3章
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「……気持ちが悪いですね」
レギュラスの声は、驚くほど穏やかだった。
その穏やかさが、いまこの部屋の空気をいちばん冷たくしている。
暖炉の火は揺れているのに、熱が届かない。
壁に掛けられた肖像画でさえ、息を潜めたように動きを止めていた。
重いカーテンの隙間から差す夕方の光が、磨かれた床に細い刃のような線を落とす。そこへ、さきほど散らばった魔法写真の白が、まだいくつも点々と残っていた。
ローランドは膝をついたまま、呼吸の仕方を忘れていた。
胸が上下するたびに、喉の奥がひりつき、胃の底がせり上がってくる。
自分の口で語らされ、自分の声で汚された――そう思うほど、世界が遠い。
アランは、ローランドより少し離れた位置にいた。
立っているのに、立っていないみたいだった。
指先がわずかに震えて、袖口を無意識に握りつぶしている。
泣くことも、叫ぶこともできず、ただ喉の奥で息だけが詰まっているのがわかった。
それを眺めながら、レギュラスは口元に淡い微笑みを貼り付けた。
慈愛の形をした、最悪の表情。
「自分が言わせておいて、聞いたら聞いたで咎める。……ひどい男でしょう」
言葉は軽いのに、落ちる先が深すぎる。
そうすることで、ふたりが重ねたささやかな幸福の混じり合いが、いかに非道徳的で、いかに汚れていて、いかに赦されないものだったかを、丁寧に突きつけてくる。
ローランドは唇を開いた。
否定したいのに、否定する資格がない。
言い訳も、弁解も、誠意も、ここではすべてが同じ色に塗り潰される。
「ブラック様……」
かろうじて出た声は、いつもの丁寧さよりもずっと薄く、情けない。
その音の弱さが、自分自身をさらに追い込む。
レギュラスは首を傾げた。
まるで、子どもが壊した玩具の欠片を拾い上げて眺めるように。
「誠実で、礼節を守る男。魔法省でも評判のあなたが」
淡く笑う。
「――その口で、あれほど綺麗に、堂々と、アルタイルを褒め称えてくれた口で。人の妻に、愛を囁いていたとは」
ローランドの肩がびくりと震えた。
その言葉は、血の気を奪う。
アルタイル。あの小さな命の名を出されるだけで、罪が現実になる。言い逃れの余地が消える。
アランが、息を吸い込んだ。
その音が、かすかに擦れた。
泣き声に似ているのに、泣き声ではない。
声を出すことさえ、許されない空気の中で、呼吸だけが悲鳴になっている。
レギュラスは、その呼吸を聞き取ってもなお、視線を逸らさなかった。
むしろ、楽しんでいるようにも見える。
沈黙の間に、残酷な決断を綺麗に整えている。
「あなたがクラリッサの夫でなければ」
レギュラスの口調がふっと柔らかくなる。
優しいのではない。刃が薄くなるだけだ。
「もっと与える罰則は、単純なんですけどね。僕は身内には甘いんです」
その“甘い”の意味が、誰の耳にも甘く届かない。
ローランドは、反射的にクラリッサの顔を思い浮かべた。
無邪気に袖を引く小さな手。信頼に満ちた瞳。
そこへ、自分の罪が泥のように流れ込んでいく。
それだけで、喉の奥が焼ける。
レギュラスは一歩、ローランドに近づいた。
足音は静かなのに、床が軋んだ気がした。
壁の肖像画の眼差しが、いっせいにそこへ集まる。
「フロスト殿」
呼びかけは丁寧だ。
丁寧なまま、命令が来る。
「魔法省での仕事は、やめてください」
ローランドの瞳が見開かれた。
心臓が遅れて脈打ち、指先が冷える。
それは職を失うという意味ではない。
立場を失い、名を失い、社会の中で積み上げてきた“正しさ”を剥がされるという意味だ。
「……ブラック様、それは――」
言いかけたところで、レギュラスの微笑みが深くなる。
遮る言葉はない。遮る必要がない。
拒否は最初から想定されていない。
「その代わり、この屋敷で。アルタイル・ブラックの専属家庭教師を依頼します」
一瞬、理解が追いつかなかった。
ローランドは瞬きを忘れたまま、レギュラスの口元だけを見た。
その口が、あまりにも綺麗な形で最悪を紡ぐ。
「僕と妻が産んだ子を、あなたが導いてください」
淡い声。
その淡さの中に、完全な勝利がある。
ローランドの背中に、冷たい汗が流れ落ちた。
喉が鳴る。
胃の底がひっくり返りそうになる。
――自分が、導く。
アランが産んだ子を。
自分の手が、触れたことのある女の、今の夫の子を。
その子が笑い、その子が言葉を覚え、その子が世界を信じるように、そばで教える。
それは罰ではなく、毎日の拷問だった。
アランが、わずかに首を振った。
違う、と言いたいのに、声が出ない。
いや、声は出る。
出るのに、出した瞬間、すべてが壊れるのを知っている。
だから出せない。
レギュラスは、続けた。
とどめの部分を、いちばん丁寧に整える。
「そして――いつか、適切なタイミングで」
その言い方が、恐ろしい。
適切なタイミング。
それはレギュラスが決める。
どれだけ時間が経っても、ローランドに安らぎは来ない。
「あなたの犯した罪を、息子に語ってください」
声に、怒鳴りはない。
震えもない。
ただ、揺るぎのない支配だけがあった。
ローランドの口が、開いたまま止まった。
肺がうまく膨らまない。
「罪」という言葉が、初めて骨に触れた気がした。
どんなに隠しても、どんなに正装しても、どんなに礼儀で包んでも、剥がされ、晒される。
そしてその役目を、ローランド自身が担わされる。
“自分の声で”。
アルタイルが理解できる年齢になった時、幼い瞳の前で、自分は言うのだ。
あなたの母を、裏切った。あなたの父を、踏みにじった。
自分は汚い男だ、と。
アランの顔から血の気が引いていく。
息を吸う音が、細く、苦しい。
その瞳がローランドを見た。
責めるのではない。
助けを求めるのでもない。
ただ、壊れていく現実を見つめるしかない瞳だった。
レギュラスは、その瞳すらも手のひらに収めるように、ゆっくり言葉を落とす。
「どうです? 悪い話ではないでしょう」
かつて縁談を持ち出した時のような、柔らかい調子。
人を追い詰める時ほど丁寧になる癖が、今も生きている。
ローランドは、喉の奥から嗚咽を押し込んだ。
拒否したい。
叫びたい。
それはあまりにも、残酷だと。
けれど叫べば、その矛先がアランに向くのが分かる。
この男は、それを躊躇しない。
「……はい」
声が、擦れて、消えそうだった。
それでも、言うしかなかった。
折れたくて折れたわけではない。
折られて、形を整えられ、そこへ押し込まれた。
「お受けします、ブラック様」
言った瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
自分の人生が、音を立てて別のものになっていく。
魔法省の廊下も、仕事も、礼節も、名誉も、もはや救いにはならない。
これからは毎日、あの屋敷で、アルタイルの笑い声のそばで、罪を噛み締めながら生きる。
レギュラスは満足げに頷いた。
それは赦しの頷きではない。
“配置完了”の頷きだ。
そして、最後に。
まるで慈悲を与えるように、柔らかく釘を刺す。
「当然ですが」
瞳が、灰色に冷える。
「この話を拒むなら。あなたの罪は、別の形で世間に出ます。クラリッサの立場も、ブラックバーン家の評判も、……巻き込まれます」
言外に、理解しろ、とある。
守りたいものがあるなら、従え、と。
ローランドは、目を伏せた。
その伏せ方が、敗北の形そのものだった。
地獄の罰は、殴るでも、殺すでもない。
日々の呼吸の中に、永遠に混ぜ込まれる。
愛した女の影を、毎日見せられながら。
その女が産んだ子を、清いものとして育てながら。
そしていつか、自分の口で“汚れ”を語り、息子の目に軽蔑を灯させる。
ローランドは理解した。
これは終わりではない。
始まりだ。
レギュラスが用意した、丁寧で、美しく整えられた、救いのない始まり。
レギュラスが差し出した羽ペンは、光を吸うように黒かった。
高価な羽根の艶ではなく、呪いの質量がそのまま形になったみたいな黒。指先で触れれば、体温だけを奪われていきそうな冷えがある。
「……これを」
アランの前に置かれる。机の上には紙もない。インク壺もない。
それが逆に、逃げ道のない道具だと告げていた。
「この屋敷にフロスト殿が来ることは――嬉しいんじゃないですか?」
声音は柔らかい。けれど、言葉の芯が鋭い。
心の奥を正確に刺して、痛む場所をわざと撫でる。
アランは首を振った。早く、はっきりと。
否定の動きがあまりに必死で、逆に白状に見えてしまうことを本人だけが分かっていない。
レギュラスは笑った。
笑みの形だけを整えて、目だけが微動だにしない。
「そうですか。なら、なおさら都合がいい」
そして、息を吐くように続ける。
「僕が仕事中にまた見境なくセックスを重ねられては困りますからね。ちゃんと約束事は用意しておかないと」
その単語が落ちた瞬間、部屋の空気の密度が変わる。
アランの喉がきゅっと縮んだのが見て取れた。耐えるように唇を噛み、目をぎゅっと瞑る。睫毛が震えて、ほんのわずかに濡れる。
「……さあ」
レギュラスの指が、羽ペンの根元を軽く叩いた。
「今から僕が伝えることを書いてください。羽ペンで」
アランは恐る恐る手を伸ばす。指先が触れた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
それでも握らなければならない。拒めば、次はもっと別の形で“覚えさせられる”のを知っているから。
ペン先を見下ろし、習慣でインクを探そうとして顔を上げた、その動きすら。
「インクも紙もいりませんよ」
レギュラスの声が遮る。
あまりにも当然のように、慈悲の助言みたいに。
アランは理解できないまま、言われた通りに羽ペンを構えた。
何もない空中を、どこへ、どう書くというのか。疑問符が胸に湧いて、息が詰まる。
その背後に、気配が落ちてくる。
レギュラスが回り込んだのだと、肌が先に知った。香水と煙と、どこか金属めいた冷気。肩越しに影が重なり、逃げ場のない“夫婦”の距離が完成する。
「アラン」
頭上から声が落とされた。
囁きに近いのに、命令だった。
「――ローランド・フロストに近づきません」
アランは反射的に、羽ペンを滑らせた。
けれど、空中に線は残らない。机の上にも何も生まれない。何をしているのか自分でも分からない。分からないまま、ただ言われた通りに動かした。
そのとき、腕の内側が、かっと熱を帯びた。
皮膚の表面ではない。もっと奥。骨と皮の間に、細い火が走ったみたいに。
息が喉の奥で詰まり、アランの指先が震える。
目を落とすと、白い腕に、文字が“浮いて”いた。
インクの黒ではない。赤でもない。痛みだけが色を持ったような、淡い痕。
縫い付けられるみたいに、ひとつひとつ、じわりと肌に沈んでいく。
「……っ」
声が漏れた。堪えたつもりの、情けない短い音。
ペン先が触れてもいないのに、確かに刻まれていく。熱と疼きが、書いた線の形のまま残っていく。
レギュラスは、その反応を背後から味わうように見下ろしていた。
「ちゃんと体で覚えましょうね、アラン」
言葉が、優しい。
アランは痛みに顔を歪ませた。頬が引きつり、眉が寄る。
それでも手を止められない。止めた瞬間、もっと深く刺されるのが分かる。
「……痛、い……」
掠れた声に、レギュラスは小さく息を吐いて笑う。
「言葉より体で教わることは、あなたの得意分野でしょう?」
その一言で、羞恥と嫌悪が一緒に押し寄せて、アランの視界が滲んだ。
怒りたい。叩きたい。叫びたい。
けれど、腕に浮かぶ文字が、それらを全部“無駄”だと告げている。抗うほど、刻まれるだけだ。
「次」
レギュラスの声が、淡々と次の鎖を用意する。
「フロスト殿と二人きりになりません」
アランは震える手でペンを滑らせる。
また熱が走る。今度は先ほどより鋭く、短く、逃げ道のない痛み。
文字が増える。白い肌の上に、“守れ”という命令だけが美しく並んでいく。
「次は」
背後の気配が、わずかに近づく。
肩に、頬に、呼吸が触れそうな距離。逃げれば追われる距離。
「研究の名目でも、奥の部屋に入りません」
アランの喉が鳴った。
胸の奥に隠し続けた、あの部屋の匂いが一瞬蘇る。懐かしさと罪悪感が同時に刺さって、足元が揺れる。
揺れたところに、また痛みが追い打ちをかけた。皮膚の奥に熱い線が走り、アランは思わず目を見開く。
「……や、め……」
言いかけた言葉は、空中で萎む。
やめてと言ったところで、やめる男ではない。むしろ、その言葉を“記録”して次の嘲りに使う。
レギュラスは静かに、しかし丁寧に、次々と“規則”を落としていく。
そのたびに、羽ペンが空を滑り、アランの腕に文字が増えていく。痛みが増えるたび、呼吸が乱れ、視界が滲み、膝が笑う。
「フロスト殿と会話する際は、必ず扉を開けたまま」
「必要以上に笑いません」
「触れられません。触れません」
言葉が増えるほど、アランの腕は細い檻になっていく。
白い肌に、白いままの文字ではない“痕”が並び、そこに熱と疼きが居座る。
まるで体そのものが誓約書になったようだった。
アランの手が震えて、ペン先がぶれた。
痛みのせいか、恐怖のせいか、あるいは両方か。
それを見逃さず、背後のレギュラスが、アランの手首をそっと掴んだ。
優しい手つきだった。
優しいまま、逃げられない力が込められている。
「ほら」
耳元で囁く。
「綺麗に書いてください。あなたはそういうところ、器用でしょう?」
矜持を知っているからこその言い方だった。
研究者の手。記録を書く手。薬を調合する手。
その“誇り”を、痛みと命令で上書きしていく。
アランは歯を食いしばり、もう一度羽ペンを滑らせた。
熱が走り、涙が落ち、声が漏れる。
それでも書く。書かされる。書くしかない。
レギュラスは、最後にいちばん静かな声で告げた。
「――僕に嘘をつきません」
その瞬間、腕の内側が、これまででいちばん強く灼けた。
アランは思わず息を飲み、膝が崩れそうになって机の縁を掴んだ。
文字が刻まれるというより、誓いを体内に押し込まれる感覚だった。
レギュラスはアランの肩口に唇を落とすでもなく、ただ頬を寄せるだけで、満足げに囁いた。
「これでいい」
甘い声。
けれど、その甘さは鎖の音がする。
「忘れようとしたって、腕が思い出させます。あなたはもう、うまく“演じる”必要もなくなる。だって、体が約束してしまったんですから」
アランは、刻まれた痕の熱に耐えながら、震える指で羽ペンを握りしめた。
目の前は滲み、頭の中は真っ白で、ただ一つだけ理解する。
――これはルールではない。
――生き方の強制だ。
背後でレギュラスが、穏やかに息を吐いて笑った。
「さあ、次を言いましょうか」
その声が落ちた瞬間、アランの腕の疼きが、次の言葉を待つように脈打った。
寝室の灯りはいつもより落とされていた。
壁際の燭台の火が、絹のカーテンに揺れる影を落としている。寝台の天蓋は暗がりの天井をもう一段深くして、そこだけが小さな世界みたいに区切られていた。
アランは部屋の端から端へ、同じ空気を吸っているだけで胸が硬くなるのを感じていた。
昼の間に浴びせられた声、視線、言葉。ひとつひとつがまだ皮膚の内側に残っていて、息をするたびに擦れる。腕に刻まれた熱も、じくじくと、思い出させるように脈打っている。
それなのに――。
レギュラスが寝台に入ってきた瞬間、空気が“変わった”。
冷たい刃の気配ではなく、温度だけが急に上がるような。毒を含んだ香りが花の匂いに偽装されるような。
やわらかい布が、鋭い針を隠してしまう、あの感覚。
厚手のローブが脱がれる音。寝台がわずかに沈む。
アランの背後に回り込む気配があって、次の瞬間、腕が回された。
抱き寄せられる。抵抗する隙を与えないほど強いのに、抱擁そのものは丁寧だった。
まるで “守る” みたいに、肩から胸へ、体重を預けさせる角度まで計算された優しさで。
髪を撫でられる。
指先は絡まったところをほどくでもなく、ただ梳くように滑っていく。
そして髪に、短い口づけが落ちた。
熱が落ちた場所だけが、妙に生々しく残る。
さっきまで――つい数時間前まで、相手を追い詰め、答えを吐かせ、痛みを与えていた男と同じ人間とは思えないほど、呼吸が穏やかで、声が静かだ。
「愛しています、アラン」
耳元で囁かれた言葉は、甘いのに怖かった。
甘いからこそ。音色がとろけるほど、昼の鋭さと繋がってしまって、背筋がぞくりと粟立つ。
人はこういうとき、どんな顔をすればいいのだろう。
アランは喉が鳴りそうになるのを必死に押し込めた。感情が追いつかない。
愛していると告げられているのに、胸に湧くのは安心ではなく、緊張だった。優しさに包まれているのに、逃げ場がなくなった気がした。
レギュラスの手が顎に伸びた。
軽く掴む――というより、触れるだけで方向を変えられる、と言い聞かせる仕草。
その指先が顎先を上げると、アランの視線はいやでも彼の顔へ引き寄せられた。
灰色の瞳は穏やかに見えた。
穏やかに見えるように整えられている、とも言える。
その瞳の奥に、ほんのわずかな愉しさが潜んでいるのを、アランは見落とさない。
「夫に愛していると言われたら、妻はどうするんですかね?」
問いは柔らかい。冗談めかしている。
けれどそれは “問い” の形をした命令だった。
正しい返答を知っていることを前提に、逃げ道だけを塞いでくる。
アランの胸がきゅっと縮む。
言葉の順番を間違えればまた何かが起きる、そんな条件反射がもう体に染みついてしまっている。
それが悔しいのに、喉は従ってしまう。
「……愛しています」
慌てて、けれど丁寧に。
声が震えないように整えながら、それでも息が少し乱れた。
その返答に、レギュラスの口元がふわりと綻ぶ。
勝利の笑みではない、満足の笑み。
それがいっそう、ぞっとするほど優しい。
「いい子ですね」
褒め言葉のように落とされる。
アランは胸の奥が熱くなるのを感じた。嬉しさではない。屈辱でもない。
どちらとも言い切れない、ただ、身体のどこかが従ってしまう感覚。
レギュラスはアランの頬に指を滑らせた。涙の跡をなぞるでもなく、傷を確かめるでもなく、ただ “そこにある美しさ” を確かめるみたいに。
そのまま顔を寄せ、唇が触れた。
深くはない。激しさもない。
それなのに、胸の奥がきゅっと鳴る。
唇が重なる時間の短さが、むしろ「これで足りるでしょう?」という合図のようで、逃げ場がなくなる。
離れ際、レギュラスはまた囁く。
「可愛いですね、今夜のあなたは」
昼の残酷さが、甘い言葉の中に溶けている。
“罰” のあとに “褒美” を与える手つきで、感情を混乱させ、判断を鈍らせる。
それが意図だと分かっていても、アランは抗えない。抗うほどに深く絡め取られることも、もう知っている。
アランは息を整えようとして、できなかった。
胸が上下して、喉が渇いて、腕に残った熱がまた疼いた。
その疼きに、さっきの言葉が被さる。
――愛しています。
同じ言葉なのに、ローランドのそれとは違う。
レギュラスの愛しているは、温度のある鎖だ。
抱きしめる腕も、髪に落とされる口づけも、柔らかいまま逃げ道を奪う。
それでも、彼が今夜纏っている甘さに、どこか救われてしまいそうになる自分がいる。
責められるより、追い詰められるより、こうして “可愛い” と言われているほうが楽だと、体が覚え始めてしまっている。
その事実がいちばん怖い。
レギュラスはアランの返答を待つように、ただ見つめた。
瞳の中に自分が映っているかを確かめるように。
勝利を確信するために。
アランは微笑もうとした。
うまく、妻らしく。
けれど口元が引きつるのを、レギュラスは見逃さない。
「無理に綺麗にしなくていいですよ」
言いながら、もう一度、短い口づけが落ちる。
その優しさが、刃より鋭く胸に刺さった。
「今夜は――僕だけ見ていればいい」
甘い声は、命令の形をしていなかった。
けれど、拒む選択肢を最初から消している。
アランはその事実に気づいて、息を呑み、そして――何も言わないまま、ただ頷いてしまう。
頷いた瞬間、レギュラスの指が髪を撫でる。
褒めるように、慰めるように、所有を確かめるように。
寝室の灯りが揺れる。
甘い香りの奥で、鎖の音が小さく鳴っていた。
ローランドがブラック家の門をくぐったのは、まだ朝の光が完全に強くなる前だった。
石畳には夜露の名残が薄く残り、靴底がわずかに冷たさを拾う。屋敷の窓という窓は整然と閉じられているのに、内側にはすでに人の気配が満ちていて――この家の「朝」が、静かに規則正しく動き出しているのがわかった。
約束の時刻。
アルタイル・ブラックに朝から付くため。そう、命じられたとおりに。
執事に案内され、広間の先の食堂へ向かう途中、ローランドは息を整えた。
何度来ても慣れない。天井の高さ、絨毯の厚さ、壁に掛かる肖像画の目線。ここでは礼節が鎧であり、同時に首輪でもある。緊張の紐が喉に巻きついたまま、ほどけない。
食堂にはすでに家族分の朝食が整えられていた。
銀の蓋の下に香りが閉じ込められ、カトラリーは一分の狂いもなく並べられ、淡い紅茶の湯気だけがこの場に「温度」を添えている。
その完璧な席の中で、ひとつだけ空席があった。
アランの席。
皿も、カップも、ナプキンも――揃っているのに、本人だけがいない。
ローランドはそこに視線を置いた瞬間、胸の奥が嫌な形で縮んだ。
昨夜の記憶が、直接ではないのに、肌に触れるような距離で蘇る。
考えないようにしてきたこと。見ないようにしてきたもの。
それをこの屋敷は、朝の光の中に平然と並べてくる。
「フロスト殿」
名を呼ばれ、ローランドははっと背筋を正した。
レギュラス・ブラックが席にいる。いつものように整った身なりで、いつものように微笑んでいる。
その微笑みは穏やかなはずなのに、どこか薄い膜のようで、指で触れたら切れるのではないかと思うほど危うい。
「アランが起きてこないんですよ」
言葉の調子は雑談みたいだった。
けれど、その瞬間ローランドは理解する。ここから先は雑談ではない、と。
「こういう時――」
レギュラスは視線をゆっくりと、空席からローランドへ移した。
「僕はアルタイルを連れて起こしに行きます。お願いしてもいいですか?」
呼吸が一瞬止まる。
断れるはずがなかった。断っていい理由が、この家には存在しない。
ローランドが答えを探すより先に、足元で小さな気配が動いた。
アルタイルだった。
よちよちと、それでも迷いのない足取りでローランドのところへ来る。小さな手が、当然のように差し出される。
「……承知いたしました、ブラック様」
声が硬い。自分でもわかる。
それでも礼儀の形に押し込めるしかない。ローランドはそっと、幼子の手を取った。
温かい。
指は小さく、柔らかく、力は弱いのに、引かれると抗えない。
――この子の父が、今さっき言ったとおりの「日常」を、わざわざ自分に渡したのだと気づいた瞬間、胃のあたりが静かに痛んだ。
廊下は長く、静かだった。
朝の光が窓から斜めに差し込み、埃さえ品よく舞っている。肖像画がアルタイルを見て微笑み、ローランドを見て目を細める。
家の中のすべてが、アルタイルを「主」として受け入れている。ローランドの存在だけが、そこに浮いていた。
寝室の扉の前で、ローランドは一度立ち止まりかけた。
ノックをすべきだ。礼儀として。最低限の配慮として。
けれど――
アルタイルは迷わなかった。
小さな手でドアノブに触れ、慣れた仕草でひねる。
「アルタイル様、まずノックを――」
間に合わない。
扉がするりと開き、室内の温かい空気が廊下へ滲み出た。眠りの匂い。布の匂い。人の気配がほどけたまま残る匂い。
アルタイルは扉を開けた瞬間、室内の中央へ向けて走っていった。
ローランドの足が固まる。追いかけるべきなのに、踏み込むべきではない場所に踏み込んでしまった感覚が、胸をきつく締めた。
広い寝台が見える。
天蓋の影の下、柔らかな布が波のように折り重なり、その中心に――人が眠っている。
「まま!」
アルタイルが叫ぶように呼び、寝台に駆け寄って、眠る体を揺さぶる。
あまり揺らしてはいけませんよ、と口をついて出た。
「……あまり揺らしてはいけませんよ、アルタイル様」
声が、いつもより低く、慎重だった。
叱るつもりはない。ただ、ここが――自分がいるべきではない場所であることを、少しでも薄めたかった。
アランが、ゆっくりと目を開けた。
一瞬、状況が掴めていない顔をして――次の瞬間には母の顔になる。
起き上がり、迷いなくアルタイルを抱きしめる。
「アルタイル……どうしたの?」
声はまだ眠りに沈んだままで、柔らかい。
その声を聞くだけで、ローランドは喉の奥がひりついた。
以前の呼び方が、危うく唇の裏まで出かける。名前を呼びたい衝動を、礼節で噛み潰す。
アランの髪はほどけ、頬には眠りの跡が薄く残っていた。寝不足を隠しきれていない。
けれど、それ以上に視線を奪うものがあった。夜の名残を隠すように――薄い布とシーツが、肩口に引き寄せられている。整えるより先に子どもを抱いたのだろう、その仕草があまりに自然で、あまりに無防備だった。
ローランドは、反射的に視線を落とした。
見てはいけない。
見られる資格がない。
それを理解しているからこそ、体が勝手にそうした。
それでも――わかってしまう。
この光景は「偶然」ではない。
レギュラス・ブラックは、ローランドにこれを見せたかったのだ。
昨夜、寝室には夫婦の時間が当たり前に流れていたのだと。
そして今朝も、それが続いているのだと。
言葉ではなく、景色で、突きつけるために。
アルタイルはアランの胸元に頬を擦り寄せ、安心しきったように小さく笑った。
アランが指先で子の髪を整える。その動きが、あまりに優しい。
ローランドの胸の奥に、熱いものがせり上がる。痛みと、嫉妬と、罪悪感が、どれも同じ色で混ざってしまう。
――あの魔法写真と、同じだ。
自分の手で、笑う彼女を、近すぎる距離で写し取ったあの瞬間。
ふざけてシャッターを切り、慌てて笑われ、奪い合うようにカメラを握った時間。
それが、今、別の文脈で目の前にある。
しかも、それは「夫の寝室」の中で。
「母」として。
「ブラック夫人」として。
ローランドは唇を結んだ。息が震えないように。
背筋を伸ばし、目線を上げないまま、できる限り穏やかに言った。
「……ブラック夫人。朝食の席が整っております。アルタイル様をお連れするよう、ブラック様より仰せつかりました」
どこまでも丁寧に。どこまでも距離を守って。
それが今の自分の唯一の盾だった。
アランの動きが、一瞬だけ止まった。
抱きしめたままの腕が微かに強張る。
ローランドは見なくてもわかった。彼女が何を察したか。何を飲み込んだか。
それでもアランは崩れない。
母の顔のまま、静かに息を整え、アルタイルの背を優しく撫でた。
「……ありがとう、フロスト殿。すぐに行きます」
その声は穏やかで、正しい。
正しいからこそ、ローランドは苦しかった。
この屋敷の朝は、完璧に回る。
誰かの胸が裂けていようと、罪が焼けついていようと、そんなものは最初から無いかのように。
銀器は磨かれ、紅茶は冷めず、子どもは笑う。
ローランドは、扉の外へ退くしかなかった。
一歩下がるたびに、背中に熱い視線が刺さる気がする。
振り返ってはいけない。振り返った瞬間、自分はもっと醜くなる。
廊下へ戻ったところで、ローランドは小さく息を吐いた。
喉が渇いているのに、唾さえ飲み込めない。
胸の奥で、何かが静かに崩れていく音がした。
――あの男は、朝からこんな刃を差し込むのか。
微笑みながら、礼儀正しく、堂々と。
そして自分は、断れない。アルタイル様の手を引き、夫婦の寝室へ入り、ブラック夫人を起こした。
その事実が、首輪のように喉に残ったまま離れない。
ローランドはただ、食堂へ戻る道を歩いた。
朝の光がやけに眩しくて、目を細めるふりで、滲みそうになるものを必死に堪えた。
朝の食堂は、いつもどおり完璧だった。
磨き抜かれた銀器は薄い光を抱き、白磁の皿は雪のように冷たく清潔で、布のナプキンの折り目さえ乱れがない。窓から差し込む淡い陽が、湯気を上げる紅茶の輪郭を柔らかく撫でていく。人の気配も足音も、すべてが絨毯に吸われて、音になりきらないまま沈んでいく。
その中心に、レギュラス・ブラックが座っていた。
父であり、夫であり、この屋敷の当主として。
アルタイルは椅子の上で小さく背筋を伸ばし、食卓に置かれた皿を覗き込んでいる。まだ幼いのに、ここでは「そう座ること」を覚えさせられているのが見て取れた。隣に座る乳母が、必要以上に手を出さないよう、指先を膝の上で揃えている。
ローランドは少し離れた位置に控え、背筋をまっすぐに保ったまま、居場所のない自分の呼吸を整えていた。
食堂の空気は温かいはずなのに、胸の内側だけが冷える。あの寝室の匂いと肌の無防備さが、視線を落としたはずの目の裏にまだ残っている。
扉が静かに開き、アランが入ってきた。
髪はきちんとまとめられている。肌を隠す衣服も整っている。けれど、その整い方が、まるで傷口に丁寧に包帯を巻いたようで、余計に痛々しかった。彼女はいつも通り礼儀正しく、足取りも静かで、笑みさえ薄く貼り付けたまま席に着く。
その瞬間、レギュラスの視線が彼女の全身をさらりとなぞった。
優しさに似た速度で、しかし逃げ道を一切与えない精度で。
「アルタイル、しっかり食べてくださいね」
柔らかな声。朝の挨拶のように自然で、親が子にかける言葉として完璧だった。
「はい!」
アルタイルが元気よく答える。小さな口がぱっと笑う。
その笑い声だけが、食堂に生きた音として落ちた。
レギュラスはそれを聞いて満足そうに口元を緩め、次に、視線をアランへ移した。
彼女が匙を持つ手。皿の上のものをどう切り分けるか。口に運ぶ量。咀嚼の回数。飲み込む速度。紅茶に触れるタイミング。――すべてが観察されているのが、見ているローランドにもわかった。
アランは気づいていないふりをした。気づかないふりをすることでしか、ここにいられない。
「……そういえば」
レギュラスが、まるで話題を変えるような調子で言った。
「避妊はしてました?」
言葉が、食卓の上に落ちた瞬間。
銀器の輝きが一段冷たく見えた。
朝食の席で交わされていい種類の言葉ではない。
それなのに、レギュラスは端正な微笑みを崩さず、真っ直ぐに、アランだけを見て問いかける。まるで当然の確認事項であるかのように。
アランの頬がさっと赤く染まった。
彼女は反射的に視線を伏せる。唇がわずかに開き、閉じる。喉が動いて、言葉にならない息が落ちる。子の前で、他人の前で、妻として、女として、その問いに晒される羞恥が、肌の下を一気に熱くしたのがわかった。
ローランドは、息が詰まった。
目のやり場がない。視線を上げれば、彼女の顔色の変化を盗み見たことになる。下げれば、逃げたことになる。どちらも罪だった。
レギュラスはアランの反応を待たず、手元のベルを鳴らした。澄んだ音がひとつ、空気を切る。
使用人がすぐに現れる。
「医務魔法使いの手配を。検査だけお願いします」
淡々と命じる声。そこに迷いはない。
「検査結果は――」
視線をアランから逸らさずに続ける。
「僕が聞きますね」
アランは小さく頷いた。頷くしかない。
その頷きが、了承というより服従に近い形をしているのが、ローランドの胸をえぐった。
「次の月経がくれば、それも教えてください」
さらりと付け加えられる。
アランは指先をきゅっと握りしめ、もう一度頷く。
「はい……」
声が、細い。
レギュラスはそこでようやく、もう一度同じ問いを繰り返した。
「で、どうなんです? 避妊はしたんですか」
医務魔法使いを呼び、検査まで命じておいて。
それでもなお、答えをこの場で口にさせる必要があるのか。あるはずがない。
けれど、レギュラスが欲しいのは結果ではない。
「答えさせること」そのものだった。
アランは口を閉ざしたまま、匙を動かそうとした。
口に物が入っているから、今は答えられない――そんなふうに見せかけるように。小さな取り繕い。わずかな抵抗。母としての顔に逃げ込む癖。
それが、許される範囲に収まるとでも思っているのか、と言わんばかりに。
「……聞こえます? アラン」
レギュラスの声は穏やかなままだ。
けれど、その穏やかさが、刃物の背で撫でられているように冷たい。
「耳も診てもらいます?」
冗談めいているのに、笑えない。
食堂の空気がさらに薄くなる。アルタイルの咀嚼の音だけがやけに大きい。
アランは俯いたまま、答えられない。答えない。
顔の赤みだけが残って、言葉は出てこない。
レギュラスはふっと息を吐き、カトラリーを置いた。
――その音が、やけに響いた。
銀が皿に触れる乾いた音。
朝の静けさの中で、それは合図のように鳴った。ここから先の温度が変わる、と誰もが理解する音だった。
レギュラスは背を崩さない。微笑みも崩さない。
ただ、声だけが、ほんの少し低く落ちた。
「アラン」
名を呼ぶだけで、空気が締まる。
「アルタイルの前で怒らせます?」
アルタイルの名が出た瞬間、アランの顔が上がった。
母の顔が、反射で現れる。子の前で、子に聞かせるべきではないものを見せるな――そう脅されると、人は逆らえなくなる。
アランはまさに、その部分を握られている。
ローランドは歯を食いしばった。
母である部分を、人質のように扱われる。あげあしを取られる。その残酷さが、見ていて息苦しい。助けたいのに、助けられない。むしろこの場にいること自体が、彼女を追い込む装置になっている。
アランの唇が震えた。
ほんの一拍、呼吸を探して。
「……しました」
絞り出すような声だった。
それでも言葉にした瞬間、彼女の肩が微かに落ちた。言わされた、と身体が理解してしまう落ち方。
レギュラスは、その答えを聞いても表情を変えない。
むしろ、やわらかく整った微笑みを戻す。
「したなら最初から言えばいいでしょうに」
叱るようでいて、責めている。
責めているようでいて、正論の顔をしている。
「念のため検査は受けてくださいね」
優しい声で締める。
それが余計に残酷だった。アランの羞恥も沈黙も、すべて「当然の手続き」の一部として棚に並べられていく。
アルタイルは何も知らず、口の端に少しだけ食べ物をつけたまま、また元気よくスプーンを動かしている。
世界は、平然と続く。
ローランドは、胸の奥がひどく痛んだ。
食卓の美しさが、完璧であればあるほど。アランの頬の赤みが、息を潜めるほど小さければ小さいほど。
この男が、朝からどこまでも追い込むことができるのだと、明確に見せつけられる。
レギュラス・ブラックは、父であり夫であり当主だった。
その肩書きのすべてを使って――朝の食卓すら、裁きの場に変えることができる男だった。
レギュラスの声は、驚くほど穏やかだった。
その穏やかさが、いまこの部屋の空気をいちばん冷たくしている。
暖炉の火は揺れているのに、熱が届かない。
壁に掛けられた肖像画でさえ、息を潜めたように動きを止めていた。
重いカーテンの隙間から差す夕方の光が、磨かれた床に細い刃のような線を落とす。そこへ、さきほど散らばった魔法写真の白が、まだいくつも点々と残っていた。
ローランドは膝をついたまま、呼吸の仕方を忘れていた。
胸が上下するたびに、喉の奥がひりつき、胃の底がせり上がってくる。
自分の口で語らされ、自分の声で汚された――そう思うほど、世界が遠い。
アランは、ローランドより少し離れた位置にいた。
立っているのに、立っていないみたいだった。
指先がわずかに震えて、袖口を無意識に握りつぶしている。
泣くことも、叫ぶこともできず、ただ喉の奥で息だけが詰まっているのがわかった。
それを眺めながら、レギュラスは口元に淡い微笑みを貼り付けた。
慈愛の形をした、最悪の表情。
「自分が言わせておいて、聞いたら聞いたで咎める。……ひどい男でしょう」
言葉は軽いのに、落ちる先が深すぎる。
そうすることで、ふたりが重ねたささやかな幸福の混じり合いが、いかに非道徳的で、いかに汚れていて、いかに赦されないものだったかを、丁寧に突きつけてくる。
ローランドは唇を開いた。
否定したいのに、否定する資格がない。
言い訳も、弁解も、誠意も、ここではすべてが同じ色に塗り潰される。
「ブラック様……」
かろうじて出た声は、いつもの丁寧さよりもずっと薄く、情けない。
その音の弱さが、自分自身をさらに追い込む。
レギュラスは首を傾げた。
まるで、子どもが壊した玩具の欠片を拾い上げて眺めるように。
「誠実で、礼節を守る男。魔法省でも評判のあなたが」
淡く笑う。
「――その口で、あれほど綺麗に、堂々と、アルタイルを褒め称えてくれた口で。人の妻に、愛を囁いていたとは」
ローランドの肩がびくりと震えた。
その言葉は、血の気を奪う。
アルタイル。あの小さな命の名を出されるだけで、罪が現実になる。言い逃れの余地が消える。
アランが、息を吸い込んだ。
その音が、かすかに擦れた。
泣き声に似ているのに、泣き声ではない。
声を出すことさえ、許されない空気の中で、呼吸だけが悲鳴になっている。
レギュラスは、その呼吸を聞き取ってもなお、視線を逸らさなかった。
むしろ、楽しんでいるようにも見える。
沈黙の間に、残酷な決断を綺麗に整えている。
「あなたがクラリッサの夫でなければ」
レギュラスの口調がふっと柔らかくなる。
優しいのではない。刃が薄くなるだけだ。
「もっと与える罰則は、単純なんですけどね。僕は身内には甘いんです」
その“甘い”の意味が、誰の耳にも甘く届かない。
ローランドは、反射的にクラリッサの顔を思い浮かべた。
無邪気に袖を引く小さな手。信頼に満ちた瞳。
そこへ、自分の罪が泥のように流れ込んでいく。
それだけで、喉の奥が焼ける。
レギュラスは一歩、ローランドに近づいた。
足音は静かなのに、床が軋んだ気がした。
壁の肖像画の眼差しが、いっせいにそこへ集まる。
「フロスト殿」
呼びかけは丁寧だ。
丁寧なまま、命令が来る。
「魔法省での仕事は、やめてください」
ローランドの瞳が見開かれた。
心臓が遅れて脈打ち、指先が冷える。
それは職を失うという意味ではない。
立場を失い、名を失い、社会の中で積み上げてきた“正しさ”を剥がされるという意味だ。
「……ブラック様、それは――」
言いかけたところで、レギュラスの微笑みが深くなる。
遮る言葉はない。遮る必要がない。
拒否は最初から想定されていない。
「その代わり、この屋敷で。アルタイル・ブラックの専属家庭教師を依頼します」
一瞬、理解が追いつかなかった。
ローランドは瞬きを忘れたまま、レギュラスの口元だけを見た。
その口が、あまりにも綺麗な形で最悪を紡ぐ。
「僕と妻が産んだ子を、あなたが導いてください」
淡い声。
その淡さの中に、完全な勝利がある。
ローランドの背中に、冷たい汗が流れ落ちた。
喉が鳴る。
胃の底がひっくり返りそうになる。
――自分が、導く。
アランが産んだ子を。
自分の手が、触れたことのある女の、今の夫の子を。
その子が笑い、その子が言葉を覚え、その子が世界を信じるように、そばで教える。
それは罰ではなく、毎日の拷問だった。
アランが、わずかに首を振った。
違う、と言いたいのに、声が出ない。
いや、声は出る。
出るのに、出した瞬間、すべてが壊れるのを知っている。
だから出せない。
レギュラスは、続けた。
とどめの部分を、いちばん丁寧に整える。
「そして――いつか、適切なタイミングで」
その言い方が、恐ろしい。
適切なタイミング。
それはレギュラスが決める。
どれだけ時間が経っても、ローランドに安らぎは来ない。
「あなたの犯した罪を、息子に語ってください」
声に、怒鳴りはない。
震えもない。
ただ、揺るぎのない支配だけがあった。
ローランドの口が、開いたまま止まった。
肺がうまく膨らまない。
「罪」という言葉が、初めて骨に触れた気がした。
どんなに隠しても、どんなに正装しても、どんなに礼儀で包んでも、剥がされ、晒される。
そしてその役目を、ローランド自身が担わされる。
“自分の声で”。
アルタイルが理解できる年齢になった時、幼い瞳の前で、自分は言うのだ。
あなたの母を、裏切った。あなたの父を、踏みにじった。
自分は汚い男だ、と。
アランの顔から血の気が引いていく。
息を吸う音が、細く、苦しい。
その瞳がローランドを見た。
責めるのではない。
助けを求めるのでもない。
ただ、壊れていく現実を見つめるしかない瞳だった。
レギュラスは、その瞳すらも手のひらに収めるように、ゆっくり言葉を落とす。
「どうです? 悪い話ではないでしょう」
かつて縁談を持ち出した時のような、柔らかい調子。
人を追い詰める時ほど丁寧になる癖が、今も生きている。
ローランドは、喉の奥から嗚咽を押し込んだ。
拒否したい。
叫びたい。
それはあまりにも、残酷だと。
けれど叫べば、その矛先がアランに向くのが分かる。
この男は、それを躊躇しない。
「……はい」
声が、擦れて、消えそうだった。
それでも、言うしかなかった。
折れたくて折れたわけではない。
折られて、形を整えられ、そこへ押し込まれた。
「お受けします、ブラック様」
言った瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
自分の人生が、音を立てて別のものになっていく。
魔法省の廊下も、仕事も、礼節も、名誉も、もはや救いにはならない。
これからは毎日、あの屋敷で、アルタイルの笑い声のそばで、罪を噛み締めながら生きる。
レギュラスは満足げに頷いた。
それは赦しの頷きではない。
“配置完了”の頷きだ。
そして、最後に。
まるで慈悲を与えるように、柔らかく釘を刺す。
「当然ですが」
瞳が、灰色に冷える。
「この話を拒むなら。あなたの罪は、別の形で世間に出ます。クラリッサの立場も、ブラックバーン家の評判も、……巻き込まれます」
言外に、理解しろ、とある。
守りたいものがあるなら、従え、と。
ローランドは、目を伏せた。
その伏せ方が、敗北の形そのものだった。
地獄の罰は、殴るでも、殺すでもない。
日々の呼吸の中に、永遠に混ぜ込まれる。
愛した女の影を、毎日見せられながら。
その女が産んだ子を、清いものとして育てながら。
そしていつか、自分の口で“汚れ”を語り、息子の目に軽蔑を灯させる。
ローランドは理解した。
これは終わりではない。
始まりだ。
レギュラスが用意した、丁寧で、美しく整えられた、救いのない始まり。
レギュラスが差し出した羽ペンは、光を吸うように黒かった。
高価な羽根の艶ではなく、呪いの質量がそのまま形になったみたいな黒。指先で触れれば、体温だけを奪われていきそうな冷えがある。
「……これを」
アランの前に置かれる。机の上には紙もない。インク壺もない。
それが逆に、逃げ道のない道具だと告げていた。
「この屋敷にフロスト殿が来ることは――嬉しいんじゃないですか?」
声音は柔らかい。けれど、言葉の芯が鋭い。
心の奥を正確に刺して、痛む場所をわざと撫でる。
アランは首を振った。早く、はっきりと。
否定の動きがあまりに必死で、逆に白状に見えてしまうことを本人だけが分かっていない。
レギュラスは笑った。
笑みの形だけを整えて、目だけが微動だにしない。
「そうですか。なら、なおさら都合がいい」
そして、息を吐くように続ける。
「僕が仕事中にまた見境なくセックスを重ねられては困りますからね。ちゃんと約束事は用意しておかないと」
その単語が落ちた瞬間、部屋の空気の密度が変わる。
アランの喉がきゅっと縮んだのが見て取れた。耐えるように唇を噛み、目をぎゅっと瞑る。睫毛が震えて、ほんのわずかに濡れる。
「……さあ」
レギュラスの指が、羽ペンの根元を軽く叩いた。
「今から僕が伝えることを書いてください。羽ペンで」
アランは恐る恐る手を伸ばす。指先が触れた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
それでも握らなければならない。拒めば、次はもっと別の形で“覚えさせられる”のを知っているから。
ペン先を見下ろし、習慣でインクを探そうとして顔を上げた、その動きすら。
「インクも紙もいりませんよ」
レギュラスの声が遮る。
あまりにも当然のように、慈悲の助言みたいに。
アランは理解できないまま、言われた通りに羽ペンを構えた。
何もない空中を、どこへ、どう書くというのか。疑問符が胸に湧いて、息が詰まる。
その背後に、気配が落ちてくる。
レギュラスが回り込んだのだと、肌が先に知った。香水と煙と、どこか金属めいた冷気。肩越しに影が重なり、逃げ場のない“夫婦”の距離が完成する。
「アラン」
頭上から声が落とされた。
囁きに近いのに、命令だった。
「――ローランド・フロストに近づきません」
アランは反射的に、羽ペンを滑らせた。
けれど、空中に線は残らない。机の上にも何も生まれない。何をしているのか自分でも分からない。分からないまま、ただ言われた通りに動かした。
そのとき、腕の内側が、かっと熱を帯びた。
皮膚の表面ではない。もっと奥。骨と皮の間に、細い火が走ったみたいに。
息が喉の奥で詰まり、アランの指先が震える。
目を落とすと、白い腕に、文字が“浮いて”いた。
インクの黒ではない。赤でもない。痛みだけが色を持ったような、淡い痕。
縫い付けられるみたいに、ひとつひとつ、じわりと肌に沈んでいく。
「……っ」
声が漏れた。堪えたつもりの、情けない短い音。
ペン先が触れてもいないのに、確かに刻まれていく。熱と疼きが、書いた線の形のまま残っていく。
レギュラスは、その反応を背後から味わうように見下ろしていた。
「ちゃんと体で覚えましょうね、アラン」
言葉が、優しい。
アランは痛みに顔を歪ませた。頬が引きつり、眉が寄る。
それでも手を止められない。止めた瞬間、もっと深く刺されるのが分かる。
「……痛、い……」
掠れた声に、レギュラスは小さく息を吐いて笑う。
「言葉より体で教わることは、あなたの得意分野でしょう?」
その一言で、羞恥と嫌悪が一緒に押し寄せて、アランの視界が滲んだ。
怒りたい。叩きたい。叫びたい。
けれど、腕に浮かぶ文字が、それらを全部“無駄”だと告げている。抗うほど、刻まれるだけだ。
「次」
レギュラスの声が、淡々と次の鎖を用意する。
「フロスト殿と二人きりになりません」
アランは震える手でペンを滑らせる。
また熱が走る。今度は先ほどより鋭く、短く、逃げ道のない痛み。
文字が増える。白い肌の上に、“守れ”という命令だけが美しく並んでいく。
「次は」
背後の気配が、わずかに近づく。
肩に、頬に、呼吸が触れそうな距離。逃げれば追われる距離。
「研究の名目でも、奥の部屋に入りません」
アランの喉が鳴った。
胸の奥に隠し続けた、あの部屋の匂いが一瞬蘇る。懐かしさと罪悪感が同時に刺さって、足元が揺れる。
揺れたところに、また痛みが追い打ちをかけた。皮膚の奥に熱い線が走り、アランは思わず目を見開く。
「……や、め……」
言いかけた言葉は、空中で萎む。
やめてと言ったところで、やめる男ではない。むしろ、その言葉を“記録”して次の嘲りに使う。
レギュラスは静かに、しかし丁寧に、次々と“規則”を落としていく。
そのたびに、羽ペンが空を滑り、アランの腕に文字が増えていく。痛みが増えるたび、呼吸が乱れ、視界が滲み、膝が笑う。
「フロスト殿と会話する際は、必ず扉を開けたまま」
「必要以上に笑いません」
「触れられません。触れません」
言葉が増えるほど、アランの腕は細い檻になっていく。
白い肌に、白いままの文字ではない“痕”が並び、そこに熱と疼きが居座る。
まるで体そのものが誓約書になったようだった。
アランの手が震えて、ペン先がぶれた。
痛みのせいか、恐怖のせいか、あるいは両方か。
それを見逃さず、背後のレギュラスが、アランの手首をそっと掴んだ。
優しい手つきだった。
優しいまま、逃げられない力が込められている。
「ほら」
耳元で囁く。
「綺麗に書いてください。あなたはそういうところ、器用でしょう?」
矜持を知っているからこその言い方だった。
研究者の手。記録を書く手。薬を調合する手。
その“誇り”を、痛みと命令で上書きしていく。
アランは歯を食いしばり、もう一度羽ペンを滑らせた。
熱が走り、涙が落ち、声が漏れる。
それでも書く。書かされる。書くしかない。
レギュラスは、最後にいちばん静かな声で告げた。
「――僕に嘘をつきません」
その瞬間、腕の内側が、これまででいちばん強く灼けた。
アランは思わず息を飲み、膝が崩れそうになって机の縁を掴んだ。
文字が刻まれるというより、誓いを体内に押し込まれる感覚だった。
レギュラスはアランの肩口に唇を落とすでもなく、ただ頬を寄せるだけで、満足げに囁いた。
「これでいい」
甘い声。
けれど、その甘さは鎖の音がする。
「忘れようとしたって、腕が思い出させます。あなたはもう、うまく“演じる”必要もなくなる。だって、体が約束してしまったんですから」
アランは、刻まれた痕の熱に耐えながら、震える指で羽ペンを握りしめた。
目の前は滲み、頭の中は真っ白で、ただ一つだけ理解する。
――これはルールではない。
――生き方の強制だ。
背後でレギュラスが、穏やかに息を吐いて笑った。
「さあ、次を言いましょうか」
その声が落ちた瞬間、アランの腕の疼きが、次の言葉を待つように脈打った。
寝室の灯りはいつもより落とされていた。
壁際の燭台の火が、絹のカーテンに揺れる影を落としている。寝台の天蓋は暗がりの天井をもう一段深くして、そこだけが小さな世界みたいに区切られていた。
アランは部屋の端から端へ、同じ空気を吸っているだけで胸が硬くなるのを感じていた。
昼の間に浴びせられた声、視線、言葉。ひとつひとつがまだ皮膚の内側に残っていて、息をするたびに擦れる。腕に刻まれた熱も、じくじくと、思い出させるように脈打っている。
それなのに――。
レギュラスが寝台に入ってきた瞬間、空気が“変わった”。
冷たい刃の気配ではなく、温度だけが急に上がるような。毒を含んだ香りが花の匂いに偽装されるような。
やわらかい布が、鋭い針を隠してしまう、あの感覚。
厚手のローブが脱がれる音。寝台がわずかに沈む。
アランの背後に回り込む気配があって、次の瞬間、腕が回された。
抱き寄せられる。抵抗する隙を与えないほど強いのに、抱擁そのものは丁寧だった。
まるで “守る” みたいに、肩から胸へ、体重を預けさせる角度まで計算された優しさで。
髪を撫でられる。
指先は絡まったところをほどくでもなく、ただ梳くように滑っていく。
そして髪に、短い口づけが落ちた。
熱が落ちた場所だけが、妙に生々しく残る。
さっきまで――つい数時間前まで、相手を追い詰め、答えを吐かせ、痛みを与えていた男と同じ人間とは思えないほど、呼吸が穏やかで、声が静かだ。
「愛しています、アラン」
耳元で囁かれた言葉は、甘いのに怖かった。
甘いからこそ。音色がとろけるほど、昼の鋭さと繋がってしまって、背筋がぞくりと粟立つ。
人はこういうとき、どんな顔をすればいいのだろう。
アランは喉が鳴りそうになるのを必死に押し込めた。感情が追いつかない。
愛していると告げられているのに、胸に湧くのは安心ではなく、緊張だった。優しさに包まれているのに、逃げ場がなくなった気がした。
レギュラスの手が顎に伸びた。
軽く掴む――というより、触れるだけで方向を変えられる、と言い聞かせる仕草。
その指先が顎先を上げると、アランの視線はいやでも彼の顔へ引き寄せられた。
灰色の瞳は穏やかに見えた。
穏やかに見えるように整えられている、とも言える。
その瞳の奥に、ほんのわずかな愉しさが潜んでいるのを、アランは見落とさない。
「夫に愛していると言われたら、妻はどうするんですかね?」
問いは柔らかい。冗談めかしている。
けれどそれは “問い” の形をした命令だった。
正しい返答を知っていることを前提に、逃げ道だけを塞いでくる。
アランの胸がきゅっと縮む。
言葉の順番を間違えればまた何かが起きる、そんな条件反射がもう体に染みついてしまっている。
それが悔しいのに、喉は従ってしまう。
「……愛しています」
慌てて、けれど丁寧に。
声が震えないように整えながら、それでも息が少し乱れた。
その返答に、レギュラスの口元がふわりと綻ぶ。
勝利の笑みではない、満足の笑み。
それがいっそう、ぞっとするほど優しい。
「いい子ですね」
褒め言葉のように落とされる。
アランは胸の奥が熱くなるのを感じた。嬉しさではない。屈辱でもない。
どちらとも言い切れない、ただ、身体のどこかが従ってしまう感覚。
レギュラスはアランの頬に指を滑らせた。涙の跡をなぞるでもなく、傷を確かめるでもなく、ただ “そこにある美しさ” を確かめるみたいに。
そのまま顔を寄せ、唇が触れた。
深くはない。激しさもない。
それなのに、胸の奥がきゅっと鳴る。
唇が重なる時間の短さが、むしろ「これで足りるでしょう?」という合図のようで、逃げ場がなくなる。
離れ際、レギュラスはまた囁く。
「可愛いですね、今夜のあなたは」
昼の残酷さが、甘い言葉の中に溶けている。
“罰” のあとに “褒美” を与える手つきで、感情を混乱させ、判断を鈍らせる。
それが意図だと分かっていても、アランは抗えない。抗うほどに深く絡め取られることも、もう知っている。
アランは息を整えようとして、できなかった。
胸が上下して、喉が渇いて、腕に残った熱がまた疼いた。
その疼きに、さっきの言葉が被さる。
――愛しています。
同じ言葉なのに、ローランドのそれとは違う。
レギュラスの愛しているは、温度のある鎖だ。
抱きしめる腕も、髪に落とされる口づけも、柔らかいまま逃げ道を奪う。
それでも、彼が今夜纏っている甘さに、どこか救われてしまいそうになる自分がいる。
責められるより、追い詰められるより、こうして “可愛い” と言われているほうが楽だと、体が覚え始めてしまっている。
その事実がいちばん怖い。
レギュラスはアランの返答を待つように、ただ見つめた。
瞳の中に自分が映っているかを確かめるように。
勝利を確信するために。
アランは微笑もうとした。
うまく、妻らしく。
けれど口元が引きつるのを、レギュラスは見逃さない。
「無理に綺麗にしなくていいですよ」
言いながら、もう一度、短い口づけが落ちる。
その優しさが、刃より鋭く胸に刺さった。
「今夜は――僕だけ見ていればいい」
甘い声は、命令の形をしていなかった。
けれど、拒む選択肢を最初から消している。
アランはその事実に気づいて、息を呑み、そして――何も言わないまま、ただ頷いてしまう。
頷いた瞬間、レギュラスの指が髪を撫でる。
褒めるように、慰めるように、所有を確かめるように。
寝室の灯りが揺れる。
甘い香りの奥で、鎖の音が小さく鳴っていた。
ローランドがブラック家の門をくぐったのは、まだ朝の光が完全に強くなる前だった。
石畳には夜露の名残が薄く残り、靴底がわずかに冷たさを拾う。屋敷の窓という窓は整然と閉じられているのに、内側にはすでに人の気配が満ちていて――この家の「朝」が、静かに規則正しく動き出しているのがわかった。
約束の時刻。
アルタイル・ブラックに朝から付くため。そう、命じられたとおりに。
執事に案内され、広間の先の食堂へ向かう途中、ローランドは息を整えた。
何度来ても慣れない。天井の高さ、絨毯の厚さ、壁に掛かる肖像画の目線。ここでは礼節が鎧であり、同時に首輪でもある。緊張の紐が喉に巻きついたまま、ほどけない。
食堂にはすでに家族分の朝食が整えられていた。
銀の蓋の下に香りが閉じ込められ、カトラリーは一分の狂いもなく並べられ、淡い紅茶の湯気だけがこの場に「温度」を添えている。
その完璧な席の中で、ひとつだけ空席があった。
アランの席。
皿も、カップも、ナプキンも――揃っているのに、本人だけがいない。
ローランドはそこに視線を置いた瞬間、胸の奥が嫌な形で縮んだ。
昨夜の記憶が、直接ではないのに、肌に触れるような距離で蘇る。
考えないようにしてきたこと。見ないようにしてきたもの。
それをこの屋敷は、朝の光の中に平然と並べてくる。
「フロスト殿」
名を呼ばれ、ローランドははっと背筋を正した。
レギュラス・ブラックが席にいる。いつものように整った身なりで、いつものように微笑んでいる。
その微笑みは穏やかなはずなのに、どこか薄い膜のようで、指で触れたら切れるのではないかと思うほど危うい。
「アランが起きてこないんですよ」
言葉の調子は雑談みたいだった。
けれど、その瞬間ローランドは理解する。ここから先は雑談ではない、と。
「こういう時――」
レギュラスは視線をゆっくりと、空席からローランドへ移した。
「僕はアルタイルを連れて起こしに行きます。お願いしてもいいですか?」
呼吸が一瞬止まる。
断れるはずがなかった。断っていい理由が、この家には存在しない。
ローランドが答えを探すより先に、足元で小さな気配が動いた。
アルタイルだった。
よちよちと、それでも迷いのない足取りでローランドのところへ来る。小さな手が、当然のように差し出される。
「……承知いたしました、ブラック様」
声が硬い。自分でもわかる。
それでも礼儀の形に押し込めるしかない。ローランドはそっと、幼子の手を取った。
温かい。
指は小さく、柔らかく、力は弱いのに、引かれると抗えない。
――この子の父が、今さっき言ったとおりの「日常」を、わざわざ自分に渡したのだと気づいた瞬間、胃のあたりが静かに痛んだ。
廊下は長く、静かだった。
朝の光が窓から斜めに差し込み、埃さえ品よく舞っている。肖像画がアルタイルを見て微笑み、ローランドを見て目を細める。
家の中のすべてが、アルタイルを「主」として受け入れている。ローランドの存在だけが、そこに浮いていた。
寝室の扉の前で、ローランドは一度立ち止まりかけた。
ノックをすべきだ。礼儀として。最低限の配慮として。
けれど――
アルタイルは迷わなかった。
小さな手でドアノブに触れ、慣れた仕草でひねる。
「アルタイル様、まずノックを――」
間に合わない。
扉がするりと開き、室内の温かい空気が廊下へ滲み出た。眠りの匂い。布の匂い。人の気配がほどけたまま残る匂い。
アルタイルは扉を開けた瞬間、室内の中央へ向けて走っていった。
ローランドの足が固まる。追いかけるべきなのに、踏み込むべきではない場所に踏み込んでしまった感覚が、胸をきつく締めた。
広い寝台が見える。
天蓋の影の下、柔らかな布が波のように折り重なり、その中心に――人が眠っている。
「まま!」
アルタイルが叫ぶように呼び、寝台に駆け寄って、眠る体を揺さぶる。
あまり揺らしてはいけませんよ、と口をついて出た。
「……あまり揺らしてはいけませんよ、アルタイル様」
声が、いつもより低く、慎重だった。
叱るつもりはない。ただ、ここが――自分がいるべきではない場所であることを、少しでも薄めたかった。
アランが、ゆっくりと目を開けた。
一瞬、状況が掴めていない顔をして――次の瞬間には母の顔になる。
起き上がり、迷いなくアルタイルを抱きしめる。
「アルタイル……どうしたの?」
声はまだ眠りに沈んだままで、柔らかい。
その声を聞くだけで、ローランドは喉の奥がひりついた。
以前の呼び方が、危うく唇の裏まで出かける。名前を呼びたい衝動を、礼節で噛み潰す。
アランの髪はほどけ、頬には眠りの跡が薄く残っていた。寝不足を隠しきれていない。
けれど、それ以上に視線を奪うものがあった。夜の名残を隠すように――薄い布とシーツが、肩口に引き寄せられている。整えるより先に子どもを抱いたのだろう、その仕草があまりに自然で、あまりに無防備だった。
ローランドは、反射的に視線を落とした。
見てはいけない。
見られる資格がない。
それを理解しているからこそ、体が勝手にそうした。
それでも――わかってしまう。
この光景は「偶然」ではない。
レギュラス・ブラックは、ローランドにこれを見せたかったのだ。
昨夜、寝室には夫婦の時間が当たり前に流れていたのだと。
そして今朝も、それが続いているのだと。
言葉ではなく、景色で、突きつけるために。
アルタイルはアランの胸元に頬を擦り寄せ、安心しきったように小さく笑った。
アランが指先で子の髪を整える。その動きが、あまりに優しい。
ローランドの胸の奥に、熱いものがせり上がる。痛みと、嫉妬と、罪悪感が、どれも同じ色で混ざってしまう。
――あの魔法写真と、同じだ。
自分の手で、笑う彼女を、近すぎる距離で写し取ったあの瞬間。
ふざけてシャッターを切り、慌てて笑われ、奪い合うようにカメラを握った時間。
それが、今、別の文脈で目の前にある。
しかも、それは「夫の寝室」の中で。
「母」として。
「ブラック夫人」として。
ローランドは唇を結んだ。息が震えないように。
背筋を伸ばし、目線を上げないまま、できる限り穏やかに言った。
「……ブラック夫人。朝食の席が整っております。アルタイル様をお連れするよう、ブラック様より仰せつかりました」
どこまでも丁寧に。どこまでも距離を守って。
それが今の自分の唯一の盾だった。
アランの動きが、一瞬だけ止まった。
抱きしめたままの腕が微かに強張る。
ローランドは見なくてもわかった。彼女が何を察したか。何を飲み込んだか。
それでもアランは崩れない。
母の顔のまま、静かに息を整え、アルタイルの背を優しく撫でた。
「……ありがとう、フロスト殿。すぐに行きます」
その声は穏やかで、正しい。
正しいからこそ、ローランドは苦しかった。
この屋敷の朝は、完璧に回る。
誰かの胸が裂けていようと、罪が焼けついていようと、そんなものは最初から無いかのように。
銀器は磨かれ、紅茶は冷めず、子どもは笑う。
ローランドは、扉の外へ退くしかなかった。
一歩下がるたびに、背中に熱い視線が刺さる気がする。
振り返ってはいけない。振り返った瞬間、自分はもっと醜くなる。
廊下へ戻ったところで、ローランドは小さく息を吐いた。
喉が渇いているのに、唾さえ飲み込めない。
胸の奥で、何かが静かに崩れていく音がした。
――あの男は、朝からこんな刃を差し込むのか。
微笑みながら、礼儀正しく、堂々と。
そして自分は、断れない。アルタイル様の手を引き、夫婦の寝室へ入り、ブラック夫人を起こした。
その事実が、首輪のように喉に残ったまま離れない。
ローランドはただ、食堂へ戻る道を歩いた。
朝の光がやけに眩しくて、目を細めるふりで、滲みそうになるものを必死に堪えた。
朝の食堂は、いつもどおり完璧だった。
磨き抜かれた銀器は薄い光を抱き、白磁の皿は雪のように冷たく清潔で、布のナプキンの折り目さえ乱れがない。窓から差し込む淡い陽が、湯気を上げる紅茶の輪郭を柔らかく撫でていく。人の気配も足音も、すべてが絨毯に吸われて、音になりきらないまま沈んでいく。
その中心に、レギュラス・ブラックが座っていた。
父であり、夫であり、この屋敷の当主として。
アルタイルは椅子の上で小さく背筋を伸ばし、食卓に置かれた皿を覗き込んでいる。まだ幼いのに、ここでは「そう座ること」を覚えさせられているのが見て取れた。隣に座る乳母が、必要以上に手を出さないよう、指先を膝の上で揃えている。
ローランドは少し離れた位置に控え、背筋をまっすぐに保ったまま、居場所のない自分の呼吸を整えていた。
食堂の空気は温かいはずなのに、胸の内側だけが冷える。あの寝室の匂いと肌の無防備さが、視線を落としたはずの目の裏にまだ残っている。
扉が静かに開き、アランが入ってきた。
髪はきちんとまとめられている。肌を隠す衣服も整っている。けれど、その整い方が、まるで傷口に丁寧に包帯を巻いたようで、余計に痛々しかった。彼女はいつも通り礼儀正しく、足取りも静かで、笑みさえ薄く貼り付けたまま席に着く。
その瞬間、レギュラスの視線が彼女の全身をさらりとなぞった。
優しさに似た速度で、しかし逃げ道を一切与えない精度で。
「アルタイル、しっかり食べてくださいね」
柔らかな声。朝の挨拶のように自然で、親が子にかける言葉として完璧だった。
「はい!」
アルタイルが元気よく答える。小さな口がぱっと笑う。
その笑い声だけが、食堂に生きた音として落ちた。
レギュラスはそれを聞いて満足そうに口元を緩め、次に、視線をアランへ移した。
彼女が匙を持つ手。皿の上のものをどう切り分けるか。口に運ぶ量。咀嚼の回数。飲み込む速度。紅茶に触れるタイミング。――すべてが観察されているのが、見ているローランドにもわかった。
アランは気づいていないふりをした。気づかないふりをすることでしか、ここにいられない。
「……そういえば」
レギュラスが、まるで話題を変えるような調子で言った。
「避妊はしてました?」
言葉が、食卓の上に落ちた瞬間。
銀器の輝きが一段冷たく見えた。
朝食の席で交わされていい種類の言葉ではない。
それなのに、レギュラスは端正な微笑みを崩さず、真っ直ぐに、アランだけを見て問いかける。まるで当然の確認事項であるかのように。
アランの頬がさっと赤く染まった。
彼女は反射的に視線を伏せる。唇がわずかに開き、閉じる。喉が動いて、言葉にならない息が落ちる。子の前で、他人の前で、妻として、女として、その問いに晒される羞恥が、肌の下を一気に熱くしたのがわかった。
ローランドは、息が詰まった。
目のやり場がない。視線を上げれば、彼女の顔色の変化を盗み見たことになる。下げれば、逃げたことになる。どちらも罪だった。
レギュラスはアランの反応を待たず、手元のベルを鳴らした。澄んだ音がひとつ、空気を切る。
使用人がすぐに現れる。
「医務魔法使いの手配を。検査だけお願いします」
淡々と命じる声。そこに迷いはない。
「検査結果は――」
視線をアランから逸らさずに続ける。
「僕が聞きますね」
アランは小さく頷いた。頷くしかない。
その頷きが、了承というより服従に近い形をしているのが、ローランドの胸をえぐった。
「次の月経がくれば、それも教えてください」
さらりと付け加えられる。
アランは指先をきゅっと握りしめ、もう一度頷く。
「はい……」
声が、細い。
レギュラスはそこでようやく、もう一度同じ問いを繰り返した。
「で、どうなんです? 避妊はしたんですか」
医務魔法使いを呼び、検査まで命じておいて。
それでもなお、答えをこの場で口にさせる必要があるのか。あるはずがない。
けれど、レギュラスが欲しいのは結果ではない。
「答えさせること」そのものだった。
アランは口を閉ざしたまま、匙を動かそうとした。
口に物が入っているから、今は答えられない――そんなふうに見せかけるように。小さな取り繕い。わずかな抵抗。母としての顔に逃げ込む癖。
それが、許される範囲に収まるとでも思っているのか、と言わんばかりに。
「……聞こえます? アラン」
レギュラスの声は穏やかなままだ。
けれど、その穏やかさが、刃物の背で撫でられているように冷たい。
「耳も診てもらいます?」
冗談めいているのに、笑えない。
食堂の空気がさらに薄くなる。アルタイルの咀嚼の音だけがやけに大きい。
アランは俯いたまま、答えられない。答えない。
顔の赤みだけが残って、言葉は出てこない。
レギュラスはふっと息を吐き、カトラリーを置いた。
――その音が、やけに響いた。
銀が皿に触れる乾いた音。
朝の静けさの中で、それは合図のように鳴った。ここから先の温度が変わる、と誰もが理解する音だった。
レギュラスは背を崩さない。微笑みも崩さない。
ただ、声だけが、ほんの少し低く落ちた。
「アラン」
名を呼ぶだけで、空気が締まる。
「アルタイルの前で怒らせます?」
アルタイルの名が出た瞬間、アランの顔が上がった。
母の顔が、反射で現れる。子の前で、子に聞かせるべきではないものを見せるな――そう脅されると、人は逆らえなくなる。
アランはまさに、その部分を握られている。
ローランドは歯を食いしばった。
母である部分を、人質のように扱われる。あげあしを取られる。その残酷さが、見ていて息苦しい。助けたいのに、助けられない。むしろこの場にいること自体が、彼女を追い込む装置になっている。
アランの唇が震えた。
ほんの一拍、呼吸を探して。
「……しました」
絞り出すような声だった。
それでも言葉にした瞬間、彼女の肩が微かに落ちた。言わされた、と身体が理解してしまう落ち方。
レギュラスは、その答えを聞いても表情を変えない。
むしろ、やわらかく整った微笑みを戻す。
「したなら最初から言えばいいでしょうに」
叱るようでいて、責めている。
責めているようでいて、正論の顔をしている。
「念のため検査は受けてくださいね」
優しい声で締める。
それが余計に残酷だった。アランの羞恥も沈黙も、すべて「当然の手続き」の一部として棚に並べられていく。
アルタイルは何も知らず、口の端に少しだけ食べ物をつけたまま、また元気よくスプーンを動かしている。
世界は、平然と続く。
ローランドは、胸の奥がひどく痛んだ。
食卓の美しさが、完璧であればあるほど。アランの頬の赤みが、息を潜めるほど小さければ小さいほど。
この男が、朝からどこまでも追い込むことができるのだと、明確に見せつけられる。
レギュラス・ブラックは、父であり夫であり当主だった。
その肩書きのすべてを使って――朝の食卓すら、裁きの場に変えることができる男だった。
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