1章
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その日、セシール家の客間には、冬の光が静かに差し込んでいた。
白いカーテン越しにやわらいだ日差しが、テーブルクロスの刺繍を淡く照らし出している。外の庭では、薬草園が冷たい風に揺れていた。
ローランド・フロストは、ソファの端にきちんと腰かけていた。
膝の上に揃えられた両手は、どこまでも礼儀正しく、それでいて不器用な誠実さをそのまま形にしたようだった。
「来てくれて、ありがとう、ローランド」
アランは、向かい側の椅子に腰を下ろしながら、そう言った。
声は丁寧で、いつもどおりだったが、その内側に張り詰めたものが隠しきれない。
「僕の方こそ、呼んでくれてありがとう」
ローランドは、少しだけ笑みを浮かべた。
青い瞳には疲労の色が見えたが、それを悟らせまいとするように、姿勢は変わらない。
間に置かれたティーポットから、湯気が静かに立ち上る。
香り高い紅茶の匂いが客間に満ちているのに、不思議と誰もカップに手を伸ばそうとはしなかった。
しばらく、言葉にならない沈黙が続いた。
あらかじめ決めていた台詞を探しているような沈黙だった。
「……聞きました」
先に口を開いたのはローランドだった。
目線はテーブルの木目に落ちている。
「ブラック様が、セシール家に婚姻を申し出られたと。
君との結婚を望んでいると」
アランの指先が、膝の上でかすかに強張った。
その変化に、ローランドは気づかないふりをした。
「条件も……ある程度は、人づてに耳に入りました」
彼は苦く笑う。
「魔法薬研究の全面支援、設備の更新、材料の供給、財産分与……。
僕なんかが一生かかっても用意できないようなものばかりだ」
言葉は淡々としていたが、ひとつひとつの音に、悔しさが小さく滲んでいた。
それでも、怒りに変えることはしない。
その真っ直ぐさが、ローランドという青年そのものだった。
「……わたし、まだ何も、お返事はしていないの」
アランは、慎重に言葉を選びながら告げた。
自分の声がかすかに震えているのが分かる。
「お父様も、お母様も……わたしの意思を尊重すると言ってくれているわ。
けれど、本当は……」
そこから先を続ければ、父母への不満になってしまいそうで、口が止まった。
ローランドは、その途切れた先を無理に引き出そうとはしなかった。
「アラン」
名を呼ぶ声は、いつもと同じ穏やかさを保っていた。
だからこそ、その穏やかさが、今は胸に痛かった。
「僕は……君やセシール家が、どんな答えを出したとしても、責める権利はありません」
アランの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
「ブラック様の家ほどの金も、地位も、権力も、僕にはない」
ローランドは、自嘲でもなく、事実として告げるように言った。
「僕が持っているのは、魔法省の研修官としての立場と、フロスト家という、ほどほどに名の知れた家名くらいだ。
セシール家の研究を支える力も、君に約束できる未来も、ブラック様と比べれば心もとない」
アランは、思わず顔を上げた。
「ローランド、それは——」
「いいんだ、分かっているから」
彼はかぶりを振った。
その仕草に、苦い透明さが宿る。
「僕は、できれば君と……これまで話してきた未来を、一緒に見たかった」
視線が、一瞬だけアランと交わる。
「庭の小さな家の話も、父上の研究を君と一緒に手伝うという話も。
全部、本気で考えていた」
軋むような痛みが、アランの胸にひろがった。
昼下がりの柔らかな光景と、二人で歩いた庭と、暖炉の前で笑い合った時間が一気に蘇る。
「でも」
ローランドは、そこに、自ら刃を差し込むように言葉を続けた。
「君のお父上が、どれほど魔法薬研究に人生をかけてこられたかを、僕は知っている。
その研究が、ブラック様の支援でどれほど前に進むのかも、想像がつく」
アランは、膝の上で握りしめた手に力をこめた。
彼が真っ直ぐ父を評価してくれていることが、かえって苦しかった。
「君は、ずっと言っていただろう」
ローランドは、穏やかな声で続ける。
「お父上の研究を誇りに思うって。
少しでも支えになりたいって。
セシール家の魔法薬を、次の世代にもちゃんと残したいって」
そう言いながら、彼は自分の言葉がどこへ向かっているかを理解していた。
理解しながら、あえて止めない。
「だから……」
ローランドは、息を整えた。
「もし君と、ご家族が、ブラック様との縁談を選ぶことになっても。
僕は、君やセシール家を責めるつもりはない」
その一言が、客間の空気を変えた。
穏やかで、誠実で、正しい言葉だった。
どこにも落ち度がない。
誰かを追い詰めることも、責めることもない。
けれど、それはアランが望んだ答えではなかった。
本当は——。
レギュラス・ブラックの手を取らないでほしいと。
そんなもののために、自分を手放さないでほしいと。
僕のところにいてくれ、と。
そんなふうに、醜くわがままで、身勝手な言葉を、彼の口から聞きたかった。
金も地位も権力もないからこそ。
「それでも君が欲しい」と言ってほしかった。
愛しているから、未来ごと差し出すような取引をしないでほしいと、叫んでほしかった。
彼ならそんなことは言わないだろうと知っていた。
知っていたからこそ、聞きたかった。
喉元までこみ上げた願いは、結局どこにも出口を見つけられなかった。
「…………そうですか」
アランの口からこぼれたのは、それだけだった。
驚くほど味気ない、短い返事。
その一言に、自分自身が呆れる。
もっと他に言えた言葉があったはずなのに。
責めたいわけではない。
感謝だけを伝えることもできたはずだ。
けれど、唇から出てきた言葉は、あまりにも薄かった。
「そうだ」
ローランドは、静かにうなずいた。
アランの表情の奥にあるものに気づいていながら、あえて何も問わない。
「僕は、君がどんな選択をしても、君を責めない。
恨みもしない。
ただ……君の決めた道の先で、君が幸せであることを願うだけだ」
それは本心だった。
彼の誠実さは嘘をつかない。
だからこそ、その「願い」は、祈りであって、引き留める力を持たない。
アランの胸には、静かな絶望が広がっていく。
ローランドを責めたくはなかった。
彼の真っ直ぐさも、優しさも、よく知っている。
だからこそ、彼が「正しいこと」しか言わないことも、痛いほど分かっていた。
窓の外では、冬の雲がゆっくり流れていた。
枯れかけた薬草たちが冷たい風に揺れる音だけが、かすかに耳に届く。
「ローランドは……本当に、優しいのね」
ようやく絞り出した言葉は、褒め言葉の形をしていた。
しかし、その内側には、どうしようもない寂しさが混じっている。
「優しいだけで、何一つ守れないかもしれないけれどね」
ローランドは、そう言って微笑んだ。
笑みの輪郭が少しだけ崩れる。
本当は、叫びたいものを抱えていることを、自分でも分かっていた。
ブラック家なんかに渡したくない、と。
君だけは僕の隣にいてくれ、と。
その言葉を飲み込んでいることも、分かっていた。
だからこそ彼は、それを口に出さなかった。
自分がそれを言えば、アランをさらに苦しめるだけだと信じていたから。
「……帰るよ」
ローランドは、静かに立ち上がった。
決意を示すような音も、未練を引きずるような音も立てない。
「呼んでくれて、ありがとう。
顔を見られて、よかった」
「こちらこそ……来てくれて、ありがとう」
アランも立ち上がり、両手を前で重ねて礼をした。
視線は、うまく彼の目を捉えられない。
本当は、呼び止めたかった。
せめて一言だけ、聞いてみたかった。
——わたしに、ブラック家を選んでほしいの?
そう尋ねてしまえば、すべてが壊れる気がした。
彼が否定してくれたら、レギュラス・ブラックへの返事を変えてしまいそうで。
肯定されたら、その瞬間に何かが二度と戻らなくなりそうで。
どちらも怖くて、口を開けなかった。
ローランドは、最後にもう一度だけアランを見た。
何かを言いかけて、結局、言葉を飲み込む。
「……お元気で」
代わりに出てきたのは、あまりにも普通で、無難な挨拶だった。
「ローランドも」
アランも、同じように無難な返事を返す。
そのあいだに、ふたりの間に積み上げてきた時間が、静かに横たわっていた。
扉が開き、閉まる音がする。
ローランドの足音が、廊下の向こうに遠ざかっていく。
客間にひとり残されたアランは、その場でしばらく動けなかった。
テーブルの上には、冷めかけた紅茶が二つ。
どちらのカップにも、一度も口をつけた跡はなかった。
扉が閉まったあと、客間には、奇妙なほど整った静寂だけが残った。
さっきまでそこに座っていたローランドの気配だけが、椅子の布地や空気の温度に薄く張りついている。
アランは、しばらく立ったまま動けなかった。
視線は、彼が腰掛けていたソファの端に向いたまま離れない。
そこに、さっきまで彼の両手がきちんと揃えられていた。何度も見てきた、少しぎこちない姿勢。
——お元気で。
耳の奥で、その言葉だけが何度も繰り返される。
柔らかくて、優しくて、あまりにも普通の別れの挨拶。
その普通さが、いっそ残酷だった。
元気で、と言われたのは、自分だ。
自分が、元気で生きていくべき場所を、これから選ぼうとしているのだと分かっているのに、その言葉が胸の奥でひどく遠く響く。
喉の奥が熱くなった。
視界が滲み始めたのに気づいたときには、涙はもうこぼれ落ちていた。
堪えようとして、唇を強く噛む。
けれど、それでせき止められるほど、こみ上げてくるものは小さくなかった。
一粒、二粒と頬を伝い落ちた涙は、すぐに軌道を増やす。
視界が完全に歪み、椅子もテーブルも、窓枠も、輪郭を失っていく。
「……いや」
言葉にならない声が喉から漏れた。
もはや立っていることすらできなくなって、アランはその場に崩れ落ちるように床へ座り込んだ。
ふわりとスカートが広がり、その布が、彼女の震えを包み込む。
冷たい床の感触が、薄いドレス越しに伝わってくる。
けれど、その冷たさでさえ、胸の内側で焼けつくように熱い痛みを冷ますことはできなかった。
——こんなもののために。
目の前には、レギュラスが運び込んだ装置や木箱の影が、頭の中にまざまざと浮かぶ。
ドラゴンの肝、ユニコーンの角、最新式の抽出炉。
グリンゴッツの封筒。
父の研究を未来へ押し上げるための道具たち。
——こんな取引のために。
そのすべてと引き換えに、自分はいったい何を差し出そうとしているのか。
ローランドが「責めない」と言ってくれたその瞬間、何を手放したのか。
彼の誠実さを。
彼が、自分だけに向けて注いできた真っ直ぐな眼差しを。
それを、自分の手で遠ざけてしまった。
涙が止まらなかった。
拭っても拭っても溢れてくる。
袖口が湿り、指先までひやりと濡れていく。
幼い頃の情景が、次々と押し寄せる。
まだ背の低かった頃、庭の端で一緒に泥だらけになりながら薬草を植えた日。
実験室の片隅で、父の難しい話を聞きながら、ローランドと顔を見合わせて小さく笑った日。
失敗して吹き上がった薬瓶を、ふたりで慌てて片づけて、怒られたあとにこっそり分け合った焼き菓子の甘さ。
少し大きくなって、手紙をやりとりするようになった頃。
「近いうちに会いたい」と書き添えられた文字の形。
会えた日には決まって、庭をゆっくり歩きながら他愛もないことを話した。
手を取ったこともある。
はじめて指先が絡んだときの、あのぎこちなさ。
固くて、でも壊さないように気をつけていた彼の握り方。
暖かな抱擁も、一度や二度ではなかった。
別れ際、名残惜しそうに腕を回してくる彼の体温。
肩越しに聞こえる鼓動の速さ。
そのたびに、自分の胸の鼓動も追いかけるように早まっていった。
そして——一生懸命背伸びして重ねた夜も、たしかにあった。
互いに不器用で、どこまでも慎重で、何度も確かめ合うような触れ方。
ローランドは、怖がらせまいとするあまり、自分の欲よりもこちらの心地を優先し続けた。
あの夜を思い出すと、胸の奥がひどく締めつけられる。
レギュラスの腕の中で感じさせられたどうしようもない波と、ローランドと重ねた静かな波。
まるで別物でありながら、どちらも自分の身体に刻み込まれてしまっている。
暖炉の前で、ふたりで描いた未来の話もあった。
大きくはないけれど暖かい家の話。
小さな庭にハーブを植えて、父の研究を手伝いながら暮らす話。
子どもができたらこんな名前にしようかと笑い合った日も。
それらすべてが、いま、手を伸ばしても届かない場所へ押しやられていく。
——全部、叶わない永遠にしなければならない。
そう思った瞬間、涙は一層激しくなった。
嗚咽が漏れないように、両手で口元を覆う。
肩だけが大きく震える。
ローランドは、「元気で」と言った。
自分が彼の元を離れていく前提での、優しい別れの言葉だった。
その優しさを、アランは知っている。
彼なら、きっと本気で自分の幸せを願うのだろう。
たとえその幸せが、自分ではない誰かの隣にあるとしても。
「……そんなの、いや」
床に落ちた声は、誰にも届かない。
カーテン越しの光が、揺れる肩の影を長く伸ばしている。
こんな取引のために。
こんな条件のために。
幼い頃から積み上げてきた、あの時間たちを、自分は手放してしまうのか。
床に座り込んだまま、アランは泣き続けた。
胸の中で「元気で」という言葉が、何度も何度も波紋のように広がり、そのたびに、これまでの思い出がひとつずつ水底へ沈んでいくように感じられた。
手を伸ばせば届いていたはずの未来が、もう二度と触れられない場所へ遠ざかる。
それを自覚するたびに、涙はまた新しくあふれてくる。
客間には、静かな嗚咽と、冷めた紅茶のかすかな香りだけが残っていた。
窓の外の冬の空は、何も知らないふりをして、青さをほんの少しだけ薄めていた。
その日、ブラック家本邸の書斎は、冬の光を深く抱き込んでいた。
鉛色の空から落ちる陽は弱々しいが、重厚なカーテンの隙間を縫って入り込み、壁一面の本棚と、黒檀の机の縁を静かに照らしている。
レギュラス・ブラックは、その机に向かっていた。
いつものように魔法省から持ち帰った書類を確認していたが、そこに「セシール家」の紋章を押された封筒が混じっているのを見つけると、手が自然とそちらへ伸びた。
厚手の羊皮紙。
丁寧に押された封蝋には、セシール家の紋章——魔法薬の瓶と、絡みつく蔦の意匠。
レギュラスは、口元にかすかな笑みを浮かべた。
封を切るまでもなく、中身は分かっていた。
むしろ「少し早いくらいだ」と思いながら、銀のナイフで封蝋を割る。
さらりと文面を目で追っていく。
端正な筆致で綴られた、エドモンド・セシールの言葉。
ブラック家からの申し出と支援に対する礼。
アラン・セシールを、ブラック家の令息レギュラス・ブラックの妻として差し出すことへの同意。
研究と家の未来を共に歩む縁となることを、セシール家としても望む旨。
丁寧な定型文の層をめくっていけば、そこにある本質はただ一つだ。
——婚姻を受け入れる。
それを示す文言を最後まで読み終える前に、レギュラスの口元はわずかに綻んでいた。
予想していた答えだ。
むしろ、セシール卿の性格を考えれば、もう少し逡巡の時間を置いてくるかとも思っていた。
研究と娘の未来を何度も天秤にかけた末に、ようやく署名をするだろうと。
だが、封書の日付は、思ったよりも新しい。
あの支援を送り届けてから、そう時間を置かずに記されたものだと知れる。
「……そう来ましたか」
誰に聞かせるでもなく、レギュラスは小さく呟いた。
羊皮紙を指先で軽くとん、と叩き、そのまま丁寧に折り畳む。
盤面は、図のとおりに動いた。
駒は、想定していた場所に、想定していた姿勢で収まった。
それだけのことだったが、その「だけ」が彼の胸を静かに満たしていた。
オリオン・ブラックの執務室の扉をノックすると、いつもの低い声が返ってきた。
「入れ」
中に入ると、壁際に並ぶ古い肖像画たちが、ちらりとレギュラスを見やる。
ブラック家の当主が代々使ってきたこの部屋は、いつでも空気が重く、静謐だった。
窓際の大きな机に、オリオンが座っている。
灰色の瞳は書類から顔を上げ、入ってきた息子を一瞥した。
「父上」
レギュラスは一礼し、セシール家の封書を差し出した。
「セシール卿から正式な返書が届きました。
僕とアラン・セシール嬢との婚姻——受け入れるとのことです」
オリオンは無言で手を伸ばし、封書を受け取る。
封蝋が割られているのを確認すると、文面に目を通す前に、ちらりとレギュラスを見た。
「お前は、すでに目を通したのだな」
「ええ。父上の目を汚すほど奇妙な文ではありません」
その答えに、オリオンの口の端がかすかに持ち上がった。
息子の「予想通りだった」という意思が、わずか一言ににじんでいる。
オリオンは封書を広げ、静かに視線を滑らせていく。
やがて最後まで読み終えると、指先で羊皮紙を整え、机の上にまっすぐ置いた。
「そうか」
それだけの言葉だったが、重さがあった。
オリオンは椅子の背にもたれ、指先を組む。
「セシール家の研究を、我々が共に支援できることは、ブラック家としても悪くない話だ」
レギュラスは無言で頷いた。
それは、自分の婚姻としての側面と同じくらい——いいや、それ以上に、政治的な意味を持つ。
魔法薬に長けたセシール家。
これまでは一介の研究一家に過ぎなかったが、その技術と知識は、正しく扱えば国家レベルの「資産」になり得る。
「国と癒着する大手製薬会社、という言い方がマグルの世界にはあるらしいな」
オリオンが、皮肉と興味を半々に混ぜながら口にした。
レギュラスは小さく笑う。
「ええ。マグルの法律や倫理は複雑ですが……
概念としては、非常に参考になります」
「魔法界でも、似たような形を作ることは可能だ」
オリオンの灰色の瞳に、冷静な光が宿る。
「魔法薬の研究と供給をセシール家が担い、その研究資金と流通経路をブラック家が握る。
それを魔法省と結びつければ、国家単位での魔法薬政策に、我々がより深く関与できるようになる」
オリオンの言葉は、どこまでも実務的だった。
セシール家との婚姻が、単なる「家どうしの縁談」にとどまらないことを、改めて示している。
レギュラスは、視線をほんのわずか落とした。
「セシール家との縁は、政略としても意味があるとお考えですね」
「当然だ」
オリオンは即座に応じる。
「お前が個人的にその娘を気に入ったことは、否定しないし、むしろ結構なことだが……
それだけで家の婚姻が動くと思うほど、私は甘くないつもりだ」
レギュラスもまた、自分がそれを理解していることを、表情のわずかな緩みで示すに留めた。
「セシール家は、魔法薬という形で国の血流に関わる家だ」
オリオンは続ける。
「そこに、ブラック家の財と政治力が加われば、魔法界全体への影響力は、今よりさらに盤石なものになる」
盤石——その言葉に、部屋の空気が一瞬だけ重みを増した。
さらに、話はもう一つの方向へと流れていく。
「母上は、何と?」
レギュラスが問うと、オリオンはふっと息を吐いた。
「ヴァルブルガが、あれほどあっさり“良い”と言ったのは久しぶりだな」
ブラック家の女主人、ヴァルブルガ・ブラック。
大抵の女を「軽い」「品が足りない」「血が薄い」と言って追い払ってきた女だ。
レギュラスの周りに近づこうとする令嬢たちも、その多くが彼女の冷たい眼差しによって門前払いを食らってきた。
「アラン・セシール嬢のことは、認めておられますか」
「認めているどころか、珍しく“気に入った”と言っていた」
オリオンは少し目を細める。
「あの気品と美しさ、そして血統。
間違いなく純血の娘であることが、一目で分かると」
母ヴァルブルガにとって、「純血である」ということは絶対条件だった。
そこに、身のこなしと教養、顔立ちと声の響きが加わり、ようやく「評価に値する女」と認定される。
その厳しい目を、アラン・セシールは難なくくぐり抜けた。
それどころか、「あの瞳は良い」「あれならブラックの名にふさわしい」とまで言わせた。
「母上がそこまで仰るのは、珍しいですね」
「そうだな。お前のこととなると特に目が厳しいからな、あれは」
オリオンは、ほんの一瞬だけ、息子への信頼を滲ませるようなまなざしを向けた。
「父も母も、アラン・セシールを妻として迎えることを歓迎している」
オリオンは、封書の上に片手を置きながら言った。
「家名も、血統も、魔法の才も、政略上の意味も。
これほど非の打ちどころのない婚姻は、そう多くない」
レギュラスは静かにうなずいた。
父は、セシール家の魔法薬研究と、その背後に広がる政治的な布陣を見ている。
母は、アランの血と気品と、美しさを見ている。
どちらの目から見ても、「妻」としての条件は申し分なかった。
もはや整いすぎているほどに、すべてが揃っている。
ブラック家として。
セシール家として。
そして、レギュラス・ブラックという一人の男として。
盤石、という言葉が頭の中で静かに形を取る。
その上に、あの翡翠の瞳を持つ少女の姿を重ねたとき、レギュラスの胸の奥にはひそやかな高揚が灯る。
「段取りは進めておきましょう、父上」
レギュラスは、落ち着いた声で言った。
「式の日取りの相談と、魔法省への届け出。
セシール家との研究提携に関する文書作成も、こちらで草案を用意しておきます」
「ああ。任せる」
オリオンは短く答えた。
もはや、この家の若き後継者が何をどう動くのか、細かく指示を出す必要はないと理解しているのだろう。
レギュラスは、父に再度礼をし、執務室を辞した。
廊下を歩きながら、先ほど受け取った封書の感触を、指先が覚えている。
アラン・セシール。
彼女の名が、やがてブラックの名と共に呼ばれる日が来る。
政治も、家も、親も、自分も。
全てが「そうなる」ように整えられていた。
盤石に積み上げられたその土台の上で、ただ一人、まだ足場を見つけられずにいる少女の姿だけが——
レギュラスの胸の奥で、ほんの少しだけ生々しい色を帯びて揺れていた。
ブラック家本邸の玄関扉が、重たい音を立てて開いた。
磨き込まれた黒い大理石の床に、外気の冷たさが細い線となって流れ込む。その境目に、翡翠の瞳を持つ少女が一人、立っていた。
アラン・セシール。
今日から正式に、ブラック家の婚約者として招かれた客。
「よくいらっしゃいました、セシール嬢」
吹き抜けのホールの中央、緩やかな大階段の前で待っていたレギュラス・ブラックが、静かに歩み寄る。
黒のローブは一つの皺もなく、銀の刺繍が淡く光を弾いていた。いつも通り整えられた髪、抑えた微笑み。すべてが、見る者に「完成された貴族」を印象づける。
アランは、ほんの一瞬だけ視線を上げ、すぐに胸元あたりへ落とした。
表情は固く、瞳の色だけがわずかに揺れている。
「……お招き、ありがとうございます」
礼を取る声音には、礼儀と緊張が薄く重なっていた。
「いい返事が聞けて、嬉しく思っています」
レギュラスは、自然な笑みを浮かべた。
“いい返事”——それが何を指すのか、言葉にする必要はない。
セシール家から届いた、婚姻を受け入れる旨の書状。その最後に添えられていた、アラン本人の署名。
口に出さずとも、その一筆で十分だった。
アランの表情は、相変わらずこわばったままだ。
緊張と、覚悟と、名残惜しさの残り火が入り混じった顔。
レギュラスは、その強張りを見つめながらも、内心で肩を竦めていた。
そんなものは、どうでもよかった。
婚姻を受け入れた。
つまりは、手に入ったということだ。
形式も、家も、親も、全てが「そうである」と認めた。
あとは時間の問題に過ぎない。
この先の長い人生を共に歩むうちに、あの固まった表情など、いくらでもゆっくり解きほぐしてやれる自信があった。
「ヴァルブルガも、お会いするのを楽しみにしています」
レギュラスは柔らかく続ける。
「今日はまず、僕の方から屋敷をご案内しましょう。……どうぞ」
差し出された腕に、アランは一瞬躊躇い、礼儀として最低限の触れ方で指先だけそっと添えた。
その距離の取り方に、レギュラスはわずかに目を細める。
大階段をゆっくり上がりながら、二人の足音だけが廊下に響いた。
壁にはブラック家の先祖たちの肖像画が並び、古い当主たちが、侵入者を値踏みするような視線を向けてくる。
アランは、視線を正面に固定したまま口を開いた。
「……レギュラス様」
「なんでしょう、セシール嬢」
呼びかけに応じる声は、変わらず穏やかだ。
「婚姻後の生活について、わたくしからいくつか……条件を提示させていただきたく存じます」
階段の踊り場で足を止め、レギュラスは彼女の方へと視線を向けた。
翡翠の瞳が真正面から自分を捉えることはない。だが、その輪郭の奥では、何かを必死に押しとどめようとしている気配が確かに揺れている。
「条件、ですか」
「はい」
アランは、背筋をすっと伸ばした。
その姿勢には、恐れよりも、己を保とうとする意地が宿っている。
「もちろん、すべてを叶えていただけるとは思っておりません。
ですが、もし……わたくしの望みが、ブラック家の家風に大きく反するものでなければ、考慮していただければと」
言葉は丁寧で、慎重で、その内側にかすかな震えがある。
レギュラスは、一拍おいてから微笑んだ。
「どんなものでしょう」
揺らぎのない声で応じる。
「あなたの望みなら、叶えましょう」
それは、誇張でも、格好をつけた台詞でもなかった。
実際、叶えられないものはほとんどない。金も、権限も、環境も、自分の手の内にある。
満面の笑み——とまではいかないが、いつもよりいくらか柔らかい笑みが口元に浮かぶ。
「遠慮なく仰ってください」
アランは小さく息を吸った。
握りしめていた手が、ドレスの布をわずかに皺ませる。
「……寝室は、別にお願いいたします」
その一言が落ちた瞬間、空気がわずかに変わった。
レギュラスの笑みが、ほんの一瞬だけ引きつる。
眉も口元も乱さなかったが、内側で筋肉がぴくりと動いたのを自分でもはっきりと感じた。
「別、に」
復唱した声は、かすかに間が空いた。
アランは、まっすぐ前を見たまま続ける。
「もちろん、公の場では“夫婦”として振る舞う覚悟はできております。
けれど、少なくとも最初のうちは……夜くらいは、ひとりで過ごせる場所をいただきたいのです」
静かだが、はっきりとした口調。
頭を下げることも、媚びることもせず、ただ、自分の望みを言葉にしている。
「……この申し出が、厚かましいものであることは承知しております」
アランは、膝の前で手を組み直した。
「ですが、わたくしなりに、一線だけは引いておきたいのです」
その一線が何を意味するか、説明はいらなかった。
莫大な資金力と、魔法省を掌握した権力に屈した。
家同士の婚姻という制度を形式的に受け入れ、書面に署名もした。
ブラック家の妻として人前に立つことも、セシール家の利益に繋がるのならばと呑み込んだ。
それでも、心の奥までは、まだ屈していないと示したかった。
——その線だけは、譲らない。
婚姻という名の取引に、自分のすべてを流し込んでしまわぬように。
最後の最後で、ほんのわずかでも自分の輪郭を残しておきたい。
弱いくせに、必死に強くあろうとする意思表示だった。
レギュラスは、その意味を一瞬で理解した。
理解したうえで、笑うしかなかった。
肩で大仰に笑い飛ばすようなことはしない。
喉の奥で、ふっと息を抜く程度の笑み。
だが、その中には、呆れでも怒りでもない、別の感情が確かに混じっていた。
「……そうきましたか」
目元に薄い笑意を浮かべたまま、レギュラスはアランを見つめる。
莫大な資金と、魔法省の権限に押し潰された。
選択肢を一つずつ消され、行き着く先はブラック家の妻という道しか残されていなかったはずだ。
それでも、その行き止まりの端で、まだ足を踏ん張っている。
形ばかりでも線を引いて、自分だけの場所を守ろうとしている。
負けているくせに、降参の仕方を覚えようとしない。
その矛盾が、むしろ愛らしかった。
「寝室を別に、ですか」
「はい」
「同じ屋敷の中で?」
「……はい」
「同じ階で?」
アランは、そこで一瞬迷った。
それでも、視線を逸らさずに言葉を継ぐ。
「できれば……少し離れたお部屋を、いただけると」
レギュラスは、堪えきれずに小さく息を笑いに変えた。
喉元でくつりと鳴った声は、決して嘲りではない。
「なるほど。徹底していますね、セシール嬢」
彼は、わざと愉快そうに言った。
微塵も動揺していないような顔で。
「僕を、そうまでして遠ざけたいと」
「……そういうわけでは」
アランが否定しかけると、レギュラスは片手を軽く上げて遮る。
「いいえ、構いません。そのくらい、はっきり嫌われている方が分かりやすい」
むしろ、と心の中で付け加える。
むしろ、その方が燃える、と。
魔法省も、資金も、家も、すべてを動かして手に入れた婚約。
その中心にいる女が、最後まで自分を「取引の条件」としてだけでは受け入まいとする。
その強情さが、彼女を単なる戦利品ではなく、征服すべき対象として際立たせていた。
「分かりました」
レギュラスは、丁寧な頷きとともに答えた。
「あなたのご希望通り、寝室は別に用意しましょう。
あなた専用の部屋を、きちんと整えます。……安心してください」
言葉だけ聞けば、申し分ない譲歩だ。
しかし、その声の奥に隠れているものまでは、言葉にする必要がなかった。
今は、そうしておけばいい。
婚姻の始まりに、彼女の最後の抵抗を「尊重」しておけばいい。
これから先の長い人生の中で、いくらでも時間はある。
形式上の別室と、実際の距離が一致している必要はない。
鍵を持つのが誰かを決めるのも、自分だ。
アランにはまだ、そのことに思い至る余裕はないだろう。
今はただ、自分の一言が通ったという小さな安堵だけを抱いていればいい。
「ありがとうございます」
アランは深く頭を下げた。
勝ち取ったはずの条件を、ささやかな盾のように胸に抱きしめる。
弱いくせに、必死に強くあろうとする背中。
レギュラスは、その姿を眺めながら、再び笑みを浮かべた。
笑うしかなかった。
いい返事は、もうもらっている。
セシール家の署名も、父母の承諾も、婚姻という制度も、すべて彼の側にある。
この女が家同士の婚姻を形式的に受け入れた以上、
心の奥に必死で張っているその線を崩すことなど、時間さえかければたやすい。
「では、あなたのお部屋を見に行きましょうか」
レギュラスは、再び腕を差し出した。
アランは、一瞬だけ躊躇い、それでも礼儀として指先を添える。
ほんのわずかな触れ合い。
その距離を、「今は」尊重してやる。
廊下の先には、まだ何も知らない部屋が待っている。
翡翠の瞳の持ち主が、自分だけの空間だと思い込むための、小さな箱庭。
そこに、どれほどゆっくりと、自分の影が伸びていくことになるのか。
レギュラスの胸には、静かな愉悦と、奇妙な期待が、同じ温度で膨らんでいた。
白いカーテン越しにやわらいだ日差しが、テーブルクロスの刺繍を淡く照らし出している。外の庭では、薬草園が冷たい風に揺れていた。
ローランド・フロストは、ソファの端にきちんと腰かけていた。
膝の上に揃えられた両手は、どこまでも礼儀正しく、それでいて不器用な誠実さをそのまま形にしたようだった。
「来てくれて、ありがとう、ローランド」
アランは、向かい側の椅子に腰を下ろしながら、そう言った。
声は丁寧で、いつもどおりだったが、その内側に張り詰めたものが隠しきれない。
「僕の方こそ、呼んでくれてありがとう」
ローランドは、少しだけ笑みを浮かべた。
青い瞳には疲労の色が見えたが、それを悟らせまいとするように、姿勢は変わらない。
間に置かれたティーポットから、湯気が静かに立ち上る。
香り高い紅茶の匂いが客間に満ちているのに、不思議と誰もカップに手を伸ばそうとはしなかった。
しばらく、言葉にならない沈黙が続いた。
あらかじめ決めていた台詞を探しているような沈黙だった。
「……聞きました」
先に口を開いたのはローランドだった。
目線はテーブルの木目に落ちている。
「ブラック様が、セシール家に婚姻を申し出られたと。
君との結婚を望んでいると」
アランの指先が、膝の上でかすかに強張った。
その変化に、ローランドは気づかないふりをした。
「条件も……ある程度は、人づてに耳に入りました」
彼は苦く笑う。
「魔法薬研究の全面支援、設備の更新、材料の供給、財産分与……。
僕なんかが一生かかっても用意できないようなものばかりだ」
言葉は淡々としていたが、ひとつひとつの音に、悔しさが小さく滲んでいた。
それでも、怒りに変えることはしない。
その真っ直ぐさが、ローランドという青年そのものだった。
「……わたし、まだ何も、お返事はしていないの」
アランは、慎重に言葉を選びながら告げた。
自分の声がかすかに震えているのが分かる。
「お父様も、お母様も……わたしの意思を尊重すると言ってくれているわ。
けれど、本当は……」
そこから先を続ければ、父母への不満になってしまいそうで、口が止まった。
ローランドは、その途切れた先を無理に引き出そうとはしなかった。
「アラン」
名を呼ぶ声は、いつもと同じ穏やかさを保っていた。
だからこそ、その穏やかさが、今は胸に痛かった。
「僕は……君やセシール家が、どんな答えを出したとしても、責める権利はありません」
アランの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
「ブラック様の家ほどの金も、地位も、権力も、僕にはない」
ローランドは、自嘲でもなく、事実として告げるように言った。
「僕が持っているのは、魔法省の研修官としての立場と、フロスト家という、ほどほどに名の知れた家名くらいだ。
セシール家の研究を支える力も、君に約束できる未来も、ブラック様と比べれば心もとない」
アランは、思わず顔を上げた。
「ローランド、それは——」
「いいんだ、分かっているから」
彼はかぶりを振った。
その仕草に、苦い透明さが宿る。
「僕は、できれば君と……これまで話してきた未来を、一緒に見たかった」
視線が、一瞬だけアランと交わる。
「庭の小さな家の話も、父上の研究を君と一緒に手伝うという話も。
全部、本気で考えていた」
軋むような痛みが、アランの胸にひろがった。
昼下がりの柔らかな光景と、二人で歩いた庭と、暖炉の前で笑い合った時間が一気に蘇る。
「でも」
ローランドは、そこに、自ら刃を差し込むように言葉を続けた。
「君のお父上が、どれほど魔法薬研究に人生をかけてこられたかを、僕は知っている。
その研究が、ブラック様の支援でどれほど前に進むのかも、想像がつく」
アランは、膝の上で握りしめた手に力をこめた。
彼が真っ直ぐ父を評価してくれていることが、かえって苦しかった。
「君は、ずっと言っていただろう」
ローランドは、穏やかな声で続ける。
「お父上の研究を誇りに思うって。
少しでも支えになりたいって。
セシール家の魔法薬を、次の世代にもちゃんと残したいって」
そう言いながら、彼は自分の言葉がどこへ向かっているかを理解していた。
理解しながら、あえて止めない。
「だから……」
ローランドは、息を整えた。
「もし君と、ご家族が、ブラック様との縁談を選ぶことになっても。
僕は、君やセシール家を責めるつもりはない」
その一言が、客間の空気を変えた。
穏やかで、誠実で、正しい言葉だった。
どこにも落ち度がない。
誰かを追い詰めることも、責めることもない。
けれど、それはアランが望んだ答えではなかった。
本当は——。
レギュラス・ブラックの手を取らないでほしいと。
そんなもののために、自分を手放さないでほしいと。
僕のところにいてくれ、と。
そんなふうに、醜くわがままで、身勝手な言葉を、彼の口から聞きたかった。
金も地位も権力もないからこそ。
「それでも君が欲しい」と言ってほしかった。
愛しているから、未来ごと差し出すような取引をしないでほしいと、叫んでほしかった。
彼ならそんなことは言わないだろうと知っていた。
知っていたからこそ、聞きたかった。
喉元までこみ上げた願いは、結局どこにも出口を見つけられなかった。
「…………そうですか」
アランの口からこぼれたのは、それだけだった。
驚くほど味気ない、短い返事。
その一言に、自分自身が呆れる。
もっと他に言えた言葉があったはずなのに。
責めたいわけではない。
感謝だけを伝えることもできたはずだ。
けれど、唇から出てきた言葉は、あまりにも薄かった。
「そうだ」
ローランドは、静かにうなずいた。
アランの表情の奥にあるものに気づいていながら、あえて何も問わない。
「僕は、君がどんな選択をしても、君を責めない。
恨みもしない。
ただ……君の決めた道の先で、君が幸せであることを願うだけだ」
それは本心だった。
彼の誠実さは嘘をつかない。
だからこそ、その「願い」は、祈りであって、引き留める力を持たない。
アランの胸には、静かな絶望が広がっていく。
ローランドを責めたくはなかった。
彼の真っ直ぐさも、優しさも、よく知っている。
だからこそ、彼が「正しいこと」しか言わないことも、痛いほど分かっていた。
窓の外では、冬の雲がゆっくり流れていた。
枯れかけた薬草たちが冷たい風に揺れる音だけが、かすかに耳に届く。
「ローランドは……本当に、優しいのね」
ようやく絞り出した言葉は、褒め言葉の形をしていた。
しかし、その内側には、どうしようもない寂しさが混じっている。
「優しいだけで、何一つ守れないかもしれないけれどね」
ローランドは、そう言って微笑んだ。
笑みの輪郭が少しだけ崩れる。
本当は、叫びたいものを抱えていることを、自分でも分かっていた。
ブラック家なんかに渡したくない、と。
君だけは僕の隣にいてくれ、と。
その言葉を飲み込んでいることも、分かっていた。
だからこそ彼は、それを口に出さなかった。
自分がそれを言えば、アランをさらに苦しめるだけだと信じていたから。
「……帰るよ」
ローランドは、静かに立ち上がった。
決意を示すような音も、未練を引きずるような音も立てない。
「呼んでくれて、ありがとう。
顔を見られて、よかった」
「こちらこそ……来てくれて、ありがとう」
アランも立ち上がり、両手を前で重ねて礼をした。
視線は、うまく彼の目を捉えられない。
本当は、呼び止めたかった。
せめて一言だけ、聞いてみたかった。
——わたしに、ブラック家を選んでほしいの?
そう尋ねてしまえば、すべてが壊れる気がした。
彼が否定してくれたら、レギュラス・ブラックへの返事を変えてしまいそうで。
肯定されたら、その瞬間に何かが二度と戻らなくなりそうで。
どちらも怖くて、口を開けなかった。
ローランドは、最後にもう一度だけアランを見た。
何かを言いかけて、結局、言葉を飲み込む。
「……お元気で」
代わりに出てきたのは、あまりにも普通で、無難な挨拶だった。
「ローランドも」
アランも、同じように無難な返事を返す。
そのあいだに、ふたりの間に積み上げてきた時間が、静かに横たわっていた。
扉が開き、閉まる音がする。
ローランドの足音が、廊下の向こうに遠ざかっていく。
客間にひとり残されたアランは、その場でしばらく動けなかった。
テーブルの上には、冷めかけた紅茶が二つ。
どちらのカップにも、一度も口をつけた跡はなかった。
扉が閉まったあと、客間には、奇妙なほど整った静寂だけが残った。
さっきまでそこに座っていたローランドの気配だけが、椅子の布地や空気の温度に薄く張りついている。
アランは、しばらく立ったまま動けなかった。
視線は、彼が腰掛けていたソファの端に向いたまま離れない。
そこに、さっきまで彼の両手がきちんと揃えられていた。何度も見てきた、少しぎこちない姿勢。
——お元気で。
耳の奥で、その言葉だけが何度も繰り返される。
柔らかくて、優しくて、あまりにも普通の別れの挨拶。
その普通さが、いっそ残酷だった。
元気で、と言われたのは、自分だ。
自分が、元気で生きていくべき場所を、これから選ぼうとしているのだと分かっているのに、その言葉が胸の奥でひどく遠く響く。
喉の奥が熱くなった。
視界が滲み始めたのに気づいたときには、涙はもうこぼれ落ちていた。
堪えようとして、唇を強く噛む。
けれど、それでせき止められるほど、こみ上げてくるものは小さくなかった。
一粒、二粒と頬を伝い落ちた涙は、すぐに軌道を増やす。
視界が完全に歪み、椅子もテーブルも、窓枠も、輪郭を失っていく。
「……いや」
言葉にならない声が喉から漏れた。
もはや立っていることすらできなくなって、アランはその場に崩れ落ちるように床へ座り込んだ。
ふわりとスカートが広がり、その布が、彼女の震えを包み込む。
冷たい床の感触が、薄いドレス越しに伝わってくる。
けれど、その冷たさでさえ、胸の内側で焼けつくように熱い痛みを冷ますことはできなかった。
——こんなもののために。
目の前には、レギュラスが運び込んだ装置や木箱の影が、頭の中にまざまざと浮かぶ。
ドラゴンの肝、ユニコーンの角、最新式の抽出炉。
グリンゴッツの封筒。
父の研究を未来へ押し上げるための道具たち。
——こんな取引のために。
そのすべてと引き換えに、自分はいったい何を差し出そうとしているのか。
ローランドが「責めない」と言ってくれたその瞬間、何を手放したのか。
彼の誠実さを。
彼が、自分だけに向けて注いできた真っ直ぐな眼差しを。
それを、自分の手で遠ざけてしまった。
涙が止まらなかった。
拭っても拭っても溢れてくる。
袖口が湿り、指先までひやりと濡れていく。
幼い頃の情景が、次々と押し寄せる。
まだ背の低かった頃、庭の端で一緒に泥だらけになりながら薬草を植えた日。
実験室の片隅で、父の難しい話を聞きながら、ローランドと顔を見合わせて小さく笑った日。
失敗して吹き上がった薬瓶を、ふたりで慌てて片づけて、怒られたあとにこっそり分け合った焼き菓子の甘さ。
少し大きくなって、手紙をやりとりするようになった頃。
「近いうちに会いたい」と書き添えられた文字の形。
会えた日には決まって、庭をゆっくり歩きながら他愛もないことを話した。
手を取ったこともある。
はじめて指先が絡んだときの、あのぎこちなさ。
固くて、でも壊さないように気をつけていた彼の握り方。
暖かな抱擁も、一度や二度ではなかった。
別れ際、名残惜しそうに腕を回してくる彼の体温。
肩越しに聞こえる鼓動の速さ。
そのたびに、自分の胸の鼓動も追いかけるように早まっていった。
そして——一生懸命背伸びして重ねた夜も、たしかにあった。
互いに不器用で、どこまでも慎重で、何度も確かめ合うような触れ方。
ローランドは、怖がらせまいとするあまり、自分の欲よりもこちらの心地を優先し続けた。
あの夜を思い出すと、胸の奥がひどく締めつけられる。
レギュラスの腕の中で感じさせられたどうしようもない波と、ローランドと重ねた静かな波。
まるで別物でありながら、どちらも自分の身体に刻み込まれてしまっている。
暖炉の前で、ふたりで描いた未来の話もあった。
大きくはないけれど暖かい家の話。
小さな庭にハーブを植えて、父の研究を手伝いながら暮らす話。
子どもができたらこんな名前にしようかと笑い合った日も。
それらすべてが、いま、手を伸ばしても届かない場所へ押しやられていく。
——全部、叶わない永遠にしなければならない。
そう思った瞬間、涙は一層激しくなった。
嗚咽が漏れないように、両手で口元を覆う。
肩だけが大きく震える。
ローランドは、「元気で」と言った。
自分が彼の元を離れていく前提での、優しい別れの言葉だった。
その優しさを、アランは知っている。
彼なら、きっと本気で自分の幸せを願うのだろう。
たとえその幸せが、自分ではない誰かの隣にあるとしても。
「……そんなの、いや」
床に落ちた声は、誰にも届かない。
カーテン越しの光が、揺れる肩の影を長く伸ばしている。
こんな取引のために。
こんな条件のために。
幼い頃から積み上げてきた、あの時間たちを、自分は手放してしまうのか。
床に座り込んだまま、アランは泣き続けた。
胸の中で「元気で」という言葉が、何度も何度も波紋のように広がり、そのたびに、これまでの思い出がひとつずつ水底へ沈んでいくように感じられた。
手を伸ばせば届いていたはずの未来が、もう二度と触れられない場所へ遠ざかる。
それを自覚するたびに、涙はまた新しくあふれてくる。
客間には、静かな嗚咽と、冷めた紅茶のかすかな香りだけが残っていた。
窓の外の冬の空は、何も知らないふりをして、青さをほんの少しだけ薄めていた。
その日、ブラック家本邸の書斎は、冬の光を深く抱き込んでいた。
鉛色の空から落ちる陽は弱々しいが、重厚なカーテンの隙間を縫って入り込み、壁一面の本棚と、黒檀の机の縁を静かに照らしている。
レギュラス・ブラックは、その机に向かっていた。
いつものように魔法省から持ち帰った書類を確認していたが、そこに「セシール家」の紋章を押された封筒が混じっているのを見つけると、手が自然とそちらへ伸びた。
厚手の羊皮紙。
丁寧に押された封蝋には、セシール家の紋章——魔法薬の瓶と、絡みつく蔦の意匠。
レギュラスは、口元にかすかな笑みを浮かべた。
封を切るまでもなく、中身は分かっていた。
むしろ「少し早いくらいだ」と思いながら、銀のナイフで封蝋を割る。
さらりと文面を目で追っていく。
端正な筆致で綴られた、エドモンド・セシールの言葉。
ブラック家からの申し出と支援に対する礼。
アラン・セシールを、ブラック家の令息レギュラス・ブラックの妻として差し出すことへの同意。
研究と家の未来を共に歩む縁となることを、セシール家としても望む旨。
丁寧な定型文の層をめくっていけば、そこにある本質はただ一つだ。
——婚姻を受け入れる。
それを示す文言を最後まで読み終える前に、レギュラスの口元はわずかに綻んでいた。
予想していた答えだ。
むしろ、セシール卿の性格を考えれば、もう少し逡巡の時間を置いてくるかとも思っていた。
研究と娘の未来を何度も天秤にかけた末に、ようやく署名をするだろうと。
だが、封書の日付は、思ったよりも新しい。
あの支援を送り届けてから、そう時間を置かずに記されたものだと知れる。
「……そう来ましたか」
誰に聞かせるでもなく、レギュラスは小さく呟いた。
羊皮紙を指先で軽くとん、と叩き、そのまま丁寧に折り畳む。
盤面は、図のとおりに動いた。
駒は、想定していた場所に、想定していた姿勢で収まった。
それだけのことだったが、その「だけ」が彼の胸を静かに満たしていた。
オリオン・ブラックの執務室の扉をノックすると、いつもの低い声が返ってきた。
「入れ」
中に入ると、壁際に並ぶ古い肖像画たちが、ちらりとレギュラスを見やる。
ブラック家の当主が代々使ってきたこの部屋は、いつでも空気が重く、静謐だった。
窓際の大きな机に、オリオンが座っている。
灰色の瞳は書類から顔を上げ、入ってきた息子を一瞥した。
「父上」
レギュラスは一礼し、セシール家の封書を差し出した。
「セシール卿から正式な返書が届きました。
僕とアラン・セシール嬢との婚姻——受け入れるとのことです」
オリオンは無言で手を伸ばし、封書を受け取る。
封蝋が割られているのを確認すると、文面に目を通す前に、ちらりとレギュラスを見た。
「お前は、すでに目を通したのだな」
「ええ。父上の目を汚すほど奇妙な文ではありません」
その答えに、オリオンの口の端がかすかに持ち上がった。
息子の「予想通りだった」という意思が、わずか一言ににじんでいる。
オリオンは封書を広げ、静かに視線を滑らせていく。
やがて最後まで読み終えると、指先で羊皮紙を整え、机の上にまっすぐ置いた。
「そうか」
それだけの言葉だったが、重さがあった。
オリオンは椅子の背にもたれ、指先を組む。
「セシール家の研究を、我々が共に支援できることは、ブラック家としても悪くない話だ」
レギュラスは無言で頷いた。
それは、自分の婚姻としての側面と同じくらい——いいや、それ以上に、政治的な意味を持つ。
魔法薬に長けたセシール家。
これまでは一介の研究一家に過ぎなかったが、その技術と知識は、正しく扱えば国家レベルの「資産」になり得る。
「国と癒着する大手製薬会社、という言い方がマグルの世界にはあるらしいな」
オリオンが、皮肉と興味を半々に混ぜながら口にした。
レギュラスは小さく笑う。
「ええ。マグルの法律や倫理は複雑ですが……
概念としては、非常に参考になります」
「魔法界でも、似たような形を作ることは可能だ」
オリオンの灰色の瞳に、冷静な光が宿る。
「魔法薬の研究と供給をセシール家が担い、その研究資金と流通経路をブラック家が握る。
それを魔法省と結びつければ、国家単位での魔法薬政策に、我々がより深く関与できるようになる」
オリオンの言葉は、どこまでも実務的だった。
セシール家との婚姻が、単なる「家どうしの縁談」にとどまらないことを、改めて示している。
レギュラスは、視線をほんのわずか落とした。
「セシール家との縁は、政略としても意味があるとお考えですね」
「当然だ」
オリオンは即座に応じる。
「お前が個人的にその娘を気に入ったことは、否定しないし、むしろ結構なことだが……
それだけで家の婚姻が動くと思うほど、私は甘くないつもりだ」
レギュラスもまた、自分がそれを理解していることを、表情のわずかな緩みで示すに留めた。
「セシール家は、魔法薬という形で国の血流に関わる家だ」
オリオンは続ける。
「そこに、ブラック家の財と政治力が加われば、魔法界全体への影響力は、今よりさらに盤石なものになる」
盤石——その言葉に、部屋の空気が一瞬だけ重みを増した。
さらに、話はもう一つの方向へと流れていく。
「母上は、何と?」
レギュラスが問うと、オリオンはふっと息を吐いた。
「ヴァルブルガが、あれほどあっさり“良い”と言ったのは久しぶりだな」
ブラック家の女主人、ヴァルブルガ・ブラック。
大抵の女を「軽い」「品が足りない」「血が薄い」と言って追い払ってきた女だ。
レギュラスの周りに近づこうとする令嬢たちも、その多くが彼女の冷たい眼差しによって門前払いを食らってきた。
「アラン・セシール嬢のことは、認めておられますか」
「認めているどころか、珍しく“気に入った”と言っていた」
オリオンは少し目を細める。
「あの気品と美しさ、そして血統。
間違いなく純血の娘であることが、一目で分かると」
母ヴァルブルガにとって、「純血である」ということは絶対条件だった。
そこに、身のこなしと教養、顔立ちと声の響きが加わり、ようやく「評価に値する女」と認定される。
その厳しい目を、アラン・セシールは難なくくぐり抜けた。
それどころか、「あの瞳は良い」「あれならブラックの名にふさわしい」とまで言わせた。
「母上がそこまで仰るのは、珍しいですね」
「そうだな。お前のこととなると特に目が厳しいからな、あれは」
オリオンは、ほんの一瞬だけ、息子への信頼を滲ませるようなまなざしを向けた。
「父も母も、アラン・セシールを妻として迎えることを歓迎している」
オリオンは、封書の上に片手を置きながら言った。
「家名も、血統も、魔法の才も、政略上の意味も。
これほど非の打ちどころのない婚姻は、そう多くない」
レギュラスは静かにうなずいた。
父は、セシール家の魔法薬研究と、その背後に広がる政治的な布陣を見ている。
母は、アランの血と気品と、美しさを見ている。
どちらの目から見ても、「妻」としての条件は申し分なかった。
もはや整いすぎているほどに、すべてが揃っている。
ブラック家として。
セシール家として。
そして、レギュラス・ブラックという一人の男として。
盤石、という言葉が頭の中で静かに形を取る。
その上に、あの翡翠の瞳を持つ少女の姿を重ねたとき、レギュラスの胸の奥にはひそやかな高揚が灯る。
「段取りは進めておきましょう、父上」
レギュラスは、落ち着いた声で言った。
「式の日取りの相談と、魔法省への届け出。
セシール家との研究提携に関する文書作成も、こちらで草案を用意しておきます」
「ああ。任せる」
オリオンは短く答えた。
もはや、この家の若き後継者が何をどう動くのか、細かく指示を出す必要はないと理解しているのだろう。
レギュラスは、父に再度礼をし、執務室を辞した。
廊下を歩きながら、先ほど受け取った封書の感触を、指先が覚えている。
アラン・セシール。
彼女の名が、やがてブラックの名と共に呼ばれる日が来る。
政治も、家も、親も、自分も。
全てが「そうなる」ように整えられていた。
盤石に積み上げられたその土台の上で、ただ一人、まだ足場を見つけられずにいる少女の姿だけが——
レギュラスの胸の奥で、ほんの少しだけ生々しい色を帯びて揺れていた。
ブラック家本邸の玄関扉が、重たい音を立てて開いた。
磨き込まれた黒い大理石の床に、外気の冷たさが細い線となって流れ込む。その境目に、翡翠の瞳を持つ少女が一人、立っていた。
アラン・セシール。
今日から正式に、ブラック家の婚約者として招かれた客。
「よくいらっしゃいました、セシール嬢」
吹き抜けのホールの中央、緩やかな大階段の前で待っていたレギュラス・ブラックが、静かに歩み寄る。
黒のローブは一つの皺もなく、銀の刺繍が淡く光を弾いていた。いつも通り整えられた髪、抑えた微笑み。すべてが、見る者に「完成された貴族」を印象づける。
アランは、ほんの一瞬だけ視線を上げ、すぐに胸元あたりへ落とした。
表情は固く、瞳の色だけがわずかに揺れている。
「……お招き、ありがとうございます」
礼を取る声音には、礼儀と緊張が薄く重なっていた。
「いい返事が聞けて、嬉しく思っています」
レギュラスは、自然な笑みを浮かべた。
“いい返事”——それが何を指すのか、言葉にする必要はない。
セシール家から届いた、婚姻を受け入れる旨の書状。その最後に添えられていた、アラン本人の署名。
口に出さずとも、その一筆で十分だった。
アランの表情は、相変わらずこわばったままだ。
緊張と、覚悟と、名残惜しさの残り火が入り混じった顔。
レギュラスは、その強張りを見つめながらも、内心で肩を竦めていた。
そんなものは、どうでもよかった。
婚姻を受け入れた。
つまりは、手に入ったということだ。
形式も、家も、親も、全てが「そうである」と認めた。
あとは時間の問題に過ぎない。
この先の長い人生を共に歩むうちに、あの固まった表情など、いくらでもゆっくり解きほぐしてやれる自信があった。
「ヴァルブルガも、お会いするのを楽しみにしています」
レギュラスは柔らかく続ける。
「今日はまず、僕の方から屋敷をご案内しましょう。……どうぞ」
差し出された腕に、アランは一瞬躊躇い、礼儀として最低限の触れ方で指先だけそっと添えた。
その距離の取り方に、レギュラスはわずかに目を細める。
大階段をゆっくり上がりながら、二人の足音だけが廊下に響いた。
壁にはブラック家の先祖たちの肖像画が並び、古い当主たちが、侵入者を値踏みするような視線を向けてくる。
アランは、視線を正面に固定したまま口を開いた。
「……レギュラス様」
「なんでしょう、セシール嬢」
呼びかけに応じる声は、変わらず穏やかだ。
「婚姻後の生活について、わたくしからいくつか……条件を提示させていただきたく存じます」
階段の踊り場で足を止め、レギュラスは彼女の方へと視線を向けた。
翡翠の瞳が真正面から自分を捉えることはない。だが、その輪郭の奥では、何かを必死に押しとどめようとしている気配が確かに揺れている。
「条件、ですか」
「はい」
アランは、背筋をすっと伸ばした。
その姿勢には、恐れよりも、己を保とうとする意地が宿っている。
「もちろん、すべてを叶えていただけるとは思っておりません。
ですが、もし……わたくしの望みが、ブラック家の家風に大きく反するものでなければ、考慮していただければと」
言葉は丁寧で、慎重で、その内側にかすかな震えがある。
レギュラスは、一拍おいてから微笑んだ。
「どんなものでしょう」
揺らぎのない声で応じる。
「あなたの望みなら、叶えましょう」
それは、誇張でも、格好をつけた台詞でもなかった。
実際、叶えられないものはほとんどない。金も、権限も、環境も、自分の手の内にある。
満面の笑み——とまではいかないが、いつもよりいくらか柔らかい笑みが口元に浮かぶ。
「遠慮なく仰ってください」
アランは小さく息を吸った。
握りしめていた手が、ドレスの布をわずかに皺ませる。
「……寝室は、別にお願いいたします」
その一言が落ちた瞬間、空気がわずかに変わった。
レギュラスの笑みが、ほんの一瞬だけ引きつる。
眉も口元も乱さなかったが、内側で筋肉がぴくりと動いたのを自分でもはっきりと感じた。
「別、に」
復唱した声は、かすかに間が空いた。
アランは、まっすぐ前を見たまま続ける。
「もちろん、公の場では“夫婦”として振る舞う覚悟はできております。
けれど、少なくとも最初のうちは……夜くらいは、ひとりで過ごせる場所をいただきたいのです」
静かだが、はっきりとした口調。
頭を下げることも、媚びることもせず、ただ、自分の望みを言葉にしている。
「……この申し出が、厚かましいものであることは承知しております」
アランは、膝の前で手を組み直した。
「ですが、わたくしなりに、一線だけは引いておきたいのです」
その一線が何を意味するか、説明はいらなかった。
莫大な資金力と、魔法省を掌握した権力に屈した。
家同士の婚姻という制度を形式的に受け入れ、書面に署名もした。
ブラック家の妻として人前に立つことも、セシール家の利益に繋がるのならばと呑み込んだ。
それでも、心の奥までは、まだ屈していないと示したかった。
——その線だけは、譲らない。
婚姻という名の取引に、自分のすべてを流し込んでしまわぬように。
最後の最後で、ほんのわずかでも自分の輪郭を残しておきたい。
弱いくせに、必死に強くあろうとする意思表示だった。
レギュラスは、その意味を一瞬で理解した。
理解したうえで、笑うしかなかった。
肩で大仰に笑い飛ばすようなことはしない。
喉の奥で、ふっと息を抜く程度の笑み。
だが、その中には、呆れでも怒りでもない、別の感情が確かに混じっていた。
「……そうきましたか」
目元に薄い笑意を浮かべたまま、レギュラスはアランを見つめる。
莫大な資金と、魔法省の権限に押し潰された。
選択肢を一つずつ消され、行き着く先はブラック家の妻という道しか残されていなかったはずだ。
それでも、その行き止まりの端で、まだ足を踏ん張っている。
形ばかりでも線を引いて、自分だけの場所を守ろうとしている。
負けているくせに、降参の仕方を覚えようとしない。
その矛盾が、むしろ愛らしかった。
「寝室を別に、ですか」
「はい」
「同じ屋敷の中で?」
「……はい」
「同じ階で?」
アランは、そこで一瞬迷った。
それでも、視線を逸らさずに言葉を継ぐ。
「できれば……少し離れたお部屋を、いただけると」
レギュラスは、堪えきれずに小さく息を笑いに変えた。
喉元でくつりと鳴った声は、決して嘲りではない。
「なるほど。徹底していますね、セシール嬢」
彼は、わざと愉快そうに言った。
微塵も動揺していないような顔で。
「僕を、そうまでして遠ざけたいと」
「……そういうわけでは」
アランが否定しかけると、レギュラスは片手を軽く上げて遮る。
「いいえ、構いません。そのくらい、はっきり嫌われている方が分かりやすい」
むしろ、と心の中で付け加える。
むしろ、その方が燃える、と。
魔法省も、資金も、家も、すべてを動かして手に入れた婚約。
その中心にいる女が、最後まで自分を「取引の条件」としてだけでは受け入まいとする。
その強情さが、彼女を単なる戦利品ではなく、征服すべき対象として際立たせていた。
「分かりました」
レギュラスは、丁寧な頷きとともに答えた。
「あなたのご希望通り、寝室は別に用意しましょう。
あなた専用の部屋を、きちんと整えます。……安心してください」
言葉だけ聞けば、申し分ない譲歩だ。
しかし、その声の奥に隠れているものまでは、言葉にする必要がなかった。
今は、そうしておけばいい。
婚姻の始まりに、彼女の最後の抵抗を「尊重」しておけばいい。
これから先の長い人生の中で、いくらでも時間はある。
形式上の別室と、実際の距離が一致している必要はない。
鍵を持つのが誰かを決めるのも、自分だ。
アランにはまだ、そのことに思い至る余裕はないだろう。
今はただ、自分の一言が通ったという小さな安堵だけを抱いていればいい。
「ありがとうございます」
アランは深く頭を下げた。
勝ち取ったはずの条件を、ささやかな盾のように胸に抱きしめる。
弱いくせに、必死に強くあろうとする背中。
レギュラスは、その姿を眺めながら、再び笑みを浮かべた。
笑うしかなかった。
いい返事は、もうもらっている。
セシール家の署名も、父母の承諾も、婚姻という制度も、すべて彼の側にある。
この女が家同士の婚姻を形式的に受け入れた以上、
心の奥に必死で張っているその線を崩すことなど、時間さえかければたやすい。
「では、あなたのお部屋を見に行きましょうか」
レギュラスは、再び腕を差し出した。
アランは、一瞬だけ躊躇い、それでも礼儀として指先を添える。
ほんのわずかな触れ合い。
その距離を、「今は」尊重してやる。
廊下の先には、まだ何も知らない部屋が待っている。
翡翠の瞳の持ち主が、自分だけの空間だと思い込むための、小さな箱庭。
そこに、どれほどゆっくりと、自分の影が伸びていくことになるのか。
レギュラスの胸には、静かな愉悦と、奇妙な期待が、同じ温度で膨らんでいた。
