3章
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朝の光は、ブラック家の分厚い窓硝子をいくつも透過して、白く冷たい帯になって廊下を伸びていた。
その光が、ふとした拍子にアランの腕を照らす。袖の内側に隠していたはずの場所が、ほんのわずかに透けて見えてしまう角度がある。
羽ペンで刻まれた言葉の痕。
治癒呪文が効かない。効かないというより、届かない。皮膚の表面だけではなく、もっと深いところに縫いつけられているみたいに、痛みが残る。
何もしていないときほど、じんわりと主張してくる。罪を忘れるな、と指先から囁かれるように。
アランは息を吐き、袖口を整え直した。
鏡の前でやる仕草は、いつからか癖になった。美しく整えた衣服の隙間から、みっともないものが覗かないように。——覗いてしまえば、それはきっとレギュラスの目に入る。レギュラスの目に入った瞬間、そのみっともなさは「罰として正しい形」に作り替えられてしまう。
それが、あの男のやり方だった。
下へ降りると、サロンの奥から幼い笑い声が聞こえた。
アルタイルの声だ。たどたどしい発音で、短い言葉を繰り返しながら笑っている。あの笑い声だけが、屋敷の空気を柔らかくする。
「アルタイル、指はそうじゃありません。ほら、こっち。——いい子ですね」
穏やかな声。甘やかすための音色。
レギュラスは床に膝をつき、子供の目線まで降りている。貴族らしい所作の一つ一つが、幼子に向けられると妙に優しい。
アルタイルは父の肩に手を置き、胸を張った。まるで世界一の功績を成し遂げたかのように。
「できた!」とでも言いたげに、レギュラスの顔を見上げる。
「ええ。できましたね。——お母様にも見せてあげましょう」
レギュラスがアランの気配に気づくのは、いつも早い。
背中越しに視線を投げてくるわけでもないのに、存在そのものを掴むみたいに、ぴたりとタイミングを合わせてくる。支配や命令が、言葉の形を取る前に、もう空気として染み込んでいる。
「おはようございます、レギュラス」
声が、少しだけ固くなる。
けれどアルタイルの前では、それをほどいてやらなければならない。母は、母の顔でいなければならない。
「おはようございます。昨夜はよく眠れました?」
問いかけの形をしているのに、返答は最初から決められている。
「はい」と言えば、満足される。
「いいえ」と言えば、どうしてかを問われ、どうすれば解決できるかという名目で、さらに深く侵入される。
アランは迷いを飲み込み、微笑みを貼り付ける。
「はい。ありがとうございます」
その「ありがとうございます」さえ、どこに向けたものなのか、自分でも分からなくなる。
眠れたことへの礼なのか。詰められずに済んだ夜への礼なのか。自分がまだこの屋敷で息をしていられることへの礼なのか。
レギュラスはアルタイルの背を軽く撫で、ふいにアランへ手を伸ばした。
触れてくる。あまりにも自然に。拒む余地がないほど日常の動作として。
指先が、アランの頬へ、髪へ、肩へ。
その手はいつだって丁寧で、優しい温度を帯びている。
なのに、その優しさは救いではなく、むしろ毒みたいに遅れて効いてくる。
昨夜あれほど責め立てた人間が、今は同じ指先で「大丈夫ですか」と撫でる。その落差が、魂の感覚を鈍らせる。
「腕、痛みます?」
アランの袖口に視線が落ちた。
気づいたのだ、と喉がひゅっと鳴る。隠したのに。隠しきれなかったのに。
「……平気です」
平気、と言い切るには痛みがあまりにも確かだった。
けれど、痛いと告げれば、どんな形でその「痛み」を利用されるか分からない。優しさの名を借りた追及が始まり、最後にはまた、何かが刻まれる。
「嘘」
レギュラスが笑った。やわらかい声のまま、容赦のない断言。
「あなたは嘘が下手です。昔から」
昔から。
その言葉が、アランの胸の奥を刺す。
昔——それはローランドと、まだ世界が狭く、手の届く範囲で幸福を作っていた頃のことをも含むからだ。アランは自分で自分の記憶に触れるのが怖くて、視線を逸らした。
アルタイルが二人の間に割り込むように、アラン アランのスカートを掴んだ。
「まま」と呼ぶ声が、胸の芯を柔らかく叩く。
アランはしゃがみ、子を抱き上げた。
その瞬間、腕の内側が引き攣れるように痛む。顔に出さないようにするだけで精一杯だった。
「抱っこ、重くなりましたね」
レギュラスは微笑む。自慢する父の笑みだ。
アルタイルは父の声に反応して、また笑った。
この光景を前にすると、アランは自分の中の憎しみが不純物みたいに見えてしまう。
この男を一生許したくない。あの日、父に言うなと懇願したのに踏みにじった。自分の秘密も、ローランドの誇りも、善意も、全部、指先で弄ぶように壊して楽しんだ。
それなのに——アルタイルの前でのレギュラスは、どこまでも慈愛に満ちた父親だった。
子の笑顔を引き出すことに、まるで嘘がない。
嘘がないからこそ、なおさら分からなくなる。
人は、こんなふうに矛盾したまま存在できるのか。
残酷さと優しさを、同じ器の中に混ぜ込んで、平然と笑えるのか。
その日の昼、屋敷には荷が届いた。
木箱がいくつも、丁寧に封印されたまま運び込まれ、使用人たちが息を合わせて並べていく。薬草、器具、希少な触媒。——セシール家の研究のための物資だと、箱の札が語っていた。
「早いですね」
アランが呟くと、レギュラスは当然のことのように頷いた。
「間に合わない方が困るでしょう。セシール卿の研究が遅れるのは、こちらの損でもありますから」
損。
その言葉は、冷たい真実だ。
けれど、同時に誰よりも早く、誰よりも確実に支援を差し出してくるのも、この男だった。父の研究が日の光を浴びるたびに、アランの胸は誇らしさと痛みで同時に満たされる。
父が報われることが嬉しい。心底嬉しい。
それがレギュラスの手によって促されているという現実が、同じだけ苦しい。
父が喜ぶ顔を見るたび、あの頃ローランドと描いた未来が、違う形で叶っていくのを感じる。
ローランドと二人で支えたかった。ローランドの隣で父の研究を世に出したかった。
その願いを奪い取ったのがレギュラスで、その奪い取った手で父を救っている。
正しさと暴力が、同じ指先から出てくる。
アランの心は、そのたびに居場所を失う。
夕刻、魔法省から戻ったレギュラスは、軽い口づけをアランの額に落とした。
命令のようでもあり、愛情の証のようでもある。アランが一瞬でも身を固くすれば、その硬さはすぐに読み取られる。だから、柔らかく受け取るふりをする。
「今日はどうでした?」
「……父の研究は、順調です」
「素晴らしい。僕はあなたが誇らしいですよ」
誇らしい。
言われるたび、胸がきゅっと縮む。
その誇らしさの裏側にある犠牲を、レギュラスは決して「犠牲」とは呼ばない。呼ばないから、アランは余計に苦しくなる。自分だけが、汚いものを抱えている気がして。
レギュラスの手が、アランの腕へ伸びる。
袖口の内側。隠していた場所へ、わずかな圧をかけるみたいに触れた。痛みが、薄い火花になって散る。
「痛いでしょう」
「……はい」
吐息のように漏れた返事。
レギュラスは、ほんの少し眉を寄せた。心配の形をした顔。けれどその表情が、赦しではないことをアランは知っている。
「忘れないように、ですよね」
その言い方が、恐ろしいほど自然だった。
支配と命令と強制を、さも家庭のルールみたいに言う。
それでいて、指先はどこまでも丁寧で、優しい温度を滲ませている。優しさがあるからこそ、拒絶が難しくなる。拒絶できない自分が、さらに嫌になる。
アランは視線を落とし、唇を噛んだ。
ローランドの顔が浮かぶ。
「愛している」と言われたときの声。優しくて、逃げ道を残して、抱きしめる腕がどこまでも慎重だった。
その愛は、穏やかで、傷を増やさなかった。
傷を増やさない愛を知ってしまっているから、レギュラスの「愛している」が、時折恐ろしく聞こえる。
それでも——レギュラスの機嫌が良い日は、ほっとする。
笑っている時は、胸が暖かくなる瞬間がある。
それが屈辱だと分かっているのに、体が勝手に反応してしまう。心が冷え切っているなら、暖かさなど感じるはずがないのに。
機嫌が悪い時は、声を発するのも苦しくなる。
棘の一言が落ちてくる前に、空気が凍るのを知っているから。
どうにかして、その棘を抜いてやりたいと思ってしまう。自分のためか、アルタイルのためか、父のためか、それとも——ただ、レギュラスの顔が歪むのを見るのが嫌だからか。
分からない。
分からないことが、怖い。
「アラン」
呼ばれて、アランは顔を上げる。
レギュラスは彼女の顎を軽く掬い、視線を合わせた。翡翠の瞳が、灰色を映す。
その瞬間だけ、世界の輪郭がはっきりする。捕まえられる感覚。逃げ場がないと知る感覚。——それなのに、不思議と安堵が混ざる。
「今日は、少し疲れました」
「……はい」
「機嫌、取ってくれます?」
この男は、いつだってぶれていない。
婚姻を決めた瞬間から何も変わっていない。求める。手に入れる。確かめる。奪う。慈しむ。折れさせる。
揺れるのはいつも自分だ。過ちを犯すのも、弱さを晒すのも、逃げ道を求めるのも。
レギュラスは揺れない。揺れないから、アランの心はなおさら分からなくなる。
嫌悪だけなら簡単だ。拒絶だけなら簡単だ。
けれど、温かさを感じてしまう自分がいる。ほっとしてしまう自分がいる。アルタイルが笑うたび、父の研究が救われるたび、胸のどこかが「まだここにいていい」と囁いてしまう。
アランは微笑みを作った。
完璧な微笑みではない。作ろうとしたのに、ほんの少しだけ震えが混ざる。
痛みのせいか、罪悪感のせいか、幸福の残骸のせいか分からない。
「……何をすれば」
レギュラスの指先が、今度は優しく髪を梳いた。
その仕草だけは、罰でも命令でもなく、ただの愛撫のように見える。
見えるからこそ、アランはさらに混乱する。
「あなたがここにいて、僕の顔を見てくれればいい」
そんな簡単な言葉で、世界を囲い込む。
アランは頷いてしまう。頷いてしまった自分を、内側で嫌う。
それでも、頷かずにはいられない。
胸の奥には、ローランドへの想いがまだ残っている。
燃え上がる炎ではない。灰の下で微かに息をしている、消えない熱だ。
その熱が残っているからこそ、今の自分が生きていられる気がする時もある。
同時に、その熱があるからこそ、レギュラスの前で「良き妻」を演じる自分が、あまりにも滑稽で汚く思える時もある。
アランは、レギュラスの胸元に視線を落とした。
この男を許さない。許したくない。
それでもこの男の機嫌が良いとほっとする。
この男が笑うと胸が暖かくなる。
この男が棘を剥く時は息をするのも苦しい。棘を抜いてやりたいと思ってしまう。
——その全部が、本当だった。
矛盾していて、みっともなくて、どうしようもないほど人間らしい。
レギュラスの掌が、もう一度アランの腕に触れた。
痛みが走る。けれど今度は、確かめるように、いたわるように、そこに留まる。
まるで「刻んだのは自分だ」と言わんばかりの手つきで、優しく温度を残していく。
アランは目を伏せた。
涙が出そうになるのをこらえた。泣く理由などないのに、泣きたくなる。
泣けばまた、何かを握られる。泣けばまた、正しさの顔をした支配が伸びてくる。
それでも、レギュラスの指先の温度が、今は少しだけ怖くなかった。
怖くないことが、いちばん怖かった。
「……レギュラス」
名を呼ぶと、彼の目がやわらかく細くなる。
その表情が、罪の宣告にも、愛の告白にも見える。
アランは自分が分からなかった。
ローランドを抱えたまま、レギュラスに絡め取られ、憎みながら温もりに救われ、救われる自分を憎む。
腕の痛みだけが、唯一まっすぐだった。
忘れるな、と。許されるな、と。
けれどその痛みさえ、今はレギュラスの掌に覆われて、少しだけ鈍くなる。
鈍くなるたび、アランの心はさらに迷子になる。
そして迷子のまま、アランは微笑みを作り直した。
母として、妻として、研究者の娘として。
壊れた自分の欠片を拾い集めるように、今日も「正しい顔」を貼り付ける。
貼り付けながら、胸の奥のどこかで、ローランドの声が小さく響いている。
それは祈りみたいで、呪いみたいで、甘い毒みたいに、まだ消えてはくれなかった。
それは、ほんの些細な瞬間から始まった。
アルタイルが机に向かっている時間が増え、絵本のページを追う指が迷わなくなり、玩具の仕掛けを「運」ではなく「理解」で外すようになっていく——その成長の端々で、アランは時折、胸の奥がひやりとする感覚に触れた。
理由は、単純な賢さではなかった。
賢い子はいる。覚えるのが早い子もいる。
けれど、アルタイルの賢さには、どこか人を動かすための形が混じり始めていた。
最初は、母を引き留めるための、ただそれだけの小さな願いだった。
夕方、ローランドが帰ったあと。
サロンの窓辺は淡い光を落とし、磨かれた床には長く影が伸びていた。アランはアルタイルを抱き上げ、寝かしつけの前に少しだけ背中を揺らしてやる。髪はまだ柔らかく、ほのかにミルクの匂いが残る。小さな体が胸に沈み込む重みが、愛おしさを重くする。
「まま」
耳元で、甘えた声が落ちる。
「どうしました、アルタイル」
「……ここ」
小さな指が、アランの胸元をとん、と叩く。
ここに、いて。
言葉より先に意図が伝わってくる。
「今日はもう少しだけ。まま、ここ」
可愛らしくて、たまらない。
胸の奥がじんと温かくなる。アランは笑って頷いてしまいそうになる。けれど、今夜はやることがある。アルタイルが眠ったあとに片付けなければならない書類も、明日の準備も、そして——屋敷の空気を乱さないための役割も。
「少しだけですよ。アルタイルが眠ったら、ままはお部屋のことを——」
そこまで言いかけた時だった。
アルタイルは顔を上げた。
まるで、今の言葉を受け取ってしまうみたいに。
その瞳の色は母に似ているはずなのに、瞬きの間の静けさが、父のそれを思わせた。
「……少しだけ、って、どれくらい?」
幼い声なのに、問いの形だけが妙に整っている。
答え方次第で、逃げ道が塞がれる問い。
アランは一瞬、言葉を探した。
子供にどれくらいと聞かれるたび、曖昧さが許されなくなる。子供は曖昧を嫌う。けれどアルタイルは、ただ嫌っているのではなく——曖昧をこちらに残さない。
「……アルタイルが眠るまで、です」
「じゃあ、ねむくならない」
さらり、とんでもないことを言う。
そして、言った後に無邪気に笑うでもなく、アランをじっと見つめた。母がどんな反応をするか、確かめるような目。
アランは喉の奥がきゅっと縮む。
可愛い。可愛いのに、怖い。
自分の望みを通すために、言葉を選んだことが、幼いなりに伝わってくる。
「アルタイル、眠くならないのは体に悪いですよ」
叱るつもりはない。笑って諭すつもりだった。
けれど、その言葉すら、アルタイルは待っていたみたいに拾った。
「じゃあ、ままが、ここにいるならねむる」
——条件を出した。
正確に、交換を提示した。
アランの胸が、ひとつ跳ねる。
この感じ。
選択肢を与えているふりをして、実際は答えを一つに絞っていくやり方。
「ままがここにいれば、アルタイルは眠る。ままがいないなら、眠らない。」
ゆっくりと、確認するように言い直す。
まるで、契約の文言みたいに。
アランは、思わず笑ってしまいそうになるのを堪えた。幼い子が、こんな理屈を。
けれど笑えなかった。笑ったら——その形を許してしまう気がしたから。
「……アルタイル、ままは、ずっとここにはいられません」
言い切った瞬間、アルタイルの口元がわずかに歪んだ。泣く前の顔。
アランの胸がきゅっと痛む。
でも、次に来たのは泣き声ではなかった。
「……ずっとじゃなくていい」
譲歩。
けれど、譲歩に見せた“調整”。
「ままが、ここにいるって、言って」
言質が欲しい。
約束の形が欲しい。
ただ抱きしめてほしいのではなく、言葉で縛っておきたい。
アランは息を吸って、ゆっくり吐く。
自分の子が、こんなふうに「言わせる」ことを覚え始めているのが、切なくて、愛おしくて、そして——確かに、父の血を感じさせる。
「ままは、アルタイルが眠るまでここにいます」
選んだ言葉は慎重だった。
期限を置く。自分の自由を残す。
けれど同時に、子供の安心も満たす。
アルタイルは満足したのか、肩の力をふっと抜いた。
そして、最後に小さく畳みかける。
「……ほんと?」
「はい。本当です」
「じゃあ、まま、いま、ぎゅってして」
目的は、ひどく子供らしい。
抱きしめてほしい。ここにいてほしい。
それだけなのに。
その取り方が、どんどん巧くなる。
アランが抱きしめると、アルタイルは小さな腕を首に回して、頬を寄せた。
その温もりに、アランの心はほどけてしまいそうになる。
けれど、ほどけたくない部分が、胸の奥に残っていた。
——このやり方を、どこで覚えたのか。
答えは、いくつもある。
家の空気。父の声。父が使う言葉の癖。
そして何より、父が望みを通していく瞬間を、アルタイルはいつも見ているのだ。
ある夜、アランが食卓で躊躇したとき。
ある朝、言葉に詰まったとき。
レギュラスが微笑みながら問いを重ね、逃げ道を塞いでいったとき。
——それは命令ではない。
けれど拒めない。
拒むと、罪悪感が先に立つ。
そして、正解を言ったほうが早く終わる。
アルタイルは、それを肌で覚える。
母の顔色が変わるタイミングを、目で覚える。
母が折れる瞬間の空気の緩みを、体で覚える。
アランの腕の中で、アルタイルは満足そうに瞬きをして、ふいに囁いた。
「まま、きょう、どこにも、いかない?」
来た、とアランは思った。
再び、問い。
今度は、より大きい範囲で。
「……アルタイルが眠ったら、ままは少しだけ——」
「だめ」
即答。短い。
幼い声なのに、拒絶が綺麗に刃になっている。
そして、刃のままでは終わらせない。
次に来たのは、柔らかい飴だった。
「……まま、きょう、いっぱい、つかれてる」
アランは息を止めそうになった。
気遣いの形をして、こちらを縛る言葉。
母が「いい子だ」と思うように仕向ける言葉。
「だから、ね? ねむったら、ままも、ねむる」
母の体を気遣っているようでいて、目的は一つ。
母をここに留める。
アランは喉の奥が熱くなった。
泣きたくなるほど愛おしい。
同時に、怖い。
この小さな子が、優しさの形で人を縛ることを、もう覚え始めている。
「アルタイル……」
名を呼ぶと、アルタイルはにこりと笑った。
勝ち誇る笑みではない。あくまで、可愛い子供の笑み。
けれど、アランには分かってしまう。
こう言えば、ままは断れない
そういう計算が、すでにそこにある。
アランは、ゆっくり頷いた。
「……分かりました。今日は、ままも一緒に早く休みます」
アルタイルはほっとしたように体を預けてきた。
その瞬間だけは、本当にただの子供だった。
胸が苦しい。
抱きしめる腕に力が入る。
こんなにも愛しているのに、その愛に混ざる影を、アランは見ないふりができない。
——この子は、レギュラスの血を濃く継いでいる。
賢さも、強さも、そして人を動かす術も。
そしてそれは、いつかきっと。
母を守るためにも、母を縛るためにも使われる。
アルタイルがまぶたを重くし始めた頃、扉の外を誰かが通った気配がした。
足音は静かで、規則的で、屋敷の空気を支配するような落ち着きがある。
アランは分かってしまう。
レギュラスだ。
その気配が近づくにつれて、アルタイルは半分眠りながらも、なぜか安心したように小さく息を吐いた。
父の存在を、当たり前の柱として受け取っている。
そして、眠りに落ちる直前。
アルタイルはアランの胸元に顔を埋めたまま、薄い声で囁いた。
「……まま、ここ……」
ここにいて
その願いは可愛い。
けれど、その願いを叶えるために選ぶ言葉が、すでに——
父のやり方の影を、柔らかく纏い始めている。
アランは目を閉じ、子供の髪に口づけた。
温かい。柔らかい。
その温かさが、この先もずっと守られるようにと、祈るしかない。
そして同時に、胸の奥で、小さく震えた。
この子はきっと、もっと上手になる。
もっと自然に、もっと優しく。
相手を傷つけることなく、相手が自分から差し出したように見せながら、望むものを手に入れていく。
それが父の血だとするなら——
アランは、どこで止めればいいのか、まだ知らないままだった。
夕暮れの光が屋敷の窓硝子を薄い蜜色に染めて、部屋の輪郭だけを柔らかくほどいていた。
サロンの絨毯の上には、ばらばらに広がった知育玩具と絵本。アルタイルは膝を抱えるように座り込み、小さな指先で木片を組み合わせている。さっきまで「まま、ここ」としつこいほど言っていたのに、いまは集中のためか息までひそめて、眉を少しだけ寄せていた。
その背中を見ているだけで、アランの胸は痛むほど満たされる。重みが増した子の体温。抱き上げたときに腕に残る、じんとした痺れ。母親でいる時間は、いつも短い幸福と、長い緊張を引き換えにしている。それでも、こういう瞬間だけは、息がちゃんと吸える気がした。
扉の開く音がしたのは、その息がゆるんだ直後だった。
気配が先に入ってくる。磨かれた床を踏む音さえ控えめで、急ぐでもなく、迷うでもない。屋敷の空気に馴染み、同時に屋敷の空気を支配している足取り。
レギュラスだった。
アルタイルは振り向くより早く立ち上がり、絵本を抱えたまま駆けていく。
「パパ」
それだけで、今日の父親はもう勝ちだと告げているような響きだった。レギュラスは手にしていた書類の束をサイドテーブルに置き、息子の小さな体を受け止める。抱き上げる動きは慣れていて、抱き上げたあとに背中を二度、軽く叩く癖まで揺るがない。
「お帰りなさい、レギュラス」
アランがそう言うと、レギュラスの視線が、ほんの一瞬だけアランを掠めた。いつもと同じように穏やかな灰色の瞳。けれど、どこか、確認するみたいな目だった。今日も機嫌は整っているのか。今日もきちんと、こちらの正しい形に収まっているのか。
「ただいま、アラン」
呼び方は柔らかい。声も優しい。優しいまま、確かめる。
アルタイルはレギュラスの肩にしがみつきながら、さっきの木片を指さした。
「これ、できる」
「それはすごい。見せてください」
レギュラスは息子を下ろし、絨毯の上に膝をつく。貴族の当主が床に膝をつく姿は、見慣れないはずなのに、いまこの家では日常になってしまっている。アルタイルが木片を並べ、組み、最後に小さな音を立ててぴたりと収まった瞬間、嬉しさの波が子供の顔を照らした。
「できた」
「ええ、できましたね。……難しいのをよくここまで」
レギュラスは褒めながら、自然な手つきで、息子の頬に触れた。指先は丁寧で、優しくて、そこにいらないものは混じっていないように見える。見える、だけだ。
アルタイルは得意げに笑い、ふとアランを見上げた。まるで——母にもこの成果を渡すように。誉めてもらう権利をちゃんと取りに行くように。
アランは笑って頷いた。
「すごいですね、アルタイル」
言った瞬間、レギュラスの視線がまた動く。息子ではなく、母を見た。ほんの短い間で、アルタイルがどういう言葉を選ぶようになったのか、その片鱗を測るみたいに。
アランはその視線を受け止めるのが苦しくて、けれど逃げたらもっと面倒になることを知っているから、微笑みの角度を崩さなかった。母としての笑み。妻としての無難な笑み。
レギュラスは、息子の頭を撫でたまま、何気ない調子で言う。
「今日はずいぶん熱心ですね、アルタイル。誰にそんなに上手にお願いを習ったんです?」
アルタイルは意味を深く理解していない。けれど、お願いという言葉が自分の得意技だと分かっている顔で、胸を張る。
「ままに」
「そうですか」
レギュラスの返事は短いのに、部屋の温度が少しだけ変わった。アランの背筋が、ほんの僅かに緊張する。
アルタイルはまた木片に戻り、二人の大人の間に落ちた薄い沈黙を知らないまま、遊びの世界に沈んでいった。
レギュラスが立ち上がる。手についた見えない埃を払う仕草が、妙に几帳面だ。アランはその手元に目を奪われた。あの手は、壊す時と、撫でる時の温度が同じだと知ってしまっているから。
レギュラスが、息子を見下ろしたまま言う。
「……賢い子ですね。本当に」
その声は、誇らしさだけで出来ているように聞こえた。けれどアランには、その下にあるものが見えてしまう。誇りと、所有と、確信と。——自分のものが望む形で育っているという満足。
だから、アランはふと、言ってしまった。
「あなたにそっくりですよ」
口から出た言葉は、褒め言葉にも、告白にも、刺にもなり得た。アラン自身がそれをどう出したのか、言った瞬間に分からなくなる。息子の可愛さを共有したかっただけなのに。あるいは、止めたい何かを遠回しに伝えたかったのかもしれない。
レギュラスはゆっくり振り向いた。
その灰色の瞳が、まっすぐアランを捉える。逃げ道のない視線。それなのに、口元は柔らかく微笑んでいる。
「ええ、だって僕の子ですから」
言い切る声音が、あまりに自然で、あまりに当然で、アランの胸の奥が小さく震えた。
僕の子。
それはただの父親の喜びの言葉にも聞こえる。血の繋がりを確かめる誇りにも。家の跡取りを得た当主の、揺るぎない勝利の宣言にも。
同時に——所有の印にも聞こえる。
アランは息を吸った。胸の奥に、温かいものと冷たいものが同時に広がる。息子を「僕の子」と言うその響きの中に、自分もまた含まれている気がしてしまうからだ。僕の妻が産んだ子。僕の家の跡取り。僕のもの。
でも、レギュラスがその言葉の意味をどう取っているのかは、アランには分からなかった。
本当にただ、父として喜んでいるだけなのか。
それとも、アランに対して——「分かっているでしょう」と言外に釘を刺したのか。
そっくりという言葉に、どんな含みを聞き取ったのか。
レギュラスは微笑んだまま、ほんの少しだけ首を傾ける。
「どういう意味で言いました?」
尋ね方が、優しい。
けれど、優しさが逃げ道を許さない形をしている。
アランは笑みを崩さないようにした。視線を落とさずに受け止める。ここで怯えたら、余計に面倒になる。
「……賢さが、です。覚えるのが早いですし。組み立てるのも上手で」
「賢さ、ね」
レギュラスの声が、少しだけ低くなる。怒ってはいない。怒る手前でもない。むしろ楽しんでいるような、静かな興味の温度。
「賢さだけですか?」
アランは喉の奥がきゅっと縮む。
言葉の刃が見えないところで研がれているのが分かる。何を引き出したいのか。どこまで言わせたいのか。自分の口からどんな“正解”を吐き出させたいのか。
けれど、アルタイルがいる。
息子の前で、空気を尖らせたくない。尖らせるのは父の役目でもない。母の役目でもない。ここは家族の部屋で、いま息子は木片を抱えて世界を作っているのだから。
だからアランは、少しだけ肩の力を抜くふりをして、苦笑いを混ぜた。
「……手段まで、似てきました」
レギュラスの眉が、ほんの僅かに動いた。
アランは続けた。声の震えを見せないように、あくまで軽く。
「『ここにいて』って言うだけなら可愛いんです。でも、言い方が……。条件を出したり、約束を取ったり。私が断れない言い方を選んだり」
それは責めではない、と言い聞かせるように。
けれど、責めに聞こえたって仕方ない、とも思ってしまう。
レギュラスは黙って、アルタイルを見た。
その横顔は穏やかで、整っていて、何もかも余裕があるように見える。自分が生み出したものを、眺める目。
そして静かに言う。
「可愛いでしょう」
「ええ……可愛いです」
「なら、いいじゃないですか」
その言葉の軽さが、逆に怖かった。
それで何が問題なんです?と同義の軽さ。
アランは瞬きをした。胸の奥に、疼くような痛みが走る。止めたい、と心のどこかで思っているのに、止める資格が自分にあるのか分からない。自分だって、結局はこの家で生きるために、言葉を選び、笑みを選び、相手が欲しい返事を返しているのだから。
レギュラスは、ふいにアランの手を取った。驚くほど自然な動作で。指先が触れる。掌が重なる。手の温度は、いつも丁寧で、やさしくて、そのやさしさの中に命令が溶けている。
「アラン」
名前を呼ぶだけで、空気が締まる。
「あなたは、僕の子をよく育てています。——僕好みに」
最後の一言が、甘さのように聞こえるのに、背筋が冷たくなる。
アランは、答え方を間違えたらいけない、と反射的に思った。ここで反発を見せるのは得策じゃない。けれど、従順すぎるのもまた、嫌がられることがある。レギュラスは正解を嫌う。核心を求める。表面の整った答えを裂いて、その奥にある感情を引きずり出す。
だから、アランは息を整えて、静かに言った。
「……あなたの子だから、ですか?」
探るように問うたつもりはない。
けれど、問いになってしまった。
レギュラスは、笑った。声を立てて笑うのではない。口元だけで笑う。
「そうですね。僕の子です」
さっきと同じ言葉。
同じなのに、今度は少しだけ違う意味を帯びて落ちる。
血の話だけじゃない。
家の話だけじゃない。
僕のものという響きが濃くなる。
アランはその意味を、どう受け取ればいいか分からなくなる。レギュラスがそれをどう取っているのかが、さらに分からない。
息子の賢さにただ誇らしくなって言っているのか。
それとも、アランが口にした「似てきました」という言葉を、夫への皮肉だと捉えたのか。
あるいは——母が息子に与えた影響を、父の支配に回収するための言葉なのか。
アルタイルがふいに振り返り、二人の手が重なっているのを見て、嬉しそうに笑った。
「まま、パパ」
その笑顔が、あまりに無邪気で、あまりに救いで、アランの胸は少しだけ緩んだ。
この子はまだ、何も知らない。
父の言葉の裏側も、母の笑みの裏側も。
レギュラスはアルタイルに目を向け、優しい声で言う。
「アルタイル、ままを困らせてはいけませんよ」
困らせているのは、いま誰なのか。
アランは心の中で答えを呟いたが、口にはしなかった。
レギュラスの手が、まだアランの手を離さない。
その温度が、丁寧で、優しくて、落ち着いていて。
それが余計に、分からなくさせる。
僕の子という言葉が、愛なのか、支配なのか。
誇りなのか、釘なのか。
それとも、全部なのか。
アランは、微笑みのまま瞬きをして、息子の小さな頭を撫でた。
「……アルタイル、もう一回見せて。今の、どうやったの?」
話題を、子供の方へ逃がす。
逃がすことを、もう咎められない程度には、うまくやる。
レギュラスはそれを見ている。
何も言わず、ただ見ている。
その灰色の瞳の底で、何かが静かに形を変えているのを感じながら—— アランは、分からないまま、分からないふりを続けた。
窓の外はもう夜の色に沈み、屋敷の廊下には灯りが等間隔に浮かんでいた。蝋燭の火は揺れているのに、ここにある空気だけは不思議なほど整っている。整えられている――と言った方が正しい。
サロンの中央に、小さな机が置かれていた。子供用に背を低くされた椅子、角の丸い木の机。上にはカードと算術の小道具と、薄い魔法書が一冊。紙に走るインクの匂いが淡く混じり、そこに紅茶の香りと、乾いた木の匂いが重なっている。
アルタイルは椅子にきちんと座り、足をぶらぶらさせながらも目だけは真剣だった。幼いくせに、気が散らない。何か一つに狙いを定めると、そこへまっすぐに手を伸ばす癖がある。勝手に育った癖ではない。誰かが、そう育てている癖だ。
その向かいに、ローランド・フロストがいた。いつもより少し背筋が硬い。余計な物音を立てないように、呼吸まで慎重にしているのが見て取れる。それでも指先は柔らかく、ページを繰る音は静かだった。礼節を纏って、家に溶け込むように座っている。――座らされている、と言うべきか。
アランは二人の少し後ろ、ソファの肘掛けに寄りかかるように座っていた。刺繍の入ったクッションを抱え、髪を片側に流して、アルタイルの横顔を見ている。子供が文字を追う瞬間、理解が繋がった瞬間の、わずかな表情の変化を見逃さない眼差し。賢い母親の眼差しだ。熱を持たせすぎず、冷めさせすぎず、ちょうどいい距離で愛情を注いでいる。
満足だった。
ただ跡取りがいる、という満足ではない。息子が「自分の息子」として育っている満足。きちんと躾が入り、きちんと愛が入り、きちんと知が入る。人の家の子ではなく、この家の血の濃い子として、当然のように形になっていく。その形を、アランが作っている。
しかもそれを作る手は美しい。賢く、穏やかで、余計な感情を顔に出さない。出さないからこそ、ひとつひとつの仕草が際立つ。アルタイルがページの端を指で押さえようとして、うまくいかないとき。アランがさりげなく立ち上がり、何も言わずにそっと指を添えてやる。子の小さな手を上から包み込むのではなく、横から支えて導く。その加減が、どこまでも上手い。
それを、フロストが見ている。
目は下げている。必要以上にアランを見ない。近寄らない。触れない。会釈と礼だけで距離を保つ。あの一件の後、本人が生き延びるために獲得した作法だろう。それでも、視界の端で追ってしまうのを、身体がやめられないことも分かる。息がわずかに乱れる瞬間がある。ページを繰る指が一瞬だけ止まる瞬間がある。
その度に、胸の奥がひやりとするような快感が走る。
きっと、この男も想像したのだろう。アランと家庭を築き、子を成し、その子に文字を教える未来を。二人だけの部屋で、二人だけの笑みで、二人だけの世界を作る未来を。
それが奪われた。奪われただけでは終わらない。奪われた未来の残骸を、こうして目の前に差し出される。
自分の子だ。自分が名を与え、自分の屋敷で育て、自分の妻が産んだ子だ。その子に知を惜しみなく与える役目を、ローランド・フロストに負わせている。
罪の取り方として、これ以上に丁寧で残酷なものがあるだろうか。
レギュラスは扉のそばに立ったまま、しばらくその光景を眺めた。わざと音を立てない。気づかれない距離で見ている方が、余計に支配が強くなる。自分が許している範囲で、彼らの時間が成り立っていることを、空気に染み込ませるように。
アルタイルが顔を上げた。
「パパ」
呼ばれた瞬間、レギュラスは足を進めた。足音を消したまま、当然のように輪の中へ入る。アルタイルの頭を撫で、机の上のカードに目を落とす。
「今日はどこまで進みました?」
アルタイルは得意げに胸を張り、覚えたばかりの数の組み合わせを口にした。舌足らずで、それでも確かに正しい答え。フロストがすぐ横で軽く頷く。
「アルタイル様は、とても理解が早いです。こちらが驚かされます」
フロストはそう言って、すぐに視線を机に戻した。余計な熱が混じらないように。余計な言葉で、空気に触れないように。
「そうでしょうね」
レギュラスは微笑んだ。柔らかい声音のまま、刃を落とさない。今日は別に、この男を切り刻むために戻ってきたわけではない。切る必要は、常にあるのだから。
「アランがよく育てていますから」
その言葉で、アランがほんのわずかに瞬きをした。褒められた時の反射。嬉しいのではなく、反応を選んでいる瞬間の癖。そういうところまで含めて、レギュラスは満足していた。賢い妻だ。賢いまま、従順でいてくれる。
アランが小さく頭を下げる。
「身に余るお言葉です」
「身に余る? そういう言い方は好きではありませんね」
笑みを崩さずに言うと、アランは息を整えるように唇を結んだ。怒っているのではないと分かっている。けれど、どの言葉を選んでも正解にならない瞬間があることも知っている。
レギュラスは話題を戻した。アルタイルの頭を撫でながら、机のカードを一枚めくる。フロストの指導は丁寧で、無駄がない。余計な情緒を挟まず、理解だけを積み上げる。教師としては理想的だ。
「フロスト殿、助かります。惜しみなく教えてくださる」
「当然の務めです、ブラック様」
礼節の塊みたいな返答だった。あの夜、膝をつき、喉を震わせ、罪を吐き出した男とは思えないほど整った声。整えたのだろう。生きるために。守るために。――何を守るつもりなのかは、もう問うまでもない。
レギュラスは頷き、アルタイルの肩を軽く叩いた。
「じゃあ、続きは最後まで聞いてください。途中で投げ出さない」
「うん」
アルタイルが元気よく返事をして椅子に戻る。その横顔が、ますます自分に似てきた。言葉の選び方も、目的の立て方も。可愛らしい欲を、可愛らしくない手段で叶えようとするところまで。
その成長すら、誇らしい。
けれど、その誇らしさの奥で、別の欲が静かに芽を出しているのを、自分は見ないふりができなかった。
――二人目がいてもいい。
アルタイルがこれだけ形になったのなら、もう一人。家はさらに盤石になる。血は濃くなる。家族は増える。世間は祝う。魔法省は持ち上げる。純血の宴では当然のように称賛が降る。自分は、また勝てる。
そして何より――フロストの目の前で。
この男が抱けなかった、いや、抱いてはいけなかった女が。別の男の子を産み、また別の命を宿し、その腹を大きくしていく姿を、この屋敷で、この家族の中心で、見せつけてやれる。アルタイルを導くために通うその時間の中で、否応なく焼き付けさせることができる。
想像しただけで、心のどこかが満たされていく。冷たい満足と、熱い支配欲が混じり合う。罰は、単に痛みを与えることではない。未来を奪い、奪った未来を別の形で見せつけ、目を逸らせない立場に縛りつけることだ。
――そう思った、次の瞬間。
記憶が、鋭い匂いを連れて蘇った。
あの部屋の灯り。白いシーツ。苦しみで汗に濡れたアランの髪。手を握り返す指が、何度も力を失って落ちる瞬間。意識がふっと途切れて、まるで人形みたいに静かになる瞬間。ヒーラーが落とす「大丈夫です」という声が、あまりに軽く響いた瞬間。
そして、桶に落ちる音。
ぼと、ぼと、と、妙に澄んだ音で落ちていく。水のようで、水ではない。体液と血が混じった液体が、信じられない量で溜まっていく。鉄の匂いが、喉の奥を掴む。息を吸うたびに、身体が拒絶する。吐き気が込み上げるのを、歯を食いしばって耐えた。
アランが叫ばない。声を上げれば力が分散されると言われ、歯を噛み締めて耐えていた。叫びもせず、泣き声も上げず、ただ呼吸だけを乱して、瞳だけで痛みを訴えた。あの翡翠の瞳が、痛みに濡れて揺れた瞬間の恐ろしさは、今でも鮮明だ。
あの時、自分は確かに思ったのだ。
この女を手に入れた代償が、こんな形で目の前に突きつけられるのかと。
美しいものを美しいまま抱きたかっただけなのに、どうしてこんな地獄を見せられるのかと。
そして、産んだ後でさえ痛みが引かなかった。数日、いや数週間、アランは身体の奥の痛みに顔色を変えた。回復しているのに、笑えるのに、どこかでまだ引きずっている痛み。その痛みを「平気です」と言い切る強情さ。平気で済ませるには、あまりに人間の身体は繊細で、あまりに出産は暴力的だった。
その記憶が、二人目という言葉にすぐ鎖をかける。
欲は確かにある。望みも確かにある。
けれど同じ地獄を、もう一度アランに課す光景を想像すると、踏み切れない。
矛盾が胸の内で居座り、うまく息が回らなくなる。
レギュラスはサロンに残る温度を整えるように、軽く咳払いをした。アルタイルは何も気にせず、フロストの指先を追ってカードを動かしている。アランは、そんな二人を見ながら、時々こちらに視線を寄越す。何かを察したような、察したくないような顔で。
レギュラスはアランの方へ歩み寄り、彼女の肩に手を置いた。押さえつけるでもなく、抱き寄せるでもなく、ただそこに置く。置くだけで、彼女は立場を思い出す。置くだけで、自分がここを掌握していることが伝わる。
「アラン」
低い声で呼ぶと、アランは顔を上げた。整えられた微笑みがすぐに浮かぶ。
「はい」
その返事の素直さに、満たされる部分がある。満たされるからこそ、残酷な欲もまた動く。満たされるからこそ、もう一度増やしたくなる。家族を。勝利を。支配を。
それでも、あの匂いが喉に残っている。
「……疲れていませんか」
問いは優しい。けれど、優しさの形をしているだけで、実際は確認だ。アランの身体がどうなのか。耐えられるのか。——自分が望む未来を、またこの女に課していいのか。
アランは一瞬、言葉を探すように視線を落とした。
「大丈夫です。アルタイルを見ていると、元気になります」
模範解答だった。母として正しく、妻として整っている。けれどその正しさが、レギュラスの胸の奥をざらつかせることがある。正しい言葉は、感情の在り処を曖昧にする。感情が見えないと、支配は逆に不安定になる。
レギュラスは指先で、アランの肩口の布を軽く撫でた。布越しに感じる体温が、妙に現実的だった。彼女はここにいる。自分の妻として。自分の家族として。自分の子を抱いた女として。
その事実だけで、心の奥の欲がまた息をした。
フロストがふと顔を上げる。アランの肩に置かれた自分の手を見たのかもしれない。あるいは、見ないふりをするために目線を動かしたのかもしれない。どちらでもいい。どちらでも、十分に罰になる。
レギュラスはアランの耳元にだけ届く声に落とした。
「……アルタイルだけで、満足ですか?」
問いの形をしているのに、問いでは終わらない声だった。
答え次第で、道がいくらでも変わる。
答え次第で、優しくも残酷にもなれる。
アランの睫毛が僅かに震えた。答えを選ぶ震えだ。
その震えを見て、レギュラスはなぜか安心しそうになった。感情がある。揺れている。操り人形みたいに滑らかじゃない瞬間が、まだ残っている。
けれどアランは、すぐに微笑みを戻す。
「……あなたが望むなら」
やはり正解を差し出してくる。
差し出すからこそ、奪いたくなる。
奪うからこそ、守りたくなる。
レギュラスは微笑んだまま、答えをその場で確定させなかった。確定させないことが、最も相手を縛ると知っている。希望と不安を同じ鎖で繋いでおけば、相手は勝手にこちらの機嫌を取り始める。
それでも――あの血の匂いだけは、まだ消えない。
欲がある。
家族をもう一人増やしたい気持ちは、確かにある。
フロストの目に焼き付けたい醜い愉悦も、確かにある。
だが、あの夜のアランの顔が、翡翠の瞳が、汗に濡れた額が、掌の中で何度も力を失った指が、記憶の底でまだ生きている。
レギュラスはアランの肩から手を離し、アルタイルの頭を撫でた。幼子は嬉しそうに笑い、またカードに戻る。
「続けてください、フロスト殿。途中で止めないように」
父としての声。
当主としての声。
そして、いつでも刃を隠せる男の、穏やかな声。
その裏で、自分はまだ決め切れていなかった。
もう一人を望む気持ちは、確かにある。
それでも、あの匂いをもう一度この家に満たす覚悟が、今はまだ、喉の奥で止まっていた。
その光が、ふとした拍子にアランの腕を照らす。袖の内側に隠していたはずの場所が、ほんのわずかに透けて見えてしまう角度がある。
羽ペンで刻まれた言葉の痕。
治癒呪文が効かない。効かないというより、届かない。皮膚の表面だけではなく、もっと深いところに縫いつけられているみたいに、痛みが残る。
何もしていないときほど、じんわりと主張してくる。罪を忘れるな、と指先から囁かれるように。
アランは息を吐き、袖口を整え直した。
鏡の前でやる仕草は、いつからか癖になった。美しく整えた衣服の隙間から、みっともないものが覗かないように。——覗いてしまえば、それはきっとレギュラスの目に入る。レギュラスの目に入った瞬間、そのみっともなさは「罰として正しい形」に作り替えられてしまう。
それが、あの男のやり方だった。
下へ降りると、サロンの奥から幼い笑い声が聞こえた。
アルタイルの声だ。たどたどしい発音で、短い言葉を繰り返しながら笑っている。あの笑い声だけが、屋敷の空気を柔らかくする。
「アルタイル、指はそうじゃありません。ほら、こっち。——いい子ですね」
穏やかな声。甘やかすための音色。
レギュラスは床に膝をつき、子供の目線まで降りている。貴族らしい所作の一つ一つが、幼子に向けられると妙に優しい。
アルタイルは父の肩に手を置き、胸を張った。まるで世界一の功績を成し遂げたかのように。
「できた!」とでも言いたげに、レギュラスの顔を見上げる。
「ええ。できましたね。——お母様にも見せてあげましょう」
レギュラスがアランの気配に気づくのは、いつも早い。
背中越しに視線を投げてくるわけでもないのに、存在そのものを掴むみたいに、ぴたりとタイミングを合わせてくる。支配や命令が、言葉の形を取る前に、もう空気として染み込んでいる。
「おはようございます、レギュラス」
声が、少しだけ固くなる。
けれどアルタイルの前では、それをほどいてやらなければならない。母は、母の顔でいなければならない。
「おはようございます。昨夜はよく眠れました?」
問いかけの形をしているのに、返答は最初から決められている。
「はい」と言えば、満足される。
「いいえ」と言えば、どうしてかを問われ、どうすれば解決できるかという名目で、さらに深く侵入される。
アランは迷いを飲み込み、微笑みを貼り付ける。
「はい。ありがとうございます」
その「ありがとうございます」さえ、どこに向けたものなのか、自分でも分からなくなる。
眠れたことへの礼なのか。詰められずに済んだ夜への礼なのか。自分がまだこの屋敷で息をしていられることへの礼なのか。
レギュラスはアルタイルの背を軽く撫で、ふいにアランへ手を伸ばした。
触れてくる。あまりにも自然に。拒む余地がないほど日常の動作として。
指先が、アランの頬へ、髪へ、肩へ。
その手はいつだって丁寧で、優しい温度を帯びている。
なのに、その優しさは救いではなく、むしろ毒みたいに遅れて効いてくる。
昨夜あれほど責め立てた人間が、今は同じ指先で「大丈夫ですか」と撫でる。その落差が、魂の感覚を鈍らせる。
「腕、痛みます?」
アランの袖口に視線が落ちた。
気づいたのだ、と喉がひゅっと鳴る。隠したのに。隠しきれなかったのに。
「……平気です」
平気、と言い切るには痛みがあまりにも確かだった。
けれど、痛いと告げれば、どんな形でその「痛み」を利用されるか分からない。優しさの名を借りた追及が始まり、最後にはまた、何かが刻まれる。
「嘘」
レギュラスが笑った。やわらかい声のまま、容赦のない断言。
「あなたは嘘が下手です。昔から」
昔から。
その言葉が、アランの胸の奥を刺す。
昔——それはローランドと、まだ世界が狭く、手の届く範囲で幸福を作っていた頃のことをも含むからだ。アランは自分で自分の記憶に触れるのが怖くて、視線を逸らした。
アルタイルが二人の間に割り込むように、アラン アランのスカートを掴んだ。
「まま」と呼ぶ声が、胸の芯を柔らかく叩く。
アランはしゃがみ、子を抱き上げた。
その瞬間、腕の内側が引き攣れるように痛む。顔に出さないようにするだけで精一杯だった。
「抱っこ、重くなりましたね」
レギュラスは微笑む。自慢する父の笑みだ。
アルタイルは父の声に反応して、また笑った。
この光景を前にすると、アランは自分の中の憎しみが不純物みたいに見えてしまう。
この男を一生許したくない。あの日、父に言うなと懇願したのに踏みにじった。自分の秘密も、ローランドの誇りも、善意も、全部、指先で弄ぶように壊して楽しんだ。
それなのに——アルタイルの前でのレギュラスは、どこまでも慈愛に満ちた父親だった。
子の笑顔を引き出すことに、まるで嘘がない。
嘘がないからこそ、なおさら分からなくなる。
人は、こんなふうに矛盾したまま存在できるのか。
残酷さと優しさを、同じ器の中に混ぜ込んで、平然と笑えるのか。
その日の昼、屋敷には荷が届いた。
木箱がいくつも、丁寧に封印されたまま運び込まれ、使用人たちが息を合わせて並べていく。薬草、器具、希少な触媒。——セシール家の研究のための物資だと、箱の札が語っていた。
「早いですね」
アランが呟くと、レギュラスは当然のことのように頷いた。
「間に合わない方が困るでしょう。セシール卿の研究が遅れるのは、こちらの損でもありますから」
損。
その言葉は、冷たい真実だ。
けれど、同時に誰よりも早く、誰よりも確実に支援を差し出してくるのも、この男だった。父の研究が日の光を浴びるたびに、アランの胸は誇らしさと痛みで同時に満たされる。
父が報われることが嬉しい。心底嬉しい。
それがレギュラスの手によって促されているという現実が、同じだけ苦しい。
父が喜ぶ顔を見るたび、あの頃ローランドと描いた未来が、違う形で叶っていくのを感じる。
ローランドと二人で支えたかった。ローランドの隣で父の研究を世に出したかった。
その願いを奪い取ったのがレギュラスで、その奪い取った手で父を救っている。
正しさと暴力が、同じ指先から出てくる。
アランの心は、そのたびに居場所を失う。
夕刻、魔法省から戻ったレギュラスは、軽い口づけをアランの額に落とした。
命令のようでもあり、愛情の証のようでもある。アランが一瞬でも身を固くすれば、その硬さはすぐに読み取られる。だから、柔らかく受け取るふりをする。
「今日はどうでした?」
「……父の研究は、順調です」
「素晴らしい。僕はあなたが誇らしいですよ」
誇らしい。
言われるたび、胸がきゅっと縮む。
その誇らしさの裏側にある犠牲を、レギュラスは決して「犠牲」とは呼ばない。呼ばないから、アランは余計に苦しくなる。自分だけが、汚いものを抱えている気がして。
レギュラスの手が、アランの腕へ伸びる。
袖口の内側。隠していた場所へ、わずかな圧をかけるみたいに触れた。痛みが、薄い火花になって散る。
「痛いでしょう」
「……はい」
吐息のように漏れた返事。
レギュラスは、ほんの少し眉を寄せた。心配の形をした顔。けれどその表情が、赦しではないことをアランは知っている。
「忘れないように、ですよね」
その言い方が、恐ろしいほど自然だった。
支配と命令と強制を、さも家庭のルールみたいに言う。
それでいて、指先はどこまでも丁寧で、優しい温度を滲ませている。優しさがあるからこそ、拒絶が難しくなる。拒絶できない自分が、さらに嫌になる。
アランは視線を落とし、唇を噛んだ。
ローランドの顔が浮かぶ。
「愛している」と言われたときの声。優しくて、逃げ道を残して、抱きしめる腕がどこまでも慎重だった。
その愛は、穏やかで、傷を増やさなかった。
傷を増やさない愛を知ってしまっているから、レギュラスの「愛している」が、時折恐ろしく聞こえる。
それでも——レギュラスの機嫌が良い日は、ほっとする。
笑っている時は、胸が暖かくなる瞬間がある。
それが屈辱だと分かっているのに、体が勝手に反応してしまう。心が冷え切っているなら、暖かさなど感じるはずがないのに。
機嫌が悪い時は、声を発するのも苦しくなる。
棘の一言が落ちてくる前に、空気が凍るのを知っているから。
どうにかして、その棘を抜いてやりたいと思ってしまう。自分のためか、アルタイルのためか、父のためか、それとも——ただ、レギュラスの顔が歪むのを見るのが嫌だからか。
分からない。
分からないことが、怖い。
「アラン」
呼ばれて、アランは顔を上げる。
レギュラスは彼女の顎を軽く掬い、視線を合わせた。翡翠の瞳が、灰色を映す。
その瞬間だけ、世界の輪郭がはっきりする。捕まえられる感覚。逃げ場がないと知る感覚。——それなのに、不思議と安堵が混ざる。
「今日は、少し疲れました」
「……はい」
「機嫌、取ってくれます?」
この男は、いつだってぶれていない。
婚姻を決めた瞬間から何も変わっていない。求める。手に入れる。確かめる。奪う。慈しむ。折れさせる。
揺れるのはいつも自分だ。過ちを犯すのも、弱さを晒すのも、逃げ道を求めるのも。
レギュラスは揺れない。揺れないから、アランの心はなおさら分からなくなる。
嫌悪だけなら簡単だ。拒絶だけなら簡単だ。
けれど、温かさを感じてしまう自分がいる。ほっとしてしまう自分がいる。アルタイルが笑うたび、父の研究が救われるたび、胸のどこかが「まだここにいていい」と囁いてしまう。
アランは微笑みを作った。
完璧な微笑みではない。作ろうとしたのに、ほんの少しだけ震えが混ざる。
痛みのせいか、罪悪感のせいか、幸福の残骸のせいか分からない。
「……何をすれば」
レギュラスの指先が、今度は優しく髪を梳いた。
その仕草だけは、罰でも命令でもなく、ただの愛撫のように見える。
見えるからこそ、アランはさらに混乱する。
「あなたがここにいて、僕の顔を見てくれればいい」
そんな簡単な言葉で、世界を囲い込む。
アランは頷いてしまう。頷いてしまった自分を、内側で嫌う。
それでも、頷かずにはいられない。
胸の奥には、ローランドへの想いがまだ残っている。
燃え上がる炎ではない。灰の下で微かに息をしている、消えない熱だ。
その熱が残っているからこそ、今の自分が生きていられる気がする時もある。
同時に、その熱があるからこそ、レギュラスの前で「良き妻」を演じる自分が、あまりにも滑稽で汚く思える時もある。
アランは、レギュラスの胸元に視線を落とした。
この男を許さない。許したくない。
それでもこの男の機嫌が良いとほっとする。
この男が笑うと胸が暖かくなる。
この男が棘を剥く時は息をするのも苦しい。棘を抜いてやりたいと思ってしまう。
——その全部が、本当だった。
矛盾していて、みっともなくて、どうしようもないほど人間らしい。
レギュラスの掌が、もう一度アランの腕に触れた。
痛みが走る。けれど今度は、確かめるように、いたわるように、そこに留まる。
まるで「刻んだのは自分だ」と言わんばかりの手つきで、優しく温度を残していく。
アランは目を伏せた。
涙が出そうになるのをこらえた。泣く理由などないのに、泣きたくなる。
泣けばまた、何かを握られる。泣けばまた、正しさの顔をした支配が伸びてくる。
それでも、レギュラスの指先の温度が、今は少しだけ怖くなかった。
怖くないことが、いちばん怖かった。
「……レギュラス」
名を呼ぶと、彼の目がやわらかく細くなる。
その表情が、罪の宣告にも、愛の告白にも見える。
アランは自分が分からなかった。
ローランドを抱えたまま、レギュラスに絡め取られ、憎みながら温もりに救われ、救われる自分を憎む。
腕の痛みだけが、唯一まっすぐだった。
忘れるな、と。許されるな、と。
けれどその痛みさえ、今はレギュラスの掌に覆われて、少しだけ鈍くなる。
鈍くなるたび、アランの心はさらに迷子になる。
そして迷子のまま、アランは微笑みを作り直した。
母として、妻として、研究者の娘として。
壊れた自分の欠片を拾い集めるように、今日も「正しい顔」を貼り付ける。
貼り付けながら、胸の奥のどこかで、ローランドの声が小さく響いている。
それは祈りみたいで、呪いみたいで、甘い毒みたいに、まだ消えてはくれなかった。
それは、ほんの些細な瞬間から始まった。
アルタイルが机に向かっている時間が増え、絵本のページを追う指が迷わなくなり、玩具の仕掛けを「運」ではなく「理解」で外すようになっていく——その成長の端々で、アランは時折、胸の奥がひやりとする感覚に触れた。
理由は、単純な賢さではなかった。
賢い子はいる。覚えるのが早い子もいる。
けれど、アルタイルの賢さには、どこか人を動かすための形が混じり始めていた。
最初は、母を引き留めるための、ただそれだけの小さな願いだった。
夕方、ローランドが帰ったあと。
サロンの窓辺は淡い光を落とし、磨かれた床には長く影が伸びていた。アランはアルタイルを抱き上げ、寝かしつけの前に少しだけ背中を揺らしてやる。髪はまだ柔らかく、ほのかにミルクの匂いが残る。小さな体が胸に沈み込む重みが、愛おしさを重くする。
「まま」
耳元で、甘えた声が落ちる。
「どうしました、アルタイル」
「……ここ」
小さな指が、アランの胸元をとん、と叩く。
ここに、いて。
言葉より先に意図が伝わってくる。
「今日はもう少しだけ。まま、ここ」
可愛らしくて、たまらない。
胸の奥がじんと温かくなる。アランは笑って頷いてしまいそうになる。けれど、今夜はやることがある。アルタイルが眠ったあとに片付けなければならない書類も、明日の準備も、そして——屋敷の空気を乱さないための役割も。
「少しだけですよ。アルタイルが眠ったら、ままはお部屋のことを——」
そこまで言いかけた時だった。
アルタイルは顔を上げた。
まるで、今の言葉を受け取ってしまうみたいに。
その瞳の色は母に似ているはずなのに、瞬きの間の静けさが、父のそれを思わせた。
「……少しだけ、って、どれくらい?」
幼い声なのに、問いの形だけが妙に整っている。
答え方次第で、逃げ道が塞がれる問い。
アランは一瞬、言葉を探した。
子供にどれくらいと聞かれるたび、曖昧さが許されなくなる。子供は曖昧を嫌う。けれどアルタイルは、ただ嫌っているのではなく——曖昧をこちらに残さない。
「……アルタイルが眠るまで、です」
「じゃあ、ねむくならない」
さらり、とんでもないことを言う。
そして、言った後に無邪気に笑うでもなく、アランをじっと見つめた。母がどんな反応をするか、確かめるような目。
アランは喉の奥がきゅっと縮む。
可愛い。可愛いのに、怖い。
自分の望みを通すために、言葉を選んだことが、幼いなりに伝わってくる。
「アルタイル、眠くならないのは体に悪いですよ」
叱るつもりはない。笑って諭すつもりだった。
けれど、その言葉すら、アルタイルは待っていたみたいに拾った。
「じゃあ、ままが、ここにいるならねむる」
——条件を出した。
正確に、交換を提示した。
アランの胸が、ひとつ跳ねる。
この感じ。
選択肢を与えているふりをして、実際は答えを一つに絞っていくやり方。
「ままがここにいれば、アルタイルは眠る。ままがいないなら、眠らない。」
ゆっくりと、確認するように言い直す。
まるで、契約の文言みたいに。
アランは、思わず笑ってしまいそうになるのを堪えた。幼い子が、こんな理屈を。
けれど笑えなかった。笑ったら——その形を許してしまう気がしたから。
「……アルタイル、ままは、ずっとここにはいられません」
言い切った瞬間、アルタイルの口元がわずかに歪んだ。泣く前の顔。
アランの胸がきゅっと痛む。
でも、次に来たのは泣き声ではなかった。
「……ずっとじゃなくていい」
譲歩。
けれど、譲歩に見せた“調整”。
「ままが、ここにいるって、言って」
言質が欲しい。
約束の形が欲しい。
ただ抱きしめてほしいのではなく、言葉で縛っておきたい。
アランは息を吸って、ゆっくり吐く。
自分の子が、こんなふうに「言わせる」ことを覚え始めているのが、切なくて、愛おしくて、そして——確かに、父の血を感じさせる。
「ままは、アルタイルが眠るまでここにいます」
選んだ言葉は慎重だった。
期限を置く。自分の自由を残す。
けれど同時に、子供の安心も満たす。
アルタイルは満足したのか、肩の力をふっと抜いた。
そして、最後に小さく畳みかける。
「……ほんと?」
「はい。本当です」
「じゃあ、まま、いま、ぎゅってして」
目的は、ひどく子供らしい。
抱きしめてほしい。ここにいてほしい。
それだけなのに。
その取り方が、どんどん巧くなる。
アランが抱きしめると、アルタイルは小さな腕を首に回して、頬を寄せた。
その温もりに、アランの心はほどけてしまいそうになる。
けれど、ほどけたくない部分が、胸の奥に残っていた。
——このやり方を、どこで覚えたのか。
答えは、いくつもある。
家の空気。父の声。父が使う言葉の癖。
そして何より、父が望みを通していく瞬間を、アルタイルはいつも見ているのだ。
ある夜、アランが食卓で躊躇したとき。
ある朝、言葉に詰まったとき。
レギュラスが微笑みながら問いを重ね、逃げ道を塞いでいったとき。
——それは命令ではない。
けれど拒めない。
拒むと、罪悪感が先に立つ。
そして、正解を言ったほうが早く終わる。
アルタイルは、それを肌で覚える。
母の顔色が変わるタイミングを、目で覚える。
母が折れる瞬間の空気の緩みを、体で覚える。
アランの腕の中で、アルタイルは満足そうに瞬きをして、ふいに囁いた。
「まま、きょう、どこにも、いかない?」
来た、とアランは思った。
再び、問い。
今度は、より大きい範囲で。
「……アルタイルが眠ったら、ままは少しだけ——」
「だめ」
即答。短い。
幼い声なのに、拒絶が綺麗に刃になっている。
そして、刃のままでは終わらせない。
次に来たのは、柔らかい飴だった。
「……まま、きょう、いっぱい、つかれてる」
アランは息を止めそうになった。
気遣いの形をして、こちらを縛る言葉。
母が「いい子だ」と思うように仕向ける言葉。
「だから、ね? ねむったら、ままも、ねむる」
母の体を気遣っているようでいて、目的は一つ。
母をここに留める。
アランは喉の奥が熱くなった。
泣きたくなるほど愛おしい。
同時に、怖い。
この小さな子が、優しさの形で人を縛ることを、もう覚え始めている。
「アルタイル……」
名を呼ぶと、アルタイルはにこりと笑った。
勝ち誇る笑みではない。あくまで、可愛い子供の笑み。
けれど、アランには分かってしまう。
こう言えば、ままは断れない
そういう計算が、すでにそこにある。
アランは、ゆっくり頷いた。
「……分かりました。今日は、ままも一緒に早く休みます」
アルタイルはほっとしたように体を預けてきた。
その瞬間だけは、本当にただの子供だった。
胸が苦しい。
抱きしめる腕に力が入る。
こんなにも愛しているのに、その愛に混ざる影を、アランは見ないふりができない。
——この子は、レギュラスの血を濃く継いでいる。
賢さも、強さも、そして人を動かす術も。
そしてそれは、いつかきっと。
母を守るためにも、母を縛るためにも使われる。
アルタイルがまぶたを重くし始めた頃、扉の外を誰かが通った気配がした。
足音は静かで、規則的で、屋敷の空気を支配するような落ち着きがある。
アランは分かってしまう。
レギュラスだ。
その気配が近づくにつれて、アルタイルは半分眠りながらも、なぜか安心したように小さく息を吐いた。
父の存在を、当たり前の柱として受け取っている。
そして、眠りに落ちる直前。
アルタイルはアランの胸元に顔を埋めたまま、薄い声で囁いた。
「……まま、ここ……」
ここにいて
その願いは可愛い。
けれど、その願いを叶えるために選ぶ言葉が、すでに——
父のやり方の影を、柔らかく纏い始めている。
アランは目を閉じ、子供の髪に口づけた。
温かい。柔らかい。
その温かさが、この先もずっと守られるようにと、祈るしかない。
そして同時に、胸の奥で、小さく震えた。
この子はきっと、もっと上手になる。
もっと自然に、もっと優しく。
相手を傷つけることなく、相手が自分から差し出したように見せながら、望むものを手に入れていく。
それが父の血だとするなら——
アランは、どこで止めればいいのか、まだ知らないままだった。
夕暮れの光が屋敷の窓硝子を薄い蜜色に染めて、部屋の輪郭だけを柔らかくほどいていた。
サロンの絨毯の上には、ばらばらに広がった知育玩具と絵本。アルタイルは膝を抱えるように座り込み、小さな指先で木片を組み合わせている。さっきまで「まま、ここ」としつこいほど言っていたのに、いまは集中のためか息までひそめて、眉を少しだけ寄せていた。
その背中を見ているだけで、アランの胸は痛むほど満たされる。重みが増した子の体温。抱き上げたときに腕に残る、じんとした痺れ。母親でいる時間は、いつも短い幸福と、長い緊張を引き換えにしている。それでも、こういう瞬間だけは、息がちゃんと吸える気がした。
扉の開く音がしたのは、その息がゆるんだ直後だった。
気配が先に入ってくる。磨かれた床を踏む音さえ控えめで、急ぐでもなく、迷うでもない。屋敷の空気に馴染み、同時に屋敷の空気を支配している足取り。
レギュラスだった。
アルタイルは振り向くより早く立ち上がり、絵本を抱えたまま駆けていく。
「パパ」
それだけで、今日の父親はもう勝ちだと告げているような響きだった。レギュラスは手にしていた書類の束をサイドテーブルに置き、息子の小さな体を受け止める。抱き上げる動きは慣れていて、抱き上げたあとに背中を二度、軽く叩く癖まで揺るがない。
「お帰りなさい、レギュラス」
アランがそう言うと、レギュラスの視線が、ほんの一瞬だけアランを掠めた。いつもと同じように穏やかな灰色の瞳。けれど、どこか、確認するみたいな目だった。今日も機嫌は整っているのか。今日もきちんと、こちらの正しい形に収まっているのか。
「ただいま、アラン」
呼び方は柔らかい。声も優しい。優しいまま、確かめる。
アルタイルはレギュラスの肩にしがみつきながら、さっきの木片を指さした。
「これ、できる」
「それはすごい。見せてください」
レギュラスは息子を下ろし、絨毯の上に膝をつく。貴族の当主が床に膝をつく姿は、見慣れないはずなのに、いまこの家では日常になってしまっている。アルタイルが木片を並べ、組み、最後に小さな音を立ててぴたりと収まった瞬間、嬉しさの波が子供の顔を照らした。
「できた」
「ええ、できましたね。……難しいのをよくここまで」
レギュラスは褒めながら、自然な手つきで、息子の頬に触れた。指先は丁寧で、優しくて、そこにいらないものは混じっていないように見える。見える、だけだ。
アルタイルは得意げに笑い、ふとアランを見上げた。まるで——母にもこの成果を渡すように。誉めてもらう権利をちゃんと取りに行くように。
アランは笑って頷いた。
「すごいですね、アルタイル」
言った瞬間、レギュラスの視線がまた動く。息子ではなく、母を見た。ほんの短い間で、アルタイルがどういう言葉を選ぶようになったのか、その片鱗を測るみたいに。
アランはその視線を受け止めるのが苦しくて、けれど逃げたらもっと面倒になることを知っているから、微笑みの角度を崩さなかった。母としての笑み。妻としての無難な笑み。
レギュラスは、息子の頭を撫でたまま、何気ない調子で言う。
「今日はずいぶん熱心ですね、アルタイル。誰にそんなに上手にお願いを習ったんです?」
アルタイルは意味を深く理解していない。けれど、お願いという言葉が自分の得意技だと分かっている顔で、胸を張る。
「ままに」
「そうですか」
レギュラスの返事は短いのに、部屋の温度が少しだけ変わった。アランの背筋が、ほんの僅かに緊張する。
アルタイルはまた木片に戻り、二人の大人の間に落ちた薄い沈黙を知らないまま、遊びの世界に沈んでいった。
レギュラスが立ち上がる。手についた見えない埃を払う仕草が、妙に几帳面だ。アランはその手元に目を奪われた。あの手は、壊す時と、撫でる時の温度が同じだと知ってしまっているから。
レギュラスが、息子を見下ろしたまま言う。
「……賢い子ですね。本当に」
その声は、誇らしさだけで出来ているように聞こえた。けれどアランには、その下にあるものが見えてしまう。誇りと、所有と、確信と。——自分のものが望む形で育っているという満足。
だから、アランはふと、言ってしまった。
「あなたにそっくりですよ」
口から出た言葉は、褒め言葉にも、告白にも、刺にもなり得た。アラン自身がそれをどう出したのか、言った瞬間に分からなくなる。息子の可愛さを共有したかっただけなのに。あるいは、止めたい何かを遠回しに伝えたかったのかもしれない。
レギュラスはゆっくり振り向いた。
その灰色の瞳が、まっすぐアランを捉える。逃げ道のない視線。それなのに、口元は柔らかく微笑んでいる。
「ええ、だって僕の子ですから」
言い切る声音が、あまりに自然で、あまりに当然で、アランの胸の奥が小さく震えた。
僕の子。
それはただの父親の喜びの言葉にも聞こえる。血の繋がりを確かめる誇りにも。家の跡取りを得た当主の、揺るぎない勝利の宣言にも。
同時に——所有の印にも聞こえる。
アランは息を吸った。胸の奥に、温かいものと冷たいものが同時に広がる。息子を「僕の子」と言うその響きの中に、自分もまた含まれている気がしてしまうからだ。僕の妻が産んだ子。僕の家の跡取り。僕のもの。
でも、レギュラスがその言葉の意味をどう取っているのかは、アランには分からなかった。
本当にただ、父として喜んでいるだけなのか。
それとも、アランに対して——「分かっているでしょう」と言外に釘を刺したのか。
そっくりという言葉に、どんな含みを聞き取ったのか。
レギュラスは微笑んだまま、ほんの少しだけ首を傾ける。
「どういう意味で言いました?」
尋ね方が、優しい。
けれど、優しさが逃げ道を許さない形をしている。
アランは笑みを崩さないようにした。視線を落とさずに受け止める。ここで怯えたら、余計に面倒になる。
「……賢さが、です。覚えるのが早いですし。組み立てるのも上手で」
「賢さ、ね」
レギュラスの声が、少しだけ低くなる。怒ってはいない。怒る手前でもない。むしろ楽しんでいるような、静かな興味の温度。
「賢さだけですか?」
アランは喉の奥がきゅっと縮む。
言葉の刃が見えないところで研がれているのが分かる。何を引き出したいのか。どこまで言わせたいのか。自分の口からどんな“正解”を吐き出させたいのか。
けれど、アルタイルがいる。
息子の前で、空気を尖らせたくない。尖らせるのは父の役目でもない。母の役目でもない。ここは家族の部屋で、いま息子は木片を抱えて世界を作っているのだから。
だからアランは、少しだけ肩の力を抜くふりをして、苦笑いを混ぜた。
「……手段まで、似てきました」
レギュラスの眉が、ほんの僅かに動いた。
アランは続けた。声の震えを見せないように、あくまで軽く。
「『ここにいて』って言うだけなら可愛いんです。でも、言い方が……。条件を出したり、約束を取ったり。私が断れない言い方を選んだり」
それは責めではない、と言い聞かせるように。
けれど、責めに聞こえたって仕方ない、とも思ってしまう。
レギュラスは黙って、アルタイルを見た。
その横顔は穏やかで、整っていて、何もかも余裕があるように見える。自分が生み出したものを、眺める目。
そして静かに言う。
「可愛いでしょう」
「ええ……可愛いです」
「なら、いいじゃないですか」
その言葉の軽さが、逆に怖かった。
それで何が問題なんです?と同義の軽さ。
アランは瞬きをした。胸の奥に、疼くような痛みが走る。止めたい、と心のどこかで思っているのに、止める資格が自分にあるのか分からない。自分だって、結局はこの家で生きるために、言葉を選び、笑みを選び、相手が欲しい返事を返しているのだから。
レギュラスは、ふいにアランの手を取った。驚くほど自然な動作で。指先が触れる。掌が重なる。手の温度は、いつも丁寧で、やさしくて、そのやさしさの中に命令が溶けている。
「アラン」
名前を呼ぶだけで、空気が締まる。
「あなたは、僕の子をよく育てています。——僕好みに」
最後の一言が、甘さのように聞こえるのに、背筋が冷たくなる。
アランは、答え方を間違えたらいけない、と反射的に思った。ここで反発を見せるのは得策じゃない。けれど、従順すぎるのもまた、嫌がられることがある。レギュラスは正解を嫌う。核心を求める。表面の整った答えを裂いて、その奥にある感情を引きずり出す。
だから、アランは息を整えて、静かに言った。
「……あなたの子だから、ですか?」
探るように問うたつもりはない。
けれど、問いになってしまった。
レギュラスは、笑った。声を立てて笑うのではない。口元だけで笑う。
「そうですね。僕の子です」
さっきと同じ言葉。
同じなのに、今度は少しだけ違う意味を帯びて落ちる。
血の話だけじゃない。
家の話だけじゃない。
僕のものという響きが濃くなる。
アランはその意味を、どう受け取ればいいか分からなくなる。レギュラスがそれをどう取っているのかが、さらに分からない。
息子の賢さにただ誇らしくなって言っているのか。
それとも、アランが口にした「似てきました」という言葉を、夫への皮肉だと捉えたのか。
あるいは——母が息子に与えた影響を、父の支配に回収するための言葉なのか。
アルタイルがふいに振り返り、二人の手が重なっているのを見て、嬉しそうに笑った。
「まま、パパ」
その笑顔が、あまりに無邪気で、あまりに救いで、アランの胸は少しだけ緩んだ。
この子はまだ、何も知らない。
父の言葉の裏側も、母の笑みの裏側も。
レギュラスはアルタイルに目を向け、優しい声で言う。
「アルタイル、ままを困らせてはいけませんよ」
困らせているのは、いま誰なのか。
アランは心の中で答えを呟いたが、口にはしなかった。
レギュラスの手が、まだアランの手を離さない。
その温度が、丁寧で、優しくて、落ち着いていて。
それが余計に、分からなくさせる。
僕の子という言葉が、愛なのか、支配なのか。
誇りなのか、釘なのか。
それとも、全部なのか。
アランは、微笑みのまま瞬きをして、息子の小さな頭を撫でた。
「……アルタイル、もう一回見せて。今の、どうやったの?」
話題を、子供の方へ逃がす。
逃がすことを、もう咎められない程度には、うまくやる。
レギュラスはそれを見ている。
何も言わず、ただ見ている。
その灰色の瞳の底で、何かが静かに形を変えているのを感じながら—— アランは、分からないまま、分からないふりを続けた。
窓の外はもう夜の色に沈み、屋敷の廊下には灯りが等間隔に浮かんでいた。蝋燭の火は揺れているのに、ここにある空気だけは不思議なほど整っている。整えられている――と言った方が正しい。
サロンの中央に、小さな机が置かれていた。子供用に背を低くされた椅子、角の丸い木の机。上にはカードと算術の小道具と、薄い魔法書が一冊。紙に走るインクの匂いが淡く混じり、そこに紅茶の香りと、乾いた木の匂いが重なっている。
アルタイルは椅子にきちんと座り、足をぶらぶらさせながらも目だけは真剣だった。幼いくせに、気が散らない。何か一つに狙いを定めると、そこへまっすぐに手を伸ばす癖がある。勝手に育った癖ではない。誰かが、そう育てている癖だ。
その向かいに、ローランド・フロストがいた。いつもより少し背筋が硬い。余計な物音を立てないように、呼吸まで慎重にしているのが見て取れる。それでも指先は柔らかく、ページを繰る音は静かだった。礼節を纏って、家に溶け込むように座っている。――座らされている、と言うべきか。
アランは二人の少し後ろ、ソファの肘掛けに寄りかかるように座っていた。刺繍の入ったクッションを抱え、髪を片側に流して、アルタイルの横顔を見ている。子供が文字を追う瞬間、理解が繋がった瞬間の、わずかな表情の変化を見逃さない眼差し。賢い母親の眼差しだ。熱を持たせすぎず、冷めさせすぎず、ちょうどいい距離で愛情を注いでいる。
満足だった。
ただ跡取りがいる、という満足ではない。息子が「自分の息子」として育っている満足。きちんと躾が入り、きちんと愛が入り、きちんと知が入る。人の家の子ではなく、この家の血の濃い子として、当然のように形になっていく。その形を、アランが作っている。
しかもそれを作る手は美しい。賢く、穏やかで、余計な感情を顔に出さない。出さないからこそ、ひとつひとつの仕草が際立つ。アルタイルがページの端を指で押さえようとして、うまくいかないとき。アランがさりげなく立ち上がり、何も言わずにそっと指を添えてやる。子の小さな手を上から包み込むのではなく、横から支えて導く。その加減が、どこまでも上手い。
それを、フロストが見ている。
目は下げている。必要以上にアランを見ない。近寄らない。触れない。会釈と礼だけで距離を保つ。あの一件の後、本人が生き延びるために獲得した作法だろう。それでも、視界の端で追ってしまうのを、身体がやめられないことも分かる。息がわずかに乱れる瞬間がある。ページを繰る指が一瞬だけ止まる瞬間がある。
その度に、胸の奥がひやりとするような快感が走る。
きっと、この男も想像したのだろう。アランと家庭を築き、子を成し、その子に文字を教える未来を。二人だけの部屋で、二人だけの笑みで、二人だけの世界を作る未来を。
それが奪われた。奪われただけでは終わらない。奪われた未来の残骸を、こうして目の前に差し出される。
自分の子だ。自分が名を与え、自分の屋敷で育て、自分の妻が産んだ子だ。その子に知を惜しみなく与える役目を、ローランド・フロストに負わせている。
罪の取り方として、これ以上に丁寧で残酷なものがあるだろうか。
レギュラスは扉のそばに立ったまま、しばらくその光景を眺めた。わざと音を立てない。気づかれない距離で見ている方が、余計に支配が強くなる。自分が許している範囲で、彼らの時間が成り立っていることを、空気に染み込ませるように。
アルタイルが顔を上げた。
「パパ」
呼ばれた瞬間、レギュラスは足を進めた。足音を消したまま、当然のように輪の中へ入る。アルタイルの頭を撫で、机の上のカードに目を落とす。
「今日はどこまで進みました?」
アルタイルは得意げに胸を張り、覚えたばかりの数の組み合わせを口にした。舌足らずで、それでも確かに正しい答え。フロストがすぐ横で軽く頷く。
「アルタイル様は、とても理解が早いです。こちらが驚かされます」
フロストはそう言って、すぐに視線を机に戻した。余計な熱が混じらないように。余計な言葉で、空気に触れないように。
「そうでしょうね」
レギュラスは微笑んだ。柔らかい声音のまま、刃を落とさない。今日は別に、この男を切り刻むために戻ってきたわけではない。切る必要は、常にあるのだから。
「アランがよく育てていますから」
その言葉で、アランがほんのわずかに瞬きをした。褒められた時の反射。嬉しいのではなく、反応を選んでいる瞬間の癖。そういうところまで含めて、レギュラスは満足していた。賢い妻だ。賢いまま、従順でいてくれる。
アランが小さく頭を下げる。
「身に余るお言葉です」
「身に余る? そういう言い方は好きではありませんね」
笑みを崩さずに言うと、アランは息を整えるように唇を結んだ。怒っているのではないと分かっている。けれど、どの言葉を選んでも正解にならない瞬間があることも知っている。
レギュラスは話題を戻した。アルタイルの頭を撫でながら、机のカードを一枚めくる。フロストの指導は丁寧で、無駄がない。余計な情緒を挟まず、理解だけを積み上げる。教師としては理想的だ。
「フロスト殿、助かります。惜しみなく教えてくださる」
「当然の務めです、ブラック様」
礼節の塊みたいな返答だった。あの夜、膝をつき、喉を震わせ、罪を吐き出した男とは思えないほど整った声。整えたのだろう。生きるために。守るために。――何を守るつもりなのかは、もう問うまでもない。
レギュラスは頷き、アルタイルの肩を軽く叩いた。
「じゃあ、続きは最後まで聞いてください。途中で投げ出さない」
「うん」
アルタイルが元気よく返事をして椅子に戻る。その横顔が、ますます自分に似てきた。言葉の選び方も、目的の立て方も。可愛らしい欲を、可愛らしくない手段で叶えようとするところまで。
その成長すら、誇らしい。
けれど、その誇らしさの奥で、別の欲が静かに芽を出しているのを、自分は見ないふりができなかった。
――二人目がいてもいい。
アルタイルがこれだけ形になったのなら、もう一人。家はさらに盤石になる。血は濃くなる。家族は増える。世間は祝う。魔法省は持ち上げる。純血の宴では当然のように称賛が降る。自分は、また勝てる。
そして何より――フロストの目の前で。
この男が抱けなかった、いや、抱いてはいけなかった女が。別の男の子を産み、また別の命を宿し、その腹を大きくしていく姿を、この屋敷で、この家族の中心で、見せつけてやれる。アルタイルを導くために通うその時間の中で、否応なく焼き付けさせることができる。
想像しただけで、心のどこかが満たされていく。冷たい満足と、熱い支配欲が混じり合う。罰は、単に痛みを与えることではない。未来を奪い、奪った未来を別の形で見せつけ、目を逸らせない立場に縛りつけることだ。
――そう思った、次の瞬間。
記憶が、鋭い匂いを連れて蘇った。
あの部屋の灯り。白いシーツ。苦しみで汗に濡れたアランの髪。手を握り返す指が、何度も力を失って落ちる瞬間。意識がふっと途切れて、まるで人形みたいに静かになる瞬間。ヒーラーが落とす「大丈夫です」という声が、あまりに軽く響いた瞬間。
そして、桶に落ちる音。
ぼと、ぼと、と、妙に澄んだ音で落ちていく。水のようで、水ではない。体液と血が混じった液体が、信じられない量で溜まっていく。鉄の匂いが、喉の奥を掴む。息を吸うたびに、身体が拒絶する。吐き気が込み上げるのを、歯を食いしばって耐えた。
アランが叫ばない。声を上げれば力が分散されると言われ、歯を噛み締めて耐えていた。叫びもせず、泣き声も上げず、ただ呼吸だけを乱して、瞳だけで痛みを訴えた。あの翡翠の瞳が、痛みに濡れて揺れた瞬間の恐ろしさは、今でも鮮明だ。
あの時、自分は確かに思ったのだ。
この女を手に入れた代償が、こんな形で目の前に突きつけられるのかと。
美しいものを美しいまま抱きたかっただけなのに、どうしてこんな地獄を見せられるのかと。
そして、産んだ後でさえ痛みが引かなかった。数日、いや数週間、アランは身体の奥の痛みに顔色を変えた。回復しているのに、笑えるのに、どこかでまだ引きずっている痛み。その痛みを「平気です」と言い切る強情さ。平気で済ませるには、あまりに人間の身体は繊細で、あまりに出産は暴力的だった。
その記憶が、二人目という言葉にすぐ鎖をかける。
欲は確かにある。望みも確かにある。
けれど同じ地獄を、もう一度アランに課す光景を想像すると、踏み切れない。
矛盾が胸の内で居座り、うまく息が回らなくなる。
レギュラスはサロンに残る温度を整えるように、軽く咳払いをした。アルタイルは何も気にせず、フロストの指先を追ってカードを動かしている。アランは、そんな二人を見ながら、時々こちらに視線を寄越す。何かを察したような、察したくないような顔で。
レギュラスはアランの方へ歩み寄り、彼女の肩に手を置いた。押さえつけるでもなく、抱き寄せるでもなく、ただそこに置く。置くだけで、彼女は立場を思い出す。置くだけで、自分がここを掌握していることが伝わる。
「アラン」
低い声で呼ぶと、アランは顔を上げた。整えられた微笑みがすぐに浮かぶ。
「はい」
その返事の素直さに、満たされる部分がある。満たされるからこそ、残酷な欲もまた動く。満たされるからこそ、もう一度増やしたくなる。家族を。勝利を。支配を。
それでも、あの匂いが喉に残っている。
「……疲れていませんか」
問いは優しい。けれど、優しさの形をしているだけで、実際は確認だ。アランの身体がどうなのか。耐えられるのか。——自分が望む未来を、またこの女に課していいのか。
アランは一瞬、言葉を探すように視線を落とした。
「大丈夫です。アルタイルを見ていると、元気になります」
模範解答だった。母として正しく、妻として整っている。けれどその正しさが、レギュラスの胸の奥をざらつかせることがある。正しい言葉は、感情の在り処を曖昧にする。感情が見えないと、支配は逆に不安定になる。
レギュラスは指先で、アランの肩口の布を軽く撫でた。布越しに感じる体温が、妙に現実的だった。彼女はここにいる。自分の妻として。自分の家族として。自分の子を抱いた女として。
その事実だけで、心の奥の欲がまた息をした。
フロストがふと顔を上げる。アランの肩に置かれた自分の手を見たのかもしれない。あるいは、見ないふりをするために目線を動かしたのかもしれない。どちらでもいい。どちらでも、十分に罰になる。
レギュラスはアランの耳元にだけ届く声に落とした。
「……アルタイルだけで、満足ですか?」
問いの形をしているのに、問いでは終わらない声だった。
答え次第で、道がいくらでも変わる。
答え次第で、優しくも残酷にもなれる。
アランの睫毛が僅かに震えた。答えを選ぶ震えだ。
その震えを見て、レギュラスはなぜか安心しそうになった。感情がある。揺れている。操り人形みたいに滑らかじゃない瞬間が、まだ残っている。
けれどアランは、すぐに微笑みを戻す。
「……あなたが望むなら」
やはり正解を差し出してくる。
差し出すからこそ、奪いたくなる。
奪うからこそ、守りたくなる。
レギュラスは微笑んだまま、答えをその場で確定させなかった。確定させないことが、最も相手を縛ると知っている。希望と不安を同じ鎖で繋いでおけば、相手は勝手にこちらの機嫌を取り始める。
それでも――あの血の匂いだけは、まだ消えない。
欲がある。
家族をもう一人増やしたい気持ちは、確かにある。
フロストの目に焼き付けたい醜い愉悦も、確かにある。
だが、あの夜のアランの顔が、翡翠の瞳が、汗に濡れた額が、掌の中で何度も力を失った指が、記憶の底でまだ生きている。
レギュラスはアランの肩から手を離し、アルタイルの頭を撫でた。幼子は嬉しそうに笑い、またカードに戻る。
「続けてください、フロスト殿。途中で止めないように」
父としての声。
当主としての声。
そして、いつでも刃を隠せる男の、穏やかな声。
その裏で、自分はまだ決め切れていなかった。
もう一人を望む気持ちは、確かにある。
それでも、あの匂いをもう一度この家に満たす覚悟が、今はまだ、喉の奥で止まっていた。
