3章
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朝の光は、ブラック家の大きな窓をきれいに透かして、床の絨毯に淡い模様を落としていた。厚みを増やした毛足が、光の角度でわずかに色を変える。踏むたびに沈んで、戻る。その柔らかさを面白がるように、アルタイルが小さく跳ねていた。
「アルタイル、走るのは危ないですよ。ほら、どうぞ——こちらにいらっしゃい」
アランの声はいつも通り穏やかで、いつも通り丁寧だった。幼い息子に向ける言葉ですら、貴族の礼節が自然に染みている。その口調が、なぜだかローランドには刺さる。彼女が守っている“線”が、声の形を借りて部屋じゅうに張られている気がして。
「まま、みて」
アルタイルが得意げに掲げたのは、今朝の課題——木片の数字を組み合わせる玩具だった。昨夜のうちにローランドが準備して、今朝は“自分で出来たという達成感を味わわせてやりたかったものだ。たしかに賢い。恐ろしいほどに、理解が速い。言葉の吸収も、数の感覚も、躊躇がない。
アランが産んだ子なのに。——いや、だからこそ、なのか
ローランドは喉の奥が苦くなるのを感じた。かつて夢見た未来の輪郭に似たものが、目の前にある。けれどその中心に立つのは、自分ではなく別の男だ。叶わなかった未来を、別の名前で見せられているようで、胸が痛む。
そこへ、背後から扉の気配が静かに滑り込んだ。足音ひとつで空気の密度が変わる。レギュラス・ブラックがいる。それだけで、場が整う。
「アルタイル、先生に挨拶をしてくださいね」
アランが促す。アルタイルは素直に背筋を伸ばして、けれど子どもらしい勢いのままにローランドの前へ来た。
「フロスト先生、おはよう!」
「おはようございます、アルタイル様。今日もよくできていますね」
そう返した瞬間、ローランドは自分の声がいつもより硬いのを自覚した。ここは教える場所であって、触れていい場所ではない。名前を呼ぶことひとつで、過去が疼き出す。
レギュラスはそのやりとりを、微笑みに近い何かで眺めた。表情は柔らかいのに、視線はよく研がれている。家庭の空気を演じるのが上手い男だ、とローランドは思う。上手いだけではない。ここにある秩序を、息をするように掌で握っている。
「フロスト殿。朝からありがとうございます。助かりますよ」
「ブラック様。とんでもございません。務めです」
ローランドが礼を返すと、レギュラスはわずかに目を細めた。褒めるでも貶すでもない。ただ、確認するみたいに。
「アルタイル、今日は何から行きます?」
「これ! これが、むずかしい」
アルタイルが玩具を指さす。レギュラスが屈んで視線を合わせ、木片に指を添えた。父親としての距離の取り方が、恐ろしく自然だ。アルタイルが嬉しそうに笑う。その笑みを引き出すのが、父の役目であるかのように。
「なるほど。じゃあ、順番に。……でも途中で投げ出さない。いいですか?」
「うん!」
「約束できます?」
「できる!」
短いやりとりなのに、そこには“逃げ道のない優しさ”が混じっていた。命令ではない。けれど、同意の形を取った拘束が、やけに上品に締められていく。アルタイルがその形を覚えていくのが、ローランドには可愛らしくも、薄ら寒くも見えた。
アランはその隣で、ゆっくりと腰を下ろした。アルタイルの髪を整え、襟元を直し、必要なものを必要な順番で差し出す。母としての動作が、絵のように整っている。けれどローランドの視線は、どうしても別のところに引き寄せられた。
首元の詰まったドレス。細い指先。手の甲に走る、細い赤。視線を逸らすたび、なぜかその赤だけが目の内側に残る。気づいてはいけないのに、気づいてしまう。知らなくていいはずなのに、知らされてしまう。
誰も、その傷を話題にしない。アルタイルは知らない。レギュラスは——知っていて、知らないふりができる男だ。アランは、気づかせないように完璧でいようとする。
その完璧さが、ローランドの胸を締め付けた。幸福が描かれている。たしかに温かい。笑い声もある。父は慈愛に満ち、母は優しく、子は賢く、家庭教師は空気のように役割を守る。
——なのに、その幸福の縁に、薄い血の色みたいなものが混じっている。
アルタイルが玩具に夢中になっている隙に、レギュラスが何気なくアランの手を取った。指先だけ。ほんの数秒。子どもが見ていても“ただの夫婦”に見える距離だ。
「手、冷たいですね」
「大丈夫です、レギュラス。少しだけ、朝の空気が」
アランは微笑む。言葉も、表情も、波風を立てない。そうすることが“正しい形”なのだと、身体に染み込ませたみたいに。
「なら、温めます」
レギュラスが指を絡めるでもなく、包み込むだけの握り方で手を引く。過保護に見えて、支配にも見える。そのどちらでもあるのだろう、とローランドは思ってしまう。思ってはいけないのに。
アルタイルが顔を上げた。
「まま、手を」
レギュラスの真似をするような声色で。甘えるようで、要求の形をして。アランは一瞬だけ目を丸くして、それから丁寧に頷いた。
「はい。アルタイル、ほら、どうぞ。転ばないように気をつけてくださいね」
小さな手と大人の手が繋がる。それだけで場が完成してしまう。家族という輪郭が、正しく見える。誰も傷を見ないまま、幸福だけが“見えるもの”として提示される。
ローランドは胸の奥が痛んだ。あの美しさを守る資格が自分にないことも、この家族の幸福を壊してはいけないことも、わかっている。わかっているのに、目が追ってしまう。
アランがアルタイルの手を引いて廊下へ向かう。レギュラスがその背に視線を置き、まるで満足そうに息を吐いた。父であり夫であり当主である、正しい姿で。
ローランドはその光景を、ただ静かに見守るしかなかった。微笑みの内側に、どれほどの痛みが隠れているのかを問いかける言葉も立場も、自分にはない。
それでも——
絨毯に落ちる光が揺れて、アルタイルの笑い声が廊下に遠ざかっていくのを聞きながら、ローランドは心のどこかで祈るように思った。
どうか、あの赤い傷が、これ以上増えませんように。
誰も気づかないふりをしている場所で、彼女だけが痛みに慣れてしまいませんように。
午後の光が、書斎に続く小さなサロンの床をなめるように伸びていた。窓辺のカーテンがゆるく揺れ、冬の匂いに似た乾いた空気が部屋の隅まで行き渡っている。厚い絨毯の上でアルタイルは膝を折り、木箱に収められたカードを並べ替えていた。文字を追う目つきが、子どもらしさを残しながらも妙に鋭い。
ローランドは少し離れた位置に腰を下ろし、紙束を整えていた。近頃はこの家での“役割”が増えていく。家庭教師として、呼ばれた男として、そして何より——この屋敷の当主の視界の中に置かれる男として。
扉が開く音はほとんどしなかった。けれど空気の圧だけで、レギュラスが入ってきたことがわかる。黒いローブの裾が絨毯を撫で、金具の小さな音が規律のように響く。アルタイルが顔を上げ、ぱっと表情を明るくした。
「パパ!」
飛びつく勢いで駆け寄ろうとして、途中で思い出したように足を止める。その仕草さえ、この家の躾と血の色を帯びている。
「アルタイル。挨拶はどうしました?」
「……ただいま、おかえりなさい!」
「よくできました」
レギュラスは息子の頭を軽く撫で、次いでローランドに視線を向けた。刺すような鋭さではない。今日のそれは穏やかで、ただ“決めてきたことを伝える”温度だ。
「フロスト殿。少し相談があります」
「はい、ブラック様。何なりと」
ローランドが背筋を伸ばした瞬間、レギュラスの口元に薄い微笑が浮かぶ。言葉の選び方は柔らかいのに、逃げ道は最初から用意されていない。
「アルタイルに、呪文学をそろそろ教えていただきたいんです」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の静けさが一段深くなる。アルタイルはきょとんとしながらも、目の奥が期待で光った。新しい“扉”の匂いを嗅ぎつけた子どもの顔だ。
ローランドの胸の内では、別の警鐘が鳴った。早い。まだ五歳だ。文字の読み書きや論理遊びはともかく、呪文——それも放つものの扱いは。
「杖を握らせるのは……早くないでしょうか」
ローランドは丁寧に言葉を選んだ。否定でも反発でもない、ただの慎重さの提案として。
だがレギュラスは一切揺れなかった。何かを思い返すように、視線をほんの少し落とし、グラスもないのに指先だけで傾けるような仕草をする。それが自分の正しさを整える合図に見えた。
「いいえ。僕も初めて握ったのは五歳の時でしたから」
淡々とした口調だった。けれどその奥に、ブラック家という名前への自負と、戦いに秀でた血への確信が確かにある。
「アルタイルは……この家の血を濃く引いています。流れる魔力が、その辺の子どもと同じわけがない。早くから学んでいれば、威力も精度も伸びる。伸ばしておくべきです」
伸ばしておくべき——その語尾が、命令ではなく義務の形をしているのが怖い、とローランドは思う。子どもを守るための教育なのか、血を正しく発露させるための教育なのか。その境界が、この男の中ではいつも曖昧だ。
アルタイルは話の半分も理解していないはずなのに、杖という単語だけで目が輝いていた。
「パパ、ぼくも、まほうする?」
「ええ。できるようになってほしいんです」
レギュラスは息子を見下ろしながら、笑みを少しだけ深くした。愛しているのだろう。それが疑えないほどに柔らかい表情なのに、同時に“こうなってほしい”という形が最初から決まっている。
アランが部屋に入ってきたのは、そのやりとりの後だった。手には布巾と、小さな湯気の立つポット。いつも通りの静けさを纏い、いつも通りに場を整えるように動く。
「お帰りなさい、レギュラス」
「ただいま、アラン」
レギュラスは挨拶の温度をそのままに、話を続ける。妻を会話の中に置くのが上手い男だ。置き方が上手いからこそ、彼女が逃げる場所は少なくなる。
「本格的な杖を買うのではなく、練習用で構いません。登録は不要ですから。けれど購入の際、親のサインは必要になります」
そう言ってレギュラスは、ローブの内側から書類を取り出した。圧縮呪文が解けると紙束が膨らみ、テーブルの上にきちんと角を揃えて置かれる。すでに必要な箇所に印が付けられ、署名欄だけが空白のまま残されていた。
ローランドはそれを見て、また胸の奥が重くなる。手続きは完璧だ。迷いも議論も不要な形に、最初から整えられている。
「アラン。そこのペンを取っていただけません?」
その一言で、空気がかすかに歪んだ。
アランの指が止まった。ほんの、ほんの一拍。誰もが見逃してしまいそうな短い沈黙。けれどローランドには、それが異様に長く感じられた。
テーブルの上には、羽ペンが一本置かれていた。何の変哲もない羽ペンだ。けれどアランの身体は、その形だけで覚えてしまっている。彼女は無意識に腕を押さえる仕草をして、爪先がわずかに引いた。
ローランドの喉が乾く。あの赤い線の意味が、そこで一瞬だけ輪郭を持って迫った。
レギュラスは、気づかないわけがない。気づいていて、わざと問う。
「どうしました? アラン」
声はやさしい。慈愛の形をしている。だからこそアランの呼吸が浅くなるのがわかる。恐怖と、服従と、そして乱したくないという必死さが一緒に喉元に集まっている。
アランは遅れて、微笑んだ。崩れない、美しい微笑み。あの家族の絵の中に収まるための微笑みだ。
「……失礼いたしました。少し、考え事を」
そう言いながら、彼女は羽ペンを取った。指先がわずかに震えたのを見た気がしたが、瞬きの間に隠される。アランはそのままペンをレギュラスに差し出す。まるで何事もないように。まるでそれが、ただの道具であるかのように。
レギュラスは受け取った。指が触れる。触れ方は丁寧で、優しい。——その優しさが、時にいちばん残酷だとローランドは知ってしまっている。
レギュラスは書類にさらさらとサインをした。迷いなく、躊躇なく、流れるように。その筆跡は整っていて、どこまでも綺麗だった。綺麗すぎて、冷たい。
サインの終わった紙を折り、ローランドへ差し出す。
「これで購入できます。代金は経費として清算しますので、領収書は控えておいてくださいね。フロスト殿」
「……承知いたしました、ブラック様」
ローランドは受け取った紙の端がわずかに重いと感じた。杖の購入許可というより、次の段階へ進む許可状に見えてしまう。アルタイルが“呪文を放つ”未来への扉を、今ここでレギュラスが開けたのだ。
アルタイルが椅子をよじ登るようにして身を乗り出し、書類を見ようとする。
「ぼくの、つえ?」
「あなたの杖です。練習用ですけどね」
「いつ? いついく?」
「フロスト先生が連れて行ってくださいますよ。約束を守れるなら」
レギュラスは穏やかに言いながら、息子の頭を撫でる。その手つきは父そのもので、愛情に溢れている。けれど言葉の中には、もう小さな契約が結ばれている。守れないなら与えない。守るなら与える。幼子にとって分かりやすく、そしてブラック家らしいやり方だった。
ローランドは視線をそっとアランへ向けた。アランは湯気の立つポットを置き、静かにカップを整えていた。何事もなかったかのように、完璧に。手の甲の傷を袖で隠すような角度で。
その完璧さが、ローランドの胸を締め付ける。
杖を握るという未来は、本来なら祝福だ。子どもが魔法使いとして歩き出す、輝かしい一歩のはずだ。けれどこの家では、それがいつも、秩序と支配と安全の名のもとに組み上げられる。
アランは顔を上げ、ローランドに一礼した。礼節の距離。ブラック夫人の距離。目は合っているのに、何も伝えない目。
ローランドはそれに応えるように頭を下げた。言葉を選ぶ余地がない。ただ与えられた役目を遂行するだけだ。
その背後で、レギュラスが楽しげに言った。
「フロスト殿。アルタイルの初めての杖です。……きっと似合うでしょうね」
その笑みは柔らかい。父の顔だ。けれどローランドは、その笑みの奥に別のものを見た気がした。
見せたいものがある。
見せつけたいものがある。
杖を手にするアルタイルの姿を、誰に焼き付けさせたいのか——その答えが喉元まで浮かびかけて、ローランドは飲み込んだ。
ここはブラック家の屋敷で、目の前にはブラック家の当主がいて、隣にいるのは彼の妻で、そして小さな手を伸ばして笑っているのは彼の息子だ。
その事実だけが、重く、正しく、動かしがたいまま、午後の光の中に置かれていた。
寝室の灯りは落とされていた。カーテンの隙間から差し込む街灯の淡い光だけが、家具の輪郭を薄く切り取っている。昼の喧騒は遠く、屋敷の夜はいつも、音の質だけが変わる。布が擦れる音、呼吸の音、床板が僅かに沈む音――それらが必要以上に鮮明になる。
アランは窓辺の近くに立っていた。何かを片付けていたのだろう、指先に残る気配がまだ静かに揺れている。こちらが歩み寄るのを察したのか、背筋がほんのわずかに硬くなる。その反応が、やけに可笑しいほど愛おしい。
肩に触れる前に、名を呼んだ。
「アラン」
その一言で、彼女の表情が整う。いつもの、誰にも崩させない顔。けれど視線の奥の動揺だけは隠し切れない。あれほど完璧に振る舞えるのに、こういう瞬間にだけ、ほんの少し遅れる。そこが堪らなかった。
手を伸ばして、腰に添える。引き寄せる力は強くない。逃げられないと理解している相手に、力で証明する必要はない。近づけるだけでいい。距離がなくなるだけで、空気がこちらのものになる。
アランの息が浅くなる。香りが混ざる。髪から、肌から、今日の彼女が纏ってきたものが、すぐにこちらの胸の奥に落ちてくる。
少しだけしゃがんだ。口付ける角度を、丁寧に取る。顎の高さ、首筋の向き、呼吸のタイミング――わざわざ考えなくても、身体が勝手に覚えている。けれどその勝手を、いまはわざと味わう。
するとアランは、まるで次に来るものを確信しているかのように目を閉じた。ほんの少し上を向く。唇の力が抜け、待つ形になる。こちらが落とすものを、受け取る準備だけが整う。
その仕草に、背筋がぞわりと粟立った。
教え込んだ。何度も、何度も。拒むより先に、反射で従う形を。口付けという優しさの名を借りて、正しい位置へ彼女を置くやり方を。そうやって自分の手の中に収めてきた――その事実が、甘い毒みたいに身体の奥を満たしていく。
目の前で目を閉じて待つアランの顔は、恐ろしいほど美しい。睫毛が影を落とし、頬の曲線が柔らかい。息をしているだけで完成している。ずっと見ていられる。触れなくても、口付けなくても、視線だけで満たされてしまいそうだった。
だから、止めた。
唇が触れる寸前で、わざと動きを止める。ほんの数ミリの距離。呼吸が互いに触れる距離。アランの睫毛が、微かに震えた。
何も起こらない時間は短いはずなのに、なぜか長く感じた。彼女の中で「来るはずのもの」が来ない、その小さな混乱が膨らむのが伝わってくる。
やがて不思議に思ったのだろう。アランがそっと目を開ける。驚きと、気恥ずかしさと、困惑が一度に浮かぶ。怯えてはいない。ただ、どう反応するのが正解かを計りかねている顔だ。
その顔が――堪らなく可愛らしい。
「待ってました?」
声音だけは軽くする。問いかけの形をして、逃げ道を塞ぐいつもの癖が、呼吸みたいに混ざる。
アランは一瞬言葉を失った。頬に熱が集まっていくのが目に見える。視線が揺れ、唇がかすかに開きかけて閉じる。無意識に一歩引きたいのに、腰に置いた手がそれを許さないのを理解している。
「……レギュラス、」
呼ばれた名が、喉の奥を撫でた。恥ずかしさに滲む声ほど、こうも胸を擽るものなのかと思う。
「今の顔、可愛らしかったですよ」
距離は詰めたまま、わざと囁くように言う。アランの指先が、こちらの胸元の布を掴みかけて、掴めずに落ちる。触れるのを躊躇う。その小さなためらいがまた愛おしい。
「もう一回見せてください」
アランの目が丸くなる。理解した瞬間、さらに赤くなる。そんな命令があるのか、と言いたげな顔。恥を再現しろ、と言われているのだ。拒む理由はいくらでもある。なのに、拒みきれないように、喉が震える。
「……そんなの」
消え入りそうな声が落ちる。強い女が、こういう時だけ弱くなる。その落差が、心地よい。
「できません」
言い切ったつもりなのに、語尾がほどける。拒絶の形を取りながら、拒絶の強さが足りない。その不足を、こちらが見逃すはずがなかった。
「お願いです、アラン」
声を甘くする。命令ではなく懇願の形にする。そうすれば彼女は、善良さのせいで断りにくくなる。優しさの仮面を被れば、相手は“冷たい自分”になりたくなくて揺れる。そこまで計算しているのに、同時に本気で見たいと思っているのだから、始末が悪い。
アランが視線を逸らす。唇を噛みそうになって、噛まない。自分を守るための最後の礼儀みたいに、歯を立てずに堪える。その姿がまた、こちらの欲を煽る。
「見せて。もう一度」
ゆっくり言葉を重ねる。拒絶を許さない詰め方なのに、圧ではなく温度で追い込む。腰の手を少しだけ強くして、逃げないことを確認させる。顎に触れて、顔を上げさせる。乱暴にしない。乱暴にしない方が、彼女は逃げ場を失う。
「アラン。目を閉じて。少し上を向いて」
優しい指示の形に落とし込む。命令とわからないほど穏やかに。けれど逆らえない輪郭だけは残して。
アランの喉が鳴った。小さく息を吸う音が聞こえる。拒みたい気持ちと、従ってしまう癖と、こちらを怒らせたくない恐れと――いろいろなものが絡まって、その場に縫い止められる。
それでも、彼女は従った。
ゆっくりと目を閉じ、ほんの少し顎を上げる。さっきと同じ形。けれど今度は、恥ずかしさが混ざっている分だけ、破壊力が増している。わざとらしくない。必死に平静を装っているのに、身体が言うことを聞いてしまっている。その矛盾が、美しい。
胸の奥が熱くなり、口元が緩む。
「……そう。それです」
褒める。褒めるという飴は、彼女の中の従順さを育てる。育てたものがまたこちらを満たす。その循環が、愚かなくらい甘い。
唇はまだ触れない。触れないまま、息だけを落とす。彼女が待つ時間を、もう少し引き伸ばす。耐えきれずに目を開けたくなる、その寸前を見たい。
「待つの、上手ですね」
その言葉だけで、アランの頬がさらに赤くなる。閉じた瞼の奥で、羞恥が揺れているのが見える気がする。
「……意地悪です」
微かに漏れた声が、抗議の形をしていた。けれどその抗議は、爪先ほどの力しかない。こちらの胸を撫でる羽みたいに軽い。
「ええ。あなた相手だと、どうしても」
正直さの形で返す。言い訳ではなく、告白のように。アランの身体が、ほんのわずかに震えた。怖さではない。熱に近い震えだ。
もう十分だと思ったところで、ようやく唇を寄せる。
触れる前に、最後にもう一度囁く。
「今の顔、忘れたくないんです」
その言葉が落ちた瞬間、アランの眉がかすかに緩む。守りの鎧に、ほんの小さな綻びができる。その綻びが見えたのが嬉しくて、たまらなくて。
そして、ようやく口付けた。
触れたのは一瞬だった。けれど一瞬で十分だった。待たせた分だけ、彼女の息が甘く崩れる。閉じていた瞼の下で、逃げ場のない現実を受け入れるように、静かに沈む。
唇を離したあと、わざと問いかける。
「どうでした?」
また、答えさせたくなる。恥を引き出したくなる。美しさを、もっと見たい。もっと、こちらの好きな形で。
アランは答えられずに、ただ息を吐いた。返事の代わりに、こちらの胸元へ小さく額を預ける。その仕草まで、どこか“教え込まれた”形に見えてしまって、喉の奥が甘く痺れる。
「……ねえ、アラン」
囁きながら髪に指を通す。優しく、丁寧に、逃げ道を塞ぐ手つきで。
「もう一回。さっきの待つ顔」
どこまでも甘く、どこまでも緩やかに。拒絶を許さない速度で、また追い詰めていく。
アランの肩が小さく跳ねる。恥ずかしさに耐えきれないように首を振りかけて、振れない。結局、息を吸って、観念したみたいに瞼を伏せる。
その瞬間、胸の奥が満たされていくのを止められなかった。
午後の光が、窓の硝子に薄い金を落としていた。
応接間よりもずっと静かな、子どものための小さな学習室。分厚く敷き替えさせた絨毯が足音を吸い、暖炉は火を落としているのに、部屋の空気だけが不思議とぬくい。
アルタイルは、両手で練習用の杖を握っていた。まだ指が短い。握り込みが浅くなりがちな手を、レギュラスは否定せずに、手首の角度だけを指先でそっと整える。
押しつけるのではなく、正しい位置を置いてやるような触れ方だった。教え込むのは得意だ。子ども相手でも、その癖は変わらない。
「力を入れすぎなくていいですよ。杖は、握り潰すものじゃない」
アルタイルは小さく頷き、唇を結ぶ。真剣な横顔が、やけに大人びて見える瞬間がある。
その小さな身体のどこに、と思うほどの魔力が、はじめから内側に満ちているのがわかる。息を吸うだけで空気が薄く震え、机の上の羽ペンがかすかに揺れた。
向かいの椅子に、ローランド・フロストが背筋を伸ばして座っている。
家庭教師としての立ち位置を崩さず、けれど視線だけは、どうしても父子の間に吸い寄せられてしまう――そんな気配が、薄い皮膜みたいに部屋に張っていた。
「では、唱えてみましょう。ゆっくりで」
アルタイルは息を整え、杖先をまっすぐに向けた。声はまだ幼い。けれど、言葉の一音一音に、迷いがない。
「……ルーモス」
杖先が一度、鈍い火花を散らした。失敗の兆し――そう見えた瞬間、光が“形”になって生まれた。
小さな灯りだ。だが小さいはずの灯りが、部屋の隅々まで濃く照らし、影の輪郭をくっきり切り取っていく。魔法灯の安定が早い。生まれ落ちる速度が、明らかに普通の子どもと違う。
アルタイルは驚いたように目を丸くした。次いで、抑えきれない嬉しさが頬に滲む。
その笑みがこぼれる前に、レギュラスの手が肩に置かれる。褒めるのではなく、落ち着かせるための触れ方だ。昂ぶりに飲まれて雑になるのを許さない。
「そのまま維持。……そう。いい子です」
灯りは揺れない。ぶれない。
幼い魔法使いが放ったとは思えないほど、きれいに止まっている。
ローランドが、言葉を飲み込んだあとで、ようやく息を吐いた。
「……さすがです、アルタイル様」
その声音には、純粋な敬意が混じっている。羨望の色を隠す必要がない立場の人間だけが出せる温度だった。
レギュラスは、アルタイルの頭の形を指でなぞる。髪の流れを整えるみたいに、さりげなく。そこにある魔力の大きさを誇示するでもなく、当然のこととして撫でる。
「ブラック家の血です」
短い一言が、部屋に落ちて、重さを持った。
自分の子だ――と、声にしなくてもわかるような響き。主張は過剰にしない方がいい。過剰にすればするほど、怯えや疑いを呼ぶ。けれど、淡々と言い切れば、誰も割り込めない。
アルタイルは「へへ」と小さく笑って、もう一度杖を掲げた。褒められたいわけじゃない。見せたいのだ。父に、先生に、自分の“できる”を。
「もういっかい」
「はい。もう一回、やってみましょう。ただし、同じ明るさで」
レギュラスがそう言うと、アルタイルは一瞬だけ考え込んでから、目を細める。
幼いのに、調整をしようとする。力任せではなく、加減を学ぶ方向へ自然に向かうのが、末恐ろしいほどに“らしい”。
二度目の呪文は、さらに滑らかだった。
灯りが生まれる前の一拍――魔力が杖先に集まる、透明な圧が、耳の奥をくすぐる。ローランドの指先が膝の上で僅かに強張ったのが視界の端に入った。慣れているはずの大人が反応してしまうほど、集まる量が多い。
灯りが、ふわりと咲く。
そしてアルタイルは、やっと嬉しさをこぼした。胸を張るのではなく、父の方を見上げて、目を輝かせる――その仕草が、幼い子どものままで、救いみたいに可愛い。
レギュラスは口元だけで笑った。大げさにはしない。大げさに喜べば、子は調子に乗る。
けれど心の内側では、別の熱が静かに燃えていた。
この小さな手が、いつか本物の杖を握り、もっと難しい呪文を選び取っていく。
守るために。奪われないために。手放さないために。
そして、もう少し大きくなったなら――
杖を交える稽古をつけてもいいのかもしれない、と、ふと考える。
教えるのは、呪文の形だけではない。
相手の癖を読む目。間合い。呼吸。心の揺れを武器に変える方法。
それらを与えるのは、父親の役目だと、当然のように思ってしまう。
レギュラスはアルタイルの肩を軽く叩き、杖先の灯りを見つめたまま、静かに告げた。
「今日はここまでにしましょう。よくできました。――次は、止める練習もします。出せる子は、止められなきゃいけない」
アルタイルは「うん」と頷く。
その返事が、幼いくせにきちんと芯を持っていて、ローランドが思わず目を細める。
「フロスト先生、見てた?」とアルタイルが振り返る。
「ええ。しっかり拝見しました、アルタイル様。……とても立派でした」
褒め言葉が柔らかく落ちる。
レギュラスは、その光景を見ながら、胸の奥が満たされていくのを感じた。
息子がいて、光があって、忠実な教師がいて。
そしてこの部屋の空気の中心に、父として立っていられる。
こういう瞬間だけは、世界が正しい順番で並ぶ。
誰にも崩させないと思えるほどに。
午後の稽古が終わり、練習用の杖をしまったあとも、アルタイルの頬はまだ熱を残していた。
机の角に肘をつき、指先で自分の杖袋を撫でては、時折ふっと笑う。自分の手から光が生まれた、という事実が、幼い胸を内側から膨らませているのがわかる。
ローランドはその小さな背中を見守りながら、視線の置き場にだけ神経を使っていた。
この屋敷では、余計なものを見るほど、余計なものが増える。見たくないものが、見えてしまう。
その日、たまたま――ほんの一瞬、アランがテーブルに差し入れを置くとき、袖口がわずかにずれた。
手首の内側から、赤い線が覗いた。治りかけではない。うっすらと落ち着いてきた色の下に、まだ熱を孕んだ赤が重なっている。
首元の高い襟に隠れるはずの場所まで、同じ赤が続いていることを、ローランドはもう知っていた。知りたくなかったのに。
気づかないふりをするのが礼節だと、何度も自分に言い聞かせてきた。
自分の口から「傷」などと零せば、それは余計な世話になる。アランが築いている均衡を、こちらから揺らすことになる。
レギュラスに言えば言ったで、冷たい灰色の瞳が笑う光景が容易に想像できた。――まだそんなに妻を見ているのか、と。
その言葉一つで、傷が増える理由になりかねない。そういう男だ。
だからこそ、別の道を探した。
誰かを責める言葉ではなく、誰も疑わない言い方。
自然に、当たり前に、家族の一部として口にできる声。
アルタイルが一番いい。
この子の言葉なら、誰も「余計」とは言いにくい。むしろ微笑ましい、と受け取られる。
それがこの屋敷の、歪んだ救いだった。
「アルタイル様」
呼びかけると、アルタイルはすぐ顔を上げた。期待する眼差しだ。褒められると思っている。
その無垢が痛いほど眩しく、同時に、少しだけ胸を締めつけた。――この子もまた、父の影を吸い込みながら育っている。
「杖をしまう前に、もうひとつだけ。大事なものほど、丁寧に扱う、というお話をしましょうか」
「だいじなもの?」
「はい。壊れやすいもの、傷つきやすいもの。そういうものは、ちゃんと守らないといけません」
アルタイルは眉を寄せて考え、やがて小さく頷いた。
ローランドはその反応に、わずかな安堵を覚える。理解しようとする子だ。言葉の形に、ちゃんと耳を澄ます。
そこへ、アランが再び戻ってきた。
陶器の皿に乗った小さな焼き菓子と、温かい飲み物。屋敷のどこまでも洗練された香りが、部屋の隅々に行き渡る。
「アルタイル、ほらどうぞ。手を拭いてからにしてくださいね」
丁寧な声だった。アルタイルに対しても、いつも同じ速度で、同じ温度で言葉を置く。
その優しさは、けれど時々、装飾のように見える。誰かの機嫌を損ねないための、完璧な形。
アルタイルは椅子から降りて、よちよちとアランのところへ行く。
そして当たり前のように、手を伸ばした。母の手を取る癖がついている。父がそうするのを見て育ったから。
小さな指が、アランの手の甲に触れた瞬間、アルタイルの動きが止まった。
ふわり、と指先が探るように滑る。そこには、ざらりとした感触があるのだろう。
アルタイルは眉を寄せたまま、じっと母の手を見つめた。目が真剣になる。さっき杖を握っていたときと同じ目だ。
「まま」
呼び方が、急に幼く聞こえた。
「どうしました、アルタイル」
アランが微笑む。いつも通りの、崩れない美しさ。
けれどその視線が、一瞬だけ自分の手へ落ちた。気づいている。気づいているのに、見ないふりをする。
アルタイルはもう一度、母の手の甲に触れた。
そして、確かめるように小さく言った。
「ここ、あかい」
部屋の空気が、ほんの少しだけ硬くなった。
ローランドは息を止めそうになるのを堪え、表情を変えないように視線を落とす。あくまで“子どもが気づいた”だけの出来事として、淡々と流れなければならない。
アランは一拍遅れて、笑みを深くする。
「ええ、少しだけ。もうすぐ目立たなくなりますよ」
それで終わらせようとした。
いつもと同じように、波風を立てずに。
ローランドはそこで、ほんのわずかに言葉を添えた。アルタイルに向けて。アランではなく、あくまで子どもの会話として。
「アルタイル様。大事なものは、守るって言いましたよね。――もし、守りたいものが傷ついたら、どうしますか」
アルタイルはすぐに顔を上げた。
その答えは、考えるまでもないという顔で、けれどどこか父親譲りの“確信”を滲ませた声で言う。
「まもる」
「そうです。守る。じゃあ、守るために――ままに、お願いしてもいいんですよ」
「おねがい?」
「はい。怪我をしないで、って」
その瞬間、アルタイルの目が少しだけ光った。
子どもらしい目的が、そこに見えた。怪我をさせたくない、というより、怪我をされると“困る”のだ。
ママが痛いと、抱っこしてもらえない。遊んでもらえない。そばにいてくれない。
可愛い。可愛いのに、選ぶ言葉の輪郭が、驚くほどはっきりしている。
アルタイルはアランの手をぎゅっと握ったまま、まるで契約を結ぶみたいに言った。
「まま、けが、だめ。つくらないで。ずっと、ここにいて」
幼い声だった。
でも、言い切り方が妙に大人びていた。お願いであり、命令に近い形。
レギュラス・ブラックの血が、確かにそこに滲んでいる。
アランの睫毛が、ほんの少し震えた。
笑みは崩れない。けれど、その笑みの奥で、何かがきゅっと固くなるのが見えた気がした。
アランはアルタイルの頭を撫で、いつもの丁寧な声で返す。
「はい。気をつけます。アルタイルが心配をするようなことは、もうしません」
もうしませんという言葉が、やけに重く響いた。
それが約束なのか、誓いなのか、ただの綺麗な形なのか――判断する権利がローランドにはない。
けれど、アルタイルは満足したらしかった。
「うん」と頷き、母の手を握ったまま、今度は少しだけ甘えるように頬を寄せる。守るべきものが自分の掌に収まったと確認する仕草だった。
アランはそのまま、そっと手を引き抜こうとして、やめた。
握られたままにする。痛い場所に触れられているはずなのに、何も言わずに。
ローランドは、胸の奥が痺れるような感覚に襲われた。
助けたいと思っているのに、助ける手を伸ばせない。だから、子どもの手を借りた。
最低だと思う。けれど、それでも――この屋敷の中で増える赤を、少しでも止められるなら。
「フロスト先生」
アルタイルがふいに振り返り、得意げに笑った。
「まま、けがしないって」
「……はい。アルタイル様は、とても良いことを仰いました」
言葉にした瞬間、喉の奥が少し痛んだ。
良いことと言いながら、それがどれほど苦しい種類の良さなのかを、ローランドは知ってしまっている。
アランは微笑んだまま、焼き菓子の皿をテーブルに置いた。
その手つきは、いつも通り美しく、正しく、隙がない。
けれどローランドの目には、握られた手の甲の赤が、どうしても消えずに残った。
この子の言葉が、母の傷を止める力になるのか。
それとも――別の鎖の形になるのか。
答えは出ないまま、午後の光だけが静かに床を滑っていった。
アルタイルは焼き菓子の皿を前にしても、すぐには手を伸ばさなかった。
さっきまで握っていた母の手の甲の赤が、頭の中に残っているのだろう。小さな眉が寄る。何かを考える癖も、最近ははっきりと表に出るようになった。
「アルタイル様」
ローランドがそっと呼ぶと、アルタイルは顔を上げる。
その瞳には、幼い子の無邪気さと、妙に“正しいことを言った”という誇りが同居していた。
「よく言えましたね」
たったそれだけの言葉が、アルタイルの背筋を少しだけ伸ばした。
褒められることに慣れているはずなのに、今の褒め言葉はいつもより甘く沁みたのか、口元がふわりと緩む。
「ぼく、まま、まもる」
「はい。とても立派でした」
ローランドは頷きながらも、胸の奥がざわついた。
守るという言葉が、この屋敷では時々、柔らかな布ではなく、細い鎖のように使われる。アルタイルの口から出たそれは、あまりにも可愛くて、あまりにも危うい。
アランはその後、何事もなかったように微笑んで、用事があると言って部屋を出ていた。
ドアが閉まる音がした瞬間、空気が少しだけ軽くなる。――軽くなってしまう自分が嫌だった。
アルタイルは椅子の上で足をぶらぶらさせ、皿のクッキーをじっと見つめる。
食べたいのに、気持ちがそちらへ向き切らない。そんな顔だった。
ローランドはその迷いを見逃さないふりをして、わざと穏やかな調子で続けた。
「アルタイル様。さっきのお願いは、とても大事なお願いでした。だから……パパにも教えて差し上げると、きっと喜びますよ」
アルタイルの目がきらりと動く。
「ぱぱ?」
「はい。ブラック様は、奥様のことを大切に思っていらっしゃいます。アルタイル様がままを守るって言ってくれたこと、聞いたら――とても誇らしいはずです」
誇らしい。
その言葉は、アルタイルにとっていちばん分かりやすいご褒美だった。父に褒められる。父が微笑む。父が自分を抱き上げる。
その光景を、幼い頭はすぐに思い浮かべてしまう。
「ぼく、いう」
「ええ。言い方も、優しくね。お願い、という形で」
ローランドは“守りましょう”という風を崩さないまま、言葉の導線を慎重に整える。
自分からアランに言えない。自分からレギュラスに言えば、余計な視線を招く。
ならば、いちばん自然な口から――家族の真ん中にいる口から落とすしかない。
アルタイルは頷き、クッキーをひとつ掴んで、ようやく口に運んだ。
噛む音が、小さく、規則正しく響く。気持ちが決まった子の音だった。
ローランドはその横顔を見ながら、喉の奥に苦いものが溜まるのを感じた。
自然を装って、子どもを使っている。ままを守る、と言いながら、実際には自分の胸騒ぎの逃げ道を探している。
それでも――あの赤い線が増えるよりましだ。
そう言い聞かせてしまう自分が、いちばん嫌だった。
「アルタイル、走るのは危ないですよ。ほら、どうぞ——こちらにいらっしゃい」
アランの声はいつも通り穏やかで、いつも通り丁寧だった。幼い息子に向ける言葉ですら、貴族の礼節が自然に染みている。その口調が、なぜだかローランドには刺さる。彼女が守っている“線”が、声の形を借りて部屋じゅうに張られている気がして。
「まま、みて」
アルタイルが得意げに掲げたのは、今朝の課題——木片の数字を組み合わせる玩具だった。昨夜のうちにローランドが準備して、今朝は“自分で出来たという達成感を味わわせてやりたかったものだ。たしかに賢い。恐ろしいほどに、理解が速い。言葉の吸収も、数の感覚も、躊躇がない。
アランが産んだ子なのに。——いや、だからこそ、なのか
ローランドは喉の奥が苦くなるのを感じた。かつて夢見た未来の輪郭に似たものが、目の前にある。けれどその中心に立つのは、自分ではなく別の男だ。叶わなかった未来を、別の名前で見せられているようで、胸が痛む。
そこへ、背後から扉の気配が静かに滑り込んだ。足音ひとつで空気の密度が変わる。レギュラス・ブラックがいる。それだけで、場が整う。
「アルタイル、先生に挨拶をしてくださいね」
アランが促す。アルタイルは素直に背筋を伸ばして、けれど子どもらしい勢いのままにローランドの前へ来た。
「フロスト先生、おはよう!」
「おはようございます、アルタイル様。今日もよくできていますね」
そう返した瞬間、ローランドは自分の声がいつもより硬いのを自覚した。ここは教える場所であって、触れていい場所ではない。名前を呼ぶことひとつで、過去が疼き出す。
レギュラスはそのやりとりを、微笑みに近い何かで眺めた。表情は柔らかいのに、視線はよく研がれている。家庭の空気を演じるのが上手い男だ、とローランドは思う。上手いだけではない。ここにある秩序を、息をするように掌で握っている。
「フロスト殿。朝からありがとうございます。助かりますよ」
「ブラック様。とんでもございません。務めです」
ローランドが礼を返すと、レギュラスはわずかに目を細めた。褒めるでも貶すでもない。ただ、確認するみたいに。
「アルタイル、今日は何から行きます?」
「これ! これが、むずかしい」
アルタイルが玩具を指さす。レギュラスが屈んで視線を合わせ、木片に指を添えた。父親としての距離の取り方が、恐ろしく自然だ。アルタイルが嬉しそうに笑う。その笑みを引き出すのが、父の役目であるかのように。
「なるほど。じゃあ、順番に。……でも途中で投げ出さない。いいですか?」
「うん!」
「約束できます?」
「できる!」
短いやりとりなのに、そこには“逃げ道のない優しさ”が混じっていた。命令ではない。けれど、同意の形を取った拘束が、やけに上品に締められていく。アルタイルがその形を覚えていくのが、ローランドには可愛らしくも、薄ら寒くも見えた。
アランはその隣で、ゆっくりと腰を下ろした。アルタイルの髪を整え、襟元を直し、必要なものを必要な順番で差し出す。母としての動作が、絵のように整っている。けれどローランドの視線は、どうしても別のところに引き寄せられた。
首元の詰まったドレス。細い指先。手の甲に走る、細い赤。視線を逸らすたび、なぜかその赤だけが目の内側に残る。気づいてはいけないのに、気づいてしまう。知らなくていいはずなのに、知らされてしまう。
誰も、その傷を話題にしない。アルタイルは知らない。レギュラスは——知っていて、知らないふりができる男だ。アランは、気づかせないように完璧でいようとする。
その完璧さが、ローランドの胸を締め付けた。幸福が描かれている。たしかに温かい。笑い声もある。父は慈愛に満ち、母は優しく、子は賢く、家庭教師は空気のように役割を守る。
——なのに、その幸福の縁に、薄い血の色みたいなものが混じっている。
アルタイルが玩具に夢中になっている隙に、レギュラスが何気なくアランの手を取った。指先だけ。ほんの数秒。子どもが見ていても“ただの夫婦”に見える距離だ。
「手、冷たいですね」
「大丈夫です、レギュラス。少しだけ、朝の空気が」
アランは微笑む。言葉も、表情も、波風を立てない。そうすることが“正しい形”なのだと、身体に染み込ませたみたいに。
「なら、温めます」
レギュラスが指を絡めるでもなく、包み込むだけの握り方で手を引く。過保護に見えて、支配にも見える。そのどちらでもあるのだろう、とローランドは思ってしまう。思ってはいけないのに。
アルタイルが顔を上げた。
「まま、手を」
レギュラスの真似をするような声色で。甘えるようで、要求の形をして。アランは一瞬だけ目を丸くして、それから丁寧に頷いた。
「はい。アルタイル、ほら、どうぞ。転ばないように気をつけてくださいね」
小さな手と大人の手が繋がる。それだけで場が完成してしまう。家族という輪郭が、正しく見える。誰も傷を見ないまま、幸福だけが“見えるもの”として提示される。
ローランドは胸の奥が痛んだ。あの美しさを守る資格が自分にないことも、この家族の幸福を壊してはいけないことも、わかっている。わかっているのに、目が追ってしまう。
アランがアルタイルの手を引いて廊下へ向かう。レギュラスがその背に視線を置き、まるで満足そうに息を吐いた。父であり夫であり当主である、正しい姿で。
ローランドはその光景を、ただ静かに見守るしかなかった。微笑みの内側に、どれほどの痛みが隠れているのかを問いかける言葉も立場も、自分にはない。
それでも——
絨毯に落ちる光が揺れて、アルタイルの笑い声が廊下に遠ざかっていくのを聞きながら、ローランドは心のどこかで祈るように思った。
どうか、あの赤い傷が、これ以上増えませんように。
誰も気づかないふりをしている場所で、彼女だけが痛みに慣れてしまいませんように。
午後の光が、書斎に続く小さなサロンの床をなめるように伸びていた。窓辺のカーテンがゆるく揺れ、冬の匂いに似た乾いた空気が部屋の隅まで行き渡っている。厚い絨毯の上でアルタイルは膝を折り、木箱に収められたカードを並べ替えていた。文字を追う目つきが、子どもらしさを残しながらも妙に鋭い。
ローランドは少し離れた位置に腰を下ろし、紙束を整えていた。近頃はこの家での“役割”が増えていく。家庭教師として、呼ばれた男として、そして何より——この屋敷の当主の視界の中に置かれる男として。
扉が開く音はほとんどしなかった。けれど空気の圧だけで、レギュラスが入ってきたことがわかる。黒いローブの裾が絨毯を撫で、金具の小さな音が規律のように響く。アルタイルが顔を上げ、ぱっと表情を明るくした。
「パパ!」
飛びつく勢いで駆け寄ろうとして、途中で思い出したように足を止める。その仕草さえ、この家の躾と血の色を帯びている。
「アルタイル。挨拶はどうしました?」
「……ただいま、おかえりなさい!」
「よくできました」
レギュラスは息子の頭を軽く撫で、次いでローランドに視線を向けた。刺すような鋭さではない。今日のそれは穏やかで、ただ“決めてきたことを伝える”温度だ。
「フロスト殿。少し相談があります」
「はい、ブラック様。何なりと」
ローランドが背筋を伸ばした瞬間、レギュラスの口元に薄い微笑が浮かぶ。言葉の選び方は柔らかいのに、逃げ道は最初から用意されていない。
「アルタイルに、呪文学をそろそろ教えていただきたいんです」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の静けさが一段深くなる。アルタイルはきょとんとしながらも、目の奥が期待で光った。新しい“扉”の匂いを嗅ぎつけた子どもの顔だ。
ローランドの胸の内では、別の警鐘が鳴った。早い。まだ五歳だ。文字の読み書きや論理遊びはともかく、呪文——それも放つものの扱いは。
「杖を握らせるのは……早くないでしょうか」
ローランドは丁寧に言葉を選んだ。否定でも反発でもない、ただの慎重さの提案として。
だがレギュラスは一切揺れなかった。何かを思い返すように、視線をほんの少し落とし、グラスもないのに指先だけで傾けるような仕草をする。それが自分の正しさを整える合図に見えた。
「いいえ。僕も初めて握ったのは五歳の時でしたから」
淡々とした口調だった。けれどその奥に、ブラック家という名前への自負と、戦いに秀でた血への確信が確かにある。
「アルタイルは……この家の血を濃く引いています。流れる魔力が、その辺の子どもと同じわけがない。早くから学んでいれば、威力も精度も伸びる。伸ばしておくべきです」
伸ばしておくべき——その語尾が、命令ではなく義務の形をしているのが怖い、とローランドは思う。子どもを守るための教育なのか、血を正しく発露させるための教育なのか。その境界が、この男の中ではいつも曖昧だ。
アルタイルは話の半分も理解していないはずなのに、杖という単語だけで目が輝いていた。
「パパ、ぼくも、まほうする?」
「ええ。できるようになってほしいんです」
レギュラスは息子を見下ろしながら、笑みを少しだけ深くした。愛しているのだろう。それが疑えないほどに柔らかい表情なのに、同時に“こうなってほしい”という形が最初から決まっている。
アランが部屋に入ってきたのは、そのやりとりの後だった。手には布巾と、小さな湯気の立つポット。いつも通りの静けさを纏い、いつも通りに場を整えるように動く。
「お帰りなさい、レギュラス」
「ただいま、アラン」
レギュラスは挨拶の温度をそのままに、話を続ける。妻を会話の中に置くのが上手い男だ。置き方が上手いからこそ、彼女が逃げる場所は少なくなる。
「本格的な杖を買うのではなく、練習用で構いません。登録は不要ですから。けれど購入の際、親のサインは必要になります」
そう言ってレギュラスは、ローブの内側から書類を取り出した。圧縮呪文が解けると紙束が膨らみ、テーブルの上にきちんと角を揃えて置かれる。すでに必要な箇所に印が付けられ、署名欄だけが空白のまま残されていた。
ローランドはそれを見て、また胸の奥が重くなる。手続きは完璧だ。迷いも議論も不要な形に、最初から整えられている。
「アラン。そこのペンを取っていただけません?」
その一言で、空気がかすかに歪んだ。
アランの指が止まった。ほんの、ほんの一拍。誰もが見逃してしまいそうな短い沈黙。けれどローランドには、それが異様に長く感じられた。
テーブルの上には、羽ペンが一本置かれていた。何の変哲もない羽ペンだ。けれどアランの身体は、その形だけで覚えてしまっている。彼女は無意識に腕を押さえる仕草をして、爪先がわずかに引いた。
ローランドの喉が乾く。あの赤い線の意味が、そこで一瞬だけ輪郭を持って迫った。
レギュラスは、気づかないわけがない。気づいていて、わざと問う。
「どうしました? アラン」
声はやさしい。慈愛の形をしている。だからこそアランの呼吸が浅くなるのがわかる。恐怖と、服従と、そして乱したくないという必死さが一緒に喉元に集まっている。
アランは遅れて、微笑んだ。崩れない、美しい微笑み。あの家族の絵の中に収まるための微笑みだ。
「……失礼いたしました。少し、考え事を」
そう言いながら、彼女は羽ペンを取った。指先がわずかに震えたのを見た気がしたが、瞬きの間に隠される。アランはそのままペンをレギュラスに差し出す。まるで何事もないように。まるでそれが、ただの道具であるかのように。
レギュラスは受け取った。指が触れる。触れ方は丁寧で、優しい。——その優しさが、時にいちばん残酷だとローランドは知ってしまっている。
レギュラスは書類にさらさらとサインをした。迷いなく、躊躇なく、流れるように。その筆跡は整っていて、どこまでも綺麗だった。綺麗すぎて、冷たい。
サインの終わった紙を折り、ローランドへ差し出す。
「これで購入できます。代金は経費として清算しますので、領収書は控えておいてくださいね。フロスト殿」
「……承知いたしました、ブラック様」
ローランドは受け取った紙の端がわずかに重いと感じた。杖の購入許可というより、次の段階へ進む許可状に見えてしまう。アルタイルが“呪文を放つ”未来への扉を、今ここでレギュラスが開けたのだ。
アルタイルが椅子をよじ登るようにして身を乗り出し、書類を見ようとする。
「ぼくの、つえ?」
「あなたの杖です。練習用ですけどね」
「いつ? いついく?」
「フロスト先生が連れて行ってくださいますよ。約束を守れるなら」
レギュラスは穏やかに言いながら、息子の頭を撫でる。その手つきは父そのもので、愛情に溢れている。けれど言葉の中には、もう小さな契約が結ばれている。守れないなら与えない。守るなら与える。幼子にとって分かりやすく、そしてブラック家らしいやり方だった。
ローランドは視線をそっとアランへ向けた。アランは湯気の立つポットを置き、静かにカップを整えていた。何事もなかったかのように、完璧に。手の甲の傷を袖で隠すような角度で。
その完璧さが、ローランドの胸を締め付ける。
杖を握るという未来は、本来なら祝福だ。子どもが魔法使いとして歩き出す、輝かしい一歩のはずだ。けれどこの家では、それがいつも、秩序と支配と安全の名のもとに組み上げられる。
アランは顔を上げ、ローランドに一礼した。礼節の距離。ブラック夫人の距離。目は合っているのに、何も伝えない目。
ローランドはそれに応えるように頭を下げた。言葉を選ぶ余地がない。ただ与えられた役目を遂行するだけだ。
その背後で、レギュラスが楽しげに言った。
「フロスト殿。アルタイルの初めての杖です。……きっと似合うでしょうね」
その笑みは柔らかい。父の顔だ。けれどローランドは、その笑みの奥に別のものを見た気がした。
見せたいものがある。
見せつけたいものがある。
杖を手にするアルタイルの姿を、誰に焼き付けさせたいのか——その答えが喉元まで浮かびかけて、ローランドは飲み込んだ。
ここはブラック家の屋敷で、目の前にはブラック家の当主がいて、隣にいるのは彼の妻で、そして小さな手を伸ばして笑っているのは彼の息子だ。
その事実だけが、重く、正しく、動かしがたいまま、午後の光の中に置かれていた。
寝室の灯りは落とされていた。カーテンの隙間から差し込む街灯の淡い光だけが、家具の輪郭を薄く切り取っている。昼の喧騒は遠く、屋敷の夜はいつも、音の質だけが変わる。布が擦れる音、呼吸の音、床板が僅かに沈む音――それらが必要以上に鮮明になる。
アランは窓辺の近くに立っていた。何かを片付けていたのだろう、指先に残る気配がまだ静かに揺れている。こちらが歩み寄るのを察したのか、背筋がほんのわずかに硬くなる。その反応が、やけに可笑しいほど愛おしい。
肩に触れる前に、名を呼んだ。
「アラン」
その一言で、彼女の表情が整う。いつもの、誰にも崩させない顔。けれど視線の奥の動揺だけは隠し切れない。あれほど完璧に振る舞えるのに、こういう瞬間にだけ、ほんの少し遅れる。そこが堪らなかった。
手を伸ばして、腰に添える。引き寄せる力は強くない。逃げられないと理解している相手に、力で証明する必要はない。近づけるだけでいい。距離がなくなるだけで、空気がこちらのものになる。
アランの息が浅くなる。香りが混ざる。髪から、肌から、今日の彼女が纏ってきたものが、すぐにこちらの胸の奥に落ちてくる。
少しだけしゃがんだ。口付ける角度を、丁寧に取る。顎の高さ、首筋の向き、呼吸のタイミング――わざわざ考えなくても、身体が勝手に覚えている。けれどその勝手を、いまはわざと味わう。
するとアランは、まるで次に来るものを確信しているかのように目を閉じた。ほんの少し上を向く。唇の力が抜け、待つ形になる。こちらが落とすものを、受け取る準備だけが整う。
その仕草に、背筋がぞわりと粟立った。
教え込んだ。何度も、何度も。拒むより先に、反射で従う形を。口付けという優しさの名を借りて、正しい位置へ彼女を置くやり方を。そうやって自分の手の中に収めてきた――その事実が、甘い毒みたいに身体の奥を満たしていく。
目の前で目を閉じて待つアランの顔は、恐ろしいほど美しい。睫毛が影を落とし、頬の曲線が柔らかい。息をしているだけで完成している。ずっと見ていられる。触れなくても、口付けなくても、視線だけで満たされてしまいそうだった。
だから、止めた。
唇が触れる寸前で、わざと動きを止める。ほんの数ミリの距離。呼吸が互いに触れる距離。アランの睫毛が、微かに震えた。
何も起こらない時間は短いはずなのに、なぜか長く感じた。彼女の中で「来るはずのもの」が来ない、その小さな混乱が膨らむのが伝わってくる。
やがて不思議に思ったのだろう。アランがそっと目を開ける。驚きと、気恥ずかしさと、困惑が一度に浮かぶ。怯えてはいない。ただ、どう反応するのが正解かを計りかねている顔だ。
その顔が――堪らなく可愛らしい。
「待ってました?」
声音だけは軽くする。問いかけの形をして、逃げ道を塞ぐいつもの癖が、呼吸みたいに混ざる。
アランは一瞬言葉を失った。頬に熱が集まっていくのが目に見える。視線が揺れ、唇がかすかに開きかけて閉じる。無意識に一歩引きたいのに、腰に置いた手がそれを許さないのを理解している。
「……レギュラス、」
呼ばれた名が、喉の奥を撫でた。恥ずかしさに滲む声ほど、こうも胸を擽るものなのかと思う。
「今の顔、可愛らしかったですよ」
距離は詰めたまま、わざと囁くように言う。アランの指先が、こちらの胸元の布を掴みかけて、掴めずに落ちる。触れるのを躊躇う。その小さなためらいがまた愛おしい。
「もう一回見せてください」
アランの目が丸くなる。理解した瞬間、さらに赤くなる。そんな命令があるのか、と言いたげな顔。恥を再現しろ、と言われているのだ。拒む理由はいくらでもある。なのに、拒みきれないように、喉が震える。
「……そんなの」
消え入りそうな声が落ちる。強い女が、こういう時だけ弱くなる。その落差が、心地よい。
「できません」
言い切ったつもりなのに、語尾がほどける。拒絶の形を取りながら、拒絶の強さが足りない。その不足を、こちらが見逃すはずがなかった。
「お願いです、アラン」
声を甘くする。命令ではなく懇願の形にする。そうすれば彼女は、善良さのせいで断りにくくなる。優しさの仮面を被れば、相手は“冷たい自分”になりたくなくて揺れる。そこまで計算しているのに、同時に本気で見たいと思っているのだから、始末が悪い。
アランが視線を逸らす。唇を噛みそうになって、噛まない。自分を守るための最後の礼儀みたいに、歯を立てずに堪える。その姿がまた、こちらの欲を煽る。
「見せて。もう一度」
ゆっくり言葉を重ねる。拒絶を許さない詰め方なのに、圧ではなく温度で追い込む。腰の手を少しだけ強くして、逃げないことを確認させる。顎に触れて、顔を上げさせる。乱暴にしない。乱暴にしない方が、彼女は逃げ場を失う。
「アラン。目を閉じて。少し上を向いて」
優しい指示の形に落とし込む。命令とわからないほど穏やかに。けれど逆らえない輪郭だけは残して。
アランの喉が鳴った。小さく息を吸う音が聞こえる。拒みたい気持ちと、従ってしまう癖と、こちらを怒らせたくない恐れと――いろいろなものが絡まって、その場に縫い止められる。
それでも、彼女は従った。
ゆっくりと目を閉じ、ほんの少し顎を上げる。さっきと同じ形。けれど今度は、恥ずかしさが混ざっている分だけ、破壊力が増している。わざとらしくない。必死に平静を装っているのに、身体が言うことを聞いてしまっている。その矛盾が、美しい。
胸の奥が熱くなり、口元が緩む。
「……そう。それです」
褒める。褒めるという飴は、彼女の中の従順さを育てる。育てたものがまたこちらを満たす。その循環が、愚かなくらい甘い。
唇はまだ触れない。触れないまま、息だけを落とす。彼女が待つ時間を、もう少し引き伸ばす。耐えきれずに目を開けたくなる、その寸前を見たい。
「待つの、上手ですね」
その言葉だけで、アランの頬がさらに赤くなる。閉じた瞼の奥で、羞恥が揺れているのが見える気がする。
「……意地悪です」
微かに漏れた声が、抗議の形をしていた。けれどその抗議は、爪先ほどの力しかない。こちらの胸を撫でる羽みたいに軽い。
「ええ。あなた相手だと、どうしても」
正直さの形で返す。言い訳ではなく、告白のように。アランの身体が、ほんのわずかに震えた。怖さではない。熱に近い震えだ。
もう十分だと思ったところで、ようやく唇を寄せる。
触れる前に、最後にもう一度囁く。
「今の顔、忘れたくないんです」
その言葉が落ちた瞬間、アランの眉がかすかに緩む。守りの鎧に、ほんの小さな綻びができる。その綻びが見えたのが嬉しくて、たまらなくて。
そして、ようやく口付けた。
触れたのは一瞬だった。けれど一瞬で十分だった。待たせた分だけ、彼女の息が甘く崩れる。閉じていた瞼の下で、逃げ場のない現実を受け入れるように、静かに沈む。
唇を離したあと、わざと問いかける。
「どうでした?」
また、答えさせたくなる。恥を引き出したくなる。美しさを、もっと見たい。もっと、こちらの好きな形で。
アランは答えられずに、ただ息を吐いた。返事の代わりに、こちらの胸元へ小さく額を預ける。その仕草まで、どこか“教え込まれた”形に見えてしまって、喉の奥が甘く痺れる。
「……ねえ、アラン」
囁きながら髪に指を通す。優しく、丁寧に、逃げ道を塞ぐ手つきで。
「もう一回。さっきの待つ顔」
どこまでも甘く、どこまでも緩やかに。拒絶を許さない速度で、また追い詰めていく。
アランの肩が小さく跳ねる。恥ずかしさに耐えきれないように首を振りかけて、振れない。結局、息を吸って、観念したみたいに瞼を伏せる。
その瞬間、胸の奥が満たされていくのを止められなかった。
午後の光が、窓の硝子に薄い金を落としていた。
応接間よりもずっと静かな、子どものための小さな学習室。分厚く敷き替えさせた絨毯が足音を吸い、暖炉は火を落としているのに、部屋の空気だけが不思議とぬくい。
アルタイルは、両手で練習用の杖を握っていた。まだ指が短い。握り込みが浅くなりがちな手を、レギュラスは否定せずに、手首の角度だけを指先でそっと整える。
押しつけるのではなく、正しい位置を置いてやるような触れ方だった。教え込むのは得意だ。子ども相手でも、その癖は変わらない。
「力を入れすぎなくていいですよ。杖は、握り潰すものじゃない」
アルタイルは小さく頷き、唇を結ぶ。真剣な横顔が、やけに大人びて見える瞬間がある。
その小さな身体のどこに、と思うほどの魔力が、はじめから内側に満ちているのがわかる。息を吸うだけで空気が薄く震え、机の上の羽ペンがかすかに揺れた。
向かいの椅子に、ローランド・フロストが背筋を伸ばして座っている。
家庭教師としての立ち位置を崩さず、けれど視線だけは、どうしても父子の間に吸い寄せられてしまう――そんな気配が、薄い皮膜みたいに部屋に張っていた。
「では、唱えてみましょう。ゆっくりで」
アルタイルは息を整え、杖先をまっすぐに向けた。声はまだ幼い。けれど、言葉の一音一音に、迷いがない。
「……ルーモス」
杖先が一度、鈍い火花を散らした。失敗の兆し――そう見えた瞬間、光が“形”になって生まれた。
小さな灯りだ。だが小さいはずの灯りが、部屋の隅々まで濃く照らし、影の輪郭をくっきり切り取っていく。魔法灯の安定が早い。生まれ落ちる速度が、明らかに普通の子どもと違う。
アルタイルは驚いたように目を丸くした。次いで、抑えきれない嬉しさが頬に滲む。
その笑みがこぼれる前に、レギュラスの手が肩に置かれる。褒めるのではなく、落ち着かせるための触れ方だ。昂ぶりに飲まれて雑になるのを許さない。
「そのまま維持。……そう。いい子です」
灯りは揺れない。ぶれない。
幼い魔法使いが放ったとは思えないほど、きれいに止まっている。
ローランドが、言葉を飲み込んだあとで、ようやく息を吐いた。
「……さすがです、アルタイル様」
その声音には、純粋な敬意が混じっている。羨望の色を隠す必要がない立場の人間だけが出せる温度だった。
レギュラスは、アルタイルの頭の形を指でなぞる。髪の流れを整えるみたいに、さりげなく。そこにある魔力の大きさを誇示するでもなく、当然のこととして撫でる。
「ブラック家の血です」
短い一言が、部屋に落ちて、重さを持った。
自分の子だ――と、声にしなくてもわかるような響き。主張は過剰にしない方がいい。過剰にすればするほど、怯えや疑いを呼ぶ。けれど、淡々と言い切れば、誰も割り込めない。
アルタイルは「へへ」と小さく笑って、もう一度杖を掲げた。褒められたいわけじゃない。見せたいのだ。父に、先生に、自分の“できる”を。
「もういっかい」
「はい。もう一回、やってみましょう。ただし、同じ明るさで」
レギュラスがそう言うと、アルタイルは一瞬だけ考え込んでから、目を細める。
幼いのに、調整をしようとする。力任せではなく、加減を学ぶ方向へ自然に向かうのが、末恐ろしいほどに“らしい”。
二度目の呪文は、さらに滑らかだった。
灯りが生まれる前の一拍――魔力が杖先に集まる、透明な圧が、耳の奥をくすぐる。ローランドの指先が膝の上で僅かに強張ったのが視界の端に入った。慣れているはずの大人が反応してしまうほど、集まる量が多い。
灯りが、ふわりと咲く。
そしてアルタイルは、やっと嬉しさをこぼした。胸を張るのではなく、父の方を見上げて、目を輝かせる――その仕草が、幼い子どものままで、救いみたいに可愛い。
レギュラスは口元だけで笑った。大げさにはしない。大げさに喜べば、子は調子に乗る。
けれど心の内側では、別の熱が静かに燃えていた。
この小さな手が、いつか本物の杖を握り、もっと難しい呪文を選び取っていく。
守るために。奪われないために。手放さないために。
そして、もう少し大きくなったなら――
杖を交える稽古をつけてもいいのかもしれない、と、ふと考える。
教えるのは、呪文の形だけではない。
相手の癖を読む目。間合い。呼吸。心の揺れを武器に変える方法。
それらを与えるのは、父親の役目だと、当然のように思ってしまう。
レギュラスはアルタイルの肩を軽く叩き、杖先の灯りを見つめたまま、静かに告げた。
「今日はここまでにしましょう。よくできました。――次は、止める練習もします。出せる子は、止められなきゃいけない」
アルタイルは「うん」と頷く。
その返事が、幼いくせにきちんと芯を持っていて、ローランドが思わず目を細める。
「フロスト先生、見てた?」とアルタイルが振り返る。
「ええ。しっかり拝見しました、アルタイル様。……とても立派でした」
褒め言葉が柔らかく落ちる。
レギュラスは、その光景を見ながら、胸の奥が満たされていくのを感じた。
息子がいて、光があって、忠実な教師がいて。
そしてこの部屋の空気の中心に、父として立っていられる。
こういう瞬間だけは、世界が正しい順番で並ぶ。
誰にも崩させないと思えるほどに。
午後の稽古が終わり、練習用の杖をしまったあとも、アルタイルの頬はまだ熱を残していた。
机の角に肘をつき、指先で自分の杖袋を撫でては、時折ふっと笑う。自分の手から光が生まれた、という事実が、幼い胸を内側から膨らませているのがわかる。
ローランドはその小さな背中を見守りながら、視線の置き場にだけ神経を使っていた。
この屋敷では、余計なものを見るほど、余計なものが増える。見たくないものが、見えてしまう。
その日、たまたま――ほんの一瞬、アランがテーブルに差し入れを置くとき、袖口がわずかにずれた。
手首の内側から、赤い線が覗いた。治りかけではない。うっすらと落ち着いてきた色の下に、まだ熱を孕んだ赤が重なっている。
首元の高い襟に隠れるはずの場所まで、同じ赤が続いていることを、ローランドはもう知っていた。知りたくなかったのに。
気づかないふりをするのが礼節だと、何度も自分に言い聞かせてきた。
自分の口から「傷」などと零せば、それは余計な世話になる。アランが築いている均衡を、こちらから揺らすことになる。
レギュラスに言えば言ったで、冷たい灰色の瞳が笑う光景が容易に想像できた。――まだそんなに妻を見ているのか、と。
その言葉一つで、傷が増える理由になりかねない。そういう男だ。
だからこそ、別の道を探した。
誰かを責める言葉ではなく、誰も疑わない言い方。
自然に、当たり前に、家族の一部として口にできる声。
アルタイルが一番いい。
この子の言葉なら、誰も「余計」とは言いにくい。むしろ微笑ましい、と受け取られる。
それがこの屋敷の、歪んだ救いだった。
「アルタイル様」
呼びかけると、アルタイルはすぐ顔を上げた。期待する眼差しだ。褒められると思っている。
その無垢が痛いほど眩しく、同時に、少しだけ胸を締めつけた。――この子もまた、父の影を吸い込みながら育っている。
「杖をしまう前に、もうひとつだけ。大事なものほど、丁寧に扱う、というお話をしましょうか」
「だいじなもの?」
「はい。壊れやすいもの、傷つきやすいもの。そういうものは、ちゃんと守らないといけません」
アルタイルは眉を寄せて考え、やがて小さく頷いた。
ローランドはその反応に、わずかな安堵を覚える。理解しようとする子だ。言葉の形に、ちゃんと耳を澄ます。
そこへ、アランが再び戻ってきた。
陶器の皿に乗った小さな焼き菓子と、温かい飲み物。屋敷のどこまでも洗練された香りが、部屋の隅々に行き渡る。
「アルタイル、ほらどうぞ。手を拭いてからにしてくださいね」
丁寧な声だった。アルタイルに対しても、いつも同じ速度で、同じ温度で言葉を置く。
その優しさは、けれど時々、装飾のように見える。誰かの機嫌を損ねないための、完璧な形。
アルタイルは椅子から降りて、よちよちとアランのところへ行く。
そして当たり前のように、手を伸ばした。母の手を取る癖がついている。父がそうするのを見て育ったから。
小さな指が、アランの手の甲に触れた瞬間、アルタイルの動きが止まった。
ふわり、と指先が探るように滑る。そこには、ざらりとした感触があるのだろう。
アルタイルは眉を寄せたまま、じっと母の手を見つめた。目が真剣になる。さっき杖を握っていたときと同じ目だ。
「まま」
呼び方が、急に幼く聞こえた。
「どうしました、アルタイル」
アランが微笑む。いつも通りの、崩れない美しさ。
けれどその視線が、一瞬だけ自分の手へ落ちた。気づいている。気づいているのに、見ないふりをする。
アルタイルはもう一度、母の手の甲に触れた。
そして、確かめるように小さく言った。
「ここ、あかい」
部屋の空気が、ほんの少しだけ硬くなった。
ローランドは息を止めそうになるのを堪え、表情を変えないように視線を落とす。あくまで“子どもが気づいた”だけの出来事として、淡々と流れなければならない。
アランは一拍遅れて、笑みを深くする。
「ええ、少しだけ。もうすぐ目立たなくなりますよ」
それで終わらせようとした。
いつもと同じように、波風を立てずに。
ローランドはそこで、ほんのわずかに言葉を添えた。アルタイルに向けて。アランではなく、あくまで子どもの会話として。
「アルタイル様。大事なものは、守るって言いましたよね。――もし、守りたいものが傷ついたら、どうしますか」
アルタイルはすぐに顔を上げた。
その答えは、考えるまでもないという顔で、けれどどこか父親譲りの“確信”を滲ませた声で言う。
「まもる」
「そうです。守る。じゃあ、守るために――ままに、お願いしてもいいんですよ」
「おねがい?」
「はい。怪我をしないで、って」
その瞬間、アルタイルの目が少しだけ光った。
子どもらしい目的が、そこに見えた。怪我をさせたくない、というより、怪我をされると“困る”のだ。
ママが痛いと、抱っこしてもらえない。遊んでもらえない。そばにいてくれない。
可愛い。可愛いのに、選ぶ言葉の輪郭が、驚くほどはっきりしている。
アルタイルはアランの手をぎゅっと握ったまま、まるで契約を結ぶみたいに言った。
「まま、けが、だめ。つくらないで。ずっと、ここにいて」
幼い声だった。
でも、言い切り方が妙に大人びていた。お願いであり、命令に近い形。
レギュラス・ブラックの血が、確かにそこに滲んでいる。
アランの睫毛が、ほんの少し震えた。
笑みは崩れない。けれど、その笑みの奥で、何かがきゅっと固くなるのが見えた気がした。
アランはアルタイルの頭を撫で、いつもの丁寧な声で返す。
「はい。気をつけます。アルタイルが心配をするようなことは、もうしません」
もうしませんという言葉が、やけに重く響いた。
それが約束なのか、誓いなのか、ただの綺麗な形なのか――判断する権利がローランドにはない。
けれど、アルタイルは満足したらしかった。
「うん」と頷き、母の手を握ったまま、今度は少しだけ甘えるように頬を寄せる。守るべきものが自分の掌に収まったと確認する仕草だった。
アランはそのまま、そっと手を引き抜こうとして、やめた。
握られたままにする。痛い場所に触れられているはずなのに、何も言わずに。
ローランドは、胸の奥が痺れるような感覚に襲われた。
助けたいと思っているのに、助ける手を伸ばせない。だから、子どもの手を借りた。
最低だと思う。けれど、それでも――この屋敷の中で増える赤を、少しでも止められるなら。
「フロスト先生」
アルタイルがふいに振り返り、得意げに笑った。
「まま、けがしないって」
「……はい。アルタイル様は、とても良いことを仰いました」
言葉にした瞬間、喉の奥が少し痛んだ。
良いことと言いながら、それがどれほど苦しい種類の良さなのかを、ローランドは知ってしまっている。
アランは微笑んだまま、焼き菓子の皿をテーブルに置いた。
その手つきは、いつも通り美しく、正しく、隙がない。
けれどローランドの目には、握られた手の甲の赤が、どうしても消えずに残った。
この子の言葉が、母の傷を止める力になるのか。
それとも――別の鎖の形になるのか。
答えは出ないまま、午後の光だけが静かに床を滑っていった。
アルタイルは焼き菓子の皿を前にしても、すぐには手を伸ばさなかった。
さっきまで握っていた母の手の甲の赤が、頭の中に残っているのだろう。小さな眉が寄る。何かを考える癖も、最近ははっきりと表に出るようになった。
「アルタイル様」
ローランドがそっと呼ぶと、アルタイルは顔を上げる。
その瞳には、幼い子の無邪気さと、妙に“正しいことを言った”という誇りが同居していた。
「よく言えましたね」
たったそれだけの言葉が、アルタイルの背筋を少しだけ伸ばした。
褒められることに慣れているはずなのに、今の褒め言葉はいつもより甘く沁みたのか、口元がふわりと緩む。
「ぼく、まま、まもる」
「はい。とても立派でした」
ローランドは頷きながらも、胸の奥がざわついた。
守るという言葉が、この屋敷では時々、柔らかな布ではなく、細い鎖のように使われる。アルタイルの口から出たそれは、あまりにも可愛くて、あまりにも危うい。
アランはその後、何事もなかったように微笑んで、用事があると言って部屋を出ていた。
ドアが閉まる音がした瞬間、空気が少しだけ軽くなる。――軽くなってしまう自分が嫌だった。
アルタイルは椅子の上で足をぶらぶらさせ、皿のクッキーをじっと見つめる。
食べたいのに、気持ちがそちらへ向き切らない。そんな顔だった。
ローランドはその迷いを見逃さないふりをして、わざと穏やかな調子で続けた。
「アルタイル様。さっきのお願いは、とても大事なお願いでした。だから……パパにも教えて差し上げると、きっと喜びますよ」
アルタイルの目がきらりと動く。
「ぱぱ?」
「はい。ブラック様は、奥様のことを大切に思っていらっしゃいます。アルタイル様がままを守るって言ってくれたこと、聞いたら――とても誇らしいはずです」
誇らしい。
その言葉は、アルタイルにとっていちばん分かりやすいご褒美だった。父に褒められる。父が微笑む。父が自分を抱き上げる。
その光景を、幼い頭はすぐに思い浮かべてしまう。
「ぼく、いう」
「ええ。言い方も、優しくね。お願い、という形で」
ローランドは“守りましょう”という風を崩さないまま、言葉の導線を慎重に整える。
自分からアランに言えない。自分からレギュラスに言えば、余計な視線を招く。
ならば、いちばん自然な口から――家族の真ん中にいる口から落とすしかない。
アルタイルは頷き、クッキーをひとつ掴んで、ようやく口に運んだ。
噛む音が、小さく、規則正しく響く。気持ちが決まった子の音だった。
ローランドはその横顔を見ながら、喉の奥に苦いものが溜まるのを感じた。
自然を装って、子どもを使っている。ままを守る、と言いながら、実際には自分の胸騒ぎの逃げ道を探している。
それでも――あの赤い線が増えるよりましだ。
そう言い聞かせてしまう自分が、いちばん嫌だった。
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