
それは、完全な許しではなかった。
あくまで一夜限りの猶予。
明日になれば、また寝室は別々に戻されるかもしれない。
それでも、レギュラスにとっては十分だった。
胸の奥で、張り詰めていたものが音もなくほどけていく。
そのほどけていく感覚と同時に、この一言を引き出すまでに費やした時間と労力が、全て報われるような満足感が広がった。
「ありがとうございます、アラン」
レギュラスは立ち上がり、その場で深く頭を垂れた。
彼女が見たことのないほど丁寧な礼。
アランは、その姿に、むしろ戸惑いに近い感情を覚える。
命令ではなく、懇願として。
その線を守ろうとする男の不器用な努力が、そこには確かにあった。
この夜が、どのような形で終わるのか。
まだ誰にも分からない。
ただひとつだけ確かなのは——
レギュラス・ブラックは、長い廊下を戻ることを選ばなかったということ。
今夜だけは、自ら選んだ「孤独な寝室」から一歩踏み出し、
アランと同じ夜の空気を、同じ部屋で吸おうとしているということだった。
その夜、アランの部屋には、いつもと違う空気が流れていた。
寝台脇のランプには薄い布が掛けられ、灯りは柔らかく落とされている。
壁にかかる影はすべて輪郭を失い、室内には白でも黒でもない曖昧な陰がたゆたっていた。
ベッドの上には、きちんと伸ばされた白いシーツ。
枕は二つ並べられている。
ほんの少し前まで、片側はいつも整えられたまま朝を迎えていた。
今夜だけは、違う。
アランは、ナイトドレスの上からショールを羽織っていた。
淡い色の薄手の布を、そのまま肩に滑らせるのではなく、胸元のところで固く結んである。
結び目の位置が、やけに厳重だ。
手元を見るだけで、その意図は分かった。
胸元から布をかき分けようと思っても、簡単には隙間を作らせない。
縛り目は固く、指で引くだけでは緩みそうにない。
レギュラスは、その様子を見て小さく息を吐いた。
「……徹底していますね、相変わらず」
苦笑とも、自嘲ともつかない声だった。
アランは、目だけをレギュラスに向けた。
ショールの端を軽く押さえたまま、少し居心地悪そうにしている。
「レギュラス様がお約束くださったことを、わたくしなりに信じようとしてはおります。
ですが、それとこれとは話が別です」
「別、ですか」
「わたくしが、自分で守りたいと思う線は……わたくし自身が決めたいのです」
正面からぶつけられた言葉に、レギュラスは一瞬だけ目を細めた。
そのまま笑みだけを残して、肩をすくめる。
「徹底ぶりには敬服しますよ、アラン」
嫌味ではなく、本気でそう言っているようだった。
寝台の片側にアランが、反対側にレギュラスが立つ。
同じ場所に、ふたり分の影が重なっている光景が、まだどこか現実味を帯びない。
「……明かりを、少し落としてもよろしいですか」
アランの問いかけに、レギュラスは頷いた。
「ええ。あなたの好きなように」
アランがランプの火を小さく絞る。
部屋の明度がさらに落ち、輪郭はぼやけ、代わりに気配だけが濃くなった。
アランは、そっとベッドに腰を下ろした。
ナイトドレスの裾を整え、布団を持ち上げ、きちんと内側に身を滑り込ませる。
動作のひとつひとつに緊張が滲んでいた。
レギュラスは、その様子を見届けてから、自分も反対側から身体を横たえた。
シーツがかすかに鳴る。
ふたりの体温が、布越しに同じ寝台へ流れ込んでくる。
ほんの数十センチの距離。
肩と肩が触れるには足りない、しかし手を伸ばせば容易に届いてしまう近さ。
静寂が降りる。
「……おやすみなさい、レギュラス様」
アランが先に口を開いた。
その声は、思ったよりも普通だった。
震えすぎてもおらず、無理に明るさを繕おうとしてもいない。
レギュラスは、目を閉じるでも開けたままでもいられず、視線を天井に向けた。
「おやすみなさい、アラン」
約束どおり――何もしない。
そう告げたのは自分だ。
それでも、現実にこの距離で横になってみると、驚くほど不自然な状態だった。
同じベッドに、男女が並んで横たわっている。
夫婦としてこの屋敷にいるはずなのに、ショールの結び目ひとつを境に、境界線が引かれている。
その滑稽さと痛々しさの両方が、レギュラスの胸の内側で絡まり合った。
横になって数分も経たないうちに、アランの呼吸が少し早くなっているのが伝わってきた。
眠気のせいではない。
意識して抑え込もうとして、かえって浅くなっている。
ナイトドレスの布が、胸元でわずかに上下する。
ショールの結び目が、そのたびに微かに揺れた。
彼女は、ひたすら目を閉じていた。
視線をどこにも向けず、まるで自分の存在を薄めようとしているかのように、布団の中で小さくなろうとしている。
レギュラスは、その様子を横目で見つめながら、心のどこかで苦笑していた。
——本当に、寝ようとしている。
驚きにも似た感情が、遅れて浮かぶ。
確かに「何もしない」と口にしたのは自分だ。
今夜の願いを「わがまま」として受け取ってほしい、と懇願したのも自分だ。
それでもどこかで、アランの方も、もう少し構えるものだと思っていた。
緊張からくる拒絶、言葉での牽制、せめてひとつふたつは何かが起きるだろうと。
だが現実は、予想よりもずっと静かだ。
彼女は本当に、ただ眠るつもりでいる。
本気にしているのか、と問いかけたくなる自分に、レギュラスは内心で呆れた。
——本気にしろと言ったのは、他でもな自分だろう。
しばらくのあいだ、ふたりは互いに背を向けず、同じ方向を向いたまま黙っていた。
外の風が窓をかすかに鳴らし、遠くの時計が時間を告げる。
アランの睫毛は、微かに震えている。
目を閉じているのに、眠気からくる揺れ方ではない。
レギュラスは、胸の中でひとつだけため息を飲み込んだ。
「……アラン」
抑えめの声で名前を呼ぶ。
「はい」
返事は即座に返ってきた。
眠っていないことが、あまりにも分かりやすい。
「そんなに、固くならなくても大丈夫ですよ」
「固く、なっているでしょうか」
「ええ。布団ごと石になってしまいそうなくらいには」
思わず口から出た軽口に、アランの肩が小さく揺れた。
自分でも可笑しかったのか、息がひとつだけ小さく漏れる。
「……どう、すればよいのか分からないのです」
ぽつりと漏れた言葉には、正直さが滲んでいた。
「こうして同じベッドに入ること自体、初めてに近いですから。
レギュラス様と、という意味ではなく……その……」
ローランドと過ごした夜の記憶が、ふと胸をかすめる。
それをそのまま言葉にすることはできず、アランはそこで口を噤んだ。
レギュラスは、短く息を吸った。
「どうすればよいか、ですか」
「はい」
「簡単ですよ」
彼は、ゆっくりと身体を横向きにし、アランの方へ向き直った。
床がきしむほどの動きではない。
シーツが静かに擦れただけだ。
「眠れないときは、誰だって少しだけ誰かを必要とするものです」
言いながら、そっと腕を伸ばした。
ショールの結び目には触れない。
その一段手前、肩口のあたりに指先をかける。
力を込めすぎないように、肩を抱き寄せた。
驚いたように、アランの身体がわずかに強張る。
しかし、抵抗する手は伸びてこない。
胸と背中のあいだに、布と空気が一枚挟まる。
それでも、互いの体温はさほど遠くなかった。
レギュラスは、腕の中の感触を確かめるように一度だけ息を吐き、そこから先を動かさなかった。
口付けひとつもない。
額に唇を寄せることもせず、指先で肌をなぞることもない。
本当にただ、肩を抱き寄せただけだった。
こんな展開を、誰が理解できるだろう。
同じ寝台で、寄り添うような体勢を取っていながら、それ以上の何も起こらない夜が存在すると、誰が想像できるだろうか。
アランにも、レギュラスにも、理解できているとは言い難かった。
アランは、抱かれた肩の感触を手探りするように、自分の内側を探っていた。
肩を包む掌は、大きいが、力は強くない。
締めつけるでもなく、離すでもなく、ただそこにある。
呼吸のたびに、背中越しに伝わる胸の上下。
近すぎて、どこからが自分の鼓動で、どこからが相手のものなのか、判別がつかなくなる。
恐怖にも似た緊張は、たしかにある。
その一方で、不思議な静けさもあった。
——本当に、これ以上は何もしないのだろうか。
疑いにも似た思いが胸をよぎる。
だが、時間が過ぎても、レギュラスの手は動かなかった。
胸元のショールの結び目には、誰の指も触れない。
眠りへ誘い込もうとするような甘い言葉もなく、ただ、「今、ここにいる」ということを確認させるような温度だけがある。
その温度に、アランのまぶたが少しだけ重くなった。
こんなふうに誰かに寄り添われた夜が、今まであっただろうかと考える。
欲望の前置きでもなく、慰めに偽装された執着でもなく、ただ「一緒にいる」ということだけを差し出された時間。
ローランドと過ごした静かな夜とは違う種類の静けさ。
レギュラスの腕の中のそれは、どこか不器用で、どこか危うかった。
彼が本当は何を求めているのか知っているからこそ、その不自然な「何もしなさ」が、かえって胸に残る。
——どうして、何もしないのだろう。
問いは、喉まで上ってきたが、声にはならなかった。
聞いてしまえば壊れてしまう均衡があると、本能が知っている。
やがて、アランの呼吸は、今度こそゆっくりとしたリズムを刻みはじめた。
まどろみと意識のあいだを揺れる時間。
眠りに落ちてしまうのが惜しいような、けれど抗いきれない感覚。
耳元で、レギュラスの心音が淡く響いていた。
一定の速さ。
それほど乱れているわけではない。
彼の方もまた、自分を抑え込んでいるのだと、朧げな意識の中で理解した。
レギュラスは、腕の中の体温が少しずつ重くなっていくのを感じていた。
最初は張り詰めていた肩の筋肉が、徐々に力を抜きはじめる。
胸元の布の上下も、さっきまでのような不規則さを失い、深く、静かな波になっていく。
ようやく眠りかけているのだと気づいたとき、胸の奥に不思議な感覚が生まれた。
欲望が消えたわけではない。
ドレス姿を思い返せば、今でも身体のどこかが疼く。
それでも、今この瞬間、腕の中の女が安心して眠りに落ちかけていることの方が、何倍も尊く思えた。
ここで衝動に任せて口付けを落とすことはできる。
眠りかけの意識を揺さぶれば、ショールの結び目など簡単に解けるだろう。
言葉ひとつ、手の角度ひとつで、この夜を別の色に染めることは難しくない。
そういう技を、彼は嫌というほど身につけている。
けれど、そうして得られる勝利は、どこか薄っぺらい。
この夜だけは、それをしたくなかった。
アランが、つい先ほどまでぎゅっと握りしめていた防御の結び目。
それを力ずくでほどくのではなく、自分から少しずつ手を離し、いつの日か自分の意思でショールを解くようになる姿を見たい。
その欲の方が、強かった。
レギュラスは、ほんの僅かに腕の力を緩める。
逃がすのではなく、眠りを妨げない程度に。
「おやすみなさい、アラン」
もう一度だけ、ほとんど聞き取れないくらいの小さな声でそう言った。
返事はなかった。
代わりに、アランの呼吸が、さらに深くなる。
彼女は、本当に眠ろうとしている。
いや――すでに半分は、眠りに落ちているのかもしれない。
同じベッドで、同じ布団の中で、肩を抱き寄せたまま、何も起こらない夜。
こんな展開を、他の誰かに説明したところで、誰が理解するだろうか。
かつての自分にさえ、信じられない話だ。
それでも、レギュラス・ブラックは、その奇妙な夜の形を、どこか気に入っていた。
この夜を境に何かが変わるのか、それとも何も変わらないのか。
答えはまだ分からない。
ただ、ひとつだけ確かなのは——
彼は、自分のわがままを、思っていた以上に慎重に扱おうとしている、ということだった。
夜が、ゆっくりと更けていく。
眠りに落ちた女と、その肩を抱いたまま目を閉じられずにいる男を包み込むように。
翌朝の魔法省は、いつも通り冷静で忙しなかった。
執務階の廊下には、書類の束を抱えた役人たちが行き交い、ペンの走る音やフクロウ便の羽音が、規則正しく積み重なっていく。
そのなか、レギュラスの執務室だけが、ほんのわずかに空気の色を変えていた。
机の上には、いつも通り整然と並べられた書類。
報告書、請願書、承認印が必要な契約文書。
それらに目を通しながらも、レギュラスの表情にはどこか浮ついた影が見える。
口元の笑みが、いつものような冷静なものより、わずかに柔らかい。
――昨夜のことを、思い返している。
アランの部屋で過ごした、不可思議な夜。
同じベッドに入り、肩を抱き寄せておきながら、口付けひとつ交わさなかったという、前代未聞の「清い夜」。
自分で思い出しても、どこかむず痒く、説明のしようがない。
そこへ、ノックもそこそこに扉が開いた。
「失礼します、レギュラス」
書類の束を片腕に抱えたバーテミウス・クラウチ・ジュニアが入ってくる。
いつもの無駄のない足取り。
灰色に近い淡い瞳が、室内を一度だけすばやく見渡し、すぐに主の元へ向いた。
「例の件に関する報告書がまとまりました。署名をいただく必要のあるものは、こちらに」
淡々とした口調で机の上に書類を並べていく。
手際は見事で、各書類の位置も、レギュラスが読みやすいように寸分違わず整えられている。
レギュラスはペンを手に取り、数枚に目を通してからふと顔を上げた。
「手早いですね。助かります」
「仕事ですから」
それから、バーテミウスは一拍置いて、じっとレギュラスの顔を見た。
「……で?」
「……何がです?」
「何が、ではありませんよ」
バーテミウスは、書類を整えていた手を止めた。
書類の束を軽く指で叩きながら、静かに口角を上げる。
「その、妙に機嫌のいい顔は何でしょう。
いつもなら、朝一番でこの量の報告書を見せられた時点で、もっとこう……気配が冷えるはずなんですが」
「僕がいつもどれだけ感じ悪く仕事しているみたいな言い方ですね」
「事実を申し上げているだけです」
さらりと言い捨ててから、バーテミウスはわざとらしくため息をついた。
「で。昨晩、アラン嬢の部屋に行かれたんですよね?」
レギュラスの手が、わずかに止まる。
ペン先が紙の上で一瞬滑り、インクが小さく滲んだ。
「……誰から聞きました?」
「誰からも聞いていませんよ。
あなたの顔を見れば、だいたいのことは分かります」
そう言って、バーテミウスは机の端に腰を軽く預けた。
報告の姿勢というより、長年の悪友に茶化しを入れるときの態度だ。
「さて。昨夜はさぞ“素晴らしい夜”をお過ごしかと思っていたんですが」
「言い方に悪意がありますね、あなたは」
「善意で言えという方が無茶です」
にこりともせず言い切ってから、バーテミウスは身を乗り出した。
「で、どうだったんです?」
レギュラスは、数秒黙り込んだ。
書類に視線を落としたまま、返答を探すようにペン先を軽く回す。
そして、観念したように短く答えた。
「……何もしていませんよ」
「はい?」
「だから、何もしていません」
バーテミウスの瞳が、瞬きを忘れたようにレギュラスを凝視した。
次の瞬間、堪えきれなくなったように息を吐き出す。
「……ちょっとお待ちください」
手の甲で口元を押さえ、それでも笑いが漏れる。
肩がくつくつと揺れた。
「今、“何もしていない”と仰いました?」
「ええ。言いました」
「同じベッドに入っておきながら?」
「入っていましたね」
「肩を抱き寄せた、と仰っていたところまでは、まだ理解できたんですが」
「そこから先は、何も」
淡々と繰り返したところで、バーテミウスはとうとう耐え切れなくなったらしい。
机から半歩身を引き、俯いた肩を震わせながら声を押し殺す。
「……いくつなんです、あなたたち」
こらえきれなかった笑いが、ついに言葉になった。
「本当に。
同じ寝台で横になって、肩を抱いて、それで終わり? それで“おやすみなさい”?」
「本当ですよ。まったく」
レギュラスは、書類をひとつ脇へ寄せながら、やれやれとでも言いたげに肩をすくめた。
「僕としても、何度か自分の正気を疑いました」
「疑うべきですね、それは」
バーテミウスは、ようやく顔を上げた。
瞳の端に、かすかな笑いの名残が光る。
「レギュラス。あなたですよ?
夜会で見初めた令嬢は、その日のうちに部屋を取って落とすのが、いつもの流れだったあなたが」
「過去の話をそんなに整然と列挙しないでください」
「そのあなたが、正式な婚約者と同じベッド。
しかも“今夜はあなたのわがままとして受け取ります”なんて綺麗な言葉まで貰っておきながら」
「どこまで聞いていたんですか、あなたは」
「そこから先、“何もしませんでした”と胸を張るのは、もはや清らかを通り越して滑稽ですよ」
バーテミウスは、心底おかしそうに笑った。
「いや、いいんですよ? 健全で。
実に健全で、道徳的で、模範的で。
魔法省役員の鑑のようなお振る舞いです」
「どう聞いても馬鹿にしているとしか受け取れませんね」
「気のせいではありません」
レギュラスは、ペン先で机を軽く叩いた。
それでも、反論らしい反論はしなかった。
昨夜の光景は、彼の中でもうまく言語化できないまま、静かな余韻だけを残している。
アランの肩の重さ。
眠りに落ちる前の、かすかな震え。
ショールを固く結んだ結び目。
それらが、口付けや熱に変わることなく、そのまま「何もしない夜」を形作ってしまった。
「……まあ」
バーテミウスは、ひとしきり笑ってから、ようやく真面目な顔つきに戻った。
「それだけ手加減できるようになったというのは、悪い話ではないですが」
「手加減、という表現は好きではありませんね」
レギュラスは、書類をひとつ手繰り寄せた。
印章を押す位置を確認しながら、淡々と続ける。
「僕が昨夜したのは、手加減というより……少しだけ“先を見た”だけです」
「ほう」
「力ずくで結び目を解いて得られるものより、自分から手を伸ばしてほどいてくれる未来の方が、価値がある」
言いながら、自分で自分に苦笑したくなる。
「そう思わせるくらいには、アラン・セシールという女に、僕は本気で参っているのだと思います」
バーテミウスは、その告白に目を細めた。
先ほどまでの茶化し方とは少し違う、観察者の目だ。
「……それはそれは」
軽く肩を竦める。
「レギュラスが“先を見て待つ”なんて。
ほんの数年前のあなたに聞かせてやりたい話ですね」
「聞かせないでください。鬱陶しいので」
「ただ」
バーテミウスは、机に指をトントンと当てた。
「そうやって距離を詰めることに成功すればするほど、あなたの足元も、だんだん逃げ場がなくなっていきますよ」
「今さらですね」
レギュラスは、印章をひとつ落とした。
赤い蝋とインクが、契約書の端を彩る。
「もうとっくに、逃げるつもりはありませんから」
その口ぶりは、あまりにもあっさりしていた。
夜会でアランを見初めたときと同じくらい、迷いのない声。
バーテミウスは、ふっと息を吐いた。
それから、口元にまた小さな笑みを浮かべる。
「でしたら今後も、清く正しい新婚生活のご報告を、楽しみにしています」
「“正しい”かどうかはともかく、“清い”時間はそう長く続かないと思いますけどね」
「そのときはまた、詳細なご報告を」
「誰があなたなんかに話しますか」
口ではそう言いながら、昨夜の出来事を真っ先に話しているあたり、レギュラスも自分の矛盾には気づいている。
バーテミウスは、書類の束を揃え直しながら立ち上がった。
「とりあえず、今朝のあなたの機嫌がいい理由は把握しました。
仕事に支障がない程度には、今後も適度に“何もしない夜”を挟んでください」
「どんな助言ですか、それは」
「魔法省全体の生産性のためですよ」
そんな軽口を残し、バーテミウスは扉へ向かった。
去り際、振り返らずに一言だけ付け加える。
「……いくつなんです、本当に。あなたたち」
「本当ですよ。まったく」
レギュラスは、苦笑しながら額に手を当てた。
同じベッドに入って肩を抱き寄せるだけで終わる夜。
他人に話せば笑われるような展開を、本気で守り抜いた自分自身が、誰よりも一番、信じられなかった。
それでも――ふと、思う。
あの夜、何もしなかったという事実そのものが、
アランとの間に、これから先積み上げていくものの土台になるのだとすれば。
笑われても、悪くない夜だったと、そう言える気がしていた。
