1章
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ブラック家での生活が始まる朝、空気はやけに澄みきっていた。
セシール家の玄関前に停められた馬車には、必要最低限に絞り込んだ荷物だけが積まれている。ドレス、日用品、書物、そして――アランが最後の最後まで迷いながら、それでもどうしても手放せなかったものたち。
ローランド・フロストと過ごしてきた年月が、形を与えられて残っている品々だった。
丁寧にリボンで綴じられた手紙の束。
淡い青い封筒や、少し皺になった羊皮紙に踊る、見慣れた筆跡。
「近いうちに会いたい」と添えられてきた一文の数々は、見返す勇気がなくて、表紙の見える一番上だけを伏せて結わえ直した。
ローランドが初めて贈ってくれた本も、トランクの隙間に収められている。
魔法植物学の基礎書――表紙は地味だが、彼の父の蔵書から譲り受けたものだと嬉しそうに語っていた本だ。
巻末には、若き日のローランドがこっそり書き込んだらしいメモが残っていて、アランはそれを見つけたとき、ひどく照れ臭くて愛おしかった。
小さな木製の栞。
庭の端で拾った小枝を一緒に削り、簡単な保護の呪文をかけたものだ。
子どもの遊びの延長のようなそれを、なぜかローランドは「ちゃんと使う」と言って、自分用と彼女用に二つ作った。
ごく簡素な銀のペンダントもある。
中央の小さな石は、宝石というには程遠い、透明度の低い水晶だ。
高価なものではない。むしろ、ブラック家の宝物庫にあるものと並べれば、見劣りしかしないだろう。
けれど、まだ婚約という形にもなっていなかった頃、「いつか正式に」と笑ってくれた夜の温度ごと、そのペンダントには刻み込まれていた。
そして、小さな箱の中に、押し花になった薬草。
彼が初めてセシール家を訪ねた日、薬草園の隅に自生していたワイルドタイムを、二人でこっそり摘んで、押し花にして分け合ったものだ。
蓋を開けると、ほとんど香りは残っていないのに、胸の奥には、あの日の風の匂いまでよみがえる。
それらを全部、アランは自分のトランクに詰めた。
誰にも見えないように、衣類や本の間に紛れ込ませて。
ブラック家本邸に到着したとき、胸の奥に冷たい帯が一筋通ったようだった。
高く聳える黒い外壁。
尖塔と煙突が並ぶ屋根のライン。
正面玄関へ続く石畳はきれいに掃き清められていたが、その整いすぎた美しさがかえって息苦しい。
屋敷の中に一歩足を踏み入れただけで、空気の密度が変わる。
天井の高いホール、重厚な階段、左右に延びる廊下。
すべてが、アランに「ここはあなたの家ではない」と告げているようだった。
けれど、その屋敷の奥に、レギュラス・ブラックが「あなたの部屋です」と用意した一室がある。
廊下の突き当たりに近い、南向きの部屋。
大きな窓からは、ブラック家の庭園が見渡せる。
壁は柔らかなクリーム色で塗られ、ベッドや机、書棚は落ち着いた色合いの木で揃えられていた。
「何か足りないものがあれば、遠慮なく言ってください」
簡単な案内を終えたレギュラスがそう告げて去ると、部屋には静けさだけが残った。
さきほどまで他人の気配を濃厚に纏っていた屋敷とは違い、この部屋だけはまだ「空白」に近い。
アランは、そっと息をついた。
――息が詰まるような、この屋敷の中で。
この部屋だけは、唯一、自分の逃げ場であってほしい。
その願いを確かめるように、アランはトランクの留め金を外し、一つずつ中身を取り出していった。
本の束を、窓際の小さな書棚に並べる。
その中でも、ローランドから贈られた魔法植物学の本だけを、手の届きやすい位置に置いた。
背表紙を撫でる指先が、ほんの少し震える。
手紙の束は、机の引き出しの奥へ。
鍵付きの小さな引き出しに収めると、かちり、と乾いた音が鳴る。
その音は、まるで過去を封じ込める合図のようで、胸が少し痛んだ。
押し花の箱は、ベッド脇の小机に置いた。
白いレースの敷物の上にそっと載せると、それだけでこの部屋の空気が少し柔らかくなる気がした。
銀のペンダントは、そのまま首元に掛けた。
ドレスの襟に隠れる位置に、冷たい鎖の感触が密やかに寄り添う。
鏡に映る自分の胸元には、ほとんど何も見えない。
それがかえって、この小さな秘密を守っているようで、アランはわずかに安心した。
木製の栞は、レギュラスが備え付けたままにしていた空白のノートに挟んだ。
ノートだけを見れば、これから書き込まれる未来のために用意された白紙だ。
けれど、その間に挟まれた栞は、過去から延びてくる細い道標のようにも見えた。
荷ほどきが終わるころには、この部屋の随所に、ローランドとの思い出が静かに息を潜めていた。
派手ではない。
どこかの誰かに見られても、ただの私物にしか見えない。
だが、アラン自身にとっては、この部屋を「自分の場所」に変えるために必要不可欠な印だった。
扉を閉めると、外の気配はぐっと遠ざかる。
厚い扉が、ブラック家という巨大な屋敷から彼女を切り離してくれる。
アランは、窓辺に置かれた椅子に腰を下ろした。
庭を見下ろすと、整えられた生垣と、噴水の水面が見える。
どこを見ても完璧で、隙がない。
セシール家の薬草園のような、雑然とした生命力はどこにもない。
胸が少し苦しくなって、視線を窓から机へと移した。
机の上には、すでにレギュラスが用意させていた上質な便箋とインク壺が置かれている。
ペン先は新品で、まだ一度もインクに浸されていない。
アランは、そっと便箋を一枚取り出した。
――ローランドに、手紙を書こう。
手を伸ばすだけで届かない距離になってしまった人に。
それでも、まだ繋がっている何かがあると信じるために。
ペンをインクに浸し、余白の紙で一度だけ試し書きをする。
滑らかなインクの動きに、ほんの少しだけ安心する。
そして、便箋の右上から、丁寧に文字を置いていった。
ローランド様
自分の手書きの文字を、ここまで意識して見るのは久しぶりだった。
筆跡がかすかに揺れているのが分かる。
深く息を吸い、呼吸を整えながらペンを進めた。
会いたい。
その言葉は、最初から頭の中に浮かんでいた。
けれど、ペン先がその形をなぞることは決してなかった。
――会いたい、とは書かない。
そう決めている。
書いてしまえば、何かが決壊してしまいそうで、その後にどんな言葉を並べても、安っぽい懇願に成り果ててしまいそうで。
代わりに、日々のことを綴った。
体調はどうか。
魔法省での仕事は順調か。
最近の研究室の様子はどうか。
セシール家の薬草園は変わりないか。
父は無理をしていないか、母はちゃんと休んでいるか。
それらはすべて、「あなたがいま、どんな場所で、どんな顔をして生きているのかを知りたい」という願いに他ならない。
一文ごとに、ローランドの姿がはっきりと浮かび上がる。
少し猫背気味に書類を読む横顔。
真剣な話をするときに、眉間に寄る皺。
笑ったときに、目尻にできる小さな線。
思い浮かべれば浮かべるほど、胸の奥が熱くなっていった。
ペン先が、ぽたりと一瞬止まる。
インクが紙に小さな染みを作る。
視界がにじんだ。
最初の一雫が、いつ落ちたのか、自分でも分からない。
便箋の文字が、涙でじわりと滲んでいく。
慌てて袖で拭おうとするが、もう遅い。
インクと涙が混ざり、いくつかの文字は少しだけぼやけた。
「……だめね」
自嘲にも似た声が、かすかに漏れた。
それでもペンを置くことはしなかった。
涙を拭き、少しだけペンを握り直す。
追伸には、あえてどこにでもあるような文を記した。
季節の変わり目ですので、どうかご自愛ください。
遠くから、あなたのご健康をお祈りしております。
本当は、そこに「愛」という言葉を忍ばせたかった。
けれど、それを飲み込み、最も穏当な表現だけを並べていく。
書きながら、また涙が滲んでくる。
胸の奥をどうしようもない悔しさと寂しさが行き来する。
最後に、自分の名を記す。
アラン・セシール
ペンを置くと、指先がじんと痺れるように重かった。
便箋をしばらく見つめたあと、丁寧に折り畳み、封筒に入れる。
封蝋を押すとき、ほんの一瞬だけ迷いが生まれた。
この手紙を出せば、また一つ、ローランドとの「現実」が動く。
返事が来るのかどうかも分からない。
来たところで、そこにはきっと「元気で」という類の言葉しか並ばないだろうと分かっていても。
それでも――何も出さないよりは、まだましだと思いたかった。
封を閉じた封筒を手のひらに乗せると、その軽さが胸に堪えた。
中に詰め込んだ想いの重さと、紙そのものの軽さの差が、やけに鮮明だった。
アランは、封筒をそっと胸に押し当てた。
ローランドの名前を小さくなぞるように指でなでると、また涙がこみ上げてくる。
ブラック家の屋敷は広く、どこまでも立派で、整っている。
けれど、その中で、自分が心から呼吸できる場所は、この小さな部屋と、手のひらに乗る一通の手紙だけだった。
窓の外の庭では、風が生垣を揺らしている。
遠いどこかで、セシール家の薬草園の草も、同じ空の下で風に揺れているのだろうかと想像しながら、アランは封筒をそっと机の上に置いた。
涙の跡が完全に乾くまで、しばらくのあいだ、その場から動けなかった。
ブラック家での生活が始まって、まだ数日も経っていない朝だった。
食堂の大きな窓からは、薄い雲越しの光が差し込んでいる。
長いテーブルの中央には、銀のポットと紅茶の香り、焼きたてのパンの籠、滑らかに艶を持つ卵料理と、彩りのよいサラダ。
どれも丁寧に整えられているのに、どこか温度のない美しさがあった。
テーブルの片側にヴァルブルガ、その向かいにオリオン。
その少し下座にレギュラスが座り、さらに間を空けて、その隣にアランが席を与えられていた。
アランは、背筋を伸ばしながらも、少しだけ肩に力が入っているのが分かる。
ナイフとフォークの動きは完璧で、パンをちぎる仕草も洗練されているのに、その一つひとつが「ここで失敗してはいけない」と言い聞かせるような堅さを帯びていた。
会話は主にオリオンとレギュラスのあいだで交わされ、たまにヴァルブルガが短く言葉を挟む。
アランは、問われれば必要最低限の返答をし、それ以上を自ら増やすことはしなかった。
けれど、その沈黙が居心地の悪さを生むほどに、ブラック家の人々は執拗ではない。
むしろ、客人に気後れをさせないように、淡々とした距離感を保っているようにも見えた。
食後の紅茶が運ばれ、銀のポットから琥珀色の液体が注がれていく。
砂糖の入った小さなボウルのふちに、カトラリー同士が触れ合うかすかな音が響いたあと、オリオンとヴァルブルガはそれぞれ立ち上がった。
「では、わたくしはドローレスと話がございますので」
ヴァルブルガがローブの裾を翻し、優雅に食堂を出ていく。
オリオンもまた、書斎へ向かうと言い残して席を離れた。
広い食堂に残されたのは、レギュラスとアランだけになった。
急に広がる静寂に、アランの胸がきゅっと強張る。
カップに口をつけるふりをして視線を落としたまま、どうにか呼吸を整えた。
「……アラン」
名を呼ばれた瞬間、指先がぴくりと動いた。
これまで「セシール嬢」と呼ばれてきた呼び名が、いつの間にか変わっている。
夜会で初めて声をかけられたときも、魔法省で突然手を引かれたあの夜も、セシール家の屋敷で支援を並べられたときでさえ、彼は一貫して「セシール嬢」と呼んでいた。
婚姻を受け入れる返書を送ってから、この数日の間で、呼び名は自然な顔で変わっていた。
アランは、すぐには顔を上げられなかった。
カップの縁に唇を寄せ、紅茶の香りを言い訳にしながら、胸の奥のざわめきをやり過ごそうとする。
「……はい」
少し間をおいてから、小さく返事をする。
レギュラスは、カップを置き、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
その灰色の瞳が、こちらをまっすぐに見ている気配がする。
「母が、午後からドレスの仕立て屋を呼ぶそうですよ」
柔らかな声だった。
いつものように、聞き取りやすい調子で淡々と状況を告げてくる。
「あなたの好みを知りたい、と言っていました」
アランは、そこでようやく顔を上げた。
表情を整えるのに、ほんの少し時間がかかった。
「……ドレス、を」
「ええ。式の段取りと、それに伴う衣装を選ぶ必要がありますからね」
その言葉に、「婚姻」が現実の形を持って迫ってくる。
書類や話し合いの段階ではまだ紙の上の事だったものが、「ドレス」という具体的な形を伴って目の前に置かれると、逃げ場を失っていく感覚があった。
アランは、カップの取っ手に添えた指に力を込めた。
式のことを考えるだけで、胸の奥が重くなる。
ブラック家の人々、魔法省の役人、貴族たちの視線。
その中心で、ブラック家の新たな妻として立つ自分。
息が詰まりそうだった。
「……お任せいたします」
口から出た言葉は、驚くほどあっさりしていた。
自分でも、あまりにも色のない返答だと思う。
着る物など、どうでもよかった。
どれだけ見目の良い布で身を包んでも、ローランドと描いていた未来とは全く別の場所へ歩いていくのだと思うと、ドレスの色も形も、どれも同じに思えた。
「わたくしは……特にこだわりもございません。
ブラック家にふさわしいと判断されるものであれば、それで」
レギュラスは、彼女の言葉を最後まで聞いた。
一つひとつの音を確かめるように受け取ったあと、少しだけ目を細める。
——着る物などどうでもいい、と、そういう響きだった。
「そうですか」と、そのまま受け取ることもできた。
実際、彼女が何を着ても、周囲は勝手に「美しい」「似合っている」と囁くだろう。
けれど、レギュラスは、あえてそのままでは受け取らない。
「こだわりがない、というのは……本当でしょうか?」
穏やかな問いかけだったが、アランにはそれが、まるで心の内を覗き込まれるように感じられた。
「女性は、多かれ少なかれ、身につけるものに何かしら好みをお持ちだと僕は思っていますよ。
色とか、布の感触とか、髪をどうまとめるかとか」
アランは、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……わたくしの好みは、セシール家で過ごす間に、存分に満たしていただきました」
それは、どこか自嘲めいていた。
父と母が選んでくれたドレスたち。
ローランドと過ごした夜会で身に纏った、控えめな淡い色。
「これからは、ブラック家にふさわしいものを、ブラック家のご意向に沿って」
「アラン」
そこで、レギュラスは静かに彼女の名を呼んだ。
翡翠の瞳が、わずかに揺れる。
呼び慣れていない呼び名が、胸の奥に直接触れるようだった。
「あなたは、ことさら自分の望みを小さく言おうとしますね」
責める調子ではなかった。
観察を口にしているだけのような、淡い響き。
「本当に“どうでもいい”なら、僕は母に全部任せてしまいます」
レギュラスは、カップを指先で回しながら続ける。
「母はきっと、あなたを見栄えよく飾ることに全力を尽くすでしょう。
ブラック家にふさわしい、と世間が頷くような、完璧な花嫁に」
アランは、唇をかすかに噛んだ。
ヴァルブルガの視線を思い出す。
歓迎の言葉の奥に潜む、鋭い評価の目。
「……それで、よろしいのではありませんか」
「僕は、あまり面白いとは思いません」
レギュラスの返事は、あっさりしていた。
ほんの少し肩を竦める仕草に、退屈への嫌悪が滲む。
「あなたが何も言わず、何も望まず、ただ“ブラック家にふさわしい”衣装だけを着ているのは……味気ない」
「味気ない……」
「ええ」
彼は、そこでわずかに微笑んだ。
「あなたなら、何を着ても様になりますからね」
その言葉は、さらりと、何でもないように投げられた。
芝居がかった甘さも、露骨な賛辞もなく。
ただ、事実を述べているというように。
けれど、アランの胸には、奇妙な重みとなって落ちた。
何を着ても様になる。
それは褒め言葉の形をしているのに、どこか逃げ場を奪う。
自分自身にとっては「どうでもいい」ドレスであっても、周囲から見れば「よく似合っている」と評価されるのだろう。
自分の意思に関わらず、ブラック家の妻として、美しく整えられたひとつの飾りとして。
「……お世辞は、苦手です」
ようやく絞り出したのは、それだけだった。
「お世辞のつもりはありませんよ」
レギュラスは、軽い調子で返す。
「事実だと僕は思っていますから」
アランは、何も言い返せなかった。
否定すれば、それは幼稚な謙遜になる。
受け入れれば、自分がこの屋敷の「飾り」になっていくことを、認めてしまいそうで怖い。
「……ですが」
沈黙に沈みかけたところで、レギュラスが言葉を継いだ。
「だからこそ、あなた自身の好みを少しは知っておきたいんです」
「……わたくしの、好み」
「ええ。アランが、どんな色を纏っているとき、いちばん呼吸がしやすいか。
どんな布地なら、肩の力を抜いて笑えるのか」
その「呼吸がしやすい」という表現に、アランの胸がわずかに疼いた。
この屋敷に来てから、息が詰まりそうになることばかりだった。
広さも重厚さも、礼儀も視線も、すべてが息苦しい。
唯一、自室に詰め込んだローランドとの思い出たちだけが、細い空気穴のような役割を果たしている。
「あなたの好みを、すべて叶えようとは言いません」
レギュラスは、正直に言った。
「家の体面もある。政治的な意味合いもある。
それでも、その中でどれだけ“あなた”を残せるかは、僕次第でもありますから」
アランは、その言葉の中に含まれた「僕次第」に、ぞくりとした。
それは、逃げ場を与えるようでいて、やはり首輪につながる鎖の長さを決める側の言い分だった。
「ですから、午後の仕立て屋には、ぜひ一緒にお付き合いください」
レギュラスは結論を示す。
「母が選ぶドレスだけではなく、あなた自身の選ぶ一着も、僕は見てみたい」
アランは、視線をテーブルの木目に落とした。
返事を迷う時間は、思ったより短かった。
「……承知いたしました」
それは、慎重に選んだ言葉というより、避けて通れない道を認める音に近かった。
「お時間をいただける限りで……わたくしの好みも、お伝えしてみます」
「楽しみにしていますよ」
レギュラスの声は穏やかだった。
そこに「勝利」を誇る色はない。
ゆっくりと盤面を整え、駒が想定の位置に収まっていくのを楽しむ人間の、静かな満足だけがあった。
アランは、冷めかけた紅茶にそっと口をつけた。
砂糖もミルクも入れていないはずなのに、どこか味が分からない。
「アラン」と呼ばれるたびに、胸の奥に滑り込んでくる感覚がある。
セシール家で呼ばれてきた名前と同じ音のはずなのに、この屋敷でレギュラスに呼ばれるたび、それは少しずつ違う意味を帯びていくように思えた。
この日から、ブラック家での生活が、本当の意味で動き出していくのだと――
アランは、言葉にはしないまま、静かに悟っていた。
ブラック家での生活が始まってからというもの、アランの一日は驚くほど規則正しかった。
朝食の時刻になると、きちんと身支度を整えて食堂に現れ、静かに席につく。
必要最低限の会話と礼儀。
食事が終われば、丁寧にナプキンを畳んで「ごちそうさまでした」と一礼し、そのまま自室へ戻っていく。
昼も、夜も同じだった。
食卓以外で彼女の姿を見かけることは、ほとんどない。
大きな屋敷の廊下や、応接室や、書斎や庭園に、翡翠の瞳が現れることはまずなかった。
——まるで、部屋全体がひとつの要塞みたいだ。
レギュラス・ブラックは、そんなふうに感じていた。
寝室を別に、と言われたとき、彼はそれを条件として受け入れた。
アランのために、南向きの静かな部屋を用意した。
窓から庭が見える、陽当たりのよい部屋。
セシール家での日々から、なるべく落差を感じないように、書棚や机も整えさせた。
ところが、いざ生活が始まってみれば——その部屋は、想像以上に徹底した「城」となっていた。
食事の時間だけ、城門がわずかに開く。
それ以外の時間、アランは自室に籠もり、扉の向こうで何をしているのかは、滅多に外に漏れてこない。
侍女の報告によれば、ほとんどの時間を読書と手紙の筆記に費やし、時折、持ち込んだ小さな箱や押し花に触れているらしい。
——ここは避難所ではあっていい。だが、牢獄にさせるつもりはない。
レギュラスにとって、寝室を別にするという約束は、「彼女がこの家の中で息をするための猶予」であって、「一生触れない聖域」を意味してはいなかった。
部屋に閉じこもることでしか自分を保てないのなら、その部屋ごと、少しずつこちらの世界へ引き寄せればいい。
そう考えるのに、さして時間はかからなかった。
だから、多少強引にでも時間を作ることに、彼は躊躇を持たなかった。
その日の午後、屋敷の廊下は静まり返っていた。
ヴァルブルガは自室に引き取り、オリオンは書斎で魔法省からの書状に目を通している。
執事や使用人たちの足音が遠くを往復するだけで、人の気配は薄い。
レギュラスは、侍女から受け取った報告を思い出していた。
「アラン様は……お部屋でお読み物を。いつも通りでございます」
いつも通り。
食事の時以外は決して姿を見せない新しい“花嫁”。
レギュラスは廊下の角を曲がり、アランの部屋の並ぶ一角へ足を向けた。
壁には、彼女のために描かせた花の絵画がかかっている。
柔らかな色調のその絵も、扉が閉ざされたままでは、ただの飾りに過ぎない。
扉の前に立ち、ノックする前に一度だけ呼吸を整えた。
銀のノックリングが、静かな廊下に低い音を響かせる。
「アラン」
返事を待つ間は、わずかな静寂が伸びる。
やがて、内側からかすかな衣擦れの音がして、扉が慎重に開かれた。
隙間から現れた翡翠の瞳が、一瞬だけレギュラスを見上げ、すぐに伏せられる。
「……レギュラス様」
部屋着に着替えたアランは、朝よりも少しだけ柔らかい印象だった。
それでも、扉を支える手はしっかりとえり元を守るような位置にある。
「お邪魔しています」
レギュラスは、ごく自然な顔で言った。
その腕には、一冊の厚い本と、いくつかの羊皮紙の束が抱えられている。
「少し、お時間をいただけますか」
「……何か、ご用件でしょうか」
アランの声音は、極力感情を排したものだった。
拒絶も、歓迎もない。
ただ、形式上の質問だけが置かれる。
「ええ。あなたのお父上の研究に関わると思われる資料が、魔法省の倉庫からいくつか見つかりまして」
そう言って、本の表紙を少しだけ見せる。
そこには、魔法薬学の古い文献の題名が金文字で刻まれていた。
「当主であるエドモンド卿にお渡しする前に、一度あなたの目を通していただくのがよいかと思いましてね」
アランの瞳が、小さく揺れた。
「父」と「研究」という言葉が、彼女の中で抗い難い引力を持っていることを、レギュラスはすでに知っている。
「……わたくしに、ですか」
「ええ。あなたは、よくお父上の研究を手伝ってこられたのでしょう?」
かつて食卓で交わした会話を思い返す。
「得意というほどではありませんが、父の研究の手伝いはよくしておりました」と控えめに言った彼女の声と共に。
「あなたの視点から見て、使えそうかどうかを教えていただきたい」
「……父ほどの目は持ち合わせておりませんけれど」
アランは、迷いながらも扉を少し広げた。
それは、部屋という要塞の城門を、ほんの僅かに開くという行為だった。
「少しでしたら……拝見いたします」
「ありがとうございます」
レギュラスは、ごく自然な動作でその隙間をくぐり、部屋の中へ足を踏み入れた。
アランの部屋は、すでに彼女の色に染まりつつあった。
窓際の机には、書きかけの手紙とインク壺。
引き出しの鍵はきちんと閉められているが、その上に置かれた栞や押し花の箱が、ここが彼女の「逃げ場」であることを静かに主張している。
ベッドは綺麗に整えられ、椅子の背には淡い色のショールが掛けられていた。
セシール家で過ごしてきた時間の名残が、ところどころに小さな影のように落ちている。
「とても、良い部屋ですね」
レギュラスは、ごくさりげなく室内を見渡した。
アランは、その視線に気づいているのかいないのか、少しだけ肩に力をこめる。
「……レギュラス様が、用意してくださったお部屋ですから」
「そうですね」
彼は軽く笑う。
「ですが、部屋というのは、誰が用意したかより、誰がどう使うかで意味が変わるものです」
アランは返事をしなかった。
代わりに、机の前の椅子を引き、「どうぞ」と視線だけで促す。
レギュラスは、本と羊皮紙を机の上に置き、自分は窓辺の椅子に腰かけた。
アランは、彼から少し距離を取るようにして、机側に立つ。
「こちらが、先ほど申し上げた資料です」
レギュラスは古い文献を開き、ページをめくった。
そこには、魔力の定着に関する古い理論と、いくつかの実験記録が記されている。
アランは、自然と身を乗り出していた。
父が何度も口にしていた用語が並び、見慣れた理論と、見たことのない仮説が混在している。
「……これを、どこで」
「魔法省の古い倉庫です。
整理の過程で破棄される予定だったものの中に混ざっていました」
レギュラスは、アランの横顔をじっと見つめる。
読み進めるうちに、こわばっていた表情から、わずかに緊張がほどけていくのが分かる。
研究の話をしているときだけ、彼女は少し呼吸が楽そうだった。
「いかがですか。お父上の研究に、とって代わるほどの価値は?」
「……とって代わるというよりは、補足のような、補助線のような役割でしょうか」
アランはページをめくりながら答えた。
言葉が自然と滑らかになる。
「ここで仰っている定着の理論は、父が扱っているものより一世代前の考え方です。
ですが、この部分……魔力の滞留についての記述は、父が悩んでおられた点と重なるかもしれません」
彼女の指先が、紙面の一行をそっとなぞる。
その動きは、迷いなく、的確だった。
レギュラスは、静かに息をついた。
「やはり、あなたに見せてよかった」
彼の声には、誇張ではない感心がこもっていた。
アランは、わずかに頬を赤くする。
「……これくらいでしたら、誰にでも」
「誰にでも、ではありませんよ」
その否定は静かだったが、断固としていた。
「少なくとも、僕にはできません」
魔法薬に関して、レギュラスは専門家ではなかった。
セシール家の人間ほどの情熱も、父エドモンドほどの深い執着も持っていない。
「あなたは、自分で思っているよりずっと、価値ある目を持っている」
さらりと述べられた言葉に、アランの手が一瞬止まった。
「……おだてても、何も出ません」
「おだてているつもりはありません」
そう言って、レギュラスは椅子から少し身を乗り出した。
距離が、ほんの少しだけ縮まる。
「僕は、自分の部下にも、妻になる人にも、現実以上に持ち上げた評価を与えるのは好きではないんです。
過大評価は、いつかその人間を壊す」
アランは、驚いたように彼を見た。
レギュラスの灰色の瞳は、穏やかな光を湛えたままだった。
その光の奥に、ただ冷たいだけではない別の温度が揺れている。
「ですから、こうして時間を割いて、あなたに資料を見せに来ているのは、僕にとっても意味のある行為なんですよ」
「……わたくしに、とっても、意味があると?」
「もちろんです」
レギュラスは、ほんの少し微笑んだ。
「あなたにとって、この部屋は大切な場所でしょう。
ですが、食事の時以外、ここに閉じこもってしまうのは——僕には、少し惜しく思える」
アランの表情がかすかに強張る。
図星を突かれたような、居心地の悪さがにじんでいた。
「……閉じこもっている、つもりは」
「部屋から出ない、という事実だけを申し上げているつもりです」
彼女を責める調子ではない。
ただ、状況の確認をしているだけのような柔らかさで。
「あなたがここで一人でいる時間を、全部奪うつもりはありません。
逃げ場は、必要でしょう」
アランのまぶたが、かすかに震えた。
「逃げ場」という言葉が、あまりに正確すぎた。
「ですが——少しずつでもいい。
その要塞の門を、僕にも通してほしいと思っています」
言葉の選び方は、限りなく穏やかだった。
けれど、その中に含まれた意図は、少しも柔らかくない。
それは「部屋そのものを奪う」のではなく、「部屋ごとこちらの側に引き寄せる」という発想だった。
「今日は、その最初の一歩だと思ってください」
レギュラスは椅子から立ち上がり、机の上の資料を整えた。
アランは、まだ言葉を見つけられずにいる。
「父上にお渡しする前に、あなたの注釈を添えていただけますか。
ここだと思う箇所に印をつけていただくだけで結構です」
「……承知しました」
かすれた声で返事をすると、アランは羊皮紙を受け取った。
指先に、その重み以上のものが伝わってくる。
「ありがとう、アラン」
帰り際、レギュラスは彼女の名をもう一度呼んだ。
翡翠の瞳が、反射的に彼を見上げる。
「こうして、一緒に話せる時間が持てて、嬉しいです」
その一言には、飾り気のない穏やかさがあった。
それが、計算の上に乗せられたものだとしても、アランの胸には小さな波紋を残す。
扉が閉まり、レギュラスの足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
部屋の中には再び静寂が戻ったが、先ほどまでと同じ静けさではなかった。
机の上には、父の研究に繋がるかもしれない資料と、自分に託された小さな役割。
部屋という要塞の内側に、レギュラスという存在の影が、ゆっくりと滲み始めている。
ほんの少しずつ——
それでも確かに、距離は縮まり始めていた。
アランの部屋の扉を叩くことが、レギュラスの日常の一部になっていった。
最初の頃は、訪れれば訪れるほど城門を固く閉ざされるのではないかと、わずかな警戒があった。
だからこそ、彼はあえて距離をとった。
窓際の椅子と、机のそばの椅子。
アランが机の前に座るなら、自分は窓辺。
彼女が窓辺で本を読むなら、自分は壁際の椅子に腰を下ろす。
同じ部屋にいながら、手を伸ばせば届く距離には、決して近づかない。
それが、最初の暗黙の約束のようになっていた。
ある日は、魔法省から持ち帰った新しい魔法薬研究の資料を持ち込んだ。
別の日は、セシール家の書庫から取り寄せた古い文献の写し。
またある日は、「今度導入される薬品流通の新しい法案について、あなたの意見を聞きたい」と言って、法務部の草案を机の上に広げた。
――口実には事欠かなかった。
魔法省という巨大な組織は、探せばいくらでも「共有すべき資料」を生み出してくれる。
アランは最初こそ、他人行儀な姿勢を崩さなかった。
資料に目を通し、問われた箇所について答えると、それ以上話を広げようとはしない。
けれど、何度もそうした時間を重ねるうちに、すこしずつ変化が生まれていった。
「ここの条文は、薬草の育成期間を無視しているように思います。
収穫時期をずらせない種類の薬草は……」
ある日、アランは羊皮紙を指で押さえながら、自分から言葉を続けた。
以前なら、レギュラスが問いかけて、ようやく短く返答するだけだった場所だ。
「なるほど。では、その点を考慮した修正案を、あなたの視点で書き加えてみていただけますか」
「わたくしの視点で、よろしいのですか」
「あなたの視点であることが、重要なんです」
そんなやりとりのあと、机に向かうアランの肩の力は、ほんの少しだけ抜けていた。
日を追うごとに、彼女の口から出る言葉は増えていった。
父の研究に関する話。
セシール家の薬草園でどんな失敗をしたかという、小さな思い出話。
魔法薬の香りから連想する、幼い日の情景。
話しているうちに、アラン自身も、どこまで話してしまったのか途中で気づくことがある。
そのたびに、翡翠の瞳が小さく揺れ、言葉が途切れる。
レギュラスは、そこで追い詰めるような質問はしなかった。
話が切れてしまえば、それ以上深掘りせず、代わりに別の資料を広げる。
そうして、「話しすぎた」という後悔を、彼女の中に積ませないようにしていた。
距離も、少しずつ変わった。
ある日、アランが長時間机に向かい、法案に注釈を書き込んでいたときのことだ。
背中がこわばり、肩がわずかに上下する。
「少し、休憩にしませんか」
レギュラスはそう声をかけ、窓際の椅子から立ち上がった。
いつもなら、そこで椅子ごと場所を移し、離れた位置に座り直すところだ。
ただ、その日は、あえて机の横にある椅子を引いた。
アランの隣。
肩が触れるほどではないが、ひとつ分の椅子の距離だけ空いた位置。
「紅茶を持ってきましょうか」と問う彼女に、「侍女に任せましょう」と穏やかに告げてから、静かに腰を下ろした。
アランの手が、ペンの上で一瞬止まる。
「すぐに済みますので……もう少しだけ」
「いいえ。急がせたいわけではありませんよ」
レギュラスは、机の上の文書ではなく、窓の外を見た。
庭園の生垣と噴水。遠くに見える古い樹木。
「あなたがここで何をしているのかを、こうして傍で見ていたいだけです」
その一言は、あまりにもさらりとしていた。
視線を投げかけながらではなく、あくまで窓の外に目を向けたまま言う。
アランはその言葉の意味を正面から受け止めかねているように、わずかに呼吸を乱した。
それでも、「それなら、ご自由に」と追い返すこともしなかった。
それが最初の「隣」だった。
それから先は、自然と回数が増えていく。
最初の数日は、レギュラスもなお、少し離れた椅子を選ぶことがあった。
しかし、一度隣に座ることを許されてしまえば、その行為への躊躇いは雪のように溶けていった。
資料の説明をするとき、机の同じ頁を覗き込む必要がある。
文字の上にアランの指先が置かれれば、その隣に自分の指で別の箇所を示す。
自然と肩の距離は縮まり、椅子と椅子の間にあった“ひとつ分”の余白が埋まっていく。
「ここを見てください。
魔力の流れ方の図が、あなたのお父上の理論とよく似ているでしょう?」
「……本当ですね。
父は、この部分をよく“溜池”と例えていました」
「それは興味深い」
そう言いながら紙に顔を近づければ、かすかにアランの髪の香りが届く。
部屋付きの侍女が用意したのであろう、控えめな香油の香り。
それと混じり合う、インクと古い紙の匂い。
アランは、最初こそその距離に戸惑いを見せた。
視線を逸らし、微かに身体を引こうとする。
しかし、彼女が椅子を動かすほど露骨な行動に出ることはなかった。
気づけば、彼女の方も、資料に集中するうちに、距離のことを忘れている瞬間が増えていた。
そうした小さな綻びを、レギュラスは逃さなかった。
ある晩、レギュラスは、自室に戻ったあと、ふと立ち止まった。
ブラック家の廊下は静かで、遠くの部屋からかすかに暖炉の火のはぜる音だけが聞こえてくる。
手には、アランの部屋に置いてきた資料の控え。
今日もまた、あの部屋でかなりの時間を過ごしていた。
資料の説明をし、父の研究の話を聞き、幼少期の小さな失敗談に笑い、時折、真剣な議論に熱を帯びた。
会話の量は、最初のころとは比べものにならない。
アランは相変わらず、言葉を選び、感情を過剰に見せることはしない。
それでも、沈黙ばかりだった部屋の空気は、目に見えない柔らかさを帯びていた。
レギュラスは、窓辺に立ち、夜空を見上げた。
高い天井の向こうに、かすかに星の光が滲んでいる。
自分でも驚いていた。
まさか、自分がこんなにも時間をかけて、女一人の心を落とそうと必死になるなど、思いもしなかった。
これまでは違った。
夜会で見初めた令嬢に声をかけるとき、彼はもっと短い時間で勝負をつける男だった。
甘い言葉と洗練された仕草と、わずかに与える特別扱い。
それだけで十分だった。
何度となく繰り返してきた遊び。
落ちる側が勝手に夢を見て、自分から足を踏み入れてくるのを待つだけでよかった。
けれど、アラン・セシールは違う。
彼女は、自分から落ちることを決して良しとしなかった。
心を預けることを、頑なに拒んでいた。
そのくせ、まっすぐな目を持っていた。
父の研究を語るときの瞳。
ローランドとの過去を胸奥に秘めたまま、それを決して口に出そうとしない硬さ。
容易く触れてはならないものが、その中にあると分かっていながら、レギュラスは視線を外せなかった。
時間がかかる。
手間もかかる。
言葉のひとつひとつを選び、距離の一センチ一センチを計算し、彼女の表情の微細な変化を見逃さないように神経を尖らせる。
それでも、その過程を厭わしいとは思えなかった。
むしろ、そこにこそ昂揚があった。
部下や対立勢力を盤上で追い詰める政治のゲームとは違う。
もっと繊細で、もっと危うい、ただ一人の心を相手にした攻防。
アランの部屋に入る回数が増えれば増えるほど、彼女の中の何かがほんの少しずつこちらになびいていく予感があった。
まだ確信には遠い。
けれど、風向きが完全に逆ではないと感じられるだけで十分だった。
レギュラスは、自嘲にも似た微笑みを漏らした。
「随分と、骨の折れる相手だ」
そう呟きながらも、その声には苦みだけではなく、奇妙な満足が滲んでいた。
アラン・セシールという一人の女を手に入れることは、もはや単なる所有の問題ではなかった。
自分の世界の中に、彼女自身の意思ごと引きずり込んでやりたい。
そのために時間を費やすことを、少しも惜しいと思わなくなっている自分がいた。
部屋の外では、静かな夜が広がっていた。
その片隅で、翡翠の瞳の少女の部屋だけが、ゆっくりとレギュラスの支配する「ブラック家」という世界に沈み込みつつある。
彼は、その沈み方を急かさなかった。
だからこそ、余計に手放せなくなっていた。
セシール家の玄関前に停められた馬車には、必要最低限に絞り込んだ荷物だけが積まれている。ドレス、日用品、書物、そして――アランが最後の最後まで迷いながら、それでもどうしても手放せなかったものたち。
ローランド・フロストと過ごしてきた年月が、形を与えられて残っている品々だった。
丁寧にリボンで綴じられた手紙の束。
淡い青い封筒や、少し皺になった羊皮紙に踊る、見慣れた筆跡。
「近いうちに会いたい」と添えられてきた一文の数々は、見返す勇気がなくて、表紙の見える一番上だけを伏せて結わえ直した。
ローランドが初めて贈ってくれた本も、トランクの隙間に収められている。
魔法植物学の基礎書――表紙は地味だが、彼の父の蔵書から譲り受けたものだと嬉しそうに語っていた本だ。
巻末には、若き日のローランドがこっそり書き込んだらしいメモが残っていて、アランはそれを見つけたとき、ひどく照れ臭くて愛おしかった。
小さな木製の栞。
庭の端で拾った小枝を一緒に削り、簡単な保護の呪文をかけたものだ。
子どもの遊びの延長のようなそれを、なぜかローランドは「ちゃんと使う」と言って、自分用と彼女用に二つ作った。
ごく簡素な銀のペンダントもある。
中央の小さな石は、宝石というには程遠い、透明度の低い水晶だ。
高価なものではない。むしろ、ブラック家の宝物庫にあるものと並べれば、見劣りしかしないだろう。
けれど、まだ婚約という形にもなっていなかった頃、「いつか正式に」と笑ってくれた夜の温度ごと、そのペンダントには刻み込まれていた。
そして、小さな箱の中に、押し花になった薬草。
彼が初めてセシール家を訪ねた日、薬草園の隅に自生していたワイルドタイムを、二人でこっそり摘んで、押し花にして分け合ったものだ。
蓋を開けると、ほとんど香りは残っていないのに、胸の奥には、あの日の風の匂いまでよみがえる。
それらを全部、アランは自分のトランクに詰めた。
誰にも見えないように、衣類や本の間に紛れ込ませて。
ブラック家本邸に到着したとき、胸の奥に冷たい帯が一筋通ったようだった。
高く聳える黒い外壁。
尖塔と煙突が並ぶ屋根のライン。
正面玄関へ続く石畳はきれいに掃き清められていたが、その整いすぎた美しさがかえって息苦しい。
屋敷の中に一歩足を踏み入れただけで、空気の密度が変わる。
天井の高いホール、重厚な階段、左右に延びる廊下。
すべてが、アランに「ここはあなたの家ではない」と告げているようだった。
けれど、その屋敷の奥に、レギュラス・ブラックが「あなたの部屋です」と用意した一室がある。
廊下の突き当たりに近い、南向きの部屋。
大きな窓からは、ブラック家の庭園が見渡せる。
壁は柔らかなクリーム色で塗られ、ベッドや机、書棚は落ち着いた色合いの木で揃えられていた。
「何か足りないものがあれば、遠慮なく言ってください」
簡単な案内を終えたレギュラスがそう告げて去ると、部屋には静けさだけが残った。
さきほどまで他人の気配を濃厚に纏っていた屋敷とは違い、この部屋だけはまだ「空白」に近い。
アランは、そっと息をついた。
――息が詰まるような、この屋敷の中で。
この部屋だけは、唯一、自分の逃げ場であってほしい。
その願いを確かめるように、アランはトランクの留め金を外し、一つずつ中身を取り出していった。
本の束を、窓際の小さな書棚に並べる。
その中でも、ローランドから贈られた魔法植物学の本だけを、手の届きやすい位置に置いた。
背表紙を撫でる指先が、ほんの少し震える。
手紙の束は、机の引き出しの奥へ。
鍵付きの小さな引き出しに収めると、かちり、と乾いた音が鳴る。
その音は、まるで過去を封じ込める合図のようで、胸が少し痛んだ。
押し花の箱は、ベッド脇の小机に置いた。
白いレースの敷物の上にそっと載せると、それだけでこの部屋の空気が少し柔らかくなる気がした。
銀のペンダントは、そのまま首元に掛けた。
ドレスの襟に隠れる位置に、冷たい鎖の感触が密やかに寄り添う。
鏡に映る自分の胸元には、ほとんど何も見えない。
それがかえって、この小さな秘密を守っているようで、アランはわずかに安心した。
木製の栞は、レギュラスが備え付けたままにしていた空白のノートに挟んだ。
ノートだけを見れば、これから書き込まれる未来のために用意された白紙だ。
けれど、その間に挟まれた栞は、過去から延びてくる細い道標のようにも見えた。
荷ほどきが終わるころには、この部屋の随所に、ローランドとの思い出が静かに息を潜めていた。
派手ではない。
どこかの誰かに見られても、ただの私物にしか見えない。
だが、アラン自身にとっては、この部屋を「自分の場所」に変えるために必要不可欠な印だった。
扉を閉めると、外の気配はぐっと遠ざかる。
厚い扉が、ブラック家という巨大な屋敷から彼女を切り離してくれる。
アランは、窓辺に置かれた椅子に腰を下ろした。
庭を見下ろすと、整えられた生垣と、噴水の水面が見える。
どこを見ても完璧で、隙がない。
セシール家の薬草園のような、雑然とした生命力はどこにもない。
胸が少し苦しくなって、視線を窓から机へと移した。
机の上には、すでにレギュラスが用意させていた上質な便箋とインク壺が置かれている。
ペン先は新品で、まだ一度もインクに浸されていない。
アランは、そっと便箋を一枚取り出した。
――ローランドに、手紙を書こう。
手を伸ばすだけで届かない距離になってしまった人に。
それでも、まだ繋がっている何かがあると信じるために。
ペンをインクに浸し、余白の紙で一度だけ試し書きをする。
滑らかなインクの動きに、ほんの少しだけ安心する。
そして、便箋の右上から、丁寧に文字を置いていった。
ローランド様
自分の手書きの文字を、ここまで意識して見るのは久しぶりだった。
筆跡がかすかに揺れているのが分かる。
深く息を吸い、呼吸を整えながらペンを進めた。
会いたい。
その言葉は、最初から頭の中に浮かんでいた。
けれど、ペン先がその形をなぞることは決してなかった。
――会いたい、とは書かない。
そう決めている。
書いてしまえば、何かが決壊してしまいそうで、その後にどんな言葉を並べても、安っぽい懇願に成り果ててしまいそうで。
代わりに、日々のことを綴った。
体調はどうか。
魔法省での仕事は順調か。
最近の研究室の様子はどうか。
セシール家の薬草園は変わりないか。
父は無理をしていないか、母はちゃんと休んでいるか。
それらはすべて、「あなたがいま、どんな場所で、どんな顔をして生きているのかを知りたい」という願いに他ならない。
一文ごとに、ローランドの姿がはっきりと浮かび上がる。
少し猫背気味に書類を読む横顔。
真剣な話をするときに、眉間に寄る皺。
笑ったときに、目尻にできる小さな線。
思い浮かべれば浮かべるほど、胸の奥が熱くなっていった。
ペン先が、ぽたりと一瞬止まる。
インクが紙に小さな染みを作る。
視界がにじんだ。
最初の一雫が、いつ落ちたのか、自分でも分からない。
便箋の文字が、涙でじわりと滲んでいく。
慌てて袖で拭おうとするが、もう遅い。
インクと涙が混ざり、いくつかの文字は少しだけぼやけた。
「……だめね」
自嘲にも似た声が、かすかに漏れた。
それでもペンを置くことはしなかった。
涙を拭き、少しだけペンを握り直す。
追伸には、あえてどこにでもあるような文を記した。
季節の変わり目ですので、どうかご自愛ください。
遠くから、あなたのご健康をお祈りしております。
本当は、そこに「愛」という言葉を忍ばせたかった。
けれど、それを飲み込み、最も穏当な表現だけを並べていく。
書きながら、また涙が滲んでくる。
胸の奥をどうしようもない悔しさと寂しさが行き来する。
最後に、自分の名を記す。
アラン・セシール
ペンを置くと、指先がじんと痺れるように重かった。
便箋をしばらく見つめたあと、丁寧に折り畳み、封筒に入れる。
封蝋を押すとき、ほんの一瞬だけ迷いが生まれた。
この手紙を出せば、また一つ、ローランドとの「現実」が動く。
返事が来るのかどうかも分からない。
来たところで、そこにはきっと「元気で」という類の言葉しか並ばないだろうと分かっていても。
それでも――何も出さないよりは、まだましだと思いたかった。
封を閉じた封筒を手のひらに乗せると、その軽さが胸に堪えた。
中に詰め込んだ想いの重さと、紙そのものの軽さの差が、やけに鮮明だった。
アランは、封筒をそっと胸に押し当てた。
ローランドの名前を小さくなぞるように指でなでると、また涙がこみ上げてくる。
ブラック家の屋敷は広く、どこまでも立派で、整っている。
けれど、その中で、自分が心から呼吸できる場所は、この小さな部屋と、手のひらに乗る一通の手紙だけだった。
窓の外の庭では、風が生垣を揺らしている。
遠いどこかで、セシール家の薬草園の草も、同じ空の下で風に揺れているのだろうかと想像しながら、アランは封筒をそっと机の上に置いた。
涙の跡が完全に乾くまで、しばらくのあいだ、その場から動けなかった。
ブラック家での生活が始まって、まだ数日も経っていない朝だった。
食堂の大きな窓からは、薄い雲越しの光が差し込んでいる。
長いテーブルの中央には、銀のポットと紅茶の香り、焼きたてのパンの籠、滑らかに艶を持つ卵料理と、彩りのよいサラダ。
どれも丁寧に整えられているのに、どこか温度のない美しさがあった。
テーブルの片側にヴァルブルガ、その向かいにオリオン。
その少し下座にレギュラスが座り、さらに間を空けて、その隣にアランが席を与えられていた。
アランは、背筋を伸ばしながらも、少しだけ肩に力が入っているのが分かる。
ナイフとフォークの動きは完璧で、パンをちぎる仕草も洗練されているのに、その一つひとつが「ここで失敗してはいけない」と言い聞かせるような堅さを帯びていた。
会話は主にオリオンとレギュラスのあいだで交わされ、たまにヴァルブルガが短く言葉を挟む。
アランは、問われれば必要最低限の返答をし、それ以上を自ら増やすことはしなかった。
けれど、その沈黙が居心地の悪さを生むほどに、ブラック家の人々は執拗ではない。
むしろ、客人に気後れをさせないように、淡々とした距離感を保っているようにも見えた。
食後の紅茶が運ばれ、銀のポットから琥珀色の液体が注がれていく。
砂糖の入った小さなボウルのふちに、カトラリー同士が触れ合うかすかな音が響いたあと、オリオンとヴァルブルガはそれぞれ立ち上がった。
「では、わたくしはドローレスと話がございますので」
ヴァルブルガがローブの裾を翻し、優雅に食堂を出ていく。
オリオンもまた、書斎へ向かうと言い残して席を離れた。
広い食堂に残されたのは、レギュラスとアランだけになった。
急に広がる静寂に、アランの胸がきゅっと強張る。
カップに口をつけるふりをして視線を落としたまま、どうにか呼吸を整えた。
「……アラン」
名を呼ばれた瞬間、指先がぴくりと動いた。
これまで「セシール嬢」と呼ばれてきた呼び名が、いつの間にか変わっている。
夜会で初めて声をかけられたときも、魔法省で突然手を引かれたあの夜も、セシール家の屋敷で支援を並べられたときでさえ、彼は一貫して「セシール嬢」と呼んでいた。
婚姻を受け入れる返書を送ってから、この数日の間で、呼び名は自然な顔で変わっていた。
アランは、すぐには顔を上げられなかった。
カップの縁に唇を寄せ、紅茶の香りを言い訳にしながら、胸の奥のざわめきをやり過ごそうとする。
「……はい」
少し間をおいてから、小さく返事をする。
レギュラスは、カップを置き、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
その灰色の瞳が、こちらをまっすぐに見ている気配がする。
「母が、午後からドレスの仕立て屋を呼ぶそうですよ」
柔らかな声だった。
いつものように、聞き取りやすい調子で淡々と状況を告げてくる。
「あなたの好みを知りたい、と言っていました」
アランは、そこでようやく顔を上げた。
表情を整えるのに、ほんの少し時間がかかった。
「……ドレス、を」
「ええ。式の段取りと、それに伴う衣装を選ぶ必要がありますからね」
その言葉に、「婚姻」が現実の形を持って迫ってくる。
書類や話し合いの段階ではまだ紙の上の事だったものが、「ドレス」という具体的な形を伴って目の前に置かれると、逃げ場を失っていく感覚があった。
アランは、カップの取っ手に添えた指に力を込めた。
式のことを考えるだけで、胸の奥が重くなる。
ブラック家の人々、魔法省の役人、貴族たちの視線。
その中心で、ブラック家の新たな妻として立つ自分。
息が詰まりそうだった。
「……お任せいたします」
口から出た言葉は、驚くほどあっさりしていた。
自分でも、あまりにも色のない返答だと思う。
着る物など、どうでもよかった。
どれだけ見目の良い布で身を包んでも、ローランドと描いていた未来とは全く別の場所へ歩いていくのだと思うと、ドレスの色も形も、どれも同じに思えた。
「わたくしは……特にこだわりもございません。
ブラック家にふさわしいと判断されるものであれば、それで」
レギュラスは、彼女の言葉を最後まで聞いた。
一つひとつの音を確かめるように受け取ったあと、少しだけ目を細める。
——着る物などどうでもいい、と、そういう響きだった。
「そうですか」と、そのまま受け取ることもできた。
実際、彼女が何を着ても、周囲は勝手に「美しい」「似合っている」と囁くだろう。
けれど、レギュラスは、あえてそのままでは受け取らない。
「こだわりがない、というのは……本当でしょうか?」
穏やかな問いかけだったが、アランにはそれが、まるで心の内を覗き込まれるように感じられた。
「女性は、多かれ少なかれ、身につけるものに何かしら好みをお持ちだと僕は思っていますよ。
色とか、布の感触とか、髪をどうまとめるかとか」
アランは、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……わたくしの好みは、セシール家で過ごす間に、存分に満たしていただきました」
それは、どこか自嘲めいていた。
父と母が選んでくれたドレスたち。
ローランドと過ごした夜会で身に纏った、控えめな淡い色。
「これからは、ブラック家にふさわしいものを、ブラック家のご意向に沿って」
「アラン」
そこで、レギュラスは静かに彼女の名を呼んだ。
翡翠の瞳が、わずかに揺れる。
呼び慣れていない呼び名が、胸の奥に直接触れるようだった。
「あなたは、ことさら自分の望みを小さく言おうとしますね」
責める調子ではなかった。
観察を口にしているだけのような、淡い響き。
「本当に“どうでもいい”なら、僕は母に全部任せてしまいます」
レギュラスは、カップを指先で回しながら続ける。
「母はきっと、あなたを見栄えよく飾ることに全力を尽くすでしょう。
ブラック家にふさわしい、と世間が頷くような、完璧な花嫁に」
アランは、唇をかすかに噛んだ。
ヴァルブルガの視線を思い出す。
歓迎の言葉の奥に潜む、鋭い評価の目。
「……それで、よろしいのではありませんか」
「僕は、あまり面白いとは思いません」
レギュラスの返事は、あっさりしていた。
ほんの少し肩を竦める仕草に、退屈への嫌悪が滲む。
「あなたが何も言わず、何も望まず、ただ“ブラック家にふさわしい”衣装だけを着ているのは……味気ない」
「味気ない……」
「ええ」
彼は、そこでわずかに微笑んだ。
「あなたなら、何を着ても様になりますからね」
その言葉は、さらりと、何でもないように投げられた。
芝居がかった甘さも、露骨な賛辞もなく。
ただ、事実を述べているというように。
けれど、アランの胸には、奇妙な重みとなって落ちた。
何を着ても様になる。
それは褒め言葉の形をしているのに、どこか逃げ場を奪う。
自分自身にとっては「どうでもいい」ドレスであっても、周囲から見れば「よく似合っている」と評価されるのだろう。
自分の意思に関わらず、ブラック家の妻として、美しく整えられたひとつの飾りとして。
「……お世辞は、苦手です」
ようやく絞り出したのは、それだけだった。
「お世辞のつもりはありませんよ」
レギュラスは、軽い調子で返す。
「事実だと僕は思っていますから」
アランは、何も言い返せなかった。
否定すれば、それは幼稚な謙遜になる。
受け入れれば、自分がこの屋敷の「飾り」になっていくことを、認めてしまいそうで怖い。
「……ですが」
沈黙に沈みかけたところで、レギュラスが言葉を継いだ。
「だからこそ、あなた自身の好みを少しは知っておきたいんです」
「……わたくしの、好み」
「ええ。アランが、どんな色を纏っているとき、いちばん呼吸がしやすいか。
どんな布地なら、肩の力を抜いて笑えるのか」
その「呼吸がしやすい」という表現に、アランの胸がわずかに疼いた。
この屋敷に来てから、息が詰まりそうになることばかりだった。
広さも重厚さも、礼儀も視線も、すべてが息苦しい。
唯一、自室に詰め込んだローランドとの思い出たちだけが、細い空気穴のような役割を果たしている。
「あなたの好みを、すべて叶えようとは言いません」
レギュラスは、正直に言った。
「家の体面もある。政治的な意味合いもある。
それでも、その中でどれだけ“あなた”を残せるかは、僕次第でもありますから」
アランは、その言葉の中に含まれた「僕次第」に、ぞくりとした。
それは、逃げ場を与えるようでいて、やはり首輪につながる鎖の長さを決める側の言い分だった。
「ですから、午後の仕立て屋には、ぜひ一緒にお付き合いください」
レギュラスは結論を示す。
「母が選ぶドレスだけではなく、あなた自身の選ぶ一着も、僕は見てみたい」
アランは、視線をテーブルの木目に落とした。
返事を迷う時間は、思ったより短かった。
「……承知いたしました」
それは、慎重に選んだ言葉というより、避けて通れない道を認める音に近かった。
「お時間をいただける限りで……わたくしの好みも、お伝えしてみます」
「楽しみにしていますよ」
レギュラスの声は穏やかだった。
そこに「勝利」を誇る色はない。
ゆっくりと盤面を整え、駒が想定の位置に収まっていくのを楽しむ人間の、静かな満足だけがあった。
アランは、冷めかけた紅茶にそっと口をつけた。
砂糖もミルクも入れていないはずなのに、どこか味が分からない。
「アラン」と呼ばれるたびに、胸の奥に滑り込んでくる感覚がある。
セシール家で呼ばれてきた名前と同じ音のはずなのに、この屋敷でレギュラスに呼ばれるたび、それは少しずつ違う意味を帯びていくように思えた。
この日から、ブラック家での生活が、本当の意味で動き出していくのだと――
アランは、言葉にはしないまま、静かに悟っていた。
ブラック家での生活が始まってからというもの、アランの一日は驚くほど規則正しかった。
朝食の時刻になると、きちんと身支度を整えて食堂に現れ、静かに席につく。
必要最低限の会話と礼儀。
食事が終われば、丁寧にナプキンを畳んで「ごちそうさまでした」と一礼し、そのまま自室へ戻っていく。
昼も、夜も同じだった。
食卓以外で彼女の姿を見かけることは、ほとんどない。
大きな屋敷の廊下や、応接室や、書斎や庭園に、翡翠の瞳が現れることはまずなかった。
——まるで、部屋全体がひとつの要塞みたいだ。
レギュラス・ブラックは、そんなふうに感じていた。
寝室を別に、と言われたとき、彼はそれを条件として受け入れた。
アランのために、南向きの静かな部屋を用意した。
窓から庭が見える、陽当たりのよい部屋。
セシール家での日々から、なるべく落差を感じないように、書棚や机も整えさせた。
ところが、いざ生活が始まってみれば——その部屋は、想像以上に徹底した「城」となっていた。
食事の時間だけ、城門がわずかに開く。
それ以外の時間、アランは自室に籠もり、扉の向こうで何をしているのかは、滅多に外に漏れてこない。
侍女の報告によれば、ほとんどの時間を読書と手紙の筆記に費やし、時折、持ち込んだ小さな箱や押し花に触れているらしい。
——ここは避難所ではあっていい。だが、牢獄にさせるつもりはない。
レギュラスにとって、寝室を別にするという約束は、「彼女がこの家の中で息をするための猶予」であって、「一生触れない聖域」を意味してはいなかった。
部屋に閉じこもることでしか自分を保てないのなら、その部屋ごと、少しずつこちらの世界へ引き寄せればいい。
そう考えるのに、さして時間はかからなかった。
だから、多少強引にでも時間を作ることに、彼は躊躇を持たなかった。
その日の午後、屋敷の廊下は静まり返っていた。
ヴァルブルガは自室に引き取り、オリオンは書斎で魔法省からの書状に目を通している。
執事や使用人たちの足音が遠くを往復するだけで、人の気配は薄い。
レギュラスは、侍女から受け取った報告を思い出していた。
「アラン様は……お部屋でお読み物を。いつも通りでございます」
いつも通り。
食事の時以外は決して姿を見せない新しい“花嫁”。
レギュラスは廊下の角を曲がり、アランの部屋の並ぶ一角へ足を向けた。
壁には、彼女のために描かせた花の絵画がかかっている。
柔らかな色調のその絵も、扉が閉ざされたままでは、ただの飾りに過ぎない。
扉の前に立ち、ノックする前に一度だけ呼吸を整えた。
銀のノックリングが、静かな廊下に低い音を響かせる。
「アラン」
返事を待つ間は、わずかな静寂が伸びる。
やがて、内側からかすかな衣擦れの音がして、扉が慎重に開かれた。
隙間から現れた翡翠の瞳が、一瞬だけレギュラスを見上げ、すぐに伏せられる。
「……レギュラス様」
部屋着に着替えたアランは、朝よりも少しだけ柔らかい印象だった。
それでも、扉を支える手はしっかりとえり元を守るような位置にある。
「お邪魔しています」
レギュラスは、ごく自然な顔で言った。
その腕には、一冊の厚い本と、いくつかの羊皮紙の束が抱えられている。
「少し、お時間をいただけますか」
「……何か、ご用件でしょうか」
アランの声音は、極力感情を排したものだった。
拒絶も、歓迎もない。
ただ、形式上の質問だけが置かれる。
「ええ。あなたのお父上の研究に関わると思われる資料が、魔法省の倉庫からいくつか見つかりまして」
そう言って、本の表紙を少しだけ見せる。
そこには、魔法薬学の古い文献の題名が金文字で刻まれていた。
「当主であるエドモンド卿にお渡しする前に、一度あなたの目を通していただくのがよいかと思いましてね」
アランの瞳が、小さく揺れた。
「父」と「研究」という言葉が、彼女の中で抗い難い引力を持っていることを、レギュラスはすでに知っている。
「……わたくしに、ですか」
「ええ。あなたは、よくお父上の研究を手伝ってこられたのでしょう?」
かつて食卓で交わした会話を思い返す。
「得意というほどではありませんが、父の研究の手伝いはよくしておりました」と控えめに言った彼女の声と共に。
「あなたの視点から見て、使えそうかどうかを教えていただきたい」
「……父ほどの目は持ち合わせておりませんけれど」
アランは、迷いながらも扉を少し広げた。
それは、部屋という要塞の城門を、ほんの僅かに開くという行為だった。
「少しでしたら……拝見いたします」
「ありがとうございます」
レギュラスは、ごく自然な動作でその隙間をくぐり、部屋の中へ足を踏み入れた。
アランの部屋は、すでに彼女の色に染まりつつあった。
窓際の机には、書きかけの手紙とインク壺。
引き出しの鍵はきちんと閉められているが、その上に置かれた栞や押し花の箱が、ここが彼女の「逃げ場」であることを静かに主張している。
ベッドは綺麗に整えられ、椅子の背には淡い色のショールが掛けられていた。
セシール家で過ごしてきた時間の名残が、ところどころに小さな影のように落ちている。
「とても、良い部屋ですね」
レギュラスは、ごくさりげなく室内を見渡した。
アランは、その視線に気づいているのかいないのか、少しだけ肩に力をこめる。
「……レギュラス様が、用意してくださったお部屋ですから」
「そうですね」
彼は軽く笑う。
「ですが、部屋というのは、誰が用意したかより、誰がどう使うかで意味が変わるものです」
アランは返事をしなかった。
代わりに、机の前の椅子を引き、「どうぞ」と視線だけで促す。
レギュラスは、本と羊皮紙を机の上に置き、自分は窓辺の椅子に腰かけた。
アランは、彼から少し距離を取るようにして、机側に立つ。
「こちらが、先ほど申し上げた資料です」
レギュラスは古い文献を開き、ページをめくった。
そこには、魔力の定着に関する古い理論と、いくつかの実験記録が記されている。
アランは、自然と身を乗り出していた。
父が何度も口にしていた用語が並び、見慣れた理論と、見たことのない仮説が混在している。
「……これを、どこで」
「魔法省の古い倉庫です。
整理の過程で破棄される予定だったものの中に混ざっていました」
レギュラスは、アランの横顔をじっと見つめる。
読み進めるうちに、こわばっていた表情から、わずかに緊張がほどけていくのが分かる。
研究の話をしているときだけ、彼女は少し呼吸が楽そうだった。
「いかがですか。お父上の研究に、とって代わるほどの価値は?」
「……とって代わるというよりは、補足のような、補助線のような役割でしょうか」
アランはページをめくりながら答えた。
言葉が自然と滑らかになる。
「ここで仰っている定着の理論は、父が扱っているものより一世代前の考え方です。
ですが、この部分……魔力の滞留についての記述は、父が悩んでおられた点と重なるかもしれません」
彼女の指先が、紙面の一行をそっとなぞる。
その動きは、迷いなく、的確だった。
レギュラスは、静かに息をついた。
「やはり、あなたに見せてよかった」
彼の声には、誇張ではない感心がこもっていた。
アランは、わずかに頬を赤くする。
「……これくらいでしたら、誰にでも」
「誰にでも、ではありませんよ」
その否定は静かだったが、断固としていた。
「少なくとも、僕にはできません」
魔法薬に関して、レギュラスは専門家ではなかった。
セシール家の人間ほどの情熱も、父エドモンドほどの深い執着も持っていない。
「あなたは、自分で思っているよりずっと、価値ある目を持っている」
さらりと述べられた言葉に、アランの手が一瞬止まった。
「……おだてても、何も出ません」
「おだてているつもりはありません」
そう言って、レギュラスは椅子から少し身を乗り出した。
距離が、ほんの少しだけ縮まる。
「僕は、自分の部下にも、妻になる人にも、現実以上に持ち上げた評価を与えるのは好きではないんです。
過大評価は、いつかその人間を壊す」
アランは、驚いたように彼を見た。
レギュラスの灰色の瞳は、穏やかな光を湛えたままだった。
その光の奥に、ただ冷たいだけではない別の温度が揺れている。
「ですから、こうして時間を割いて、あなたに資料を見せに来ているのは、僕にとっても意味のある行為なんですよ」
「……わたくしに、とっても、意味があると?」
「もちろんです」
レギュラスは、ほんの少し微笑んだ。
「あなたにとって、この部屋は大切な場所でしょう。
ですが、食事の時以外、ここに閉じこもってしまうのは——僕には、少し惜しく思える」
アランの表情がかすかに強張る。
図星を突かれたような、居心地の悪さがにじんでいた。
「……閉じこもっている、つもりは」
「部屋から出ない、という事実だけを申し上げているつもりです」
彼女を責める調子ではない。
ただ、状況の確認をしているだけのような柔らかさで。
「あなたがここで一人でいる時間を、全部奪うつもりはありません。
逃げ場は、必要でしょう」
アランのまぶたが、かすかに震えた。
「逃げ場」という言葉が、あまりに正確すぎた。
「ですが——少しずつでもいい。
その要塞の門を、僕にも通してほしいと思っています」
言葉の選び方は、限りなく穏やかだった。
けれど、その中に含まれた意図は、少しも柔らかくない。
それは「部屋そのものを奪う」のではなく、「部屋ごとこちらの側に引き寄せる」という発想だった。
「今日は、その最初の一歩だと思ってください」
レギュラスは椅子から立ち上がり、机の上の資料を整えた。
アランは、まだ言葉を見つけられずにいる。
「父上にお渡しする前に、あなたの注釈を添えていただけますか。
ここだと思う箇所に印をつけていただくだけで結構です」
「……承知しました」
かすれた声で返事をすると、アランは羊皮紙を受け取った。
指先に、その重み以上のものが伝わってくる。
「ありがとう、アラン」
帰り際、レギュラスは彼女の名をもう一度呼んだ。
翡翠の瞳が、反射的に彼を見上げる。
「こうして、一緒に話せる時間が持てて、嬉しいです」
その一言には、飾り気のない穏やかさがあった。
それが、計算の上に乗せられたものだとしても、アランの胸には小さな波紋を残す。
扉が閉まり、レギュラスの足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
部屋の中には再び静寂が戻ったが、先ほどまでと同じ静けさではなかった。
机の上には、父の研究に繋がるかもしれない資料と、自分に託された小さな役割。
部屋という要塞の内側に、レギュラスという存在の影が、ゆっくりと滲み始めている。
ほんの少しずつ——
それでも確かに、距離は縮まり始めていた。
アランの部屋の扉を叩くことが、レギュラスの日常の一部になっていった。
最初の頃は、訪れれば訪れるほど城門を固く閉ざされるのではないかと、わずかな警戒があった。
だからこそ、彼はあえて距離をとった。
窓際の椅子と、机のそばの椅子。
アランが机の前に座るなら、自分は窓辺。
彼女が窓辺で本を読むなら、自分は壁際の椅子に腰を下ろす。
同じ部屋にいながら、手を伸ばせば届く距離には、決して近づかない。
それが、最初の暗黙の約束のようになっていた。
ある日は、魔法省から持ち帰った新しい魔法薬研究の資料を持ち込んだ。
別の日は、セシール家の書庫から取り寄せた古い文献の写し。
またある日は、「今度導入される薬品流通の新しい法案について、あなたの意見を聞きたい」と言って、法務部の草案を机の上に広げた。
――口実には事欠かなかった。
魔法省という巨大な組織は、探せばいくらでも「共有すべき資料」を生み出してくれる。
アランは最初こそ、他人行儀な姿勢を崩さなかった。
資料に目を通し、問われた箇所について答えると、それ以上話を広げようとはしない。
けれど、何度もそうした時間を重ねるうちに、すこしずつ変化が生まれていった。
「ここの条文は、薬草の育成期間を無視しているように思います。
収穫時期をずらせない種類の薬草は……」
ある日、アランは羊皮紙を指で押さえながら、自分から言葉を続けた。
以前なら、レギュラスが問いかけて、ようやく短く返答するだけだった場所だ。
「なるほど。では、その点を考慮した修正案を、あなたの視点で書き加えてみていただけますか」
「わたくしの視点で、よろしいのですか」
「あなたの視点であることが、重要なんです」
そんなやりとりのあと、机に向かうアランの肩の力は、ほんの少しだけ抜けていた。
日を追うごとに、彼女の口から出る言葉は増えていった。
父の研究に関する話。
セシール家の薬草園でどんな失敗をしたかという、小さな思い出話。
魔法薬の香りから連想する、幼い日の情景。
話しているうちに、アラン自身も、どこまで話してしまったのか途中で気づくことがある。
そのたびに、翡翠の瞳が小さく揺れ、言葉が途切れる。
レギュラスは、そこで追い詰めるような質問はしなかった。
話が切れてしまえば、それ以上深掘りせず、代わりに別の資料を広げる。
そうして、「話しすぎた」という後悔を、彼女の中に積ませないようにしていた。
距離も、少しずつ変わった。
ある日、アランが長時間机に向かい、法案に注釈を書き込んでいたときのことだ。
背中がこわばり、肩がわずかに上下する。
「少し、休憩にしませんか」
レギュラスはそう声をかけ、窓際の椅子から立ち上がった。
いつもなら、そこで椅子ごと場所を移し、離れた位置に座り直すところだ。
ただ、その日は、あえて机の横にある椅子を引いた。
アランの隣。
肩が触れるほどではないが、ひとつ分の椅子の距離だけ空いた位置。
「紅茶を持ってきましょうか」と問う彼女に、「侍女に任せましょう」と穏やかに告げてから、静かに腰を下ろした。
アランの手が、ペンの上で一瞬止まる。
「すぐに済みますので……もう少しだけ」
「いいえ。急がせたいわけではありませんよ」
レギュラスは、机の上の文書ではなく、窓の外を見た。
庭園の生垣と噴水。遠くに見える古い樹木。
「あなたがここで何をしているのかを、こうして傍で見ていたいだけです」
その一言は、あまりにもさらりとしていた。
視線を投げかけながらではなく、あくまで窓の外に目を向けたまま言う。
アランはその言葉の意味を正面から受け止めかねているように、わずかに呼吸を乱した。
それでも、「それなら、ご自由に」と追い返すこともしなかった。
それが最初の「隣」だった。
それから先は、自然と回数が増えていく。
最初の数日は、レギュラスもなお、少し離れた椅子を選ぶことがあった。
しかし、一度隣に座ることを許されてしまえば、その行為への躊躇いは雪のように溶けていった。
資料の説明をするとき、机の同じ頁を覗き込む必要がある。
文字の上にアランの指先が置かれれば、その隣に自分の指で別の箇所を示す。
自然と肩の距離は縮まり、椅子と椅子の間にあった“ひとつ分”の余白が埋まっていく。
「ここを見てください。
魔力の流れ方の図が、あなたのお父上の理論とよく似ているでしょう?」
「……本当ですね。
父は、この部分をよく“溜池”と例えていました」
「それは興味深い」
そう言いながら紙に顔を近づければ、かすかにアランの髪の香りが届く。
部屋付きの侍女が用意したのであろう、控えめな香油の香り。
それと混じり合う、インクと古い紙の匂い。
アランは、最初こそその距離に戸惑いを見せた。
視線を逸らし、微かに身体を引こうとする。
しかし、彼女が椅子を動かすほど露骨な行動に出ることはなかった。
気づけば、彼女の方も、資料に集中するうちに、距離のことを忘れている瞬間が増えていた。
そうした小さな綻びを、レギュラスは逃さなかった。
ある晩、レギュラスは、自室に戻ったあと、ふと立ち止まった。
ブラック家の廊下は静かで、遠くの部屋からかすかに暖炉の火のはぜる音だけが聞こえてくる。
手には、アランの部屋に置いてきた資料の控え。
今日もまた、あの部屋でかなりの時間を過ごしていた。
資料の説明をし、父の研究の話を聞き、幼少期の小さな失敗談に笑い、時折、真剣な議論に熱を帯びた。
会話の量は、最初のころとは比べものにならない。
アランは相変わらず、言葉を選び、感情を過剰に見せることはしない。
それでも、沈黙ばかりだった部屋の空気は、目に見えない柔らかさを帯びていた。
レギュラスは、窓辺に立ち、夜空を見上げた。
高い天井の向こうに、かすかに星の光が滲んでいる。
自分でも驚いていた。
まさか、自分がこんなにも時間をかけて、女一人の心を落とそうと必死になるなど、思いもしなかった。
これまでは違った。
夜会で見初めた令嬢に声をかけるとき、彼はもっと短い時間で勝負をつける男だった。
甘い言葉と洗練された仕草と、わずかに与える特別扱い。
それだけで十分だった。
何度となく繰り返してきた遊び。
落ちる側が勝手に夢を見て、自分から足を踏み入れてくるのを待つだけでよかった。
けれど、アラン・セシールは違う。
彼女は、自分から落ちることを決して良しとしなかった。
心を預けることを、頑なに拒んでいた。
そのくせ、まっすぐな目を持っていた。
父の研究を語るときの瞳。
ローランドとの過去を胸奥に秘めたまま、それを決して口に出そうとしない硬さ。
容易く触れてはならないものが、その中にあると分かっていながら、レギュラスは視線を外せなかった。
時間がかかる。
手間もかかる。
言葉のひとつひとつを選び、距離の一センチ一センチを計算し、彼女の表情の微細な変化を見逃さないように神経を尖らせる。
それでも、その過程を厭わしいとは思えなかった。
むしろ、そこにこそ昂揚があった。
部下や対立勢力を盤上で追い詰める政治のゲームとは違う。
もっと繊細で、もっと危うい、ただ一人の心を相手にした攻防。
アランの部屋に入る回数が増えれば増えるほど、彼女の中の何かがほんの少しずつこちらになびいていく予感があった。
まだ確信には遠い。
けれど、風向きが完全に逆ではないと感じられるだけで十分だった。
レギュラスは、自嘲にも似た微笑みを漏らした。
「随分と、骨の折れる相手だ」
そう呟きながらも、その声には苦みだけではなく、奇妙な満足が滲んでいた。
アラン・セシールという一人の女を手に入れることは、もはや単なる所有の問題ではなかった。
自分の世界の中に、彼女自身の意思ごと引きずり込んでやりたい。
そのために時間を費やすことを、少しも惜しいと思わなくなっている自分がいた。
部屋の外では、静かな夜が広がっていた。
その片隅で、翡翠の瞳の少女の部屋だけが、ゆっくりとレギュラスの支配する「ブラック家」という世界に沈み込みつつある。
彼は、その沈み方を急かさなかった。
だからこそ、余計に手放せなくなっていた。
