1章
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気づけば、午後のこの時間に、机の上に開かれている羊皮紙の枚数が増えていた。
ブラック家での生活が始まってからしばらくは、アランの部屋はただの「避難場所」だった。
重く閉ざされた扉の内側で本を読み、父の研究ノートを眺め、ローランドから贈られた書物に指を滑らせる。
誰にも触れられない、自分ひとりだけの小さな島。
けれど最近、その島に、規則的に訪れる影がひとつ増えている。
扉を叩く控えめなノックの音。
「アラン」と呼ぶ落ち着いた声。
そして、腕に抱えられた文献や草案、魔法省の印の押された資料たち。
今日もまた、窓からの光がやわらかく差し込むころ、レギュラス・ブラックはいつものように現れた。
「少し、お時間をいただけますか」
扉を開けると、灰色の瞳が穏やかにこちらを見ていた。
その腕には、見慣れた古い装丁の魔法薬学の書と、何枚かの羊皮紙。
「父の研究に、関わりがありそうな資料が見つかったのですね」
アランがそう言うと、レギュラスはわずかに口元を緩めた。
「ええ。魔法省の別の部署から回ってきたものです。
アランに見てもらった方が早いと思いまして」
部屋の中に招き入れると、レギュラスはいつもの椅子——机の横の、少し距離を置いた位置へ腰を下ろす。
以前なら窓際を選んでいた彼が、いまでは自然な顔をして隣に座るようになっていることに、アランはふと気づいた。
その変化を、特別に指摘することはしない。
ただ、胸の奥に小さな波紋だけが広がる。
「ここをご覧ください」
レギュラスが差し出した羊皮紙には、魔力の流れを示す図と、細かい注釈がびっしりと書き込まれていた。
アランは椅子を少し引き寄せ、紙面を覗き込む。
「……定着率の改善について、でしょうか」
「ええ。魔力を薬液内にどの程度安定させて保存できるかという課題です。
僕の理解ではここで頭打ちになっている印象ですが……あなたのお父上ならどう見られるかなと」
レギュラスはそう言ってから、「いえ」と小さく首を振った。
「今は、アランの目で見た意見が知りたい」
その言い直し方が、いつもと同じだった。
「セシール卿はどう思うか」を最初に口にしながら、すぐに「あなたはどう思うか」と言い直す。
アランは視線を紙面に落とし、ペン先である一行を軽く示した。
「この仮説の立て方自体は、父のものとそれほど遠くありません。
ただ……ここで魔力を“流体”として扱ってしまっているのが、父は気に入らないと言うと思います」
「流体、ですか」
「父は、魔力を『流れるもの』というより『滞留するもの』と捉えていました。
水路よりも、地下水脈や溜池に近い、と。
この図だと、“流れ”が強すぎて、肝心の滞留部分への目配りが不足しているように感じます」
指先で、図の一部をなぞる。
魔力の線で示された部分の、わずかな歪み。
「滞留を前提とした定着率の計算に変えるだけでも、かなり違う結果が出るはずです。
父は、そこをよく実験台にしていました」
レギュラスは、アランの横顔を静かに見つめていた。
彼女の声は、研究の話になると自然と熱を帯びる。
それでも決して声を荒げず、淡々と説明を重ねていく姿は、どこか父を思わせる厳密さを含んでいた。
「地下水脈、ですか」
レギュラスはわずかに身を乗り出し、アランの指先が示す位置を目で辿る。
「面白いですね。
僕はつい、魔力というと“流れ”としてしか考えない癖があるので」
「魔法は、どうしても“動き”で捉えられがちですから」
「ええ。呪文も、動作も、全て“動かす”ことを前提としている」
そこで一度言葉を切り、レギュラスはアランを見上げた。
「こうして話していると、僕がいかに魔法薬のことを表面的にしか見てこなかったか、よく分かります」
「そんな……」
アランは慌ててかぶりを振った。
「レギュラス様は、魔法省という大きな枠組みの中で、全体を見ておられます。
わたくしのように、ひとつの研究室に籠もって考える人間とは、見える景色が違って当然です」
「違う景色を教えてくれる人がいるのは、ありがたいことですよ」
レギュラスは、ごく自然な調子で言った。
「僕が見落としている部分を補ってくれる。
そういう人間を、僕はとても重宝します」
淡い言葉の中に、過剰な持ち上げ方はない。
だが、軽んじる色もまったくなかった。
しっかりと話を聞き、内容を咀嚼し、自分の言葉で返してくる。
提示された意見に対しては、必ず何らかの形で「応答」を返そうとする。
その態度は、アランのよく知る誰かに、よく似ていた。
ローランド・フロストの姿が、ふと重なる。
父の研究の話をしたとき、彼もまた、こうして真剣に耳を傾けてくれた。
理解が追いつかないところは率直に質問し、興味を持った部分には自分なりの例えや考えを返してくる。
「僕は、魔法薬そのものには詳しくないけれど——」
そう前置きしながら、魔法省の仕事と絡めて議論を続けるやり方。
「それはよく分からない」と突き放すことなく、「分からないなりに一緒に考えようとする」姿勢。
目の前のレギュラスの態度は、そのローランドの姿勢と、どこかよく似ていた。
もちろん、同じではない。
ローランドの声には慎ましい温度があり、言葉を選ぶたびに少し戸惑いが混じる。
対してレギュラスの声は、自信と経験の滑らかさを伴っている。
場数の違いが、そのまま言葉の端々に現れていた。
それでも、根っこの部分——相手の話を「退屈だから」と切り捨てず、きちんと向き合おうとする姿勢だけは、奇妙なほど重なって見える。
アランは、ペンを置いて小さく息をついた。
「……レギュラス様」
「はい?」
「こうしてお話をしていると……最初に抱いた印象と、あまりにも違って戸惑います」
言葉にしてしまえば、失礼な物言いかもしれない。
けれど、胸の中に溜まり続けた違和感は、もう言葉にせざるを得なかった。
「最初の印象?」
レギュラスは、わずかに眉を上げた。
「夜会でお会いした時……とても、嫌な男だと思いました」
アランは、視線を紙面に落としたまま続ける。
「ゲームの延長で女を選び、指先ひとつで落とそうとする人。
その場限りの甘い言葉で包み込んで、飽きたら手放す人。
そういう人間なのだと——噂を聞いて、勝手に決めつけていました」
声は震えてはいない。
ただ、自分の中の偏見をひとつひとつ切り出していくような、静かな硬さがあった。
「……実際、あの夜のあなたの態度は、わたくしの想像通りでした」
お部屋を取りましょう、バーテミウス、手配を——
軽やかに告げた声。
婚約者がいると告げたときに浮かんだ、露骨な苛立ちの色。
思い出すだけで、胸の奥が重くなる。
「ですが……父の研究の話や、魔法薬の話をしているときのあなたは、まったく違う人に見えます」
アランは、そこでようやくレギュラスの方へ顔を向けた。
翡翠の瞳が、まっすぐに彼を捉える。
「しっかり話を聞いてくださる。
意見を伝えてくださる。
関心を持ってくださる。
そして、わたくしや父の研究に対して、きちんと敬意を払おうとしてくださる」
その列挙は、淡々としていながら、どこか戸惑いを孕んでいた。
「……ローランドに、よく似ているのです」
その名を口に出した瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
ここで彼の名を出してしまうこと自体、本来ならば避けたい行為だと分かっている。
「もしかすると、わたくしがあなたの中に、無理やりローランドと似通った部分を探そうとしているだけかもしれません。
そうでもしなければ、この婚姻を自分に納得させられないから」
言葉を紡ぎながら、自分で自分を責めているような感覚があった。
「あなたがローランドに似ているのだと思えば……
わたくしがここにいることも、少しは受け入れられる気がして」
レギュラスは、しばし沈黙した。
灰色の瞳は、アランの翡翠を正面から受け止め、その揺らぎを見逃さない。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……アラン」
低く、やわらかな声だった。
「僕は、フロスト殿のようにはなれないでしょう」
あっさりと、それを認める。
「彼のように、最初からあなたの隣にいて、同じ時間を重ねてきたわけではない。
あなたの“幼い頃”にも、“若い日々”にも、僕は一切いなかった」
その事実を、飾らずに告げる。
「ですが——あなたの話を聞くことや、あなたやセシール卿の仕事に敬意を払うことは、彼に似ようとしてしているわけではありません」
アランのまつげが、かすかに震えた。
「僕は、僕自身の理由で、あなたの話を聞きたいと思っている。
あなた自身の目で見た世界を、知りたいと思っている。
その結果として、もしフロスト殿と似通った姿勢に見えるのだとしたら……それは、少しだけ嬉しいですね」
そこまで言ってから、レギュラスはほんのわずかに笑みを浮かべた。
「あなたが、大切な記憶と重ねてくれるということですから」
アランは、視線を落とした。
胸の奥で、締めつけるような痛みと、じんわりと広がる温度が混ざり合う。
ローランドの姿を、レギュラスに重ねているだけだ——そう思いたかった。
そう思うことで、自分の心の揺れを誤魔化したかった。
けれど現実には、レギュラス自身の態度が、少しずつ警戒の紐を緩めているのだと気づいてしまう。
この男は、最初に会ったあの夜会の「嫌な男」だけではない。
取引のために支援を積み上げてきた冷徹な男だけでもない。
魔法薬と研究の話をするときだけ、別の顔を見せる人間でもある。
しっかりと話を聞き、自分の考えを言葉にし、相手を尊重しようとする——
その姿は、ローランドに似ているようでいて、確かにレギュラス・ブラックという一人の人間のものでもあった。
アランは、小さく息を吐いた。
「……不思議です」
「何がですか」
「嫌な男だと思った人と、こうして父の研究について語り合っていることが」
口元に、ごくほんのわずかだけ、苦笑に似た弧が浮かぶ。
「最初から今日のような時間を想像していたなら、あの夜、あなたの誘いに乗ることはなかったかもしれません」
「では、今のこの時間は、あの夜の“誤算”の結果でしょうか」
レギュラスの言葉には、軽い冗談の色が混じる。
アランは、「そうかもしれません」と小さく頷いた。
それが、完全な否定でも、全面的な肯定でもないことを、互いに理解しながら。
窓から差し込む午後の光が、机の上の羊皮紙と、本の背表紙を淡く照らしていた。
インクの香りと、紙の匂い。
レギュラスが淹れさせた紅茶の湯気が、二人のあいだに薄く漂っている。
気づけば、アランの口数は以前より増えていた。
父の研究の話をするとき、ローランドの名を出さないよう気をつけながらも、彼と共有してきた記憶の一部を、言い換える形で語ってしまう。
レギュラスは、その一つひとつに耳を傾けていた。
茶化すことなく、退屈そうにもせず、ただ、真っ直ぐに。
アランは、自分の中で何かの結び目がゆっくりと緩んでいくのを感じていた。
それが、何を意味するのかまでは、まだ認めたくない。
ただ、扉を固く閉ざしていた部屋に、気づけば何度も同じ影を招き入れているという事実だけが、静かに積み重なっていく。
魔法薬の話をするたびに、レギュラス・ブラックという男は、最初に抱いた「嫌な男」という印象から、少しずつ離れていく——
そのことを、アランはようやく自覚し始めていた。
ローランド・フロストの名が、アランの口から出るたびに、胸の内側で何かがきしむのをレギュラスは自覚していた。
父の研究の話の流れで、どうしても彼の名は避けられない。
魔法薬の調合を失敗した時に一緒に夜更かしをしてくれたこと。
父の説を、専門家ではない立場から支えようとしてくれた姿勢。
まだ幼かった頃、薬草園でふたり並んで泥だらけになった思い出。
どれも、レギュラスの知らない時間だった。
そのたびに、指先に力がこもる。
手にしたペンの軸を、必要以上に強く握っていることに気づき、意識して力を抜く。
茶器の持ち手にかける指の角度を、いつも通りに整える。
表情は変えない。
笑みの形も、声の高さも、目に宿す光も、普段と変わらない調子を崩さない。
せっかく少しずつ近づきはじめている距離を、自分の嫉妬で乱すのは愚かだと分かっていた。
苛立ちを露わにすれば、真っ先に扉を閉めるのはアランだ。
そのことを、レギュラスは何よりよく理解していた。
その日の夕食は、家族だけの静かな席だった。
長いテーブルの上には、銀の燭台に灯がともり、温かな光が料理の皿を照らしている。
焼いた肉と香草の香り、淡いソースの湯気、焼き立てのパンのこんがりとした香ばしさ。
そして食後の皿には、色鮮やかな果物が並べられていた。
一口大に切り分けられた洋梨、薄くスライスされた林檎のコンポート、深い赤を湛えたさくらんぼの砂糖煮、蜂蜜を絡めた黄桃。
どれも丁寧に皮を剥かれ、光沢を纏っている。
ヴァルブルガはすでに席を立ち、オリオンもまた書斎へ戻っている。
今、テーブルに残っているのは、レギュラスとアランだけだった。
アランは背筋を伸ばしたまま、静かにフォークを伸ばした。
普段、彼女は食事の量を控えめにしている。
皿の上の料理に、必要以上の手を伸ばすことはない。
淡々と、礼儀正しく、終わらせる。
その彼女が、今夜は珍しく、果物に続けて手を伸ばしていた。
最初にひとつ、黄桃。
つややかな果肉をフォークで持ち上げ、控えめな仕草で口に運ぶ。
噛んだ瞬間、翡翠の瞳がわずかに細くなった。
甘さよりも、ほっと安堵したような色が、一瞬だけそこに浮かぶ。
次に、同じ黄桃をもうひとつ。
そして、間を置かずに、さらにもうひとつ。
さくらんぼや洋梨には目もくれず、アランアランは黄桃だけを、淡々と、しかし迷いなく選んでいた。
レギュラスはそれを、興味深いものを見るような目で眺めていた。
——知らないことが多すぎる、とふと感じる。
アランが、どんな食べ物を好むのか。
甘いものを好むのか、辛いものを避けるのか。
どの色のドレスを着ているとき、ほんの少しだけ表情が和らぐのか。
夜会で彼女を手に入れたときでさえ、レギュラスはそこまで知ろうとはしていなかった。
その夜限りの陶酔だけを手に入れればよかった。
表情や声を引き出すことにばかり集中していて、その向こう側の「好み」には関心を向けてこなかった。
今は違う。
毎日同じ屋根の下で暮らし、同じテーブルを囲んでいる。
彼女の世界に、これから先も長く居座るつもりなら、表面的な情報だけでは足りない。
何が好きで、何が苦手なのか。
どんな小さなことで笑い、どんな些細なことで肩を落とすのか。
そういうものを、ひとつひとつ知りたいと思う自分がいた。
アランは黄桃にフォークを伸ばしたまま、ふと視線を上げた。
まるで、自分が何か無防備なことをしていると気づいたように、動きが止まる。
レギュラスは、タイミングを計るようにして口を開いた。
「……お好きですか?」
「え?」
問いが落ちるまで、自分が三つ続けて同じ果物を口に運んでいたことに、アランは気づいていなかったらしい。
フォークに刺さった黄桃を中途半端な位置で止めたまま、目を瞬かせる。
「その黄桃です」
レギュラスは、彼女の手元を見る。
フォークの先で揺れる金色の果肉。
皿の上の他の果物には、まだ跡がついていない。
「先ほどから、そればかりを選んでおられるようでしたから」
アランの頬に、わずかな紅が差した。
自分の無意識の行動を指摘されることに、慣れていないのだろう。
「……いえ、その……」
言葉を探すように、翡翠の瞳が揺れる。
続けて食べるほど夢中になっていたわけではない、と言いたげに、視線が皿とレギュラスのあいだをさまよう。
「特別に、というほどでは……ただ、少し」
ようやく絞り出された言葉は、控えめな肯定だった。
「甘さが強すぎないものは、食べやすいので」
レギュラスは、その言葉を丁寧に受け取るように、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。
では、これからは、あまり甘さの強くない果物を多めに用意させましょう」
さらりと告げられた一言に、アランははっと顔を上げる。
「い、いえ。そんな……お気遣いなく」
「気遣い、というほどのことではありませんよ」
レギュラスは、ワイングラスの脚を指先で軽く回した。
赤い液面が、ゆるやかに揺れる。
「せっかく一緒に暮らしているのです。
あなたが食べやすいものを知っておきたい。
頻繁に仕入れさせるくらい、僕にとっては造作もないことです」
「ですが……」
アランは、フォークを皿に戻しながら言葉を継いだ。
「わたくし一人のために、そこまでしていただくわけには……
ブラック家には、他にもたくさんの方が出入りします。
そのたび、わたくしの好みに合わせていては——」
「アラン」
名前を呼ばれ、言葉がそこで途切れる。
レギュラスの声は、穏やかで、それでいて有無を言わせぬ力を含んでいた。
「ブラック家の食卓を整えるのは、この家の当主と、その家族の務めです」
灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめる。
「そして僕にとって、あなたは——その“家族”そのものですよ」
あまりにも自然に放たれた言葉だった。
芝居がかった甘さも、誇張もない。
ただ、事実を確認するような調子で。
アランの胸の内側で、何かが小さく跳ねた。
まだ「妻」と呼ばれることに慣れていない耳には、その言葉の重さが、かえって真っ直ぐ響いてくる。
「……わたくしが、好きかどうかなど」
それでも、アランは首を横に振った。
黄桃の甘さを残した舌の奥で、言葉をまとめる。
「そんなものは、些細なことでしかありません。
ブラック家の食卓は、家にとってふさわしいものであれば、それで」
「その些細なことを、僕は大事にしたいと思っています」
レギュラスの返事は、即答だった。
「政治や取引は、大きな約束で形を変えていく。
けれど、屋敷の中の空気を変えるのは、案外こんな小さなことの積み重ねですよ」
その言葉は、どこか自分に言い聞かせているようでもあった。
「あなたが、少しでも食事の時間を“居心地が悪くない”と感じられるようにしたい。
そのために、黄桃をひとつ余分に用意する程度の手間を惜しむようでは、僕はブラック家の当主失格でしょう」
揶揄とも冗談ともつかない言い回しに、アランは戸惑いながらも口を閉ざした。
否定の言葉が浮かんでも、それを重ねるほどの強い根拠はなかった。
レギュラスは、アランの反応を静かに見守っていた。
拒絶されれば、それ以上は踏み込まないつもりで。
それでも、完全に引いてしまう気もなかった。
「……次から、黄桃が並んでいても、驚かないでください」
ほどなくして、彼はそう付け足した。
「もちろん、飽きたときにははっきり仰って構いませんよ」
アランは、小さく息を吐いた。
諦めにも似た安堵が、その吐息に混ざる。
「……でしたら」
フォークを持ち上げ、きちんと姿勢を正して言う。
「黄桃だけでなく、さくらんぼも、少しだけ……好きです」
皿の端に並んだ赤い果実に、ちらりと視線を送る。
「酸味の残るものが。
甘いだけのものより、食べやすいので」
それは、ほんのわずかな自己開示にすぎない。
けれど、これまで「お任せいたします」「お気遣いなく」としか口にしてこなかった彼女にとっては、大きな一歩だった。
レギュラスの唇が、静かに弧を描く。
「承知しました」
短く、それだけを言う。
過剰に喜びを表すこともなく、あくまで淡々と受け止める。
「それも、覚えておきましょう」
アランは、どう返していいか分からず、代わりにさくらんぼにフォークを伸ばした。
赤い果肉を口に含むと、酸味の奥から、ほんのりとした甘さが滲んでくる。
胸の奥にもまた、似たような感覚が広がっていた。
ローランドの話をすれば、レギュラスの中に確かに苛立ちを呼び起こしているのだろう。
そのことを、アランはまだ知らない。
ただ、彼がそれを顔に出さないよう努めていることだけは、言葉の端々から感じ取っていた。
少しずつ、少しずつ。
黄桃やさくらんぼのような、どうでもよさそうな「好み」から、その距離は埋まっていく。
食卓の上の果物皿は、小さな戦場のようでもあり、ささやかな和平の場のようでもあった。
魔法省の廊下は、いつものように冷たく明るかった。
磨き込まれた石畳の床に、天井の魔法灯の光が淡く反射している。
規則正しく並んだ扉。行き交う役人たちのローブの裾が、擦れるたび低い衣擦れの音を落としていく。
レギュラスは、脇に抱えた書類の束を少し持ち直した。
別部署との協議を終え、今まさに自室へ戻ろうとしていたところだった。
足音は静かで、歩幅も乱れない。魔法省役員としての威容を損なわない、いつもの姿。
曲がり角の向こうから、別の一団が近づいてくる気配があった。
役人同士の低い会話と、紙の擦れ合う乾いた音。
何気なく視線を上げた、その瞬間だ。
淡い色の髪が、光を受けて柔らかく揺れた。
灰色の視線が、その人物をはっきりと捉える。
——ローランド・フロスト。
アランが何度もその名を口にしてきた男。
セシール家の薬草園で共に過ごし、父の研究を支え、幼い頃から同じ時間を重ねてきた青年。
そして、レギュラス自らが、言葉と条件によって「手を放させた」男。
淡い髪色は、魔法灯の真下でさえ派手さを帯びず、ごく自然に空気に溶け込んでいる。
瞳は、よく澄んだ青。
海のような深さではなく、冬の朝の空のような、静かな透明さを帯びた青だった。
ローランドは、数人の若い職員と共に歩いていた。
手元には分厚いファイル。
肩に力が入りすぎない程度の、しかし真面目な姿勢。
服装に贅沢な装飾はないが、身なりはきちんとしている。
それでも、頬にはわずかな痩けが見て取れた。
知っている者だけが気づく程度の変化。
目の下には、うっすらと影が宿っている。
そんな彼の視線が、こちらを捉えた。
瞬間、青と灰色が廊下の中央でぶつかり合う。
空気が、ひとつ張り詰めた。
ローランドの足が、ごくわずかに緩む。
同行していた職員たちが、遅れてその視線の先に気づき、小さく息を飲んだ。
「……ブラック様」
ローランドは、即座に距離を詰めることも、慌てて目を逸らすこともなかった。
ただ、歩みをほんの少しだけゆるめ、すれ違う直前で恭しく一礼する。
声は低く、礼節を外さない。
どこにも、感情の波を大きく見せようとする色はない。
レギュラスは、片眉も動かさずに応じた。
「フロスト殿」
呼び慣れた敬称。
先日、彼の前で「アランとの婚姻」を告げ、条件を並べ、穏やかな声で「懸命な選択を」と畳みかけたときと同じ呼び方だ。
青い瞳が、一瞬だけ揺れた。
それでも、瞳の奥に宿るものは、露骨な憎悪でも、露骨な諦めでもなかった。
ただ、とてつもなく遠くにあるものを見ているような、静かな焦点。
「先日は……貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
ローランドは、他の職員たちがいる前でも、言葉を乱さなかった。
魔法省という公の場で、私事の影を見せすぎることを避けているのが分かる。
「いいえ。こちらこそ、フロスト殿にはご理解を示していただき、感謝しています」
レギュラスの声音も、また整っていた。
魔法省の廊下にふさわしい、公的なやりとりの調子。
その表面の下で、別の音が静かに鳴っていた。
——元気で。
アランの部屋で、泣きながら床に座り込んで、その言葉を思い返していた少女の姿が、ふと脳裏の片隅を掠めた気がした。
ローランドの口から出た最後の言葉。
「元気で」というあまりにも短く、あまりにも誠実で、どうしようもなく痛い別れの挨拶。
今、目の前に立つ青年の表情には、その言葉の余韻が微かに残っているようだった。
誰のものでもない人生を、自分の手で選び直そうとしている人間の顔。
「アランは、ブラック家でお元気でしょうか」
青い瞳が、逃げずに問いかけてきた。
その問いには、自分の立場を忘れた未練も、取り乱した感情も乗っていない。
ただ、ひとりの人間として、かつて共に未来を語った相手の今を知りたいという、ごく静かな願いだけがあった。
廊下を通り過ぎる役人たちが、一瞬だけ足を緩め、様子を窺う。
だが、露骨に立ち止まる者はいない。
誰もが、耳を澄ませながらも、見ないふりをして通り過ぎていく。
レギュラスは、書類の束を持つ腕の力をほんの僅かに強めた。
「ええ」
その返事は、驚くほど滑らかに口をつく。
「元気にしていますよ」
嘘ではなかった。
アランは、毎日きちんと食卓に座り、魔法薬や研究の話になると、以前よりも多く言葉を紡ぐようになっている。
ローランドの名を出すときだけ、瞳が痛々しく揺れることを除けば。
「セシール卿とは、研究に関する書簡のやり取りも続いています。
あなたのおかげで、我々の支援も、より意味のあるものになりつつある」
「あなたのおかげで」とそのまま口にした。
ローランドの選択が、ブラック家とセシール家の縁を決定的なものにしたことは事実だ。
ローランドの目が、静かに細められる。
痛みとも、安堵ともつかない影が、かすかにその奥をよぎった。
「……そうですか」
短い言葉。
しかし、その一言に込められたものの多さは、レギュラスにも察せられた。
安心なのか。
悔しさなのか。
嫉妬なのか。
それとも、そのどれでもない、名前のつけがたい感情なのか。
レギュラス自身の胸の奥にも、割り切れない重みがひとつ沈んだ。
己の目論見通り、ことは進んでいる。
セシール家との婚姻は整い、政治的にも、研究においても、十分な利益が見込める。
アランとの距離も、少しずつではあるが縮まりつつある。
そうした「成功」のすべての影で、この青年ひとりの未来が、静かに別の方向へ押し流された。
それでも——
その事実をもってして、後悔という名を与えるほど、自分は甘くないのだとレギュラスは知っている。
「フロスト殿」
書類を持ち替え、まっすぐに青い瞳を見据える。
「あなたがどの道を選ぼうとも、あなた自身の価値が揺らぐことはありません。
魔法省は、能力ある人材を見誤るほど愚かではない」
それは慰めではなかった。
魔法省役員としての、冷静な評価に基づいた言葉。
ローランドは、一瞬だけ目を見開いた。
すぐに、伏し目がちに微笑を形作る。
「身に余るお言葉です」
深々と頭を垂れる姿には、屈辱はなかった。
ただ、自分の選択を受け止めようとする覚悟と、その結果として失ったものの重さを、黙って噛みしめる強さだけがあった。
レギュラスの内側で、苛立ちとは別の感情が小さく疼く。
——これほどの男を、自分は“駒を一つ動かす”のと同じ感覚で盤外に置いたのだ、と。
その自覚は、罪悪感とは少し違う。
寧ろ、己の冷徹さを改めて確認させる鏡のようだった。
「お忙しいところをお引き止めして、失礼いたしました」
ローランドが身を引く。
再び、廊下の上に距離が開いていく。
「ブラック様のお時間をこれ以上奪うわけには参りませんので」
「いいえ。僕の方こそ」
レギュラスは、ほんのわずかに顎を傾けた。
「フロスト殿」
呼び止めるように、その名をもう一度だけ呼ぶ。
「……アランのことは、僕に任せてくださって構いません」
その言葉には、自負と宣言が込められていた。
奪った以上、徹底的に責任を負うという意思。
そして、自分にしかできない形で彼女を守り、手に入れるという傲慢。
ローランドは、その宣言を真正面から受け止めた。
青い瞳が、ほんの一瞬だけまっすぐに灰色を射抜く。
そこには、敗北の色も、哀願の色もなかった。
——ならば、任せるしかない。
その結論に至るまでに費やされた夜の数々だけが、その瞳の奥に静かに沈んでいる。
「……承知いたしました」
かすかな息とともに落とされた言葉は、短いが重かった。
「どうか、あの方を……」
そこで言葉が途切れた。
「幸せに」と続けるには、あまりにも矛盾が大きすぎる。
「傷つけないで」と願うには、既に傷つけあった事実が重すぎる。
喉の奥で飲み込まれた残りの言葉の代わりに、ローランドはもう一度頭を下げた。
「失礼いたします」
その背が、役人たちの流れに紛れて遠ざかっていく。
淡い髪と青い瞳は、すぐに魔法省の廊下の中に溶け込み、匿名の一人に戻った。
レギュラスは、その背中をしばらく見送っていた。
腕の中の書類の重みが、なぜか少し増したように感じられる。
そして、何事もなかったように踵を返した。
灰色のローブが、静かに揺れる。
魔法省役員としての足取りは乱れず、廊下に落ちる靴音も一定のリズムを保っている。
胸の奥に生じたささやかなきしみは、誰にも見せない。
アランにも、ローランドにも。
ただ、そのきしみを抱えたまま、レギュラス・ブラックは、いつも通りの顔で自室へと歩みを進めていった。
ブラック家での生活が始まってからしばらくは、アランの部屋はただの「避難場所」だった。
重く閉ざされた扉の内側で本を読み、父の研究ノートを眺め、ローランドから贈られた書物に指を滑らせる。
誰にも触れられない、自分ひとりだけの小さな島。
けれど最近、その島に、規則的に訪れる影がひとつ増えている。
扉を叩く控えめなノックの音。
「アラン」と呼ぶ落ち着いた声。
そして、腕に抱えられた文献や草案、魔法省の印の押された資料たち。
今日もまた、窓からの光がやわらかく差し込むころ、レギュラス・ブラックはいつものように現れた。
「少し、お時間をいただけますか」
扉を開けると、灰色の瞳が穏やかにこちらを見ていた。
その腕には、見慣れた古い装丁の魔法薬学の書と、何枚かの羊皮紙。
「父の研究に、関わりがありそうな資料が見つかったのですね」
アランがそう言うと、レギュラスはわずかに口元を緩めた。
「ええ。魔法省の別の部署から回ってきたものです。
アランに見てもらった方が早いと思いまして」
部屋の中に招き入れると、レギュラスはいつもの椅子——机の横の、少し距離を置いた位置へ腰を下ろす。
以前なら窓際を選んでいた彼が、いまでは自然な顔をして隣に座るようになっていることに、アランはふと気づいた。
その変化を、特別に指摘することはしない。
ただ、胸の奥に小さな波紋だけが広がる。
「ここをご覧ください」
レギュラスが差し出した羊皮紙には、魔力の流れを示す図と、細かい注釈がびっしりと書き込まれていた。
アランは椅子を少し引き寄せ、紙面を覗き込む。
「……定着率の改善について、でしょうか」
「ええ。魔力を薬液内にどの程度安定させて保存できるかという課題です。
僕の理解ではここで頭打ちになっている印象ですが……あなたのお父上ならどう見られるかなと」
レギュラスはそう言ってから、「いえ」と小さく首を振った。
「今は、アランの目で見た意見が知りたい」
その言い直し方が、いつもと同じだった。
「セシール卿はどう思うか」を最初に口にしながら、すぐに「あなたはどう思うか」と言い直す。
アランは視線を紙面に落とし、ペン先である一行を軽く示した。
「この仮説の立て方自体は、父のものとそれほど遠くありません。
ただ……ここで魔力を“流体”として扱ってしまっているのが、父は気に入らないと言うと思います」
「流体、ですか」
「父は、魔力を『流れるもの』というより『滞留するもの』と捉えていました。
水路よりも、地下水脈や溜池に近い、と。
この図だと、“流れ”が強すぎて、肝心の滞留部分への目配りが不足しているように感じます」
指先で、図の一部をなぞる。
魔力の線で示された部分の、わずかな歪み。
「滞留を前提とした定着率の計算に変えるだけでも、かなり違う結果が出るはずです。
父は、そこをよく実験台にしていました」
レギュラスは、アランの横顔を静かに見つめていた。
彼女の声は、研究の話になると自然と熱を帯びる。
それでも決して声を荒げず、淡々と説明を重ねていく姿は、どこか父を思わせる厳密さを含んでいた。
「地下水脈、ですか」
レギュラスはわずかに身を乗り出し、アランの指先が示す位置を目で辿る。
「面白いですね。
僕はつい、魔力というと“流れ”としてしか考えない癖があるので」
「魔法は、どうしても“動き”で捉えられがちですから」
「ええ。呪文も、動作も、全て“動かす”ことを前提としている」
そこで一度言葉を切り、レギュラスはアランを見上げた。
「こうして話していると、僕がいかに魔法薬のことを表面的にしか見てこなかったか、よく分かります」
「そんな……」
アランは慌ててかぶりを振った。
「レギュラス様は、魔法省という大きな枠組みの中で、全体を見ておられます。
わたくしのように、ひとつの研究室に籠もって考える人間とは、見える景色が違って当然です」
「違う景色を教えてくれる人がいるのは、ありがたいことですよ」
レギュラスは、ごく自然な調子で言った。
「僕が見落としている部分を補ってくれる。
そういう人間を、僕はとても重宝します」
淡い言葉の中に、過剰な持ち上げ方はない。
だが、軽んじる色もまったくなかった。
しっかりと話を聞き、内容を咀嚼し、自分の言葉で返してくる。
提示された意見に対しては、必ず何らかの形で「応答」を返そうとする。
その態度は、アランのよく知る誰かに、よく似ていた。
ローランド・フロストの姿が、ふと重なる。
父の研究の話をしたとき、彼もまた、こうして真剣に耳を傾けてくれた。
理解が追いつかないところは率直に質問し、興味を持った部分には自分なりの例えや考えを返してくる。
「僕は、魔法薬そのものには詳しくないけれど——」
そう前置きしながら、魔法省の仕事と絡めて議論を続けるやり方。
「それはよく分からない」と突き放すことなく、「分からないなりに一緒に考えようとする」姿勢。
目の前のレギュラスの態度は、そのローランドの姿勢と、どこかよく似ていた。
もちろん、同じではない。
ローランドの声には慎ましい温度があり、言葉を選ぶたびに少し戸惑いが混じる。
対してレギュラスの声は、自信と経験の滑らかさを伴っている。
場数の違いが、そのまま言葉の端々に現れていた。
それでも、根っこの部分——相手の話を「退屈だから」と切り捨てず、きちんと向き合おうとする姿勢だけは、奇妙なほど重なって見える。
アランは、ペンを置いて小さく息をついた。
「……レギュラス様」
「はい?」
「こうしてお話をしていると……最初に抱いた印象と、あまりにも違って戸惑います」
言葉にしてしまえば、失礼な物言いかもしれない。
けれど、胸の中に溜まり続けた違和感は、もう言葉にせざるを得なかった。
「最初の印象?」
レギュラスは、わずかに眉を上げた。
「夜会でお会いした時……とても、嫌な男だと思いました」
アランは、視線を紙面に落としたまま続ける。
「ゲームの延長で女を選び、指先ひとつで落とそうとする人。
その場限りの甘い言葉で包み込んで、飽きたら手放す人。
そういう人間なのだと——噂を聞いて、勝手に決めつけていました」
声は震えてはいない。
ただ、自分の中の偏見をひとつひとつ切り出していくような、静かな硬さがあった。
「……実際、あの夜のあなたの態度は、わたくしの想像通りでした」
お部屋を取りましょう、バーテミウス、手配を——
軽やかに告げた声。
婚約者がいると告げたときに浮かんだ、露骨な苛立ちの色。
思い出すだけで、胸の奥が重くなる。
「ですが……父の研究の話や、魔法薬の話をしているときのあなたは、まったく違う人に見えます」
アランは、そこでようやくレギュラスの方へ顔を向けた。
翡翠の瞳が、まっすぐに彼を捉える。
「しっかり話を聞いてくださる。
意見を伝えてくださる。
関心を持ってくださる。
そして、わたくしや父の研究に対して、きちんと敬意を払おうとしてくださる」
その列挙は、淡々としていながら、どこか戸惑いを孕んでいた。
「……ローランドに、よく似ているのです」
その名を口に出した瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
ここで彼の名を出してしまうこと自体、本来ならば避けたい行為だと分かっている。
「もしかすると、わたくしがあなたの中に、無理やりローランドと似通った部分を探そうとしているだけかもしれません。
そうでもしなければ、この婚姻を自分に納得させられないから」
言葉を紡ぎながら、自分で自分を責めているような感覚があった。
「あなたがローランドに似ているのだと思えば……
わたくしがここにいることも、少しは受け入れられる気がして」
レギュラスは、しばし沈黙した。
灰色の瞳は、アランの翡翠を正面から受け止め、その揺らぎを見逃さない。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……アラン」
低く、やわらかな声だった。
「僕は、フロスト殿のようにはなれないでしょう」
あっさりと、それを認める。
「彼のように、最初からあなたの隣にいて、同じ時間を重ねてきたわけではない。
あなたの“幼い頃”にも、“若い日々”にも、僕は一切いなかった」
その事実を、飾らずに告げる。
「ですが——あなたの話を聞くことや、あなたやセシール卿の仕事に敬意を払うことは、彼に似ようとしてしているわけではありません」
アランのまつげが、かすかに震えた。
「僕は、僕自身の理由で、あなたの話を聞きたいと思っている。
あなた自身の目で見た世界を、知りたいと思っている。
その結果として、もしフロスト殿と似通った姿勢に見えるのだとしたら……それは、少しだけ嬉しいですね」
そこまで言ってから、レギュラスはほんのわずかに笑みを浮かべた。
「あなたが、大切な記憶と重ねてくれるということですから」
アランは、視線を落とした。
胸の奥で、締めつけるような痛みと、じんわりと広がる温度が混ざり合う。
ローランドの姿を、レギュラスに重ねているだけだ——そう思いたかった。
そう思うことで、自分の心の揺れを誤魔化したかった。
けれど現実には、レギュラス自身の態度が、少しずつ警戒の紐を緩めているのだと気づいてしまう。
この男は、最初に会ったあの夜会の「嫌な男」だけではない。
取引のために支援を積み上げてきた冷徹な男だけでもない。
魔法薬と研究の話をするときだけ、別の顔を見せる人間でもある。
しっかりと話を聞き、自分の考えを言葉にし、相手を尊重しようとする——
その姿は、ローランドに似ているようでいて、確かにレギュラス・ブラックという一人の人間のものでもあった。
アランは、小さく息を吐いた。
「……不思議です」
「何がですか」
「嫌な男だと思った人と、こうして父の研究について語り合っていることが」
口元に、ごくほんのわずかだけ、苦笑に似た弧が浮かぶ。
「最初から今日のような時間を想像していたなら、あの夜、あなたの誘いに乗ることはなかったかもしれません」
「では、今のこの時間は、あの夜の“誤算”の結果でしょうか」
レギュラスの言葉には、軽い冗談の色が混じる。
アランは、「そうかもしれません」と小さく頷いた。
それが、完全な否定でも、全面的な肯定でもないことを、互いに理解しながら。
窓から差し込む午後の光が、机の上の羊皮紙と、本の背表紙を淡く照らしていた。
インクの香りと、紙の匂い。
レギュラスが淹れさせた紅茶の湯気が、二人のあいだに薄く漂っている。
気づけば、アランの口数は以前より増えていた。
父の研究の話をするとき、ローランドの名を出さないよう気をつけながらも、彼と共有してきた記憶の一部を、言い換える形で語ってしまう。
レギュラスは、その一つひとつに耳を傾けていた。
茶化すことなく、退屈そうにもせず、ただ、真っ直ぐに。
アランは、自分の中で何かの結び目がゆっくりと緩んでいくのを感じていた。
それが、何を意味するのかまでは、まだ認めたくない。
ただ、扉を固く閉ざしていた部屋に、気づけば何度も同じ影を招き入れているという事実だけが、静かに積み重なっていく。
魔法薬の話をするたびに、レギュラス・ブラックという男は、最初に抱いた「嫌な男」という印象から、少しずつ離れていく——
そのことを、アランはようやく自覚し始めていた。
ローランド・フロストの名が、アランの口から出るたびに、胸の内側で何かがきしむのをレギュラスは自覚していた。
父の研究の話の流れで、どうしても彼の名は避けられない。
魔法薬の調合を失敗した時に一緒に夜更かしをしてくれたこと。
父の説を、専門家ではない立場から支えようとしてくれた姿勢。
まだ幼かった頃、薬草園でふたり並んで泥だらけになった思い出。
どれも、レギュラスの知らない時間だった。
そのたびに、指先に力がこもる。
手にしたペンの軸を、必要以上に強く握っていることに気づき、意識して力を抜く。
茶器の持ち手にかける指の角度を、いつも通りに整える。
表情は変えない。
笑みの形も、声の高さも、目に宿す光も、普段と変わらない調子を崩さない。
せっかく少しずつ近づきはじめている距離を、自分の嫉妬で乱すのは愚かだと分かっていた。
苛立ちを露わにすれば、真っ先に扉を閉めるのはアランだ。
そのことを、レギュラスは何よりよく理解していた。
その日の夕食は、家族だけの静かな席だった。
長いテーブルの上には、銀の燭台に灯がともり、温かな光が料理の皿を照らしている。
焼いた肉と香草の香り、淡いソースの湯気、焼き立てのパンのこんがりとした香ばしさ。
そして食後の皿には、色鮮やかな果物が並べられていた。
一口大に切り分けられた洋梨、薄くスライスされた林檎のコンポート、深い赤を湛えたさくらんぼの砂糖煮、蜂蜜を絡めた黄桃。
どれも丁寧に皮を剥かれ、光沢を纏っている。
ヴァルブルガはすでに席を立ち、オリオンもまた書斎へ戻っている。
今、テーブルに残っているのは、レギュラスとアランだけだった。
アランは背筋を伸ばしたまま、静かにフォークを伸ばした。
普段、彼女は食事の量を控えめにしている。
皿の上の料理に、必要以上の手を伸ばすことはない。
淡々と、礼儀正しく、終わらせる。
その彼女が、今夜は珍しく、果物に続けて手を伸ばしていた。
最初にひとつ、黄桃。
つややかな果肉をフォークで持ち上げ、控えめな仕草で口に運ぶ。
噛んだ瞬間、翡翠の瞳がわずかに細くなった。
甘さよりも、ほっと安堵したような色が、一瞬だけそこに浮かぶ。
次に、同じ黄桃をもうひとつ。
そして、間を置かずに、さらにもうひとつ。
さくらんぼや洋梨には目もくれず、アランアランは黄桃だけを、淡々と、しかし迷いなく選んでいた。
レギュラスはそれを、興味深いものを見るような目で眺めていた。
——知らないことが多すぎる、とふと感じる。
アランが、どんな食べ物を好むのか。
甘いものを好むのか、辛いものを避けるのか。
どの色のドレスを着ているとき、ほんの少しだけ表情が和らぐのか。
夜会で彼女を手に入れたときでさえ、レギュラスはそこまで知ろうとはしていなかった。
その夜限りの陶酔だけを手に入れればよかった。
表情や声を引き出すことにばかり集中していて、その向こう側の「好み」には関心を向けてこなかった。
今は違う。
毎日同じ屋根の下で暮らし、同じテーブルを囲んでいる。
彼女の世界に、これから先も長く居座るつもりなら、表面的な情報だけでは足りない。
何が好きで、何が苦手なのか。
どんな小さなことで笑い、どんな些細なことで肩を落とすのか。
そういうものを、ひとつひとつ知りたいと思う自分がいた。
アランは黄桃にフォークを伸ばしたまま、ふと視線を上げた。
まるで、自分が何か無防備なことをしていると気づいたように、動きが止まる。
レギュラスは、タイミングを計るようにして口を開いた。
「……お好きですか?」
「え?」
問いが落ちるまで、自分が三つ続けて同じ果物を口に運んでいたことに、アランは気づいていなかったらしい。
フォークに刺さった黄桃を中途半端な位置で止めたまま、目を瞬かせる。
「その黄桃です」
レギュラスは、彼女の手元を見る。
フォークの先で揺れる金色の果肉。
皿の上の他の果物には、まだ跡がついていない。
「先ほどから、そればかりを選んでおられるようでしたから」
アランの頬に、わずかな紅が差した。
自分の無意識の行動を指摘されることに、慣れていないのだろう。
「……いえ、その……」
言葉を探すように、翡翠の瞳が揺れる。
続けて食べるほど夢中になっていたわけではない、と言いたげに、視線が皿とレギュラスのあいだをさまよう。
「特別に、というほどでは……ただ、少し」
ようやく絞り出された言葉は、控えめな肯定だった。
「甘さが強すぎないものは、食べやすいので」
レギュラスは、その言葉を丁寧に受け取るように、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。
では、これからは、あまり甘さの強くない果物を多めに用意させましょう」
さらりと告げられた一言に、アランははっと顔を上げる。
「い、いえ。そんな……お気遣いなく」
「気遣い、というほどのことではありませんよ」
レギュラスは、ワイングラスの脚を指先で軽く回した。
赤い液面が、ゆるやかに揺れる。
「せっかく一緒に暮らしているのです。
あなたが食べやすいものを知っておきたい。
頻繁に仕入れさせるくらい、僕にとっては造作もないことです」
「ですが……」
アランは、フォークを皿に戻しながら言葉を継いだ。
「わたくし一人のために、そこまでしていただくわけには……
ブラック家には、他にもたくさんの方が出入りします。
そのたび、わたくしの好みに合わせていては——」
「アラン」
名前を呼ばれ、言葉がそこで途切れる。
レギュラスの声は、穏やかで、それでいて有無を言わせぬ力を含んでいた。
「ブラック家の食卓を整えるのは、この家の当主と、その家族の務めです」
灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめる。
「そして僕にとって、あなたは——その“家族”そのものですよ」
あまりにも自然に放たれた言葉だった。
芝居がかった甘さも、誇張もない。
ただ、事実を確認するような調子で。
アランの胸の内側で、何かが小さく跳ねた。
まだ「妻」と呼ばれることに慣れていない耳には、その言葉の重さが、かえって真っ直ぐ響いてくる。
「……わたくしが、好きかどうかなど」
それでも、アランは首を横に振った。
黄桃の甘さを残した舌の奥で、言葉をまとめる。
「そんなものは、些細なことでしかありません。
ブラック家の食卓は、家にとってふさわしいものであれば、それで」
「その些細なことを、僕は大事にしたいと思っています」
レギュラスの返事は、即答だった。
「政治や取引は、大きな約束で形を変えていく。
けれど、屋敷の中の空気を変えるのは、案外こんな小さなことの積み重ねですよ」
その言葉は、どこか自分に言い聞かせているようでもあった。
「あなたが、少しでも食事の時間を“居心地が悪くない”と感じられるようにしたい。
そのために、黄桃をひとつ余分に用意する程度の手間を惜しむようでは、僕はブラック家の当主失格でしょう」
揶揄とも冗談ともつかない言い回しに、アランは戸惑いながらも口を閉ざした。
否定の言葉が浮かんでも、それを重ねるほどの強い根拠はなかった。
レギュラスは、アランの反応を静かに見守っていた。
拒絶されれば、それ以上は踏み込まないつもりで。
それでも、完全に引いてしまう気もなかった。
「……次から、黄桃が並んでいても、驚かないでください」
ほどなくして、彼はそう付け足した。
「もちろん、飽きたときにははっきり仰って構いませんよ」
アランは、小さく息を吐いた。
諦めにも似た安堵が、その吐息に混ざる。
「……でしたら」
フォークを持ち上げ、きちんと姿勢を正して言う。
「黄桃だけでなく、さくらんぼも、少しだけ……好きです」
皿の端に並んだ赤い果実に、ちらりと視線を送る。
「酸味の残るものが。
甘いだけのものより、食べやすいので」
それは、ほんのわずかな自己開示にすぎない。
けれど、これまで「お任せいたします」「お気遣いなく」としか口にしてこなかった彼女にとっては、大きな一歩だった。
レギュラスの唇が、静かに弧を描く。
「承知しました」
短く、それだけを言う。
過剰に喜びを表すこともなく、あくまで淡々と受け止める。
「それも、覚えておきましょう」
アランは、どう返していいか分からず、代わりにさくらんぼにフォークを伸ばした。
赤い果肉を口に含むと、酸味の奥から、ほんのりとした甘さが滲んでくる。
胸の奥にもまた、似たような感覚が広がっていた。
ローランドの話をすれば、レギュラスの中に確かに苛立ちを呼び起こしているのだろう。
そのことを、アランはまだ知らない。
ただ、彼がそれを顔に出さないよう努めていることだけは、言葉の端々から感じ取っていた。
少しずつ、少しずつ。
黄桃やさくらんぼのような、どうでもよさそうな「好み」から、その距離は埋まっていく。
食卓の上の果物皿は、小さな戦場のようでもあり、ささやかな和平の場のようでもあった。
魔法省の廊下は、いつものように冷たく明るかった。
磨き込まれた石畳の床に、天井の魔法灯の光が淡く反射している。
規則正しく並んだ扉。行き交う役人たちのローブの裾が、擦れるたび低い衣擦れの音を落としていく。
レギュラスは、脇に抱えた書類の束を少し持ち直した。
別部署との協議を終え、今まさに自室へ戻ろうとしていたところだった。
足音は静かで、歩幅も乱れない。魔法省役員としての威容を損なわない、いつもの姿。
曲がり角の向こうから、別の一団が近づいてくる気配があった。
役人同士の低い会話と、紙の擦れ合う乾いた音。
何気なく視線を上げた、その瞬間だ。
淡い色の髪が、光を受けて柔らかく揺れた。
灰色の視線が、その人物をはっきりと捉える。
——ローランド・フロスト。
アランが何度もその名を口にしてきた男。
セシール家の薬草園で共に過ごし、父の研究を支え、幼い頃から同じ時間を重ねてきた青年。
そして、レギュラス自らが、言葉と条件によって「手を放させた」男。
淡い髪色は、魔法灯の真下でさえ派手さを帯びず、ごく自然に空気に溶け込んでいる。
瞳は、よく澄んだ青。
海のような深さではなく、冬の朝の空のような、静かな透明さを帯びた青だった。
ローランドは、数人の若い職員と共に歩いていた。
手元には分厚いファイル。
肩に力が入りすぎない程度の、しかし真面目な姿勢。
服装に贅沢な装飾はないが、身なりはきちんとしている。
それでも、頬にはわずかな痩けが見て取れた。
知っている者だけが気づく程度の変化。
目の下には、うっすらと影が宿っている。
そんな彼の視線が、こちらを捉えた。
瞬間、青と灰色が廊下の中央でぶつかり合う。
空気が、ひとつ張り詰めた。
ローランドの足が、ごくわずかに緩む。
同行していた職員たちが、遅れてその視線の先に気づき、小さく息を飲んだ。
「……ブラック様」
ローランドは、即座に距離を詰めることも、慌てて目を逸らすこともなかった。
ただ、歩みをほんの少しだけゆるめ、すれ違う直前で恭しく一礼する。
声は低く、礼節を外さない。
どこにも、感情の波を大きく見せようとする色はない。
レギュラスは、片眉も動かさずに応じた。
「フロスト殿」
呼び慣れた敬称。
先日、彼の前で「アランとの婚姻」を告げ、条件を並べ、穏やかな声で「懸命な選択を」と畳みかけたときと同じ呼び方だ。
青い瞳が、一瞬だけ揺れた。
それでも、瞳の奥に宿るものは、露骨な憎悪でも、露骨な諦めでもなかった。
ただ、とてつもなく遠くにあるものを見ているような、静かな焦点。
「先日は……貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
ローランドは、他の職員たちがいる前でも、言葉を乱さなかった。
魔法省という公の場で、私事の影を見せすぎることを避けているのが分かる。
「いいえ。こちらこそ、フロスト殿にはご理解を示していただき、感謝しています」
レギュラスの声音も、また整っていた。
魔法省の廊下にふさわしい、公的なやりとりの調子。
その表面の下で、別の音が静かに鳴っていた。
——元気で。
アランの部屋で、泣きながら床に座り込んで、その言葉を思い返していた少女の姿が、ふと脳裏の片隅を掠めた気がした。
ローランドの口から出た最後の言葉。
「元気で」というあまりにも短く、あまりにも誠実で、どうしようもなく痛い別れの挨拶。
今、目の前に立つ青年の表情には、その言葉の余韻が微かに残っているようだった。
誰のものでもない人生を、自分の手で選び直そうとしている人間の顔。
「アランは、ブラック家でお元気でしょうか」
青い瞳が、逃げずに問いかけてきた。
その問いには、自分の立場を忘れた未練も、取り乱した感情も乗っていない。
ただ、ひとりの人間として、かつて共に未来を語った相手の今を知りたいという、ごく静かな願いだけがあった。
廊下を通り過ぎる役人たちが、一瞬だけ足を緩め、様子を窺う。
だが、露骨に立ち止まる者はいない。
誰もが、耳を澄ませながらも、見ないふりをして通り過ぎていく。
レギュラスは、書類の束を持つ腕の力をほんの僅かに強めた。
「ええ」
その返事は、驚くほど滑らかに口をつく。
「元気にしていますよ」
嘘ではなかった。
アランは、毎日きちんと食卓に座り、魔法薬や研究の話になると、以前よりも多く言葉を紡ぐようになっている。
ローランドの名を出すときだけ、瞳が痛々しく揺れることを除けば。
「セシール卿とは、研究に関する書簡のやり取りも続いています。
あなたのおかげで、我々の支援も、より意味のあるものになりつつある」
「あなたのおかげで」とそのまま口にした。
ローランドの選択が、ブラック家とセシール家の縁を決定的なものにしたことは事実だ。
ローランドの目が、静かに細められる。
痛みとも、安堵ともつかない影が、かすかにその奥をよぎった。
「……そうですか」
短い言葉。
しかし、その一言に込められたものの多さは、レギュラスにも察せられた。
安心なのか。
悔しさなのか。
嫉妬なのか。
それとも、そのどれでもない、名前のつけがたい感情なのか。
レギュラス自身の胸の奥にも、割り切れない重みがひとつ沈んだ。
己の目論見通り、ことは進んでいる。
セシール家との婚姻は整い、政治的にも、研究においても、十分な利益が見込める。
アランとの距離も、少しずつではあるが縮まりつつある。
そうした「成功」のすべての影で、この青年ひとりの未来が、静かに別の方向へ押し流された。
それでも——
その事実をもってして、後悔という名を与えるほど、自分は甘くないのだとレギュラスは知っている。
「フロスト殿」
書類を持ち替え、まっすぐに青い瞳を見据える。
「あなたがどの道を選ぼうとも、あなた自身の価値が揺らぐことはありません。
魔法省は、能力ある人材を見誤るほど愚かではない」
それは慰めではなかった。
魔法省役員としての、冷静な評価に基づいた言葉。
ローランドは、一瞬だけ目を見開いた。
すぐに、伏し目がちに微笑を形作る。
「身に余るお言葉です」
深々と頭を垂れる姿には、屈辱はなかった。
ただ、自分の選択を受け止めようとする覚悟と、その結果として失ったものの重さを、黙って噛みしめる強さだけがあった。
レギュラスの内側で、苛立ちとは別の感情が小さく疼く。
——これほどの男を、自分は“駒を一つ動かす”のと同じ感覚で盤外に置いたのだ、と。
その自覚は、罪悪感とは少し違う。
寧ろ、己の冷徹さを改めて確認させる鏡のようだった。
「お忙しいところをお引き止めして、失礼いたしました」
ローランドが身を引く。
再び、廊下の上に距離が開いていく。
「ブラック様のお時間をこれ以上奪うわけには参りませんので」
「いいえ。僕の方こそ」
レギュラスは、ほんのわずかに顎を傾けた。
「フロスト殿」
呼び止めるように、その名をもう一度だけ呼ぶ。
「……アランのことは、僕に任せてくださって構いません」
その言葉には、自負と宣言が込められていた。
奪った以上、徹底的に責任を負うという意思。
そして、自分にしかできない形で彼女を守り、手に入れるという傲慢。
ローランドは、その宣言を真正面から受け止めた。
青い瞳が、ほんの一瞬だけまっすぐに灰色を射抜く。
そこには、敗北の色も、哀願の色もなかった。
——ならば、任せるしかない。
その結論に至るまでに費やされた夜の数々だけが、その瞳の奥に静かに沈んでいる。
「……承知いたしました」
かすかな息とともに落とされた言葉は、短いが重かった。
「どうか、あの方を……」
そこで言葉が途切れた。
「幸せに」と続けるには、あまりにも矛盾が大きすぎる。
「傷つけないで」と願うには、既に傷つけあった事実が重すぎる。
喉の奥で飲み込まれた残りの言葉の代わりに、ローランドはもう一度頭を下げた。
「失礼いたします」
その背が、役人たちの流れに紛れて遠ざかっていく。
淡い髪と青い瞳は、すぐに魔法省の廊下の中に溶け込み、匿名の一人に戻った。
レギュラスは、その背中をしばらく見送っていた。
腕の中の書類の重みが、なぜか少し増したように感じられる。
そして、何事もなかったように踵を返した。
灰色のローブが、静かに揺れる。
魔法省役員としての足取りは乱れず、廊下に落ちる靴音も一定のリズムを保っている。
胸の奥に生じたささやかなきしみは、誰にも見せない。
アランにも、ローランドにも。
ただ、そのきしみを抱えたまま、レギュラス・ブラックは、いつも通りの顔で自室へと歩みを進めていった。
