3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
魔法省の役員室は、いつだって外界の時間から切り離されている。
高い窓の向こうでは空が薄い鉛色に沈み、遠くで羽ペンの擦れる音や、廊下を急ぐ靴音が規則正しく流れていくのに――この部屋の中だけは、厚い絨毯と重い木製家具が、音も匂いも感情も、静かに飲み込んでしまう。
執務机の上には処理しきれない書類が積まれていて、封蝋の赤がいくつも目に刺さる。几帳面に整えられているはずのそれらが、数日ぶりに戻ってきた自分の目には、やけに乱雑に見えた。
自分が乱れているのだ、と分かっている。
扉がノックされる。
「失礼します」
入ってきたのは、いつも通りのバーテミウスだった。顔色ひとつ変えず、部屋の空気を軽く撫でるように入ってくる。手には控えめな束の書類。けれど、その目だけが、さりげなくこちらを測っていた。
「……戻りましたね」
バーテミウスが言う。
椅子に腰掛ける前から、もう“空白”を数えている口調だ。
「数日休みました」
レギュラスは封書を一枚指先で回しながら答える。自分の声が、普段より少しだけ乾いている気がした。
「理由も、聞きたいですか」
「聞かなくても分かります」
バーテミウスは肩をすくめる。
「本当にあなたがたはエンタメに富んでいらっしゃる」
「笑い事じゃありませんよ」
レギュラスは微笑むだけに留めた。微笑みの形だけは崩れない。崩せば、心の中で積み上げたものが雪崩れる。そういう危うさが、まだ指先に残っていた。
バーテミウスは机の端に書類を置いてから、さも何気ない調子で言った。
「……よく許しましたね」
その言葉が、静かな刃みたいに刺さる。
許した、と言えるのか。許したことにして、形を整えただけではないのか。
あの夜、あの朝、あの顔を見て――結局、折れたのはどちらだったのか。
レギュラスは息を吐いて、指先で眉間を押さえた。
「本当に……あの顔に弱い……」
口にした瞬間、自分で自分が情けなくて、笑うしかなかった。喉の奥で乾いた笑いが転がり、すぐに消える。自分の笑い声が、この重い部屋の壁に吸われていくのが分かる。
バーテミウスが目を細める。
「弱い、ですか」
「そうでしょう」
レギュラスは言って、目線を落とした。
書類に並ぶ文字が、急に意味を持たない模様に見えてくる。
自分はこの数日間、ここにあるべきだった。役員として。上に立つ者として。世界の秩序を回す者として。――それなのに、自分をここから引き剥がしたのは、たった一人の女の表情だった。
初めて夜会で彼女を見つけた時のことが、ふいに鮮明に蘇る。
豪奢なシャンデリアの光の下、香水と魔法灯の匂いが混ざり合う中で、彼女は驚くほど静かに立っていた。騒がしい社交の渦の外側にいるのに、視線だけは引き寄せられてしまう。
翡翠の瞳。整いすぎた輪郭。笑うでもなく、怯えるでもなく、ただ礼儀をまとってそこにいる顔。
あの瞬間から、どうしようもなく惹かれてしまった。
一曲ダンスを申し込んだ時、指先が彼女の手袋に触れた――その薄い布越しの温度だけで、胸の奥が痛いほど満たされた。
手に入れたくて、欲しくて、奪いたくて。
自分のものにしなければ、息ができないとさえ思った。
だから半ば強引に婚姻の手筈を整え、屋敷へ連れてきた。
正しい手続きを踏んだ、という形にして。
誰も反論できない条件を積んで。
彼女の未来がどこへ向かうかを、こちらの掌の上に置いてしまった。
――それでも、足りなかった。
手に入れた瞬間に満ちるはずだったものは、いつも一瞬で砂になって、指の隙間から落ちていく。
抱いても、口づけても、跪かせても。
“自分だけを見ろ”という願いだけが、薄くもならず濃くもならず、ずっと胸の同じ場所で脈を打ち続ける。
「いっそ」
レギュラスは、呟くように言った。自分の声が、ふいに冷たくなるのが分かる。
「いっそ、あの顔を……ぼこぼこにでもしてしまえたら。諦めがつくし、手放せるだろうか、だなんて考えます」
言い終えた瞬間、胸のどこかがきしんだ。
本気でそうしたいわけじゃない。
本気でそうしてしまったら、自分が何を失うか分かりきっている。
それでも、ふっと脳裏を過る。
あの整いすぎた顔が、あまりにも自分に効きすぎるから。
美しさが、武器になっている。
それが許せない。
許せないのに、そこから逃げられない。
バーテミウスは咎めるでも笑うでもなく、しばらく黙っていた。沈黙の使い方が上手い男は、慰めもしない代わりに、こちらの呼吸が整うのを待つ。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……結局、手放せないでしょう」
レギュラスは答えない。
答えないことが答えだった。
手放せない。
腹が立つほど、どうしようもなく。
自分の人生を、権力を、秩序を、すべて当然のように掌握してきたはずなのに。
たった一人の女の顔色ひとつで、日程も判断も呼吸の速度も狂う。
それが屈辱で、同時に甘い。
レギュラスはペンを取り上げ、机上の一枚に署名を落とした。インクが紙に染みる音が、小さく耳に残る。
「……仕事に戻りましょう。こうしている間にも、世界は勝手に進みます」
「ええ」
バーテミウスが頷く。
そして、わざとらしく軽い声で言った。
「ただ、次に数日消える時は――せめて休暇届くらいは出してからにしてください。面倒なんですよ、あなたの穴を埋めるのは」
「検討します」
レギュラスは微笑んだ。
その微笑みが、どこまで本物なのかは、自分でも分からなかった。
けれど確かなのは。
この部屋の冷たい静けさの中でさえ――ふとした瞬間、脳裏に浮かぶのは、あの女の顔だということ。
謝罪の言葉を吐きながら泣いていた顔も、意地を張って黙り込んだ顔も、息子を抱いて笑った顔も。
そして、自分が「許した」と錯覚してしまうほど、柔らかく正しい妻を演じた顔も。
自分は結局、あれに弱い。
弱いからこそ、もっと確かめたくなる。
逃げられないように、縛りたくなる。
それが愛なのか、執着なのか。
今は、呼び分ける気にもなれなかった。
夕暮れが屋敷の長い廊下をゆっくりと沈めていく頃、暖炉の火だけが生き物みたいに息をしていた。
窓の外はもうほとんど藍色で、庭の噴水も、昼間のきらめきを手放して、ただ静かな輪郭だけを残している。屋敷の中は、昼に比べればいくらか柔らかい。使用人の足音も控えめで、銀器の触れ合う微かな音さえ、どこか遠くに感じられる。
アルタイルは床に座り、膝の上に小さな木箱のような知育玩具を抱えていた。
木の枠には細い溝がいくつも走っていて、そこに嵌まった小さな輪や棒が、こちらの思い通りには動いてくれない。アルタイルは舌を出しかけるほど真剣な顔で、指先を必死に滑らせている。
その姿だけは、いつもの屋敷の重たさから切り離された、明るいものだった。
レギュラスはローブの襟をほどきながらその光景を見つけ、呼吸をひとつ整えた。
今日はローランドが職務をこなし、もう帰っている。――その事実が、胸の奥に落ち着きを与えるはずだった。
けれど、落ち着きの代わりに、違うものが残る。ひりつき。余韻。拭っても拭っても戻ってくる、細い棘。
アランは少し離れた椅子に腰掛けていた。髪をゆるくまとめ、袖口を整えながら、アルタイルの手元を見守っている。母親としての柔らかな目。けれど、それは柔らかいだけではない。
どこまでも整ったまま、どこまでも崩れない。
その完璧さが、時折、腹立たしいほどだった。
レギュラスは歩み寄り、声を落とす。
「……何もしませんでした?」
問いが落ちた瞬間、部屋の空気がほんの少しだけ硬くなる。火の弾ける音がやけに耳についた。
アランは顔を上げる。まつ毛が影を落として、その翡翠の瞳が一瞬だけ揺れる。ほんの一瞬。すぐに礼儀の形に戻る。
「はい」
短い返事。濁りのない、あまりにも正しい返事。
それだけで終わるはずがない問いだと、互いに分かっている。
分かっているのに、そこで止める。
止められたことが、余計に喉の奥をざらつかせる。
レギュラスはそのまま言葉を継がず、視線をアルタイルに移した。自分の中の刃が、この場に似合わないことは分かっている。息子の前だ。息子の前で自分が乱れる姿ほど、みっともないものはない。
アルタイルが、ぐっと玩具を引き寄せた。
「む」
小さく唸るような声。
うまくいかないことに、悔しさが混じる。その表情があまりにも真剣で、レギュラスの口元が、思わず緩んだ。
「難しそうなものを触ってますね、アルタイル」
そう言って、レギュラスは膝を折り、床に座る。息子と同じ高さになる。
アルタイルはぱっと顔を上げ、父の存在を確認すると、誇らしげに玩具を差し出した。まるで「見て」と言っているみたいに。
レギュラスはそれを受け取り、木の表面を指先で撫でた。滑らかに磨かれている。けれど、仕掛けは意地が悪い。輪は一方向にしか動かず、棒はある位置でしか抜けない。
自分はこういうものに、夢中になるつもりはなかった。
ただ息子に合わせて、少し触って、笑って、終わるはずだった。
――なのに。
思ったほど簡単には外れない。
角度を変える。指先に力を込める。輪を回す。棒を押す。
外れない。
外れない、外れない、外れない。
「……」
息を吸う。
小さな木の輪が、まるでこちらを嘲るみたいに、ぴたりと止まったまま動かない。
苛立ちが、足元から這い上がってくる。
こんな玩具ごときに?
と自分で思うのに、指先が止まらない。
止められない。
もっと強く。もっと正確に。もっと、思い通りに。
「なんなんです、これ……」
レギュラスの声が、少しだけ尖る。
自分でも分かる。今の声の温度はよくない。
輪をひねる。木が軋むほどに力が入る。
アルタイルが目を丸くして見ている。父の手が大きすぎて、玩具が可哀想に見えるくらいだ。
「壊しますよ、これ」
口から滑った言葉は、冗談の形をしていながら、本当に冗談なのか分からない色を帯びていた。
その瞬間、アランがすっと隣に座り込む気配がした。
床に膝をつく布の擦れる音が、やけに鮮明に響いた。
「レギュラス、やめてください」
声は強くない。叱る声でもない。
それでも、芯がある。はっきりと止める声だった。
レギュラスの指先が止まる。
壊す、という言葉の先にあるものを、彼女は知っている。
玩具の話ではない。
自分の中で何かが壊れかけていることを、たぶん、アランは見抜いている。
アルタイルは、父と母の顔を交互に見た。小さな眉が不安そうに寄る。
その表情を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと縮む。
――息子の前で、何をしている。
――息子の前で、どこまで自分を崩すつもりだ。
レギュラスはゆっくりと息を吐いた。吐息が、暖炉の熱に溶ける。
玩具を抱えたままの手が、微かに震えていることに、自分で気づいてしまう。情けなくなる。
たったこれだけのことで苛立つ自分が。
息子の前だというのに、感情の制御が利かない自分が。
自分のメンタルが、どれだけこの数日で掻き乱されたか――
今、こんなところで、こんな形で突きつけられるとは思わなかった。
レギュラスは玩具をそっと床に置き、アルタイルの小さな手の近くへ戻す。
「……すみませんね、アルタイル。少し手が大きすぎました」
柔らかく言い直す。声の形を整える。
アルタイルはまだ少し不安そうだったが、玩具を取り戻すと、また指先を動かし始めた。
その小さな執念が、眩しい。
アランはレギュラスを見た。
何か言いたげな視線。抗議とも、心配ともつかない。
けれど、言葉にはしない。
言葉にしないことで、互いの傷口に触れないようにしている。
その沈黙の慎重さが、逆に、心をざらつかせる。
レギュラスは、床に座ったまま、アルタイルの横顔を見つめる。
息子の頬はまだ柔らかく、まつ毛は長く、集中すると口が少し尖る。
自分とアランの間に生まれた命。
この屋敷の跡取り。
守るべきもの。
――愛しいもの。
なのに、自分の心は、守るべきものの前でさえ揺れる。
揺れて、みっともなく露呈する。
レギュラスは掌を軽く握りしめた。
「……今日はもう、終わりにしましょう」
誰に言うでもなく、そう呟く。
玩具に、ではない。
自分の中の、尖った何かに向けて。
アランが、ほんのわずかに目を伏せた。
その仕草だけで分かる。
彼女もまた、終わらせたいのだ。
静かな夜に戻したいのだ。
息子が安心して眠れる夜に。
その願いが、なぜこんなにも苦いのか。
なぜこんなにも、胸の奥を締めつけるのか。
レギュラスはアルタイルの髪にそっと触れた。
触れるだけ。撫でるだけ。
それだけの優しさを、自分が今いちばん必要としているみたいだった。
扉が閉じた瞬間、寝室の空気が少しだけ重く沈んだ。
屋敷の夜は静かだ。廊下の向こうで、使用人が灯りを落としていく気配がする。遠くで誰かが銀器を片づける微かな音がして、それが途切れると、世界から音が消えたみたいに感じられる。
自分はローブを脱ぎ捨てるように肩から滑らせ、椅子の背に乱暴に掛けた。
たったそれだけの動作にさえ、苛立ちが滲む。苛立っていると悟られるのも癪なのに、隠す努力をすることすら面倒で、身体の方が先に反応してしまう。
寝台の端に座っていたアランが、そっと顔を上げた。
翡翠の瞳が、こちらを測るように一瞬揺れ、それからすぐ、いつもの妻の顔に戻る。崩れない。乱れない。
その完璧さが、時に腹立たしいのに――今夜は、逆にそれが救いになる。
「……おかえりなさい、レギュラス」
声は柔らかく、喉を撫でるような音色だった。
ただそれだけで、胸の奥のざらつきが少しだけ薄まるのが分かって、余計に腹が立つ。
自分は返事をしなかった。
しないまま、カフスに指をかける。ボタンが固くて外れない。指先に力が入る。
まただ。こんな些細なことに、苛立ちが噴き上がる。息子の知育玩具に向けたあの衝動が、まだ指の腹に残っているみたいだった。
「……お手伝い、しましょうか」
アランはそう言って、立ち上がる。足音が絨毯に沈み、気配だけが近づいてくる。
拒むべきなのに、拒みたくない。
拒んでしまえば、この女はまた、何もなかったみたいに引いていく。距離を作って、礼儀だけで自分を包み、手の届かない場所に置き直す。
それを許すくらいなら、いっそ、手を伸ばしてしまった方がまだ楽だ。
「……どうぞ」
許可の言葉は淡い笑みで包んだ。柔らかい形に整えて。
アランは自分の手元に屈み、指先でカフスに触れる。
冷たい宝石の縁に、彼女の体温が重なる。
その距離が、近い。近すぎるのに、彼女の所作はどこまでも慎重で、揺らさない。まるで壊れ物を扱うみたいに。
ボタンが外れた。
次の瞬間、アランが自分の手首をほんの少し持ち上げ、袖口を整える。その仕草が、あまりにも丁寧で、胸の奥が勝手に満たされていく。
ムカつく。
こんなふうに、こちらの機嫌を取るために動く顔を見せるなら、最初からそうすればいい。
そうすれば、自分だって余計な棘を出さずに済むのに。
そう思うのに、同時に、こうして努力している姿を見るのが心地よくて仕方がないのだ。
アランは視線を上げないまま言う。
「……今日、何かありましたか」
問いかけは穏やかで、けれど逃げ道を用意している。答えたくなければ、答えなくてもいい、と。
その配慮が、また癪に障る。
自分の機嫌を取ろうとしているくせに、こちらの牙を抜こうとしない。
こういうところが、憎たらしいほど賢い。
「何も」
短く返す。
それで終わらせたいのに、終わらない。
アランの指先が、今度はネクタイの結び目に触れた。ほどくつもりらしい。
彼女が近づく気配が少し濃くなって、自分の呼吸が僅かに浅くなる。
それを悟られたくなくて、目線だけで彼女を牽制する。
けれどアランは、牽制されたことを知りながら、そのまま続けた。
丁寧に結び目を緩める。布が擦れる微かな音が、妙に生々しく耳に残る。
「……随分と、頑張りますね」
自分の声が、皮肉と甘さの間で揺れる。
優しくしたいのか、刺したいのか、自分でも分からない。
アランはほんの少しだけ口元を緩めた。
笑うには至らない。けれど、硬い空気をほどくための、精一杯の表情。
「頑張っているつもりは、ありません」
そう言って、ネクタイを外し終える。
「ただ……今夜のあなたが、少し……」
言葉が途切れる。続き方を選んでいるのが分かる。
賢い女だ。最も火傷しない言葉を探している。
自分は、待たずに口を挟んだ。
「少し? 何です」
柔らかい声で詰める。逃げ道を塞ぐ。いつもの癖だ。
アランの喉が小さく動く。
それでも彼女は、視線を落としたまま答えた。
「……お疲れに見えました。苛立っているようにも」
そして、少しだけ間を置いて、まっすぐに続ける。
「……私にできることがあるなら、したいと思いました」
その言い方が、あまりにも正しい。
正しい妻の言葉。正しい献身。正しい距離。
だから余計に、胸の奥が熱くなる。腹が立つ。心地がいい。どちらも本物だ。
レギュラスは椅子に深く腰を下ろし、アランを見上げた。
彼女は美しいまま立っている。
この屋敷の中で、最も高価で、最も繊細で、最も自分のものになった存在。
その存在が、一生懸命こちらの機嫌を取ろうとしている。
ムカつくようでいて、心地が良い。
この矛盾が、自分をいちばん満たす。
「僕の機嫌を取ろうとしてるんですか、アラン」
問いは優しい形をしている。けれど刃が混じっている。
肯定したら、負け。否定したら、嘘。
アランは一瞬だけ目を伏せた。
それから、翡翠の瞳をこちらに向ける。
真正面からではなく、少し斜めに。逃げ道を残したまま。
「……はい」
小さな声だった。
「あなたが……落ち着けるなら、その方がいいと思います」
その瞬間、胸の奥が、じわりと甘く満たされる。
言わせた、という満足。
引き出した、という勝利。
それなのに、同時に、彼女がこうして素直に言葉を差し出してくることに、どこか冷めた苛立ちも湧く。
都合のいい時だけ、こうして整ったものを差し出す。
それが彼女の強さで、ずるさで、自分の手の中で一番厄介なところだ。
アランはそっと、ローブの皺を伸ばした。
指先が胸元を滑る。
触れ方は控えめなのに、触れられているという事実が、皮膚の内側で大きく膨らむ。
「お茶を淹れましょうか」
「……今さら」
「今さらでも。温かい方が、眠りやすいでしょう」
それが命令ではないのが、また腹立たしい。
してあげるではなく、提案として差し出してくる。
いつでも引ける形で。いつでも逃げられる形で。
その余白が、こちらの支配欲を刺激する。
「……淹れて」
わざと短く言った。許可の形で。
アランは頷き、すぐに動こうとする。
その背中を見送るのが嫌で、自分は反射的に彼女の手首を取った。
強くは握らない。ただ、逃がさない程度に。
アランが驚いて振り向く。
その表情が、ほんの少しだけ柔らかい。
自分の気分を損ねないように、驚き方まで整えているのが分かる。
「……どこへ行くんです」
問いはくだらない。分かっているくせに。
止めたいだけだ。
「お茶を」
「ここで」
「……ここで?」
「離れないでください」
言った瞬間、自分の中にある子どもじみた部分が露呈して、少しだけ気まずい。
けれど、アランが拒まないことが分かっていた。
だから言えた。言ってしまった。
アランは小さく息を吐き、首を縦に振った。
「……はい」
その返事が、すでに機嫌取りだ。
心地が良い。胸の内側が、滑らかに撫でられていく。
アランはテーブルのベルを鳴らし、使用人に指示を出す。
それから戻ってくると、自分の前に膝をつくでもなく、椅子の横に静かに立ったまま、ただこちらを見た。
何かを求めるでもない。
何かを迫るでもない。
でも、逃げない。
「……見られると落ち着きません」
レギュラスがそう言えば、彼女が照れたように笑った夜があった。
けれど今夜は自分が見られている側だ。
見透かされそうで、腹が立つ。
アランは視線を逸らさず、でも刺さるほど強くもなく、ちょうどいい温度で見つめ返してくる。
「落ち着かないのは……私のせいですか」
「……さあ」
「なら、少しだけ……」
言葉がまた途切れる。選ぶ。探す。
「……触れても、いいですか」
許可を求める言い方。
それが、たまらなく腹立たしくて、たまらなく愛しい。
「好きにすればいい」
そう言って、腕を広げるでもなく、ただ椅子に身を預けた。
受け入れる形を作らない。
けれど拒まない。
その曖昧さが、自分の意地だった。
アランは一歩だけ近づき、指先でレギュラスの頬に触れた。
ほんの一瞬、撫でるように。
それから、額に落ちた前髪を整える。
子どもを扱うみたいな優しさ。
その優しさが、胸の奥のざらつきを確実に溶かしていくのが分かる。
ムカつく。
こんな小さなことで、ほどけてしまう自分が。
でも、やはり心地が良い。
この美しい妻が、一生懸命、こちらの機嫌を取るために動く姿は。
自分が彼女を手に入れた証明みたいで。
彼女がここにいるという勝利みたいで。
「……偉いですね、アラン」
褒めているようでいて、試している声音。
余計な棘が、どうしても混じる。
アランは困ったように笑った。
「偉くはありません。ただ……」
そして、少しだけ言いにくそうに続ける。
「……あなたが、機嫌を悪くしているのは……苦しいです」
その言葉だけは、整いすぎていなかった。
ほんの少しだけ、生身の温度があった。
だから、自分の胸が、ちくりとした。
レギュラスはアランの手首を取り、指先に口づけた。
甘くもなく、荒くもなく、ただここに置くみたいな口づけ。
彼女の指が少し震えるのが伝わる。
「苦しい?」
問い返す。
「僕の機嫌が悪いと?」
逃げ道を塞ぐように、優しく詰める。
アランは目を伏せ、短く頷いた。
「はい」
それが、また心地いい。
この女が、自分の機嫌を気にしているという事実が。
一生懸命に“取ろうとしている”という事実が。
使用人がノックをし、銀のトレイを運んできた。
温かな湯気が立ちのぼり、茶の香りが寝室に満ちる。
その香りが、夜の鋭さを少しだけ丸くする。
アランはカップを受け取り、そっと自分の前に差し出した。
その手つきは丁寧で、繊細で、どこまでも美しい。
まるで、壊れてしまいそうなものを扱うみたいに。
自分はカップを受け取り、ひと口含んだ。
熱が喉を通り、胸の内側に落ちる。
それだけで、身体の奥が落ち着く。
「……どうですか」
アランが小さく尋ねる。
褒めてほしいのが見え透いているのに、媚びる匂いがしない。
それがまた、腹立たしくて、好ましい。
「悪くないです」
自分がそう言うと、アランの肩がほんの少しだけ緩んだ。
見えない程度の安堵。
それを見つけるのが、妙に楽しい。
レギュラスはカップを置き、アランの腰を引いた。椅子の横に、無理やり引き寄せるのではなく、膝の間に収めるように。
アランは驚いたが、抵抗しない。
その従順さが、また胸を満たす。
「……そんなに僕の機嫌を取って、どうするつもりです?」
レギュラスは微笑んで尋ねる。
優しい形の問いに、確かな棘を混ぜる。
アランは少しだけ頬を赤らめ、視線を逸らした。
それでも、逃げずに言う。
「……あなたが、落ち着くなら。それでいいです」
その答えは、正解すぎて。
腹立たしいのに。
やはり、心地よかった。
レギュラスはアランの髪に口づけた。
さっきまでの苛立ちが嘘みたいに、指先が柔らかくなる。
彼女の努力が、確かに自分をほどいていく。
その事実が、癪で。
けれど、甘くて。
「……本当に」
レギュラスは息を吐き、囁く。
「あなたは、僕の扱い方だけ上手くなる」
アランは苦笑して、そっとこちらの肩に額を寄せた。
それは降参でも、屈服でもない。
ただ、嵐を鎮めるための、静かな選択だった。
その選択をさせているのが自分だと分かっているから、余計に気持ちがいい。
ムカつくようでいて、どうしようもなく満たされる。
この矛盾の中でしか生きられない自分を、アランは黙って支えようとする。
それが、今夜はいちばん――心地よかった。
昨夜の甘さが、まだ指先に残っている気がした。
夜が明けても、胸の奥に溶けきらずに沈んでいる、ぬるい熱のようなもの。屋敷の朝はいつもと変わらず淡々としているのに、自分の内側だけが妙に満たされていて、呼吸のたびにそれが広がる。
眠りにつく寸前まで、アランは目を逸らさなかった。
機嫌を取るという言葉の軽さでは収まらないほど、丁寧に、柔らかく、こちらの感情の角を撫で続けてくれた。
それだけでいい。そう思えるほど、昨夜は静かに満ちた。
だから朝になっても、いつもの勝ちたがりの苛立ちは顔を出さない。棘の代わりに、余韻だけが残っている。
廊下は明るかった。窓の外の白い光が、カーテンの隙間から薄く差し込んで、絨毯に淡い線を引いている。
屋敷全体が朝の気配で起き上がっていく音がする。銀器が遠くで触れ合う、小さな澄んだ音。湯気の上がる匂い。焼いたパンの香ばしさ。
食堂に足を踏み入れた瞬間、目に入った光景が、今日の機嫌の良さをさらに確かなものにした。
すでにローランド・フロストがいた。
長い食卓の端、窓際に近い椅子に腰をかけ、幼いアルタイルの手を引いている。絵本を開き、低く落ち着いた声で読み聞かせていた。
言葉の選び方も、抑揚の付け方も、どこまでも丁寧で、まるでそのまま一つの授業のように整っている。子どもが飽きないように、けれど過剰に甘やかさない。あの男らしい誠実さが、そこにそのまま滲んでいた。
アルタイルは、絵本の挿絵を指で辿りながら、食い入るように見つめている。小さな眉間に一瞬だけ力が入り、次の瞬間にはぱっとほどける。
「ここ、もういっかい」
子どもの声が弾み、ローランドが小さく笑ってページを戻した。
「もちろんです、アルタイル様。では、ゆっくり……」
その平和なやりとりを見た瞬間、自分の口元が、勝手に緩む。
どこかで刺さるはずのものが刺さらない。苛立つべき場面なのに、今日はただ穏やかだ。昨夜の余韻が、鈍い鎧みたいに心を守っている。
「おはようございます、フロスト殿」
声に棘は混ざらなかった。皮肉もない。
それが自分にとってどれほど珍しいことかを、わざわざ意識する必要もないくらい、自然に出た。
ローランドはすぐに顔を上げ、椅子から立ち上がりかける気配を見せたが、アルタイルの手を握ったまま、礼を整えるだけに留めた。
「おはようございます、ブラック様」
――次の瞬間だ。
「パパ!」
アルタイルが弾かれたように立ち上がり、絵本を投げ出しそうな勢いでこちらに駆けてくる。よちよちとした足取りはまだ危なっかしいのに、気持ちだけは飛ぶように早い。
ローランドが反射的に手を伸ばすが、もう間に合わない。
小さな身体が自分の脚にぶつかり、そのまま抱きついてくる。
その重みが、驚くほど愛しい。
息子の体温が、昨夜の甘さとは別の種類の温度で胸の奥に落ちる。
「アルタイル。絵本を読んでもらっていたのなら、最後まで聞きましょうね」
叱るのではなく、整えるように言った。
しつけという言葉は堅いが、この屋敷では堅さが秩序になる。息子が途中で投げ出す癖を覚えれば、それはいつか別の場面で必ず響く。
アルタイルは一瞬だけ唇を尖らせた。
けれどすぐ、自分の顔を見上げて、素直に頷く。
「うん……さいごまで」
「ええ、とんでもございません」
ローランドがすぐに口を挟む。恐縮しすぎるほどの声。
自分は笑うでもなく、ただ穏やかに首を振った。
「しつけの一つです。途中で投げ出さないよう、見ていてあげてくださいね、フロスト殿」
命令ではない。お願いでもない。
淡々とした依頼の形。上官の口ぶりとしても、家の当主としても、ちょうどいい温度に整えて落とす。
ローランドは一拍置いて、深く頷いた。
「承知いたしました、ブラック様」
そのやりとりをしているうちに、食卓の向こうから足音が近づいた。
扉の前で使用人が控えめに動き、食器が静かに並べ替えられる。朝の光が皿の縁に反射して、白い点を跳ねさせる。
アランが入ってきた。
いつ見ても、息を呑むほど整っている。
髪はきちんとまとめられていて、肌には朝の光がやわらかく滲む。疲れの影など、どこにも見せない。
それが努力だと知っていても、それでも美しいものは美しい。見ているだけで満たされる。手に入れたという事実が、胸の奥を静かに震わせる。
「レギュラス、おはようございます」
その声に返事を返すより先に、自分の身体が動いた。
歩み寄って、彼女の腰を軽く引き寄せ、唇を重ねる。
ほんの短い、朝の挨拶の代わりの口づけ。けれど、しっとりとした感触が残り、昨夜の余韻がそこに繋がっていく。
アランは目を丸くしたまま、すぐに小さく笑った。
「……リップが、あなたの唇に移っていますよ」
言われて初めて気づく。
自分は親指で唇の端を拭った。指先に、薄いピンクが淡く付く。
その色味が妙に生々しくて、そして滑稽でもあって、自然と顔が緩む。
「本当だ」
言葉が柔らかくなる。
自分でも分かるほど、声の角が丸い。
昨夜、アランが自分の機嫌を取るために差し出してきた言葉や仕草が、今もまだ胸の底で温かく揺れている。
アランは自分の親指についた色を見て、わずかに頬を染めた。
恥ずかしさを隠すように視線を逸らしながら、それでも逃げずにそこにいる。
その控えめな照れ方が、完璧すぎない人間の温度で、余計に可愛らしく見えてしまう。
ふと、視界の端でローランドが視線を落とすのが見えた。
配慮として逸らしたのか、ただ居心地の悪さを飲み込んだのか。
今日の自分は、そのどちらでも構わなかった。
ローランドがいようと。
過去がどれほど醜かろうと。
今日は機嫌がいい。
昨夜の甘さがまだ残っていて、朝の光がそれをより薄く広げる。
アルタイルの小さな手が自分の服の裾を握り、アランの指先が食卓の縁に添えられる。
家族の輪郭が、いつもより少しだけ穏やかに見える。
レギュラスは息子の頭を軽く撫で、アランの手元に視線を落としてから、ゆっくりと席についた。
銀器の音が静かに響き、温かな湯気が朝の空気に溶けていく。
この瞬間だけは――
この屋敷の全てが、正しい場所に収まっている気がした。
その日、屋敷の空気は昼の光に馴染んでいた。
窓から差し込む薄い日差しが、床の木目と、机の上の角ばった影をやわらかく伸ばしている。
ローランド・フロストは、いつものように背筋を正して、アルタイルの向かいに座っていた。
小さな指が並べた数の石――黒曜のように艶のある小片を、幼い主はまるで宝石を扱うように丁寧に動かす。
ひとつ置いて、もうひとつ置いて、首を傾げる。その真剣さが可笑しくて、同時に胸が温かくなる。
「では、こちらとこちら。いくつになりますか、アルタイル様」
「……えっと、……」
小さな唇が動き、数を口の中で転がすように考える。
ローランドは答えを急がせなかった。急かさないことは、幼い者に対する礼儀であり、誠意でもある。
彼は、その沈黙の間に、屋敷の静けさ――遠くで鳴る時計の音、廊下をすべるように行き交う使用人の足音、暖炉の火がぱちりと弾ける小さな音――を聞いていた。
そこへ、不意に玄関の方がざわめいた。
扉が開く気配。空気が僅かに変わる。外の冷えた匂いが一瞬だけ室内に混じり、すぐに消える。
次の瞬間、レギュラス・ブラックが現れた。
珍しく、昼過ぎの帰還だった。
ローブの裾に外気の名残を纏ったまま、片腕に何枚もの書類束を抱えている。ひと目で分かる。普通の量ではない。
しかも、その束は妙に薄く、異様に収まりが良すぎた――圧縮呪文だ。
レギュラスは歩みながら、まるで息を吐くみたいに杖先を軽く払う。
次の瞬間、圧縮が解けた。
机の上に置かれた途端、書類の束は一気に嵩を増し、雪崩れるように膨れ上がる。
羊皮紙の角が重なり合って、乾いた紙の匂いが立ちのぼり、封蝋の赤や黒がちらりと光った。
まるで、抑えていたものが堰を切って溢れたみたいに。
「……おかえりなさいませ、ブラック様」
ローランドが立ち上がり、一礼する。
言葉はいつもと同じ形で出たはずなのに、胸の奥がほんの少しだけ固くなるのを感じた。
この屋敷の当主が持ち帰る紙束は、単なる書類ではない。権力の重さだ。人の運命の重さだ。
その重さを、当の息子は何ひとつ分からないまま、歓声を上げていた。
「パパ!」
アルタイルは椅子から跳ねるように降り、よちよちと走っていく。
その足取りはまだ頼りなく、転びそうで転ばない危うさがある。けれど本人は誇らしげで、全身が「速く行けた」と主張していた。
レギュラスは、その小さな身体を当然のように受け止め、片腕で抱き上げる。
その動きがあまりにも自然で、一瞬、ローランドは目を逸らしそうになった。
見慣れたはずの光景なのに、胸の奥がざわつく。――この家の家族の日常が、そこにある。
けれど、その日常は、書類の山に吸い寄せられるように、すぐ別の形に変わった。
アルタイルは抱かれたまま机に身を乗り出し、テーブルの上に置かれた書類を数枚つまみ上げる。
薄い紙がひらひらと揺れ、封蝋が光って、子どもの手の中で玩具みたいに踊った。
ローランドは息を飲んだ。
羊皮紙は丈夫とはいえ、折れれば折れ目がつく。破れれば――。そして何より、そこに書かれている内容が、幼子の指先に似合わない。
だが、止めたのはローランドではなかった。
「アルタイル、アルタイル、お願いです。この書類はパパの宝物です。さあ、返してくださいね」
レギュラスは笑っていた。
笑いながら、必死だった。必死さを笑いで包んでいるのが分かる。
低く柔らかな声の中に、焦りが混じる。けれど苛立ちはない。苛立ちを出せば、目の前の幼子はもっと面白がることを、この男は知っている。
アルタイルは、父の声にきゃらきゃら笑って、わざと指を広げた。
紙が一枚、空気を切ってひらりと落ちそうになる。
「……アルタイル様、それは――」
ローランドが思わず声を出しかけた、その瞬間。
「フロスト殿、手伝いをお願いできますか」
レギュラスがローランドを見た。
その瞳は微笑んでいるのに、頼む形で逃げ道を塞ぐのがあまりにも自然で、ローランドは条件反射のように背筋をさらに正した。
「はい。何を致しましょう」
問い返す声は丁寧で、優しい。自分の口調が崩れないことに、ローランドは内心で安堵した。
この屋敷では、声の揺れがそのまま弱点になる気がする。
レギュラスは、アルタイルを片腕に抱いたまま、もう片方の手で紙束をかき集める。
幼子が掴む紙を、焦らず、しかし確実に一本一本ほどいて取り返していく。
その指先は、書類を扱う手でもあり、同時に子どもの機嫌を取る手でもあった。
「監査ですよ、監査。もうじき役員室にも入る噂が出ましたので。整理ができていない書類は直さねばなりません。あなたもわかりますよね?」
わかりますよね、という柔らかな問い。
そこに「断る」という選択肢が含まれていないことを、ローランドは即座に理解した。
レギュラスは命令しない。頼む。尋ねる。相手の口から「はい」と言わせる。そうして、事実だけを積み上げていく。
ローランドは小さく頷いた。
「……ええ。監査は……毎度、手間がかかります」
言葉にした瞬間、記憶が蘇る。
保管場所の記録、保管期限、封印の強度、閲覧履歴の整合性。
些細な抜けでも指摘される。そしてその指摘は、個人の恥では終わらない。部署ごと晒され、委員会で改善報告を出し、対策を発表し、再発防止の誓約まで求められる。
ローランドは、夜更けまでランプの火の下で羽ペンを走らせた手の痛みを思い出した。
紙が擦れる音。インクの匂い。眠気と焦燥。
自分の名が、改善対象として公の議事録に残ることの息苦しさ。
あの時、胸の奥に沈んだ屈辱は、今も薄く残っている。
――監査は、ただの確認ではない。
権力が、無能を選別するための刃でもある。
「……あの、ブラック様」
ローランドが言いかけた瞬間、レギュラスはアルタイルの頬に軽く口づけを落とし、さらりと言った。
「アルタイル、返してくれたら、あとでお菓子を一つだけ。どうです?」
「おかし!」
幼子の目が輝く。
それだけで手が止まり、紙を握る指が緩む。
レギュラスは、ほっとしたように息を吐き、紙束をそっと奪い取った。奪うのではなく、受け取るように。
ローランドは、その手際に、ほんの僅かな眩しさを覚えた。
この男は恐ろしい。けれど恐ろしいだけではない。
息子に対して、こうして本気で機嫌を取り、約束で釣り、笑って懇願する。
その矛盾が、屋敷の空気を妙に現実に引き戻す。
「助かりました、フロスト殿。……それで、あなたには分類をお願いしたい」
レギュラスは机に向き直り、膨れ上がった紙の山を見下ろした。
その横顔には、さっきまでの柔らかさが残っているのに、眼差しだけがもう仕事のものに切り替わっている。
「保管庫に回すもの、役員室に残すもの、閲覧制限付きのもの。ざっくりで構いません。今日はまず形だけ整えたい」
形、という言葉が、ローランドの背を冷やした。
形を整えることが、どれだけ重要で、どれだけ残酷かを知っている。
「承知いたしました」
ローランドは机に近づき、紙束の端に指を添えた。
羊皮紙は冷たく、重い。墨の匂いが微かに立つ。
その重みの中に、魔法省の空気が詰まっているようだった。
アルタイルは父の膝から降りると、また机の周りを回り始めた。
叱られるかと思えば、レギュラスは笑って、軽く肩をすくめる。
「アルタイル、書類はもう触らないでくださいね。今度は本当に泣きますから」
「なくの?」
「泣きます。パパは弱いので」
そんな冗談めいた言葉に、幼子は満足げに頷いて、今度は椅子の脚を叩いて遊び始めた。
その音が、ぽん、ぽん、と規則的に響く。
ローランドは、紙束を手に取りながら、その音を聞いた。
屋敷の午後は穏やかで、光は優しく、家族の気配は静かに満ちている。
――けれど、その中心には、監査という名の刃が置かれている。
穏やかな時間の中で、刃を磨く。
それが、この屋敷の日常なのだと、ローランドは改めて思い知らされる。
そして同時に、こんな日常の中に自分が組み込まれていることが、胸のどこかを痛めた。
望んだわけではない。けれど、もう抜け出せない。
分類する指先の感覚が、現実を確かめるみたいに生々しかった。
レギュラスは、書類の角を整えながら、穏やかな声で言った。
「フロスト殿。あなたがいて助かります。……監査は、嫌いでしょう?」
問いではあるが、答えを知っている声だった。
ローランドは一瞬だけ呼吸を整え、それでも丁寧に微笑んだ。
「ええ。……ですが、必要なことです」
必要。
その言葉が、紙の匂いよりも重く喉に残った。
レギュラスはふわりと笑い、息子の頭を撫でた。
その手が一瞬で父の手から当主の手に変わり、また父の手に戻る。
「では、やりましょう。……恥を晒すのは、嫌ですからね」
その恥が、誰のものを指しているのか。
ローランドは考えないようにした。考えた途端、胃の奥が冷たくなる気がしたから。
机の上で、紙が擦れる音が続く。
幼子の遊ぶ音がその合間に混じる。
午後の光が、羊皮紙の縁を淡く照らしていた。
高い窓の向こうでは空が薄い鉛色に沈み、遠くで羽ペンの擦れる音や、廊下を急ぐ靴音が規則正しく流れていくのに――この部屋の中だけは、厚い絨毯と重い木製家具が、音も匂いも感情も、静かに飲み込んでしまう。
執務机の上には処理しきれない書類が積まれていて、封蝋の赤がいくつも目に刺さる。几帳面に整えられているはずのそれらが、数日ぶりに戻ってきた自分の目には、やけに乱雑に見えた。
自分が乱れているのだ、と分かっている。
扉がノックされる。
「失礼します」
入ってきたのは、いつも通りのバーテミウスだった。顔色ひとつ変えず、部屋の空気を軽く撫でるように入ってくる。手には控えめな束の書類。けれど、その目だけが、さりげなくこちらを測っていた。
「……戻りましたね」
バーテミウスが言う。
椅子に腰掛ける前から、もう“空白”を数えている口調だ。
「数日休みました」
レギュラスは封書を一枚指先で回しながら答える。自分の声が、普段より少しだけ乾いている気がした。
「理由も、聞きたいですか」
「聞かなくても分かります」
バーテミウスは肩をすくめる。
「本当にあなたがたはエンタメに富んでいらっしゃる」
「笑い事じゃありませんよ」
レギュラスは微笑むだけに留めた。微笑みの形だけは崩れない。崩せば、心の中で積み上げたものが雪崩れる。そういう危うさが、まだ指先に残っていた。
バーテミウスは机の端に書類を置いてから、さも何気ない調子で言った。
「……よく許しましたね」
その言葉が、静かな刃みたいに刺さる。
許した、と言えるのか。許したことにして、形を整えただけではないのか。
あの夜、あの朝、あの顔を見て――結局、折れたのはどちらだったのか。
レギュラスは息を吐いて、指先で眉間を押さえた。
「本当に……あの顔に弱い……」
口にした瞬間、自分で自分が情けなくて、笑うしかなかった。喉の奥で乾いた笑いが転がり、すぐに消える。自分の笑い声が、この重い部屋の壁に吸われていくのが分かる。
バーテミウスが目を細める。
「弱い、ですか」
「そうでしょう」
レギュラスは言って、目線を落とした。
書類に並ぶ文字が、急に意味を持たない模様に見えてくる。
自分はこの数日間、ここにあるべきだった。役員として。上に立つ者として。世界の秩序を回す者として。――それなのに、自分をここから引き剥がしたのは、たった一人の女の表情だった。
初めて夜会で彼女を見つけた時のことが、ふいに鮮明に蘇る。
豪奢なシャンデリアの光の下、香水と魔法灯の匂いが混ざり合う中で、彼女は驚くほど静かに立っていた。騒がしい社交の渦の外側にいるのに、視線だけは引き寄せられてしまう。
翡翠の瞳。整いすぎた輪郭。笑うでもなく、怯えるでもなく、ただ礼儀をまとってそこにいる顔。
あの瞬間から、どうしようもなく惹かれてしまった。
一曲ダンスを申し込んだ時、指先が彼女の手袋に触れた――その薄い布越しの温度だけで、胸の奥が痛いほど満たされた。
手に入れたくて、欲しくて、奪いたくて。
自分のものにしなければ、息ができないとさえ思った。
だから半ば強引に婚姻の手筈を整え、屋敷へ連れてきた。
正しい手続きを踏んだ、という形にして。
誰も反論できない条件を積んで。
彼女の未来がどこへ向かうかを、こちらの掌の上に置いてしまった。
――それでも、足りなかった。
手に入れた瞬間に満ちるはずだったものは、いつも一瞬で砂になって、指の隙間から落ちていく。
抱いても、口づけても、跪かせても。
“自分だけを見ろ”という願いだけが、薄くもならず濃くもならず、ずっと胸の同じ場所で脈を打ち続ける。
「いっそ」
レギュラスは、呟くように言った。自分の声が、ふいに冷たくなるのが分かる。
「いっそ、あの顔を……ぼこぼこにでもしてしまえたら。諦めがつくし、手放せるだろうか、だなんて考えます」
言い終えた瞬間、胸のどこかがきしんだ。
本気でそうしたいわけじゃない。
本気でそうしてしまったら、自分が何を失うか分かりきっている。
それでも、ふっと脳裏を過る。
あの整いすぎた顔が、あまりにも自分に効きすぎるから。
美しさが、武器になっている。
それが許せない。
許せないのに、そこから逃げられない。
バーテミウスは咎めるでも笑うでもなく、しばらく黙っていた。沈黙の使い方が上手い男は、慰めもしない代わりに、こちらの呼吸が整うのを待つ。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……結局、手放せないでしょう」
レギュラスは答えない。
答えないことが答えだった。
手放せない。
腹が立つほど、どうしようもなく。
自分の人生を、権力を、秩序を、すべて当然のように掌握してきたはずなのに。
たった一人の女の顔色ひとつで、日程も判断も呼吸の速度も狂う。
それが屈辱で、同時に甘い。
レギュラスはペンを取り上げ、机上の一枚に署名を落とした。インクが紙に染みる音が、小さく耳に残る。
「……仕事に戻りましょう。こうしている間にも、世界は勝手に進みます」
「ええ」
バーテミウスが頷く。
そして、わざとらしく軽い声で言った。
「ただ、次に数日消える時は――せめて休暇届くらいは出してからにしてください。面倒なんですよ、あなたの穴を埋めるのは」
「検討します」
レギュラスは微笑んだ。
その微笑みが、どこまで本物なのかは、自分でも分からなかった。
けれど確かなのは。
この部屋の冷たい静けさの中でさえ――ふとした瞬間、脳裏に浮かぶのは、あの女の顔だということ。
謝罪の言葉を吐きながら泣いていた顔も、意地を張って黙り込んだ顔も、息子を抱いて笑った顔も。
そして、自分が「許した」と錯覚してしまうほど、柔らかく正しい妻を演じた顔も。
自分は結局、あれに弱い。
弱いからこそ、もっと確かめたくなる。
逃げられないように、縛りたくなる。
それが愛なのか、執着なのか。
今は、呼び分ける気にもなれなかった。
夕暮れが屋敷の長い廊下をゆっくりと沈めていく頃、暖炉の火だけが生き物みたいに息をしていた。
窓の外はもうほとんど藍色で、庭の噴水も、昼間のきらめきを手放して、ただ静かな輪郭だけを残している。屋敷の中は、昼に比べればいくらか柔らかい。使用人の足音も控えめで、銀器の触れ合う微かな音さえ、どこか遠くに感じられる。
アルタイルは床に座り、膝の上に小さな木箱のような知育玩具を抱えていた。
木の枠には細い溝がいくつも走っていて、そこに嵌まった小さな輪や棒が、こちらの思い通りには動いてくれない。アルタイルは舌を出しかけるほど真剣な顔で、指先を必死に滑らせている。
その姿だけは、いつもの屋敷の重たさから切り離された、明るいものだった。
レギュラスはローブの襟をほどきながらその光景を見つけ、呼吸をひとつ整えた。
今日はローランドが職務をこなし、もう帰っている。――その事実が、胸の奥に落ち着きを与えるはずだった。
けれど、落ち着きの代わりに、違うものが残る。ひりつき。余韻。拭っても拭っても戻ってくる、細い棘。
アランは少し離れた椅子に腰掛けていた。髪をゆるくまとめ、袖口を整えながら、アルタイルの手元を見守っている。母親としての柔らかな目。けれど、それは柔らかいだけではない。
どこまでも整ったまま、どこまでも崩れない。
その完璧さが、時折、腹立たしいほどだった。
レギュラスは歩み寄り、声を落とす。
「……何もしませんでした?」
問いが落ちた瞬間、部屋の空気がほんの少しだけ硬くなる。火の弾ける音がやけに耳についた。
アランは顔を上げる。まつ毛が影を落として、その翡翠の瞳が一瞬だけ揺れる。ほんの一瞬。すぐに礼儀の形に戻る。
「はい」
短い返事。濁りのない、あまりにも正しい返事。
それだけで終わるはずがない問いだと、互いに分かっている。
分かっているのに、そこで止める。
止められたことが、余計に喉の奥をざらつかせる。
レギュラスはそのまま言葉を継がず、視線をアルタイルに移した。自分の中の刃が、この場に似合わないことは分かっている。息子の前だ。息子の前で自分が乱れる姿ほど、みっともないものはない。
アルタイルが、ぐっと玩具を引き寄せた。
「む」
小さく唸るような声。
うまくいかないことに、悔しさが混じる。その表情があまりにも真剣で、レギュラスの口元が、思わず緩んだ。
「難しそうなものを触ってますね、アルタイル」
そう言って、レギュラスは膝を折り、床に座る。息子と同じ高さになる。
アルタイルはぱっと顔を上げ、父の存在を確認すると、誇らしげに玩具を差し出した。まるで「見て」と言っているみたいに。
レギュラスはそれを受け取り、木の表面を指先で撫でた。滑らかに磨かれている。けれど、仕掛けは意地が悪い。輪は一方向にしか動かず、棒はある位置でしか抜けない。
自分はこういうものに、夢中になるつもりはなかった。
ただ息子に合わせて、少し触って、笑って、終わるはずだった。
――なのに。
思ったほど簡単には外れない。
角度を変える。指先に力を込める。輪を回す。棒を押す。
外れない。
外れない、外れない、外れない。
「……」
息を吸う。
小さな木の輪が、まるでこちらを嘲るみたいに、ぴたりと止まったまま動かない。
苛立ちが、足元から這い上がってくる。
こんな玩具ごときに?
と自分で思うのに、指先が止まらない。
止められない。
もっと強く。もっと正確に。もっと、思い通りに。
「なんなんです、これ……」
レギュラスの声が、少しだけ尖る。
自分でも分かる。今の声の温度はよくない。
輪をひねる。木が軋むほどに力が入る。
アルタイルが目を丸くして見ている。父の手が大きすぎて、玩具が可哀想に見えるくらいだ。
「壊しますよ、これ」
口から滑った言葉は、冗談の形をしていながら、本当に冗談なのか分からない色を帯びていた。
その瞬間、アランがすっと隣に座り込む気配がした。
床に膝をつく布の擦れる音が、やけに鮮明に響いた。
「レギュラス、やめてください」
声は強くない。叱る声でもない。
それでも、芯がある。はっきりと止める声だった。
レギュラスの指先が止まる。
壊す、という言葉の先にあるものを、彼女は知っている。
玩具の話ではない。
自分の中で何かが壊れかけていることを、たぶん、アランは見抜いている。
アルタイルは、父と母の顔を交互に見た。小さな眉が不安そうに寄る。
その表情を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと縮む。
――息子の前で、何をしている。
――息子の前で、どこまで自分を崩すつもりだ。
レギュラスはゆっくりと息を吐いた。吐息が、暖炉の熱に溶ける。
玩具を抱えたままの手が、微かに震えていることに、自分で気づいてしまう。情けなくなる。
たったこれだけのことで苛立つ自分が。
息子の前だというのに、感情の制御が利かない自分が。
自分のメンタルが、どれだけこの数日で掻き乱されたか――
今、こんなところで、こんな形で突きつけられるとは思わなかった。
レギュラスは玩具をそっと床に置き、アルタイルの小さな手の近くへ戻す。
「……すみませんね、アルタイル。少し手が大きすぎました」
柔らかく言い直す。声の形を整える。
アルタイルはまだ少し不安そうだったが、玩具を取り戻すと、また指先を動かし始めた。
その小さな執念が、眩しい。
アランはレギュラスを見た。
何か言いたげな視線。抗議とも、心配ともつかない。
けれど、言葉にはしない。
言葉にしないことで、互いの傷口に触れないようにしている。
その沈黙の慎重さが、逆に、心をざらつかせる。
レギュラスは、床に座ったまま、アルタイルの横顔を見つめる。
息子の頬はまだ柔らかく、まつ毛は長く、集中すると口が少し尖る。
自分とアランの間に生まれた命。
この屋敷の跡取り。
守るべきもの。
――愛しいもの。
なのに、自分の心は、守るべきものの前でさえ揺れる。
揺れて、みっともなく露呈する。
レギュラスは掌を軽く握りしめた。
「……今日はもう、終わりにしましょう」
誰に言うでもなく、そう呟く。
玩具に、ではない。
自分の中の、尖った何かに向けて。
アランが、ほんのわずかに目を伏せた。
その仕草だけで分かる。
彼女もまた、終わらせたいのだ。
静かな夜に戻したいのだ。
息子が安心して眠れる夜に。
その願いが、なぜこんなにも苦いのか。
なぜこんなにも、胸の奥を締めつけるのか。
レギュラスはアルタイルの髪にそっと触れた。
触れるだけ。撫でるだけ。
それだけの優しさを、自分が今いちばん必要としているみたいだった。
扉が閉じた瞬間、寝室の空気が少しだけ重く沈んだ。
屋敷の夜は静かだ。廊下の向こうで、使用人が灯りを落としていく気配がする。遠くで誰かが銀器を片づける微かな音がして、それが途切れると、世界から音が消えたみたいに感じられる。
自分はローブを脱ぎ捨てるように肩から滑らせ、椅子の背に乱暴に掛けた。
たったそれだけの動作にさえ、苛立ちが滲む。苛立っていると悟られるのも癪なのに、隠す努力をすることすら面倒で、身体の方が先に反応してしまう。
寝台の端に座っていたアランが、そっと顔を上げた。
翡翠の瞳が、こちらを測るように一瞬揺れ、それからすぐ、いつもの妻の顔に戻る。崩れない。乱れない。
その完璧さが、時に腹立たしいのに――今夜は、逆にそれが救いになる。
「……おかえりなさい、レギュラス」
声は柔らかく、喉を撫でるような音色だった。
ただそれだけで、胸の奥のざらつきが少しだけ薄まるのが分かって、余計に腹が立つ。
自分は返事をしなかった。
しないまま、カフスに指をかける。ボタンが固くて外れない。指先に力が入る。
まただ。こんな些細なことに、苛立ちが噴き上がる。息子の知育玩具に向けたあの衝動が、まだ指の腹に残っているみたいだった。
「……お手伝い、しましょうか」
アランはそう言って、立ち上がる。足音が絨毯に沈み、気配だけが近づいてくる。
拒むべきなのに、拒みたくない。
拒んでしまえば、この女はまた、何もなかったみたいに引いていく。距離を作って、礼儀だけで自分を包み、手の届かない場所に置き直す。
それを許すくらいなら、いっそ、手を伸ばしてしまった方がまだ楽だ。
「……どうぞ」
許可の言葉は淡い笑みで包んだ。柔らかい形に整えて。
アランは自分の手元に屈み、指先でカフスに触れる。
冷たい宝石の縁に、彼女の体温が重なる。
その距離が、近い。近すぎるのに、彼女の所作はどこまでも慎重で、揺らさない。まるで壊れ物を扱うみたいに。
ボタンが外れた。
次の瞬間、アランが自分の手首をほんの少し持ち上げ、袖口を整える。その仕草が、あまりにも丁寧で、胸の奥が勝手に満たされていく。
ムカつく。
こんなふうに、こちらの機嫌を取るために動く顔を見せるなら、最初からそうすればいい。
そうすれば、自分だって余計な棘を出さずに済むのに。
そう思うのに、同時に、こうして努力している姿を見るのが心地よくて仕方がないのだ。
アランは視線を上げないまま言う。
「……今日、何かありましたか」
問いかけは穏やかで、けれど逃げ道を用意している。答えたくなければ、答えなくてもいい、と。
その配慮が、また癪に障る。
自分の機嫌を取ろうとしているくせに、こちらの牙を抜こうとしない。
こういうところが、憎たらしいほど賢い。
「何も」
短く返す。
それで終わらせたいのに、終わらない。
アランの指先が、今度はネクタイの結び目に触れた。ほどくつもりらしい。
彼女が近づく気配が少し濃くなって、自分の呼吸が僅かに浅くなる。
それを悟られたくなくて、目線だけで彼女を牽制する。
けれどアランは、牽制されたことを知りながら、そのまま続けた。
丁寧に結び目を緩める。布が擦れる微かな音が、妙に生々しく耳に残る。
「……随分と、頑張りますね」
自分の声が、皮肉と甘さの間で揺れる。
優しくしたいのか、刺したいのか、自分でも分からない。
アランはほんの少しだけ口元を緩めた。
笑うには至らない。けれど、硬い空気をほどくための、精一杯の表情。
「頑張っているつもりは、ありません」
そう言って、ネクタイを外し終える。
「ただ……今夜のあなたが、少し……」
言葉が途切れる。続き方を選んでいるのが分かる。
賢い女だ。最も火傷しない言葉を探している。
自分は、待たずに口を挟んだ。
「少し? 何です」
柔らかい声で詰める。逃げ道を塞ぐ。いつもの癖だ。
アランの喉が小さく動く。
それでも彼女は、視線を落としたまま答えた。
「……お疲れに見えました。苛立っているようにも」
そして、少しだけ間を置いて、まっすぐに続ける。
「……私にできることがあるなら、したいと思いました」
その言い方が、あまりにも正しい。
正しい妻の言葉。正しい献身。正しい距離。
だから余計に、胸の奥が熱くなる。腹が立つ。心地がいい。どちらも本物だ。
レギュラスは椅子に深く腰を下ろし、アランを見上げた。
彼女は美しいまま立っている。
この屋敷の中で、最も高価で、最も繊細で、最も自分のものになった存在。
その存在が、一生懸命こちらの機嫌を取ろうとしている。
ムカつくようでいて、心地が良い。
この矛盾が、自分をいちばん満たす。
「僕の機嫌を取ろうとしてるんですか、アラン」
問いは優しい形をしている。けれど刃が混じっている。
肯定したら、負け。否定したら、嘘。
アランは一瞬だけ目を伏せた。
それから、翡翠の瞳をこちらに向ける。
真正面からではなく、少し斜めに。逃げ道を残したまま。
「……はい」
小さな声だった。
「あなたが……落ち着けるなら、その方がいいと思います」
その瞬間、胸の奥が、じわりと甘く満たされる。
言わせた、という満足。
引き出した、という勝利。
それなのに、同時に、彼女がこうして素直に言葉を差し出してくることに、どこか冷めた苛立ちも湧く。
都合のいい時だけ、こうして整ったものを差し出す。
それが彼女の強さで、ずるさで、自分の手の中で一番厄介なところだ。
アランはそっと、ローブの皺を伸ばした。
指先が胸元を滑る。
触れ方は控えめなのに、触れられているという事実が、皮膚の内側で大きく膨らむ。
「お茶を淹れましょうか」
「……今さら」
「今さらでも。温かい方が、眠りやすいでしょう」
それが命令ではないのが、また腹立たしい。
してあげるではなく、提案として差し出してくる。
いつでも引ける形で。いつでも逃げられる形で。
その余白が、こちらの支配欲を刺激する。
「……淹れて」
わざと短く言った。許可の形で。
アランは頷き、すぐに動こうとする。
その背中を見送るのが嫌で、自分は反射的に彼女の手首を取った。
強くは握らない。ただ、逃がさない程度に。
アランが驚いて振り向く。
その表情が、ほんの少しだけ柔らかい。
自分の気分を損ねないように、驚き方まで整えているのが分かる。
「……どこへ行くんです」
問いはくだらない。分かっているくせに。
止めたいだけだ。
「お茶を」
「ここで」
「……ここで?」
「離れないでください」
言った瞬間、自分の中にある子どもじみた部分が露呈して、少しだけ気まずい。
けれど、アランが拒まないことが分かっていた。
だから言えた。言ってしまった。
アランは小さく息を吐き、首を縦に振った。
「……はい」
その返事が、すでに機嫌取りだ。
心地が良い。胸の内側が、滑らかに撫でられていく。
アランはテーブルのベルを鳴らし、使用人に指示を出す。
それから戻ってくると、自分の前に膝をつくでもなく、椅子の横に静かに立ったまま、ただこちらを見た。
何かを求めるでもない。
何かを迫るでもない。
でも、逃げない。
「……見られると落ち着きません」
レギュラスがそう言えば、彼女が照れたように笑った夜があった。
けれど今夜は自分が見られている側だ。
見透かされそうで、腹が立つ。
アランは視線を逸らさず、でも刺さるほど強くもなく、ちょうどいい温度で見つめ返してくる。
「落ち着かないのは……私のせいですか」
「……さあ」
「なら、少しだけ……」
言葉がまた途切れる。選ぶ。探す。
「……触れても、いいですか」
許可を求める言い方。
それが、たまらなく腹立たしくて、たまらなく愛しい。
「好きにすればいい」
そう言って、腕を広げるでもなく、ただ椅子に身を預けた。
受け入れる形を作らない。
けれど拒まない。
その曖昧さが、自分の意地だった。
アランは一歩だけ近づき、指先でレギュラスの頬に触れた。
ほんの一瞬、撫でるように。
それから、額に落ちた前髪を整える。
子どもを扱うみたいな優しさ。
その優しさが、胸の奥のざらつきを確実に溶かしていくのが分かる。
ムカつく。
こんな小さなことで、ほどけてしまう自分が。
でも、やはり心地が良い。
この美しい妻が、一生懸命、こちらの機嫌を取るために動く姿は。
自分が彼女を手に入れた証明みたいで。
彼女がここにいるという勝利みたいで。
「……偉いですね、アラン」
褒めているようでいて、試している声音。
余計な棘が、どうしても混じる。
アランは困ったように笑った。
「偉くはありません。ただ……」
そして、少しだけ言いにくそうに続ける。
「……あなたが、機嫌を悪くしているのは……苦しいです」
その言葉だけは、整いすぎていなかった。
ほんの少しだけ、生身の温度があった。
だから、自分の胸が、ちくりとした。
レギュラスはアランの手首を取り、指先に口づけた。
甘くもなく、荒くもなく、ただここに置くみたいな口づけ。
彼女の指が少し震えるのが伝わる。
「苦しい?」
問い返す。
「僕の機嫌が悪いと?」
逃げ道を塞ぐように、優しく詰める。
アランは目を伏せ、短く頷いた。
「はい」
それが、また心地いい。
この女が、自分の機嫌を気にしているという事実が。
一生懸命に“取ろうとしている”という事実が。
使用人がノックをし、銀のトレイを運んできた。
温かな湯気が立ちのぼり、茶の香りが寝室に満ちる。
その香りが、夜の鋭さを少しだけ丸くする。
アランはカップを受け取り、そっと自分の前に差し出した。
その手つきは丁寧で、繊細で、どこまでも美しい。
まるで、壊れてしまいそうなものを扱うみたいに。
自分はカップを受け取り、ひと口含んだ。
熱が喉を通り、胸の内側に落ちる。
それだけで、身体の奥が落ち着く。
「……どうですか」
アランが小さく尋ねる。
褒めてほしいのが見え透いているのに、媚びる匂いがしない。
それがまた、腹立たしくて、好ましい。
「悪くないです」
自分がそう言うと、アランの肩がほんの少しだけ緩んだ。
見えない程度の安堵。
それを見つけるのが、妙に楽しい。
レギュラスはカップを置き、アランの腰を引いた。椅子の横に、無理やり引き寄せるのではなく、膝の間に収めるように。
アランは驚いたが、抵抗しない。
その従順さが、また胸を満たす。
「……そんなに僕の機嫌を取って、どうするつもりです?」
レギュラスは微笑んで尋ねる。
優しい形の問いに、確かな棘を混ぜる。
アランは少しだけ頬を赤らめ、視線を逸らした。
それでも、逃げずに言う。
「……あなたが、落ち着くなら。それでいいです」
その答えは、正解すぎて。
腹立たしいのに。
やはり、心地よかった。
レギュラスはアランの髪に口づけた。
さっきまでの苛立ちが嘘みたいに、指先が柔らかくなる。
彼女の努力が、確かに自分をほどいていく。
その事実が、癪で。
けれど、甘くて。
「……本当に」
レギュラスは息を吐き、囁く。
「あなたは、僕の扱い方だけ上手くなる」
アランは苦笑して、そっとこちらの肩に額を寄せた。
それは降参でも、屈服でもない。
ただ、嵐を鎮めるための、静かな選択だった。
その選択をさせているのが自分だと分かっているから、余計に気持ちがいい。
ムカつくようでいて、どうしようもなく満たされる。
この矛盾の中でしか生きられない自分を、アランは黙って支えようとする。
それが、今夜はいちばん――心地よかった。
昨夜の甘さが、まだ指先に残っている気がした。
夜が明けても、胸の奥に溶けきらずに沈んでいる、ぬるい熱のようなもの。屋敷の朝はいつもと変わらず淡々としているのに、自分の内側だけが妙に満たされていて、呼吸のたびにそれが広がる。
眠りにつく寸前まで、アランは目を逸らさなかった。
機嫌を取るという言葉の軽さでは収まらないほど、丁寧に、柔らかく、こちらの感情の角を撫で続けてくれた。
それだけでいい。そう思えるほど、昨夜は静かに満ちた。
だから朝になっても、いつもの勝ちたがりの苛立ちは顔を出さない。棘の代わりに、余韻だけが残っている。
廊下は明るかった。窓の外の白い光が、カーテンの隙間から薄く差し込んで、絨毯に淡い線を引いている。
屋敷全体が朝の気配で起き上がっていく音がする。銀器が遠くで触れ合う、小さな澄んだ音。湯気の上がる匂い。焼いたパンの香ばしさ。
食堂に足を踏み入れた瞬間、目に入った光景が、今日の機嫌の良さをさらに確かなものにした。
すでにローランド・フロストがいた。
長い食卓の端、窓際に近い椅子に腰をかけ、幼いアルタイルの手を引いている。絵本を開き、低く落ち着いた声で読み聞かせていた。
言葉の選び方も、抑揚の付け方も、どこまでも丁寧で、まるでそのまま一つの授業のように整っている。子どもが飽きないように、けれど過剰に甘やかさない。あの男らしい誠実さが、そこにそのまま滲んでいた。
アルタイルは、絵本の挿絵を指で辿りながら、食い入るように見つめている。小さな眉間に一瞬だけ力が入り、次の瞬間にはぱっとほどける。
「ここ、もういっかい」
子どもの声が弾み、ローランドが小さく笑ってページを戻した。
「もちろんです、アルタイル様。では、ゆっくり……」
その平和なやりとりを見た瞬間、自分の口元が、勝手に緩む。
どこかで刺さるはずのものが刺さらない。苛立つべき場面なのに、今日はただ穏やかだ。昨夜の余韻が、鈍い鎧みたいに心を守っている。
「おはようございます、フロスト殿」
声に棘は混ざらなかった。皮肉もない。
それが自分にとってどれほど珍しいことかを、わざわざ意識する必要もないくらい、自然に出た。
ローランドはすぐに顔を上げ、椅子から立ち上がりかける気配を見せたが、アルタイルの手を握ったまま、礼を整えるだけに留めた。
「おはようございます、ブラック様」
――次の瞬間だ。
「パパ!」
アルタイルが弾かれたように立ち上がり、絵本を投げ出しそうな勢いでこちらに駆けてくる。よちよちとした足取りはまだ危なっかしいのに、気持ちだけは飛ぶように早い。
ローランドが反射的に手を伸ばすが、もう間に合わない。
小さな身体が自分の脚にぶつかり、そのまま抱きついてくる。
その重みが、驚くほど愛しい。
息子の体温が、昨夜の甘さとは別の種類の温度で胸の奥に落ちる。
「アルタイル。絵本を読んでもらっていたのなら、最後まで聞きましょうね」
叱るのではなく、整えるように言った。
しつけという言葉は堅いが、この屋敷では堅さが秩序になる。息子が途中で投げ出す癖を覚えれば、それはいつか別の場面で必ず響く。
アルタイルは一瞬だけ唇を尖らせた。
けれどすぐ、自分の顔を見上げて、素直に頷く。
「うん……さいごまで」
「ええ、とんでもございません」
ローランドがすぐに口を挟む。恐縮しすぎるほどの声。
自分は笑うでもなく、ただ穏やかに首を振った。
「しつけの一つです。途中で投げ出さないよう、見ていてあげてくださいね、フロスト殿」
命令ではない。お願いでもない。
淡々とした依頼の形。上官の口ぶりとしても、家の当主としても、ちょうどいい温度に整えて落とす。
ローランドは一拍置いて、深く頷いた。
「承知いたしました、ブラック様」
そのやりとりをしているうちに、食卓の向こうから足音が近づいた。
扉の前で使用人が控えめに動き、食器が静かに並べ替えられる。朝の光が皿の縁に反射して、白い点を跳ねさせる。
アランが入ってきた。
いつ見ても、息を呑むほど整っている。
髪はきちんとまとめられていて、肌には朝の光がやわらかく滲む。疲れの影など、どこにも見せない。
それが努力だと知っていても、それでも美しいものは美しい。見ているだけで満たされる。手に入れたという事実が、胸の奥を静かに震わせる。
「レギュラス、おはようございます」
その声に返事を返すより先に、自分の身体が動いた。
歩み寄って、彼女の腰を軽く引き寄せ、唇を重ねる。
ほんの短い、朝の挨拶の代わりの口づけ。けれど、しっとりとした感触が残り、昨夜の余韻がそこに繋がっていく。
アランは目を丸くしたまま、すぐに小さく笑った。
「……リップが、あなたの唇に移っていますよ」
言われて初めて気づく。
自分は親指で唇の端を拭った。指先に、薄いピンクが淡く付く。
その色味が妙に生々しくて、そして滑稽でもあって、自然と顔が緩む。
「本当だ」
言葉が柔らかくなる。
自分でも分かるほど、声の角が丸い。
昨夜、アランが自分の機嫌を取るために差し出してきた言葉や仕草が、今もまだ胸の底で温かく揺れている。
アランは自分の親指についた色を見て、わずかに頬を染めた。
恥ずかしさを隠すように視線を逸らしながら、それでも逃げずにそこにいる。
その控えめな照れ方が、完璧すぎない人間の温度で、余計に可愛らしく見えてしまう。
ふと、視界の端でローランドが視線を落とすのが見えた。
配慮として逸らしたのか、ただ居心地の悪さを飲み込んだのか。
今日の自分は、そのどちらでも構わなかった。
ローランドがいようと。
過去がどれほど醜かろうと。
今日は機嫌がいい。
昨夜の甘さがまだ残っていて、朝の光がそれをより薄く広げる。
アルタイルの小さな手が自分の服の裾を握り、アランの指先が食卓の縁に添えられる。
家族の輪郭が、いつもより少しだけ穏やかに見える。
レギュラスは息子の頭を軽く撫で、アランの手元に視線を落としてから、ゆっくりと席についた。
銀器の音が静かに響き、温かな湯気が朝の空気に溶けていく。
この瞬間だけは――
この屋敷の全てが、正しい場所に収まっている気がした。
その日、屋敷の空気は昼の光に馴染んでいた。
窓から差し込む薄い日差しが、床の木目と、机の上の角ばった影をやわらかく伸ばしている。
ローランド・フロストは、いつものように背筋を正して、アルタイルの向かいに座っていた。
小さな指が並べた数の石――黒曜のように艶のある小片を、幼い主はまるで宝石を扱うように丁寧に動かす。
ひとつ置いて、もうひとつ置いて、首を傾げる。その真剣さが可笑しくて、同時に胸が温かくなる。
「では、こちらとこちら。いくつになりますか、アルタイル様」
「……えっと、……」
小さな唇が動き、数を口の中で転がすように考える。
ローランドは答えを急がせなかった。急かさないことは、幼い者に対する礼儀であり、誠意でもある。
彼は、その沈黙の間に、屋敷の静けさ――遠くで鳴る時計の音、廊下をすべるように行き交う使用人の足音、暖炉の火がぱちりと弾ける小さな音――を聞いていた。
そこへ、不意に玄関の方がざわめいた。
扉が開く気配。空気が僅かに変わる。外の冷えた匂いが一瞬だけ室内に混じり、すぐに消える。
次の瞬間、レギュラス・ブラックが現れた。
珍しく、昼過ぎの帰還だった。
ローブの裾に外気の名残を纏ったまま、片腕に何枚もの書類束を抱えている。ひと目で分かる。普通の量ではない。
しかも、その束は妙に薄く、異様に収まりが良すぎた――圧縮呪文だ。
レギュラスは歩みながら、まるで息を吐くみたいに杖先を軽く払う。
次の瞬間、圧縮が解けた。
机の上に置かれた途端、書類の束は一気に嵩を増し、雪崩れるように膨れ上がる。
羊皮紙の角が重なり合って、乾いた紙の匂いが立ちのぼり、封蝋の赤や黒がちらりと光った。
まるで、抑えていたものが堰を切って溢れたみたいに。
「……おかえりなさいませ、ブラック様」
ローランドが立ち上がり、一礼する。
言葉はいつもと同じ形で出たはずなのに、胸の奥がほんの少しだけ固くなるのを感じた。
この屋敷の当主が持ち帰る紙束は、単なる書類ではない。権力の重さだ。人の運命の重さだ。
その重さを、当の息子は何ひとつ分からないまま、歓声を上げていた。
「パパ!」
アルタイルは椅子から跳ねるように降り、よちよちと走っていく。
その足取りはまだ頼りなく、転びそうで転ばない危うさがある。けれど本人は誇らしげで、全身が「速く行けた」と主張していた。
レギュラスは、その小さな身体を当然のように受け止め、片腕で抱き上げる。
その動きがあまりにも自然で、一瞬、ローランドは目を逸らしそうになった。
見慣れたはずの光景なのに、胸の奥がざわつく。――この家の家族の日常が、そこにある。
けれど、その日常は、書類の山に吸い寄せられるように、すぐ別の形に変わった。
アルタイルは抱かれたまま机に身を乗り出し、テーブルの上に置かれた書類を数枚つまみ上げる。
薄い紙がひらひらと揺れ、封蝋が光って、子どもの手の中で玩具みたいに踊った。
ローランドは息を飲んだ。
羊皮紙は丈夫とはいえ、折れれば折れ目がつく。破れれば――。そして何より、そこに書かれている内容が、幼子の指先に似合わない。
だが、止めたのはローランドではなかった。
「アルタイル、アルタイル、お願いです。この書類はパパの宝物です。さあ、返してくださいね」
レギュラスは笑っていた。
笑いながら、必死だった。必死さを笑いで包んでいるのが分かる。
低く柔らかな声の中に、焦りが混じる。けれど苛立ちはない。苛立ちを出せば、目の前の幼子はもっと面白がることを、この男は知っている。
アルタイルは、父の声にきゃらきゃら笑って、わざと指を広げた。
紙が一枚、空気を切ってひらりと落ちそうになる。
「……アルタイル様、それは――」
ローランドが思わず声を出しかけた、その瞬間。
「フロスト殿、手伝いをお願いできますか」
レギュラスがローランドを見た。
その瞳は微笑んでいるのに、頼む形で逃げ道を塞ぐのがあまりにも自然で、ローランドは条件反射のように背筋をさらに正した。
「はい。何を致しましょう」
問い返す声は丁寧で、優しい。自分の口調が崩れないことに、ローランドは内心で安堵した。
この屋敷では、声の揺れがそのまま弱点になる気がする。
レギュラスは、アルタイルを片腕に抱いたまま、もう片方の手で紙束をかき集める。
幼子が掴む紙を、焦らず、しかし確実に一本一本ほどいて取り返していく。
その指先は、書類を扱う手でもあり、同時に子どもの機嫌を取る手でもあった。
「監査ですよ、監査。もうじき役員室にも入る噂が出ましたので。整理ができていない書類は直さねばなりません。あなたもわかりますよね?」
わかりますよね、という柔らかな問い。
そこに「断る」という選択肢が含まれていないことを、ローランドは即座に理解した。
レギュラスは命令しない。頼む。尋ねる。相手の口から「はい」と言わせる。そうして、事実だけを積み上げていく。
ローランドは小さく頷いた。
「……ええ。監査は……毎度、手間がかかります」
言葉にした瞬間、記憶が蘇る。
保管場所の記録、保管期限、封印の強度、閲覧履歴の整合性。
些細な抜けでも指摘される。そしてその指摘は、個人の恥では終わらない。部署ごと晒され、委員会で改善報告を出し、対策を発表し、再発防止の誓約まで求められる。
ローランドは、夜更けまでランプの火の下で羽ペンを走らせた手の痛みを思い出した。
紙が擦れる音。インクの匂い。眠気と焦燥。
自分の名が、改善対象として公の議事録に残ることの息苦しさ。
あの時、胸の奥に沈んだ屈辱は、今も薄く残っている。
――監査は、ただの確認ではない。
権力が、無能を選別するための刃でもある。
「……あの、ブラック様」
ローランドが言いかけた瞬間、レギュラスはアルタイルの頬に軽く口づけを落とし、さらりと言った。
「アルタイル、返してくれたら、あとでお菓子を一つだけ。どうです?」
「おかし!」
幼子の目が輝く。
それだけで手が止まり、紙を握る指が緩む。
レギュラスは、ほっとしたように息を吐き、紙束をそっと奪い取った。奪うのではなく、受け取るように。
ローランドは、その手際に、ほんの僅かな眩しさを覚えた。
この男は恐ろしい。けれど恐ろしいだけではない。
息子に対して、こうして本気で機嫌を取り、約束で釣り、笑って懇願する。
その矛盾が、屋敷の空気を妙に現実に引き戻す。
「助かりました、フロスト殿。……それで、あなたには分類をお願いしたい」
レギュラスは机に向き直り、膨れ上がった紙の山を見下ろした。
その横顔には、さっきまでの柔らかさが残っているのに、眼差しだけがもう仕事のものに切り替わっている。
「保管庫に回すもの、役員室に残すもの、閲覧制限付きのもの。ざっくりで構いません。今日はまず形だけ整えたい」
形、という言葉が、ローランドの背を冷やした。
形を整えることが、どれだけ重要で、どれだけ残酷かを知っている。
「承知いたしました」
ローランドは机に近づき、紙束の端に指を添えた。
羊皮紙は冷たく、重い。墨の匂いが微かに立つ。
その重みの中に、魔法省の空気が詰まっているようだった。
アルタイルは父の膝から降りると、また机の周りを回り始めた。
叱られるかと思えば、レギュラスは笑って、軽く肩をすくめる。
「アルタイル、書類はもう触らないでくださいね。今度は本当に泣きますから」
「なくの?」
「泣きます。パパは弱いので」
そんな冗談めいた言葉に、幼子は満足げに頷いて、今度は椅子の脚を叩いて遊び始めた。
その音が、ぽん、ぽん、と規則的に響く。
ローランドは、紙束を手に取りながら、その音を聞いた。
屋敷の午後は穏やかで、光は優しく、家族の気配は静かに満ちている。
――けれど、その中心には、監査という名の刃が置かれている。
穏やかな時間の中で、刃を磨く。
それが、この屋敷の日常なのだと、ローランドは改めて思い知らされる。
そして同時に、こんな日常の中に自分が組み込まれていることが、胸のどこかを痛めた。
望んだわけではない。けれど、もう抜け出せない。
分類する指先の感覚が、現実を確かめるみたいに生々しかった。
レギュラスは、書類の角を整えながら、穏やかな声で言った。
「フロスト殿。あなたがいて助かります。……監査は、嫌いでしょう?」
問いではあるが、答えを知っている声だった。
ローランドは一瞬だけ呼吸を整え、それでも丁寧に微笑んだ。
「ええ。……ですが、必要なことです」
必要。
その言葉が、紙の匂いよりも重く喉に残った。
レギュラスはふわりと笑い、息子の頭を撫でた。
その手が一瞬で父の手から当主の手に変わり、また父の手に戻る。
「では、やりましょう。……恥を晒すのは、嫌ですからね」
その恥が、誰のものを指しているのか。
ローランドは考えないようにした。考えた途端、胃の奥が冷たくなる気がしたから。
机の上で、紙が擦れる音が続く。
幼子の遊ぶ音がその合間に混じる。
午後の光が、羊皮紙の縁を淡く照らしていた。
