3章
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玄関ホールに、外気の匂いがひとすじ流れ込んだ。冬にはまだ早いはずなのに、馬車の扉が開いた瞬間だけ、冷えた空気が石床を撫でていく。
「いらっしゃいませ」
使用人の声に続いて、軽い足音。弾むような、けれど礼儀を忘れない足取りでクラリッサ・ブラックバーンが現れた。淡い色の外套の襟を整えながら、頬を少し紅くしている。慣れない訪問先でも、怯むより先に笑ってしまう子だ。明るさが先に立つ。そのくせ、頭を下げる角度だけはきちんと身につけている。
後ろにはローランド・フロストが続いた。黒いコートの肩に冷気を残したまま、玄関の中央でいったん立ち止まり、屋敷の当主に対する距離をきっちり測るように姿勢を正す。
「ブラック様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「どうぞ。遠縁とはいえ、足を運ぶのに招き状が必要だなんて堅いことは言わないでください」
柔らかい笑みを浮かべたレギュラスが、そう言って軽く腕を広げる。言葉は気安く、声は穏やかなのに、そこにこの場の主は誰かという圧が染みている。
「クラリッサ、よく来ましたね」
名を呼ぶだけで、クラリッサはぱっと顔を輝かせた。
「レギュラス様、お久しぶりです! ……あ、えっと、今日は、ちゃんとご挨拶をしようと思って」
口にした途端、少し照れたように笑って、自分の外套の裾をつまむ。その仕草がまだ幼い。けれど、それを幼いまま許される家柄と年齢と立場が、彼女の周りに薄い膜のように張っている。
応接間に通されると、暖炉の火が落ち着いた温度を作っていた。磨かれた木の床、濃い色のソファ、カーテンの重み。来客を歓迎する整い方の中で、一つだけ、いつもより生活の匂いがするものが置かれている。机の上の積み木と、数のカードと、読みかけの絵本。
「……まぁ」
クラリッサの声が、思わず小さく漏れた。
ソファの近くで、アルタイルが積み木を並べていた。五歳になったばかりの身体つきはまだ幼いのに、背筋の伸び方が妙に大人びている。遊んでいるはずなのに、配置は規則的で、視線は真剣だ。口元だけが子供らしく、少し開いている。
ローランドが膝を折り、机の向こうからカードを一枚差し出している。
「アルタイル様。これは、どれと同じ数ですか」
「これ」
迷いなく指を伸ばし、正解のカードを選ぶ。その速さが、可愛げを通り越して鋭い。
「すごい……」
クラリッサは思わず手を口元に当てた。瞳がきらきらと揺れる。こういう時、彼女の感情は隠れない。隠そうともしない。
アルタイルが顔を上げた。見知らぬ人ではないと理解したのか、すぐに笑う。
「こんにちは!」
声の張りも、礼の軽さも、子供らしい。そこだけが救いのように愛らしい。
「こんにちは、アルタイル様」
クラリッサが膝を折って目線を合わせると、アルタイルは得意げに胸を張る。
「ぼく、いまね、かず、できるよ」
「まぁ、えらいわ。ローランド様に教えていただいているの?」
「うん。フロストせんせい」
その呼び方が、どこか大人びていて可笑しい。ローランドは微笑みかけ、すぐに表情を正す。屋敷の空気に自分を合わせるのが上手い人だ。上手くならざるを得なかったのかもしれない。
そこへ、アランが紅茶の盆を手に現れた。運んでいるのは使用人でもよかったはずだ。それでも彼女が自ら出てくるのは、妻としての位置を崩さないためだろう。薄い陶器のカップが小さく鳴ることもなく、彼女の歩みは静かだった。
「いらっしゃいませ、クラリッサ様。フロスト殿も」
微笑みは完璧で、声の温度も整っている。見る者に安心だけを与える顔。正しさが美しさの一部になっている。
クラリッサはぱっと立ち上がり、少し勢いよく頭を下げた。
「ブラック夫人……! お会いできて嬉しいです。いつも、ローランド様から……えっと、その……お世話になっていると聞いて」
言葉の端が跳ね、途中で自分でも言い方を迷ったのが分かる。アランは崩れない。
「こちらこそ。フロスト殿には、アルタイルの学びを助けていただいています」
その助けていただいていますが、どこまでを含んでいるか。知っている者には、重く響く。けれどアランはそれを重くしない。重くなる余地を顔に出さない。
レギュラスは、暖炉前の椅子に腰掛けたまま、そのやりとりを眺めていた。紅茶が注がれ、湯気が上がる。カップを持つアランの指先の美しさ。クラリッサの無邪気な視線。ローランドの背筋に走る見えない緊張。どれも、面白いくらいに整っていく。
「座ってください、クラリッサ。今日はゆっくりしていくといい」
「はい! ……あの、アルタイル様のこと、もっと見てもいいですか?」
「もちろん。アルタイル、クラリッサに挨拶を」
「こんにちは、クラリッサ!」
アルタイルがぺこりと頭を下げる。少し遅れて、クラリッサも同じように頭を下げた。真似をするのが上手い。真似で覚える年頃の素直さが、そのまま可愛らしい。
クラリッサはソファの端に座り、アルタイルの積み木を見守るように身を乗り出した。ローランドはいつもの距離でカードを並べ、説明を続ける。途中、アルタイルが言葉を探すと、ローランドがすぐに答えを与えず、少しだけ待つ。急がせない。促すだけ。丁寧で優しい進め方だ。
それを眺めながら、クラリッサの頬が少しずつ緩んでいく。やがて、我慢できなくなったように小さく息を吸い――
「……ローランド様」
呼びかける声が、妙に甘えた色を帯びた。
「はい、クラリッサ」
ローランドが振り向く。呼び方ひとつで、夫婦の距離が分かる。丁寧なのに優しい。幼妻を急がせない、と決めている人の声だ。
クラリッサはカップの取っ手を両手で包みながら、目だけをローランドに向けた。
「アルタイル様って……本当に、すごく可愛いです。……それに、賢い」
「ええ。驚かされます」
ローランドは穏やかに頷いた。だが、その頷きが終わる前にクラリッサが続けた。
「ねえ。……そろそろ、私たちも……」
言い終えた瞬間、応接間の空気が一枚薄くなる。暖炉の火は変わらないのに、温度だけが少しだけ下がったように感じる。
ローランドの指先が止まった。カードを持ったまま、宙で固まる。ほんの一瞬だ。それでも、見逃せないほどの気まずさがそこに現れた。彼の優しさが、優しさのまま、言葉に詰まる瞬間。
クラリッサは、それに気づいていない。気づかないから言える。幼さの強さだ。
「赤ちゃん。……だめ、ですか?」
問いの形は小さくて可愛いのに、刺さる場所は深い。
アランは微笑みを崩さなかった。眉も動かさない。視線の揺れも見せない。カップをソーサーに置く指先が、ただ静かに完璧だ。正しさが崩れない。崩れないからこそ、そこに何が隠れているのか、見る者は勝手に想像してしまう。
レギュラスは、その様子を面白がるように眺めた。表情は穏やかなままなのに、胸の内では薄く笑っている。アランの正しさも、ローランドの詰まりも、クラリッサの無邪気さも、すべてが同時に並ぶこの構図が、あまりに出来が良い。
「クラリッサ」
レギュラスが名を呼ぶ。たしなめるでもなく、冷やすでもない。あくまで柔らかい声だ。
クラリッサがぱっとこちらを向く。
「はい、レギュラス様」
「その話は、二人の間でゆっくり。――でも、そうですね。アルタイルがいると、自然に思いますよね」
正しい言葉に見える。世間話の延長に見える。けれどローランドの背中に、もう一枚、重い布がかぶせられたのが分かる。逃げ場が減る。話題が自然に固定される。
ローランドは、礼儀のために笑みを作ろうとし、作り切れなかった。作り切れないのは、クラリッサの願いが純粋だからだ。純粋であるほど、拒むことが残酷になる。
「クラリッサ……」
ローランドが、ようやく声を出す。いつもの丁寧な声だが、少しだけ乾いている。
「急がなくていいんです、クラリッサ」
クラリッサは唇を尖らせた。わがままを言うことを許されて育った子の顔だ。
「でも……私、ずっと……」
言いかけて、クラリッサはアルタイルの方を見た。アルタイルは積み木を並べながら、ちらりとこちらを見上げる。空気が薄くなったのを、子供なりに感じ取ったのかもしれない。
「……わたし、抱っこ、したいです」
その言い方が、あまりにも可愛らしくて、残酷だった。
アランが静かに立ち上がる。視線を崩さないまま、アルタイルの横へ歩み寄り、彼の髪を撫でる。
「アルタイル。クラリッサ様に、ご挨拶に行きますか」
「うん」
アルタイルは素直に立ち上がり、アランの手を取った。そのままクラリッサの前へ行く。アランはクラリッサに向けて微笑む。
「抱っこされますか。アルタイル、いい?」
「いいよ!」
アルタイルが両腕を広げると、クラリッサは嬉しそうに立ち上がって抱き上げた。五歳の重みが腕に乗る。彼女の身体はまだ細いのに、必死に支える。その必死さが、いじらしい。
「わぁ……重い。……でも、あったかい……」
クラリッサの頬がふわりと緩む。アルタイルは得意げに笑い、クラリッサの髪を指でつまんで遊んだ。
「くすぐったいです、アルタイル様」
「アルタイル、髪はだめです」
アランが優しく言う。声の柔らかさも、叱り方も、完璧に母親だ。その完璧さが、誰かの胸をさらに締めつける。
ローランドはそれを見て、視線を落とした。目の前にいるのは、自分の妻が抱きしめる他人の子だ。けれど、その子の顔立ちや仕草の端々に、かつて想像した未来の影が見える。見えてしまうから、苦しい。苦しいのに、礼節を守るために息を整えなければならない。
レギュラスは、ローランドのその沈黙を楽しむように、カップを口元へ運んだ。
「クラリッサ、腕は大丈夫ですか」
「だいじょうぶ、です……! ちょっと、きついけど……でも、嬉しいです」
言いながら、クラリッサはローランドを見た。まっすぐに、期待を隠さずに。そこに駆け引きはない。欲しいものを欲しいと言う。手段も正面から選ぶ。彼女はそういう子だ。
ローランドは喉を鳴らし、微笑みを作った。作らなければいけない。
「……可愛いですね。アルタイル様は」
「でしょ?」
クラリッサが嬉しそうに言う。そのでしょ?が、夫に向ける甘えであり、確認であり、お願いだった。
アランは、ただそこに立っていた。美しさも正しさも崩さないまま。クラリッサの腕の中で笑う息子を見つめ、その背後で固まっているローランドを視界に入れながら、何も言わない。言わないことが一番正しいと知っている人の沈黙だ。
レギュラスは、その沈黙が好きだった。
崩れない妻。
崩れそうな男。
無邪気な少女。
三つが同じ部屋に揃うだけで、空気が勝手に歪む。歪むほどに、主導権が自分の手の中に戻ってくる。
「クラリッサ。重いなら、無理はしないでください。——アルタイル、そろそろ降りてあげてください」
「えー」
「えーじゃありません」
レギュラスが笑みのまま言うと、アルタイルは口を尖らせたが、すぐにクラリッサの腕から降りた。従い方が早い。可愛らしいのに、命令が通る。そこに血が見える。
アルタイルが床に降りると、クラリッサは名残惜しそうに両手を胸元に寄せた。
「……やっぱり、いいなぁ」
ぽつりと漏れた声が、今度は小さかった。小さいのに、刺さる。ローランドの背筋がわずかに強張るのが分かった。
アランは一礼する。
「クラリッサ様。もしよろしければ、育児のことなど、分かる範囲でお話しします」
それは親切の形をしていて、同時にここに立つのは自分だという宣言でもあった。妻として。母として。ブラック家の女として。
クラリッサは嬉しそうに頷く。
「ぜひ……! ブラック夫人、すごく憧れます。あんなに綺麗で……それで、アルタイル様みたいな……」
言葉がしどろもどろになる。純粋な賛辞。悪意がない分、余計に残酷だ。
アランは、微笑みを少しだけ深くした。
「ありがとうございます。——でも、綺麗に見えるのは、周りが整えてくれるからです」
その周りに、レギュラスは当然入っている。クラリッサにも分かる言い方で、夫の力を立てる。正しい妻だ。
レギュラスは満足しながら、ローランドの方に目を向けた。
「フロスト殿。クラリッサは素直でいい。——あなたは、どうします?」
問いの形をしているのに、逃げ道を狭める言い方だった。ローランドはすぐに答えなければならない。曖昧は許されない。けれど正解は一つしかない。
ローランドは静かに息を吸い、クラリッサを見た。優しい目を作る。作りながら、胸の奥で何かが軋む。
「……クラリッサの気持ちは、大切にします」
それ以上は踏み込めない。踏み込めば、どこかが壊れる。
クラリッサはその答えに、少しだけ満足したように笑った。笑ってしまう。信じてしまう。彼女はそういう子だ。
レギュラスは、その笑みまで含めて面白かった。
アランは、微笑みを崩さないまま、紅茶のポットを持ち直した。カップに注ぐ音が、静かな部屋に小さく落ちる。
正しい音。正しい温度。正しい距離。
その正しさの隣で、ローランドだけが、どこまでも居心地の悪いまま背筋を伸ばしている。
レギュラスはカップを傾けながら思う。
この部屋の均衡は、ひどく美しい。
そしてその均衡が、誰の痛みの上に成り立っているのか——自分だけがよく知っている。
寝室は、昼間の応接間とは別世界だった。
蝋燭の火は低く揺れ、重いカーテンが外の音を切り落とす。暖炉の熾火がまだ赤く、部屋の奥に甘い熱を滲ませている。夜会用の礼装はとっくに脱がされ、整えられた髪も、いくらかほどけていた。
アランは寝台の上で、枕に沈むように横たわっている。
昼間、クラリッサの無邪気な声に一度も揺れなかった微笑みが、今は少しだけ薄い。けれどそれも、疲れのせいなのか、夜の灯りのせいなのか、判別がつかないくらい静かだ。
レギュラスはその顔を見下ろしながら、ふっと息を零した。
今日という一日が、きれいに片付いたような気がしていた。訪問、会話、空気の歪み、ローランドのぎこちなさ。アランの正しさ。どれも予定通りの位置に収まっている。収まってしまえば、満足が残る。
「今頃きっとフロスト殿は励んでいるでしょうし。僕たちも考えませんか」
言い方は軽い。冗談めいた口調に寄せた。
だが、言葉の芯は柔らかくない。逃げ道のない提案として、ちゃんと投げる。
アランは一拍置いて、頷いた。
否定もしない。肯定を熱っぽくも口にしない。
ただ、夫の望む通りに。
その従い方が、レギュラスの胸を満たした。抵抗で引き裂かれることのない夜が、どれほど安らかかを、身体が先に知ってしまっている。
寝台の軋みが、小さく鳴った。
指先で確かめるように触れた肌は温かく、呼吸の上下がゆっくりと伝わってくる。所有の感覚は、こういう些細なところから確かになる。――触れられるのが、触れていいのが、ここにいるのが、当然自分だけなのだと。
そのまま、次の段階へ進めようとして。
ふいに、視界の端に、別の光景が差し込んだ。
赤い。鉄の匂い。
桶に落ちていく濁った液体の音。
呻き声を噛み殺し、最後にふっと意識を手放したアランの横顔。
喉の奥が冷える。
指先が、ほんの少しだけ止まった。
「……」
息が詰まるほどの沈黙は作りたくなかったのに、身体が言うことを聞かない。
平気な顔で押し切れるはずなのに、押し切った先にある万が一が、暗闇よりはっきり見えてしまう。
アランが目を瞬かせた。
肌に触れているのに、視線は静かで、逃げない。
「どうしました?」
問いは柔らかい。けれどその柔らかさが、逆に刺さった。
恐れを見透かされるのが嫌だ。
こんなところで弱さを晒すのは、好みじゃない。
それでも、口が勝手にほどけた。
「二人目は欲しいですが、やっぱり踏み切れないんですよ」
溜息みたいに落ちた声が、部屋の熱に溶けた。
言ってしまえば簡単だった。言わなければ、もっと苦しかった。
避妊を怠らなかったのは、理性のためでも、秩序のためでもある。
だが本当は、恐怖のためだった。
またあの匂いと音を、同じ顔で、同じ体で、アランに背負わせることになるかもしれない。そう考えるだけで、胃の奥がひっくり返りそうになる。
アランは少しだけ目を細めた。責める気配はない。けれど、なにかを測るような静けさがある。
「あなたらしくありません」
その言葉が、まるで針のように胸に入った。
図星だったからではない。
あなたらしさを、妻に握られていることが気に入らない。
口角に薄く笑みを作る。作った笑みで、崩れかけた威厳を縫い留める。
「どうにもコントロールが効かないことは嫌いなんです」
言いながら、自分でも分かっていた。
嫌いなのは、コントロールが効かないことそのものじゃない。
それを口にしてしまうほど、心が揺れている状態が嫌いなのだ。
アランは、ただ頷いた。
従順の頷きに見える。いつも通りの、正しい妻の頷き。
なのに、今の頷きだけは、慰めにも似ていた。
「……万が一を考えると、恐ろしくなるんです」
もう一度、言葉が零れる。
言葉にしてしまえば、弱さが形になる。形になれば、いずれ支配できる。そうやって自分を納得させた。
アランの手が、そっと伸びた。
触れるだけ。縋るでもなく、押し返すでもない。
指先がレギュラスの手の甲に乗り、温度が移る。
「怖いんですね」
言い当てる声が、残酷なくらい静かだった。
けれど、その静けさがあるからこそ、ここで怒鳴り散らす気になれない。怒りにすり替えられない。逃げ道を潰される。
レギュラスは目を細める。
そのまま、アランの顎に軽く触れ、視線を合わせさせた。優しい動作に見えるように。優しさの形を借りて、主導権を取り戻すために。
「……怖いのは嫌いです」
吐き捨てるのではなく、淡々と告げる。
それでも声の底には、わずかな苛立ちが混じった。――こんなことを言わせるな、と。
アランは目を逸らさない。
逃げない代わりに、強くもならない。
どこまでも、夫の望む温度でそこにいる。
その在り方が、やはり満足だった。
反発で擦り切れるより、沈黙で背を向けられるより、ずっといい。
再び動こうとすると、まだ迷いが胸の奥で小さく暴れる。
だが迷いを抱いたままでも、夜は進められる。
完璧に支配できなくても、腕の中に収めることはできる。
「…… アラン」
名前を呼ぶと、アランの睫毛が揺れた。
返事は短い。
「はい、レギュラス」
その呼び方が、丁寧に整えられているのが分かる。
それが演技だろうが、処世だろうが、もう今はどちらでもよかった。
望む形で返ってくる言葉は、心をなだらかにする。
レギュラスは唇を落とす。
さっきまでの迷いを、火の中へ押し込むみたいに。
優しさの温度を作って、丁寧に重ねる。乱暴に奪えば、また恐怖が戻ってくる。だからこそ、ゆっくりと、確かめるように。
アランの息が少しだけ乱れ、頬が淡く熱を帯びた。
その変化を見て、胸の奥が少し緩む。
「……踏み切れないくせに、欲しがってるのは滑稽でしょう?」
自嘲めいた言葉を、わざと軽く言う。
本心をそのまま出すのは嫌いだ。けれど隠し続けるのも、今夜は難しい。
アランは、ほんの僅かに首を振った。
「滑稽ではありません。……あなたが、ちゃんと考えているだけです」
慰めの言葉なのに、妙に正しい。
正しさがあるぶん、レギュラスの胸を余計にざわつかせる。褒められているようで、包囲されているようでもある。
「……そういう言い方、好きですよ」
褒めた瞬間、自分でも少し可笑しかった。
好きだ嫌いだを口にすると、感情の主導権が相手に渡る。普段なら避ける。
なのに、口にしてしまうくらい、今夜は脆い。
アランは目を伏せ、短く笑う。
それが、機嫌を取るための笑みなのか、心からの笑みなのか、判断はつかない。
判断できないものを、力で決めたくなる衝動が、また首をもたげる。
レギュラスは息を整え、アランの髪を指で梳いた。
弱さに見えるものを、弱さのまま終わらせたくない。
恐怖を持った自分を否定したくて、なおさら夫としての形を整えたくなる。
「……怖いなら、怖いままでもいいですか」
珍しく、許可を求めるような言い方だった。
自分でも気づいて、少し眉を寄せる。らしくない。確かに。
アランは頷いた。
その頷きは、昼間の完璧さと同じ角度で、同じ速度で――それでも、なぜか少しだけ温かかった。
「はい。……ここにいます」
それだけで、胸の底のざらつきが、少しだけ静まった。
完全に支配できないことを、完全に嫌いになれない夜。
それでも、腕の中にいる。息が触れる距離にいる。名前を呼べば返ってくる。
踏み切れないまま、欲しがるまま。
矛盾ごと抱えて進むしかないのだと、ようやく認められた気がした。
レギュラスはアランの額に短く口づけ、もう一度囁く。
「……今夜は、あなたの顔を見ていたい」
命令の形を借りない言葉が、暗い寝室に落ちた。
アランは答えず、ただ視線を合わせる。
その翡翠の瞳に自分が映るのを見て、ようやく、息が深く吸えた。
寝台の縁に落ちた夜の名残が、いつまでも肌の内側に熱として残っていた。
蝋燭の芯はすでに短く、火は細く揺れ、厚いカーテンの向こうの世界を完全に遮断している。外の風も、廊下を歩く足音も、ここまで届かない。届かせないように、この部屋の空気はいつだって整えられている。
昨夜レギュラスは結局、避妊をやめなかった。
次の子が欲しいと、前々から口にしていたくせに。アルタイルを孕んだあと、一度も――一度たりとも、そこを越えて進めたことはない。
そのことを、アランはぼんやりと確かめるように思い出していた。
熱に浮かされたふりをして微笑み、従順な妻の言葉を選び、彼が望む形で頷いて。そうして夜をやり過ごすことに慣れてしまった自分が、昨夜はその最後だけ、彼の意志で止められたという事実に、妙な違和感を覚えていた。
意地悪い言葉は、いつも通りだった。
クラリッサの名を軽く揺らし、ローランドの存在を無遠慮に触れる。そこに含まれる棘に、いちいち表情を崩すほど幼くはないと、アランは自分を戒める癖がついてしまっている。それでも胸の奥はきしんだ。きしんだのに、昨夜はその棘の先が不意に鈍った。
レギュラスが手を止めた。
固まるみたいに、呼吸を忘れたみたいに。
その瞬間が、可笑しかった。
笑ってはいけないのに、笑ってしまいそうだった。喉の奥がひゅ、と鳴ってしまうのを必死に押さえた。
怖い、と告げる男がおかしかった。
あれほど何でもかんでも手に入れたがり、手に入れたあとも何度も確かめないと気が済まない人が。
質問を投げ、答えを引きずり出し、黙っていれば黙っているほど、さらに核心を突いてくる人が。
コントロールすることに長けている、そのはずの男が。
怖い、と。
あの言葉を思い出すだけで、アランの胸はふっと緩みそうになる。
可笑しい、という感情の下に、別のものが混じっている。――驚きと、妙な温かさと、そして少しの苦み。
レギュラスはいつも、揺れない。
婚姻を決めた瞬間から、態度はぶれていない。愛していると言い、抱き、支え、与え、奪う。
揺れて過ちを犯すのは、いつも自分だった。
それなのに昨夜は、揺れたのが彼のほうだった。
揺れたと言っても、取り乱したわけではない。声を荒げたわけでもない。いつものように丁寧に、柔らかい口調のまま――それでも、ほんの一瞬、手の中の確信が抜け落ちたような止まり方をした。
その止まり方を、アランは見てしまった。
彼の視線が遠くを見たまま、戻ってこない瞬間があった。
自分の体ではなく、今ここにないもの。
血の匂い。鉄の味。肌の硬さ。うつろになる意識。
あの日、アルタイルを生んだ夜の、部屋中の赤い空気。
あの光景が、彼の中にも残っている。
その事実が、アランを黙らせた。
責める言葉も、突き放す言葉も、そこで一度喉の奥に沈んだ。
――この男にも、こんな弱さがあったのか。
その弱さが、自分の命に触れているせいだというのが、なおさら奇妙だった。
自分の命が、この男の弱点になってくれるのかと。
思ってしまった。
それは、危うい考えだ。
弱点だと思った瞬間、そこを握りしめたくなる。復讐のように、救いのように。
けれど同時に、それは甘い錯覚でもある。弱点になったからといって、許されることが増えるわけではない。奪われたものが戻ってくるわけでもない。
許さないと思う気持ちがある。
数え出すときりがない。
あの手の甲を踏みつけられた痛み。腕に刻まれた、治癒呪文が効かない文字の傷。
父の前で涙を拭われた屈辱。
ローランドの名を、望んでいない場面で口にさせられた夜。
叶えられなかった未来を思い出すたび、胸の中に小さな棘が増えていく。
それでも昨夜、彼が怖いと告げた声には、嘘がなかった。
怖いと言いながら、彼はその恐怖をこちらに投げつけなかった。責任の形にして押し付けたりもしなかった。
ただ、認めた。
認めてしまったことが、彼にとってどれほど癪かも、痛いほど分かった。
アランは寝台の中で静かに息を吐いた。
肩口に落ちた自分の髪が、しっとりと肌に張り付く。シーツは温かく、体の輪郭を柔らかく包んでいる。
部屋の隅の揺らめく光が、レギュラスの横顔の線を細く浮かび上がらせた。寝台の端に片肘をつき、どこか遠い場所を見ていた彼の灰色の瞳。
あの瞳が、ほんの一瞬だけ、迷った。
「……」
笑いそうになったことを、アランは悔やんだ。
彼の弱さを可笑しがる資格など、自分にはない。
なのに、可笑しかった。可笑しいという感情の奥で、胸が温まってしまったのも事実だった。
彼の機嫌がいいとき、ほっとする。
彼が笑っているとき、胸が暖かくなる。
彼が不機嫌になると、声を発するのも苦しくなる。どうにかしてその棘を抜いてやりたいと、情けないほど本気で思ってしまう。
――嫌悪だけなら、こんなふうにはならない。
そう思った瞬間、怖くなった。
自分がまた、揺れているのが分かるから。
許さないと決めたはずの心が、彼の弱さに触れた途端、形を変えようとする。
アランは、そっと手を伸ばした。
レギュラスのローブの袖ではない。そこに縋ることは、もうしたくなかった。
かわりに、彼の手首に触れた。脈が一定のリズムで打っている。驚くほど人間らしい温度が、そこにある。
レギュラスが視線を戻す。
アランの手を見て、それから顔を見た。
「……笑ってるんですか」
責めるようでいて、責めきれない声だった。
いつものように逃げ道を塞ぐ質問の形をしているのに、どこか不安が滲む。
その不安に気づいてしまうと、胸がまた変なふうに疼いた。
「笑っていません」
アランは首を振った。
否定は簡単だ。けれど、簡単に言うほど軽くしたくなかった。
だから一拍置き、ちゃんと息を整えて続ける。
「……ただ、驚いただけです。あなたが、怖いと口にするなんて」
レギュラスは目を細める。
そのまま、いつもの調子に戻ろうとするのが分かった。皮肉の一つでも落として、主導権を取り戻すために。
「あなたに、僕の弱みを見せたのは失策でしたね」
柔らかく、刃のある言い方。
その刃に、アランは今回は逃げなかった。逃げると、また彼は追ってくる。追わせれば、さらに深く刺してくる。
逃げないで、静かに受け止めたほうが、この男には効くことがあると、少しずつ覚えてしまった。
「失策ではありません」
アランの声は、寝室の空気の中で静かに響いた。
自分の声が、こんなにも真っ直ぐになることに、アラン自身が驚いた。
「……弱いところを見せたからといって、あなたがあなたでなくなるわけではありません」
レギュラスは、すぐには返さない。
返せないのか、返したくないのか。
その沈黙を、アランは怖がらなかった。
腕に残る羽ペンの傷が、じくりと痛んだ。
治らない痛みが、許しを拒む。
それでも、痛みがあるからこそ分かることもある。自分はまだ、感じている。生きている。鈍くなっていない。
アランは、レギュラスの手首から指先へ、ゆっくりと触れ方を変えた。
丁寧な動作にすると、彼の目が微かに揺れる。
自分の触れ方一つで、この男が息の仕方を変えるのが分かる。それが支配ではないのに、支配に似た手応えを持ってしまうのが怖い。
けれど、その怖さごと――受け止めたいと思った。
「怖いなら、怖いままで」
声にした途端、胸が熱くなった。
こんな言葉を自分が口にするなんて、数日前の自分は想像もしなかった。
許せない。
それでも。
「……あなたが恐れているのが、私の痛みなら」
アランは小さく息を吸った。
奪われたものの数は、減らない。叶えられなかった未来も、消えない。
ローランドの名を思い出すと、胸の奥の柔らかいところがまだ痛む。
それでも今、目の前にいる男の弱さが、ほんの僅かに自分の心をほどいてしまう。
「それは、私の命があなたの中で重いということですよね」
言葉にした瞬間、レギュラスの瞳が鋭くなる。
その鋭さは、怒りではない。
不意に核心を突かれたときの、あの男の反射だ。
「……そんな言い方をすると、僕があなたに負けてるみたいじゃないですか」
やっと返ってきたのは、いつもの皮肉だった。
けれど、その皮肉は、どこか弱い。
刃の形をしているのに、切れ味が鈍っている。
アランは、ふっと笑ってしまった。
今度は誤魔化せない。
笑いは漏れ、胸の奥から自然に湧いた。
その笑いに、レギュラスの眉が僅かに動いた。
怒る一歩手前の気配を見せるのに、怒りきれない。
アランは、笑いを止めようとせずに、代わりにそっと額を寄せた。
触れる距離にしてしまえば、刃は入りにくい。彼は触れているものを乱暴に切り裂けない。
切り裂けるときもある。けれど今夜は、その気配が薄い。
「負けているとは思いません」
囁くように言った。
目を閉じると、彼の呼吸が頬に触れる。
「ただ……あなたが怖いと言ったことが、私には――」
言葉を選ぶのが難しかった。
嬉しいと言えば軽すぎる。
救われたと言えば嘘になる。
許したと言えば、まだ遠い。
だから、正直に近い形を探して、ゆっくり告げる。
「……あなたが、ちゃんと人間に見えました」
沈黙が落ちた。
怒鳴られるかもしれない。
嘲られるかもしれない。
優しく抱き潰されるかもしれない。
それでもアランは逃げなかった。
逃げたくなかった。
レギュラスの手が、アランの背に回る。
抱き寄せる力は強いのに、触れ方は不思議なくらい丁寧だった。
支配と命令と強制を、言葉ではナチュラルに染み込ませてくるくせに、触れる手はどこまでも優しい。
その矛盾が、やはりアランを混乱させる。混乱させながら、同時に、胸の奥の冷えを少しだけ溶かしていく。
「受け止めたいだなんて、優しいこと言わないでください」
レギュラスの声は、甘いのに、逃げ道を塞ぐ。
優しさの形を借りて、責任をこちらに背負わせる言い方。
それが腹立たしいのに、今夜はその腹立たしさを、嫌悪の一色にできなかった。
「あなたが受け止めたら、僕はそれを当然のように欲しがる」
囁きが、耳の近くに落ちる。
欲しがる。
当然のように。
彼らしい言葉だった。
アランは目を閉じた。
許さないと決めたはずのものが、胸の奥で揺れる。
奪われた未来は、戻らない。
それでもこの男の弱さに触れてしまった以上、もう知らなかった頃には戻れない。
「……当然だと思わないでください」
口をついて出たのは、少しだけ刃の混じった言葉だった。
自分でも驚くほど、小さな反抗。
それでも言ってしまった。
レギュラスが、短く笑った。
嬉しそうでもあり、危うそうでもある笑いだった。
「そういうところですよ、あなたは」
責めているのに、愛おしさが滲む。
その滲みが、アランの胸をまた痛くする。
この男を、一生許したくないと思うのに。
この男の弱さごと受け止めたいと思ってしまう自分がいる。
アランは、そっとレギュラスの頬に手を当てた。
温度を確かめるように。
確かにここにいると知るために。
「……怖いなら、怖いままでいいです」
もう一度言った。
今度は、迷いなく。
「私は、ここにいます」
その言葉が落ちた瞬間、レギュラスの腕の力がわずかに強まった。
まるで、どこかに逃がすまいとするように。
それでも抱擁の温度は、乱暴ではない。
丁寧で、優しくて、そして――あまりにも重い。
アランはその重さに、目を閉じたまま息を吐いた。
重いのは、愛なのか、所有なのか、罪悪感なのか。
どれも混じっている。
混じっているからこそ、わからない。
わからないままでも、今夜だけは、その弱さに触れた手を離したくなかった。
朝の屋敷は、いつもより少しだけ静かだった。
大理石の床は薄い光を返し、階段の手すりに絡む金の装飾は、寝起きの目には眩しいほど繊細に輝いて見える。どこかで銀器の触れ合う音がして、遠くで使用人の足音が吸い込まれていく。日常の音ばかりだ。――それなのに、胸の奥に小さな棘が残る日常だった。
アランはその棘を、いつも通りに隠していた。
いつも通りに背筋を伸ばし、いつも通りに歩幅を揃え、いつも通りに「ブラック家の妻」の顔で階段を降りていた。髪はきちんと整えられ、薄く香る香水が朝の空気に溶ける。誰が見ても欠点のない所作。そこにほんのわずかな、疲れの影が混じっていることを――隣に立つ男だけが知る。
階段の中ほど、光の当たり方が変わる場所。
絨毯の縁取りがほんの少し浮き、靴裏がそれに引っかかるような感覚があった。
アランの足首が、わずかに捻れた。
たったそれだけ。たったそれだけで、世界が反転する。
息が止まる。
手すりに触れようとした指先が空を掴む。
視界の端で、絵画の額縁が歪んで流れた。
落ちる――と、頭が理解した瞬間にはもう、身体は重力に支配されていた。
「アラン!」
声が割れた。
礼儀も距離も、呼び方すらも追いつかない、剥き出しの叫びだった。
ローランド・フロストが動いた。
早すぎるほど早く。躊躇のない駆け寄り方だった。手を伸ばし、階段を駆け上がるでも駆け下りるでもない、転げ落ちる体へ向かって一直線に距離を詰める。普段なら「ブラック夫人」と呼ぶはずの唇が、その余裕をなくしたまま、昔の呼び名を吐き出してしまう。
同じ瞬間、レギュラスも気づいていた。
視界に入った足の崩れ、肩の揺れ、落下の軌道――理解は一瞬だった。自分の体が反射で動く。手が伸びる。だが、間に合わない。ほんの半拍。たった半拍の遅れが、永遠の距離になる。
落ちる音は大きくない。
絨毯が衝撃を吸う。けれど、吸いきれなかった鈍い打音が、階段の空間に不自然に響いた。アランの呼吸が、苦しそうに掠れる。
ローランドが膝をつき、彼女の肩を支えた。
抱き起こす手は震えているのに、触れ方だけは驚くほど丁寧だった。まるで壊れものを扱うように、いや――本当に、壊したくないものを扱うように。
アランの髪がほどけ、頬にかかる。
白い肌に赤が浮いた。鼻の頭に、頬の高い位置に、上唇の端に。滲む血は最初、細い線のようだったのに、彼女が息を吸うたびに、熱を含んだ色が少しずつ広がっていく。
痛みが遅れて来る。
それを認めた瞬間、アランの睫毛が濡れた。涙か、それとも生理的な反射か。けれど、彼女は泣き声を立てない。声を出せるのに、出さない。痛みの中でも「見せない」を選ぶ癖が、身体に染み付いている。
「……っ、だいじょうぶ……」
喉の奥で掠れた声がかろうじて形になる。
大丈夫であるはずがないのに、大丈夫と言おうとする。その言葉を聞いて、レギュラスの胸の内側が――硬く、冷たく、音を立てて締まった。
レギュラスは階段を二段飛ばしで降り切り、二人の前に立った。
視線はまず、床に散った小さな血の点を捉え、次にアランの顔へ移る。鼻先の赤。頬骨の上の滲み。上唇に沿う線。どれも、彼女の美しさを壊すほどの量ではない。だが、壊すのに十分な事実だった。――この屋敷で、レギュラスの妻が傷ついた。
そして、もうひとつ。
先ほどの叫び。
「アラン」と呼んだ声。
レギュラスはそれを、しっかり聞いていた。
耳に残るのは音だけではない。呼ばれ方に含まれた体温、迷いのない距離、咄嗟に漏れた当然の響き。あれは礼節で繕えない。取り繕う暇がない時に出るものだ。
ローランドがようやく顔を上げ、レギュラスの視線とぶつかった。
その瞬間、彼の表情から血の気が引く。自分が何を叫んだか、今になって理解したように。遅すぎる後悔が、目の奥で揺れた。
「……ブラック様、失礼を……」
ローランドの声は丁寧だった。
けれど丁寧さが、今はかえって惨めに響く。礼儀で塗り直しても、先ほどの呼び名は消えない。消せるわけがない。
レギュラスは笑わなかった。
怒鳴りもしない。
ただ、あまりにも静かに息を吸って、アランの方へ身を屈めた。
「動かないでください」
声は柔らかい。いつも通りだ。
だが、その柔らかさの奥にある硬さが、床の冷たさより鋭い。
アランが一瞬、ローランドの手に縋りかけた。
恐怖でも、痛みでもない。反射だ。支えを求める、ただの身体の癖。けれどその動きが、レギュラスの内側で別の意味を帯びて燃えた。
「……こちらへ」
言葉が落ちる。
レギュラスの手がアランの肩と背に回り、ローランドの腕から彼女を受け取る。受け取るというより、取り返すに近い。乱暴ではない。むしろ慎重だ。慎重で丁寧で、だからこそ否応なく伝わる所有の圧。
アランの体がレギュラスの胸に収まった。
香水の匂いに、鉄の匂いが混ざる。血はわずかだ。それでも、匂いだけは鋭く主張する。レギュラスの腕の中で、アランが小さく震えた。痛みか、冷えか、それとも――この場の空気か。
「……レギュラス、わたし……」
レギュラスはアランの顔に手を添え、鼻先の血を親指で拭った。
血が指に移る。その赤が、なぜか不快なほど鮮やかに見えた。白い肌に、薄い赤。美しいはずのコントラストが、今はただ残酷だ。
「医務魔法使いを」
振り向きもせず、短く命じる。
近くにいた使用人が息を呑み、すぐに走り去った。
ローランドは立ち上がろうとした。
手伝うべきだと、礼節として当然だと、身体が動きかける。
「フロスト殿」
レギュラスが呼ぶ。
その声は穏やかだ。だからこそ、足元の床が抜けるほど冷える。
ローランドが止まる。
「……ありがとうございました」
礼を言う場面の言葉だ。
だが、そこに含まれる意味は一つではない。助けたことへの礼なのか、余計なことをしたことへの区切りなのか。その曖昧さが、刃になる。
レギュラスの視線が、ローランドの口元に落ちる。
さっきまでそこから出ていた呼び名の残響が、まだ消えないように見える。
「でも、もう結構です」
柔らかい断絶だった。
ローランドは小さく息を飲んだ。
言い返せる立場ではない。そもそも言い返す気力もない。レギュラスの腕の中で、アランが微かに身じろぎしたことが見えてしまった。自分の叫びが彼女を揺らしたことも、彼女の傷が自分の罪のように胸へ落ちてくることも、耐えがたかった。
「……ブラック様。夫人、どうか……」
言いかけて、止まる。
その先を言えば、また呼び方が崩れる気がした。崩れてはいけない。崩れた瞬間、今度こそ取り返しがつかない。
アランが、レギュラスの腕の中で目を閉じた。
痛みで顔を歪めているのに、その横顔は相変わらず整っている。整っているからこそ、血が痛々しい。
レギュラスはアランを抱いたまま、階段を上がらず、逆に廊下の奥へ向かった。
寝室に近い、静かな部屋。医務魔法使いが来るまで横になれる場所。アランが揺れないように、歩幅を微細に調整する。丁寧に、慎重に。触れる手の温度は優しいのに、抱く力は揺るがない。
通り過ぎざま、ローランドの耳に、低い声が落ちた。
「……さっきの呼び名は」
問うでもなく、責めるでもなく。
ただ、事実として置くように言った。
「聞きました」
それだけで十分だった。
ローランドの背筋が凍りつく。
アランは目を閉じたまま、唇を噛みしめる。上唇の血が、そこに小さく滲み直した。
屋敷の朝の音は、変わらず続いていた。
銀器の触れ合い、遠くの足音、風に揺れるカーテンの擦れる音。
何も変わらない日常の音が、変わってしまった何かを際立たせる。
レギュラスの腕の中で、アランの体温が僅かに震える。
その震えの理由を、アランは言葉にしない。
言えないのではない。言えば、また別の地獄が開くと知っているからだ。
そしてレギュラスは――その沈黙の意味を、もう見落とさない男だった。
「いらっしゃいませ」
使用人の声に続いて、軽い足音。弾むような、けれど礼儀を忘れない足取りでクラリッサ・ブラックバーンが現れた。淡い色の外套の襟を整えながら、頬を少し紅くしている。慣れない訪問先でも、怯むより先に笑ってしまう子だ。明るさが先に立つ。そのくせ、頭を下げる角度だけはきちんと身につけている。
後ろにはローランド・フロストが続いた。黒いコートの肩に冷気を残したまま、玄関の中央でいったん立ち止まり、屋敷の当主に対する距離をきっちり測るように姿勢を正す。
「ブラック様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「どうぞ。遠縁とはいえ、足を運ぶのに招き状が必要だなんて堅いことは言わないでください」
柔らかい笑みを浮かべたレギュラスが、そう言って軽く腕を広げる。言葉は気安く、声は穏やかなのに、そこにこの場の主は誰かという圧が染みている。
「クラリッサ、よく来ましたね」
名を呼ぶだけで、クラリッサはぱっと顔を輝かせた。
「レギュラス様、お久しぶりです! ……あ、えっと、今日は、ちゃんとご挨拶をしようと思って」
口にした途端、少し照れたように笑って、自分の外套の裾をつまむ。その仕草がまだ幼い。けれど、それを幼いまま許される家柄と年齢と立場が、彼女の周りに薄い膜のように張っている。
応接間に通されると、暖炉の火が落ち着いた温度を作っていた。磨かれた木の床、濃い色のソファ、カーテンの重み。来客を歓迎する整い方の中で、一つだけ、いつもより生活の匂いがするものが置かれている。机の上の積み木と、数のカードと、読みかけの絵本。
「……まぁ」
クラリッサの声が、思わず小さく漏れた。
ソファの近くで、アルタイルが積み木を並べていた。五歳になったばかりの身体つきはまだ幼いのに、背筋の伸び方が妙に大人びている。遊んでいるはずなのに、配置は規則的で、視線は真剣だ。口元だけが子供らしく、少し開いている。
ローランドが膝を折り、机の向こうからカードを一枚差し出している。
「アルタイル様。これは、どれと同じ数ですか」
「これ」
迷いなく指を伸ばし、正解のカードを選ぶ。その速さが、可愛げを通り越して鋭い。
「すごい……」
クラリッサは思わず手を口元に当てた。瞳がきらきらと揺れる。こういう時、彼女の感情は隠れない。隠そうともしない。
アルタイルが顔を上げた。見知らぬ人ではないと理解したのか、すぐに笑う。
「こんにちは!」
声の張りも、礼の軽さも、子供らしい。そこだけが救いのように愛らしい。
「こんにちは、アルタイル様」
クラリッサが膝を折って目線を合わせると、アルタイルは得意げに胸を張る。
「ぼく、いまね、かず、できるよ」
「まぁ、えらいわ。ローランド様に教えていただいているの?」
「うん。フロストせんせい」
その呼び方が、どこか大人びていて可笑しい。ローランドは微笑みかけ、すぐに表情を正す。屋敷の空気に自分を合わせるのが上手い人だ。上手くならざるを得なかったのかもしれない。
そこへ、アランが紅茶の盆を手に現れた。運んでいるのは使用人でもよかったはずだ。それでも彼女が自ら出てくるのは、妻としての位置を崩さないためだろう。薄い陶器のカップが小さく鳴ることもなく、彼女の歩みは静かだった。
「いらっしゃいませ、クラリッサ様。フロスト殿も」
微笑みは完璧で、声の温度も整っている。見る者に安心だけを与える顔。正しさが美しさの一部になっている。
クラリッサはぱっと立ち上がり、少し勢いよく頭を下げた。
「ブラック夫人……! お会いできて嬉しいです。いつも、ローランド様から……えっと、その……お世話になっていると聞いて」
言葉の端が跳ね、途中で自分でも言い方を迷ったのが分かる。アランは崩れない。
「こちらこそ。フロスト殿には、アルタイルの学びを助けていただいています」
その助けていただいていますが、どこまでを含んでいるか。知っている者には、重く響く。けれどアランはそれを重くしない。重くなる余地を顔に出さない。
レギュラスは、暖炉前の椅子に腰掛けたまま、そのやりとりを眺めていた。紅茶が注がれ、湯気が上がる。カップを持つアランの指先の美しさ。クラリッサの無邪気な視線。ローランドの背筋に走る見えない緊張。どれも、面白いくらいに整っていく。
「座ってください、クラリッサ。今日はゆっくりしていくといい」
「はい! ……あの、アルタイル様のこと、もっと見てもいいですか?」
「もちろん。アルタイル、クラリッサに挨拶を」
「こんにちは、クラリッサ!」
アルタイルがぺこりと頭を下げる。少し遅れて、クラリッサも同じように頭を下げた。真似をするのが上手い。真似で覚える年頃の素直さが、そのまま可愛らしい。
クラリッサはソファの端に座り、アルタイルの積み木を見守るように身を乗り出した。ローランドはいつもの距離でカードを並べ、説明を続ける。途中、アルタイルが言葉を探すと、ローランドがすぐに答えを与えず、少しだけ待つ。急がせない。促すだけ。丁寧で優しい進め方だ。
それを眺めながら、クラリッサの頬が少しずつ緩んでいく。やがて、我慢できなくなったように小さく息を吸い――
「……ローランド様」
呼びかける声が、妙に甘えた色を帯びた。
「はい、クラリッサ」
ローランドが振り向く。呼び方ひとつで、夫婦の距離が分かる。丁寧なのに優しい。幼妻を急がせない、と決めている人の声だ。
クラリッサはカップの取っ手を両手で包みながら、目だけをローランドに向けた。
「アルタイル様って……本当に、すごく可愛いです。……それに、賢い」
「ええ。驚かされます」
ローランドは穏やかに頷いた。だが、その頷きが終わる前にクラリッサが続けた。
「ねえ。……そろそろ、私たちも……」
言い終えた瞬間、応接間の空気が一枚薄くなる。暖炉の火は変わらないのに、温度だけが少しだけ下がったように感じる。
ローランドの指先が止まった。カードを持ったまま、宙で固まる。ほんの一瞬だ。それでも、見逃せないほどの気まずさがそこに現れた。彼の優しさが、優しさのまま、言葉に詰まる瞬間。
クラリッサは、それに気づいていない。気づかないから言える。幼さの強さだ。
「赤ちゃん。……だめ、ですか?」
問いの形は小さくて可愛いのに、刺さる場所は深い。
アランは微笑みを崩さなかった。眉も動かさない。視線の揺れも見せない。カップをソーサーに置く指先が、ただ静かに完璧だ。正しさが崩れない。崩れないからこそ、そこに何が隠れているのか、見る者は勝手に想像してしまう。
レギュラスは、その様子を面白がるように眺めた。表情は穏やかなままなのに、胸の内では薄く笑っている。アランの正しさも、ローランドの詰まりも、クラリッサの無邪気さも、すべてが同時に並ぶこの構図が、あまりに出来が良い。
「クラリッサ」
レギュラスが名を呼ぶ。たしなめるでもなく、冷やすでもない。あくまで柔らかい声だ。
クラリッサがぱっとこちらを向く。
「はい、レギュラス様」
「その話は、二人の間でゆっくり。――でも、そうですね。アルタイルがいると、自然に思いますよね」
正しい言葉に見える。世間話の延長に見える。けれどローランドの背中に、もう一枚、重い布がかぶせられたのが分かる。逃げ場が減る。話題が自然に固定される。
ローランドは、礼儀のために笑みを作ろうとし、作り切れなかった。作り切れないのは、クラリッサの願いが純粋だからだ。純粋であるほど、拒むことが残酷になる。
「クラリッサ……」
ローランドが、ようやく声を出す。いつもの丁寧な声だが、少しだけ乾いている。
「急がなくていいんです、クラリッサ」
クラリッサは唇を尖らせた。わがままを言うことを許されて育った子の顔だ。
「でも……私、ずっと……」
言いかけて、クラリッサはアルタイルの方を見た。アルタイルは積み木を並べながら、ちらりとこちらを見上げる。空気が薄くなったのを、子供なりに感じ取ったのかもしれない。
「……わたし、抱っこ、したいです」
その言い方が、あまりにも可愛らしくて、残酷だった。
アランが静かに立ち上がる。視線を崩さないまま、アルタイルの横へ歩み寄り、彼の髪を撫でる。
「アルタイル。クラリッサ様に、ご挨拶に行きますか」
「うん」
アルタイルは素直に立ち上がり、アランの手を取った。そのままクラリッサの前へ行く。アランはクラリッサに向けて微笑む。
「抱っこされますか。アルタイル、いい?」
「いいよ!」
アルタイルが両腕を広げると、クラリッサは嬉しそうに立ち上がって抱き上げた。五歳の重みが腕に乗る。彼女の身体はまだ細いのに、必死に支える。その必死さが、いじらしい。
「わぁ……重い。……でも、あったかい……」
クラリッサの頬がふわりと緩む。アルタイルは得意げに笑い、クラリッサの髪を指でつまんで遊んだ。
「くすぐったいです、アルタイル様」
「アルタイル、髪はだめです」
アランが優しく言う。声の柔らかさも、叱り方も、完璧に母親だ。その完璧さが、誰かの胸をさらに締めつける。
ローランドはそれを見て、視線を落とした。目の前にいるのは、自分の妻が抱きしめる他人の子だ。けれど、その子の顔立ちや仕草の端々に、かつて想像した未来の影が見える。見えてしまうから、苦しい。苦しいのに、礼節を守るために息を整えなければならない。
レギュラスは、ローランドのその沈黙を楽しむように、カップを口元へ運んだ。
「クラリッサ、腕は大丈夫ですか」
「だいじょうぶ、です……! ちょっと、きついけど……でも、嬉しいです」
言いながら、クラリッサはローランドを見た。まっすぐに、期待を隠さずに。そこに駆け引きはない。欲しいものを欲しいと言う。手段も正面から選ぶ。彼女はそういう子だ。
ローランドは喉を鳴らし、微笑みを作った。作らなければいけない。
「……可愛いですね。アルタイル様は」
「でしょ?」
クラリッサが嬉しそうに言う。そのでしょ?が、夫に向ける甘えであり、確認であり、お願いだった。
アランは、ただそこに立っていた。美しさも正しさも崩さないまま。クラリッサの腕の中で笑う息子を見つめ、その背後で固まっているローランドを視界に入れながら、何も言わない。言わないことが一番正しいと知っている人の沈黙だ。
レギュラスは、その沈黙が好きだった。
崩れない妻。
崩れそうな男。
無邪気な少女。
三つが同じ部屋に揃うだけで、空気が勝手に歪む。歪むほどに、主導権が自分の手の中に戻ってくる。
「クラリッサ。重いなら、無理はしないでください。——アルタイル、そろそろ降りてあげてください」
「えー」
「えーじゃありません」
レギュラスが笑みのまま言うと、アルタイルは口を尖らせたが、すぐにクラリッサの腕から降りた。従い方が早い。可愛らしいのに、命令が通る。そこに血が見える。
アルタイルが床に降りると、クラリッサは名残惜しそうに両手を胸元に寄せた。
「……やっぱり、いいなぁ」
ぽつりと漏れた声が、今度は小さかった。小さいのに、刺さる。ローランドの背筋がわずかに強張るのが分かった。
アランは一礼する。
「クラリッサ様。もしよろしければ、育児のことなど、分かる範囲でお話しします」
それは親切の形をしていて、同時にここに立つのは自分だという宣言でもあった。妻として。母として。ブラック家の女として。
クラリッサは嬉しそうに頷く。
「ぜひ……! ブラック夫人、すごく憧れます。あんなに綺麗で……それで、アルタイル様みたいな……」
言葉がしどろもどろになる。純粋な賛辞。悪意がない分、余計に残酷だ。
アランは、微笑みを少しだけ深くした。
「ありがとうございます。——でも、綺麗に見えるのは、周りが整えてくれるからです」
その周りに、レギュラスは当然入っている。クラリッサにも分かる言い方で、夫の力を立てる。正しい妻だ。
レギュラスは満足しながら、ローランドの方に目を向けた。
「フロスト殿。クラリッサは素直でいい。——あなたは、どうします?」
問いの形をしているのに、逃げ道を狭める言い方だった。ローランドはすぐに答えなければならない。曖昧は許されない。けれど正解は一つしかない。
ローランドは静かに息を吸い、クラリッサを見た。優しい目を作る。作りながら、胸の奥で何かが軋む。
「……クラリッサの気持ちは、大切にします」
それ以上は踏み込めない。踏み込めば、どこかが壊れる。
クラリッサはその答えに、少しだけ満足したように笑った。笑ってしまう。信じてしまう。彼女はそういう子だ。
レギュラスは、その笑みまで含めて面白かった。
アランは、微笑みを崩さないまま、紅茶のポットを持ち直した。カップに注ぐ音が、静かな部屋に小さく落ちる。
正しい音。正しい温度。正しい距離。
その正しさの隣で、ローランドだけが、どこまでも居心地の悪いまま背筋を伸ばしている。
レギュラスはカップを傾けながら思う。
この部屋の均衡は、ひどく美しい。
そしてその均衡が、誰の痛みの上に成り立っているのか——自分だけがよく知っている。
寝室は、昼間の応接間とは別世界だった。
蝋燭の火は低く揺れ、重いカーテンが外の音を切り落とす。暖炉の熾火がまだ赤く、部屋の奥に甘い熱を滲ませている。夜会用の礼装はとっくに脱がされ、整えられた髪も、いくらかほどけていた。
アランは寝台の上で、枕に沈むように横たわっている。
昼間、クラリッサの無邪気な声に一度も揺れなかった微笑みが、今は少しだけ薄い。けれどそれも、疲れのせいなのか、夜の灯りのせいなのか、判別がつかないくらい静かだ。
レギュラスはその顔を見下ろしながら、ふっと息を零した。
今日という一日が、きれいに片付いたような気がしていた。訪問、会話、空気の歪み、ローランドのぎこちなさ。アランの正しさ。どれも予定通りの位置に収まっている。収まってしまえば、満足が残る。
「今頃きっとフロスト殿は励んでいるでしょうし。僕たちも考えませんか」
言い方は軽い。冗談めいた口調に寄せた。
だが、言葉の芯は柔らかくない。逃げ道のない提案として、ちゃんと投げる。
アランは一拍置いて、頷いた。
否定もしない。肯定を熱っぽくも口にしない。
ただ、夫の望む通りに。
その従い方が、レギュラスの胸を満たした。抵抗で引き裂かれることのない夜が、どれほど安らかかを、身体が先に知ってしまっている。
寝台の軋みが、小さく鳴った。
指先で確かめるように触れた肌は温かく、呼吸の上下がゆっくりと伝わってくる。所有の感覚は、こういう些細なところから確かになる。――触れられるのが、触れていいのが、ここにいるのが、当然自分だけなのだと。
そのまま、次の段階へ進めようとして。
ふいに、視界の端に、別の光景が差し込んだ。
赤い。鉄の匂い。
桶に落ちていく濁った液体の音。
呻き声を噛み殺し、最後にふっと意識を手放したアランの横顔。
喉の奥が冷える。
指先が、ほんの少しだけ止まった。
「……」
息が詰まるほどの沈黙は作りたくなかったのに、身体が言うことを聞かない。
平気な顔で押し切れるはずなのに、押し切った先にある万が一が、暗闇よりはっきり見えてしまう。
アランが目を瞬かせた。
肌に触れているのに、視線は静かで、逃げない。
「どうしました?」
問いは柔らかい。けれどその柔らかさが、逆に刺さった。
恐れを見透かされるのが嫌だ。
こんなところで弱さを晒すのは、好みじゃない。
それでも、口が勝手にほどけた。
「二人目は欲しいですが、やっぱり踏み切れないんですよ」
溜息みたいに落ちた声が、部屋の熱に溶けた。
言ってしまえば簡単だった。言わなければ、もっと苦しかった。
避妊を怠らなかったのは、理性のためでも、秩序のためでもある。
だが本当は、恐怖のためだった。
またあの匂いと音を、同じ顔で、同じ体で、アランに背負わせることになるかもしれない。そう考えるだけで、胃の奥がひっくり返りそうになる。
アランは少しだけ目を細めた。責める気配はない。けれど、なにかを測るような静けさがある。
「あなたらしくありません」
その言葉が、まるで針のように胸に入った。
図星だったからではない。
あなたらしさを、妻に握られていることが気に入らない。
口角に薄く笑みを作る。作った笑みで、崩れかけた威厳を縫い留める。
「どうにもコントロールが効かないことは嫌いなんです」
言いながら、自分でも分かっていた。
嫌いなのは、コントロールが効かないことそのものじゃない。
それを口にしてしまうほど、心が揺れている状態が嫌いなのだ。
アランは、ただ頷いた。
従順の頷きに見える。いつも通りの、正しい妻の頷き。
なのに、今の頷きだけは、慰めにも似ていた。
「……万が一を考えると、恐ろしくなるんです」
もう一度、言葉が零れる。
言葉にしてしまえば、弱さが形になる。形になれば、いずれ支配できる。そうやって自分を納得させた。
アランの手が、そっと伸びた。
触れるだけ。縋るでもなく、押し返すでもない。
指先がレギュラスの手の甲に乗り、温度が移る。
「怖いんですね」
言い当てる声が、残酷なくらい静かだった。
けれど、その静けさがあるからこそ、ここで怒鳴り散らす気になれない。怒りにすり替えられない。逃げ道を潰される。
レギュラスは目を細める。
そのまま、アランの顎に軽く触れ、視線を合わせさせた。優しい動作に見えるように。優しさの形を借りて、主導権を取り戻すために。
「……怖いのは嫌いです」
吐き捨てるのではなく、淡々と告げる。
それでも声の底には、わずかな苛立ちが混じった。――こんなことを言わせるな、と。
アランは目を逸らさない。
逃げない代わりに、強くもならない。
どこまでも、夫の望む温度でそこにいる。
その在り方が、やはり満足だった。
反発で擦り切れるより、沈黙で背を向けられるより、ずっといい。
再び動こうとすると、まだ迷いが胸の奥で小さく暴れる。
だが迷いを抱いたままでも、夜は進められる。
完璧に支配できなくても、腕の中に収めることはできる。
「…… アラン」
名前を呼ぶと、アランの睫毛が揺れた。
返事は短い。
「はい、レギュラス」
その呼び方が、丁寧に整えられているのが分かる。
それが演技だろうが、処世だろうが、もう今はどちらでもよかった。
望む形で返ってくる言葉は、心をなだらかにする。
レギュラスは唇を落とす。
さっきまでの迷いを、火の中へ押し込むみたいに。
優しさの温度を作って、丁寧に重ねる。乱暴に奪えば、また恐怖が戻ってくる。だからこそ、ゆっくりと、確かめるように。
アランの息が少しだけ乱れ、頬が淡く熱を帯びた。
その変化を見て、胸の奥が少し緩む。
「……踏み切れないくせに、欲しがってるのは滑稽でしょう?」
自嘲めいた言葉を、わざと軽く言う。
本心をそのまま出すのは嫌いだ。けれど隠し続けるのも、今夜は難しい。
アランは、ほんの僅かに首を振った。
「滑稽ではありません。……あなたが、ちゃんと考えているだけです」
慰めの言葉なのに、妙に正しい。
正しさがあるぶん、レギュラスの胸を余計にざわつかせる。褒められているようで、包囲されているようでもある。
「……そういう言い方、好きですよ」
褒めた瞬間、自分でも少し可笑しかった。
好きだ嫌いだを口にすると、感情の主導権が相手に渡る。普段なら避ける。
なのに、口にしてしまうくらい、今夜は脆い。
アランは目を伏せ、短く笑う。
それが、機嫌を取るための笑みなのか、心からの笑みなのか、判断はつかない。
判断できないものを、力で決めたくなる衝動が、また首をもたげる。
レギュラスは息を整え、アランの髪を指で梳いた。
弱さに見えるものを、弱さのまま終わらせたくない。
恐怖を持った自分を否定したくて、なおさら夫としての形を整えたくなる。
「……怖いなら、怖いままでもいいですか」
珍しく、許可を求めるような言い方だった。
自分でも気づいて、少し眉を寄せる。らしくない。確かに。
アランは頷いた。
その頷きは、昼間の完璧さと同じ角度で、同じ速度で――それでも、なぜか少しだけ温かかった。
「はい。……ここにいます」
それだけで、胸の底のざらつきが、少しだけ静まった。
完全に支配できないことを、完全に嫌いになれない夜。
それでも、腕の中にいる。息が触れる距離にいる。名前を呼べば返ってくる。
踏み切れないまま、欲しがるまま。
矛盾ごと抱えて進むしかないのだと、ようやく認められた気がした。
レギュラスはアランの額に短く口づけ、もう一度囁く。
「……今夜は、あなたの顔を見ていたい」
命令の形を借りない言葉が、暗い寝室に落ちた。
アランは答えず、ただ視線を合わせる。
その翡翠の瞳に自分が映るのを見て、ようやく、息が深く吸えた。
寝台の縁に落ちた夜の名残が、いつまでも肌の内側に熱として残っていた。
蝋燭の芯はすでに短く、火は細く揺れ、厚いカーテンの向こうの世界を完全に遮断している。外の風も、廊下を歩く足音も、ここまで届かない。届かせないように、この部屋の空気はいつだって整えられている。
昨夜レギュラスは結局、避妊をやめなかった。
次の子が欲しいと、前々から口にしていたくせに。アルタイルを孕んだあと、一度も――一度たりとも、そこを越えて進めたことはない。
そのことを、アランはぼんやりと確かめるように思い出していた。
熱に浮かされたふりをして微笑み、従順な妻の言葉を選び、彼が望む形で頷いて。そうして夜をやり過ごすことに慣れてしまった自分が、昨夜はその最後だけ、彼の意志で止められたという事実に、妙な違和感を覚えていた。
意地悪い言葉は、いつも通りだった。
クラリッサの名を軽く揺らし、ローランドの存在を無遠慮に触れる。そこに含まれる棘に、いちいち表情を崩すほど幼くはないと、アランは自分を戒める癖がついてしまっている。それでも胸の奥はきしんだ。きしんだのに、昨夜はその棘の先が不意に鈍った。
レギュラスが手を止めた。
固まるみたいに、呼吸を忘れたみたいに。
その瞬間が、可笑しかった。
笑ってはいけないのに、笑ってしまいそうだった。喉の奥がひゅ、と鳴ってしまうのを必死に押さえた。
怖い、と告げる男がおかしかった。
あれほど何でもかんでも手に入れたがり、手に入れたあとも何度も確かめないと気が済まない人が。
質問を投げ、答えを引きずり出し、黙っていれば黙っているほど、さらに核心を突いてくる人が。
コントロールすることに長けている、そのはずの男が。
怖い、と。
あの言葉を思い出すだけで、アランの胸はふっと緩みそうになる。
可笑しい、という感情の下に、別のものが混じっている。――驚きと、妙な温かさと、そして少しの苦み。
レギュラスはいつも、揺れない。
婚姻を決めた瞬間から、態度はぶれていない。愛していると言い、抱き、支え、与え、奪う。
揺れて過ちを犯すのは、いつも自分だった。
それなのに昨夜は、揺れたのが彼のほうだった。
揺れたと言っても、取り乱したわけではない。声を荒げたわけでもない。いつものように丁寧に、柔らかい口調のまま――それでも、ほんの一瞬、手の中の確信が抜け落ちたような止まり方をした。
その止まり方を、アランは見てしまった。
彼の視線が遠くを見たまま、戻ってこない瞬間があった。
自分の体ではなく、今ここにないもの。
血の匂い。鉄の味。肌の硬さ。うつろになる意識。
あの日、アルタイルを生んだ夜の、部屋中の赤い空気。
あの光景が、彼の中にも残っている。
その事実が、アランを黙らせた。
責める言葉も、突き放す言葉も、そこで一度喉の奥に沈んだ。
――この男にも、こんな弱さがあったのか。
その弱さが、自分の命に触れているせいだというのが、なおさら奇妙だった。
自分の命が、この男の弱点になってくれるのかと。
思ってしまった。
それは、危うい考えだ。
弱点だと思った瞬間、そこを握りしめたくなる。復讐のように、救いのように。
けれど同時に、それは甘い錯覚でもある。弱点になったからといって、許されることが増えるわけではない。奪われたものが戻ってくるわけでもない。
許さないと思う気持ちがある。
数え出すときりがない。
あの手の甲を踏みつけられた痛み。腕に刻まれた、治癒呪文が効かない文字の傷。
父の前で涙を拭われた屈辱。
ローランドの名を、望んでいない場面で口にさせられた夜。
叶えられなかった未来を思い出すたび、胸の中に小さな棘が増えていく。
それでも昨夜、彼が怖いと告げた声には、嘘がなかった。
怖いと言いながら、彼はその恐怖をこちらに投げつけなかった。責任の形にして押し付けたりもしなかった。
ただ、認めた。
認めてしまったことが、彼にとってどれほど癪かも、痛いほど分かった。
アランは寝台の中で静かに息を吐いた。
肩口に落ちた自分の髪が、しっとりと肌に張り付く。シーツは温かく、体の輪郭を柔らかく包んでいる。
部屋の隅の揺らめく光が、レギュラスの横顔の線を細く浮かび上がらせた。寝台の端に片肘をつき、どこか遠い場所を見ていた彼の灰色の瞳。
あの瞳が、ほんの一瞬だけ、迷った。
「……」
笑いそうになったことを、アランは悔やんだ。
彼の弱さを可笑しがる資格など、自分にはない。
なのに、可笑しかった。可笑しいという感情の奥で、胸が温まってしまったのも事実だった。
彼の機嫌がいいとき、ほっとする。
彼が笑っているとき、胸が暖かくなる。
彼が不機嫌になると、声を発するのも苦しくなる。どうにかしてその棘を抜いてやりたいと、情けないほど本気で思ってしまう。
――嫌悪だけなら、こんなふうにはならない。
そう思った瞬間、怖くなった。
自分がまた、揺れているのが分かるから。
許さないと決めたはずの心が、彼の弱さに触れた途端、形を変えようとする。
アランは、そっと手を伸ばした。
レギュラスのローブの袖ではない。そこに縋ることは、もうしたくなかった。
かわりに、彼の手首に触れた。脈が一定のリズムで打っている。驚くほど人間らしい温度が、そこにある。
レギュラスが視線を戻す。
アランの手を見て、それから顔を見た。
「……笑ってるんですか」
責めるようでいて、責めきれない声だった。
いつものように逃げ道を塞ぐ質問の形をしているのに、どこか不安が滲む。
その不安に気づいてしまうと、胸がまた変なふうに疼いた。
「笑っていません」
アランは首を振った。
否定は簡単だ。けれど、簡単に言うほど軽くしたくなかった。
だから一拍置き、ちゃんと息を整えて続ける。
「……ただ、驚いただけです。あなたが、怖いと口にするなんて」
レギュラスは目を細める。
そのまま、いつもの調子に戻ろうとするのが分かった。皮肉の一つでも落として、主導権を取り戻すために。
「あなたに、僕の弱みを見せたのは失策でしたね」
柔らかく、刃のある言い方。
その刃に、アランは今回は逃げなかった。逃げると、また彼は追ってくる。追わせれば、さらに深く刺してくる。
逃げないで、静かに受け止めたほうが、この男には効くことがあると、少しずつ覚えてしまった。
「失策ではありません」
アランの声は、寝室の空気の中で静かに響いた。
自分の声が、こんなにも真っ直ぐになることに、アラン自身が驚いた。
「……弱いところを見せたからといって、あなたがあなたでなくなるわけではありません」
レギュラスは、すぐには返さない。
返せないのか、返したくないのか。
その沈黙を、アランは怖がらなかった。
腕に残る羽ペンの傷が、じくりと痛んだ。
治らない痛みが、許しを拒む。
それでも、痛みがあるからこそ分かることもある。自分はまだ、感じている。生きている。鈍くなっていない。
アランは、レギュラスの手首から指先へ、ゆっくりと触れ方を変えた。
丁寧な動作にすると、彼の目が微かに揺れる。
自分の触れ方一つで、この男が息の仕方を変えるのが分かる。それが支配ではないのに、支配に似た手応えを持ってしまうのが怖い。
けれど、その怖さごと――受け止めたいと思った。
「怖いなら、怖いままで」
声にした途端、胸が熱くなった。
こんな言葉を自分が口にするなんて、数日前の自分は想像もしなかった。
許せない。
それでも。
「……あなたが恐れているのが、私の痛みなら」
アランは小さく息を吸った。
奪われたものの数は、減らない。叶えられなかった未来も、消えない。
ローランドの名を思い出すと、胸の奥の柔らかいところがまだ痛む。
それでも今、目の前にいる男の弱さが、ほんの僅かに自分の心をほどいてしまう。
「それは、私の命があなたの中で重いということですよね」
言葉にした瞬間、レギュラスの瞳が鋭くなる。
その鋭さは、怒りではない。
不意に核心を突かれたときの、あの男の反射だ。
「……そんな言い方をすると、僕があなたに負けてるみたいじゃないですか」
やっと返ってきたのは、いつもの皮肉だった。
けれど、その皮肉は、どこか弱い。
刃の形をしているのに、切れ味が鈍っている。
アランは、ふっと笑ってしまった。
今度は誤魔化せない。
笑いは漏れ、胸の奥から自然に湧いた。
その笑いに、レギュラスの眉が僅かに動いた。
怒る一歩手前の気配を見せるのに、怒りきれない。
アランは、笑いを止めようとせずに、代わりにそっと額を寄せた。
触れる距離にしてしまえば、刃は入りにくい。彼は触れているものを乱暴に切り裂けない。
切り裂けるときもある。けれど今夜は、その気配が薄い。
「負けているとは思いません」
囁くように言った。
目を閉じると、彼の呼吸が頬に触れる。
「ただ……あなたが怖いと言ったことが、私には――」
言葉を選ぶのが難しかった。
嬉しいと言えば軽すぎる。
救われたと言えば嘘になる。
許したと言えば、まだ遠い。
だから、正直に近い形を探して、ゆっくり告げる。
「……あなたが、ちゃんと人間に見えました」
沈黙が落ちた。
怒鳴られるかもしれない。
嘲られるかもしれない。
優しく抱き潰されるかもしれない。
それでもアランは逃げなかった。
逃げたくなかった。
レギュラスの手が、アランの背に回る。
抱き寄せる力は強いのに、触れ方は不思議なくらい丁寧だった。
支配と命令と強制を、言葉ではナチュラルに染み込ませてくるくせに、触れる手はどこまでも優しい。
その矛盾が、やはりアランを混乱させる。混乱させながら、同時に、胸の奥の冷えを少しだけ溶かしていく。
「受け止めたいだなんて、優しいこと言わないでください」
レギュラスの声は、甘いのに、逃げ道を塞ぐ。
優しさの形を借りて、責任をこちらに背負わせる言い方。
それが腹立たしいのに、今夜はその腹立たしさを、嫌悪の一色にできなかった。
「あなたが受け止めたら、僕はそれを当然のように欲しがる」
囁きが、耳の近くに落ちる。
欲しがる。
当然のように。
彼らしい言葉だった。
アランは目を閉じた。
許さないと決めたはずのものが、胸の奥で揺れる。
奪われた未来は、戻らない。
それでもこの男の弱さに触れてしまった以上、もう知らなかった頃には戻れない。
「……当然だと思わないでください」
口をついて出たのは、少しだけ刃の混じった言葉だった。
自分でも驚くほど、小さな反抗。
それでも言ってしまった。
レギュラスが、短く笑った。
嬉しそうでもあり、危うそうでもある笑いだった。
「そういうところですよ、あなたは」
責めているのに、愛おしさが滲む。
その滲みが、アランの胸をまた痛くする。
この男を、一生許したくないと思うのに。
この男の弱さごと受け止めたいと思ってしまう自分がいる。
アランは、そっとレギュラスの頬に手を当てた。
温度を確かめるように。
確かにここにいると知るために。
「……怖いなら、怖いままでいいです」
もう一度言った。
今度は、迷いなく。
「私は、ここにいます」
その言葉が落ちた瞬間、レギュラスの腕の力がわずかに強まった。
まるで、どこかに逃がすまいとするように。
それでも抱擁の温度は、乱暴ではない。
丁寧で、優しくて、そして――あまりにも重い。
アランはその重さに、目を閉じたまま息を吐いた。
重いのは、愛なのか、所有なのか、罪悪感なのか。
どれも混じっている。
混じっているからこそ、わからない。
わからないままでも、今夜だけは、その弱さに触れた手を離したくなかった。
朝の屋敷は、いつもより少しだけ静かだった。
大理石の床は薄い光を返し、階段の手すりに絡む金の装飾は、寝起きの目には眩しいほど繊細に輝いて見える。どこかで銀器の触れ合う音がして、遠くで使用人の足音が吸い込まれていく。日常の音ばかりだ。――それなのに、胸の奥に小さな棘が残る日常だった。
アランはその棘を、いつも通りに隠していた。
いつも通りに背筋を伸ばし、いつも通りに歩幅を揃え、いつも通りに「ブラック家の妻」の顔で階段を降りていた。髪はきちんと整えられ、薄く香る香水が朝の空気に溶ける。誰が見ても欠点のない所作。そこにほんのわずかな、疲れの影が混じっていることを――隣に立つ男だけが知る。
階段の中ほど、光の当たり方が変わる場所。
絨毯の縁取りがほんの少し浮き、靴裏がそれに引っかかるような感覚があった。
アランの足首が、わずかに捻れた。
たったそれだけ。たったそれだけで、世界が反転する。
息が止まる。
手すりに触れようとした指先が空を掴む。
視界の端で、絵画の額縁が歪んで流れた。
落ちる――と、頭が理解した瞬間にはもう、身体は重力に支配されていた。
「アラン!」
声が割れた。
礼儀も距離も、呼び方すらも追いつかない、剥き出しの叫びだった。
ローランド・フロストが動いた。
早すぎるほど早く。躊躇のない駆け寄り方だった。手を伸ばし、階段を駆け上がるでも駆け下りるでもない、転げ落ちる体へ向かって一直線に距離を詰める。普段なら「ブラック夫人」と呼ぶはずの唇が、その余裕をなくしたまま、昔の呼び名を吐き出してしまう。
同じ瞬間、レギュラスも気づいていた。
視界に入った足の崩れ、肩の揺れ、落下の軌道――理解は一瞬だった。自分の体が反射で動く。手が伸びる。だが、間に合わない。ほんの半拍。たった半拍の遅れが、永遠の距離になる。
落ちる音は大きくない。
絨毯が衝撃を吸う。けれど、吸いきれなかった鈍い打音が、階段の空間に不自然に響いた。アランの呼吸が、苦しそうに掠れる。
ローランドが膝をつき、彼女の肩を支えた。
抱き起こす手は震えているのに、触れ方だけは驚くほど丁寧だった。まるで壊れものを扱うように、いや――本当に、壊したくないものを扱うように。
アランの髪がほどけ、頬にかかる。
白い肌に赤が浮いた。鼻の頭に、頬の高い位置に、上唇の端に。滲む血は最初、細い線のようだったのに、彼女が息を吸うたびに、熱を含んだ色が少しずつ広がっていく。
痛みが遅れて来る。
それを認めた瞬間、アランの睫毛が濡れた。涙か、それとも生理的な反射か。けれど、彼女は泣き声を立てない。声を出せるのに、出さない。痛みの中でも「見せない」を選ぶ癖が、身体に染み付いている。
「……っ、だいじょうぶ……」
喉の奥で掠れた声がかろうじて形になる。
大丈夫であるはずがないのに、大丈夫と言おうとする。その言葉を聞いて、レギュラスの胸の内側が――硬く、冷たく、音を立てて締まった。
レギュラスは階段を二段飛ばしで降り切り、二人の前に立った。
視線はまず、床に散った小さな血の点を捉え、次にアランの顔へ移る。鼻先の赤。頬骨の上の滲み。上唇に沿う線。どれも、彼女の美しさを壊すほどの量ではない。だが、壊すのに十分な事実だった。――この屋敷で、レギュラスの妻が傷ついた。
そして、もうひとつ。
先ほどの叫び。
「アラン」と呼んだ声。
レギュラスはそれを、しっかり聞いていた。
耳に残るのは音だけではない。呼ばれ方に含まれた体温、迷いのない距離、咄嗟に漏れた当然の響き。あれは礼節で繕えない。取り繕う暇がない時に出るものだ。
ローランドがようやく顔を上げ、レギュラスの視線とぶつかった。
その瞬間、彼の表情から血の気が引く。自分が何を叫んだか、今になって理解したように。遅すぎる後悔が、目の奥で揺れた。
「……ブラック様、失礼を……」
ローランドの声は丁寧だった。
けれど丁寧さが、今はかえって惨めに響く。礼儀で塗り直しても、先ほどの呼び名は消えない。消せるわけがない。
レギュラスは笑わなかった。
怒鳴りもしない。
ただ、あまりにも静かに息を吸って、アランの方へ身を屈めた。
「動かないでください」
声は柔らかい。いつも通りだ。
だが、その柔らかさの奥にある硬さが、床の冷たさより鋭い。
アランが一瞬、ローランドの手に縋りかけた。
恐怖でも、痛みでもない。反射だ。支えを求める、ただの身体の癖。けれどその動きが、レギュラスの内側で別の意味を帯びて燃えた。
「……こちらへ」
言葉が落ちる。
レギュラスの手がアランの肩と背に回り、ローランドの腕から彼女を受け取る。受け取るというより、取り返すに近い。乱暴ではない。むしろ慎重だ。慎重で丁寧で、だからこそ否応なく伝わる所有の圧。
アランの体がレギュラスの胸に収まった。
香水の匂いに、鉄の匂いが混ざる。血はわずかだ。それでも、匂いだけは鋭く主張する。レギュラスの腕の中で、アランが小さく震えた。痛みか、冷えか、それとも――この場の空気か。
「……レギュラス、わたし……」
レギュラスはアランの顔に手を添え、鼻先の血を親指で拭った。
血が指に移る。その赤が、なぜか不快なほど鮮やかに見えた。白い肌に、薄い赤。美しいはずのコントラストが、今はただ残酷だ。
「医務魔法使いを」
振り向きもせず、短く命じる。
近くにいた使用人が息を呑み、すぐに走り去った。
ローランドは立ち上がろうとした。
手伝うべきだと、礼節として当然だと、身体が動きかける。
「フロスト殿」
レギュラスが呼ぶ。
その声は穏やかだ。だからこそ、足元の床が抜けるほど冷える。
ローランドが止まる。
「……ありがとうございました」
礼を言う場面の言葉だ。
だが、そこに含まれる意味は一つではない。助けたことへの礼なのか、余計なことをしたことへの区切りなのか。その曖昧さが、刃になる。
レギュラスの視線が、ローランドの口元に落ちる。
さっきまでそこから出ていた呼び名の残響が、まだ消えないように見える。
「でも、もう結構です」
柔らかい断絶だった。
ローランドは小さく息を飲んだ。
言い返せる立場ではない。そもそも言い返す気力もない。レギュラスの腕の中で、アランが微かに身じろぎしたことが見えてしまった。自分の叫びが彼女を揺らしたことも、彼女の傷が自分の罪のように胸へ落ちてくることも、耐えがたかった。
「……ブラック様。夫人、どうか……」
言いかけて、止まる。
その先を言えば、また呼び方が崩れる気がした。崩れてはいけない。崩れた瞬間、今度こそ取り返しがつかない。
アランが、レギュラスの腕の中で目を閉じた。
痛みで顔を歪めているのに、その横顔は相変わらず整っている。整っているからこそ、血が痛々しい。
レギュラスはアランを抱いたまま、階段を上がらず、逆に廊下の奥へ向かった。
寝室に近い、静かな部屋。医務魔法使いが来るまで横になれる場所。アランが揺れないように、歩幅を微細に調整する。丁寧に、慎重に。触れる手の温度は優しいのに、抱く力は揺るがない。
通り過ぎざま、ローランドの耳に、低い声が落ちた。
「……さっきの呼び名は」
問うでもなく、責めるでもなく。
ただ、事実として置くように言った。
「聞きました」
それだけで十分だった。
ローランドの背筋が凍りつく。
アランは目を閉じたまま、唇を噛みしめる。上唇の血が、そこに小さく滲み直した。
屋敷の朝の音は、変わらず続いていた。
銀器の触れ合い、遠くの足音、風に揺れるカーテンの擦れる音。
何も変わらない日常の音が、変わってしまった何かを際立たせる。
レギュラスの腕の中で、アランの体温が僅かに震える。
その震えの理由を、アランは言葉にしない。
言えないのではない。言えば、また別の地獄が開くと知っているからだ。
そしてレギュラスは――その沈黙の意味を、もう見落とさない男だった。
