2章
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ローランドは、唇を震わせ、目を閉じた。
目を閉じた闇の中で、アランの泣き腫らした瞳が浮かぶ。
跪いて、懇願して、頭を下げて。
それでも責められる彼女の姿が、鮮明に浮かんでしまう。
ローランドは息を吸った。
肺が痛い。胸が痛い。心がもう、裂けそうだった。
それでも――この場で彼女を守れるのは、自分の口だけだ。
「……愛していました」
言ってしまった瞬間、空気が凍る。
自分でも分かる。最悪の言葉だ。
最悪だと分かっていて、なお出てしまった。
床のアランが、声にならない悲鳴のように肩を震わせた。
ローランドの胸も、同じように震えた。
レギュラスは笑わない。怒りもしない。
ただ、グラスの水面にまた指先を触れ、静かな波紋を広げる。
その波紋が消えるまでの時間が、永遠みたいに長かった。
そして彼は、穏やかな声で、ゆっくりと言った。
「……そうですか」
それだけで、ローランドは悟った。
終わらない。
ここから先はもっと深く、もっと細かく、もっと逃げられない形で――
心はズタボロだった。
それでも答えるしかない。
答えるたびに、自分が醜くなる。
答えるたびに、アランが壊れていく。
それが分かっているのに、止める手段がどこにもない。
暖炉の火の音だけが、冷え切った礼儀の中で、ひどく遠くに聞こえていた。
ローランドの唇から「愛していた」という言葉が落ちた瞬間。
室内の空気が、わずかに揺れた――そう錯覚するほどに、レギュラスの内側で何かが静かに沸騰した。
怒鳴り声は出ない。拳も上がらない。
代わりに、背筋の奥で熱がゆっくりと積もっていく。血が煮えていくのに、表情だけは崩れない。崩したくない。崩すのは、この場にいる“自分”ではなく、目の前の男の方でなければならない。
暖炉の火が、乾いた音を立てた。
赤い光が、磨かれた床の艶に小さく跳ね返り、応接間をぬるく照らす。
そのぬるさが、ひどく不快だった。まるで、罪を包み隠してやるような温度だ。
レギュラスは、グラスに指先を添えたまま、ゆっくりと視線だけを上げた。
ローランドの顔は蒼白で、喉仏が小刻みに動く。
アランは床に近い位置で――まだ、そこにいる。泣き腫らした瞳の赤が消えきらず、息を吸うたびに肩が震えている。けれど声を出さない。出せない。出せば、この男はまた刃を増やすのだと、身体が覚えてしまったように。
その姿すら、今は腹の底をかき回す燃料にしかならなかった。
「……初めてお会いした時に」
レギュラスの声は、奇妙なほど柔らかかった。
水面に浮かべる声だ。波風を立てないまま、確実に沈めるための。
「忠告したはずですよ、フロスト殿」
名を呼ぶのではなく、称号のように呼ぶ。
わざと距離を作り、わざと礼節で締める。
言葉の鞘を整えた刃は、抜いた瞬間より、鞘に収めたままの方が痛いと知っている。
ローランドが、咄嗟に頭を下げかける。
その動きすら、今のレギュラスには滑稽だった。
この男は、頭を下げることで自分の品位を守れると信じている。どこまでも真面目で、どこまでも礼儀に縋って生き延びようとする。――そのくせ、やっていることは、礼儀の対極だ。
「正しい選択を、と」
レギュラスは微笑んだ。
微笑みの形のまま、胸の奥の熱をきちんと折り畳む。
その熱をむき出しにすれば、ただの怒りになってしまう。怒りは消費される。だが、整えた冷たさは残る。残って、刺さり続ける。
ふと、記憶が一枚、引き抜かれる。
――フロスト家の屋敷の玄関。
磨き上げられた扉の取っ手の冷たさ。靴底に伝わる絨毯の厚み。
通された応接間の、妙に整った静けさ。
向かいに座ったローランド・フロストの、まっすぐで、誠実をそのまま形にしたような顔。
「セシール家に、アラン・セシールを妻に迎えたい」
淡々と告げた。あまりに当然のことのように。
圧倒的な条件を、並べて、重ねて、逃げ道を消して。
そして最後に、まるで慈悲でも示すかのように付け足した。
――彼女の未来を思うなら。
――あなたは、正しい選択を。
その時のローランドは、何も言えない顔をしていた。
言葉を探しながら、品位を失わないように口を閉ざし、黙って耐える顔。
あの沈黙が、今となっては笑える。
正しい選択をしたふりをして、正しい顔のまま、間違いの中心に立っている。
現実の応接間に戻る。
レギュラスは、ゆっくりとグラスを置いた。
硬い音が鳴り、ローランドの肩が微かに跳ねる。
「……それが今」
レギュラスは少しだけ首を傾けた。
穏やかな疑問を装う角度。相手に“自分が間違っているのかもしれない”と思わせるための。
「正真正銘、妻となった女を」
“妻”という言葉を、丁寧に置く。
置いた瞬間に、アランの指先がわずかに震えた。
ローランドの瞳が揺れた。
その揺れが、レギュラスの腹の底に、また熱を落とす。
「堂々と、ブラック家の屋敷の中で」
レギュラスは、視線だけで室内を撫でた。
暖炉。重いカーテン。磨かれた家具。
この家の秩序、その象徴。
ここにあるのは、ただの部屋ではない。血と名と、規律と支配の器だ。
その器の中で、平然と“愛していた”と口にした。
「……愛していた、ですか」
再度、ゆっくり反芻する。
言葉の形を整え直すだけで、罪の輪郭が鮮明になる。
ローランドの唇が震えた。
何か言い訳を探しているのだろう。
けれど、レギュラスは言い訳のための時間を与えない。与える必要がない。
「フロスト殿。あなたは――」
穏やかな声のまま、刃先だけを研ぐ。
「“愛していた”と過去形にしたから、許されるとでも?」
ローランドの喉が鳴った。
否定したいのに、否定の言葉が見つからない。
過去形にした瞬間に、余計に卑怯さが際立つ。
今もまだ、という告白を隠すための形にしか聞こえないからだ。
レギュラスは、微笑みを崩さないまま、一歩だけ距離を詰めた。
近づいたのではない。
逃げる余白を削っただけだ。
「あなたはね、フロスト殿」
柔らかく言う。
柔らかいほど、骨が折れる。
「正しい顔のまま、間違いを選べる人間なんですね」
ローランドの目が見開かれる。
それは侮辱だった。
人格に対する。誇りに対する。
この男が最後まで守ろうとする“善良さ”に対する、最も効く形の攻撃。
「……そんなつもりは」
絞り出した声が、空気の中で薄く震えた。
レギュラスは、答えを待つようでいて待たない。
「そんなつもりはない、ですか」
彼の言葉を拾い、丁寧に扱うふりをする。
扱うふりをしながら、裏返して、突きつける。
「なら、どういうつもりでした? フロスト殿」
問いの形をしている。
けれどここには、答えの自由はない。
どれを選んでも痛みが残るように、道はすでに整えられている。
ローランドが息を吸う。
吸って、吐けない。
吐けば、その息に混じって、また罪が出てしまう。
アランが、かすかに顔を上げた。
泣き疲れた瞳が、レギュラスを見る。
怯えと、憎しみと、諦めが混じった、ひどく複雑な光。
その光が――レギュラスの内側の熱を、さらに煮え立たせた。
この女は、自分を嫌っている。
嫌っていい。嫌われることは覚悟している。
けれど、他の男のためにこの女が壊れた。
自分のものを、他人が勝手に汚した。
それが許せない。
怒りは、アランに向けたいわけではなかった。
アランの弱さに苛立つことはあっても、それは別の種類だ。
今ここで、踏み躙りたいのは――ローランドの方だった。
礼儀。誠実。正しい顔。
それらを盾にして、最後まで生き残ろうとする男の、薄い皮を剥いでやりたかった。
“守る”と言いながら、守り切れなかった男の、無力さを、形にして床に落としてやりたかった。
レギュラスは、ふっと小さく息を吐いた。
怒りが溢れ出る直前、綺麗に整え直すように。
「……あの日」
静かに、過去へ引き戻す。
「あなたに伝えましたよね。圧倒的な条件を提示して、セシール家に――」
“妻にと申し込んだ”という言葉を、寸でのところで飲み込む。
わざとだ。そこまで言わなくても、二人には刺さる。
刺さって、勝手に深くなる。
「彼女の未来を思うなら、と」
レギュラスは、ローランドの瞳を見つめたまま微笑んだ。
「フロスト殿。あなたはその未来を――」
言い切らない。
言い切らないから、補完が生まれる。
補完は、言葉より残酷になる。
「……踏みつけましたね」
最後の一語だけを、淡く置く。
抑揚も、怒号もない。
だからこそ、その言葉は室内のどこにも逃げずに落ちた。
アランが小さく息を呑んだ。
ローランドの肩が崩れそうに揺れる。
レギュラスは穏やかなまま、続けた。
「その上で、“愛していた”と」
微笑みが、ほんのわずかに細くなる。
「随分と、都合のいい誠実さだ」
ローランドの唇が開きかける。
謝罪か、言い訳か、懇願か。
けれどレギュラスは、その前に視線を滑らせた。
床にいるアランへ。涙の跡が乾ききらない頬へ。乱れた呼吸へ。
そして、またローランドへ戻す。
「フロスト殿」
その呼びかけは、丁寧で、優しい。
優しいほど、逃げられない。
「あなたは、何を守ったんです?」
答えのない問い。
答えた瞬間に崩れる問い。
ローランドは声を失った。
失った声の代わりに、目が揺れる。
その揺れを見て、レギュラスの内側で、怒りがゆっくりと形を持つ。
この男も、可能な限り踏み躙りたい。
拳でではなく。足ででもなく。
言葉と礼儀と、正しさの形をした刃で。
アランを踏みつけたように――同じだけ、いや、それ以上に。
レギュラスは、微笑んだまま、次の問いを準備した。
息を吸う音すら静かに。
まるで次の一手が、当然の家族の会話であるかのように。
「では、もう少しだけ。確認しましょうか」
その声が落ちた瞬間、応接間の温度がまた一段、冷えた。
応接間の空気は、ひとたび冷えたらもう戻らなかった。
暖炉の火は燃えているのに、熱が届かない。むしろ赤い光が、冷たいものを照らしているだけのように見える。
テーブルの上に置かれた写真の束は、紙というより――罪の塊だった。
角の揃わないそれらを前に、ローランドは指先ひとつ動かせずにいる。拾えと言われても拾えない。拾うという行為そのものが、認めるという告白に直結してしまうからだ。
アランは息を殺している。
視線を落とし、唇を噛み、身体をできる限り小さくしている。けれどそれは“見えなくなる”ためではない。見えてしまう。ここにいる限り、何をどうしても。
レギュラスは、椅子の背にゆったりと身を預けていた。
余裕の形だけを保ち、声だけを温度として置いていく。優しい声で、残酷なことを言う――そのやり方が、この男の最も得意な遊びだった。
「では、確認しましょうか。フロスト殿」
ローランドが反射的に背筋を正す。
礼儀。礼節。魔法省で染みついた癖。
それが今夜だけは、致命傷になりうる。整えれば整えるほど、無様に壊される。
「……ブラック様」
呼びかける声が震えた。
震えを隠したいのに、喉が勝手に反応してしまう。
レギュラスは微笑んだ。
その微笑みは、許しではない。刃を研いだ合図だった。
「どんなふうに……抱いたんです?」
言葉は柔らかいのに、問いは露骨だった。
ローランドの中で、血の気が一瞬で引く。
言えるわけがない。
言葉にした瞬間、すべてが“形”になる。
記憶は記憶のままなら、まだ心の奥に隠せる。だが言葉にしたら、ここに並べられる。写真と同じように。晒される。
ローランドの唇が開く。閉じる。
息だけが浅く、喉を擦って鳴った。
「……答えられません」
やっと絞り出した声は、懇願に近い。
レギュラスは、少しだけ首を傾けた。
興味深そうに。理解できないと言いたげに。
「答えられない? どうしてです?」
問い返しが、もう罠だった。
“言えない理由”を語らせた瞬間、ローランドは自分で自分の首を締めることになる。
ローランドは喉の奥が焼けるように痛んだ。
視線が、どうしてもアランへ向きそうになる。
向けたくない。向けたら終わる。彼女の瞳に映った自分の醜さに耐えられない。
けれど――レギュラスはそれを許さなかった。
「何を一番、悦びました?」
音もなく次が落ちる。
まるで、最初からそこに辿り着くことが決まっていたように。
ローランドの身体が目に見えない衝撃を受けたように強張った。
拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。それでも震えは止まらない。
言えない。言えない。そんなものは言えるわけがない。
あれほど守ろうとしてきた線引きを、今ここで自分の口で踏み越えろと言われている。
「……やめてください」
ローランドの声は掠れていた。
敬語も崩れかける。それでも必死に形を保つ。
形を保てば保つほど、レギュラスの目が楽しげに細くなる。
「やめて、ですか」
レギュラスは微笑んだまま、アランの方を一瞥した。
視線だけ。けれどその一瞬で、アランの肩がびくりと跳ねる。
「昨夜、妻はね。ただ首を振るだけでしたよ」
淡々と告げるのに、言葉は汚れていた。
ローランドの胸が、殴られたように痛む。
アランは昨夜、どれほど責められたのだろう。
どれほど言えないことを、言わされたのだろう。
その想像だけで、胃が捻れた。
「退屈だったんです」
レギュラスは、さも軽い感想みたいに言う。
軽いはずがない。
その“退屈”という単語は、アランの尊厳を削る刃でもあり、ローランドの心臓を刺す棘でもあった。
「だから、あなたに聞きます」
ローランドの息が止まる。
“妻ではなく、あなたに”。
その言い方が、あまりにも露骨だった。
レギュラスは、ローランドの反応を一拍待ってから、さらに滑らかに続ける。
「言えないなら――仕方ないですね」
仕方ない、という言葉が、最も怖かった。
“仕方ない”の後に、この男が選ぶものはいつだって残酷だからだ。
レギュラスは、今度はアランを見た。
慈愛深い夫の眼差しの形で。
それがひどく歪んで見える。
「また妻に言わせるまで、続けるだけになりますよ」
静かな宣告。
それは脅しではなく、予定の確認だった。
この男は本気だ。時間も、夜も、アランの涙も、ローランドの心臓も、すべて消費していく。
アランの唇がわずかに震えた。
声を出すかどうか迷っているのが見て取れる。
出したら出したで、今度はその声を材料にされる――それも分かっているのだろう。
だから、ただ呼吸だけが乱れる。
ローランドは、耐えきれずに一歩前へ出かけた。
足が勝手に動いた。止められない。
「どうか……」
喉から出たのは、懇願だった。
言葉の形にならないほどの、情けない声。
「どうか、もう……」
レギュラスは、そこで初めて“楽しそうに”笑った。
声を立てない笑い。目元だけが少し弛む。
「何を、です? フロスト殿」
逃げ道を与えるふりをしながら、逃げ道を塞ぐ問い。
ローランドは奥歯を噛みしめた。
悔しい。屈辱だ。けれど――アランがまた壊されるのは耐えられない。
ローランドは、椅子の背に触れそうな距離まで歩み寄り、膝が折れそうになるのを必死で堪えた。
視線は上げられない。上げたら、レギュラスの灰色の瞳に“負け”が映る。
それでも、言わなければならない。
「……これ以上、彼女に……」
やっと出た言葉の途中で、喉が詰まる。
“彼女”と呼んでしまった。
その呼び方ひとつで、レギュラスの口元がわずかに歪む。
「彼女?」
優しい声。
けれどその一語は、首元に指をかけるような響きだった。
ローランドは慌てて言い直そうとする。
だが、もう遅い。
レギュラスはその“遅さ”を逃さない。
「……妻、と言いなさい。フロスト殿」
ローランドの身体が硬直する。
言い換えるだけでいいはずなのに、口が動かない。
“妻”という言葉は、レギュラスの所有を認める言葉だ。
それを自分の口で言うことが、あまりにも――惨めだった。
レギュラスは、少し身を乗り出した。
柔らかな動作。なのに空気が圧迫される。
「言えないですか?」
笑っていないのに、笑い声が聞こえる気がした。
ローランドの耳の奥で、何かがきしむ。
「……レギュラス、やめて……」
アランが掠れた声で言った。
声が出たこと自体が、自分の首を絞めるのを分かっているのに。
それでも耐えられなかったのだろう。
レギュラスはその声に、ゆっくり視線を向けた。
見下ろす目ではない。見透かす目だ。
「やめて? 何を?」
穏やかすぎて、残酷だった。
“何を”と言わせる。
“何が起きたか”を言葉にさせる。
そうやって、本人の口から事実を作っていく。
アランが黙る。
喉が上下し、涙が溜まる。
言えない。言えば終わる。言わなくても終わらない。
レギュラスは、ローランドへ戻った。
何もなかったように。話を元に戻すように。
「では、フロスト殿。協力してください」
協力。
その言葉の皮が薄すぎて、刃が透けていた。
「あなたが答えてくれないと、妻はまた――」
一拍、わざと間を置く。
その間に、ローランドの心が崩れる音がした。
「ボロボロになるまで責められますよ」
言い切った瞬間、ローランドの中の何かが折れた。
折れてしまったことがわかる。
折れた瞬間、世界が少しだけ静かになる。
それが怖い。自分が自分でなくなる合図みたいで。
ローランドは息を吸い、吐く。
喉が痛い。胸が痛い。
それでも、言葉を探すしかない。
しかし、レギュラスは“答え”を待つふりをして、さらに追い込んだ。
「どう抱いたか。どんな言葉をかけたか。どんな顔をしたか」
行為そのものを描写しなくても、問われるだけでもう地獄だった。
想像が勝手に蘇る。
あの部屋。あの匂い。あの温度。
それを言葉にしたら、今度こそ永遠に汚れる。
ローランドは震えながら、首を横に振る。
拒否ではない。懇願だ。許してくれという無言の。
レギュラスは、その“無言”を一番嫌う。
「首を振るだけ、ですか」
淡く笑う。
そして、静かに告げた。
「昨夜と同じですね。妻と」
その一言で、アランが小さく息を呑み、肩を落とした。
ローランドの胸の奥が焼けた。
ローランドは、とうとう膝を折りそうになり、指先がテーブルの縁を掴んだ。
掴まなければ倒れる。倒れたら終わる。
終わらせてくれ、と叫びたくなる。
「……どうか……」
もう一度、懇願が落ちる。
そしてその懇願を、レギュラスは拾わない。拾って、粉々にする。
「“どうか”では足りません」
優しい声で言い切る。
優しいのに、逃げ道は消える。
「質問に、答えてください。フロスト殿」
その瞬間、ローランドは理解した。
この男は、怒っているのではない。
怒りはもう通り過ぎている。
今ここにあるのは、冷静に組み立てられた“裁き”だ。
そして裁きは、終わりを自分で選ばせない。
終わるのは――相手が折れ、言葉を差し出し、心を削り取られた後だけだ。
ローランドは、唇を震わせたまま、言葉を探した。
一つ口にしたら、次が来る。
次を口にしたら、もっと深い穴が待っている。
それでも――アランがまた壊されるのは耐えられない。
ローランドは、目を閉じた。
そして、壊れた声で、ようやくひとつだけ、答えの形を作ろうとした。
ローランドは、喉の奥が乾いて裂けそうだった。
息を吸うたび、胸の内側が擦れて痛む。言葉にしてはいけないものを言葉にしろと言われている。しかも、ただの告白ではない。裁きの場で、刃の上で、整列させられ、順番に並べて差し出せと命じられている。
それでも――沈黙を貫く選択肢は消えた。
レギュラスの声は、さきほどから一貫して穏やかで、慈悲深い夫の形をしている。けれど、その穏やかさが意味するのは許しではない。終わらせないという宣告だった。
「……あなたが答えてくれないと、妻はまた、ボロボロになるまで責められますよ」
その一言で、ローランドの中の何かが決定的に折れた。
自分が恥を受けるのはいい。自分の品位が砕けるのも、礼節が汚れるのも、すべて自分ひとりの痛みで済むなら耐えられる。
けれど、アランが――また、あの美しい人が、目の前で跪いて、涙を落として、言いたくない言葉を吐かされる。その光景が頭に浮かんだ瞬間、身体が勝手に屈服の形を作ってしまう。
ローランドは、視線を上げられないまま、低く息を吐いた。
自分の声が出ることが怖い。震えが、みっともなさが、全部外に漏れる。
「……わかりました、ブラック様」
言った瞬間、アランが小さく息を呑む音がした。
それだけで胸が潰れる。守ろうとしているのに、いま自分の口が、彼女をもう一度刺している。
レギュラスは、頷いた。
褒めるでもなく、許すでもなく、ただ次の段取りに移る人の頷きだった。
「では。どう抱いたか。どこを好んだか」
ローランドは、唇を噛んだ。
“どこを好んだか”――その言葉が、あまりにも露骨で、卑しくて、そしてどうしようもなく正確だった。
言い換える余地がない。濁せば濁すほど、レギュラスは“曖昧さ”の隙間に刃をねじ込んでくる。
ならば、せめて誠意だけは滲ませるしかなかった。自分が口にすることで彼女の尊厳が失われるのなら、せめてそれを“遊び”や“誇り”として扱わない。言葉の温度だけでも、彼女を汚さない。
ローランドはゆっくりと顔を上げた。
上げたくなかった。けれど上げなければならない。逃げれば、アランがまた責められる。
目の前の灰色の瞳は、恐ろしいほど静かだった。
その静けさに比べれば、自分の鼓動は騒音だ。
横にいるアランは、まるで置き去りにされた子どもみたいに固まっている。頬に涙の跡が残っているのが、光に浮いて見えた。
「……乱暴なことは、していません」
最初の言葉は、言い訳にも聞こえる。
それでも言わなければならなかった。
“乱暴ではない”という一言に、ローランドがかつて彼女をどんなふうに扱っていたかが滲む。滲ませたくはないのに、滲む。
レギュラスが、口元だけをわずかに動かした。笑いとも、軽蔑とも、判断できない形。
「へえ」
それだけで、ローランドの背筋が凍る。
この男は“へえ”のあとに何を落とすか分からない。
だからローランドは続けた。止まれば飲まれる。
「……彼女が苦しくないか、痛くないかを、ずっと見ていました。呼吸が乱れたら……一度止めて、落ち着くのを待ちました」
喉が焼ける。
口にするたびに、記憶が輪郭を持ってしまう。
それでも、あえて淡く言う。あえて手順の話に落とす。彼女を“対象”として語らないために。
レギュラスは指を組み、顎に軽く添えた。
聞いているのは内容ではない。ローランドの“壊れ方”だと、ローランドには分かった。
「どこを好んだか、です」
淡い催促。
それが一番残酷だった。
ローランドの答えがどれほど慎重でも、結局そこへ引きずり出される。
ローランドは目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、あの翡翠の瞳が浮かぶ。まっすぐで、強情で、泣きそうで、泣かないふりをする瞳。
そして、いまこの場で自分が口にすることで、その瞳をまた曇らせる。
「……手です」
声が掠れた。
あまりにも情けない音が出た気がして、舌が震える。
「手で触れた時に……彼女の肩が、少しだけ緩むのが分かりました。息を……吐けるようになる。それが、……」
そこで言葉が詰まった。
“好きだった”と言えば、汚れる。
“嬉しかった”と言えば、誇ってしまう。
ローランドはそのどちらも望まない。ただ、事実として言う。事実の形にして、差し出して、終わらせたい。
レギュラスは静かに促した。
「それが?」
ローランドは、拳を膝の上で握りしめた。
爪が食い込み、痛みが戻してくる。正気に戻せ。ここは夢じゃない。ここは裁きだ。
「……それが、彼女が安心する瞬間でした」
言い切った瞬間、アランがわずかに肩を震わせた。
その反応が、ローランドの胸を抉る。
彼女にとって“安心”であったはずのものを、いま自分の口が、別の形の痛みに変えている。
レギュラスは何も言わない。
沈黙が、刃の重さを増していく。
「……言葉も、です」
ローランドは、さらに続けた。
止まれば終わらない。止まればアランがまた責められる。
守りたいものを守るために、自分が汚れていくしかない。
「彼女が……自分を責めるような顔をした時は、違う、と。あなたは間違っていない、と。そう言いました」
そこだけは、誠意が滲んでもいいと思った。
“慰め”ではない。“逃げ道”でもない。
ただ、彼女の存在を肯定したかった。それだけは、どんな裁きの場でも嘘にしたくなかった。
けれど、その誠意すら、レギュラスの前では弱点になりうる。
「なるほど」
レギュラスは、ゆっくり頷いた。
それが評価なのか、嘲りなのか、ローランドには判別できない。
ただ一つ確かなのは、終わっていないということだ。
「では――彼女は、どんな顔をしました?」
ローランドの喉が鳴った。
その質問は、“好んだ場所”よりも残酷だった。
顔。表情。声。息。
それらは肉体よりも深く、彼女の心に触れてしまう。
答えた瞬間、彼女の“内側”を暴くことになる。
ローランドは一瞬だけ、アランを見た。
見てしまった。
泣き腫らした目が、必死に涙を堪えようとしている。口元が震え、でも声は出さない。
助けて、と言わない。
言えば余計に壊されることを知っているから。
ローランドは視線を戻し、かろうじて言葉を拾った。
「……笑いました」
自分の声が、自分のものじゃないように聞こえた。
「最初は……怖がっていました。でも、途中から……少しだけ、笑って……」
言いながら、胸が裂ける。
彼女の笑みは、守りたかった。
誰にも渡したくなかった。
それをいま、レギュラスの手の中に置いている。
レギュラスの唇が、ゆっくり弧を描いた。
その微笑みが、ローランドの心臓を凍らせる。
「へえ。僕の妻は、そんなふうに笑うんですね」
“僕の妻”。
その言葉だけで、ローランドはもう立っていられないほどの羞恥に沈む。
彼女は確かにレギュラスの妻で、ローランドはそれを知っていて、それでも奪った。
奪ったと呼ぶしかない行為をした。
どれだけ誠意を装っても、事実は動かない。
ローランドは、息を吸った。
吸わなければ倒れる。
そして、最後に残っていたもの――自分の品位の欠片――を、喉の奥で飲み込む。
「……ブラック様」
声が震えた。
「これ以上は……どうか……」
懇願の形を取りながら、それでもローランドは続けた。
続けるしかないから。
自分が答えれば、アランがこれ以上削られずに済むかもしれない。
その“かもしれない”に縋るしかないほど、ローランドは追い詰められていた。
羞恥は、すでに皮膚の外に張り付いている。
誇りは、もう自分の手元にない。
残っているのはただ――アランをこれ以上壊させないという意地だけだった。
ローランドは、声を絞った。
丁寧に。礼節を守るふりをして。
自分の心臓を差し出しながら。
そのたびに、レギュラスの瞳が冷たく光り、
アランの呼吸が、静かに、静かに乱れていった。
目を閉じた闇の中で、アランの泣き腫らした瞳が浮かぶ。
跪いて、懇願して、頭を下げて。
それでも責められる彼女の姿が、鮮明に浮かんでしまう。
ローランドは息を吸った。
肺が痛い。胸が痛い。心がもう、裂けそうだった。
それでも――この場で彼女を守れるのは、自分の口だけだ。
「……愛していました」
言ってしまった瞬間、空気が凍る。
自分でも分かる。最悪の言葉だ。
最悪だと分かっていて、なお出てしまった。
床のアランが、声にならない悲鳴のように肩を震わせた。
ローランドの胸も、同じように震えた。
レギュラスは笑わない。怒りもしない。
ただ、グラスの水面にまた指先を触れ、静かな波紋を広げる。
その波紋が消えるまでの時間が、永遠みたいに長かった。
そして彼は、穏やかな声で、ゆっくりと言った。
「……そうですか」
それだけで、ローランドは悟った。
終わらない。
ここから先はもっと深く、もっと細かく、もっと逃げられない形で――
心はズタボロだった。
それでも答えるしかない。
答えるたびに、自分が醜くなる。
答えるたびに、アランが壊れていく。
それが分かっているのに、止める手段がどこにもない。
暖炉の火の音だけが、冷え切った礼儀の中で、ひどく遠くに聞こえていた。
ローランドの唇から「愛していた」という言葉が落ちた瞬間。
室内の空気が、わずかに揺れた――そう錯覚するほどに、レギュラスの内側で何かが静かに沸騰した。
怒鳴り声は出ない。拳も上がらない。
代わりに、背筋の奥で熱がゆっくりと積もっていく。血が煮えていくのに、表情だけは崩れない。崩したくない。崩すのは、この場にいる“自分”ではなく、目の前の男の方でなければならない。
暖炉の火が、乾いた音を立てた。
赤い光が、磨かれた床の艶に小さく跳ね返り、応接間をぬるく照らす。
そのぬるさが、ひどく不快だった。まるで、罪を包み隠してやるような温度だ。
レギュラスは、グラスに指先を添えたまま、ゆっくりと視線だけを上げた。
ローランドの顔は蒼白で、喉仏が小刻みに動く。
アランは床に近い位置で――まだ、そこにいる。泣き腫らした瞳の赤が消えきらず、息を吸うたびに肩が震えている。けれど声を出さない。出せない。出せば、この男はまた刃を増やすのだと、身体が覚えてしまったように。
その姿すら、今は腹の底をかき回す燃料にしかならなかった。
「……初めてお会いした時に」
レギュラスの声は、奇妙なほど柔らかかった。
水面に浮かべる声だ。波風を立てないまま、確実に沈めるための。
「忠告したはずですよ、フロスト殿」
名を呼ぶのではなく、称号のように呼ぶ。
わざと距離を作り、わざと礼節で締める。
言葉の鞘を整えた刃は、抜いた瞬間より、鞘に収めたままの方が痛いと知っている。
ローランドが、咄嗟に頭を下げかける。
その動きすら、今のレギュラスには滑稽だった。
この男は、頭を下げることで自分の品位を守れると信じている。どこまでも真面目で、どこまでも礼儀に縋って生き延びようとする。――そのくせ、やっていることは、礼儀の対極だ。
「正しい選択を、と」
レギュラスは微笑んだ。
微笑みの形のまま、胸の奥の熱をきちんと折り畳む。
その熱をむき出しにすれば、ただの怒りになってしまう。怒りは消費される。だが、整えた冷たさは残る。残って、刺さり続ける。
ふと、記憶が一枚、引き抜かれる。
――フロスト家の屋敷の玄関。
磨き上げられた扉の取っ手の冷たさ。靴底に伝わる絨毯の厚み。
通された応接間の、妙に整った静けさ。
向かいに座ったローランド・フロストの、まっすぐで、誠実をそのまま形にしたような顔。
「セシール家に、アラン・セシールを妻に迎えたい」
淡々と告げた。あまりに当然のことのように。
圧倒的な条件を、並べて、重ねて、逃げ道を消して。
そして最後に、まるで慈悲でも示すかのように付け足した。
――彼女の未来を思うなら。
――あなたは、正しい選択を。
その時のローランドは、何も言えない顔をしていた。
言葉を探しながら、品位を失わないように口を閉ざし、黙って耐える顔。
あの沈黙が、今となっては笑える。
正しい選択をしたふりをして、正しい顔のまま、間違いの中心に立っている。
現実の応接間に戻る。
レギュラスは、ゆっくりとグラスを置いた。
硬い音が鳴り、ローランドの肩が微かに跳ねる。
「……それが今」
レギュラスは少しだけ首を傾けた。
穏やかな疑問を装う角度。相手に“自分が間違っているのかもしれない”と思わせるための。
「正真正銘、妻となった女を」
“妻”という言葉を、丁寧に置く。
置いた瞬間に、アランの指先がわずかに震えた。
ローランドの瞳が揺れた。
その揺れが、レギュラスの腹の底に、また熱を落とす。
「堂々と、ブラック家の屋敷の中で」
レギュラスは、視線だけで室内を撫でた。
暖炉。重いカーテン。磨かれた家具。
この家の秩序、その象徴。
ここにあるのは、ただの部屋ではない。血と名と、規律と支配の器だ。
その器の中で、平然と“愛していた”と口にした。
「……愛していた、ですか」
再度、ゆっくり反芻する。
言葉の形を整え直すだけで、罪の輪郭が鮮明になる。
ローランドの唇が震えた。
何か言い訳を探しているのだろう。
けれど、レギュラスは言い訳のための時間を与えない。与える必要がない。
「フロスト殿。あなたは――」
穏やかな声のまま、刃先だけを研ぐ。
「“愛していた”と過去形にしたから、許されるとでも?」
ローランドの喉が鳴った。
否定したいのに、否定の言葉が見つからない。
過去形にした瞬間に、余計に卑怯さが際立つ。
今もまだ、という告白を隠すための形にしか聞こえないからだ。
レギュラスは、微笑みを崩さないまま、一歩だけ距離を詰めた。
近づいたのではない。
逃げる余白を削っただけだ。
「あなたはね、フロスト殿」
柔らかく言う。
柔らかいほど、骨が折れる。
「正しい顔のまま、間違いを選べる人間なんですね」
ローランドの目が見開かれる。
それは侮辱だった。
人格に対する。誇りに対する。
この男が最後まで守ろうとする“善良さ”に対する、最も効く形の攻撃。
「……そんなつもりは」
絞り出した声が、空気の中で薄く震えた。
レギュラスは、答えを待つようでいて待たない。
「そんなつもりはない、ですか」
彼の言葉を拾い、丁寧に扱うふりをする。
扱うふりをしながら、裏返して、突きつける。
「なら、どういうつもりでした? フロスト殿」
問いの形をしている。
けれどここには、答えの自由はない。
どれを選んでも痛みが残るように、道はすでに整えられている。
ローランドが息を吸う。
吸って、吐けない。
吐けば、その息に混じって、また罪が出てしまう。
アランが、かすかに顔を上げた。
泣き疲れた瞳が、レギュラスを見る。
怯えと、憎しみと、諦めが混じった、ひどく複雑な光。
その光が――レギュラスの内側の熱を、さらに煮え立たせた。
この女は、自分を嫌っている。
嫌っていい。嫌われることは覚悟している。
けれど、他の男のためにこの女が壊れた。
自分のものを、他人が勝手に汚した。
それが許せない。
怒りは、アランに向けたいわけではなかった。
アランの弱さに苛立つことはあっても、それは別の種類だ。
今ここで、踏み躙りたいのは――ローランドの方だった。
礼儀。誠実。正しい顔。
それらを盾にして、最後まで生き残ろうとする男の、薄い皮を剥いでやりたかった。
“守る”と言いながら、守り切れなかった男の、無力さを、形にして床に落としてやりたかった。
レギュラスは、ふっと小さく息を吐いた。
怒りが溢れ出る直前、綺麗に整え直すように。
「……あの日」
静かに、過去へ引き戻す。
「あなたに伝えましたよね。圧倒的な条件を提示して、セシール家に――」
“妻にと申し込んだ”という言葉を、寸でのところで飲み込む。
わざとだ。そこまで言わなくても、二人には刺さる。
刺さって、勝手に深くなる。
「彼女の未来を思うなら、と」
レギュラスは、ローランドの瞳を見つめたまま微笑んだ。
「フロスト殿。あなたはその未来を――」
言い切らない。
言い切らないから、補完が生まれる。
補完は、言葉より残酷になる。
「……踏みつけましたね」
最後の一語だけを、淡く置く。
抑揚も、怒号もない。
だからこそ、その言葉は室内のどこにも逃げずに落ちた。
アランが小さく息を呑んだ。
ローランドの肩が崩れそうに揺れる。
レギュラスは穏やかなまま、続けた。
「その上で、“愛していた”と」
微笑みが、ほんのわずかに細くなる。
「随分と、都合のいい誠実さだ」
ローランドの唇が開きかける。
謝罪か、言い訳か、懇願か。
けれどレギュラスは、その前に視線を滑らせた。
床にいるアランへ。涙の跡が乾ききらない頬へ。乱れた呼吸へ。
そして、またローランドへ戻す。
「フロスト殿」
その呼びかけは、丁寧で、優しい。
優しいほど、逃げられない。
「あなたは、何を守ったんです?」
答えのない問い。
答えた瞬間に崩れる問い。
ローランドは声を失った。
失った声の代わりに、目が揺れる。
その揺れを見て、レギュラスの内側で、怒りがゆっくりと形を持つ。
この男も、可能な限り踏み躙りたい。
拳でではなく。足ででもなく。
言葉と礼儀と、正しさの形をした刃で。
アランを踏みつけたように――同じだけ、いや、それ以上に。
レギュラスは、微笑んだまま、次の問いを準備した。
息を吸う音すら静かに。
まるで次の一手が、当然の家族の会話であるかのように。
「では、もう少しだけ。確認しましょうか」
その声が落ちた瞬間、応接間の温度がまた一段、冷えた。
応接間の空気は、ひとたび冷えたらもう戻らなかった。
暖炉の火は燃えているのに、熱が届かない。むしろ赤い光が、冷たいものを照らしているだけのように見える。
テーブルの上に置かれた写真の束は、紙というより――罪の塊だった。
角の揃わないそれらを前に、ローランドは指先ひとつ動かせずにいる。拾えと言われても拾えない。拾うという行為そのものが、認めるという告白に直結してしまうからだ。
アランは息を殺している。
視線を落とし、唇を噛み、身体をできる限り小さくしている。けれどそれは“見えなくなる”ためではない。見えてしまう。ここにいる限り、何をどうしても。
レギュラスは、椅子の背にゆったりと身を預けていた。
余裕の形だけを保ち、声だけを温度として置いていく。優しい声で、残酷なことを言う――そのやり方が、この男の最も得意な遊びだった。
「では、確認しましょうか。フロスト殿」
ローランドが反射的に背筋を正す。
礼儀。礼節。魔法省で染みついた癖。
それが今夜だけは、致命傷になりうる。整えれば整えるほど、無様に壊される。
「……ブラック様」
呼びかける声が震えた。
震えを隠したいのに、喉が勝手に反応してしまう。
レギュラスは微笑んだ。
その微笑みは、許しではない。刃を研いだ合図だった。
「どんなふうに……抱いたんです?」
言葉は柔らかいのに、問いは露骨だった。
ローランドの中で、血の気が一瞬で引く。
言えるわけがない。
言葉にした瞬間、すべてが“形”になる。
記憶は記憶のままなら、まだ心の奥に隠せる。だが言葉にしたら、ここに並べられる。写真と同じように。晒される。
ローランドの唇が開く。閉じる。
息だけが浅く、喉を擦って鳴った。
「……答えられません」
やっと絞り出した声は、懇願に近い。
レギュラスは、少しだけ首を傾けた。
興味深そうに。理解できないと言いたげに。
「答えられない? どうしてです?」
問い返しが、もう罠だった。
“言えない理由”を語らせた瞬間、ローランドは自分で自分の首を締めることになる。
ローランドは喉の奥が焼けるように痛んだ。
視線が、どうしてもアランへ向きそうになる。
向けたくない。向けたら終わる。彼女の瞳に映った自分の醜さに耐えられない。
けれど――レギュラスはそれを許さなかった。
「何を一番、悦びました?」
音もなく次が落ちる。
まるで、最初からそこに辿り着くことが決まっていたように。
ローランドの身体が目に見えない衝撃を受けたように強張った。
拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。それでも震えは止まらない。
言えない。言えない。そんなものは言えるわけがない。
あれほど守ろうとしてきた線引きを、今ここで自分の口で踏み越えろと言われている。
「……やめてください」
ローランドの声は掠れていた。
敬語も崩れかける。それでも必死に形を保つ。
形を保てば保つほど、レギュラスの目が楽しげに細くなる。
「やめて、ですか」
レギュラスは微笑んだまま、アランの方を一瞥した。
視線だけ。けれどその一瞬で、アランの肩がびくりと跳ねる。
「昨夜、妻はね。ただ首を振るだけでしたよ」
淡々と告げるのに、言葉は汚れていた。
ローランドの胸が、殴られたように痛む。
アランは昨夜、どれほど責められたのだろう。
どれほど言えないことを、言わされたのだろう。
その想像だけで、胃が捻れた。
「退屈だったんです」
レギュラスは、さも軽い感想みたいに言う。
軽いはずがない。
その“退屈”という単語は、アランの尊厳を削る刃でもあり、ローランドの心臓を刺す棘でもあった。
「だから、あなたに聞きます」
ローランドの息が止まる。
“妻ではなく、あなたに”。
その言い方が、あまりにも露骨だった。
レギュラスは、ローランドの反応を一拍待ってから、さらに滑らかに続ける。
「言えないなら――仕方ないですね」
仕方ない、という言葉が、最も怖かった。
“仕方ない”の後に、この男が選ぶものはいつだって残酷だからだ。
レギュラスは、今度はアランを見た。
慈愛深い夫の眼差しの形で。
それがひどく歪んで見える。
「また妻に言わせるまで、続けるだけになりますよ」
静かな宣告。
それは脅しではなく、予定の確認だった。
この男は本気だ。時間も、夜も、アランの涙も、ローランドの心臓も、すべて消費していく。
アランの唇がわずかに震えた。
声を出すかどうか迷っているのが見て取れる。
出したら出したで、今度はその声を材料にされる――それも分かっているのだろう。
だから、ただ呼吸だけが乱れる。
ローランドは、耐えきれずに一歩前へ出かけた。
足が勝手に動いた。止められない。
「どうか……」
喉から出たのは、懇願だった。
言葉の形にならないほどの、情けない声。
「どうか、もう……」
レギュラスは、そこで初めて“楽しそうに”笑った。
声を立てない笑い。目元だけが少し弛む。
「何を、です? フロスト殿」
逃げ道を与えるふりをしながら、逃げ道を塞ぐ問い。
ローランドは奥歯を噛みしめた。
悔しい。屈辱だ。けれど――アランがまた壊されるのは耐えられない。
ローランドは、椅子の背に触れそうな距離まで歩み寄り、膝が折れそうになるのを必死で堪えた。
視線は上げられない。上げたら、レギュラスの灰色の瞳に“負け”が映る。
それでも、言わなければならない。
「……これ以上、彼女に……」
やっと出た言葉の途中で、喉が詰まる。
“彼女”と呼んでしまった。
その呼び方ひとつで、レギュラスの口元がわずかに歪む。
「彼女?」
優しい声。
けれどその一語は、首元に指をかけるような響きだった。
ローランドは慌てて言い直そうとする。
だが、もう遅い。
レギュラスはその“遅さ”を逃さない。
「……妻、と言いなさい。フロスト殿」
ローランドの身体が硬直する。
言い換えるだけでいいはずなのに、口が動かない。
“妻”という言葉は、レギュラスの所有を認める言葉だ。
それを自分の口で言うことが、あまりにも――惨めだった。
レギュラスは、少し身を乗り出した。
柔らかな動作。なのに空気が圧迫される。
「言えないですか?」
笑っていないのに、笑い声が聞こえる気がした。
ローランドの耳の奥で、何かがきしむ。
「……レギュラス、やめて……」
アランが掠れた声で言った。
声が出たこと自体が、自分の首を絞めるのを分かっているのに。
それでも耐えられなかったのだろう。
レギュラスはその声に、ゆっくり視線を向けた。
見下ろす目ではない。見透かす目だ。
「やめて? 何を?」
穏やかすぎて、残酷だった。
“何を”と言わせる。
“何が起きたか”を言葉にさせる。
そうやって、本人の口から事実を作っていく。
アランが黙る。
喉が上下し、涙が溜まる。
言えない。言えば終わる。言わなくても終わらない。
レギュラスは、ローランドへ戻った。
何もなかったように。話を元に戻すように。
「では、フロスト殿。協力してください」
協力。
その言葉の皮が薄すぎて、刃が透けていた。
「あなたが答えてくれないと、妻はまた――」
一拍、わざと間を置く。
その間に、ローランドの心が崩れる音がした。
「ボロボロになるまで責められますよ」
言い切った瞬間、ローランドの中の何かが折れた。
折れてしまったことがわかる。
折れた瞬間、世界が少しだけ静かになる。
それが怖い。自分が自分でなくなる合図みたいで。
ローランドは息を吸い、吐く。
喉が痛い。胸が痛い。
それでも、言葉を探すしかない。
しかし、レギュラスは“答え”を待つふりをして、さらに追い込んだ。
「どう抱いたか。どんな言葉をかけたか。どんな顔をしたか」
行為そのものを描写しなくても、問われるだけでもう地獄だった。
想像が勝手に蘇る。
あの部屋。あの匂い。あの温度。
それを言葉にしたら、今度こそ永遠に汚れる。
ローランドは震えながら、首を横に振る。
拒否ではない。懇願だ。許してくれという無言の。
レギュラスは、その“無言”を一番嫌う。
「首を振るだけ、ですか」
淡く笑う。
そして、静かに告げた。
「昨夜と同じですね。妻と」
その一言で、アランが小さく息を呑み、肩を落とした。
ローランドの胸の奥が焼けた。
ローランドは、とうとう膝を折りそうになり、指先がテーブルの縁を掴んだ。
掴まなければ倒れる。倒れたら終わる。
終わらせてくれ、と叫びたくなる。
「……どうか……」
もう一度、懇願が落ちる。
そしてその懇願を、レギュラスは拾わない。拾って、粉々にする。
「“どうか”では足りません」
優しい声で言い切る。
優しいのに、逃げ道は消える。
「質問に、答えてください。フロスト殿」
その瞬間、ローランドは理解した。
この男は、怒っているのではない。
怒りはもう通り過ぎている。
今ここにあるのは、冷静に組み立てられた“裁き”だ。
そして裁きは、終わりを自分で選ばせない。
終わるのは――相手が折れ、言葉を差し出し、心を削り取られた後だけだ。
ローランドは、唇を震わせたまま、言葉を探した。
一つ口にしたら、次が来る。
次を口にしたら、もっと深い穴が待っている。
それでも――アランがまた壊されるのは耐えられない。
ローランドは、目を閉じた。
そして、壊れた声で、ようやくひとつだけ、答えの形を作ろうとした。
ローランドは、喉の奥が乾いて裂けそうだった。
息を吸うたび、胸の内側が擦れて痛む。言葉にしてはいけないものを言葉にしろと言われている。しかも、ただの告白ではない。裁きの場で、刃の上で、整列させられ、順番に並べて差し出せと命じられている。
それでも――沈黙を貫く選択肢は消えた。
レギュラスの声は、さきほどから一貫して穏やかで、慈悲深い夫の形をしている。けれど、その穏やかさが意味するのは許しではない。終わらせないという宣告だった。
「……あなたが答えてくれないと、妻はまた、ボロボロになるまで責められますよ」
その一言で、ローランドの中の何かが決定的に折れた。
自分が恥を受けるのはいい。自分の品位が砕けるのも、礼節が汚れるのも、すべて自分ひとりの痛みで済むなら耐えられる。
けれど、アランが――また、あの美しい人が、目の前で跪いて、涙を落として、言いたくない言葉を吐かされる。その光景が頭に浮かんだ瞬間、身体が勝手に屈服の形を作ってしまう。
ローランドは、視線を上げられないまま、低く息を吐いた。
自分の声が出ることが怖い。震えが、みっともなさが、全部外に漏れる。
「……わかりました、ブラック様」
言った瞬間、アランが小さく息を呑む音がした。
それだけで胸が潰れる。守ろうとしているのに、いま自分の口が、彼女をもう一度刺している。
レギュラスは、頷いた。
褒めるでもなく、許すでもなく、ただ次の段取りに移る人の頷きだった。
「では。どう抱いたか。どこを好んだか」
ローランドは、唇を噛んだ。
“どこを好んだか”――その言葉が、あまりにも露骨で、卑しくて、そしてどうしようもなく正確だった。
言い換える余地がない。濁せば濁すほど、レギュラスは“曖昧さ”の隙間に刃をねじ込んでくる。
ならば、せめて誠意だけは滲ませるしかなかった。自分が口にすることで彼女の尊厳が失われるのなら、せめてそれを“遊び”や“誇り”として扱わない。言葉の温度だけでも、彼女を汚さない。
ローランドはゆっくりと顔を上げた。
上げたくなかった。けれど上げなければならない。逃げれば、アランがまた責められる。
目の前の灰色の瞳は、恐ろしいほど静かだった。
その静けさに比べれば、自分の鼓動は騒音だ。
横にいるアランは、まるで置き去りにされた子どもみたいに固まっている。頬に涙の跡が残っているのが、光に浮いて見えた。
「……乱暴なことは、していません」
最初の言葉は、言い訳にも聞こえる。
それでも言わなければならなかった。
“乱暴ではない”という一言に、ローランドがかつて彼女をどんなふうに扱っていたかが滲む。滲ませたくはないのに、滲む。
レギュラスが、口元だけをわずかに動かした。笑いとも、軽蔑とも、判断できない形。
「へえ」
それだけで、ローランドの背筋が凍る。
この男は“へえ”のあとに何を落とすか分からない。
だからローランドは続けた。止まれば飲まれる。
「……彼女が苦しくないか、痛くないかを、ずっと見ていました。呼吸が乱れたら……一度止めて、落ち着くのを待ちました」
喉が焼ける。
口にするたびに、記憶が輪郭を持ってしまう。
それでも、あえて淡く言う。あえて手順の話に落とす。彼女を“対象”として語らないために。
レギュラスは指を組み、顎に軽く添えた。
聞いているのは内容ではない。ローランドの“壊れ方”だと、ローランドには分かった。
「どこを好んだか、です」
淡い催促。
それが一番残酷だった。
ローランドの答えがどれほど慎重でも、結局そこへ引きずり出される。
ローランドは目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、あの翡翠の瞳が浮かぶ。まっすぐで、強情で、泣きそうで、泣かないふりをする瞳。
そして、いまこの場で自分が口にすることで、その瞳をまた曇らせる。
「……手です」
声が掠れた。
あまりにも情けない音が出た気がして、舌が震える。
「手で触れた時に……彼女の肩が、少しだけ緩むのが分かりました。息を……吐けるようになる。それが、……」
そこで言葉が詰まった。
“好きだった”と言えば、汚れる。
“嬉しかった”と言えば、誇ってしまう。
ローランドはそのどちらも望まない。ただ、事実として言う。事実の形にして、差し出して、終わらせたい。
レギュラスは静かに促した。
「それが?」
ローランドは、拳を膝の上で握りしめた。
爪が食い込み、痛みが戻してくる。正気に戻せ。ここは夢じゃない。ここは裁きだ。
「……それが、彼女が安心する瞬間でした」
言い切った瞬間、アランがわずかに肩を震わせた。
その反応が、ローランドの胸を抉る。
彼女にとって“安心”であったはずのものを、いま自分の口が、別の形の痛みに変えている。
レギュラスは何も言わない。
沈黙が、刃の重さを増していく。
「……言葉も、です」
ローランドは、さらに続けた。
止まれば終わらない。止まればアランがまた責められる。
守りたいものを守るために、自分が汚れていくしかない。
「彼女が……自分を責めるような顔をした時は、違う、と。あなたは間違っていない、と。そう言いました」
そこだけは、誠意が滲んでもいいと思った。
“慰め”ではない。“逃げ道”でもない。
ただ、彼女の存在を肯定したかった。それだけは、どんな裁きの場でも嘘にしたくなかった。
けれど、その誠意すら、レギュラスの前では弱点になりうる。
「なるほど」
レギュラスは、ゆっくり頷いた。
それが評価なのか、嘲りなのか、ローランドには判別できない。
ただ一つ確かなのは、終わっていないということだ。
「では――彼女は、どんな顔をしました?」
ローランドの喉が鳴った。
その質問は、“好んだ場所”よりも残酷だった。
顔。表情。声。息。
それらは肉体よりも深く、彼女の心に触れてしまう。
答えた瞬間、彼女の“内側”を暴くことになる。
ローランドは一瞬だけ、アランを見た。
見てしまった。
泣き腫らした目が、必死に涙を堪えようとしている。口元が震え、でも声は出さない。
助けて、と言わない。
言えば余計に壊されることを知っているから。
ローランドは視線を戻し、かろうじて言葉を拾った。
「……笑いました」
自分の声が、自分のものじゃないように聞こえた。
「最初は……怖がっていました。でも、途中から……少しだけ、笑って……」
言いながら、胸が裂ける。
彼女の笑みは、守りたかった。
誰にも渡したくなかった。
それをいま、レギュラスの手の中に置いている。
レギュラスの唇が、ゆっくり弧を描いた。
その微笑みが、ローランドの心臓を凍らせる。
「へえ。僕の妻は、そんなふうに笑うんですね」
“僕の妻”。
その言葉だけで、ローランドはもう立っていられないほどの羞恥に沈む。
彼女は確かにレギュラスの妻で、ローランドはそれを知っていて、それでも奪った。
奪ったと呼ぶしかない行為をした。
どれだけ誠意を装っても、事実は動かない。
ローランドは、息を吸った。
吸わなければ倒れる。
そして、最後に残っていたもの――自分の品位の欠片――を、喉の奥で飲み込む。
「……ブラック様」
声が震えた。
「これ以上は……どうか……」
懇願の形を取りながら、それでもローランドは続けた。
続けるしかないから。
自分が答えれば、アランがこれ以上削られずに済むかもしれない。
その“かもしれない”に縋るしかないほど、ローランドは追い詰められていた。
羞恥は、すでに皮膚の外に張り付いている。
誇りは、もう自分の手元にない。
残っているのはただ――アランをこれ以上壊させないという意地だけだった。
ローランドは、声を絞った。
丁寧に。礼節を守るふりをして。
自分の心臓を差し出しながら。
そのたびに、レギュラスの瞳が冷たく光り、
アランの呼吸が、静かに、静かに乱れていった。
