3章
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羽ペンが盆に戻された瞬間、寝室の空気が、ひとつの場所に収まった気がした。
散らかっていたものが片づく、というより、噛み合わない歯車が――音もなく噛み合って、勝手に回り出す。そんな感覚。
アランは、言われた通りに動いた。
震えながらも、逃げもせず、羽根の先を滑らせた。目を閉じ、息を堪え、それでも最後まで書いた。刻まれた文字が皮膚の奥で熱を持つのと同時に、自分の胸の内にあったざわめきが、しんと凪いでいく。
安心するのだ。
絶対にこれで、秩序が乱れることがない、と。
彼女が黙っているとき、何を抱えているのか分からない。どこに心を隠しているのか見えない。
けれど、言葉が“体に残る”形になった瞬間だけは違う。目に見える。触れられる。忘れられない。
どれだけ息を潜めても、どれほど正しい顔を作っても、この屋敷に、そして自分の掌の上に、確かに置かれる。
アランの腕に刻まれた文字の並びは、紙よりも正直だった。
読めるのは文字そのものではなく、彼女がそこへ従ったという事実で。従ってしまった、という屈辱で。従わせた、という勝利で。
「……痛いですか」
問いかけた声は、驚くほど柔らかい。
優しさのようでいて、痛みの確認は、支配の確認と同じだと分かっている。分かっているのに、口が勝手にその形を選ぶ。
アランは小さく頷いた。唇が、かすかに震える。
「ごめんなさい、レギュラス……」
謝罪の言葉が落ちた瞬間、胸の奥がほどけるのが分かった。
謝らせたかったわけではない、と言い訳はできる。規則を守らせたいだけだ、と。忘れさせたくないだけだ、と。
けれど、本当は違う。謝られると安心する。彼女が自分へ向く。視線が戻る。自分の手の中へ帰ってくる。
彼女の顔に傷が入った日の、あの嫌な感覚がよみがえる。
鼻の頭に滲んだ赤。頬の高い位置に引かれた線。上唇の端に残った、乾きかけの血。
医務魔法使いが「問題ありません」と言ったところで、問題がないわけがなかった。――“自分が愛した顔”に、傷がある。あれが耐え難かった。
どうして守れなかったのか、どうして間に合わなかったのか。階段の段差まで憎くなって、絨毯の厚みを増やすだの、手を取るだの、取り返しのつかない焦りを、取り返しのつく対策にすり替えて必死に落ち着かせた。
それと同じくらい――いや、別種の、奇妙な安堵がある。
腕に規則が刻まれていくのを見ると、心が落ち着く。
傷は嫌だ。顔の傷は心臓をえぐる。けれど、規則の線は違う。そこには秩序がある。こちらが用意した秩序が、彼女の身体に定着していく。
それは痛みのはずなのに、安心が勝つ。自分でも気味が悪いほどに。
アランが袖を下ろそうとする。隠したいのだろう。見せたくないのだろう。
その仕草に、わずかな苛立ちが走る。隠されるのが嫌だ。なかったことのようにされるのが嫌だ。
「隠さないで」
言葉は命令になる。
なるべく穏やかに言ったつもりでも、拒む余白がない声になってしまう。
アランの手が止まった。視線が揺れ、そして、従う。
袖が途中で止まり、刻まれたばかりの文字が、薄い赤みを帯びて浮いている。
自分の内側が、静かに満たされる。
やっぱりこの女は美しい、とさえ思う。泣きそうな顔のまま従う姿が美しいのではない。命令の形を理解し、最短の動きでその通りに収まるところが。
従順でいるための正しさを捨てない、その歪な整い方が。
「いい子ですね」
口に出してから、少し遅れて気づく。
甘い言葉は、彼女の心を慰めるためではない。自分のためだ。自分が落ち着くために、相手にご褒美の形を与える。
そうすれば、また次も従うと分かっているから。
アランの瞼がきゅっと閉じられる。
痛みか、悔しさか、恥ずかしさか。全部だろう。全部でいい。全部を抱えたまま、ここに居ればいい。
羽ペンが盆の上で白く光っている。
一度書かせてしまえば、二度目は早い。三度目はもっと早い。
必要な規則が、脳裏にいくらでも浮かぶ。守らせたいことが、山ほどある。近づくな、触れるな、目を向けるな、勝手に笑うな、勝手に思い出すな。
それらが一つずつ“形”になると考えるだけで、胸の奥のざわめきが、さらに静かになるのが分かる。
だから、やめられなくなる。
秩序が整っていく快感は、恐ろしいほど中毒性がある。
アランの頬に触れる。顔の傷跡はもう目立たない。けれど、あの日の不快な記憶は消えない。
その記憶を上書きするみたいに、腕の内側の文字へ指先を滑らせる。触れるたび、心が落ち着く。
ここにある。逃げない。忘れない。――言葉より確かな感触。
「アラン」
名を呼ぶと、彼女は反射で顔を上げる。
その翡翠の瞳がこちらを見る瞬間、胸の奥がひどく静かになる。勝利を確信する、というより、ようやく呼吸ができる。
「……なんでしょう」
声は掠れているのに、語尾は丁寧だ。
従うための言葉を選ぶ癖が、もう染みついている。
「これで終わりだと思いました?」
意地悪く問いかけた瞬間、アランの瞳がわずかに揺れる。
怯えが走る。拒否が生まれる。逃げ道を探す。――その動きすら、こちらには手の内だ。
「終わりにしたいなら、終わりにできるようにしてください」
あなたがではない。
こちらがでもない。
彼女に、彼女の口で、彼女の身体で、終わりの条件を満たさせる。そうすれば、秩序は乱れない。
アランは唇を開きかけて、閉じる。
言葉が出ない。出せない。出したら、切り取られると知っている。
その沈黙に、また新しい規則が生まれそうになる。
言わせたい。黙らせたい。答えさせたい。答えを選ぶ自由を奪いたい。
矛盾の欲が、同時に胸を満たす。
それでも今は、彼女が言う通りに動いたという事実が、何より甘い。
命令が通った。従った。刻まれた。
秩序は、ここにある。自分の手の中にある。
「……次は」
羽ペンへ視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。
その吐息が、まるで祈りみたいに静かで、自分でも可笑しくなる。
「次は、もっと簡単なものにしましょう。あなたが、覚えやすいように」
優しさの形をした、逃げ道のない言葉。
アランの顔が、ほんの少しだけ歪む。けれど、頷く。
その頷きが、胸の奥に深く刺さって、痛いほど満たす。
――絶対にこれで、秩序が乱れることがない。
そう思える瞬間だけが、あの写真の記憶も、あの屈辱も、すべて黙らせてくれる。
そしてその安堵が、また次を欲しがらせる。
書かせるべきことは山ほどある。守らせたいことはたくさんある。
それを必要と呼べる限り、自分はどこまでも正しくいられる――そう信じたかった。
レギュラスが規則を口にするのは、いつも唐突だった。
夕餉が滞りなく終わり、アルタイルが乳母に連れられて寝室へ消え、屋敷が静けさを取り戻した頃。
暖炉の火が、ぱちりと小さく鳴る。カーテンの重たい襞が夜を深くする。――その「いつも通り」の中で、彼だけが不意に別の空気を持ち込む。
「…… アラン」
名を呼ばれるだけで、背筋が薄く硬くなる。
視線を上げると、レギュラスは椅子に腰を下ろしたまま、まるで思い出したような顔をしている。先ほどまで、穏やかに紅茶を飲み、アルタイルの今日の出来事を聞いていた男と同じはずなのに。
「書いてください」
その言葉と同時に、白い羽ペンが差し出される。
インク壺も紙もない。最初にそれを見せられた夜の記憶が、冷たい水のように喉を滑る。腕に残った線の熱が、まだ皮膚の奥で脈打っている気がした。
「……なぜです、急に」
声が、思ったより掠れて出る。
問いかけは、抗議になりきれない。抗議する権利があるのかと、先に自分が自分を押し黙らせる。
レギュラスは微笑んだ。柔らかいのに、どこか刃のある笑みだ。
「急に? どこが急にです? 忘れているように見えたので」
忘れていない。
忘れられるはずがない。
袖で隠しても、湯に浸しても、治癒呪文を重ねても、消え切らない線が、自分の中の時間を勝手に区切っていく。
「……守っています。言われたことは」
そう言うと、レギュラスは椅子から立ち上がり、アランの前に回り込む。足音は静かで、だから余計に逃げ道が消える。
指先が頬に触れた。あの階段で傷ついた場所を、確認するように。もう目立たないほど薄くなった痕を、撫でる手だけが、あまりにも丁寧だ。
「よかった」
安堵のような吐息が落ちる。
あの時の彼は、本当に苦しそうだった。鼻の頭に滲む赤を見て顔色を変え、頬の高い位置の擦り傷を見て眉を寄せ、唇の端を指で触れては言葉を失いかけていた。絨毯の厚みまで変えようとするほど、大袈裟に心配して。
――その男が、今は同じ手で羽ペンを差し出している。
同じ人間なのか。
同じ心臓が鳴っているのか。
毎回、分からなくなる。
「ローランドを見てなんかいません」
口にすると、レギュラスの瞳がほんのわずかに細くなる。
「ローランド」と名を出した自分が、まずいと気づくより早く、彼の空気がひどく冷える。
「見てない?」
問いは確認の形をしているのに、答えはひとつしか許されていない響きがある。
「ええ。徹底しています。……彼が屋敷にいない時でさえ」
自分の言葉を、丁寧に並べる。
何度も繰り返してきた証言みたいに。間違えないように、穴を作らないように。
やましいことはもう何もしていない。あの瞬間から、体も心も、息を潜めるように整え直した。すれ違っても礼だけ、会釈だけ。目も合わせない。
それが「正しい」妻だと、彼が求める形だと分かっているから。
それなのに、レギュラスの中で、勝手に膨れ上がる疑念がある。
数日ごとに、波のように戻ってきては、突然こちらへ向けられる。
理由もなく牙を剥かれる恐怖は、説明のしようがないほど厄介だった。
「なら、なおさらですね」
レギュラスは穏やかな口調のまま言った。
「正しく振る舞えているなら、規則を刻むのも、苦しくないでしょう」
――逃げ道が、ふっと消える。
正しさが、罰の免罪符にならない。正しさはただ、従わせるための証拠にしかならない。
羽ペンが指先に押し当てられ、持たされる。
アランは受け取ってしまう。受け取ってしまう癖が、すでに体の方に染みついている。
「今度は……どこに」
問う声が、自分でも嫌になるほど小さい。
レギュラスは少し考えるように視線を落とし、それから当然のようにアランの手首を取った。
袖を捲られる。肘の内側。腕の側面。――すでに文字が薄く走っている。消えかけたものもあれば、まだ赤みを帯びて残っているものもある。
「……もう、ここはいっぱいですね」
淡々と告げられるだけで、胸が痛い。
言葉の意味は単純なのに、追い詰められる感覚がある。刻む場所がなくなるということは、終わるという意味ではない。むしろ――次の場所が始まるだけだ。
「鎖骨にしましょうか」
その言い方が、まるで宝飾を選ぶみたいに軽い。
アランの呼吸が、ひゅっと浅くなる。
「……そこは、見えるところです」
「見える方がいいでしょう」
レギュラスはあっさり言った。
「あなたが忘れないために。僕が忘れないために」
忘れないため。
それは、誰のための言葉なのか。
ローランドを追い出せばいい。
それが一番単純で、一番確実だ。
けれどレギュラスはしない。ローランドをこの屋敷に縛りつけることに意味がある。――罰であり、見せつけであり、息子を導かせる責任であり、そして、こちらの心を少しずつ削るための道具でもある。
そのやり方を、アランは理解してしまっている。理解しているから、余計に怖い。
レギュラスの指が、鎖骨のあたりの布に触れる。
襟元を少しだけ開かれ、冷たい空気が肌に入る。
火の温度があるはずの部屋で、そこだけ冬みたいに感じた。
「……レギュラス、お願いです。もう」
言いかけて、言葉が途切れる。
「もう何も」と言えば、彼は必ず食いつく。何を? 何もって何? 何が終わったの? そうやって言葉尻を掴み、逃げる穴を塞ぐ。
自分の弱さが、相手の娯楽になる。
レギュラスは、アランの顎に指を添えた。力は強くないのに、顔が上を向いてしまう。
「声が出ますね」
淡々とした一言が、容赦なく刺さる。
出る。出るからこそ、言わされる。
あの夜、答えが出せずに沈黙し続けた自分を、彼はいつまでも許さない。沈黙で逃げる術があると覚えさせないために。
だから書かせる。言葉が消えない形で残るように。
羽ペンで書いた文字が鎖骨の上をなぞる。
痛みは、針で刺すように鋭いというより、熱い線が皮膚の奥へ沈んでいく感覚に近い。薄い悲鳴が喉の奥で揺れ、声にするまいと歯を噛むと、顎が震える。
「……っ」
「我慢しなくていいですよ」
優しい声だった。
顔の傷を案じた時と同じ温度の、慰めるような声。
その優しさが、余計に心を壊す。優しさがあるからこそ、彼の残酷さが本気だと分かってしまう。遊びではない。気まぐれでもない。
この男の中で、優しさと支配は同じ棚に置かれている。
刻まれていく言葉が、鎖骨に沿って増える。
規則が、肌の上に座る。
収まりきらないものが、次々と場所を求めて侵食してくる。やがて手の甲へ、指の付け根へ、袖では隠し切れないところへ。
「……ここまでして、何を守らせたいんですか」
掠れた声で問うと、レギュラスは微笑む。
「秩序ですよ」
たった一言。
それが彼の正義だ。
彼の恐れだ。
そして、彼が息をするための形だ。
「あなたは、ちゃんと分かっているはずです。僕が、何を嫌うか」
分かっている。
分かっているから、怖い。
彼の嫌うものは、裏切りそのものよりも、知らないところで出来上がる何かだ。自分の手の届かない場所で、誰かと誰かが共有する温度。
それが一度でも存在した瞬間から、彼は永遠にその影を追う。
たとえもう何も起きていなくても、影は勝手に膨らむ。疑念は勝手に育つ。そして矛先は、いつでもこちらへ戻る。
レギュラスの手が、羽ペンを握るアランの指に重なる。
導くように、矯正するように。逃げないように固定する。
背後から囁く声が、耳のすぐそばで落ちた。
「書きやすいでしょう。僕が支えてあげます」
支えているのは、体ではなく、逃げ道の方だ。
そう気づくのに、アランは何もできない。ただ、言われた通りに文字をなぞる。
終わった頃、レギュラスはそっと羽ペンを盆へ戻し、アランの鎖骨のあたりに口づけた。
痛みの残る場所に、優しい熱が触れる。ひどく矛盾しているのに、体がその温度に反応してしまう。
それが自分をさらに情けなくする。
「痛かったですね」
本当に申し訳なさそうに言う顔で、彼はアランの髪を撫でる。
同じ手が、顔の傷を案じ、同じ手が、規則を刻ませる。
その二つが同じ人間の中にあることが、どうしても理解できない。
アランは、刻まれた文字に触れないようにそっと布を戻しながら、胸の奥を押さえた。
嫌悪がある。許したくない気持ちがある。奪われた未来の形が、今も時折鮮やかに蘇る。
なのに、レギュラスが笑っているとほっとする。機嫌がいいと胸が温かくなる。
棘のある声色が出ると、息が苦しくなる。どうにかして、怒りの矛先を鈍らせたいと思ってしまう。
その自分が、分からない。
ローランドへの想いも、レギュラスへの感情も、どちらも「なかったこと」にはできない。
だから毎回、規則が増えるたびに、心の内側がぐらりと揺れる。
レギュラスはアランの頬に手を当て、顔を覗き込んだ。
灰色の瞳は穏やかだ。穏やかなまま、次の言葉が来る予感だけが、肌の裏を冷やす。
「いい子ですね、アラン」
褒め言葉の形をした鎖が、さらりと首にかかる。
アランは笑えないまま、けれど笑うように唇を整えた。
「……ありがとうございます」
声に出した瞬間、胸の奥で何かが音もなく折れ、同時に、別の何かが――折れたぶんだけ、静かに収まっていくのを感じた。
それが怖い。
けれど、その怖ささえ、彼はきっと守らせるのだろう。
ローランドは、やめられなかった。
やめるべきだと、何度も自分に言い聞かせてきた。
この屋敷で、誰のために息をしているのか。誰の許しを得て、誰の子に文字や数を教えているのか。
それを忘れるほど愚かではない――そう思っているのに、視線だけが勝手に、あの人の方へ滑っていく。
午前の陽が、長い廊下の窓から斜めに差している。磨き上げられた床に淡い光の帯が落ち、壁に飾られた肖像画の金縁が、どこか冷たい輝きを返す。屋敷の空気はいつも整っていて、静けささえ規律に従っているようだった。
その中で、アランはよくそこにいる。
サロンの窓辺に立ち、外を見ている横顔。
何を眺めているのかは分からない。ただ、カーテンの重たい布越しに射し込む光が、頬の高い位置をなぞり、まつ毛の影が頬に細く落ちる。その影が揺れるたび、ローランドは呼吸の仕方を思い出さなければならなくなる。
目を逸らそうとすると、余計に鮮明になる。
俯いたときに、まつ毛の影が長く伸びること。
書類に目を落としたとき、唇がほんの少しだけ結ばれること。
そして最近、降ろされることが増えた黒髪が、背中の線に沿って流れること。
髪を結い上げたときの彼女は、完璧なブラック夫人だった。
一本の乱れも許されない貴族の妻としての姿が、あまりにも似合いすぎるほどに。
けれど髪が下ろされている瞬間だけ、ほんのわずかに、過去の柔らかさが匂う。――触れてはいけない記憶が、息の隙間に忍び込んでくる。
だから見てはいけない。
だから見たくなる。
そして、見ているうちに、気づいてしまう。
少し痩せた、と。
気づいていいはずがないことだった。
他人の妻の変化を、ましてその“曲線”に目を向けるなど、醜悪だ。自分で自分を切り捨てたくなる。
それでも、ふとした瞬間に目に入ってしまう。
以前は、立ち姿そのものが満ちていた。
そこに立っているだけで、空気の密度が変わるような、柔らかい豊かさがあった。
今は――細い。
首の筋が、より長く見える。鎖骨のあたりの線が、以前より少しだけ鋭くなった気がする。
呼吸のたびに喉元が小さく動くのが、やけに目に付く。
選ぶドレスも変わった。
近頃は、首元の詰まったものばかりだ。立ち襟の高さが、彼女の首をいっそう白く長く見せる。美しい。息を呑むほどに。
それなのに、どこか息苦しそうにも見える。
外へ出るときの装いなら、わかる。
けれど屋敷の中でさえ、同じように詰めた襟を選ぶ理由が、ローランドには理解できなかった。
もっとゆったりとしたものを纏えばいいのに、などと。そんな余計な願いが胸の底で蠢くたび、喉の奥がひりついた。
今日は、午後の学びの時間だった。
アルタイルは五歳にして、恐ろしいほどに吸収が速い。
数の組み合わせも、文字の規則も、ただ覚えるのではなく“使う”。遊びのように見せながら、あっという間に本質だけを掴む。
可愛らしい幼子のふりをして、目の奥に鋭さが宿る瞬間がある。その鋭さは、あまりにもレギュラスに似ていた。
小さな机の上に並べた木の駒を指で弾き、アルタイルが笑う。
「これ、こうしたら、増える?」
「増えますよ、アルタイル様。では、いくつ増えましたか」
「……ふふ。わかる」
その声が弾むのを聞きながら、ローランドは必要以上に目を上げないようにしていた。
自分の役目は、子を導くことだ。
それ以外は、余計だ。
余計なものは、いつだって破滅を呼ぶ。
……なのに。
サロンへ続く扉が静かに開いた音で、背中が固くなる。
薄い足音。控えめな香り。
空気が一瞬で整う気配がして、ローランドは視線を上げてしまった。
アランが入ってくる。
アルタイルがぱっと顔を輝かせ、椅子から降りて走り出す。
「まま!」
その勢いは、もう赤子ではない。軽やかに見えて、体は確かに重くなっている。
アランはそれを受け止めるように膝を折り、抱きとめる。腕の細さに対して、子の重みが大きい。
「アルタイル、走ると危ないわ」
叱るというより、包む声だった。
アルタイルは頬を寄せ、満足そうに笑って、そして当然のように手を伸ばす。
「手、つなぐ」
その言い方が、子どもらしく甘いのに、どこか命令の形をしている。
最近、よく見る癖だった。
願いを“お願い”ではなく、当然として差し出す――それがこの屋敷の血なのだと、ローランドは喉の奥で苦く思う。
アランは微笑み、当たり前のように手を差し出す。
その瞬間、ローランドの視線は、どうしても、手の甲へ落ちた。
薄い皮膚に、赤い線が走っていた。
手首と手の甲の境目あたりから、細い傷が伸びている。一本ではない。重なるように、いくつも。
赤は新しい。治りきっていない色だ。布で擦れれば痛むだろう、という生々しさがある。
胸の奥が、ひゅっと鳴った。
呼吸が浅くなるのがわかる。
視線をすぐに引き上げなければならないのに、目が離れない。
あれは何だ。
何が、彼女の手にそんなものを残したのか。
アルタイルはその傷など気にしない。
小さな指で、母の手をしっかり握りしめ、勝ち誇ったようにローランドを見上げる。
「まま、ここ。ずっと」
ずっと、ここにいて。
言葉は幼いのに、含まれている欲は驚くほど濃い。
アランの手を握りしめるその指の力が、やけに強く見えて、ローランドは胸の奥がざわついた。
アランは、いつものように美しく、正しく微笑む。
痛みを隠す微笑みと、何もなかったように振る舞う微笑みは、見分けがつかない。
「ええ、ここよ」
その声は平らで、穏やかで、少しも揺れない。
ローランドの胸だけが、勝手に騒がしくなる。
「……ブラック夫人」
声をかけた瞬間、自分の声が硬いと気づいた。
問うべきではない。触れてはいけない。
けれど、見てしまったものを、見なかったことにできない。
アランが一瞬だけ視線をこちらへ向ける。
翡翠の瞳は、いつも通り静かだった。
その静けさが、ローランドをさらに追い詰める。
「どうされました、フロスト殿」
穏やかで礼儀正しい。
距離は正確で、隙がない。
線が引かれている。以前よりも、ずっと、強固に。
ローランドは、言葉を探して、喉が乾くのを感じた。
その手はどうしたのですか――そう言えば、何かが壊れる。
この屋敷の秩序が、あまりにも鋭くこちらへ向くのが見える。
それでも、胸騒ぎだけが消えない。
あの赤い線は、ただの擦り傷には見えなかった。
偶然ついた、と笑って済ませられるものには。
ローランドは、視線を無理やり上げ、アランの顔だけを見る。
目の下に疲れがある気がした。頬の肉がわずかに落ちた気がした。
何も言えない自分が、無力で、醜くて、どうしようもなく腹立たしい。
「……いえ。失礼しました。アルタイル様、続きに戻りましょう」
教師としての声に、必死に切り替える。
アルタイルは不満げに口を尖らせるが、母の手を握ったまま、ゆっくり机へ戻る。
その手の甲の赤が、視界の端で何度もちらつく。
アランは椅子に腰を下ろさず、少し離れたところで立ったまま見守る。
首元の詰まったドレスが、喉のあたりまできっちりと覆っている。
美しい。息苦しい。
そのどちらもが、同時に胸に刺さる。
ローランドは木の駒を並べ直しながら、指先に力が入るのを抑えた。
紙の上の数字が滲んで見える。
目の前にあるのは、ただの学びの時間のはずなのに、世界が別の色を帯びてしまった。
あの赤い線が、頭から離れない。
知らなくていいはずのことを、知ってしまった気がした。
見てはいけないものを、見てしまった気がした。
胸騒ぎは、止まらない。止まる気配すらない。
そして何より恐ろしいのは、胸騒ぎの正体が“心配”なのか、“怒り”なのか、それとも――まだ名を与えてはいけない何かなのか。
自分で区別がつかないまま、ただ、彼女の手の甲の赤だけが、静かに目の奥へ焼き付いていくことだった。
ローランドが最初に気づいたのは、ほんの一瞬だった。
アルタイルが転びかけ、机の角にぶつけそうになった瞬間。
アランがすっと腕を伸ばして、幼子の肩を抱き、危うい勢いを受け止めた。動きは迷いがなくて、母親の反射だった。
そのとき、袖口が少しだけずれた。
白い皮膚の上に、赤が走っていた。
線ではない。線の集まりだった。細く、浅く、しかし確かに皮膚の奥へ食い込んだまま残っているような、異様な赤。治りかけの色と、まだ新しい色が混じっている。
ローランドは息を止めた。
視線をそこに落とした自分が、すぐに卑しい覗き見をしたようで、慌てて目を逸らす。逸らしたのに、もう遅い。目が記憶してしまった。
それは擦り傷の類ではなかった。
事故でつく場所でも、つき方でもない。規則的すぎる。執拗すぎる。
その後も、同じような瞬間が、少しずつ積み重なっていった。
朝食の席で、アランが紅茶を注ぐためにポットを持ち上げたとき。
アルタイルが「まま、手」と強情にねだり、握られた手を振ってはしゃいだとき。
窓際でカーテンを整えるために腕を上げたとき。
ドレスの襟元を直そうとして、指先が鎖骨に触れたとき。
どれも一瞬で、どれも偶然のふりをして通り過ぎていく。
アラン自身も、何もなかったようにしている。袖はきっちりと整えられ、首元は詰められ、肌は露出しない。笑みは崩れない。声は平らで、礼儀は完璧で、屋敷の中で最も美しく正しい存在として立っている。
なのに、隠しきれない。
腕が。
傷だらけだった。
最初に見た手の甲の赤い線は、ただの始まりに過ぎなかった。
手首の内側には、細い文字のようなものが並んでいるように見えた。光の当たり方で浮いたり沈んだりする赤が、皮膚に縫い付けられた刺繍のように連なっている。
肘のあたりにも、上腕の内側にも、同じ種類の痕がある。治りかけのものの上に、新しいものが重ねられている。
恐ろしくなった。
この屋敷で、あんな傷が増えていく理由を、ローランドは一つしか思いつかなかった。
そして、それを与えられる人間も。
一人しかいない。
その名を思い浮かべただけで、背筋が冷えた。
あの男の笑い方。柔らかい声で甘やかしながら、息をするのと同じ自然さで人の逃げ道を塞ぐ癖。
慈愛の手で髪を撫で、同じ手で心を折ることができる二面性。
あの屋敷の空気そのものが、レギュラス・ブラックの意志で組み上がっている。
その中心にいるアランの肌が、傷を抱えている。
ローランドは唇を噛んだ。
噛んだ痛みで、ようやく現実に戻れる気がした。
踏み込む理由がない。
踏み込める立場でもない。
自分は家庭教師に過ぎない。
この屋敷に雇われ、アルタイルを教えるために存在しているだけの男だ。
それ以上の言葉を持つ資格はない。彼女の夫ではない。彼女の家族でもない。彼女の未来を共にするはずだった“過去”ですら、ここでは罪の名でしか呼べない。
それでも、目の前の事実が、胸の奥をじわじわと削っていく。
ある日の午後、アルタイルが指先をインクで汚した。
遊び半分で、文字の練習をしているうちに、指が黒く染まってしまったのだ。
アランが「洗いましょう」と言って、幼子の手を取った。
水差しと布巾を持ってくるその動作が、いつもより少しだけ遅い。慎重すぎるほど丁寧に見えた。
アルタイルが無邪気に笑いながら、母の手首を掴んだ。
「まま、ここ」
指先が、痕の上を無遠慮に撫でた。
アランの呼吸が、ほんの一拍だけ止まった。
その一拍を、ローランドは見逃せなかった。
痛みがあるのだ。
治りきっていないのだ。
ただ赤いだけではない。触れられると、呼吸が乱れる種類の傷なのだ。
アランはすぐに微笑んで、息を整えた。
「アルタイル、くすぐったいわ」
くすぐったいという言葉で誤魔化す声は、あまりにも自然で、あまりにも嘘が上手だった。
ローランドは、手の中の本を強く握った。紙が歪むほどに。
助けたい。
そんなもの、口にした瞬間に滑稽になる。自分が何を差し出せるというのだ。
助ける術など、持ち合わせていない。
魔法省の職を失い、この屋敷に縛られた。
あの日、ファイルからこぼれ落ちた写真の白さと、レギュラスの微笑みと、アランの凍りついた目とを、ローランドは今でも夜に思い出す。
自分はそこで“罰”として生かされている。息をしていること自体が、誰かの機嫌で許されている。
その自分が、何を言える。
言えない。
それでも見てしまう。
見たものを、知らなかったことにできない。
夜、廊下ですれ違ったアランは、いつも通りだった。
薄い香りを纏い、背筋を正し、静かな足取りで歩く。
「お疲れ様です、フロスト殿」
声は柔らかく、笑みは美しい。
ローランドは頷き返す。
「……ブラック夫人も、お疲れではありませんか」
その言葉が、やけに乾いて聞こえた。
疲れを問うふりをして、傷を問う資格のなさをごまかしているだけだ。
アランは一瞬、まばたきをした。
その翡翠の瞳に、何かが揺れたように見えたのに、次の瞬間には何も残っていない。
「大丈夫です。いつも通りに」
いつも通り。
その言葉が、ローランドの胸に刺さる。
いつも通りという言葉が、傷を抱えたまま微笑むことを指すのなら、この屋敷のいつもは、どれほど残酷なのか。
アランは一礼し、通り過ぎていく。
袖口は整っている。首元は詰まっている。肌は隠されている。
完璧だ。
だからこそ、恐ろしかった。
隠し続けられるほどに、彼女はこの屋敷で生き延びる術を身につけてしまっている。
そして、その術を身につけさせたのが、他でもない――
ローランドは、足を止めたまま、廊下の静けさの中に取り残された。
どうしたらいいのか分からない。
言葉はどれも軽すぎて、行動はどれも遅すぎて、正しさはどれも届かない。
それでも、あの赤い線は、見た瞬間からローランドの中で消えなくなった。
目を閉じても、まぶたの裏に浮かぶ。
優しく笑うアランの顔より先に、あの傷の色が立ち上がる。
助けたいのに。
助ける術がない。
その無力さだけが、胸の奥で硬い石のように重くなっていき、ローランドはただ、次に袖口がずれたときに見えるであろう赤を、恐れて待ってしまう自分自身を、どうしようもなく憎んだ。
寝室の灯りは落としてあった。
薄いカーテン越しの月明かりが、寝台の端と床の輪郭だけを淡く拾い、夜の深さを静かに確かめさせる。
アランは枕元に身を寄せ、髪をほどいたまま座っていた。
白い肌は闇の中でも不思議なほど輪郭を失わない。けれど、腕に走る赤い線だけが、そこだけ温度を持って残っている。治癒呪文が効かない、と言ったとおりの――皮膚の下に縫い込まれたような、しつこい痕。
その痕へ視線が吸い寄せられるのを、止められなかった。
「……痛そうです、アラン」
言葉にした瞬間、声が少しだけ優しく聞こえるのがわかった。意識して柔らかくしたわけではない。
ただ、そう言いたくなった。あまりにも、そこに自分の手で残したものがあるから。
アランは一拍、ためらうように目を伏せ、それから首を横に振った。
「大丈夫です、レギュラス。……もう慣れましたから」
慣れた、という音が胸のどこかを逆撫でする。
慣れられては困る、とも思う。けれど同時に、慣れているふりをされると――それはそれで、腹の底が満たされる。痛みを隠してでもこちらの機嫌に合わせようとする姿が、手放しで甘い。
寝台の縁へ膝をつき、アランの腕をそっと取った。
力を入れれば簡単に折れてしまいそうな細さ。だが、何度折ろうとしても折れきらない、あのしぶとさが骨の奥に潜んでいる。
指先で、痕の端をなぞる。
爪ではなく腹で、ゆっくりと。触れるだけで、アランの肩がかすかに強張った。
「……やっぱり、痛いでしょう」
「……少しだけ」
嘘を混ぜた答えだった。隠そうとする声の角が、かえって正直さを滲ませる。
その少しに、奇妙な満足が生まれる。痛ませているのに、痛みを心配しているふりができる。心配しているふりではなく、心配している“ように”振る舞える。――それがまるで、完璧な夫の所作みたいに思えてしまう。
「ごめんなさい」
アランが小さく言った。
違う。謝らせたいわけじゃない、と喉の奥が反射するのに、口はそう否定しない。
謝罪を受け取る側に立つことが、どれほど楽か。
許す、という立場を得た瞬間、あらゆる形がこちらの都合で整っていく。傷の痛みさえ、赦しの演出に変わる。
唇を落とした。痕の上ではなく、その少し下。骨ばった手首の内側に。
熱を乗せると、アランの呼吸がわずかに乱れる。たったそれだけで、胸の奥がほどけていくのがわかった。
「……痛くありませんか」
問いながら、もう一度痕をなぞる。
優しい手つきで触れて、優しい声で尋ねて、痛いと認めたら可哀想な妻として抱き寄せる。――その筋書きを、皮膚の感触が勝手に完成させていく。
アランはまた首を振った。
振りながら、喉が震えている。痛みではなく、諦めの方で。
その震えが、たまらなく綺麗だった。
「あなたは……ほんとうに、強いですね」
褒める言葉の形をして、実は鎖を締める。
強いと言っておけば、弱さを許さずに済む。弱いと認めた瞬間、守らねばならない面倒が増えるから。守るという役目を負うのは嫌いではない。けれど、守る理由はこちらが選ぶべきだ。
「強くなんて……ありません」
アランの声が、擦れる。
言葉と一緒に、目がかすかに潤む。泣くまいとしているのに、勝手に滲む水分。あの日から、涙の扱いが下手になったままだ。
その頬を親指で拭った。
拭いながら、痕を見下ろす。
治らないのが、いい。
薄れてしまえば、忘れたふりをされる。なかったことにされる。そんなのは耐えられない。痕が残っている限り、秩序は揺らがない。こちらが“正しい”立場にいられる。
それでも――こうして痛みを気にかけると、気分がいい。
「……あなたが痛いと、僕が困るんです」
本音のようで、本音ではない。
困るのは、痛いからではない。痛いせいで、逃げられそうだから。痛いせいで、こちらの支配が乱暴に見えるから。
美しい妻を手に入れたという物語が、傷で汚れるのが嫌なのだ。
口づけを重ねる。
唇から、頬へ、こめかみへ。丁寧に、慎重に、まるで壊れ物を扱うように。
触れるたび、アランの目が揺れて、嫌悪と安堵が同じ場所に滲む。
その混ざり方を見ていると、さらに欲しくなる。
許されたいのか、許したいのか。――わからないまま、ただこちらの望む形で落ち着かせたい。
「愛しています、アラン」
甘い言葉は、いつだって刃と同居できる。
その二面性に怯える顔を、また綺麗だと思ってしまう。どうしようもなく。
「……私も、愛しています」
返ってくるのが、練習済みの音であることはわかる。
けれど、返ってきた。それだけで喉の奥が熱くなる。満たされる。許す側の余裕に酔える。
痕へ、もう一度唇を落とした。
アランが小さく息を呑む。
「……ほら。やっぱり痛い」
責めるためではなく、確かめるために言う。
痛いという事実が、こちらの正当化を助ける。痛いのに耐えている妻、痛みに配慮する夫。――その並びは、外から見れば“美談”にすらなる。
外へ向けて誇れる形。
内側ではどれほど歪んでいても、整って見える形。
だから、やめられない。
痛みを配慮することが、こんなにも気持ちを満たすなんて――そんなの、認めたくないのに。
アランの腕を胸元へ抱き寄せ、痕を手のひらで覆った。隠すように、守るように。
そして囁く。
「ちゃんと大事にします。……だから、ちゃんとここにいてください」
お願いの形をした命令。
アランは黙り、ほんの少し遅れて頷いた。
その遅れに、胸の奥がまたざらつく。
けれど、頷きは頷きだ。今日のところは、それで秩序が保たれる。
痕の熱が掌に移ってくる。
それを感じながら、唇を重ねた。今度は傷ではなく、アランの口元へ。優しく、丁寧に。残酷さを隠すための、完璧な温度で。
散らかっていたものが片づく、というより、噛み合わない歯車が――音もなく噛み合って、勝手に回り出す。そんな感覚。
アランは、言われた通りに動いた。
震えながらも、逃げもせず、羽根の先を滑らせた。目を閉じ、息を堪え、それでも最後まで書いた。刻まれた文字が皮膚の奥で熱を持つのと同時に、自分の胸の内にあったざわめきが、しんと凪いでいく。
安心するのだ。
絶対にこれで、秩序が乱れることがない、と。
彼女が黙っているとき、何を抱えているのか分からない。どこに心を隠しているのか見えない。
けれど、言葉が“体に残る”形になった瞬間だけは違う。目に見える。触れられる。忘れられない。
どれだけ息を潜めても、どれほど正しい顔を作っても、この屋敷に、そして自分の掌の上に、確かに置かれる。
アランの腕に刻まれた文字の並びは、紙よりも正直だった。
読めるのは文字そのものではなく、彼女がそこへ従ったという事実で。従ってしまった、という屈辱で。従わせた、という勝利で。
「……痛いですか」
問いかけた声は、驚くほど柔らかい。
優しさのようでいて、痛みの確認は、支配の確認と同じだと分かっている。分かっているのに、口が勝手にその形を選ぶ。
アランは小さく頷いた。唇が、かすかに震える。
「ごめんなさい、レギュラス……」
謝罪の言葉が落ちた瞬間、胸の奥がほどけるのが分かった。
謝らせたかったわけではない、と言い訳はできる。規則を守らせたいだけだ、と。忘れさせたくないだけだ、と。
けれど、本当は違う。謝られると安心する。彼女が自分へ向く。視線が戻る。自分の手の中へ帰ってくる。
彼女の顔に傷が入った日の、あの嫌な感覚がよみがえる。
鼻の頭に滲んだ赤。頬の高い位置に引かれた線。上唇の端に残った、乾きかけの血。
医務魔法使いが「問題ありません」と言ったところで、問題がないわけがなかった。――“自分が愛した顔”に、傷がある。あれが耐え難かった。
どうして守れなかったのか、どうして間に合わなかったのか。階段の段差まで憎くなって、絨毯の厚みを増やすだの、手を取るだの、取り返しのつかない焦りを、取り返しのつく対策にすり替えて必死に落ち着かせた。
それと同じくらい――いや、別種の、奇妙な安堵がある。
腕に規則が刻まれていくのを見ると、心が落ち着く。
傷は嫌だ。顔の傷は心臓をえぐる。けれど、規則の線は違う。そこには秩序がある。こちらが用意した秩序が、彼女の身体に定着していく。
それは痛みのはずなのに、安心が勝つ。自分でも気味が悪いほどに。
アランが袖を下ろそうとする。隠したいのだろう。見せたくないのだろう。
その仕草に、わずかな苛立ちが走る。隠されるのが嫌だ。なかったことのようにされるのが嫌だ。
「隠さないで」
言葉は命令になる。
なるべく穏やかに言ったつもりでも、拒む余白がない声になってしまう。
アランの手が止まった。視線が揺れ、そして、従う。
袖が途中で止まり、刻まれたばかりの文字が、薄い赤みを帯びて浮いている。
自分の内側が、静かに満たされる。
やっぱりこの女は美しい、とさえ思う。泣きそうな顔のまま従う姿が美しいのではない。命令の形を理解し、最短の動きでその通りに収まるところが。
従順でいるための正しさを捨てない、その歪な整い方が。
「いい子ですね」
口に出してから、少し遅れて気づく。
甘い言葉は、彼女の心を慰めるためではない。自分のためだ。自分が落ち着くために、相手にご褒美の形を与える。
そうすれば、また次も従うと分かっているから。
アランの瞼がきゅっと閉じられる。
痛みか、悔しさか、恥ずかしさか。全部だろう。全部でいい。全部を抱えたまま、ここに居ればいい。
羽ペンが盆の上で白く光っている。
一度書かせてしまえば、二度目は早い。三度目はもっと早い。
必要な規則が、脳裏にいくらでも浮かぶ。守らせたいことが、山ほどある。近づくな、触れるな、目を向けるな、勝手に笑うな、勝手に思い出すな。
それらが一つずつ“形”になると考えるだけで、胸の奥のざわめきが、さらに静かになるのが分かる。
だから、やめられなくなる。
秩序が整っていく快感は、恐ろしいほど中毒性がある。
アランの頬に触れる。顔の傷跡はもう目立たない。けれど、あの日の不快な記憶は消えない。
その記憶を上書きするみたいに、腕の内側の文字へ指先を滑らせる。触れるたび、心が落ち着く。
ここにある。逃げない。忘れない。――言葉より確かな感触。
「アラン」
名を呼ぶと、彼女は反射で顔を上げる。
その翡翠の瞳がこちらを見る瞬間、胸の奥がひどく静かになる。勝利を確信する、というより、ようやく呼吸ができる。
「……なんでしょう」
声は掠れているのに、語尾は丁寧だ。
従うための言葉を選ぶ癖が、もう染みついている。
「これで終わりだと思いました?」
意地悪く問いかけた瞬間、アランの瞳がわずかに揺れる。
怯えが走る。拒否が生まれる。逃げ道を探す。――その動きすら、こちらには手の内だ。
「終わりにしたいなら、終わりにできるようにしてください」
あなたがではない。
こちらがでもない。
彼女に、彼女の口で、彼女の身体で、終わりの条件を満たさせる。そうすれば、秩序は乱れない。
アランは唇を開きかけて、閉じる。
言葉が出ない。出せない。出したら、切り取られると知っている。
その沈黙に、また新しい規則が生まれそうになる。
言わせたい。黙らせたい。答えさせたい。答えを選ぶ自由を奪いたい。
矛盾の欲が、同時に胸を満たす。
それでも今は、彼女が言う通りに動いたという事実が、何より甘い。
命令が通った。従った。刻まれた。
秩序は、ここにある。自分の手の中にある。
「……次は」
羽ペンへ視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。
その吐息が、まるで祈りみたいに静かで、自分でも可笑しくなる。
「次は、もっと簡単なものにしましょう。あなたが、覚えやすいように」
優しさの形をした、逃げ道のない言葉。
アランの顔が、ほんの少しだけ歪む。けれど、頷く。
その頷きが、胸の奥に深く刺さって、痛いほど満たす。
――絶対にこれで、秩序が乱れることがない。
そう思える瞬間だけが、あの写真の記憶も、あの屈辱も、すべて黙らせてくれる。
そしてその安堵が、また次を欲しがらせる。
書かせるべきことは山ほどある。守らせたいことはたくさんある。
それを必要と呼べる限り、自分はどこまでも正しくいられる――そう信じたかった。
レギュラスが規則を口にするのは、いつも唐突だった。
夕餉が滞りなく終わり、アルタイルが乳母に連れられて寝室へ消え、屋敷が静けさを取り戻した頃。
暖炉の火が、ぱちりと小さく鳴る。カーテンの重たい襞が夜を深くする。――その「いつも通り」の中で、彼だけが不意に別の空気を持ち込む。
「…… アラン」
名を呼ばれるだけで、背筋が薄く硬くなる。
視線を上げると、レギュラスは椅子に腰を下ろしたまま、まるで思い出したような顔をしている。先ほどまで、穏やかに紅茶を飲み、アルタイルの今日の出来事を聞いていた男と同じはずなのに。
「書いてください」
その言葉と同時に、白い羽ペンが差し出される。
インク壺も紙もない。最初にそれを見せられた夜の記憶が、冷たい水のように喉を滑る。腕に残った線の熱が、まだ皮膚の奥で脈打っている気がした。
「……なぜです、急に」
声が、思ったより掠れて出る。
問いかけは、抗議になりきれない。抗議する権利があるのかと、先に自分が自分を押し黙らせる。
レギュラスは微笑んだ。柔らかいのに、どこか刃のある笑みだ。
「急に? どこが急にです? 忘れているように見えたので」
忘れていない。
忘れられるはずがない。
袖で隠しても、湯に浸しても、治癒呪文を重ねても、消え切らない線が、自分の中の時間を勝手に区切っていく。
「……守っています。言われたことは」
そう言うと、レギュラスは椅子から立ち上がり、アランの前に回り込む。足音は静かで、だから余計に逃げ道が消える。
指先が頬に触れた。あの階段で傷ついた場所を、確認するように。もう目立たないほど薄くなった痕を、撫でる手だけが、あまりにも丁寧だ。
「よかった」
安堵のような吐息が落ちる。
あの時の彼は、本当に苦しそうだった。鼻の頭に滲む赤を見て顔色を変え、頬の高い位置の擦り傷を見て眉を寄せ、唇の端を指で触れては言葉を失いかけていた。絨毯の厚みまで変えようとするほど、大袈裟に心配して。
――その男が、今は同じ手で羽ペンを差し出している。
同じ人間なのか。
同じ心臓が鳴っているのか。
毎回、分からなくなる。
「ローランドを見てなんかいません」
口にすると、レギュラスの瞳がほんのわずかに細くなる。
「ローランド」と名を出した自分が、まずいと気づくより早く、彼の空気がひどく冷える。
「見てない?」
問いは確認の形をしているのに、答えはひとつしか許されていない響きがある。
「ええ。徹底しています。……彼が屋敷にいない時でさえ」
自分の言葉を、丁寧に並べる。
何度も繰り返してきた証言みたいに。間違えないように、穴を作らないように。
やましいことはもう何もしていない。あの瞬間から、体も心も、息を潜めるように整え直した。すれ違っても礼だけ、会釈だけ。目も合わせない。
それが「正しい」妻だと、彼が求める形だと分かっているから。
それなのに、レギュラスの中で、勝手に膨れ上がる疑念がある。
数日ごとに、波のように戻ってきては、突然こちらへ向けられる。
理由もなく牙を剥かれる恐怖は、説明のしようがないほど厄介だった。
「なら、なおさらですね」
レギュラスは穏やかな口調のまま言った。
「正しく振る舞えているなら、規則を刻むのも、苦しくないでしょう」
――逃げ道が、ふっと消える。
正しさが、罰の免罪符にならない。正しさはただ、従わせるための証拠にしかならない。
羽ペンが指先に押し当てられ、持たされる。
アランは受け取ってしまう。受け取ってしまう癖が、すでに体の方に染みついている。
「今度は……どこに」
問う声が、自分でも嫌になるほど小さい。
レギュラスは少し考えるように視線を落とし、それから当然のようにアランの手首を取った。
袖を捲られる。肘の内側。腕の側面。――すでに文字が薄く走っている。消えかけたものもあれば、まだ赤みを帯びて残っているものもある。
「……もう、ここはいっぱいですね」
淡々と告げられるだけで、胸が痛い。
言葉の意味は単純なのに、追い詰められる感覚がある。刻む場所がなくなるということは、終わるという意味ではない。むしろ――次の場所が始まるだけだ。
「鎖骨にしましょうか」
その言い方が、まるで宝飾を選ぶみたいに軽い。
アランの呼吸が、ひゅっと浅くなる。
「……そこは、見えるところです」
「見える方がいいでしょう」
レギュラスはあっさり言った。
「あなたが忘れないために。僕が忘れないために」
忘れないため。
それは、誰のための言葉なのか。
ローランドを追い出せばいい。
それが一番単純で、一番確実だ。
けれどレギュラスはしない。ローランドをこの屋敷に縛りつけることに意味がある。――罰であり、見せつけであり、息子を導かせる責任であり、そして、こちらの心を少しずつ削るための道具でもある。
そのやり方を、アランは理解してしまっている。理解しているから、余計に怖い。
レギュラスの指が、鎖骨のあたりの布に触れる。
襟元を少しだけ開かれ、冷たい空気が肌に入る。
火の温度があるはずの部屋で、そこだけ冬みたいに感じた。
「……レギュラス、お願いです。もう」
言いかけて、言葉が途切れる。
「もう何も」と言えば、彼は必ず食いつく。何を? 何もって何? 何が終わったの? そうやって言葉尻を掴み、逃げる穴を塞ぐ。
自分の弱さが、相手の娯楽になる。
レギュラスは、アランの顎に指を添えた。力は強くないのに、顔が上を向いてしまう。
「声が出ますね」
淡々とした一言が、容赦なく刺さる。
出る。出るからこそ、言わされる。
あの夜、答えが出せずに沈黙し続けた自分を、彼はいつまでも許さない。沈黙で逃げる術があると覚えさせないために。
だから書かせる。言葉が消えない形で残るように。
羽ペンで書いた文字が鎖骨の上をなぞる。
痛みは、針で刺すように鋭いというより、熱い線が皮膚の奥へ沈んでいく感覚に近い。薄い悲鳴が喉の奥で揺れ、声にするまいと歯を噛むと、顎が震える。
「……っ」
「我慢しなくていいですよ」
優しい声だった。
顔の傷を案じた時と同じ温度の、慰めるような声。
その優しさが、余計に心を壊す。優しさがあるからこそ、彼の残酷さが本気だと分かってしまう。遊びではない。気まぐれでもない。
この男の中で、優しさと支配は同じ棚に置かれている。
刻まれていく言葉が、鎖骨に沿って増える。
規則が、肌の上に座る。
収まりきらないものが、次々と場所を求めて侵食してくる。やがて手の甲へ、指の付け根へ、袖では隠し切れないところへ。
「……ここまでして、何を守らせたいんですか」
掠れた声で問うと、レギュラスは微笑む。
「秩序ですよ」
たった一言。
それが彼の正義だ。
彼の恐れだ。
そして、彼が息をするための形だ。
「あなたは、ちゃんと分かっているはずです。僕が、何を嫌うか」
分かっている。
分かっているから、怖い。
彼の嫌うものは、裏切りそのものよりも、知らないところで出来上がる何かだ。自分の手の届かない場所で、誰かと誰かが共有する温度。
それが一度でも存在した瞬間から、彼は永遠にその影を追う。
たとえもう何も起きていなくても、影は勝手に膨らむ。疑念は勝手に育つ。そして矛先は、いつでもこちらへ戻る。
レギュラスの手が、羽ペンを握るアランの指に重なる。
導くように、矯正するように。逃げないように固定する。
背後から囁く声が、耳のすぐそばで落ちた。
「書きやすいでしょう。僕が支えてあげます」
支えているのは、体ではなく、逃げ道の方だ。
そう気づくのに、アランは何もできない。ただ、言われた通りに文字をなぞる。
終わった頃、レギュラスはそっと羽ペンを盆へ戻し、アランの鎖骨のあたりに口づけた。
痛みの残る場所に、優しい熱が触れる。ひどく矛盾しているのに、体がその温度に反応してしまう。
それが自分をさらに情けなくする。
「痛かったですね」
本当に申し訳なさそうに言う顔で、彼はアランの髪を撫でる。
同じ手が、顔の傷を案じ、同じ手が、規則を刻ませる。
その二つが同じ人間の中にあることが、どうしても理解できない。
アランは、刻まれた文字に触れないようにそっと布を戻しながら、胸の奥を押さえた。
嫌悪がある。許したくない気持ちがある。奪われた未来の形が、今も時折鮮やかに蘇る。
なのに、レギュラスが笑っているとほっとする。機嫌がいいと胸が温かくなる。
棘のある声色が出ると、息が苦しくなる。どうにかして、怒りの矛先を鈍らせたいと思ってしまう。
その自分が、分からない。
ローランドへの想いも、レギュラスへの感情も、どちらも「なかったこと」にはできない。
だから毎回、規則が増えるたびに、心の内側がぐらりと揺れる。
レギュラスはアランの頬に手を当て、顔を覗き込んだ。
灰色の瞳は穏やかだ。穏やかなまま、次の言葉が来る予感だけが、肌の裏を冷やす。
「いい子ですね、アラン」
褒め言葉の形をした鎖が、さらりと首にかかる。
アランは笑えないまま、けれど笑うように唇を整えた。
「……ありがとうございます」
声に出した瞬間、胸の奥で何かが音もなく折れ、同時に、別の何かが――折れたぶんだけ、静かに収まっていくのを感じた。
それが怖い。
けれど、その怖ささえ、彼はきっと守らせるのだろう。
ローランドは、やめられなかった。
やめるべきだと、何度も自分に言い聞かせてきた。
この屋敷で、誰のために息をしているのか。誰の許しを得て、誰の子に文字や数を教えているのか。
それを忘れるほど愚かではない――そう思っているのに、視線だけが勝手に、あの人の方へ滑っていく。
午前の陽が、長い廊下の窓から斜めに差している。磨き上げられた床に淡い光の帯が落ち、壁に飾られた肖像画の金縁が、どこか冷たい輝きを返す。屋敷の空気はいつも整っていて、静けささえ規律に従っているようだった。
その中で、アランはよくそこにいる。
サロンの窓辺に立ち、外を見ている横顔。
何を眺めているのかは分からない。ただ、カーテンの重たい布越しに射し込む光が、頬の高い位置をなぞり、まつ毛の影が頬に細く落ちる。その影が揺れるたび、ローランドは呼吸の仕方を思い出さなければならなくなる。
目を逸らそうとすると、余計に鮮明になる。
俯いたときに、まつ毛の影が長く伸びること。
書類に目を落としたとき、唇がほんの少しだけ結ばれること。
そして最近、降ろされることが増えた黒髪が、背中の線に沿って流れること。
髪を結い上げたときの彼女は、完璧なブラック夫人だった。
一本の乱れも許されない貴族の妻としての姿が、あまりにも似合いすぎるほどに。
けれど髪が下ろされている瞬間だけ、ほんのわずかに、過去の柔らかさが匂う。――触れてはいけない記憶が、息の隙間に忍び込んでくる。
だから見てはいけない。
だから見たくなる。
そして、見ているうちに、気づいてしまう。
少し痩せた、と。
気づいていいはずがないことだった。
他人の妻の変化を、ましてその“曲線”に目を向けるなど、醜悪だ。自分で自分を切り捨てたくなる。
それでも、ふとした瞬間に目に入ってしまう。
以前は、立ち姿そのものが満ちていた。
そこに立っているだけで、空気の密度が変わるような、柔らかい豊かさがあった。
今は――細い。
首の筋が、より長く見える。鎖骨のあたりの線が、以前より少しだけ鋭くなった気がする。
呼吸のたびに喉元が小さく動くのが、やけに目に付く。
選ぶドレスも変わった。
近頃は、首元の詰まったものばかりだ。立ち襟の高さが、彼女の首をいっそう白く長く見せる。美しい。息を呑むほどに。
それなのに、どこか息苦しそうにも見える。
外へ出るときの装いなら、わかる。
けれど屋敷の中でさえ、同じように詰めた襟を選ぶ理由が、ローランドには理解できなかった。
もっとゆったりとしたものを纏えばいいのに、などと。そんな余計な願いが胸の底で蠢くたび、喉の奥がひりついた。
今日は、午後の学びの時間だった。
アルタイルは五歳にして、恐ろしいほどに吸収が速い。
数の組み合わせも、文字の規則も、ただ覚えるのではなく“使う”。遊びのように見せながら、あっという間に本質だけを掴む。
可愛らしい幼子のふりをして、目の奥に鋭さが宿る瞬間がある。その鋭さは、あまりにもレギュラスに似ていた。
小さな机の上に並べた木の駒を指で弾き、アルタイルが笑う。
「これ、こうしたら、増える?」
「増えますよ、アルタイル様。では、いくつ増えましたか」
「……ふふ。わかる」
その声が弾むのを聞きながら、ローランドは必要以上に目を上げないようにしていた。
自分の役目は、子を導くことだ。
それ以外は、余計だ。
余計なものは、いつだって破滅を呼ぶ。
……なのに。
サロンへ続く扉が静かに開いた音で、背中が固くなる。
薄い足音。控えめな香り。
空気が一瞬で整う気配がして、ローランドは視線を上げてしまった。
アランが入ってくる。
アルタイルがぱっと顔を輝かせ、椅子から降りて走り出す。
「まま!」
その勢いは、もう赤子ではない。軽やかに見えて、体は確かに重くなっている。
アランはそれを受け止めるように膝を折り、抱きとめる。腕の細さに対して、子の重みが大きい。
「アルタイル、走ると危ないわ」
叱るというより、包む声だった。
アルタイルは頬を寄せ、満足そうに笑って、そして当然のように手を伸ばす。
「手、つなぐ」
その言い方が、子どもらしく甘いのに、どこか命令の形をしている。
最近、よく見る癖だった。
願いを“お願い”ではなく、当然として差し出す――それがこの屋敷の血なのだと、ローランドは喉の奥で苦く思う。
アランは微笑み、当たり前のように手を差し出す。
その瞬間、ローランドの視線は、どうしても、手の甲へ落ちた。
薄い皮膚に、赤い線が走っていた。
手首と手の甲の境目あたりから、細い傷が伸びている。一本ではない。重なるように、いくつも。
赤は新しい。治りきっていない色だ。布で擦れれば痛むだろう、という生々しさがある。
胸の奥が、ひゅっと鳴った。
呼吸が浅くなるのがわかる。
視線をすぐに引き上げなければならないのに、目が離れない。
あれは何だ。
何が、彼女の手にそんなものを残したのか。
アルタイルはその傷など気にしない。
小さな指で、母の手をしっかり握りしめ、勝ち誇ったようにローランドを見上げる。
「まま、ここ。ずっと」
ずっと、ここにいて。
言葉は幼いのに、含まれている欲は驚くほど濃い。
アランの手を握りしめるその指の力が、やけに強く見えて、ローランドは胸の奥がざわついた。
アランは、いつものように美しく、正しく微笑む。
痛みを隠す微笑みと、何もなかったように振る舞う微笑みは、見分けがつかない。
「ええ、ここよ」
その声は平らで、穏やかで、少しも揺れない。
ローランドの胸だけが、勝手に騒がしくなる。
「……ブラック夫人」
声をかけた瞬間、自分の声が硬いと気づいた。
問うべきではない。触れてはいけない。
けれど、見てしまったものを、見なかったことにできない。
アランが一瞬だけ視線をこちらへ向ける。
翡翠の瞳は、いつも通り静かだった。
その静けさが、ローランドをさらに追い詰める。
「どうされました、フロスト殿」
穏やかで礼儀正しい。
距離は正確で、隙がない。
線が引かれている。以前よりも、ずっと、強固に。
ローランドは、言葉を探して、喉が乾くのを感じた。
その手はどうしたのですか――そう言えば、何かが壊れる。
この屋敷の秩序が、あまりにも鋭くこちらへ向くのが見える。
それでも、胸騒ぎだけが消えない。
あの赤い線は、ただの擦り傷には見えなかった。
偶然ついた、と笑って済ませられるものには。
ローランドは、視線を無理やり上げ、アランの顔だけを見る。
目の下に疲れがある気がした。頬の肉がわずかに落ちた気がした。
何も言えない自分が、無力で、醜くて、どうしようもなく腹立たしい。
「……いえ。失礼しました。アルタイル様、続きに戻りましょう」
教師としての声に、必死に切り替える。
アルタイルは不満げに口を尖らせるが、母の手を握ったまま、ゆっくり机へ戻る。
その手の甲の赤が、視界の端で何度もちらつく。
アランは椅子に腰を下ろさず、少し離れたところで立ったまま見守る。
首元の詰まったドレスが、喉のあたりまできっちりと覆っている。
美しい。息苦しい。
そのどちらもが、同時に胸に刺さる。
ローランドは木の駒を並べ直しながら、指先に力が入るのを抑えた。
紙の上の数字が滲んで見える。
目の前にあるのは、ただの学びの時間のはずなのに、世界が別の色を帯びてしまった。
あの赤い線が、頭から離れない。
知らなくていいはずのことを、知ってしまった気がした。
見てはいけないものを、見てしまった気がした。
胸騒ぎは、止まらない。止まる気配すらない。
そして何より恐ろしいのは、胸騒ぎの正体が“心配”なのか、“怒り”なのか、それとも――まだ名を与えてはいけない何かなのか。
自分で区別がつかないまま、ただ、彼女の手の甲の赤だけが、静かに目の奥へ焼き付いていくことだった。
ローランドが最初に気づいたのは、ほんの一瞬だった。
アルタイルが転びかけ、机の角にぶつけそうになった瞬間。
アランがすっと腕を伸ばして、幼子の肩を抱き、危うい勢いを受け止めた。動きは迷いがなくて、母親の反射だった。
そのとき、袖口が少しだけずれた。
白い皮膚の上に、赤が走っていた。
線ではない。線の集まりだった。細く、浅く、しかし確かに皮膚の奥へ食い込んだまま残っているような、異様な赤。治りかけの色と、まだ新しい色が混じっている。
ローランドは息を止めた。
視線をそこに落とした自分が、すぐに卑しい覗き見をしたようで、慌てて目を逸らす。逸らしたのに、もう遅い。目が記憶してしまった。
それは擦り傷の類ではなかった。
事故でつく場所でも、つき方でもない。規則的すぎる。執拗すぎる。
その後も、同じような瞬間が、少しずつ積み重なっていった。
朝食の席で、アランが紅茶を注ぐためにポットを持ち上げたとき。
アルタイルが「まま、手」と強情にねだり、握られた手を振ってはしゃいだとき。
窓際でカーテンを整えるために腕を上げたとき。
ドレスの襟元を直そうとして、指先が鎖骨に触れたとき。
どれも一瞬で、どれも偶然のふりをして通り過ぎていく。
アラン自身も、何もなかったようにしている。袖はきっちりと整えられ、首元は詰められ、肌は露出しない。笑みは崩れない。声は平らで、礼儀は完璧で、屋敷の中で最も美しく正しい存在として立っている。
なのに、隠しきれない。
腕が。
傷だらけだった。
最初に見た手の甲の赤い線は、ただの始まりに過ぎなかった。
手首の内側には、細い文字のようなものが並んでいるように見えた。光の当たり方で浮いたり沈んだりする赤が、皮膚に縫い付けられた刺繍のように連なっている。
肘のあたりにも、上腕の内側にも、同じ種類の痕がある。治りかけのものの上に、新しいものが重ねられている。
恐ろしくなった。
この屋敷で、あんな傷が増えていく理由を、ローランドは一つしか思いつかなかった。
そして、それを与えられる人間も。
一人しかいない。
その名を思い浮かべただけで、背筋が冷えた。
あの男の笑い方。柔らかい声で甘やかしながら、息をするのと同じ自然さで人の逃げ道を塞ぐ癖。
慈愛の手で髪を撫で、同じ手で心を折ることができる二面性。
あの屋敷の空気そのものが、レギュラス・ブラックの意志で組み上がっている。
その中心にいるアランの肌が、傷を抱えている。
ローランドは唇を噛んだ。
噛んだ痛みで、ようやく現実に戻れる気がした。
踏み込む理由がない。
踏み込める立場でもない。
自分は家庭教師に過ぎない。
この屋敷に雇われ、アルタイルを教えるために存在しているだけの男だ。
それ以上の言葉を持つ資格はない。彼女の夫ではない。彼女の家族でもない。彼女の未来を共にするはずだった“過去”ですら、ここでは罪の名でしか呼べない。
それでも、目の前の事実が、胸の奥をじわじわと削っていく。
ある日の午後、アルタイルが指先をインクで汚した。
遊び半分で、文字の練習をしているうちに、指が黒く染まってしまったのだ。
アランが「洗いましょう」と言って、幼子の手を取った。
水差しと布巾を持ってくるその動作が、いつもより少しだけ遅い。慎重すぎるほど丁寧に見えた。
アルタイルが無邪気に笑いながら、母の手首を掴んだ。
「まま、ここ」
指先が、痕の上を無遠慮に撫でた。
アランの呼吸が、ほんの一拍だけ止まった。
その一拍を、ローランドは見逃せなかった。
痛みがあるのだ。
治りきっていないのだ。
ただ赤いだけではない。触れられると、呼吸が乱れる種類の傷なのだ。
アランはすぐに微笑んで、息を整えた。
「アルタイル、くすぐったいわ」
くすぐったいという言葉で誤魔化す声は、あまりにも自然で、あまりにも嘘が上手だった。
ローランドは、手の中の本を強く握った。紙が歪むほどに。
助けたい。
そんなもの、口にした瞬間に滑稽になる。自分が何を差し出せるというのだ。
助ける術など、持ち合わせていない。
魔法省の職を失い、この屋敷に縛られた。
あの日、ファイルからこぼれ落ちた写真の白さと、レギュラスの微笑みと、アランの凍りついた目とを、ローランドは今でも夜に思い出す。
自分はそこで“罰”として生かされている。息をしていること自体が、誰かの機嫌で許されている。
その自分が、何を言える。
言えない。
それでも見てしまう。
見たものを、知らなかったことにできない。
夜、廊下ですれ違ったアランは、いつも通りだった。
薄い香りを纏い、背筋を正し、静かな足取りで歩く。
「お疲れ様です、フロスト殿」
声は柔らかく、笑みは美しい。
ローランドは頷き返す。
「……ブラック夫人も、お疲れではありませんか」
その言葉が、やけに乾いて聞こえた。
疲れを問うふりをして、傷を問う資格のなさをごまかしているだけだ。
アランは一瞬、まばたきをした。
その翡翠の瞳に、何かが揺れたように見えたのに、次の瞬間には何も残っていない。
「大丈夫です。いつも通りに」
いつも通り。
その言葉が、ローランドの胸に刺さる。
いつも通りという言葉が、傷を抱えたまま微笑むことを指すのなら、この屋敷のいつもは、どれほど残酷なのか。
アランは一礼し、通り過ぎていく。
袖口は整っている。首元は詰まっている。肌は隠されている。
完璧だ。
だからこそ、恐ろしかった。
隠し続けられるほどに、彼女はこの屋敷で生き延びる術を身につけてしまっている。
そして、その術を身につけさせたのが、他でもない――
ローランドは、足を止めたまま、廊下の静けさの中に取り残された。
どうしたらいいのか分からない。
言葉はどれも軽すぎて、行動はどれも遅すぎて、正しさはどれも届かない。
それでも、あの赤い線は、見た瞬間からローランドの中で消えなくなった。
目を閉じても、まぶたの裏に浮かぶ。
優しく笑うアランの顔より先に、あの傷の色が立ち上がる。
助けたいのに。
助ける術がない。
その無力さだけが、胸の奥で硬い石のように重くなっていき、ローランドはただ、次に袖口がずれたときに見えるであろう赤を、恐れて待ってしまう自分自身を、どうしようもなく憎んだ。
寝室の灯りは落としてあった。
薄いカーテン越しの月明かりが、寝台の端と床の輪郭だけを淡く拾い、夜の深さを静かに確かめさせる。
アランは枕元に身を寄せ、髪をほどいたまま座っていた。
白い肌は闇の中でも不思議なほど輪郭を失わない。けれど、腕に走る赤い線だけが、そこだけ温度を持って残っている。治癒呪文が効かない、と言ったとおりの――皮膚の下に縫い込まれたような、しつこい痕。
その痕へ視線が吸い寄せられるのを、止められなかった。
「……痛そうです、アラン」
言葉にした瞬間、声が少しだけ優しく聞こえるのがわかった。意識して柔らかくしたわけではない。
ただ、そう言いたくなった。あまりにも、そこに自分の手で残したものがあるから。
アランは一拍、ためらうように目を伏せ、それから首を横に振った。
「大丈夫です、レギュラス。……もう慣れましたから」
慣れた、という音が胸のどこかを逆撫でする。
慣れられては困る、とも思う。けれど同時に、慣れているふりをされると――それはそれで、腹の底が満たされる。痛みを隠してでもこちらの機嫌に合わせようとする姿が、手放しで甘い。
寝台の縁へ膝をつき、アランの腕をそっと取った。
力を入れれば簡単に折れてしまいそうな細さ。だが、何度折ろうとしても折れきらない、あのしぶとさが骨の奥に潜んでいる。
指先で、痕の端をなぞる。
爪ではなく腹で、ゆっくりと。触れるだけで、アランの肩がかすかに強張った。
「……やっぱり、痛いでしょう」
「……少しだけ」
嘘を混ぜた答えだった。隠そうとする声の角が、かえって正直さを滲ませる。
その少しに、奇妙な満足が生まれる。痛ませているのに、痛みを心配しているふりができる。心配しているふりではなく、心配している“ように”振る舞える。――それがまるで、完璧な夫の所作みたいに思えてしまう。
「ごめんなさい」
アランが小さく言った。
違う。謝らせたいわけじゃない、と喉の奥が反射するのに、口はそう否定しない。
謝罪を受け取る側に立つことが、どれほど楽か。
許す、という立場を得た瞬間、あらゆる形がこちらの都合で整っていく。傷の痛みさえ、赦しの演出に変わる。
唇を落とした。痕の上ではなく、その少し下。骨ばった手首の内側に。
熱を乗せると、アランの呼吸がわずかに乱れる。たったそれだけで、胸の奥がほどけていくのがわかった。
「……痛くありませんか」
問いながら、もう一度痕をなぞる。
優しい手つきで触れて、優しい声で尋ねて、痛いと認めたら可哀想な妻として抱き寄せる。――その筋書きを、皮膚の感触が勝手に完成させていく。
アランはまた首を振った。
振りながら、喉が震えている。痛みではなく、諦めの方で。
その震えが、たまらなく綺麗だった。
「あなたは……ほんとうに、強いですね」
褒める言葉の形をして、実は鎖を締める。
強いと言っておけば、弱さを許さずに済む。弱いと認めた瞬間、守らねばならない面倒が増えるから。守るという役目を負うのは嫌いではない。けれど、守る理由はこちらが選ぶべきだ。
「強くなんて……ありません」
アランの声が、擦れる。
言葉と一緒に、目がかすかに潤む。泣くまいとしているのに、勝手に滲む水分。あの日から、涙の扱いが下手になったままだ。
その頬を親指で拭った。
拭いながら、痕を見下ろす。
治らないのが、いい。
薄れてしまえば、忘れたふりをされる。なかったことにされる。そんなのは耐えられない。痕が残っている限り、秩序は揺らがない。こちらが“正しい”立場にいられる。
それでも――こうして痛みを気にかけると、気分がいい。
「……あなたが痛いと、僕が困るんです」
本音のようで、本音ではない。
困るのは、痛いからではない。痛いせいで、逃げられそうだから。痛いせいで、こちらの支配が乱暴に見えるから。
美しい妻を手に入れたという物語が、傷で汚れるのが嫌なのだ。
口づけを重ねる。
唇から、頬へ、こめかみへ。丁寧に、慎重に、まるで壊れ物を扱うように。
触れるたび、アランの目が揺れて、嫌悪と安堵が同じ場所に滲む。
その混ざり方を見ていると、さらに欲しくなる。
許されたいのか、許したいのか。――わからないまま、ただこちらの望む形で落ち着かせたい。
「愛しています、アラン」
甘い言葉は、いつだって刃と同居できる。
その二面性に怯える顔を、また綺麗だと思ってしまう。どうしようもなく。
「……私も、愛しています」
返ってくるのが、練習済みの音であることはわかる。
けれど、返ってきた。それだけで喉の奥が熱くなる。満たされる。許す側の余裕に酔える。
痕へ、もう一度唇を落とした。
アランが小さく息を呑む。
「……ほら。やっぱり痛い」
責めるためではなく、確かめるために言う。
痛いという事実が、こちらの正当化を助ける。痛いのに耐えている妻、痛みに配慮する夫。――その並びは、外から見れば“美談”にすらなる。
外へ向けて誇れる形。
内側ではどれほど歪んでいても、整って見える形。
だから、やめられない。
痛みを配慮することが、こんなにも気持ちを満たすなんて――そんなの、認めたくないのに。
アランの腕を胸元へ抱き寄せ、痕を手のひらで覆った。隠すように、守るように。
そして囁く。
「ちゃんと大事にします。……だから、ちゃんとここにいてください」
お願いの形をした命令。
アランは黙り、ほんの少し遅れて頷いた。
その遅れに、胸の奥がまたざらつく。
けれど、頷きは頷きだ。今日のところは、それで秩序が保たれる。
痕の熱が掌に移ってくる。
それを感じながら、唇を重ねた。今度は傷ではなく、アランの口元へ。優しく、丁寧に。残酷さを隠すための、完璧な温度で。
