3章
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机の上に広がった羊皮紙は、午後の光を受けて淡く艶を帯びていた。
封蝋の朱、黒、銀。署名の筆跡。魔力封印の細い紋様。紙の匂いに混じって、どこか金属めいた冷たさが鼻を刺す。
ローランドは手袋を外し、指先で端を揃えながら、ただ黙々と分類を続けていた。
“保管庫”“役員室”“閲覧制限”。レギュラスが口にした大雑把な区分は簡単なようで、実際は一枚ごとに癖があり、落とし穴がある。
束のなかには、封印が二重になっているものもあれば、角に小さく刻印された記号だけで重要性を主張してくるものもある。
本来ならば、持ち出しなど許されない。
そんな疑問は、もう手放した。
魔法省の廊下にいた頃から、どの部署もきれいごとだけでは回っていないことを、ローランドは嫌というほど知っている。規則は額縁に飾られ、現場は現場で勝手に息をする。
それを咎めるだけの清廉さを、今の自分は持てない。
レギュラスは机の端に腰を掛けるようにして、アルタイルに触らせぬよう書類を片側に寄せ、もう片側に“今日中に形を整えるもの”を積み上げていく。
その手つきは無駄がなく、しかし苛立ちを隠そうともしていなかった。紙を整える指先の圧が、やけに鋭い。
「……フロスト殿、これは“閲覧制限”です。そちらに回してください」
「承知いたしました、ブラック様」
ローランドは言われた通りに封印の濃い束へと移しかけて、ふと指が止まった。
“閲覧制限”の刻印。これに触れるのは、元の部署の自分ならあり得ない。
当然、目にしたこともないはずなのに。
なのに――いま、紙は掌にあり、封印はすでに弱められている。
レギュラスが解いたのか、あるいは屋敷の結界が持つ特性か。理由を考えたところで、答えはどこにも転がっていない。
ローランドは、ほんの一瞬だけ躊躇した。
そして次の瞬間、封蝋の縁に指を添え、慎重に開いた。
羊皮紙の上に並ぶ文字は、淡々としているほど残酷だった。
物の名称、被験者の条件、手続きの抜け穴、承認の迂回経路。
数字が整然と並び、署名欄には複数の名が記されている。見覚えのある役職名もある。
紙の上では、何もかもが正しい形式を纏い、ただ静かに進む。
ローランドは喉が乾くのを感じた。
読んではいけない。そう思うほど、行が目に吸い込まれていく。
そして、その“正しさ”のなかに、ひどく生々しいものが混じっているのが分かってしまう。
ここに書かれているのは、誰かの人生であり、誰かの敗北であり、誰かの都合だ。
紙を閉じる手が、わずかに遅れた。
「……読んでしまいましたか、フロスト殿」
レギュラスの声は柔らかい。柔らかいまま、逃げ場を削る。
ローランドは背筋を固めたまま、視線を紙から離し、丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありません。分類にあたり、確認が必要かと――」
「いえ。確認できるなら、こちらとしては助かります」
許されているのか、許されていないのか。
その境界が曖昧なほど、心臓は嫌な音を立てる。
ローランドは書類をそっと“閲覧制限”の山へ戻し、息を整えるふりをした。
机の向こうで、レギュラスが別の束を開く。
ぱらり、と紙がめくれる音が妙に大きく響いた。
その数枚先で、彼の指が止まる。
「……ああ、足りませんね。これはおかしい」
口調は穏やかでも、言葉は即断だった。
レギュラスはページを軽く叩き、じっと一点を睨む。
その横顔に、さっきまでの“父の顔”はもうない。役員室の人間の顔だ。
「五ページ。ここ、完全に添付資料が足りません。写真もない。……今更撮れませんし、どうする気です?」
ローランドは覗き込み、記載の形式を追った。
専門用語が多い。数字の並びの意味も、途中から霧がかかる。
それでも足りないという結論だけは、嫌でも伝わってきた。
欠けているのは紙ではなく、証拠だ。
証拠が欠ければ、監査は牙を剥く。形式の刃で、容赦なく喉元を切ってくる。
レギュラスは視線を上げ、廊下の方へ短く呼びかけた。
やがて使用人が現れる。レギュラスは微笑みを貼り付けることなく告げた。
「バーテミウスを」
声の調子が、それだけで命令だった。
使用人は一礼し、音もなく去っていく。
ローランドは机の端に立ったまま、手を組み直した。
室内の空気がわずかに張りつめる。
暖炉の火が揺れ、書類の影が揺れ、その揺れが不安を煽った。
ほどなくして、軽い足音が近づいた。
扉が開き、バーテミウス・クラウチJr.が顔を覗かせる。
いつものように涼しい笑みを携え、まるで散歩の途中にでも寄ったかのような身軽さで。
「いやあ、いいメンバーですねー」
場違いなほど明るい声が、部屋の空気を一瞬で撹拌する。
ローランドは反射的に立ち上がり、礼をした。
「お呼び立ていただき、失礼いたします。クラウチJr.殿」
「硬い硬い。……あ、でも硬いのは得意ですか」
言葉の端に棘があるのに、口調は笑っている。
ローランドは笑うべきか迷い、結局、何も表情を変えられなかった。
レギュラスはそんなローランドを見もせず、問題のページを指で示した。
「五ページのこちら。完全に添付資料が足りません。写真もない。今更撮れませんし、どうする気です?」
バーテミウスは覗き込み、ふうん、と軽く相槌を打つ。
そして、あっさりと言った。
「じゃあ、適当に作るしかないでしょう。数字も合わせて」
あまりに迷いのない返答だった。
ローランドは目の奥が熱くなるような感覚を覚えた。
監査の前で適当という言葉は、普通は禁句だ。
けれど、この男は禁句を禁句として扱わない。扱えないのではない。扱わないと決めている。
レギュラスが眉を僅かに動かす。
「覚えてないから言ってるんですよ。あなた、どこかにメモでも残してないんです?」
「なんで忘れてるほうがそんなふんぞり返った態度なんです」
バーテミウスは笑いながら言って、肩をすくめた。
それが軽口なのに、妙に真実味を帯びているのが恐ろしい。
レギュラスは紙を指先で弾き、乾いた音を立てる。
「ふんぞり返ってません。あなたの記憶が信用ならないから、確認してるだけです」
「信用ならないのに任せたのが悪い」
「それは――」
言い返しかけたレギュラスの言葉を、バーテミウスが最後まで聞かずに続ける。
「ちなみにこれ、あなたが修羅場で無断連続欠勤されてた時ですからね」
ローランドの呼吸が、そこで一瞬止まった。
修羅場。無断連続欠勤。
その言葉が、紙よりも鋭く胸の内側を擦った。
浮かぶのは、あの数日。
屋敷の空気が血の匂いを孕み、アランの声が震え、写真が床に散り、膝が砕けそうなほどの絶望が続いた時間。
自分とアランの関係が露呈し、世界がひっくり返った、あの地獄の数日。
ローランドは視線を落とした。
手元の紙が滲む。滲んで見えるのは、インクではなく、自分の感覚の方だ。
目の前で交わされる冗談めいた応酬が、突然現実味を帯びて牙を剥く。
この二人にとって“修羅場”は言葉で済む出来事なのかもしれない。
けれど自分にとっては、息をするたびに喉が痛むほどの罪だ。
レギュラスは一瞬だけ動きを止めた。
本当に一瞬だけ。
次の瞬間には、いつもの薄い微笑みが口元に戻り、紙を整える指先も冷静さを取り戻していた。
「……そうでしたね。では尚更、あなたの責任でしょう」
責任という言葉が、氷の粒みたいに落ちる。
自分の欠勤を、部下の責任に変換する。
それを当然のように言えるところが、レギュラスという男の恐ろしさだと、ローランドは改めて知った。
バーテミウスは笑い、軽く手を振る。
「はいはい。じゃあ作りますよ。写真は……記録庫に残ってる分を魔法で引っ張ってくる。数字は帳簿と合わせて、それっぽく整える」
それっぽく。
ローランドの胃が冷たくなる。
監査とはそれっぽさを剥ぐ作業ではなかったか。
けれど、魔法省は魔法省で、その監査さえそれっぽく乗り越える術を持っているのだと突きつけられる。
ローランドは言葉を失い、ただ頷いた。
口を挟める立場ではない。挟めば、何が飛んでくるか分からない。
いや――分かる。
飛んでくるのは言葉だ。整った礼儀の顔をした刃だ。
そしてその刃は、いつでも誰かを巻き添えにできる。
レギュラスがローランドを見た。
微笑みは消えていないのに、視線は試すように冷たい。
「フロスト殿。あなたの部署の経験上、この手の穴はどう塞ぐべきだと思います?」
問いは柔らかい。
けれど、答えを誤れば、この場にいる全員の空気が一段階冷えるのが分かる。
ローランドは喉の奥の渇きを飲み込み、丁寧に言葉を選んだ。
「……形式の不足は、監査にとって最も目につきます。
代替資料を用意するのであれば、代替である理由と経緯を、整合性のある形で添えるべきかと」
レギュラスはふわりと笑った。
褒めたのか、笑っただけなのか判別できない。
「なるほど。……フロスト殿、やはり使えますね」
使えますね
その言葉が、胸の奥に嫌な重みを残す。
役に立つ、という意味と同じ顔をした、別の意味。
逃げられない、という意味。
バーテミウスが書類束を軽く叩き、冗談めかして言った。
「ほら、いいメンバー。ブラック様、今日は優秀な家庭教師と右腕に囲まれてるんですから、気分よくいきましょうよ」
ローランドは目を伏せた。
家庭教師という単語が、何かを嘲笑するように聞こえる。
自分は教える側なのに、いま学ばされている。
権力と、その運用の仕方を。
そして、たった一度の過ちがどれだけ長く影を引くかを。
レギュラスは机の上の紙を整え直し、淡々と言った。
「気分は良いですよ。……監査に落ちる気がしないだけで」
その声音が、妙に軽い。
軽いまま重い。
ローランドは、指先で羊皮紙の角を揃えながら、薄く震える自分の手を悟られないようにした。
書類の擦れる音が続く。
インクの匂いが漂い、暖炉の火が揺れ、午後の光は変わらず優しい。
その優しさが、かえって残酷だった。
この穏やかな部屋で、誰かの人生を縫い合わせるようにそれっぽく整えていく。
ローランドは背筋を伸ばしたまま、静かに息を吐く。
吐いた息が、紙の上で消える。
消えるはずなのに、喉の奥の苦さだけは、いつまでも残っていた。
紙の端を揃える指先が、いつの間にか熱を帯びていた。
羊皮紙の繊維は乾いていて、指の腹を僅かに擦り返す。重ねた束の厚みは減ったはずなのに、机の上の圧はまだ抜けない。暖炉の火がぱちりと鳴るたび、余計に沈黙が浮き彫りになる。
ローランドは、息を吸う音さえ邪魔になる気がして、呼吸を浅くした。
自分のいる場所が、黒板の隅に置かれた石像のように感じられる。動けば音が出る。音が出れば視線が向く。視線が向けば、何かが剥がれる。そんな脅迫めいた感覚が、薄い皮膚の下でずっと続いていた。
一方で、机の向こうの二人は、平然としていた。
いや、平然と装っているのではない。最初から、この種の「修羅場」を日常の延長として扱える人間たちなのだ。
「もうこの辺で片付いたんじゃないです?」
バーテミウスが軽い調子で言った。まるで、午後の紅茶に添える菓子の種類でも訊くように。
レギュラスは書類の束を指先で叩き、ぴたりと動きを止める。視線だけが紙の行間を刺し、答えだけを拾い上げた。
「一生、五ページの添付資料なしが気になって寝れませんよ。あなたも、作り終わるまで帰れないと思ってください」
言葉は丁寧で、声も柔らかい。
それなのに、拒否という選択肢を最初から焼き落とすような確信がある。淡々とした口調が、かえって容赦のなさを際立たせていた。
「本当に鬼ですね、あなたは」
バーテミウスが笑う。
笑いながらも、手元は止まらない。杖先で書類を浮かせ、ページの間に挟まれた薄い添付を抜き取り、別の束に滑らせる。雑に見えて、精度だけは落とさない。そういうところがいちばん厄介だと、ローランドは思った。善悪の線引きではなく、仕事の上手さで世界が回ってしまう感覚。
ローランドは、ただ黙っていた。
自分が口を開くべき場面ではないと分かっている。分かっているからこそ、空気のようにそこに居続けることが、やけに苦しい。
この場で「正しさ」を持ち出すのは簡単だ。けれど、その正しさが誰かの首を絞めるのも、もう知っている。自分の過ちで、いくらでも。
レギュラスが書類の束を持ち上げ、ローランドの方ではなく、バーテミウスの手元へ視線を寄せた。
「どこまで進めたんです?」
問いの形をしているのに、確認にすぎない。
バーテミウスは、得意げでもなく、申し訳なさそうでもなく、あっさり答える。
「写真、数枚流用しましたよ。ほら」
宙に浮いた写真の添付がひらりと回転し、レギュラスの指先に吸い寄せられる。
ローランドはその一瞬の動きに、喉が鳴りそうになるのを堪えた。流用。軽い単語の裏側に、監査という刃物と、公式という仮面が並んでいる。
「流用、ばれませんか」
レギュラスが、ほんの僅か眉を動かす。
その動きが「心配」を示しているのか、それとも「気持ち悪さ」を示しているのか、判断できない。どちらにせよ、彼は気になるという感覚を、放置できない人間だ。
「バレたらその時考えましょう。レギュラス」
バーテミウスは、呼び捨てで返した。
その瞬間、ローランドの胸の奥に小さな震えが走る。レギュラス・ブラックに、ここまで堂々と、遠慮なく、そんな口を利ける男がいるという事実。
それが羨望なのか、恐怖なのか、あるいは理解しがたい種類の親密さへの嫌悪なのか、自分でも分からなかった。
レギュラスは、写真の添付をひとつずつ眺め、確認するように視線を滑らせる。
その横顔は落ち着いている。落ち着きすぎているほどだ。目だけが冷たく働き、迷いを一切見せない。
「バレるかバレないかを怯えて寝れないのは癪なんですよ、僕は」
僕はという言い方が、妙に子どもじみて聞こえる。
そのくせ、言っている内容は、徹底して現実的で残酷だ。怯えること自体が許せない。自分の心が乱されることが許せない。だから、乱れの原因を潰す。
バーテミウスが肩をすくめる。
「セックスでもして、出すもん出せばあなたはすぐ寝れますって」
ローランドは、一瞬、目を瞬かせた。
不適切という言葉では足りない。軽薄という言葉でも足りない。
それなのに、バーテミウスの口から出てくると、冗談の形をしただけの生活の知恵にすら見える。そこがまた、救いようがない。
レギュラスは、笑わなかった。顔色も変えない。
ただ、机の上の紙を整え、必要な箇所を指で示し、命令を落とす。
「セックス中でさえ気になって集中できません。流用先の記録は消し潰して、その流用が明るみに出ないようにしてください」
言い方の端正さが、なおさら狂気じみている。
不適切な冗談に乗らない。その代わり、冗談の中に混ざる現実だけを掴み取り、最短距離の指示へ変換する。
ローランドは、自分が今、何を聞かされているのか分からなくなってくる。監査のための整理なのか、犯罪の整形なのか、あるいはただの権力の遊戯なのか。
バーテミウスは軽く口笛でも吹きそうな顔で、しかし目だけは鋭くなる。
「了解。痕跡の処理までやれってことですね。ほんと、鬼」
「鬼ではありません。僕は眠りたいだけです」
レギュラスが淡々と言い、紙の端を揃える。
その仕草が綺麗すぎて、ローランドは逆に目を逸らしたくなる。整っている。正しい形をしている。正しい形のまま、間違った方向へ進める力がある。
ローランドの胃の奥が、じわりと冷えた。
バレたらその時考えるという軽さと、痕跡を消し潰せという的確さが、同じ机の上で共存している。
この世界は、そういうふうに回っているのかもしれない。規則は守られ、同時に破られる。表は光り、裏は滑る。そのどちらも、平然とした顔で。
ローランドは、ただ、書類の束を持ち上げ、角を揃えた。
指先に残る紙のざらつきが、現実の輪郭を辛うじてつなぎ止めてくれる。
自分はここにいる。聞いている。見ている。
そして、見てしまった以上、元の場所には戻れない。
レギュラスが、不意にローランドへ視線を投げた。
問いはなかった。けれど、その一瞬の目が言っている。
黙っていろ。理解しろ。従え。――そして、生き残れ。
ローランドは、静かに頷いた。
声を出すと、喉の奥から何かが漏れてしまいそうだった。
空気のように聞いているふりをしながら、胸の内側では、どこまでも音が鳴っている。
紙が擦れる。火が揺れる。笑いが混じる。
その穏やかな部屋の中で、ローランドはひとり、ひどく孤独だった。
窓辺の光が、いつの間にか角度を変えていた。
最初は白く鋭かったのに、数時間も経つと柔らかくなり、羊皮紙の肌理に淡い金を落とす。机の上は整理されたようで、実のところ何ひとつ片付いていない。束ねても束ねても、紙は増える。ページを繰れば繰るほど、抜け落ちている数字や、書き足すべき文言や、貼り直すべき添付が見つかる。終わりのない迷路を、丁寧な靴で歩かされているようだった。
ローランドは、指先の感覚が少し鈍くなるのを感じながらも、手を止めなかった。
止めた瞬間に、胸の中の雑音が大きくなる気がして。黙って作業を続けている間だけ、余計なことを考えずにいられる。
レギュラス・ブラックは、恐ろしいほど集中を切らさない。
書類の隅に走る罫線、字間の乱れ、日付の表記、封蝋の欠け――そういう些末な綻びさえ拾い上げて、整え直す。彼の手元にあるのは紙の束のはずなのに、まるで人間の弱点の一覧表でも扱っているみたいだった。淡々としていて、優雅で、そして容赦がない。
その隣でバーテミウスは、椅子の背にもたれたり、片肘をついたり、時折くるくると羽根ペンを回したりしながら、同じ速度で仕事を進める。軽い。軽いくせに正確だ。
軽薄と紙一重のその態度が、ここではなぜか許されている。それがローランドには、眩暈がするほど不思議だった。
「……夫人、全然来ないじゃないですか。どこにいるんです?」
バーテミウスの声が、乾きかけた空気に軽く弾んだ。
ローランドは、反射的に指先を止めそうになって、寸前で堪える。夫人―― アランのことだと、すぐに分かった。あまりにも当然に、その呼び名が机上に落ちたから。
レギュラスは書類から視線を上げず、紙の端を整えたまま答えた。
「さあ。サロンか部屋か……そこにいるんじゃないですか」
投げやりに聞こえるのに、奇妙な確信が混ざっている。
そこにいる。自分の屋敷の中で、妻がどこにいるか。把握していなくても、支配の輪郭だけは崩れない。そんな余裕が、言葉の底に沈んでいた。
バーテミウスは、目を細めて笑った。
「閉じ込められてなくて安心しましたよ、僕は」
その一言は冗談の形をしているのに、刃が薄く光った。
閉じ込められてなくて。――それが何を指しているのか、ローランドは分からないふりをした。分かったところで、どうにもできない。
レギュラスが小さく息を吐く。笑ってはいない。怒ってもいない。けれど、紙を叩く指だけがほんの一瞬止まり、再び動き出す。その間が、恐ろしく正確だった。
「あなたは余計なことばかり考えますね。手を動かしてください」
丁寧な口調のまま、逃げ道のない命令。
バーテミウスは肩をすくめるようにして、けれど従う。その関係性が、ローランドには信じられない。普通なら、これほどの権力者に対して、言葉は選ばれる。息さえ選ばれる。なのにこの男は、息の仕方のほうが勝っているみたいに振る舞う。
凄すぎる。
尊敬とも畏怖ともつかない感情が、ローランドの胸の奥で泡立った。付いていけない。そう思うのに、視線だけは離せなかった。
バーテミウスは、今度はローランドの方へ顔を向けた。瞳が愉しげに細まる。獲物を見つけた猫の目だった。
「どうです?フロストさん。アラン・ブラックを見ながら仕事できる気分は」
言葉が胸に落ちる前に、皮膚がぞわりとした。
わざとだ。わざと刺してくる。
この男もまた、そういう種類なのだ――冗談で撫でるふりをして、針を仕込む。レギュラスほど静かではないが、やり方の残酷さは似ている。
ローランドは、呼吸を整えた。
ここで乱れた声を出せば、何かを認めることになる。認める資格などない。ましてや、自分の口から。
「職務を全うしたいと思っています」
それだけを、丁寧に。
声は優しく。背筋は崩さず。指先は紙を押さえたまま。自分の礼節を、最後の盾にするみたいに。
バーテミウスが、吹き出した。
「かたーい。おもしろくなーい」
笑い声は軽い。軽いのに、ローランドの胸は重くなる。
笑われたことが痛いのではない。笑いの中に含まれた“見透かし”が痛い。
――お前の真面目さの奥に、何があるか分かってるぞ。そう言われた気がした。
ローランドは、机上の文字が一瞬滲むのを感じ、視線を落とした。
自分の手元の紙に戻ることでしか、表情を守れなかった。
その時、レギュラスが羽根ペンを置いた。カトラリーを置いた時のように、音が綺麗に響く。
ローランドの背筋が、勝手に正される。
「息子の優秀な家庭教師を、いじめないでもらっていいです?」
言い方は穏やかで、微笑みさえ浮かんでいそうなのに。
そのいいです?の中に、明確な境界線が引かれる。ここから先は踏むな、と。
ローランドは、思わずまばたきをした。
まさか。
この男に助け舟を出される日が来るとは、想像したこともなかった。
けれど、すぐに分かる。助け舟ではない。
それは所有だ。自分のものを、勝手に触られるのが癪なだけ。
優秀な家庭教師という肩書きは、息子のための道具であり、同時に、罰として縛りつけた鎖でもある。その鎖を、他人の冗談で汚されたくない――そんな、冷たい潔癖さ。
レギュラスは続けた。視線はバーテミウスに据えられたまま、言葉だけが机の上を滑る。
「それより早く作り上げなさい。あなたは」
バーテミウスが、わざと大袈裟にため息をつく。
「はいはい。仕事が恋人の男は違う」
「違いません。眠りが恋人です」
さらりと返すレギュラスに、バーテミウスがまた笑う。
その笑い声に混ざって、どこか遠くから子どもの声が聞こえた気がした。廊下か、階段の向こうか。アルタイルの弾むような足音を、ローランドは想像してしまう。
その瞬間、胸の奥に、別の痛みが生まれる。守るべきものが確かにここにあって、だからこそ壊せないものも増えていく。
ローランドは静かに紙を揃え、添付の順番を確認した。
指先の震えが出ないように、呼吸を一定にする。
アラン・ブラックを見ながら仕事できる気分は――その言葉は、紙の裏側に染みのように残っている。何度でも思い出してしまう。思い出すたびに、自分の醜さが浮き上がる。
それでも、ここにいる以上、崩れるわけにはいかなかった。
レギュラスが、ふっと視線をローランドに流す。
ほんの一瞬。けれど、その一瞬が、心臓の脈を一つ飛ばす。
「フロスト殿。次は、その束。署名欄の位置がズレている。揃えてください」
命令の形をした、当然の指示。
ローランドは、椅子から立ち上がりかけた衝動を抑え、丁寧に頷いた。
「はい、ブラック様」
口にした瞬間、言葉が喉の奥で少しだけ苦い。
敬意の形を取ることでしか、自分を保てない。それでもいい。
今はただ、仕事を終わらせる。整える。片付ける。
この屋敷の空気に飲まれないように。
バーテミウスは、相変わらず楽しげに目を細めたまま、ローランドの手元を覗き込む。
「真面目だなぁ、ほんと。……壊れないでくださいよ、フロストさん」
からかいの延長みたいな声。けれど、どこかだけ本音が混ざる。
ローランドは返事をしなかった。返せなかった。
壊れないで、という言葉がいちばん残酷だ。壊れる寸前の人間にだけ、そんな言葉は刺さる。
机の上で紙が擦れる音が続く。
暖炉の火が揺れる。
窓の光がさらに沈み、影が伸びる。
そして、アランはまだ来ない。
来ないことが、妙に救いでもあり、罰でもあった。
ローランドはただ、羽根ペンの先を整え、次のページをめくった。
自分の心がどこへ向かおうと、紙の上だけは正しくなければならない。
それが、ここで生き残るための唯一の作法だと、痛いほど分かっていた。
紙とインクの匂いが、部屋の空気を薄く重たくしていた。
圧縮呪文を解いた束は、最初こそ小さな塊だったのに、時間が経つほどに威圧的な山へ変わっていく。卓上に散らばる封緘、付箋、添付資料の写し。羽根ペンの擦れる乾いた音が途切れるたび、時計の針だけがやけに大きく鳴った。
ローランドは、机の端に寄せた自分の手元を見つめた。閲覧制限の札がついた書類の、文字の並び。
「持ち出し不可」などという規則を、誰も本気では守っていない——そう頭では理解しても、ブラック家の屋敷の中で魔法省の内側を広げているこの状況には、喉の奥がひりついた。
レギュラス・ブラックとバーテミウスは、まるで氷と火のように軽口を交わしながら、平然と命綱のような数字を組み替えていく。
バーテミウスが笑って適当と言い、レギュラスが同じ口で「適切に消し潰して」と指示を落とす。その温度差が、ローランドには理解しがたいほど自然だった。
長い時間が、いつのまにか夜へ傾く。窓の外の光が薄まり、燭台に火が追加され、影が机の下で伸びたり縮んだりした。
「もうこの辺で片付いたんじゃないです?」とバーテミウスが伸びをした時でさえ、レギュラスはまだ五ページ目の空白に執着していた。
「一生気になるんですよ。作り終わるまで帰れないと思ってください」
淡い微笑みのまま言い切る声に、ローランドは背筋の奥が冷えるのを覚えた。
——そして、最後の束が整えられた頃だった。
扉が、控えめに叩かれる。ノックの間隔が、屋敷の礼儀そのものだった。
「お疲れ様です。みなさま」
入ってきたのはアラン・ブラックだった。
時間を測っていたとしか思えない。乱れのない髪、ゆるやかに揺れるドレスの裾、呼吸さえ音を立てないような歩き方。疲労と埃と焦りで満ちた部屋の中に、彼女だけが別世界の清潔さを連れてきた。
「お久しぶりですねー、夫人。お元気そうで」
バーテミウスの軽い声に、アランは完璧な角度で微笑んで礼をした。その笑みは美しいのに、硬質だった。磨き上げられた硝子みたいに、触れれば指が切れそうな光り方をしている。
レギュラスは何も言わない。
ただ、手を伸ばした。
その合図だけで十分だったのだろう。アランは一拍も迷わず、吸い寄せられるように彼の隣へ寄る。腕の内側へ収まる距離、肩の向き、視線の落とし方。
夫婦の抱擁が、儀式のように広がった。
ローランドは咄嗟に目を逸らした。
逸らしたこと自体が、誰かに見抜かれる気がした。それでも、逸らさずにはいられなかった。あの抱擁の形は、昨日自分が奪ったものを上書きするように、堂々としている。ここはブラック家で、彼女はブラック夫人で、世界の正しさはこの男の腕の中で固定されるのだと、無言で宣言している。
「今日、僕は疲れて機嫌がよろしくないんです」
レギュラスの声は柔らかい。だが柔らかいほど、逆らう余地がなくなる。
「はい、わかりました」
アランは、すぐに頷く。深さも迷いもなく。
「機嫌、とってくれます?」
「はい、もちろん」
その返事が落ちた瞬間、レギュラスは満足そうに微笑んだ。勝者の微笑みだった。
欲しい言葉を、欲しい形で、欲しい量だけ差し出されることに慣れきった人間の顔。与えられることを当然として受け取り、受け取った瞬間に世界が整うと信じている顔。
レギュラスは、アランの首元に顔を埋める。
「香水変えました? この匂い、好きです」
アランは表情を崩さず、けれど声だけは丁寧に温度をつけた。
「ええ、いつものメーカーの、06番に」
「ユニセックスでしたよね。僕の分も買っていてください。気に入りました」
「はい」
その「はい」が、あまりにも滑らかで、ローランドの胸を刺した。
美しさが、命令への従順さの上に貼り付いている。操り人形のように正確で、だからこそ生々しい。
——あの部屋で、魔法写真を撮った時の笑い方を、ローランドは知っている。
口を大きく開けて、息が切れるまで笑って、頬が赤くなって、シャッターの音に負けない声で「ひどいわ」と文句を言って、それでも目がきらきらと光っていた。
あの笑みを、今の彼女はどこへしまってしまったのだろう。
「どれどれ、僕も……あ、いいですね、これ。僕もいただきたい」
バーテミウスが、アランの首元に鼻先を近づけるようにして言う。冗談めかした距離感が、ローランドにはぞっとするほど自然に見えた。
「かしこまりました。夫の分と合わせて用意しておきます」
アランはすぐ応じる。
「感謝します、夫人」
バーテミウスは笑って、軽く頭を下げた。
ローランドは、口の中が乾くのを感じた。
踏み込みすぎるこの男の無遠慮さ。けれど、止める者はいない。止められない。ここでは、誰もがレギュラスの空気に従って呼吸をしている。アランでさえ、そうだ。
レギュラスは抱擁を解かないまま、ちらりとローランドへ視線を寄越した。
穏やかな微笑みのままなのに、目だけが鋭い。刺すでもない。確かめるでもない。
ただ——「見ている」と告げてくる。
ローランドは、再び目を伏せた。
自分が見たいのは、この完璧な妻ではない。
けれど、この屋敷が求めるのは、きっとこの完璧さなのだ。
そしてその完璧さを、レギュラスは抱き寄せ、匂いを褒め、手に入れたものとして享受する。
その姿があまりに似合っていて、ローランドは胸の奥が痛くなるのを止められなかった。
屋敷は夜の静けさを深く抱え込み、廊下の絨毯は足音を呑み込んでいった。
昼間、机の上で膨れ上がっていた紙の山はすべて片づき、目の奥に残る文字列の残像だけが、まだ微かにちりちりと熱を持っている。
疲れたのは本当だった。けれど、機嫌が悪いわけではない。
不意に、なにかの爆弾を落とされれば——自分の中のどこかに、即座に怒りが燃え上がる火種があることは、否定できない。そういう人間なのだと自分でも分かっている。
ただ、今は違う。今夜は、怒りではなく、満たされたい。
寝室の扉が閉まると、外の世界はそこで終わった。蝋燭の火が小さく揺れ、薄い香りが空気の層を作っている。
アランはレギュラスの外套を受け取って、いつものように丁寧に整えた。手つきが静かで、無駄がなくて、その分だけ彼女の心の内が見えない。見えないからこそ、今夜はそこに触れさせたくなる。
「肩を揉みますか」
控えめな声音だった。申し出というより、合図に近い。
レギュラスは笑みを作る。柔らかいまま、逃げ道を塞ぐ笑み。
「いいえ。ありがたいけど……それじゃあ、あなたの顔が見れません」
アランが一瞬だけ瞬きをする。その反応が、わずかに遅れるのが面白い。彼女の頭の中で、最適な返答が選別されているのだと分かるからだ。
けれど、その「小賢しさ」さえも、今夜は嫌悪ではなく、甘い満足の種になった。
「……顔を、ですか」
「ええ。疲れた時ほど、見ていたいものがあるでしょう」
言いながら、自分の中にある激しい衝動が静かに膨らむのを感じていた。
あの夜会で初めて視界に入れた瞬間から、手に入れたいと思った。奪い取ってでも隣に置きたいと爆発的に思って、実際に手筈を整えて連れてきた。
その好みのど真ん中みたいな顔が、今は自分の寝室にいる。自分の言葉一つで近づいてくる。
「じゃあ、どうすれば」
アランが言いかけたところで、レギュラスは彼女の腰に手を添えた。背中を促すのではなく、導くように。
寝台へ腰を落とし、次いで自分が仰向けになる。柔らかなシーツが背中を受け止めた。
「こちらへ」
たったそれだけで、アランは理解したように息を整えた。
そして恐る恐る、けれど拒まない速度で、彼の上へ膝をついた。
視界が変わる。
普段は見下ろすことの方が多いのに、今は見上げる。新鮮だった。アランの輪郭が、蝋燭の光に縁取られて浮き上がる。髪の影、睫毛の線、唇の色。どこを切り取っても、自分の好みのままに整えられている。
自分の胸の奥が、じんわりと満ちていく。
怒りが爆発する時とは別の、じわじわと手足の先まで染みるような満足感。
——この眺めを持てるのは、自分だけだ。
「落ち着きません」
アランは困ったように言う。声は静かなのに、目だけが小さく揺れている。
レギュラスは、その揺れを見逃さずに微笑む。
「あなたは基本、下ですもんね」
自分の言葉に、少しだけ棘が混ざったのが分かった。呼吸みたいに自然に混ざる。
アランの頬がわずかに染まる。その反応は、怒りを鎮めるための言葉ではなく、彼女自身の身体が勝手に返してしまう反応であるぶん、レギュラスにはたまらなく心地よかった。
アランは、棘がこれ以上深く刺さらないようにとでも言うように、話題を整えてくる。
その動きが見える。だからこそ、さらに愛おしい。
「……何をしましょう、レギュラス」
わざと、名前を丁寧に呼んだ。
その一言に、レギュラスは小さく笑う。ほんとうに、よく出来ている。自分の機嫌を取る術を、彼女は覚えたのだ。
それが悔しいのか、嬉しいのか。両方だった。
「そうですね」
言いながら、レギュラスは手を伸ばす。
首筋の細い線に指先を滑らせ、鎖骨の影へ辿り、胸元の布越しに淡い温度を確かめる。そこから腰へと、ゆっくりと降りていく。
触れるたび、アランがわずかに呼吸を乱す。
その乱れが、言葉より正直だと知っている。
「いい体のラインです」
声が、少し低くなる。
アランは視線を落とし、また上げる。落ち着きのない仕草に、彼女が自分の上にいる現実が、いっそう甘く響いた。
「……褒めているんですか」
「褒めてますよ。こんなに丁寧に触れてるのに、疑うんです?」
アランは小さく息を吐き、言い返す代わりに、きちんと姿勢を保とうとする。
その努力が可笑しくて、そして胸の奥が温かくなる。
「この眺め、好きです」
レギュラスがそう言うと、アランは一瞬だけ目を大きくした。
好き、という言葉を投げられると、彼女はいつも一拍遅れる。それが良い。すぐに最適解を返す機械ではなく、ちゃんと心が揺れる生身の女だと確認できるから。
「……そうですか」
「ええ。だから」
言いながら、レギュラスはふと、別の欲を思いつく。
今この瞬間を、残しておきたい。
それは誰かに見せつけるためではない。ローランド・フロストへの対抗心でもない。そういうものを持ち出す必要がないほど、自分の腕の中にあるものは完璧だった。
美しいものを、美しいまま留めておきたいだけだ。
「今度、写真を撮らせてください。この角度」
アランの眉がわずかに寄る。驚きと、警戒と、戸惑いが同時に混ざる。
けれど、彼女は逃げない。逃げない代わりに、慎重に言葉を選ぶ。
「……魔法写真、ですか」
「そう。あなたが嫌なら、しません。ちゃんと聞いてますよ」
聞いている、と言いながら、断れる余地がどれほど残されているかは、互いに分かっている。
だからこそ、アランは小さく唇を結び、最後にそっと頷いた。
「……いいですよ。あなたが望むなら」
その返答は、レギュラスの胸の内側を、確かな温度で満たした。
「望むなら」という言葉が、彼女の中の最後の防壁であり、同時に差し出された譲歩なのだと分かるからだ。
レギュラスは満足して、指先で彼女の腰の線をなぞり直す。
逃げない。答える。機嫌を取ろうとする。
その姿が、苛立たせるはずなのに——今夜は違った。今夜は、それがたまらなく嬉しい。
「いい子ですね、アラン」
褒めるようで、所有を確かめる言葉。
アランは反発しそうな気配を見せて、けれど飲み込む。飲み込んだ分だけ、彼女の瞳が静かに湿る。
「……機嫌、戻りました?」
「戻ったというより、満たされました」
レギュラスは笑い、アランの髪を指に絡めて軽く引き寄せた。
近づく距離。重なる呼吸。彼女の目に自分が映る。
それだけで、世界が正しい位置に戻っていく。
書類の不備も、監査の面倒も、屋敷に漂う不穏な影も、一旦は遠ざかる。
今夜はただ、この美しい妻が、自分のために動いている。
その事実を、ゆっくり味わえばいい。
「もう少し、ここにいてください」
命令でも懇願でもない、柔らかな囁き。
アランはまた頷く。完璧な微笑みではなく、ほんの少しだけ、困ったような、照れたような顔で。
その揺らぎが、レギュラスの胸をさらに満たしていった。
封蝋の朱、黒、銀。署名の筆跡。魔力封印の細い紋様。紙の匂いに混じって、どこか金属めいた冷たさが鼻を刺す。
ローランドは手袋を外し、指先で端を揃えながら、ただ黙々と分類を続けていた。
“保管庫”“役員室”“閲覧制限”。レギュラスが口にした大雑把な区分は簡単なようで、実際は一枚ごとに癖があり、落とし穴がある。
束のなかには、封印が二重になっているものもあれば、角に小さく刻印された記号だけで重要性を主張してくるものもある。
本来ならば、持ち出しなど許されない。
そんな疑問は、もう手放した。
魔法省の廊下にいた頃から、どの部署もきれいごとだけでは回っていないことを、ローランドは嫌というほど知っている。規則は額縁に飾られ、現場は現場で勝手に息をする。
それを咎めるだけの清廉さを、今の自分は持てない。
レギュラスは机の端に腰を掛けるようにして、アルタイルに触らせぬよう書類を片側に寄せ、もう片側に“今日中に形を整えるもの”を積み上げていく。
その手つきは無駄がなく、しかし苛立ちを隠そうともしていなかった。紙を整える指先の圧が、やけに鋭い。
「……フロスト殿、これは“閲覧制限”です。そちらに回してください」
「承知いたしました、ブラック様」
ローランドは言われた通りに封印の濃い束へと移しかけて、ふと指が止まった。
“閲覧制限”の刻印。これに触れるのは、元の部署の自分ならあり得ない。
当然、目にしたこともないはずなのに。
なのに――いま、紙は掌にあり、封印はすでに弱められている。
レギュラスが解いたのか、あるいは屋敷の結界が持つ特性か。理由を考えたところで、答えはどこにも転がっていない。
ローランドは、ほんの一瞬だけ躊躇した。
そして次の瞬間、封蝋の縁に指を添え、慎重に開いた。
羊皮紙の上に並ぶ文字は、淡々としているほど残酷だった。
物の名称、被験者の条件、手続きの抜け穴、承認の迂回経路。
数字が整然と並び、署名欄には複数の名が記されている。見覚えのある役職名もある。
紙の上では、何もかもが正しい形式を纏い、ただ静かに進む。
ローランドは喉が乾くのを感じた。
読んではいけない。そう思うほど、行が目に吸い込まれていく。
そして、その“正しさ”のなかに、ひどく生々しいものが混じっているのが分かってしまう。
ここに書かれているのは、誰かの人生であり、誰かの敗北であり、誰かの都合だ。
紙を閉じる手が、わずかに遅れた。
「……読んでしまいましたか、フロスト殿」
レギュラスの声は柔らかい。柔らかいまま、逃げ場を削る。
ローランドは背筋を固めたまま、視線を紙から離し、丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありません。分類にあたり、確認が必要かと――」
「いえ。確認できるなら、こちらとしては助かります」
許されているのか、許されていないのか。
その境界が曖昧なほど、心臓は嫌な音を立てる。
ローランドは書類をそっと“閲覧制限”の山へ戻し、息を整えるふりをした。
机の向こうで、レギュラスが別の束を開く。
ぱらり、と紙がめくれる音が妙に大きく響いた。
その数枚先で、彼の指が止まる。
「……ああ、足りませんね。これはおかしい」
口調は穏やかでも、言葉は即断だった。
レギュラスはページを軽く叩き、じっと一点を睨む。
その横顔に、さっきまでの“父の顔”はもうない。役員室の人間の顔だ。
「五ページ。ここ、完全に添付資料が足りません。写真もない。……今更撮れませんし、どうする気です?」
ローランドは覗き込み、記載の形式を追った。
専門用語が多い。数字の並びの意味も、途中から霧がかかる。
それでも足りないという結論だけは、嫌でも伝わってきた。
欠けているのは紙ではなく、証拠だ。
証拠が欠ければ、監査は牙を剥く。形式の刃で、容赦なく喉元を切ってくる。
レギュラスは視線を上げ、廊下の方へ短く呼びかけた。
やがて使用人が現れる。レギュラスは微笑みを貼り付けることなく告げた。
「バーテミウスを」
声の調子が、それだけで命令だった。
使用人は一礼し、音もなく去っていく。
ローランドは机の端に立ったまま、手を組み直した。
室内の空気がわずかに張りつめる。
暖炉の火が揺れ、書類の影が揺れ、その揺れが不安を煽った。
ほどなくして、軽い足音が近づいた。
扉が開き、バーテミウス・クラウチJr.が顔を覗かせる。
いつものように涼しい笑みを携え、まるで散歩の途中にでも寄ったかのような身軽さで。
「いやあ、いいメンバーですねー」
場違いなほど明るい声が、部屋の空気を一瞬で撹拌する。
ローランドは反射的に立ち上がり、礼をした。
「お呼び立ていただき、失礼いたします。クラウチJr.殿」
「硬い硬い。……あ、でも硬いのは得意ですか」
言葉の端に棘があるのに、口調は笑っている。
ローランドは笑うべきか迷い、結局、何も表情を変えられなかった。
レギュラスはそんなローランドを見もせず、問題のページを指で示した。
「五ページのこちら。完全に添付資料が足りません。写真もない。今更撮れませんし、どうする気です?」
バーテミウスは覗き込み、ふうん、と軽く相槌を打つ。
そして、あっさりと言った。
「じゃあ、適当に作るしかないでしょう。数字も合わせて」
あまりに迷いのない返答だった。
ローランドは目の奥が熱くなるような感覚を覚えた。
監査の前で適当という言葉は、普通は禁句だ。
けれど、この男は禁句を禁句として扱わない。扱えないのではない。扱わないと決めている。
レギュラスが眉を僅かに動かす。
「覚えてないから言ってるんですよ。あなた、どこかにメモでも残してないんです?」
「なんで忘れてるほうがそんなふんぞり返った態度なんです」
バーテミウスは笑いながら言って、肩をすくめた。
それが軽口なのに、妙に真実味を帯びているのが恐ろしい。
レギュラスは紙を指先で弾き、乾いた音を立てる。
「ふんぞり返ってません。あなたの記憶が信用ならないから、確認してるだけです」
「信用ならないのに任せたのが悪い」
「それは――」
言い返しかけたレギュラスの言葉を、バーテミウスが最後まで聞かずに続ける。
「ちなみにこれ、あなたが修羅場で無断連続欠勤されてた時ですからね」
ローランドの呼吸が、そこで一瞬止まった。
修羅場。無断連続欠勤。
その言葉が、紙よりも鋭く胸の内側を擦った。
浮かぶのは、あの数日。
屋敷の空気が血の匂いを孕み、アランの声が震え、写真が床に散り、膝が砕けそうなほどの絶望が続いた時間。
自分とアランの関係が露呈し、世界がひっくり返った、あの地獄の数日。
ローランドは視線を落とした。
手元の紙が滲む。滲んで見えるのは、インクではなく、自分の感覚の方だ。
目の前で交わされる冗談めいた応酬が、突然現実味を帯びて牙を剥く。
この二人にとって“修羅場”は言葉で済む出来事なのかもしれない。
けれど自分にとっては、息をするたびに喉が痛むほどの罪だ。
レギュラスは一瞬だけ動きを止めた。
本当に一瞬だけ。
次の瞬間には、いつもの薄い微笑みが口元に戻り、紙を整える指先も冷静さを取り戻していた。
「……そうでしたね。では尚更、あなたの責任でしょう」
責任という言葉が、氷の粒みたいに落ちる。
自分の欠勤を、部下の責任に変換する。
それを当然のように言えるところが、レギュラスという男の恐ろしさだと、ローランドは改めて知った。
バーテミウスは笑い、軽く手を振る。
「はいはい。じゃあ作りますよ。写真は……記録庫に残ってる分を魔法で引っ張ってくる。数字は帳簿と合わせて、それっぽく整える」
それっぽく。
ローランドの胃が冷たくなる。
監査とはそれっぽさを剥ぐ作業ではなかったか。
けれど、魔法省は魔法省で、その監査さえそれっぽく乗り越える術を持っているのだと突きつけられる。
ローランドは言葉を失い、ただ頷いた。
口を挟める立場ではない。挟めば、何が飛んでくるか分からない。
いや――分かる。
飛んでくるのは言葉だ。整った礼儀の顔をした刃だ。
そしてその刃は、いつでも誰かを巻き添えにできる。
レギュラスがローランドを見た。
微笑みは消えていないのに、視線は試すように冷たい。
「フロスト殿。あなたの部署の経験上、この手の穴はどう塞ぐべきだと思います?」
問いは柔らかい。
けれど、答えを誤れば、この場にいる全員の空気が一段階冷えるのが分かる。
ローランドは喉の奥の渇きを飲み込み、丁寧に言葉を選んだ。
「……形式の不足は、監査にとって最も目につきます。
代替資料を用意するのであれば、代替である理由と経緯を、整合性のある形で添えるべきかと」
レギュラスはふわりと笑った。
褒めたのか、笑っただけなのか判別できない。
「なるほど。……フロスト殿、やはり使えますね」
使えますね
その言葉が、胸の奥に嫌な重みを残す。
役に立つ、という意味と同じ顔をした、別の意味。
逃げられない、という意味。
バーテミウスが書類束を軽く叩き、冗談めかして言った。
「ほら、いいメンバー。ブラック様、今日は優秀な家庭教師と右腕に囲まれてるんですから、気分よくいきましょうよ」
ローランドは目を伏せた。
家庭教師という単語が、何かを嘲笑するように聞こえる。
自分は教える側なのに、いま学ばされている。
権力と、その運用の仕方を。
そして、たった一度の過ちがどれだけ長く影を引くかを。
レギュラスは机の上の紙を整え直し、淡々と言った。
「気分は良いですよ。……監査に落ちる気がしないだけで」
その声音が、妙に軽い。
軽いまま重い。
ローランドは、指先で羊皮紙の角を揃えながら、薄く震える自分の手を悟られないようにした。
書類の擦れる音が続く。
インクの匂いが漂い、暖炉の火が揺れ、午後の光は変わらず優しい。
その優しさが、かえって残酷だった。
この穏やかな部屋で、誰かの人生を縫い合わせるようにそれっぽく整えていく。
ローランドは背筋を伸ばしたまま、静かに息を吐く。
吐いた息が、紙の上で消える。
消えるはずなのに、喉の奥の苦さだけは、いつまでも残っていた。
紙の端を揃える指先が、いつの間にか熱を帯びていた。
羊皮紙の繊維は乾いていて、指の腹を僅かに擦り返す。重ねた束の厚みは減ったはずなのに、机の上の圧はまだ抜けない。暖炉の火がぱちりと鳴るたび、余計に沈黙が浮き彫りになる。
ローランドは、息を吸う音さえ邪魔になる気がして、呼吸を浅くした。
自分のいる場所が、黒板の隅に置かれた石像のように感じられる。動けば音が出る。音が出れば視線が向く。視線が向けば、何かが剥がれる。そんな脅迫めいた感覚が、薄い皮膚の下でずっと続いていた。
一方で、机の向こうの二人は、平然としていた。
いや、平然と装っているのではない。最初から、この種の「修羅場」を日常の延長として扱える人間たちなのだ。
「もうこの辺で片付いたんじゃないです?」
バーテミウスが軽い調子で言った。まるで、午後の紅茶に添える菓子の種類でも訊くように。
レギュラスは書類の束を指先で叩き、ぴたりと動きを止める。視線だけが紙の行間を刺し、答えだけを拾い上げた。
「一生、五ページの添付資料なしが気になって寝れませんよ。あなたも、作り終わるまで帰れないと思ってください」
言葉は丁寧で、声も柔らかい。
それなのに、拒否という選択肢を最初から焼き落とすような確信がある。淡々とした口調が、かえって容赦のなさを際立たせていた。
「本当に鬼ですね、あなたは」
バーテミウスが笑う。
笑いながらも、手元は止まらない。杖先で書類を浮かせ、ページの間に挟まれた薄い添付を抜き取り、別の束に滑らせる。雑に見えて、精度だけは落とさない。そういうところがいちばん厄介だと、ローランドは思った。善悪の線引きではなく、仕事の上手さで世界が回ってしまう感覚。
ローランドは、ただ黙っていた。
自分が口を開くべき場面ではないと分かっている。分かっているからこそ、空気のようにそこに居続けることが、やけに苦しい。
この場で「正しさ」を持ち出すのは簡単だ。けれど、その正しさが誰かの首を絞めるのも、もう知っている。自分の過ちで、いくらでも。
レギュラスが書類の束を持ち上げ、ローランドの方ではなく、バーテミウスの手元へ視線を寄せた。
「どこまで進めたんです?」
問いの形をしているのに、確認にすぎない。
バーテミウスは、得意げでもなく、申し訳なさそうでもなく、あっさり答える。
「写真、数枚流用しましたよ。ほら」
宙に浮いた写真の添付がひらりと回転し、レギュラスの指先に吸い寄せられる。
ローランドはその一瞬の動きに、喉が鳴りそうになるのを堪えた。流用。軽い単語の裏側に、監査という刃物と、公式という仮面が並んでいる。
「流用、ばれませんか」
レギュラスが、ほんの僅か眉を動かす。
その動きが「心配」を示しているのか、それとも「気持ち悪さ」を示しているのか、判断できない。どちらにせよ、彼は気になるという感覚を、放置できない人間だ。
「バレたらその時考えましょう。レギュラス」
バーテミウスは、呼び捨てで返した。
その瞬間、ローランドの胸の奥に小さな震えが走る。レギュラス・ブラックに、ここまで堂々と、遠慮なく、そんな口を利ける男がいるという事実。
それが羨望なのか、恐怖なのか、あるいは理解しがたい種類の親密さへの嫌悪なのか、自分でも分からなかった。
レギュラスは、写真の添付をひとつずつ眺め、確認するように視線を滑らせる。
その横顔は落ち着いている。落ち着きすぎているほどだ。目だけが冷たく働き、迷いを一切見せない。
「バレるかバレないかを怯えて寝れないのは癪なんですよ、僕は」
僕はという言い方が、妙に子どもじみて聞こえる。
そのくせ、言っている内容は、徹底して現実的で残酷だ。怯えること自体が許せない。自分の心が乱されることが許せない。だから、乱れの原因を潰す。
バーテミウスが肩をすくめる。
「セックスでもして、出すもん出せばあなたはすぐ寝れますって」
ローランドは、一瞬、目を瞬かせた。
不適切という言葉では足りない。軽薄という言葉でも足りない。
それなのに、バーテミウスの口から出てくると、冗談の形をしただけの生活の知恵にすら見える。そこがまた、救いようがない。
レギュラスは、笑わなかった。顔色も変えない。
ただ、机の上の紙を整え、必要な箇所を指で示し、命令を落とす。
「セックス中でさえ気になって集中できません。流用先の記録は消し潰して、その流用が明るみに出ないようにしてください」
言い方の端正さが、なおさら狂気じみている。
不適切な冗談に乗らない。その代わり、冗談の中に混ざる現実だけを掴み取り、最短距離の指示へ変換する。
ローランドは、自分が今、何を聞かされているのか分からなくなってくる。監査のための整理なのか、犯罪の整形なのか、あるいはただの権力の遊戯なのか。
バーテミウスは軽く口笛でも吹きそうな顔で、しかし目だけは鋭くなる。
「了解。痕跡の処理までやれってことですね。ほんと、鬼」
「鬼ではありません。僕は眠りたいだけです」
レギュラスが淡々と言い、紙の端を揃える。
その仕草が綺麗すぎて、ローランドは逆に目を逸らしたくなる。整っている。正しい形をしている。正しい形のまま、間違った方向へ進める力がある。
ローランドの胃の奥が、じわりと冷えた。
バレたらその時考えるという軽さと、痕跡を消し潰せという的確さが、同じ机の上で共存している。
この世界は、そういうふうに回っているのかもしれない。規則は守られ、同時に破られる。表は光り、裏は滑る。そのどちらも、平然とした顔で。
ローランドは、ただ、書類の束を持ち上げ、角を揃えた。
指先に残る紙のざらつきが、現実の輪郭を辛うじてつなぎ止めてくれる。
自分はここにいる。聞いている。見ている。
そして、見てしまった以上、元の場所には戻れない。
レギュラスが、不意にローランドへ視線を投げた。
問いはなかった。けれど、その一瞬の目が言っている。
黙っていろ。理解しろ。従え。――そして、生き残れ。
ローランドは、静かに頷いた。
声を出すと、喉の奥から何かが漏れてしまいそうだった。
空気のように聞いているふりをしながら、胸の内側では、どこまでも音が鳴っている。
紙が擦れる。火が揺れる。笑いが混じる。
その穏やかな部屋の中で、ローランドはひとり、ひどく孤独だった。
窓辺の光が、いつの間にか角度を変えていた。
最初は白く鋭かったのに、数時間も経つと柔らかくなり、羊皮紙の肌理に淡い金を落とす。机の上は整理されたようで、実のところ何ひとつ片付いていない。束ねても束ねても、紙は増える。ページを繰れば繰るほど、抜け落ちている数字や、書き足すべき文言や、貼り直すべき添付が見つかる。終わりのない迷路を、丁寧な靴で歩かされているようだった。
ローランドは、指先の感覚が少し鈍くなるのを感じながらも、手を止めなかった。
止めた瞬間に、胸の中の雑音が大きくなる気がして。黙って作業を続けている間だけ、余計なことを考えずにいられる。
レギュラス・ブラックは、恐ろしいほど集中を切らさない。
書類の隅に走る罫線、字間の乱れ、日付の表記、封蝋の欠け――そういう些末な綻びさえ拾い上げて、整え直す。彼の手元にあるのは紙の束のはずなのに、まるで人間の弱点の一覧表でも扱っているみたいだった。淡々としていて、優雅で、そして容赦がない。
その隣でバーテミウスは、椅子の背にもたれたり、片肘をついたり、時折くるくると羽根ペンを回したりしながら、同じ速度で仕事を進める。軽い。軽いくせに正確だ。
軽薄と紙一重のその態度が、ここではなぜか許されている。それがローランドには、眩暈がするほど不思議だった。
「……夫人、全然来ないじゃないですか。どこにいるんです?」
バーテミウスの声が、乾きかけた空気に軽く弾んだ。
ローランドは、反射的に指先を止めそうになって、寸前で堪える。夫人―― アランのことだと、すぐに分かった。あまりにも当然に、その呼び名が机上に落ちたから。
レギュラスは書類から視線を上げず、紙の端を整えたまま答えた。
「さあ。サロンか部屋か……そこにいるんじゃないですか」
投げやりに聞こえるのに、奇妙な確信が混ざっている。
そこにいる。自分の屋敷の中で、妻がどこにいるか。把握していなくても、支配の輪郭だけは崩れない。そんな余裕が、言葉の底に沈んでいた。
バーテミウスは、目を細めて笑った。
「閉じ込められてなくて安心しましたよ、僕は」
その一言は冗談の形をしているのに、刃が薄く光った。
閉じ込められてなくて。――それが何を指しているのか、ローランドは分からないふりをした。分かったところで、どうにもできない。
レギュラスが小さく息を吐く。笑ってはいない。怒ってもいない。けれど、紙を叩く指だけがほんの一瞬止まり、再び動き出す。その間が、恐ろしく正確だった。
「あなたは余計なことばかり考えますね。手を動かしてください」
丁寧な口調のまま、逃げ道のない命令。
バーテミウスは肩をすくめるようにして、けれど従う。その関係性が、ローランドには信じられない。普通なら、これほどの権力者に対して、言葉は選ばれる。息さえ選ばれる。なのにこの男は、息の仕方のほうが勝っているみたいに振る舞う。
凄すぎる。
尊敬とも畏怖ともつかない感情が、ローランドの胸の奥で泡立った。付いていけない。そう思うのに、視線だけは離せなかった。
バーテミウスは、今度はローランドの方へ顔を向けた。瞳が愉しげに細まる。獲物を見つけた猫の目だった。
「どうです?フロストさん。アラン・ブラックを見ながら仕事できる気分は」
言葉が胸に落ちる前に、皮膚がぞわりとした。
わざとだ。わざと刺してくる。
この男もまた、そういう種類なのだ――冗談で撫でるふりをして、針を仕込む。レギュラスほど静かではないが、やり方の残酷さは似ている。
ローランドは、呼吸を整えた。
ここで乱れた声を出せば、何かを認めることになる。認める資格などない。ましてや、自分の口から。
「職務を全うしたいと思っています」
それだけを、丁寧に。
声は優しく。背筋は崩さず。指先は紙を押さえたまま。自分の礼節を、最後の盾にするみたいに。
バーテミウスが、吹き出した。
「かたーい。おもしろくなーい」
笑い声は軽い。軽いのに、ローランドの胸は重くなる。
笑われたことが痛いのではない。笑いの中に含まれた“見透かし”が痛い。
――お前の真面目さの奥に、何があるか分かってるぞ。そう言われた気がした。
ローランドは、机上の文字が一瞬滲むのを感じ、視線を落とした。
自分の手元の紙に戻ることでしか、表情を守れなかった。
その時、レギュラスが羽根ペンを置いた。カトラリーを置いた時のように、音が綺麗に響く。
ローランドの背筋が、勝手に正される。
「息子の優秀な家庭教師を、いじめないでもらっていいです?」
言い方は穏やかで、微笑みさえ浮かんでいそうなのに。
そのいいです?の中に、明確な境界線が引かれる。ここから先は踏むな、と。
ローランドは、思わずまばたきをした。
まさか。
この男に助け舟を出される日が来るとは、想像したこともなかった。
けれど、すぐに分かる。助け舟ではない。
それは所有だ。自分のものを、勝手に触られるのが癪なだけ。
優秀な家庭教師という肩書きは、息子のための道具であり、同時に、罰として縛りつけた鎖でもある。その鎖を、他人の冗談で汚されたくない――そんな、冷たい潔癖さ。
レギュラスは続けた。視線はバーテミウスに据えられたまま、言葉だけが机の上を滑る。
「それより早く作り上げなさい。あなたは」
バーテミウスが、わざと大袈裟にため息をつく。
「はいはい。仕事が恋人の男は違う」
「違いません。眠りが恋人です」
さらりと返すレギュラスに、バーテミウスがまた笑う。
その笑い声に混ざって、どこか遠くから子どもの声が聞こえた気がした。廊下か、階段の向こうか。アルタイルの弾むような足音を、ローランドは想像してしまう。
その瞬間、胸の奥に、別の痛みが生まれる。守るべきものが確かにここにあって、だからこそ壊せないものも増えていく。
ローランドは静かに紙を揃え、添付の順番を確認した。
指先の震えが出ないように、呼吸を一定にする。
アラン・ブラックを見ながら仕事できる気分は――その言葉は、紙の裏側に染みのように残っている。何度でも思い出してしまう。思い出すたびに、自分の醜さが浮き上がる。
それでも、ここにいる以上、崩れるわけにはいかなかった。
レギュラスが、ふっと視線をローランドに流す。
ほんの一瞬。けれど、その一瞬が、心臓の脈を一つ飛ばす。
「フロスト殿。次は、その束。署名欄の位置がズレている。揃えてください」
命令の形をした、当然の指示。
ローランドは、椅子から立ち上がりかけた衝動を抑え、丁寧に頷いた。
「はい、ブラック様」
口にした瞬間、言葉が喉の奥で少しだけ苦い。
敬意の形を取ることでしか、自分を保てない。それでもいい。
今はただ、仕事を終わらせる。整える。片付ける。
この屋敷の空気に飲まれないように。
バーテミウスは、相変わらず楽しげに目を細めたまま、ローランドの手元を覗き込む。
「真面目だなぁ、ほんと。……壊れないでくださいよ、フロストさん」
からかいの延長みたいな声。けれど、どこかだけ本音が混ざる。
ローランドは返事をしなかった。返せなかった。
壊れないで、という言葉がいちばん残酷だ。壊れる寸前の人間にだけ、そんな言葉は刺さる。
机の上で紙が擦れる音が続く。
暖炉の火が揺れる。
窓の光がさらに沈み、影が伸びる。
そして、アランはまだ来ない。
来ないことが、妙に救いでもあり、罰でもあった。
ローランドはただ、羽根ペンの先を整え、次のページをめくった。
自分の心がどこへ向かおうと、紙の上だけは正しくなければならない。
それが、ここで生き残るための唯一の作法だと、痛いほど分かっていた。
紙とインクの匂いが、部屋の空気を薄く重たくしていた。
圧縮呪文を解いた束は、最初こそ小さな塊だったのに、時間が経つほどに威圧的な山へ変わっていく。卓上に散らばる封緘、付箋、添付資料の写し。羽根ペンの擦れる乾いた音が途切れるたび、時計の針だけがやけに大きく鳴った。
ローランドは、机の端に寄せた自分の手元を見つめた。閲覧制限の札がついた書類の、文字の並び。
「持ち出し不可」などという規則を、誰も本気では守っていない——そう頭では理解しても、ブラック家の屋敷の中で魔法省の内側を広げているこの状況には、喉の奥がひりついた。
レギュラス・ブラックとバーテミウスは、まるで氷と火のように軽口を交わしながら、平然と命綱のような数字を組み替えていく。
バーテミウスが笑って適当と言い、レギュラスが同じ口で「適切に消し潰して」と指示を落とす。その温度差が、ローランドには理解しがたいほど自然だった。
長い時間が、いつのまにか夜へ傾く。窓の外の光が薄まり、燭台に火が追加され、影が机の下で伸びたり縮んだりした。
「もうこの辺で片付いたんじゃないです?」とバーテミウスが伸びをした時でさえ、レギュラスはまだ五ページ目の空白に執着していた。
「一生気になるんですよ。作り終わるまで帰れないと思ってください」
淡い微笑みのまま言い切る声に、ローランドは背筋の奥が冷えるのを覚えた。
——そして、最後の束が整えられた頃だった。
扉が、控えめに叩かれる。ノックの間隔が、屋敷の礼儀そのものだった。
「お疲れ様です。みなさま」
入ってきたのはアラン・ブラックだった。
時間を測っていたとしか思えない。乱れのない髪、ゆるやかに揺れるドレスの裾、呼吸さえ音を立てないような歩き方。疲労と埃と焦りで満ちた部屋の中に、彼女だけが別世界の清潔さを連れてきた。
「お久しぶりですねー、夫人。お元気そうで」
バーテミウスの軽い声に、アランは完璧な角度で微笑んで礼をした。その笑みは美しいのに、硬質だった。磨き上げられた硝子みたいに、触れれば指が切れそうな光り方をしている。
レギュラスは何も言わない。
ただ、手を伸ばした。
その合図だけで十分だったのだろう。アランは一拍も迷わず、吸い寄せられるように彼の隣へ寄る。腕の内側へ収まる距離、肩の向き、視線の落とし方。
夫婦の抱擁が、儀式のように広がった。
ローランドは咄嗟に目を逸らした。
逸らしたこと自体が、誰かに見抜かれる気がした。それでも、逸らさずにはいられなかった。あの抱擁の形は、昨日自分が奪ったものを上書きするように、堂々としている。ここはブラック家で、彼女はブラック夫人で、世界の正しさはこの男の腕の中で固定されるのだと、無言で宣言している。
「今日、僕は疲れて機嫌がよろしくないんです」
レギュラスの声は柔らかい。だが柔らかいほど、逆らう余地がなくなる。
「はい、わかりました」
アランは、すぐに頷く。深さも迷いもなく。
「機嫌、とってくれます?」
「はい、もちろん」
その返事が落ちた瞬間、レギュラスは満足そうに微笑んだ。勝者の微笑みだった。
欲しい言葉を、欲しい形で、欲しい量だけ差し出されることに慣れきった人間の顔。与えられることを当然として受け取り、受け取った瞬間に世界が整うと信じている顔。
レギュラスは、アランの首元に顔を埋める。
「香水変えました? この匂い、好きです」
アランは表情を崩さず、けれど声だけは丁寧に温度をつけた。
「ええ、いつものメーカーの、06番に」
「ユニセックスでしたよね。僕の分も買っていてください。気に入りました」
「はい」
その「はい」が、あまりにも滑らかで、ローランドの胸を刺した。
美しさが、命令への従順さの上に貼り付いている。操り人形のように正確で、だからこそ生々しい。
——あの部屋で、魔法写真を撮った時の笑い方を、ローランドは知っている。
口を大きく開けて、息が切れるまで笑って、頬が赤くなって、シャッターの音に負けない声で「ひどいわ」と文句を言って、それでも目がきらきらと光っていた。
あの笑みを、今の彼女はどこへしまってしまったのだろう。
「どれどれ、僕も……あ、いいですね、これ。僕もいただきたい」
バーテミウスが、アランの首元に鼻先を近づけるようにして言う。冗談めかした距離感が、ローランドにはぞっとするほど自然に見えた。
「かしこまりました。夫の分と合わせて用意しておきます」
アランはすぐ応じる。
「感謝します、夫人」
バーテミウスは笑って、軽く頭を下げた。
ローランドは、口の中が乾くのを感じた。
踏み込みすぎるこの男の無遠慮さ。けれど、止める者はいない。止められない。ここでは、誰もがレギュラスの空気に従って呼吸をしている。アランでさえ、そうだ。
レギュラスは抱擁を解かないまま、ちらりとローランドへ視線を寄越した。
穏やかな微笑みのままなのに、目だけが鋭い。刺すでもない。確かめるでもない。
ただ——「見ている」と告げてくる。
ローランドは、再び目を伏せた。
自分が見たいのは、この完璧な妻ではない。
けれど、この屋敷が求めるのは、きっとこの完璧さなのだ。
そしてその完璧さを、レギュラスは抱き寄せ、匂いを褒め、手に入れたものとして享受する。
その姿があまりに似合っていて、ローランドは胸の奥が痛くなるのを止められなかった。
屋敷は夜の静けさを深く抱え込み、廊下の絨毯は足音を呑み込んでいった。
昼間、机の上で膨れ上がっていた紙の山はすべて片づき、目の奥に残る文字列の残像だけが、まだ微かにちりちりと熱を持っている。
疲れたのは本当だった。けれど、機嫌が悪いわけではない。
不意に、なにかの爆弾を落とされれば——自分の中のどこかに、即座に怒りが燃え上がる火種があることは、否定できない。そういう人間なのだと自分でも分かっている。
ただ、今は違う。今夜は、怒りではなく、満たされたい。
寝室の扉が閉まると、外の世界はそこで終わった。蝋燭の火が小さく揺れ、薄い香りが空気の層を作っている。
アランはレギュラスの外套を受け取って、いつものように丁寧に整えた。手つきが静かで、無駄がなくて、その分だけ彼女の心の内が見えない。見えないからこそ、今夜はそこに触れさせたくなる。
「肩を揉みますか」
控えめな声音だった。申し出というより、合図に近い。
レギュラスは笑みを作る。柔らかいまま、逃げ道を塞ぐ笑み。
「いいえ。ありがたいけど……それじゃあ、あなたの顔が見れません」
アランが一瞬だけ瞬きをする。その反応が、わずかに遅れるのが面白い。彼女の頭の中で、最適な返答が選別されているのだと分かるからだ。
けれど、その「小賢しさ」さえも、今夜は嫌悪ではなく、甘い満足の種になった。
「……顔を、ですか」
「ええ。疲れた時ほど、見ていたいものがあるでしょう」
言いながら、自分の中にある激しい衝動が静かに膨らむのを感じていた。
あの夜会で初めて視界に入れた瞬間から、手に入れたいと思った。奪い取ってでも隣に置きたいと爆発的に思って、実際に手筈を整えて連れてきた。
その好みのど真ん中みたいな顔が、今は自分の寝室にいる。自分の言葉一つで近づいてくる。
「じゃあ、どうすれば」
アランが言いかけたところで、レギュラスは彼女の腰に手を添えた。背中を促すのではなく、導くように。
寝台へ腰を落とし、次いで自分が仰向けになる。柔らかなシーツが背中を受け止めた。
「こちらへ」
たったそれだけで、アランは理解したように息を整えた。
そして恐る恐る、けれど拒まない速度で、彼の上へ膝をついた。
視界が変わる。
普段は見下ろすことの方が多いのに、今は見上げる。新鮮だった。アランの輪郭が、蝋燭の光に縁取られて浮き上がる。髪の影、睫毛の線、唇の色。どこを切り取っても、自分の好みのままに整えられている。
自分の胸の奥が、じんわりと満ちていく。
怒りが爆発する時とは別の、じわじわと手足の先まで染みるような満足感。
——この眺めを持てるのは、自分だけだ。
「落ち着きません」
アランは困ったように言う。声は静かなのに、目だけが小さく揺れている。
レギュラスは、その揺れを見逃さずに微笑む。
「あなたは基本、下ですもんね」
自分の言葉に、少しだけ棘が混ざったのが分かった。呼吸みたいに自然に混ざる。
アランの頬がわずかに染まる。その反応は、怒りを鎮めるための言葉ではなく、彼女自身の身体が勝手に返してしまう反応であるぶん、レギュラスにはたまらなく心地よかった。
アランは、棘がこれ以上深く刺さらないようにとでも言うように、話題を整えてくる。
その動きが見える。だからこそ、さらに愛おしい。
「……何をしましょう、レギュラス」
わざと、名前を丁寧に呼んだ。
その一言に、レギュラスは小さく笑う。ほんとうに、よく出来ている。自分の機嫌を取る術を、彼女は覚えたのだ。
それが悔しいのか、嬉しいのか。両方だった。
「そうですね」
言いながら、レギュラスは手を伸ばす。
首筋の細い線に指先を滑らせ、鎖骨の影へ辿り、胸元の布越しに淡い温度を確かめる。そこから腰へと、ゆっくりと降りていく。
触れるたび、アランがわずかに呼吸を乱す。
その乱れが、言葉より正直だと知っている。
「いい体のラインです」
声が、少し低くなる。
アランは視線を落とし、また上げる。落ち着きのない仕草に、彼女が自分の上にいる現実が、いっそう甘く響いた。
「……褒めているんですか」
「褒めてますよ。こんなに丁寧に触れてるのに、疑うんです?」
アランは小さく息を吐き、言い返す代わりに、きちんと姿勢を保とうとする。
その努力が可笑しくて、そして胸の奥が温かくなる。
「この眺め、好きです」
レギュラスがそう言うと、アランは一瞬だけ目を大きくした。
好き、という言葉を投げられると、彼女はいつも一拍遅れる。それが良い。すぐに最適解を返す機械ではなく、ちゃんと心が揺れる生身の女だと確認できるから。
「……そうですか」
「ええ。だから」
言いながら、レギュラスはふと、別の欲を思いつく。
今この瞬間を、残しておきたい。
それは誰かに見せつけるためではない。ローランド・フロストへの対抗心でもない。そういうものを持ち出す必要がないほど、自分の腕の中にあるものは完璧だった。
美しいものを、美しいまま留めておきたいだけだ。
「今度、写真を撮らせてください。この角度」
アランの眉がわずかに寄る。驚きと、警戒と、戸惑いが同時に混ざる。
けれど、彼女は逃げない。逃げない代わりに、慎重に言葉を選ぶ。
「……魔法写真、ですか」
「そう。あなたが嫌なら、しません。ちゃんと聞いてますよ」
聞いている、と言いながら、断れる余地がどれほど残されているかは、互いに分かっている。
だからこそ、アランは小さく唇を結び、最後にそっと頷いた。
「……いいですよ。あなたが望むなら」
その返答は、レギュラスの胸の内側を、確かな温度で満たした。
「望むなら」という言葉が、彼女の中の最後の防壁であり、同時に差し出された譲歩なのだと分かるからだ。
レギュラスは満足して、指先で彼女の腰の線をなぞり直す。
逃げない。答える。機嫌を取ろうとする。
その姿が、苛立たせるはずなのに——今夜は違った。今夜は、それがたまらなく嬉しい。
「いい子ですね、アラン」
褒めるようで、所有を確かめる言葉。
アランは反発しそうな気配を見せて、けれど飲み込む。飲み込んだ分だけ、彼女の瞳が静かに湿る。
「……機嫌、戻りました?」
「戻ったというより、満たされました」
レギュラスは笑い、アランの髪を指に絡めて軽く引き寄せた。
近づく距離。重なる呼吸。彼女の目に自分が映る。
それだけで、世界が正しい位置に戻っていく。
書類の不備も、監査の面倒も、屋敷に漂う不穏な影も、一旦は遠ざかる。
今夜はただ、この美しい妻が、自分のために動いている。
その事実を、ゆっくり味わえばいい。
「もう少し、ここにいてください」
命令でも懇願でもない、柔らかな囁き。
アランはまた頷く。完璧な微笑みではなく、ほんの少しだけ、困ったような、照れたような顔で。
その揺らぎが、レギュラスの胸をさらに満たしていった。
