3章
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医務魔法使いが去ったあと、部屋には消毒薬の匂いだけが淡く残っていた。
窓から差し込む午後の光が、白いカーテン越しに柔らかく揺れて、寝台の縁や小さなサイドテーブルの銀縁に薄い金色を置いていく。静かなはずの部屋だった。だが、静けさの中心にいる男の呼吸だけが、どこか落ち着かなかった。
アランは枕を少し高くして横になっている。髪はほどかれたまま肩に落ち、頬の高い位置に薄く残る赤みが、整った輪郭の上でやけに目立った。鼻先の擦り傷は消毒のせいか、艶を帯びている。上唇には、乾きかけた血の線――きわめて小さな痕跡が、あまりにも無遠慮に「傷」を主張していた。
レギュラスはその前に立ったまま、しばらく座ることすら忘れていた。
平静を装う癖は身についているのに、視線だけが落ち着かない。傷へ、唇へ、頬へ、また唇へ。自分が見たくないものを、自分の意思で何度も確認してしまう。
「……痛そうです、アラン」
抑えた声だった。
怒りの棘も、詰問の癖も混じらない。ただ、純粋に嫌だという感情だけが滲んでいた。自分のものに傷がつくのが嫌だと、あまりにも率直に。
アランは小さく瞬きをし、ほんの少しだけ笑う。完璧な微笑みではない。今は作りきれない柔らかさだった。
「消毒していただきました」
彼女の声は落ち着いている。落ち着かせようとしている。自分の不注意が屋敷の空気を乱したことを、彼女はもう悔いている。その気配があるだけで、レギュラスの胸の底がいっそうざらついた。――謝らなくていいことまで、すぐに謝る癖。痛みより先に、場を整えようとする癖。
レギュラスはようやく椅子に腰を落とすが、その動きもどこかぎこちない。指先が膝の上で落ち着かず、ふと伸びては引っ込む。触れて確かめたい。だが触れて痛ませたくない。矛盾が身体の中で喧嘩している。
「骨は折れてないんですよね」
確認という名の、もう一度聞き直す執着。
医務魔法使いが「問題ない」と言ったばかりなのに、言葉として聞き直さずにはいられない。目で見ても安心できない。自分の口で整え直さないと、頭の中が落ち着かない。
「ええ。大丈夫みたいです」
アランが同じ答えを返す。
その声の穏やかさに、レギュラスの胸が少しだけ緩む。緩むからこそ、次の言葉が出る。緩みを保持したくて、さらに安全を積み上げようとする。
「階段に敷く絨毯は、もう少し厚みを増やしましょう」
言い終えてから、レギュラスは自分の語尾に含まれた決定を自覚した。
誰にも相談しない。誰にも許可を求めない。屋敷の仕様は自分が決める。そういう男だ。けれど今日は、その癖が支配欲ではなく、恐怖の逃げ道になっている。
「万が一、足を踏み外した時――大事にならないように」
万が一という言葉が、部屋の空気を少し冷たくした。
アランの皮膚が、ほんのわずかに粟立つのが見えた気がした。起きたことを蒸し返されるのは、彼女の心をすり減らす。だから彼女は、いつもならさらりと流す。今日も流そうとする。
「大丈夫です、レギュラス。私の不注意でした」
自分を責める言い方。
レギュラスはそれが嫌だった。あまりにも嫌で、息の吐き方が乱れるほどだ。自分が責めたいのは絨毯で、段差で、運の悪さで、何より自分の手が間に合わなかったことなのに。彼女が自分を罰するのを、見ていられない。
「……不注意?」
低く繰り返すだけで、言葉の刃になりかける。
だが、今日は刃を立てる方向が違った。レギュラスはアランではなく、状況を斬ろうとする。自分の無力を斬ろうとする。
「唇なんて……動きがある部位でしょう」
言いながら、視線がまた上唇に吸い寄せられる。
そこは言葉を紡ぐ場所だ。食事をする場所だ。笑う場所だ。――そして、口づけを受ける場所だ。自分の欲と日常が重なっている場所に、傷がある。それが堪えがたい。
「痛みが、引かないでしょうに」
アランは黙って頷きかけて、やめた。
頷けば「大丈夫」と言えない。言えばまた心配される。だから、最も無難な言葉を選ぶ。いつものように。
「心配をかけました」
その瞬間、レギュラスの眉間がわずかに寄る。
心配をかけた、ではない。心配したのは自分の勝手だ。勝手に怯えて、勝手に想像して、勝手に怖がっているのは自分だ。それを彼女の責任にするような言葉が、どうにも許せない。
「ええ」
一拍置く。
その「ええ」は肯定ではなく、呼吸を整えるための音に近い。口に出すことで、胸のざらつきを一旦飲み込もうとする。だが飲み込めないまま、次が続く。
「……勝手に、傷つかないでください」
大袈裟だと分かっている。
理不尽だとも分かっている。
それでも言ってしまう。自分の愛した女の顔に、傷が入るのが嫌だった。嫌で嫌で、胸の奥が幼いほどの独占欲でいっぱいになる。彼女は自分のものだという理屈ではなく、ただ、見たい美しさが壊れるのが耐えられないという本能に近い。
アランは少し目を丸くした。
驚きと、呆れと、わずかな温かさが同時に滲む。レギュラスがこういう弱さを見せるのは、まだ慣れない。慣れないから、息が詰まる。けれど――その弱さが、彼女の胸のどこかを柔らかく撫でるのも確かだった。
「……努力します」
冗談めかせない、静かな返事。
茶化せば、この男は傷つく。傷つけば、今度は棘になる。そういうことを、アランは知っている。
レギュラスは堪えきれず、そっと手を伸ばした。
触れ方は慎重だった。指先が髪を避け、頬に触れる直前で止まる。消毒した箇所に触れれば痛むかもしれない。傷に触れれば、彼女が小さく顔を歪めるかもしれない。それが怖い。怖いのに、触れずにはいられない。
結局、触れたのは頬ではなく、顎の下だった。
傷から遠い場所。皮膚の薄い、温度の分かる場所。そこに指を添えて、顔の向きを少しだけ変える。まるで光の当たり方まで確かめるように、彼女の顔を眺め直す。
「……本当に、嫌です」
呟きは小さかった。
命令ではない。責めでもない。
それでも、言葉の重みだけは重い。自分の中の所有と愛情が、同じ方向に流れている音だった。
アランは視線を落とし、やがてレギュラスを見る。
翡翠の瞳が、珍しく揺れた。傷の痛みではなく、男の心配の温度に揺れる。
「ごめんなさい……」
反射で出た言葉だった。
しかし、レギュラスはそれを許さなかった。許せなかった。謝罪で片づけられるのが嫌だった。自分が怖がったことも、彼女が傷ついたことも、“いつもの形”で収められるのが嫌だった。
「謝らないでください」
静かに遮る。
その声は優しいのに、譲らない。
「……次からは、手を貸させて」
助けると言わないところが、レギュラスだった。
手を貸す。自分が必要だと、さりげなく正当化する言い方。だが、求めているのは正当化じゃない。自分の恐怖を、彼女の存在で鎮めたいだけだ。
アランは小さく息を吸った。
そして、ほんのわずかに頷く。
「はい」
その一音だけで、レギュラスの胸の奥がふっと緩む。
愛しているという言葉を言わなくても、機嫌を取れと言わなくても。彼女が「はい」と言うだけで、世界が正しい位置に戻った気がする。――そんな自分の単純さが情けなくて、同時に救いでもあった。
レギュラスは、アランの額に口づけた。
傷を避け、消毒の匂いを避け、温度だけを残すような、短い口づけ。慈しみと、苛立ちと、恐怖と、独占が、すべて混ざっている。
「……絨毯は厚くします」
もう一度、決める。
起きたことを二度と起こさないために。自分の無力を二度と味わわないために。彼女の顔に、これ以上「嫌なもの」を増やさないために。
アランはその横顔を見つめて、言葉にできない感情を飲み込んだ。
この男は残酷だ。許せないことも、数えきれない。
それでも――こうして自分の傷ひとつに、過剰なほど心を乱し、屋敷の仕様まで変えようとするところだけは、どうしようもなく、レギュラス・ブラックそのものだった。
翌日から、屋敷の空気が少しだけ変わった。
変わったのは、誰かの機嫌でも、言葉の棘でもない。
レギュラスの、手の出し方だった。
廊下を歩くとき。階段に差しかかるとき。サロンから食堂へ移るとき。
ほんの数歩の移動でさえ、いつの間にか彼はアランの半歩前に立ち、視線を床へ落として確認し、当然のように手を差し出した。
「……手を」
それは命令の短さで、けれど声色だけが柔らかかった。
彼の中で「必要」が決定されてしまっている。こちらの都合や気分や、そういうものは後回しだという顔をしているくせに、指先だけは丁寧に優しい。
アランは一瞬立ち止まる。
その差し出された手を、拒むべきか、受けるべきか、迷う――というより、迷う素振りを見せることそのものが、彼を刺激すると分かっているから迷えない。分かっているのに、胸が微妙にざわつく。
「子供じゃありません、レギュラス」
小さく眉を寄せて言う。
責めたいわけではない。ただ、こちらにも体裁がある。自分で歩ける。いつも通りにしていたい。転んだこと一つで、すべての扱いが変わるのは息苦しい。
レギュラスは、笑った。
あの、人を追い詰める時に浮かべる笑みとは違う。もっと短くて、もっと軽い。けれど“譲らない”のだけは同じだ。
「じゃあ……大人として、手を」
言い換えただけだった。
言い換えた上で、結局欲しいものは同じだと示す。逃げ道を与えたふりをして塞ぐ。どこまでも彼らしい。
アランは唇を噛み、ため息を吐く代わりに、手を重ねた。
触れた瞬間、指先がわずかに締まる。握りしめるほど強くはない。だが離さない強さがある。まるで、自分の身体の一部になってしまったものを確かめるように。
そしてその様子を、床すれすれの位置から見上げていた小さな影が、すぐに真似をした。
「まま、手を」
アルタイルだった。
ふっくらした頬に期待を詰めて、ちいさな掌をぱっと差し出す。父と同じ言い方。父と同じ間。まだ言葉の意味の半分も分かっていないのに、響きと形だけを、驚くほど正確にコピーしている。
アランの胸の奥が、くすぐったいように痛む。
可愛い。たまらなく可愛い。けれど同時に、ぞくりとする。
この子は、レギュラスの血を濃く受け継いでいる。目的は愛らしい。「まま」と繋がっていたいだけ。なのに、差し出し方が、もう当然のそれだ。
アランが屈み、アルタイルの手を取ると、アルタイルは満足そうに目を細めた。
そのまま両手に挟んでぶんぶん振り、笑い声を上げる。父の真似をしているのに、やっていることはまだ無邪気な子供そのものだった。
「ほら、まま。こっち」
先導するみたいに引っ張る。
アランはつられて笑ってしまい、次の瞬間、レギュラスの視線がふっと緩むのが分かった。あの男は、アランの笑いが見たい。アルタイルがそれを引き出せるならなおさら、許してしまう。
その日の午後、宣言通り絨毯が替わった。
廊下も階段も、今までより明らかに沈む。
足を乗せると、じわりと柔らかく受け止められ、音が吸われる。屋敷の静けさがさらに深くなるような感触だった。厚みが増した分、階段の角の鋭さも和らいでいる。手すりの金具は磨かれ、光を受けて落ち着いた鈍い輝きを放っていた。
アルタイルは絨毯の上に立った途端、目を丸くした。
「……ふわふわ!」
そのまま、足踏みを始める。
ぺた、ぺた、ぺた。小さな足が沈んで戻る感覚が楽しくてたまらないのだろう。何度も踏み、跳ね、しゃがんで指で撫で、頬まで押し付けようとしてアランに止められる。
「だめです、アルタイル。顔をこすらないで」
「でも、ふわふわ!」
「ふわふわなのは分かります。分かりますけど」
言いながらアランが笑うと、アルタイルはさらに得意げになった。
笑わせた、という成果を覚えた顔をする。ここでもまた、父の影がちらつく。手段は子供らしい。けれど勝った顔だけが妙に似てしまう。
レギュラスはその様子を見下ろしながら、満足そうに顎を引いた。
「気に入りました?」
問いかけはアランに向いている。
アルタイルが喜んでいる光景を借りて、アランの反応を確かめる。受け入れたか。反発するか。嫌がるか。そういうものを、瞳の揺れで拾っている。
アランは少しだけ視線を逸らし、素直に頷いた。
「……ありがとうございます」
礼を言うべき相手が違うようで、違わない。
絨毯の厚みのために礼を言っているのか。自分が傷つかないための配慮に礼を言っているのか。彼の過剰さを受け止めたことに礼を言っているのか。自分でも曖昧だった。
レギュラスはその曖昧さごと受け取るように、アランの手を持ち上げ、指の甲に短く口づけた。
「ええ。勝手に傷つかないでくださいね、アラン」
優しい声音のまま、勝手に決める。
勝手に縛る。勝手に守る。守るという形を借りて、手の届くところに置いておきたいだけなのに、本人はそれを正しいと信じて疑わない。
アランは小さく息を吐いた。
反論の言葉は浮かぶ。けれど、それを口にすればこの男は余計に固くなる。固くなって、また別の形で手を伸ばしてくる。だからアランは、言葉を飲み込み、代わりにアルタイルの頭を撫でた。
「アルタイル、階段は走らないでね」
「はーい!」
元気な返事。
そしてすぐに、アルタイルはまた言う。
「まま、手を」
アランがその手を取るより先に、レギュラスの手が伸びて、アルタイルのもう片方を取った。
左右から挟まれて、アルタイルはますます嬉しそうに笑う。父と母に繋がれた真ん中で、世界でいちばん安全な場所を手に入れたみたいに。
その笑い声が、厚い絨毯に吸われて柔らかく響く。
屋敷の中の時間が、ほんの少しだけ温かい形に整っていく――そんな錯覚を覚えるほどに。
けれどアランは、指先に伝わるレギュラスの力を感じていた。
優しい。丁寧だ。あたたかい。
それでも、離さない強さがある。
手を繋ぐだけのことが、守られている証であると同時に、捕まえられている証にもなってしまう。
その矛盾を抱えたまま、アランは微笑みの形を崩さずに歩いた。アルタイルの小さな足音が沈む絨毯の上で、家族の輪郭だけが、いっそうくっきりと浮かび上がっていく。
ローランドにとって、あの日から世界は少しだけ歪んだままだった。
歪みは大きな音を立てない。
ただ、視界の隅に常に引っかかり続ける、薄い棘のようなものとして居座る。
アランの顔に、傷がいくつも残っていた。
鼻先の赤み。頬骨の高い位置にうっすらと走る痕。上唇の端に、まだ完全に消え切らない滲み。
治癒はされているのだろう。医務魔法使いが「問題ない」と言ったのだから。けれど――問題は、彼女の肌が元に戻るかどうかではなかった。
ローランドはその傷を見るたびに、胸の奥がきゅっと縮む。
あの口元に、どれだけ「大好きだ」と囁き、どれだけ丁寧に口づけたか。自分の指先が覚えている。
触れた感触も、温度も、呼吸の混ざり方も。そういうものが、傷の輪郭に吸い寄せられるように蘇ってしまう。
そして同時に、あの瞬間――階段の下で咄嗟に漏れてしまった呼び名が、胸の中で何度も反響する。
アラン。
普段なら決して口にしないはずの名前。
「ブラック夫人」と呼ぶ距離感を守り、守り続けなければならないと、自分自身に言い聞かせてきたはずなのに。
あのときだけ、体が先に動いてしまった。叫ぶように喉が開いてしまった。
けれど、それ以降、何事もなかったかのように時間が流れていく。
アランは触れない。
あの呼び名にも。あの日の動揺にも。ローランドが崩れかけた一瞬にも。
ただ普段通り、綺麗に背筋を伸ばし、礼節を纏い、必要な言葉だけを返し、線を引いたまま、遠くにいる。
その姿が、余計に胸を締め付けた。
触れないという行為そのものが、拒絶ではなく処理に見えるからだ。
かつての思い出さえ、もう何の温度も持たない出来事として棚に置かれてしまったみたいで、息が苦しくなる。
そして屋敷の中で、もう一つ変わったものがあった。
レギュラス・ブラックが、アランの手を取る回数が明らかに増えた。
廊下で。階段で。食堂へ向かう短い移動の途中で。
理由はいつも「危ないから」「転ばれたら困るから」という正しさの顔をしている。
けれどローランドには、その正しさの奥に潜むものが見えすぎてしまう。触れておきたいのだ。繋いでおきたいのだ。離したくないのだ。――誰の目にもはっきりと。
それが、ローランドの胸をえぐった。
自分が二度と触れてはいけないものを、当然のように掴み、当然のように連れていく男。
アランが小さく息を吐き、反論を飲み込み、受け入れる。その一連の流れが、まるで夫婦の正しい形として屋敷に馴染んでいく。
自分の居場所が、どんどん薄くなるのが分かった。
さらに残酷なのは、レギュラスが屋敷にいない時だった。
アルタイルが――幼いアルタイルが、父の真似をするようになった。
「まま、手を」
声は可愛らしい。幼い舌で少し甘く転ぶ「まま」という響きは、聞くだけで胸がほどけそうになるほど愛らしい。
けれど、その言い方に、ふと似た影が差す。
お願いではなく、当然のように差し出される小さな手。拒まれる可能性を想定していない目。目的はただ「一緒にいたい」なのに、手段はまるで確保だ。
それが、ローランドには切なくてならなかった。
ブラックの血が濃い。
アランが産んだ子なのに――いや、だからこそ。
アランの優しさと、レギュラスのやり方が、一つの体に同居している。その混ざり方が、いびつで、恐ろしく、そして美しいほど自然だ。
アランはアルタイルの手を取る。
何も言わず、微笑みを崩さず、母として当然のように。
その横顔が、いつも通り整っているのが、痛かった。
傷を抱えた顔で、傷がないみたいに振る舞う。
心が削れているはずなのに、削れていないように動く。
その姿を見ていると、ローランドは何度も自分のせいだという言葉に喉を焼かれる。
――もし自分が、あの日。
「行かないでください」と言えていたら。
圧倒的な縁談を突きつけられた時に、手を伸ばして止めていれば。
あの時、優しさで突き放すのではなく、醜くても必死に縋っていれば。
取り返しのつかない仮定が、何度も頭を巡る。
それでも現実は、静かに進む。
アランはローランドとすれ違っても、礼をするだけだ。
会釈の角度も、言葉の選び方も、距離の取り方も、完璧に整っている。
何も変わらない。変える気もない。
その完璧さが、ローランドを追い詰める。
あの日、叫んでしまった「アラン」という呼び名。
あれがもし、彼女の胸のどこかを揺らしてしまったのなら――彼女は何かを言うはずだ。たとえ拒絶であっても、何かしらの反応があるはずだ。
けれど、ない。
何も、ない。
だからローランドは、最悪の結論に辿り着いてしまう。
もう彼女の中に自分は完全にいないのだろうか、と。
自分の名前が、彼女の中でただの過去になってしまったのだろうか。
思い出す必要のない、触れる価値のない、終わったものとして片付けられたのだろうか。
そんな考えが胸を満たすと、呼吸が浅くなる。
その日も、サロンでアルタイルが遊んでいた。
床に広げた積み木と知育玩具。小さな指で器用に形を合わせ、うまくいかないと眉を寄せて、すぐに別の手を考える。
アランは傍で見守っている。
その頬の傷が、光の当たり方で淡く浮く。
ローランドは、視線を逸らせないまま、静かに声をかけた。
「……腕がきつくなりませんか、ブラック夫人」
本当は、それだけではなかった。
痛くないですか。顔は。眠れていますか。怖くありませんか。
謝りたい。触れたい。抱きしめたい。――全部、飲み込んだ。言える資格がないから。
アランは一瞬だけこちらを見て、丁寧に微笑む。
「いえ、多少あっても。それでも抱いていたいので構いません」
変わらない言葉。変わらない距離。
それは優しさではなく、壁だった。
ローランドは小さく頷き、礼をして、その場を離れる。
去り際、アルタイルの声が背中に届く。
「まま、手を」
アランが手を取る。
アルタイルは満足そうに笑い、母を引いて歩こうとする。
その仕草が、どこまでも父に似ていて、ローランドの胸がぎゅっと痛む。
そして、ふと。
アランの指先が一瞬だけ迷ったように見えた気がした。
気のせいかもしれない。
願望が作った幻かもしれない。
けれどローランドは、その一瞬に縋りたくなる。
自分が完全に消えたわけじゃない、と。
そう願うのは、あまりにも勝手で、情けなくて、惨めだった。
それでも胸は、彼女の傷を見た時と同じように、締め付けられたまま離れてくれなかった。
アランの顔の傷は、いつの間にか「痛々しさ」から遠ざかっていた。
鼻先の赤みは薄れ、頬骨の高い位置に残っていた痕も、光が斜めに当たったときにだけ、ほんのりと浮く程度になった。上唇の端の滲みも、口紅を引けば隠れてしまう。治癒というものは、残酷なくらい静かに進む。
それでも――それでも、見慣れることはなかった。
午後のサロンは、分厚い絨毯が足音を吸い、窓辺のレース越しに淡い日差しが落ちていた。
アルタイルは机の上に広げた教材と向き合い、小さな指で数字の札を並べ替えている。五歳にしては出来すぎた集中力だ。躓き方さえ賢い。間違えた瞬間に癇癪を起こすのではなく、眉を寄せて、別の道を探す目をする。まるで、勝ち筋を計算するみたいに。
その横でローランド・フロストが、距離を崩さずに教えていた。
声は丁寧で、穏やかで、子どもの理解を急かさない。手が伸びそうになったら、言葉で止める。褒めるべきところは褒め、飽きの兆しが見えたら話題を切り替える。家庭教師として文句のつけようがない。
――文句のつけようがない。だからこそ、不愉快だった。
レギュラスが屋敷に戻ったのは、いつもより少し早い時間だった。
扉が開いた瞬間から、屋敷の空気が「当主の帰還」に合わせて整うのがわかる。使用人たちの動きが揃い、音の立て方が静まっていく。
サロンに足を踏み入れた途端、まず目に入ったのはアルタイルだった。机に向かう背中。小さな肩の動き。次に見えたのはアランの横顔――そして、その向こう側にいる男の視線だった。
ローランド・フロストは、教えているふりをしながら、アランを見ていた。
あからさまに顔を向けているわけではない。けれど視線の熱だけが、妙に隠しきれていない。視線というものは、本人が思っているほど上品に嘘をつけない。
それを見た瞬間、腹の奥がひやりとした。
怒りの熱ではなく、冷たいものが一気に流れ込む感覚だった。
あの引き出し。
無造作に詰められた魔法写真。
シーツの白さ。肌の白さ。笑う唇。至近距離の睫毛の影。
拾い上げた写真の角が、指先に触れたときの冷たさ。あの時、血が引いた感覚だけが鮮明に残っている。
自分のいない間に、自分の知らない二人が出来上がっているのではないか。
そんな考えが頭を掠めるだけで、喉の奥が乾いた。
レギュラスは表情を崩さないまま、サロンの中央へ歩いた。
足取りは一定。目線は落とさず、しかし鋭くも見せない。ここで露骨に不愉快を表に出すことは簡単だ。けれどそれは、負け犬の吠え方に近い。そんなものに自尊心が耐えられない。
「ただいま、アルタイル」
声だけは柔らかく落とす。
アルタイルが顔を上げた瞬間、ぱっと花が咲くように笑った。
「ぱぱ!」
椅子から飛び降りて駆け寄ってくる。
レギュラスはしゃがみ込み、勢いよく抱きついてきた息子を受け止めた。細い身体のくせに、抱きつく力だけは年々増している。頬を寄せると、まだ甘い匂いがした。
「途中で投げ出していませんか?」
「してない! さいごまで!」
「偉いですね。フロスト殿に感謝しないと」
そう言いながら、アルタイルの髪を撫でる。
その言葉は礼儀の形をしているのに、心の奥では別の意味を帯びていた。ここがどこで、誰の屋敷で、誰が「感謝する側」なのか。言外に、釘を打ち込むみたいに。
ローランドは立ち上がり、背筋を正して一礼した。
「お帰りなさいませ、ブラック様」
丁寧な声。完璧な礼節。
それが余計に、腹立たしい。礼節を纏ったまま、やることだけはやった男の礼節など、薄紙みたいにしか思えない。
「ええ。アルタイル、続きを聞かせてもらって。僕は少し、妻と話します」
アルタイルは頷き、机へ戻っていく。
レギュラスは立ち上がり、視線だけをアランへ向けた。
アランは今日も美しかった。
傷が目立たなくなった分、整った輪郭が際立つ。口元の動きに影が差すたび、そこに残る薄い痕が見えて、胸が微かにざわつく。勝手に傷つかないでください、と言ったことを思い出す。あれは怒りではなく、恐れに近かったのだと今なら分かる。
「アラン、少し」
「はい」
返事はいつも通りだ。
表情も、声の温度も、崩れない。こちらの心を読んでいるのか、読んでいないのかも分からないまま、滑らかな所作で立ち上がり、サロンの端――ローランドから一歩距離の取れる位置へ移動した。
レギュラスもそれに合わせる。
距離を作るのは、配慮ではない。線を引くためだ。線を引くのは、支配を明確にするためだ。
「……傷、だいぶ引きましたね」
「はい。医務魔法使いのおかげです」
「二度とああいうことはないようにしましょう。絨毯も増やしましたし」
「ありがとうございます、レギュラス」
その「レギュラス」の呼び方が、余計に神経を逆撫でる。
こちらが望んだ通りの距離感。望んだ通りの言葉。望んだ通りの礼儀。――だからこそ、どこかに嘘があるようで、確かめずにはいられない。
レギュラスは視線を、わざとローランドの方へ一瞬だけ滑らせた。
男はすぐ目を逸らした。配慮の顔をして。あるいは、何かを隠す顔をして。
その挙動が、決定打になった。
胸の底に沈んでいた屈辱が、形を持って浮き上がる。
奪われる。踏み躙られる。笑われる。
そんなものが、自分の人生に存在していいはずがない。
レギュラスは微笑んだ。
柔らかく、上品に。――誰にも文句を言わせない微笑み。
「フロスト殿とは、変わりはありませんか?」
問いは軽い雑談の形をしていた。
けれど、答えを間違えた瞬間に刃が落ちる問いでもある。
アランは、ほんの一瞬だけ瞬きをした。
迷い。
それはほんの小さな揺れだったのに、レギュラスの中で大きな音を立てた。
何を迷った。
何が、その迷いの中に入っている。
「……アルタイルの良き先生ですよ」
アランは微笑む。崩れない。正しい答えを選んだつもりなのだろう。
それでも、レギュラスの中の冷たいものは消えない。
「そうじゃなくて、ですよ」
声を荒げない。
語尾も尖らせない。
ただ、言葉の置き方だけを変える。逃げ道を塞ぐように。
「先生としての評価じゃなくて。……あなたの心に、引っかかりがないか、と聞いています」
アランの睫毛がわずかに震えた。
返事がすぐに出ない。その沈黙が、何より不安を煽る。
レギュラスは、さらに一歩だけ近づいた。
指先で触れるほどの距離ではない。だが、言葉だけで圧をかけるには十分な距離だ。
「僕の屋敷ですよ、アラン」
囁くように言う。
けれどそれは、優しさの囁きではない。確認だ。宣告だ。ここがどこで、誰が何を持っているのか、思い出させるための。
「目の前にいるのは、僕の妻です。僕の息子です。……分かっていますよね」
言葉の表面は静かだ。
内側だけが、ざらりと荒れていく。
アランは一度、唇を結んだ。
上唇の端に残った痕が、かすかに動く。そこに触れたことのある記憶が、いまこの瞬間、意地悪く蘇る。
「分かっています。……レギュラス」
「だったら、僕が聞いていることに答えてください」
微笑みは崩さない。
崩さないまま、追い詰める。
「フロスト殿の視線が不愉快なんです。僕がそう感じた。だからあなたの口から聞きたい。――あなたは、どうです?」
アランは息を吸った。
答えの形を探すみたいに。正解を選ぶみたいに。
その仕草に、腹が立った。
この女はいつもそうだ。
正しさのカードを切って、こちらの怒りを「不当なもの」にすり替えようとする。自分を守るために。息子を守るために。――そして、心だけはどこにも差し出さないために。
「……特に、何も」
アランはそう言った。
穏やかな声だった。まるで、天気の話をするように。
レギュラスは笑ってしまいそうになる。
何も、があるわけがない。
迷いがあった。沈黙があった。視線があった。
「へえ」
短く落とす。
それだけで、空気が少しだけ冷える。
「じゃあ、あれは何です?」
視線で示す。
ローランドが、今もちらりとこちらの様子を窺っていること。アランの横顔に、ほんの僅かに目を滑らせたこと。
「僕がいない間に、僕の知らない二人が出来上がっているんじゃないかって――そういう想像をさせるのは、やめてほしいんです」
言葉は丁寧で、穏やかで、正しい。
それなのに、逃げ場がない。
アランの喉が小さく動いた。
声を出せるのに、出す言葉が見つからない時の仕草だと、レギュラスはもう知っている。
「……そんなこと、ありません」
ようやく出た言葉は、否定だった。
けれど、その否定は“感情”ではなく“処理”に聞こえた。
レギュラスは微笑んだまま、少しだけ首を傾げる。
「なら、僕の目を見て言ってください」
優しい命令。
拒めない要求。
アランがゆっくり顔を上げる。翡翠の瞳が、こちらを映す。
その瞬間、胸の奥が熱くなるのと同時に、冷たくもなる。美しい。欲しい。――そして奪われたくない。
「……僕が恐ろしいんですか?」
唐突な問い。
けれど唐突に見えるだけで、流れは一本に繋がっている。迷いを切り裂き、核心だけを引きずり出す問い。
アランの瞳がわずかに揺れた。
否定するべきか。正直に言うべきか。どちらが正解か分からない揺れ。
その揺れが、レギュラスを苛立たせる。
同時に、楽しくもさせる。揺れた場所こそ、触れる価値があるからだ。潰すべき場所だからだ。
「……怖いわけでは」
「じゃあ、何です」
優しく詰める。逃がさない。
声の温度だけを保ったまま、言葉の先端を研いでいく。
「僕が見ていないところで、僕の妻が誰かと出来上がっている可能性を想像するのが、どれだけ不愉快か。――分かりませんか?」
アランの頬がほんのり赤くなる。
羞恥か、怒りか、どちらかを隠すための色だ。
「分かります」
「なら、次は迷わないでください」
さらりと言う。
それが最も残酷だと知っている。
「フロスト殿が良き先生かどうかじゃない。あなたが、僕の妻として、僕の屋敷の空気を乱さないかどうかです」
アランが唇を噛み、けれどすぐに整え直した。
その整え方まで、美しいのが腹立たしい。
「……気をつけます」
「ええ。そうしてください」
レギュラスはその言葉で会話を閉じた。
閉じたまま、何も終わっていないことだけを残す。次に迷ったら、次はもっと深く踏み込む――そう予告するように。
そして、わざと自然な仕草でアランの髪に指を伸ばす。
頬の傷に触れないように、慎重に。
それが愛しさに見えるのが、我ながらよく出来ていると思った。
「ほら、アルタイルが見ています。笑って」
アランは、ほんの少しだけ息を飲んでから、母の顔を作った。
完璧な微笑み。完璧な落ち着き。完璧な妻。
その完璧さに、胸の奥がざらつく。
満足と不安が同じ場所で擦れ合い、音を立てる。
レギュラスは微笑んだまま、サロンの中央へ戻る。
アルタイルの頭を撫で、ローランドへ視線を向ける。
「フロスト殿。続き、お願いします。――僕の息子を、頼みますね」
礼儀正しい言葉。
けれど、意味は一つしかない。
ここがどこか。
誰の屋敷か。
目の前にいるのが誰の妻で、誰の子か。
そして――奪われるものが、この人生に存在していいわけがないことを。
静かに、冷静に、逃げ場なく、わからせるための言葉だった。
寝室の灯りは、夜更けの静けさを濃くするだけの、柔らかな橙だった。
窓の外では風が枝を揺らし、薄い雨が硝子を撫でる音がする。暖炉の火は弱く、ぱちりと小さく弾けるたびに、壁に影がゆっくりと伸びたり縮んだりした。
寝台の縁に置かれた銀の盆には、一本の羽ペンが横たわっている。
インク壺も紙束もない。あるのは、白い羽の細さと、軸の冷たい光沢だけだ。まるで“それ”自体が、言葉の代わりに皮膚へ触れるために作られた道具であることを、最初から知っているみたいに。
アランがそれに気づいた瞬間、息が浅くなった。
痛みの記憶が先に身体へ走る。腕の内側、柔らかな皮膚の奥に残った、あの灼けるような線。時間が経てば薄れ、いつか完全に消えてしまうのだと思っていた痕跡が、ここ数日で驚くほど静かに癒えつつある。癒えてしまうことが、救いのはずなのに。
レギュラスは何も言わず、盆の上から羽ペンを取った。
指先はいつも通り丁寧で、物を乱暴に扱う癖はない。だから余計に、その所作が恐ろしい。優雅な動きの中に、命令だけが正しく埋め込まれている。
「書いてください、アラン」
淡い声だった。
命令というより、頼み事の形をした声。けれど、拒否の余地がないことだけは、寝室の空気が先に理解してしまう。
アランは一歩、半歩、呼吸の分だけ後退した。
背中に触れるのは寝台ではなく、室内の温度そのものだ。逃げ場がない、と告げるような暖かさ。
「……なぜです。もう、何も……」
言い終える前に、レギュラスが重ねる。
声音は崩れないまま、問いの形で首を絞めてくる。
「もう何もってなんです? 何をです?」
ゆっくりと瞬きをしながら、笑みだけが薄く貼りついている。
答えに迷う時間さえ、逃避だと見なす顔。
アランの喉が震えた。
理屈はある。言い分もある。けれど、この男の前で言葉を整えようとするほど、言葉が喉に張りつく。うまく言えば言うほど、逆に切り取られて、刺し返されるのを知っている。
「レギュラス……」
名前を呼ぶしかできない。
呼べば一瞬だけ、刃の角度が変わるかもしれないと、どこかで期待してしまう自分が悔しい。
レギュラスはその呼びかけに、満足したように目を細めた。
その満足は優しさではなく、従わせた事実への確信に近い。
「もう何もは、僕が決めることじゃないですか」
羽ペンの軸が、アランの視界の端で白く光った。
それがどれだけ軽いものでも、今は短剣のように重たく見える。
「あなたの腕、見せて」
「……治りかけているだけです」
「だから困るんですよ」
さらりと言う。
困る、という言葉の温度が妙に穏やかで、アランはぞくりとした。怒っているからではない。怒りよりももっと厄介な、当然の声だ。
レギュラスは距離を詰めた。
触れる直前で、いったん止まる。押し倒すでも、掴み上げるでもなく、ただ正しい距離へ滑り込む。逃げるという選択肢が、相手の中から自然に消える距離。
「忘れられるのが嫌なんです」
囁くように言い、次の瞬間、言葉を変える。
「……あれをなかったことにされるのは、こちらが我慢ならない」
冷たいのに、感情は熱い。
その矛盾が、レギュラスという男の形だった。
自分が約束させたこと。
自分が刻ませた規則。
それが薄れるというのは、支配が薄れるというのと同じだ。自分のいないところで、二人の間の秩序が普通へ戻っていくのが許せない。普通の夫婦のように、なあなあで済まされることが。あの屈辱が、時間に溶けて消えてしまうことが。
レギュラスは、アランの手首を取った。
力は強くない。強くないのに、ほどくことができない。指の置き方が、逃げる方向を封じている。
「痛いのは、分かっています。だから、早く終わらせましょう」
慈愛めいた言葉が、命令の刃を隠す。
アランは反射で首を振った。
「……お願い、もう、やめて。私は……」
「何を“やめて”なんです?」
また、問い。
答えを選ばせるふりをして、答えの形を狭めていく問い。
「罰ですか? 約束ですか? それとも、僕があなたに触れることですか?」
羽ペンの先が、アランの視線を奪う。
そこにインクはついていない。紙もない。だからこそ、皮膚が紙になる。
アランは唇を噛み、視線を逸らした。
逸らした先に、暖炉の火が揺れている。火は何も責めない。ただ燃えて、ただ温める。――こんな夜に限って、世界が静かすぎる。
「……約束の内容は、覚えています」
言葉にした瞬間、腕の奥がじくりと疼いた。
癒えかけた痕が、記憶の中で勝手に疼きだす。
レギュラスの指先が、そこへ軽く触れた。
触れ方だけは優しい。まるで痛みを撫でて慰めているみたいに。けれど、その慰めが、次の痛みの準備であることを、アランは知っている。
「覚えているなら、書けますね」
レギュラスは羽ペンをアランの手に渡した。
手のひらに落ちる軽さが、逆に残酷だった。こんなに軽いものに、身体が怯えている。
「……インクも紙もいりませんよ」
レギュラスがアランの背後へ回り込む。
耳元に近づく気配。髪を撫でる息。温度のある距離。
「僕が言うことを、そのまま書いてください」
声が頭上から落ちてくる。
命令は、耳から入るのではなく、皮膚の奥へ直接落ちてくるようだった。
「……やめて、レギュラス」
「やめてじゃなくて。……書いて」
レギュラスは笑わない。
笑わないのに、勝っている。
アランの腕を自分の掌で支え、内側の柔らかいところを上に向けさせる。
指先が震える。羽ペンの先が、何もない空中で一度止まる。躊躇が、呼吸に出る。
「――ローランド・フロストに、近づきません」
レギュラスの声が静かに落ちた。
アランは目を閉じ、羽ペンを滑らせた。
空をなぞったはずの先が、次の瞬間、皮膚の奥へ沈むように熱を残した。
痛みは一瞬ではない。
細い線が、じわりと深く浸透していく。熱いというより、冷たい炎に焼かれる感覚。皮膚の表面ではなく、もっと内側――治るという逃げ道を許さない場所へ、文字が縫い込まれていく。
「……っ」
声が漏れる。
アランの肩が小さく跳ねるのを、レギュラスの指が抑えた。抑える力は強くない。それでも、動けない。
「そう。上手です」
褒める声が甘い。
甘いまま、痛みを正当化してくる。
羽ペンが進むたび、腕に淡い光が滲む。
文字は黒ではなく、皮膚と同じ色をしているのに、確かに読める。身体がそれを記憶してしまうから。視覚より先に、神経が読んでしまうから。
レギュラスは、最後の一画が刻まれる瞬間まで見届けてから、アランの手をそっと離した。
そして次の言葉を、容赦なく落とす。
「もう一つ」
アランが息を飲む。
痛みの余韻が腕に残っている。泣いてしまえば楽になるのに、泣いたら負ける気がして、涙が出る前に堪えてしまう。そういう“強情”を、きっとこの男は待っている。
「……もう、十分でしょう」
「十分かどうかは、僕が決めます」
レギュラスはアランの頬に触れた。
傷の痕に当たらないように、慎重に。上唇の端の痕を避けるように、指をずらす。その気遣いだけが、本物みたいで胸が苦しくなる。
「あなたの顔に傷が入るのは嫌なんです。――だから、腕にしましょう」
やさしさの形をした、選別。
どこまでも美しさを守りながら、所有だけを深くする言葉。
レギュラスはアランの耳元へ唇を寄せ、囁いた。
「書いてください、アラン。あの時と同じように」
声に熱が混じる。
怒りではない熱。執着の熱。忘れられることへの恐怖が、支配の形で表に出てくる熱。
「……何を、書けばいいんです」
アランがようやく言葉を選んだ。
問う形にしたのは、命令に見えないようにするためでもあり、少しでも主導権を取り戻すためでもあった。
レギュラスはその小さな抵抗を、可笑しがるように目を細めた。
「いい子ですね。ちゃんと聞ける」
褒めて、縛る。
その順番を、間違えない。
「僕の屋敷で、僕の妻として、僕の秩序を乱しません――そう書いて」
アランは息を詰めた。
腕の痛みが、再び未来の形を取って迫ってくる。
「……レギュラス、お願い……」
「お願い、の次に。――書いて」
羽ペンが再び、空を滑る。
白い羽が動くたび、皮膚の奥に熱が落ちて、文字が沈んでいく。治癒呪文が届かない場所へ。消えかけた記憶を引き戻すために。忘れたふりを許さないために。
アランは歯を食いしばり、震える呼吸で書き続ける。
終わった瞬間、腕の内側が脈打つ。そこに刻まれた言葉が、痛みと一緒に誓いになる。
レギュラスは、出来上がった文字列を眺めるように指先を滑らせた。
触れ方は丁寧で、痛みの輪郭をなぞるみたいに静かだ。アランの肩が小さく震える。
「……よくできました」
その言葉と同時に、レギュラスがアランのこめかみに短い口づけを落とした。
罰の直後に与えられる甘さは、甘さではなく、逃げ道のふりをした鎖だ。
「ほら、覚えましたね」
アランは目を閉じた。
まぶたの裏に、ローランドの優しい声が浮かぶ。あの部屋の柔らかい光が浮かぶ。
そして、そのすべてを踏みつけて上書きしてくるように、レギュラスの声が近い。
「忘れないでください。――僕の妻でしょう?」
その問いは、肯定しか許さない。
アランは唇を開き、声を震わせた。
「……はい」
その一言で、寝室の空気が正しい場所に収まってしまう。
痛みも、屈辱も、怒りも、胸の奥へ押し込められ、代わりに“妻”が立つ。
レギュラスは満足そうに微笑み、羽ペンを盆へ戻した。
白い羽が静かに横たわる。まるで、次の言葉を刻むのを待っているみたいに。
そしてその静けさの中で、アランの腕の内側だけが、熱く、鈍く、確かに脈打っていた。
癒えかけた過去が、また一段深い場所へ沈められていくように。
なかったことにされるのを許さない男の手によって。
窓から差し込む午後の光が、白いカーテン越しに柔らかく揺れて、寝台の縁や小さなサイドテーブルの銀縁に薄い金色を置いていく。静かなはずの部屋だった。だが、静けさの中心にいる男の呼吸だけが、どこか落ち着かなかった。
アランは枕を少し高くして横になっている。髪はほどかれたまま肩に落ち、頬の高い位置に薄く残る赤みが、整った輪郭の上でやけに目立った。鼻先の擦り傷は消毒のせいか、艶を帯びている。上唇には、乾きかけた血の線――きわめて小さな痕跡が、あまりにも無遠慮に「傷」を主張していた。
レギュラスはその前に立ったまま、しばらく座ることすら忘れていた。
平静を装う癖は身についているのに、視線だけが落ち着かない。傷へ、唇へ、頬へ、また唇へ。自分が見たくないものを、自分の意思で何度も確認してしまう。
「……痛そうです、アラン」
抑えた声だった。
怒りの棘も、詰問の癖も混じらない。ただ、純粋に嫌だという感情だけが滲んでいた。自分のものに傷がつくのが嫌だと、あまりにも率直に。
アランは小さく瞬きをし、ほんの少しだけ笑う。完璧な微笑みではない。今は作りきれない柔らかさだった。
「消毒していただきました」
彼女の声は落ち着いている。落ち着かせようとしている。自分の不注意が屋敷の空気を乱したことを、彼女はもう悔いている。その気配があるだけで、レギュラスの胸の底がいっそうざらついた。――謝らなくていいことまで、すぐに謝る癖。痛みより先に、場を整えようとする癖。
レギュラスはようやく椅子に腰を落とすが、その動きもどこかぎこちない。指先が膝の上で落ち着かず、ふと伸びては引っ込む。触れて確かめたい。だが触れて痛ませたくない。矛盾が身体の中で喧嘩している。
「骨は折れてないんですよね」
確認という名の、もう一度聞き直す執着。
医務魔法使いが「問題ない」と言ったばかりなのに、言葉として聞き直さずにはいられない。目で見ても安心できない。自分の口で整え直さないと、頭の中が落ち着かない。
「ええ。大丈夫みたいです」
アランが同じ答えを返す。
その声の穏やかさに、レギュラスの胸が少しだけ緩む。緩むからこそ、次の言葉が出る。緩みを保持したくて、さらに安全を積み上げようとする。
「階段に敷く絨毯は、もう少し厚みを増やしましょう」
言い終えてから、レギュラスは自分の語尾に含まれた決定を自覚した。
誰にも相談しない。誰にも許可を求めない。屋敷の仕様は自分が決める。そういう男だ。けれど今日は、その癖が支配欲ではなく、恐怖の逃げ道になっている。
「万が一、足を踏み外した時――大事にならないように」
万が一という言葉が、部屋の空気を少し冷たくした。
アランの皮膚が、ほんのわずかに粟立つのが見えた気がした。起きたことを蒸し返されるのは、彼女の心をすり減らす。だから彼女は、いつもならさらりと流す。今日も流そうとする。
「大丈夫です、レギュラス。私の不注意でした」
自分を責める言い方。
レギュラスはそれが嫌だった。あまりにも嫌で、息の吐き方が乱れるほどだ。自分が責めたいのは絨毯で、段差で、運の悪さで、何より自分の手が間に合わなかったことなのに。彼女が自分を罰するのを、見ていられない。
「……不注意?」
低く繰り返すだけで、言葉の刃になりかける。
だが、今日は刃を立てる方向が違った。レギュラスはアランではなく、状況を斬ろうとする。自分の無力を斬ろうとする。
「唇なんて……動きがある部位でしょう」
言いながら、視線がまた上唇に吸い寄せられる。
そこは言葉を紡ぐ場所だ。食事をする場所だ。笑う場所だ。――そして、口づけを受ける場所だ。自分の欲と日常が重なっている場所に、傷がある。それが堪えがたい。
「痛みが、引かないでしょうに」
アランは黙って頷きかけて、やめた。
頷けば「大丈夫」と言えない。言えばまた心配される。だから、最も無難な言葉を選ぶ。いつものように。
「心配をかけました」
その瞬間、レギュラスの眉間がわずかに寄る。
心配をかけた、ではない。心配したのは自分の勝手だ。勝手に怯えて、勝手に想像して、勝手に怖がっているのは自分だ。それを彼女の責任にするような言葉が、どうにも許せない。
「ええ」
一拍置く。
その「ええ」は肯定ではなく、呼吸を整えるための音に近い。口に出すことで、胸のざらつきを一旦飲み込もうとする。だが飲み込めないまま、次が続く。
「……勝手に、傷つかないでください」
大袈裟だと分かっている。
理不尽だとも分かっている。
それでも言ってしまう。自分の愛した女の顔に、傷が入るのが嫌だった。嫌で嫌で、胸の奥が幼いほどの独占欲でいっぱいになる。彼女は自分のものだという理屈ではなく、ただ、見たい美しさが壊れるのが耐えられないという本能に近い。
アランは少し目を丸くした。
驚きと、呆れと、わずかな温かさが同時に滲む。レギュラスがこういう弱さを見せるのは、まだ慣れない。慣れないから、息が詰まる。けれど――その弱さが、彼女の胸のどこかを柔らかく撫でるのも確かだった。
「……努力します」
冗談めかせない、静かな返事。
茶化せば、この男は傷つく。傷つけば、今度は棘になる。そういうことを、アランは知っている。
レギュラスは堪えきれず、そっと手を伸ばした。
触れ方は慎重だった。指先が髪を避け、頬に触れる直前で止まる。消毒した箇所に触れれば痛むかもしれない。傷に触れれば、彼女が小さく顔を歪めるかもしれない。それが怖い。怖いのに、触れずにはいられない。
結局、触れたのは頬ではなく、顎の下だった。
傷から遠い場所。皮膚の薄い、温度の分かる場所。そこに指を添えて、顔の向きを少しだけ変える。まるで光の当たり方まで確かめるように、彼女の顔を眺め直す。
「……本当に、嫌です」
呟きは小さかった。
命令ではない。責めでもない。
それでも、言葉の重みだけは重い。自分の中の所有と愛情が、同じ方向に流れている音だった。
アランは視線を落とし、やがてレギュラスを見る。
翡翠の瞳が、珍しく揺れた。傷の痛みではなく、男の心配の温度に揺れる。
「ごめんなさい……」
反射で出た言葉だった。
しかし、レギュラスはそれを許さなかった。許せなかった。謝罪で片づけられるのが嫌だった。自分が怖がったことも、彼女が傷ついたことも、“いつもの形”で収められるのが嫌だった。
「謝らないでください」
静かに遮る。
その声は優しいのに、譲らない。
「……次からは、手を貸させて」
助けると言わないところが、レギュラスだった。
手を貸す。自分が必要だと、さりげなく正当化する言い方。だが、求めているのは正当化じゃない。自分の恐怖を、彼女の存在で鎮めたいだけだ。
アランは小さく息を吸った。
そして、ほんのわずかに頷く。
「はい」
その一音だけで、レギュラスの胸の奥がふっと緩む。
愛しているという言葉を言わなくても、機嫌を取れと言わなくても。彼女が「はい」と言うだけで、世界が正しい位置に戻った気がする。――そんな自分の単純さが情けなくて、同時に救いでもあった。
レギュラスは、アランの額に口づけた。
傷を避け、消毒の匂いを避け、温度だけを残すような、短い口づけ。慈しみと、苛立ちと、恐怖と、独占が、すべて混ざっている。
「……絨毯は厚くします」
もう一度、決める。
起きたことを二度と起こさないために。自分の無力を二度と味わわないために。彼女の顔に、これ以上「嫌なもの」を増やさないために。
アランはその横顔を見つめて、言葉にできない感情を飲み込んだ。
この男は残酷だ。許せないことも、数えきれない。
それでも――こうして自分の傷ひとつに、過剰なほど心を乱し、屋敷の仕様まで変えようとするところだけは、どうしようもなく、レギュラス・ブラックそのものだった。
翌日から、屋敷の空気が少しだけ変わった。
変わったのは、誰かの機嫌でも、言葉の棘でもない。
レギュラスの、手の出し方だった。
廊下を歩くとき。階段に差しかかるとき。サロンから食堂へ移るとき。
ほんの数歩の移動でさえ、いつの間にか彼はアランの半歩前に立ち、視線を床へ落として確認し、当然のように手を差し出した。
「……手を」
それは命令の短さで、けれど声色だけが柔らかかった。
彼の中で「必要」が決定されてしまっている。こちらの都合や気分や、そういうものは後回しだという顔をしているくせに、指先だけは丁寧に優しい。
アランは一瞬立ち止まる。
その差し出された手を、拒むべきか、受けるべきか、迷う――というより、迷う素振りを見せることそのものが、彼を刺激すると分かっているから迷えない。分かっているのに、胸が微妙にざわつく。
「子供じゃありません、レギュラス」
小さく眉を寄せて言う。
責めたいわけではない。ただ、こちらにも体裁がある。自分で歩ける。いつも通りにしていたい。転んだこと一つで、すべての扱いが変わるのは息苦しい。
レギュラスは、笑った。
あの、人を追い詰める時に浮かべる笑みとは違う。もっと短くて、もっと軽い。けれど“譲らない”のだけは同じだ。
「じゃあ……大人として、手を」
言い換えただけだった。
言い換えた上で、結局欲しいものは同じだと示す。逃げ道を与えたふりをして塞ぐ。どこまでも彼らしい。
アランは唇を噛み、ため息を吐く代わりに、手を重ねた。
触れた瞬間、指先がわずかに締まる。握りしめるほど強くはない。だが離さない強さがある。まるで、自分の身体の一部になってしまったものを確かめるように。
そしてその様子を、床すれすれの位置から見上げていた小さな影が、すぐに真似をした。
「まま、手を」
アルタイルだった。
ふっくらした頬に期待を詰めて、ちいさな掌をぱっと差し出す。父と同じ言い方。父と同じ間。まだ言葉の意味の半分も分かっていないのに、響きと形だけを、驚くほど正確にコピーしている。
アランの胸の奥が、くすぐったいように痛む。
可愛い。たまらなく可愛い。けれど同時に、ぞくりとする。
この子は、レギュラスの血を濃く受け継いでいる。目的は愛らしい。「まま」と繋がっていたいだけ。なのに、差し出し方が、もう当然のそれだ。
アランが屈み、アルタイルの手を取ると、アルタイルは満足そうに目を細めた。
そのまま両手に挟んでぶんぶん振り、笑い声を上げる。父の真似をしているのに、やっていることはまだ無邪気な子供そのものだった。
「ほら、まま。こっち」
先導するみたいに引っ張る。
アランはつられて笑ってしまい、次の瞬間、レギュラスの視線がふっと緩むのが分かった。あの男は、アランの笑いが見たい。アルタイルがそれを引き出せるならなおさら、許してしまう。
その日の午後、宣言通り絨毯が替わった。
廊下も階段も、今までより明らかに沈む。
足を乗せると、じわりと柔らかく受け止められ、音が吸われる。屋敷の静けさがさらに深くなるような感触だった。厚みが増した分、階段の角の鋭さも和らいでいる。手すりの金具は磨かれ、光を受けて落ち着いた鈍い輝きを放っていた。
アルタイルは絨毯の上に立った途端、目を丸くした。
「……ふわふわ!」
そのまま、足踏みを始める。
ぺた、ぺた、ぺた。小さな足が沈んで戻る感覚が楽しくてたまらないのだろう。何度も踏み、跳ね、しゃがんで指で撫で、頬まで押し付けようとしてアランに止められる。
「だめです、アルタイル。顔をこすらないで」
「でも、ふわふわ!」
「ふわふわなのは分かります。分かりますけど」
言いながらアランが笑うと、アルタイルはさらに得意げになった。
笑わせた、という成果を覚えた顔をする。ここでもまた、父の影がちらつく。手段は子供らしい。けれど勝った顔だけが妙に似てしまう。
レギュラスはその様子を見下ろしながら、満足そうに顎を引いた。
「気に入りました?」
問いかけはアランに向いている。
アルタイルが喜んでいる光景を借りて、アランの反応を確かめる。受け入れたか。反発するか。嫌がるか。そういうものを、瞳の揺れで拾っている。
アランは少しだけ視線を逸らし、素直に頷いた。
「……ありがとうございます」
礼を言うべき相手が違うようで、違わない。
絨毯の厚みのために礼を言っているのか。自分が傷つかないための配慮に礼を言っているのか。彼の過剰さを受け止めたことに礼を言っているのか。自分でも曖昧だった。
レギュラスはその曖昧さごと受け取るように、アランの手を持ち上げ、指の甲に短く口づけた。
「ええ。勝手に傷つかないでくださいね、アラン」
優しい声音のまま、勝手に決める。
勝手に縛る。勝手に守る。守るという形を借りて、手の届くところに置いておきたいだけなのに、本人はそれを正しいと信じて疑わない。
アランは小さく息を吐いた。
反論の言葉は浮かぶ。けれど、それを口にすればこの男は余計に固くなる。固くなって、また別の形で手を伸ばしてくる。だからアランは、言葉を飲み込み、代わりにアルタイルの頭を撫でた。
「アルタイル、階段は走らないでね」
「はーい!」
元気な返事。
そしてすぐに、アルタイルはまた言う。
「まま、手を」
アランがその手を取るより先に、レギュラスの手が伸びて、アルタイルのもう片方を取った。
左右から挟まれて、アルタイルはますます嬉しそうに笑う。父と母に繋がれた真ん中で、世界でいちばん安全な場所を手に入れたみたいに。
その笑い声が、厚い絨毯に吸われて柔らかく響く。
屋敷の中の時間が、ほんの少しだけ温かい形に整っていく――そんな錯覚を覚えるほどに。
けれどアランは、指先に伝わるレギュラスの力を感じていた。
優しい。丁寧だ。あたたかい。
それでも、離さない強さがある。
手を繋ぐだけのことが、守られている証であると同時に、捕まえられている証にもなってしまう。
その矛盾を抱えたまま、アランは微笑みの形を崩さずに歩いた。アルタイルの小さな足音が沈む絨毯の上で、家族の輪郭だけが、いっそうくっきりと浮かび上がっていく。
ローランドにとって、あの日から世界は少しだけ歪んだままだった。
歪みは大きな音を立てない。
ただ、視界の隅に常に引っかかり続ける、薄い棘のようなものとして居座る。
アランの顔に、傷がいくつも残っていた。
鼻先の赤み。頬骨の高い位置にうっすらと走る痕。上唇の端に、まだ完全に消え切らない滲み。
治癒はされているのだろう。医務魔法使いが「問題ない」と言ったのだから。けれど――問題は、彼女の肌が元に戻るかどうかではなかった。
ローランドはその傷を見るたびに、胸の奥がきゅっと縮む。
あの口元に、どれだけ「大好きだ」と囁き、どれだけ丁寧に口づけたか。自分の指先が覚えている。
触れた感触も、温度も、呼吸の混ざり方も。そういうものが、傷の輪郭に吸い寄せられるように蘇ってしまう。
そして同時に、あの瞬間――階段の下で咄嗟に漏れてしまった呼び名が、胸の中で何度も反響する。
アラン。
普段なら決して口にしないはずの名前。
「ブラック夫人」と呼ぶ距離感を守り、守り続けなければならないと、自分自身に言い聞かせてきたはずなのに。
あのときだけ、体が先に動いてしまった。叫ぶように喉が開いてしまった。
けれど、それ以降、何事もなかったかのように時間が流れていく。
アランは触れない。
あの呼び名にも。あの日の動揺にも。ローランドが崩れかけた一瞬にも。
ただ普段通り、綺麗に背筋を伸ばし、礼節を纏い、必要な言葉だけを返し、線を引いたまま、遠くにいる。
その姿が、余計に胸を締め付けた。
触れないという行為そのものが、拒絶ではなく処理に見えるからだ。
かつての思い出さえ、もう何の温度も持たない出来事として棚に置かれてしまったみたいで、息が苦しくなる。
そして屋敷の中で、もう一つ変わったものがあった。
レギュラス・ブラックが、アランの手を取る回数が明らかに増えた。
廊下で。階段で。食堂へ向かう短い移動の途中で。
理由はいつも「危ないから」「転ばれたら困るから」という正しさの顔をしている。
けれどローランドには、その正しさの奥に潜むものが見えすぎてしまう。触れておきたいのだ。繋いでおきたいのだ。離したくないのだ。――誰の目にもはっきりと。
それが、ローランドの胸をえぐった。
自分が二度と触れてはいけないものを、当然のように掴み、当然のように連れていく男。
アランが小さく息を吐き、反論を飲み込み、受け入れる。その一連の流れが、まるで夫婦の正しい形として屋敷に馴染んでいく。
自分の居場所が、どんどん薄くなるのが分かった。
さらに残酷なのは、レギュラスが屋敷にいない時だった。
アルタイルが――幼いアルタイルが、父の真似をするようになった。
「まま、手を」
声は可愛らしい。幼い舌で少し甘く転ぶ「まま」という響きは、聞くだけで胸がほどけそうになるほど愛らしい。
けれど、その言い方に、ふと似た影が差す。
お願いではなく、当然のように差し出される小さな手。拒まれる可能性を想定していない目。目的はただ「一緒にいたい」なのに、手段はまるで確保だ。
それが、ローランドには切なくてならなかった。
ブラックの血が濃い。
アランが産んだ子なのに――いや、だからこそ。
アランの優しさと、レギュラスのやり方が、一つの体に同居している。その混ざり方が、いびつで、恐ろしく、そして美しいほど自然だ。
アランはアルタイルの手を取る。
何も言わず、微笑みを崩さず、母として当然のように。
その横顔が、いつも通り整っているのが、痛かった。
傷を抱えた顔で、傷がないみたいに振る舞う。
心が削れているはずなのに、削れていないように動く。
その姿を見ていると、ローランドは何度も自分のせいだという言葉に喉を焼かれる。
――もし自分が、あの日。
「行かないでください」と言えていたら。
圧倒的な縁談を突きつけられた時に、手を伸ばして止めていれば。
あの時、優しさで突き放すのではなく、醜くても必死に縋っていれば。
取り返しのつかない仮定が、何度も頭を巡る。
それでも現実は、静かに進む。
アランはローランドとすれ違っても、礼をするだけだ。
会釈の角度も、言葉の選び方も、距離の取り方も、完璧に整っている。
何も変わらない。変える気もない。
その完璧さが、ローランドを追い詰める。
あの日、叫んでしまった「アラン」という呼び名。
あれがもし、彼女の胸のどこかを揺らしてしまったのなら――彼女は何かを言うはずだ。たとえ拒絶であっても、何かしらの反応があるはずだ。
けれど、ない。
何も、ない。
だからローランドは、最悪の結論に辿り着いてしまう。
もう彼女の中に自分は完全にいないのだろうか、と。
自分の名前が、彼女の中でただの過去になってしまったのだろうか。
思い出す必要のない、触れる価値のない、終わったものとして片付けられたのだろうか。
そんな考えが胸を満たすと、呼吸が浅くなる。
その日も、サロンでアルタイルが遊んでいた。
床に広げた積み木と知育玩具。小さな指で器用に形を合わせ、うまくいかないと眉を寄せて、すぐに別の手を考える。
アランは傍で見守っている。
その頬の傷が、光の当たり方で淡く浮く。
ローランドは、視線を逸らせないまま、静かに声をかけた。
「……腕がきつくなりませんか、ブラック夫人」
本当は、それだけではなかった。
痛くないですか。顔は。眠れていますか。怖くありませんか。
謝りたい。触れたい。抱きしめたい。――全部、飲み込んだ。言える資格がないから。
アランは一瞬だけこちらを見て、丁寧に微笑む。
「いえ、多少あっても。それでも抱いていたいので構いません」
変わらない言葉。変わらない距離。
それは優しさではなく、壁だった。
ローランドは小さく頷き、礼をして、その場を離れる。
去り際、アルタイルの声が背中に届く。
「まま、手を」
アランが手を取る。
アルタイルは満足そうに笑い、母を引いて歩こうとする。
その仕草が、どこまでも父に似ていて、ローランドの胸がぎゅっと痛む。
そして、ふと。
アランの指先が一瞬だけ迷ったように見えた気がした。
気のせいかもしれない。
願望が作った幻かもしれない。
けれどローランドは、その一瞬に縋りたくなる。
自分が完全に消えたわけじゃない、と。
そう願うのは、あまりにも勝手で、情けなくて、惨めだった。
それでも胸は、彼女の傷を見た時と同じように、締め付けられたまま離れてくれなかった。
アランの顔の傷は、いつの間にか「痛々しさ」から遠ざかっていた。
鼻先の赤みは薄れ、頬骨の高い位置に残っていた痕も、光が斜めに当たったときにだけ、ほんのりと浮く程度になった。上唇の端の滲みも、口紅を引けば隠れてしまう。治癒というものは、残酷なくらい静かに進む。
それでも――それでも、見慣れることはなかった。
午後のサロンは、分厚い絨毯が足音を吸い、窓辺のレース越しに淡い日差しが落ちていた。
アルタイルは机の上に広げた教材と向き合い、小さな指で数字の札を並べ替えている。五歳にしては出来すぎた集中力だ。躓き方さえ賢い。間違えた瞬間に癇癪を起こすのではなく、眉を寄せて、別の道を探す目をする。まるで、勝ち筋を計算するみたいに。
その横でローランド・フロストが、距離を崩さずに教えていた。
声は丁寧で、穏やかで、子どもの理解を急かさない。手が伸びそうになったら、言葉で止める。褒めるべきところは褒め、飽きの兆しが見えたら話題を切り替える。家庭教師として文句のつけようがない。
――文句のつけようがない。だからこそ、不愉快だった。
レギュラスが屋敷に戻ったのは、いつもより少し早い時間だった。
扉が開いた瞬間から、屋敷の空気が「当主の帰還」に合わせて整うのがわかる。使用人たちの動きが揃い、音の立て方が静まっていく。
サロンに足を踏み入れた途端、まず目に入ったのはアルタイルだった。机に向かう背中。小さな肩の動き。次に見えたのはアランの横顔――そして、その向こう側にいる男の視線だった。
ローランド・フロストは、教えているふりをしながら、アランを見ていた。
あからさまに顔を向けているわけではない。けれど視線の熱だけが、妙に隠しきれていない。視線というものは、本人が思っているほど上品に嘘をつけない。
それを見た瞬間、腹の奥がひやりとした。
怒りの熱ではなく、冷たいものが一気に流れ込む感覚だった。
あの引き出し。
無造作に詰められた魔法写真。
シーツの白さ。肌の白さ。笑う唇。至近距離の睫毛の影。
拾い上げた写真の角が、指先に触れたときの冷たさ。あの時、血が引いた感覚だけが鮮明に残っている。
自分のいない間に、自分の知らない二人が出来上がっているのではないか。
そんな考えが頭を掠めるだけで、喉の奥が乾いた。
レギュラスは表情を崩さないまま、サロンの中央へ歩いた。
足取りは一定。目線は落とさず、しかし鋭くも見せない。ここで露骨に不愉快を表に出すことは簡単だ。けれどそれは、負け犬の吠え方に近い。そんなものに自尊心が耐えられない。
「ただいま、アルタイル」
声だけは柔らかく落とす。
アルタイルが顔を上げた瞬間、ぱっと花が咲くように笑った。
「ぱぱ!」
椅子から飛び降りて駆け寄ってくる。
レギュラスはしゃがみ込み、勢いよく抱きついてきた息子を受け止めた。細い身体のくせに、抱きつく力だけは年々増している。頬を寄せると、まだ甘い匂いがした。
「途中で投げ出していませんか?」
「してない! さいごまで!」
「偉いですね。フロスト殿に感謝しないと」
そう言いながら、アルタイルの髪を撫でる。
その言葉は礼儀の形をしているのに、心の奥では別の意味を帯びていた。ここがどこで、誰の屋敷で、誰が「感謝する側」なのか。言外に、釘を打ち込むみたいに。
ローランドは立ち上がり、背筋を正して一礼した。
「お帰りなさいませ、ブラック様」
丁寧な声。完璧な礼節。
それが余計に、腹立たしい。礼節を纏ったまま、やることだけはやった男の礼節など、薄紙みたいにしか思えない。
「ええ。アルタイル、続きを聞かせてもらって。僕は少し、妻と話します」
アルタイルは頷き、机へ戻っていく。
レギュラスは立ち上がり、視線だけをアランへ向けた。
アランは今日も美しかった。
傷が目立たなくなった分、整った輪郭が際立つ。口元の動きに影が差すたび、そこに残る薄い痕が見えて、胸が微かにざわつく。勝手に傷つかないでください、と言ったことを思い出す。あれは怒りではなく、恐れに近かったのだと今なら分かる。
「アラン、少し」
「はい」
返事はいつも通りだ。
表情も、声の温度も、崩れない。こちらの心を読んでいるのか、読んでいないのかも分からないまま、滑らかな所作で立ち上がり、サロンの端――ローランドから一歩距離の取れる位置へ移動した。
レギュラスもそれに合わせる。
距離を作るのは、配慮ではない。線を引くためだ。線を引くのは、支配を明確にするためだ。
「……傷、だいぶ引きましたね」
「はい。医務魔法使いのおかげです」
「二度とああいうことはないようにしましょう。絨毯も増やしましたし」
「ありがとうございます、レギュラス」
その「レギュラス」の呼び方が、余計に神経を逆撫でる。
こちらが望んだ通りの距離感。望んだ通りの言葉。望んだ通りの礼儀。――だからこそ、どこかに嘘があるようで、確かめずにはいられない。
レギュラスは視線を、わざとローランドの方へ一瞬だけ滑らせた。
男はすぐ目を逸らした。配慮の顔をして。あるいは、何かを隠す顔をして。
その挙動が、決定打になった。
胸の底に沈んでいた屈辱が、形を持って浮き上がる。
奪われる。踏み躙られる。笑われる。
そんなものが、自分の人生に存在していいはずがない。
レギュラスは微笑んだ。
柔らかく、上品に。――誰にも文句を言わせない微笑み。
「フロスト殿とは、変わりはありませんか?」
問いは軽い雑談の形をしていた。
けれど、答えを間違えた瞬間に刃が落ちる問いでもある。
アランは、ほんの一瞬だけ瞬きをした。
迷い。
それはほんの小さな揺れだったのに、レギュラスの中で大きな音を立てた。
何を迷った。
何が、その迷いの中に入っている。
「……アルタイルの良き先生ですよ」
アランは微笑む。崩れない。正しい答えを選んだつもりなのだろう。
それでも、レギュラスの中の冷たいものは消えない。
「そうじゃなくて、ですよ」
声を荒げない。
語尾も尖らせない。
ただ、言葉の置き方だけを変える。逃げ道を塞ぐように。
「先生としての評価じゃなくて。……あなたの心に、引っかかりがないか、と聞いています」
アランの睫毛がわずかに震えた。
返事がすぐに出ない。その沈黙が、何より不安を煽る。
レギュラスは、さらに一歩だけ近づいた。
指先で触れるほどの距離ではない。だが、言葉だけで圧をかけるには十分な距離だ。
「僕の屋敷ですよ、アラン」
囁くように言う。
けれどそれは、優しさの囁きではない。確認だ。宣告だ。ここがどこで、誰が何を持っているのか、思い出させるための。
「目の前にいるのは、僕の妻です。僕の息子です。……分かっていますよね」
言葉の表面は静かだ。
内側だけが、ざらりと荒れていく。
アランは一度、唇を結んだ。
上唇の端に残った痕が、かすかに動く。そこに触れたことのある記憶が、いまこの瞬間、意地悪く蘇る。
「分かっています。……レギュラス」
「だったら、僕が聞いていることに答えてください」
微笑みは崩さない。
崩さないまま、追い詰める。
「フロスト殿の視線が不愉快なんです。僕がそう感じた。だからあなたの口から聞きたい。――あなたは、どうです?」
アランは息を吸った。
答えの形を探すみたいに。正解を選ぶみたいに。
その仕草に、腹が立った。
この女はいつもそうだ。
正しさのカードを切って、こちらの怒りを「不当なもの」にすり替えようとする。自分を守るために。息子を守るために。――そして、心だけはどこにも差し出さないために。
「……特に、何も」
アランはそう言った。
穏やかな声だった。まるで、天気の話をするように。
レギュラスは笑ってしまいそうになる。
何も、があるわけがない。
迷いがあった。沈黙があった。視線があった。
「へえ」
短く落とす。
それだけで、空気が少しだけ冷える。
「じゃあ、あれは何です?」
視線で示す。
ローランドが、今もちらりとこちらの様子を窺っていること。アランの横顔に、ほんの僅かに目を滑らせたこと。
「僕がいない間に、僕の知らない二人が出来上がっているんじゃないかって――そういう想像をさせるのは、やめてほしいんです」
言葉は丁寧で、穏やかで、正しい。
それなのに、逃げ場がない。
アランの喉が小さく動いた。
声を出せるのに、出す言葉が見つからない時の仕草だと、レギュラスはもう知っている。
「……そんなこと、ありません」
ようやく出た言葉は、否定だった。
けれど、その否定は“感情”ではなく“処理”に聞こえた。
レギュラスは微笑んだまま、少しだけ首を傾げる。
「なら、僕の目を見て言ってください」
優しい命令。
拒めない要求。
アランがゆっくり顔を上げる。翡翠の瞳が、こちらを映す。
その瞬間、胸の奥が熱くなるのと同時に、冷たくもなる。美しい。欲しい。――そして奪われたくない。
「……僕が恐ろしいんですか?」
唐突な問い。
けれど唐突に見えるだけで、流れは一本に繋がっている。迷いを切り裂き、核心だけを引きずり出す問い。
アランの瞳がわずかに揺れた。
否定するべきか。正直に言うべきか。どちらが正解か分からない揺れ。
その揺れが、レギュラスを苛立たせる。
同時に、楽しくもさせる。揺れた場所こそ、触れる価値があるからだ。潰すべき場所だからだ。
「……怖いわけでは」
「じゃあ、何です」
優しく詰める。逃がさない。
声の温度だけを保ったまま、言葉の先端を研いでいく。
「僕が見ていないところで、僕の妻が誰かと出来上がっている可能性を想像するのが、どれだけ不愉快か。――分かりませんか?」
アランの頬がほんのり赤くなる。
羞恥か、怒りか、どちらかを隠すための色だ。
「分かります」
「なら、次は迷わないでください」
さらりと言う。
それが最も残酷だと知っている。
「フロスト殿が良き先生かどうかじゃない。あなたが、僕の妻として、僕の屋敷の空気を乱さないかどうかです」
アランが唇を噛み、けれどすぐに整え直した。
その整え方まで、美しいのが腹立たしい。
「……気をつけます」
「ええ。そうしてください」
レギュラスはその言葉で会話を閉じた。
閉じたまま、何も終わっていないことだけを残す。次に迷ったら、次はもっと深く踏み込む――そう予告するように。
そして、わざと自然な仕草でアランの髪に指を伸ばす。
頬の傷に触れないように、慎重に。
それが愛しさに見えるのが、我ながらよく出来ていると思った。
「ほら、アルタイルが見ています。笑って」
アランは、ほんの少しだけ息を飲んでから、母の顔を作った。
完璧な微笑み。完璧な落ち着き。完璧な妻。
その完璧さに、胸の奥がざらつく。
満足と不安が同じ場所で擦れ合い、音を立てる。
レギュラスは微笑んだまま、サロンの中央へ戻る。
アルタイルの頭を撫で、ローランドへ視線を向ける。
「フロスト殿。続き、お願いします。――僕の息子を、頼みますね」
礼儀正しい言葉。
けれど、意味は一つしかない。
ここがどこか。
誰の屋敷か。
目の前にいるのが誰の妻で、誰の子か。
そして――奪われるものが、この人生に存在していいわけがないことを。
静かに、冷静に、逃げ場なく、わからせるための言葉だった。
寝室の灯りは、夜更けの静けさを濃くするだけの、柔らかな橙だった。
窓の外では風が枝を揺らし、薄い雨が硝子を撫でる音がする。暖炉の火は弱く、ぱちりと小さく弾けるたびに、壁に影がゆっくりと伸びたり縮んだりした。
寝台の縁に置かれた銀の盆には、一本の羽ペンが横たわっている。
インク壺も紙束もない。あるのは、白い羽の細さと、軸の冷たい光沢だけだ。まるで“それ”自体が、言葉の代わりに皮膚へ触れるために作られた道具であることを、最初から知っているみたいに。
アランがそれに気づいた瞬間、息が浅くなった。
痛みの記憶が先に身体へ走る。腕の内側、柔らかな皮膚の奥に残った、あの灼けるような線。時間が経てば薄れ、いつか完全に消えてしまうのだと思っていた痕跡が、ここ数日で驚くほど静かに癒えつつある。癒えてしまうことが、救いのはずなのに。
レギュラスは何も言わず、盆の上から羽ペンを取った。
指先はいつも通り丁寧で、物を乱暴に扱う癖はない。だから余計に、その所作が恐ろしい。優雅な動きの中に、命令だけが正しく埋め込まれている。
「書いてください、アラン」
淡い声だった。
命令というより、頼み事の形をした声。けれど、拒否の余地がないことだけは、寝室の空気が先に理解してしまう。
アランは一歩、半歩、呼吸の分だけ後退した。
背中に触れるのは寝台ではなく、室内の温度そのものだ。逃げ場がない、と告げるような暖かさ。
「……なぜです。もう、何も……」
言い終える前に、レギュラスが重ねる。
声音は崩れないまま、問いの形で首を絞めてくる。
「もう何もってなんです? 何をです?」
ゆっくりと瞬きをしながら、笑みだけが薄く貼りついている。
答えに迷う時間さえ、逃避だと見なす顔。
アランの喉が震えた。
理屈はある。言い分もある。けれど、この男の前で言葉を整えようとするほど、言葉が喉に張りつく。うまく言えば言うほど、逆に切り取られて、刺し返されるのを知っている。
「レギュラス……」
名前を呼ぶしかできない。
呼べば一瞬だけ、刃の角度が変わるかもしれないと、どこかで期待してしまう自分が悔しい。
レギュラスはその呼びかけに、満足したように目を細めた。
その満足は優しさではなく、従わせた事実への確信に近い。
「もう何もは、僕が決めることじゃないですか」
羽ペンの軸が、アランの視界の端で白く光った。
それがどれだけ軽いものでも、今は短剣のように重たく見える。
「あなたの腕、見せて」
「……治りかけているだけです」
「だから困るんですよ」
さらりと言う。
困る、という言葉の温度が妙に穏やかで、アランはぞくりとした。怒っているからではない。怒りよりももっと厄介な、当然の声だ。
レギュラスは距離を詰めた。
触れる直前で、いったん止まる。押し倒すでも、掴み上げるでもなく、ただ正しい距離へ滑り込む。逃げるという選択肢が、相手の中から自然に消える距離。
「忘れられるのが嫌なんです」
囁くように言い、次の瞬間、言葉を変える。
「……あれをなかったことにされるのは、こちらが我慢ならない」
冷たいのに、感情は熱い。
その矛盾が、レギュラスという男の形だった。
自分が約束させたこと。
自分が刻ませた規則。
それが薄れるというのは、支配が薄れるというのと同じだ。自分のいないところで、二人の間の秩序が普通へ戻っていくのが許せない。普通の夫婦のように、なあなあで済まされることが。あの屈辱が、時間に溶けて消えてしまうことが。
レギュラスは、アランの手首を取った。
力は強くない。強くないのに、ほどくことができない。指の置き方が、逃げる方向を封じている。
「痛いのは、分かっています。だから、早く終わらせましょう」
慈愛めいた言葉が、命令の刃を隠す。
アランは反射で首を振った。
「……お願い、もう、やめて。私は……」
「何を“やめて”なんです?」
また、問い。
答えを選ばせるふりをして、答えの形を狭めていく問い。
「罰ですか? 約束ですか? それとも、僕があなたに触れることですか?」
羽ペンの先が、アランの視線を奪う。
そこにインクはついていない。紙もない。だからこそ、皮膚が紙になる。
アランは唇を噛み、視線を逸らした。
逸らした先に、暖炉の火が揺れている。火は何も責めない。ただ燃えて、ただ温める。――こんな夜に限って、世界が静かすぎる。
「……約束の内容は、覚えています」
言葉にした瞬間、腕の奥がじくりと疼いた。
癒えかけた痕が、記憶の中で勝手に疼きだす。
レギュラスの指先が、そこへ軽く触れた。
触れ方だけは優しい。まるで痛みを撫でて慰めているみたいに。けれど、その慰めが、次の痛みの準備であることを、アランは知っている。
「覚えているなら、書けますね」
レギュラスは羽ペンをアランの手に渡した。
手のひらに落ちる軽さが、逆に残酷だった。こんなに軽いものに、身体が怯えている。
「……インクも紙もいりませんよ」
レギュラスがアランの背後へ回り込む。
耳元に近づく気配。髪を撫でる息。温度のある距離。
「僕が言うことを、そのまま書いてください」
声が頭上から落ちてくる。
命令は、耳から入るのではなく、皮膚の奥へ直接落ちてくるようだった。
「……やめて、レギュラス」
「やめてじゃなくて。……書いて」
レギュラスは笑わない。
笑わないのに、勝っている。
アランの腕を自分の掌で支え、内側の柔らかいところを上に向けさせる。
指先が震える。羽ペンの先が、何もない空中で一度止まる。躊躇が、呼吸に出る。
「――ローランド・フロストに、近づきません」
レギュラスの声が静かに落ちた。
アランは目を閉じ、羽ペンを滑らせた。
空をなぞったはずの先が、次の瞬間、皮膚の奥へ沈むように熱を残した。
痛みは一瞬ではない。
細い線が、じわりと深く浸透していく。熱いというより、冷たい炎に焼かれる感覚。皮膚の表面ではなく、もっと内側――治るという逃げ道を許さない場所へ、文字が縫い込まれていく。
「……っ」
声が漏れる。
アランの肩が小さく跳ねるのを、レギュラスの指が抑えた。抑える力は強くない。それでも、動けない。
「そう。上手です」
褒める声が甘い。
甘いまま、痛みを正当化してくる。
羽ペンが進むたび、腕に淡い光が滲む。
文字は黒ではなく、皮膚と同じ色をしているのに、確かに読める。身体がそれを記憶してしまうから。視覚より先に、神経が読んでしまうから。
レギュラスは、最後の一画が刻まれる瞬間まで見届けてから、アランの手をそっと離した。
そして次の言葉を、容赦なく落とす。
「もう一つ」
アランが息を飲む。
痛みの余韻が腕に残っている。泣いてしまえば楽になるのに、泣いたら負ける気がして、涙が出る前に堪えてしまう。そういう“強情”を、きっとこの男は待っている。
「……もう、十分でしょう」
「十分かどうかは、僕が決めます」
レギュラスはアランの頬に触れた。
傷の痕に当たらないように、慎重に。上唇の端の痕を避けるように、指をずらす。その気遣いだけが、本物みたいで胸が苦しくなる。
「あなたの顔に傷が入るのは嫌なんです。――だから、腕にしましょう」
やさしさの形をした、選別。
どこまでも美しさを守りながら、所有だけを深くする言葉。
レギュラスはアランの耳元へ唇を寄せ、囁いた。
「書いてください、アラン。あの時と同じように」
声に熱が混じる。
怒りではない熱。執着の熱。忘れられることへの恐怖が、支配の形で表に出てくる熱。
「……何を、書けばいいんです」
アランがようやく言葉を選んだ。
問う形にしたのは、命令に見えないようにするためでもあり、少しでも主導権を取り戻すためでもあった。
レギュラスはその小さな抵抗を、可笑しがるように目を細めた。
「いい子ですね。ちゃんと聞ける」
褒めて、縛る。
その順番を、間違えない。
「僕の屋敷で、僕の妻として、僕の秩序を乱しません――そう書いて」
アランは息を詰めた。
腕の痛みが、再び未来の形を取って迫ってくる。
「……レギュラス、お願い……」
「お願い、の次に。――書いて」
羽ペンが再び、空を滑る。
白い羽が動くたび、皮膚の奥に熱が落ちて、文字が沈んでいく。治癒呪文が届かない場所へ。消えかけた記憶を引き戻すために。忘れたふりを許さないために。
アランは歯を食いしばり、震える呼吸で書き続ける。
終わった瞬間、腕の内側が脈打つ。そこに刻まれた言葉が、痛みと一緒に誓いになる。
レギュラスは、出来上がった文字列を眺めるように指先を滑らせた。
触れ方は丁寧で、痛みの輪郭をなぞるみたいに静かだ。アランの肩が小さく震える。
「……よくできました」
その言葉と同時に、レギュラスがアランのこめかみに短い口づけを落とした。
罰の直後に与えられる甘さは、甘さではなく、逃げ道のふりをした鎖だ。
「ほら、覚えましたね」
アランは目を閉じた。
まぶたの裏に、ローランドの優しい声が浮かぶ。あの部屋の柔らかい光が浮かぶ。
そして、そのすべてを踏みつけて上書きしてくるように、レギュラスの声が近い。
「忘れないでください。――僕の妻でしょう?」
その問いは、肯定しか許さない。
アランは唇を開き、声を震わせた。
「……はい」
その一言で、寝室の空気が正しい場所に収まってしまう。
痛みも、屈辱も、怒りも、胸の奥へ押し込められ、代わりに“妻”が立つ。
レギュラスは満足そうに微笑み、羽ペンを盆へ戻した。
白い羽が静かに横たわる。まるで、次の言葉を刻むのを待っているみたいに。
そしてその静けさの中で、アランの腕の内側だけが、熱く、鈍く、確かに脈打っていた。
癒えかけた過去が、また一段深い場所へ沈められていくように。
なかったことにされるのを許さない男の手によって。
