1章
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その日の魔法省は、いつもと変わらぬ喧騒に満ちていた。
書類を抱えた職員たちが廊下を行き交い、インクと羊皮紙の匂いが混ざり合う。遠くの方では、使い魔のフクロウが何羽も行き交い、窓ガラスの向こうに白い羽をかすめて消えていく。
だが、レギュラス・ブラックの執務室だけは、外の雑音から切り離されたような静けさに包まれていた。
いつもどおり、黒檀の机の上にはきちんと整えられた書類が積まれている。
インク壺の位置、ペン立ての角度、紙の端のそろい方に至るまで、乱れは一つもない。
そんな整然とした空間の主はというと——
あまり隠そうともせず、上機嫌だった。
灰色の瞳はわずかに光を増し、書類へ走るペンの動きに迷いがない。
いつもなら少しばかり退屈さを漂わせながら処理する報告書も、今日に限ってはペースがいい。
署名をし、封をし、次の案件へと手を伸ばす動きに、どこか軽やかさが宿っていた。
扉が、控えめにノックされた。
「どうぞ」
レギュラスの声に応じて入ってきたのは、バーテミウス・クラウチ・ジュニアだった。
両手に書類の束を抱え、いつもどおりの冷静な表情で一礼する。
「本日の決裁分と、新たに回ってきた案件です、レギュラス」
「机の上にどうぞ。……ありがとうございます」
受け取る仕草まで、いつもよりどこか柔らかい。
バーテミウスは、それを見逃さなかった。
机の上に書類を置いたあと、一歩だけ下がり、主人の顔をまっすぐ見る。
「……ずいぶん、ご機嫌ですね」
柔らかく、しかし容赦のない観察だった。
「そう見えますか?」
レギュラスはペンを指に挟んだまま、口元に笑みを浮かべる。
否定することもできたが、あえてしない。その余裕もまた機嫌の良さを物語っていた。
バーテミウスは、ふっと息を小さく笑いに変えた。
「若き青年を地獄に突き落としてきた顔をしていますね、レギュラス」
「……人聞きが悪いですね、あなたは」
レギュラスは苦笑まじりに肩を竦めた。
しかし、その目の奥には「図星だ」とも「そうでもない」とも取れる光が揺れている。
「僕は突き落としたりはしていませんよ」
さらりと言いながら、ペン先をインク壺につける。小さな黒い滴が、白い羊皮紙の端に触れた。
「それとなく、あの男が選ぶべき道を示してやっただけです」
ローランド・フロストの青い瞳が脳裏に浮かぶ。
あの驚愕と沈黙。
ひとつひとつの言葉を飲み込むたびに、胸の内で何かがひしゃげていく音が、静かに伝わってきた。
バーテミウスは眉をわずかに上げる。
「道を示した、ですか」
「彼が真面目で誠実な青年であるのは事実です」
レギュラスは淡々と続ける。
「だからこそ、自分の大切な人のために、もっとも賢明な選択をするでしょう。
……僕は、その背中を、指先で軽く押して差し上げただけです」
「軽く」と言うには、その指先に込められた力はあまりにも大きかったが、レギュラスはそこを問題視していないようだった。
バーテミウスは、机の天板に視線を落とし、軽く指先で叩いた。
「その“賢明な選択”の先に、あなたが立っていらっしゃるのは、もはや当然の前提のようですね」
「他に誰がいるんです?」
視線を上げて問い返したレギュラスの顔には、自信と少しの愉悦が入り混じっていた。
セシール卿に提示した条件。
魔法薬研究の全面的な支援、財産分与、魔法省内での後押し。
ローランドに告げた現実と、求めた「賢明さ」。
それらを積み重ねたうえで導かれる結論は、ひとつしかないと確信していた。
「近いうちに、望む答えが返ってくることは、わかりきっています」
ペンを置き、椅子の背にもたれながら、レギュラスはぽつりとこぼす。
「セシール卿も、フロスト殿も、愚かではない。
だから、僕にとって都合のいい結論が出る」
そこまで言うと、自分でも少しだけおかしくなったのか、目元がやわらかくほころんだ。
バーテミウスは、その変化をじっと観察していた。
「まるで、幼い頃クリスマスを心待ちにしている少年のような顔をされていますよ、レギュラス様」
柔らかな皮肉が、静かな部屋に落ちる。
レギュラスは、苦笑しながらも否定しなかった。
「……そうかもしれませんね」
幼かった頃、ブラック家の大広間に飾られる巨大なクリスマスツリー。
オリオンとヴァルブルガが主導する厳格な家の中で、その日だけは少しだけ空気が緩む。
翌朝、約束された贈り物が必ずそこにあるという確信が、少年の胸を満たしていた。
今の自身の心持ちは、それとよく似ていた。
すでに贈り物の中身は分かっている。
何が手に入るのかも、どれほど価値があるのかも、全て理解している。
あとは、それを受け取る日を待つだけだ。
「もちろん、多少の誤差はあるでしょう」
レギュラスは、指先で机を軽く叩いた。
「セシール卿は、父親ですからね。
最後の最後まで迷うかもしれない。
フロスト殿も、しばらくは自分の中で葛藤するでしょう」
「それでも、最終的な結論は変わらない、と」
「ええ」
灰色の瞳が、静かに笑う。
「セシール卿は、娘の未来と研究を天秤にかけて、どちらも守れる道を選ぶ。
フロスト殿は、誠実であろうとするがゆえに、自ら一歩引く。
アラン嬢は、自分の意思だけで世界を決められるほど、まだ残酷になりきれていない」
それらをすべて見越したうえでの、申し出だった。
バーテミウスは、少しだけ肩を竦める。
「若き青年を“地獄に突き落とした”のではなく、
“自分の足で地獄を選ばせた”というわけですね」
「あなたは本当に、言い方が悪い」
レギュラスはくすりと笑った。
「僕は、彼にとっての“誇り高い選択肢”を提示したつもりですよ。
恋よりも、彼女の未来と家の繁栄を優先できるかどうか——彼自身の価値を測る試験でもある」
正解は、すでに決まっている。
その正解にたどり着く道筋を、周囲から静かに整えているにすぎない。
窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めていた。
魔法省の高い窓から見える空は、まだ青いが、端の方からわずかに金色が混じっている。
レギュラスは、その光景に目を細めた。
「アラン・セシールを、ブラック家の名で呼べる日が来る」
声に出すことはしないまま、胸の内でその言葉を転がす。
彼女の翡翠の瞳が、自分の隣でどのような色を宿すのか。
社交界の中央で、自分の腕を取って並び立つ姿を想像するだけで、口元が自然と緩んだ。
バーテミウスは、その表情を見て、静かに息を吐く。
「……あとは、セシール家からの返答を待つだけですね」
「そうですね」
レギュラスは、椅子から少し身を乗り出し、次の書類を手元に引き寄せた。
「クリスマスの朝を待っている子どもと違うのは——」
ペンをインクに浸しながら、わずかに笑う。
「僕は、ツリーの下の箱の中身を、すべて自分で選んで詰めたという点くらいでしょうか」
望む答えが返ってくることは、わかりきっている。
すでに盤面は整えられている。
残されたのは、当事者たちが、用意されたマス目に足を運び、定められた位置に立つのを待つだけだ。
レギュラス・ブラックは、その確信に酔うでもなく、ただ当然の未来として受け入れていた。
机の上で走るペンの音が、静かな執務室に心地よく響く。
まるで、もう勝利の余韻を味わい始めているかのような、穏やかなリズムで。
その日、セシール家の屋敷には、珍しい名が呼ばれていた。
「ブラック家のレギュラス・ブラック様がお見えです、お嬢様」
廊下で使用人にそう告げられた瞬間、アランの背筋に冷たいものが走った。
指先がきゅっと固くなる。
ドレスの布地を握りしめる手に、かすかに汗がにじんだ。
父の書斎で告げられた婚姻の申し出。
並べられた条件の重さが、まだ胸の中で重石のように沈んでいる。
そこへ、当人がふたたび訪ねてきた。
「……応接室に?」
「はい。セシール卿が先ほどお通しになりました。
お嬢様も、お時間をいただきたいと」
逃げ場はなかった。
アランは静かに頷き、裾を整えながら応接室へ向かう。
扉の前で一度だけ深く息を吸う。
胸の奥に渦巻く警戒心を、表に出さないように押し込める。
それでも、扉へ伸ばした手はわずかに震えた。
ノックをして、許しを得てから中に入る。
応接室には、父エドモンドと、その正面に黒いローブの男が座っていた。
レギュラス・ブラック。
薄く笑みを浮かべた灰色の瞳が、音もなくこちらに向く。
「お父様」
アランが小さく会釈すると、エドモンドは椅子から立ち上がった。
「来てくれたか、アラン。……レギュラス殿、娘です」
「先日は夜会にて。改めまして、レギュラス・ブラックです」
レギュラスは立ち上がり、礼儀正しく頭を下げる。
どこを取っても非の打ちどころのない所作だった。
「今日は、少しばかりお時間をいただければと思いまして。
できれば、セシール嬢と直接、お話がしたい」
エドモンドは一瞬だけ娘の方を見た。
その目には、葛藤と期待が入り混じっている。
結局、短く「任せる」というように頷き、部屋を辞した。
扉が閉まる。
柔らかな絨毯が足音を吸い込み、室内には静寂だけが残った。
向かい合って座るしかない。
アランは警戒心を隠そうともせず、背筋を真っ直ぐに保って椅子に腰を下ろした。
視線はレギュラスの顔ではなく、その少し手前、テーブルの上あたりに固定される。
レギュラスは、そんな彼女の様子を面白がるでもなく、静かに笑った。
「驚かせましたよね。申し訳ありません」
謝罪の言葉は口に乗ったが、声には焦りも戸惑いもなかった。
あくまで礼儀として添えられた一文のように、滑らかにそこに置かれる。
「……いえ」
アランの返事は短い。
視線はまだ、適度な距離を保ったままだ。
「決断を迫りにきたわけではありませんよ、セシール嬢」
レギュラスは、先にその懸念を摘む。
「ご返答を急かすつもりはありません。
むしろ、時間をかけて考えていただきたいと思っています」
その言葉に、少しだけ胸の締め付けが緩んだ気がした。
だが同時に、なぜ今日ここに来たのかという別の警戒心が、すぐにそれを飲み込む。
「では、本日は……?」
「今日はほんの少し、心ばかりの支援をお届けに参りました」
レギュラスは、さらりと言った。
ちょうどそのとき、扉が控えめにノックされる。
「失礼いたします」
使用人が二人、続けて三人と、部屋の外から重そうな木箱を運び込んできた。
箱の側面には、魔法生物管理局の印と、厳重な封印の呪文が刻まれている。
「こちらは?」
アランが思わず問いかけると、レギュラスは椅子から立ち上がり、箱のひとつの封印に杖先を当てた。
淡い光が走り、鎖がほどける。
蓋を開けると、内側には冷却の魔法陣が刻まれていた。
「セシール卿の研究資料に目を通させていただきました」
レギュラスは箱の中を軽く示す。
「特に、魔力障害を伴う慢性疾患向けの魔法薬の研究。
その根幹となる試薬として、ドラゴン肝とユニコーンの角が不足しているご様子だったので」
箱の中には、丁寧に梱包された瓶や布包みが整然と並んでいた。
希少なドラゴン肝がいくつも。
市場では顔も出さないほど高価なユニコーンの角の断片。
他にも、国外からしか入手できない希少な薬草や粉末がいくつも見える。
アランは、思わず箱の縁に手をかけた。
冷気が指先に伝わる。
「これほどの量を……」
「半年、いえ、研究の進展次第では一年分以上はあるでしょうね」
レギュラスはあっさりと言った。
「もちろん、正規の手続きで輸入し、魔法省の許可も得ています。
セシール家の研究専用として登録してありますから、税も優遇措置が適用されるはずです」
さらりと告げられる一言一言が、アランには別世界の言語のように響いた。
父がどれほど苦労して少量ずつ集めてきたかを知っているからこそ、その差が痛いほど分かる。
「それから、こちらは」
別の箱の封印を解くと、中から銀色に輝く機器が姿を現した。
金属とクリスタルで組まれた、魔力循環式の蒸留塔と抽出装置。
魔法薬研究専門の工房でしか見たことのない、大型の実験器具だ。
「最新式の魔力循環抽出炉と、温度・魔力出力を精密に管理できる蒸留装置です。
セシール卿の設備は、少々年代物のまま改良されずにいるようでしたので」
アランは言葉を失った。
父が夜中までかかって魔力の出力を調整していた古い抽出炉。
傷だらけになったガラス容器。
それらに比べ、目の前の装置はまるで別格だった。
魔力の流れを均一に保つためのルーン文字が、細部にまで刻み込まれている。
「さらに、これは」
レギュラスは、ローブの内ポケットから封筒を取り出した。
グリンゴッツ魔法銀行の紋章が刻まれている。
「研究支援用の特別口座です。
初期資金として、こちらの金額をお預けしています」
封筒の中身を見ずとも、その重みでただ事ではないと分かる。
アランはもう、数字を確かめる勇気すら湧かなかった。
「お受け取りください、セシール嬢」
レギュラスは、まるで小さな花束でも差し出すような軽さで封筒をテーブルに置いた。
「今日はほんの、心ばかりです。
本格的な支援は、もしご縁が結ばれた暁に、改めて」
ほんの少し。
心ばかり。
その言葉と、目の前に並んだ支援の規模との間に、あまりにも大きな乖離があった。
アランの胸の奥で、警戒心はさらに色を変える。
ただの恐れではない。
圧倒的な力を、さも当たり前のように差し出してくる、その感覚への戸惑いと寒気。
「……なぜ、そこまでのことを?」
ようやく絞り出した声は、酷く掠れていた。
これほどのものを「心ばかり」と呼べる男の感覚が理解できない。
レギュラスは、少しだけ首を傾げた。
「理由が必要ですか?」
すぐに、優雅な笑みを浮かべる。
「あなたを妻に迎えたいからですよ、セシール嬢」
あまりにも、簡単に言った。
まるで“少し気に入ったから花でも贈る”といった程度の軽さで、しかし内容だけは桁違いに重い。
「……わたくしは、ただの一度、夜会でお会いしただけの……」
「ええ」
レギュラスは遮らない。
むしろ、彼女の言葉に同意するように頷いた。
「一度お会いして——一度だけ、夜を共にして」
最後の一節を、ほんの少し声を落として濁す。
露骨な直接表現は避けながらも、その意味は十分に伝わる言い方だった。
アランの頬に、さっと血が上る。
同時に、背筋の奥の方を冷たいものが撫でていく。
あの夜。
あの部屋。
触れられた場所と、奪われていったもの。
「それだけで、十分すぎるほど心を掴まれました」
レギュラスは、今度ははっきりと言った。
「あなたの瞳も、声も、触れた肌も。
そして、あのときの震えも、拒もうとして拒みきれない指先も。
どれも、僕には強烈でした」
芝居めいた台詞だった。
上質な劇の舞台で、主人公が恋人に捧げる言葉のように、滑らかで、よどみがない。
そのくせ、言葉の端々には冷静な観察の目が覗いている。
アランは、その奇妙な二重性に、どうしようもない不気味さを覚えた。
心から燃え上がっているように見せながら、その実、冷静に相手の反応を分析している。
そんな視線が、今もこちらに注がれている気がした。
「……わたくしを、よくご存じでもないのに」
声の震えを抑えようとするほど、震えは増す。
レギュラスの灰色の瞳が、静かに細められた。
「人を知るのに、時間は必ずしも必要ではありませんよ」
レギュラスは穏やかに告げる。
「長く寄り添っても何も感じない相手もいる。
反対に、一晩で十分すぎるほど知りたくなる相手もいる」
アランは、テーブルの上で指をぎゅっと組んだ。
目の前に並んだ木箱と装置と封筒が、じりじりと迫ってくるような錯覚にとらわれる。
この支援を受け取れば、父の研究は飛躍的に進む。
セシール家の未来は、格段に明るくなる。
しかし同時に、自分の人生は、目の前の男の指先に握られていく。
「……これほどのものを、簡単には受け取れません」
かろうじて、それだけは言えた。
それが抵抗なのか、礼儀なのか、自分でも判然としない。
レギュラスは、一瞬だけ目を伏せた。
そして、柔らかな声で答える。
「簡単に受け取れないと思ってくださる、その感覚が、僕は好きですね」
褒め言葉のような響き。
だが、その裏にある意図は読めない。
「ですが、これはもう、セシール卿の了承のもとに運ばせていただいたものです」
彼は静かに続ける。
「受け取るかどうかを決めるのは、もはや礼儀の問題ではありません。
研究を前に進めるか、それとも停滞させるかの選択です」
ひとつひとつの言葉は、穏やかだった。
けれど、その穏やかさゆえに、逃げ場がなくなる。
アランは、言葉を探そうとして、途中で諦めた。
何を言っても、彼は別の角度から「道」を示してくる。
気づけば、足元に見えている道は一つだけだと錯覚させられる。
「セシール嬢」
レギュラスが、ゆっくりと彼女の名を呼んだ。
「僕は、あなたに決断を迫りにきたわけではありません。
ただ、あなたと、あなたの家にとっての“現実”を、少しだけ見やすくしたいと思っただけです」
現実。
その言葉が、胸に重く落ちた。
「僕がどれほどの支援を約束できるか。
どれほどの権限を使えるか。
そして、あなたを妻に迎えたいという僕の意思が、どれほど本気か」
アランは、黙ってうつむいた。
目の前に並べられた支援という名の現実が、そのまま彼の「本気」の重量に見えて、視界が眩む。
父の研究室。
くたびれた抽出炉。
不足した材料のリスト。
夜遅くまで灯りの消えない書斎。
ローランドの笑顔。
「近いうちに会いたい」と書き添えられた手紙。
庭を歩きながら交わした他愛ない会話。
そして、レギュラスの灰色の瞳。
まるで、劇の主人公を気取るような言葉を平然と紡ぎながら、相手の一挙手一投足を見逃さない目。
アランは、胸の奥にじくじくと広がる無力感を、どうすることもできなかった。
何かを拒めば拒むほど、差し出された支援の数々が、「あなたは本当にそれを拒むのですか」と静かに問いかけてくる。
圧倒的な財力と権力が、目の前の男の背後に控えている。
その影の大きさに、言葉はどこかへ逃げてしまっていた。
応接室の空気は、どこまでも静かだった。
厚い絨毯が足音も震えも吸い込み、壁にかけられた古い絵画たちだけが、そこにいる二人をじっと見つめている。
その中心で、アランは完全に固まっていた。
目の前に並べられた木箱と銀色の装置、そしてグリンゴッツの封筒。
ひとつひとつの輪郭を目は確かに捉えているはずなのに、意味を結ぶ前に視界が白く霞む。
「……こんな、ことまで」
ようやくこぼれた声は、自分のものとは思えないほど頼りなかった。
指先は膝の上で組まれたまま、爪が食い込むほど強く握り合わされている。
レギュラスは、その反応を静かに眺めていた。
驚きと戸惑い、そこに混じる申し訳なさと恐れ。
どの色も、彼が事前に想定していたとおりの順番で浮かんでは消えていく。
「セシール家にとって、決して過分なものではないと僕は思っています」
柔らかな声で告げる。
「不足していた材料と設備を、ただ埋めただけですよ」
アランは、返す言葉を探して口を開きかけ、結局閉じた。
「過分だ」と言えば父の研究を否定するように聞こえてしまう。
「ありがたい」と受け入れれば、あまりにも簡単に、この男の差し出した鎖を自分の手で掴むことになる。
言葉はどちらにも転がりたがらず、喉の奥で硬く固まった。
視線がわずかに揺れた。
装置でも封筒でもなく、レギュラスの指先に一瞬だけ引き寄せられ、すぐに逸らされる。
その細かな往復を、彼は見逃さない。
「そんなに、怖がらないでください」
慰めるような声音でありながら、その実、彼女の警戒心そのものを楽しんでいるような響きだった。
アランは、わずかに肩をすくめる。
「……怖がってなど」
否定しかけた言葉は、最後まで続かなかった。
声に自信が乗らないことを、自分でも分かってしまっている。
レギュラスは、ゆっくりと彼女を見つめた。
灰色の瞳が、柔らかな光を帯びる。
「先ほども申し上げましたが、セシール嬢」
彼は、テーブルに肘をつけることもなく、姿勢を崩さないまま続ける。
「僕はあなたに、決断を急がせるつもりはないんです」
アランの睫毛が、かすかに震えた。
「では、なぜ、ここまで……」
息のような問い。
その奥には、どうしても隠せない叫びがあった。
なぜ、ここまで追い詰めるような真似をするのか。
なぜ、自分たちの小さな世界の上から、これほどまでのものを重ねてこようとするのか。
レギュラスは、ほんの一拍だけ間を置き、微笑んだ。
「あなたを妻に迎えたいからですよ」
先ほどと同じ答え。
だが、そのときよりずっと近い距離で告げられたように感じられた。
声の質量が、胸の中にそのまま落ちてくる。
アランは、膝の上で組んだ手に力を込めた。
「……わたくしは、ただ一度夜会でお会いして、
それに——」
そこから先の言葉が喉に引っかかる。
続きの文を口にするだけで、あの夜の光景が鮮明に蘇りそうで、唇が凍りついた。
レギュラスは、その途切れを待っていたかのように、静かに言葉を継ぐ。
「ええ、一度お会いして」
穏やかな笑みを浮かべたまま、視線だけが鋭くなる。
「そして、一度だけ夜を共にして」
淡く濁した言い回し。
直接的でも、露骨でもない。
それでも、あの夜の一切を指し示すには、十分すぎる言葉だった。
「っ……」
アランの肩がびくりと震えた。
視線がテーブルから一気に床へと落ちる。
頬に熱が上り、耳の後ろまでじわじわと火照りが広がるのが自分でも分かった。
怒りなのか、羞恥なのか、恐怖なのか。
どれかひとつに分類できない感情が、一度に押し寄せてくる。
その渦の中心にあるのは、どうしようもない「見られていた」という感覚だった。
拒もうとした手。
逃げ場を探して彷徨った瞳。
それでも最後には、縋るように掴んでしまった指先。
あの夜、自分の身体が見せた全てを、この男は覚えている。
忘れるつもりなど、一度もなかったのだと、その目が告げている。
「……その話は、やめてください」
かすれた声で絞り出す。
精一杯の拒絶だった。
だが、レギュラスにとっては、むしろ満足を深める材料にしかならない。
「申し訳ありません」
形通りの謝罪を口にしながら、その灰色の瞳は微塵も退いていなかった。
「ただ、僕がなぜここまで動くのかを、きちんと理解していただきたかったので」
一夜の出来事を持ち出した瞬間、彼女の反応は劇的に変わる。
視線は逃げ、声は乱れ、組んだ指先は行き場を失って震える。
そこまですべてが、レギュラスにとって予想通りだった。
圧倒的な支援に戸惑い、父の研究と家の未来を思って揺れ、
そして最後に、自分という男そのものへの恐れと嫌悪と、言葉にできない何かで混乱する。
そのどれもが、最初から盤上に描いていた通りの動きだった。
てのひらの上で転がしている、という言葉がある。
今の状況はまさにそうだった。
ただし、彼はその表現を、どこか気に入っていない。
「転がす」という語感には、偶然や運任せの響きがある。
レギュラスが好むのは、もっと静かで確実な言い方だ。
——想定したとおりに、駒が進んでいる。
それだけのことだった。
想定通りの方向へと状況が動き、彼女の感情が揺れ、父の研究室には支援物資が積み上がっていく。
その全てが、レギュラスにとっては、計画の一部に過ぎない。
それでも、胸の底から湧き上がる満足の度合いは、半端ではなかった。
アランは、視線を上げることができずにいた。
それでも、レギュラスの側から見れば、彼女の変化はあまりに分かりやすい。
睫毛の震え。
唇を結び直す小さな動き。
喉元で上下する呼吸。
警戒心で固められた鎧の下から、まだ彼女自身も扱い方を知らない「女」としての反応が、少しずつ顔を覗かせている。
レギュラスは、そんな彼女をひとしきり眺め、ふと視線を柔らかく緩めた。
——やはり、たいそう美しい。
あの夜と変わらない。
灯りに照らされた翡翠の瞳も、黒髪の艶も、肌の白さも。
昼の光の下で見ると、その美しさにはまた別の輪郭があった。
乱れたベッドの上で見たときには気づかなかった、育ちの良さが、仕草のひとつひとつに滲んでいる。
背筋の伸びた座り方。
言葉を選ぶ前に一度だけ呼吸を整える癖。
父の研究に触れるときの敬意のこもった口調。
両親に、愛されて育てられてきたのだろう——そう思わせる要素が、いくつもあった。
甘やかされるだけではなく、過不足なく守られる環境。
貴族としての礼儀と、研究者の娘としての自覚。
その両方が、アラン・セシールという一人の女の内部で、まだ幼い矛盾を抱えたまま共存している。
レギュラスは、その「未完成さ」が気に入っていた。
完璧ではない。
だからこそ、手を伸ばしたくなる。
このまま父の庇護下で生きていけば、きっと平穏で、そこそこ幸福な人生が待っているだろう。
ローランド・フロストのような誠実な青年と結ばれれば、それもまた悪くない結末かもしれない。
だからこそ——。
見れば見るほどに、早く手中に収めてしまいたくてたまらなかった。
翡翠の瞳の行き場を、父でも、ローランドでもない場所へ固定してしまいたい。
ブラック家の名の下に、その全ての未来を、自分の意志ひとつで左右できる位置に置いてしまいたい。
「セシール嬢」
レギュラスは、あくまで穏やかな声で呼びかけた。
アランは、びくりと肩を揺らしながら、恐る恐る顔を上げる。
その翡翠の瞳が、迷いと恐怖と、かろうじて残っている自尊心で複雑に揺れている。
レギュラスは、その色を真正面から受け止めた。
「……これほどの支援を差し出したからといって、あなたの答えが決まるわけではありません」
静かに告げる。
「最終的に、どの道を選ぶのかは、あなたと、あなたのご家族の決断です」
そう言いながら、その「決断」がどちらに傾いていくかは、すでに見えていた。
「ですが」
彼は、ほんの少しだけ微笑みを深めた。
「どの道を選んだとしても——セシール家の扉は、すでに僕の支援を受け取ってしまっている」
アランの喉が、小さく鳴る。
その意味に気づきかけたのか、唇がわずかに震えた。
支援を受けた瞬間から、セシール家はもはや「ただの一貴族」ではいられない。
ブラック家と魔法省の影が、確実にその背後に貼り付く。
レギュラスは、そこをあえて説明しなかった。
説明しなくとも、そのうち父エドモンドが痛いほど理解するだろうことを知っていたからだ。
彼にとって重要なのは、ただひとつ。
盤上の駒が、今日もまた、想定の位置にきっちり収まったという事実だけだった。
目の前の少女は、あの夜と変わらず美しく。
そして今は、その美しさの上に、彼が与えた「重さ」を確かに背負わされている。
レギュラス・ブラックの胸の奥で、満足と期待が静かに膨らんでいた。
まだ誰にも見えない未来の輪郭が、彼の頭の中では、すでにずいぶんはっきりと描かれ始めている。
書類を抱えた職員たちが廊下を行き交い、インクと羊皮紙の匂いが混ざり合う。遠くの方では、使い魔のフクロウが何羽も行き交い、窓ガラスの向こうに白い羽をかすめて消えていく。
だが、レギュラス・ブラックの執務室だけは、外の雑音から切り離されたような静けさに包まれていた。
いつもどおり、黒檀の机の上にはきちんと整えられた書類が積まれている。
インク壺の位置、ペン立ての角度、紙の端のそろい方に至るまで、乱れは一つもない。
そんな整然とした空間の主はというと——
あまり隠そうともせず、上機嫌だった。
灰色の瞳はわずかに光を増し、書類へ走るペンの動きに迷いがない。
いつもなら少しばかり退屈さを漂わせながら処理する報告書も、今日に限ってはペースがいい。
署名をし、封をし、次の案件へと手を伸ばす動きに、どこか軽やかさが宿っていた。
扉が、控えめにノックされた。
「どうぞ」
レギュラスの声に応じて入ってきたのは、バーテミウス・クラウチ・ジュニアだった。
両手に書類の束を抱え、いつもどおりの冷静な表情で一礼する。
「本日の決裁分と、新たに回ってきた案件です、レギュラス」
「机の上にどうぞ。……ありがとうございます」
受け取る仕草まで、いつもよりどこか柔らかい。
バーテミウスは、それを見逃さなかった。
机の上に書類を置いたあと、一歩だけ下がり、主人の顔をまっすぐ見る。
「……ずいぶん、ご機嫌ですね」
柔らかく、しかし容赦のない観察だった。
「そう見えますか?」
レギュラスはペンを指に挟んだまま、口元に笑みを浮かべる。
否定することもできたが、あえてしない。その余裕もまた機嫌の良さを物語っていた。
バーテミウスは、ふっと息を小さく笑いに変えた。
「若き青年を地獄に突き落としてきた顔をしていますね、レギュラス」
「……人聞きが悪いですね、あなたは」
レギュラスは苦笑まじりに肩を竦めた。
しかし、その目の奥には「図星だ」とも「そうでもない」とも取れる光が揺れている。
「僕は突き落としたりはしていませんよ」
さらりと言いながら、ペン先をインク壺につける。小さな黒い滴が、白い羊皮紙の端に触れた。
「それとなく、あの男が選ぶべき道を示してやっただけです」
ローランド・フロストの青い瞳が脳裏に浮かぶ。
あの驚愕と沈黙。
ひとつひとつの言葉を飲み込むたびに、胸の内で何かがひしゃげていく音が、静かに伝わってきた。
バーテミウスは眉をわずかに上げる。
「道を示した、ですか」
「彼が真面目で誠実な青年であるのは事実です」
レギュラスは淡々と続ける。
「だからこそ、自分の大切な人のために、もっとも賢明な選択をするでしょう。
……僕は、その背中を、指先で軽く押して差し上げただけです」
「軽く」と言うには、その指先に込められた力はあまりにも大きかったが、レギュラスはそこを問題視していないようだった。
バーテミウスは、机の天板に視線を落とし、軽く指先で叩いた。
「その“賢明な選択”の先に、あなたが立っていらっしゃるのは、もはや当然の前提のようですね」
「他に誰がいるんです?」
視線を上げて問い返したレギュラスの顔には、自信と少しの愉悦が入り混じっていた。
セシール卿に提示した条件。
魔法薬研究の全面的な支援、財産分与、魔法省内での後押し。
ローランドに告げた現実と、求めた「賢明さ」。
それらを積み重ねたうえで導かれる結論は、ひとつしかないと確信していた。
「近いうちに、望む答えが返ってくることは、わかりきっています」
ペンを置き、椅子の背にもたれながら、レギュラスはぽつりとこぼす。
「セシール卿も、フロスト殿も、愚かではない。
だから、僕にとって都合のいい結論が出る」
そこまで言うと、自分でも少しだけおかしくなったのか、目元がやわらかくほころんだ。
バーテミウスは、その変化をじっと観察していた。
「まるで、幼い頃クリスマスを心待ちにしている少年のような顔をされていますよ、レギュラス様」
柔らかな皮肉が、静かな部屋に落ちる。
レギュラスは、苦笑しながらも否定しなかった。
「……そうかもしれませんね」
幼かった頃、ブラック家の大広間に飾られる巨大なクリスマスツリー。
オリオンとヴァルブルガが主導する厳格な家の中で、その日だけは少しだけ空気が緩む。
翌朝、約束された贈り物が必ずそこにあるという確信が、少年の胸を満たしていた。
今の自身の心持ちは、それとよく似ていた。
すでに贈り物の中身は分かっている。
何が手に入るのかも、どれほど価値があるのかも、全て理解している。
あとは、それを受け取る日を待つだけだ。
「もちろん、多少の誤差はあるでしょう」
レギュラスは、指先で机を軽く叩いた。
「セシール卿は、父親ですからね。
最後の最後まで迷うかもしれない。
フロスト殿も、しばらくは自分の中で葛藤するでしょう」
「それでも、最終的な結論は変わらない、と」
「ええ」
灰色の瞳が、静かに笑う。
「セシール卿は、娘の未来と研究を天秤にかけて、どちらも守れる道を選ぶ。
フロスト殿は、誠実であろうとするがゆえに、自ら一歩引く。
アラン嬢は、自分の意思だけで世界を決められるほど、まだ残酷になりきれていない」
それらをすべて見越したうえでの、申し出だった。
バーテミウスは、少しだけ肩を竦める。
「若き青年を“地獄に突き落とした”のではなく、
“自分の足で地獄を選ばせた”というわけですね」
「あなたは本当に、言い方が悪い」
レギュラスはくすりと笑った。
「僕は、彼にとっての“誇り高い選択肢”を提示したつもりですよ。
恋よりも、彼女の未来と家の繁栄を優先できるかどうか——彼自身の価値を測る試験でもある」
正解は、すでに決まっている。
その正解にたどり着く道筋を、周囲から静かに整えているにすぎない。
窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めていた。
魔法省の高い窓から見える空は、まだ青いが、端の方からわずかに金色が混じっている。
レギュラスは、その光景に目を細めた。
「アラン・セシールを、ブラック家の名で呼べる日が来る」
声に出すことはしないまま、胸の内でその言葉を転がす。
彼女の翡翠の瞳が、自分の隣でどのような色を宿すのか。
社交界の中央で、自分の腕を取って並び立つ姿を想像するだけで、口元が自然と緩んだ。
バーテミウスは、その表情を見て、静かに息を吐く。
「……あとは、セシール家からの返答を待つだけですね」
「そうですね」
レギュラスは、椅子から少し身を乗り出し、次の書類を手元に引き寄せた。
「クリスマスの朝を待っている子どもと違うのは——」
ペンをインクに浸しながら、わずかに笑う。
「僕は、ツリーの下の箱の中身を、すべて自分で選んで詰めたという点くらいでしょうか」
望む答えが返ってくることは、わかりきっている。
すでに盤面は整えられている。
残されたのは、当事者たちが、用意されたマス目に足を運び、定められた位置に立つのを待つだけだ。
レギュラス・ブラックは、その確信に酔うでもなく、ただ当然の未来として受け入れていた。
机の上で走るペンの音が、静かな執務室に心地よく響く。
まるで、もう勝利の余韻を味わい始めているかのような、穏やかなリズムで。
その日、セシール家の屋敷には、珍しい名が呼ばれていた。
「ブラック家のレギュラス・ブラック様がお見えです、お嬢様」
廊下で使用人にそう告げられた瞬間、アランの背筋に冷たいものが走った。
指先がきゅっと固くなる。
ドレスの布地を握りしめる手に、かすかに汗がにじんだ。
父の書斎で告げられた婚姻の申し出。
並べられた条件の重さが、まだ胸の中で重石のように沈んでいる。
そこへ、当人がふたたび訪ねてきた。
「……応接室に?」
「はい。セシール卿が先ほどお通しになりました。
お嬢様も、お時間をいただきたいと」
逃げ場はなかった。
アランは静かに頷き、裾を整えながら応接室へ向かう。
扉の前で一度だけ深く息を吸う。
胸の奥に渦巻く警戒心を、表に出さないように押し込める。
それでも、扉へ伸ばした手はわずかに震えた。
ノックをして、許しを得てから中に入る。
応接室には、父エドモンドと、その正面に黒いローブの男が座っていた。
レギュラス・ブラック。
薄く笑みを浮かべた灰色の瞳が、音もなくこちらに向く。
「お父様」
アランが小さく会釈すると、エドモンドは椅子から立ち上がった。
「来てくれたか、アラン。……レギュラス殿、娘です」
「先日は夜会にて。改めまして、レギュラス・ブラックです」
レギュラスは立ち上がり、礼儀正しく頭を下げる。
どこを取っても非の打ちどころのない所作だった。
「今日は、少しばかりお時間をいただければと思いまして。
できれば、セシール嬢と直接、お話がしたい」
エドモンドは一瞬だけ娘の方を見た。
その目には、葛藤と期待が入り混じっている。
結局、短く「任せる」というように頷き、部屋を辞した。
扉が閉まる。
柔らかな絨毯が足音を吸い込み、室内には静寂だけが残った。
向かい合って座るしかない。
アランは警戒心を隠そうともせず、背筋を真っ直ぐに保って椅子に腰を下ろした。
視線はレギュラスの顔ではなく、その少し手前、テーブルの上あたりに固定される。
レギュラスは、そんな彼女の様子を面白がるでもなく、静かに笑った。
「驚かせましたよね。申し訳ありません」
謝罪の言葉は口に乗ったが、声には焦りも戸惑いもなかった。
あくまで礼儀として添えられた一文のように、滑らかにそこに置かれる。
「……いえ」
アランの返事は短い。
視線はまだ、適度な距離を保ったままだ。
「決断を迫りにきたわけではありませんよ、セシール嬢」
レギュラスは、先にその懸念を摘む。
「ご返答を急かすつもりはありません。
むしろ、時間をかけて考えていただきたいと思っています」
その言葉に、少しだけ胸の締め付けが緩んだ気がした。
だが同時に、なぜ今日ここに来たのかという別の警戒心が、すぐにそれを飲み込む。
「では、本日は……?」
「今日はほんの少し、心ばかりの支援をお届けに参りました」
レギュラスは、さらりと言った。
ちょうどそのとき、扉が控えめにノックされる。
「失礼いたします」
使用人が二人、続けて三人と、部屋の外から重そうな木箱を運び込んできた。
箱の側面には、魔法生物管理局の印と、厳重な封印の呪文が刻まれている。
「こちらは?」
アランが思わず問いかけると、レギュラスは椅子から立ち上がり、箱のひとつの封印に杖先を当てた。
淡い光が走り、鎖がほどける。
蓋を開けると、内側には冷却の魔法陣が刻まれていた。
「セシール卿の研究資料に目を通させていただきました」
レギュラスは箱の中を軽く示す。
「特に、魔力障害を伴う慢性疾患向けの魔法薬の研究。
その根幹となる試薬として、ドラゴン肝とユニコーンの角が不足しているご様子だったので」
箱の中には、丁寧に梱包された瓶や布包みが整然と並んでいた。
希少なドラゴン肝がいくつも。
市場では顔も出さないほど高価なユニコーンの角の断片。
他にも、国外からしか入手できない希少な薬草や粉末がいくつも見える。
アランは、思わず箱の縁に手をかけた。
冷気が指先に伝わる。
「これほどの量を……」
「半年、いえ、研究の進展次第では一年分以上はあるでしょうね」
レギュラスはあっさりと言った。
「もちろん、正規の手続きで輸入し、魔法省の許可も得ています。
セシール家の研究専用として登録してありますから、税も優遇措置が適用されるはずです」
さらりと告げられる一言一言が、アランには別世界の言語のように響いた。
父がどれほど苦労して少量ずつ集めてきたかを知っているからこそ、その差が痛いほど分かる。
「それから、こちらは」
別の箱の封印を解くと、中から銀色に輝く機器が姿を現した。
金属とクリスタルで組まれた、魔力循環式の蒸留塔と抽出装置。
魔法薬研究専門の工房でしか見たことのない、大型の実験器具だ。
「最新式の魔力循環抽出炉と、温度・魔力出力を精密に管理できる蒸留装置です。
セシール卿の設備は、少々年代物のまま改良されずにいるようでしたので」
アランは言葉を失った。
父が夜中までかかって魔力の出力を調整していた古い抽出炉。
傷だらけになったガラス容器。
それらに比べ、目の前の装置はまるで別格だった。
魔力の流れを均一に保つためのルーン文字が、細部にまで刻み込まれている。
「さらに、これは」
レギュラスは、ローブの内ポケットから封筒を取り出した。
グリンゴッツ魔法銀行の紋章が刻まれている。
「研究支援用の特別口座です。
初期資金として、こちらの金額をお預けしています」
封筒の中身を見ずとも、その重みでただ事ではないと分かる。
アランはもう、数字を確かめる勇気すら湧かなかった。
「お受け取りください、セシール嬢」
レギュラスは、まるで小さな花束でも差し出すような軽さで封筒をテーブルに置いた。
「今日はほんの、心ばかりです。
本格的な支援は、もしご縁が結ばれた暁に、改めて」
ほんの少し。
心ばかり。
その言葉と、目の前に並んだ支援の規模との間に、あまりにも大きな乖離があった。
アランの胸の奥で、警戒心はさらに色を変える。
ただの恐れではない。
圧倒的な力を、さも当たり前のように差し出してくる、その感覚への戸惑いと寒気。
「……なぜ、そこまでのことを?」
ようやく絞り出した声は、酷く掠れていた。
これほどのものを「心ばかり」と呼べる男の感覚が理解できない。
レギュラスは、少しだけ首を傾げた。
「理由が必要ですか?」
すぐに、優雅な笑みを浮かべる。
「あなたを妻に迎えたいからですよ、セシール嬢」
あまりにも、簡単に言った。
まるで“少し気に入ったから花でも贈る”といった程度の軽さで、しかし内容だけは桁違いに重い。
「……わたくしは、ただの一度、夜会でお会いしただけの……」
「ええ」
レギュラスは遮らない。
むしろ、彼女の言葉に同意するように頷いた。
「一度お会いして——一度だけ、夜を共にして」
最後の一節を、ほんの少し声を落として濁す。
露骨な直接表現は避けながらも、その意味は十分に伝わる言い方だった。
アランの頬に、さっと血が上る。
同時に、背筋の奥の方を冷たいものが撫でていく。
あの夜。
あの部屋。
触れられた場所と、奪われていったもの。
「それだけで、十分すぎるほど心を掴まれました」
レギュラスは、今度ははっきりと言った。
「あなたの瞳も、声も、触れた肌も。
そして、あのときの震えも、拒もうとして拒みきれない指先も。
どれも、僕には強烈でした」
芝居めいた台詞だった。
上質な劇の舞台で、主人公が恋人に捧げる言葉のように、滑らかで、よどみがない。
そのくせ、言葉の端々には冷静な観察の目が覗いている。
アランは、その奇妙な二重性に、どうしようもない不気味さを覚えた。
心から燃え上がっているように見せながら、その実、冷静に相手の反応を分析している。
そんな視線が、今もこちらに注がれている気がした。
「……わたくしを、よくご存じでもないのに」
声の震えを抑えようとするほど、震えは増す。
レギュラスの灰色の瞳が、静かに細められた。
「人を知るのに、時間は必ずしも必要ではありませんよ」
レギュラスは穏やかに告げる。
「長く寄り添っても何も感じない相手もいる。
反対に、一晩で十分すぎるほど知りたくなる相手もいる」
アランは、テーブルの上で指をぎゅっと組んだ。
目の前に並んだ木箱と装置と封筒が、じりじりと迫ってくるような錯覚にとらわれる。
この支援を受け取れば、父の研究は飛躍的に進む。
セシール家の未来は、格段に明るくなる。
しかし同時に、自分の人生は、目の前の男の指先に握られていく。
「……これほどのものを、簡単には受け取れません」
かろうじて、それだけは言えた。
それが抵抗なのか、礼儀なのか、自分でも判然としない。
レギュラスは、一瞬だけ目を伏せた。
そして、柔らかな声で答える。
「簡単に受け取れないと思ってくださる、その感覚が、僕は好きですね」
褒め言葉のような響き。
だが、その裏にある意図は読めない。
「ですが、これはもう、セシール卿の了承のもとに運ばせていただいたものです」
彼は静かに続ける。
「受け取るかどうかを決めるのは、もはや礼儀の問題ではありません。
研究を前に進めるか、それとも停滞させるかの選択です」
ひとつひとつの言葉は、穏やかだった。
けれど、その穏やかさゆえに、逃げ場がなくなる。
アランは、言葉を探そうとして、途中で諦めた。
何を言っても、彼は別の角度から「道」を示してくる。
気づけば、足元に見えている道は一つだけだと錯覚させられる。
「セシール嬢」
レギュラスが、ゆっくりと彼女の名を呼んだ。
「僕は、あなたに決断を迫りにきたわけではありません。
ただ、あなたと、あなたの家にとっての“現実”を、少しだけ見やすくしたいと思っただけです」
現実。
その言葉が、胸に重く落ちた。
「僕がどれほどの支援を約束できるか。
どれほどの権限を使えるか。
そして、あなたを妻に迎えたいという僕の意思が、どれほど本気か」
アランは、黙ってうつむいた。
目の前に並べられた支援という名の現実が、そのまま彼の「本気」の重量に見えて、視界が眩む。
父の研究室。
くたびれた抽出炉。
不足した材料のリスト。
夜遅くまで灯りの消えない書斎。
ローランドの笑顔。
「近いうちに会いたい」と書き添えられた手紙。
庭を歩きながら交わした他愛ない会話。
そして、レギュラスの灰色の瞳。
まるで、劇の主人公を気取るような言葉を平然と紡ぎながら、相手の一挙手一投足を見逃さない目。
アランは、胸の奥にじくじくと広がる無力感を、どうすることもできなかった。
何かを拒めば拒むほど、差し出された支援の数々が、「あなたは本当にそれを拒むのですか」と静かに問いかけてくる。
圧倒的な財力と権力が、目の前の男の背後に控えている。
その影の大きさに、言葉はどこかへ逃げてしまっていた。
応接室の空気は、どこまでも静かだった。
厚い絨毯が足音も震えも吸い込み、壁にかけられた古い絵画たちだけが、そこにいる二人をじっと見つめている。
その中心で、アランは完全に固まっていた。
目の前に並べられた木箱と銀色の装置、そしてグリンゴッツの封筒。
ひとつひとつの輪郭を目は確かに捉えているはずなのに、意味を結ぶ前に視界が白く霞む。
「……こんな、ことまで」
ようやくこぼれた声は、自分のものとは思えないほど頼りなかった。
指先は膝の上で組まれたまま、爪が食い込むほど強く握り合わされている。
レギュラスは、その反応を静かに眺めていた。
驚きと戸惑い、そこに混じる申し訳なさと恐れ。
どの色も、彼が事前に想定していたとおりの順番で浮かんでは消えていく。
「セシール家にとって、決して過分なものではないと僕は思っています」
柔らかな声で告げる。
「不足していた材料と設備を、ただ埋めただけですよ」
アランは、返す言葉を探して口を開きかけ、結局閉じた。
「過分だ」と言えば父の研究を否定するように聞こえてしまう。
「ありがたい」と受け入れれば、あまりにも簡単に、この男の差し出した鎖を自分の手で掴むことになる。
言葉はどちらにも転がりたがらず、喉の奥で硬く固まった。
視線がわずかに揺れた。
装置でも封筒でもなく、レギュラスの指先に一瞬だけ引き寄せられ、すぐに逸らされる。
その細かな往復を、彼は見逃さない。
「そんなに、怖がらないでください」
慰めるような声音でありながら、その実、彼女の警戒心そのものを楽しんでいるような響きだった。
アランは、わずかに肩をすくめる。
「……怖がってなど」
否定しかけた言葉は、最後まで続かなかった。
声に自信が乗らないことを、自分でも分かってしまっている。
レギュラスは、ゆっくりと彼女を見つめた。
灰色の瞳が、柔らかな光を帯びる。
「先ほども申し上げましたが、セシール嬢」
彼は、テーブルに肘をつけることもなく、姿勢を崩さないまま続ける。
「僕はあなたに、決断を急がせるつもりはないんです」
アランの睫毛が、かすかに震えた。
「では、なぜ、ここまで……」
息のような問い。
その奥には、どうしても隠せない叫びがあった。
なぜ、ここまで追い詰めるような真似をするのか。
なぜ、自分たちの小さな世界の上から、これほどまでのものを重ねてこようとするのか。
レギュラスは、ほんの一拍だけ間を置き、微笑んだ。
「あなたを妻に迎えたいからですよ」
先ほどと同じ答え。
だが、そのときよりずっと近い距離で告げられたように感じられた。
声の質量が、胸の中にそのまま落ちてくる。
アランは、膝の上で組んだ手に力を込めた。
「……わたくしは、ただ一度夜会でお会いして、
それに——」
そこから先の言葉が喉に引っかかる。
続きの文を口にするだけで、あの夜の光景が鮮明に蘇りそうで、唇が凍りついた。
レギュラスは、その途切れを待っていたかのように、静かに言葉を継ぐ。
「ええ、一度お会いして」
穏やかな笑みを浮かべたまま、視線だけが鋭くなる。
「そして、一度だけ夜を共にして」
淡く濁した言い回し。
直接的でも、露骨でもない。
それでも、あの夜の一切を指し示すには、十分すぎる言葉だった。
「っ……」
アランの肩がびくりと震えた。
視線がテーブルから一気に床へと落ちる。
頬に熱が上り、耳の後ろまでじわじわと火照りが広がるのが自分でも分かった。
怒りなのか、羞恥なのか、恐怖なのか。
どれかひとつに分類できない感情が、一度に押し寄せてくる。
その渦の中心にあるのは、どうしようもない「見られていた」という感覚だった。
拒もうとした手。
逃げ場を探して彷徨った瞳。
それでも最後には、縋るように掴んでしまった指先。
あの夜、自分の身体が見せた全てを、この男は覚えている。
忘れるつもりなど、一度もなかったのだと、その目が告げている。
「……その話は、やめてください」
かすれた声で絞り出す。
精一杯の拒絶だった。
だが、レギュラスにとっては、むしろ満足を深める材料にしかならない。
「申し訳ありません」
形通りの謝罪を口にしながら、その灰色の瞳は微塵も退いていなかった。
「ただ、僕がなぜここまで動くのかを、きちんと理解していただきたかったので」
一夜の出来事を持ち出した瞬間、彼女の反応は劇的に変わる。
視線は逃げ、声は乱れ、組んだ指先は行き場を失って震える。
そこまですべてが、レギュラスにとって予想通りだった。
圧倒的な支援に戸惑い、父の研究と家の未来を思って揺れ、
そして最後に、自分という男そのものへの恐れと嫌悪と、言葉にできない何かで混乱する。
そのどれもが、最初から盤上に描いていた通りの動きだった。
てのひらの上で転がしている、という言葉がある。
今の状況はまさにそうだった。
ただし、彼はその表現を、どこか気に入っていない。
「転がす」という語感には、偶然や運任せの響きがある。
レギュラスが好むのは、もっと静かで確実な言い方だ。
——想定したとおりに、駒が進んでいる。
それだけのことだった。
想定通りの方向へと状況が動き、彼女の感情が揺れ、父の研究室には支援物資が積み上がっていく。
その全てが、レギュラスにとっては、計画の一部に過ぎない。
それでも、胸の底から湧き上がる満足の度合いは、半端ではなかった。
アランは、視線を上げることができずにいた。
それでも、レギュラスの側から見れば、彼女の変化はあまりに分かりやすい。
睫毛の震え。
唇を結び直す小さな動き。
喉元で上下する呼吸。
警戒心で固められた鎧の下から、まだ彼女自身も扱い方を知らない「女」としての反応が、少しずつ顔を覗かせている。
レギュラスは、そんな彼女をひとしきり眺め、ふと視線を柔らかく緩めた。
——やはり、たいそう美しい。
あの夜と変わらない。
灯りに照らされた翡翠の瞳も、黒髪の艶も、肌の白さも。
昼の光の下で見ると、その美しさにはまた別の輪郭があった。
乱れたベッドの上で見たときには気づかなかった、育ちの良さが、仕草のひとつひとつに滲んでいる。
背筋の伸びた座り方。
言葉を選ぶ前に一度だけ呼吸を整える癖。
父の研究に触れるときの敬意のこもった口調。
両親に、愛されて育てられてきたのだろう——そう思わせる要素が、いくつもあった。
甘やかされるだけではなく、過不足なく守られる環境。
貴族としての礼儀と、研究者の娘としての自覚。
その両方が、アラン・セシールという一人の女の内部で、まだ幼い矛盾を抱えたまま共存している。
レギュラスは、その「未完成さ」が気に入っていた。
完璧ではない。
だからこそ、手を伸ばしたくなる。
このまま父の庇護下で生きていけば、きっと平穏で、そこそこ幸福な人生が待っているだろう。
ローランド・フロストのような誠実な青年と結ばれれば、それもまた悪くない結末かもしれない。
だからこそ——。
見れば見るほどに、早く手中に収めてしまいたくてたまらなかった。
翡翠の瞳の行き場を、父でも、ローランドでもない場所へ固定してしまいたい。
ブラック家の名の下に、その全ての未来を、自分の意志ひとつで左右できる位置に置いてしまいたい。
「セシール嬢」
レギュラスは、あくまで穏やかな声で呼びかけた。
アランは、びくりと肩を揺らしながら、恐る恐る顔を上げる。
その翡翠の瞳が、迷いと恐怖と、かろうじて残っている自尊心で複雑に揺れている。
レギュラスは、その色を真正面から受け止めた。
「……これほどの支援を差し出したからといって、あなたの答えが決まるわけではありません」
静かに告げる。
「最終的に、どの道を選ぶのかは、あなたと、あなたのご家族の決断です」
そう言いながら、その「決断」がどちらに傾いていくかは、すでに見えていた。
「ですが」
彼は、ほんの少しだけ微笑みを深めた。
「どの道を選んだとしても——セシール家の扉は、すでに僕の支援を受け取ってしまっている」
アランの喉が、小さく鳴る。
その意味に気づきかけたのか、唇がわずかに震えた。
支援を受けた瞬間から、セシール家はもはや「ただの一貴族」ではいられない。
ブラック家と魔法省の影が、確実にその背後に貼り付く。
レギュラスは、そこをあえて説明しなかった。
説明しなくとも、そのうち父エドモンドが痛いほど理解するだろうことを知っていたからだ。
彼にとって重要なのは、ただひとつ。
盤上の駒が、今日もまた、想定の位置にきっちり収まったという事実だけだった。
目の前の少女は、あの夜と変わらず美しく。
そして今は、その美しさの上に、彼が与えた「重さ」を確かに背負わされている。
レギュラス・ブラックの胸の奥で、満足と期待が静かに膨らんでいた。
まだ誰にも見えない未来の輪郭が、彼の頭の中では、すでにずいぶんはっきりと描かれ始めている。
